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2017年10月19日木曜日

(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)

題:(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年7月22日 徳島県下の大水害(7月23日説あり))
  明治25年(1892)7月23日朝、台風が高知市付近に上陸
 して山陰に抜けた。
  徳島県は暴風雨、洪水、高潮の大災害に見舞われ、そ
 の上山岳の崩壊も数知れなかった。
  県下の被害は8月2日現在で死者311人、負傷者89人、家
 屋の全壊2,635戸、流失644戸、半壊2,559戸、潮入36,242
 戸、船舶478艘、堤防決壊57km、海水浸水6,799町、雨水
 浸水19,653町等に及んだ。
  山岳崩壊では、保瀬の大崩壊が25日10時頃起こり死者
 47人を出し、高磯山の崩壊が25日11時に起こり対岸の集
 落の15戸65人を埋没させるなどした。
1892年7月23日、岡山地方に未曾有の大雨
  盆を覆すが如き大雨で、旭川、吉井川、百間川、砂川
 等増水し、石関町、下出石町堤防2ヶ所の決壊を期に各
 所で破堤し、溢水と混合して市内一円高きは軒に達し低
 きは床上数尺の大洪水となる。
  風 速 直東30m/s(23日08時) 気 圧 737.6㎜Hg(=984mb)
  雨 量 23日06時~18時の12時間166㎜ 23~24両日の降
 雨総量245.4㎜
  出水高点 旭川:岡山1丈7尺、御野2丈3尺 吉井川
 :上道1丈8尺 砂川:上道1丈5尺
1892年7月25日、徳島県保瀬の大崩落
  徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災害とな
 る。
  明治25年(1892)7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川
 上流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が
 起こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  明治25年(1892)7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発
 生し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万
 立米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  明治25年(1892)7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとなっ
 た。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  明治25年(1892)7月25日午前10時頃、川上村大字平井
 の保瀬の右岸山上が大崩壊した。
  山の土砂が海部川を堰き止め、洪水は逆流し、寒ヶ瀬
 一帯は濁流に襲われた。
  この大崩壊のため、埋没4戸、洪水による流失8戸、死
 者47人を出した。
  この災害は、大戸の崩壊とともに徳島県下の山岳崩壊
 中特筆すべきものである。(「海部郡誌」による)
  明治25年(1892)7月25日、長時間の暴風雨と満潮が重
 なって、海部川は至る所で堤防が決壊し大洪水となった。
  16時間にもわたる暴風雨で増水した海部川が河口での
 満潮によって堰き止められ、池内徳蔵「諸経歴概要記」
 によると、25日午前5時に最高水位となり、水嵩は海部川
 堤上3尺内外であった。
1892年7月30日、第1次松方内閣総辞職(8月8日説あり)
  第1次松方内閣は、大蔵大臣の松方正義が第4代内閣総
 理大臣に任命され、1891年5月6日~1892年8月8日まで続
 いた。
  選挙干渉により、6月に入ると、他の閣僚からも辞表提
 出者が相次ぎ、
  7月に、白根・安場らの更迭が決定されると、同月27日
 には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、
 これを見た松方は自らも辞表を提出した。
1892年7月、歌舞伎座で「怪談牡丹灯籠」が初演された。
  三遊亭円朝の傑作『怪談 牡丹燈籠』が、この時、三世・
 河竹新七の脚色によって歌舞伎化され、
  五代目・尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演され、空前
 の大当たりとなった。
  そして、この時以来、人気演目として定着した。
1892年8月1日、北海道炭砿鉄道会社線の室蘭駅(現:東室蘭)
 ~岩見沢駅間(134.5km)が開業した。
1892年8月6日、伊沢修二が、小学校教育費の国庫補助を要
 求するため、国立教育期成同盟会の結成を提案した。
  この後、教育費国庫負担の請願書を・・、
  国立教育期成同盟会は、1892年12月に、第1回請願書
 (東京府伊沢修二以下10,162名)、
  翌年・1893年2月に、第2回請願書(宮城県阿部三右衛
 門以下703名)を帝国議会に提出した。
  日本には・・教育の重要性の認識は勿論、公平性、機
 会均等などの思想が根付いていた・・
  この後の台湾・朝鮮などの地においても、
  日本の内地と同等、または、それ以上の教育施設の充
 実などを図って行く。
  伊沢修二(1851年6月30日~1917年5月3日)は、日本の
 教育者、文部官僚で、近代日本の音楽教育、吃音矯正の
 第一人者。
  信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)の高遠
 藩士の子として生まれる。
  下級武士のため極端な貧乏の暮らしに育った。
  1861年(10歳)より藩校進徳館で学び、
  1867年(16歳)に江戸へ出府。英語を学ぶ。
   その後、京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。
  1869年(18歳)には藩の貢進生として大学南校(のち
   の東京大学)に進学した。
  1872年(21歳)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ
   移る。
1892年8月8日、第二次・伊藤博文内閣が成立した。
  政局の安定を目指した元勲内閣であったが波乱含みで
 あった。
  この日、第一次・松方正義内閣が総辞職し、第二次・
 伊藤博文内閣が発足した(1892年8月8日~1896年8月31日)
  ふたたび、伊藤博文が内閣を組織し、陸奥宗光とのコ
 ンビで不平等条約の改正を行なった。
  野党の政府批判、外国との条約改正点の折衝などで苦
 労多き国会運営が続いた。
  また、日清戦争も起きた。
  挙国一致体制で動き、勝利によって政権は安定化した。
  しかし、この戦争の後、ロシアが中国・清に変わって
 朝鮮へ進出して来た(日本は、朝鮮から遠ざけられた・・
 これを、野党は、外交の失策と政府批判の題目とした)
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
   そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見された。
   そして、この経緯と同じことを、今、中国がやっている。
.
紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
  そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見
 された。
.
200年~250年頃、ポリネシア系住民が、ハワイ諸島を発見
 し移住した。
  そして、住み付き、ハワイ諸島の所有者となった。
  時を経て(約1700年を経て)・・、
  1881年、ハワイ国王が、日本に来た時、国王からの
 提案があった。
  そして、その後、12年後、その関係もあって・・
  1893年、アメリカが、ハワイの王政を廃止し、ハワイ
 を乗っ取った時・・、
  日本は、東郷平八郎を艦長とする巡洋艦「浪速」と「
 金剛」などの戦艦をハワイに派遣した。
  ハワイにいる日本人の保護を名目としていたが・・、
  「ハワイ王政が、武力で倒されるという非常事態にあ
 って、ハワイの方たちを守ろうとした」。
  東郷平八郎(後の元帥)は、戦艦「浪速」をホノルル
 港に停泊させることで、アメリカ軍ににらみを利かせ、
 アメリカによるハワイ併合を遅らせた。
  実質的には、アメリカへの抗議であった・・アメリカ
 は激怒した。
  アメリカのハワイ王国の奪取は、明らかに一方的な侵
 略であった。
  当時、ハワイには、日本人移民が2万人以上(当時の
 人口の約50%)を占めていた。
  アメリカ人は約7000人で、日本移民の3分の1にすぎ
 なかった。
  この時のことがあるため、「ハワイの方たちは、日本
 や東郷平八郎に対しては、感謝の気持ちを大きくしてい
 る」。
  そして、この年・1893年、アメリカ系移民は、ハワイ
 王国のリリウオカラーニ女王を幽閉し、
  「廃位します」という書面に無理やりサインさせ、ハ
 ワイ女王を廃位させた。
  さらに、卑劣な事に、ハワイ王国第8代の女王であるリ
 リウオカラーニ女王を有罪にして、重労働五年の判決を
 下した。
  この時、女王は「アロハ・オエ(私の愛をあなたに)」
 という悲しい曲を作った。
  (1)雨が誇らしげに尾根を横切り 、
    森の中を通り抜けていく
    未だ開かぬ蕾を探しているかのように
    山あいに咲くレフアの花よ
  (2)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  (3)懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
    ついこの間のことのように
    愛する人よ 我が愛しき人よ
    真心は決して引き裂くことはできない
  (4)私はあなたの素晴らしさをよく知っている
    マウナヴィリに静かに咲くバラの花
    そこにいる啼かない鳥たち
    そして木の陰にいる美しい人
  (5)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  歌詞の内容が、雨を共和制実現を目指す白人勢力、花
 をハワイ王国の国民の暗喩と考えれば、王国の滅亡が目
 前となった当時の状況や、女王の心情に驚くほど見事に
 符合する。
  このことから、1893年の初演には、強引なアメリカに
 よる従属国化・併合に対する女王の反発であった。
  ハワイの歴史・・概歴・・
  250年頃、ポリネシア系住民(今のハワイの原住民の
     方々)が移住し、ハワイ諸島の所有者となる。
  300年頃、イースター島へ、ポリネシア人が到達。
  400年頃、ポリネシア人がハワイ諸島へ、
  900年頃、ポリネシア系住民が、再度、ハワイ諸島へ
     移住。
  12世紀後半、ポリネシア系先住民が、ハワイ諸島を族
     長を立て、支配した。
  1778年、イギリスのジームス・クックが、ハワイ諸島
     を発見した・・と欧米系の歴史は記すが、本当
     の発見者は、ポリネシア人の方々・・、
  1781年、ロシアが南下し、アラスカへ入植した(侵略
     行為)。
  1790年、カメハメハ王が、ハワイ島の王となり統治す
     る。
  1794年、ハワイ島以外の全島統治者のマウイ島大族長
     が死去した。
  1794年、イギリスが、カメハメハ王を統治者と認知し、
     支援する。
  1795年、カメハメハ王が西洋の武器を活用して、マウ
     イ島やオアフ島を攻略する。
      そして、ハワイ全島を支配下に置き、ハワイ
     王朝を樹立し、統治する。
  18世紀後半、イギリス・フランス・スペインなどヨー
     ロッパ植民地帝国が来航する。
  1816年、露米会社が設立された⇒カウアイ島を保護下
     に置く。
  1817年、カメハメハ大王が、シェーファーを追放。
     1816年に座礁したベーリング号奪回の交渉役と
     して派遣された船医シェーファーが、会社に独
     断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、
     ワイメア河口にロシア砦を建設した。
      その為、カメハメハ大王との仲が険悪になり、
     シェーファーはカウムアリイに追放された。
  1820年~1880年、捕鯨貿易の寄港地となる。
  1820年、アメリカ人が来島(キリスト教宣教師たち・・
     結局、この輩たちが、ハワイ滅亡の悪の結果を
     もたらして行く)、教育、政治、経済に介入、
     影響力を行使する。
  1823年、プロテスタンティズム・西欧化が推進される。
     ⇒1935年、初の製糖会社が設立される。
     ⇒カトリック禁止令を出さざるを得なくなる。
  1835年、製糖産業が操業される(経済的侵略が始まる)
  1840年、ハワイ憲法が公布され、アメリカ・ヨーロッ
     パ諸国の干渉が激しい、産業を育成して独立を
     維持しようとする、立憲君主制へ移行(西欧近
     代化という名目)
  1842年、アメリカの良識国民派が、ハワイの植民地化
     に反対する。
  1844年、アメリカ・ヨーロッパ系白人が、ハワイ政府
     の要職に就任することが可能とされる。
  1850年、外国人が「土地を所有することが出来る」と
     認可される(土地という領土を奪っていく)
  1851年、ハワイ政府が、アメリカの保護領となること
     を宣言する。
  1852年、アメリカ議会で、ハワイ併合案が提出される。
  1862年、外国人土地保有75%に(もう、ほとんど乗っ
     取られた)⇒人口問題。農園労働者不足となる。
  1875年、アメリカとハワイの米布互恵条約が締結され
     た(不平等条約)
      経済のアメリカ市場への依存が開始する。
  1878年、ハワイ王国の女王がアロハ・オエを書く。
  1881年、日本に、ハワイ国王カラカウア1世が来日した。
      明治天皇陛下と赤坂離宮で会談した。
      そして、日本へのハワイ国王の提案内容
     (1)カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラ
       ニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮
       依仁親王)との縁組。
     (2)日本・ハワイの合邦(連邦)
     (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷
       設。
     (4)日本主導による「アジア連邦」の実現。
  1885年、労働契約移民制度が実施された。
  1887年、ハワイ王国が、本格的に、アメリカの傀儡と
     なるのは、1887年の憲法修正以降で・・、
      この年、米布互恵条約が更新され、アメリカ
     が、真珠湾の独占使用権を獲得した。
      親米派が、改革党を結成した⇒反米派は、国
     家改革党を結成した。
      ベイオネット憲法公布(王権が弱体化される)
      女王が、議会を閉会した⇒親米派が、公安委
     員会を結成した⇒アメリカのハワイ公使が、ア
     メリカ国軍の海兵隊の上陸を要請した⇒公安委
     員会が、暫定政府を樹立した。女王に廃位を勧
     告した⇒女王は強引に廃位を認めさせられた。
  1889年、ウイルコックスが反乱した。
      改革党選挙で大敗⇒女王即位。王権派・国家
      改革党支持、政局混迷、
  1891年、欧米人の登用などをせざるを得ない状況とな
     り(近代化の名目)、その中で女王即位⇒政局
     混迷の状況へ、
  1892年、親米派がハワイ併合クラブを結成した。
  1893年、親米の反王政派により、リリウオカラニ女王
     がイオラニ宮殿に幽閉され、暫定政府の樹立さ
     れ、政権奪取(クーデター?)で王朝滅亡、欧
     米諸国は暫定政府を承認した(当初からのハワ
     イ奪取の茶番劇)
      日本の巡洋艦が、ハワイ諸島へ抗議の意味も
     あって派遣された。アメリカは激怒した。
  1894年、ハワイ共和国ができ、ハワイ王国が滅亡させ
     られた。
  1898年、アメリカが、ハワイを併合した。
  1959年8月21日、アメリカが、ハワイを自国の州とした。
      立派な政府があって、住民も支持をしていた
     その王国が消え・・アメリカとなった。
.
1837年、リンカーンが28歳の時、以下のような発言をした・・、
  「奴隷制度は、不正と悪政にねざすことを信じるが、
  しかし、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるより
 はむしろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対
 理由を言っている。
  また、リンカーンの言葉(1858年、49歳)・・
 「これまで、私(リンカーン)は、黒人が投票権をもっ
 たり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度
 もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることにも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」・・、
  さらに、リンカーンの言葉(1861年3月4日、52歳)・・、
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に・・、
  リンカーンを、『白人至上主義者』と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに、
 苦情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  (参考)人道主義:じんどうしゅぎ、人間性を重んじ、
     人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指
     す立場。
.
1858年8月21日、リンカーン対ダグラス論争
  リンカーン(49歳)と、黒人のスティブンス・ダグラ
 スとの論争は、この日を第1回として、7回、奴隷制につ
 いて論争をした。
  その時、リンカーンは以下のような言葉を言った・・、
  「私(リンカーン)は、白人種と黒人種の社会的政治
 的平等を如何なる形でも、もたらすことに賛成はしてい
 ないし、これまでもそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも、陪審員にすること
 にも、賛成していないし、
  彼等〈黒人)が、役職者になる資格を与えることとか、
 白人と結婚するとかということにも賛成しておらず、こ
 れまでもそうだった。
  さらには・・、
  「白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮
 らすことを永久に禁じることになると考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」・・
  まったく、黒人の方々の人権を無視した発言をしてい
 る。
.
1860年代、イギリスの経済的なピークは、1860年代であっ
 たと言われている。
  そして、その30年後の1890年代までには、その優位さ
 をほぼ失った。
  そして、1970年代には、イタリアと同程度の経済規模
 まで落ち込んだ。
  その間、約100年である。
  人生100年の時代と言われているが、一人の世代で、
 イギリスについて、この様な事が言われている。
  日本は、1980年代が、飛ぶ鳥を落とす状態だった。
  日経平均株価は、1989年12月29日に、3万8915円87銭の
 市場最高値を記録した。
  そして、2017年10月11日に、2万881円27銭という21年
 ぶりの高値になったと報じられた(戻り率53.7%)
  今、戦後、最長の好景気と言われている。
  今、北朝鮮の事を含め、また経済も含め、日本は、転
 換点に居ると言える。
  足元をしっかりして「次のステップ」へ進まないと、
 イギリスの如くになる。
  日本は、20世紀後半に高度成長した。
  世界は、「日本は、もうすぐ、欧米全部を組み合わせ
 た以上に大きくなる」と予測され、見られていた。
  しかし、そうはならなかった・・、
.
1862年8月17日、ダコタ戦争(リンカーン、53歳)
  アメリカのミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、ア
 メリカインディアンのダコタスー族との戦い。
  居留地の移動を、何度も強いられたインディアンの方々・・
  (白人・アメリカ人は、肥沃な土地が欲しくて、イン
 ディアンの方々の地=アメリカ西部の地をインディアン
 の方々を西へ西へと追いやって行った)
  (また、追いやられた居留地と言ったって、畑作もま
 まならないような地だった)
  その様な状況であるため、インディアンの方々は、食
 料をアメリカ政府に頼っていた・・また、その条件での
 移動でもあった。
  しかし、この時は、飢餓状態にさせられ、戦争という
 より、飢餓から来る反抗であった。
  (また、白人・アメリカ人は、インディアンの全滅を
 狙って、インディアンの方々の食糧であるアメリカ野牛・
 バイソンの絶滅を行なっていた・・
  白人・アメリカ人は、「不要な野牛狩り」をして、野
 牛の頭だけが、西部の原野に山のように積まれている写
 真が残っている・・
  その野牛の山の頂上に、白人・アメリカ人が得意そう
 にして立っている)
  この戦いで、卑劣にもアメリカは、38名のアメリカ・
 インディアンのダコタ族を、一斉絞首刑を行なった。
  そしてまた、ミネソタからの追放という、アメリカが
 よくやる民族浄化を行なった。
  この時のアメリカ大統領が、第16代のエイブラハム・
 リンカーン(在任期間:1861年3月4日~1865年4月15日)
 だった。
  大統領就任後、1年5か月という、リンカーンのおじい
 さんの仇(かたき)を、就任早々に取ったのだった、
  リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底
 排除の姿勢を崩さず、アメリカ・インディアンの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
  リンカーンについての解説にも・・「黒人奴隷に関し
 ては『奴隷解放の父』と呼ばれているリンカーンだが、
  インディアン民族に対しては、弁護士時代から大統領
 時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐
 殺を指揮している」・・と記されている。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ(厳寒期の遠い地への居留地移動)や、ダコタ戦争を
 始めとする多くのインディアン戦争は、リンカーン政権
 下で行われた・・まったく卑劣な行為だった。
  そして、リンカーンのこの『目には目を』の行為は、
 弁護士時代から始まっていて、インディアン方々の居住
 地取り上げに奔走した。
  その一つが、西部方面へのインディアン領土への鉄道
 拡張だった・・卑劣なインディアンの土地権利の抹消処
 理・・その行為を、多数、手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)だ」としたインデ
 ィアン部族の方々の土地に対する書類は、現在も数多く
 残されている。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 した。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所の状態だった・・食糧を獲ったり、作ったりでき
 る訳がない。
  また、卑劣にもリンカーンは、ミネソタのダコタ族と
 の連邦条約を一方的に破棄した。
  そして、ミネソタ州にあるインディアンの方々の居留
 地を強制没収した。
  そして、無慈悲にもインディアンの方々をノースダコ
 タ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての『皆殺し政策』が行われた。
  女性や子供にまで、インディアンであれば誰であろう
 とを問わず「賞金をかけた」。
  その様にして、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンのやり方は、この様な虐殺方針だった。
  当然、リンカーンが責任者としてそこに居た。
  そして、1863年の夏、リンカーンは、ジェームズ・カ
 ールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐
 を命じた。
  当然、無理な命令に、ナバホ族は、ダコタ族同様に、
 抵抗した。
  また、カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると
 睨んでいた。
  指令者のリンカーンは、1864年に、以下の命令をした・・、
  「ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル、何
 と、東京から大阪近くの距離である)離れた東にあるアパ
 ッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
 を命じる(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)」だった。
  この強制連行の途上で、何百人もの死者が出た。
  厳寒期の中、そのほとんどが、子供や老人だった。
  そして、「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は、強制
 労働をさせられた。
  女性は、アメリカ軍兵士から強姦された。
  乳幼児のほとんどは、生まれて間もなく、過酷な環境
 下で死んだ。
  結局、リンカーンが死んで和平条約が結ばれたが・・、
  その1868年の和平条約が調印されるまでに、2000人以
 上のナバホ族が死んだ(ナバホ族だけで・・)。
  この様なリンカーンの先住民であるインディアンの方々
 への虐殺事例は多くある。
  この原因の一つが、リンカーンという名前が、インデ
 ィアンに殺害された父方の祖父「エイブラハム・リンカ
 ーン」にちなんで命名されたというところにもある。
  アメリカ北部政権のシンボルになっているが、この様
 な人物である・・
.
1865年4月14日、リンカーン大統領暗殺事件が起きた。
.
1870年3月、リンカーンの黒人奴隷解放で、『めでたし、め
 でたし』という状態ではなかった。
  まだまだ、卑劣な状態のアメリカだった。
  リンカーンの奴隷解放で「すべてが終了した」と思わ
 せたが、それが、アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)で
 もあった・・
  まだまだ、アメリカは、卑劣な事を黒人の方々へ行っ
 ていた。
  そして、やっと、1870年3月に至って、黒人の方々は、
 「選挙権を勝ち取った」。
  「選挙権を与える」という事が、上から目線で認めら
 れた(憲法修正第十五条)
  1863年の奴隷解放宣言から7年2ヶ月の黒人の方々の闘
 いの後だった。
  また、黒人の方々は、闘いの成果として「公民権侵害
 に対する処罰法」を制定させた。
  黒人の方々は、初めて、アメリカという自分たちの国
 で選挙権を行使することが出来る事となった。
  卑劣なアメリカだった。
  政治上の意思表示が出来る状態が、やっと黒人の方々
 の手に入った。
  本当に遅れた国=アメリカで、民主主義もないアメリ
 カだった。
  黒人の方々も、やっと、州議会に選ばれ、自分たちの
 生活について考えを言える立場を得た。
  いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒
 人議員となった・・
.
1870年、この頃までに、アメリカの北部政治は、完全に今
 までとは違ったものとなった。
  何と!! 北部は、『南部を市場として収奪する場』
 として位置づけた。
  奴隷制廃止運動の指導者であるサディウス・スティー
 ブンスは言った、「プランターの大土地を没収して、こ
 れを、黒人や貧しい白人に無償で分配せよ」・・と・・
  そして、「黒人と貧しい白人との同盟」が進んで行っ
 た。
  アメリカ北部の傲慢な資本家に向かって、労働運動も
 盛んになった。
  飛躍的に成長した北部の産業資本家たちは、南部の旧
 奴隷所有者たちへの再建運動が進み過ぎるのを恐れ出し
 た。
  国内市場として南部が開放されると、その南部プラン
 ターと手を結んで、南部を北部資本家の収奪の場にした
 くなった。
  この様な北部産業資本家の思惑が政治を動かして行っ
 た。
  アメリカ北部政治は変質して行った。
  1870年頃までに、完全に変質した。
  ここに、北部政治と黒人の方々との乖離(かいり)が
 あった。
  黒人の方々は、「旧奴隷所有者たちの再建運動」への
 反対活動が始められた。
  対立軸は、黒人の方々の「大土地所有者たちの土地(
 旧奴隷所有者たちの土地でもある)を分配せよ」という
 立場と・・、
  北部資本家は、「今までの南部を、市場として取り込
 もうという、だから、旧奴隷所有者たちを再建しよう」
 という立場があった。
  アメリカ北部政権は、この北部資本家の立場にいた。
  この様な反動的な動きに、黒人の方々は、当然、「旧
 奴隷所有者たちの再建運動反対活動」を開始したが、こ
 の黒人の方々への白人・アメリカ人の攻撃も始まった。
  銃のあるアメリカ社会・・、その銃を持った白人・ア
 メリカ人たちによって襲撃された。
  「KKK(クー・クラックス・クラン、1865年に結社
 されていた)」「黒十字騎士団」「白バラ騎士団」「白
 つばき騎士団」などの秘密結社だった。
  たちまち、アメリカ社会に広がった。
  総帥を「大魔王」などと称した。
  頭からすっぽり三角の覆面を被り、幽霊のような姿で
 顔を隠した。
  そして、黒人の方々を襲撃して、殺戮した。
  深夜、馬にまたがり町や野原を疾走した。
  その白い姿に黒人の方々は、恐れ慄(おのの)いた。
  威圧する奇妙な姿の行動は効果があった。
  黒人の方々の家を襲い、殺戮したりした。
  また、投票行為を妨害したり、黒人の方々に味方する
 白人をも平気で殺害した。
  黒人の方々が、教育や啓蒙活動をすると、その学校や
 教師まで襲った。
  1870年頃が最悪だった。
.
1872年5月、アメリカで、大赦法が制定された。
  反動の法が出来た。
  黒人の方々の必死の努力と血まみれの戦いによって得
 た権利=人権、当然の持って生まれた権利であるべきも
 の=人権、
  その当然の人権を、戦いを経なければ得られないとい
 う遅れた社会・アメリカに生まれた黒人の方々、
  その当たり前の権利がない黒人の方々の「その人権」
 がやっと得られて来たと思われたアメリカに・・、
  反動の嵐が・・吹き荒れて来た。
  事の発端は・・アメリカ北部資本家たちが、アメリカ
 南部を市場として取り込んだら「もっと儲かるだろうと
 考えた」からだった。
  当然の権利を得ようと活動する黒人の方々が、その足
 を引っ張る形になった・・
  奴隷制復活への動きだった。
  それ故、その活動家の黒人の方々へ、当然の権利を得
 ようとする黒人の方々へ、顔に覆面をした白人・アメリ
 カ人が・・結成された秘密結社が・・襲った。
  種々の秘密結社が生まれ、その結社に、黒人の方々は
 襲撃され、意味なく無為に殺された。
  また、白人優越=黒人蔑視のキリスト教観に洗脳され・・
 有色人種蔑視観がを持った者たちの暴力がアメリカに吹
 き荒れた。
  そのような時、1872年5月に、「大赦法」が制定され
 た。
  黒人の方々を虐げていた旧支配階級の者たちへ大赦が
 与えられ、
  また、政治的権利も種々与えられ、全面的に復活した。
  そして、奴隷解放活動をしていた「解放民局」も活動
 を停止した。
  そして、この時、大統領になったユリシーズ・グラン
 トも悪だった。
  (参考)第18代アメリカ大統領:ユリシーズ・グラン
     ト、任期:1869年3月4日~1877年3月4日、
  このグラントは、南北戦争の最終局面で、南部軍のリ
 ー将軍をアポマトックスに降伏させたグラント将軍だっ
 た。
  このグラントは、大統領となって、まったく腐敗と汚
 職の中にいた。
  北部軍の歴史的将軍も「地に落ちた輩」となっていた。
  この大統領のこの時を、「アメリカ政治の最も堕落し
 た時」と言われている。
  また、この時、政党も堕落していた。
  共和党や民主党も堕落にまみれていた。
  そして、この様な堕落の時を経て、次の大統領選がや
 って来た。
  1876年11月、開票して民主党が勝利した。
  しかし、共和党は、サウスカロライナ州などで不正が
 あったと、クレームを付けた。
  民主党の勝利を認めなかった。
  話は決着がつかず年を越した。
  そして、1877年2月、政治的取引がなされた。
  共和党は、「サウスカロライナとルイジアナの両州の
 連邦軍の撤退」を条件にして、共和党の大統領の当選権
 を得た。
  何と! 逆転である。
  共和党は、その2州などの南部を、民主党の支配下に置
 くことを了解した。
  この時、同時に、黒人の方々の今までの努力も、まっ
 たく無に帰した。
  この時、大統領が転がり込んで来た大統領が、第19代
 アメリカ大統領:ラザフォード・ヘイズ、任期:1877年
 3月4日~1881年3月4日・・である。
.
1893年、ハワイ王国の滅亡
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り・侵略であった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦「
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的を達成した。
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年10月15日日曜日

(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)

題:(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月22日、与党中央交渉部を母胎として、中立議員ら
 が国民協会を結成した。
  国民協会は、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭と
 する山県有朋系の官僚出身の保守主義者を中心として結
 成された国家主義的政党で、藩閥政府を擁護した。
  中国の軍拡を見て、軍備強化の必要性を主張し、また、
 製鉄所の建設など実業の振興の必要を主張した。
  条約改正問題で、第2次伊藤博文内閣と対立して与党的
 地位を失った。
  日清戦争後に、藩閥政府が、自由党や進歩党などの「
 民党」との提携に至ると、藩閥勢力の中でも最も保守的
 な山県有朋との関係を強めたが・・、
  党勢は、創立当初は70名を擁した議員が、選挙ごとに
 減少し・・衰退の一途をたどり・・、
  1898年8月には、21名となり・・、
  1899年に、品川の枢密院入りで支柱を失い・・、
  1899年7月4日に解党した。
  翌日、帝国党となって再出発した。
1892年6月26日 弁護士総会を、初めて東京で開催した。
  現在の弁護士制度ができる前は、「代言人」と呼ばれ
 ていた。
  1880年5月13日に、代言人規則が全面改正され、代言人
 組合の結成が義務付けられた。
  それを受け、1880年6月27日、横浜代言人組合が設立さ
 れ・・
  1880年6月29日に、東京に・・
  1880年9月30日に、大阪に設立された。そして・・
  1892年に、弁護士法が成立し、代言人は弁護士へ、代
 言人組合は弁護士会へと、法律によって改名した。
  この頃の弁護士は、司法省(検事正)の監督のもとに
 おかれ、その独占業務も、法廷活動に限られていた。
  弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、試験制
 度も異なっていた。
1892年6月27日、震災予防調査会が設立された(7月15日説
 あり)
  震災予防調査会は、1892年6月27日~1925年11月14日に
 設置されていた文部省所轄の地震や震災に関する研究機
 関で・・、
  1891年の濃尾地震の被害の大きさに衝撃を受けた関谷
 清景らが・・、
  地震の予防は出来なくても、被害を最小限に食い止め
 る方法を研究することは可能である・・として、
  帝国議会に対して、そのための研究機関の設置を建議
 した。
  明治政府もこれを受けて、この年に、震災予防調査会
 で、「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議
 する」ことを目的とし、文部省所轄の研究所として設置
 された。
  (参考)関谷清景(せきや きよかげ、1854年12月11日
    (1855年1月28日)~1896年1月8日)は、日本の地
     震学者。世界初の地震学教授。
1892年6月、東京~大阪間に4重電信機が導入された。
  最初期の電信は、1本の線で1通信しか送信できなかっ
 た。
  取扱量を増やそうとすると、電信線を増設するしかな
 かった。
  1890年代のニューヨーク市の電信柱は、電線だらけと
 なった。
  そこで、通信スピードを上げて短時間で多くの情報を
 送れるようにと、効率化をしようとしたが、結局は、電
 信技手の手送りの時代で、決定的改善策とはならなかっ
 た。
  ここに、「多重通信技術」が生まれた。
  1本の線で2倍、4倍と同時使用できる技術で、コストの
 低減に劇的な効果があった。
  1853年に、オーストリアのギントルが、二重通信法を
 発明した・・そして・・、
  1868年~1872年に、スターンズが、二重通信の実用性
 を上げる発明がなされ、
  1874年に至り、エジソンが、四重通信法を発明した。
  スターンズの方法は、送信と受信が同時に出来るとい
 うもので、この双方向通信で能率を倍加させた。
  エジソンは、振幅パルス変調を取り入れ、1回線を4倍
 にした。
  (参考)パルス振幅変調(パルスしんぷくへんちょう)
     は、情報信号の振幅をパルス信号の系列で符号
     化(エンコード)する、パルス変調の一つ。
1892年6月、スイスで、ブリエンツ・ロートホルン鉄道が開
 通した。
  ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、スイスのブリエン
 ツからブリエンツ・ロートホルンの山頂へ登る登山鉄道。
  この登山鉄道は、ラック式鉄道(歯軌条鉄道)で、2本
 のレールの中央に、歯型のレール(歯軌条、ラックレー
 ル)を敷設して、車両の床下に設置された歯車(ピニオ
 ン)とかみ合わせて、急勾配を登り下りする。
  この歯車で、推進力と制動力の補助とする。
  因みに、このラック式鉄道に対して、車輪とレールの
 間の摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う通
 常の鉄道を『粘着式鉄道』と呼ぶ。
1892年7月1日、九州鉄道会社線の門司・博多・小倉・福岡
 の4駅と、筑豊興業鉄道会社線の直方・若松両駅との相互
 間で連絡乗車券の発売を開始した。
1892年7月3日、大磯海水浴場開き行われた。
  大磯町は、神奈川県の南部に位置する町で、相模湾や
 高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接し、
  また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化
 が大切に受け継がれ、
  自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展し
 てきた。
  1885年(明治18年)、初代・陸軍軍医総監を務めた松
 本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「
 海水浴」を推奨し・・、
  照ヶ崎海岸に海水浴場が開設された。
  これが、我が国の海水浴場の発祥と言われている。
  また、1887年(明治20年)に、大磯駅が開業した。
  当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、とい
 う計画だったが、松本順が当時の初代内閣総理大臣・伊
 藤博文に相談し、大磯駅が誕生した。
  この大磯駅開業によって、海水浴客は増え続け、政財
 界の重鎮たちの別荘が数多く建築された。
  また、保養地としての大磯の名が全国に広まった。
  (参考)海水浴発祥の地は他にもある。
      神奈川県だけでも、著名な海水浴場が、本牧、
     富岡、七里ケ浜、片瀬が挙げられるが・・、
      片瀬では、明治初期に、早くも、外国人が海
     水浴を行なっていたことが知られている。
1892年7月4日、山陽鉄道会社社長・松本重太郎が、下等運
 賃を、神戸駅~三原駅間で、最高1円とした遠距離逓減の
 運賃改正(中等は下等の2倍、上等は同3倍)について申請
 した。(7月8日に認可された) 
1892年7月6日、鉄道庁に、線路取調委員を置き、委員規則、
 および、処務順序を定めた。
  線路取調委員は、全国の鉄道線路調査や、鉄道敷設法
 に掲げる線路突削、および、比較線の線路調査に従事し
 た。
1892年7月6日、アメリカのホームステッド・ストライキ(
 暴動・・銃撃戦・・死傷者発生)
  長い不況が続くアメリカ・・、
  カーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼工場におい
 て、組合を弾圧したことより、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起きた。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社
 の社長に就任すると、労働組合の破壊を決意して、賃金
 の引下げを計画した。
  そして、労働運動に対し、フリックは、工場にフェン
 スを巡らしロックアウトの強硬策を実施した。
  労働者側は工場の周りをガードし、地元警察も排除す
 るという状態。
  フリックは、さらに強硬手段に出て、ピンカートン探
 偵社という名の300人の私設警察=会社防衛隊を雇い、工
 場に配置し・・、
  また、スト破りの新しい労働者を雇って操業を再開し
 た。
  また、探偵社は、深夜に、工場の脇の川からボートで
 工場内に入ろうとした。
  労働者はそれを発見・・ここで、ボートの内外で、銃
 撃戦が始まった・・14時間にわたって行われ・・
  労働者側は、最後に燃え盛る列車をボートに向け突っ
 込ませた。
  また、ダイナマイトをボートに向け放り込み、ボート
 を爆破した・・ここで、探偵社側は降伏した。
  探偵社側3名、労働者側9名が死亡し、70人以上の死傷
 者となった。
  会社は、州知事に民兵の出動を要請し、ペンシルバニ
 ア州知事は、8000人の州兵(民兵)を出動させ・・
  軍の出動によって、労働者側は鎮圧され、労働組合は
 壊滅した。
  この後、フリックは、関連会社の労働組合を周到に解
 体へと追い込んている。
1892年7月7日、鉄道庁分課規程を改正した。
1892年7月13日 海軍造兵廠で、5000名スト。
  1889年、呉鎮守府設置。
   同じくして「造船部」設置、小野浜造船所を管轄す
   る。
  1897年、「仮設呉兵器製造所」は「呉海軍造兵廠」に
   改称、呉で初の軍艦「宮古」進水。
1892年7月20日、山陽鉄道会社線の尾道駅~三原駅(現:糸
 崎駅)間(9.1km)が開通した。
1892年7月21日、鉄道庁が、内務省から逓信省に管轄替えと
 なり逓信省鉄道庁となる。
1892年7月21日、鉄道庁長官に井上勝が就任した。
1892年7月21日、近藤勇の正妻・つね(56歳) が死去した。
  1837年(天保8年)、清水徳川家の家臣・松井八十五郎
 の長女として生まれた。
  1860年(万延元年)3月29日、天然理心流次期4代目で
 ある近藤勇と見合い結婚する。
  近藤は武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市)の
 百姓・宮川久次郎の三男で、
  1848年(嘉永元年)に、江戸牛込の天然理心流道場で
 ある試衛場(試衛館)の近藤周助に入門した。
  翌年・1849年(嘉永2年)10月19日に、周助の養子とな
 った。
  1862年(文久2年)に、長女・たまを出産した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
   安易な方針転換をした中国もそこに居た・・、
.
707年、平城京への遷都の審議が始まった・・
  唐の都・長安をモデルにした平城京は、東西4キロ、南
 北約5キロのほか、東側に「外京」があって・・総面積は
 約2500ヘクタールだった。
  約10万人が暮らし・・、
  シルクロードの終着点として・・人や物が行き交う、
 国際色豊かな大都市として・・栄えた。
  だが、784年に・・、長岡京(京都府)へ遷都した後は、
 田畑や草木に埋もれた・・
  幕末に、調査されるまで・・人々から忘れ去れていた。
  この平城京への藤原京からの遷都は、文武天皇在世中
 の707年(慶雲4年)に審議が始まった・・
  708年(和銅元年)には、元明天皇により遷都の詔が出
 された。
  しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都され
 た時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程
 度だった。
.
1775年5月26日、ジョージ・ワシントンを司令官とする大陸
 軍(独立を目指すアメリカ軍)が正式に発足し、統一し
 た指揮系統が作られた。
.
1820年、アメリカは、22州であったが、まだ、その半分は
 奴隷州であった。
  この後、アメリカは、何ら根拠のない「西漸説」で西
 部を奪っていくが、逆に奴隷州が増えていく状況となる。
.
1854年、卑劣な奴隷制推進法の「カンザス=ネブラスカ法」
 ができた。
  アメリカは、黒人の方々が、長い間、奴隷にされて来
 た卑劣な遅れた国だが、奴隷解放された後もキリスト教
 に洗脳された「有色人種蔑視観」は消え去ってはいなか
 った。
  今・現在も、アメリカでは、黒人の方々が差別され蔑
 視されているが、その様な差別社会であるが・・、
  ミズーリ協定の付帯条件で、今後、西部に新しく出来
 る州は、北緯36度30分の北側を奴隷禁止にして、その南
 は奴隷制を認めるとした。
  アメリカは、この時にも、今までの様に、まだまだ、
 西の地を奪うのだと卑劣にも今後の予定していた。
  それ故に、アメリカは、この様な法律条文(規則)を
 作った。
  しかし、綿花という利益率の良い美味しい作物・・、
  そして、利益率が、どんどん良くなる作物・・、
  その作物を利用した利益収奪システムには、「黒人の
 方々を奴隷にしておく」という事が『確実に必要』だっ
 た。
  しかしこれは、何も、南部だけが儲かるだけではなく、
 アメリカ北部の木綿工業も儲けていた・・そして、より
 儲けたかった。
  つまり、ミズーリ協定が、目の上のたん瘤状態だった・・
 ミズーリ協定の地理的制限を「止めたくなった」・・「
 止めたくなって来たアメリカだった」・・より儲け続け
 たいのである・・そこで、骨抜きの法律ができた・・そ
 れが・・
  1854年、カンザス=ネブラスカ法が出来た・・そして、
 その結果として、カンザス戦争(闘争)に至る・・
  (参考)カンザス戦争(闘争):南北戦争の前、自由
      州と奴隷州に接するカンザスで、南北両派の
      移民によって土地争いや、新政府の樹立や、
      奴隷問題をめぐって展開された争いで、この
      1854年の「カンザス=ネブラスカ法」以後、
      両派の争いはより激しくなって行った・・
       南北戦争が、奴隷解放か否かが原因と言う
      のは、アメリカ北部政権のプロパガンダ・・
      そして、南部を悪く言うという北部政権の嘘
      宣伝・・
  「新たに連邦に加入する諸州にて、奴隷制度になるか、
 否かは・・採否が決められる」という法律だった。
  つまり、確実に奴隷州を止めなければならないという
 ミズーリ協定の条件部分が「目障りとなった」のであっ
 た。
  黒人の方々を奴隷のままにしておくか否かは、「住民
 が決めるという民主主義」だから良いのだという屁理屈
 であった。
  ミズーリ協定を・・アメリカの連邦最高裁判所が、「
 判決で否定する」と・・、
  アメリカ大統領と伴にアメリカのすべてが「喜んだと
 いうアメリカ」においての法律であった。
  まったくバカげた『結論が分かっている』法律をアメ
 リカは作った。
  「住民の意思を大切にしているから良い法律なのだ」
 という、アメリカらしい「こすからい」、この当時、結
 果が決まっている・・自分勝手な理屈の法律だった。
  黒人の方々は、人権は認められていないし、選挙権も
 剥奪されている中で、「どこに民主主義があるのだ」と
 いう卑劣さもある・・また、差別社会のアメリカの中で
 の法律だった。
  そして、この卑劣な法律の推進者が、アメリカ北部の
 人間だった・・美味しい思いをしたいという北部人だっ
 た。
  アメリカ中で、一緒くたになって、南部も北部も、こ
 の様な事をやっていた。
  これで、事実上、ミズーリ協定が「葬り去られた」。
  『アメリカ北部に奴隷州が生まれる法律』だった。
  アメリカの国権の最高裁判所が、「ミズーリ協定は憲
 法違反だ」と判決したことを受けて、この様な事を、ア
 メリカは仕組んでやった。
  美味しい奴隷制を「なかなか手放さない」、美味しい
 奴隷制は「続けます」というアメリカだった。
.
1861年3月4日、アメリカのリンカーン大統領は、就任演説
 で、奴隷財産の『擁護論』を展開した。
  奴隷解放どころか・・奴隷制を認めるという擁護論理
 であった・・「奴隷という財産を守れ」という擁護論の
 演説をした。
  これを、アメリカは、「奴隷州に配慮した」と弁護し、
 「政治的配慮である」と言い訳をした。
  また、リンカーンは、「奴隷解放ではなく、連邦の統
 一という最高目的があった」などと・・色々な言い訳を
 した。
  それなら、そうだと、リンカーンの口から説明すれば
 よいものを・・?
  この様な、半分、屁理屈の様なリンカーンへの言い訳
 を聞けば聞くほど、リンカーンの心の中には、その様な
 「奴隷解放の意思は無いのだ」ということが明らかにな
 って来る。
  黒人の方々への配慮・思いやりなどまったくなかった。
  南北戦争のことを・・「南部の奴隷制度に耐えかねて
 南北戦争を起こした」と美しくアメリカはプロパガンダ
 し、また、リンカーンを弁護する。
  この当時のリンカーンへの風当たりは厳しかった。
  奴隷制度廃止論者のダグラスとリンカーンの論争・・、
  リンカーンの心の中には、キリスト教に影響された「
 有色人種蔑視観」があった。
  リンカーンは、子供の時に、目の前でアメリカ・イン
 ディアンにおじいさんが殺された。
  その事で、弁護士時代には、インディアンの土地の取
 り上げや、法的闘争に奔走していた。
  また、大統領になれば、死者が莫大に出るという厳寒
 期の長距離のインディアン居留地の移動を命じたり・・
  (インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が
 大勢出た)
  また、移動しないインディアンに対して、酷い討伐を
 命じた・・殺戮・全滅を是認する「討伐を指示」を出し
 たりするリンカーンだった。
  1862年8月22日、奴隷制反対論者である「ニューヨーク・
 トリビューン」の主幹が、リンカーンへ『公開質問状』
 を出すくらいだった。
  この様な事態から、リンカーンは、「奴隷解放」の布
 告を出さざるを得ない、出す事を余儀なくされて行った。
  その様な心境にさせられて行った。
  アメリカ北部政権が祭り上げ、プロパガンダで、「奴
 隷解放の父」などと言っているが・・その称号は、返上
 すべき大統領だった。
  リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の
 「参加はまっぴら」という大統領だった。
  そうであるならば・・南北戦争において、白人・アメ
 リカ人の北部軍がしっかりしていたかと言えば、まった
 く腐敗していた。
  北部軍の軍首脳部の腐敗の影響によって、戦争準備が
 できていない状況で・・その準備不足で、南部軍にやら
 れっぱなしだった。
  北部軍は、相次いで、戦いに敗れ・・、
  開戦早々だというのに、「南部軍の旗をワシントンの
 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という言葉が、
 南部軍から出るくらいだった。
.
1861年7月、南北戦争で、アメリカ北部軍が、ブルランで敗
 れ、早くも首都・ワシントンが陥落の危機にさらされた。
  リンカーンをトップとする北部軍の首脳部は、腐敗し
 ていて、戦争準備がなっていなかった。
  本当にアメリカを良くしようという意義が頭にあって
 開戦したのか?・・疑問が生じる状況だった。
.
1862年7月、アメリカのリンカーン大統領は、この時になっ
 て、やっと、南北戦争に、黒人の方々の参戦を認めた。
  それまで、リンカーンは、黒人の方々の軍隊編入をた
 めらっていた。
  リンカーンには、有色人種蔑視観があった。
  しかし、リンカーンのその様な思いとは別に、南北戦
 争は、リンカーン北部軍は、『完全な劣勢』に置かれて
 いた。
  黒人の方々は、リンカーン政府にいくら言っても埒(
 らち)が明かない状況に至って、北部軍の各将軍・・バ
 トラー将軍、シャーマン将軍、フレモンド将軍、ハンタ
 ー将軍などの下へ、直接、多くの黒人奴隷の方々は馳(
 は)せ参じた・・
  そして、戦争遂行のあらゆる部署に挺身した。
  その様な事態になって、やっと、リンカーン政権は、
 遅ればせながら、後追いで・・1862年7月、黒人の方々の
 軍隊編入を認めた。
  本当に、軽蔑すべきリンカーン大統領だった。
  そして、この後、あらゆる反動もあって、この黒人の
 方々の、目ざましい戦いが起きる・・そして、素晴らし
 い功績を残した。
  その1例が、サウスカロライナ州のワグナー要塞の攻撃
 だった。
  第54マサチューセッツ黒人連隊の果敢な働きは凄(す
 さ)まじかった。
  この連隊には、黒人奴隷解放運動家の大御所「フレデ
 リック・ダグラス」の二人の息子も加わっていた。
  黒人の方々は、それまで、白人・アメリカ人の虐(し
 いた)げを受けていた反動もあって、果敢に戦闘をした・・
  その為もあって、可哀想に、黒人の方々が戦死する率
 は、白人兵士より35パーセントも多く、黒人の方々は亡
 くなっっていた。
  戦死者数は4万人にも及んだ。
  この戦争には、18万6000人もの黒人兵士が、正式に北
 部軍の陸軍兵士として参戦していた。
  13万4000人が、奴隷州からの参戦だった。
  アメリカ海軍は、卑劣にも黒人の方々を拒否した。
  炊事係など3万人が参加しただけだった。
  給料面でも差別された。
  白人兵士の半分にもなるか、ならないかという差別状
 態だった。
  1863年7月のゲティスバーグの戦いと、ビックスバーグ
 の戦いが、北部軍勝利の転機となった。
  そして、シャーマン将軍のアトランタからサバナに向
 かうジョージア進撃の成功によって、北部軍の勝利は、
 最終的な、確定的なものとなった。
  1865年4月2日、南部連合の首都・リッチモンドが、北
 部軍の手に落ち・・
  その1週間後の1865年4月9日、南部軍のリー将軍は、ア
 ポマトックスにおいて、北部軍のグラント将軍に降伏し
 た。
  黒人の方々の功績は絶大だった。
  アメリカ北部軍は、黒人の方々の戦いによって救われ
 たのだった。
.
1863年1月1日、アメリカで、やっと、奴隷解放令が公布さ
 れた。
  しかし、リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと
 している「この時点」になっても、黒人の方々を、アフ
 リカのどこかに植民させる(棄民する)ことが良いと考
 えていた。
  また、「奴隷のすべてを解放する様な事はしない」と
 考えていた。
  この様に、奴隷解放の足を引っ張るリンカーンの考え
 は、黒人の方々から「猛反発」を受けた。
  これに先立つ3か月前の1862年9月22日、奴隷解放令に
 先立つ「奴隷解放予備宣言」を公布するところまでこぎ
 つけていた。
  しかし、このリンカーンの「奴隷解放予備宣言」は、
 おかしな宣言だった。
  南北戦争が盛んに行われている現状において、リンカ
 ーンが考えていたのは、「反乱している州の奴隷を解放
 する」というものだった。
  つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放
 されない」という宣言だった。
  リンカーンは、「奴隷解放の父」とアメリカ北部の現
 政権がプロパガンダしているが・・「リンカーンは、そ
 の様な人間ではない」。
  リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の「即
 時、無条件、全面解放をしない」という大統領だった。
  即時、全面開放をためらう大統領だった。
  しかし、この様な状況の中で、黒人の方々は、残され
 た「わずかな解放の望み」をひたすら待ち望んだ。
  本当にアメリカは人権抑圧国家だ。
  黒人の方々への同情とともに、人権をもてあそぶ人権
 抑圧者・リンカーンへ怒りが湧く。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条」が制定
 され・・『卑劣な奴隷制度を決めていたアメリカ合衆国
 憲法』が、やっと、修正された。
  アメリカは、1861年1月1日になって、「奴隷解放令」
 が、やっと、出たが・・しかし・・、
  奴隷解放令が出たからと言って、即時に、黒人奴隷の
 方々が、奴隷という卑劣な身分から解放されるという訳
 ではなかった。
  この後、黒人の方々は、血みどろの戦争を2年間もの
 間、耐え抜いて、戦い・・、
  黒人の方々は、自由の獲得闘争をして行って・・、
  やっと、1865年に至って、卑劣なアメリカ合衆国憲法
 の憲法修正第13条が提出され・・修正案を制定させるこ
 とができた。
  卑劣なアメリカは、黒人の方々に、この様な困難な時
 間を必要としなければ、この様な悪辣な経緯を経なけれ
 ば・・黒人の方々を「自由の身にして差し上げる」状況
 にはしなかった。
  そして、やっと、黒人の方々は、自由を得ることが出
 来た(・・いや・・この揺れ戻しが・・あります・・ま
 た、昔の奴隷制に戻る様な・・本当にしつこい、奴隷解
 放の歴史だったのです・・遅れたアメリカだったのです)
  リンカーンが、渋っていた黒人の方々の南北戦争の参
 戦を、リンカーンが、あまりにも卑劣に拒絶するので、
 黒人の方々は、独自に部隊を作って参戦してしまった。
  この様な行為をしなければ、黒人の方々は参戦できな
 かった。
  黒人の方々の戦いは素晴らしかった。
  目ざましい役割を黒人の方々は果たした。
  この働きは、アメリカ北部軍の勝利を、最終的なもの
 に導く原動力となった。
  際立って重要なものが、黒人の方々のこの貢献だった。
  アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた
 らされた」と言える状況だった。
  今・現在のアメリカ北部政権は、『黒人の方々によっ
 てもたらされた』と言える。
  リンカーン記念堂に、この黒人の方々の戦功・働きを
 顕彰する記念碑を建立すべき・・、
  そして、毎年、記念行事を開催し、この貢献をした黒
 人の方々の戦士に「感謝の誠を捧げなければならない」。
  この様な黒人の方々の戦功があって、やっと、黒人の
 方々は、自由を獲得することができた。
  アメリカは、卑劣にも、ここまでしなければ、黒人の
 方々を自由の身にして差し上げられなかった。
  黒人の方々は、逃亡して参戦した。
  この様な逃亡奴隷の黒人の方々は、50万人も居た。
  絶大なる人々である。
  リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒人
 奴隷の方々が自由になりました」なんていう話では『無
 いのです』。
  黒人の方々は、この南北戦争を、「奴隷解放の戦い」
 と捉(とら)えていた・・自分たちが自由になれる戦い
 と捉えていた。
  リンカーン政権は、あちこちで参戦したいという黒人
 の方々を拒絶していた。
  参戦の準備を黒人の方々は行っていた・・その為の軍
 事訓練や軍事組織を作った。
  しかし、『この様な事まで禁止するリンカーン政権』
 だった。
  黒人の方々は言った・・、
  「私たちは、すでに用意ができています。
  白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財
 産と名誉をかけて、自由のために良き市民として、私た
 ちの政府を守る覚悟ができています。
  私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいのです。
  そして、私たちは、軍籍に身を置くことができるよう
 に、皆さんの法律を改めて戴くようにお願いしたいので
 す。
  私たち黒人の胸の中に燃え上がっている愛国的感情を
 思う存分に発揮できますように」・・この訴えも、リン
 カーンに届かず、無視されていた。
.
1902年2月4日、リンドバーグが生まれた(~1974年8月26日)
  チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリ
 カ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、
 議会名誉黄金勲章の受賞者である。
  1927年には、「スピリット・オブ・セントルイス」と
 名づけた単葉単発単座のプロペラ機で・・、
  ニューヨーク~パリ間を飛び・・、
  大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。
  1931年には、北太平洋横断飛行にも成功している。
  1953年に、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The
 Spirit of St. Louis"(『翼よ、あれがパリの灯だ』)
 を出版し、
  これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。
  同書は、1957年に、ビリー・ワイルダー監督の手で映
 画化されて有名になった(『翼よ! あれが巴里の灯だ』)
  また、リンドバークは・・、
  「日本軍と、アメリカ軍(連合軍)との戦死者・捕虜」
 について言及した。
  特に、アメリカ軍の残虐行為について糾弾した。
  リンドバーグは、日米開戦後、軍の技術顧問となり、
 南太平洋に赴任し、そのアメリカ軍の残虐行為を目撃し
 た。
  そして、日記に、次ぎの事柄を書き記した。
  以下、その一部の抜粋・・、
☆各地の太平洋戦線で、日本人捕虜の数が『欧州戦線に比
 して異常に少ない』のは・・、
  捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、
  アメリカ兵が捕虜を取りたがらないから、
  手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し
 した。
  その為、日本兵の捕虜が少なかった・・、
☆あるところでは、2000人ほど捕虜にしたが、本部に引き
 たてられたのは、たった100人か、200人だった(それは、
 日本人の捕虜のほとんどを殺戮したからだった)
  残りの連中には、ちょっとした出来事があった。
  それを知った戦友は投降したがらないだろう。
☆捕虜を取らないことを自慢する部隊がいた(降参した日
 本兵を、捕虜にする前に殺したから)
☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。
  捕虜1名につき、シドニーへの2週間の休暇を出すと
 お触れが出た途端に、持て余すほどの捕虜が手に入った。
  懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなった。
  つかまらなかったと嘯(うそぶ)くだけだった。
☆一旦、捕虜にしても、英語が分かる者は、尋問のために
 連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。
  即ち、殺された。
☆捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、
  ジャップは、途中でハラキリをやっちまったと報告し
 た。
☆ある日本軍の野戦病院を、ある部隊が通過したら生存者
 は一人もいなかった。
☆2年以上、実戦に参加した経験がない兵が、帰国前に、
 せめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、
 偵察任務に誘われたが、撃つべき日本兵を見つけられず、
 捕虜一人だけ得た。
  捕虜は、殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で、軍曹
 がナイフで首を切り裂く(殺す)手本を示した。
☆ 『爆弾で、出来た穴の中に、皆、四肢バラバラの状態
 の日本兵の死体を投げ込み、その後で、トラック1台分
 の残飯や廃物を投げ込んだ』
☆捕虜にしたがらない理由は、殺す楽しみもさる事ながら、
  お土産を取るのが目的。
  金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰り、それで、
 ペン・ホルダーとか、ペーパーナイフを造る。
  耳や鼻を切り取り、面白半分に見せびらかすか、乾燥
 させて持ちかえる。
  中には、頭蓋骨まで持ちかえる者もいた。
☆日本兵を動物以下に取扱い、それが、大目に見られてい
 る。
  我々は、文明のために戦っているのだと主張している
 が、
  太平洋戦線を見れば見るほど、(アメリカ人が)文明
 人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。
  事実、この点に関する成績が、日本人のそれより遥か
 に高いという確信は持てない(日本人の方がよっぽど立
 派だ)・・、
  リンドバーグは、ドイツ降伏後、ナチスによる集団虐
  殺現場を見学した時の日記で・・、
  「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ・・と書
 いた。
  爆撃後の穴に、日本兵の遺体が腐りかけ、その上から
 残飯が投げ捨てられ、
  待機室やテントに、まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、
 飾り付けられているのを見た時だ。
  ドイツは、ユダヤ人の扱いで、人間性を汚したと主張
 する我々アメリカ人に、日本人の扱い方で同じようなこ
 とをしでかしている・・とリンドバーグは言った。
  リンドバーグは、オーストラリア軍が、輸送機から日
 本兵の捕虜を、飛行中に投げ捨てられている・・と書い
 てもいる(目撃した)。
  本:『War Journal of Charles Lindbergh』
  リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア
 メリカで、大バッシングを受けた。
  彼の名誉が回復するのは、30年後だった・・亡くなる
 直前だった。
  彼は、正義を求めて、真実を書いただけだった。
  これ等の事は、世界記憶遺産に登録し・・
  アメリカとオーストラリアの各地に銅像を立てよ!
.
2008年9月15日、リーマン・ショック
  これは、アメリカが起こした卑劣な世界的経済騒動だ
 った。
  2008年9月15日、アメリカ合衆国の投資銀行であるリー
 マン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻した・・
  連邦破産法第11条の適用を、連邦裁判所に申請した。
  このことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発
 生した。
  金が借りることが出来ない年収の低い人々にまで住宅
 を買わせ、バブル状態の経済の中で、その住宅が値上が
 りして行くことで担保させようと目論んだ・・
  こんな、裏付けのないタイトロープを渡る様な儲けの
 システムは、いつかは破綻するのは必定であったが、
  これを、アメリカ大統領(ブッシュ・子)が音頭を取
 って、国全体がやるような状況を作って、それで、やっ
 た・・
  案の定、いくら国が大きいと言っても行きつくところ
 の終着点に来た。
  しかし、ここでも、また、卑劣な事をアメリカはした。
  この様な卑劣な債権を「細切れにして」、表面的には
 見えない様にして、状態の悪い債券がある様には見えな
 い様にして(健全債権ばかりの様にして)、良質な債権
 に混ぜて世界中に売りさばいた。
  また、卑劣なのは、アメリカは、「格付け会社」なる
 ものを作った・・そして、その会社にその債券の格付け
 を「良く評価させた」。
  良い債券だというお墨付けを付けた。
  つまり、自分(アメリカ)の都合の悪い借金の肩代わ
 りを世界中にさせるという行為だった。
  この様な悪のシステムが「ばれれば(隠していたこと
 や、嘘などが明るみに出て露見する)」、一気に値崩れ
 するのは当たり前だった・・
  これが、リーマン・ショックだった。
  厖大(ぼうだい、非常に多量)な金、あるように見え
 ていた金が消えてなくなった・・蒸発した。
  あまりにも巨額で、不透明で、損失が拡大していく中
 で・・この対応で、世界中が、シッチャカメッチャカに
 なった。
  あちこちの企業が、金融機関が大損失を出した。
  この様な事が分かっていて、だから、ショックが起き
 ると分かっていた者・・その者だけが、「売り抜けて」
 大もうけした・・
  それは誰か?・・その様な悪も居た・・、
  さらに、この大ショックで、大暴落したその底で買っ
 た奴も大儲けした・・
  当然、事実が判明した時は、そのショックで、株価は、
 世界中で大暴落した。
  経済は冷え込んだ、消費も落ち込んだ、金融不安が蔓
 延した・・
  アメリカ・ドルは急落してドル安が進んだ・・
  アメリカ市場の依存度の高い企業は、大きなダメージ
 を受けた・・
  景気後退が広がって行った・・
  この後遺症は、長く世界を悩ました。
  中国の人民元は、対米ドルとの関係で、米ドル急落で、
 資金が急激に中国に流入し、過剰になるくらいだった。
  中国株価は急騰した・・生産はフル回転となった・・
 総需要が高まり・・世界の工場としての存在の中国は、
 大回転した。
  それまで、失業問題が深刻だった中国は、嘘のような
 状況となった。
  経営が立ち行かない企業が続出していたが、180度、変
 わってしまった。
  サブプライムローンをあまり保有していない中国は、
 影響が、損失が、ほとんど発生しなかった。
  アメリカやEUの景気落ち込みの反動で、中国の経済
 は大伸長した。
  中国政府も、補助金などの支援策を実施し、景気対策
 を行なった。
  中国は、舞い上がった。
  重大産業振興策、医療制度改革などを加速した。
  中国の資金は、やがて、不動産取引へも流れ込んで行
 った。
  中国は流れに乗った・・
  北京の不動産価格も上昇して行った・・急騰と言えた・・
  この様な状況から発した中国経済・・
  中国は、「世界一になるのも近い」と思えるようにな
 った。
  中国が経済力で世界一になるのに「25年かかる」と言
 われていたが、「あと10年しかかからない」と、中国は
 思い込んだ。
  この思い込みが中国の舵を、大きく回転し、向きを変
 えた。
  中国の錯覚は、「経済力と国力の関係を見誤った」。
  小国などに、「金を渡せば、相手は黙る」と中国は思
 った。
  急に、自由になる金を一杯持った中国の悲しさだった。
  金の力で、相手を従わせると安易に考えて、行なった。
  アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
 安易な方針転換をした中国もそこに居た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive