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2015年7月3日金曜日

(増補版)145D1/3:気になった事柄を集めた年表(1710年~1711年)

題:(増補版)145D1/3:気になった事柄を集めた年表(1710年~1711年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1710年、政策:沽券絵図(こけんえず)を作成させる
  沽券絵図は、街路の形態や、街路に沿った町の形状、
 および、町名が記された町割図、
  江戸の町名主に命じて沽券絵図が作成させた(正徳沽
 券図)
  沽券絵図は、町人の居住地に関する基本的公文書。
  佃島における沽券絵図の場合、地権者の署名押印や地
 価、地割、家守名などの記載がある。
  島内の道・堀の寸法、渡船・橋の位置など詳細に記さ
 れている。
  また、彩色した海の波や生い茂る葦の葉の濃淡など絵
 画的に非常に手の込んだ表現となっている。
  また、麻布本村町沽券図は、屋敷ごとに間口・奥行・
 坪数・家屋敷の金額・地主名・家守名・辻番や火の見の
 位置、下水、道幅などが記されている。
  その他、木戸、番屋、町役人の詰める役所など、宿場
 の場合、街道に沿って立ち並ぶ旅籠(はたご)など一軒
 ごとの間取りなども記している(日本人の几帳面さが出
 ている)。
  沽券絵図は江戸の場合で、大阪は水帳絵図という。
1710年、天皇:閑院宮家(かんいんのみやけ)
  東山天皇の第八子直仁親王をもって閑院宮家をたてる。
  皇統の断絶を危惧した東山天皇が、将軍徳川家宣の舅
 でもある関白近衛基熙を通じて、実子である秀宮(直仁
 親王)に新宮家を創設させるとし、
  また、同様の危機感を抱いていた新井白石が、徳川将
 軍家に御三家があるように、朝廷にもそれを補完する新
 たな宮家が必要との建言を将軍徳川家宣に出した。
1710年、浅野長広(あさのながひろ、通称:浅野大学)が、
 旗本に取り立てられた。
  浅野長広は、元禄赤穂事件で改易・切腹となった赤穂
 藩主・浅野長矩の弟で、これで、浅野家の再興がなった。
  浅野長広が、将軍徳川家宣に拝謁し、改めて安房国
 朝夷郡・平郡(現:鴨川市)に500石の所領を賜わり旗本
 に復した。
  御家再興が果たせた、優しい日本だった。
1710年、芸能:吾妻三八が、「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげ
 むさしあぶみ)(忠臣蔵物)」を大阪で上演し、120日間
 の長期興行を記録した。
  忠臣蔵物は、日本人の心情に通じ、色々と、また多く
 上演されて来たが、浅野家の再興となって、また、庶民
 は沸き立った。
  この興行以外にも、京都の夷屋座をはじめ、京阪の諸
 座が競って赤穂浪士劇を演じた。
  人形浄瑠璃においても、大阪の豊竹座や竹本座で相次
 いで上演された。
1710年、出版:貝原益軒(1630年~1714年))が、「和俗
 童子訓(わぞくどうじくん)」を刊行した。
  貝原益軒の有名な「養生訓」が書かれる3年前、益軒81
 歳の時の作。
  日本で最初の体系的な教育書だという。
  本邦最初であると言うだけでなく、幼児教育の重要性
 を強調した点で、世界的にいっても先駆的と中村学園大
 学の解説に記されている。
  尚、更に、ヨーロッパで最初に幼児教育の重要性に着
 目したのはコメニウスであると言われ、17世紀の事であ
 るが、貝原益軒は、ほぼ同じ時代に、同じ考えの本書を
 発表していると、その偉大さを解説している。
  ものを言い始める時からの教育の必要性を述べ、過保
 護を戒め、さらに幼児教育の詳細なカリキュラムを与え
 ていると、
  そして、知識人を対象としたものではなく、農工商を
 ふくむ四民を広く対象としていると、
  そして、この後に発展して来る寺子屋教育、及び、明
 治以降の小学校教育の基礎となったと解説されている。
1710年、この頃、インドのパンジャブ地方で、シーク教徒
 の活動が激化する。
1711年2月、外交:朝鮮通信使の待遇、新井白石の建議で、
 朝鮮通信使の待遇を改めた。
  幕府の財政圧迫を理由として簡素化した。
  この件が、日朝間の外交摩擦に発展した(現在と同じ
 様に難しい国だった)
  通信使接遇に巨大な費用が必要だったという。
  それ故、白石は、来日招聘そのものに反対だったとい
 う。
  この点で、老中首座の土屋正直とぶつかった。
  白石は折れて、待遇簡素化が方針となったという経緯
 があった(対馬から江戸まで宴席が続いたという)。
  また、通過の各藩の藩主も出向かずともよいとした。
  また、接待に使用する小道具も蒔絵の塗り膳や陶磁器
 の高価なものは厳禁とした。
  そして、将軍の呼称も、再び「日本国王」に変更した。
  この説明は、「大君」は朝鮮国内においては王子の
 ことを指すので、対等ではないので国王に戻した・・と。
  この頃の朝鮮通信使は、饗応に出た蒔絵の塗り膳や床
 の間の陶磁器から夜具まで、盗んで行ったという。
  この待遇レベルの件は、果てしない日朝双方の議論を
 生んだという(あの件もそうなるでしょう?)。
1711年3月、人事:三宅観瀾(みやけかんらん)と室鳩巣が、
 幕府の儒者となった。
  三宅観瀾は、江戸に出て、推薦されて水戸藩に仕え、
 また、そこの上司が、三宅の書いた楠木正成についての
 文章を徳川光圀に見せたことが切っ掛けで、彰考館編修
 となり「大日本史」に従事した(優秀さもあったが人柄
 が良かったのだろう。また、優秀な人材を取り立てる幕
 府でもあった)。
  室鳩巣は、初め金沢藩に仕え、英才の誉れ高く、白石
 の推薦で儒者となった秀才。
  身分の差なく、秀才を集める幕府だった。
  戦乱のヨーロッパと違う、また、王位をめぐって争う
 ヨーロッパと違う、知的な日本だった。
1711年、運輸政策・御定賃銭(おさだめちんせん)
  諸関に駅路・船渡・辻駕篭・廻船などの御定賃銭の高
 札を立てた。
  御定賃銭は、幕府の定めた公定賃銭のこと。
  次の宿駅までの御定賃銭が高札にて示された。
1711年、朝廷の権威の巨大化に対する警戒論
  将軍が、天皇を尊んでも、それによって幕府の支配秩
 序に危険を感じない、安定期の幕府の時代に入った。
  かえって将軍の権威の修飾になると感じられる状態に
 なった。
  中流貴族以下の公家の中には、長く武家に対する反感
 は残っていたが・・、
  勅使を迎えての幕府の式典の際など、武家の気遣いは、
 異常なほどのものがあった。
  将軍・大名・上級諸役人、いずれも、律令制の官位を
 受けていた。
  これらは、装飾的称号にすぎなかったが、
  公儀の権力の陰の朝廷の権威巨大化に対する警戒論は、
 新井白石・荻生徂徠らが指摘していた。
1711年、芸能:近松門左衛門の作の、「冥途の飛脚(めい
 どのひきゃく、浄瑠璃)」が、大阪の竹本座で初演され
 た。
  これは、実際に起きた大坂の飛脚問屋の亀屋の養子の
 忠兵衛の話。
  忠兵衛が、新町の遊女梅川を身請けするため、公金に
 手を付け、
  梅川とともに、故郷の新口村(にのくちむら)に逃げ
 るが、捕らえられるという、為替金横領事件を脚色した。
1711年、コサック軍の反乱者のコズイレフスキーと、アン
 ツィフェーロフの2人が、初めてカムチャッカから千島
 列島(クリル諸島)に遠征。
  NPO法人、神奈川県日本ユーラシア協会に、
  1710年4月?に 、日本人のサニマは、カムチャツカの
 太平洋岸、ペトロパヴロフスクの北方のカリギル湾ボブ
 ロヴォエ海岸に漂着する。
  10人の仲間とともに上陸したが、
  原住民カムチャダールに襲われて4人殺され、6人が捕
 虜になった。
  その後、カムチャダール人とロシアのコサック兵との
 戦闘が起こり、
  さらに、日本人の2名が死に、
  残るサマニら4名が、ロシア軍の捕虜となった。
  ロシア人は、サマニらを、カムチャツカ川上流のヴェ
 ルフネ-カムチャツクへ連れて行き、
  代官のピョートル・チリコフに引き渡した。
  (別の説:ピョートル・チリコフに引き渡された4名の
 日本人は、1708年に、カムチャツカに漂着した別の日本
 人で、サマニらは、4人がカムチャダール人に殺され、6
 人がコサックのダニラ・ヤコブレヴィチ・アンツィフェ
 ロフに捕らえられた・・という説もあり)。
   ヴェルフネ-カムチャツクに連行された日本人のうち
 サマニと、もう1人を残して、あとは間もなく死んだとも
 伝えられる。
  1711~13年、アンツィフェーロフとコズイレフスキー
 は、クリル列島を探検する。
  サニマは、コジレフスキーの千島探検に水先案内人、
 および、通訳として同行した。
  探検隊は、1711年8月、千島最北端の占守島に上陸。
  さらに、第2島のパラムシル島に立ち寄り、
  住民にサヤーク(毛皮税)の献納を求めるが拒絶され
 る。
   1713年、コズイレフスキーは、再び、占守島に立ち寄
 った後、パラムシル島に上陸し、
  苛烈な戦いの末、住民にサヤークを献納させ、ロシア
 の支配を認めさせた。
  このとき、コズイレフスキーは、パラムシル島に交易
 に来ていた択捉島の住人シタナイを連れ帰った。
1711年、新井白石が「正徳の治」という政治改革を行う。
  正徳年間(1711~1716)。
  新井白石(1657年3月24日生誕~1725年6月29日没、68
 歳)、無役の旗本であり政治学者であったが、
  6代将軍・徳川家宣の侍講として、幕政を実質的に主導
 した。
  白石は、かつて明の「勘合符(かんごうふ)」とそっ
 くりな信牌(しんぱい)という割符をもつ中国にのみ貿
 易を許すとした(日本が主導)。
  この信牌には、日本の年号を用い、中国に対しては俗
 称の「唐」で通し、
  清朝は、その屈辱に耐えた。
  周辺国が、中国から国として認識してもらっている様
 な状況であった中、日本は、対等な国の立場を崩さなか
 った。
  毅然と、中国の冊封体制を否定する日本だった。
1711年、捕鯨は、ノルウェー・フランス・スペインが、す
 でに古くから(9世紀)行っているが、
  この年、アメリカが、マッコウクジラ漁を始めた。
  アメリカは、19世紀に大西洋のクジラを取り尽くし、
 日本近海に現れる様になった。
  ランプの燃料の脂しか使わず、鯨のほとんどを捨てる
 という可哀想な動物愛護からほど遠い行為のアメリカだ
 った。
..
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2015年7月2日木曜日

(増補版)144D1/3:気になった事柄を集めた年表(1707年~1710年)

題:(増補版)144D1/3:気になった事柄を集めた年表(1707年~1710年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1707年7月、経済:大坂で銭相場が騰貴した。
1707年9月14日、西日本を暴風雨が襲い、米も例年の6分~
 7分の不作だった。
  この年、米価は、前年の2倍程度に騰貴した。
1707年10月、令:田地の質入を禁止した。
1707年10月28日、天災:宝永の大地震、
  東海から西日本に大地震が起きた。
1707年11月6日、令:幕府が、藩札の通用を禁止した。
1707年11月20日、幕府は、諸国大地震に付き諸色(しょし
 き、物価のこと)の高騰を防止するため、この日に、買
 い溜め(買い占めのこと)禁止の触書を出した。
1707年11月23日、天災:富士山が大噴火
  宝永山ができた。
  江戸では数センチ~10数センチの火山灰が積もった。
1707年、農業:新田開発
  大和川の旧河道に、鴻池新田・菱屋新田などができた。
1707年、農業:元禄期の北陸の農政・農業技術をまとめて、
 土屋又三郎が、農学書「耕稼春秋(こうかしゅんじゅう)」
 を著した。
  土屋又三郎は、加賀国の大庄屋役の家に生まれた農政
 家で、
  事件に巻き込まれて平百姓に格下げになったが、
  この様な逆境の中で、農書や地誌などの著述に励んだ。
  「耕稼春秋」は、北陸の農業事情を細大もらさず網羅
 し、論じた、必見の書として珍重された。
  室鳩巣も激賞する江戸時代を代表する農書と言われて
 いる。
1707年、大ブリテン連合王国(イングランド・スコットラ
 ンド合同)成立した。
  ただし、1999年に、スコットランドの自治拡大政策に
 よってスコットランド議会は復活した。
  そして、2014年には、スコットランドの独立について
 の住民投票が行われた。
  色々な差別的状況があり、その中で、北海油田の利権
 については、
  油田が、スコットランドに存在していながら、
  その油田の利権は、完全にイギリス政府に握られてい
 る。
  そして、人口が、国内の13%にとどまるロンドンに、
 開発が集中し、その格差が大きいことにも一因がある。
  そしてまた、雇用の享受も、ロンドンに大きく存在し
 ている状態になっている。
1708年閏1月、宝永通宝(ほうえいつうほう)が鋳造された。
  銅銭不足の解消が目的だった。
  そして、貨幣流通を円滑化させたいとした銅貨だった。
  しかし、大銭と俗称される大型の銭のため、評判が悪
 かった。
  翌年の1709年には、通用が停止されてしまった。
  1枚が、並銭の10文相当とされ、十文銭とも言われた。
  この頃の宝永期は、貨幣の発行や流通において、混乱
 がはなはだしく、銅貨が少ない状態だった。
  そのため、両替商が、その様な状況において、不当な
 利益を得る状態となっていた。
  幕府は、その様な状況ゆえに、鋳造を命じたのだった。
  しかし、10文銭は不慣れもあって、評判が良くなく、
 翌年には通用停止になったのだった。
1708年2月28日、富士山の噴火による灰金(火山灰の除去費
 用)として、この年に、「諸国高役金令」を公布した。
  大名や旗本らに、金を差し出させることとした。
  その結果、幕府に、40万両が集まった。
1708年2月28日、政策:福祉税、
  富士山が噴火して、降灰のあった地域の救済のため、
 また、被災地復興のため、諸国に国役金(高役金)を課
 した。
1708年8月、キリスト教宣教師が屋久島に来る。
  キリスト教イエズス会の聖職者(ジョバンニ・バチス
 タ・シドッチ)が屋久島に来た。
  島の百姓に発見され、長崎へ送られた。
  そして、翌年の1709年に、江戸に送られ、新井白石か
 ら外国事情を聴取された。
  この事を、白石は、1715年に「西洋紀聞」という本に
 著した。
  地理・歴史・風俗・宗教などを記した本である。
  新井家にあったその本は、1793年に、幕府に献上され、
 知識人の間で知られるようになった、
  そして、一般的には、江戸市中へは、1807年に流布さ
 れた。。
  シドッチは、キリスト教徒が、南米などで卑劣な殺戮
 をしたことを隠し、「住民が進んでいる西洋人の支配を
 求めた」と嘘の説明をした。
  真実を、白石に知らせなかった。
  しかし、白石は明晰に、ことの流れから、当然、植民
 地の収奪が行われていると見抜いていた。
  また、シドッチは、原住民の方たちを「禽獣に等しい」
 と表現したり、
  「何も知らない原住民」と蔑んだり、
  「食人種だ」とかと、蔑視表現をした。
  キリスト教の考え方・教義に洗脳されたシドッチであ
 り、
  そのキリスト教の有色人種蔑視の、先住民の方たちへ
 の見方であるのだろうが、
  その様な卑劣なキリスト教の有色人種蔑視の態度で、
 白石と対話をしていた。
  白石は、「キリスト教の神が全人類を善人に出来る事
 が出来ない(人間側のアクションにおいてしかそうなら
 ない)」ことなどのシドッチの発言を批判している。
  また「キリスト教を知らない者までも罪人とする」と
 批判を呈している。
  当然、西洋の魔女に対する卑劣な拷問の様な事を、日
 本は、シドッチに対して行なっていない。
  シドッチには江戸に邸が与えられた。
1708年12月5日、関孝和(数学者)が没した(1642年~
 1708年)
1708年、令:物価抑制、
  幕府が、江戸市中に物価抑制を布告した。
1708年、出版:貝原益軒(かいばらえきけん、本草学者、
 儒学者)が、「大和木草(やまとほんぞう)」を著した
 (1709年刊)
  名の通り本草書である。
  明治時代に生物学や農学の教本が西洋から輸入される
 までは、日本史上最高峰の生物学書であり、農学書だっ
 た。
  薬用植物(動物、鉱物も含む)以外にも、農産物や無
 用の雑草にまでも記載されている。
  この書によって、日本の本草学(薬用植物を扱う学問)
 は博物学となった。
  この書の素晴らしい所は、当時、漢名のないものは無
 視されていたが、
  この書は、丁寧に日本独自のものにも日を当てている。
  ここに、益軒の自ら観察し、検証することを基本とし
 た貴重な学問的記述がなされていた。
1708年、司法:芝居の支配権、
  京都の傀儡子(くぐつし、旅芸人の集団)が、弾左衛
 門(だんざえもん)が興行を妨害したと、江戸町奉行に
 訴えた。
  芝居の支配権につき、弾左衛門(だんざえもん)と芝
 居者があらそい、弾左衛門が敗訴の記録が作成される。
1709年2月19日、5代将軍・綱吉が没した。
  家宣(いえのぶ)が、6代将軍となった(1662年~
 1712年)(将軍期間:1709年~1712年)
  「生類憐みの令」を撤廃した。
  また、中野犬小屋が廃止され、イノシシなどの鉄砲で
 の撃ち取りも解禁になった。
1709年6月、人事:間部詮房(まなべあきふさ)
  徳川家宣が、間部詮房を老中格側用人として登用し、
 新井白石を幕政に参画させた。
  間部は白石を励まし、能力を引き出した人だという。
 また、白石も間部について「君子の様な、生質きわめて
 美なるところあり」と評している。
1709年11月、初代・坂田藤十郎が没した。
  上方歌舞伎の基礎を築き、作者に近松門左衛門を得て
 多くの名作を残した。
1709年、東大寺大仏殿が出来上がった(現存、国宝)
1709年、新井白石が、シドッチを尋問し、後に「西洋紀聞」
  などを著した。
1709年、清朝の離宮の円明園(えんめいえん)の造営が始
 まる(イギリスの蛮行・破壊を受けた人類の遺産)。
  雍正帝(ようせいてい)が、康熙帝(こうきてい)より譲
 り受けたものを、乾隆帝(けんりゅうてい)が、この年に、
 増改修した。
  面積は3.5平方キロメートルで、江南の風光を再現した
 大小無数の池が園内の大部分を占め、清朝宮廷の豪奢の
 限りを尽くしたものであったが、卑劣な事に、1860年の
 アロー戦争の際に、イギリス軍が徹底的に破壊し、廃墟
 となった。
1709年、スエーデン王のカール12世が、ポルタワの戦いで
 ロシアに敗れ、トルコに亡命した(大北方戦争)。
  翌年、トルコが、ロシアと開戦。
1710年4月、白石が草案した武家諸法度を下す(宝永法度)。
  儒教の仁政思想に基づく法度。
1710年4月、宝永小判(ほうえいこばん)が通用開始された。
  1両としての額面を持つ小判だった。
  乾字小判(けんじこばん)とも呼ばれる。
  また、宝永小判および宝永一分判を総称して乾字金(
 けんじきん)と呼ぶ。
  乾字金発行に際して、元禄二朱判は通用停止となった。
  市中では依然として良質である慶長金の退蔵が行われ
 ていた。
  幕府は、これを引き出させようと色々したが、効果は
 薄かった。
1710年4月、萩原重秀(おぎわらしげひで)を罰す、
  1709年に綱吉が死去し、家宣の将軍就任後は、新井白
 石などの家宣の近臣たちとの関係が悪化した。
  そして、この年に、張り紙値段を勝手に引き下げよう
 として、将軍・家宣への拝謁を禁止された。
  しかし、わずか4日後には許された。
  そして、12月11日には、500石の加増を受けた(3700
 石へ)、
  1711年には、評定所での精勤ぶりを表彰され熨斗縮絹
 紬(のしちぢみけんちゅう)、越後縮(えちごちぢみ)
 などを与えられている。
  しかし、新井白石との関係は険悪で、度重なる弾劾を
 受け、家宣はついに折れて、1712年に、勘定奉行を罷免
 された。
  1713年に、没した(55歳)。
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2015年7月1日水曜日

(増補版)143D1/3:気になった事柄を集めた年表(1705年~1706年)

題:(増補版)143D1/3:気になった事柄を集めた年表(1705年~1706年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1705年、山脇東洋(やまわきとうよう、医学者)が生まれ
 た(1705年~1762年)
  カワウソを解剖し、その結果、陰陽五行説の人体の内
 景に疑問を抱き、1754年に、京都所司代の許可を得て死
 刑囚を解剖した。
  その観察した結果を、1759年に、解剖図録「蔵志」と
 して刊行した。
  これは、当時の医学界に大きな影響を与えた。
  この山脇東洋の影響を受けて、江戸で、杉田玄白と前
 野良沢らが、オランダ医学書の翻訳に着手した。
  山脇東洋は、日本の医学の近代化に、大きく貢献した
 人物。
1705年2月、演芸:竹田出雲(たけだいずも、浄瑠璃作者、
 座元)、
  初代・竹田出雲が、この年に、引退していた竹本義太
 夫を舞台に復帰させ、
  義太夫から竹本座の座元を譲り受け、座元に就任し、
 再建した。
  竹田出雲は近松の門人だった。
  顔見世興行では、座付作者の近松門左衛門と組んで、
 竹本義太夫を太夫としての浄瑠璃を上演した。
1705年、経済:藩札調査
  諸国通用の藩札を、この年に調査し、
  2年後の1707年に、幕府の発行する貨幣の流通に支障が
 あるとして、すべての藩札の使用を禁止した(宝永の札
 遣い停止令)。
  この禁止の解除は、1730年に行われた。
  領国の石高が、20万石以上の場合、通用期間25年、
  20万石以下であれば、通用期間15年とした。
  これには、諸藩の財政を救済する目的があった。
  この後、幕府の統制は、禁止と解除と揺れ動いて行く。
1705年、経済:銀相場の抑制を命じた
  江戸市中の銀相場の高騰につき、抑制を命じた。
1705年、幕府(綱吉)が、禁裏御料(領)の一万石を増進
 した。
  今まで、家康と秀忠からもあって、前後3回行われ、3
 万石余になった。
1705年、社会資本整備:大和川
  幕府が、鴻池と菱屋らの豪商の出資で、大阪の大和川
 を開削し、1000町歩余の新田を開いた。
1705年、政策:豪商の取り潰し
  大阪の代表的豪商の淀屋三郎右衛門(よどやさぶろう
 えもん、通称:辰五郎)が、幕府の奢侈(しゃし、度が
 過ぎた贅沢)禁止政策にふれ、闕所(けっしょ、全財産
 没収)・追放で、取り潰された。
  跡地は、堂島新地が開発されて、全国の米穀取引の中
 心となった。
  淀屋は、糸割符権、蔵米販売権、その他の特権を持っ
 ており、その店頭には米市がたった。
  豪奢な生活をし、ガラス天井をつくって金魚を放ち、
 涼を楽しんだという。
  その為、1705年のこの年に、町人の分限を越えた贅沢 
 のため、所払いの刑を受けた。
1705年、世相:おかげ参り
  伊勢へのおかげ参りが流行した。
  50日間で、参宮者が360万人に及んだ。
  伊勢神宮参詣の名目で、通行手形さえ発行してもらえ
 ば、実質的には、どの道を通って、何処へ旅をしても、
 あまり問題はなく、
  参詣を済ませた後には、京や大阪などの見物を、楽し
 むものも多かった。
  伊勢神宮参詣は、多くの庶民にとって一生に一度とも
 言える大きな夢であった。
  講もできて、無事に帰ると、帰還の祝が行われ、貧し
 くとも「講」の仕組みによって、一生に一度は、旅行の
 楽しみが味わえた。
1705年、農業:綿栽培
  この頃、摂津と河内の綿栽培は耕地の過半を占めた。
1705年、人物:徳川吉宗(とくがわよしむね)が紀州藩主
 となった。
  この年に、長兄の綱教(紀州藩第3代藩主)が死去し、
 三兄の頼職が後を継いだ。
  しかし、この年に、父の光貞、
  そして、頼職までが、半年のうちに病死した。
  四男に生まれた吉宗は、22歳で紀州徳川家を相続し、
 第5代藩主に就任した。
  藩主に就任する際、将軍の綱吉から偏諱を賜わり、吉
 宗と改名した。
  偏諱(へんき)とは、貴人などの二字名の中の一方の
 字を忌(い)み避けること。
1706年6月、宝字丁銀(ほうじちょうぎん)を鋳造する。
  この年から鋳造し、1710年まで鋳造され、1721年まで
 通用した。
  銀の含有量の関係から、旧銀貨との引き換えに対する
 増歩は、年々、割合の比率が大きくなった。
  1706年から1709年2月までは1.5%、5月までは2.5%、
 6月までは3.5%、1710年までは6%と順次引き上げられた。
  幕府は、市中にある品位の高い貨幣もすべて「無差別
 通用」との触書を出した。
  幕府は、富士山噴火や南海地震などの自然災害もあり、
 財政はますます困窮した。
  萩原重秀は、将軍の承諾なしで、短期間に次々と丁銀
 の吹替えを行ない、改鋳利益を得ようとした。
1706年、政策:奉公人の給金の引上げを禁ず。
1706年、物価政策:江戸市中の豆腐の値段が下がらず。
  江戸市中の豆腐が、非常な高値を続けた。
  江戸町奉行は、豆腐の製造に従事している者を問いた
 だした。
  しかし、原料の大豆が大幅に値下がりしているのに関
 わらず、豆腐の値段が下がらない、そして、その納得の
 いく説明が得られない・・となった。
  そこで、幕府は、豆腐の大幅値下げを命じた。
  多くの豆腐屋は値下げに応じたが、7軒の豆腐屋が苦塩
 や油糟(あぶらかす)の高値を理由に応じなかった。
  この7軒に対し、町奉行は営業停止にした。
  幕府は、ここの商品ごとに物価対策を行わなければな
 らなくなった。
  江戸南町奉行・大岡越前守忠相は、1723年10月に、「
 物価引き下げに関する意見書」を提出した。
  当時、談合が行われ、物価の操作が行われ、物価上昇
 の原因になっていた。
  幕府は、菜種の作付けを奨励したりした(物価を下げ
 るため)。
1706年、中国・清の第4代皇帝・康煕帝(こうきてい)は、
 中国の祭典の儀や、孔子礼拝、そして、先祖崇拝などの
 中国の儒教的儀礼(典礼)などを認める事について、
  中国のキリスト教聖職者は、布教に際して認めていた
 が、教皇が、典礼の参加を禁じたため、キリスト教の布
 教を禁止した。
  そして、典礼などを否認する否認派宣教師を追放した。
  キリスト教イエズス会は、中国の典礼を認めていて、
 キリスト教と中国宗教との妥協を受け入れていた。
..
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2015年6月29日月曜日

(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)

題:(増補版)142D1/3:気になった事柄を集めた年表(1702年~1704年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1702年、飛騨屋久兵衛が松前に渡り、尻別において唐檜(
 エゾマツ)の伐木事業を始めた。
1702年7月18日、事件:浅野家へおあずけ
  浅野長矩の弟の浅野大学(だいがく、浅野長広)が、
 広島藩主:浅野家へおあずけの身となった。
1702年、経済:江戸で地代・店賃が取り調べられた。
1702年閏8月、経済:金銀訴訟の相対済令(あいたいすまし
 れい)、享保の改革で発布された法令の一。
  前年までの金銀訴訟を相対済とした(金銀貸借や売掛
 金などの紛争の訴訟に公権力は関与しない)。
  訴訟事務の停滞を理由に、既往の金銭貸借の訴訟は受
 理せず、当事者間で解決させることとした。
1702年、経済:物価低減令
1702年、出版:新井白石が著した「藩翰譜(はんかんぷ、
 歴史書)」が完成した。
  甲府藩主の徳川綱豊(後の、6代将軍家宣)に、1701年
 に、命じられていた。
  1600年からの80年間における、1万石以上の大名の337
 家について、その始封、襲封(しゅうほう、諸侯が領地
 をうけつぐこと)、廃除などを記したもの(由来と事績・
 業績を集録し、系図を付けた)。全13巻。
  本書は、幕藩体制の鳥瞰図(ちょうかんず)的役割を
 持つことのほか、政治の参考書であり、道徳教訓書でも
 あった。
  内容の優れた文章と、豊かな内容とによって、家宣は
 死ぬまで座右を離さなかったという。
  また、武家一般に広く読まれ、大名家で本書を備えな
 いものはなく、古今いまだその比を見ないと言われた。
  白石は、全精力を傾けて書いたため、「白髪満頭(頭
 が白髪・しらがで真っ白になった・・という意味らしい)」
 になったと告白している。
  実証主義を堅持し、学問的良心の強さがみられる。
  本書は、その後、権威ある著作として、標準的史書と
 として扱われ、よく引き合いにも出された。
1702年、イギリス:アン女王戦争が起きた(英仏植民地戦
 争、~1713年)
  スペイン継承戦争の際に、アメリカ大陸で行われてい
 た戦争。
  この戦争の結果、イギリスは、アメリカへの奴隷貿易
 の特権を得た(卑劣な権利の獲得)。
  また、ニューファンドランド、ノバスコシア、ハドソ
 ン湾沿岸地方の新たな領土を獲得し、獲得領土が拡大し
 た(カナダの東端地域で、ニューヨーク・ボストンの北
 方地域)。
  卑劣な事に、この後も、何度も戦争を繰り返す好戦国。
1702年、イギリスの利益収奪行為の「東インド会社」が、
 植民地の虐げ行為が行き過ぎと感じたのか、2社が合同さ
 れた(イギリスの行為を代行していた)。
  しかし、合同後も、この2社は、懲りずに新旧の2派を
 新たに作って対立した。
1703年1月30日(元禄15年12月14日)、赤穂浪士が、吉良邸
 へ討ち入った(仇討ち)。
  そして、主君の仇である吉良義央を殺し、その首を泉
 岳寺にある主君・浅野長矩(ながのり)の墓前に捧(ささ)
 げた。
  雪は、前日に降り、実際は日陰に残っている程度だっ
 た。
  仇討の中心人物は、家老の大石良雄で、1701年4月21日
 の事件から、1年9ヶ月が経っていた。
  芥川龍之介に「或日の大石蔵之助」がある。
1703年3月20日(元禄16年2月4日)、赤穂浪士切腹
  赤穂浪士46士が切腹した。
  同日、吉良家当主の義周(きらよしちか、)は、幕府
 評定所に呼び出された結果、領地を没収され、家名が断
 絶した。
1703年、演芸:近松門左衛門が、「傾城三の車」を京都で
 上演した(忠臣蔵物のさきがけ)
  1701年の浅野内匠頭の殿中切傷と切腹、
  そして、翌々年の赤穂浪士討ち入りは、江戸の関心を
 集め、これに取材したおびただしい数の作品が、歌舞伎
 や人形浄瑠璃の舞台となった。
  最も早いものは、刃傷が行われたのと同年同月に、小
 栗判官的に脚色されて、江戸の山村座で上演された「東
 山栄華舞台」があり、
  次いで、浪士たちの切腹直後の曽我的に組まれた、江
 戸の中村座で演じられた「曙曽我夜討」と言われている。
  上演が確認できる最初の作品は、歌舞伎では、この時
 の、京都の早雲座二の替りの、近松門左衛門作「傾城三
 の車」である。
  その中の巻に、討入を示唆する場面がある。
1703年4月、事件:曾根崎心中
  醤油屋の手代の徳兵衛と遊女のお初が、大阪の曾根崎
 天神の森で心中した。
1703年5月、演芸:近松、大阪初演
  近松門左衛門が、「曾根崎心中」を、大阪の竹本座で
 初演した。
  この頃、上方で心中が流行した。
1703年、交通政策:借駕篭の数を制限した。
  江戸で、借駕篭の数を600挺に制限した。
  そして後に、さらに300挺にした。
1703年、出版:室鳩巣(むろきゅうそう、儒学者)
  室鳩巣が「赤穂義人録(あこうぎじんろく)」を著し
 た。
  赤穂義士の仇討の一件を、赤穂義士を褒(ほ)め称(
 たた)える立場で、漢文で記した書。
  赤穂浪士の関係書物としては、最も早く流布した。
1703年、世相:打ちこわし
  長崎の町人が、米の買い占めを行なっていた米商を打
 ちこわした。
1703年、ピョートル1世(ロシア)が、ペテルブルグ(後の
 レニングラード)建設を開始した(要塞と港湾都市)。
  そして、1713年に、遷都した。
  ピュートル1世は、西欧技術・文化の輸入を図り、富国
 強兵に努めた。
1704年2月、初代・市川団十郎(いちかわだんじゅうろう、
 歌舞伎役者)が没した(1660年~1704年)
  元禄時代を代表する名優。市川家の宗家。
  俳優の生島半六に舞台で刺殺された。屋号は成田屋。
  祖先は広州の武士で、後に下総国(千葉県成田市)に
 移住して農を営んだ。
1704年、交通政策:助郷の取締り
  宿駅問屋場に役人を置き、無用の助郷を取り締まった。
  助郷(すけごう)は、宿駅常備の人馬が不足する場合、
 その補充のために、宿駅近くの村々に課された夫役(ぶ
 やく)。
  この助郷は、1694年に制度化されたが、助郷負担の見
 返りに出る手当は微々たるものであり、
  河止めにでもなれば、何日も拘束されるなど、
  その間、農作業が出来ないなど負担が重かった。
  その為、助郷の免除願いが出されたり、出勤簿だけ書
 いて逃走したりと、
  負担回避のための行動が行われた。
  また、この制度を悪用して、
  農民から金銭を集めて代役を安く雇い、利益を貪(む
 さぼ)る者も出た。
  雇われた人足は「雲助」と呼ばれた。
  年々、助郷の人数や、召集の回数が、次第に多くなり、
 農民は、農業が出来なくなり、百姓を止める人や、離散
 者が増えた。
  助郷一揆が、発生した例もある。
1704年、政治:綱吉の将軍世子
  甲府城主が徳川綱豊を将軍世子とし、家宣と改名させ
 た。
  綱吉が、継嗣子を得られず、甥の甲府の徳川綱豊(綱
 吉の兄・綱重の子)を将軍職後継者に定めた。
1704年、天災・洪水:利根川に洪水が起きた。
1704年、芸術:尾形光琳(おがたこうりん、画家、工芸家)
 が、江戸に下り、大名や豪商らの支持を得た(1658年~
 1716年)
  光琳は、5年ほど江戸に滞在した後、1709年に、京都へ
 戻っている。
1704年、社会資本整備:大和川
  幕府が、大和川の付替え工事に着手した。
  岸和田・三田・明石・高取・丹羽・柏原藩などの助役
 により付替工事が完成した。
1704年、清で典礼問題が起こり、ローマ法王が、軍隊式に
 組織されていたイエズス会を異端とした。
  このイエズス会は、資金を得るため商業を営んでもい
 た。
  法王の勅書を守らないイエズス会司祭を破門にした。
1704年8月、イギリスが、ジブラルタルを占領した。
  スペイン継承戦争における戦闘の一つ。
  イギリスは、地中海の橋頭堡を得たいと、1703年に、
 まず、ポルトガルのリスボンを海軍の寄港地とし、
  オーストリアを同盟軍に招き入れ、
  イギリス・オランダ艦隊にオーストリア軍も乗せて派
 遣し、紆余曲折の後、スペイン南端の港湾都市ジブラル
 タルを守備するスペイン軍を降伏させ、占領した。
 ..
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