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2016年6月3日金曜日

(増補版)361E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年2月~1880年4月)

題:(増補版)361E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年2月~1880年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年2月、横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう、
 為替銀行)が開業した。
  国立銀行条例(1872年に太政官布告)に準拠した銀行
 で、外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利
 益を軽減するため、現金(正金)で貿易決済を行なうこ
 とを主な業務とした。
  東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身。
  貿易金融・外国為替に特化した銀行であり、明治維新
 後、急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日
 本を、国際金融面で支えた。
  そして、列強の銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展して
 行く。
1880年3月2日、米内光政(よないみつまさ、日本海軍軍人、
 政治家)が生まれた。
  岩手県盛岡市に旧森岡藩士の長男として生まれた。
1880年3月8日、公使任命
  スウェーデンの最初の公使に柳原前光(やなぎわらさ
 きみつ)が任命された。
1880年3月15日、愛国社が、第4回大会を開催する。
  3月17日に、国会期成同盟結成(改称?)し請願運動を
 開始する。
  自由民権運動が、いよいよ盛んとなる。
  国会期成同盟の結成(元:板垣退助の愛国社)
  第4回大会において、愛国社とは別として、国会期成同
 盟の大会が開会される事態になったため、
  この後、愛国社は、旧立志社系統の人々によって継続
 するが、
  1880年12月27日(明治13年11月26日)、東京において
 解散が論議された記録を最後に、歴史の舞台から退場し
 た。
1880年3月22日、小磯國昭(こいそくにあき、日本陸軍軍人、
 政治家)がうまれた。
  栃木県宇都宮に山形県士族(旧新庄藩士)の長男とし
 て生まれた。
1880年3月23日、内務省に駅逓官を設けた。
  これまで郵便業務は、「管内の公用通信網」であった
 が、これを再構築し、
  この1880年3月以降、これまでの「地方管内公用通信網」
 が、駅逓局と各府県との契約(特別地方郵便法)によっ
 て、急速に郵便ネットワークに組み込まれていった。
  これによって、日本全国、津々浦々まで、郵便集配が
 行なえるようになり、ネットワークが完成して行った。
  これは、「五街道を中心とした駅制」と、「地方管内
 公用通信インフラストラクチャー」とが包含され、出来
 上がって行き、そして、近代郵便制度が成立・完成して
 行った。
1880年3月24日、デンマークの最初の公使に長岡護美(なが
 おかもりよし、外交官、華族、貴族院議員)を、
  そして、スイス公使に鮫島尚信(さめじまひさのぶ、、
 薩摩藩士、外交官)を任命した。
1880年3月25日、前島密(まえじまひそか、官僚、政治家)
 が、駅逓総官に任用された。
  (幕臣の家に養子となり、後に貴族院議員となる)。
  1871年(明治4年)に駅逓頭(えきていのかみ)となっ
 て、近代郵便制度の確立につとめていた。
  そして、1881年(明治14年)に、官を辞し、1882年(
 明治15年)に結党された大隈重信の立憲改進党にくわわ
 った。
  前島密・略歴・・、
  1835年2月4日、越後国頸城郡下池部村(新潟県上越市)
         の豪農、上野家に生まれる。
  1845年(11歳)、高田藩儒・倉石典太の門に入る。
  1847年(13歳)、江戸に出る。
         苦学しながら医学・蘭学を学ぶ。
         ペリー来航により国防強化の必要性を
        痛感し、全国を周遊する。
         そして、砲台、港湾などを実地見聞す
        る、
         また、砲術・操練・機関学などを学ぶ。
         その後、箱館で武田斐三郎の門に入っ
        て、航海術・測量法を修得する。
  1865年(30歳)、薩摩藩の開成学校で英語を教授する。
  1866年(31歳)、江戸に戻る。
         そして、幕吏・前島錠次郎の家を継ぐ。
         また、兵庫奉行支配調役、遠州中泉奉
        行を経て、
  1869年(34歳)、新政府に出仕する。
         この頃、密(ひそか)と改名。
  1870年(35歳)、駅逓権正に就任。
         そして、維新後も存続した江戸時代の
        飛脚が、遅滞、不着が甚だしく、そして
        また、高額という飛脚に代わる郵便事業
        創設を決意した。
  1871年(36歳)、イギリスから帰国し、駅逓頭に任ぜ
        られ近代郵便制度を東海道~大阪間で開
        始した。
         また、郵便切手を発行した。
  1872年(37歳)、郵便を全国に実施する。
         そして、飛脚屋に陸運元会社(のち内国
        通運会社)の設立を勧めた。
  1873年(38歳)、郵便事業の政府専掌とし、全国均一
        料金制を確立した。
       「郵便」「郵便切手」の名称は前島の創意。
  1881年(46歳)、14年の政変により大隈重信と共に下
        野し、立憲改進党の結成に加わった。
  1886年(51歳)、関西鉄道会社社長に就任。
  1887年(52歳)、東京専門学校(早稲田大学)の校長に
        なる。
  1888年(53歳)、逓信次官に任ぜられる。
         そして、電話交換事業の創始に貢献。
         退官後、北越鉄道会社社長となり、直
        江津~新潟間の開通に尽力。
  1904年(69歳)、貴族院議員になる。
  1919年4月27日(84歳)、神奈川県三浦郡西浦村大字芦
        名(現在の横須賀市芦名)の別荘・如々
        山荘にて没する。
1880年3月30日、村田銃が発明される。
  陸軍省、村田経芳作製の単発銃を、軍用に採用した。
  この年に、単発の後装式施条銃を完成し、十三年式村
 田歩兵銃として制定された。
  口径 11mm、全長 1090mm、重量 4kg、最大射程 2000m
  陸軍少将・村田経芳(むらたつねよし)の考案。
  日本陸軍の最初の正式採用された国産の制式小銃。
  日清戦争に威力を発揮した。
  砲金(銅と錫、または、銅とスズと亜鉛の合金)の薬
 莢(やっきょう、銃砲の弾丸の発射薬を詰める円筒形の
 容器。底部に雷管がついている)を用い、射撃後、槓桿
 (こうかん、銃の遊底・ゆうていを操作するための握り)
 を引いて尾筒を開けば空薬莢ははじき出された。
1880年3月、 「愛國志林(あいこくしりん)」 が創刊
  愛国社(自由民権運動の全国的指導組織)の機関誌。
  1880年8月に、「愛国新誌」と改題した。
  資金、編集ともに高知の立志社が中心となり、大阪で
 発行した。
  基本的人権や人民主権を主張。
  自由民権思想の普及に大きく貢献した。
1880年、政府側も揺れていた『憲法制定と国会開設』
  この年の1880年(明治13年)に入ると、立憲体制に消
 極的であった岩倉具視も・・、
  自由民権運動への対応から、参議や諸卿から、今後の
 立憲体制導入の手法について意見を求めた。
  伊藤博文は、この年の1880年の暮れに意見書を提出し、
 漸進的な改革と上院設置のための華族制度改革を提議し
 た。
  後者は、公家出身の岩倉が嫌う点であったが、伊藤は、
 敢(あ)えて提出した。
  ただし、どこの国の制度を参考にするかは明らかにし
 なかった。
  伊藤に相前後して、参議らから次々に意見書が出され、
 様々な意見が出された。
  その中で、1人・大隈重信だけが意見書の提出を先延ば
 しにしていた。
  1881年(明治14年)3月に至って、ようやく大隈が、左
 大臣(岩倉からみて上位)の有栖川宮熾仁親王に対して、「
 密奏(みっそう、ひそかに奏上すること)」という形で
 意見書を提出した。
  大隈は、その中で、イギリス流の立憲君主国家を標榜
 (ひょうぼう、主義・主張などをはっきりと掲げ示すこ
 と)し、
  早期の憲法公布と、国会の2年後(1883年)の開設を主
 張した。
  このことを、1881年5月に、内容を知った岩倉は、その
 内容とともに、自分を無視して熾仁親王に極秘裏に意見
 書を出した経緯に憤慨した。
  岩倉は、太政官大書記官の井上毅に意見を求めた。
  井上毅は、大隈案と福澤諭吉の民権論(『民情一新』)
 との類似点を指摘して、一刻も早い対案を出す事を提言
 した。
  そして、岩倉の指示を受けた井上は、ドイツ帝国を樹
 立したプロシア式に倣った君権主義国家が妥当とする意
 見書を作成した。
  だが、大隈の密奏も、岩倉・井上毅の意見書も、他の
 政府首脳には詳細が明かされなかった。
  そのため、伊藤が、この事情を知ったのは、1881年6月
 末であった。
  ただし、伊藤は、大隈に対してのみではなく、岩倉・
 井上毅が、勝手にプロシア式の導入を進めようとしてい
 た事に対しても意を悪くし、説明に来た井上毅を叱責し
 た(6月30日)、
  そして、伊藤は、三条実美に辞意を伝えた。
  岩倉は、伊藤に辞意の翻意を求め、
  井上毅も、国家基盤を安定させてからイギリス流の議
 院内閣制に移行する方法もあるとして、自説への賛同を
 求めたが、
  伊藤は、イギリス式かプロシア式かは、今、決める事
 ではないとして、岩倉が唱える「大隈追放」にも否定的
 であった。
  この間にも、井上毅は、伊藤の盟友・井上馨(当初は
 将来的な議院内閣制導入を唱えていた)を自派に引き入
 れ、
  伊藤は、薩摩閥と結んで、まず、憲法制定・議会開催
 時期の決定することを求めた。
  (参考)民情一新は・・、
  「文明論之概略」と共に、福沢諭吉の歴史観を知る重
 要な書で、
  「文明論之概略」において、福沢は、歴史を動かすも
 のは一二の英雄豪傑の力ではなくて時勢であるとした。
  この「民情一新」においては、更に、その論緒を発展
 させ、時勢を動かすものは交通の便によると説いた。
  19世紀文明の急速なる発達は、蒸汽船車・電信・郵便・
 印刷の発明工夫に基ずくもので、結局、蒸汽力を、人類
 が利用することを知ったのが、近時文明の進歩の最も大
 きな原因で、
  しかも、この蒸汽力利用の発明によって、これを発明
 した人類自身が急激なる変化に遭遇し、周章狼狽してい
 るのが、これが、現在の世態民情であると言った。
  新技術の発明が、歴史を動かす原因であるとする福沢
 の所説は、
  物質的生産力が歴史推進の原動力であるとするマルク
