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2015年4月18日土曜日

(増補版)76C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年7月~1570年11月)

(増補版)76C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年7月~1570年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1570年8月20日、信長が、この日に、岐阜を発った。意を
 決しての出陣だったのだろう。
1570年8月23日、信長が、京都に入った。
1570年8月25日、信長が、河内枚方(ひらかた)に陣を
 張った。
  信長にしては、比較的ゆっくりとしたペースであった。
  そして、天王寺に陣を据えると・・、
  「大阪・堺・兵庫辺りより異国・本朝の珍物を捧げ、
 御礼申さるる仁、御陣取の見物の者、群衆をなす事に候」
 の状態であった。
  信長に感謝し御礼する者があったという。
1570年9月、石山本願寺が挙兵した。
  また、浅井・朝倉が再起した。
  本願寺は、秘かに、三好党や浅井・朝倉に気脈を通じ
 ていたが、9月初めに、門徒に挙兵を呼び掛けた。
  信長は、本願寺の挙兵が近いとみて、自ら指揮して井
 楼(せいろう)から「大鉄砲」で城中にうち入れ、
  住吉・天王寺あたりに陣取った信長方の根来(ねごろ
 )・雑賀(ぞうが)などの紀伊衆2万も、鉄砲3000挺
 で攻撃した。
  「御敵味方の鉄砲、誠に日夜天地も響くばかりに候」。
  根来は、最初の鉄砲生産地で、根来寺の僧兵が義昭に
 加勢したのは、信長にとって非常に有利であり、この点
 でも、義昭は、なお利用価値があった。
  また、大鉄砲を備えた井楼も、義昭が、京都の鍛冶番
 匠を招いて作らせたものであった。
1570年9月12日、三好方は次第に弱って、和を求めたが、
 信長は許さなかった。そして、攻撃をゆるめなかった。
  度々の繰り返しての反抗だったからだろう。
  そこで本願寺光佐は、「野田・福島落居候わば、大阪
 (本願寺)滅亡の儀と存知」と、ついに自らも参戦を決
 意し、9月12日に、門徒はその指令に従って、信長の陣
 を襲った。
  こうして、1580年に至るいわゆる石山戦争が始まった。
1570年9月20日、浅井長政・朝倉義景が、南近江に出兵し
 た。
  そして、滋賀郡宇佐山城を攻めて、織田信治・森可成
 を戦死させた。
  また、勢いに乗じて山城に攻め込み、山科・醍醐に放
 火し、京都の東部・北部に陣を敷き、京都周辺の社寺に
 軍勢の濫妨禁止(らんぼうきんし、乱暴のこと)その他
 の制札(せいさつ、立て札)を立てた。
  知らせを受けると信長は、すぐ義昭と一緒に、帰京し
 た。
  退却にはかなり苦労したようだが、やはり誰も追撃し
 て来なかった。
  信長の進撃を見て、浅井・朝倉は、比叡山中の青山・
 鉢ヶ峰・坪笠山に陣取った。
  信長は、延暦寺の僧を招き、味方になれば領国内の寺
 領を返す、僧侶の身として味方できなければ、中立を守
 れ、承知しなければ、全山を焼き払うと申し渡したが、
 承知しなかった。
  しかし、まだいきなり延暦寺を攻める事はできなかっ
 た。
1570年10月1日、篠原長房一党が、三好・本願寺を助ける
 ため、阿波・讃岐の兵を率いて、摂津中島に着いた。
  翌2日付け、遊佐某宛の手紙で、信長は、秀吉・丹羽
 長秀らが、京都東山一帯に陣を取るべく、三好が淀川を
 越えて攻めて来ても、即時、討ち果たす・・と書いてい
 る。
  信長が、京都東山に防備戦を張らねばならぬような事
 態はかつてなかった。
  信長は、確かに苦境にあった。
1570年10月7日、本願寺が挙兵すると、義昭は、勅命をも
 って本願寺に戦闘を停止させるよう奏請(そうせい、天
 皇に奏上して裁可をもとめること)した。
  その結果、天下静謐(天皇の命令・勅定によって私闘
 禁止を指令する)のために、出陣した将軍と信長に向か
 って一揆を起こすのは不届きとの勅書が出た。
  浅井・朝倉の再挙まじかしと察知した信長が、義昭に
 強制して事を運んだのだろう。
  義昭は、三好を討つため、摂津に出陣したが、決して
 本願寺を敵にしたのでなく、本願寺もまた、信長には敵
 対したが、将軍を相手にするとは夢にも思わず、義昭が
 信長と組んで出陣したことを意外とし、遺憾とした。
  それに乗じて、信長は、義昭を動かしたのであろう。
  ところが、信長の予想通り、浅井・朝倉が再挙したの
 で、勅使は恐れて引き返し、勅書は本願寺に届かず、信
 長もまた軍を引いた。
  それに力を得たか、光佐はさらに10月7日、筑後・讃
 岐・阿波及び近江の門徒に挙兵を呼び掛けた。
1570年10月8日、家康が浜松に移ったその直後、家康は姉
 川の戦に出陣し、信長と結んで、浅井・朝倉を痛めつけ
 たのをきっかけに、家康と信玄は公然と絶縁した。
  そして、家康と謙信は接近して、10月8日に、家康は、
 誓書を謙信に送り、信玄ときっぱり絶縁することや、信
 長・謙信の和睦をはかること・・などを約した。
1570年10月30日、青蓮院門跡の尊朝法親王が、本願寺光
 佐に、信長との講和を勧めた。
1570年10月、10月初めから12月初めにかけ、京都西郊の
 西岡に断続的であるが土一揆がおこり、幕府は徳政を行
 った。
1570年11月21日、伊勢長島の一向一揆が、織田信興を攻
 め殺した。
  伊勢長島の一向宗徒が、尾張海部郡小木江城(今の同
 郡弥富町)を攻めて、信長の弟・信興を自殺に追い詰め
 た。信長は助けられず、見殺しにするよりほかなかった。
1570年11月21日、小木江城の陥落のこの日、信長は、六
 角承禎・同義治・篠原長房と講和した。
1570年11月28日、天皇の命令で和睦が成った。
  この日、将軍・義昭は、関白・二条晴良とともに、三
 井寺に下って講和を斡旋した。
  信長と朝倉義景は承諾した。
  天皇が和睦を命じ、それに従うということで、和睦が
 成立した。
  それぞれが、分国へ引き上げた。
  そして、12月に至って、信長と浅井・朝倉とが和した。
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2015年4月17日金曜日

(増補版)75C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年4月~1570年7月)

(増補版)75C2/3:気になった事柄を集めた年表(1570年4月~1570年7月)
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1570年4月20日、信長の朝倉征伐・・そのⅡ:華麗なる出陣
  この日に、信長は華麗な軍装を整えての越前征伐への
 出陣だった。
  何と朝廷の臣の廷臣の鳥居雅敦(まさあつ)や日野輝
 資(てるすけ)までが従軍していた。
  多数の「貴賤男女」が見物し、見送った。
  天皇は、自ら内侍所(ないしどころ、三種の神器の一
 つである神鏡を奉安する所)で、千度祓(せんどばらい、
 神前で大祓・おおはらえの詞を千度唱えること)を修し
 (修する・・整えて正しくする)、次いで数日間、信長
 の戦勝を祈った。
  信長は得意満面、一挙、朝倉の本城一乗谷進撃を思い、
 その成功を信じて疑わなかったように見えた。
  事実、彼は、琵琶湖西岸から若狭へ入り、25日には、
 早くも天筒山(てづつやま、標高171メートル、敦賀市、
 朝倉氏の出城があった)を陥れ、次いで、金ケ崎(敦賀
 市)を降ろした。
  ここまでは良かった。
  ところが、信長にとっては全く意外な事に、妹婿の浅
 井長政が朝倉に応じて挙兵した。
1570年4月30日、信長の帰京。
  浅井長政の挙兵により窮地に陥った信長は、秀吉を金
 ケ崎に残して殿軍(しんがり)を務めさせ、自分は朽木
 越えで、30日夜半に帰京した。
  従う者はわずか10人だったと言うが誇張だろう。
  出陣当時の華麗な面影はまったくなかった。
  この様な経緯(いきさつ)から、これからの三ヵ年に
 およぶ信長の苦闘が始まる。
1570年5月9日、信長が、岐阜に帰る。
  浅井長政の寝返りで窮地に陥り、京都に退いた信長は、
 この日に、京都を発って岐阜に帰った。
  道すがら、近江滋賀郡宇佐山城にも森可成、野洲(や
 す)郡永原城に佐久間信盛、蒲生郡長光寺城に柴田勝家、
 同郡安土城に中川重政を入れた。
  これは、この頃、東南近江の至る所に興っていた一揆
 を押え、岐阜路を守るためでもあった。
  岐阜への帰途も、永原から千種越えでやっと帰ったが、
 途中、再起した六角承禎にそそのかされた杉谷前住房な
 る者に信長は銃撃され、かろうじて難を逃れていた。
  千種越えの伊勢路の危険な様子がうかがわれるが、中
 山道はもっと危険で通れなかったのだろう。
1570年5月25日、信長は、この日に、岐阜に居て、遠藤胤
 俊・同慶隆なるものに出陣を促(うなが)した。
  そして、鉄砲の調達を命じた。
1570年6月、六角は、朝倉を喜ばなかったらしく、6月初
 めに南近江の一揆を寄せ集め、単独で野洲川下流域にう
 って出た。
  佐久間信盛と柴田勝家がこの挙動を押さえた。
1570年6月、家康が、浜松に移った。
  家康は、信長の意向に反して、あえて祖父以来の根拠
 地であった三河岡崎から遠江浜松に移った。
  これは、武田信玄に対抗するためであった。
1570年6月4日、近江にいた秀吉は、この日に、堺の今井
 宗久に、鉄砲薬30斤と、鉛硝30斤の調達と、大阪にある
 兵糧米の輸送を頼んでいる。
  2か月前の思い上がりと迂闊(うかつ)さはもう見られ
 なかった。
1570年6月19日、信長が近江に入いる。
  信長は、この日に、岐阜を出陣し、国境を守る堀次郎・
 樋口直房を誘降して近江に入った。
  そして、今度は慎重に、浅井の本城・小谷城を無理攻
 めせず、周りの村々を焼き払いながら横山城を囲んだ。
1570年6月20日、信長が、小谷城近くに攻め込む。
  そして、この日に、京都で軍体制を整えた信長は、大
 軍を率いて、浅井長政の居城・小谷城近くに攻め込んだ。
  浅井長政は、朝倉義景に援軍を請い、信長も徳川家康
 の援(たす)けを受けていた。
1570年6月28日、姉川の合戦。
  この日に、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍が激
 突した。
  結果は、織田・徳川連合軍の大勝であった。
  信長は、小谷城を攻める事をしなかった。
  秀吉に命じて、落城していた横山城(よこやまじょう、
 山城、滋賀県堀部町、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点
 として築城)を築かせ、小谷城の押さえとし、秀吉をそ
 こに置いた。
  ここから、秀吉の近江での活躍が始まった。
  織田軍は、じりじりと小谷城の包囲の輪を縮め、小谷
 城のすぐ近くの虎御前山(とらごぜ)に要害を構え、そ
 の定番として秀吉を入れた。小谷城は孤立して行った。
1570年6月28日、信長の動きにつられて長政は、朝倉景健
 (あさくらかげたけ、朝倉氏の家臣・景隆の末子)の援
 軍と大寄山に出陣し、6月28日の姉川の合戦で酷い痛手
 を受けていた。
  この戦いで、家康は、強く先鋒を望んで入れられ、ほ
 とんど独力で朝倉郡を打ち破っていた。
  即日、信長は、将軍・義昭に披露させるべく細川藤孝
 に宛てた手紙で「野も田畑も死骸ばかりに候、・・」と
 書いた。
  そして、なお頑強に抵抗している磯野員昌の佐和山城
 に長囲(ちょうい、長い間取り囲む事)の軍を置いて、
 7月4日に、一旦京都に入り、次いで岐阜に帰った。
1570年7月21日、三好が挙兵。
  浅井に対して最後の決戦を挑まず、一旦、岐阜に引き
 上げたのを、三好三人衆は信長の敗退と見たのだろう。
  摂津中島に、7月21日に入り、野田・福島に陣地を築
 いた。
  ついで、石山本願寺が三好党に通じて挙兵し、ここに
 信長の危機が始まった。
  妹のお市や、その子供たちの居る小谷城、兄・信長の
 本心は攻めたくなかったのだろう。
  姉川の合戦で、妹婿の長政に大きな痛手を与えたこと
 で十分としたのだろう。
  故に、一旦岐阜へ引き上げたのだろう。
  そこを見損じていた三好たちだった。
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(増補版)74C2/3:気になった事柄を集めた年表(1569年~1570年)

 題:(増補版)74C2/3:気になった事柄を集めた年表(1569年~1570年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1569年、信長の二女・冬姫(実子)と蒲生氏郷が結婚した。
  信長が、この少年はきっと将来大物になると見込んだ
 のが氏郷だった。
  婿として迎えた。
  氏郷14歳、冬姫12歳だった。
  近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が信長に臣従したとき、
 信長は、賢秀の子・氏郷(当時は鶴千代)を人質として
 取ったが、その時に鶴千代の器量を見抜いた。
  氏郷は、1590年に、陸奥会津に移封されて42万石(後
 に検地・加増により92万石)、
  伊達政宗を抑えるため、奥州の92万石という大きな石
 高を与えられたとされるが、
  氏郷は、「都に近い所でなければ本望を遂げられない」
 と嘆いたという。
  しかし、秀吉は、信長が認めた器量人である氏郷を恐
 れ、会津92万石に移した際、「氏郷を上方に置いておく
 訳にはいかぬ(名将言行録)」と側近に漏らしたという。
1569年2月、信長が、将軍邸を造営する。
  信長が、将軍のために二条新邸の造営を始めた。
  将軍邸造営に事よせて、三好制圧から一気に動員力強
 化を図ったのではないか。
  ついで、信長は、皇居修理に手を付けた。
1569年3月、信長が、廷臣(ていしん、朝廷に仕える臣下)
 の所領安堵をした。
  信長は、廷臣の所領で、久しく彼らの手を離れていた
 ものを回復するため、その記録提出を求め、この時に、
 廷臣は提出している。
  この所領安堵と、将軍邸の造営と、皇居の修理を始め
 た信長を見て、胸をなでおろした。
1569年3月、天皇が、信長に副将軍を任命した。
  天皇の使いが信長のもとに来て、この事を伝えると、
 信長は返事をしなかった。
  また、将軍の義昭が、信長へ、「近江・山城・摂津・
 和泉・河内の5カ国を望み通り知行する」と言ったが、
 これもまた辞退した。
  ただ、信長は、義昭から桐と二引両(ふたつひきりょ
 う)の紋はあっさり貰った。
  これは、武家の棟梁の紋だった。
1569年3月、信長の撰銭令。
  (撰銭、せんせん、えりぜに、劣悪な銭貨を排除した
 こと)
  信長が撰銭令と同追加令を出し、米や悪貨で取引をす
 ることを禁じた。
  そして、信長は廷臣領の回復も行った。
1569年3月、信長が、キリスト教宣教師が京都へ戻ること
 を許した。
  将軍・義輝の暗殺の1565年以来、キリスト教宣教師の
 ルイス・フロイスは堺に潜んでいた。
  この時、信長は京都へ戻ることを許した。
  フロイスは、帽子、金平糖を入れたガラス瓶、砂時計、
 ダチョウの卵、その他、南蛮渡来の珍品を信長へ送って
 いる。
  目覚まし時計は無駄だからと受け取らなかったという。
1569年4月8日、信長が、キリスト教の伝道を許した。
  ルイス・フロイスが、信長から京都の居住と、伝道を
 許された。この日の日付で朱印状を出している。
  また、この頃も、皇居の修理をしている。
1569年8月、信長が、秀吉を但馬国(たじまのくに、兵庫
 県豊岡市)にやり、生野銀山(いくのぎんざん)を直轄
 地とした。
  生野銀山は、平安時代の、807年に、開抗と伝えられ
 るが、詳細は不明。
  1542年に、石見銀山から採掘や精錬の技術を導入し、
 本格的な採掘がはじまっていた。
1569年10月、信長が、伊勢を平定した。
  信長が、兵糧攻めで大河内城の北畠を降ろし、南伊勢
 を平定した。
  そして、国人・土豪の結集を図り統制した。
  大河内城には次子・茶筅丸(信雄・のぶかつ)を入れ
 た。
  そして、信長は、不要と思われた城は破却した。
  そして、関も撤廃した。
1569年10月17日、信長は、伊勢を平定して上京し、義昭
 に北畠降伏を報告すると、それからわずか6日目のこの日、
 突然、岐阜に帰ってしまった。
  将軍と衝突が原因か?
1569年、オランダのメルカトルの世界地図が作られた(メ
 ルカトル図法)
1570年1月、信長が、将軍・義昭の実権を奪った。
  実権を奪われても、義昭は、信長に従おうとしなかっ
 た。
  さらに改元問題(年号の改め)などで信長に対抗した。
  ここは、信長が及ばない特殊なところだった。
  天皇のとりなしで、信長は、五箇条の条書を義昭に送
 った。
  この条書は、信長が、明智光秀・朝山日乗に宛てた形
 式をとっていて、その右端に義昭が捺印して承認の意を
 示す形となっていた。
  つまり、信長の要求を義昭が飲んだ形になった。
  内容は、義昭の内書には必ず信長の添え状を付けると
 か、これまでの義昭の命令はすべて破棄するとか、天下
 の事はすべて信長に任せた以上、将軍の承認を得るに及
 ばず、信長の分別しだい処理するとかで、
  義昭の実権を、ほとんど奪ったといったものだった。
1570年2月、信長が上京し、貴族や奉公衆(ほうこうしゅ
 う、官職の1つ)の出迎えを受けた、
  翌日、参内した。
  以後、度々、皇居の修理の様子を観察し、
  また、廷臣に家領(けりょう、所領や荘園の事)を注
 進(ちゅうしん、報告する事)させたりした。
1570年4月、浅井・朝倉・六角が挙兵した。
  また、近江一向一揆がしきりと起きた。
1570年4月、武田信玄が、信長を非難した。
  北条氏康や上杉謙信が、信玄の侵略を将軍・義昭に訴
 えたのに対抗して、信玄は、彼等の言を入れない様にと
 進言するとともに、
  はっきりと信長とは名指さずに「当出頭之人」(いま
 幕府に出頭している人、つまり信長)の隣国の武士に出
 す手紙は「上意御下知」(将軍の命令)であるかのよう
 な書き方であるから注意されたいと、暗に信長を非難し
 た。
1570年4月、義昭が、年号の改元について、信長の意向に
 反して決めた。
1570年4月、義昭は、4月1日に猿楽を興行し、信長や諸大
 名・廷臣を招いた。
  また、5日には、信長と一緒に調馬(ちょうば、馬を乗
 りならすこと)を見るなど、京都の空気は太平の様に見
 えた。
1570年4月20日、信長が、越前の朝倉征伐に動いたが・・
  この日に、信長は、大軍を率いて越前の朝倉征伐に出
 陣した。
  朝倉義景が、信長の再三の上洛の催促を拒み続けたか
 らだった。
  この時、秀吉は、敦賀に攻め入り、手筒山城を落とし、
  ついで、金ヶ崎城を攻め、秀吉みずから使者となって、
 城主・朝倉景恒(あさくらかげつね、家臣)に開城をす
 すめ、誘降を成功させた。
  この時、浅井長政の謀叛の報が伝わった。
  信長の妹・お市の方が嫁いでおり、信長方は長政謀叛
 は予想はしていなかった。
  それに対する備えもなく、信長軍は退路を断たれる事
 となり、袋の鼠となった。
  信長は、急遽、朽木(くつき)越えで京都に逃げ帰り、
 秀吉は殿軍(しんがり)の大任を引き受けた。
  秀吉は、見事に朝倉勢の追撃を防ぎ止め、
  信長は岐阜に戻った。
  信長は危うい所を助かった。後の、朝倉攻めに続いて
 行く謀叛行為となった。
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2015年4月16日木曜日

(増補版)73C2/3:気になった事柄を集めた年表(1568年~1569年)

 題:(増補版)73C2/3:気になった事柄を集めた年表(1568年~1569年)
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1568年10月、堺が、信長の矢銭(やせん、軍事費)を断わった。
  信長は、1568年に、上京し、摂津・和泉を平定すると、
 各地に矢銭(軍事費)をかけた。
  石山(大阪)本願寺は5000貫、堺は2万貫をかけけら
 れたが、堺は断わり、信長の意に従わなかった。
  そして、能登屋・紅屋などの豪商を大将にし、36人の
 会合衆(えごうしゅう)が中心になって、やぐらを高く
 したり、堀を深くしたり、浪人を集めたりして、防戦の
 準備をした。
  また、摂津の平野郷(今の大阪市東住吉区)へ、共同
 で防戦しようと申し入れた。
  しかし、信長はあえてこれを攻めなかった。
  この話に後日談があり、
  会合衆たちが、三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を
 見せたのだが・・、
  堺の商人・今井宗久(いまいそうきゅう、千利休らと
 共に茶湯の天下三宗匠と言われる)が、この要求を受け
 入れる様に仲介し、無事に話をまとめている。
  かえって、堺にとって、この結論の方がよかった。
  この後、鉄砲鍛冶工を集めて鉄砲や火薬製造の重要地
 になり、また、塩の権益を受けたり(1569年)、生野銀
 山の支配もできたりと(1570年)、堺が栄える事にもな
 った。
1568年10月、信長の検地。
  近江平定早々の1568年10月に、蒲生郡安吉郷(あきご
 う、今の竜王町)に属する村々は、信長の奉行の村井貞
 勝・丹羽長秀に、当郷「指出(さしだし)」に不正なく、
 もし今後、不正があれば、どんな処分でも受けると誓っ
 ている。
  信長や戦国大名の検地は、実は、ほとんどの場合、領
 主から土地台帳の写しを「指出」させるだけのものであ
 った。
1568年10月9日、義昭が仁和寺に所領安堵し、それに信長
 の添え状を付けている。
1568年10月18日、義昭が将軍となったが・・、
  義昭の将軍任命を見て、信長は、いったん帰国しよう
 とすると、
  義昭は、信長を招いて、能楽を張り、酒宴を催した。
  義昭は、信長の恩を感じていた。
  酒宴の席で、義昭は、信長に鼓(つづみ)を望んだ。
  信長は、きっぱり断った。
  また、宴が始まった時、義昭は、副将軍でも、管領で
 もない信長の望みしだいに任命すると言い出し、
  これも信長に断わられた。
  さらに、翌日、義昭は、信長に与えた内書(将軍が、
 いわば非公式に出す文書)3通のうちの一つで、
  性懲りも無く、「今度の忠恩」により、信長を幕府の
 3管領家の筆頭である斯波の家督にすると伝えた。
  もはや陪臣(ばいしん、臣下の臣)扱いではないが、
 あくまで管領、すなわち将軍家の家臣扱いであった。
1568年10月20日、この日に、義昭と信長に、山科言継(
 やましなときつぐ、公家)の旧領を返すようにとの勅命
 があった。
  翌日、幕府は、「上下京中」に皇室領の諸役を勤める
 よう命じた。
  それには、信長と和田惟政の添え状があった。
  以後、幕府の貴族・寺院に対する所領安堵が多し。
  この史実は、政治の実権が、あたかも戻って来た様な
 行動であり、それを、信長の威を借りて行っているとい
 うところとなっている。
  所領安堵を、どんどん勝手にやっている。
1568年、ネーデルランド独立戦争。
  1568年から1648年までの戦争で、八十年戦争とも言
 う。スペインに対してオランダが挑んだ。
  結果、ネーデルランド連邦共和国が独立した(オラン
 ダ独立戦争ともいう)。
  神聖ローマ帝国時代に、キリスト教のプロテスタント
 が伝わり、普及したため、異端審問が行われるようにな
 った。
  暴力と、権力の乱用の時代だった。迫害行為もあった。
  キリスト教の両派は、いがみ合った。
  また、増税や、中央集権強化でさらに締め付けが強ま
 った。
  新たな課税を否定し、スペイン軍の撤退を求める抗議
 の集団との摩擦が強まって行った。
  異端審問の卑劣さが反乱のきっかけだった。
  あるキリスト教が、対抗するキリスト教を異端だと断
 定する行為は卑劣で、蔑むものだった。
  皇帝の統治権を否認する布告を出したりした。
  このドロドロした戦いが長く続くが、一時、インドな
 どの植民地からの甘い利益が流れ込む一時期、停戦が、
 12年間あったが、結局、80年間の殺し合い、戦いが、
 そこにあった。
1568年、キリスト教宣教師のオルガンティノが、京都に南
 蛮寺(永禄寺)が建立した。
1569年1月、信長が、堺を脅す。
  信長が率いる織田軍が、美濃に帰還した隙をついて、
 三好3人衆(三好長逸・三好政康・石成・いわなり友通)
 が、堺を根拠に京都に攻め入った。
  足利義昭の仮御所を攻撃した。
  しかし、信長は、雪の中をわずか2日で戻り、三好・斎
 藤軍を敗退させた。
  1月10日には、三好軍と共同して決起した高槻城を攻
 め、入江春景は降伏したが、再度の離反のため処刑し、
 高槻城に和田惟政を入城させた。
  そして、この日、信長は、堺へ2万貫の矢銭と服属を
 要求した。これに対し、堺の会合衆は抵抗した。
  これに対し信長は、堺が浪人を抱えて三好を助けたこ
 とを攻め、一軒残らず焼き払った。
  そして、皆殺しにすると脅した。
  町衆の動揺は大きく、婦女子を非難させ財産を疎開し
 た。そして、36人衆は、今後、浪人を置かないこと、三
 好に通じないことを誓った。
  そして、矢銭2万貫を出して、やっと許された。
  日本の戦いにはさらっとしたところがある。一度は許
 すという所もある。欧米の陰湿さはない。
..
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2015年4月15日水曜日

(増補版)72C2/3:気になった事柄を集めた年表(1566年~1568年)

 題:(増補版)72C2/3:気になった事柄を集めた年表(1566年~1568年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1567年、淀君(よどぎみ、よどどの、秀吉の妻)が生まれた
 (1567年?~1615年)(1569年生誕説あり)
  父・浅井長政、母・信長の妹・お市の方、
  本名・浅井茶々(あざいちゃちゃ)、および、浅井菊
 子(あざいきくこ)、
  秀吉の側室となるが、大坂夏の陣(1615年)で、家康
 の作った江戸幕府との戦いで生涯を閉じた(48歳、もし
 くは46歳)
1567年、伊達政宗(だてまさむね、出羽国・陸奥国の戦国
 大名)が生まれた(1567年~1636年)
  独眼竜政宗で有名、幼少時の天然痘によって右目を失
 明した。
  秀吉の命令に従わなかった(秀吉が惣無事令という私
 戦禁止令を伊達向けに出したが、無視して戦争を続けた)。
1567年、織田信長が、小牧山城から井ノ口城に入る。
  信長は、1567年に、美濃を手に入れ、小牧山城から井
 ノ口城に入りその地を岐阜と改めた。
1567年春~8月、信長が、北伊勢に出兵した。
1567年、信長が、斎藤竜興を追い、岐阜に移る。
1567年8月15日、信長が、稲葉山城を攻落する。
  信長は、1567年8月15日に、稲葉山城を攻め落とし、
 斎藤竜興を追う事に成功した。
  そして、信長は、そこを岐阜と命名して居城とした。
  信長に美濃三人衆の稲葉通朝・安藤範俊・氏家卜全が
 通じて来た。
  慎重にと構えてきた信長は、思い切って一挙に稲葉山
 城を攻め、1567年8月15日に、これを落とした。
  竜興は、船で伊勢長嶋に退いた。
  信長はすぐここへ移り、この地を井ノ口と言っていた
 のを改めて岐阜とした。
  これは墨俣築城があったからであり、また、墨俣築城
 が出来たのも土豪や地侍を組織した事が功を奏した。
1567年11月、信長が、皇室領回復などの勅命を受けた。
1567年、ガタルカナル島発見。
  スペイン人のオルテガが発見し、出生地に因んでガタ
 ルカナルと命名した。
  イギリスが、1893年に、保護領とした。
1568年2月、信長が、北伊勢を平定した。
  岐阜攻略の前後3回に渡って北伊勢に出兵したのも、
 「京都への上洛」の為であって、
  ただ、領土拡張を目指したのではない。
  当時、伊勢では、国司・北畠が、南五郡に勢力を張り、
 北伊勢8郡には、関・工藤両氏の一族と、48家にものぼ
 る独立の小大名が割拠していた。
  信長は、まず、1567年春、岐阜攻撃を前にして滝川一
 益をやって、伊勢北境の諸城を攻めさせ、
  次いで8月、翌年2月と、3度出兵し、関一族の惣領・
 神戸友盛を降ろして、3男・信孝をその養子に押し付け、
 工藤一族の惣領・長野に弟・信包(のぶかね)を入れた。
  そして、関一族は信孝に、工藤一族は信包に、他の諸
 氏は滝川一族に支配させ、また、安濃郡安濃津に織田掃
 部を置いて北畠に備えさせた。
1568年7月、信長が、義昭を迎える。
  信長は、その第一歩として、当時、越前朝倉の下に身
 を寄せていた足利義昭を、美濃立政寺(りゅうしょうじ)
 に迎える事が出来た。
  そして、自ら、浅井長政の属領・近江・佐和山城(城
 主・磯野員昌・かずまさ)へ出かけ、六角承禎に、義昭
 擁立について協力を求めた。
  承禎は断った。
  信長や長政など、外部の、それも、本来守護の家臣に
 過ぎない成りあがり者の、干渉すへき筋合いのものでは
 ない、と考えられたのだろう。そこで、信長は、一旦岐
 阜に帰った。
1568年9月、信長が、楽市・楽座を指定する。
  信長は、1567年に、岐阜へ移ると早々の9月に、城下
 の北加納に布告して百姓の保護を計り、
  10月に、加納の市場を「楽市場」として、
  この市場へ来る商人たちは、信長の領国を自由に往来
 できること、
  この市場に代々居住していた者も、それを邪魔にして
 はならないと、その他を布告した。
  1568年9月の布告では、はっきり加納を「楽市楽座」
 と指定した。
1568年9月7日、信長が、近江に攻め入る。
  信長が、尾張・美濃・伊勢の兵と、徳川家康の援軍を
 率いて、1568年9月7日に、岐阜を出て、近江に攻め入っ
 た。
  六角は、本城の観音寺・箕作(みづくり)両城を修築
 する一方、和田山城を築いて、選りすぐりの兵を入れ、
 信長の侵攻に備えていた。
  ところが、信長は、この城には美濃衆を差し向け、子
 飼いの総力を挙げて、箕作城を攻めた。
  本城さえ落とせば、支城は降りると見通したのである。
1568年9月12日、信長が、箕作城を落とした。
1568年9月18日、信長が、観音寺城を落とした。
1568年9月18日、信長が、観音寺城と箕作城の両城を落と
 すと、この日、支城の18が開城した。
  降伏したものは人質を取って、そのまま、その城にい
 る事を許した。
  そして、すぐ義昭を迎え、抜かりなく義昭を奉じて上
 京する旨を上杉謙信に知らせた。
1568年9月22日、信長が、近江を平定。
  信長が、近江を平定し、上京した。
  1568年9月22日に、信長は京都に入り、義昭は清水寺
 に泊まり、信長は東寺に陣を張った。
  信長が近江を平定して、京都に迫ると、朝廷は激しい
 恐怖に襲われていたという。
  信長の「上京」には放火・略奪・暴行は避けられぬと
 感じられていたのだろう。
  しかし、信長は、皇居の警固と、京都内外の治安維持
 にひどく気を使い、事実、織田軍の軍紀はかなり引き締
 まっていたようである。
  これは、織田軍の組織の性格にも関わることだろうが、
 ともかく天皇・貴族は、ひとまず胸をなでおろしただろ
 うし、京都の民衆も同じだったに違いない。
  米欧各国と違い、今・現代でも、日本は、東日本大震
 災ででも、世界中から絶賛されたように、日本人の高い
 倫理性と誠実性・高貴性が昔からあったと言える。
  入洛してからの信長は、義昭を将軍に置いた。
  そして、天下統一の画期をなした(かっき、過去と新
 しい時代とを分ける事)
  この時、秀吉も軍事行動に加わり、近江の六角に対す
 る攻防などに戦功をあげ、上洛後、京都奉行に抜擢され
 た。
  この時の奉行は、複数制で秀吉のほか、佐久間信盛・
 村井貞勝・丹羽長秀・明智光秀・中川重政であった。
  秀吉は、おねとの結婚7年目、その才能を認められる
 軌道に乗ったのだった。
  この際も、6万の信長の大軍と共に行った働きが元だっ
 た。
  この頃、キリスト教宣教師の信長に対する評がある、
 「傲慢」「ほとんど規律に服せず」(従来の習慣・規律
 に捉われないという事)、
  そして、この頃、信長は、将軍にした義昭の邸を建築
 させている。
  そして、その工事現場で、信長は坐するための虎の皮
 を腰につけていたという、そして、「甚だ粗末な衣服を
 着す」と記す。すると、「皆がこれに倣っていて、宮廷
 の服を着して彼の前に出る者なし」とも書いている。
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2015年4月14日火曜日

(増補版)71C2/3:気になった事柄を集めた年表(1563年~1566年)

 題:(増補版)71C2/3:気になった事柄を集めた年表(1563年~1566年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1563年、織田信長は今川義元を倒し、家康と結び、東を顧
 慮することなくひたすら西へ進めるようになった。
  この年・1563年に、小牧山に要害を築いて東美濃攻撃
 の根拠とした。
1563年3月、信長の娘と家康の子・信康の婚約が結ばれた。
  戦国時代には珍しく、最後まで変わる事が無かった織
 田と徳川の同盟が成立した。
  この時、協定したと思われることが、信長は、美濃・
 伊勢へと西へ出ること、そして、家康は、遠江・駿河の
 東を目指すことだった。
  これはずっと守り続けられた。
1563年7月、信長が、小牧に要害を構えた。
1563年7月、信長が美濃への進出を計った。
1563年7月、信長が、居城を小牧山に移した。
  美濃への前身拠点とするため、居城をそれまでの清州
 から小牧山へ移した。
  信長の覚悟のほどがうかがわれる。
1564年、三浦按針=ウィリアム・アダムスが生まれた。
 (1564年~1620年)イギリス人航海士・水先案内人・貿
 易家。
  乗っていたリーフデ号とともに、1600年4月に、豊後
 に漂着した。
  取り調べ中、キリスト教宣教師たちが来て、即刻、処
 刑するように要求した。
  5月になって、家康が、ウィリアム・アダムスと、ヤ
 ン・ヨーステンに引見した。
  彼等は、ポルトガルとスペインのキリスト教のカトリ
 ック国と、イギリス・オランダのプロテスタント国の戦
 争や紛糾を臆せず話した。
  家康は、彼らを気に入って誤解を解いた。
  そして、執拗に処刑を要求するキリスト教宣教師らを
 黙殺した。
  そして、後に、家康は、彼らを江戸に招いた。
1564年、信長が、ほぼ尾張を統一した。
  信長が、木曽川を隔てて美濃に対する犬山城を捕り、
 ほぼ尾張を統一した。
  犬山城の織田信賢(前・岩倉城主)を降ろし、丹羽長
 秀(織田の家臣)を入れて尾張統一を完成した。
1564年、秀吉が、蜂須賀小六と出会う。
  この年に、秀吉が、斎藤方の武将の誘降に成果を上げ
 たことは、蜂須賀小六と出会ったこととつながりがある
 と考えられる。
  秀吉は、放浪時代こうした濃尾国境付近の土豪と何ら
 かのつながりを持っていたであろう。
  そして、その旧知の間柄の蜂須賀小六らに美濃土豪へ
 の橋渡しを依頼し、それが功を奏したと考えられる。
1564年2月、竹中半兵衛重治が、稲葉山城を奪取した。
  美濃・稲葉山城において一つの騒動が持ち上がった。
  斎藤龍興の家臣で菩提山城主だった竹中半兵衛重治が、
 稲葉山城を奪取した。しかし、すぐに城を返している。
1564年3月、信長が、浅井長政と結んだ。
  信長は、近江の浅井長政と結んで、妹のお市と結婚さ
 せた。
1564年8月、信長が、東美濃に進出した。
  この時、斎藤方の内紛に乗じ、信長は秀吉に命じ、斎
 藤方の武将で美濃・松倉城の(岐阜県川島町)の坪内利
 定を寝返らせることに成功している。
  さらに、秀吉は、この坪内利定を東美濃侵入のための
 案内役とし、斎藤方の諸将の誘降を計った。
  秀吉の大活躍により、鵜沼城・猿啄城・兼山城・関城
 などが信長方となり、信長勢による美濃攻略の足場が確
 保された。
1564年9月、信長が、皇室領の回復の勅命を受けた。
  立入宗継(朝廷の倉を預かる御倉の家)が尾張に下っ
 た時に、信長へ、皇室領の回復について、天皇の意思が
 伝えられた。
  これは、織田信長の西上の志を刺激した。
1564年、ミケランジェロが死んだ(1475年~1564年)
  ミケランジェロの死後、
  彼が描いた「最後の審判」のキリストとマリアの裸体
 の描写について、キリスト教の高い位の聖職者(枢機卿)
 が、削除せよのクレームがつけた。
  それによって、修正画家の手によって、局部を隠す修
 正の作業が行われた。
1565年5月、将軍・義輝が殺された。
  三好義継と松永久秀が、将軍・義輝を殺した。
  その弟で、当時、興福寺一乗院にいた覚慶(還俗して
 義秋、次いで義昭と改名)は、近江甲賀の土豪・和田惟
 政(これまさ)のもとに逃れた。
  彼が、亡命先から大名たちに争いを止めて将軍家復興
 に協力するように呼び掛けている様は、まるで将軍の様
 であった。
1565年11月3日、信長の知行安堵状。
  信長は、坪内利定らに知行安堵状を出した。
  この時、副状が出され、差出人が秀吉になっていた。
  これは、織田家中において、秀吉が、足軽大将でなく、
 その存在が認めれれている地位にいたことを示す。
1565年11月、織田信長が、武田信玄と結ぶ。
  信長は、信玄と結んで、信長の養女をその子・勝頼に
 嫁せした。
1565年、フィリピン:スペイン人のレガスピが、1565年に、
 マニラを占領した。
  スペインのキリスト教略奪者は、奪った土地に「イエ
 スの最も聖なる御名の村」と名付けたりした。
  同盟を結ぶふりをしてだましたりの卑劣な行為もし、
 そして、戦いが起これば重装備のキリスト教徒軍の勝ち
 は目に見えていた。
  奥地へフィリピンの方たちを追い、支配に応じないも
 のを拷問したり、処刑したりした。
  そして、税を取立てた(黄金を奪った)。
  マニラは陥落し、以後、スペインの植民地となる(ス
 ペイン人のフィリピン征服)。
1566年4月、朝廷が、義昭を左馬頭に任じ、従五位下に叙
 した。
  さすがの松永久秀もそれは何ともならなかった。
1566年8月、信長が、足利義昭から幕府回復の命を受ける。
1566年8月、信長が、義昭から出兵を求められると、いよ
 いよ斎藤を目の上の瘤と感じ、
  斎藤竜興(義竜の子)は竜興で、信長との和解を命じ
 られたが、信長の出兵を指をくわえてみている訳がなく、
  信長は、すぐ美濃に攻め込んだが、風雨や洪水に悩ま
 され、竜興に反撃されて敗退した。
1566年9月、秀吉が、墨俣城を築く。
  信長が、この時、美濃の墨俣に砦を構えた。
  秀吉は、美濃の斎藤竜興を攻めるため、長良川の西岸
 に一夜城として有名な墨俣城を築き、信長の信頼を得た。
  美濃の足場を得た信長は、次に打った手は墨俣に砦を
 作ることだった。
  この地は、木曽川・長良川・揖斐川(いびがわ)の3本
 の川が接近した低湿地で、斎藤方の妨害もあり、築城は
 困難を極めた。
  はじめ、老臣の佐久間信盛が命じられ、ある程度、完
 成したところを壊され、2番手の柴田勝家も同様に失敗し
 た。
  家臣たちは怖気(おじけ)づき、この後に、この大役
 を買って出るものがいなかった。
  秀吉は、この大役を買って出て、蜂須賀小六ら濃尾国
 境付近の土豪など1000人余を集める事に成功し、組頭を
 定め、櫓・塀などの用材を筏(いかだ)に組んで木曽川
 を通して運び込み、また、現場では築城の関わる人数と、
 斎藤方の攻撃を防ぐ人数に手分けし、分担協業の方式で
 工事を急がせ、見事に完成させた。
  秀吉が、1566年9月に、墨俣に城を築いた。
  7月5日から8月20日の47日間を要したと言われ、長屋
 が10棟・櫓10棟・塀2000間という規模だった。
  しかし、この墨俣城築城は『絵本太閤記』の著者の竹
 内確斎の創作と思われる。
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2015年4月12日日曜日

(増補版)70C2/3:気になった事柄を集めた年表(1560年~1563年)

 題:(増補版)70C2/3:気になった事柄を集めた年表(1560年~1563年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1560年、石田三成(いしだみつなり、豊臣政権を支えた人、
  五奉行の一人、ご意見番は後世の創作)が生まれた
 (1560年~1600年)
1560年、大久保彦左衛門(忠教、おおくぼひこざえもん、
 ただたか、江戸幕府の旗本、)が生まれた(1560年~
 1639年)、彦左衛門に1626年稿の「三河物語」がある。
1561年1月、ベーコン(イギリス人哲学者、)帰納法を主
 張した(1561年~1626年)
1561年春、清州同盟。
  桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討たれる
 と、それまで今川氏に従属していた松平元康(徳川家康)
 は、切腹を考えていたと伝わっている。その際、寺の住
 職より、太平の世を築く尊さを諭されたという。
  正式に同盟が締結されたのは、桶狭間の戦いから2年後
 の時、この時、家康が信長の居城である清州城を訪れ、
  信長と家康との会見がもたれ、同盟が締結された。
  徳川家康が、従来、ずっと敵対していた織田と和した
 時だった、そして、今川と絶縁した。
1561年5月、信長の隣国・美濃の斎藤義竜が病死した。
  信長は兵を送って攪乱を計った。また、1563年には、
 美濃への進出を計った。
1561年8月3日、秀吉結婚。
  秀吉が、おねと結婚した。
  秀吉とおねが、清州城下の茅葺きの裏長屋で祝言をあ
 げた。
  媒酌人は、友人の前田犬千代(後の利家)で、簀掻藁
 (すがきわら、スノコ代わりのワラ)の薄縁(うすべり、
 布の縁をつけたござ)を敷いた上で盃をかわすだけの、
 簡素なものであった。秀吉25歳、おね14歳だった。
  「平姓杉原氏御系図附言」では、二人は「野合(やご
 う)」によって結ばれたという。野合とは、秘かに結び
 つくこと、つまり、親も認めないうちに結婚すると言う
 事。
  おねの母・朝日は怒った。
  さらに、秀吉の卑賤を嫌って、二人の結婚を許さなか
 った。
  助け舟として朝日の妹・七曲(ななまがり)が七曲夫
 婦の幼女としておねを迎え入れ、秀吉と正式な結婚式を
 挙げさせた。
  秀吉は、七曲の夫・浅野長勝の浅野家へ入婿となった。
  秀吉は、おねとの結婚と同時に木下藤吉郎秀吉を名の
 った。
  おねの実家が木下姓であったためと推測される。
1561年9月、川中島の戦い。
  甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の4回目の川中島の
 大決戦。
1562年6月、加藤清正(かとうきよまさ、肥後熊本藩初代
 藩主)が生まれた(1562年~1611年)
  主君:豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
  朝鮮での文禄・慶長の役の時に活躍した。
  江戸城・名古屋城など数々の築城に携わった。
  熊本領内の治水事業も意欲的にやり、今現在でも多く
 の遺構がある。
  その土木技術は、非常に優れており400年後の現在も
 実用として使われている遺構も少なくない。
  また、その事業の多くを農閑期に行う事によって、そ
 の収入を計り、民百姓の事を思った。
1562年、琉球より三味線が渡来した。
1562年、この頃、堺・平戸・坊津などで鉄砲の鋳造が始
 まった。
1562年1月、信長、家康と同盟(1561年説あり)。
  徳川家康が自ら清州に出向いて信長と会見した。
1562年、ユグノー戦争(1562年~1598年)
  キリスト教のカトリックとプロテスタントが40年近く
 戦った戦争。
  ドイツ人のルターが、キリスト教カトリック批判し、
 ドイツから始まった宗教改革運動は、フランスへ波及し、
 カルヴァンのキリスト教が勢力を持った。
  カトリックがユグノーと呼んだ。
  ユグノーは、カトリック勢力から卑劣な弾圧がなされ
 た。この年には、キリスト教にはお決まりの、虐殺事件
 も起きた(ヴァーシーの虐殺)。
  これを契機に戦乱状態になって行った。
  事を収められないキリスト教だった。
  「異教徒は殺せ」の教義の洗脳は本当に悪である。
  聖書の記述に、戦いを正義と書いてあるのが原因。
  「(キリスト教の)神の義があれは、人を誅してもよ
 い」とある。
  1572年にも、虐殺が起きている(サン・バルテルミの
 虐殺)。卑劣な宗教、極まりない。
  国王の暗殺まで引き起こされ、ドロドロと40年近くも
 争い、民は苦しんだ。
  異端の嫌疑の問題が飛び交った。
  そして、弾圧から逃れまわった。
  そして、「火刑法廷」という言葉が巷に満ちた。
  人々を幸せにできない宗教の姿。教会は熱狂にうなさ
 れ、民だけが迷惑し恐れた。陰謀も渦書いた、そして、
 処刑が待っていた。
1563年、細川ガラシャ(明智光秀の三女、細川忠興の正室、
 キリスト教徒)が生まれた(1563年~1600年)
  キリスト教の本当の情報に接しられなかった中世のキ
 リスト教徒。
  キリスト教に偏するNHKは、この女性を美しく大河ド
 ラマにした。城内の部屋に巨大な十字架を置いて祈るシ
 ーンとか、まったく史実無視の数々のシーンをドラマに
 仕立てあげ、影響力の強いNHKの放送媒体を使って日本
 全国の茶の間へ嘘放送をし続けた。
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