ページビューの合計

2015年12月4日金曜日

(増補版)255D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年5月~1862年9月)

題:*(増補版)255D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1862年5月~1862年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1862年6月6日、 ロンドン覚書調印
  兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市を5年延期する
 ことが認められた。
  1862年10月2日には、パリ覚書を締結した。
  幕府は、1858年に、開国を迫る欧米列強と相次いで
 修好通商条約を結んだが(安政五カ国条約)・・、
  その中で、幕府は、江戸・大阪(両都)の開市、新潟・
 兵庫(両港)の開港を約束していた。
  しかし、国内の経済問題や、政治問題によって、期限
 内の履行が難しくなり、これら開市・開港の延期を各国
 に求めた。
  文久遣欧使節団は、最初、フランスに赴き、仏外相と
 交渉するが、不調に終わった。
  その後、イギリスへ渡り、イギリス外相・ラッセルと
 の交渉の末、1862年6月6日に、ロンドン覚書を締結し、
 開市・開港の延期を定めた。
  そして、この後、イギリスの働きかけもあって、他国
 との交渉も進み、1862年10月2日に、パリ覚書を締結し、
 延期は一定の解決を見た。
  日本は、開市・開港の延期を認められたものの、代償と
 して、関税の不平等化を始めとする条項を認めさせられた。
  19世紀から20世紀初頭にかけて、イギリスやアメリカ
 などの帝国主義列強は、
  アジア諸国に対して、条約港の割譲や、在留外国人の
 治外法権を承認させるなど、
  また、領土の割譲や租借など、不平等な内容の条約を
 押し付けた。
  その中には、片務的最恵国待遇もあった。
  憲法及び法典(民法、商法、刑法など)を定めている
 先進国側が、
  それらの定められていない、あるいは整備の進んでい
 ないアジアの国々において、自国に有利な条約を締結し
 た。
  不平等条約は、具体的には
  (1)「関税自主権を行使させない」ことや、
  関税自主権を行使させないことを、俗にいえば、日本
 で、ある外国の商品を売ると、日本は、その商品を安く作
 れないから、日本人はその国の商品をどんどん買う。
  その場合、その外国は売れて儲かるから、どんどん輸
 出する、当然、日本の生産者は売れなくなって破産する。
  その様な場合、日本は、その様な外国商品に関税をか
 けて、日本の商品も売れる様な値段にバランスをとる。
  しかし、関税自主権の行使させないという事は、その
 様に、関税を掛ける行為を行わせないということ。
  (2)「治外法権(領事裁判権)などを認めさせる」
 などだった。
  治外法権というのを、俗に言えば、日本にいる外国人
 が、日本で悪いことをしても、日本の法律に服さないと
 いうこと、勿論、日本の裁判にもかからないということ。
  日本で殺人をしても、さっさと帰国してしまうという
 こと。
  そして、今・現在でも、日本にある米軍基地に関して
 言えば・・、
  在日米軍の構成員、及び、軍属が、基地内部で起こし
 た犯罪、および「公務中に基地の外で起こした犯罪」に
 対しては、『日本の法律が適用されない』という治外法
 権が存在する。
  客観的にはそうでなくても、アメリカ軍当局が、「公
 務中である」と主張した場合、日本は受け容れざるを得
 ない。
  あるいは、犯罪を起こしても、米軍施設敷地内に逃げ
 込めば、米軍施設内では、アメリカの憲兵隊、及び、軍
 犯罪捜査局が第一管轄権を持ち、日本の警察が、関与す
 ることは出来ない。
  そして、この話を戻して続けると・・、
  歴史的には、イギリスと清国が、アヘン戦争後の1842
 年に、南京条約を結んだが、これが「不平等条約」の典
 型的な、また、見本的な最初となった。
  やはり、イギリスがやったのが最初の不平等条約で、
 領土の割譲から、治外法権、片務的な最恵国待遇や、関
 税自主権を奪ったり、この後、次々を附属協定を結ばせ
 て行った。
  日本も、欧米の様な近代法など諸原則が存在しておら
 ず、また、関税という概念が十分でなかったため不平等
 条約を結ばされた。
  治外法権も認めさせられており、明治期の初期に、早
 くから条約改正の外交の『問題』として取り上げられる。
  欧米列強は、朝鮮とも、多くの不平等条約を結んでい
 るが、1910年に結んだ日韓併合によって、この多くの朝
 鮮の不平等条約の「大部分が無効」となった。
  日本は、明治期になって、鹿鳴館など、欧米化の姿を
 見せながら、この不平等条約の改正に向かって涙ぐまし
 い努力をして行く。
  今・現在でも、利を求めた、自分の利益だけを求めた、
 そして、自分だけ都合の良い理屈によって、さも公正な
 ような条約を求めて来る動きが存在する。
1862年6月26日、第二次東禅寺事件
  再び、イギリス国公使館で事件が起きた。
  東禅寺の外国人(イギリス人)警備の松本藩の藩士・
 伊藤軍兵衛は、
  多大な費用の出費を要求し、強くしいる公使館に対し、
  (東洋人蔑視、有色人種蔑視の意識である)
  この自藩が多くの出費を強いられていることと、
  および、外国人のために、日本人同士が殺し合う事態
 が耐えられなく・憂い、
  公使を殺害して、自藩の警備の任を解こうと考えた。
  この日の夜、代理公使のジョン・ニールの寝室に侵入
 したが、警備のイギリス兵2人に発見され、この二人と戦
 闘になり、
  伊藤は、この二人を倒したが、自分も負傷し、番小屋
 に逃れて、翌30日に自刃した。
  イギリスは、幕府に賠償金を要求した(幕府も警備し、
 自ら・イギリスも警備し、賠償問題にはならない訳なの
 だが・・イギリスは要求した)
  幕府は、警備責任者を処罰し、イギリスとの間に賠償
 金の支払い交渉を行ったが、まとまらず、
  紛糾するうちに、生麦事件が発生したために、
  幕府は、翌1863年4月、生麦事件の賠償金とともに、
 10万ポンドを支払うこととなり、話がまとまり、事件は解
 決した。
  幕府は、不本意であるが、しっかり責任を果たした。
  しかし、イギリスは、時の国の政府の幕府から金を貰
 って事は終わったはずなのに、薩摩藩からも金を取る。
  この事のいざこざで、薩英戦争が起きる。
  日本をまったく馬鹿にしている行為だった。
  金を貰って解決している問題に、いちゃもんを付けて、
 自分の優越している武力を行使するという行為だった。
  この様な事が起きない様にと、幕府は、穏便にと、金
 を払って、話を付けていたのだが・・、
  生麦事件にしたって、日本の法や、慣習を知らなくて、
 守らないところに、問題が、原因があるのだが・・、優
 越意識で、好き勝手放題を言った。
1862年7月3日、島津久光が江戸に到着し、幕閣との交渉を、
 開始した。
  公武合体運動推進のため、兵を率いて上京す(4月14日
 鹿児島発、5月14日京都着) ...
  出府に先立って6月9日、通称を和泉から三郎へと改め、
  その上で、6月18日に、勅使・大原重徳に随従して京都
 を出発、7月3日に、江戸へ到着した。
1862年7月、勝海舟、二の丸留守居格、軍艦頭取布衣世禄
 采地と蔵米と合わせて百俵に加増、勤中五百俵高(氷川
 清話)
  順調に出世する勝海舟。
1862年7月6日、シーボルトの子連れの来日
  シーボルトが、オランダ貿易会社長崎支店顧問として、
 子のアレキサンダとともに再来日した。
1862年7月、グラバーさん、牛が食べたかったのか? 
  グラバーらの発起によって、戸町村字古川海岸に、外
 国人の食用のための解牛場(屠牛場)を開設した。
  許した幕府は優しかった・・、敷地:戸町村古河海岸
 の500坪(約1650平方米)の土地を借り受けて実施した。
  今、クジラが食べられない日本、
  このクジラだって食べたいよ。文化だよ、食文化・・
 これを奪うのだから・・?? オーストラリアの何とか
 が、卑劣な事をしている。伝統のクジラ漁などに嫌がら
 せをしている。
1862年7月、コレラが流行し、養生所で施薬した。みんなの
 ために・・、
1862年8月1日、一橋刑部卿、将軍補佐(氷川清話)
  慶喜登場! 一橋刑部卿は、徳川慶喜のこと。
  三事策に基づき、一橋慶喜が、将軍後見職になった。
1862年8月4日、松平春嶽、政事総裁となる(氷川清話)
  松平春嶽が、新設の政事総裁職に就任し、
  慶喜と共に、京都守護職の設置、陸奥会津藩主・松平
 容保守護職就任、将軍・徳川家茂の上洛など公武合体政
 策を推進する(文久の改革)。
  春嶽は、熊本藩出身の横井小楠を、政治顧問に迎え、
 藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重視した。
1862年閏8月、文久の幕政改革
1862年閏8月、京都守護職を置いた。
  松平肥後守、京都守護職となる(氷川清話)
1862年閏8月、露公使、柳営(りゅうえい、将軍)に引見す
 (氷川清話)
1862年閏8月、戸田大和守、山陵奉行となる(氷川清話)
  山稜は、職名の1つで、天皇・皇后などの墓や御陵の
 こと。
1862年閏8月、勝海舟、軍艦奉行並命ぜられ勤中千俵高(氷
 川清話)
1862年閏8月、参勤交代をゆるめ、妻子の帰国を許す。
1862年9月11日、幕府最初の海外留学生らが、長崎からオラ
 ンダに向かった。勉学に勤(いそ)しむ日本、それを、
 させる指導者。
  内田正雄、榎本武揚、赤松則良ら11人(海軍)、津田
 真道、西周(法学)、伊東玄伯、林研海(医学)
  1863年4月18日に、到着した。
1862年9月14日、生麦事件
  東海道の沿道・生麦村(現在の横浜市鶴見区)で発生。
  島津久光の薩摩藩の行列(供の人数700余人)に午後
 2時頃、英国人のW・マーシャルら4人が、この大名行列を
 横切り、当時の『最大の非礼』であったため、斬られた。
  一人が死亡し、二人が傷を負い、一人は無傷で逃げた。
  閏8月、島津久光従士、生麦において英人を斬る(氷川
 清話)
  1863年5月、イギリス公使代理のジョン・ニールは、幕
 府から賠償金10万ポンドを受け取る。
  1863年8月6日、薩摩からも取ろうと、ジョン・ニール 
 は、薩摩藩との直接交渉のため、7隻の艦隊とともに、
 横浜を出港(威圧をしたいのだ、もっと金が欲しいのだ)。
  1863年8月11日、イギリス艦隊は、鹿児島湾に到着し、
 鹿児島城下の南約7粁の谷山郷沖に投錨した。
  1863年8月12日、イギリス艦隊が前進、鹿児島城下前之
 浜約1粁沖に投錨。
  艦隊を訪れた薩摩藩の使者に、イギリス側は、国書を
 提出(イギリスという国を挙げての脅し行為だ)。
  生麦事件犯人の逮捕と処罰、遺族への賠償金2万5千
 ポンドを要求
  薩摩藩側は、回答を留保、翌日に鹿児島城内で会談を
 行う事を提案する。
  1863年8月13日、イギリス側は、城内での会談を拒否、
 早急な回答を求める・・この後に、交渉が決裂し(これ
 が正しい、もう話は決着している、正義は薩摩にあり)
  1863年8月15日、イギリス艦隊7隻が、鹿児島湾で薩摩
 藩と戦う(薩英戦争)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年12月3日木曜日

(増補版)254D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年~1862年5月)

題:(増補版)254D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年~1862年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  結局、イギリスやアメリカに、こんなに歴史上の汚点
 が多く、日本に誇れるところが多いのは、依怙贔屓(え
 こひいき)ではありません。事実です。史実なのです。
  結局、考え方・思想・宗教に、この違いが由来するの
 です。
  性悪説と性善説の違いです。
  その宗教の違いから派生する考え方や、思想の違いで、
  人間をどの様にとらえるか?・・という根本・基本に
 おいて、性悪と性善で、取るべき行動は、当然、違って
 来ます。
  性悪は、その性悪によって、結果は性悪になり、
  性善は、その性善によって、結果は性善になる。
  キリスト教は、性悪説に基本的考え方を置く宗教で、
 累々と横たわる戦争や殺戮の歴史。
  また、キリスト教を信じるキリスト教国のその行為、
 そして、その歴史・・、
  それを見れば、自(おの)ずから、何が良くて、何が
 悪いのか?・・が、分かります。
  そして、その事実・史実を元に、放送大学が嘘講義を
 する(前回の本ブログを参照ください)、NHKがキリ
 スト教に偏する放送をする、そして、読売新聞が、嘘で
 間違いの話で作り上げた杉浦千畝の映画の後援をする。
  そして、今日の年表は・・、
1862年(文久2年)1月21日、第1回遣欧使節
  (文久遣欧使節、開市開港延期交渉使節)が、長崎を
 出帆した。
  (注意)本項目を、前回、旧暦の1861年12月22日で記
 してしまいました。訂正いたします。
   正使:竹内保徳(勘定奉行兼外国奉行)、副使:松平
 康直(神奈川奉行兼外国奉行)、目付:京極高朗、
  そして、咸臨丸で渡米した福沢諭吉や、通訳として福
 地源一郎、翻訳官として箕作秋坪、松木弘安(寺島宗則)
 らが加わった。一行総員36人。
  香港~インド洋~スエズ~マルセイユを経て、パリに
 入り、更に、ロンドンを訪問した。
   そして、オランダからベルリンを訪ね、北上してロシ
 アの首都ペテルスブルグへ
  帰途は、パリから、ポルトガルの首都・リスボンを経
 て、往路と同じ道をとった。
  6か国を公式に訪問し、12月10日に、江戸・品川に帰
 った。
1862年1月、皇妹和宮降嫁の勅諭(氷川清話)
1862年2月13日、坂下門外の変
  浪士、坂下門外に、老中安藤対馬守(信正)を要撃す
 (氷川清話)
  公武合体派の老中・安藤信正、水戸浪士に襲われ負傷。
  4月11日、老中を罷免される。
  この変の背景は、桜田門外の変で、大老・井伊直弼が
 暗殺された後、
  老中・久世広周と共に、幕閣を主導した信正は、直弼
 の開国路線を継承し、幕威を取り戻すため公武合体を推
 進していた。
  この政策に基づき、幕府は、和宮降嫁を決定したが、
 尊王攘夷派志士らは、これに反発し、信正らに対し憤激
 していた。
1862年3月11日、公武合体の象徴として、皇女・和宮親子内
 親王が御降嫁された。
  公武合体策により、和宮が婚礼した。
  将軍、和宮と婚す(静寛院宮)(氷川清話)
  婚礼が行われた様子は、それまでの13代の将軍たちの
 婚儀とは異なっていた。
  和宮が、征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地
 位で降嫁されたため、
  嫁入りした和宮が主人という立場になり、
  また、嫁を貰う立場の将軍・家茂が、客分という、逆
 転した立場で行われることとなった。
  これは、後々まで、江戸城内において様々な形で尾を
 引くこととなる。
  この後、京都では、尊王攘夷を唱える志士が、各地か
 ら集まる事態となり、町は騒然となった。
  朝廷は、薩摩藩の島津久光に市中の警備を依頼した。
  これに応えて、朝廷の信頼を得た久光は、京へ上るが、
 自身が構想する幕政改革案を献策した。
  それは・・、
  1.将軍が、諸大名を率いて上洛し、国事を議する。
  2.沿海5大藩の藩主を、大老に任じて国政に参加させる。
  3.一橋慶喜を、将軍後見職に、松平春嶽を、政事総裁
   職に任じ、将軍の補佐にあたらせる。
  この3ヶ条を、朝廷に献策した。
  朝廷は、これを幕府に要求するため勅使・大原重徳を
 江戸に派遣した。
1862年4月22日(旧暦:3月24日)、坂本龍馬が脱藩した。
 (竜馬がゆく・2)
  脱藩は、罪が親類縁者におよぶ行為。
  龍馬は、1862年2月に、その任務を終え、土佐に帰着し
 た。
  しかし、この頃、薩摩藩国父・島津久光の率兵上洛の
 知らせが土佐に伝わった。
  この行為が、「土佐藩は二の足を踏んでいる」と、感
 じていた土佐勤王党同志の中には、脱藩して、京都へ行
 き、薩摩藩の『勤王義挙』に参加しよう・・とする者が
 出て来た。
  実際、これは、島津久光が、幕政改革を進めるための
 率兵上洛であったのだが、
  尊攘激派の志士の間の、討幕の挙兵と勘違いしたもの
 だった。
  これに参加するべく、まず、吉村虎太郎が、次いで、
 沢村惣之丞等が・・脱藩し、
  彼らの誘いを受けて龍馬も、脱藩を決意したものと考
 えられる。
  脱藩とは、藩籍から離れて、一方的に主従関係の拘束
 から脱することであり、
  脱藩者は、当然、藩内では罪人となり、
  更に、藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われる
 ことになった。
  武市半平太は、藩を挙げての行動を重んじ、草莽(そ
 うもう、草莽の臣=在野の人、自分をへりくだって言う
 語)の義挙には望みを託さず、脱藩には賛同しなかった。
  龍馬の脱藩は、文久2年(1862年)3月24日のことだっ
 た。
1862年5月6日、土佐藩の吉田東洋が暗殺された(竜馬がゆ
 く・2)
  吉田東洋は、先進的な開国派で、尊王攘夷を重んずる
 武市半平太とはまったく相いれなかった。(注意)司馬
 遼太郎氏は、旧暦で書かれている様なので注意したい。
 これは直しています。
1862年4月29日、幕府が、初の上海渡海互市(交易)のため
 長崎からバーグ型帆船「千歳丸」(358積瓲)を、上海へ
 向けて派遣した。
   開国後、初の官営貿易の試みだった(1861年?)
   千歳丸には、幕府使節や長崎の中堅商人が乗組み、他
 に、藩命による長州藩・高杉晋作、薩摩藩・五代才助、
 佐賀藩・中牟田倉之助らの総員51人が乗組んだ。
  5月6日に、上海到着し、8月9日《07/14》に、長崎帰着。
  試売品は、水産物、雑貨類で、返り荷は綿・毛織物類
1862年4月、尾州、志州沿海測量(氷川清話)
1862年4月、内田恒次郎、榎本釜次郎、赤松大三郎等数名、
 和蘭に遣し、造船監督等諸術を研究させる(氷川清話)
1862年4月、将軍、米公使を柳営に引見す(氷川清話)
1862年、幕府、参勤交代制度を緩和(3年に1回出府など)
  諸侯、参勤交代変更(氷川清話)
1862年5月14日、島津久光が入京(1回目の入京)
  薩摩藩の最高実力者である島津久光は、公武合体推進
 のため藩兵を率いて入京した。
  朝廷が、幕府に三事策を求めた。
  事前に、大久保一蔵を使者にたて、上京の勅許奏請を
 工作したが、婉曲に断られた。
  天朝の危機に、勅命を奉じて幕政改革を実行させる意
 欲のもと独断で京都へのぼった。
  志士の動向に怯えていた朝廷は、久光へ浪士鎮撫の勅
 命を与えた。
  ただ、気がかりは、薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発であ
 り、有馬新七は、薩摩藩を尊攘派に引きずりこむために
 テロを計画し、酒井所司代と九条関白を対象とした。
  監視をつけて、説得にあたらせたが、尊王攘夷派は、
 上京して船宿に入ったため粛清をした(寺田屋騒動)。
  久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原
 重徳が遣わされるという事態となった。
  幕府側には、それを拒否する力は無く、安政の大獄で
 失脚した徳川慶喜を、将軍後見職、松平春嶽を政事総裁
 職、松平容保(会津藩主)を京都守護職とするなどの人
 事を含む改革を余儀なくされた(文久の改革)。
  一方、久光率いる薩摩藩兵は、帰国途中の1862年9月
 14日(文久2年8月21日)生麦村で、行列を横断しようと
 した英国人に斬りつける事件を起こす(生麦事件)。
  京都へ凱旋した久光だが、京都は、尊王攘夷派に政局
 が占拠されていた。
  即ち、桂や久坂、真木和泉のため長井は失脚させられ
 長州の藩論は、尊王攘夷へ転換されていた。
  憤りが収まらない久光は、鹿児島へ引き上げた。
  久光の改革案には、将軍の上洛が含まれていたが、三
 条実美・姉小路公知ら尊王攘夷派の過激公卿を奉じた長
 州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍
 上洛運動を強要した。
1862年5月21日、寺田屋騒動
  島津久光が、公武調停を企図、その途次に寺田屋騒動
 が起こった。
  島津久光、伏見寺田屋にて浪士を鎮撫す(氷川清話)
  文久2年4月23日(1862年5月21日)に、薩摩藩尊皇派が
 薩摩藩主の父で事実上の指導者・島津久光によって鎮撫
 された事件。「寺田屋騒動」とも言う。
  藩兵千名を率い上洛した久光は、日本中の尊王派の希
 望をその身に背負っていた。
  しかし、久光には、この当時は倒幕の意志はなく、公
 武合体がその路線であった。
  また、久光は、秩序を重んじる厳しい性格で、すでに
 西郷隆盛、村田新八、森山新蔵を捕縛して、大阪から帰
 藩させるように命じて粛清しており、
  京都の志士の思惑とは、全く趣を異にした考えの持ち
 主であった。
  それで4月13日に、伏見に到着した久光は、16日に入京
 し、まず朝廷より志士鎮撫の命を授かっていた。
  この展開に、驚愕した薩摩藩の過激派は、憂国の念か
 ら憤激し、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介らは、諸藩
 の尊王派志士、真木和泉・田中河内介らと共謀して、関
 白九条尚忠と京都所司代酒井忠義を襲撃して、その首を
 持って久光に奉じることで、無理矢理にでも蜂起を促す
 ということに決した。
  この襲撃の前に、根城としていた薩摩藩の二十八番長
 屋から出て、伏見の船宿・寺田屋に集まることを計画し
 ていたが、当時、寺田屋は、薩摩藩の定宿であり、この
 ような謀議に関しての集結場所としては、格好の場所だ
 ったようだ。
  志士暴発の噂を聞いていた久光は、側近の大久保一蔵、
 海江田武次、奈良原喜左衛門を、次々に派遣して説得を
 命じ、藩士を抑えようと試みたが失敗した。
  23日、薩摩藩邸では、永田佐一郎が翻意し、決起を止
 めようとしたが止められなかったために、切腹した。
  これによって、計画の決行日が迫ったことを知った在
 番役・高崎左太郎、藤井良節(工藤左門)の二人は、急
 ぎ、京都に注進した。
  久光は、驚き、出奔藩士を藩邸に呼び戻して、自ら勅
 旨と、今後の方針を説明して説得しようと考えたが、
  一方で従わぬ場合には、上意討ちもあると言い含めて、
 奈良原喜八郎・大山格之助・道島五郎兵衛・鈴木勇右衛
 門・鈴木昌之助・山口金之進・江夏仲左衛門・森岡善助
 の、特に、剣術に優れた藩士8名を、鎮撫使に選び、派遣
 することにした。
  奈良原、道島、江夏、森岡が本街道を、大山、鈴木、
 山口が、竹田街道を進んだ。
  後から、上床源助が志願して加わり、計9名となった。
1862年5月、蕃書調所を一橋門外に移し、洋書調所と改称す
 (氷川清話)
1862年5月、営中衣服制度を変更す(氷川清話)
1862年5月、仏兵式により歩騎砲3兵隊を編成す(氷川清話)
  高野長英が翻訳した兵書にある「三兵戦術」
  プロイセンの陸軍将校ブラントの戦術書。
1862年5月、小笠原諸島の領有を宣言した。
  幕府が、水野忠徳を小笠原諸島に派遣し、翌年の1862
 年5月に、再び、領有を宣言した。
  日本が、領有を宣言した当時、すでに、イギリスが領
 有し、アメリカ人が入植していた。
  小笠原島の歴史は・・、
  1543年、スペイン船によって発見。
  1670年、紀州のミカン船が漂着、
   この報告をもとに幕府は5年後の1670年に・・、
  1675年、この小笠原島に探検船を派遣して、領有宣言
   した。
  1727年、長崎のオランダ商館の医師ケンペルが、この
   日本人による発見のニュースを『日本誌』に書いて
   ヨーロッパに伝えた。
  1827年に、イギリスが領有宣言。
  1827年、イギリスの探検船が発見し領有宣言したが、
   ケンペルが伝えた1675年の日本の領有宣言があるた
   めイギリス政府は正式には認めていない。
  1830年に、アメリカ人とハワイ人(当時ハワイは独立
   国)が入植。
  1830年に、アメリカ人ら25名が入植。
  1853年、ペリー寄港。
  1853年、ペリーが父島に寄港して、現地のアメリカ人
   から貯炭所用地を買収。
  1862年、外国奉行が測量。
   開国後、幕府は、1862年、外国奉行が測量し、日本
   人開拓民を送り込んだ。
  1876年、日本による領有を関係国に通知した。
  明治になって、1876年、日本による領有をあらためて
 英米等に通知した。
  小笠原に入植したアメリカ人の子孫は、日本に帰化し
 ている。
1862年5月、オランダが、混血児をオランダ人と認めず。
  老中、安藤対馬守から長崎奉行所へ
  1)混血児は年令の長幼にかかわらず、すべて父の外
 国籍とし日本人の人別に加えぬ積もりであることを外国
 領事へ談判せよ
  2)混血児出産の場合はその度に届出、居留外国人の
 人別増減を1年一度づつ各国領事から報告させること
  そして、後に、長崎奉行が、領事と交渉したが、オラ
 ンダ領事は、遊女との間の混血児を、オランダ人として
 承認することを拒絶した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年12月1日火曜日

(増補版)253D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年~1861年)

題:(増補版)253D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年~1861年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1861年12月8日、毛利慶親が、書を幕府に呈し公武合体を促
 し国威宣揚の基礎を樹てんと建白す
1861年12月19日、幕府の咸臨丸が、小笠原島の統轄のため
 同島父島着(日本領土たるを明らかにす)
  幕府に、何が大事かを見る者が居た、また、
  それをさせた幕府が存在した。
 (注)統轄:とうかつ、一つにまとめて権限をもって支
 配すること。また、その支配の及ぶ範囲。
1861年12月22日、文久遣欧使節・・いよいよ、不平等条約
 への日本の反抗が始まる。
  (訂正):これは旧暦であったので、新暦の1861年1月
 21日に変更します。
  反抗行動の開始は早かった、条約締結直後の江戸幕府
 時代に始めていた。ここにも日本の俊英が居た。
  (第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)(1862年1
 月21日説あり)
  開港問題談判のため、遣欧使節:竹内保徳、松平康直
 等が英艦にて江戸湾を発航す
  この第1回遣欧使節は、江戸幕府が、オランダ、フラン
 ス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条
 約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両
 都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、
  ロシアとの樺太国境画定交渉のため、1862年に、ヨー
 ロッパに派遣した最初の使節団である。
  正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見
 守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であっ
 た。
1861年12月30日、幕府が、毛利慶親に公武周施を依嘱す
  日本の行く末の模索。幕府は積極的だった。
1861年、軽罪者を蝦夷地に移す(氷川清話)
1861年、将軍、米国公使を柳営に引見す(氷川清話)
1861年、横浜の生糸と、長崎の茶が主要な輸出品となる。
1861年、世界を知ろうとする竜馬
  竜馬は、暇さえあれば河田小龍の屋敷に遊びに行った
 (竜馬がゆく・2)
  坂本竜馬(26歳)は、帰郷後、武市瑞山らの尊攘派に
 加わった。
  この間、画家・河田小龍らから海外事情について知る
 ところがあった。
  坂本龍馬の生き方を決定し、大いに目を開かせた人物
 は、国元の河田小龍だった。
  竜馬は真っ先にこの人物に会った。
  小龍は、米国船に拾われ、米国に長期滞在して帰国し
 た中浜万次郎の事情聴取にあたり、藩内一の外国通とし
 て知られていた。
  竜馬は、小龍から聞いた外国事情はすべてが新鮮な価
 値観にあふれ頭が割れんばかりの情報であった。
  科学文明の発達ぶり、自由、独立の精神、入札(いり
 ふだ)で選ぶ議会制度などなど。
  その様な国を相手に本当に攘夷ができるのか?
  小龍は、「攘夷などできる訳がない」ときっぱりと言
 った。
  開国はやむを得ないが、一刻も早く軍備、特に海軍力
 を整えなければ、いずれ西欧列強に植民地化される危険
 がある・・と告げた。
  現実に黒船を見て、小龍に西欧科学、政治システムの
 優秀さを聞いた竜馬は、危機感をつのらせた。
  「でも、どうすれば」良いのか?
  「商売だ。そして、資金を作り外国船を一隻買って交
 易し、金もうけをしながら船を増やし、商い量を増やし、
 そして、航海術術も身につけ、そして、一日も早く諸外
 国と対等に渡り合えるようになる」。
  小龍が説くのは、幕閣や藩の重役などにはない、極め
 て現実的な方策であった。
  小龍は、人材に関しても、「藩や上士をあてにしては
 駄目だ。
  広く一般から有志を募る「それが民主主義」と、竜馬
 を啓発した。
  そして、竜馬は、何をやればよいのかの端緒を知る、
  そして、何を目ざせばよいのかの端緒を知る、
  しかし、よく考えれば、民主主義は、竜馬らの町の主
 (あるじ)たちの連盟が、その考えに行き着いて居り、
 その形態をすでに持っていたこと、そして、やっていた
 こと、そして、竜馬の体にその感覚が、すでに、存在す
 る事を知る。
1861年、坂本龍馬が、久坂玄瑞に会う。
  久坂玄瑞(くさかげんずい、吉田松陰の妹婿)
  吉田松蔭に学び、松蔭に愛されて、その妹と結婚。
  松下村塾の逸材。貧録の藩医の家に生まれた。
  その頃、坂本龍馬は、親友・武市半平太に頼まれ長州
 藩尊攘派のリーダー久坂玄瑞を訪ねた。
  玄瑞は、師である松蔭の主張する「諸公や公卿をあて
 にしていても駄目。下級の民衆が決起するしかない。
  その為に藩が潰れてもやむを得ない」という意見を告
 げた。
  当時、国と言えば藩であった。
  玄瑞は、試行錯誤の末、ようやく、藩意識を捨て、日
 本国そのものの危機に立ち向かおうとする師・松蔭の思
 想に到達した。
  竜馬も、玄瑞の決意に賛同し、帰国して半平太に説い
 たが、半平太はかたくなに一藩勤王に執着し、運動の障
 害になっている参政の吉田東洋を斬るという。
  竜馬は絶望し、半平太と決別して脱盟し、やがて脱藩
 を敢行した。
1861年、内村鑑三(うちむらかんぞう)が生まれた(1861
 年~1930年)
  プロテスタント系キリスト教思想家で、無教会主義を
 となえる立場を取った。
  アメリカ・メソヂスト監督教会の宣教師M.C.ハリスよ
 り受洗した。
  メソヂスト監督教会は、アメリカ独立戦争によって、
 イングランド国教会との関係が断たれたため、アメリカ
 独自の組織ができた。
  イングランド国教会に忠実であれという立場の信徒と
 の軋轢(あつれき、仲が悪くなること)の中に設立され
 た。
  また、ローマ・カトリック教会(バチカン)との関係
 も不必要として断絶した。
1861年、ロシアが、農奴解放令を発した。
  ロシア皇帝・アレクサンドル2世によって発せられた。
  農業において資本主義的発展を欲するならば、農奴制
 を取っていたなら、それが達成できないと、農奴解放令
 発した。農奴農民は解放された。
1861年3月、イタリア王国の成立
  国民の大多数は農民、それも、その大多数は貧困な農
 民層だった。
  この層社会の人達は、反体制的にならざるを得なかっ
 た。
  そして、イタリアという地域は、種々な経過をたどる
 が、ゴート族やランゴバルド族の国家だった。
  その国家は、集権的な行為を露骨に行った。
  また、社会的矛盾もあり、19世紀中期以降、オースト
 リアの支配に対するイタリア解放戦争がはじまり、1861
 年に、国王ビットリオ・エマヌエレ2世の下で統一に成功
 した。
1860年代、搾取されるアジア各国
  欧米列強のキリスト教国家は、アジア各国の搾取に邁
 進していた。
  日本の志士、叡智たちは、維新の前夜の日本の叡智た
 ちは、その様な世界を知っていた。
  そして、共同の理念を持っていた・・その日本に・・
  幕府には、フランスが、
  また、薩長にはイギリスが、
  資金や援軍の提供の申し入れがあった。
  しかし、両者は固く辞退した。
  両者とも、何と、その事態の悪さを見抜いていた。
  日本の叡智は、その両者の叡智は、その問題を知って
 いた。
  敵味方は、心をひとつにしていた。
  また、キリスト教欧米文明の唱えた「民主主義」も、
 「自由主義」も、「民族自決」も、「門戸開放」も、
  そのすべてが、半分しかの真実性を示さず、
  半分は、しょせん嘘だった。
  アジアの『民族自決』は、特に、まったくと言ってい
 いほど認められていなかった。
  民主主義や自由主義だって、アジアのどの国にも、ア
 ジアの国には導入すらされず、
  アメリカ・ヨーロッパのキリスト教文明国家の手で行
 なわれた事と言えば、「搾取」だった。
  富の強奪だった。
  門戸開放も、門を開けて、富を取れるだけ取るという
 意味だった。
  これを、アメリカは主張した。
1861年、アメリカは、清の市場(中国)からの無限の富み
 に目がくらんでいた。
  清(中国)へ向かうの利益収奪の船が年々増大した。
  この年、アメリカは、554万トンの商船を保有していた。
  これは、イギリスの保有トン数590万トンに追い付いて
 いた。
  この米英以外の、全世界諸国の保有が580万トンだから、
 アメリカは、世界商船総トン数の3分の1を所有する商船
 国だった。
  この中国への往来は、当然、中国人労働者が、にわか
 に多数となってアメリカに流入した。
  この後に、この中国人労働者が、アメリカで虐げられ
 る。
  そして、その嵐が、次に、日本人に対して意味もなく
 向けられて行くことになる。
1861年~1865年、アメリカの南北戦争(~1865年に終結)
  南北戦争が勃発したあめりかは・・、
  勃発の原因は、リンカーンの奴隷解放と言われている
 が、間違い。
  実際は、経済戦争であった。
  当時の南部諸州は、綿花、コーヒー、煙草などの農産
 物の輸出国として成功していた。
  これに対して、北部諸州は、工業化の道を歩もうとし
 ていた。
  アメリカは、英国をはじめとして、既に産業革命を成
 し遂げていたヨーロッパ諸国に『遙かに』後れを取って
 いた。
  南部は、貿易黒字であった、しかし、北部は・・?
  南部は、より貿易を拡大するための自由貿易主義を求
 めていた。
  対する北部は、競争力の弱い工業を育てるために、『
 保護主義』を主張した(今のTPPと逆だ)。
  もし米国が、北部人が言う保護主義をとれば、ヨーロ
 ッパ諸国も、当然、報復のために米国農産物に高い関税
 を課すことが予測された。
  南部人の南部諸州としては、保護主義は致命的な損失
 を意味した。絶対、避けたかった。利益のとりっこの戦
 争だった。。
  つまり、経済と貿易を巡って、南部人と北部人の・・、
  南北の深刻な政策上の対立が起きた。
  これが真の戦争原因であった。背に腹はかえられなか
 った。。
  経済的利害がからまなければ、黒人奴隷解放の理念だ
 けで、戦争が起きる訳がない。
  戦争は起きなかった・・絶対に・・避けたいのが当然
  ここは、本当に、プロパガンダされている。
1861年3月4日、アメリカ合衆国の第16代大統領にエイブラ
 ハム・リンカーンが就任する(~1865年4月15日)
  リンカーンは、「奴隷解放の大統領」と言われている
 が、これは作られた話である。
  「奴隷解放の父」などと言われているが、リンカーン
 にとって奴隷解放が第一の政策の様に言われるのは・・
 間違い・・プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  リンカーンが・・奴隷解放に関して、どんなことを言
 っていたかの一例が下記である、
  リンカーンの黒人奴隷の解放に関する発言:
  「私は、白人種と黒人種の社会的政治的平等を如何なる
 形でも、もたらすことに賛成はしていないし、これまで
 もそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも陪審員にすることに
 も、賛成していないし、
  彼等が(黒人の方々が)役職者になる資格を与えるこ
 ととか、白人と結婚するとかいうことにも賛成しておら
 ず、これまでもそうだった。
  さらには、白人種と黒人種の間には身体的な違いがあ
 り、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮ら
 すことを永久に禁じることになる・・と考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」。
  何と、リンカーンは「奴隷解放に賛成していない」と
 言っている。
  そして、「過去からそう思っていた」とまで言ってい
 る。
  そして、「黒人に政治に参加する事にも賛成しない」
 と言っているし、
  「司法への参加〈陪審員になる事〉にも賛成しない」
 と、
  黒人の方々の政治と司法などの三権に黒人の方々の人
 権を認めていないと言っている。
  そして、奴隷という「人権剥奪行為」についても、
  奴隷解放に賛成していないという人だった。
  何故、こんな人が、「奴隷解放の父」なのだろうか?
  完全に、作られた名声なのだ。
  真実は、奴隷解放をしたのは、黒人の方々が、自ら行
 ったのだった。
  公民権回復も黒人のキング牧師が活躍し、暗殺されて
 しまったが、黒人のこの方の功績なのである。
  リンカーンは、人道主義的な行動をとる人ではなかっ
 た。
  子供の時に、目の前でリンカーンのおじいさんが殺さ
 れたので、一生、リンカーンはインディアンの方々に恨
 みを持っていた。
  大統領になる前の弁護士時代は、法律を駆使して、イ
 ンディアンの方々の土地を取り上げていた。
  インディアンの方々の土地の権利の抹消処理を多数行
 っていた。
  リンカーンは、弁護士時代から大統領時代にかけて、
  インディアンの土地取り上げに奔走している。
   ことに、西部方面への、インディアン領土への、鉄道
 拡張に関して、インディアンの土地権利の抹消処理を、
 多数、手がけた。
  リンカーンが、「無効(neutralized)」としたインデ
 ィアン部族の土地に対する書類は、現在でも、数多く残
 されている。
  また、常に、徹底排除の姿勢を崩さず、彼らの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
   民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホや、
  ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争は、
 リンカーン政権下で行われた。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始、徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指
 揮している。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所だった。
  また、
  リンカーンは、ミネソタのダコタ族との連邦条約を一
 方的に破棄して、
  ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、
  彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連
 行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
  州を挙げての「皆殺し政策」が行われ、
   女性や子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。
   リンカーンは、
   この虐殺方針に対しても、責任者として、全く異議を
 唱えなかった。
  1863年、この夏、
  リンカーンは、ジェームズ・カールトン准将に、南西
 部のナバホ族インディアンの討伐を命じた。
  ナバホ族は、ダコタ族同様に、抵抗していた。
  カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると睨んで
 おり、以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動
 の際と同様、司令者であるリンカーンはこれを是認した。
  1864年、リンカーンは、
  ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル)離れ
 た東にあるアパッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」
 への徒歩連行を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ)。
  この強制連行の途上で、数百人の死者が出たが、
  そのほとんどが子供や老人だった。
  「ボスク・レドンド」で、ナバホ族の方々は、強制労
 働を課され、
  女性は、米軍兵士から強姦され、
  また、乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環
 境下で死んだ。
  結局、リンカーンの死後の1868年に、和平条約が調印
 されるまでに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
  など、多数のリンカーンの先住民・インディアンいじ
 めの事例が多々ある。
  そしてまた、リンカーンは、
   白人と黒人が平等であるとは思っていなかった。
   リンカーンは、はっきり
  「奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する」と発
 言もしている。「奴隷解放の父」ではない。
  また、
  「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、し
 かし、
  奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるよりはむしろ
 増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対理由を言
 っている。「奴隷解放の父」ではない。
  そして、リンカーンの発言:
  「これまで私は、黒人が投票権をもったり、陪審員に
 なったりすることに賛成したことは一度もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」。「奴隷解放の父」ではない。
.
  更に、リンカーンの発言:
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  また、リンカーンには、
  俗な言い方をすれば「連邦を救いたいのだ、黒人の奴
 隷解放は二の次なのだ。
  黒人奴隷解放が、どの様な結果になろうが連邦が救え
 れば私はそのことをする」がある。
.
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に、
  リンカーンを白人至上主義者と呼んだ。この時、広く
 注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに苦
 情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  また、日本の放送大学の講義もまったく嘘を話してい
 る。
  2015・9・23、午後1時45分~午後2時30分、講座名:
 「現代の国際政治、第2回、アメリカの世界戦略(1)
 スーパー・パワーへの道」、講師:高橋和夫氏の放送大
 学の講座はまったくおかしい。
  アメリカ北部とイギリスを庇(かば)って、「奴隷制
 度に反対した」と嘘を講義する放送大学。
  アメリカ北部とイギリスは、奴隷制度に反対したと嘘
 を言う放送大学となっている。
  本当に公平な話はしない放送大学。
  間違いと誤解を与える講義となっている放送大学の講
 座だ。
  イギリスは、最初から最後まで奴隷貿易をした国だ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)252D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年6月~1861年12月)

題:(増補版)252D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1861年6月~1861年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1861年(文久1年)6月22日、ボーリング場が開業
  唐人屋敷波止場の広馬場に、「インターナショナル・
 ボウリングサロン」が開業した。
  我が国初のボウリングレーン付きの社交サロンで、
  いわゆる、ボウリング場。
  最高級ワインなど、いろいろな酒が格安で提供されて
 いる。
  (「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタ
 イザー」より)
  ボウルは、大中小の3種類があり、
  指穴はなく、抱えるようにして投げた。
  ピンは9本。
  レーンの長さは、現在の3分の2程度で、
  ボウルを投げ、倒れたピンを、ピンボーイが元の位置
 に並べて、ボウルを運んで返却した。
1861年、近代競馬が始められた。
  日本最初の近代競馬が、横浜市中区相生町の埋立地で、
 居留英国人などによって始められた。
1861年、ガラス
  アンモニア・ソーダ法(ソルベー法)が、ベルギーの
 エルネスト・ソルベーによって考案された。
  ガラスの原料である炭酸ナトリウムの工業的製法とな
 った。
1861年、鉄
  平炉式製鋼法が発明された。
  フランスのジーメンスが発明し、転炉法より炭素の少
 ない鋼鉄を得られるようになった。
1861年7月2日、公武合体論
  山口藩士の長井雅樂が、老中・久世広周と会して、大
 いに公武合体論を唱った。
1861年7月5日、 尊王攘夷でイギリス人を斬る(5月28日説
 あり)
  第一次東禅寺事件。
  これをきっかけに英国軍艦が横浜に常駐するようにな
 る。
1861年7月11日、品川・御殿山に各国公使館を造った。
1861年7月24日、日本初のヨット
  イギリス人・オルトが、船大工J・ミッチェルのアバ
 ディーン・ヤード(造船所)で、ヨット「ファントム号」
 を建造した。
  「ファントム」は、日本初のヨット。
  全長6呎(フィート、183cm)、最大幅14呎、吃水6
 呎、排水量36瓲の大型スクーナー
  参考:新聞「ザ・ナガサキ・シッピング・リスト・アン
     ド・アドバタイザー」の記事
  別の資料:1882年に、当時の農商務司法大臣・金子堅
 太郎がヨットを建造し、葉山で楽しんだのが日本のヨッ
 トの最初・・日本人として初建造とある。
  1875年に、横浜で日本初のヨットレースが行われる・
 ・とある(日本セーリング連盟)。
1861年7月26日、桜田門外の変の浪士らが処刑される。
  桜田門に井伊大老を襲撃した水戸浪士、金子孫二郎、
 岡部三十郎等の数名が刑死した。
1861年8月、天守番之頭格、講武所砲術師範役命ぜられる
 (氷川清話)
1861年8月3日、長井雅樂が、幕府の老中安藤信正に会して
 大いに公武合体を説いた。
1861年8月11日、大砲を造って・・
  佐賀の藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)が、藩に
 て鋳造した大砲3門を幕府に贈った。
  直正は、第10代佐賀藩主で、藩財政の窮乏を改革する
 ため殖産興業をはかり、長崎警備を重視して大砲の鋳造
 や、反射炉の設立に力を入れた。
  また、蘭学や英学を奨励し、海外文明の移植に努めた。
  号は閑叟(かんそう)、(1814年~1871年)
  軍備の近代化、種痘なども行い、名君。
  明治維新後、議定・開拓使長官などを歴任した。
  商人の郷村での土地保有を徹底的に排除した。
  長崎警備を担当し、長崎砲台の増築と軍事技術の改善
 も行なっていた。大納言に昇じた。
1861年8月14日、幕府の限界を知るイギリス
  オールコック(イギリスの外交官)が、老中・安藤信
 正、若年寄酒井忠毗(ただます)との秘密会談で、攘夷
 勢力に対する幕府の力の限界を知り、江戸・大坂・新潟・
 兵庫の開市開港延期に理解を示す。
1861年8月16日、西洋式病院
  下長崎村小島郷字佐古稲荷岳、425坪の敷地に、日本初
 の西洋式病院・小島養生所が開所した。
  また、医学所を開校した(開所式は08/06?)
  東西22.7メートル、南北7.3メートルの2階建2楝には、
 洋式8病室・124床、
  手術室・薬品室・隔離室・浴室・調理室を備えた。
  隣接した医学所が入る別棟に、教室・講義室・奇宿舎
 を持った。
  医療器具は輸入されたが、日本の臨床講義が可能とな
 って、本格的な現代医学教育が誕生した。
  食事は、パン等の西洋式で、
  病室も、風通し等を考慮にいれて設計されていた。
1861年8月17日、小島養生所にて診療を開始した。
  養生所教頭・ポンペ、同所頭取・松本良順
1861年8月22日、米国公使・ハリスが、幕府の老中・安藤信
 正と同邸に会見し、公使館設置を議す
1861年8月23日、ロシアとの事件
  幕府が、露船の対馬退去を要求した。
  しかし、イギリスも、この対馬を奪おうとしていた。
  7月9日に、イギリス公使のオールコックと、イギリス
 海軍中将ホープが、幕府に対して、イギリス艦隊の圧力
 によるロシア軍艦退去を提案した。
  老中・安藤信正らと協議した。
  7月23日に、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻(エンカウン
 ター、リンドーブ)が、対馬に回航して、示威行動を行
 い、
  ホープ中将は、ロシア側に対して厳重抗議した。
  しかし実は、この時点において、オールコックも、イ
 ギリスによる対馬占領を本国政府に提案していた
 (8月2日付・坂本藤良『小栗上野介の生涯』講談社)。
  また、老中・安藤信正は、再度、箱館奉行・村垣範正
 に命じて、ロシア領事に抗議を行わせた。
  これまで、ビリリョフの行動をそのままにさせていた
 ロシア領事・ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て
 形勢不利と察し、軍艦・ヲフルチニックを対馬に急派し、
 ビリリョフを説得した。
  文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサドニック号
 は対馬から退去した。
1861年8月23日、イギリスの失態
  イギリス軍艦・オーディン号の乗組員たちが丸山歓楽
 街へ繰り出した。
  機関員のチャールズ・コリンズ(27歳)は泥酔し、居
 酒屋の前に放置された。
  1時間後に、遺体となって路上で発見された。
  あごの骨は折れて、暴行の跡があったが、争った様子
 はなかった。遺体は国際墓地に埋葬された。
1861年9月、蕃書調所に物産局を置き伊藤圭介を教員とす
 (氷川清話)
1861年9月20日、長崎養生所(ながさきようじょうしょ)の
 開院式が行われた。
  長崎に洋式の病院を初めて設立(開院式)
  長崎奉行・岡部駿河守の助力によって,幕府医官・松
 本良順が、オランダ海軍軍医 J. L. C.ポンペ (1829~
 1908)とともに、長崎の西小島に開設した。
1861年10月、米・仏・露など6ヶ国に竹内下野守、松平石見
 守、京極能登守を歴訪させる。箕作、福沢随行す(氷川
 清話)(12月説あり)
  外国奉行の竹内が正使で、松平が副使、ヨーロッパの
 7カ国を回った。
1861年10月、大鳥圭介、築城典型を出版す(氷川清話)
  江川(太郎左衛門、英龍・ひでたつ)の塾は、兵学を
 専攻したる故か、生徒が少なかりしも、氏(大鳥)が、得
 意とせし築城学について、『築城典型』なる一冊を出版
 するに及び、諸藩の青年は氏の薀蓄深さに敬服して門に
 入る者一時に増加したり」と、
1861年10月、新たに外人の警護を置く(氷川清話)
  1月説:1861年1月18日、幕府が外国御用出役を設置(
 在留外人警護の為)
1861年10月13日、長州藩主・毛利慶親、天下の為めに幕府
 に建言せんとして萩を発途し、江戸に向う
  これは、「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」
 を建言したのだと考えられる。
  航海遠略策は、江戸時代末期(幕末)に浮上した政治・
 外交思想で、長州藩の長井雅楽が、1861年頃に提唱した
 ものが特に有名である。
  他に、佐久間象山、吉田松陰や平野国臣ら先駆的な思
 想家も同様な主張をしていたが、具体的な建白書の形に
 し、政治運動にまで盛り上げたのは長井によるものであ
 った。
  異人斬りに象徴される様な単純な外国人排斥である小
 攘夷や、
  幕府が、諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破
 約攘夷ではなく、
  むしろ、積極的に広く世界に通商航海して国力を養成
 し、その上で諸外国と対抗して行こうとする「大攘夷」
 思想に通じる考えで、
  その精神自体は、後の明治維新の富国強兵・殖産興業
 などにも影響を与えた。
  しかし、この時点においては、実行手段の具体性に欠
 けたため、また、急速な尊王攘夷運動の高まりもあって、
 大きな政治運動となる前に挫折してしまった。
1861年10月20日、和宮が東下された。
  和宮様、京の御所を御発輿、
  将軍・家茂への御降嫁のため江戸へ御下向された。
1861年10月25日、伊東玄朴(いとうげんぱく)の種痘所が、
 幕府の経営に移り、西洋医学所と改称、帝大医学部の前
 身となる。
  1858年に、伊東玄朴ら82名によって始められた種痘所
 が、この年に、幕府の医学機関として成立した。
  教授、解剖、種痘の3科が置かれた。
1861年11月5日、米国総領事ハリス、江戸城の将軍・家茂に
 謁し、国書を呈して開港延期を諾す
1861年11月15日、和宮御降嫁、江戸清水邸御着
  和宮一行は、江戸城内の清水屋敷に入った。
  11月21日に、登城した岩倉具視・千種有文は、老中・
 久世広周、安藤信正と会見し、
  「幕府は、和宮様を人質に天皇に譲位を迫るつもりだ」
 との風説について詰問し、幕府に二心無いことを示すた
 め、将軍自らが書いた誓紙を、朝廷に提出することを求
 めた。
1861年12月3日、伊豆国附島御備向取調、水野忠徳、伊豆諸
 島巡視に出発
  咸臨丸は、この日に、水野忠徳らの一行を乗艦させ、
 4日に品川を発ち、浦賀に入港した。
  ここで糧食・薪水を補給し、7日に出港、小笠原に向か
 った。
  初めの予定では、途中、八丈島に寄って、移住者を乗
 せて行くはずであったが、出港後間もなく暴風雨にあい、
 また、黒潮のため大きく東に流され、
  9日に、やっと天測住設を出してみると、すでに八丈島
 をはるか東南に通りすぎていた。
  八丈に引き返すには、風と潮に相当さからわなければ
 ならなかったので、
  八丈寄港を中止して南下することになった。
  13日には、小笠原群島の緯度に達したが、そのまま南
 下を続けた、
  16日に、火山列島(北硫黄島・硫黄島・南硫黄島)を
 視認(しにん、実際に目で見て確認すること)し、これ
 らを内外に見ながら時計廻りに一周して、北上のコース
 をとり、19日に父島の二見港に入港した。
  世界の水路測量史において、最後まで末測量海域とし
 て残ったのは日本近海だけであった。
  そして、幕末期は、ちょうどこの空白部分が埋められ
 る時期に当っていた。
  したがって、当時入手していた海図や航海図書の日本近
 海の島々の経緯度は、まだ充分確定されておらず、信用
 できなかった。
  万次郎は、米国から出発した捕鯨船「フランクリン」号
 では父島に到達できたのに、
  帰国後の安政6年に、「鯨漁御用」を仰せつかって「一
 番君沢形(ヘダ号)」で、小笠原に向かったときは、父
 島を素通りしてしまった。
  彼の航海術は、疑うべくもなく信頼できたから、これ
 は海図や航海図誌に示された父島の位置が正しくなかっ
 たと判断できる。
  幕臣で、優秀な小野友五郎は、築地軍艦操練所の教授
 方出役で、
  1860年の遣米使節随行の咸臨丸に、教授方測量方(航海
 長)として乗務した。
  そして、彼は、軍艦奉行の木村喜毅に、その測量は、
 「かの邦人(米国人)にも愧(き、米国人もはじるの意味)
 じざるわざにして、このたび初めて、その比類なきを知
 れり」と評され(米国人も恥じるほど技術のある人と評
 され、その優秀な技術を知って将軍もうれしくなり)、
  帰国後、単独で将軍謁見の栄誉に浴したという、この
 小野友五郎は、
  この航海に、先の米国行の際、サンフランシスコの第
 6区長から贈呈をうけた「風向・海流図」と、
  英国版「海流図」の両方を携行していたから、
  彼もそれらに誌された小笠原群島や、火山列島の位置
 を検証しようとしていたことがうかがわれる。
  友五郎は、幕命にある「伊豆国附島」をできるだけ広
 く解釈し、伊豆諸島・小笠原群島・火山列島からなる、
 今日のいわゆる「南方諸島」全体とした。
  小笠原群島の常にある火山列島に、もし良好な艦隊泊
 地があれば、小笠原群島の「御備向:防備」をいくら厳
 重にしても、日本の海防は完璧とはならないからである。
  そこで友五郎は、火山列島を一周して、北硫黄島・硫
 黄島・南硫黄島の地勢を各方向から眺望し、かつこれら
 の位置を海図と照合した上で北上した。
  友五郎は、『江都海防真論』に、島の形の峻坦をみる
 だけで、周囲に適当な水深の泊地があるかないかがわか
 ると述べているから、
 これで火山列島には適当な艦隊泊地なしという判断を下
 したにちがいない。
  この「伊豆国附島」の拡大解釈、ひいては火山列島行に
 ついて、友五郎は、水野筑後守には内意を打ち明けてい
 たようだ。
  水野には、軍艦奉行・海防掛の経験があり、それに幕
 府がもう一度、「南方諸島」を調査させる機会などあり
 得ないこともよく承知していたから、
  友五郎の考えに理解を示したと考えるのは無理ではな
 い。
  しかし、目付(めつけ)の服部帰一(常純)は、この
 企図を知らされていなかったようだ。
  当時、目付の権限は大きく、この拡大解釈を許さぬとい
 えば、友五郎の目論見(もくろみ)は実行不可能になる
 おそれがあった。
  服部の『南島日記』は、この時の航海の貴重な記録だ
 が、これを読むと、彼はこの件については何も知らされ
 ていなかったのではないかという感じを深くする。
  彼は、航海術についての知識が皆無にひとしかったから、
 自分のおかれている立場も見抜けなかったのだろう。
  史料:http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/ono5.htm
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月30日月曜日

(増補版)251D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1860年~1861年6月)

題:(増補版)251D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1860年~1861年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1860年、山岡鉄舟(やまおかてっしゅう、剣術家、政治家)
 が「武士道」を著した(1836年~1888年)
  鉄舟は、江戸に生まれ、
  千葉周作の門に入り、
  後に、一刀正伝無刀流を開き、
  また後に、明治天皇の侍従を務めた。
  戊辰戦争の際は、
  勝海舟の使者として、西郷隆盛を説き、
  西郷・勝の会談を実現させて、
  江戸城の無血開城を実現させる功績とたてた。
  この功績によって、
  江戸市民は、戦乱の嵐から逃れられた。
  また、火の海となるところを、その戦火から救われた。
  名誉ある、本質の『無血革命』を実現させた。
  イギリスの名誉革命は、作られた名誉革命である。
  鉄舟は・・、
  「武士道は、中世より存在したが、自分が名付けるま
 では『武士道』とは呼ばれていなかった」としている。
  また、衆議院議員、次世代の党の前党首の平沼赳夫(
 ひらぬまたけお)氏の著書『政治武士道』に、
  以下の様な記述がされている。
  世界の人々が幸せに、
  安寧に平和を希求して行く、
  そして、さらなる健全な社会発展を実現する上でも、
  日本人が、長年にわたって培(つちか)い、
  世界的に評価されている武士道の精神が、
  今まさに大切であると実感する。
  人を憐れむ心、自己よりも他を重んずる心、
  死を恐れない精神力、
  恥を知ること、
  やせ我慢の精神、
  長幼の序、
  仁義を重んずること、
  絶対的なものへの畏敬(いけい)、
  孝養の道、
  質実剛健の処世、
  弱い者いじめをしないこと・・など。
  そして・・、
  キリスト教徒の新渡戸稲造が、武士道が、人口の約1割
 の武士のものだと批判した。
  また、武士道論書の葉隠(はがくれ、佐賀藩士の著述)
 にもまったく触れていないという『落ち度』が、新渡戸
 の論理にはある。
  新渡戸は、わずかに、歌舞伎や文楽の事例を言って批
 判をしているが、
  逆に、この歌舞伎や文楽は、数少ない娯楽であって、
  庶民は、これを楽しみにして、この娯楽を、繰り返し、
 繰り返し見て、心に焼き付けている。
  庶民が見る歌舞伎や文楽・・、
  これらを庶民が見て、庶民の間に、隅々まで涵養され
 て行った(かんよう、水が自然に染み込むように、無理
 をしないでゆっくりと養い育てること)武士道だった。
  新渡戸の見方は広く捉えていない、まったく違う武士
 道が、そこにあった。
  庶民にとっては、武士の持つ意識・概念は憧れたのだ
 ったのだ。
  武士道にある一つである意地の概念などは、日本に完
 全に根付いている。
  また、「ガッツ」などと類似した、派生した概念として
 も日本に根付いている。
  また、「骨のあるやつ」などと、この類の派生概念は
 豊富にある。
  「仇討ち」の行為も、また、この行為をしなくても、
 概念として、日本人の心にある。
  また、武士道の根幹に流れる儒教・朱子学を、教養の
 一つのジャンルとして武士を始め、日本人は良く知り、
 また、良く学んだ。
  この様に、まだまだ、日本人には、庶民にも根付き、
 心の底で血肉にもなっているこの事実を、新渡戸は見誤
 っている。
  まったく色眼鏡的な、また、偏見の論理で言っている。
  実態から、事実から、かけ離れた遊離した論理を展開
 しているという事が分かる。
  アメリカに居たことも、その様な論理展開をした理由
 の一つと言え、また、
  彼の持つ「その宗教性からも」公正な考え方・見方が
 出来なかったのだと言える。
1861年(萬延2年)1月22日、「徳川幕府・長崎溶鉄所」を
 「官営長崎製鉄所」と改称した。
  5月4日に、長崎製鉄所工場が完成する。
1861年2月3日、対馬事件(3月14日説あり、4月12日説あり、
 8月説あり)
  ロシアのポサドニック号が、対馬の占領を企てた。
  約半年後に、イギリスなどの詰問により退去した。
  村民の2名が死亡した。
  勝海舟が、イギリスに頼んだのだった。
  このロシア軍艦の対馬占領事件は・・、
  ロシアの南下政策の行動の中で起き、この動きは、後
 の、日露戦争へと繋がって行く。
  露人、対州に上陸、小屋を建て居住(氷川清話)
  文久の昔の話だが、あるとき、ロシアの軍艦が、対馬
 にやって来て、軍艦の修繕がしたいという口実で、
  その実、途方もないことをするではないか。
  海岸を測量したり、地図を作ったり、
  山道を切り開いたり、畑地を作ったり、
  粗末ながらも、とにかく兵舎の様なものを建てたり、
  それは、実に、傍若無人の挙動(ふるまい)をしたの
 だ。
  それが、始めは、対馬の尾崎浦という所へ投錨したの
 であったから、土地の役人は、開港場でない所へ軍艦を
 寄せる事を詰問しようと思って、小舟に乗って、軍艦の
 二町手前まで漕いで行くと、
  軍艦からは、三艘(そう)のボートへ水兵を乗せて、
  この小舟を取り囲んで、水兵はやにわにこっちの舟に
 乗り移って、鎧一りょう、槍九すじ、そのほか鉄砲、脇
 差しなどを強奪して、本艦へ持って行ってしまった。
  この時、土地の役人は、いよいよ彼らの無法を憤って、
 軍艦にこぎつけて、色々談判に及んだが、
  彼らは少しも取り合わなかった。
  そこで仕方ないから、その日は、まず、無事に引き上
 げて、翌日、またまた談判に行くと、
  今度は、艦内で大そう御馳走してからに、紙だの、砂
 糖だの、日本の貨幣などを土産に贈ったが、
  しかし、肝心な談判の方は、少しも要領を得なかった。
  この様に、幾度掛け合いに行っても、いつも確とした
 返事をせずに、ぐずぐず日を送っているそのうちに、
  南の方の要所要所は、すっかりボートで測量してしま
 って、ゆうゆうと錨を上げて、北の方へ去ってしまった
 (氷川清話)
1861年(文久1年)2月19日、「文久」に改元された。
1861年3月、長崎に軍艦打建所が設置された。
  3月,、長崎奉行、服部左衞門佐、浦上村淵立神郷に軍
 艦打建所創設のため、海面12,160坪を埋立て、その基礎
 を作らんとしたが・・
1861年3月28日(旧5月4日)長崎製鉄所工場が完成した(3
 月25日説あり)
  長崎製鉄所開所式、オランダより機械類を取寄せ、製
 鉄、及び、造船を兼ねたる工廠長崎鮑浦に落成。
  総坪数8,226坪、現在の長崎造船所の前身となる。
  キングポストトラス鉄骨造で、鍛冶場、工作場、溶鉄
 場の3工場で編成され、8馬力の蒸気ハンマー、15馬力の
 最新の工作機械蒸気機関が設置された。
  機械代9334両を含めて、工事費は5万8000両を要した。
1861年4月、硝子会社の創業
  現在の川添硝子株式会社の創業者・川添家9代:川添
 甚兵衛により出島の門前、江戸町にガラスを含む洋品雑
 貨の貿易を始め、
  1894年(明治27)2月に至り、板硝子需要の旺盛にとも
 ない、雑貨商を廃止して板硝子専業になった。
1861年4月12日、対馬事件、露船対馬に来り侵す
1861年5月、毛利慶親(もうりたかちか、長州藩13代藩主)
 が、公武合体・航海遠路の議を朝廷に呈した(1819年~
 1871年)
  この長州藩主は、幕末の混乱期に、有能な家臣を登用
 し、活躍させ、
  また、若い才能を持つものを育て、
  窮乏していた長州藩を豊かにし、
  未来ある明治維新の実現に大きく貢献し、明治・日本
 の大躍進の大功労者の一人。
  貧しく、身分の低い吉田松蔭の逸材を見抜いた烱眼(
 けいがん、物事を発揮しと見抜く力、鋭い眼力、慧眼)
 は、すごいの一言に尽きる。
1861年5月23日、長州藩の藩士・長井雅楽(ながいうた、直
 目付)が、公武合体の議を建白した(後に藩論一変)
  長井雅樂、三条実美へ建白書を呈し、大いに時局の批
 政を論難す。
  長井雅楽は、藩主・毛利慶親の小姓、奥番頭で厚い信
 任を受けていた。
  開国論者で、これが藩論となった。
  ただ、尊王攘夷派の門下生を持つ吉田松陰とは対立関
 係にあり、安政の大獄で松蔭が捕縛されても、対策は取
 らなかった。
1861年5月28日、東禅寺事件(1861年と1862年の2回発生)
  外人排撃の水戸浪士等、品川東漸寺の英国公使を襲い、
 彼我共に死傷あり。
  尊王攘夷の志士によるイギリス公使襲撃。
  幕府は、警備上の問題から海路での移動を勧めたが、
 公使側は、条約で定める国内旅行権を強硬に主張し、陸
 路で行ったら、案の定、東禅寺に入ったが、志士たち14
 名に襲撃された。
  幕府の外国奉行配下の公使館警備に就いていた旗本ら
 が応戦し、戦闘となった。
  英国公使のオールコックは危うく難を逃れたが、書記
 官らが負傷した。
  志士らは襲撃の趣意書を携帯していて、それには「尊
 王攘夷の大義のため」実行した旨が記されていた。
1861年5月、大船建造・購入を許可。
  幕府は、すでに1853年に、220年の時を経て「大船建造
 の禁」を解いていた。
1861年5月、グラバーが仕事を始める。
  グラバーの上司のマッケンジーが中国へ去り・・、
  グラバーは、その仕事を引き継ぎ、「グラバー商会」
 を旗揚げした。
  このスコットランドの生まれのグラバーは、誠実な人
 だった。
  グラバーには日本人の妻が居て、この妻との家庭を、
 一生、大切にした。(シーボルトは日本人妻を捨てた)。
  そして、グラバーは、日本の近代化に手を貸してくれ
 た。
  (幕末期は、武器商人となり、「死の商人」を演じて、
 私腹を肥やしたが・・)。
  明治の近代が来る事を希求し、演じていた坂本龍馬と
 いう若者を信じ、手を貸し、相談相手となった。
  そして、薩摩藩とグラバーがからみ、西郷隆盛と坂本
 龍馬がからみ、頭の良い、慧眼の長州藩主がからんで行
 く。
  そして、その先に、勝海舟が居る。慶喜も居る。
  しかし、グラバーの基本は商人であった。儲けが基本
 だった。
  このグラバーに息子に、倉場富三郎という人が居る。
1861年6月、水野筑後守、服部帰一に、小笠原島を巡回さ
 せる(氷川清話)
1861年6月、長州侯、国是を定め開国の業を起こすべきと
 建言す(氷川清話)
1861年6月、日本海測量を米人に許す(氷川清話)
1861年6月、勅して、伊勢、志摩近海英人の測量を禁ず(氷
 川清話)
1861年6月、品川御殿山に外国公使館を建つ(氷川清話)
1861年6月、対州に上陸した露人が、退帆(氷川清話)
1861年6月3日、伊東玄朴、麻酔薬を使って片脚切断の手術
 を行なう。
1861年6月19日、幕府、庶民に令して、旧来の大船製造の禁
 を解き、外国船の購入をも許す。
  百姓、町人の大船の諸事を免許す(氷川清話)
  庶民の大船建造と外国船購入を許可、
  そして、沿海航行商船から外航行軍艦へ、
  西欧列強に対抗できる程の大きな船を建造する事を許
 可した。長崎の造船所などの創業が下地にある。
  また、国内運輸から転じて、外国との貿易への発想の
 広がりがある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月29日日曜日

(増補版)250D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1859年~1860年)

題:(増補版)250D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1859年~1860年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1860年頃、この頃の李氏朝鮮
  いわゆる李朝は、経済的に破産し、軍事力もほとんど
 なく、この頃の政権は、分裂と内紛に明け暮れ、崩壊寸
 前だった。
1860年10月、中国の清が、イギリス・フランスと北京条約
 を結び、九龍などが奪われた。
  また、11月には、ロシアが南下して来て、アムール川
 左岸などがロシア領となり、またさらに、豆満江(とま
 んこう)やハンカ湖からウスリー川以東アムール川以南
 の地域が割譲させられ、ロシア領となった。
  ロシアの南下政策の結果である。
  そして、ロシアの勢いが朝鮮に至って来る。
1860年代、アボリジニーの方々を駆逐する:イギリス人・・、
  オーストラリアに上陸したイギリス人たちキリスト教
 徒は、1860年代になると、北はオーストラリアのクィン
 ズランド南部地域から、南は南オーストラリアまでを開
 発した。
  それは、それは、広い・・広い・・広大な地域を占領
 した。
  2000万頭のヒツジが、放牧された、アボリジニーの方
 々の地へ放たれた。
  当然、先住のアボリジニーの方々の生活圏は、奪われ
 た。
  コミュニティーも破壊した。
  その急速な開拓占領の拡大行動は・・、
  アボリジニーの方々へ、最大の悲劇的出来事を起こし
 たのだった。
  アボリジニーの方々の生活基盤は奪われ、
  経済的基盤は奪われ、
  宗教的基盤は奪われ、
  すべてが、土地も、・・『何もかも』が、奪われた。
  生活する場所が、生活する環境が・・すべて、破壊さ
 れた、、
  『何もかも』が・・変わった・・アボリジニーの方々
 へは、
  まず、食料の、深刻な・・不足の事態が・・襲った。
  キリスト教徒の白人が持ち込んだ膨大な数のヒツジは
 ・・、
  アボリジニーの方々が食料としていた草木を・・食べ
 た・・荒らした。
  アボリジニーの方々が、少ない飲料水を・・調達して
 いた手段も・・その『すべて』も・・奪った。
  水を多く含んだ草木も・・食べられ・・荒らされた。
  水源も・・消費されてしまった。
  そこに・・生存の危機が・・あった。
  アボリジニーの方々は・・やむなく奥地に逃げた、
  そして、その地のアボリジニーの方々から・・食料を
 分けてもらった・・、
  しかし・・、厳しい環境下で、入って来られたアボリ
 ジニーの方々も大変に困った・・、
  部族の対立も・・悲しいかな・・生まれた。
  最後の手段として・・、白人から食料を分けてもらう
 ことも行なった。
  その時は、その場合は、等価交換で・・行われた。
  アボリジニーの方たちからは、等価交換で与えるもの
 はなかった。
  この時、要求された・・女性が交換物として・・要求
 された、
  悲しいかな、これが、等価交換でよく見られる形とな
 った。
  既婚の女性が多かった。
  しかし、死が迫っていた中で・・しかたがなかった・・、
  白人が来る前は・・、
  男たちが捕獲してきた動物性タンパク質と・・、
  女性方が採集してきた・・食用植物を中心にした・・
 多彩で栄養価も豊富なバランスの良い食べ物の・・、
  その様な、かつての食糧は得られなくなった。
  しかも、白人からの手に入れることができたアボリジ
 ニーの方々の口にできる食べ物は・・、
  砂糖、小麦粉、茶、そして、くず肉の類いだった。
  栄養のバランスも・・極端に悪かった。
  アボリジニーの方々の生活も、
  文化も、
  伝統も、
  すべてが・・崩れた。
  健康も失い、
  労働のできる体が・・失われて行った。
  白人は、それを労働意欲のない、怠惰な種族と蔑(さ
 げす)んだ。
  1830年代には、シドニー周辺にも、白人に物乞いしな
 がら生活するアボリジニーの方々が現れ出していた。
  豊富な白人の食糧に手を出したアボリジニーの方々は、
  白人のヒツジや牛を、忍び込んで盗んだアボリジニー
 の方々は・・
  ・・動物のように殺された。
  白人は、『財産権の侵害だ』として・・、
  その法律の、紙に書いた条文の「錦の御旗」を立てて、
 無慈悲にアボリジニーの方々の・・命を奪った。
  そしてまた、そこに徹底的な・・報復処置も取られた。
  財産権を侵害しただろうという『予測の中』で、その
 他のアボリジニーの方々も容赦なく殺された、『だろう
 と思って』殺された。
  有色人種の蔑視からくる命を軽く感じる白人・キリス
 ト教徒の行為だった。
  また、「予防的措置だ」というこじつけ論理も理由づ
 けにされた。
  犯罪的行為を完全にしていない無防備なアボリジニー
 の方々まで、大勢、キリスト教徒の白人たちに殺された。
1859年、アメリカ、奴隷にされた黒人の方々が蜂起する国
 だった。
  ジョン・ブラウン氏の武装蜂起が起きた。
  奴隷解放を唱える黒人の黒人奴隷解放運動家のジョン・
 ブラウン氏が、奴隷解放革命を起こそうと、アメリカ合
 衆国の兵器庫を襲った。
  ブラウン氏は、残念ながら、捕らえられ、絞首刑とな
 った。
  これは、南北戦争の遠因と言われているが、本当の、
 南北戦争の戦争原因は『経済問題であった』。
  国際的な関係が絡む経済の問題だった。
  奴隷の問題なんかは二の次だと言われていた・・のが、
 本当
1860年、400万もの方々が、奴隷にされていた国:アメリカ
  この年に、アメリカの奴隷にされた方々の総数が、400
 万人を越えた。
  奴隷の方々の大半が、綿花生産の労働者だった。
  無残に殺された奴隷の方々も、大勢、居た。
  1831年には、ナット・ターナーの反乱が起きた。
  1859年の、ジョン・ブラウンの武装蜂起などの事件は、
 氷山の一角だった。
  奴隷船から、さも荷物の様に、荷揚げされた奴隷の方々
 は、奴隷商人に売り渡され、
  奴隷市場に連れて行かれ、家畜の様に売りに出された。
  白人・奴隷商人たちは、奴隷にされた黒人の方々を、
 鎖で数珠つなぎにし、町の目抜き通りで競売した、商売
 を行なった。
  奴隷にされた黒人の方たちは、競売台に立たされ、品
 定めされた。
  そして、親子のつながり、兄弟のつながりなど、まっ
 たく関係なく、バラバラで売られて行った。
  白人だけが、上手く行く経済システムだった。
  巨利を稼いだ白人奴隷商人たちが、大勢いた。
  自分の懐が、『肥えればいい』・・だった。
  200年間も、アメリカは、この様な、非人道的行為を行
 った。
1860年、このアメリカで、リンカーンが大統領に当選した
 ・・しかし、
  リンカーンは、奴隷解放の大統領ではなかった。
  リンカーンは、奴隷解放には消極的だった。
  「治安回復に努めるなら奴隷解放をする必要はない」
 と予備宣言までしていた。
  奴隷解放をしたいという『政治信条』がある政治家で
 はなかった。
  軍の将軍の中に、奴隷解放をする事を意思表示した将
 軍がいたが・・、
  リンカーンは、その奴隷解放意見を『取り下げてしま
 った』。
  これが真実だった。
  リンカーンの話は、プロパガンダ(嘘宣伝)されてい
 る。
  黒人の方たちは、この様な、不本意な状況の中に、ア
 フリカからアメリカへ連れて来られた・・、
  人間的な接し方は、まったくなされず、何ら、『法律
 上の権利』も与えられなかった。
  本来、祝福されて、家族に迎えられて、生まれて来る
 子供たちも・・自由な身にされず、解放されず、またま
 た、白人・雇い主のものとされた、奴隷とされた。
  そしてまた、アメリカは、この頃、アメリカの先住民
 であるインディアンの方々も、卑劣にも、奴隷とした。
  リンカーンの政治が行われている時である。
  リンカーンは、おじいさんをインディアンに殺され、
 インディアンの方々に対して、良くない感情(うらみ)
 を持っていた。
  リンカーンは、長距離の「死の居留地移動(ロング・
 ウォーク・オブ・ナバホ)」など色々と苦しい行為をイ
 ンディアンの方々へ強いた。
  ロング・ウォーク・オブ・ナバホは、500キロもの距離
 を歩かせ、移動させた。
  それも厳寒期の1月に行なわせた。
  500キロメートルの距離は、遠すぎた。
  それにまた、厳寒期に、1月に行わせ、幼児もいれば、
 病人も居れば、弱者の方々が居れば、おじいさんやおば
 あさん方も居た。
  多くのインディアンの方々は・・亡くなった。
  第二次世界大戦時に、日本が捕虜を60キロメートル歩
 かせた、そると、捕虜虐待だされ、刑に服させられた日
 本の兵が居たが・・、
  60キロが捕虜虐待だった・・それも、
  兵という体がしっかりした兵士には、「60キロ行軍」
 はなされていた事だった・・しかし、捕虜虐待だとして、
 日本は責任を取らされた。
  また、悲しいことに、サウスカロライナでは、インデ
 ィアンの方々の15パーセントが奴隷状態にされていた。
  そして、この頃、「黒人の方が維持費が安い」という
 言葉が、白人アメリカ人たちの間でささやかれるという
 非人道的状況にあった。
  また、黒人の方々を、「本来的に奴隷に適する」と、
 人権無視の言葉を言っていた。
  すでに、1619年に、アメリカは、アフリカの黒人の方々
 を、アメリカに連れて来ていて、すでに、卑劣な奴隷に
 する行為を行なっていた。
1860年、リンカーンは、国会対策から・・、
  リンカーンは仕方なく、国会の動きもあって、奴隷解
 放予備宣言を公布する事に踏み切った。
  しかし、1860年に出された予備宣言では、南部諸州が
 治安回復に努めるならば、『奴隷解放をする必要はない』
 とリンカーンは決め、発言していた。
  この宣言には、『奴隷解放の不必要』という事が明記
 されていた。
  リンカーンは、奴隷の即時、無条件、全面解放を行な
 わなかった。
  宣言をしても、布告に縛られない例外地域を作ったり、
 反乱してない地域は含まれない・・などと、例外規定を
 作ったりして、奴隷解放をしない未開放の地域を作った。
  この間も、黒人の方たちは、奴隷解放されたいと、血
 みどろの戦いをしていた。
  1865年の憲法修正第13条が制定されるまで、リンカー
 ンの不決断のままであった・・この影響は大きく続いた。
  また、リンカーンは、黒人の方たちを、軍隊に入れよ
 うとはしなかった。
  白人の軍隊が、リンカーンの軍隊だった。
  黒人の方たちは、解放してもらいためにも訴えた。
  黒人の方々は、集会で宣言した・・、
  「私たちは、すでに用意が出来ています。
   私たちは、私たちの生命と、財産と、名誉をかけて、
   自由のために、良き市民として、私たちの政府を守
 る覚悟が出来ています(一人の人間として認めて下さい)。
   私たちは、みなさんに、このことを訴えたいのです」。
  それでも、リンカーンは、黒人の方たちの軍隊編入を
 拒否し続けた。
  リンカーンは、何ら積極的行動をせずにいた。
  この後、業を煮やした黒人の方々は、どんどん自主的
 に、勝手に、戦いに加わった、軍列に加わった。
  戦いに加わることによって、奴隷の立場から解放され
 る運動をして行った。
  可哀想な立場からの、必死な主張だった。
  「リンカーンが奴隷解放の大統領だ」というのは間違
 い。
1860年、そして、某作家氏の言葉から言える・・ことは、
  アメリカの北部人は、よく南部の黒人問題、黒人偏見・
 蔑視と言うが・・、
  他人事の様に、また、門外漢の様に言うが・・しかし、
  この黒人の問題は、白人の問題でもある・・と、
  つまり、アメリカ南部の黒人対白人の問題・対立は、
 つまり、南部人対北部人の対立でもある・・と、
  南北戦争の事を、北部では、(civil war)「内戦」と
 言うが、
  南部では、(war between the states)「州対州の戦
 い」と言う・・と、
  つまり、南北戦争は、プロパガンダ(嘘宣伝)された
 奴隷解放のための戦争では、当然、なく、
  国権を主張する北部と、州の独立を主張する南部との
 戦いだった・・と、
  北部軍にケンタッキー州や、ミズーリ州や、メリーラ
 ンド州などの奴隷州が入っているし、
  これらの州が、自分の州の方針(奴隷州の方針)に反
 する北部軍に入るわけがない・・
  南北戦争は、「奴隷解放」という「高邁な(こうまい、
 志などがたかく、衆にぬきんでていること)目標」で戦
 われた戦いではない。
  また、逆の(南部軍にも、奴隷州ではない州が、いく
 つもの州が参加している)・・この事からも・・
  奴隷解放とはまったく違う次元で戦われた戦いだった。
  そして、リンカーン大統領は、戦争の末期になって、
 『やっと』、「奴隷解放宣言」をした。
  しかし、これが、あまりにもプロパガンダ(嘘宣伝)
 されて焦点があてられているため、世界中がその様に思
 っている・・のだろうが・・、
  これは、戦略上の必要から出したもので・・、
  リンカーンは、明確に、『黒人差別論者 」だ。
  あまりにも、これを、美しく言う北部(北部がいい子
 になっている)。
  だから、現在なお、アメリカの北部と南部には、なお、
 この『しこり』が存在している。
  その様なアメリカとなっている・・
  その原因の一つが、このあまりにも美しく言う、自分
 だけが良い子になっている『北部に問題』がある。
  こんな事は、多くの人が指摘しているが・・直らない、
 そして、現在もなお、対立したままにいる。
  そして、滑稽なことに、キリスト教会までが、この俗
 世界の感情で、南部独特の別の教派を作り、別派閥に収
 まっている。
  祝日までが違っている・・リンカーンは敵で、南部の
 リー将軍の誕生日などの祝日まである。
  法律だって、考え方だって、まったく違う。
  そして、北部人は、南北戦争後に、まったく屈辱的な
 事を南部人に対してやった。
  南部人を、その市長の席から、町長・村長の席から、
 郵便局長の席から、あらゆる要職の席から、北部人によ
 って追放され、何と、そこへ黒人の方たちを据えた。
  自分たちは、しなかったこと、できなかった事を、南
 部人にはやった。
  1865年の事である(~1872年まで続いた)。
1860年~1870年、そして、無差別掃討をされた「アメリカ
 のインディアンの方々」
  この頃、また、アメリカ合衆国は、アメリカ・インデ
 ィアンの方々に対して無差別の掃討作戦を行なった。
  弁解のできない、卑劣で野蛮な作戦で・・、
  インディアンの方々は、アメリカのあちこちで虐殺さ
 れた。
  この頃の、アメリカ・インディアンの方々の気持ちは・・、
  アパッチ族は、隣のナバホ族と同じく、居留地(収容
 所)に入ることを拒否した。
  居留地(収容所)に入った仲間たちが、死んだ如くに
 生きている姿を見ていたからだった。
  結局は死の姿だった。
  都合よく、アメリカ合衆国が都合の良い状態で生かさ
 れていた。
  居留地(収容所)の人々は、処理されている姿だった。
  土地だけ奪えばよいのアメリカ合衆国だった。
  白人・アメリカ人に、土地が与えられれば良いのアメ
 リカ合衆国だった。
  アメリカ合衆国は、軍の暴力によって従わせようとし
 ていた。
  インディアンの方々は、攻めて来たクルック将軍のア
 メリカ軍に対して厳しい態度で立ち向かった。
  対立と敵意の10年間が過ぎた。
  そして、インディアンの方々は「栄光の敗北」をした。
  アパッチ族の誉れ高い族長のコーチーズは言った、
  「かつて、アパッチ族は偉大な国家だった。
   今はもうわずかな人数を残すばかりとなってしまっ
 た。
   しかし、誇りを失ったまま生きのびるくらいなら、
 アパッチ族は死を選ぶだろう」・・と。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive