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2011年11月19日土曜日

法を島とし、法を拠り所として 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 6」

題 : 法を島とし、法を拠り所として 
              五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 6」

五木さん: この周辺に住まいしていた時期、ちょうど雨季に入り
     ました。
      そして、雨季というのはもう、往来が困難だし、疫病
     がはやったり、大変な時期なんで、雨安居(うあんご)
     と言って、その時期、旅を休んで瞑想にふけり、思索に
     ふけります。
      ちょうど、その時ですね、仏陀は、思いがけなくも、
     本当に大きな病にかかる訳ですね。
      最後の旅のほんとに途中なんですけれども、その時の
     模様を こんな風に「大パリニッバーナ経」・「仏陀・
     最後の旅」 には書かれています。

        さて尊師が、
        雨季の定住に入られたとき
        恐ろしい病が生じ
        死ぬほどの激痛が起こった。
        しかし尊師は、
        心に念じて
        よく気をつけて
        悩まされることなく
        苦痛を堪え忍んだ。
        そのとき尊師は、
        次のように思った
        「私が侍者たちに
        別れを告げないで
        修行僧達に別れを告げないで
        ニルヴァーナに入ることは
        私には相応(ふさわ)しくない
        さぁ私は元気を出して
        この病苦を堪(こら)えて
        寿命のもとを留めて
        住することにしよう」と

     (参考)ニルヴァーナ: サンスクリット語の仏教用語
         で、涅槃 (nirvaaNa) のこと。

五木さん: つまり大変な激痛が生じてですね。
      本当にもう、耐え難いほどの痛みと苦しみの中で、仏
     陀は、それに耐え忍び、そして、今は死ねないと感じる
     んですね。
      それがまだ自分には残した仕事があると感じていたの
     か、あるいは、自分に与えられた事を最後までやり遂げ
     るために、この旅を続けようという意思なのか、あるい
     は、天と言いますか、目に見えない大きなものの命ずる
     ままに、自分の人生というものを、もう一度、生きてい
     こうという風に考えるのか、その辺は良く分かりません
     けれども、老いと病というものは、まあ、普通に言われ
     るように、生易しいものではありません、人間が最後の
     旅に出る時に、必ず、この老いと病を道連れにして、生
     きていく訳です。
      その最後の旅の中で、仏陀もまた、この病気と苦痛と、
     そして、老いというものを感じつつ、この辺に留まって
     居られたということを思いますと、人間・仏陀、人間で
     はないけれども、人間的なそのような苦しみを、人一倍、
     深く背負った仏陀という存在、そこに、私達人間も、と
     っても同じ様な、親しみと共感、そして、尊敬の念を覚
     えるところがあります。
     ・・・・。
五木さん: 車の中で、ちょっと七転八倒したんですよね。
      朝4時に起きて、ほとんど徹夜のまま撮影をやって、
     それからあの悪路をバスで走っているでしょう。
      でも、昔はね、シベリヤ横断したってなんとも無かっ
     たくらいだったのに、僅かこの位の事で、こんなに苦し
     まなければならないのかという、ほんとに、パトナへの
     道は、地獄への道でしたね。
      ですから あの時、ホントにねー、もう薬を飲んでも
     効かない、水を飲んでもどうにもならない、今にも吐き
     そうでという、その時に、やっぱり、今の体力の衰えと
     いうものをね、今度の、やっぱり、インドの旅では、つ
     くづく感じさせられましたね。
      ですから、実感がとってもありますよ。
      まして、僕はまだ70代の前半ですけどね、齢(いわ
     い)80に達したら、この旅を車なんて文明の利器を使
     わずにしている 仏陀の大変さというのは、おそらく想
     像を絶するものが、あったに違いありません。
ナレーション: 仏陀・最後の旅には、常に苦楽を共にする弟子が
     付き添っておりました。その名は、アーナンダ。
      弟子の中でも、人一倍、心優しく、純粋な人間だった
     と伝えられています。
      病から回復した仏陀の姿を見て、アーナンダは歓喜し、
     こう言います。
      「尊師が病気の間、呆然自失して、方角も教えすらも、
     分からなくなっていました。でも、もう安心です」。
      そんなアーナンダに、仏陀はこう答えました。

        アーナンダよ
        私はもう老い朽ち
        齢(よわい)を重ね老衰し
        人生の旅路を通り過ぎ
        老齢に達した
        我が齢(よわい)は八十となった
        例えば、古ぼけた車が
        革紐(かわひも)の助けによって
        やっと動いていくように
        おそらく私の身体も
        革紐の助けによって
        もっているのだ。

ナレーション: さらに、仏陀は、自分が死んだ後の心構えについ
     て、修行僧達に説きました。

        この世で、
        自らを島とし、
        自らを頼りとして
        他人を頼りとせず
        法を島とし、
        法を拠り所として、
        他のものを拠り所とせずにやれ。
     
        アーナンダよ、
        今でも、また、私の死後にでも、誰にでも、
        自らを島とし、
        自らを頼りとし、
        他人を頼りとせず、
        法を島とし、
        法を拠り所とし、
        他のものを拠り所としないでいる
                     人々が居るならば、
        彼らは、我・修行僧として
                 最高の境地にあるであろう。

五木さん: あのー、非常に文脈としてですね、捉えにくい言葉な
     んですけど、言っていることは一つだと思うんですね。
      自分の尊敬する人が居ることは結構である。
      だけど、大事なことは、そういうことであることより
     も、権威とか、あるいは他人に対する親愛の情とか、そ
     ういう事よりも、もっと大事な、仏教の法というものが
     ある。
      ダルマといいますね。
      そういう仏教の真実や真理、そういうものこそ頼りと
     して、他人の権威・社会の常識、そういうものに囚われ
     ることなく、自分が学んだ仏教の心を心として、そして、
     自分が亡くなった後も、雄雄しく立派に生きて行って欲
     しい、それが大事だぞと、こういう事を最後に言ってい
     る訳です。 
      仏陀の言っていることというのは、私は、決して、自
     分に頼れという風に、自我を強調しているのではないと
     思いますね。
      それよりもっと大きな宇宙の真理というものがある。
      そういうものを自覚して、そして、自分が感じた直感
     というものを拠り所にし、そして、それを、島と言うの
     は例えですけれども、河の中洲という風に訳する人も居
     ますね。
      水が増えてきても没することなく、世の中の激流に呑
     まれる事も無く、大きな永遠不朽の真理というものをし
     っかりと身に付けて、その真理を頼りにして、自分自身
     の道を歩くが良いと、仏陀は、こういう風にここで語っ
     ているんだろうと思います。

        この世で
        自らを島とし
        自らをたよりとして
        他人をたよりとせず
        法を島とし
        法をよりどころとして
        他のものを
        よりどころとせずにあれ。
                       (つづく)
(参考) 安居:(あんご)は、それまで個々に活動していた僧侶た
     ちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること。
     及び、その期間の事を指す。
      安居とは元々、梵語の雨期を日本語に訳したものであ
     る。
      本来の目的は雨期には草木が生え繁り、昆虫、蛇など
     の数多くの小動物が活動するため、遊行(外での修行)
     をやめて一カ所に定住することにより、小動物に対する
     無用な殺生を防ぐ事である。
      後に雨期のある夏に行う事から、夏安居(げあんご)、
     雨安居(うあんご)とも呼ばれるようになった。
      釈尊在世中より始められたとされ、その後、仏教の伝
     来と共に中国や日本に伝わり、夏だけでなく冬も行うよ
     うになり(冬安居)、安居の回数が僧侶の仏教界での経
     験を指すようになり、重要視された。
      現在でも禅宗では、修行僧が安居を行い、安居に入る
     結制から、安居が明ける解夏(げげ)までの間は寺域か
     ら一歩も外を出ずに修行に明け暮れる。
                     (Wikipediaより)

2011年11月18日金曜日

民主主義の国・ヴァッジ国を、仏陀は、こよなく愛していました 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 5」

題 : 民主主義の国・ヴァッジ国を、仏陀は、こよなく愛していました
                五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 5」

インドの仏教歌:金のお皿でご飯を
        食べて貰いましょう
        仏陀に乳粥(ちちがゆ)を
        差し上げましょう
        金の台の上に
        席を用意しましょう
        仏陀にお願いして
        座って貰いましょう
        ここで仏陀に
        静かに休んで貰いましょう
        私は、みんなに仏陀が
        来ていることを知らせます

ナレーション: ガンジスを渡った仏陀は、いくつかの村を経て、
     ヴァイシャリーへと向かいました。
      そこは商業で栄えるヴァッチ国の首都でした。
      仏陀の時代、北インドは、16もの国にも分かれてい
     ました。
      その中にあって、ヴァッチ国は、国の方針をは話し合
     いで決める進んだ国でした。
      大パリ二ッバーナ経には、仏陀が、ヴァッチ国の事を
     賞賛した言葉が記されています。

        ヴァッジ人が、
        しばしば会議を開き、
        会議には多くの人が参集する間は、
        ヴァッジ人には繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。
        ヴァッジ人が、
        共同して集合し、
        共同して行動し、
        共同してヴァッジ族として
        なすべき事をなす間は、
        ヴァッジ人には、
        繁栄が期待され、
        衰亡は無いであろう。

ナレーション:仏陀は、ヴァッジ国をこよなく愛していました。
      仏陀の一行は、ヴァイシャリー郊外のマンゴー園に留
     まります。
      布教の旅では、決まって町外れに滞在します。
      修行の為には静かな環境が望ましいが、托鉢をするに
     は人の集まるにぎやかな場所が必要です。
      「俗に染まらず、俗から離れず」
      大パリ二ッバーナ経には、このマンゴー園での逸話が
     残されています。
五木さん:イヤー、見事な果樹園ですね。あのー、これは、マンゴ
     ーの木なんだそうです。
      僕は、マンゴーは、恥ずかしながら、畑の中に生ると
     思っていたのですが、こういう堂々たる木の中に、マン
     ゴーが沢山生ってる姿は、想像しませんでした。
      ここは、ヴァイシャリーという所の郊外のマンゴー畑
     なんですけれども、ガンジス河を渡った仏陀は、このヴ
     ァイシャリーの街中ではなく、街からチョット離れた、
     この郊外のマンゴー畑の中に居を定めます。
      そして、しばらくここに滞在する訳なんですね。
      それで、このー、不思議な事に、ここにはとっても華
     やかで人間的なエピソードが一つあるんですが、このマ
     ンゴー畑の所有者といいますか、地主の方が、ヴァイシ
     ァリーの町では大変著名なサロンの女主人公と言います
     か、実は、高級娼婦・遊女と言われている人なんですが、
     遊女と言ってもですねー、ただの遊女ではなくて、一夜
     の値段が、牛何十頭などという、王侯貴族を相手にする
     という様な、しかも教養もあり、音楽もあり、文学も出
     来、詩も詠めるという素晴らしい、高名な女性であった
     らしいんですね、で、そのアンバパーリーという女性な
     んですが、その女性は、自分のマンゴー園に高名な仏陀
     が滞在しているという事を聞いて、そして、教えを乞い
     に仏陀のもとへやって来ます。
      そして、仏陀から様々な話を聞いて大変深く感動して、
     感動したアンバパーリーは、自分の、是非、屋敷に招待
     して一夜の宴(うたげ)を催したいという風に、仏陀に
     申し入れます。
      遊女の申し込みなんで、本来なら、僧がどういう風に
     応対すべきか、ちょっと、分かりませんが、仏陀は、そ
     こんところを非常に快く、つまり、法といいますか、仏
     法というものを尊ぶ心の持ち主ならば、いかなる職業で
     あっても差別しないという、そういう気持ちからでしょ
     うか、仏陀はそれを承諾するんですね。
ナレーション:仏陀が、ヴァイシャリー郊外に滞在していることを
     聞きつけた若い貴族たちが尋ねてきます。
      「自分達も仏陀を招待したい」と申し入れました。
      しかし、仏陀は、既に、遊女・アンバパーリーの招き
     を受けていると、その申し出を断ります。
      貴族達の中には、自分達より遊女を優先するのかと非
     難する者も居ました。
五木さん: ここで遊女という、アンバパーリーという、女性の話
     が出てくるというところがですね、この経典の中での、
     ある種の非常に興味深い所です。
      それは何かと言いますと、やっぱり当時のインドでも、
     女性に対する偏見というのは、今よりもっともっと深い
     ものがあったに違いありません。
      ましてや職業の貴賤ということに関しては、さらに偏
     見が多かったと思うんです。
      そういうときに、例えそれが娼婦であろうと、どうい
     う職業の人間であろうと、分け隔てなく接する、そして、
     「人間は、皆、平等だ」という仏陀の基本的な仏教の考
     え方というものがですね、そのエピソードの中に盛り込
     まれているんじゃないか、今から2500年前、それほど
     の昔にですね、今でも、なお、残っている女性に対する
     蔑視とか、職業に対する差別とか、そういうものを乗り
     越えて最後の旅を続けて行く仏陀の姿に、なんとなく共
     感を押さえる事が出来ません。
ナレーション: ヴァイシャリー郊外に、遊女アンバパーリー縁(ゆ
     かり)といわれる仏教遺跡が、今も残されています。
      後の時代に、インド北部一帯を支配したアショーカ王
     が建立した石柱とストゥーパ・仏塔です。
      仏陀と一人の遊女の出会いが、人々の心を動かし、大
     きな仏教遺跡となって残されたのでしょうか。
      仏陀は、このバイシャリーの地で大きな試練に出会う
     ことになります。
      ここで命をも脅かす様な、重い病を得たのです。
                         (つづく)
(参考)ヴァッジ国:ヴァッジ国(パーリー語 )あるいはヴリジ国は、
     古代インドの国名。初期仏教の聖典『アングッタラ・ニカー
     ヤ』の中で、十六大国のひとつに数えられる。首都はヴァイ
     シャリー。
     位置:現在のビハール州北部にあたり、南北にはガンジ
     ス川北岸から現在のネパールまで広がり、西はガンジス
     川を挟んでマッラ国およびコーサラ国と隣接していた。
     また、東は現在のビハール州と西ベンガル州の州境付近
     を流れるマハーナンダ川近辺、あるいはビハール州を流れ
     るコーシー川までで、アンガ国と接していたと考えられてい
     る。
     民族:ヴァッジ国は、ヴァッジ族、リッチャヴィ族(離車族)、
     ジニャートリカ族、ヴィデーハ族など、8つの部族が連合し
     て形成していたと伝えられている。
     統治機構:ヴァッジ国王は、「ヴァッジ・サンガ」と呼ばれた
     代表議会の議長であったと考えられている。「ヴァッジ・サ
     ンガ」は、各地方からの代表者から成り、国政を取り仕切っ
     ていたものと考えられている。近年、このような古代インド
     の国家をガナ・サンガ国というようになっている。
     宗教:リッチャヴィ族(離車族)は、ジャイナ教を信奉してい
     たが、後に仏教に改めたと、仏典は伝えている。
     実際にブッダは、ヴァッジ国の首都ヴァイシャーリーを
     何度も訪問して説法していたし、仏教の修行者のための
     修行道場が設置されていたという記録がある。したがっ
     て、ヴェーダの宗教に並び、ジャイナ教や仏教も盛んで
     あったと考えられる。(Wikipediaより)

2011年11月17日木曜日

どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き放たれた理想の境地にいたるか 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 4」

題 : どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き放たれた
        理想の境地にいたるか 
               五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 4」
 
映 像: ガンジスの河の上を舟に揺られる、五木さん。
五木さん: あのー、私自身も、河というものについて、非常な思い
     入れがありました。
      ちょうど子供時代。小学校の頃は、今のソウルで過ごし
     たんですね。
      京城(ケイジョウ)といいます。
      京城には、ハンガン(=漢江・かんこう)という、当時は
     漢江と言いましたけれども、ハンガンという、実に大きな
     流れがありました。
      そして、中学時代を過ごした、ピョンヤン(=平壌)という
     町には、ケドンガンというのですが、大同江(ダイドウコウ)
     という名前で私達は呼んでいたんですが、
     ここにも楽浪郡時代からの大きな流れがありまして、
     その河の流れを往復しながら、学校に通っていました。
      いつも、その大同江の岸辺に立って、数千年の歴史、
     あるいは人生、自分の将来、いろんな事を空想したもんで
     す。
      ・・で、敗戦になって、
      私達、外国からやってきて、その国を支配していた人間
     は、その国を去らなければならないわけです。
      引揚者と言いますか、難民となって、
      私達は、ピョンヤンから去る訳ですけれども、その引き
     上げが始まるまでの1〜2年の間に、本当にたくさんの
     人々がそこで亡くなりました。
      夏ですと、どこか目立たないところに穴を掘って、火葬が
     できるんですが、冬は零下20度、30度という寒さに
     なります。
      もう地面もツンドラの様に凍ってですね、ツルハシも
     立たないほどなのですね。
      そこで仕方なく、火葬にすることも出来ず、土葬にする
     ことも出来ず、テンドンガンという凍りついた厚さ1メートル
     以上も氷が張っている河の、魚を釣るために、あちこちに、
     ぽこっ、ぽこっと穴が開いているんですが、
     毛布に包んで、その穴から流して弔うということが、
      しばしばありました。
      母も昭和20年の敗戦から1ヶ月後に亡くなったんで
     すけれども、遺骨を持ってくることが出来ませんで、ほん
     の一束だけ、髪の毛を切って、遺髪を持って来て、ずーっと
     戦後50年くらい、持ち歩いていたんですが、
     ある時、奈良の小さなお寺に、父の遺骨と一緒にお預け
     しました。
      ただ、気持ちとしてはですね、そういう河に流したかった
     という気持ちの方が、本当は自分の心の中に自然に
     感じられていたんですね。
      ですから、今度、御縁があって、ま、突然インドに来る、
     そして、ガンジスの河も渡る、こういう機会を得た時に、
     何か、ちゃんとした弔いも出来なかった、その母の思い
     入れを、この川岸に残して行きたいという風に思って、
     遺髪の中から、1本か2本、持って来たんですが、もう、
     細く、枯れてしまってね。
      髪の毛と言えるようなものでは無かったですね。
     (そして、お母さんの髪の毛を焼き、インドのガンジスの
     河の流れに流す、五木さん。
      五木さんの顔が可哀想で見ていられない感じ)
映 像: 五木さんがお母さんと撮った幼少の写真。
      ・・・お父さん・お母さん・兄弟と幸せそうな写真。
      ・・・幼少の五木さんが、お母さんと手をつないでいる
       写真・・・)
ナレーション: 五木さんは、昭和7年、九州の山村で教師をして
     いた両親の元に生まれました。
      生後まもなく、一家は新天地を求め、当時、日本の支配
     下にあった朝鮮半島に移住。
      12歳の時、ピョンヤンで終戦を迎えました。
      その時から、一家の運命は暗転します。
      愛する母親の非業の死。
      絶望する父。
      2年後、日本へ引き上げて来ますが、父親は立ち直る
     ことなく、この世を去りました。
      何故、自分は生き残ったのか。
      その思いは、五木さんを仏教の世界へと強くひきつけて
     行きました。
      49歳の時、作家活動を中断、大学で仏教を学び始め
     ます。(龍谷大学時代の勉強する五木さんの写真)
      4年後、再びペンを手にしてからは、「人々の苦悩に
     仏教は答え得るのか」という視点で、作品に取組んで来
     ました。

        その時、
        ガンジス河は水が満ちていて、
        水が渡し場の所までおよんでいて、
        平らかであるから、
        カラスでさえも水が飲めるほどであった。
        ある人々は船を求めている。
        ある人々は大きないかだを求めている。
        また、ある人々は小さないかだを結んでいる。
        いずれも
        彼方の岸辺に行こうと欲しているのである。
        そこで、
        あたかも力士が屈した腕を伸ばし、
        また伸ばした腕を屈するように、
        まさにそのように僅かの時間の内に、
        こちらの岸において没して、
        修行僧の群れと共に向こう岸に立った。
        ついで尊師は、
        ある人々が船を求め、
        ある人々はいかだを求め、
        ある人々はいかだを結んで、
        あちらとこちらへ
        行き来しようとしているのを見た。
        そこで尊師は、
        この事を知って、
        その時、
        この環境の言葉を一人つぶやいた。
        『沼地に触れないで橋を架けて、
        広く深い海や湖を渡る人々もある。
        木切れや、つた草を結びつけて、
        いかだを作って渡る人々もある。
        聡明な人々は、
        既に渡り終わっている』

ナレーション: ガンジス河を如何にして渡るか。
      それは、どの様にして、涅槃、すなわち煩悩から解き
     放たれた理想の境地に至るかという事の例えだとされて
     います。
      仏陀は、いともたやすくガンジス河を越えました。
                          (つづく)
(訂 正): 「ブッダンサラナンガッチャーミ、ダンマンサラナ
     ンガッチャーミ、サンガンサラナンガッチャーミ」と三
     度唱え、仏教の三宝に帰依する。

2011年11月16日水曜日

人生の大河を越える・・彼岸の岸へ行こうと欲している人々 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 3」

題 : 人生の大河を越える・・・彼岸の岸へ行こうと欲している人々
                 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 3」
 
ナレーション: インドの聖なる河・ガンジス。
      ヒマラヤの山間部からベンガル湾に至るその長さは、
     およそ2500キロ。
      インド最大の大河です。
      仏陀が目指したパータリ村は、このガンジス河のほとり
     にある小さな村でした。
      現在のパトナ市。ビハーレ州の州都です。
      人口は、およそ140万。
      米を中心に、農産物の集散地として賑わっています。・・・。
      パトナ市内、ガンジス河のほとりにある市場です。
五木さん: (市場に来た、五木さん) 
      この辺は、昔のパトナ村という、村だけあって、なんだか
     野菜のバザールの様になってますね。
      ジャガイモあり、たまねぎあり、インゲンあり、ニンジンあり、・・・。
      あー、大根もありますね。
      えー、それにしても、大変な賑わいだ。
      ナマステー。
      僕は九州・福岡の出身でね、八女という所で、両親の
     古里が、みかんを作っていたんですね。
      みかんとお茶なんです。
      だから、みかんを見て、ふと、懐かしくなったんです。
      さて、どんな味がするんでしょうね。
      ・・・酸味があって、本当に「みかん」らしいです。
      戦後、僕らがみかん畑で働いて時のみかんは、こんな
     感じだったですね。
      うん、これは旨い。・・・。
      (ガンジス河へ向かう、五木さん) 
      ・・・。
      アー 見えてきたなー。 これが ガンジスかー。
      (河辺に来て) あー 涼しい。
      ガンジスの流れというと、何か、こう、黄色く濁った
     流れだけを想像したんですけれども、この辺の水は青い
     ですね。
      対岸の方には、ずーっと青い草が見えて、真っ白な洲
     があって・・・、
      ・・・あー、こんなにガンジスが、美しいとは。
      ナーランダの村を通過して、そして、このパトナ村へ
     やって来て、仏陀は、ここからガンジス河を超えるわけ
     ですね。
      おそらく、ここまで70〜80キロか、90キロ。
      まあ、どの位あったんでしょう、途中で休み休み色んな
     ところに寄って来る訳でから、ずいぶん掛かったと思い
     ますけども、この河のほとりに立った時に、おそらく、
     仏陀は、単に、物理的に川を越えるっていうだけではな
     くって、何か人生の大河を越えるという、非常に大きな
     感慨を抱かれて、この河の流れを御覧になったに違いあ
     りませんね。・・・・・・。
      仏陀は、生涯に、さまざまな形で、河を越えてきている
     人だと思います。
      信仰の河、思想の河 人間の河、 ・・・。
      その仏陀が、このパータリ村から河を超えて、対岸に
     渡る有様を 古い古いお経の「ダイパリミッダーナ経」
     という、日本では「大般涅槃経」として知られるお経の
     経文の中に、仏陀の旅のガンジス河のあたりの風景が、
     短く描かれています。 
  
        ついで尊師は、
        ガンジス川に赴いた、
        その時、
        ガンジス河は、
        水が満ちていて、
        水が渡し場のところにまで及んでいて、
        平らかであるから、
        カラスでさえも水が飲めるほどであった。
        ある人々は船を求めている。
        ある人々は大きないかだを求めている。
        また、ある人々は
        小さないかだを結んでいる。
        いずれも、
        彼方の岸辺へ行こうと欲しているのである。 
        そこであたかも力士が、
        屈した腕を伸ばし、
        また、伸ばした腕を屈するように、
        まさにその様に、
        僅かの時間のうちに、
        こちらの岸において没して、
        修行僧の群れと共に、
        向こう岸に立った。

     (参考):『大般涅槃経』(だいはつねはんぎょう、サンスク
      リット:Mahāparinirvā?a Sūtraマハ−パニルヴァ−ナ 
      ス−トラ 、パーリ語:Mahaaparinibbaana-suttanta、
     タイ語:mahǎprinípphaanásùttantàは、釈迦の入滅(
     =大般涅槃(だいはつねはん)を叙述し、その意義を説く
     経典類の総称である。
      阿含経典類から大乗経典まで数種ある。
      略称『涅槃経』。大乗の涅槃経 は、初期の涅槃経とあ
     らすじは同じだが、「一切衆生、悉有仏性」を説くなど、
     趣旨が異なるので、相互を混同してはならない。
      パーリ語で書かれた上座部経典長部に属する第16経が
     大般涅槃経と同じものである。
      漢訳の、長阿含第2経「遊行経」および「仏般泥洹経」
     (2巻)、「般泥洹経」(2巻)、「大般涅槃経」(3巻)が
     これに相当する。
      釈尊の晩年から入滅、さらに入滅後の舎利の分配など
     が詳しく書かれている。これらに基づいて大乗仏教の思
     想を述べた「大般涅槃経」という大部の経典もある。

2011年11月15日火曜日

教えを請うものなら誰であろうと・・ 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 2」

題 : 「教えを請うものなら誰であろうと・・」 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 2」
         (齢80の仏陀は、ただひたすら歩み続ける)

ナレーション: 出発点・霊鷲山から旅の終わりとなったクシナガラ
     までの道のりは、およそ400キロ。
      この道を、80歳の仏陀は、ひたすら歩き続けました。
      仏陀が最後に歩んだ道を、74歳を迎えた五木寛之さんが、
     辿ります。
      霊鷲山から北西に16キロ。

      仏陀は、ナーランダ村に立ち寄っています。
      行く先々で、仏陀の元には多くの人々が、集まってき
     ました。
      王侯貴族からカースト街の差別を受けている人たちまで、
     さまざまな階層の人々です。
      仏陀は、教えを請うものなら誰であろうと分け隔てなく、
     法を説いたと言われています。
      仏陀・最後の旅は、いつもと変わらぬ、布教の旅として
     始まりました。
五木さん: あーなんだか、もう本当に夢の様な幻想的な風景です
     ねー。
      木があって、なだらかな丘があって、その向こうに 
     また木陰に白い塔がある、
      村の人たちが、三々五々、ここに座ったり 腰掛けたり、
     子供達が走り回ったりしていますが、自然の中に、
     こんな場所があるなんて、何と贅沢なことなんだろうと
     思います。
      『ナマステジー。・・ナマステジー』
      (一つの堂に来た。あたりを見渡す、五木さん)
      えーっ、暗くて見えませんけども、この中にあるのは
     仏陀の坐像ですね。釈迦牟尼坐像。
      ナマステジー。
      あのーチョット伺いますけれども、この塔の中にある
     仏像は・・・?
インドの住民: 仏陀の像です。お釈迦様の像です。
五木さん:   何時ごろからあるものなのですか?
インドの住民: むかしむかしからあります。
五木さん: 昔々というと、おじいさんの代からですか、もっと昔
      ですか?
インドの住民: 祖父の親の前から さらに前から。
五木さん: すごい、これは驚きました。
      ほー、この丘の上の小さな祠の中に、・・・いやー、
     まさしくこれは仏陀の坐像です。
      ほーっ。・・・イヤー驚きました。
      素晴らしい仏像ですけれども、相当古いものだと思い
     ますが、とにかく立派なのですよね。
      シルエットといい、バランスといい それにしても、
     この右手とお顔の損傷というのは実に生々しい。
      インドの歴史のありようを感じさせてくれる様な気が
     します。
ナレーション: ナーランダに心行くまで留まった仏陀は、ある日、
     弟子のアーナンダに こう告げます。
      『さー、アーナンダよ、パータリ村へ行こう』
      仏陀は、三つの袈裟と托鉢用の鉢一つだけをだずさえて
     パータリ村を目指し歩みを進めます。
      その後ろには、仏陀を慕う多くの修行僧がつき従って
     いました。
インドの祈りの歌: 私は仏陀に帰依します。
            私は仏法に帰依します。
            私は僧伽(そうぎゃ)に帰依します。
     (参考)僧伽:〔仏〕〔梵 sagha の音訳〕仏教修行者の
      集団。僧侶の集団。広義には、在家を含む仏教教団
      全体をいうこともある。

      和合衆。和合僧。僧祇(そうぎ)。
ナレーション: ナーランダからパータリ村までは、およそ90キロ
      の道のりです。
映 像:  (悪路で自動車の中で大きく揺れる、五木寛之さん)
                              (つづく)

2011年11月14日月曜日

汚れからの「まったくの解脱」 五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 1」

題 : 汚れからの 『まったくの解脱』

              五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 1」


 以下は、You Tubeを聞き書きしたものです。
 何度も何度も、映像を止めたりして、文章化していきました。
 そして、聞き取りにくいところなど何度も聞き、また、種々調べ
たりして完成しました。

 題 : 汚れからの 「まったくの解脱」
               五木寛之さんの「ブッダ最後の旅 1 


映 像 : 霊鷲山(りょうじゅせん)の映像。
     インドのビハール州のほぼ中央に位置する山。
     仏陀(釈迦佛)が無量寿経や法華経を説いたとされる。

ナレーション: 誰にもやがて訪れる死。
映 像: ハーハーと息を弾ませながら霊鷲山の階段を登る
                          五木寛之さん。
ナレーション: 人生の旅路の最後で、人は、老いや死と、どの様
     に向き合えば良いのでしょうか。
      およそ2500年前、その問いに一つの答えを出した
     人が居ます。
五木さん: あー。もう少しだ。・・・。アー見えた。
ナレーション: その人の名は、ゴーダマ・シッタールダ(パーリ語形。

     釈迦。仏教の開祖)。
      人々からは目覚めた人・仏陀と呼ばれました。
五木さん: 最後の階だ。・・・。アー・・・。
    ナマステ。ナマステー。

     (遠くから、経を上げる声が聞こえる)。

    (参考)ナマステ: サンスクリット語、インドやネパールで

        交わされる挨拶の言葉。
ナレーション:生きること、老いること、病(やまい)、そして死。
     人生は苦しみに満ちている。
     仏陀は、その苦しみと、「 共に生きること 」を説き
    続けました。
    (キリスト教は「人は生まれながらに原罪がある・救って
    貰う」とは違う)
五木さん: 「仏陀、さらまんがっちゃーみ」。「仏陀、さらまん
     がっちゃーみ」。・・・
      「何という静かな場所なんだろう」。
ナレーション: 作家・五木博之さん。

      仏陀が、最晩年に至るまで教えを説いたこの霊鷲山を

     初めて訪れました。
五木さん: ちょうど、齢80を迎える頃に、この霊鷲山に滞在し
     ていた仏陀は、そこから山を降りて、そして、大変困難
     な旅、ガンジスを超えて、北へ北上するという、6ヶ月・
     数百キロにおよぶ旅に出発する訳です。
      そして、その最初の出発点がこの霊鷲山。
      一体、仏陀が80歳になって何を感じ、そして、大変
     困難な旅に出発する、その最初の動機は何であったんだ
     ろうというふうに勝手に想像するんですが、人間という
     ものは、ある時期に達すると、自分の人生というものを
     振り返ってみながら、そして、その自分の人生の締めく
     くりという様なことを 否でも応でも感じない訳にはいか
     ない訳ですね。
      自分自身も、この70歳を超えて、仏陀が死を迎える
     死への旅である、そして、最後の旅である その仏陀の
     死の旅の足跡を、自分自身で歩いてみるということを自
     分の人生に重ねてみますと、何とも言えない不思議な感
     じがします。
      (霊鷲山にある仏像に手を合わせる、五木さん)
ナレーション: 悟りを開いて45年。常に布教・伝道の旅にあっ
     た仏陀。80歳で、ここ霊鷲山を立ちます。
      それが最後の旅になりました。
      苦難に満ちた旅の中で、仏陀その人は、いかに老いを
     受け入れ、病(やまい)に耐え、そして、どの様に死を
     迎えたのでしょうか。
      およそ2500年前、釈迦族の王子として生まれなが
     ら、出家し、苦行のはてに悟りをひらいた仏陀。
      その教えは、時を越え、多くの人々の中に広まって行
     きました。
      人は、何故、苦しむのか、苦しみと如何に向きあうの
     か。
      仏教2500年の歩みは、その問いかけの歴史でもあ
     りました。
      21世紀を迎えた今も、人々は変わらず多くの苦しみ
     を抱いています。
      その中にあって仏教は何をなし得るのでしょうか。
      シリーズ・21世紀・仏教への旅。第一集。
      作家・五木博之さんが 仏陀・最後の旅をたどります。
字 幕: 第一集 ブッダ最後の旅 インド
ナレーション: さまざまな伝説に彩られ、なぞに満ちた仏陀の生
     涯。しかし、その晩年については克明な記録が、いくつ
     かの経典として残されています。
      大般涅槃経や、ダイパリミッパーナ経。
      そこには仏陀の死と、最後の旅の様子が記されており
     ます。霊鷲山から旅立つ前、仏陀は弟子達を集め、悟り
     に至る道について次のように説きました。
        戒律と共に修行して
        完成された精神統一は 
        大いなる果報をもたらし、
        大いなる功徳がある。
        精神統一と共に修養された智慧は、
        偉大な果報をもたらし、
        大いなる功徳がある。
        智慧とともに修養された心は、
        もろもろの汚れ、すなわち、
        欲望の汚れ、
        生存の汚れ、
        無明の汚れから
       『 まったく解脱 』 する。 (つづく)