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2018年5月11日金曜日

(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)

題:(増補版)594E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年3月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年3月9日、明治天皇陛下大婚満二十五年祝典挙行
  明治天皇陛下銀婚式
  明治天皇陛下・御夫妻の「大婚25年祝典」(銀婚式)
 が行われた。
  記念日から1ヶ月遅れの開催だった。  
・大婚25年祝典(氷川清話)
  これより、日本で銀婚式が広まった。
  そして、この日、明治銀婚の記念切手が発売された。
  明治天皇陛下の大婚25年記年祝典で、逓信省が記念切
 手2種類をはじめて発行する。
  日本で初めての記念切手は、紅色が内地用で2銭、青
 色が外地用で5銭だった・・
  デザインは、菊の花の紋章にオスとメスの2羽のツル
 が描かれている。
  実は、外国人の新聞の投書がきっかけとなり、急に、
 記念切手の発行が決まったといわれ、日本最初の記念切
 手となった。
  この式典に、渋沢栄一は召されて参内しました。
  そして、栄一に同行した長女の穂積歌子(ほづみ・う
 たこ、1863年~1932年)は、その著書「はゝその落葉」
 の中で、この日のことを以下の様に記している・・、
  (上略)久かたの天の御柱めぐりめぐりて。
  廿年あまり五つとせと云ふにならせ給ヘバとて。
  やがて其年の春三月九日。
  御祝典取行はせ給ひ。
  勅任以上の司人。
  および民間にあるも四位以上の人々ハ。
  其夫人と共に九重の内に召しのぼせ給ひ。
  御代ことほぎの舞楽拝観をなんゆるさせ給ひける。
  されバ数ならぬ身も此おほん恵ミの露にもれざりし事
 こそいとうれしかりしか。
  大人にハ冠をかけ給ひしより。
  公の御儀式にたづさはらんも要なしとて。
  議会開院の式にすら出まし給はざりけれどこたびハあ
 まりの御めでたさに。
  始めて四位の大礼服調ぜさせられて参内せさせ給ひき。
  (下略)
  はゝその落葉、穂積歌子著、明治三三年二月刊
 
1894年3月12日、堀井新治郎が、謄写版(ガリ版)の特許を
 取得した。
  初代の堀井新治郎は、明治・大正時代の日本の発明家
 で、謄写版(ガリ版)印刷機の開発者。
  幕末のただなかにあたる安政3年9月16日(1856年10月
 14日)、近江国蒲生郡駕輿丁村の、菱田弥左衛門の次男
 として生まれた。
  内務省勧農局紅茶伝習所に入り、緑茶再生法伝習所等
 を経て・・、
  1879年(23歳)8月13日、岐阜県御用係となり、その後、
   農商務省製茶巡回教師になる。
  1883年(27歳)8月、滋賀県蒲生郡岡本村で、代々醸造
   業を営む堀井家の養子となり、亡夫と儲けた一児を
   連れた堀井ヒデと結婚して、第38代堀井家の家主・
   新治郎となる。
   滋賀県勧業委員や米質改良委員などを歴任した後、
  1893年(37歳)1月、新治郎は、簡易印刷方法研究のた
   め官職を退く。
    巡回教師活動は、多くの資料を複数部用意する必
   要があるが、当時の印刷は高く、一般が利用できる
   金額でないことから、同文を一括して印刷できる簡
   易な印刷方法の必要性を仕事を通じて痛感していた。
    仕事を通じて欧米で簡易印刷について調査してい
   たことから、開発の方向性は見え始めていた。
    なお、子息・耕造も、同時期に勤務先である三井
   物産を退職し、父と行動を共にし簡易印刷方法の研
   究に邁進することとなった。
    当時、日本で行われた簡易印刷としてはコンニャ
   ク版印刷があったが、多くて20枚の印刷が限界で、
   企業や役所・学校はより多数の同文書類を必要とす
   ることが多く、質の高い簡易印刷は様々な活動にお
   いて強く求められていた。
    簡易印刷の方向性が纏まりかけて来たことから、
  1893年(37歳)3月、シカゴ万博視察を兼ねて、印刷技
   術の先進国であるアメリカ合衆国に簡易印刷方法の
   情報収集・技術習得に出向く。
    アメリカでは、エジソンが孔版印刷ミメオグラフ
   (謄写版)の理論を、1861年に開発し、新次郎が渡
   米した頃、エジソンは原型を完成させた。
    その間、日本では、度重なる研究開発費に渡米費
   用等の資金を捻出するため、子息・耕造は、蒲生郡
   の自宅を含め、仏壇を除く資産を売却し、
  1893年(37歳)4月、その資金で、一家は東京府東京市
   神田鍛冶町へ転居した。
   家族の生活は極貧の状態であった。
  1893年(37歳)10月、視察を終えた新治郎は、日本に
   帰国した。
  1894年(38歳)1月、新治郎親子は、「蠟引きした原紙
   をやすり上におき、鉄筆で書いて製版する方法」を
   発明し、「謄写版」と命名し、発表した。
    この頃、謄写堂と社名を称する。
    また、速やかに特許出願を行うが、資金がなく自
   力申請した結果、書類に不備があって特許受理には
   至らなかった。
    堀井家にとっては早々の資金化が必要なことから、
  1894年(38歳)7月、ジャパン・ウィークリー・メイル
   (横浜居留地にて発行された在日外国人向けの新聞、
   明治維新期から近代化する日本の情報を世界に発信
   しつづけた英字紙)に謄写版の広告を出し、大きな
   反響を得ることができた。
    また、東京帝国大学講師ウエングステンからも優
   秀な発明との賞賛を得、横浜のモルフ商会他在日外
   国商社等から資金支援の申し出があったが、条件面
   での不満があって、これらの申し出を謝絶した。
    営業は主に耕造が担当したが、当時は簡易印刷へ
   の期待の高さから詐欺的営業も多く、堀井の謄写版
   に対しても世間の信頼を得ることはできなかった。
  1894年(38歳)7月、日清戦争が勃発すると、簡易印刷
   機は軍部においても必要なものであることから、陸
   軍省より堀井親子に多量の謄写版発注があった。
    製造途中において火災に遭い、印刷紙の多くを消
   失するなどの問題が生じたものの、新治郎親子の昼
   夜を厭わない作業により、期限内に完納することが
   できた。
  1895年(39歳)3月12日、2499号にて特許(謄写印刷紙)
   が認められた、加えて、軍への納入は世間に十分信
   用証明するものであったことから、以後は役所等よ
   り多くの注文を得るに至った。
    新治郎親子も営業に注力すべく行商活動する従業
   員を雇って販売を広げながらも、掛売りの焦げ付き
   などから資金面では厳しい展開が続いた。
    それでも、堀井親子の謄写版が簡易印刷の主流と
   なるに及んだ。
  1897年(41歳)3月、耕造が結婚し、5月には博覧会創
   設25年記念博覧会(京都)において賞杯を受ける。
  1904年(48歳)4月、新次郎は病に倒れて隠居し、子息・
   耕造が第39代堀井家家主となる。
  1916年(60歳)5月8日、緑綬褒章を受章し、
  1917年(61歳)新次郎は「新治郎」の名を息子・耕造
   に襲名させ、自らは「元紀」と名を改めた。
  1922年(66歳)4月29日、帝国発明協会優等賞を、
  1926年(70歳)9月17日、帝国発明協会最高賞である帝
   国表彰を、
  1929年(73歳)10月16日、特等賞を受賞した。また、
  1929年(73歳)11月30日、産業貿易功労者として子息・
   新次郎が表彰された。
  1932年(76歳)7月19日、新治郎(元紀)は目白台の自
   邸にて永眠する。
  生前特許出願数は647件、内特許件数433件(日本特許
 394件、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアでの
 特許39件)に達した。
1894年3月28日、朝鮮の政治指導者・金玉均が、上海に誘い
 出され、拳銃で暗殺された。
  これは、李氏朝鮮の刺客だった。
  金玉均の遺体は、中国・清朝の軍艦で朝鮮に運ばれ、
 遺体になっても卑劣な刑(凌遅刑)が執行された。
  中国・清朝と朝鮮・李朝の示し合わせた暗殺だった。
  日本人の和田延次郎は、秘かに金玉均の髪と衣服の一
 部を日本に持ち帰り、浅草本願寺で葬儀を営んだ。
  金玉均には、凾館で知り合った妻が居たが、金玉均の
 暗殺が起きた直後、東学党の乱が起き、金玉均の妻子の
 安否状況が心配されたが、日本軍が、偶然、発見し、そ
 の妻と女の子を保護した。
  その時の二人の姿は、まったく憐れむべき状況・姿だ
 ったという。
  因みに、朝鮮は、この金玉均だけでなく、金玉均の朝
 鮮開花派の人々をも処刑した(問答無用の蛮行がなされ
 た)。
  暗殺者は、朝鮮帰国後、李氏朝鮮の高宗(第26代国王)
 から激賞され、要職に就いた・・そして、開化派を弾圧
 し続けた。
1894年3月29日、朝鮮南部の全羅道で、農民を基盤とする在
 地宗教の東学党が、圧政に抵抗して蜂起した・・甲午農
 民戦争が始まった。
  農民の蜂起の原因は、李朝朝鮮の圧政と腐敗で、その
 「腐敗した役人の追放要求」と、「利益を収奪する外国
 人の追放」だった。
  農民の勢いは強く、朝鮮半島の一部を制圧するほどだ
 った。
  兵力の弱い李氏朝鮮王朝は、清国に出兵を求めた。
  日本も、清国との申し合わせによって出兵した。
  そして、この後、日清両国に衝突が起きた。
  そして、このぶつかり合いが、拡大して行った・・
  日清戦争の原因となった。
  戦場は、拡大し続け、満州南部などに拡がった。
  これまで清国に劣勢だった日本の兵力は、この時点で
 は、陸戦でも海戦でも、清国と対等、もしくは、圧倒す
 るくらいまでになっていた。
  これまで、圧倒する清国に対して、日本は、努力を重
 ねて来ていて、「新兵器も用意し、装備していた」。
  また、「軍隊の訓練に励み、規律も優秀で優っていた」。
  そして、「日本人全体の意識が、国民として一つにま
 とまっていた」。
  因みに、1885年に、日本と清国は、朝鮮に出兵する時
 には、事前にお互いに、相手側へ通知し合うという条約
 を結んでいた。
  (参考)東学農民の蜂起の原因:この1894年に朝鮮南
     部で起きた農民戦争の原因は・・、
      外国貿易の開始による経済変動で、南部地方
     の農民は生活破たんを起こすほど悪かった。
      この様な苦境に直面している民に、新興の民
     族宗教東学は、こうした農民層に浸透し救済し
     た。
      また、李朝の郡守の圧政に怒った全羅道郡古
     阜の農民たちが、全琫準を指導者として、東学
     の組織を通じて決起した。
      この「東学党の乱、甲午農民戦争」と、苦境
     にあえいでいた農民の方々の大農民反乱に発展
     した。
      農民軍は、全羅道都の全州を占領、また、他
     国に軍事介入の口実を与えぬように、悪質李朝
     官吏の処罰や身分解放などを条件に李朝政府軍
     と休戦した・・が・・
  
1894年、横浜で鉄桟橋が完成した。
  横浜港は、1859年の開港以来、急増する貨物量に対し
 て、
  『イギリス波止場』(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)
 や、『フランス波止場』と呼ばれる艀荷役に必要な小規
 模の船溜まりこそあったものの・・、
  直接岸壁に接岸して荷役が行える施設はなかった。
  増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなく
 なっていた。
  接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性は高まってい
 た。
  艀荷役が、慢性的な埠頭不足により、近代国家に相応
 しい埠頭を建設することが早急の課題とされた。
  明治維新直後から、井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事
 はその建設を要請していた。
  1870年になって、工部省お雇い外国人の英国人技師リ
 チャード・ヘンリー・プラントンが、横浜築港桟橋計画
 の提案をした・・また・・、
  1874年にも、内務省お雇い外国人オランダ人技師ファ
 ン・ドールンも築港計画提案をした。
  大隈重信大蔵卿からも、接岸荷役体制に向けた築港計
 画が上申された。
  しかし、これ等の多くの要望があったが実現はできな
 かった。
  また、当時は、既に、「東京港の建設」の機運にあり、
 品川沖に築港する案もあった。
  しかし、その東京港建設案は、財政難や、横浜からの
 反対などもあり、実現はしなかった。
  1886年、横浜開港から27年が経過したこの年、機運が
 やっと高まった。
  内務省から、オランダ人技師デ・リーケへの設計要請
 があり・・また・・、
  神奈川県より、イギリス陸軍大佐であり技官であった
 ヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請が行なわ
 れた。
  しかし、この両者の設計案は、政府内で議論が沸騰し
 た・・
  さらに、政府内にその上位案件として、東京港建設と
 横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が起き
 た。
  この時、外務大臣となっていた大隈重信は、横浜港建
 設を強く進言した。
  さらに、パーマーがイギリス・タイムス記者を兼職し、
 同紙上で、日本を好意的に報道した実績や、不平等条約
 改正に向けた日英同盟への働きなどがあり、
  正式に、パーマーの横浜港築港案が採択されるに至っ
 た。
  また、さらに、下関砲撃事件での賠償のうち、アメリ
 カへの支払った賠償金が、べらぼうな取り過ぎだったた
 め・・、
  1883年、グラント大統領、及び、アメリカ議会の承認
 により、日本への償還が承認された。
  この償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的
 な目処も立った。
  1889年、このようにして、やっと横浜築港第一期工事
 が始まった。
  待望した接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。
  しかし、基礎に必要な螺旋杭は、当時の日本の精錬所
 からは供給できなかった・・まだ、技術の未熟な日本が
 そこにあった。
  大量の螺旋杭を輸入し、難局を乗り越え、建築された。
  1894年、こうして、現在の大さん橋の前身となる「鉄
 桟橋」が完成した。
  鉄桟橋は、陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は
 457メートル、幅19.2メートルで・・当時の技術では最先
 端を行く近代埠頭だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉:もろもろの事象は
          過ぎ去るものである
          怠ることなく修行を完成なさい。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 11
.
  カクッター川
  水浴びをしている水牛・・
  それを見て・・気持ち良さそうだねー・・
  今は、その様な情景が流れる・・
.
  仏陀は、パーバ村とクシナガラの間に流れる、このカ
 クッター川のほとりにさしかかった時、ついに耐え切れ
 なくなります。
  ここで袈裟を敷いて腰をおろし、アーナンダに水を汲
 んで来るように頼みます。
.
  仏陀は、弟子に対して、こういう風に語る部分があり
 ます。
  非常になんか こう、人間味のあるエピソードなんで
 すけれど・・、
  それは そのー、もしも自分に何かあったならば、そ
 のことで、自分に供養の食事を出した鍛冶屋の子の責任
 が、問われる様なことになりはしないか・・、
  彼は、けっして悪くないんだと、彼がその事で自戒の
 念に悩まされ、自分に悪徳があるのではないのかと、こ
 ういう風に考えない様に、彼によく言って聞かせてくれ
 と・・、
  当時の鍛冶屋と言いますと、芸能人とかその他の職業
 と同じ様に、いわば当時は、カーストの外にあった、大
 変こう、大きな差別を受けていた階層の人たちですね。
  そういう人たちの供応を喜んで受け、そういう人々に
 心を配るという、そういう遊女だ、あるいはアウト・カ
 ーストの人だという人々にも、まったく平等に、自分の
 思いを伝え、接することを、日常の事としていた、仏陀
 の偉大さというものを、今の、近代を超えて来た私達、
 人権なんていう事をですね、改めて学んでいる私達以前
 に、仏陀は、自ら、率先してその事を教えてくれたよう
 な気がして、感動しない訳にはいきません。
.
  仏陀は、アーナンダに、今夜、クシナガラにある2本
 並んだ沙羅の木の間で、自分は死ぬだろうと予言をしま
 した。
  そして、こう続けました。
.
     アーナンダよ、
     鍛冶工の子・チュンダの後悔の念は
     この様に言って、取り除かねばならない
     『 友よ、
     修行完成者は、
     最後の供養の食べ物を食べて
     お亡くなりになったのだから
     お前には利益(りやく)があり
     大いに功徳がある。
     友・チュンダよ、
     この事を尊師から
     目の当たりに聞き、承った 』。
.
  仏陀が、35歳の時、悟りを開いたのは、供養の食事
 がきっ掛けでした。
  自らの死のきっ掛けとなるチュンダの食事も、それに
 劣らないほどの功徳があると、仏陀は言います。
.
     この二つの供養の食べ物は、
     正に等しい実り、
     正に等しい果報があり、
     他の供養の食べ物よりも、
     はるかに優れた、
     大いなる功徳がある。
     その二つとは何であるか?
     修行完成者は、
     供養の食べ物を食べて、
     無常の完全な悟りを達成したのと、
     及び、供養の食べ物を食べて、
     煩悩の残りのない、
     二ルヴァーナの境地に入られたのとである。
.
  クシナガラに達した仏陀は、もはや、動くこともまま
 ならず、頭が北向きになるように、床をしつらえさせ、
 病み、疲れた身体を横たえました。
  大パリニッバーナ経は、仏陀が横になると、沙羅双樹
 に変化が現れたとしています。
.
     さて、
     その時、
     沙羅双樹は、
     時ならぬのに花が咲き、
     満開となった。
     それらの花は、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     ふりそそぎ、
     ちりそそいだ。
     また、
     天のマンダーラワ花は、
     虚空から降って来て、
     修行完成者に供養するために、
     修行完成者の身体に、
     降りかかり、
     降りそそぎ、
     ちりそそいだ。
     天の楽器は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に奏でられた。
     天の合唱は、
     修行完成者に供養するために、
     虚空に起こった。
.
  仏陀、入滅の地、クシナガラ。
  今も尚、仏陀の死を悼み、参拝に訪れる人が絶えませ
 ん。
  町の中心には、仏陀・入滅を祈念する涅槃堂が建てら
 れております。          (つづく)
.
  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃(Nirvana) のこと。
  (参考)利益: (りやく)仏教の言葉。ためになる
     こと。法力によって恩恵を与えること。自らを
     益するのを功徳(くどく)、他を益するのを利
     益という。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 12
  涅槃堂への道を・・歩く・・
  涅槃堂の鐘の音が・・響く・・
.
  敷地内には、沙羅双樹の木が、代々、植えられ涅槃堂
 を見守り続けております。
  (涅槃堂に入っていく、そして、涅槃像の前で座り・・
  祈る・・)
.
  仏陀が入滅されたときの姿を顕す大涅槃像。
  死を間近にした仏陀の周りには、多くの弟子や信者が
 集まったと言います。 
  大涅槃像の台座には、25年もの間、仏陀と共に歩ん
 できた弟子・アーナンダの像が刻まれています。
  今にも訪れるであろう師との別れを悲しみ号泣する・
 アーナンダ。
  仏陀は、アーナンダを呼び寄せ、こう、諭しました。
.
     止めよう、アーナンダよ。
     悲しむな
     嘆くな
     私は、あらかじめ、この様に、説いたではないか。
     すべての愛する者
     好む者からも
     別れ
     離れ
     異なるに至るという事。
     およそ、
     生じ
     存在し
     つくられ
     破壊さるべきものであるのに
     それが破壊しないようにという事が
     どうしてありえようか 」。
.
  仏陀は、死の間際まで、この世に残される者たちを、
 励まし続けました。
.
  涅槃堂から出て行く・・、出口のところで手を合わせ、
 静かにあたまをさげる。
.
  仏陀を辿る旅は、ここが終着点です。
  (大きく鐘の音が・・響く)
.
  理想的な死と言うものがあるのでしょうか・・
  その、問いに・・、
  それは・・、私・個人の事は、旅の途上で消える様に、
 死んで行ければ幸せだと思いますね。
  あのー、子供の頃から、ずーっと、小学校は4回転校
 し、中学校は3回変わり、ほとんど自分の家というもの
 を持たずに、転々と過ごして来ましたから・・、
  ずーっと自分の人生は旅だと考えて来ましたのでね。
  生涯の終わりというものも、何かの形での旅の途中で、
 世を去るというのは、本当に理想的な終わり方ではない
 かと思います。
  その意味で、仏陀の旅は、本当にうらやましい、齢80
 を重ねて、大変な旅だったでしょうけども・・、
  旅の途中で、しかも豪華な都や宮殿の中でなく、美人
 の中でもなく、
  そういう寂しい寒村の林の中で亡くなった、
  そういう仏陀の姿に、本当に共感と言いますか、憧れ
 と、尊敬というか、そういうものを感じます。
  人間の死に方と言うのは、その様なものだろうと感じ
 ます。
.
  仏陀は、自分が死んだ後、いかにあるべきかについて、
 修行僧たちに説きました。
  そして、最後に聞いておくべき事はないかと、三度、
 訊ねます。
  修行僧たちは、己のなすことを充分に理解し、黙って
 いました。
  そこでアーナンダは、この様に言いました。
.
     尊い方よ。
     不思議であります。
     珍しい事であります。
     私は、この修行僧の集いを
     このように喜んで信じています。
     仏陀に関し
     あるいは、法に関し
     あるいは、集いに関し
     あるいは、道に関し
     あるいは、実践に関し
     一人の修行僧にも
     疑う疑惑が起こっていません。
.
  満足した仏陀は、最後の言葉を口にします。
.
     さー、修行僧たちよ。
     お前たちに告げよう
     もろもろの事象は
     過ぎ去るものである
     怠ることなく修行を完成なさい 」
.
  ・・・と。
  こう、言った訳ですね。
  仏陀の生涯・悟った法というもの、まあーダルマと言
 いますか、
  宇宙・自然・人間存在の真理というもの、それを最後
 に一言で、もろもろの総てのものは過ぎ去るものである、
 変化しないものはない。
  こういう風に最後まで、修行僧たちへ告げて、そして、
 怠ることなく、その真理というものを学びなさいと、こ
 ういう風に、あたかも自分達の同胞・友達に向けて語る
 様に、語りつつ・・、
  仏陀は、ここで生涯を終える訳です。
  仏陀を考えて見ますと、仏陀は、求道(ぐどう)の人
 と同時に、
  そして、偉大なる求法(ぐほう)の人、あるいは、伝
 道の人であった。
  死の直前まで、人々に向かって自分の悟った真理とい
 うものを語り続けようとした。
  ここに、仏陀の宗教者としての存在、それから、人間
 としての魂のやわらかさ、そういうものを感じないでは
 いられません。
  体制の保持者である王とも語る、貴族とも語る、財界
 や商人たちとも語り合う、それでいて、差別された人々
 とか偏見を持たれた人々に対して、まったく率直に、そ
 ういう人々の立場に立って、ものを考え、法を説くとい
 う、こういう事を考えますと、仏陀の持っている現代性
 といいますか、こういうものの大きさを改めて感じたこ
 とでした。
  仏陀のイメージが随分変わりました。
.
紀元前483年頃、ブッダ最後の旅 13
  ブッダの入滅
  悟りを開いてから45年の間、苦しみの海に沈む人々
 を導き続けた仏陀。
  病と如何に向き合い、老いをどう受け入れ、そして、
 死にどう臨むのか・・、
  仏陀は、最後の旅で身をもって示しました。
  仏陀の遺体は、クシナガラで荼毘にふされました。
  その遺骨は、仏陀にゆかりの深い8ヶ所に分骨され、
 それぞれストゥーパに納められました。
  大パリニッバーナ経は、この様に締めくくられていま
 す。
.
     その遺功によって、
     この豊かな大地は、
     最上の供養物をもって飾られているのである。
     この様に、
     この眼のある人(=ブッダ)・仏陀の遺骨は、
     よく崇敬され、
     種々に、
     いとも良く崇敬されている。
     最上の人々によって、
     この様に供養されている、
     合掌して、
     彼を礼拝せよ。
     「 げにブッダは 
          百劫(ひゃくごう)にも
                  会うこと難し 」
                       (完)
  (参 考)五百塵点劫: (ごひゃくじんてんごう)
      とは、法華経如来寿量品で、釈迦の成道の久
      遠をたとえた語である。
       正しくは五百億塵点劫である。
       法華経の如来寿量品第16に・・、
        「今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて
       伽耶城を去ること遠からず、道場に座して
       阿耨多羅三藐三菩提を得たりと思えり。
        しかし、われは実に成仏してより已来(
      このかた)、無量無辺百千万億那由他劫なり」
      とあり、
       続けて・・
        「たとえば、五百千万億那由他阿僧祇の
      三千大千世界を、仮に人ありて抹(す)りて
      微塵となし、東方五百千万億那由他阿僧祇の
      国を過ぎて、すなわち、一塵を下し、かくの
      如く、この微塵が尽きんが如き(無くなるま
      で)、東に行くとしたら、この諸々の世界の
      数を知ることを得べしや、不(いな)や」と
      弥勒菩薩に質問している。
       これは、化城喩品第7にも同様の記述がある。
       「たとえば、三千大千世界のあらゆる地種
      を、仮に人ありて磨(す)りて墨となし、東
      方の千の国土を過ぎて、乃ち一点を下さん。
      大きさ微塵の如し」
       この化城喩品のたとえ話を三千塵点劫と称
      される。
       これに対し、寿量品(本門)の「五百千万
      億那由他阿僧祇」を、五百(億)塵点劫と称
      して、化城喩品(迹門)の三千塵点劫よりも
      はるかに長遠であるかが示されるようになっ
      た。
       法華経における釈迦成道は・・、
       「われは実に成仏してより已来(このかた)、
      無量無辺百千万億那由他劫なり」と説いてお
      り、経文の記述に素直に従うならば、この五
      百塵点劫はあくまでもたとえ話として出され
      ただけであって、釈迦が成道した時ではない。
       また、化城喩品の三千塵点劫も、たとえ話
      として持ち出された話に過ぎない。
       しかし、日蓮は、『釈迦御所領御書』など
      で・・、
       「過去五百塵点劫より、このかた、この
      娑婆世界は、釈迦菩薩の御進退の国土なり」
      などと、五百塵点劫の言葉に開近顕遠の意味
      を持たせたことから、釈迦が本当に覚った時
      と解釈されるようになった。
       なお、一般的に、釈迦は、インドで生まれ
      菩提樹下で成道したとされる。
       これを伽耶始成、また、始成正覚というが、
      法華経においては、釈迦は、そのようなイン
      ド応誕の仏ではなく、本当は、遠い過去に成
      道していた、と打ち明ける。
       これを久遠実成をという。
                 (Wikipediaより)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2018年5月10日木曜日

(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)

題:(増補版)593E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年1月1日、イギリスでマンチェスター運河が開通した。
  マンチェスター船舶運河は、鉄道時代になってから建
 設されたが、鉄道に対して十分な競争力を持っていた。
  しかし、時代と共に外洋船が大きくなったため、その
 競争力は失われた。
  しかし、現代でも、その使用は可能の状態にある。
  この頃に、日本の琵琶湖疏水が建設されている。
  琵琶湖疎水の第一疎水は、1890年に完成している。
1894年1月4日、ロシア・フランス政治軍事同盟が締結され、
 正式に成立した(露仏同盟)
  1891年から1894年に、フランスと帝政ロシアの間に結
 ばれた政治協定であり、また、軍事協定であった。
  1894年1月4日のこの日、フランス側の軍事協定承認の
 通告をもって同盟の完成とされた。
  ロシア側は、1893年12月27日に批准していたが、1918
 年まで秘密にされていた。
  ドイツ、オーストリア、イタリアの3国の攻撃に対して、
 ロシアとフランスは、協力して戦おうというもので、そ
 の後、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」へと
 発展した。
  この条約は秘密条約で、初めは、対ドイツの防衛同盟
 の性格を持ったが、イギリスが加わって三国協商となっ
 た。
  この条約は、ロシアの苦しい状況があった。
  1890年に、ドイツ・ロシア間の再保障条約が満期とな
 り、その再延長をドイツが拒否した・・
  そこで、ロシアは、フランスに接近した。
  1891年に、政治協定を結び、
  1892年に、秘密協定の軍事協定を結んだ。
  そして、この1894年に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係が確定した。
  ロシアは、今までの歴史に於いて、一番条約を破る国
 となっている・・
  日本との中立条約も破って、日本領土を奪うようなこ
 とをしている・・、
  そして、その日本領の日本人たちを戦車などで、多数、
 殺戮し・・、
  また、シベリアへ、日本人を不法に、多数、拉致をし、
 多くの日本人をその極寒のシベリアで死に至らしめてい
 る・・亡くなっている・・
  しかし、ロシアは、この事例の様に、自分は、条約が
 無いと心配するというような国・・
  💢💢💢・・約束を守らない国が💢💢何を言うか・・と言
 いたい💢💢💢
  💢💢💢・・一番、歴史を汚してきた国・・💢💢💢
1894年1月4日、日本鉄道の八戸線の尻内駅~八戸駅間が開
 通した。
1894年1月7日、豊州鉄道会社が、伊田駅から奈良駅の線路
 延長の出願をした(1895年10月5日免許状下付)
1894年1月18日、初瀬鉄道の奈良駅~桜井駅間の建設仮免許
 状が下付された。
1894年1月24日、鉄道局歳入歳出出納規程が制定された。
1894年1月26日、天満紡績争議
  大阪天満紡績で、職工達が労務管理に反対して騒動を
 起こした。
  1887年に設立された天満紡績会社は、その翌年・1888
 年に、大阪府西成(にしなり)郡川崎村で開業した。
  1889年10月30日から翌月・11月6日にかけて、おりから
 の米価騰貴のなかで、賃金引上げなどを要求し、300~
 400名が職場を放棄のストライキをした。
  この時、会社側の賃上げの約束と憲兵の説得によって
 問題は収まった。
  そして、また、1894年1月26日、開業早々の第二工場に
 おいて、「賞与が出ないこと」と、「厳しい技師長に対
 する不満」から30名ほどが食堂に立てこもった・・そし
 て、罷業(ひぎょう、仕事を意識的に休むこと、ストラ
 イキ)を呼びかけた。
  別説では、1894年1月27日、夜勤を終えた工員たちが技
 師・工務係ら上司3名の解雇を求めて午前6時ころより食
 堂を占拠し、出勤してきた昼勤の工員たちに同盟罷業(
 ストライキ)を呼びかけ、これに従わない一部の工員に
 対して夜勤の工員が殴打した・・とある。
  そして、13名が勾引(こういん、尋問のため、被告人・
 容疑者を強制的に裁判所・警察署などに連れて行くこと)
 されたが、同日の夜業は3分の1運転にとどまった。
  争議は失敗に終わった。
  4名の男工が2か月の重禁錮を科された。
  多数の職工には、義捐(ぎえん)金を醵出(きょしゅつ)
 されたとされている。
  また、別の史料には、会社側の要請を受けた曾根崎警
 察署の警察官が、工場に入り作業を再開させる一方、会
 社側は、技師たちに解雇相当の理由はないとして工員た
 ちの要求を退けた。
  これに対し、工員たちの中には納得をせず退社する者
 も出た。
  なお、昼勤工員の殴打に関して、工員6名が暴行によっ
 て告発され、5名が有罪判決を受けてそれぞれ重禁錮2か
 月・罰金3円、1名はその後の控訴によって重禁錮1か月・
 罰金2円判決が下された・・とある。
1894年2月1日、富山の薬売り業者らが設立した私立の共立
 富山薬学校が開校した。
  (1894年は、発足との説がある)
  因みに、この年に、日本薬剤師会が発足している。
  そして、この後に、官立旧制薬学専門学校となり、富
 山大学の旧制前身校の一つとなる。
  富山市の補助金と、富山県内所在の複数にわたる製薬
 会社による寄付金で設立された。
  本科(修業年限2年、入学資格 満17歳以上)、速成科
 (修業年限1年、入学資格 満15歳以上)、選科を設置し
 た。
  1895年2月に、開校始業式が行なわれた。
1894年2月1日、関西鉄道、官設鉄道・参宮鉄道と旅客貨物
 の連帯運輸を開始した。
  私設鉄道は、官設鉄道との競争の中にあった。
  日本の鉄道敷設計画は、最初から、しっかりとした考
 えの筋が通っていた・・
  「しっかりとした日本の背骨にする鉄道計画」という
 視点・捉え方をした・・、
  また、日本の先人の偉い所は、外資が入ると日本の植
 民地化への道をひらくと、「外資鉄道計画をきっぱり拒
 否した」。
  しかし、スタートだけは、イギリスの資本と技術に頼
 らざるを得なかった。
  そして、1872年、新橋駅~横浜駅間が開業した。
  当然、目標としては、東京と関西圏を結ぶところに置
 いていた。
  そして、中山道ルートが想定されたが・・なかなか、
 その実現性・見通しは立たなかった。
  新政府の中心人物である岩倉具視は、鉄道建設により
 産業開発を図るという「日本鉄道計画」を作った。
  そして、 1881年、東京駅~高崎駅間と、東京駅~青森
 駅間の免許状下付を受けた。
  東京駅~高崎駅間は、政府が予定する中山道幹線鉄道
 の一部であった。
  また、青森への縦貫線は、東北地方の開発を目指すも
 のだった。
  1883年の上野駅~熊谷駅間の開業に始まり、翌年・
 1884年には、高崎駅まで全通した。
  明治天皇陛下をお迎えした開業式は・・まさに、日本
 の幹線鉄道の完成を祝うものだった。
  私設鉄道の免許状下付は、鉄道建設は官設で進めると
 いう方針を変えるもの・・、
  政府として、財政事情からのやむを得ない措置として、
 半官半民の会社で、鉄道建設を促進することとした。
  半官半民の日本鉄道より2年後には、純粋の民間資本に
 よる鉄道(阪堺鉄道)が登場した。
  短距離鉄道だが、地の利を得て業績は好調だった。
  この成功を見て、各地に鉄道会社が誕生した。
  1888年に、幹線鉄道として山陽鉄道が姫路まで開業し、
  また、難工事の中山道ルートから 東海道ルートへと変
 更がなされ・・順調に工事は進み・・、
  1889年、に全通した。
  そして、ようやく蓄積されて来た民間資本による鉄道
 建設が進んで行く。
  日清戦争時に、広島まで開通していた山陽鉄道が活躍
 し・・、
  1900年度末の鉄道営業キロは、官設鉄道1206kmに対し
 て私設鉄道4674kmと4倍近い差があった。
1894年2月8日、洋風に改装されていた京五条大橋が元に戻
 った。
  五条大橋の歴史・・
  1589年、桃山時代(天正17年)に、秀吉が五条大橋を
   作った、橋脚は石で造営した。
  1645年、江戸時代(正保2年)に、高欄に青銅の擬宝珠
   が左右に16基つけられた。
    五条大橋は、江戸時代に五度架け替えられた。
    鴨川と高瀬川の両方をまたぐ大橋梁で、中央の反
   り返りが高く、「虹のような橋であった」と言われ
   ている。
  1878年、明治時代(明治11年)に、高瀬川の小橋とは
   分けて、長さ48間、幅4間2尺の板橋に架け替えら
   れた。
    この時、擬宝珠がはずされ、洋風のペンキで塗装
   された。
    ここで、当然、景観論争が起きた。
    洋風のペンキで塗装された姿への批判・・
    「槇村知事が、洋風心酔により旧形を変じてペン
    キ塗りの嫌らしきものとなせし」と新聞で批判は
    高まった。
  1894年(明治27年)に、擬宝珠高欄のある現在の形に
   戻された。
    この完成時、渡り初めは、80歳以上の高齢者夫婦
   54組が行った・・元に戻され、京の人々は喜んだ。。
    擬宝珠のある五条の橋は、京都の人のあこがれと
   なっていて、明治27年2月8日、昔の通りなつかしい
   擬宝珠がつけられ、106歳の高橋茂兵衛氏は、立烏帽
   子の大紋をつけ、きれいどころも加わって雄々しく
   渡り初めがなされたという。
   (参考)立烏帽子:たてえぼし、烏帽子の一種。
       烏帽子の中で最も格式が高い 。
1894年2月14日、朝鮮全羅道で農民らが反乱を起こした。
  朝鮮官吏の汚職など政治は腐りに腐っていた。
1894年2月15日、また、朝鮮全羅道古阜で、農民反乱が発生
 する。
1894年2月16日、天満紡績騒動で、職工の指導者4人が重禁
 固刑となった。
1894年2月17日、出納官吏の身元保証金算率を制定(公達第
 83号)
1894年2月20日、信越線の客車、および、緩急車に真空ブレ
 ーキが取付けられ、技術の刷新がなされた。
1894年1月22日、葉山御用邸が完成した。
  1897年、隣接の旧紀州藩主徳川茂承邸を買い上げて葉
 山南御用邸とし・・、
  さらに、1905年には、三宮錫馬邸を編入し、葉山御用
 邸付属邸とした。
1894年2月23日、タカジアスターゼが発明された。
  日本の製薬会社三共の事実上の創業者である高峰譲吉
 は、麹菌からジアスターゼを抽出し、自身の名の「タカ」
 を冠してタカジアスターゼと命名し、世界最初の消化酵
 素薬剤の製造法を米国特許庁に出願した。  
  発売は1897年、
  日本での発売は1899年。
  1854年、高峰譲吉は、越中国高岡(現・富山県高岡市)
   の山町筋と呼ばれる御馬出町(おんまだしまち)の
   漢方医・高峰精一の長男として生まれた。
  1855年(1歳)父の学問所「壮猶館」の勤務のため加賀
   国金沢城下の梅本町(現・石川県金沢市梅本町)へ
   移住。
    幼い頃から、外国語と科学への才能を見せ、加賀
   藩の御典医であった父からも西洋科学への探求を薦
   められた。
    母は、造り酒屋(鶴来屋)津田家(塩屋弥右衛門)
   の娘で、名を幸子(ゆき)と言い、後年の清酒醸造
   の麹の改良にも繋がっている。
  1865年(12歳)加賀藩から選ばれて長崎に留学し、海
   外の科学に触れたのを最初に、
  1868年(14歳)京都の兵学塾、大阪の緒方塾(適塾)
   に入学、
  1869年(16歳)大阪医学校、大阪舎密(せいみ)学校
   に学ぶ。
    工部大学校(後の東京大学工学部)応用化学科を
   首席で卒業。
  1880年(26歳)英国グラスゴー大学への3年間の留学を
   経て、農商務省に入省。
  1884年(30歳)アメリカ、ニューオリンズで開かれた
   万国工業博覧会に事務官として派遣され、そこで出
   会ったキャロライン・ヒッチと婚約する。
    博覧会取材のラフカディオ・ハーン に会う。
  1886年(32歳)帰国後、専売特許局局長代理となり、
   欧米視察中の局長・高橋是清の留守を預かって特許
   制度の整備に尽力する。
  1887年(33歳)結婚。
  1890年(36歳)渡米し、アメリカへ永住することにな
   る。
1894年2月、奥羽線の福島駅~米沢駅間が着工された。
1894年3月1日、第3回臨時衆議院議員の総選挙が行なわれた。
  自由党が120人と議席をのばした。
1894年3月5日、イギリスで第5代ローズベリ伯爵内閣が成
 立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀の言葉・・この世界は美しい、
            そして、
             人生は甘美である。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 7
  病を克服した仏陀は、回復するといつもの様に托鉢に
 出かけました。
  後ろには弟子のアーナンダが従います。
  仏陀の従兄弟でもあるアーナンダは、25年にわたっ
 て、常に行動を共にして来ました。
  この日、托鉢から戻り食事を終えた仏陀が発した言葉
 に、周りの弟子達はおどろかされました。
  それは、何時も身近に居るアーナンダですら、始めて
 耳にする言葉でした。
.
  インドの子供達が、大喜びで水浴びする・・その姿を
 微笑みながら見る・・、
.
  アーナンダとの対話 アンバパーリーとのいきさつ、
 そして、仏陀の老いと病と、そういうものが、いくつも
 つき重なった場所なんですけど、この場所で、ある日、
 仏陀とアーナンダの間に、こういう対話があります。
  「仏陀・最後の旅」の中から、とても印象深い対話で
 す。
.
     さて尊師は、
     早朝に、内衣を付け
     外衣と鉢とをたずさえて
     托鉢の為にベーサーリー市へ行った。
     托鉢の為にベーサーリーを歩んで
     托鉢から戻って食事を済ませた後で
     若き人・アーナンダに告げた。
     アーナンダよ、
     座具を持って行け
     私はチャーパーラ霊樹の元へ行こう
     昼間の休息の為に。
     そこで尊師は、
     チャーパーラー霊樹の元に赴いた
     赴いてから、あらかじめ設けられていた座席に
    座した。
     若き人・アーナンダは、尊師に敬礼して一方に
    座した。
     一方に座した若き人・アーナンダに、尊師はこ
    の様に言われた。
     アーナンダよ、
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
  これは中村元さんが、パーリー語から訳された言葉な
 んですけれども、あのー、色々ありまして、サンスクリ
 ットの方から訳されたこのくだりにはですね、非常に印
 象的な言葉が加えられています。
.
     この世界は美しい
     そして、
     人生は甘美である
.
  まあ、こんな風に、サンスクリット語の本の方には書
 かれている訳なんですけれども、そこまで本当に、仏陀
 が、言われたかは分かりません。
  この物語を編んだ人が、霊樹の地は楽しいという言葉
 を、さらに、普遍して、その様に自分の思いを付け加え
 たかもしれません。
  この辺は分かりませんですけれども、人々が、仏陀に
 そういう風な言葉を言って欲しいなーという風に、心か
 ら思っていたことが伺えるのですね。
  仏陀の信仰と言いますか、法の教えの第一歩は、人生
 というものは、苦であるという、いわば、ネガティブ・
 シンキングと言いますか、どん底から出発する訳です。
  この世というものは苦しいものである、そして、生老
 病死、様々な苦しみに満ちている。
  この苦しみの中から人はどのように苦しみに耐えて生
 きていくか。
  仏陀は、その事を終生、ずーッと追求し続けた人なん
 ですが、
  それでも苦から出発したこの世界、この認識がですね、
 仏陀の最後の旅の「 末期の眼 」の中で、
  『 この世界は美しい、人生は甘美である 』、
  例え、苦の世界であったとしても、こんな風に、最後
 に、仏陀に呟いて欲しいと思った人々が、どれほど居た
 ことなんでしょうね。
  人間というものは、『 決定的な絶望の中に生き続け
 ることは、本当は難しいこと 』です。
  そして、私達・弱い人間というのは、どうしてもその
 様に、物語の中で自分達の思いを、仏陀に託して、そし
 て、こういう事を言って欲しかったという事を付け加え
 て、伝承というものが生まれてきます。
  ですから、それは、仏陀が、言った言わないとは別に、
 人々が、その様に、苦から出発して、あるいは楽の世界、
 醜の世界から美の世界、辛い世界から甘美な世界へ行き
 たいという願いを抱き続けて、2500年も生き続けて
 来たという事を表している訳ですから、それはそれで真
 実であろうという風に思う所があります。
.
  若き人・アーナンダに、尊師は、この様に言われた。
.
     アーナンダよ
     ベーサーリーは楽しい
     ウデーナ霊樹の地は楽しい
     ゴータマカ霊樹の地は楽しい
     七つのマンゴの霊樹の地は楽しい
     タフブッダ霊樹の地は楽しい
     サーランダ霊樹の地は楽しい
     チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
.
  雨季が明け、再び、旅に出る日がやってきました。
  ヴァイシャリーの人々は、何時までも、別れを惜しん
 だと言います。
  町の郊外にあるレリック・ストゥーパは、ヴァイシャ
 リー王によって建立されたと伝えられております。
  小さな半円形のストゥーパからは、仏陀の遺骨の一部
 を納めたシャリ容器が、半世紀前に発掘されました。
.
  インド人のプッドゥ・バランさんは、このあたりで布
 教活動しているお坊さんです。
  バランさんは、ここで、毎日、お経を上げています。
  バランさんの言葉: 
   今から2500年も前の話になりますが、お釈迦様
  は、好んでこの地で法を説いていました。
   ある日、ヴァイシャリーの人々に、この様に語った
  と伝えられています。
.
     私は、この地にずっと留まることは出来ません。
     西にあるクシナガラという町へ向かいます。
     名残惜しいけれど、どうか、私を行かせて下さ
    い。
     この物語に基づいた歌を唄いたいと思います。
.
  インドのお坊さんの経: 
     ヴァイシャリーの人々は
     お釈迦様が歩き出すと
     泣き出しました。
     お釈迦様は、クシナガラの
     サーラの方へ出発しました。
     村の人々が、皆、泣き出しました。
                     (つづく)
  (補 注): アンバパーリーは、徹夜でご馳走を用
      意し、翌日、釈迦の一行が訪れた時は自ら給
      仕してもてなしました。
       食事が終わった時、彼女は、釈迦が留まっ
      た果樹園を教団に寄贈することを申し出て釈
      迦はこれも受けています。
       最後の場面はこんなふうに伝えられていま
      す。
.
     尊師は法に関する講話をもってかの女を教え、
     諭し、
     励まし、
     喜ばせ、
     座から起って、
     去っていった 。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 8     
  インドのお坊さんの経: 
     お釈迦様が、
     ヴァイシャリーにいるときは
     いろんな処に
     仏教が広まっていきました。
     お釈迦様は、
     何事も正直に話すようにと
     繰り返し語っていきました。
     お釈迦様は、
     ヴァイシャリーの人々を
     誰よりも愛してくれました。
     お釈迦様が、
     クシナガラのサーラの森に行くときは
     老若男女、みんなが泣きました。
.
  お経を唱えながら、裸足で水に濡れた田の畦道を行く
 仏教僧の映像。
  畦の道に僧の経が流れて行く。
  ・・・。
  そして、悪路を車で進んで行く・・
  大きく左右にゆれる車。
  警笛を鳴らしながら、乗客を満載したバスと行き違う。
.
  イヤー、もう、照り返しがすごいですね。
  イヤー、もうこれは、死にそうだ。
  ナマステー。
  お茶を一杯下さい。
  (お茶の葉を沸騰している鍋に直接入れ、煮て、)
  なんか戦後を思い出すね。
.
  仏陀の足跡を辿り、連日、悪路を進む・・、
  旅は、まだ、半ばを過ぎたところです。
.
  ありがとう。
  あちちっ、・・・旨いですね。
  もう、極楽という感じだな。
  (多くのハエが・・ それを手で払う店の人、周りを
  飛ぶ)
.
  今までの旅の風情は?
  イヤー、なんか修行という感じですね。
  前にインドに来た時は楽な旅をしたもんですからね。
  本当は苦行修行の旅なんですね。
  こういう農村を見ないと、インドは分からないという
 のは、本当ですね。
  仏跡は地方の農村地帯に残っている。
  仏蹟探訪の旅 ロマンティックな感じはしますけれど、
 本当は苦行修行の旅なんですね。
  だから観光の積もりできたのでは、もうもたないでし
 ょう。
  お遍路の様な覚悟で、やはりやらなければならない旅
 ですね、苦行の・・・・。
  ナマステ。サンキュー。
  イヤー、またこれはひどい日差しだな。
.
  ヴァイシャリーを出た仏陀は、更に北に向かって
 歩き続けます。
  ヴァイシャリーから北西に、およそ50キロ、当時の
 ヴァッジ国の国境にあたる場所に発掘中の巨大な遺跡が
 あります。
  (ケッサリア・ストゥーパ)
  イヤー、これはすごい。あー。
.
  このストゥーパは、紀元200年~紀元700年の間
 に建てられたものと考えられています。
  本格的な調査が始まったのは、1998年。
  現在発掘されている部分だけでも、直径123メート
 ル、高さ31メートルにおよぶ、レンガ造りの巨大なス
 トゥーパです。
  さらに、この下にどれ程の遺跡が埋もれているかは、
 まだ、明らかになっていません。
 (遺跡を登り、進む・・)
  あー、ここに仏陀像があるんだね、あー、
  (頭を下げ、手を合わせる)
.
  大パリニッバーナ経によると、旅の途中、仏陀の前に
 悪魔が現れました。
  悪魔は、今こそ、尊師のお亡くなりになる時ですと告
 げます。
  まだ、その様な時期ではないと退けます。
  (カラスが、ぎゃーぎゃーと鳴いている)
  カラスがすごい。
  しかし、その一方で仏陀は、死に向かう準備を始めま
 す。
  (巨大ストゥーパの周りをくるくる歩く・・、
   何匹ものカラスが木にとまり、ぎゃーぎゃーと鳴く)
  ストゥーパだから、中に入る事はないんだね。
  (ストゥーパの上も、何匹ものカラスが飛び回る)
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 9
  ある時、アーナンダに向かって、仏陀は衝撃的な言葉
 を述べます。
  それは、「自分は、もう、3ヶ月後には、この世に居
 ないだろう」という、そういう予言です。
  アーナンダは、さぞかし、もう、驚愕し絶望したに違
 いありません。
  しかし、余命は、もういくばくもない、自分は3ヵ月
 後に、この世を去る。
  自分の言っていることは、決して間違いない。
  こういう風に、仏陀は、断定します。
  おそらく、仏陀の80年の生涯の中で、自分の人生の
 終わりというものを、すっきりと予感した。
  そういう瞬間だっただろうと思いますね。
  ・・・で、仏陀は、アーナンダに、「自分はこの世を
 去る・・
  去る前に、自分が、色々、言っておきたいことがある。
  だから、「修行僧達を沢山集めなさい」 こういう風に、
 アーナンダに命じます。
  そして、アーナンダが、集めた大勢の修行僧を前に、
 仏陀は、この様に言われたという風に、経典には書かれ
 ています。
.
     そこで尊師は、
     修行僧達に告げられた
     さあー、修行僧達よ
     私は、いま、お前達に告げよう
     諸々の事象は過ぎ去るものである。
     怠ることなく修行を完成なさい。
     久しからずして
     修行完成者は亡くなることだろう
     これから3ヶ月過ぎた後に
     修行完成者は亡くなるだろう・・と、
.
     尊師・幸いな人、
     師はこの様に説かれた。
     この様に説いたあとで
     さらに、
     次のように言われた
     我が齢は熟した。
     我が余命はいくばくもない。
     汝らを捨てて、私は行くであろう。
     私は自己に帰依することを成し遂げた。
     汝ら修行僧たちは、
     怠ることなく よく気をつけて
     よく戒めをたもて。
     その思いをよく定め統一して
     おのが心をしっかりと守れかし
     この教説と戒律とに務め励む人は
     生まれを繰り返す輪廻を捨てて
     苦しみも終滅するであろう・・と、
,
  物事は、移り変わるものだという様な事を、いくら口
 で言っても、どんなものでも流転するという様なことを、
 自分の身をもって、みんなに語ろうとしているんではな
 いでしょうか。
  例えば、仏陀という人が、尊敬され、そして、その教
 えが、広がれば広がるほど、その人を、偶像化して、永
 遠に戴いて崇拝していこうという気分というのは、強ま
 ってきます。
  どっかで自分は、もう、如何に仏陀といえども、自分
 も涅槃に入るんだという事を言って、それで、その時、
 突然、自分が居なくなって、周りが大混乱するよりも、
 あと3ヶ月というこの日々を、周りの修行僧やアーナン
 ダ達が、しっかり心に刻んで、あと1日、あと1日とい
 う風に、大事にして生きるようにという、生きるもの・
 残されたものへの配慮だという風に、思いますけどね。
  ・・・・・。
  あのー、僕自身はね、余命ということを考えないんで
 す。
  むしろ、天命という考え方、で、自分が何時まで生き
 るとか、
  何時、死ぬとか、そういうことはね、ほとんど考えた
 ことは無いんです。
  あのー、出来れば長く元気で生きられれば良いと思い
 ます
  けれども、人間の天寿というものは、あらかじめ決ま
 っているんじゃないかなーという事を考える事がありま
 してね。
  その天寿を全うしたい、ですから、世の中というのは、
 すごく不合理なもので、30歳の天寿の人も居れば、10
 代で亡くなる人も居る、90歳、100歳まで生きる人
 も居る。
  ですから、僕は自分の人生と言うのは、ある時期から、
 「いつでも」と言うのは、おかしいのですけれども、
 「もういいよ」という、声なき声が、聞こえてきた時が、
 自分の寿命の尽きる時だと思っていますし、寿命が尽き
 ると言うことがですね、何か終わるとか、無くなるとか、
 そういう風に考えていないのですね。
  ですから、何か新しい出発と感じもしますし、とりあ
 えず、与えられた、今日一日、明日の一日、仏陀の言葉
 の様にですね、
  元気を出して、苦しみに耐えてという風に思ってます
 ね。
  ですから、寝る時は、もう、明日は目が覚めないかも
 しれないという風に思いますし、起きた時に、「あー、
 今日一日あったな」と思いますし、あまり、そういう風
 に先の事を考えたことが無いですね。
.
  自らの死を予言した仏陀。
  別れを惜しむ人々が、数多く後を追ってきました、し
 かし、仏陀は、彼らに戻るように説き、形見として自分
 の托鉢の鉢を渡しました。
.
  インドの仏教歌: 
     金のお皿でご飯を
     食べて貰いましょう
     仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
     差し上げましょう
     金の台の上に
     席を用意しましょう
     仏陀にお願いして
     座って貰いましょう
     ここで仏陀に
     静かに休んで貰いましょう
     私は、みんなに仏陀が
     来ていることを知らせます
.
  長い汽笛を鳴らして走り、そして去っていく列車
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 10
  霊鷲山を出てから、半年になろうとしていました。
  仏陀は、熱心な信者が居るパーバ村へ向かっていまし
 た。
  ナマステー。
  当時、この一帯にはマンゴー園が広がっていました。
  持ち主は、パーバ村の鍛冶屋の子・チュンダ。
  以前、仏陀が、パーバ村を訪れた時に帰依した敬虔な
 信者です。
  チュンダは、仏陀を歓迎するために、貧しいながらも
 できるだけの準備をととのえ、首を長くして待っていま
 した。
  燃料に使う、牛糞ですか?
  あれなんか、積み重ねているところなんかも、何千年
 も同じ様に、燃料に使っているわけなんですね。
  牛糞に、藁を混ぜて・・・。
  あっ、そのままでなくてね。
  あ、そうか、そのままでは燃えないのだ。やっぱり。
  あーそれじゃー、一応加工している訳なんだね。
  えー、だけど、昔の村らしい村ですねー。
  ナマステー。
  (加治屋さんのところに来て)
  あー、ふいごですね、昔のねー。
  あのー、なんか、鍛冶屋さんと言うにはあまりに素朴
 なー。
  でも、こんな風にして、農機具とか色々を作るのでし
 ょうねー。
  (あるインドの方へ)ナマステジー。
  あのー、仏陀が最後の旅の中で、この村で病気をした
 と、聞いたのですが?
  この村で言い伝えられてきた話によると、仏陀は、仙
 人に姿を変えて南から 来たそうです。
  日が暮れ始めていたので、仏陀は、この村に泊まるこ
 とにしました。
  村の誰かが、夕飯を用意したそうです。
  いろんな言い伝えがありますが、豚肉料理を出した
 という説と、ククルムタと呼ばれるキノコ料理を出した
 という話があります。
  (手を合わせて)ナマステジー。(お礼を言って立ち
 去る)
  (鍛冶屋さん、鞴・フイゴを手でこいで風を送っている)
.
  仏陀は、チュンダが用意してくれた食事を、快く受け
 入れました。
  しかし、口に入れて直ぐ、それが、食べてはいけない
 ものだと分かりました。
  ここで、仏陀は、チュンダにこう告げます。
  チュンダよ、
  残ったキノコ料理は、それを穴に埋めなさい。
  神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、
  また、神々・人間を含む生き物の間でも、
  世の中で修行完成者(=仏陀)のほかでは、
  それを食して完全に消化し得る人は見出せません
 ・・・と。
  「かしこまりました」と鍛冶工の子・チュンダは、尊
 師に答えて、残ったキノコ料理を穴に埋めて、尊師に近
 づいた・・・。
  近づいて尊師に敬礼し、一方に座した。
  チュンダが、一方に座した時に、尊師は、彼を教え・
 諭し・励まし・喜ばせて、出て行かれた。
.
  その時、仏陀は、激しい腹痛に見舞われていました。
  仏典には、こう記されています。
.
     さて、尊師が、
     鍛冶工・チュンダの料理を食べられた時
     激しい病が起こり
     赤い血がほとばしり出る
     死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
     尊師は、
     実に、正しく思い
     良く気を落ち着けて
     悩まされる事無く
     その苦痛を堪え忍んでいた。
     さて、尊師は、
     若き人・アーナンダに告げられた
     『さー、アーナンダよ、
     我々は、クシナーラーに赴こう』・・・と。
.
  80歳の老いた身に、血が出るほどの激しい下痢。
  立っていることさえままならない身体を、引きずるよ
 うにして、仏陀は、自ら終焉の地と思い定めた、クシナ
 ガラを目指しました。
  パーバ村からクシナガラまでは、およそ20キロの道
 のりです。 
                     (つづく)
  (参 考):クシナーラー = クシナガラ
  (解 説):チュンダは、釈尊への尊崇の念で食事の
      供養をしようとして珍味のキノコ料理をさし
      上げたが、結果、釈尊の死を早めるに至った。
       釈尊は、チュンダが後悔して嘆くであろう
      し、また、まわりの者たちがチュンダを責め
      るようになるであろうと、チュンダに同悲さ
      れ、「私の生涯で二つのすぐれた供養があっ
      た。
       その供養は、ひとしく大いなる果報があり、
      大いなるすぐれた功徳がある。
       一つは、スジャータの供養の食物で、それ
      によって私は無上の悟りを達成した。
       そして、この度のチュンダの供養である。
       この供養は、煩悩の全くない涅槃の境地に
      入る縁となった。
       チュンダは善き行いを積んだ」と仰せにな
      った。
       最初のスジャータの供養とは、釈尊がさと
      りを開かれる前、
       極限にいたるほどの苦行をされていたが、
      極端な苦行は悟りへの益なきことを知り、そ
      れまでの苦行を捨て、村娘のスジャータから
      乳粥の供養を受けられた。
       それによって体力を回復し、菩提樹の下に
      座り、「悟りを開くまではこの座を決しては
      なれない」という決意でもって坐禅瞑想に入
      られた。
       そして、この上ない悟りを開かれたと伝え
      られている。
       スジャータの供養は、悟りに至る尊い縁に
      なったのである。
       そして、このスジャータの供養の功徳とひ
      としく、このたびのチュンダの供養は、大い
      なる涅槃に至る尊い縁となると、釈尊は、チ
      ュンダの食物の供養を讃えておられる。
       チュンダがさし上げた特別のキノコはどう
      やら食用に適さなかったようある。
       しかし、チュンダは自分のせいで釈尊を死
      に至らしめたという後悔をするだろうし、ま
      た、周りの僧俗がチュンダを責めるであろう
      と釈尊は思われ、チュンダの嘆きに寄り添っ
      て、「チュンダは大いなるすぐれた功徳を積
      んだ。
       チュンダの供養で、私は煩悩の残りなき大
      いなる涅槃に入ることになった。
       「チュンダは善いことをした」と、チュン
      ダの供養をほめ、起こるであろうチュンダの
      嘆きと周りからの責めをあらかじめ取り除か
      れたのである。
       ここに釈尊の慈悲の深さ、同悲のお姿が伺
      われる。
       仏教で言われる慈悲の行いとは、具体的に
      どういうものなのかがよく示されている。
       しかも、釈尊のチュンダへの言葉は、無理
      にチュンダを慰めているというものではなく、
      ご自分の死を「大いなる涅槃に入る縁」と見
      られてのものである。
       ご自分の死んでいくことに対して、不幸と
      もいわず、嘆きもせず、静かに受け止められ
      るばかりではなく、煩悩が全く消滅する大涅
      槃に入る尊い縁として見ておられるのである。
       そういう背景があってチュンダの供養を讃
      えておられるのであって無理にチュンダを慰
      めているのではなかろう。
       このことによって教えられることは、自分
      にふりかかるどのような〈災厄〉をも、転悪
      成善(悪を転じて善と成す)で、善き縁であ
      ると受け止める智慧があって、初めて他者へ
      の憎悪や責める心から解放されるのであろう。
       もし、自分は内心で嘆いているけど、人を
      悲しませてはいけないという愛情であれば、
      それはそれで尊いとしてもなお暗いものがあ
      る。
       このように釈尊は、ご自分の死を大涅槃の
      悟りに至る機縁と見られたが、この釈尊の死
      の意味は、浄土の教えを信じる者における死
      の意味と重なるものであろう。
       自らの死を大涅槃界である浄土に生まれる
      縁といただいている念仏の信心と、釈尊にお
      ける死への智見とは、内面的に連なるものが
      ある。
       真実の信心は、死をも浄土へ生まれる縁で
      あるとの智見を生むのである。
              (寺報「草菴仏教」より)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2018年5月7日月曜日

(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)

題:(増補版)592E2/3:2/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1894年1月~1894年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1894年、出来事:
・金玉均が暗殺された。
  1894年3月28日、金玉均が暗殺された(43歳)
  金玉均(きんぎょくきん、1851年2月23日~1894年3月
 28日)は、李氏朝鮮における後期の政治家で、朝鮮独立
 党の指導者だった。
  1882年(31歳)2月から日本に学び、福沢諭吉の支援を
 受け、慶応義塾に学んだ。
  金玉均は、日本の明治維新を模範として、中国・清朝
 からの独立を果たしたいと、その実現を目指し、また、
 朝鮮の近代化も成し遂げたいとした。
  その実現が、清仏戦争が起きた時を好機と見て、1884
 年12月4日、政権打倒クーデター(甲申事変)を朝鮮で起
 こした。
  清仏戦争で清の介入は無いと見たが、清の介入で、事
 件は失敗に終わった。
  その実行は、3日間の政権で終わった。
  日本へ亡命し・・その後・・、
  李鴻章と会うために上海に渡ったが、この地で暗殺さ
 れた。
  福沢諭吉は、金玉均の法要を営んだ。
・東学党の反乱
  1894年3月29日、朝鮮で東学党の反乱が起きた・・そし
 て、広がって行った。
  抑圧され、圧迫されて来た朝鮮農民の方々のこの反乱
 は、甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)とも言わ
 れる・・
  朝鮮王朝(李朝)の重税政策に苦しみ、また、両班(
 りゃんばん、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を
 担った支配階級の身分の者のこと)たちの賄賂横行と不
 正横行などで、民衆の生活は苦しい状況で、その朝鮮政
 府の暴政に対して、農民戦争が起きた。
  そして、東学という宗教的訴えが、狡猾な李朝朝鮮の
 地方官に利用され、逆に、農民が収奪される口実ともさ
 れた。
  農民たちの訴えは、その汚吏(おり、汚職や不正な事
 をする役人)に向けられ、政治的要求へと変わった。
  そして、行動は反乱となり、1894年2月、全羅道古阜郡
 の民乱を契機にして始まり、一応の成果を得て解散はし
 た・・が・・
  その後、政府派遣の官吏の不法弾圧に激怒した全琫準
 (ぜんほうじゅん、東学党の乱の指導者)は、全羅各地
 に呼びかけて、1894年5月、古阜、泰仁で本格的な闘争に
 立ち上がった。
  全羅各地で蜂起した農民軍は、白山に集結、大多数が
 農民で、東学徒は少なく、指導者は東学メンバーだった。
  全琫準らの指導者は、農民軍を軍隊式に編成し、また、
 四大綱領を発表し、広範な農民層の支持を得た。
  農民軍は、黄土峴、長城で政府軍を撃破し、全州を占
 領した。
  政権は、これに驚き、清国に出兵を要請する、その一
 方、農民軍の改革案を受け入れた。
  全州での和約後、農民軍の大半は解散したが、全羅道
 53郡に農民軍の自治機関である執綱所が設置され、実質
 上の政権機関として機能した。
  朝鮮政府の暴政に対し、次のような詩が朝鮮国内に広
 く伝わった。
  金の樽に入った美酒は、千人の血からできており
  玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている
  ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り
  歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高
 くとどろく
・伊藤内閣第六議会解散(氷川清話)
  第六特別議会は、1894年5月15日開会~6月2日解散で短
 い議会だった。
  景気は良くなったが、対外硬で激しく、対立した。
  (参考)対外硬:たいがいこう、
      日清戦争直前、反政府派が、国際協調政策を
     とる政府の外交を攻撃するために唱えた標語で、
      この時は、ロシアの東アジア進出により緊迫
     した国際情勢にあった。
      これに対し、新聞「日本」をはじめとする民
     友社の「国民新聞」に至るまで、反政府側の日
     本主義派・・そして・・自由党、改進党などの
     民党連合は、政府外交を批判した・・、
      また、政費節減・民力休養路線を主張した。
      不平等条約によって侵されている国家主権の
     回復と、積極的な対外進出を主張した。
      また、対等条約を実現するためには、現行条
     約を励行して外国人を取り締まり、彼らに不利
     益を与え、対等条約の交渉に列強が応じない場
     合は条約破棄もというものだった。
  (参考)現行条約励行運動:
      対外強硬六派いわゆる「硬六派」によって唱
     えられた反政府の言論運動で・・幕末期に江戸
     幕府が諸外国とむすんだ不平等条約について、
     条約正文に明白に規定されていない事項に関し
     てはいっさい外国人の権利を認めず、日本国内
     における外国人の活動や生活を制約することを
     通じて条約改正を行ない、平等条約の実現を図
     ろうというもの。
・日英通商航海条約が締結された。
  1894年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が締結さ
 れた。
  陸奥宗光外相(1844年~1897年)の治外法権の廃止交
 渉が功を奏した。
  陸奥宗光は、不平等条約「治外法権」の撤廃に粘り強
 く交渉を重ねた。
  日本は、この不平等条約に苦しんでいた。
  その一事例が、和歌山県沖のノルマントン号事件。
  イギリスの罪を問うことが出来なかった。
  この不平等な治外法権の権利のため、この事件の裁判
 を担当したのはイギリス人判事だった・・
  そして、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」とな
 ってしまった。
  この様な不平等条約の改正を、1894年、ついに、イギ
 リスとのあいだで治外法権の撤廃に成功した。
  陸奥の目論見どおり、大国のイギリスが改正に応じた
 ため、他の国々もあとに続き、15か国から治外法権の撤
 廃を日本は勝ち取った。
・日清戦争
  1894年8月1日、この日、日清両国が宣戦布告した。
  欧米列強、そして、ロシアなどの各国の奪い取りの世
 界が演じられて来たアジアの世界・・、
  ただただ、無節操なその奪い取りの世界・・日本の周
 囲の国々、また、東シナ海・南シナ海などの大部分、ま
 た、日本の北や南に広がる主要な国々が、そのことごと
 くが列強の手に落ちるのを日本は見て、鳥肌の立つほど
 の恐怖感を感じないではいられなかった。
  また、日本には、列強諸国との不平等条約がまだあり、
 それに縛られるという「半植民地の様な国家の状態」だ
 った。
  その様に領土を漁(あさ)る列強に取り巻かれている
 日本の姿だった。
  どの列強各国も、この日清戦争では、日本が敗北する
 だろうと予測していた・・
  それだけ、清の力は強く、また、日本は弱小であった。
  先年の長崎での事件などでは、まったく清に馬鹿にさ
 れている日本だった。
  また、日本は、最強の清国艦隊を見せつけられていた。
  列強諸国は、「アジアの中心は中国」と見ていた。
  しかし、結果は、日本の勝利だった。
  列強諸国は喝采した。
  また、列強は、日本での特権を相次いで放棄した。
  これを逆から見れば、この列強諸国は、日本が負けれ
 ば、日本を蔑(さげす)み、また、不平等条約は、その
 ままにして、日本からうまい汁を吸い続けるという様相
 だった。
  これで、日本が解放されると共に、朝鮮もまた中国か
 ら初めて解放され・・独立国となれた。
  また、中国文明より低い国と侮(あなど)られた列強
 諸国の蔑視の視点も変える事が出来た。
・天皇行幸(氷川清話)
  1894年9月15日に、明治天皇陛下が呉行幸のため、広島
 の宇品港へ御出発された。
  これは、日清戦争時に、広島城に大本営が置かれ、明
 治天皇陛下はその行幸をなされた。
  「広島御発輦呉港幸行之図」小国政・画がある。
  (参考)御発輦:ごはつれん、天皇陛下の御車が出発
     すること。
・広島において第七議会(氷川清話)
  第7回帝国議会(だいななかい ていこくぎかい)は、
 1894年10月18日に開会された大日本帝国の帝国議会(臨
 時会)で、開催地は広島市の広島臨時仮議事堂だった。
  日本の憲政史上で、唯一、東京以外の場所で開かれた
 国会だった。
.
1894年、産業:
・紡績工場の数:45
・花王石鹸
  神楽坂に花王石鹸の工場が開設され、ねり歯磨きが製
 造開始された。
・服部時計店
  東京・銀座尾張町角に服部時計店が店を構え、時計塔
 を設置した。
  また、服部時計店懐中時計の製作に成功した。
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことで斬
 新な品揃えだとして、評判が立った。
  当初は、輸入に頼っていて、仕入れた時計は飛ぶよう
 に売れた。
  国産時計は、1892年、服部金太郎が作った精工舎で始
 められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  記録には以下の様に記される・・
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘した」
  「明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町
 に仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させた。
  そして、清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
・オーヴィル・ヘンリー・ギブソンが大手ギターメーカー
 のギブソン・ギター・コーポレーションを創業した。
.
1894年、交通:
・甲武鉄道市街線新宿〜牛込間開通、牛込・四ツ谷・信濃
 町の各駅開業。
・カール・ベンツの「ビクトリア」が1000キロの長距離ド
 ライブに成功した。
.
1894年、論・文学・本:
・樋口一葉「大つごもり」
  1894年12月、「文学界」第24号に発表された。
  大みそかを背景に、女中奉公をしている薄幸の娘お峰
 のその女中生活を通じて明治の女性の哀感を描いた。
  一葉の貧乏生活の体験から生まれた作品。
  この年は、一葉が、下谷龍泉寺町(東京都台東区竜泉)
 から本郷区丸山福山町(文京区西片)へ転居し、荒物雑
 貨・駄菓子店を営みつつ執筆に専念している時期の作品。
  [ 筋 ]・・18歳のお峰が、山村家の奉公人となってし
      ばらくした後、お暇がもらえたため、初音町
      にある伯父の家へ帰宅する。
       そこで病気の伯父から、高利貸しから借り
      た10円の期限が迫っているのでおどり(期間
      延長のための金銭)を払うことを頼まれ、山
      村家から借りる約束をする・・が・・
・高山樗牛「滝口入道」連載(讀賣新聞)
  1894年4月~1894年5月まで『読売新聞』に連載された。
  平家の滅亡を背景に、斎藤時頼と横笛との悲恋を描く。
  『平家物語』に材を得て、擬古文によって書かれたこ
 の悲恋物語は、『読売新聞』懸賞歴史小説首席(二等)
 の入選作で、大学生某の匿名で発表されて話題となった。
.
1894年、歌・流行・世相:
・この頃から自転車が流行する。
  この前年・1893年、我が国で最初の自転車倶楽部であ
 る日本輪友会が設立された。
  1890年頃から自転車の修理、及び、試作車を手掛けて
 いた宮田栄助が、1893年、本格的に自転車の製造販売を
 開始した。
  1893年、森村兄弟が、東海道をサイクリングする。
  1893年、ダーズリー・ペダーセンは、独創性のある三
 角フレームの自転車を製作した。
  イギリス軍はこれをボーア戦争で使用する。
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1894年、医・衛生:
・北里柴三郎が香港へ行ってペスト菌を発見した。
  明治政府の命により香港に渡っていた北里柴三郎は、
 思わず声をあげた。
  「これだ、ついに発見したぞ、ペストだ」。
  それは1894年6月14日のことだった。
  長年に亘(わた)って人類を苦しめて来たペスト・・、
  多くの人々の命を奪って来たペストの正体を暴いた瞬
 間だった。
  説としては・・古代エジプトやローマの時代からすで
 にあったと言われているこの疫病は、感染力や致死率が
 非常に高かった・・、
  しかし、その原因がつかめず、また、姿が見えないた
 めに大いに恐れられていた。
  そのペストが、この年・1894年に、中国南部で再び発
 生し、香港でも猛威をふるい始めた。
  そこへ原因を突き止めるために北里らは向かった。
  当時、香港でペストがもっとも多く発生していた地区
 では、患者のいない家庭はないほどだった。
  香港政庁は、該当する約12,000坪(約40,000平方メー
 トル)を封鎖し、区域内の患者と住人を強制退去させた
 のち、家屋を取り壊し、家具を焼きはらった。
  それしか対処の方法が見出せない恐怖の伝染病だった。
  その様な一刻の猶予もならない壊滅的な状況のなかで、
 北里ら一行は、到着するや病死した患者の解剖に急いで
 着手する。
  ところが、いざ北里が顕微鏡で解剖標本をのぞくと、
 すでに腐敗が始まっており、雑多な菌が無数に増殖して
 いる。
  これでは埒(らち)があかない。
  しかし、北里には、経験に基づくある試みたい方法が
 あった。
  それは「症状や臓器の変化を既知の伝染病と比較する
 こと」だった。
  もし、共通点があれば病原菌の性質も似ている可能性
 が高い。
  改めて取り出した臓器を調べてみる。
  「なるほど炭疽(そ)症に近いぞ。
  あれは血液中に菌が入り敗血症を起こす。
  ペストの病原菌も同じではないか?」
  北里は、ペスト患者の血液を手に入れた。
  すると顕微鏡の視野に、特徴的な細菌が認められた!
  このときを境に、ペストという見えざる脅威は、目に
 見える病原菌へと姿を変えた。
  こうなれば、ペストを防ぐには、その菌を調べていけ
 ばよかった。
  そして、加熱や消毒液への耐性といった性質や、推定
 される感染経路などが次々と明らかになって行った。
  家屋等の消毒や菌を運ぶクマネズミの駆除をはじめ、
 公衆衛生の対策がなされると、香港は、落ち着きを取り
 戻していった。
  その香港での発見から五年後、ついにペストが神戸に
 侵入し、大阪、さらに関東にまで感染が広がった。
  北里自身が制定に関わった伝染病予防法の下、さらな
 る感染拡大を防ぐため、自ら指揮をとり奔走した。
  そして、ペスト伝播につながるネズミの駆除を徹底さ
 せ、終息に導けたた。
  1926年以降は、国内で、一度もペストの発生を見ない。
  疫病は静まった。
  一方このあと「発見者論争」が巻き起こる。
  (テルモ株式会社のホームページを参考にした)
.
1894年、その他:
・葉山御用邸が完成した。
・鹿鳴館が華族会館として払い下げられた(1889年説あり)  
  落成は1883年。
・陸軍板橋火薬製造所で綿火薬が製造開始された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てなく、法を説かれました。
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紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 2
  齢80の仏陀は、ただひたすら歩み続けられる・・、
  出発点・霊鷲山から旅の終わりとなったクシナガラま
 での道のりは、およそ400キロ・・、
  この道を、80歳の仏陀は、ひたすら歩き続けられま
 した。
  仏陀が最後に歩んだこの道を辿ってみますと・・、
  霊鷲山から北西に16キロ。
  仏陀は、ナーランダ村に立ち寄られています。
  行く先々で、仏陀の元には多くの人々が、集まってき
 ました。
  王侯貴族からカーストの差別を受けている人たちまで、
 さまざまな階層の人々です。
  仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てな
 く、法を説いたと言われています。
  仏陀・最後の旅は、いつもと変わらぬ、布教の旅とし
 て始まりました・・、
.
  ブッダの歩かれた道、あーなんだか、もう本当に夢の
 様な幻想的な風景です・・、
  木があって、なだらかな丘があって、その向こうに、
 また、木陰に白い塔がある・・、
  村の人たちが、三々五々、ここに座ったり 腰掛けた
 り、子供達が走り回ったりしていますが・・、
  自然の中に、こんな場所があるなんて、何と贅沢なこ
 となんだろうと感じます。
  ナマステジー・・ナマステジー
  一つの堂に来ました・・あたりを見渡します・・
  暗くて見えませんけども、この中にあるのは仏陀の坐
 像です・・釈迦牟尼坐像・・
  ナマステジー・・
  あのーチョット伺いますけれども、この塔の中にある
 仏像は・・?
  仏陀の像です・・お釈迦様の像です。
  何時ごろからあるものなのですか?
  むかしむかしからあります。
  昔々というと、おじいさんの代からですか、もっと昔
 ですか?
  祖父の親の前から さらに前から・・、
  すごいですねー、これは驚きました。
  この丘の上の小さな祠の中に・・いやー、まさしくこ
 れは仏陀の坐像です。
  ・・イヤー、驚きました。
  素晴らしい仏像ですけれども、相当古いものだと思い
 ますが、とにかく立派なのです・・
  シルエットといい、バランスといい それにしても、
 この右手とお顔の損傷というのは実に生々しい。
  インドの歴史のありようを感じさせてくれる様な気が
 致します。
  ナーランダに心行くまで留まった仏陀は、ある日、弟
 子のアーナンダに こう告げます。
  『さー、アーナンダよ、パータリ村へ行こう』
  仏陀は、三つの袈裟と托鉢用の鉢一つだけをだずさえ
 て、パータリ村を目指して歩みを進めます。
  その後ろには、仏陀を慕う多くの修行僧がつき従って
 いました。
.
  インドの祈りの歌・・
     私は仏陀に帰依します。
     私は仏法に帰依します。
     私は僧伽(そうぎゃ)に帰依します。
.
  (参考)僧伽:〔仏〕〔梵 sagha の音訳〕仏教修行者
     の集団。僧侶の集団。
      広義には、在家を含む仏教教団全体をいうこ
     ともある。
      和合衆。和合僧。僧祇(そうぎ)。
.
  ナーランダからパータリ村までは、およそ90キロの
 道のり・・
  悪路で自動車は大きく揺れました・・・・
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 3
  インドの聖なる河・ガンジス。
  ヒマラヤの山間部からベンガル湾に至るその長さは、
 およそ2500キロ・・、
  インド最大の大河です。
  仏陀が目指したパータリ村は、このガンジス河のほと
 りにある小さな村でした。
  現在のパトナ市・・ビハーレ州の州都です。
  人口は、およそ140万。
  米を中心に、農産物の集散地として賑わっています・・
  パトナ市内、ガンジス河のほとりにある市場・・
  この辺は、昔のパトナ村という、村だけあって、なん
 だか野菜のバザールの様になっています・・、
  ジャガイモあり、たまねぎあり、インゲンあり、ニン
 ジンあり・・
  大根もあります・・
  それにしても、大変な賑わいです・・
  ナマステー。
  みかんを見ると、懐かしいですね・・
  どんな味がするんでしょうか・・
  ・・酸味があって、本当に「みかん」らしいです。
  戦後のみかんは、こんな感じだったです・・、
  これは旨い・・
  ガンジス河へ向かう・・
  見えてきたなー・・これが ガンジスかー・・
  河辺に来て・・あー 涼しい。
  ガンジスの流れというと、何か、こう、黄色く濁った
 流れだけを想像したんですけれど、この辺の水は青いで
 す・・、
  対岸の方には、ずーっと青い草が見えて、真っ白な洲
 があって・・、
  あー、こんなにガンジスが、美しいとは・・、
  ナーランダの村を通過して、そして、このパトナ村へ
 やって来て、仏陀は、ここからガンジス河を超えるわけ
 です・・
  おそらく、ここまで70~80キロか、90キロ・・
  どの位あるんでしょう・・
  途中で休み休み、色んなところに寄って来る訳でから、
 ずいぶん掛かったと思います
 ・・けども、この河のほとりに立った時に、おそらく、
 仏陀は、単に、物理的に川を越えるっていうだけではな
 く、何か、人生の大河を越えるという、非常に大きな感
 慨を抱かれて、この河の流れを御覧になったに違いあり
 ません・・
  仏陀は、生涯に、さまざまな形で、河を越えてきてい
 る人だと思います。
  信仰の河、思想の河 人間の河、 ・・・。
  その仏陀が、このパータリ村から河を超えて、対岸に
 渡る有様を 古い古いお経の「ダイパリミッダーナ経」
 という、日本では「大般涅槃経」として知られるお経の
 経文の中に、仏陀の旅のガンジス河のあたりの風景が、
 短く描かれています。 
.
   ついで尊師は、
   ガンジス川に赴いた、
   その時、
   ガンジス河は、
   水が満ちていて、
   水が渡し場のところにまで及んでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は
   小さないかだを結んでいる。
   いずれも、
   彼方の岸辺へ行こうと欲しているのである。 
   そこであたかも力士が、
   屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにその様に、
   僅かの時間のうちに、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に、
   向こう岸に立った。
.
  (参考)大般涅槃経:だいはつねはんぎょう、サンス
     クリット:Mahāparinirvā?a Sūtraマハ-パニル
     ヴァ-ナ ス-トラ 、パーリ語:Mahaaparini
     bbaana-suttanta、タイ語:mahǎprinípphaaná
     sùttantàは、釈迦の入滅(=大般涅槃(だいは
     つねはん)を叙述し、その意義を説く経典類の
     総称。
      阿含経典類から大乗経典まで数種ある。
      略称『涅槃経』。大乗の涅槃経 は、初期の涅
     槃経とあらすじは同じだが、「一切衆生、悉有
     仏性」を説くなど、趣旨が異なるので、相互を
     混同してはならない。
      パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する
     第16経が大般涅槃経と同じもの。
      漢訳の、長阿含第2経「遊行経」および「仏般
     泥洹経」(2巻)、「般泥洹経」(2巻)、「大
     般涅槃経」(3巻)がこれに相当する。
      釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の
     分配などが詳しく書かれている。
      これらに基づいて大乗仏教の思想を述べた「
     大般涅槃経」という大部の経典もある。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 4
  ガンジスの河の上を舟に揺られる・・
  日本も戦争が終わって各地から引き上げる方々も、こ
 の様に川も渡ったでしょう・・
  朝鮮のソウル・・当時、京城(ケイジョウ)といいま
 した・・
  京城には、ハンガンという、当時は漢江(かんこう)
 と言いましたけれども、ハンガンという、実に大きな流
 れがあった。
  また、ピョンヤン(=平壌)という町には、ケドンガ
 ンというのですが、大同江(ダイドウコウ)という名前
 で呼ばれた大きな川があった。
  敗戦になって、引揚者と言いますか、難民となって、
 ピョンヤンから去るのですけれども、その引き上げが始
 まるまでの1~2年の間に、本当にたくさんの日本の人々
 が、そこで亡くなりました。
  夏ですと、どこか目立たないところに穴を掘って、火
 葬ができますが・・、
  冬は零下20度、30度という寒さ・・、地面はツン
 ドラの様に凍って、ツルハシも立たないほどです・・、
  そこで仕方なく、火葬にすることも出来ず、土葬にす
 ることも出来ず、テンドンガンという凍りついた厚さ1
 メートル以上も氷が張っている河の、魚を釣るために、
 あちこちに、ぽこっ、ぽこっと穴が開いているんですが、
  毛布に包んで、その穴から流して弔うということが、
 しばしばありました。
  そして、今、ガンジスの川の流れの上に居る・・
  人々の苦悩に・・仏教は答え得るのか・・
.
   その時、
   ガンジス河は水が満ちていて、
   水が渡し場の所までおよんでいて、
   平らかであるから、
   カラスでさえも水が飲めるほどであった。
   ある人々は船を求めている。
   ある人々は大きないかだを求めている。
   また、ある人々は小さないかだを結んでいる。
   いずれも
   彼方の岸辺に行こうと欲しているのである。
   そこで、
   あたかも力士が屈した腕を伸ばし、
   また、伸ばした腕を屈するように、
   まさにそのように僅かの時間の内に、
   こちらの岸において没して、
   修行僧の群れと共に向こう岸に立った。
   ついで尊師は、
   ある人々が船を求め、
   ある人々はいかだを求め、
   ある人々はいかだを結んで、
   あちらとこちらへ
   行き来しようとしているのを見た。
   そこで尊師は、
   この事を知って、
   その時、
   この環境の言葉を一人つぶやいた。
   『沼地に触れないで橋を架けて、
   広く深い海や湖を渡る人々もある。
   木切れや、つた草を結びつけて、
   いかだを作って渡る人々もある。
   聡明な人々は、
   既に渡り終わっている』
.
  ガンジス河を如何にして渡るか・・、
  それは、どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き
 放たれた理想の境地に至るかという事の例えだとされて
 います。
  仏陀は、いともたやすくガンジス河を越えられた。
.
  (参考)「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマン
     サラナンガッチャーミ、サンガンサラナンガッ
     チャーミ」と三度唱え、仏教の三宝に帰依する。
.
紀元前484年頃、ブッダ最後の旅 5
.
  インドの仏教歌:
        金のお皿でご飯を
        食べて貰いましょう
        仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
        差し上げましょう
        金の台の上に
        席を用意しましょう
        仏陀にお願いして
        座って貰いましょう
        ここで仏陀に
        静かに休んで貰いましょう
        私は、みんなに仏陀が
        来ていることを知らせます
.
  ガンジスを渡った仏陀は、いくつかの村を経て、
 ヴァイシャリーへと向かいました。
  そこは、商業で栄えるヴァッチ国の首都でした。
  仏陀の時代、北インドは、16もの国にも分かれてい
 ました。
  その中にあって、ヴァッチ国は、国の方針を話し合い
 で決める進んだ国でした。
  大パリ二ッバーナ経には、仏陀が、ヴァッチ国の事を
 賞賛した言葉が記されています。
.
        ヴァッジ人が、
        しばしば会議を開き、
        会議には多くの人が参集する間は、
        ヴァッジ人には繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
        ヴァッジ人が、
        共同して集合し、
        共同して行動し、
        共同してヴァッジ族として
        なすべき事をなす間は、
        ヴァッジ人には、
        繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
.
  仏陀は、ヴァッジ国をこよなく愛していました。
  仏陀の一行は、ヴァイシャリー郊外のマンゴー園に留
 まります。
  布教の旅では、決まって町外れに滞在します。
  修行の為には静かな環境が望ましいが、托鉢をするに
 は人の集まるにぎやかな場所が必要です。
  「俗に染まらず、俗から離れず」
  大パリ二ッバーナ経には、このマンゴー園での逸話が
 残されています。
.
  イヤー、見事な果樹園ですね・・あのー、これは、マ
 ンゴーの木なんだそうです。
  私は、マンゴーは、恥ずかしながら、畑の中に生ると
 思っていたのですが、こういう堂々たる木の中に、マン
 ゴーが沢山生ってる姿は、想像しませんでした。
  ここは、ヴァイシャリーという所の郊外のマンゴー畑
 なんですけれども、ガンジス河を渡った仏陀は、このヴ
 ァイシャリーの街中ではなく、街からチョット離れた、
 この郊外のマンゴー畑の中に居を定めます。
  そして、しばらくここに滞在する訳なんですね。
  それで、このー、不思議な事に、ここにはとっても華
 やかで人間的なエピソードが一つあるんですが・・、
  このマンゴー畑の所有者といいますか、地主の方が、
 ヴァイシァリーの町では大変著名なサロンの女主人公と
 言いますか、実は、高級娼婦・遊女と言われている人な
 んですが、遊女と言ってもですねー、ただの遊女ではな
 くて、一夜の値段が、牛何十頭などという、王侯貴族を
 相手にするという様な、しかも教養もあり、音楽的素養
 もあり、文学も出来、詩も詠めるという素晴らしい、高
 名な女性であったらしいんですね・・、
  ・・で、そのアンバパーリーという女性なんですが、
 その女性は、自分のマンゴー園に高名な仏陀が滞在して
 いるという事を聞いて、そして、教えを乞いに仏陀のも
 とへやって来ます。
  そして、仏陀から様々な話を聞いて大変深く感動して、
 感動したアンバパーリーは、自分の、是非、屋敷に招待
 して一夜の宴(うたげ)を催したいという風に、仏陀に
 申し入れます。
  遊女の申し込みなんで、本来なら、僧がどういう風に
 応対すべきか、ちょっと、分かりませんが、仏陀は、そ
 こんところを非常に快く、つまり、法といいますか、仏
 法というものを尊ぶ心の持ち主ならば、いかなる職業で
 あっても差別しないという、そういう気持ちからでしょ
 うか、仏陀はそれを承諾するんですね。
.
  仏陀が、ヴァイシャリー郊外に滞在していることを
 聞きつけた若い貴族たちが尋ねてきます。
  「自分達も仏陀を招待したい」と申し入れました。
  しかし、仏陀は、既に、遊女・アンバパーリーの招き
 を受けていると、その申し出を断ります。
  貴族達の中には、自分達より遊女を優先するのかと非
 難する者も居ました。
.
  ここで遊女という、アンバパーリーという、女性の話
 が出てくるというところがですね、この経典の中での、
 ある種の非常に興味深い所です。
  それは何かと言いますと、やっぱり当時のインドでも、
 女性に対する偏見というのは、今よりもっともっと深い
 ものがあったに違いありません。
  ましてや職業の貴賤ということに関しては、さらに偏
 見が多かったと思うんです。
  そういうときに、例えそれが娼婦であろうと、どうい
 う職業の人間であろうと、分け隔てなく接する、そして、
 「人間は、皆、平等だ」という仏陀の基本的な仏教の考
 え方というものがですね、そのエピソードの中に盛り込
 まれているんじゃないか、今から2500年前、それほど
 の昔にですね、今でも、なお、残っている女性に対する
 蔑視とか、職業に対する差別とか、そういうものを乗り
 越えて最後の旅を続けて行く仏陀の姿に、なんとなく共
 感を押さえる事が出来ません。
.
  ヴァイシャリー郊外に、遊女アンバパーリー縁(ゆか
 り)といわれる仏教遺跡が、今も残されています。
  後の時代に、インド北部一帯を支配したアショーカ王
 が建立した石柱とストゥーパ・仏塔です。
  仏陀と一人の遊女の出会いが、人々の心を動かし、大
 きな仏教遺跡となって残されたのでしょうか。
  仏陀は、このバイシャリーの地で大きな試練に出会う
 ことになります。
  ここで命をも脅かす様な、重い病を得たのです。
              (つづく)
  (参考)ヴァッジ国:ヴァッジ国(パーリー語 )ある
     いはヴリジ国は・・古代インドの国名。
      初期仏教の聖典『アングッタラ・ニカーヤ』
     の中で、十六大国のひとつに数えられる。
      首都はヴァイシャリー。
      位置:現在のビハール州北部にあたり、南北
     にはガンジス川北岸から現在のネパールまで広
     がり、西はガンジス川を挟んでマッラ国および
     コーサラ国と隣接していた。
      また、東は現在のビハール州と西ベンガル州
     の州境付近を流れるマハーナンダ川近辺、ある
     いはビハール州を流れるコーシー川までで、ア
     ンガ国と接していたと考えられている。
      民族:ヴァッジ国は、ヴァッジ族、リッチャ
     ヴィ族(離車族)、ジニャートリカ族、ヴィデ
     ーハ族など、8つの部族が連合して形成していた
     と伝えられている。
      統治機構:ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サ
     ンガ」と呼ばれた代表議会の議長であったと考
     えられている。
      「ヴァッジ・サンガ」は、各地方からの代表
     者から成り、国政を取り仕切っていたものと考
     えられている。
      近年、このような古代インドの国家をガナ・
     サンガ国というようになっている。
      宗教:リッチャヴィ族(離車族)は、ジャイ
     ナ教を信奉していたが、後に仏教に改めたと、
     仏典は伝えている。
      実際に、ブッダは、ヴァッジ国の首都ヴァイ
     シャーリーを何度も訪問して説法していたし、
     仏教の修行者のための修行道場が設置されてい
     たという記録がある。
      したがって、ヴェーダの宗教に並び、ジャイ
     ナ教や仏教も盛んであったと考えられる。
              (Wikipediaより)
.
紀元前484年頃、「ブッダ最後の旅 6」
  この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入り
 ました。
  そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病
 がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)
 と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索に
 ふけります。
  ちょうど、その時ですね、仏陀は、思いがけなくも、
 本当に大きな病にかかる訳ですね。
  最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の
 模様を こんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀・
 最後の旅」 には書かれています。
.
     さて尊師が、
     雨季の定住に入られたとき
     恐ろしい病が生じ
     死ぬほどの激痛が起こった。
     しかし尊師は、
     心に念じて
     よく気をつけて
     悩まされることなく
     苦痛を堪え忍んだ。
     そのとき尊師は、
     次のように思った
     「私が侍者たちに
     別れを告げないで
     修行僧達に別れを告げないで
     ニルヴァーナに入ることは
     私には相応(ふさわ)しくない
     さぁ私は元気を出して
     この病苦を堪(こら)えて
     寿命のもとを留めて
     住することにしよう」と
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  (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用
     語で、涅槃 (nirvaaNa) のこと。
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  つまり大変な激痛が生じてですね。
  本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏
 陀は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じる
 んですね。
  それがまだ自分には残した仕事があると感じていたの
 か、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げ
 るために、この旅を続けようという意思なのか、あるい
 は、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずる
 ままに、自分の人生というものを、もう一度、生きてい
 こうという風に考えるのか、その辺は良く分かりません
 けれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われ
 るように、生易しいものではありません、人間が最後の
 旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生
 きていく訳です。
  その最後の旅の中で、仏陀もまた、この病気と苦痛と、
 そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって
 居られたということを思いますと、人間・仏陀、人間で
 はないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、
 深く背負った仏陀という存在、そこに、私達人間も、と
 っても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚
 えるところがあります。
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  車の中で、ちょっと七転八倒したんですよね。
  朝4時に起きて、ほとんど徹夜のまま撮影をやって、
 それからあの悪路をバスで走っているでしょう。
  でも、昔はね、シベリヤ横断したってなんとも無かっ
 たくらいだったのに、僅かこの位の事で、こんなに苦し
 まなければならないのかという、ほんとに、パトナへの
 道は、地獄への道でしたね。
  ですから あの時、ホントにねー、もう薬を飲んでも
 効かない、水を飲んでもどうにもならない、今にも吐き
 そうでという、その時に、やっぱり、今の体力の衰えと
 いうものをね、今度の、やっぱり、インドの旅では、つ
 くづく感じさせられましたね。
  ですから、実感がとってもありますよ。
  まして、私はまだ70代の前半ですけどね、齢(いわ
 い)80に達したら、この旅を車なんて文明の利器を使
 わずにしている 仏陀の大変さというのは、おそらく想
 像を絶するものが、あったに違いありません。
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  仏陀・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が
 付き添っておりました。その名は、アーナンダ。
  弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だった
 と伝えられています。
  病から回復した仏陀の姿を見て、アーナンダは歓喜し、
 こう言います。
  「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、
 分からなくなっていました。でも、もう安心です」。
  そんなアーナンダに、仏陀はこう答えました。
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     アーナンダよ
     私はもう老い朽ち
     齢(よわい)を重ね老衰し
     人生の旅路を通り過ぎ
     老齢に達した
     我が齢(よわい)は八十となった
     例えば、古ぼけた車が
     革紐(かわひも)の助けによって
     やっと動いていくように
     おそらく私の身体も
     革紐の助けによって
     もっているのだ。
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  さらに、仏陀は、自分が死んだ後の心構えについ
 て、修行僧達に説きました。
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     この世で、
     自らを島とし、
     自らを頼りとして
     他人を頼りとせず
     法を島とし、
     法を拠り所として、
     他のものを拠り所とせずにやれ。
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     アーナンダよ、
     今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、
     自らを島とし、
     自らを頼りとし、
     他人を頼りとせず、
     法を島とし、
     法を拠り所とし、
     他のものを拠り所としないでいる
             人々が居るならば、
     彼らは、我・修行僧として
             最高の境地にあるであろう。
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  あのー、非常に文脈としてですね、捉えにくい言葉な
 んですけど、言っていることは一つだと思うんですね。
  自分の尊敬する人が居ることは結構である。
  だけど、大事なことは、そういうことであることより
 も、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そ
 ういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものが
 ある。
  ダルマといいますね。
  そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りと
 して、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われ
 ることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、
 自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲
 しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言ってい
 る訳です。 
  仏陀の言っていることというのは、私は、決して、自
 分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと
 思いますね。
  それよりもっと大きな宇宙の真理というものがある。
  そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感
 というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うの
 も例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居
 ますね。
  水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑
 まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをし
 っかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身
 の道を歩くが良いと、仏陀は、こういう風にここで語っ
 ているんだろうと思います。
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     この世で
     自らを島とし
     自らをたよりとして
     他人をたよりとせず
     法を島とし
     法をよりどころとして
     他のものを
     よりどころとせずにあれ。
               (つづく)
  (参考) 安居:(あんご)は、それまで個々に活動し
     ていた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まっ
     て集団で修行すること。
      及び、その期間の事を指す。
      安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳した
     ものである。
      本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、
     蛇などの数多くの小動物が活動するため、遊行
     (外での修行)をやめて一カ所に定住すること
     により、小動物に対する無用な殺生を防ぐ事で
     ある。
      後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げ
     あんご)、雨安居(うあんご)とも呼ばれるよ
     うになった。
      釈尊在世中より始められたとされ、その後、
     仏教の伝来と共に中国や日本に伝わり、夏だけ
     でなく冬も行うようになり(冬安居)、安居の
     回数が僧侶の仏教界での経験を指すようになり、
     重要視された。
      現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安
     居に入る結制から、安居が明ける解夏(げげ)
     までの間は寺域から一歩も外を出ずに修行に明
     け暮れる。
                  (Wikipediaより)
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