ページビューの合計

2016年11月19日土曜日

(増補版)458E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年1月)

題:(増補版)458E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1888年1月~1888年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1888年、出来事:
・内閣総理大臣:伊藤博文:1885年(明治18年)12月22日
 ~1888年(明治21年)4月30日
・内閣総理大臣:黒田清隆:1888年(明治21年)4月30日~
 1889年(明治22年)10月25日
・枢密院(すうみついん、天皇陛下の最高諮問機関)が設置
 された。
  伊藤博文が、枢密院を置いて初代議長となり、憲法草
 案の審議を司会した。議会開設後、初代貴族院議長を務
 めた。
・国歌「君が代」が制定され、公布された。
・大隈重信外相が、条約改正に努力するが失敗した(~1889年)
・市制・町村制、市町村を定める。市町村制公布。(4月)
・1道3府43県716郡に整理(12月)
・海軍大学校が開設された。
・日比谷から青山に練兵場が移転した。
・日墨修好通商条約が締結された。
・香川県が愛媛県より分離した。
.
1888年、データ:
・紡績工場の数:24
・自作農33.4%、自子作農46.0%、小作農20.6%
.
1888年、産業:
・御木本幸吉が、英虞湾(あごわん)で真珠の養殖を始め
 た。
・石炭無税輸出の件が公布された(7月20日)
・神戸港以外より米輸出されるに至る(下関・門司・口ノ
 津)
・わが国初の火災保険会社、東京火災保険会社が、営業開
 始した(10月1日)
・品川硝子製造所が、民間に払下げられビール瓶の製造に
 成功した。
・秦孝一郎が、孵卵器の改良をして安価となった。
・伊豆地方の種無し密柑が、和歌山をしのいで東京市場を
 賑わした。
・山葉寅楠が、日本製オルガンの製造に成功した。
 山葉風琴製造所(現:ヤマハ)
 山葉寅楠(やまはとらくす)が、浜松市に設立し、オル
 ガンの国産に乗り出した。
.
1888年、交通:
・山陽鉄道の兵庫駅~明石駅間が開通した(11月1日)
・姫路まで開通した(12月23日)、全通は1901年。
・警視庁が、不潔な円太郎馬車を諭告した。
・東京府は、乗合馬車の馭者、馬丁満20歳以下を禁じ、乗
 合馬車が激減した。
・東京に二人乗人力車が多かったが、漸次減少した。
.
1888年、衣:
・三越洋服店が開業した(1月)
・綿ネルの支那への輸出が始まった。
・花柳界より小紋の着物が流行した。
.
1888年、食:
・天長節の宴会に、大隈外相は、鹿鳴館に1000余名の招待
 状を出した。
・日本橋の西洋料理店「新吾妻」玉突場の営業広告を出した。
・麒麟(キリン)ビール発売(5月29日)
・非常に暑く、氷がよく売れた。
・東京米津風月堂が、アイスクリームと、ウォーターアイ
 ス(アイスキャンディー)を作り、発売した(5月)
・喫茶店が、はじめて上野黒門町にできた。
.
1888年、住・建築:
・皇城二重橋が、二ヵ年を要して竣工した(10月14日)
・国会議事堂の起工式をあげた(10月10日)
・辰野金吾設計の工科大学本館が落成した(7月30日)
・神戸電燈会社が開業した(9月)
・東京市内に、ガラス障子の家がかなり出来てきた。
.
1888年、報道:
・アメリカで発行の邦字新聞「世界の魁」は、治安を乱す
 内容があり、輸入禁止した(郵便報知新聞)
.
1888年、教育:
・東京美術学校が、上野に設立された(12月11日)
.
1888年、論・文学・本:
・『日本人』(政治評論雑誌)が創刊された。(4月)
・山縣有朋「軍事意見書」論文。
・中江兆民「國會論」論文。
・勝海舟「海軍歴史」執筆
・「朝鮮地誌略」刊行
・山縣悌三郎「少年園」創刊
・山田美妙「夏子立」
.
1888年、美術:
・慈母観音(狩野芳崖)
.
1888年、歌・流行・世相:
・最初のコーヒー店が、東京の上野黒門町に可否(かっひ
 ー)茶館ができた。
・神奈川県の、海水浴場の男女混泳が区分けされた(7月)
・支那カバンが柳行李にかわり流行する
・川上音二郎、オッペケペー節で人気を博した。
  民権運動家の川上音二郎が、大阪の井筒寄席で、政権
 を揶揄した「オッペケペー節」を始め、大人気を得た。
・「帝国」の語が流行した、帝國○○という会社名が増え
 た。
.
1888年、演劇:
・演劇の市村座が新築落成した。
  角藤定憲らが改良演劇を上演した。
.
1888年、発明:
・下瀬火薬が発明された。
・最初の写真印刷法発明特許、池田早苗出願(12月3日)
・キネトスコープが発明された。
  アメリカのエジソンが、映像の再生可能な機械を発明
 し特許出願した。
  キネトスコープと呼ばれ、のぞき穴式で1度に一人しか
 見られなかった。
・G・イーストマンが、カメラを発明した。
  イーストマンのロールフィルム式の箱型カメラが登場
 した。
・李錦裳が、オイスターソースの製法を発明した。
.
1888年、医・衛生:
・パストゥール科学研究所が設立された(11月14日)
・文部省が、学生生徒の健康診断に当たる活力検査を開始
 した(12月28日)
・コレラの流行のため「長崎くんち」の奉納踊りがなしと
 なった(10月)
・東京師団に、白米病といわれた脚気患者が出た。
.
1888年、科学・技術・学問:
・東京帝国大学理学部の観象台を東京天文台に改称した。
 創設は1878年。
・静岡~東京長距離電話試験に成功した(東京~熱海間電
 話開通)
・那珂通世「支那通史」
・牧野富太郎「日本植物志図編」第1巻第1集が刊行した。
・電磁波の発生実験:ドイツのハインリッヒ・ヘルツが、
 火花放電で発生した電磁波を検出する実験をした。
  電磁波の存在は、理論的に証明されていた(2月2日)
.
1888年、災害・防災:
・磐梯山爆発した。
  噴火した噴出物で、ふもとに多数の湖沼ができ、死者
 461名が出た。
  老衰期火山の水蒸気爆発の典型。
.
  (今日の言葉)
.
  題:自分さえ利があれば、法律を犯したってやるという
   アメリカ大統領のルーズベルトだった・・、
.
1939年4月15日、リンドバーグが、ルーズベルトと会談した。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、「戦争を作った」
 と言って始まった第二次世界大戦の約2年半間前のこの日
 に・・、
  飛行機で、大西洋を単独横断を成功させた事で有名な
 リンドバーグは、ホワイトハウスで、この大統領に会う
 機会を持った。
  二人の会談は、わずか15分であったが、リンドバーグ
 は、この時の印象を日記に書いて残していた。
  「大統領は、部屋の隅にある大きな机の後ろに座った
 まま、前かがみになって握手で迎えてくれた」・・と、
  そして、「足が悪いなどとはまったく気づかせないそ
 ぶりに感心した」・・と・・記述し・・続いて・・、
  大統領の話しぶりが、驚くほどスムーズで、しかも、
 もの柔らかい・・と、書いた。
  魅力に溢れていた・・と、書いた。
  しかし、リンドバーグは、そのあまりに居心地のよい
 語り口に、逆に、『何か違和感を感じた』と書いている。
  そして、それも・・話の内容が、日常よくある「たわ
 いない内容」であるのに・・とも言う・・、
  リンドバーグは、この前年、パリのアメリカ大使公邸
 に滞在した時のことを・・思いを重ねていた。
  この時、リンドバーグは、ウィリアム・ブリット大使
 から『奇妙な相談』を受けた。
  それは、このルーズベルト大統領が、秘密裏に、アメ
 リカの法律を破る行為をしようとしている・・というこ
 とだった。
  ブリット大使が、「極秘に・・(してもらいたい)」
 という前置きで話したことは・・、
  それは・・、アメリカは、その時、中立法という、ア
 メリカに有るこの法律によって、交戦国には、武器を輸
 出する事が出来なかった・・、
  しかし、ルーズベルトは・・、
  「戦闘機や爆撃機を、本格的に(フランスへ)渡す計
 画を進めている」・・ということだった。
  ドイツと交戦する可能性が高かったフランスには、法
 律違反となる行為だった。
  そこで、ルーズベルトは、カナダに工場を建設して、
 そして、やろうとしている・・と・・、そうすれば、本
 格的に支援が出来ると・・、
  リンドバーグは、一応、相談に応じるとしたという。
  アメリカが、完全に、戦争介入するという「脱法行為」
 の悪計(あっけい、わるだくみ)だった。
  アメリカ大統領という立場で・・ルーズベルトは、こ
 の様に、法を犯してまでも「違法行為を平気でやる」と
 いう性格の大統領だった。
  自分に利があれば、アメリカ国民の方々に対してウソ
 の行為となっても、
  その嘘をつき続けるという・・アメリカ大統領ルーズ
 ベルトだった。
  (参考)脱法:だっぽう、法律に触れない様な方法で
     法律で禁止していることを行なうこと。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:もったいない事に・・この年に、松方コレクションが・・焼失した・・
.
1939年10月8日、松方コレクションが焼失した。
  ロンドンの「パンテクニカン」に保管されていた。
  記録には3点を除き、すべてが焼けた・・とある。
  その3点の行方(ゆくえ)は不明となっている。
  国立西洋美術館は、松方コレクション復元目録の作成
 をしている。
  この焼失は、まったく惜しい事である。
  実業家の松方幸次郎〈1865年~1950年)は、個人とし
 ては指折りの美術品を収集していた。
  このうち、パリに保管されていた分は、現在、多くが
 東京・上野の国立西洋美術館に収蔵されている。
  イギリス保管分が、まったく残念だったが、最近、そ
 の作品リストが確認された。
  イギリスのテート美術館が発表した。
  そのリストは、953点(現在の評価で250億円)。
  マネ・ゴッホ・ドラン・シャバンヌなどの巨匠もある。
  イギリス人画家ブラングィンが、約半数の450点ある。
  ちなみに、パリの18点は、フランス政府が返還を拒否
 している。
  そして、約22点は売却などをしたとの事。
  まったく無責任。
  また、日本にあるコレクションは、浮世絵約8000点で、
 これは、帝室博物館(現:東京国立博物館)に。
  西洋美術の約1000点は、国内外へ逸散した。
  (読売新聞、2016年9月6日)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月17日木曜日

(増補版)457E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年12月~1888年1月)

題:(増補版)457E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年12月~1888年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年12月19日、東京・日本橋の大火(約1700戸焼失)
  東京・日本橋明治20年蛎殻町の大火:
  消防署に初めて電話が架設された7日後、2年前の1885
 年(明治18年)3月の大火で焼失した南茅場町と、日本橋
 川一つ隔てた蛎殻町二丁目15番地の劇場中島座より、午
 前1時ごろ出火した。
  同夜は、やや強い北風が吹いており、火の手はたちま
 ち金属葺き二階建ての同劇場の屋根を吹き抜け、
  蛎殻町二丁目、三丁目と延焼、
  炎は松島町も全焼させ、
  そこから南へ転じて、箱崎町の河岸一帯の民家を全半
 焼した後、
  午前6時15分、栄久橋のたもと付近でようやく鎮火した。
  焼失面積4万270平方m、家屋全焼1652戸、同半焼38戸。
  (出典:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み)
1887年12月25日、「保安條例」公布(12月26日説あり)
  即日施行で、同条例違反に当たる民権運動家ら570人が
 次々と東京追放処分となった。
  別史料:尾崎行雄・中江兆民ら294人が、宮城(皇居の
 こと)の三里外に退去命令となる。
  別史料:星享、中島信行、中江篤介ら294名、皇居より
 三里以外に放逐。
  別史料:片岡健吉、尾崎行雄らが「皇居三里以内お構
 い(東京追放)」となる。
  別史料:片岡謙吉,尾崎行雄,中江兆民ら民権運動家570
 名が12/28までに東京市外へ追放される。
  (氷川清話)保安条例頒布
1887年12月27日、伊藤博文が、大隈重信に外相就任の再交
 渉を行った。
1887年12月28日、改正新聞紙条例などが公布された。
  勅令により、新聞紙条例(発行届出制に)
  出版条例改正が公布(1893年4月14日に廃止)
  版権条例(学術雑誌の版権登録を許すことに)
  脚本楽譜条例公布(脚本・楽譜などにも版権が認めら
 れることになった)
  (参考)出版条例は、明治政府によって、言論統制の
 一環として、出版物の取り締まりのために、1869年に、
 公布された条例であった。
  この時(1887年12月28日)出版条例は、新聞紙条例そ
 の他とともに全部改正が行なわれた。
  この改正は、取り締まりを厳しくするというよりも、
 むしろ法規の整理という面が強かった。
  原稿検閲の規定は廃止され、まったくの届け出主義と
 なった。
  しかし、その一方、治安を害し風俗を壊乱する出版物
 については、内務大臣に発売頒布を禁じ印本を差し押さ
 える行政処分権を認めた。
1887年12月28日、帝国生命保険会社が設立された。
  沿革:
  1886年9月、加唐為重、飯村知、千早正次郎の三名は、
   生命保険事業を研究し、我社の創立を盟約す。
  1887年11月、創立委員に加唐為重、福原有信、伊藤幹
   一、松本伊兵衛、小疇治郎兵衛の五名を挙ぐ。
    創立事務所を東京市日本橋区堀留町二丁目二十番
   地に置く。
  1887年12月5日、創立委員五名の連署にて、設立願を東京
   府農商課に提出、
  1887年12月28日、認可。
  1888年2月28日、創立総会を東京市日本橋区坂本町の
   銀行集会所に於て開催。
  1888年3月1日、東京市日本橋区堀留町二丁目二十番地
   の創立事務所に於て営業開始。
    株式資本金三十万円、払込資本金三万円、一株額
   面五十円、第一回払込一株に付金五円。
    最初の役員は社長(理事員)小疇治郎兵衛、理事員
   福原有信、同松本伊兵衛、同小野寺大三郎、理事員
   兼会計検査員伊藤幹一、理事員兼幹事長加唐為重の
   五名。
    保険種類は尋常終身(略号終甲)、有期終身(略
   号終乙)、養老年齢満期(略号養甲及養乙)、短期
   保険の四種。
    死亡表は英国十七会社表、予定利率は年四分。
    診査は医師鳥山巍氏に嘱託。
1887年12月29日、日本画家・渡辺小華が没した(享年53歳)
  江戸生れで、渡辺崋山の次男、(1835年~1887年)
  三河(愛知県)田原藩家老。
  7歳のとき父が自刃(じじん)。
  父の門人・椿椿山(ちんざん)に画法を学び、椿山歿
 後は福田半江に教えを受ける。
  また、経史(経書と史書)を大橋訥庵(とつあん)に、
 詩文を関根痴堂(ちどう)に学び、明治初期の絵画共進
 会において数度受賞した。
  花鳥画を得意とした。
1887年12月、勝海舟、特旨(とくし、特別の考え、君主の
 おぼしめし)を以って従三位に叙せられる(氷川清話)
1887年12月、勝海舟、「吹塵録」35冊、「吹塵余禄」9冊編
 集成る(明治23年大蔵省出版)(氷川清話)
1887年10月、フランス領のインドシナ連邦が成立した。
  フランスが1887年~1945年の間領有したインドシナに
 おける植民地および保護領で、
  (参考)インドシナ連邦:
  トンキン (北部ベトナム) 保護領、アンナン (中部ベ
 トナム) 保護領、コーチシナ (南部ベトナム) 直轄植民
 地とカンボジア保護領、ラオス保護領の5領をもって構成
 されたのがフランスの植民地インドシナ連邦。
  1858年に、フランスは、宣教師殺害事件を口実に、ベ
 トナムに侵攻した。
  1862年、サイゴン条約によって南部ベトナムの東3省を
 奪い、
  1867年に、実質的に西3省を併合した。
  これらは、フランス領コーチシナと呼ばれた。
  1870年代は、さらに、中国内陸部への商業ルートとし
 てのソンコイ川(紅河)に注目して、領土奪取の目的で、
  1873年に、ガルニエ事件を引き起こした。
  やりたい放題、取りたい放題だった。
  1900年代になると、アメリカが、我が領土の顔をして、
 ここに援蒋ルートを作り(中国蒋介石軍を援助する金と
 武器を運ぶルート)、秘密裏に援助した。
  日中戦争が、秘密の下に日中(米)戦争と化した。
  この援蒋ルートの存在を知った日本は、このルートを
 遮断しなければ戦争は延々と続くと、
  ルート遮断のため上陸すると、
  その行為を侵攻したと(自分も先に勝手に秘密に上陸
 しているのに)ひたすら日本だけを悪く言った。
  そして、戦争原因を日本が作ったとした(自分のして
 いる足元の事はまったく言わなかったアメリカだった)
  アジアの国々をいじめ放題の卑劣な列強各国だった。
・ベトナム:1887年に、フランス領インドシナ連邦となっ
 た。
  第二次世界大戦後独立、ベトナム人が、フランス軍に
 反抗して優位に立ったが、
  アメリカが干渉して、一時南北に分断、
  後に、ベトナム戦争を経過して、1975年に南北が統一
 され、1976年にベトナム社会主義共和国となる。
・ハワイ:ハワイは、19世紀には、捕鯨地として価値が高
 まり、捕鯨船が頻繁に訪れる様になった。
  やがて、真珠湾に、利用価値を見い出したアメリカは、
 1887年に、独占使用権を獲得。
  1893年には、親米派によるクーデターを起こさせ、共
 和国が誕生した。
  この時、幽閉されたリリウオカラニ女王が作ったのが
 アロハ・オエという歌。
  その後、1898年、フィリピンへの中継地点として絶好
 の立地だったハワイは、アメリカに併合されてしまった。
1887年7月14日、エスペラントが創案し、この日に発表した。
  創案者は、ポーランドの眼科医ザメンホフ。
  1905年に、国際語・エスペラントの世界大会が開かれ
 た。
1887年10月31日、蒋介石が生まれた(1887年~1975年)
1887年10月、孫文が、香港の医学校に入学する。
.
  (今日の言葉)
.
  題:戦犯裁判は、戦争に負けることを犯罪とした。
.
1887年、バーナード・モントゴメリー(イギリス)が生ま
 れた。
  題:負けることを犯罪とした。
  イギリスの子爵であるモンゴメリー元帥(バーナード・
 モントゴメリー、1887年~1976年)は、
  「戦犯裁判は、戦争に負けることを犯罪とした」との
 言葉を残している。
  「ニュルンベルク裁判は、戦争をして負けることを犯
 罪とした。
  敗者側の将軍たちは、裁判に付され、絞首刑に処せら
 れるというわけだからだ」・・と。
  そして、
  キリスト教の『宗教改革をした』というルターは、
  どうしてどうして、キリスト教の古い体質を『引きず
 った』キリスト教徒だった。
  宗教改革など、そっちのけの話がある。
  ルターは、猛烈な『魔女信仰』を持っていた。
  中世は、魔女にされて、焼かれた女性が、あちこちに
 いた。
  ある村は全滅してしまった。
  ヨーロッパ中が、魔女を焼く煙で煙っていたと言われ
 ているくらいな、忌むべきキリスト教の大汚点なのだが、
  この魔女観念を、ルターは『熱烈に』持っていた。
  ルターは、ヴァルトブルクという城で悪魔と戦ったと
 言った。
  悪魔は、袋からクルミを出し、床に撒いたりして攻撃
 して来た・・と、
  ルターは、その悪魔にインク瓶を投げつけ、戦ったと・・、
  今でも、インク瓶からこぼれたインクが、染みとなっ
 て、この城の壁に残っているという・・、
  故に、民間に信じられていた魔女信仰を、ルターは信
 じていた。
  「悪魔と魔女の情交」「愛撫術」なども良く知ってい
 た。
  また、ルターは、ルターの母が魔女からいたずらされ
 ていると信じていた。
  ルターは、出エジプト記の「魔女は生かしておいては
 ならない」というキリスト教の教義を信じ、そして、忠
 実だった。
  このキリスト教の教義に影響され、多くの女性が魔女
 して焼いた。
  ルターは、ドイツ語に翻訳した。
  ルターは、完全に教会悪魔学の「魔女理論」を引き継
 いでいる。
  ルター自身も、卑劣な事に、実際、女性を『火あぶり』
 にしている。
  それでなくても、ルターは農民戦争で農民を多く殺し
 た。
  そして、その火炙りの女性は、『魔女だ』という罪状
 だった。
  そして、キリスト教の最悪な事は、自分で免罪符を出
 しながら、極悪のし放題をするところだった・・、
  強盗が、極悪な事をする前に、先に『無罪の判決書』
 を自分で自分に出して、極悪行為をする様なものだ。
  キリスト教は、キリスト教の神を「殺人者製造マシン」
 に堕落させた。
  そして、ヨーロッパの土着民族だった「ケルト民族」
 が、聖なる色とした『黒』を、キリスト教は忌んだ。
  ・・が、後に受け入れ、黒を、びっくりしなくなった
 キリスト教徒・・、そんなことはよくあることさとした。
  キリスト教は、忌んでる『黒』に、後々まで、何だ、
 かんだと関わり、とうとう、『黒いマリア像』まで出現
 させた。
  この様に、コロコロと変わる教義だった。
  ローマ法王が、命を狙われた時、
  銃弾によって狙撃された・・その時・・、
  危うく助かったローマ法王は、『黒いマリア像に感謝
 している。祈った』・・と言った。
  ローマ法王が祈ったのは、天に居るというキリスト教
 の神ではなかった・・『三位一体神』ではなかった。
  「黒マリア」だったとは・・??
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:キリスト教聖職者は「初夜権」を持っていた・・
.
1746年3月30日、ゴヤが生まれた。
  だいぶ前の番組だが・・
  テレビ東京の番組の「美の巨人たち」・・で、
  (テレビ東京の番組は、2015・9・26、午後10時~
   「美の巨人たち、ゴヤ」)
  ゴヤの絵の説明の時、初夜権の行使を領主がやったと
 説明した・・、
  さすが・・キリスト教聖職者がやったと説明できなか
 った。
  魔女にした女性を、キリスト教裁判所で、キリスト教
 聖職者が・・女性を裁き、その女性を焚刑にしたが、
  その女性の死が救われるためにという名目で(いつも、
 キリスト教聖職者たちは、自分たちに都合のいい・・こ
 の様な理屈をつけるのだが・・)、
  その女性の死が悪魔の災禍から逃れるためにと、キリ
 スト教聖職者が、その女性が焚刑になる前の日に、キリ
 スト教の聖職者が、その女性の体を奪う行為をしていた。
  女性は、悪魔の罪過を逃れるためと称してキリスト教
 聖職者から体を奪われていた。
  キリスト教裁判所でも・・、
  キリスト教聖職者の裁きの行為において、魔女にした
 女性の四肢を四方に引っ張り、女性に酷い形にしたり、
 露わな形にした。
  拷問なのであるが、
  四肢を引っ張る苦痛と共に、女性が隠したいものまで
 見るという行為までしていたキリスト教聖職者たちであ
 った。
  女性の方々へ恥辱まで与えるというキリスト教聖職者
 たちであった。
  キリスト教聖職者たちは、性的な不満をこういう卑劣
 な状況・形で処理していた。
  その上・・最後には、この魔女にした女性がたの命を
 奪う事をするというキリスト教聖職者たちだった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月16日水曜日

(増補版)456E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年10月~1887年12月)

題:(増補版)456E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年10月~1887年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年10月15日、三大事件建白書を提出する(10月29日説
 あり)
  諸県の代表が東京に会合し、建白書提出について協議
 した。
  2府18県の有志と片岡健吉が、政府に建白書「三大事件
 建白書」(言論と集会の自由・地租改正の軽減・不平等条
 約の改正・外交失政の挽回)を元老院に提出した。
1887年11月4日、大阪府の大和地方を分離して奈良県を設置
 した。
  1887年10月5日、大和国出身の大阪府会議員5人が、内
   務大臣・山形有朋に奈良県再置の件を請願した。
  1887年11月4日、大阪部から奈良県を分離、
  1887年12月1日、県庁開庁式を挙行した。
  そして、これまで・・、
  1868年(慶応4年)1月、新政府は、添上郡奈良に大和
 鎮台を設置。
  大和鎮撫総督府を経て、
  同年・1868年5月19日に、奈良県(第1次)、
  1868年7月29日に、奈良府となり、色々変遷があって、
  1871年(明治4年)に、第1次府県統合により、大和国
 10県が統合され、改めて奈良県が設置されたが、
  1876年(明治9年)に、堺県に編入されてしまう。
  1881年(明治14年)に、堺県は大阪府に編入され、奈
 良は「大阪府の大和地域」とされた・・しかし・・、
  1887年(明治20年)11月4日に、大阪府より分割され、
 奈良県(第2次)が再設置された。
1887年11月6日、浅草六区に、高さ32mの富士山の模型が置
 かれ、見せ物興業が行われた。
  安政の大地震(1855年)の時、浅草寺の五重塔が損傷
 を受けた。
  その修繕が、やっと、1886年(明治19年)に着工とな
 った・・が・・、
  この時、修繕費用を集める目的で、代金を1銭を取って、
 組んだ足場に登らせた。
  これが評判になった。
  これにヒントを受け・・明治20年のこの時・・、
 香具師の寺田為吉という人物が、浅草公園六区に、木造
 の富士山を作った。
  「富士山縦覧場」と言った。
  この時・1887年11月6日付の読売新聞広告に・・、
  「今般浅草公園第六区の地へ木造にて新築したる富士
 山は、その高さ18間(32.8m)、裾廻り150間(273m)、
 登りの長さ200間(364m)、降り230間(418.6m)にして、
 頂上の廻り18間(32.8m)、
  此の所に、天文鏡を備え、太陽内部の黒点を審らかに
 望み、
  その他望遠鏡を設け、東は隅田川より鴻の台を眺め、
 西は箱根の連山より富士の本山を望み、南は府下の市街
 を一覧し、北は吉原の遊郭、及び、千住戸田近郊を却下
 に見下ろす絶景なり。
  実に、開闢以来未曾有の観物なれば、開業当日より四
 方の諸君陸続御光臨の程伏して奉願上候」・・とある。
1887年11月10日、屋外集会と示威運動の規制
  警視庁が、野外集会・示威運動は、3日以前に届け出て
 認可を受けるようにした。
1887年11月29日、東京電灯会社が、市内配電を開始する。
  東京の日本橋茅場町から電気の送電を開始する。
  この年1887年の末には、火力発電所を、東京5箇所に設
 置する工事を始め、直流送電を行った。
  しかし、旺盛な電力需要の高まりに交流送電への転換
 を余儀なくされ、
  1893年(明治26年)には、200kWの国産大出力交流発電
 機を備えた浅草火力発電所の建設を開始した。
  そして、3年後の1896年に、完成させた。
  この時、浅草発電所において、東京電燈は、ドイツの
 AEG製交流発電機も併せて購入使用したが、
  これは交流50Hzによる電気を供給するものであった。
  これに先立ち関西の大阪電燈が、アメリカゼネラル・
 エレクトリック製の交流60Hz供給発電機を採用したが、
 これが現在まで続く、日本の東西で商用電源周波数が異
 なる原因となった。
1887年11月1日、法律取調所(委員会)を司法省へ移管した。
  法律取調委員会は、法典の起草を行なう機関であり、
 日本の法典整備に大きな役割を果たした。
  不平等条約の改正を進めていく中で、フランス公使シ
 ェンキェヴィッチが、司法大臣・山田顕義に対して、「
 日本が近く備えるであろう諸法律の体系をばらばらにし
 ない必要」があるが、「そのためには、一人の大臣を委
 員長とし、法典起草を担当する外国人を委員とする委員
 会を作るほか良策はないのではないか」と進言した。
  山田司法大臣は、この進言をいれ、井上外務大臣と協
 議を行い、山田から伊藤博文総理大臣宛に、法律取調委
 員会を設けること、その委員長には井上を任命すること
 が上申された。
  委員長、各委員は、伊藤より天皇陛下の裁可をへて、
 1886年8月6日付で任命された。
  明治期の日本国政府にとって、欧米諸国との間の不平
 等条約の改正ほど、難航をきわめた外交問題はなかった
 が、この外交問題が、日本国法制の近代化の原動力とも
 なった。
  治外法権の撤廃を求める以上、外国人に適用される法
 律は外国人から見ても納得のいくものでなければならな
 い。
  日本国政府は、条約改正の交渉を進めていく過程で、
 西欧型(泰西の法原則)に従った諸法律を作成するため、
 法律取調委員会を、1886年(明治19年)8月に、外務省に
 設置した。
  1887年11月1日、委員長山田司法大臣は、法律取調委員
 会略則を伊藤総理大臣に提出した。
  略則は、内閣で一覧されたようであるが、政令でもな
 く、勅令でもなく、委員長限りでの委員会の運用につい
 ての構想を文章化したもののようであった。
  法律取調の目的、内部に報告委員組合(民法組合・商
 法組合・訴訟法組合)を設けるなど委員会の組織、法案
 の外国語への翻訳等について規定していた。
  そして、司法省へ移管された、
  外務省に一時移っていた法律取調委員会が、再び、司
 法省に移管されると、顕義は、法律取調委員長に就任し
 た。
1887年12月1日、東京手形取引所が開設された。
  1879年12月に、16の銀行が参加した大阪手形交換所が
   日本の最初のものであり、
  以後、手形法制の整備に伴って、
  1880年10月に、東京でも為替取組所が創設され、
  1883年9月に、東京銀行集会所の機関である手形取引所
   が創設され、
  1887年に、東京手形交換所が、その下部機関として発
   足した。
  1891年3月には、日本銀行も参加してロンドンで行われ
   ていた銀行が、日本銀行に持つ当座預金を通じた振
   替決済が導入された。
    また、この時東京銀行取引の直属の機関となり、
   東京交換所と改称した。
   その後・・、
  1897年に神戸、1898年に京都、1900年に横浜、
  1902年に名古屋と、各地の主要都市に手形交換所が設
   置されていく。
  1903年には、全国の手形交換所の代表による第一回各
   地交換所組合銀行連合会も結成された。
1887年12月4日、龍池会が、日本美術協会と改称した。
  龍池会(りゅうちかい)は、明治時代初期の美術団体。「
  明治初年は、急激な西洋化の流れがあり、その結果、
 従来の美術作品は価値を落とし、作家も需要を失って窮
 乏した。
  この様な状況を危惧した佐野常民、河瀬秀治、九鬼隆
 一らは、1878年(明治11年)3月、上野の天龍山生池院
 (弁天堂)に集まった。
  これが、後の、「龍池会」の始まりだった。
  会頭は佐野、副会頭は河瀬が担当し、古美術品の鑑賞
 会(「観古美術会」)や、同時代の作品の品評会を主な
 活動とし、上野で会合を持った。
  当初は、旧来の美術をそのままに保護しようという方
 針であったが、
  重要なブレーンであったフェノロサは、狩野芳崖を通
 じて和洋折衷の新しい日本画の創出を目指すようになり、
 内部での対立を生み出した。
  この結果、1884年(明治17年)に、九鬼や岡倉覚三(
 天心)、今泉雄作らの文部省組が離反して、新たに「鑑
 画会」を発足させた。
  この運動は、1887年(明治20年)の東京美術学校の設
 立へと至った(同校の授業開始は1889年(明治22年)
  鑑画会の革新運動に危機感をいだいた龍池会側は、宮
 内省との関係を深め、
  1887年(明治20年)に、有栖川宮熾仁親王を総裁に迎
 えて「日本美術協会」へと改称する。
  純粋な伝統絵画を保存しようという方針の下に、伝統
 画派の重鎮が集まり、鑑画会系の革新派が新派と呼ばれ
 たのに対して旧派と呼ばれた。
  1888年(明治21年)には、会報である『日本美術協会
 報告』を創刊した。
1887年12月6日、島津久光が逝去した(享年70歳)
  島津右大臣逝去(氷川清話)
  幕末・明治の政治家。
  薩摩藩主・島津斉興の三男(5男説あり)(1817年~
 1887年)
  島津斉彬は異母兄。
  初名は忠教、幼名は普之進・又次郎。
  号は頑古道人・大簡等。
  斉彬の死後、久光の実子(じっし、血を分けた自分の
 子)の忠義が藩主となった後は、本家に復帰して藩政の
 実権を握った。
  兄・斉彬の遺命で子・忠義が藩主の座につき、久光は
 国父として藩政の実権を掌握する。
  急進派と佐幕保守派の両者を排して朝廷と幕府との間
 を妥協させようとする公武合体派の中心人物となり、
  1862年、公武合体周旋のため兵を率いて入京し、
  その立場から、寺田屋騒動では討幕派志士・藩内尊攘
 派を武力鎮圧した。
  さらに、勅使・大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸に
 向かい幕政改革を実行した。
  帰途、生麦事件が発生し、薩英戦争の種をまいた。
  1874年(明治7年)維新後の新政府で左大臣に任じられ
 るが、保守的意見がいれられず、まもなく帰国し、
  1875年(明治8年)引退した。
  明治20年(1887)12月6日、歿、
1887年12月9日、最初の大型鉄橋である隅田川の吾妻橋(
 あづまばし)が竣工した。
  最初の架橋は、1774年(安永3年)10月17日で、それま
 では「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった。
  江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋
 で、1769年(明和6年)4月に、浅草花川戸の町人・伊右
 衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、
 着工後5年で完成した。
  長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、
 武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記
 録にある。
  1786年(天明6年)7月18日の洪水の時に永代橋、新大
 橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中
 で無傷で残り、
  架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったと言われている。
  その後、幾度かの架け替えが行われたとある。
1887年12月15日、郡山~塩釜間が開通。
  日本鉄道の郡山駅~塩釜駅間が開通し、これにより、
 上野駅~塩釜駅が全通した。
   上野~仙台は1日12往復で、所要時間は12時間20分。
1887年12月16日、宮城(皇居)二重橋、木橋を石造に改築
 して竣工した。
  木造橋の時に、橋桁が上下二段に架けられていたこと
 から、「二重橋」と呼ばれるようになった(奥の橋)
  二重アーチ構造であることから、「この石橋が二重橋
 である」との誤認が多い。
  また、「手前の石橋と奥の鉄橋が同じ濠に2つ重なって
 架かる橋だから二重橋」というのも正確ではない。
1887年12月17日、倉敷紡績所の設立許可(営業許可)が出
 された。
  1888年、岡山県窪屋郡倉敷村(現,倉敷市)に設立され
 た有限責任倉敷紡績所に始まる。
  初代社長は地元の実業家大原孝四郎。
  1906年~1939年、社長をつとめた大原孫三郎は孝四郎
 の次男。
  1889年から綿糸生産を開始、
  1893年に、倉敷紡績(株)に社名を改めた。
  合併・買収等で規模を拡大し、
  1924年には、精紡機20万錘を有するまでになった。
  また、経営多角化をすすめ、
  1926年に、倉敷絹織(現,クラレ)を設立してレーヨン
 に、
  1935年には、倉敷毛織を設立して羊毛紡織に進出した。
1887年12月18日、島津久光の国葬が鹿児島で行われた。
  葬儀のために道路が整備されて、熊本鎮台からは儀仗
 兵1大隊が派遣された。
  1887年9月21日、従一位
  1887年9月29日、金製黄綬褒章
  1887年11月5日、大勲位菊花大綬章
.
  (今日の言葉)
.
  題:停戦を引き延ばす・・『アメリカ』と『ソ連』・・
.
1945年7月17日、ポツダム会談
  ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17
 日~1945年8月2日に行われた。
  ソ連占領地域となったポツダム(ドイツのベルリンの
 近く)に、アメリカ合衆国、イギリス、ソビエト連邦の
 3カ国の首脳が集まった。
  このポツダム会談は、イギリス首相のチャーチルの強
 い要望で始まった。
  ドイツが降伏して、アメリカ軍が、日本の戦線へ移動
 するため、欧州から引き上げているのに対し、今まで味
 方だと思っていたソ連赤軍の占領地域が広がっていた恐
 怖からだった。
  まったく愚かな事だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトのそそのかしによって
 領土欲を強く持ったソ連のスターリンは、東アジアにお
 いても、アメリカの思惑以上の侵略欲を行使しようとし
 ていた。
  このヨーロッパ戦線においても、そのソ連軍の恐怖が
 始まっていた。
  1945年7月18日、ポツダム会談の中で、ソ連のスターリ
 ンは言った・・、
  「日本から要望書が来ている。どう対応すべきかアド
 バイスしてほしい」・・と、
  それは、日本の近衛公が、和平努力のため、モスクワ
 を訪問するという日本からの『正式要望書』だった。
  そして、スターリンは言った・・、
  「こういうのは無視するに限る」・・と、(この時は
 まだ、日ソ中立条約が継続中(成立している)
  そして、また、「近衛訪問はまだ問題があり、貴国(
 日本)はしばらく静観すべし」と解答する予定だと言っ
 た。
  (もう、完全に、ソ連のスターリンは、日本をだまし、
 日ソ中立条約を破棄して、戦端を開く腹積もりになって
 いる・・日本の領土が欲しい・・だった)
  ソ連には、日ソ中立条約を破棄して、日本領を奪う予
 定がはっきりあり、領土奪取にとらわれていた。
  (もう完全に・・アメリカ大統領ルーズベルトのマイ
 ンド・コントロールにはまってしまっていた)
  アメリカ大統領のトルーマンは、日本の暗号は完全に
 解読し、
  日本の交信は、すべて知っていて、日本が、スウェー
 デンや、スイスに停戦の仲介を求めている事も知ってい
 た。
  日本の和平努力は、空回りしていた。
  アメリカが、早期に戦争を戦争を止めたいのなら、ア
 メリカは、どんどんスウェーデンや、スイスに働きかけ
 て、戦争を終わらせる努力をするわけだ・・が・・そう
 しなかった・・正義があるなら、話をするべきだった。
  しかし、アメリカは、その様な事を知っていながら、
 その様な努力は・・しなかった。
  何故か?
  同席して居たアメリカの国務省ロシア専門家のボーレ
 ンは、「(アメリカが、ソ連へ撒いたエサ)対日参戦で
 約束された「獲物」の事を考えれば、スターリンの意図
 はむしろ停戦の可能性を引き延ばす事にあった」と思っ
 たと記録に残しているが・・
  しかし、ソ連の、『そのことだけだった』のだろうか?
 それだけだっただろうか?
  アメリカが、日本の意思(早く停戦したい)を知って
 いながら、積極的に停戦へ向けて動かなかったのは・・
 アメリカはアメリカで、停戦時期を延ばす目的があった、
  「原爆投下の予定があったからだった」。
  原爆投下後の・・アメリカの動きからも・・その予想
 できる。
  ソ連は領土、そして、アメリカは、この後、「戦略的
 に重大な重みをもつ原爆」の威力が知りたくて、試した
 かった。
  卑劣な事である。
  これが真実なのである・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月14日月曜日

(増補版)455E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年9月~1887年10月)

題:(増補版)455E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年9月~1887年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年9月26日、日本・タイが修好した。
  この日に「日暹(にちせん)修好通商に関する宣言」
 (日タイ修好宣言)が調印されて、
  日本とタイとの間に、正式な外交関係が開始された。
  日本とタイ間の外交関係は、両国の王室・皇室間の親
 密な関係も基礎となっていて、
  また、活発な要人往来や、幅広い人的交流の拡大とも
 なっている。
  そして、持続的な日本の直接投資や両国間貿易にみら
 れる緊密な経済関係もより大きな両国関係を築いている。
1887年9月、「日本の女子(日本之女学)」が創刊された
 (8月説あり)
  この頃の、女性誌の主な創刊を見ると・・、
  ・女学新誌 (じょがくしんし):1884年(明治17年)6
   月、修正社
  ・女学雑誌 (じょがくざっし)1885年(明治18年)7月、
   万春堂
  ・女学叢誌 (じょがくそうし)1885年(明治18)年12月、
   績文舎
  ・以良都女 (いらつめ)1887年(明治20年)7月、
   成美社
  (女子教育を論じ、婦徳を高め、その地位の向上を期
   すると共に、言文一致の文体を世にひろめることを
   主としていた)
  ・日本之女学、1887年(明治20年)9月
  ・東京婦人矯風雑誌、1888年(明治21年)4月
  ・婦人教育雑誌、1888年(明治21年)5月
  ・日本新婦人、1888年(明治21年)9月
  ・文明の母、1888年(明治21年)10月
  ・大日本婦人教育会雑誌、(明治21年)12月
  ・国乃もとゐ (くにのもとゐ)1889年(明治22年)4月、
   興文社(日本婦人雑誌系列)
  ・女学生1890年(明治23年)5月
  ・婦女雑誌、1891年(明治24年)1月
  ・花乃園生、1891年(明治24年)2月
  ・女鑑、1891年(明治24年)8月
  ・女権、1891年(明治24年)9月
  ・家庭雑誌、1892年(明治25年)9月
  ・うらにしき、1892年(明治25年)11月
  ・婦人衛生会雑誌、1889年(明治22年)5月
  ・婦女雑誌 (ふじょざっし)1891年(明治24年)1月、
   修正社
  ・婦人弘道叢記、1894年(明治27年)10月
1887年9月:日本麦酒醸造会社が設立された。  
  工場地購入(1888年)
  恵比寿ビール発売(1890年)
1887年9月、沖縄県尋常師範学校に、天皇・皇后両陛下の御
 真影が下付された。
1887年10月3日、後藤象二郎が、大同団結運動推進のために
 丁亥倶楽部(ていがいくらぶ)を結成目指し、
  4日に、各党関係者が協議した(~1889年)
  (1890年の国会開設が間近になり、民権運動の再興が
 急務となった。
  1886年10月、旧自由党・立憲改進党の有志が、全国有
 志大懇親会を開き、小異を捨てて大同につくことを確認
 しあったのが端緒だった。
  そして、その翌年・1887年、井上馨(かおる)外相の条
 約改正案の屈辱的内容が暴露されると、両派は提携し、
 全国各地で、条約改正中止建白運動を展開した。
  それは、さらに地租軽減、言論・集会の自由をあわせ
 た三大事件建白運動に発展し、
  建白書提出委員が続々上京した。
  往年の民権運動の全盛期を再現するに至った。
  こうした下で、同年・1887年10月、後藤象二郎(しょう
 じろう)は、丁亥倶楽部(ていがいくらぶ)を設立し、
  全国同志の団結を呼びかけた。
  旧自由・改進両党有志の懇親会と、それに続く丁亥倶
 楽部の設立に始まると、古老財産家と壮士とが結合し、
 議会政治を実現することを訴えた)
  大同団結運動は、後藤象二郎、星亨、中江兆民らによ
 って進められた自由民権運動後期の政治運動(統一運動)
 だった。
  この運動は、当初、星・中江らが、主に旧自由党員に
 「小異を捨て大同団結する」ことを求める呼びかけを起
 すことに始った。
  翌・1888年2月に、改進党の実質的党首の大隈重信(お
 おくましげのぶ)が外相に就任し、運動の分断が策された。
  同年・1888年、後藤は、大同団結を唱えて地方遊説を
 行い、雑誌『政論』を発行し、地方名望家層の政党への
 組織化を図った。
  しかし、改進党系の多くは、この動きに加わらず独自
 の組織化に着手したため、旧自由党系中心の運動に転化
 した。
  しかも、1889年3月、後藤自身が、逓(てい)相に就任し、
 運動から退くと、
  直前の恩赦で、多くの有力民権家が出獄し、指導者に
 迎えられたこともあって、運動は分裂し、大同倶楽部と
 大同協和会が発足した。
  ここに、大同団結運動は完全に終焉(しゅうえん)した。
1887年10月4日、東京音楽学校が設立された(10月5日説あ
 り)
  この年に、上野の東四軒寺跡地に開校した日本で最初
 の音楽専門学校で、
  初代校長は、音楽取調掛長であった伊沢修二。
  文部省図書取調掛を東京美術学校とし、音楽取調掛を
 東京音楽学校とあらためた。
  両校は、後の東京芸術大学の前身。
   1879年に文部省に設置された音楽取調掛は、勅令第五
 十一号、および、文部省告示第九号によって、東京音楽
 学校と改称された。
  この日本初の音楽学校の誕生にあたって、大きな役割
 を果たしたと言われるのが、1886年に、文部大臣・森有
 礼に提出された「音楽学校設立ノ儀ニ付建議」だった。
1887年10月5日、文部省に専門学務局と普通学務局が設置さ
 れた。
  文部省官制はしばしば改正された。
  この明治二十年(1887年)十月、文部省官制の改正に
 より、学務局を廃止して、専門学務局・普通学務局の両
 局を設置し、
  明治二十三年(1890年)六月には、編輯局を廃して、
 総務局の中に図書課を置き、従来編輯局が扱っていた教
 科用図書規定・図書の編集・飜訳などの事務を処理させ
 ることとした。
  二十四年(1891年)七月には、各省官制通則の改正に
 よって総務局が廃止され、
  また、文部省官制の改正で会計局が廃止されたので、
 文部省の機構は大臣官房のほか専門学務・普通学務の両
 局を残すだけとなった。
  (文部科学省のホームページを参考にした)
1887年10月5日、東京音楽学校が開校した。 
1887年10月5日、図画取調掛を東京美術学校と改称し設立さ
 れた。
  この年に東京府に設立された官立(唯一)の美術専門
 学校で、略称は「美校」。
  日本最初の美術教員・美術家養成のための機関であり、
 当初は、文人画を除く伝統的日本美術の保護を目的とし
 たが、
  その後、西洋画・図案・彫塑など西洋美術の教育も行
 うようになった。
  修業年限5年のうち、最初の2年を基礎実技と学科を担
 当する「普通科」、後の3年を専門科目を担当する「専修
 科」とした。
  1886年(明治19年)~翌・1887年にかけて、文部省図
 画取調掛委員として岡倉覚三(天心)、および、フェノ
 ロサは、欧米調査旅行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 ものであったが、
  美術学校の組織管理、および、学科教授法も含まれて
 おり、2人の報告に基いて、
  1887年10月、勅令によって図画取調掛、および、工部
 大学校内「工部美術部」を統合・改編して、東京美術学
 校が設立された。
  1889年2月の開校後、1890年に就任した岡倉覚三(天心)
 が事実上の初代校長であった。
  副校長はフェノロサが務めた。
  1949年に、音楽取調掛から東京音楽学校に改称した学
 校と共に、両学校が統合され「東京芸術大学」になった。
1887年10月7日、日本初の上水道が、横浜で給水された(10
 月17日説あり))
  横浜に上下水道が完成した、給水人口は10万人。
1887年10月8日、陸軍大学校条例が公布された。
  陸軍大学校(りくぐんだいがっこう)は、大日本帝国
 陸軍の参謀・高級将校養成教育機関(軍学校)。
  略称は陸大。
  1882年(明治15年)に、「陸軍大学校条例」が制定さ
 れて創設され、教官にはフランス軍将校があたっていた。
  1883年(明治16年)4月に、赤坂の参謀本部敷地内に、
 生徒10人で開校した。
  1884年(明治17年)には、ドイツ帝国の陸軍大学校を
 モデルとすることになり、
  参謀本部長・山縣有朋、陸軍卿・大山巌によりドイツ
 人教官の招聘が決定された。
  日本からの要請を受けたドイツの陸軍大臣ブロンザル
 ト・フォン・シェレンドルフや、参謀総長ヘルムート・
 カール・ベルンハルト・フォン・モルトケは、
  1885年(明治18年)に、クレメンス・ウィルヘルム・
 ヤコブ・メッケル参謀少佐を陸大に派遣した。
  教官となったメッケルは、それまでの図上演習等に加
 えて現地における参謀業務の実習、戦術教育を重視し、
 3年次には参謀演習旅行を行った。
  メッケルは、1888年(明治21年)に退任したが、その
 教育は高く評価され、後年まで影響を与えた。
  第一条:陸軍大学校は、歩騎砲工兵科士官の入学志願
     者を選抜し学生となし其学術を進達せしめ、将
     来能く参謀の職務に堪ゆべき者を養成する所な
     り。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1945年にあったこと・・二題・・
.
1945年7月24日、ポツダム会談が行われているこの日、ソ連・
 赤軍のアントノフ将軍は、この会談で言った、
 「ソ連は、8月15日以降に日本に対する攻撃準備を完了す
 る」・・と。
  そして、この会談において、アメリカ大統領のトルー
 マンは、会談の合間に、通訳を連れずに、ソ連のスター
 リンに近づき、そして、言った・・、
  「実は、通常爆弾では考えられない破壊力を備えた新
 兵器開発に(アメリカは)成功した」・・と。
  原爆の開発が成功したことを意味していた。
  この事は、ソ連側通訳を通して、内容が、スターリン
 へ伝えられ、スターリンは、「アメリカの原爆開発成功」
 を知った。
  アメリカ大統領のこの原爆告知が、対日本への参戦の
 時期を早まった。
  そして、これから、満州・千島列島などの日本領への
 ソ連の奇襲が始まる。
  満州には、戦車軍団が国境を越えて殺到する。
  多くの日本人殺戮が始まる。
  満州では、無抵抗の満州開拓団の日本人は、ソ連戦車
 に踏みにじられ、蹂躙され、また、無差別な機関銃の乱
 射を受け、
  機関銃の乱射を浴びせられた日本人の方々には、想像
 を絶する地獄図の様相が現出した。
  アメリカの卑劣なそそのかしは、この様な形にもなっ
 て表れた。
  アメリカのあおりに乗ったソ連の悪行がなされた。
  国際法違反の一般市民への、無抵抗な市民への殺戮だ
 った。
  東京裁判で、裁かれるべき事項だった。
  アメリカは、見逃した。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
1945年8月14日、日本が降伏した。
  日本の有条件の降伏の意思が伝えられていたアメリカ
 は、日本の降伏が、この日に成立した。
  アメリカの国体までの破壊を要求しないという有条件
 の降伏だった(無条件降伏ではない)。
  この日、8月14日、アメリカのワシントンにある国務省
 では、激しい議論がなされていた。
  日本の降伏後、日本が管轄していた地が、空白となる
 事についての考えの違いについての議論だった。
  ルーズベルトのソ連の対日参戦のそそのかしにおける
 話は、千島・南樺太・満州が話に出ていただけで、他は、
 話に出ていなかったからだった。
  アメリカは、どこまで占領すべきかだった。
  国務省・陸軍・海軍の考え方は違っていた。
  ただ、陸軍と海軍は、戦争に疲弊していたので消極的
 だった。
  これに対し国務省は、「中国北部まで進むべし」と強
 気だった。
  また、自国・アメリカが、火をつけたソ連の東アジア
 侵攻が気がかりだった。
  ソ連は、どこまで侵攻するのか?である。
  満州全域を占領し、朝鮮半島をのみ込むのは時間の問
 題だった。
  まったく愚かなアメリカだった。
  自分の撒いた種で苦悩した。
  日本が、この地域の安定を保ち、豊かな地にしようと
 努力していた有り難さ・・、
  開拓民の方たちの汗、朝鮮の方々と一緒になって、ど
 ちらかというと朝鮮の方々の方が多い方々という一緒に
 なっての開拓の汗・・、
  また、日本の、自国の資本を持って行って・・そして、
 その資本投下する開発行動などなど・・が、
  この時に、アメリカに、つくづく有り難く感じさせた
 であろう。
  アメリカ国務省での議論は、深夜も延々と続いた。
  やっと、朝鮮半島は、アメリカが進駐(侵攻)すべき
 地だと決まった。
  そして、朝鮮半島のすべてか? 一部か?
  一部ならどこまでか?・・議題は、延々とあった。
  ソウルは、アメリカ側だろうな?
  こんな思いや、話で・・時は過ぎて行った。
  歴史は・・この様な・・形で・・作られて行った・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月13日日曜日

(増補版)454E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年8月~1887年9月)

題:(増補版)454E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年8月~1887年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年8月15日、熊本県の三角港が開港し、開港式が行われ
 た。
  三角港は、港湾法上の重要港湾で、港則法上の特定港
 に指定されている。
  西港(旧港)と東港に別れているが、西港は、世界遺
 産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産
 業」の構成資産の一つとなっている。
  近代的港湾として、日本最古である。
  そして、宮城県の野蒜築港、福井県の三国港とともに
 明治の三大築港と呼ばれている。
  1880年(明治13年)、熊本県は、坪井川河口の百貫港
 (現在の熊本市小島・百貫石周辺)を候補地をして内務
 省に貿易港の建設を申請した。
  1881年、熊本に派遣されたオランダ人・水理工師:ロ
 ーウェンホルスト・ムルデルは、調査の結果、宇土半島
 先端のこの地(西港)が、百貫港より優れた天然の良港
 であるとして築港を進言した。
  そして、設計指導の下、
  1884年から3年の歳月をかけ築港された。
1887年8月19日、日本最初の皆既日食観測が行われた。
  この日食は、101年ぶりの皆既日食で、関東から東北に
 かけてが皆既日食だった。
1887年8月20日、最初の軍艦建造
  東京石川島造船所にて、帝国砲艦「鳥海」の進水式が
 行われた。
  私立造船所における、帝国軍艦建造の最初の記録だっ
 た。
  石川島平野造船所で、1888年12月27日に竣工した。
  日清戦争では、旅順・大連・威海衛攻略作戦等に参加
 した。
  1908年4月1日に、除籍され雑役船に編入、佐世保海兵
 団練習船として使用された。
1887年8月、皇太子東宮宣下(氷川清話)
1887年8月、ボアソナードや谷干城らの意見書が、自由民権
 派の手によって秘密出版され、国民に流布され、広く知
 られた。
  ボアソナードは、フランスの法学者、教育者で、日本
 の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務顧問、
 国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任した(勲一等
 旭日大綬章受章)
  明治政府の法律顧問として、1873年(明治6年)来日し
 たお雇い外国人の一人だが・・、
   当時の日本にとって急務の課題だった不平等条約の撤
 廃のため、国内法の整備に尽力した。
  そして、日本近代法の礎(いしずえ)を築いた。
  「日本近代法の父」と呼ばれている。
  司法省明法寮、司法省法学校のほか、東京法学校(現:
 法政大学)、明治法律学校(現:明治大学)、旧制東京
 大学の教壇にも立った。
  1895年、離日(22年間という長い期間、日本のために
 働いて戴いた)
  1910年、南仏コート・ダジュールにて没する(85歳)
  ボアソナードの講義は、高度で且つ難解であったとい
 う。
1887年8月、本願寺普通教校生徒らが、「反省会雑誌」を創
 刊した(のちの中央公論)
  前身は、西本願寺系の普通教校(龍谷大学の前身)で、
 高楠順次郎らの学生有志が、1886年に組織した「反省会」
 の会員証を兼ねた機関誌『反省会雑誌』だった。
  禁酒を主張したり、青年の生き方を探る雑誌だった。
  そして、この年・1887年に、創刊された。
  1892年《反省雑誌》となり、
  1899年(明治32年)1月、《中央公論》と改題され、発
 行所は反省社。
  明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介や菊池寛を
 いち早く起用するなど、名編集者として知られた。
  大正期には、吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義
 的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論を
 リードした。
  また、小説欄は新人作家の登竜門だった。
  1914年、中央公論社となった。
1887年9月4日、富士山頂にて気象観測行われた。
  中央気象台技師・正戸豹之助、及び、お雇い外国人・
 ドイツ人のクニッピングによって、登頂し、山頂で3日間
 気象観測が行われた。
  因みに、クニッピングは、「日本の天気予報の父」と
 呼ばれている。
  また、1884年(明治17年)6月1日の日本最初の天気予
 報は、このクニッピングによって行われた。
  この富士山頂の公設の通年の観測は、1932年(昭和7年)
 7月1日からで、外輪山南東に「中央気象台臨時富士山頂
 測候所」が設置され、行なわれた。
  1964年(昭和39年)山頂のシンボルの気象レーダーが
 建設され、翌年・1965年3月から正式運用となった。
  1999年(平成11年)11月1日で、レーダー観測は終了し、
 現在は、気圧、気温、風向、風速などの自動観測が行わ
 れている。
  因みに、これに先立つ1880年(明治13年)8月に、富士
 山頂の気象観測が行われている。
  それは、日本帝国大学の御雇い教師・アメリカ人のT・
 CメンデホールとF・Sチャップリンは、富士山頂の重
 力調査で登山した際に、気圧、気温、湿度を観測した。
  これが、最初と言われている。
  また、日本人の野中至は、富士山頂の通年の気象観測
 の重要性を唱えた最初の人だった。
  そして、野中は、妻の千代子と共に、1895年(明治28
 年)富士山の最高地点である剣ヶ峰まで決死的な登山を
 試み、さらに越冬観測も試みた。
  しかし、10月からの観測は、病気もあって12月22日で
 終わった。
  この努力が、公設の観測所設置へとつながったという
 日本人の輝かしい記録もある。
1887年9月16日、井上円了(いのうええんりょう)が、私塾
 「哲学館」を開校した。
  井上円了は、仏教哲学者、教育者だった。
  1877年(明治10年)、京都・東本願寺の教師学校に入
 学し、
  1878年の翌年、東本願寺の国内留学生に選ばれ、上京
 し、東京大学予備門入学した。
  その後、東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
  多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学
 館(現:東洋大学)を設立した。
  また、迷信を打破する立場から妖怪を研究した。
  あらゆる学問の基礎である哲学を学ぶことが、日本の
 近代化にとって重要である・・との観点から、
  その教育に大きな力を注いだ。
  「諸学の基礎は哲学にあり」が、教育理念だった。
1887年9月17日、外務大臣の井上馨は、条約改正が破綻し、
 この失敗から辞任した。
  条約改正会議は、無期延期となった。
  外務大臣のポストは、総理大臣の伊藤博文が、臨時で
 兼任した。
  井上馨は、1885年(明治18年)、伊藤博文が、内閣総
 理大臣に就任して第1次伊藤内閣が誕生すると、
  外務卿に代わるポストとして、初代外務大臣に就任し
 ていた。
  そして、引き続き条約改正に専念した。
  しかし、1887年(明治20年)に改正案が広まると、
  「裁判に外国人判事を任用する」などの内容に、反対
 運動が巻き起こり、
  井上毅・谷干城などの閣僚も反対に回り、分裂の危機
 を招いた・・そのため・・、
  1887年7月に、改正交渉延期を発表し、
  1887年9月に、外務大臣を辞めざるを得なかった。
  そして、井上馨の外務大臣辞任と共に、鹿鳴館時代は、
 その歴史に幕を下ろした。
  鹿鳴館の建物は、1890年(明治23年)に、宮内省に払
 い下げられ、華族会館が一部を使用することになった。
1887年9月21日、横浜に、最初の西洋式の水道が布設された。
  水道は、古くから日本にあった。
  木の樋(とい)を埋め、水源地から水を曳いたれっき
 とした水道布設だった。
  これは、江戸の昔から実施されていた。
  西洋流の近代式水道としては、横浜が最初だった。
  1887年のこの時に、足掛け3年をかけて、水道工事が完
 成した。
  横浜は、1871年(明治4年)にも、53万円の巨費を投じ
 て、水道が開設されていたが、
  江戸の水道のように、地中に木の樋を埋設したものだ
 ったので、永久性は無く、破損の箇所を生じていた。
  その頃、中国・広東で、イギリスの工兵少佐H・S・
 パーマーが、同地の水道布設に招聘されていた。
  その工事の終って、横浜に招いた。
  1885年(明治18年)4月、彼の設計で工事を始めた。
  そして、日本最初の近代式上水道が実現した。
  水源地のろ過装置や、清水を圧力によって給水する方
 法、配水管に鉄管を用いた事など、すっかり従来とは違
 っていた。
  費用も、その頃としては思い切った巨額で、約107万
 4700円に達した。
  因みに、水道布設を最も早く行なったのは、イギリス
 で、1829年、ロンドンで世界最初のろ過法水道が発明さ
 れた。
  列国でもイギリスに学んで、漸次水道布設が盛んにな
 った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:第二次世界大戦後の『 戦争 』まで作るという愚行をしていた・・、
.
1945年8月14日、日本の降伏
  この日、日本の「国体維持の有条件」で、降伏の意思
 がアメリカへ伝わった。
  そこで、アメリカは、即時に、連合国の各国へ通達(
 つうたつ、告げ知らせること)し、連合国の各国は、戦
 争行為を終えなければいけなかったが、その様な状況に
 はならなかった。
  特に、アメリカのルーズベルトに領土欲をそそのかさ
 れたスターリンのソ連軍は、戦争行為を続けた。
  そしてまた、愚かなことだが、この中に、「次なる戦
 争の芽」が、「この時にあった・・存在した」。
  連合国各国は、この日・8月14日の日本降伏によって「
 日本が居なくなって・・抜けた穴」、空白地帯の安定を
 計(はか)る事が出来なかった。
  日本が統治し、重石(おもし)になって、しっかりし
 ていた地帯が、「空白の不安定地帯と化した」。
  そして、「争点の地となっていた」。
  日本がしっかりと存在を示していて、安定していた存
 在を・・つくづく心の内でありがたく思った事だろう。
  アメリカ大統領のルーズベルトの「ソ連スターリンへ
 の愚かなそそのかし・煽(あお)り」で、東アジアにお
 ける領土欲に「目覚めさせられたスターリン」は、
  東アジアに軍事力を集中させ、
  大東亜戦争(第二次世界大戦)の最末期に・・、
  領土の奪い取りに、ソ連は狂奔した。
  この、8月14日の日本降伏の通達以降も、盛んに戦争を
 続け、領土を奪い、拡大する行為を続けた。
  アメリカに、やっとこの時点で、「ソ連がどこで止ま
 るか?」が・・大問題として浮上した。
  ソ連は、ルーズベルトにそそのかされて、その言われ
 た地(満州・千島列島・大連・旅順)以外にも、ソ連・
 スターリンの欲は広がり、
  朝鮮半島・中国・北方領土へと侵攻した。
  アメリカの思惑とは完全に違っていた。
  ここの思惑違いに、また、「新たな戦争の種」が生ま
 れていた。
  アメリカ大統領ルーズベルトは、マルタ会談の後、ア
 メリカ国民の方々へ、
  「少なくとも今後20年は戦争が起きない秩序を確立し
 た」・・と言った。
  しかし、その様な言葉は、アメリカ国民の方々への約
 束は、早くも数ヶ月の後のこの時に、空のどこかへ消え
 去っていた。
  ルーズベルトが撒(ま)いた種(たね)・そそのかし
 が原因で、ソ連の領土欲は止(とど)まることを知らず
 に、
  「アメリカと対峙するという状況」が生まれていた。
  ルーズベルトは、「(第二次世界大戦の)戦争を作っ
 た」と言ったが、
  その戦争の末期になって、この時になって、この様な
 経過のうちに、このルーズベルトは、またまた、「第二
 次世界大戦後の戦争」まで作るという愚行をした。
  マッカーサーが、まだ、マニラ司令部にいるとき・・、
  「ソ連軍が、北海道に上陸した」という電文を受け取
 った。
  1945年8月末頃のことだった。
  マッカーサーは、烈火のごとく怒った。
  即座に、ソ連へ強い抗議を行なった。
  そして、そのソ連からの返信は・・、
  「アメリカ軍こそ、千島列島に上陸した。これは、ヤ
 ルタ協定違反だ」・・と、
  ルーズベルトと、スターリンの「ヤルタ密約」に関し
 ての逆の抗議だった。
  アメリカとソ連の「支配領域の奪い合い」からのやり
 取りだった。
  結局、根拠のない事という事で終わったが・・、
  早くも、「次なる世界の取り合い」による火花が飛び
 交う状況となり、
  ルーズベルトの「そそのかしの仕掛け」が、次なるト
 ラブルの幕まで開けてしまっていた。
  そして、愚かにも、このルーズベルトのそそのかしの
 影響は、この後、とどまることなく続いた。
  そして、愚かにも、この5年後の朝鮮戦争まで引き起こ
 した。
  悲しい事だが・・、この朝鮮戦争で、国連軍と韓国の
 方々が、何百万人もの方々が・・死ぬという・・「ルー
 ズベルトの大罪」は続くのだった。
  マッカーサーが、ソ連軍の北海道上陸の電文を受けて、
 そして、怒ったのは・・理由があった。
  ソ連が、日本の『本土の領土』を欲しがった。
  そして、愚かにも・・、その強い要求である『北海道
 占領』に、アメリカ大統領のトルーマンは、「了解」を
 与えていた。
  マッカーサーは、ソ連に圧力を掛けた。
  幸いにも・・この際限ないソ連の領土欲を押しとどめ
 られた・・が・・、
  朝鮮半島では・・酷い状態となっていた。
  満州から・・朝鮮半島北部一帯に・・殺到したソ連軍、
 中国共産党軍、さらに中国国民東軍が・・入り乱れ、
  混乱が深まっていた。
  マッカーサーは、なすすべなしの状態だった。
  愚かなるルーズベルトの「ソ連スターリンへのそその
 かし・あおり」の大罪の戦争は続いた。
  殺される人が増え続けていた・・、
  そしてまた、愚かにも・・、
  マッカーサーは、日本の占領統治を終えて、アメリカ
 に帰国した時に、やっと、日本の真のことが分かったと
 アメリカ議会で証言した・・、
  「アメリカは、日本の勢力を支那大陸、満州、朝鮮か
 ら駆逐したことで、自分たちの目標を達成したかに見え
 た・・が・・、
  しかし、その結果、アメリカは、過去半世紀に、この
 地域で、日本が直面し、対処してきた問題と『責任』を、
  日本に代わって引き受けなくてはならなくなっただけ
 だ」・・と後悔した。
  『日本が偉大だった』ことが、やっと、分ったのだっ
 た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive