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2017年4月20日木曜日

(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)

題:(増補版)520E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年10月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1890年10月9日、フランスのクレマン・アデールが、20馬力
 の蒸気機関を装備した単葉機「エオル号」を製作した。
  アデールは、フランスの軍人であり、電気技術者でも
 あった。
  アデールのこの飛行機は、地面から浮き上がり、飛行
 距離は50メートル・・と・・主張した。
  しかし、実際は50メートル走っただけのようで、「初
 飛行」とは認められなかった。
  また、アデールは、1892年に2号機、1897年に3号機を
 作って、飛行に挑戦したが、うまくいかなかったようだ。
  有人飛行機の初飛行は、13年後の1903年12月17日のラ
 イト兄弟まで待たなければならない。
1890年10月12日、イギリス人のスペンサーが、横浜で落下
 傘を実演した。
  これは、軽気球実演で、横浜公園で、イギリス人のパ
 ーシバル・スペンサーが、風船(軽気球)に乗り、落下
 傘で降下する実演を行った。
  飛行は、午後2時と予告されていて・・、
  観覧場は、有料席が設けら、料金は、一人50銭〜2円。
  少し高額の入場料のため、売上は芳しくなかった。
  それでも・・800円の売上があった。
  音楽隊の演奏がされて、その音楽が流れる中、直径28
 尺(約9m)あまりの気球にガスが入れられた。
  ガスの充填の間、獅子、虎、象、亀、魚の形が描かれ
 た紙製のミニ気球が打ち上げられ、客を飽きさせない様
 になされた。
  ガス充填が完了して、4時48分、気球は一気に上昇し、
  あっという間に上空(約1,000メートル)に到達した。
  そして、気球で上昇したスペンサーは、パラシュート
 で飛び降り、「太田水道貯水地近傍」に降り立った。
  そして、すぐさま横浜公園の会場に帰り、観衆の前に
 現れ大喝采を受けた。
  この男は、ロンドンに生まれ、祖父から軽気球の製造
 を引き継いだ。
  そして、シンガポール、バタビヤ、香港など、当時の
 イギリス植民地を中心に、軽気球ショー巡業をしていて、
  そのショーの途中、来日し、横浜を手始めに8回実施し
 た。
  日本政府に対して、飛行計画をちゃんと申請して行っ
 た。
  巡業日程は、1890年10月12日(日)横浜公園
  10月19日(日)横浜公園(第二回)
  11月 1日(土)神戸居留地
  11月12日(水)天覧(二重橋外)
  11月24日(月)上野公園
  11月30日(日)大阪今宮眺望閣東
  12月14日(日)京都御所博物会場前
  日時不明・・・長崎
1890年10月20日、元老院が廃止された。
  1875年(明治8年)4月14日のいわゆる「立憲政体を立
 つるの詔(漸次立憲政体を立てるとの詔勅)」に基づい
 て、、
  それまでの太政官左院に代って立法機関として設立さ
 れた。
  (1875年1月の大阪会議で、立憲政体への移行の合意が
 成立していた)
  同時に、地方官会議や、
  右院に代って司法機関として大審院(だいしんいん)
 がおかれ、残置された正院とともに三権分立の形式がと
 られた。
  立法機関としては、法典編纂を主とした左院があった
 が、これが廃止されるとともに、欧米諸国の議会の上院
 になぞらえて元老院が設けられていた。
  元老院は、議長、副議長および議官からなり、書記官、
 書記生が事務を分掌し・・、
  新法の制定と、旧法の改正を議定することを基本的権
 能としたが、
  議案は、内閣から下付され、急を要する場合は、便宜
 布告後、検視に付する(事後承認を求める)など、立法
 権はきわめて弱かった。
  1890年10月20日、帝国議会が開設されるため廃止され
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:誠実なれ!!・・あまりにも、不誠実ではないか 💢(`(エ)´)💢 💢
.
1597年2月5日、キリスト教教会は、殉教者を、神と人間を
 仲介できる存在、聖人と位置づけて祈りの対象とした。
  この間違い教義によって、多くの方々が、多くのキリ
 スト教信徒が自死した・・自殺した。
  まったく可哀想なことである。
  キリスト教は、死ぬことを美化した。
  まったく卑劣である。
  このキリスト教の間違った「思い込ませ」で、何人の
 若者たちが、信徒の方がたが、自ら命を絶ったことか?
  キリスト教は、死後を美化する、そこで若者が死を選
 ぶ。
  これからの人生を絶つ。
  厳しく糾弾されるべき「キリスト教の悪行為の一つと
 なっている」。
  キリスト教は、幼少期の子供たちの童話として「フラ
 ンダースの犬」を推奨しているが、読むことを説いてい
 るが、
  この様な子供たちへも「死を美化した話で洗脳してい
 る」。
  この話は、キリスト教のイエス像の絵の前で死ぬ主人
 公と犬が、ともに天国へ行くと美化して終わる話となっ
 ている。
  いたいけな子供たちが・・幼児の時から死ぬ行為を美
 化された話で洗脳され、聞かされて来る・・洗脳された
 長い期間・・それを繰り返し・・死を美化されて・・死
 に憧れるマインド・コンロロールをキリスト教は行なう。
  この死への憧れは、キリスト教は、昔からやって来た。
  日本では、キリスト教の渡来から・・そして、豊臣秀
 吉のころから・・、
  日本を植民地化しようというキリスト教の影の企みを
 知った秀吉は、キリスト教を禁教にする。
  秀吉の指示の通り「国外退去に応じれば」、何も起こ
 らない優しい日本であったが、
  その指示に背(そむ)いて、違反し・・日本に潜伏し・・
 指示に従わないで日本に潜伏した宣教師たちは、日本の
 法を犯して、法違反者となって宣教する。
  弾圧なのではない・・法に違反する者たちを「取り締
 まった」のである。
  キリスト教は弾圧だというが、法に従わなかったキリ
 スト教が悪いのである。
  長崎の二十六聖人(1597年2月5日)なんて「法違反者
 なのである」。
  その取締りの中で・・卑劣にも・・キリスト教は、殉
 教をマインド・コントロールする。
  キリスト教宣教師たちは、卑劣にも、日本の信徒へ殉
 教する事を勧める。
  だから、故に、何と! 子供を連れて出頭して来る日本
 人のキリスト教徒まで現れるという始末だった。
  キリスト教は、この様に、死後に憧れさせて、自死す
 ること・自殺することを美化した。
  殉教だという美辞麗句を刷り込んだ。
  そのようなキリスト教の悪行が、今・現代も行なわれ
 ていて、天国への道に美があると洗脳し、信仰する目的
 があると洗脳し、マインド・コントロールする。
  この事によって、自死するキリスト教徒の若者の多い
 ことを憂える。
  自死する宗教となっているキリスト教。
  自死させる宗教となっているキリスト教。
.
1809年2月12日、リンカーンが生まれた。
  リンカーンは、大きくなって、弁護士になり、白人だ
 けに都合の良い法律を盾(たて)にとって・・
  白人の法律なんて何も知らない先住民のインディアン
 の方々へ・・、
  また、白人の法律なんて何も関係のない先住民のイン
 ディアンの方々へ・・その方たちの土地を取り上げて行
 った。
  『これが正義なのだ』・・と・・キリスト教とまった
 く同じ考え方で・・キリスト教の神の正義なのだと・・
 キリスト教徒が、隣国の富を奪うがごとくに・・この様
 なやり方で・・、
  弁護士となったリンカーンは・・あたかも、自分だけ
 が銃を持ったものの様に・・法律を振りかざして・・イ
 ンディアンの方々の土地を取り上げて行った・・
  リンカーンの子供の頃に・・目の前で殺されたお爺じ
 いさんの仇(かたき)を取って行った。
  この様な事を・・アメリカ資本に乗っ取られた日本の
 テレビは・・そして、メディアは・・まったく触れない・・
 隠す・・
  卑劣な事である・・日本の方々を・・それで洗脳する・・
  キリスト教徒の芸人が・・面白、おかしく話をする。
  経営者がキリスト教だということで・・この芸人集団
 は・・キリスト教に偏する行為を、テレビを利用してよ
 く行う・・
  そして、キリスト教に偏するNHKに・・かわいがら
 れる・・良く出演させてもらえる・・
  この行為は・・アメリカでは「巧妙なるキリスト教の
 伝道行為」と言われ・・裁判となっている事例が多いと
 いう行為で・・温厚な日本を馬鹿にしている・・、
  このリンカーンという男が・・何人の黒人の方々を、
 アフリカに送って・・棄民をしたかも・・まったく触れ
 ない・・
  そして、インディアンの掃討を命じたり・・
  厳寒期に、死者が多数出ると分かっている命令・・イ
 ンディアンの方々へ、居留地の移動を命じたり・・こん
 な事には・・まったく触れない・・
  そして、南北戦争は、奴隷を解放しようとする北部と、
 奴隷を解放しないとする南部との戦いだという嘘で美化
 する。
  これは、アメリカの政治を牛耳る北部を「美しく仕立
 てすぎているアメリカ北部美化路線」・・これに、まっ
 たく乗っかっている。
  これは、何故、リンカーンが暗殺されたかを見ればわ
 かる。
  まだまだ、アメリカは、イギリスの従属国的であった。
  リンカーンは、金を自国で発行しようとした。
  つまり、イギリス金融資本家が、もうからない様な政
 策を取ろうとした。
  暗殺の理由だった。
  南北戦争の時も・・アメリカへ・・戦費が、イギリス
 金融資本から流入した。
  このところが・・南北戦争が起きた原因だった。
  まだまだ、可哀想に・・黒人の方々は、奴隷という地
 位に虐(しいた)げられていた。
  この時、奴隷解放という政治的宣言をする段階にあっ
 た。
  黒人の方々の「活動や努力」でその様な段階にあった
 のだ・・
  そこに、リンカーンが居ただけで・・リンカーンの政
 治的な理念からではなかった。
  だからと言って・・その宣言がなされたからっと言っ
 て、その路線にすんなり行ったわけではなかった。
  北部の工業資本家も・・安い労働力が欲しく・・そし
 て、安い労働力の黒人の方々を欲していた・・
  何も、南部のプランターの経営者だけが、悪者ではな
 かった。
  アメリカ北部も南部も、黒人の方々を虐(しいた)げ
 ていた。
  だから・・南北戦争後になっても、北部の工業資本家
 と、南部のプランターの経営者たちが・・手を握って・・
 奴隷解放路線の揺り戻し・寄り戻しの行動を・・共同し
 て取った・・このことが何よりの証拠である。
  こんなことを、今・現在、アメリカ資本に牛耳られて
 いる者ども・メディアは、少しも触れない。
  従来の嘘つき路線、プロパガンダ路線で、日本の方々
 を洗脳しようとしている日本のマス・メディアである。
.
1842年11月4日、リンカーンの結婚式の日(リンカーン33歳)
  リンカーンは、「結婚をしようとも思っても居ない相
 手」に、その相手の女性に、積極的に結婚を求められて、
 結婚する事にした。
  しかし、結婚式の直前、逃げ出す、姿をくらます。
  数年間という長い期間、逃げ回っていた。
  しかし、ある日、偶然にその女性に出会わす。
  そして、その数日の後に結婚する。
  ここには、まったく、リンカーンにはイニシアティブ
 が無い、リンカーンの意志はない。
  リンカーンの奴隷解放宣言も、まったく、「これと同
 じ」。
  しかし、今、リンカーンは、美しく祭り上げられてい
 る。
  最後の階段を登らねばならない状況において、その階
 段を昇ったら、「奴隷解放宣言だった」という状況だっ
 た。
  そのような事実は、すべて、まったく、隠されている。
  アメリカ北部の政治主導のシンボルとして祭り上げら
 れ、プロパガンダ(嘘宣伝)されている。
  リンカーンの配偶者の名前は、メアリー・トッド・リ
 ンカーン。
  1842年、メアリ・トッドは、自分の家族・親戚にも、
 11月4日の結婚式の当日の朝まで、リンカーンとの結婚の
 ことは口にしなかった。
  ウイッグ党の機関紙「サンガモ・ジャーナル」の編集
 長の妻サイメオン・フランシスの勧めで、秘密裏に交際
 を再開した二人だったが・・、
  11月4日の朝に、結婚の話を聞かされたメアリの妹エリ
 ザベスとその夫、ニニアン・エドワードは・・
  「もうこうなったらしょうがない。
  式をあげるのなら、やっぱりこの家しかないでしょう」
 と言い、自分たちの家で、式をあげさせた。
  その夜、二人は、週4ドルのホテル「グローブタバーン」
 に移り、そこに2年間住んだ。
  駅馬車の駅兼宿屋だった。
  2階にある家具つきの部屋で寝て、食事は、階下の共同
 食堂でとった。
  夜になると、リンカーンは、よく食堂で、誰かれとな
 く話しこんだ。
  すると、階上から・・リンカーンを呼ぶメアリの咳払
 いの声が聞えて来た。
  ある日は、夜中まで聞えて来ることもあった・・つま
 り、リンカーンは、新妻をほったらかしにして、夜中ま
 で話しこんでいた。
  ある朝は、怒ったメアリが、食堂でリンカーンの顔に
 熱いコーヒーをぶっかけた。
  そばにいた間借り人が、リンカーンの顔を拭(ふ)い
 て、、やけどの手当てをしたという。
  鬼嫁だった・・すれ違い夫婦だからやむを得ないか・・?
.
1882年4月19日、ダーウィンが没した(73歳)
  チャールズ・ダーウィン(1809・2・12~1882・4・19)
  神を乗り越えた「ダーウィン」。
  「種の起源」を書いたダーウィン。
  彼の頭には「ある想い」があった。
  彼の父親は、キリスト教聖職者だった。
  彼の想いを気付き、研究時間を持ちたい息子に、父は
 言った、「キリスト教聖職者になりなさい」・・と。
  それは、親として息子に、自分の職業を継がせたいと
 いう事ではなく、息子が研究にいそしむ姿を見て、その
 息子が欲しいであろう「研究のための時間」が得られる
 というのが、ダーウィンの父の考え・思いだった。
  父は、ダーウィンへ言った、「キリスト教聖職者にな
 れば好きな研究のための時間がいっぱい得られる」と。
  ダーウィンは、キリスト教聖職者になった。
  そして、キリスト教教会の中庭に、研究のための畑を
 造ったりした。
  ダーウィンの想いは、「生物の種は神の創造だという
 当時の常識を打ち破らんとした」。
  それは、彼の著「種の起源」の書きぶりを見て、また、
 読めば・・明らかだ。
  彼の凄さは、大陸が移動するという「プレートテクト
 ニクス理論」が、まだ知られていない時代に、
  また、「DNA理論」も知られぬ時代に、
  種の分化や自然淘汰の原理、大陸や海洋の歴史と種の
 地理的分布の関係などを、当時の知識で正しく見通して
 いた。
  空恐ろしいまでの凄さで、進化論を認めないのは、万
 有引力の法則を認めないのと同じだと言っている。
  また、天動説を認めないのと同じだと言っている。
  ダーウィンは、19世紀に、非科学と戦った。
  そこには、キリスト教を例外とせず、キリスト教も入
 っていた。
  今や、彼の主張するところは、動かしがたい事実とな
 っている。
  彼・ダーウィンは、最初の意気込み通り、「キリスト
 教の神を乗り越えた」のだった、
  「キリスト教の神の創造思想」を乗り越えた。
  「種の起源」の生命は、尽きることない真実を示し続
 けている。
  キリスト教の神が作ったもの、創造したものは不完全
 で・・
  だから、故に、進化するのだという、当時では認めが
 たい真実が、正しい科学的な事柄なのだと、
  キリスト教の神の創造説を、キリスト教の教義の大根
 源から崩れることを・・証明したのだった・・
  キリスト教の根源の教理を・・覆し、否定したのだっ
 た。
.
1903年12月17日、ライト兄弟が、ノースカロライナ州キテ
 ィホーク近郊にあるキルデビルヒルズにて、12馬力のエ
 ンジンを搭載したライトフライヤー号によって、有人動
 力飛行に成功した。
  ライト兄弟が、初飛行に成功した時の写真は、2人に
 撮影を頼まれた観客の一人、地元の海難救助所員のジョ
 ン・T・ダニエルズが撮ったもので、合計4回の飛行が試
 みられた。
  1回目: 12秒、(36.5m)
  2回目: 12秒、(53.3m)
  3回目: 15秒、(60.9m)
  4回目: 59秒、(259.6m)
  この飛行は、強風が吹く中で、風に向かって飛んだ。
  故に、実際は、もっと飛行距離は長くなると見られる。
  兄弟は、あてずっぽうに実験したのではなく、風洞実
 験をしたりして、一歩一歩、科学的に、また、工学的に
 成功への道を詰めて行った。
  グライダー試作機を作ったり、滑空飛行を繰り返し、
 操縦技術の習得など・・着実に・・そして、改良し・・
 研究して行った。
  また、安定した強風が吹く場所の選定など、研究室・・
 大学教授などの・・知的な情報も得た。
  この時も、日本の大発明が潰され、奪われた様に・・
 ライト兄弟の特許を無効にしようという動きがあった。
  民間のライト兄弟の栄光を潰そうとした勢力のグルー
 プが、有名なスミソニアンの、スミソニアン協会のグル
 ープだった。
  スミソニアンの強力な圧力は、ワシントン国立博物館
 の展示でさえ、スミソニアンの押す飛行機となり、世界
 初飛行に成功したのは、ライト兄弟ではなく、ラングレ
 ーだと思わせられる時代が続いた・・その様なアメリカ
 だった。
  ライト兄弟の特許は活用もされず、世界初の飛行機を
 製作した技術者はまったく活かされず・・不遇に過ごし
 た。
  今、飛行機の活躍を見ると、アメリカという社会によ
 って、不遇に泣き、陰に置かれた大発明家が、ここにも
 居るということを想え・・、
  アメリカという国は、まったく不正な、無謀な、不公
 正な、不誠実な事をやる社会なのである。
  偉業をたたえられず、失意と、法廷闘争に疲れた大発
 明家が・・そこに居た。
  1912年、初飛行から9年後、兄のウィルバー・ライトが、
 腸チフスで死に(45歳)、そして、その4年後に弟のオー
 ヴィル・ライトは、飛行機製造から身を引いた。
.
1941年8月1日、フランクリン・ルーズベルト、アメリカ大
 統領は、日本に対する石油輸出禁止の強化を発令した。
  8割を超える石油を輸入していた日本は、それまでの禁
 輸措置と共に、完全に石油の輸入が停止された。
  ルーズベルトを良く知る「ルーズベルトの娘の夫(娘婿)」
 のカーチス・ドールは自著で書く・・
  「ルーズベルト大統領(国際金融勢力の代理人)が、
 アメリカ人をいかに操縦して、第二次世界大戦に入らせ
 たかについての真相は、最大の重要性を持っている」と。
  そして、さらに・・、
  「両国(日本とアメリカ)の普通の人たちが、この戦
 争と、その原因の恐るべき教訓を理解することが、もっ
 とも重要なことです」・・と。
  ルーズベルトを繰っていた国際主義者ら・・
  この国際主義者らは共産化をしようともくろんでいて、
 ソ連が誕生しただけでは満足せず・・、
  次に、中国を共産化するため、ソ連に南下させようと
 した。
  しかし、そこに立ちはだかったのが日本だった。
  そこで、国民党の蒋介石を日本と戦わせて・・疲弊さ
 せ・・そして、その後・・中国共産党に、政権を握らせ
 るという計略を練った。
  そして、アメリカが日本と開戦し、日本を敗戦に至ら
 せる・・だった。
  その路線の中で・・アメリカは、「不戦条約違反の『
 日本への石油の輸出の完全に停止』をして、日本に対す
 る事実上の宣戦布告をした」。
.
1950年代末、戦争花嫁
  この頃まで、アメリカに渡った日本人戦争花嫁は、
 40000人~50000人に達すると言われている。
  アメリカ兵の夜の相手をした女性もいたが、
  教養ある日本女性がアメリカ兵に嫁ぐ、そして、アメ
 リカに渡ったが・・
  2年後から、その女性が日本に帰って来る。
  アメリカでの文化の違いから嫁姑問題、そして、近所
 の人種差別(日本人は有色人種として扱われる)
  人種差別が壮烈なアメリカ、義理の兄弟からも虐(し
 いた)げられ、虐(いじ)められ・・そして、地域から
 も出ていけの嫌がらせ・・自殺する日本女性も多かった。
  また、日本へ戻る帰りの船から海へ飛び込むという悲
 惨さだった。
  ワーブライド(war bride、戦争花嫁)とアメリカ社会
 からいじめられた。
  アメリカは、伝統の無い国で、卑怯な事に、アメリカ
 兵の性の問題から逃げた。
  パリ市長が泣きを入れた様に、アメリカ兵の性につい
 て、行く先々で破廉恥な問題が多発した。
  まるで、他人に・・女性の方たちへ・・害を与える者
 を町に放(はな)って・・、
  あとは、『勝手にやってくれ』は・・無責任なアメリ
 カだった。
  アメリカが言う、「軍の統制下なら管理する」は、無
 責任きわまる発言で、前記の様なパリでの様相に日本で
 もなった。
  日本での数々の蛮行の中に・・病院に集団で、銃を持
 って乱入し、看護婦から、妊婦の入院女性にまで、やり
 たいことをやった。
  この様な事が多発し、毎日、毎日、新聞にその悪辣ぶ
 りが記される続けると、占領行政という腕力をふるって、
 新聞の記事にすることを規制し、記事にしてはならない
 とした・・卑劣なアメリカである・・
  そして、相変わらず・・街で女性と何をしようが、ア
 メリカ軍とは関係ないという態度を取った。
  性の問題が・・相変わらず・・多発し・・起きた。
  指導する責任を放棄したアメリカの結果だった。
  まるで管理すべき猛獣を、『関係ないのだ』と、管理
 なしの状態で、街に放(はな)ったような状態だった。
  アメリカは、まったく・・だらしなかった。
  町では、アメリカ兵に強姦される日本女性が急増し続
 けた。
  この様な事は、ベトナム戦争の時にも、アメリカはや
 った・・多くの混血の方々が生まれた。
  まったく節度が無かった。
  アメリカの責任放棄の結果だった。
.
21世紀、アメリカ南部地域は、北部の植民地へ?
  アメリカ南部のその重要な産業は、そのほとんどを北
 部の資本に、押さえられている。
  南部人たちは、無益だと知りながら、北部への抵抗を
 執拗に繰り返す。
  それが、単なる北部への反感や、単なる感傷や復讐心
 からではない。
  アメリカ南部の農本主義、家族主義、家長制整など、
 この地の風土は、まだ、根強く残っているが、それらは、
 南部の人たちの精神構造の中に、深く染み込み、南部の
 人たちを形造っている。
  大切にしなければならないところである。
  しかし、それを、北部が侵食し、そして、破壊して行
 った。
  今、アメリカ資本が、日本の文化や、もろもろを・・
 破壊し・・工作しているのと同じ様に・・、
  大切なものが壊されている。
  日本も、この南部と同じ状況下にあって、日本の残し
 ておきたいものが失われて行っている。
  世界は、日本ブームにあるが・・、
  また、南部には・・北部にない独特の文化があるのは、
 南部は南部で、直接、イギリスの文化の影響を受けてい
 るからで・・、
  18世紀のイギリス文化の影響を受け、北部にはない南
 部の独自性が出来ている・・
.
2002年、アーミテージは、辞任した後、政権の座を降りた。
 その後に・・
  「アメリカ国務省は、2002年頃から、北朝鮮が核兵器
 を放棄することはない・・と判断して居た」という真相
 を明かした。
  これは、アメリカ政権(ホワイトハウスと国務省)の
 本音だった。
  しかし、この本音は、日本の耳に入って来なかった。
  日本は願っていた・・六か国協議で何とかしたいと・・
 と、
  しかし、アメリカと中国の両政府の共謀で、日本には
 黙っていよう、そして、日本を騙しておこうという状況
 で・・時間は・・歴史は過ぎて行った・・
.
2015年、訪日客が増えている。
  日本政府観光局の2015年11月18日発表、
  日本を10月に訪れた外国人旅行者数は、前年同月の43.8
 パーセント増。
  182万人。好調は続いている。
  パリ同時テロが影響はしている、
  10月まで1631万人。
  内訳:
  中国24%(約2倍、44万人)
  韓国20%(49パーセント増、37万人)
  台湾19%(32パーセント増、34万人)
  香港7%、
  米国5%、
  英国1%、フランス1%、ドイツ1%、その他。
  欧州客は、長期宿泊する傾向、
  中長期的には増加傾向、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年4月17日月曜日

(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)

題:(増補版)519E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1890年9月~1890年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年9月21日、日本法律学校が開校した。
  日本法律学校(日本大学の前身)が開校式をした。
  この学校は、日本の法律を研究し、国運の増進をはか
 ること目的として設置された私立の法律学校で・・、
  大日本帝国憲法が公布され、皇典講究所所長・山田顕
 義が、同じ趣旨で学校設立計画を進める法律学者らを全
 面的に支援し、設立された。
1890年9月29日、逓信省が、女性電話交換手を募集した。
  応募資格は、小学校高等科修了。
  応募資格に於いて・・、
  品行方正・言語明瞭・・さらに、
  「夫ナク家事ニ関係ヲ有セザルモノ」、
  「日常ノ算筆ヲ能クスルモノ」・・という条件も付い
 ていた。
  採用されたのは、14歳~25歳までの9人の「教養ある
 良家の子女」だった。
  この頃の女性の仕事といえば、女工か看護婦という、
 ごくわずかなものしかなく、
  電話交換手は、女性に開かれた数少ない仕事の一つだ
 った。
  この電話交換手には、男性もいたようで、電話創業に
 備えて・・女性を募集したものだった。
  当時、使われていたのは、ベルギー製の単線式単式交
 換機だった。
  加入者からの通話表示があると、交換手は、そのジャ
 ックにプラグを差し込み、加入者の告げた通話相手のジ
 ャックに、もう一方のプラグを差し込んで接続するとい
 うものだった。
  こうした交換機は、1979年の全国完全自動即時化まで、
 農村や山村の小さな局で使われていた。
  日本では、東京と横浜の間で、市外電話の通話試験を
 行って成功したのが1885年(明治18年)で、この年に、
 逓信省が創設された。
  初代大臣は榎本武揚、取り扱う業務は、電信事業・郵
 便事業、そして、灯台業務だった。
  この時から5年もかかって、電話事業がはじめられたの
 は、国営にするか、民営にするかで、政府内部で意見が
 大きく割れ、
  民営を強く主張する実業界も加わり、その調整に時間
 がかかった。
  逓信省は、試験をかねて、東京~熱海間に電話線を一
 回線引いて、1889年(明治22年)1月1日から1年間、一
 般公衆の通話を取り扱った。
  この試験通話は成功したが、用件のために電話すると
 いうより、好奇心から利用した人が多かったという。
1890年10月7日、岡倉天心が、東京美術学校の校長に就任し
 た。
  副校長はフェノロサが務めた。
  1886年~1887年に、文部省図画取調掛委員として岡倉
 覚三(天心)とフェノロサは、欧米の調査旅行を行った。
  この旅行は、美術教育全般に関わる調査を目的とした
 ものだった。
  そして、2人の報告に基いて、1887年10月、勅令によっ
 て図画取調掛、および、工部大学校内「工部美術部」を
 統合・改編し、東京美術学校が設立された。
  開校は、1889年2月。
1890年10月7日、民法財産取得編を公布した。
  明治23年法律28号 (財産編、財産取得編〈非相続〉、
 債権担保編、証拠編) 、同年法律 98号 (財産取得編〈相
 続〉、人事編) 。
  民法典(旧民法)が公布された。
  明治政府が、フランスから招いたG・ボアソナードが、
 中心となって編纂した。
  1893年1月1日に、施行される予定になっていたが、日
 本の習慣を顧慮していないということなどから、その施
 行について、断行論者と、施行延期論者との間に、激烈
 な論争が行われた (→民法典論争 ) 。
  (ボアソナードを主任としてフランス民法を範として
 作られていたため、日本になじめないところがあった)
  結局、延期派が勝って、1892年の帝国議会で、修正の
 ため、1896年まで、その施行が延期された。
  また、法典調査会によって新たな体系による民法典 (
 →民法) の編纂が進められて、1898年に施行された。
  この1896年に公布された民法(総則・物権・債権の3編)と、
 1898年に公布された民法(親族・相続の2編)によって、そ
 の公布とともに廃止となった。
  そのため、旧民法はついに実施されずに終った。
  旧民法は、全体としてフランス民法に近く、ボアソナ
 ードが関与しなかったといわれる親族相続に関する部分
 も原案は進歩的であったが、法律取調委員会、および、
 元老院の審議の過程で改正されていった。
1890年10月7日、刑事訴訟法が公布された。
  (明治23年法律第96号)
  この年に、フランス法にならって制定された日本初の
 近代的刑事訴訟法典は、治罪法と呼ばれたが、
  1890年に、それが改正され、刑事訴訟法と称されるよ
 うになった。
   1922年になって制定された刑事訴訟法 (旧刑事訴訟法)
 は,ドイツ法の影響を強く受けたものになった。
1890年10月9日、初めての電話帳である「電話加入者人名表」
 が発行された。たった1枚の紙だった。
  電話交換業務が始まった時点で、開通していた東京と
 横浜の加入者は、197名だった。
  そして、この電話帳は、1番が東京府庁で、番号順に縦
 書きに記され、
  官公庁や新聞社、銀行に交じって渋沢栄一や大隈重信
 などだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本の大発明・・ノーベル賞ものの光ファイバー大発明は・・奪われた・・
    こんなことは・・まだまだ・・ある・・
.
1894年、日清戦争の始まる直前に、日英通商航海条約が調
 印された。
  江戸期からの悲願の差別の条約が、やっと、改正され
 たのである。
  日本の内地を開放する代わりに、治外法権が撤廃され
 た。
  その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをは
 じめ各国も治外法権の撤廃に応じた。
  やはり、国力が付かないと、日本の弱みに付け込んで、
 日本を認めないという卑劣なアメリカなどだった。
  関税自主権の回復は、日本が、日露戦争に勝利した後、
 5年を経た、1911年に、アメリカが、やっと認め、日本の
 悲願は達成した。
  岩倉使節団の交渉から40年の月日が経っていた。
.
1905年、日本は、この年、日露戦争に戦勝した。
  日本はこの時まで、日本の危機の時代をくぐり抜けて
 来た。
   この時まで・・、1853年のアメリカの来航をはじめ、
  列強各国が、日本の植民地化をうかがっていた時代・・
 それをくぐり抜けて来たのだった。
  また、遠く・・キリスト教宣教師が・・衣の下に隠し
 ていた・・日本植民地化の尖兵役の暗躍を・・アジア各
 国と同じ様にならないで来た・・そして・・
   1853年に、アメリカのペリーが来航し・・アメリカ・
 ヨーロッパの列強各国が日本へ殺到して来たが、
  日本の江戸幕府は、やむなく開国し、その各国と国交
  を開いたが、
   まだまだ、未熟な日本は、何らその防備はなく、
   その列強各国は、その機会・・植民地にする餌食の
 機会をうかがっていた。
   日本だけが・・例外であったのではなく・・
   日本は、常に、外国勢力が、ある日、突然上陸して、
  自分たちの主義や独立を脅かすかもしれない危機に曝(
  さら)されていた。
   アジア各国がされたように、日本の植民地化への思惑
  は、列強各国は、当然のように持ち、狙われていた。
   明治政府が、必死に、「富国強兵策」に邁進したのは、
  明治の賢明な諸士が、そのことのアジア各国の状況を十
 分すぎるほど理解していたからだった。
  のほほんと平和の夢を貪(むさぼ)っていたのではな
 かった・・現代の様に・・、
.
1926年9月12日、光ファイバーの大発明をした西澤潤一氏が
 生誕された。
  西澤氏の著書の一端・・
  ・『闘う独創技術』日刊工業新聞社、1981年5月
  ・『愚直一徹-私の履歴書-』日本経済新聞社、1985年
    10月
  ・『独創は闘いにあり』プレジデント社、1986年2月/
    新潮社(新潮文庫)、1989年2月
  ・『西澤潤一の独自開発論』工業調査会、1986年3月
  ・『「技術大国・日本」の未来を読む』PHP研究所、
    1989年9月
  ・『私のロマンと科学』中央公論社(中公新書)、
    1990年3月
  ・『独創教育が日本を救う』PHP研究所、1991年8月
  ・『人類は滅亡に向かっている』潮出版社、1993年
    12月
  ・『東北の時代―もはや一極集中の時代ではない』
    潮出版社、1995年4月
  ・『教育の目的再考』岩波書店、1996年4月
  ・『新学問のすすめ-21世紀をどう生きるか』本の森、
    1997年9月
  ・『背筋を伸ばせ日本人』PHP研究所、1999年6月
  ・『人類は80年で滅亡する』東洋経済新報社、2000年
    2月
  ・『教育亡国を救う』本の森、2000年8月
  ・『赤の発見 青の発見』白日社、2001年5月
  ・『日本人よロマンを』本の森、2002年10月
  ・『戦略的独創開発』工業調査会、2006年4月
  ・『生み出す力』PHP研究所(PHP新書)、2010年8月
  ・『わたしが探究について語るなら』ポプラ社、
    2010年12月
.
1932年10月2日、リットン報告書が出た。
  アメリカのやり方・・立ち回り方・・
  アメリカは、イギリスやフランスなどが、アジアの国々
 を植民地にしても、何も言わず、
  俺も植民地を取りたい・・と、フィリピンなどを植民
 地にしたりしていた。
  英国人記者HS・ストークス氏が言うように、白人様の
 植民地に進攻するのは侵略となる・・有色人種の日本が、
 その様な白人様のマネをしてはいけないと・・
  たとえば、中国を一番侵略していたのがイギリスで、
 それも、北京などの中枢の中心地域を含む広大な土地を、
 地方を、広くイギリスは侵略し、そして、占領していた。
  そのイギリスへ、アメリカは、「酷(ひど)いではな
 いか」などと一度も言ったこともない。
  グル(一味)だったのである。
  こんな不公正なアメリカが、日本にとやかく言う権利
 はないのだが・・?
  さも、公平さを演じて、日本へとやかく言うのは、ア
 メリカとグルになっているイギリスの利益となる行動を
 していた・・、
  影の当事者のアメリカに・・発言権はないのである。
  1932年10月2日に出された「リットン報告書」は、日本
 の満州の権益は『 認めた 』。
  侵略だなんて言ってない・・当然だ・・日露戦争で、
 日本は、ロシアに勝利して、満州を移譲されていたのだ
 から・・
  国連(国際連盟〉調査団さえ日本の権益を『認めたの
 だ』。
  国際社会が認めたのだ。
  ただ、おかしなところは・・日本は侵略したとした。
  ならば、北京などの中国の中枢地域を侵略していたイ
 ギリスは、どうなるのだ?
  まったく有色人種は、白人のやるような行為はしては
 いけないの、有色人種(日本人)は侵略になるの・・と
 言っている行為になっている。
  「権益を認めて、侵略とする」日本への断定。
  「権益を認めて、侵略としない」イギリスへの見解・・
 まったく理屈の合わない状況だ・・どこがどの様に違う
 のだ?
  好き勝手に、右だ左だと、自分の都合の良い振る舞い
 をするアメリカがあった。
  漢民族の中国が、満州族(女真族)の地・北支を支配
 下においていて、そこへ日本が入った。
  イギリスは、漢民族の地・北京などの広い地域に入っ
 た。
  アメリカも権益を得ようと画策する北支や中国・・
  この状況で、何が言えるのか?
  要は、白人様が、今までやってきた。
  そこへ新参者の有色人種(日本)がやって来た、
  白人様がやっていることと同じ事をやるなの話なのだ。
  白人権益。白人秩序に挑戦するな・・なのだ。
.
1940年、日本工作のために、後に、アメリカの国務省の次
 官補代理になるボブ・バーネットが日本に来た。
  ボブは、アメリカのジョンソン大統領の時(1963年~
 1969年)、アメリカ国務省の次官補代理としてアジア政
 策を担当していた。
  ボブ・バーネットは、キリスト教宣教師の父を持ち、
 中国で生まれで、上海で育った。
  オクスフォード大学などを出た。
  このボブは、1940年~1941年、アメリカのスパイとし
 て日本に来た。
  そして、この頃、キリスト教宣教師が、日本とアメリ
 カを戦争に至らせようとする行動に暗躍していた。
  酷い話だ・・
.
1964年、通信には、今や、光ファイバーが無ければ文明が
 破壊するほど、「基本中の基本技術』となっているが・・
  今から50年以上も前に、日本の西澤潤一氏、佐々木市
 右衛門氏は、ガラスファイバーのコア内の屈折率を中心
 から周辺に向かって連続的に低くなるように変化させ、
 入射角の異なる光をファイバー内で収束させる自己集束
 型光ファイバー(今日にいうGI型光ファイバー)の概念を
 特許出願した。
  物凄い着眼で、素晴らしい発明だった・・
  自己集束型光ファイバーによる光通信の可能性につい
 て発明したのだった・・
  しかし、この大発明を、日本の特許庁は、意味がわか
 らないと不受理にした??
  アメリカの圧力があったと関係者の中で指摘された。
  昭和39年・・1964年の話だった・・
  また、1970年、アメリカのコーニング社が、通信用光
 ファイバーを実用化したと発表した。
  光ファイバーの製造法とカオ論文に示された光ファイ
 バーの構造を始めとする基本特許(米国特許第三六五九
 九一五号)を得た・・
  基本特許の大発明だった・・、
  コーニングの光ファイバーは非常にもろく、まだ、実
 用化にはほど遠いものであったが、カオの理論通りに20
 dB/kmの損失を達成した。
  しかし、何と! 日本の特許庁は、それが、日本の西
 澤氏が先発明していることを、つまり、先に出願してい
 ることを、そして、西澤氏の発明とと類似するものであ
 ると知りながらも・・口をつぐんだ。
  まったく・・ひどい行為をした・・
  このアメリカの特許出願が、特許になったということ
 は、西澤博士の特許出願も特許になりうる発明であった
 ということ・・である・・
  そして、先に出願している西澤博士の特許の方が、当
 然、先の出願であるので、特許の範囲が広くなり、基本
 発明となる。
  莫大な国益となった・・訳だ・・
  しかし、西澤博士の特許出願が、例え、特許とならな
 いのならば、アメリカの特許出願も、特許にならないと
 いうことになければならない。
  西澤博士の特許出願が先になされたということによっ
 て、アメリカの特許出願は、特許になる要件を満たして
 いないからで・・、
  それは・・何ら新規性が無いと言えるからで・・
  この「新規性を喪失している」から不特許となる・・
  この光ファイバーの大発明は・・まったく、おかしな
 展開となった・・
  関係者の不満・指摘は、最高度に達した・・この様な
 ことは、まだまだある・・
  西澤博士の大発明は・・奪われてしまったとしか言え
 ない状況となった。
.
1972年、日本に対する、米中の『共同封じ込め戦略』が始
 まる。
  ニクソン大統領とキッシンジャーは、中国の毛沢東と
 周恩来(首相期間:1949年~1976年)に、うまく乗せら
 れてしまった。
  その合意は、「アメリカと中国が協力して、日本をカ
 ウンターバランスする」というものだった。
  そして、この結果、1972年から、「ジョイント・コン
 ティメント・ストラテジー(日本に対する共同封じ込め
 戦略)」が始まる。
  こんなこと「近・現代史」では教えない。
  この要点は・・、
  (1)日本には、絶対に核を持たせない。
  (2)日本の自立的独立を阻止する。
    その為、アメリカ軍は日本駐留を続ける。
  (3)朝鮮半島と台湾の問題に、日本へ発言権を与えな
    い。
  この話し合いは、1971年秋、周恩来とキッシンジャー
 の間で話し合われ、
  1972年2月、アメリカのニクソン大統領が、訪中をして、
 北京へ行ったときに、米中首脳間で合意がなされた。
  この事は、明確に・・アメリカ政府の公開された外交
 史料に記載されている。
  当時の密約は、今、公開資料となっている。
  アメリカは、緊密な日米関係を口にするが、この様な
 事を、日本に何も相談しないで、日本の『頭越し』で、
 平気でしている。
  裏切る様な国なのだ。
  2003年以降のブッシュ政権も、手のひらを返した。
  アジア政策を「中国重視、日本蔑視」にした。
  あんなに、「ジョージとジュンイチロー」と言って、
 小泉純一郎首相とブッシュ大統領は、緊密で、親日的だ
 ったのに、アメリカは裏切った。
  日本も、必死に、イラク戦争に大金を出したり、郵政
 を民営化したりして、アメリカ企業を儲けさせていたの
 にである。
  また、特に、キッシンジャーは曲者で、注意を要する。
  『親中嫌日』の男なのだ。
  最近も、中国へ行った。
  日米基軸なんて、砂上の楼閣・・、アメリカは、どう
 でもよいとしている。
  調子の良い時は、基軸だとするが・・??
.
2006年秋、北朝鮮が核実験をした。
  反対を押し切った強行実験だった。
  この時、日本の中川昭一議員(自民党政調会長)は、
 「核を持たずに北朝鮮にどういう対抗措置をとれるのか、
 真剣に議論しよう」と言い・・また・・
  「憲法でも核保有は禁止されていないのだから、核の
 議論はあってしかるべきだ」・・と言った。
  この時、アメリカのライス国務長官が、急遽、東京に
 飛んで来て・・、
  「あらゆる抑止力を使って、日本に対する安全保障を
 約束する」と明言し・・そして・・帰った。
  このあらゆる抑止力を使って日本の安全保障・守ると
 いうその手段の中に、
  アメリカが、核戦争を実行するということについて、
 種々の見方がある・・
  懐疑的に・・、アメリカが、核戦争を、自国ではなく
 日本を守るために、「核戦争を始める訳はない」という
 見方である。
  この見方は、ハンティントンや、キッシンジャーや、
 ターナー元CIA長官らが、明確に・・
  「アメリカは、同盟国のために核戦争などやらない」
 と言う。
  アメリカ国務省のボブ・バーネットも・・、
  「アメリカが、日本を守るために核戦争するなんて、
 そんな事は絶対にありえない。
  アメリカは、単に、同盟国をだましているだけ・・」
 ・・と。
  中川議員に端を発した「日本の核議論」に、何故、ア
 メリカの国務長官が、すっ飛んで来たのか? また、「
 安心しろ」と言ったのか?
  「日本が、これを端緒にして、核を持つに至ることの
 ないようにと言うことが、ただ、それだけが・・すっ飛
 んで来る重要使命だった、重要任務だった」。
  ここに、「日本にだけは・・核を持たせるな」の、「
 米中密約の存在」を強く裏付けられる・・公然の存在の
 密約が・・、
  「日本の『核の傘の保障』は、その様なもの」。
  東北の東日本大震災、この時、各国の救援隊が駆け付
 けて戴いた。
  しかし、原発事故が発生し、本当に厳しい状況になっ
 た時、各国救援隊は居なくなった。
  最後まで任務を果たして戴いたのは、自衛隊の方々だ
 けだった。
  夜、その日の任務が終わって、宿舎に帰った隊員の方
 たちは、昼の任務中に見た悲惨な状況に、涙ぐんでいた
 という、泣いていたという。
  この最終的な・・奥の・・そして・・次のステージに
 臨んだ際に、どの様な行動がとれるのか?・・である。
  アメリカは、この中川議員発言の後、日本へ、陰で・・
 相当な圧力を掛けていると・・みられる。
  この類の話をすることが、「アメリカが怖くで出来な
 くなっている」という話が・・頻(しき)りになされる。
  アメリカは、結局、北朝鮮を、「テロ支援国家」から
 外した。
.
2013年3月16日、アメリカが、やっと、特許の先願主義へ移
 行した。
  アメリカは卑怯だった・・ずるかった・・先発明主義
 を、長い間、金科玉条にした・・
  「先発明主義」と聞くと・・かっこよく聞こえるが・・??
  発明をしたとしても・・、
  その行為が・・発明をしている行為であっても・・
  その発明があったとしても、その発明者が・・「発明
 をしたのだ」と気が付かなければ・・認識しなければ、
 当然のこととして、発明したことにはならない・・、
  当たり前である・・たまたま、同じことをやっただけ
 ではないか・・
  この様に説明しても・・アメリカは分かろうとしなか
 った。
  この論理をアメリカは、ズーッと理解できなかった・・
 理解できないとして来た・・卑劣である。
  立派に、発明したと認識したのなら・・願書に書いて・・
 発明したと・・公(おおやけ)に公表せよ!・・届出よ!
  この論理を、アメリカは無視してきた・・長い、長い
 期間を・・まったく、卑怯な、卑劣なアメリカだった・・
  偶然に、無意識に、『大発明と同じことをしていただ
 けではないか?』という指摘には答える事の出来ないア
 メリカだった。
  ネットにはアメリカを庇った言い方もあるが、無理筋
 の説明である。
  公(おおやけ)に発明したと主張できないのは、発明
 したと認識してないからだ・・これは、断定できる真実
 なのだ。
  しかし、アメリカは、汚い事に、先発明主義という特
 許法を、長い期間、取って・・
  そして、アメリカは、先に発明したのだからと、先願
 主義の特許を奪って来た。
  それも・・ただ・・似たようなことをやっただけなの
 に・・である・・
  先願主義で特許を・・発明したと認識し、その理由を
 はっきり理論立てて説明し・・書いた願書を、そして、
 その願書を・・特許庁へ提出しているという行動を起こ
 している発明を、アメリカは奪った。
  たまたま、ノートに・・自分の「発明ノート」に書い
 てあるという類(たぐい)ではない・・
  「だから、発明しているのだよ」と明確に発明を立証
 している、願書で説明し、主張している人の特許を、ア
 メリカは、それ以前に、アメリカ人の某が、先に発明し
 ていたよと、先願主義で先に主張していた人の特許を、
 アメリカは奪っていた。
  また、卑劣な事に、こんな事を主張しているのはアメ
 リカだけで、どこの国も、こんな筋の通らないことを言
 っていなかった(皆、先願主義の国)・・
  言うのはアメリカだけ・・先発明主義をとっていたの
 はアメリカだけ!!
  また、だから、この様な不正義な、犯罪的な言い掛か
 りで特許を奪っていたのはアメリカだけ・・だった。
  世界中から、「おかしいではないか?」という声を、
 アメリカは無視して来た。
  しかし、この先願主義の『正義の言い分』がやっと通
 って、2013年になって、やっと、この日に、アメリカは
 先願主義に移行した。
  日本の素晴らしい特許も、この被害を、大分、受けて、
 特許を奪われ、大発明が奪われ・・日本の国益・・大き
 な国益の損失をきたして来ていた。
  優秀な日本は、こんな形でも、アメリカに貢がされて
 来ていた。
  アメリカの従属国=日本の残念な姿だった。
  アメリカは、こんな事を、まだまだ、やっている・・
.
2015年12月10日、この日の(読売新聞、2015・12・10)の
 週刊新潮の広告に、「舟と遺体が次々漂着!北朝鮮で何
 が起こっているのか」・・とある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive