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2016年7月29日金曜日

(増補版)388E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年10月~1883年12月)

題:(増補版)388E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年10月~1883年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年10月16日、東京商工会が設立された。
1883年10月22日、独逸学協会学校が設立された。
  獨逸学協会学校(どいつがくきょうかいがっこう)は、
 獨逸学協会によって設置された。
  戦後、設立された獨協大学の源流と位置づけられてい
 る。
  この時、設立された独逸学協会学校は、私立の旧制学
 校で、中等教育機関であったが、
  一時期、高等教育課程である「専修科」も併設した。
  また、獨逸学協会は、1881年に、「ドイツ文化の移植」
 を目的に設立された団体。
  学校設立に際し、初代学長の西周や加藤弘之ら、当時
 の啓蒙学者が関与した。
  そして、ドイツ啓蒙主義を基礎とした。
  啓蒙思想は、中世以来のキリスト教会によって代表さ
 れる古い伝統的権威や、旧来の思想を、徹底的に批判し、
  理性の啓発によって、人間生活の進歩・改善を図ろう
 という思想。
  イギリスではロック・ヒューム、
  フランスではモンテスキュー・ボルテール・ディドロ、
  ドイツではレッシングなどに代表される。
1883年10月24日、陸軍監獄則を制定した。
  軍事監獄(ぐんじかんごく)とは、戦争犯罪などを起
 こした軍人を専門に収容する刑務所。
  戦争犯罪とは、国際条約の定める戦闘法規に違反する
 行為で、戦争における非戦闘員の殺戮などがある。
  アメリカの原爆投下は、完全な無差別な、非戦闘員の
 殺戮で、国際条約違反である。
  しかし、東京裁判では裁かれなかった。
  東京裁判当時、国際法で定められていない法規を、ア
 メリカなどの連合国は、新規の法律をわざわざ作って、
 日本だけを裁いた。
  例えば、貴方が、今夜、飲んだ酒が、後の時に禁酒法
 が作られて、日にちを遡(さかのぼ)って、その法規を
 適用されて、貴方が有罪にされるようなもの。
  東京裁判では、その様な不正な裁きを、アメリカなど
 の連合国は、日本にした。
1883年11月12日、観菊御宴が開かれた。
  天皇陛下の主催の菊花観賞会で、1880年11月に、赤坂
 離宮で催されたのを初めとして、以後、年中行事となっ
 た。
  皇室外交による条約改正促進の意図ももっていた。
  モースの『日本その日その日』や、ピエール・ロチの
 『秋の日本』に、その記述がある。
1883年11月16日、自由党が臨時大会を開催した。
  この大会は、関西勢はほとんど出席してなく、下り坂
 の党勢だった。
  ただ、星亨(ほしとおる)だけが頑張って、党維持の方
 針が決定された。
  しかし、党の総力あげて、政府と正面から戦おうとい
 う姿勢は失われていた。
  関東勢が党指導部に多く入り、また、板垣総理の権限
 も強化された。
  この頃、地方間の「いさかい」があり、党員同志の攻
 撃がある状態だった。
1883年11月20日、天璋院篤姫が逝去した。
  千駄ヶ谷・徳川邸
  1836年~1883年、享年48歳、
  江戸幕府第13代将軍・徳川家定の正室。
  幼名は於一(おかつ)。
  通称は篤姫。
  薩摩藩島津家一門に生まれ(島津斉宣の孫。島津忠剛
 の娘)、
  島津斉彬の養女・篤子(あつこと改名)となり、
  近衛家の養女・敬子(すみこ)と改名を経て、
  安政3年、御台盤所(みだいばんどころ)となった。
  婚姻から2年足らずの、1858年7月の22歳の時に、家定
 が没し、
  家定の死後、落飾して天璋院の号を得て、従三位に叙
 せられた。
  幕府崩壊に際しては、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略
 の回避に、静寛院宮(和宮)らとともに力を尽くし、協
 力して徳川家救済に尽力した。
  しかし、1868年7月、官軍に反発、奥羽越列藩同盟に官
 軍討伐を願った。
  その後、一橋邸、紀伊藩邸、尾張藩邸、相良(さがら)
 藩邸と移り、徳川16代当主家達(いえさと)のいた徳川千
 駄ヶ谷邸で過ごし、
  徳川本家の家格・家名の維持を目ざし、徳川宗家を継
 いだ家達の養育に専心した。
  徳川家処分の際には、位記を剥奪(はくだつ)されてい
 た時もあったが、従三位に復し、上野の家定の墓域に埋
 葬された。[
  家定との婚姻は、政略的なものであったと言われるの
 は仕方のないものではあるが、生涯、徳川家の人として
 生きた誠実な方であった。
1883年11月28日、鹿鳴館、開館式が挙行された。
  東京麹町山下町に、西洋社交クラブ「鹿鳴館」が開館
 した。
  煉瓦造り2階建て。1350万平方メートル。
  建設費は18万円。
  設計はコンドル。
  2階には、大広間とバルコニーがあり、舞踏会などが開
 かれた。
  鹿鳴館は、外国からの賓客や外交官を接待するために
 明治政府によって建てられた社交場。
  「鹿鳴」は、詩経の「鹿鳴の詩」に由来、来客をもて
 なすことを表わす語。
  開館の当日は、井上馨の誕生日だった。
  落成の祝宴が、名士1200人を招待して行なわれた(1300
 人?、600人?)
  パーティは深夜にまでおよび、午前1時に、新橋発横浜
 行の臨時列車が運行された。
  その後・・、
  1887年4月9日に、井上馨が外務大臣を辞任し・・、
  鹿鳴館時代は、井上とともにその歴史に幕をおろした。
  1890年には、鹿鳴館の建物が、宮内省に払い下げられ、
 華族会館が一部を使用した。
  1894年6月20日、明治東京地震で被災し・・、
  後に、修復後、土地・建物が、華族会館に払い下げら
 れた。
  1927年に至り、徴兵生命保険(後の大和生命保険)に
 売却され・・、
  1940年、取り壊された。
1883年11月9日、石川縣能美郡の農民が、小松町の金貸会社
 を襲撃した。
  松方デフレ下でおこった農民騒擾。
  この日、石川県能美郡下70~80ヵ村民100余人が集合し、
 米価下落・金融閉塞による困難打開のため、利子低減・
 元金年賦を債主の金貸し会社に迫ることを相談。
  11月14日~15日ごろより、各地の金貸し会社に押しか
 けるもの1500人~1600人におよび、
  18日には、700人が小松町の金貸し会社に迫った。
  20日、八幡山・三道山に各500人集合したが、25日鎮静
 にむかった。《自由新聞(復刻版)》
1883年12月11日、英国外相が、条約改正に関する覚書を、
 森有礼駐英公使に送付した。
  内容
  (1)予備会で討議の改正税目、関税率引き上げの大要
   は承認する。
  (2)関税率改正条約を結び、その期限後に内地開放を
   条件に関税自主権を認める。
  (3)領事裁判権放棄については留保する。
1883年12月11日、為替手形・約束手形条例を制定し、公布
 した。
  為替手形約束手形条例(かわせてがたやくそくてがた
 じょうれい、明治15年12月11日太政官布告第57号)が、
  1883年12月11日に制定・公布され、太政官布告した。
  近代手形・小切手法の先駆となる法令。
  江戸時代、日本の為替・手形システムは、大坂の両替
 商による信用制度に基づいて、高度な仕組が確立されて
 いた。
  しかし、明治政府は、為替・手形に対する理解が不十
 分で、
  銀目廃止や、国立銀行以外での持参人払式の約束手形・
 小切手振出の禁止(国立銀行条例)などを行ったため、
  両替商の破綻や、信用制度の混乱が発生した。
  しかしながら、為替・手形に対する需要が高かったこ
 と、欧米でも同様の制度が存在していることから、
  西南戦争以後に、為替・手形制度の法制化が進められ
 た。
  そこで、御雇外国人ヘルマン・ロエスレルを中心に編
 纂が進められていた商法草案のうちの「為替」の部分の
 みを独自の法令「為替手形約束手形条例」として先行し
 て実施した。
1883年12月12日、山県有朋が、内務卿に任命した。
  山県有朋が、内務卿に就任し、市制・町村制・府県制・
 郡制を制定した。
1883年12月18日、海軍志願兵徴募規則が制定された。
1883年12月28日、徴兵令を改正
  免役を廃止、現役・予備役・後備役の制を定め、代人
 料が廃止される。
1883年12月28日、中山道鉄道公債証書条例が制定。
  中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅~大垣
 駅間の建設が始まったが、
  山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航した。
1883年12月28日、金札引換無記名公債証書条例が制定され
 た。
  この月に、松方は、どうしても免れがたい国庫の一時
 的な資金不足に際しては、政府紙幣ではなく、大蔵省証
 券を発行する様に建議した。
  そして、1884年9月の大蔵省証券条令で、
  「出納上一時使用の為」に満期が3、5、6、9ヶ月
 の無記名利付債を一般公募発行、あるいは売り出し発行
 することを定めた。
  また、松方正義大蔵卿は、この月に、
  「独り鉄道布設の用に供するのみならず傍ら現今紙幣
 価格の挽回を謀る一助とも相成候」と、
  鉄道建設と紙幣整理の一石二鳥を狙って、
  中山道鉄道公債2000万円の募集を太政官に上申した。
  中山道鉄道の敷設には、予定以上の経費と期間を要す
 ることが判明し、
  新たに東海道鉄道の敷設を計画することになった。
  このため、第3回発行の収入金で、10%利付き金禄公債
 の繰り上げ償還を行なった。
  これが、国債整理の先駆けとなった。
  中山道鉄道公債を公募発行すると同時に、政府紙幣の
 回収償却と正貨獲得のために、金札引換無記名公債を発
 行した。
  これまでの金札引換公債は、記名式であったために流
 動性が乏しく、
  しかも、外国人に所有を認めなかった。
  これらを改め、また、財政上の都合により発行を停止
 するという条項を加えた条例を、1883年12月に公布した。
  1883年度から3年間で、1000万円程度を、募集期限を設
 けず申し込みに応じて随時発行することし、
  発行条件を6%利付き、紙幣との額面交換発行、償還は
 5年据え置き後、30年間で毎年抽選償還とした。
1883年8月19日、ココ・シャネル(ガブリエル・ボヌール・
 シャネル)生誕(~1971年1月10日)
  20世紀を代表するフランスのファッションデザイナー。
  第二次世界大戦中にドイツに協力したという暗い影が
 ある。
1883年、優生学、そして、人間を差別する行為に
  イギリス人のフランシス・ゴルトンが、この年に、「
 優生学」という言葉を初めて用いた。
  そして、キリスト教の有色人種蔑視などの優劣意識を
 植えこまれたキリスト教徒たちは、人種の蔑視と共に人
 種の差別意識も植え込まれた。
  キリスト教聖職者だったダーウィンの従兄弟のフラン
 シス・ゴルトン(イギリス人)は、人間の能力の研究を
 し、優生学の研究をして、1883年に優生学という言葉を
 初めて用いた。
  そして、1869年に「遺伝的天才」という本を著した。
  そして、彼は、「人の才能がぽぼ遺伝によって受け継
 がれるものである」と主張した。
  そして、人間も人為選択を適用すればより良い社会が
 できると論じた。
  (このキリスト教から派生したこの考えが、ヒトラーの
 ユダヤ人虐殺につながって行く)
  そして、当時のイギリスの産業革命の中のイギリスに
 おいて、
  社会の発展のためには、環境の改善よりも、生物学的
 な改良が有意義だと言う考えを示した。
  このゴルトンの思想を、イギリスは受け入れた。
  そしてまた、アメリカにも伝播し、
  アメリカは、イギリスより多く受け入れられた。
  アメリカは、1931年に、全米の30州に『断種法』が成
 立した。
  そして、この考え方は、有色人種蔑視の論拠にも用い
 られ、
  また、移民の制限の論拠にもなった。
  そして、スエーデン、ノルウェー、フィンランドなど
 の北欧の国々においても断種法が成立し、
  人間を差別する行為が行われた。
  (参考)断種:だんしゅ、精管や卵管の手術などによ
    って生殖機能を除くこと。
1883年、アメリカ合衆国のインディアンの方々への傲慢な
 態度
  本当のアメリカ合衆国の領土の持ち主のアメリカ・イ
 ンディアンの方々へ対し、
  アメリカ合衆国は、まったく蔑視的態度から傲慢な態
 度が出ていた。
  例えば、アメリカ合衆国のシャーマン将軍は、「イン
 ディアンを制圧するためには、軍隊を増強するよりも鉄
 道を発達させる方が効果が高い」と言い、
  さらに、「鉄道や電信で圧倒すれば、『木の葉っぱの
 様に固まってたくさんいる』インディアンたちも、みん
 なバラバラになってしまう」・・と、発言した。
  完全にキリスト教の有色人種蔑視に毒された頭からの
 発言だった。
1883年、ベトナムの全土が、フランスの植民地支配下にな
 った。
..
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2016年7月28日木曜日

(増補版)387E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年9月~1883年10月)

題:(増補版)387E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年9月~1883年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1883年9月5日、東京師範学校、中学師範学科の規則が改正
 された。
  この年の東京師範学校での規則改正を通じ、中学師範
 学科は、小学師範学科とは、完全に区別された学科制度
 として整備されることとなった。
  因みに、東京師範学校(とうきょうしはんがっこう)
 は、官立もしくは(東京)府立の師範学校の名称。
  また、中学師範学科は、1875年8月に、東京師範学校に
 おいて設置されていた。
1883年9月9日、東京教育学会が、全国規模の大日本教育会
 に拡大された。
  この日に、大日本教育会が創立され、
  初代会長に辻新次が推された。
  帝国教育会の前身。
  大日本教育界は、全国的な規模で組織された教育団体
 で、
  東京府の各学校教員を会員とする東京教育会と、
  学習院在職教員などを会員とする東京教育協会とを合
 併して、
  1882年に結成された東京教育学会を基盤にして組織さ
 れた。
  そして、1896年に改称して帝国教育界となり、
  1947年まで存続した。
  日本教職員組合(日教組)の成立後に解散した。
1883年9月11日、海軍退隠令を廃止して、海軍恩給令を定め
 た。
  恩給(おんきゅう)は、官吏であったものが退職、ま
 たは、死亡した後、
  本人、または、その遺族に、安定した生活を確保する
 ために支給される金銭で、
  近代恩給制度は、1875年の海軍退隠令、及び、1876年
 の陸軍恩給令に始まり、
  1883年に、文官恩給令も制定され、同時に、太政官に
 恩給局が設置された。
1883年9月13日、川上音二郎が、集会条例違反で1年間演説
 禁止の措置を受けた。
  河上音二郎(かわかみおとじろう)は、大阪の寄席で、
 自由民権思想を鼓舞するオッペケペ節を唄い、人気にな
 っていた。
   14歳の時に、故郷を出奔し、自由党壮士となったが、
  統制のため、講釈師や寄席芸人になったりし、また、
 「書生にわか」になったりしていた。
  書生にわかは、書生あがり、壮士あがりの素人によっ
 て始められた新演劇。
1883年9月21日、三池炭坑で、囚人が騒ぐ
  この年、三池集治監が開庁し、囚人労働が本格化した。
  集治監は、囚人の収容施設のことで、
  囚人労働は、立派に賃金が払われた労働形態のことで、
 単なる刑罰とは異なり、三池炭鉱で、この労働形態によ
 る炭坑掘削が行われた。
  この日・9月21日、この三池炭坑で、就労中の囚人395
 人が、灯心の配布が少ないことに抗議して、騒ぎが起き
 た。
  しかし、詰め所に放った火が延焼して、坑内火災に拡
 大するという不幸な惨事となってしまった。
  このため、死者が46人を数えた。
  因みに、イギリス人ポッターに指導された三池炭鉱で
 は、1873年から、囚人労働が用いられ始め、
  三井に払い下げられた1888年の当時は、炭鉱夫の69%
 が囚人炭坑夫が占め、重要な労働力となっていた。
  この囚人労働は、各国でも見られ・・、
  イギリスは、刑務所が足りないくらいに囚人が多く、
 囚人をオーストラリアに連れて行って、収容所代わりに
 し、そして、労働させたのが有名(アボリジニの先住民
 の方々の殺戮行為)、
  また、その多い囚人を、イギリスは、労働力としてア
 メリカに売った(自国の国民を人身売買する低劣なイギ
 リスだった・・などなど)
  ロシアの場合は、シベリアでの酷寒地での労働が有名
 (極寒の地で多くの囚人が死んだ)。
  また、ドイツでは、すでに、17世紀にあり、マニュフ
 ァクチュアの紡績工となっていた・・など外国事例は多
 い。
  今・現在でも、アメリカでは、240万人もの受刑者が、
 刑務所に収監されているが、安価な労働力として、大企
 業が利用し、使役させられている。
  アメリカの受刑者は非常に多く、人口比率から行って
 も日本の40倍も多い。
  (アメリカは、日本の40倍もの犯罪がおき、受刑者数
 となっている)
1883年9月22日、京都に宮内庁支庁を設置した。
1883年9月22日、工部省の工作局、鉱山局を廃止し、事務を
 直轄とした。
  品川工作局は、品川硝子製作所に、
  兵庫・長崎工作分局は、兵庫・長崎造船局に、
  佐渡・生野・阿仁・院内・三池の各鉱山分局は、それ
 ぞれの鉱山局となった。
1883年9月24日、高島炭坑暴動
  長崎の高島炭坑で、争議が起きたが、暴動化した。
  坑夫らが、減給に反対して騒いだ。
  7人が死亡した。
  政府も警保局長を現地に派遣し、実情を調査させ、一
 定の是正措置を図った。
1883年9月24日、立憲帝政党が解党した(9月26日説あり)
  御用政党的で、保守層の支持を受けたが、組織が弱く、
 さらに、政府が、超然主義を採ったため存在意義を失っ
 た。
  超然主義=関知しなかった。
1883年9月24日、奥宮健之(おくのみやけんし)らが、車会(
 界)党結成した(1882年説あり)(10月4日説あり)
  奥宮健之は、社会運動家で、
  1880年に、共存同衆という、お互い切磋琢磨しようと
 いう会や、国友会に参加した。
  1881年に、自由党に入党し、板垣退助らが設立した立
 志社で、自由民権思想を学んで、自由民権家となった。
  そして、この年、貧しい労働者の同情者として、下層
 労働者の組織化に尽力し、人力車夫300人余りを組織して
 懇親会・車会(界)党を組織した。
  この時の席上、車夫の親方の言葉は・・
  「車夫と雖ども亦皆同等の人間なり」と訴えていた。
  後に、移民事業をしたりしたが、境遇に恵まれず、幸
 徳秋水と関係を持つに至った。
  そして、大逆事件の幸徳秋水に、爆弾の作り方を教え
 たとして検挙された。
1883年9月、私立夜学校「東京物理学講習所」が、東京物理
 学校と改称した(後の東京理科大学)。
  寺尾寿(てらおひさし、天文学者、数学者、近代日本
 天文学の基礎を固めたとされる人)らを始めとする東京
 大学理学部仏語物理学科の初期の出身者21名は、
  同学科が3回の卒業限りで廃止されるのをきっかけに、
  物理学普及のための活動を行うことを決めた。
  彼らは、当初、講演会(街頭演説会)を企画したが、
 自由民権運動との関係で、講演会の開催が許されなかっ
 たため、夜学校の設立に踏み切った。
  こうして、1881年6月13日、東京理科大学の前身となる
 私立夜学校「東京物理学講習所」の設立広告が出された
 が、
  21名の設立者は、いずれも公務に就いていた者ばかり
 であり、余暇を使って無給で講義を行っていた。
  さらに、開校当初は、生徒がなかなか集まらず、講習
 所は経営難に苦しんだ。
  そのため、講習所が東京物理学校と改称された(1883
 年9月)。
1883年9月、東京英学校が青山に移り、東京英和学校と改め
 開校した(後の青山学院)
1883年10月11日、東京商法会議所が解散した。
  商法会議所(しょうほうかいぎしょ)は、明治政府が、
 実業家の意見を集約するために設立した任意の経済団体
 で・・、
  1881年までに、日本全国で34の商法会議所が組織され
 た。
  そして、政府や府県の支援を受けながら、諮問の答申
 や商慣習の調査、商品・商況調査などの任にあたった。
  また、条約改正については、関税改正の基礎資料など
 が提供された。
  しかし、商法会議所は、外国を模範とした任意団体で、
 その活動は、地域によって差があった。
  活動が不振な地域があったりしたので、
  政府は、府県や農商務省が主導する商工会を結成して、
 商法会議所に代わらせようとした。
  しかし、一部の商法会議所が、これを拒んだ。
  そのため、2つの組織が併存する地域もあった。
  (東京では、1883年10月に、商法会議所は一旦解散さ
 れて、翌月に商工会が再発足したが、
  大阪では、商法会議所が、解散を拒否した)。
  1890年9月12日に、商業会議所条例が公布されて、法人
 格を持った商業会議所に衣替えされた。
1883年10月12日、岸田俊子(きしだとしこ、女性民権運動
 家)が、大津で「函入娘」の題で、女性の権利拡大演説
 を行い、集会条例違反として罰金刑を受けた。
  岸田俊子は、京都の呉服商小松屋の長女として生まれ、
 17歳で宮中に出仕し、文事御用掛を務めた。
  そして、皇后陛下に進講するが、 1881年に、病気で
 辞任した。
  1884年に、自由党副総理・中島信行と結婚し、婦人運
 動の先駆者となった。
1883年10月12日、馬場辰猪が、政治講談論議の禁止を解か
 れた。
  6ヶ月の経過後に、この処置を受けた。
1883年10月15日、日朝間の、日本人民貿易規則、海関税目
 規則、間行里程取極約書、日本人漁民取扱規則が布告さ
 れた。
  日本の新聞「時事新報」に・・、
  「朝鮮貿易に從事する日本商人は、充分熟讀の上、豫
 め覺悟する所あるべきは論を俟たざるなり」とある。
..
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2016年7月27日水曜日

臨時ブログ:アメリカ大統領・ルーズベルトの愚考〈愚かな罪〉

臨時ブログ:*アメリカ大統領・ルーズベルトの愚考〈愚かな罪〉
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  1945年8月8日、ソ連が、日本との条約を破棄して、
 満州全域になだれ込んだ。
  (ソ連の「日ソ中立条約」の一方的破棄だった)
  この様な行為を『せよ』と言っていたのがアメリカだ
 った。
  しかし、これ以降、アメリカの予想していた思惑と違
 った事態が、早くも起きた。
  アメリカの思惑は、ソ連が、満州に侵入し、日本を攻
 撃し、大東亜戦争(第二次世界大戦)が早く終わり、ア
 メリカ軍の損害が少なくなることを期待したのだったが、
  しかし、ソ連が、満州全域に侵入すると、この地域・
 中国北部一帯の地域は、逆に、混乱が増すばかりだった。
  日に日に、収拾が付かなくなる状態だった。
  アメリカの思惑だった「蒋介石の中国軍による中国域
 の掌握」は、まったく進まなかった。
  アメリカは、戦争まで作って世界を繰って、アメリカ
 の思惑どおりにしようとしたが、その様には、事は進ま
 なかった。
  (卑劣にも、アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦
 争を作った」と、自分の思惑を吐露し、しゃべっている)。
  ことの成り行きの実態は、ソ連の満州の占領域が拡大
 する一方だった。
  しかも、中国北部では、毛沢東の軍が活動を強めて行
 った。
  (日本は、この毛沢東の共産党軍と戦ったのではない。
  蒋介石の中国軍と戦ったのだった。
  つまり、毛沢東の共産党軍ではなく、日本と戦った『
 蒋介石の中国』が戦争の戦勝者なのである)。
  ソ連の勢力が拡大する一方の時、アメリカの中国の司
 令官であるアルバート・ウェデマイヤーは、重慶に居て、
 蒋介石を支援し、事の成り行きに苦慮していた。
  ソ連のスターリンは、「中国の共産党(毛沢東)を支
 援しない」と、アメリカと約束していたが、
  完全に、この約束をどこ吹く風と、「約束違反」をし
 ていた。
  毛沢東と結託していた。
  ルーズベルト亡きあと、アメリカの大統領になったト
 ルーマンも、この事に気づいた。
  アメリカも、軍を、中国へ侵入させた。
  (アメリカの中国侵略)
  (アメリカも中国を侵略したのだ)
  「日本軍の武装解除するためだ」と、世界に嘘をつい
 た。
  実際は、その武装解除するはずの日本軍と共に武力
 介入した。
  (日本軍は、アメリカに、中国軍と戦わせられた)
  名目は、蒋介石の中国軍の支援だった。
  アメリカは「ヤルタ密約」までして、ソ連と取決めを
 して、
  戦後の構想を巡らしていた「このアメリカの構想(
 妄想)」は、
  戦後、この様に、早くも夢となってしまったのだった。
  大きな犠牲を払って、余りにも大きな犠牲を払わされ
 て、
  アメリカの愚劣な妄想が演じられた結果が、これだっ
 た。
  その犠牲が払われた直後に、早くも、そのアメリカの
 愚劣な構想は、雲散霧消した。
  雲となり、霧となり、あとかたもなく消え去り、
  ただただ、アメリカが作り出した『愚かな結果だけ』
 が残った。
  アメリカのルーズベルトの『ヤルタ密約の安定圏構想』
 なんて、愚劣な構想だった。
  そんな甘いものではなかった。
  戦争を作って、多大な犠牲者を作っただけだった。
.
  (追記)
  ならば・・、日本は、戦勝国です。
  アメリカと戦った戦勝国です。
  イタリアは、敗戦国です。
  しかし、敗戦直前にムッソリーニを捕らえ、そして、
 処刑したから、
  だから、枢軸国として戦争して来たことを、アメリカ
 をはじめ連合国は、「イタリアの戦争責任の追及をする
 こと」をあまりしない。
  甘く・・見過ごしてきた。
  日本だって、中国で、アメリカと共に戦ったのだ。
  連合国のアメリカと戦ったのだ。
  日本は、ナチスの様な極悪の非道な事はしていないし、
 逆に、日本は、ちゃんと!アメリカ人捕虜を国際条約に
 のっとり収監していた。
  だから、逆に、アメリカは、非道な原爆を広島に投下
 し、そのアメリカ人捕虜とともに、無実の日本人や朝鮮
 人とともに、皆殺しにした。
  これこそ『国際条約違反行為』なのだ。
  アメリカの小学生たちに教え、教育せよ!
.
  (追記の追記)
  騙(だま)されたアメリカが悪いのか?
  騙したソ連が悪いのか?
  アメリカのルーズベルトは、ソ連のスターリンに、騙
 された。
  スターリンは、ヤルタで、「モンゴル共和国を俺にく
 れ」、「ソ連の勢力圏にしてくれ」と、
  何度も、ルーズベルトに言い、
  その代わり、「毛沢東でなく、蒋介石の中国を支持す
 る」、「その中国の独立を認める」と、
  馬鹿らしいことに、何度も何度も、アメリカのルーズ
 ベルトに誓った。
  そして、さらに、ルーズベルトの死から3か月後の1945
 年7月中旬の時にも、
  アメリカのルーズベルトより上手(うわて)の騙しの
 テクニシャンである「スペシャル騙しテクニシャン・ス
 ターリン」は、
  蒋介石の部下の中国国民政府の外交部長(外相)・宗
 子文に、「蒋介石を支持します」と約束していた。
.
  (追記の追記の追記)
  旧日本軍と、アメリカ軍は、満州で、共同作戦を取り、
 ソ連軍と中国共産党軍と戦った。
  この時のアメリカ軍は海兵隊だった。
  5万人もの兵士を、アメリカは中国に侵略させた。
  そして、そして、朝鮮までもが赤っぽくなってきた。
  ソ連は、朝鮮まで欲しがった。
  アメリカ大統領のトルーマンは、深入りする事を恐れ
 た。
  元はと言えば、アメリカの愚劣な大統領のルーズベル
 トが、ソ連のスターリンに火を付け、
  その火が燃え盛って、
  深入りを恐れた「ルーズベルトの次のアメリカ大統領
 のトルーマン」が、
  その火に恐れおののいた・・という図だった。
  アメリカ大統領のトルーマンは、「中国からの全面撤
 退を命じた」。
  そして、アメリカ大統領のルーズベルトの幼稚な夢想
 と、まったく違った世界が現出して行った。
  朝鮮半島は分断され・・共産化した。
  そして、中国も・・中華人民共和国という共産党国家
 となった。
  アン・フェアな、不正義な、小細工をした「ヤルタ密
 約の行為者・ルーズベルト」は、世にはいなかったが、
 生きてこの事態を見たら、何と思うのだろうか?
  この地域の安定を保っていた日本の役目の大きさに、
 この時になって、感謝をするであろう。
  その日本の役目を理解せず、その地から日本が抜けて
 空白になったら、この体たらくのアメリカだった。
  朝鮮半島は分断され、「ルーズベルトの安定圏構想」
 どころか、「不安定圏構想」となってしまっていた。
  それが、今・現在も解決できない、
  分断朝鮮など最悪の事をしでかしたアメリカ大統領の
 ルーズベルトだった。
  アメリカの元国務長官のキッシンジャーは言う・・、
  「日本が抜ける空白を(見落とし)、埋めるという均
 衡論に、思いが及ばなかったルーズベルト、
  その論理を理解しなかっただけでなく、大国の勢力争
 いという考え方自体を否定する(認識不足で、欠陥ある)
 ルーズベルト」と批判して言う。
..   アメリカ国民の方々が、「戦争はしない」としていた
 ことを、作り話で繰って、
  「戦争を作った」と自分の思惑を吐露し、しゃべった
 大統領・ルーズベルトの結果がこれだった。

 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年7月25日月曜日

(増補版)386E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月~1883年9月)

題:(増補版)386E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年7月~1883年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年8月1日、小野梓(おのあずさ、政治学者、、政治思
 想家、政治家)が、出版社の東洋館(後の冨山房)を開
 業した。
  小野梓は、土佐に生まれ、戊辰戦争で会津攻めに参加
 し、
  1869年(17歳)に、昌平黌に学ぶ。
  1870年(18歳)に、上海旅行でアジアの近代化の必要
 を痛感し、
  1871年(19歳)に、アメリカへ私費留学し、法律学を
 学ぶ、
  1873年(21歳)に、大蔵省の官費留学生としてイギリ
 スへ行く(法律学)。
  1875年(23歳)に、同志とともに文化啓蒙(けいもう)
 団体「共存同衆」を結成し、
  「共存雑誌」を創刊。
  同誌で活発な言論活動を展開した。
  1876年(24歳)以降、司法省少丞に任ぜられ、以後、
 司法省、太政官少書記官を歴任、
  1880年(28歳)に、会計検査院の検査官に就任して、
 大隈重信の知遇を得て、関係を深めた。
  1881年10月(29歳)の時の、14年の政変で、大隈が失
 脚すると、自らも依願免官する。
  1882年4月(30歳)、自由主義を唱え、東京大学の学生
 を中心とする鷗渡会を率いて、立憲改進党に加わり、
  大隈重信を助けて立憲改進党を結成し、指導者として
 活躍した。
  また、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立に参
 画した。
  1883年(31歳)に、私擬憲法「国憲私案」を起草し、
 イギリス流の立憲君主制実現をめざす。
  主な著書に、自己の国会論や主権論を論じた『国憲汎
 論』や『東洋論策』などがある。
  肺結核により早世(1852年~1886年、35歳)
1883年8月3日、伊藤博文らが帰国した。
  博文らは、1883年3月に、ドイツを離れ、イギリスのロ
 ンドンへ行き、ここに、約2月滞在し、
  ロシア皇帝の即位に、日本を代表して出席したのち、
  1883年7月に、ヨーロッパを出発し、この時、日本に到
 着した。
1883年8月4日、陸軍治罪法(りくぐんちざいほう)
  軍法会議について定めた陸軍治罪法が公布された。
  主な内容は、陸軍軍人に対する刑事裁判手続特別法
1883年8月6日、関東と関西を結ぶ鉄道計画について、陸軍
 の意見が採り入れられ、中山道ルートの高崎~大垣間の
 建設が決定した。
  「中山道鉄道公債証書条例」が交付され、高崎駅~大
 垣駅間の建設が始まったが、
  山岳地帯を通るために難所が多く工事は難航した。
  中山道幹線(なかせんどうかんせん)、または、中山
 道線(なかせんどうせん)は、日本の官設鉄道(国鉄)
 が、東京と京都を結ぶ目的で、中山道に沿って計画した
 鉄道路線で、
  実際に着工されたものの、
  工期と工費が、当初の見込みを大幅に上回ることが建
 設中に判明したため、
  東京と京都を結ぶ幹線鉄道としては、東海道本線の建
 設を行う方針に変更された。
  1869年(明治2年)11月に、明治政府が、鉄道建設を廟
 議決定した際には、
  基本方針として、東京と京都(東西両京)を結ぶ路線
 を幹線とし、
  東京と横浜を結ぶ路線など、
  それ以外の路線を支線として建設する方針であった。
  この時点では、幹線の経路として、東海道と中山道の
 どちらを採用するかは未決定であった。
  政府の命を受けて、1870年(明治3年)6月に、東海道
 の鉄道建設事情を調査した際の復命書「東海道筋鉄道巡
 覧書」では、
  東海道は、陸運・海運ともに交通の便利な場所が多く、
 貨物輸送については、高価な物品、あるいは、至急の輸
 送を要するもの以外は、鉄道以外の運賃の安い交通手段
 が選ばれるであろうとし、
  東海道よりは、交通手段の不便な中山道に鉄道を建設
 する方を優先するべきだとした。
  この時の調査経路は、東京から愛知県までは東海道に
 沿い、
  そこから岐阜県へ入って、中山道に沿って京都へ向か
 うもので、
  その基本的な経路は、後に東海道本線に生かされるこ
 とになった。
  実際に、東西両京の幹線をどちらに建設するかは決定
 されないまま、東京~横浜間の鉄道が建設されることに
 なった。
  続いて、京都~大阪~神戸間にも鉄道が敷設され、東
 西両側での鉄道の運行が始まった。
  こうしていよいよ、東西を連絡する鉄道に取り組むこ
 とになった。
  資金難で、鉄道建設に困難をきたしていた政府も、日
 本鉄道の着工に影響を受けて、急速に幹線の整備に向け
 て動き出すことになり、
  1883年(明治16年)8月6日に、ついに、中山道幹線の
 着工を内定し、
  工部省に対して測量を進め、建設の方法を定めて提出
 するように命じた。
  資金的にも、この年・1883年12月21日に、太政官布告
 第47号により「中山道鉄道公債証書条例」が布告され、
  2000万円の公債を募集して、工事費に充てることにな
 った。
1883年8月16日、和歌山県名草郡で、日照りによる分水騒動
 が起こる。
  干ばつのため、和歌山県の各地で水騒動続発した。 
1883年8月18日、文部省が、教員講習所や督業訓導の設置を
 府県に指示した(文部省達第16号)
  小学校教員の資質向上のため、教員講習所の設置、督
 業訓導の配置方を府県に指示した。
1883年8月26日、大坂紡績が、生産向上に励み、日本を支え
 る産業へ。
  日本最初の大規模紡績会社で、東洋紡績の前身。
  綿製品輸入防遏(ぼうあつ、防ぎとめること)を企図
 する渋沢栄一の主唱により、
  華族を中心ににして、1882年5月に創立された。
  資本金25万円。
  翌年・1883年に、イギリスから帰った山辺丈夫を工務
 支配人として、蒸気機関による1万500錘、労働者300人と
 いう当時最大の規模で開業した。
  電灯を設備して、昼夜二交替制で生産し、好成績をお
 さめた。
  1880年代後半の紡績ブームを呼び起こした。
  1880年代半ばまでに、20ヵ所近い小紡績が開業したが、
 大部分は経営不振であった。
  大坂紡績は、その様な状況の中に、風穴を開け、日本
 を支えるの産業へと育って行った。
  機械製綿糸生産は急増し、1890年には、早くも輸入綿
 糸を上回った。
1883年8月、林遠里(はやしえんり、篤農家:農業に熱心で
 研究的な人)が、私塾の勧農社を創設し、優秀な卒業生
 を実業教師として各地に派遣し、農業技術の普及に努め
 た
  筑前の福岡藩・武士の家に生まれたが、廃藩置県の後
 に帰農し、農業経営に努める。
  1889年に、農商務省から、ハンブルク商業博覧会出品
 説明委員補助としてドイツに派遣され、欧米の農業を視
 察した。
  欠陥のある点もあったが、先進的農法を全国に伝えた
 功績は大きい。
1883年9月5日、御雇外国人・ノット(イギリス人物理学者)
 が、来日した。
  東京大学(のち帝国大学)理学部の教師となり、引き続
 き、帝大理科大学で教えた。
  その間、電気学、音響学、磁気力学などを講義し、日
 本全土の磁気測量にも従事した。
  在日中、J.ミルンらと地震、火山の調査・研究を行な
 う。1891年に帰国。
.
  (今日の言葉)
:
1945年8月8日、ソ連が、日本との条約を破棄して、満州全
 域になだれ込んだ。
  (ソ連の「日ソ中立条約」の一方的破棄)。
  この様な行為をしろと言っていたのがアメリカだった。
  しかし、これ以降、アメリカの予想していた思惑と違
 った事態が、早くも起きた。
  アメリカの思惑は、ソ連が、満州に侵入し、日本を攻
 撃し、大東亜戦争(第二次世界大戦)が早く終わり、ア
 メリカ軍の損害が少なくなることを期待したのだったが、
  しかし、ソ連が、満州全域に侵入すると、この地域・
 中国北部一帯の地域は、逆に、混乱が増すばかりだった。
  日に日に、収拾が付かなくなる状態だった。
  アメリカの思惑だった「蒋介石の中国軍による中国域
 の掌握」は、まったく進まなかった。
  アメリカは、戦争まで作って世界を繰って、アメリカ
 の思惑どおりにしようとしたが、その様には、事は進ま
 なかった。
  (卑劣にも、アメリカ大統領のルーズベルトは、「戦
 争を作った」と、自分の思惑を吐露し、しゃべっている)。
  ことの成り行きの実態は、ソ連の満州の占領域が拡大
 する一方だった。
  しかも、中国北部では、毛沢東の軍が活動を強めて行
 った。
  (日本は、この毛沢東の共産党軍と戦ったのではない。
 蒋介石の中国軍と戦ったのだった。
  つまり、毛沢東の共産党軍ではなく、日本と戦った蒋
 介石の中国が戦争戦勝者なのである)。
  ソ連の勢力が拡大する一方の時、アメリカの中国の司
 令官であるアルバート・ウェデマイヤーは、重慶に居て、
 蒋介石を支援し、事の成り行きに苦慮していた。
  ソ連のスターリンは、「中国の共産党(毛沢東)を支
 援しない」と、アメリカと約束していたが、
  完全に、この約束をどこ吹く風と、「約束違反」をし
 ていた。
  毛沢東と結託していた。
  ルーズベルト亡きあと、アメリカの大統領になったト
 ルーマンも、この事に気づいた。
  アメリカも、軍を、中国へ侵入させた。
  「日本軍の武装解除するためだ」と、世界に嘘をつい
 た。
  実際は、その武装解除するはずの日本軍と共に武力
 介入した。
  (日本軍は、アメリカに、中国軍と戦わせられた)
  名目は、蒋介石の中国軍の支援だった。
  アメリカは「ヤルタ密約」までして、ソ連と取決めを
 して、
   戦後の構想を巡らしていた「このアメリカの構想(
 妄想)」は、
  戦後、この様に、早くも夢となってしまったのだった。
  大きな犠牲を払って、余りにも大きな犠牲を払わされ
 て、
  アメリカの愚劣な妄想が演じられた結果が、これだっ
 た。
  その犠牲が払われた直後に、早くも、そのアメリカの
 愚劣な構想は、雲散霧消した、
  雲となり、霧となり、あとかたもなく消え去り、
  ただただアメリカが作り出した愚かな結果だけが残っ
 た。
  アメリカのルーズベルトの『ヤルタ密約の安定圏構想』
 なんて、愚劣な構想だった。
  そんな甘いものではなかった。
  戦争を作って、多大な犠牲者を作っただけだった。
.
  (追記)
  ならば・・、日本は、戦勝国です。
  アメリカと戦った戦勝国です。
  イタリアは、敗戦国です。
  しかし、敗戦直前にムッソリーニを捕らえ、そして、
 処刑したから、
  だから、枢軸国として戦争して来たことを、アメリカ
 をはじめ連合国は、「イタリアの戦争責任の追及をする
 こと」をあまりしない。
  甘く・・見過ごしてきた。
  日本だって、中国で、アメリカと共に戦ったのだ。
  連合国のアメリカと戦ったのだ。
  日本は、ナチスの様な極悪の非道な事はしていないし、
 逆に、日本は、ちゃんと!アメリカ人捕虜を国際条約に
 のっとり収監していた。
  だから、逆に、アメリカは、非道な原爆を広島に投下
 し、そのアメリカ人捕虜とともに、無実の日本人や朝鮮
 人とともに、皆殺しにした。
  これこそ『国際条約違反行為』なのだ。
  アメリカの小学生たちに教え、教育せよ!
.
  (追記の追記)
  騙(だま)されたアメリカが悪いのか?
  騙したソ連が悪いのか?
  アメリカのルーズベルトは、ソ連のスターリンに、騙
 された。
  スターリンは、ヤルタで、「モンゴル共和国を俺にく
 れ」、「ソ連の勢力圏にしてくれ」と、
  何度も、ルーズベルトに言い、
  その代わり、「毛沢東でなく、蒋介石の中国を支持す
 る」、「その中国の独立を認める」と、
  馬鹿らしいことに、何度も何度も、アメリカのルーズ
 ベルトに誓った。
  そして、さらに、ルーズベルトの死から3か月後の1945
 年7月中旬の時にも、
  アメリカのルーズベルトより上手(うわて)の騙しの
 テクニシャンである「スペシャル騙しテクニシャン・ス
 ターリン」は、
  蒋介石の部下の中国国民政府の外交部長(外相)・宗
 子文に、「蒋介石を支持します」と約束していた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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