 スの所説に甚だよく似ているので、
  近年になって永田広志、小泉信三などの諸家の注目す
 るところとなり、研究論考の対象となった。
  福沢自身は、もちろんマルクスの学説などは知らなか
 ったのであるが、
  この書については相当に自信があったものと見えて、
 「日本学士の思想」を示すために英訳しようともした。
  この英訳は遂に成らなかったが、オーストリヤの碩学・
 シユタイン博士からその著書を贈られたとき、
  これに答礼するために、自著を贈るに当って、多くの
 著書の中から、この一冊だけを選んだ。
1880年4月5日、集会条例を制定し、公布した(施行)
  国会請願運動を拘束し、
  また、民心を扇動して、民心を動揺するのを防ぐため、
 「集会条例」が定められた。
  自由民権運動を弾圧、集会・結社の規制で・・、
  政治結社や集会を届け出制にしたほか、
  国家の安全に害ありと認めたときは許可しないこと、
  警官の集会場への派遣・臨席や、演説内容によっては
 集会の解散、この処分を受けた結社の禁止、
  軍人・警官・教員・生徒らの政治結社、および、集会
 への参加、政治活動の禁止などが定められた。
  また、集会の広告、政治結社相互の連絡、屋外集会の
 禁止を定めた。
1880年4月8日、2府22県、9万6924人の委託を受けた「国会
 を開設するの允可(いんか、許可)を上願する書」が起草
 された。
  そして、片岡健吉と河野広中(こうのひろなか)が代表
 で、太政官(だじょうかん)と、元老院に提出した。
  しかし、両方とも受理されなかった。
  これに興奮した全国各地の民権派は、続々と請願や建
 白の運動を始めた。
  しかし、いずれも却下されるか、回答を得ることがで
 きなかった(政府自身も、政府部内も揺れていたから)。
  同年の1880年11月、東京で開かれた国会期成同盟・第
 2回大会では、2府22県13万人を代表する64人が集まり、
 関東や東北などからも参加があり、運動は拡大した。
  この大会では、弾圧を受けた者の救援を図るための遭
 変者扶助法が定められた。
  また、翌・1881年の大会までに、加盟各社が憲法見込
 案を持参し、研究する合議がなされた。
  これを受けて、各地で憲法起草の取り組みが始まった。
  しかし、1881年に、『明治十四年の政変』が起こり、
 ついに、憲法草案の審議をすることなく、国会期成同盟
 は自由党結成への準備会と合流し、政党組織へと変わっ
 ていった。
  日本は、近代システムの建設への経過の中に居て、
 生みの苦しみをしていた。
  すべての日本国民が、誠実に、国家建設に邁進してい
 た。
1880年4月17日、「國會ヲ開設スルノ允可(いんか、許すこ
 と)ヲ上願スル書」を太政官に提出した。
  1881年3月、大隈重信が、國會開設の早期開設案を提出
1880年4月19日、河野広中・片岡健吉ら、約10万人の総代と
 して、国会開設の請願書を提出(却下される)
  片岡健吉,河野広中が、全国2府22県約9万7000名の請
 願委託者を代表して「国会を開設するの允可を上願する
 書」を提出した。
  この請願書は、120件に及ぶ国会開設請願書・建白書の
 中でも、9項目の請願理由を列挙した詳細なもので、
  その根拠が、天賦の人権、五ヵ条の誓文の国是、兵役
 ならびに地租負担者の権利、内政および財政の混乱、国
 権回復など広範にわたっていたことを示している。
..
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2016年6月1日水曜日

臨時ブログ:マインド・コントロールされる子供たち(キリスト教のマインド・コントロール教育)

臨時ブログ:マインド・コントロールされる子供たち
  (キリスト教のマインド・コントロール教育)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1822年、昔も、今も、キリスト教はマインド・コントロー
 ル教育に精を出す。
  1822年のこの年に生まれ、1890年に没したハインリヒ・
 シュリーマンは・・自著に書く、
  彼は、キリスト教聖職者の家系で・・、
  子供の頃には、様々な不思議な怪奇な話を聞き、聞か
 されたと。
  我が家の庭の小屋には、前任者牧師の亡霊が出ると。
  また、家の後ろにある小さな沼に、真夜中に若い女の
 幽霊が皿を持って出ると。
  また、村の堀をめぐらす小丘に、キリスト教時代以前
 の墓があって、それは巨人の墓だと。
  また、キリスト教時代の墓には、老盗賊の騎士が、自
 分の愛人の子を、金のゆりかごに入れ、埋め、葬ったと。
  また、アンケルス・ハーゲンには中世の城があり、
  その城には、厚さ2メートルの城壁の中を通じる秘密の
 通路が、深い湖の底に達していると・・、
  そして、そこに恐ろしい幽霊がさ迷い出る・・と。
  子供の頃の著者は、そのすべてが現存すると信じた・・
 とのこと。
  このキリスト教聖職者の家系に生まれた著者は、幼少
 よりこの様な話を聞き続け、洗脳され、マインド・コン
 トロールされて来た。
  そして、キリスト教の性悪説に、マインド・コントロ
 ールされ、
  世の中は悪いものだと、マインド・コントロールされ、
  人間は悪いものだと・・マインド・コントロールされ、
  世の中が・・良い訳はないと思い、
  マインドコントロールされた心は、人間を、その様に
 も見て・・そして、その様に、思考が展開して行く。
  その様なことにマインド・コントロールされた教育も
 なされ、その様に思考展開される子供たちとなって行く。
  (その様な中から政治家も生まれ、
   その様な思考形態で、政治がなされていく)
..
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(増補版)360E1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年1月~1880年2月)

題:(増補版)360E1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年1月~1880年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年、食:
・三田育種場(みたいくしゅじょう)孵卵器で孵化に成功
 したが普及せず。
  三田育種場は、1877年~1886年まで、東京の三田(現
 在の港区芝)で営まれていた官営種苗会社。
  農産物の優良な種苗の普及に努めるほか、牛馬や農機
 具の改良も行われた。
  馬匹(ばひつ、馬のこと)の改良の為に、三田育種場
 内には競馬場も設けられ、
  そこで行われる競馬は、上流階級を含む多くの観客を
 集めた。
  文献には・・、
  「土地を拡大していく過程で、明治7年7月に、三田四
 国町の旧島津邸の4万坪の土地を買収して付属の試験地と
 した。
  正式な名称は、内藤新宿勧業寮出張所附属試験地であ
 るが、後の三田育種場である。
  同地を買収したのは、内藤新宿の土地が各種の穀菜類
 のうち、麦、綿、藍等の試作に「地味良ラズ」との理由
 に加え、「所在が僻在」していたためでもあったといわ
 れている。
  これが、後の明治12年5月に、内藤新宿試験場の廃止理
 由にもなるのであるが、廃止の理由としては、その頃に
 は、三田育種場自体が「漸次整備」されていたこともあ
 る」
 ・・と、文献にあるごとく、
  明治新政府は、富国のために政策に誠実に邁進してい
 た。
・丸山三吉が、信州飯田で梨の栽培をはじめ、成功す。
  丸山三吉は、近世、果樹園始祖とある。
  梨の他に、リンゴ、モモ、ぶどうを栽培した模様。
・東京・浅草で、初代・神谷傅兵衛が「みかはや銘酒店」
 として洋酒の『一杯売り』を始めた。
  神谷バーの創業。デンキブラン(1882年)
・東京市内のビール販売店が、13店を数えた。
  そして、1880年代後半には、本格的な会社組織のビー
 ル会社が相次いで誕生していった。
  財閥や有力な資本家が、ビール産業の将来性に着目し、
 業界参入を企図したからだった。
  ジャパンブルワリー・カンパニー(Japan Brewery
 Company、以下JBC)が、我が国の最初の、日本ビール産
 業の創始の会社とされているが、
  このJBCは、すでに、1870年頃、横浜山の手の天沼に設
 立されたスプリングバレー・ブルワリー(Spring Valley
 Brewery)を前身として存在していた。
  また、このJBCの他に、1887年9月に、東京で、日本麦
 酒が、
  そして、同年・1887年12月には、札幌麦酒がそれぞれ
 設立され、
  また、関西では、大阪麦酒の設立の動きがあった。
  この頃のビールは、まだ高級品で、一部の人々にしか
 飲まれていなかったが、洋食の広まりとともに、ビール
 は、わが国に必ず普及していくと考えられていた。
1880年、住:
・和製の弗匣(どるばこ、金庫)販売の新聞広告が出た。
1880年、その他:
・地図記号が、初めて定められた。
  フランスにならって設けたもので70点ほど。
  明治13年図式と呼ばれる。
・「サガレン島出稼漁者寄合」が結成された。
  全国から13名が参加し、樺太漁業の開拓者となった。
  因みに、「樺太」と言えば南樺太を指したため、
  北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)とも呼んだ。
1880年1月10日、陸軍に軍用電信隊が開設された。
  アメリカでグラハム・ベルが電話機を発明したのは、
 1876年で、
  1年後の1877年に、日本に電話が渡来した。
  そして、この年に、創設の電信隊においてヘリオグラ
 フ式のもので通信した。
  回光通信機(かいこうつうしんき)は、光の明滅によ
 る視覚的通信(発光信号)を行う軍用通信機で、
  うち、光源に太陽光の反射を用いるものは、ヘリオグ
 ラフと呼ばれた。
1880年1月20日、シャム総領事・品川弥二郎(しながわやじ
 ろう、元長州藩士、政治家)の斡旋により、シャムと本
 格的な国交が開かれた。
1880年1月25日、交詢社(こうじゅんしゃ)の結成(設立)
  1880年のこの日に、福沢諭吉が設立した社交クラブ。
  しかし、単なる社交クラブにとどまらず・・、
  慶応義塾出身者、および、縁故実業家やジャーナリス
 トが主となって、「国会開設」や「閥族打破憲政擁護」
 の運動を進め・・、
  1880年2月、『交詢雑誌』を創刊し、知識交換・世務
 諮詢を行い・・、
  憲政擁護運動の策源地となった。
  これは、立志社~愛国社系の自由民権運動に対抗する
 という政治的ねらいをもっていたとみられる。
  全国的な組織活動の結果、発足時、1800名の社員を擁
 して、
  構成員は、地主・豪農層や商工業者、銀行家、官吏、学
 者、言論人、教員など、中央・地方の有力者であった。
  1881年、私擬憲法として交詢社憲法案を発表した。
  翌年・1882年に結成された立憲改進党の有力な支持基
 盤となった。
  著名な社員に、三井財閥系の中上川(なかみがわ)彦次
 郎、武藤山治(むとうさんじ)、池田成彬(なりあき)らの
 実業家・・ら、
  尾崎行雄(ゆきお)、竹越与三郎(よさぶろう)、犬養毅
 (いぬかいつよし)、箕浦勝人(みのうらかつんど)などの
 政治家、
  本多精一(せいいち)、小山完吾(こやまかんご)らのジ
 ャーナリストがいた。
  1913年の大正政変の際に、憲政擁護会を結成して、第
 一次護憲運動の指導的役割を果たした。
  社交クラブとして現在に至っている。
  (参考)世務(せむ、世の中の務め)、
      諮詢(しじゅん、参考として他の機関などに
     意見を問い求めること)
      策源地(さくげんち、前線の作戦部隊に対し
     て、必要物資の補給などの兵站(へいたん)支援
     を行う後方基地)
1880年1月26日~27日、高崎で大火(28日説あり
  午後9時ごろ、本町から出火、折からの激しい北風にあ
 おられて次々と延焼した。
  まず炎は、久蔵町から田町、連雀町を焼き払い、翌日
 の午前1時過ぎ、檜物町まで灰にしてようやく焼け止まっ
 た。
  2500余戸焼失、土蔵50余棟が崩落。
  高崎ハリストス正教会が全焼した。
1880年1月31日、陸軍飾隊式を観兵式と改める。
  (参考)観兵式(かんぺいしき):旧日本陸軍で、天
    長節・陸軍始などで、軍隊が整列し、天皇陛下が
    御観閲(かんえつ)された儀式。
1880年1月、安田銀行が開業した。
  安田商店が、安田銀行(後の富士銀行、現・みずほ銀
 行)に改組(かいそ、組織を改めること)した。
  1864年に、安田善次郎が、日本橋で開業した乾物兼小
 銭両替商の安田屋がその前身で、
  1866年に、両替専門店として安田商店に改称した。
1880年2月3日、東京・日本橋町、浜町で大火。
  焼失21500戸。
  日本橋も、神田に匹敵する大火の多発地帯で、
  明治期に5件の大火がある。
  中でも、1879年(明治12年)12月26日、日本橋区箔屋
 町から出た火の手は、屋根の瓦が飛ぶほどの強い北西風
 にあおられて、たちまち現在の日本橋2丁目から3丁目、
 京橋1丁目、2丁目の一部に延焼し、八丁堀、新富、入
 船、湊、新川の一部、さらには佃の一部を焼く大火とな
 った。
  被害は、65か町、全焼1万613戸、焼損面積7万4234坪
 (24万4972平方メートル)にも及んだ。
  この大火からわずか1か月余りしか経たない翌1880年2
 月3日、また、日本橋で大火が発生した。
  日本橋区橘町から出火した火の手は、久松町から浜町
 1~3丁目を焼き、
  1776戸、1万5336坪(5万609平方メートル)が焼失した。
1880年2月5日、第3回 地方官會議
  1875年4月に出された「漸次立憲政体を立てるの詔」に
 基づき、
  民情(みんじょう、人民の心情。国民の気持ち)を通
 じ公益をはかるために、太政官の開催した地方官の会議
 で、
  1875年6月、第1回の地方官会議が、東京浅草の東本願
 寺で開催され、
  議長は、木戸孝允。
  議題は、地方民会、地方警察、土木工事などの諸案が
 審議され、
  町村会の開設、租税について国税と府県税の区分が設
 定された。
  この第3回は、伊藤博文を議長として、1880年2月に開
 かれ、
  三新法の改正と、区町村会法、備荒貯蓄法の制定が重
 要議題だった。[
  (参考)三新法(さんしんぽう)は、明治政府が制定
    した最初の統一的地方制度で、
     1878年7月22日に布告された地方制度に関する三
    つの新しい法で、
     (1)郡区町村編制法、(2)府県会規則、(3)地方税
    規則。
1880年2月5日、外国郵便為替が創設され、外国郵便為替の
 取り扱いが開始された。
1880年2月6日、横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこ
 う)の設立(開業は2月28日)
  国立銀行条例(1876年、太政官布告第106号)に基づい
 て設立された貿易金融の専門銀行で、
  その目的は、正貨によって為替取引を行い、貿易金融
 に資するにあった。
  (参考)正貨(せいか):本位貨幣(一国の貨幣制度
    の基準となる貨幣)で、
     通常は、金本位制度のもとで、金貨のほかに金
    地金・金為替を含む意味で用いられる。
1880年2月20日、陸軍省・海軍省・工部省、連署して太政官
 に製鉄所建設を稟議した(2月27日説あり)
  陸軍、海軍、工部各省の連合精鉄製造所(後の製鉄所)
 設立の請を配す
1880年2月28日、参議の各省兼任を止め、太政官と各省を分
 離する。
  太政官における太政官制は、王政復古後の1868年1月13
 日、太政官代が置かれ、三職(さんしょく)七科の制が発
 足した(ほどなく三職八局の制に変更)。
  ついで、閏(うるう)4月21日、政体書を発布して、立法・
 行政・司法の三権に分け、
  議政官(ぎせいかん)以下の七官を置き、
  これらの中央官庁を太政官と総称した(特別の官庁が
 あったのではない)。
  しかし、三権分立の実はなく、
  行政を担当する五官(行政・神祇(じんぎ)・会計・軍
 務・外国)の首位にあった行政官が、国政の決定・執行
 の中枢機関であった。
  版籍(はんせき)奉還後の1869年7月8日、官制の改革に
 よって、民部以下の六省を管轄する官庁として太政官が
 置かれ、ここに機構上、太政官制が成立した。
  しかし、この改革は、律令(りつりょう)的太政官制に
 基づく復古的なもので、三権分立制は消え、太政官の上
 に神祇官が置かれていた。
  廃藩置県後の1871年7月29日に、天皇陛下が親臨して万
 機(ばんき)を総判する正院(せいいん)、
  各省の長・次官が会合して行政事務を審議する右院、
  議院・諸立法の事を議する左院が置かれて、太政官三
 院制が成立した。
  そのもとに、外務以下の八省が設置され、
  中央集権国家の最高機関として、太政官は確立された。
  三院の中心は、正院にあり、天皇陛下を輔弼(ほひつ)
 する最高責任者の太政大臣以下、納言(なごん)(8月10日、
 左・右大臣と改称)、参議などがこれを構成した。
  1873年5月2日に、強大な大蔵省の権限を抑え、正院の
 権限を拡大するために改革が行われた。
  正院には、参議を議官とする内閣が設置されて、
 立法・行政をはじめとする国政の中枢機関となった。
  これに伴って、右院は、臨時に開く機関にかえられた。
  ついで、この年10月の征韓論をめぐる政変後から、参
 議と各省の卿(きょう)(長官)の兼任制が確立してゆき、
 参議の権限はしだいに強大となった。
  1875年4月14日に、漸次に立憲政体をたてるとの詔書が
 発せられたのに対応して、太政官制にも大改革が加えら
 れ、左右両院は廃止された。
  正院のもとに、元老院(げんろういん)と大審院(だいし
 んいん)が設置された。
  1877年1月18日に、地租軽減・政費節減の実施に伴う機
 構改革の一環として、
  正院の称は廃止され、名実ともに内閣が中枢機関とな
 った。
  1880年2月28日に、参議への権限集中に対する批判の高
 まりに対して、いったん参議と省卿の分離を図ったが、
 「明治十四年の政変」後の1881年10月21日に、兼任を復
 活した。
  同時に、法律規則の制定、審査にあずかる参事院を置
 いた。
  1885年12月22日に、太政官達第69号をもって太政官制
 は廃止される。
  同日発足の内閣制が、これにかわった。
  太政官制は、幕藩体制を解体した新政権が、律令古制
 への復帰を標榜(ひょうぼう)しつつ、全国統治を目ざし
 て創出した中央権力機構であった。
  当初、神祇関係機構の位置づけをめぐって混乱はあっ
 たものの、改革・整備は、太政官に強大な権限を集中す
 る方向で進められた。
  しかし、天皇陛下の輔弼の責任が大臣に限られ、
  国政の実質的運営にあたる参議は、この責任にあずか
 らなかったこと、
  国政の審議決定にあたる大臣・参議と、これを執行す
 る諸省の長官とは権限を区別され、
  前者が、上位に置かれていたこと、などの制度的特質
 からしばしば問題が引き起こされた。
  内閣制への移行によって、国務大臣と各省長官との重
 複制が成立し、輔弼と執行との一体化が図られていった。
..
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2016年5月30日月曜日

(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月~1880年1月)

題:(増補版)359E1/3:気になった事柄を集めた年表(1879年12月~1880年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年、出来事:
・憲法制定手続きの論議が活発化
・財政監督制度が始まった。
  会計検査院の歴史において、1869年(明治2年)、太政
 官(内閣の前身)のうちの会計官(財務省の前身)の一
 部局として設けられた「監督司」を前身とし、
  その後、「検査寮」、「検査局」と名称の変遷を経て、
  1880年(明治13年)に至り、太政官に直属する財政監
 督機関として誕生した。
  そして、1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法が発
 布されるとともに、「会計検査院」は、憲法に定められ
 た機関となった。
  以後60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁として財
 政監督を行って来た。
・消防本部の設立。
  この年・1880年に、内務省警視局に消防本部が設立さ
 れた。これが、東京消防庁の始まり。  
  消防は、基本的に警察の管理下に置かれた。
  これは、火事場泥棒を防ぐための措置で、
  消防経費は、国庫負担だった。
  そして、翌年・1881年、消防本署の下に6つの消防分署
 が設置された。
  消防第1分署(現在の日本橋消防署)
  消防第2分署(現在の芝消防署)
  消防第3分署(現在の麹町消防署) 
  消防第4分署(現在の本郷消防署)
  消防第5分署(現在の上野消防署)
  消防第6分署(現在の深川消防署) 
1880年、経済・財政:
・政府財政が深刻、
  西南戦争の戦費調達で、さらに火の車となった。
  負債利子だけで国庫収入の1/3となった。
  西南戦争は高くついた。
  そこで、1873年~1880年に、大蔵卿を務めていた大隈
 重信や、
  1880年~1881年に、大蔵卿を務めた佐野常民(さのつ
 ねたみ)は、不換紙幣を発行した。
  不換紙幣:正貨である金貨や銀貨との交換を保障しな
 い貨幣。不兌換の紙幣。
  世はインフレーションとなった。
  物価は上昇し、表面上の政府への歳入は、増えた様に
 見えたが、実質的に歳入減となり、さらに、財政は深刻
 化した。
・全国銀行株金総額の42%は華族が所有した。
1880年、物価:
・米価 1石=10円47銭
  この年、米価の平準を保つということで、米会所条例
 の改正が行われた。
  主な改正点は・・、
  (1)仲買人身元金の変更。
  従来、東京・大阪は200円、他は一等200円、二等100円
 を改めて、一律1000円とした。
  (2)売買証拠金を「10分の1」から「10分の2」とし
 た。
  (3)現場売買を禁止した。
  この結果、仲買人は激減した。
  また、取引は、低迷となる米会所が出た。
  当然、規制緩和の運動が、各地の米商会所から出た。
  政府は、その声を聞き容れざるを得なくなり、1882年
 に改正した。
  政府は、必死に税収を増やそうとしていた。
1880年、論:
・ 「言論自由論」(著:植木枝盛)
  1880年7月、愛国社から発行された。
  『言論自由論』の目次は・・、
  (発端)
  (言論ノ自由ハ天然ニ出ツルヲ論ス)
  (言論ノ自由ノ人生エ闕ク(か)可カヲサルヲ論ス)
  (言辞ハ文字ヨリモ優ル所アルヲ論ス)
  (語辞ノ勢力ヲ論ス)
  (人間必ス言論ノ自由ヲ有ス可キヲ論ス)
  (言論ノ自由ハ国家ニ於テモ亦緊要ナルヲ論ス)・・
  以下略
・ 「民権弁惑(みんけんべんわく)」(著:外山正一)
  外山正一(とやままさかず)は、明治時代の日本の教
 育家・文学者・社会学者・政治家。
  勝海舟の推挙により、1866年(慶応2年)、中村正直ら
 とともに幕府派遣留学生として渡英し、イギリスの最新
 の文化制度を学んだ。
  官立東京開成学校で、社会学の教鞭をとり、
  1877年、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編
 されると日本人初の教授となった。
  モースを東京大学に招聘したりし、
  また、ラフカデイオ・ハーン(小泉八雲)に強く働き
 かけ、東京帝国大学英文学講師に招聘した。
  東京帝大文科大学長(現在の東大文学部長)を経て、
 同総長・貴族院議員、第3次伊藤博文内閣の文部大臣など
 を務めた。
  大日本帝国憲法発布の記念式典に、明治天皇陛下に対
 して「万歳」を始めて唱えたのは外山正一だったと言われ
 ている。
1880年、本・文学:
・美術雑誌 「臥遊席珍(がゆうせきちん)」 創刊。
・佐々木弘綱 「明治開花和歌集」
・戸田欽堂 「情海波瀾(じょうかいはらん)」
  政治小説の最初の作品。
  民権の確立(国会開設)を争点とする政府と人民の対立
 と調和が、アレゴリー(たとえ話的)に書かれている。
・翻訳物あきられ、漢字の本が売れるようになった。
・出版する者がふえる(有喜世新聞の記事)
・丸屋商社(後の、丸善・まるぜん)が丸善商社と改称し
 た。 創業(1869年)
  内外図書、雑誌、文具、事務機械、洋品雑貨の販売、
 および、輸出入のほか出版、教育機器の製造、不動産業
 を営む会社。
  1869年(明治2年)、福沢諭吉の門人・早矢仕有的 (は
 やしゆうてき) が、横浜に設立した丸屋商社がその前身。
  1869年1月1日、丸屋商社を横浜に創業し(事実上日本
 の株式会社第一号)、『丸屋商社之記』を制定した。
1880年、世相・流行:
・東京、京都、愛知で万年青、蘭の栽培が流行
・横浜で鶏の蹴合いが流行。
・甲斐絹(かいき、絹織物の一種)の騰貴で、女性の稼ぎ
 がよくなり、女天下になったと言われた。
  世界的にも稀(まれ)で、独自の技法がみられ、織物
 の風合いにも特徴がある、広幅の輸出甲斐絹が盛んに織
 られた。
・「ヘナチョコ」という新語が新橋花柳界から発生し、流
 行した。
  語彙については、「埴猪口、へな土でつくった猪口」
 の意味、
  「未熟な人や役に立たない人をあざけっていう語」と
 ある。
  そして、『集古』庚申第二号(大正9年4月25日発行)
 に、ヘナチヨコの由来と題する野崎左文(のざきさぶん、
 蟹廼屋左文)の文があり・・、
  明治14~15年の夏の事で、当時、風雅新誌の社主であ
 つた山田風外氏とおのれ等四五人で、同年神田明神に開
 業した今の開花楼に登つて一酌を催した。
  其時銘々の膳に附けて出した盃は、内部がお多福、外
 側が鬼の面になつて居る楽焼風の気取つたものであつた。
  是れは面白い盃だ先づ一杯を試みやうと女中に酒を注
 がせるとこは如何にジウジウと音がしてブクブクと泡が
 立つた。
  イヤ是れは見掛によらぬ劣等な品物だヘナ土製の猪口
 だからヘナチヨコと呼ぶべしだと呵々大笑したのが抑も
 の始まりで、
  それから以後、外見ばかり立派で実質の之に伴はぬも
 のを総てヘナチヨと呼び、ヘナチヨコ料理屋、ヘナチヨ
 コ芸者、ヘナチヨコ芝居などゝ盛んに此の新語を用ひた
 のが、忽ち新橋の花柳界に伝はり、
  又、落語家円遊などが高座で饒舌るやうになつた為め
 終に東京一般の流行言葉となつたのである。
  此のヘナチヨコなる語は、今でも猶屡々耳にする事が
 あるのに其の名付親たる当時の四五人の連中は過半故人
 となり、活き残つて居るのは風外翁とおのればかりとは
 座ろに今昔の感に堪へぬ。
1880年、演芸:
・三遊亭円遊 → ステテコ踊り
  11月:東京・浅草の並木亭で初代三遊亭円遊が「すて
 てこ踊り」を始め、大変な人気で流行した。
  落語が終わった後に、高座で見せた踊り。
  類似の芸を見せる芸人も他に現れ、それぞれに大変な
 人気となった。
  1880年は、コレラ流行の余波で寄席が不況であったの
 で始めた。
  尻っぱしょりで半股引を見せ、踊るものであった。
・三遊亭萬橘(さんゆうていまんきつ)→ヘラヘラ踊り
  「へらへら踊り」は、その後、大阪宗右衛門町の料亭・
 南地大和屋が復活させ、現在でも演じられている。
1880年、衣:
・近畿の綿作が激減しはじめる。
  二毛作は、経済性の追求を目的としていたため、その
 普及は著しかった。
  その為の「ため池の築造」が、二毛作の普及に間に合
 わないという事態が起こった。
  しばしば、水不足に見舞われる様になった。
  この対策として、いくつかの水田には米を作らないで
 おく『犠牲田』を設けて、慢性的な水不足に対応した。
  その犠牲田の有効活用を図ったのが田畑輪換農法だっ
 た。
  田畑輪換農法は、稲作と畑作を交互に行なうもので、
 いくつかの水田を畑として利用し、2~3年の周期で再び
 その土地を稲作に戻すという方法で、
  同時に、二毛作による連作障害や、地力の低下した田
 を休ませ、回復させるという長所もあった。
  輪換作物は、綿が主流だった。
  稲作期間中の綿の作付けは、江戸時代初期の「作物勝
 手作りの禁」により禁止されていた。
  明治になって、この規制が緩和に向かった。
  綿作は、水不足による犠牲田を有効利用するための作
 付けだった。
  また、綿作に向かった理由の一つに、朝鮮からの綿輸
 入の縮小があった。
  その為、国内の綿需要を満たし、また、需要の高まり
 から、綿作は、徐々に公認されて行った。
  (因みに、朝鮮からの綿輸入の減少は、豊臣秀吉によ
 る朝鮮出兵以来という古い時代にさかのぼる話がある)。
  こうして、二毛作を補うような形で無駄なく生産する
 ことができる田畑輪換が、その後、広く普及した。
  二毛作、田畑輪換により、大和平野の農業は著しく発
 展を遂げた。
  近世の中期では、水田の約3分の1(約6000ha)が輪換
 畑であった。
  しかし、明治の開国により、外国の安い綿が輸入され
 るようになると、大和平野で作られていた綿の需要は、
 一気に低下して行った。
  この頃、平野で営まれていた田畑輪換に作付けされて
 いた作物の内、綿の占める割合は4割にも達していた。
  綿を作付けしていたそれらの農家は、再び、田畑輪換
 を行なう前の状態、つまり、二毛作を強いられることに
 なった。
  綿作が衰退し、徐々に稲作が増えてくると、当然、再
 び用水が不足するようになった。
  根本的な水不足問題は、なにひとつ解決していなかっ
 た。
  そこで、再び、ため池の築造が始まった。
  明治に入って造られた「ため池」は、平野部に集中し、
 田をため池にするというような方法で行なわれた。
  綿による収入が激減していた農家に、平野部の田んぼ
 をつぶして水の確保を行なわなければいけないという辛
 い状況となった。
..
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