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2015年6月27日土曜日

(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1701年)

題:(増補版)141D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1701年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1700年頃、この頃、東南アジアだけで、世界経済の4分の1
 を生み出していた。
  この経済的恵みと活力が、先進諸国の欲の対象となっ
 てしまった。
1701年1月、契沖(けいちゅう、国学者)が没した(1640年
 ~1701年)
  徳川光圀から託されて万葉集の注釈をし、『万葉代匠
 記』として完成した。
1701年3月、事件:赤穂~吉良、刃傷
  赤穂藩主の浅野長矩(あさのながのり)が、江戸城中
 で吉良義央(よしなか)を傷害し、即日、切腹、領地没
 収となった。
1701年4月、赤穂城の城明け渡し、
  幕府は、脇坂安照と木下公定を赤穂城受渡使に任命し、
 長矩の弟の浅野大学を閉門とした。
1701年、経済政策:アイヌ交易
  根室のアイヌ交易の場所が開かれた。
  因みに、1754年には国後にアイヌ交易所を設置した。
  ロシア人の千島列島の南下はこれ以降である。
  松前藩は、17世紀の初頭から、道東の厚岸(あっけし)
 を中継地として、千島交易を行なっていた。
  飛騨屋久兵衛が請け負っていた。
  ロシア人は、17世紀の末になってカムチャッカを征服し
 てから後に、そこを足場にして南下を開始した。
1701年、経済政策:集荷と流通の管理
  銀座加役として大阪に銀座を設け、集荷・流通を管理
 した。
  幕府は、この年に、輸出銅を確保するために、銀座加役
 として大阪に銅座を設け、産銅の独占をはかった。
  大部分が長崎輸出銅にあてられていた別子銅山の産銅
 は、18世紀に入り次第に減った。
  その為、銅を確保する必要があった。
  日本の銅は、高品質で、この日本産の銅で、イギリスは
 大砲を作った。
  この性能の良い大砲によって、イギリスは、イスパニ
 ア(スペイン)の無敵艦隊を破ることができた。
  イスパニアも、この銅を欲しがったが、イギリスが独
 占し、流出を防いだ。
  この無敵艦隊の敗れたことによって、世界史が大きく
 変わって行った。
1701年、産業:友禅染(ゆうぜんぞめ)
  この頃、宮崎友禅斎が、光琳の画法に学んで友禅染を
 開いた。
1701年6月、イギリスの王位継承法が成立した。
  イギリスでは、17世紀の初めから、どろどろとした王位
 の継承についての争いが、約100年に渡って、国王と議会
 とで争って来た。
  それの終止符を打ちたいと言うのが「権利章典」だった
 ・・が、しかし・・、
  と言う事で、イギリスでは先に「権利章典」(1689年)
 によって王位の継承順位は定められていたが、しかし、
 アン女王に男系相続人が居なかった。
  そのため、王位がローマ・カトリック教徒で、勝手に
 大王位の継承者だと名乗るJ.F.E.スチュアートに王位が
 移る恐れが生じた。
  そこで、急遽、法律を作って補充した。
  ドイツのハノーファー家への王位継承を定めた。
1701年~1714年、スペイン継承戦争(けいしょう)が起き
 た。
  スペイン(イスパニア)の王位継承をめぐり、イギリ
 スとフランスの対抗を主軸として、戦争がなされた。
  スペイン王に世継ぎの子供が無いのが原因だった。
  フランスのルイ14世の孫のアンジュー公フィリップ(
 後のフェリペ5世)を相続者と定めた。
  フランス・スペインに対して、イギリス・オーストリ
 ア・オランダの争い、そして、ユトレヒト条約が締結さ
 れた。
  フランスの強大化が嫌だったイギリスだった。
  1700年に、スペイン王が没すると、遺言によってフラ
 ンス王の孫が、スペイン領の全土を相続した(スペイン
 のハプスブルグ家が断絶し、ブルボン家が王位についた)。
  これを、オーストリアは認めなかった。
  イギリスとオランダは、スペイン領に関心を持ってい
 た。
  また、新大陸貿易を確保したいとの観点から、フラン
 スとスペインの提携に反対した。
  また、王位継承権を主張するオーストリアとも同盟を
 結んだ。
  そして、この3国は、宣戦を布告した。
  最初こそフランス優勢であったが、劣勢となった。
  そこで、ルイ14世は講和を決意した。
  しかし、最初の講和の妥協はならず、決裂し、戦争継
 続となった。
  しかし、一時的には、フランスも持ち直したが、常に、
 守勢だった。
  イギリスの政権が替わり、戦争終結へ機運が熟し、条
 約の締結へと向かった。
  この戦いの結果、フランスとスペインは、多くの領土
 を失った(ユトレヒト条約)。
  この後も、オーストリアは、戦争を継続ししたが、翌
 年に、ラスタット条約で終結した。
  なお、この戦争と並行して、新大陸では、アン女王戦
 争が戦われていた。
1701年、プロセイン王国(ホーエンツォレルン朝)成立。
  プロイセン王国は、首都がベルリンのブランデンブル
 ク選帝候国と、東のプロイセン公国とが合同して形成さ
 れた王国。
  1701年に、プロイセン王国と名前を変えた。
  鴨長明の「方丈記」ではないが・・、
  王位が欲しいと、戦いが頻発するヨーロッパ諸国の「
 かつ消え、かつ結びて・・」の世界だった。
..
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2015年6月26日金曜日

(増補版)140D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1700年)

題:(増補版)140D1/3:気になった事柄を集めた年表(1700年~1700年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1700年、人口(18世紀はじめ):
  18世紀初めの江戸の人口は、100万人前後だった。
  因みに、大阪は35万人、京都は40万人だった。
  日本全体では、3000万人前後と推定されている。
1700年、経済政策:両替比率を定めた。
  金銀銭の三貨の比価(金1両=銀60匁=銭4貫文)を定
 めた。
  江戸を中心にしての使用通貨は、金を遣う経済圏で、
 大阪は銀遣い経済圏だった。
  また、九州は銭経済圏だったと言われている。
  この地域の差における違い、また変動もあり、交換比
 率を調整し、定める事は重要だった。
  また、幕藩体制は、石高制によってなされ、市中の経
 済は貨幣経済で、
  その貨幣経済下で、経済成長するため、石高制の伸び
 の反映がなされにくかった。そのため・・、
  幕府の収入の石高価値は減価し、幕府も藩も財政難に
 陥りやすいという傾向と問題があった。
  そこで貨幣の発行権のある幕府は、改鋳して貨幣発行
 益を得たりもした。
  この度重なる改鋳は、特に、銀貨の価値を大きく低下
 させた。
  交換比率改定の必要性はここにもあった。
  海外への大量の金流出も、この問題を引き起こした。
1700年、交通・運搬政策の育成と課税
  江戸三伝馬町助成(育成)のため、大八車・借駕篭に
 焼印し、極印賃(ごくいんちん)を課税した。
  伝馬町(てんまちょう)は、幕府・大名の命ずる交通・
 通信業務を従う伝馬役を負担している町だった。
  江戸には、江戸府内から五街道にかかる人足、伝馬の
 継立てを、幕府の命により行う三つの伝馬町があった。
  また、荷物運送も含め育成する必要もあった。
  大八車(だいはちぐるま)は、当時の画期的な運送手
 段だった(因みに、大阪では大八車は使用されなかった。
 大阪はべか車)。
  大八車による事故が多発したという。
  江戸の大工の八左衛門が発明したので大八車と言う(
 建築資材運搬として発明)。
  大八車が、飼料代不要で、馬を必要としないので急激
 に増え、伝馬町の馬持ちの荷物を奪う事になった。
  その為、大八車に課税して、その金で伝馬町を育成し
 た。
1700年、幕府が、旅人・老人幼児・婦人・病者ら以外の借
 駕篭の使用を禁止した。
  これも伝馬町の育成のためだった。
1700年、出版:鳥居清信(とりいきよのぶ、浮世絵師)
  鳥居清信画の絵本「風流四方屏風(びょうぶ)」が刊
 行した。
  歌舞伎絵の名門で、看板絵で好評を博した。
  菱川師宣(ひしかわもろのぶ)に学んだ。
1700年頃、産業:ひもの(干物)
  この頃、「ひもの作り」が始まった。
1700年、毛利氏のこの頃・・長州藩は・・、、
  関ケ原からおよそ1世紀を過ぎた頃、長州藩は、銀4万
 貫にのぼる膨大な負債に苦しんだ・・が、
  年収の10倍を超える藩債を処理するのに、ただただ『
 倹約』をする事しか知らなかった。
  改革が始まるのは、人材養成組織である「藩校・明倫
 館(めいりんかん)」を創設(1719年)まで待たねばな
 らなかった。
  因みに、水戸藩の弘道館や、岡山藩の閑谷黌(しずた
 にこう)とともに、日本三大藩校という。
  反幕資金・・、
  18世紀の初めころ、長州藩は、瀬戸内海方面を盛んに
 干拓し、
  幕末には、「長州藩の実質は100万石」と言われた。
  ほかに、殖産事業を盛んに行ない、特に、塩の収入は
 桁はずれに大きかった。
  全国600万石ぐらいのうち、長州藩は100万石を生産し
 た。
  製塩すると、すぐ三田尻港から内国貿易の船に積み込
 んだ。
  上方へ行く塩船は、脚のはやい菱垣(ひしがき)廻船
 とか樽(たる)廻船といわれる船種であった。
  北前航路へ向かう船は、その船形からドングリ船とい
 われたように頑丈でずんぐりしており積載量が大きい。
  そのかわり速力は遅かった。
  日本海岸から蝦夷地まで塩を売って行った。
  長州藩の藩庫は、このようにして、農業本位の諸藩と
 は比べ物にならぬほどに豊かになった。
  それが、反幕運動資金として流出していく(街道をゆ
 く1)
1700年、芸術:狩野派
  狩野派の絵が琉球に。また、琉球の絵師が中国に。
18世紀、キリスト教国の『スペイン』と『ポルトガル』の
 蛮行。
  ブラジルとアルゼンチンにはさまれた国・パラグアイ。
  スペインは、このパラグアイから東進して領土を奪っ
 て行った。
  ポルトガルは、ブラジルを南下しながら領土を奪って
 行った。
  この両国が、18世紀に入って、領土を奪い合って衝突
 した。
  この衝突は、『トルデシーリャス条約』を空文化した。
1700年、オランダ貿易船の入港を5隻を許す。清船は8隻、
18世紀、マレーシアへ、18世紀にオランダが侵入した。
1700年、ベルリンで気象観測が開始された。
1700年11月30日、不凍港が欲しいロシア
 ナルワの戦いでスウェーデンが、ロシアを破った。
  北方戦争(または大北方戦争)が勃発した。
  この年、スエーデン王のカール12世が、ナルワ(ナル
 ヴァ)の戦いで、ピョートル1世のロシア軍を破った。
  三十年戦争以来、ヨーロッパ東北部で強勢を誇ってい
 たスエーデン。
  これに対して、ロシアと、ポーランドと、デンマーク
 が戦いを挑んだ戦争だった。
  三十年戦争で、スエーデンは、ウエストファリア条約
 により、バルト海南岸や北部ドイツの大河川の河口域を
 手に入れ、
  また、海峡の制海権をデンマークから得たりと、にわ
 かに強国となっていた。
  それ以後、欧州列強(イギリス・フランス・オランダ)
 は、スエーデンを味方につけようとうごめていた。
  しかし、オランダとスエーデンは、長年のライバルだ
 った。
  三十年戦争でも戦った。
  やはり、領土の取り合いだった。
  ロシアは、河川が多いが、すべて、その河口は、他国
 領だった。
  海へ出ようとしても出られなかった。
  その都度、スエーデンやポーランドに邪魔された。
  そんなロシアに変化が出たのは、1698年に、ピョート
 ル1世が政権の座についてからだった。
  彼の幼少の時のロシアは、悲惨だった。
  彼は、富国のために、交易を盛んにしたい、不凍港が
 欲しいと考えた。
  そこで、オスマントルコが領有する黒海を狙った。
  思う様には行かなかった。
  応援を得たいと、1697年に、西欧諸国へ対トルコ戦の
 援助を求めた。
  しかし、その要請の旅先で、
  また、諸情勢を見たり、技術を学びたいと出掛けた彼
 が見たのは、虚弱な不安定なスペインだけで、
  トルコと戦おうとする国は一つとして無かった。
  トルコと長年の宿敵のオーストリアでさえ、スペイン
 継承戦争に備えて、トルコと和平を結んでいた(カルロ
 ヴィッツ条約)。
  そこで彼は、不凍港の矛先をバルト海へ向けたのだっ
 た。
  北方戦争は、1721年まで続いた。
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2015年6月25日木曜日

(増補版)139D1/3:気になった事柄を集めた年表(1699年~1699年)

題:(増補版)139D1/3:気になった事柄を集めた年表(1699年~1699年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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17世紀、キリスト教法王の煽り立てた『魔女旋風』
  この迷信と残虐な魔女旋風が、
  中世前期の暗黒時代において
  また、ルネッサンスの最盛期において、吹きまくった。
  しかも、この旋風の目の中に立って、これを煽り立て
 た人たちが、無知蒙昧な町や地方の一般の方々ではなく、
 歴代のキリスト教の法王だった。
  魔女は、昔からいたにもかかわらず、
  キリスト教会が権威と権力を使って、
  全世界に張り巡らしたこの上なく組織的なキリスト教会
 の魔女裁判によって、魔女狩りをした。
  この様な事は、キリスト教を信仰するキリスト教国以
 外にはなく、
  かつ、この時期、1600年頃をピークとする前後3世紀か
 ら4世紀の長い長い期間、この悪事は行われた。
  17世紀の末には、新大陸のアメリカにまでおよんで可
 哀想な方々が大勢出た。
17世紀、インドネシア:イスラム化が17世紀に完了した。
  それ以後、オランダが進出し、19世紀初めに植民地と
 された。
17世紀、タージ・マハール:
  タージ・マハールはニューデリーの南方250キロメート
 ルのアグラにあり、世界で最も美しい一つとされる。
  アグラは、17世紀初めにムガル帝国の首都となった。
17世紀、ヨーロッパの危機:
  各地に民衆の暴動が勃発した時期であり、
  また、30年戦争というキリスト教を因とする悲惨な長
 い戦争があり、
  ペストの流行で人々が死に、人口が減少した。
  また、穀物生産の不振があり、その背景として小氷河
 期ともいわれる寒冷化現象があった。
17世紀末、アメリカ先住民のインディアンの方々
  アメリカの先住民のインディアンの方々は、
  可哀想な事に、17世紀の末には、アメリカ大西洋岸か
 ら駆逐され、一掃されてしまった。
  それまでの、アメリカ・インディアンの方々の意思は、
 無視され、戦争ばかりとなっていた。
  アメリカの独立の背景には、弱者のアメリカ・インデ
 ィアンの先住民の方々が居ります。
  しかし、強力な武器を持った白人のアメリカ人によっ
 て、17世紀の末には、アメリカ大西洋岸(アメリカの東
 海岸)から駆逐され、そして一掃させられてしまいまし
 た。
  イギリス国王は、『7年戦争後のアパラチア山脈以西へ
 のイギリス人植民者の入植を禁止した宣言』を出してい
 ました。
   先住民のインディアンの方たちは、この宣言が「7年戦
 争の後には、イギリス人の入植がない」ということで、
 「自分たちの土地が守られている」と解釈しました(も
 ともと自分たちの土地なんだから・・)。
   そのため、アメリカのイギリスからの独立を目指す独
 立戦争において、インディアンの方たちはイギリス側に
 ついて戦いました(自分たちの領土が、土地が戻って来
 ると・・)。
   しかし、独立戦争後、アメリカは「アパラチア山脈か
 らミシシッピー川に至る広大な土地をイギリスから得た
 (先住民の方たちに関する話はまったく無し)」。
  この事に対する先住民のインディアンの方たちの落胆
 は大きかった。当然だった。
  インディアンの方たちの意思は、まったく無視され、
 理解されず、
  そして、インディアンの先住民の方々の権利へも、ま
 ったく配慮されない、理解も示されない、これ等・土地
 に関する取り決めでした。
  インディアンの方たちは、この事について抗議の行動
 を起こしました。
   これ等の土地をめぐって、アメリカとインディアン先
 住民の方たちとの戦争が起き、激化して行きました。
   1787年の『北西部条例』で、ミシシッピー川以東の土
 地がアメリカ人に開放されました(インディアンの方た
 ちからの収奪)。
  まったく自分勝手な条例、インディアンの方達への説
 得や相談などの意思の疎通の機会はまったくありません
 でした。
   事は必然的に紛糾しました。
  また、紛争は激増しました。
   アメリカは、卑劣にも、戦い方において残虐さが増し
 た。
   アメリカは、先住民の方々の女性や子供を容赦なく殺
 した、殺戮した。
  多数の犠牲者が出ました。
   無限定戦争でした(白人同士の戦争とは違う戦争の意
 識です。
  白人同士なら「将校は狙わない」とかという事をする
 が、
  キリスト教の考え方・教義による有色人種蔑視から来
 る無限定戦争は、女性や子供も無限定に殺戮する。
  東京大空襲や広島・長崎の原爆投下なども無限定戦争
 です。
  無差別に住民を焼き殺しました。
  当時、国際法でこの様な行為をしてはいけないという
 法規が明確に存在していました。
  この国際法違反です。
  これは裁かれなくてはいけません。
  アメリカは、この法律によって裁かれなくてはいけま
 せん。
  アメリカは無実ではありません)。
   アメリカの白人と先住の民のインディアンの方々との
 戦いも、悲惨さが、より大きいこの無限定戦争が繰り返
 されました。
   イギリス人との白人間の独立戦争では、戦争の自制観
 が見られましたが、インディアンの方たちに対する対先
 住民戦争では『無限定戦争観』による戦闘でした。
   それで、戦争にまったく関係のない方々(女性や子供
 たちなど)への悲惨な多くの犠牲者を生みました。
   (「野蛮」視した異人種に対するという態度です)。
  キリスト教の原住民蔑視の思想・考え方は、南米・中
 米・北米メキシコ及びその離島などでも、非常に多くの
 殺戮が現出し、見られましたが、
  また、アフリカの方々への有色人種の方々へ対して、
 『人間ではない』との発言が、キリスト教聖職者の発言
 として記録されて居りますが、
  アメリカのこの戦いにおいてもその状況でした。
  (異人種や先住民への蔑視)。
  戦争で決着させるキリスト教の持つ宗教観がありまし
 た。
  キリスト教の生まれた地、その錯綜する人種・民族間
 で富の奪い合いの戦争の歴史は繰り返されていました。
  この様なDNA・教義をキリスト教は持っています、「異
 教徒は殺せ」などのキリスト教の教義なのです。
  (参考):限定戦争は、その定義に基づけば敵の殲滅
 によって戦争を終わらせる戦争ではなく、
  より限定的な目標を達成することを勝利とした戦争。
  限定戦争では、その目的を制限することによって、戦
 争に投入する軍事的手段を制限し、
  かつ可能な限り少ない費用で平和を達成するよう努力
 しなければならない。
  戦略理論において、この限定戦争の原理は、目的と手
 段の適合として説明されている。
  リデル・ハートは、戦争状態にある国家の目的とは、
 可能な限り少ない人的、経済的な損失で敵の抵抗する意
 思を屈服させることであると論じている。
  つまり、敵に対する作戦を考える上では敵の意思を打
 ち砕くことと損失を最小化することが重要であり、無闇
 に敵の軍事能力を破壊するために犠牲を増やしてはなら
 ない。
  しかし、インディアンの方々や、東京大空襲や、広島・
 長崎の原爆などには、この原理が働かなかった。卑劣な
 殺戮だけがあった。
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2015年6月24日水曜日

(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)

題:(増補版)138D1/3:気になった事柄を集めた年表(1697年~1699年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1698年、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者、蘭学者)が生
 まれた(1698年~1769年)
  魚屋の一人息子として生まれる。
  8代将軍・徳川吉宗は、飢饉のときの救荒作物として西
 日本では知られていた甘藷(現在のサツマイモ)の栽培
 を混用に命じた。
  昆陽は、小石川薬園(小石川植物園)と下総国と上総
 国において試作した。
  この功績で、享保の大飢饉に役立ち、以降、関東地方
 や離島において、サツマイモ栽培は普及した。
  天明の大飢饉のときには、多くの人々の命を救った。
  昆陽は、幕臣となった。
  千葉県幕張には昆陽神社が建てられ、昆陽は「芋神さ
 ま」として祀られている。
  また、千葉県九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥
 の地」の碑が建てられている。
1698年6月、備後福山藩に百姓一揆が起きた。
  備後国(びんごのくに、広島県東部)、この地は、た
 びたび百姓一揆がおこり、特に、1717年~1718年、1786
 年~1787年に起こった惣百姓一揆(そうびゃくじょうい
 っき)は有名。
  惣百姓一揆は、初期の代表訴訟型一揆と異なり、全村
 民による一揆で、
  村役人層に指導され、大規模で、政治的要求を掲げた
 一揆だった。
  しばしば全藩的規模に及んだ。
1698年12月、木下順庵(きのしたじゅんあん、儒者・朱子
 学者)が没する。
  将軍・綱吉の侍講になった(1682年)、
  新井白石・室鳩巣らの多数の門人がいる。
1698年、経済政策:永小作地
  幕府が、20年以上の小作地を永小作地とし、奉公人の
 年季制限を撤廃した。
  永小作(えいこさく)は、世襲小作ともいい、これは、
 普通小作と比較し、地主に対して小作人の権利が非常に
 強い点に特徴がある。
  耕作権は無期限で、公租公課の負担、農業用水の管理・
 利用、土地改良などの主体も小作人にあった。
1698年、鉱山:試掘(鉱山開発)
  諸国の金銀銅山の試掘を命じた。
  幕府が、各藩に鉱山開発を指示した。
1698年8月、社会資本整備:永代橋の架橋
  隅田川に永代橋が架橋された。
  現在の位置よりも100メートル上流の地点。
  5代将軍・綱吉の50歳を祝したものという。
  また、1702年の赤穂浪士の吉良邸討入では、上野介の
 首を揚げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向かったという。
1698年、出版:戸田茂睡(とだもすい、国学者、歌人)が、
 歌学書「梨本集(なしのもとしゅう)」を著した。
  (1629年~1706年)
1698年、処罰:多賀朝湖(たがちょうこ、画家、芸人、英
 一蝶、はなぶさいっちょう)が、三宅島に配流された。
  色々な名前が一杯ある人。
  生類憐みの令の違反での流罪。
  家族のために画材を要求して送らせ、絵を描いている。
  今でも、その絵が新島・御蔵島に残っている。
  綱吉の死の1709年に、大赦によって許され、12年ぶり
 に江戸へ帰った。
1698年9月6日、江戸で大火(勅額火事・ちょくがくかじ)
  新橋南鍋町から出火し、強い南風のため遠く北方の千
 住まで延焼した。
  大名屋敷83、旗本屋敷225、寺院232、町屋1万8703戸、
 326町を焼いた。
1698年、内藤新宿が設置された。
  現在の新宿区新宿の発祥の地で、高遠藩内藤氏下屋敷
 の近くに新設された。
  甲州街道の道中の第一宿。
  江戸周辺の東海道の品川、日光道中の千住、中山道の
 板橋とともに四宿と呼ばれた。
  江戸浅草阿部川町の名主の喜兵衛ほか4人の出願によっ
 て、この年に置かれた新しい宿駅。
1698年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、老中
 の上に列せられた。
  徳川綱吉の小姓から出世して行った。
1698年、イギリスの卑劣な植民地搾取の会社「東インド会
 社」の儲け過ぎで、本国のイギリス社会は大騒ぎになっ
 ている、・・欲の世界(餓鬼界)である。
  そして、この年、この騒ぎをおさめようと、第2の会社
 の設立が許可された(搾取側のイギリスが、勝手に許可
 したのであって、搾取される側のインドの方々は大きな
 迷惑だった)。
  文句を言っている者たちへも許可したのである。
  安易なイギリスの解決策だった。
  たまらないのは搾取される弱者の植民地国のインドの
 方々だった。
  卑劣にもイギリスの搾取会社の2社により富の収奪の
 上の、さらに強欲な奪われ行為がなされて行く。
  これでも、イギリスは『正義だ』と言ったのだろう、
 今・現代のTPPの様に・・。
  当然、強者のイギリスの2社は、激しい強奪競争の利益
 のむしり取りを始めた。
  当然の卑劣のむしり取り競争であった。
1699年、世相:米不足
  江戸の米穀不足で、諸代官へ江戸廻米を命じた。
1699年、世相:生活苦の旗本
  生活苦の旗本と御家人に賑救金(しんきゅう、施し物
 をして貧民などを救うこと)を賦与し、救済した。
1699年、令:酒造制限令が出された。
1699年、芸術と作陶:乾山焼(けんざんやき)
  仁清の陶法を伝授された尾形乾山が、京都鳴滝(なる
 たき)で楽焼き風の陶器・乾山焼を始めた。
  兄の尾形光琳の絵付や意匠になる雅陶を製作し、洛中
 の人気を集めた。
1699年、イギリスに広東貿易(かんとんぼうえき)を許可。
  中国の清代における広州の海外貿易。
  1685年に、清朝の海禁(かいきん、海外渡航と貿易の
 禁止)が解かれ、海外貿易が許されていた。
  広東1港のみに限定し、独占的商人のみによって行わ
 れた貿易体制だった。
1699年、カルロヴィッツ条約が締結された。
  オスマン帝国とヨーロッパ諸国との間に結ばれた講和
 条約。
  オスマン帝国は、17世紀後半に、オーストリア・ベネ
 チア・ポーランド・ロシアと戦い、大きな版図を築いて
 いたが、大トルコ戦争など種々の戦いを経て、ヨーロッ
 パにおける勢力の大幅な後退を余儀なくされる状況に至
 った。
  戦争の後期には、戦線が膠着し、末期には、ゼンタの
 戦いなどの戦闘はあったが、
  ほとんど戦闘が行われないまま講和の交渉となった。
  そして、この年に、オスマン・トルコは領土を割譲し、
 ヨーロッパからの退却となった。
17世紀、有色人種蔑視:見世物
  キリスト教で有色人種蔑視に洗脳されたヨーロッパで、
 アフリカの黒人の方たちやアメリカ大陸のインディオの
 方たちが、見世物として、猿やヒヒと一緒に、陳列させ
 られていた。
  非人道的諸国=キリスト教の諸国家だった。
17世紀~18世紀、奴隷貿易。
  広くは15世紀から19世紀の前半まで、
  ヨーロッパとアメリカのキリスト教諸国によってなさ
 れていた非人道的に極まった極悪行為・人身売買。
  欧米のキリスト教諸国は、安い労働力を得たいと、人
 を物同然に、金にものを言わせて買いに行った。
  現地も、その要求に応じた。
  そこには、確実に、キリスト教の考え方・教義によっ
 て洗脳された、正しい判断が阻害され、正しく判断が出
 来ない状況下で、極悪行為は行われていた。
  黒人の方々を、人と見ない見方は、キリスト教には、
 古代の古い昔からあったことが、記録にあるが、
  この奴隷貿易が行われるはるか以前の1452年に、キリ
 スト教のローマ法王が、
  『異教徒を永遠の奴隷とすることは正当である』と、
 奴隷を良しとする許可を与えていた。
  また、卑劣な事に、『非キリスト教圏の国を侵略する
 事を正当だ』ともした。
  この卑劣極まりない許可によって、最悪行為はなされ
 ていた。
  当然、日本においても行なわれた。
  アメリカの綿花栽培、ポルトガルの砂糖のプランテー
 ション経営、フランスが行なった「銃器を渡して、奴隷
 を連れて来る行為」(武器と人との卑劣な交換行為)、
  イギリスの奴隷狩り商人の跋扈(ばっこ)、イギリス
 のマンチェスター綿工業の資本家の黒人の方々の安い労
 働力を使おうという悪知恵・悪巧み、奴隷貿易の主導権
 者・アメリカ・イギリス・オランダ・フランス、
  アフリカの1200万人~1500万人の方々が奴隷にされ、
 犠牲になった。
  キリスト教の洗脳により、人権がまったく考えられな
 かったため、大西洋を渡る奴隷船の中の、最悪な環境、
 過酷な状況の中に置かされた多くの黒人の方々は、亡く
 なった、
  日本人も、ザビエルなどのキリスト教宣教師と共に行
 われた南蛮貿易において、特に、日本人女性が、奴隷と
 して、多数が連れ出された(目撃されている)。
  豊臣秀吉も、秀吉の臣下も確認して、その状況を知っ
 ており、激怒し、即刻、キリスト教の禁教令を出した。
  秀吉が、キリスト教宣教師のガスパール・コエリョへ、
 人身売買を詰問したのは有名、
  そして、その結果を受けて、秀吉は、即日、奴隷の売
 買を含む南蛮貿易の禁止と、キリスト教の布教を禁じた。
..
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2015年6月22日月曜日

(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)

題:(増補版)137D1/3:気になった事柄を集めた年表(1696年~1697年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1697年7月、元禄地方直(げんろくじかたなおし)
  幕府が、御蔵米地方直令を出し、
  500俵以上の蔵米取の旗本を、知行取へと変更する地方
 直の方針を打ち出した。
  勘定頭(勘定奉行)だった荻原重秀の主動で実施され
 た。
  天領から米を運搬する費用が掛かる蔵米給付の方が幕
 府にとっての財政負担は大きい・・そして、一方、
  当時の武士は、蔵米取よりも、知行取の方を格上と考
 えており、
  蔵米支給から知行取に変わることを、旗本たちは出世
 ととらえ、
  幕府も、知行取への変更を褒章の一環としていた。
1697年10月、酒運上(酒屋運上)を令した。
  酒運上(さけうんじょう)は酒造税。
  幕府は、売価の3分の1を酒運上を課すことを全国に布
 達した。
  これは、飲酒の制限の意味もあった。
  1709年に廃止された。
1697年、経済政策:新貨との交換を命ず
  幕府が、古金銀の通用期間を限り、新貨との交換を命
 じた。
  1698年限りで、運用停止すると触書を出したが、引き
 換えが進捗せず、退蔵する者が多かった。
  これは、今までの貨幣の方が、金の含有量が多く、品
 位の高い小判であることが、誰が見ても明らかだった。
  結局、割増通用(現行の小判より何割か価値が高いも
 のとして通用させる)という形で、幕末まで流通してい
 た。
  しかし、この割増も退蔵する方が得だったため、交換
 は思うように進捗しなかった。
  元禄金は、量目(質量)こそ、慶長金に等しかったが、
 金に対し密度の低い銀を、多く含むため、分厚く白っぽ
 いものとなった。
  そのため、品位が低下したことは、誰の目にも明らか
 だった。
  また、脆(もろ)く折れやすいものであったため、評
 判は悪かった。
1697年、政策:大名管理
  幕府が、諸国の有力大名に、郷帳と国絵図の提出を命
 じた(居城の絵図、国絵図、海陸の道筋など)。
  また、旗本・寺社へも国絵図の改訂と郷帳面の提出を
 命じた。
1697年、大名管理・吉宗
  徳川吉宗が14歳の時、第5代将軍の綱吉に江戸城内で拝
 謁(お目見え)し、越前国丹生郡所領3万石を与えられ、
 葛野藩主となった(立藩した)。
1697年4月、ガルダン汗自殺、
  外モンゴルが、清の支配下にはいる。
  しかし、この服毒自殺は、清朝で編纂された漢文資料
 に記されているが、史実ではないという指摘もある。
  病死の説である。
  翌年(1698年)清の版図となった。
1697年、ロシア人が、カムチャッカまで到達した。
  コサックの探検隊が、この年に、カムチャッカに、初
 めて到達した。
  日本人の大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)が行
 く85年前だった。
  大黒屋光太夫(1751年~1828年)は、伊勢国の廻船の
 船頭で、
  嵐のため、1782年に、江戸へ向かう廻船が漂流し、7ヶ
 月の漂流ののち、アリューシャン列島に漂着した。
 (当時は、ロシア領のアラスカ)。
  先住民のアレウト人や、毛皮収穫のための滞在してい
 たロシア人に遭遇し、彼らと共に暮らし、ロシア語を習
 得した。
  4年後の1787年に、ありあわせの材料で船を造り、ロシ
 ア人らと島を脱出する。
  カムチャッカ・オホーツク・ヤクーツクを経由して、
 イルクーツクに、1789年に、至る。
  ここで、日本に来るラクスマンらに会う。
  サンクトペテルブルグへ、1791年に、向い、ロシア帝
 国の帝都で、女帝のエカチェリーナ2世に謁見した。
  帰国を願い出て、漂流から9年半後、磯吉と小吉との3
 名は、根室に帰国した。
  帰国後、将軍・家斉の御前で、聞き取りを受け、幕府
 は、光太夫を活用して、ロシアとの交渉を計画したが、
 うまく行かなかった。
  江戸屋敷を与えられ、異国の見聞を伝えた。
  蘭学者の桂川甫周による聞き取りの「北槎聞略」が史
 料として残された。
  光太夫は、妻も江戸でもらい、帰国も許され、帰国し
 ている。
  また、故郷から光太夫らの親族も江戸に訪ねて来てい
 る。広く知識人らと交際を持った。
  北槎聞略(ほくさぶんりゃく、江戸時代の漂流記録書)
 (宮永孝訳)に、
  「ロシア人に助けられた光太夫達は、住み家もあてが
 われ食事も与えられたが、
  この年の冬はまれにみる飢饉が訪れ、魚しか口に入れ
 ないため、面倒を見てくれている郡官を困らせる。
  この年、先述にあるように世界中が大飢饉となっている
 ことを当人達は知るよしもなかった・・。
  ビタミンCの不足(壊血病)で与惣松・勘太郎・藤蔵が
 死に、オルレアンコフ長官(郡官)に諭されるのである。
 「あなた方はみな、伊勢の生まれとか称して、つね日頃、
 獣の肉を口に入れなかったが、このような飢饉の時に至
 ってまで、そんな禁忌を守っていては飢え死にするより
 外はありません。
  先ずこの牛肉を食べて一命をつなぎ、食料が十分に手
 に入ったなら、肉を食べないでもいいではありませんか」
1697年、ライスワイク条約(ファルツ承継戦争終結)
  ファルツ選帝侯領の相続をめぐり、
  フランスのルイ14世と、ドイツ・イギリス・オラン
 ダ・スペイン・サボイア(フランスの一部)との間に、
 1689年から戦争が続いていた。
  この戦争の講和がなされた。
  フランスは、イギリスに対し、ウィリアム3世の王位を
 認め、
  また、その相続者のアンに王位継承権を認めた。
  そして、ドイツは、ストラスブール以外の占領地を返
 して、ライン川の右岸から撤兵するとなった。
  勝利者はいない。
  ただただ、戦争で殺し合っただけ、
  そして、厭戦気分が出て、戦争を止めただけ。
  戦争ばかりのヨーロッパだった。
1697年、イギリス・本国の「東インド会社」が、市民の襲
 撃を受けた。
  「貨物を掠奪せんと騒ぐ」・・とある。
  あまりにも、イギリスの一部だけが、
  市民もびっくりするほど莫大な金を、
  インドの方々から巻き上げて、得ているため、
  インドの方々のために、怒ったという訳ではなく、
  そのイギリスの莫大な富を得ている一部の悪漢たちに
 対し、その独り占めしている事に対して、怒ったのであ
 った。
  市民がだまっていられないほどの搾取だった。
  分け前を寄越せの欲得の、餓鬼の騒ぎだった。
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2015年6月21日日曜日

(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)

題:(増補版)136D1/3:気になった事柄を集めた年表(1694年~1696年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1694年、人事:柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が老中に就
 任した。
  側用人の柳沢吉保を老中に準じる。
1694年、物流:問屋仲間成立
  大阪から江戸への物資輸送を円滑にするため、荷受け
 問屋を糾合して江戸十組問屋仲間を成立(結成)する。
  十組問屋(とくみどんや)は、江戸で組織された各種
 の荷受け問屋組合のこと。
  江戸と大坂間の海上輸送の不正や、遭難による損害を
 防ぐために組織された。
1694年、大坂に24組問屋(にじゅうよくみどんや)が成立
 した。
  大阪菱垣廻船積問屋二十四組ともいう。
  江戸の十組問屋と結んで、大阪から江戸へ積み出す荷
 物を独占的に取り扱った。
1694年、物流:荷物運送を容認
  信州中馬の荷物運送を容認した。
  中馬(ちゅうま)は、信州の農民が行なった馬背を利
 用した輸送業。
  伊那地方の農民が農閑期の余業として2~3頭の手馬で
 物資を目的地まで運送したのに始まる。
  信州以外に、尾張・三河・駿河・相模・江戸にまでと
 活動範囲は広がった。
  重要な運送手段となった。
1694年7月27日、イングランド銀行が設立された。
  W・パターソンが、イギリス王のウィリアム3世の財政
 難を助けるため設立した。
  名誉革命の直後は、国家の財政は赤字ばかりだった(
 戦争ばかりしているからだ、結局、これも、対仏戦の戦
 費調達となった)
  代償に銀行券の発行権を得て、120万ポンドの資金を公
 募し、銀行としての株式会社として設立された。
1695年2月、政策:関東の幕領の検地が行われた。
  関東郡代の伊奈忠篤の支配地で、1696年2月21日付けで
 実施された検地は、総石高が40万石び、これは、天領の
 10%に及んだ。
  やり方は、支配地の代官ではなく、近隣の大名、また
 は、別の代官が実施した。
  田畑の位付けを細分化し、名請人は小農や小作百姓も
 検地帳に登録し、隠田を摘発した。
  また、開墾可能な土地は、山林や原野、荒地や湖沼地
 帯も検地し、台帳に記載した。
  そのようにして石盛(こくもり、見積生産高のこと)
 を高めるという方法で行われた。
  武蔵国世田谷の村々では、石盛が2倍や3倍になるなど、
 検地は厳しいものであったが、
  生産技術が進歩したことによる生産量の増加が、石高
 の大幅な上昇をもたらしていた。
1695年8月、諸国の鉱山の採掘を奨励した。
1695年8月、経済:貨幣の改鋳(初めての改鋳)
  5代将軍・徳川綱吉の臣下・勘定吟味役・荻原重秀の建
 策で、財政赤字解消のため、金貨・銀貨を改鋳した(元
 禄金銀・げんろくきんぎん)、
  以後も、改鋳で年平均50万両の収入をあげる。
  元字金銀(げんじきんぎん)ともいう。
  この頃、米が値下がりし、米を売って生計を立ててい
 た武士や農民の収入が減り、デフレ経済に陥っていた。
  荻原は、それまでの「慶長小判」を回収して溶かし、
 「元禄小判」に作り替えた。
  大きさは同じだが、含まれる金の割合を約3分の2にし
 た。
  慶長小判2枚を元禄小判3枚にした。
  1枚あたりの価値が下がった元禄小判は、借りやすくな
 って活発に使われ(流通の活発化)、元禄の太平の世を
 作り出した。
1695年10月17日、凶作:奥羽地方が大冷害で、奥羽と北陸
 が凶作となり、餓死者が多数出た。
  幕府は、10月17日に、凶作の救済のため、津軽藩主・
 津軽信寿(のぶひさ)に米3万俵を貸与した。
1695年11月、江戸の犬を中野犬小屋に収容し、養った。
1695年、旧金銀貨幣との混用を布令した。
1695年、出版:西川如見(にしかわじょけん、天文暦学者)
 が「華夷通商考(かいつうしょうこう)」を著した。
  中国はじめ諸外国の位置・風土・人口・産物・風俗な
 どを記した海外一般の地誌。
  著者が、オランダ人との接触を通じて得た海外事情を、
 通商の立場から書いている。
  1708年には、アメリカの記事を「職方外記」から邦訳
 して補充している。
1695年、イギリスの悪行が露見
  イギリスの卑劣な行為が、この年に、白日の下に、一
 般大衆の知るところとなった。
  イギリス王室が讃美して始められた「東インド会社」。
  この実質的にはイギリスという国そのものであるこの
 会社は、人を殺し、騙(だま)し、そして、この賄賂と、
 悪い事ばかりしている。
  インドを含めて、弱い植民地の諸国を虐げている行為
 も軽蔑するが、
  この年に、非人間的な行為でもって、稼ぎに稼いだ金
 でもって、その悪貨を賄賂に使って、自分たちに有利に
 事を運んでいた事が暴露された。
  イギリスを正しい方向へ導くべき人たちに対し、賄賂
 が贈られていて、黙らせていた。
  臆面なく、賄賂を受け取った者たちも大悪漢である。
  その収賄していた者たちが、政治家を含む者たちが牢
 屋に入れられた。
  6年間だけで107万ポンドもの大金が賄賂に使われてい
 た。
1696年、経済政策:値段書付を提出させる
  江戸で町屋敷値段書付を提出させた。
1696年、交通:大井川渡渉制度ができた。
  この年に、川越制度ができ、川庄屋が置かれた。
  川会所は、この制度に基づき、川越賃銭の決定、渡渉
 順次の割り振りなど、川越業務の管理運営を行った所。
  大井川の管理や渡渉制度に、関わる運営を現地で行う
 川庄屋が任命された。
1696年、鉱山:阿仁銅山(あにどうざん)
  佐竹藩(秋田県北秋田郡)が、阿仁銅山を開いた。
  古くは金銀を算出、後に、銅山として栄えた。
1696年、農業:農書
  近畿地方の先進的な農業事情を記す江戸前期の代表的
 農書、宮崎安貞(みやざきやすさだ、安芸広島藩士)の
 「農業全書」がなる(翌1697年に刊行)
1696年4月、農業:塵芥利用の埋立て新田の許可
  幕府が、江戸町中の塵芥を利用して埋立新田を作るこ
 とを許した。
  幕府は、1649年に「ゴミを会所地へ捨てる事を厳禁」
 しているが、
  家綱の時の1655年に、江戸市中のごミ処理令を出した。
  これは、江戸市中のごみを、江戸城下から離れた隅田
 川左岸河口の永代島まで船で運び、投棄することを義務
 付けた。
  それまでは、市中のごみは、屋敷内、空き地、川等へ
 廃棄していた。
  しかし、江戸の人口の急激な増加に伴って、この様な
 ごみ処理は、江戸市中の衛生状態を極度に悪化させた。
  また、1681年の綱吉の時に、江戸市中のごみ捨て場と
 して、永代島新田と砂村新田(現、江東区北砂付近)を
 定めた。
  そして、1696年4月30日に、ゴミ船で江戸市中の塵芥(
 じんかい)収集にあたる町人2人に、永代島~上総(かずさ
 )間の海路浚渫(しゅんせつ)を許可した。
  そして、その土砂と塵芥による永代島附近の埋め立て
 を命じ、そして、土地造成を更に進めた。
1696年4月11日、人事:荻原重秀(おぎわらしげひで)が、
 勘定奉行となった。
  そして、この日、250石を加増され(2000石)となった。 
1696年、人事:荻生徂徠(おぎゅうそらい、儒者)
  古文辞学派の祖・荻生徂徠が、柳沢吉保に召し抱えら
 れ、将軍・綱吉の学問相手を勤めた。
  徳川吉宗の時に、吉宗に「政談」を提出している。
1696年、ブラジルでゴールド・ラッシュ
  ブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見されて、ゴ
 ールドラッシュが起きた。
  インディオの方々やアフリカの方々を奴隷として酷使
 し、大量の金をポルトガル本国へ送った。
  金は、王や貴族の宮殿の装飾などに使われ、飾った。
1696年、露土戦争(1686年~1700年)で、ロシアのピョー
 トル1世が、トルコと戦い、この年、アゾフ占領(黒海北
 部)に成功した。
  露土戦争は、ロシア・オーストリア・ベネチア・ポー
 ランドのヨーロッパのキリスト教諸国の神聖同盟軍と、
 オスマン帝国との大トルコ戦争(1683年~1699年)の一
 部をなし、
  1700年に、コンスタンティノーブル条約が締結されて
 終戦した。
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