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2017年3月11日土曜日

(増補版)506E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1890年1月)

題:(増補版)506E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1890年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1890年(明治23年)、出来事:
・内閣総理大臣:山県有朋(明治22年12月24日~明治24年
 5月6日)
・第一回衆議院議員総選挙が行われる(7月)
  初めて衆議院選挙が行われ、第一回帝国議会が開かれ
 た。
  アジアで最初の、議会を持つ本格的な立憲国家として
 出発した。
  選挙権のある人(25歳以上の男子で、納税額15円以上。
 人口の1.1%の45万人)
  被選挙権のある人(30歳以上の男子で、納税額15円以
 上)
  300議席中、立憲自由党130、立憲改進党41、大成会79、
 無所属45、その他5となる。
・府県制・郡制公定、地方行政制度 執行される(5月)
・第一会議、自由党再興(氷川清話)
  板垣退助が、愛国公党・大同倶楽部を合流して立憲自
 由党を結成(9月)(翌年、自由党に改称)
・第一回帝国議会が開かれる、(上院:貴族院・下院:衆議
 院) 召集(11月)民党側は民力休養を主張、藩閥政府と
 正面衝突する。翌・1891年3月7日閉会。
・松平慶永(よしなが)が没した(1828年~1890年)
  号は、春嶽(しゅんがく)。
  第16代越前福井藩主。
  幕末四賢侯の一人と謳われ、幕末の日本を導いた。
・大日本労働者同盟会の結成(氷川清話)
.
1890年、データー:
・日本の人口:約3,990万人。
・紡績工場の数:30。
.
1890年、経済・金融・貿易:
・年末より「明治23年恐慌」が始まる。
.
1890年、産業:
・白熱舎(白熱電球製造会社。後に「東京電気」となり、
  芝浦製作所と合併して東京芝浦電気になった。
  東芝の源流の1つ。
・品川電燈(4月)、横浜共同電燈(10月)、深川電燈(12
 月)それぞれが開業した。
.
1890年、交通・通信:
・東海道線全通
  この年、日本の官営鉄道が983キロとなった。
  また、私営鉄道も1,365キロと官営を上回った。
・第3回内国勧業博覧会の際、東京電燈会社は、上野公園桜
 岡より両大師前まで電気鉄道を敷設し運転をなす。
・日光線、水戸線鉄道開通
・東京~横浜間に電話が開通。
・電信交換規則発布し、実施。
.
1890年、衣:
・外務省の給仕、悉く(ことごとく)官給の制服となる。
・選挙の開始などにより鞄の需要激増する。
.
1890年、食:
・大坂に外国米多く輸入される。
・米価が騰貴して、兵舎の残飯を売り捌(うりさば)いた
 ものが大繁盛。
・馬肉の流行から、牛肉に馬肉を混ぜて売るものが現れ、
 警視庁は市中の肉屋を検査した。
・兵庫県揖保郡神岡村のそうめん製造年産15万円に達した。
・コレラの流行で氷水が売れず。
・第3回内国勧業博覧会の会場に喫茶店を設けて成功、一般
 市内にも見かけるようになった。
・村井商会、紙巻煙草サンライスを製造(国産紙巻煙草の
 はじめ)
・日本禁酒会が創立された。
.
1890年、住・社会資本:
・江戸川・利根川連絡運河落成
・銀座2丁目にスレート商会開店。
・水道条例発布。
・神奈川県秦野町で土管の小規模上水道が竣工した。

1890年、報道:
・国民新聞(2月1日)[日本新聞社]
  発刊者は陸羯南(くがかつなん)
  執筆者に内藤湖南、長谷川如是閑、正岡子規がいた。
・議会出入り記者団を結成。記者クラブの始まり。
・新聞用達会社が設立される。通信社と広告代理店を兼ね
 たもの。
.
1890年、論・文学・本:
・舞姫(森鴎外)を発表。 エリスという女性を登場させ、
 話題性をねらった。
・小泉八雲が日本に来た。
・勝海舟「外交余勢」を著す、「流芳遺墨」並びに「追賛
 一話」成り出版、又、「府城沿革」(30冊)編纂成る(
 氷川清話)
.
1890年、歌・流行・世相:
・やっつけろ節、法界節、愉快節などが流行。
・富山県で、附近に綿糸工場ができ綿作を中止。
.
1890年、生活:
・蚊取り線香:金鳥香(上山英一郎が、棒状蚊取り線香を
 発売した)金鳥の渦巻(1902年)
・石鹸:花王石鹸(洋物店の長瀬富郎が、初の国産石鹸の製
 造に成功して、「顔を洗うこともできる高級石鹸」として、
 顔をもじって花王という商品名をつけて売り出した)
・電柱への広告。産業振興にもなり、許可を受ければ、や
 ってもよい(時事)
.
1890年、医・衛生・伝染病:
・北里柴三郎が、ドイツのコッホのもとでジフテリア・破
 傷風血清療法を発見(12月)
  病気の予防や治療に大きな功績をあげる。
・コレラ流行 :コレラで35,227人が死亡した。
.
1890年、科学・教育:
・教育勅語発布:『教育ニ関スル勅語』発布(10月)
 道徳・教育の理念など 、井上毅(こわし)と、元田永孚
 (もとだえいふ)が起草。
・小学校制度が変更。
 尋常小学校4年、高等小学校4年の計8年。
・仁科芳雄が生まれた(1890年~1951年)日本の物理学者。
  岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。
  日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関
 係、加速器関係の研究で業績をあげた。
  日本の現代物理学の父。
・東京職工学校を東京工業学校と改称。
.
1890年、法律:
・民事訴訟法、商法公布(4月)
・刑事訴訟法公布(10月)
・旧民法が制定された。フランス民法(いわゆるナポレオ
 ン民法典)を範にした。民法施行(1898年)
・旧商法が制定された。ドイツの商法を基(破産法などは
 フランスによる)にし、「商ノ通則」「海商」「破産」
 の3部で構成されていた。商法制定(1899年)
・網走刑務所開設:釧路集治監網走分監網走囚徒外役所(
 のち=網走監獄、現=網走刑務所)開設。 囚人1200人、
 看守173人。
.
1890年、災害・防災:
・足尾鉱毒事件。翌1891年、田中正造は足尾銅山周辺の惨
 状を天皇陛下に直訴した。
.
1890年、外国:
・外国勢力(英仏露独など)による中国分割が進んだ。
  1890年頃~1910年頃、19世紀末~20世紀初頭)満州(
 ロシア)、山東省(ドイツ)、華北・揚子江流域・香港
 (イギリス)、雲南省(フランス)・・
・アメリカの人種差別:
  1890年代、アメリカ人作家のスチーブンスンは、大陸
 横断鉄道建設の労務者として、アメリカに連れて来られ
 た中国の方々や、アメリカ・インディアンの方々が、「
 見下げた人種」とされて、扱(あつか)われていると報
 告した。
  また、「身の毛がよだつ害虫」とか、「姿を見ると息
 が詰まるような存在」とかと否定されたりしていると報
 告した。
・アメリカのインディアンの方々の虐殺:
  1890年、カスター将軍が被(こうむ)った不名誉な敗
 北以降、アメリカ合衆国内は、インディアンの方々に対
 して、激しい報復の怨念が巻き上がった・・、
  この年の12月、第7騎兵隊の兵士たちは、銃を撃ち、ス
 ー族に対し復讐戦をした。
  インディアンの方々の死体は、野に放りっぱなしにし
 て、暴風雨で凍った。
  族長のビッグ・フットの死体も、他の死体とごちゃ混
 ぜにされ、堀った穴に、みんな一緒に、投げ込まれた。
  ゴミを捨てるように・・
  白人アメリカ人たちは、共同墓地だと称した(ウンデ
 ット・ニーの虐殺(先住民への虐殺の歴史)
・アメリカ、工業生産額イギリスを抜き世界一に。
・世界初のメーデーが各国で行う。
・ドイツのビスマルクが辞職。
・マッキンリー関税(高関税による保護貿易)。
・シャーマン法(独占禁止法)
.
.
1890年1月1日、東京朝日新聞が、元日に付録を付けて発行
 した。
  1884年5月11日、星亨が自由党の機関紙として『自由燈』
   を創刊した。
  1888年7月10日、大阪の朝日新聞社が買収し、『東京朝
   日新聞』と改題の上、新創刊した。
  1897年2月1日、前日の八王子の大火に関する報道で、
   業界で初めて、記事伝送に伝書鳩を使用した。
1890年1月18日、富山市に米騒動が起きた。
  富山市で、米価高騰に反発する市民300人が、救済を求
 めて市役所に押しかけた。
  これが、米騒動の始まりだった。
  富山市の貧しい方々が、市役所や資産家に対して救助
 を要請する行動を起こした・・しかし・・、
  この行動が、富山県東部に拡がっていくにしたがい、
 4月から9月にかけて、鳥取、新潟、福島、山口、京都、
 石川、福井、滋賀、愛媛、宮城、奈良の各府県19地点に
 騒動となって行った。
  特に、新潟県佐渡郡相川町(現:佐渡市)の場合は激
 烈で、
  6月28日~7月5日にかけて、鉱夫を中心に(佐渡金山が
 ある)2000名余が蜂起した。
  軍隊1個中隊が出動して、鎮圧しなければならないとい
 う状況だった。
  発端は、大商人の米価つり上げや、米屋の売り惜しみ
 に抗議行動を起こしただけで、一揆とか、打毀しとかの
 騒乱を企てた訳ではなかった。
  その行動の一つが、北海道へ回送する米を積んだ輸送
 船・伊吹丸が、魚津町に寄港した時・・、
  米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の
 積み出しを行なっていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前
 に集まった。
  そし、積み出し・移出の阻止を求めた。
  これが、近隣各地に伝えられ、メディアで報じられ、
 町々でも不穏な空気が広がって行って、騒動的になって
 行った。
  日本では少ない・・この類の事例となった。
  (氷川清話)富山・新潟・鳥取・石川・福島各地での
    米騒動。
  (氷川清話)条約改正につき世論湧く、各地に米騒動
    起る
1890年1月21日、中江兆民、大井憲太郎ら、自由党を結成し
 た(自由党を再興)
  1889年 5月10日、大同協和会(だいどうきょうわかい)
 が・・、
  自由党の前身として、日本最初の自由党が解散した後、
 大同団結運動の一つの形として、この時に、結成された
 ・・しかし・・、
  翌年・1890年1月21日に解散した。
  この時を遡る事・・6年前の1884年に、自由党が解散し
 てからしばらく後の、1886年に、民権派政治家の力を結
 集するべく、大同団結運動が呼びかけられた。
  1889年に至り・・この運動に沿った組織結成の機運は
 高まっていたが・・、
  この時、まとまった政治団体を志向する河野広中・犬
 養毅ら政社派と、
  ゆるやかな連絡組織を望んだ大井憲太郎らの非政社派
 の対立が表面化した。
  このような時、1889年3月22日、大同団結運動の主導者
 であった後藤象二郎は、突如、黒田内閣の逓信大臣とし
 て入閣し、運動から消えた。
  この後藤の離脱の表明を機に、両派は1889年4月になっ
 て決別した。
  そして、1889年5月には、政社派の団体として大同倶楽
 部が、非政社派の団体として大同協和会を発足させた。
  新井省吾・小久保喜七・石坂昌孝らとともに、自由党
 再興を目指した。
  運動を繰り広げるが、各グループ間の対立は解消され
 なかった。
  しかし、翌年・1890年に至り、第1回衆議院議員総選挙
 にそなえて、
  大井憲太郎が、中江兆民、斎藤珪次らとともに・・、
  この時・1890年(明治23年)1月、大同協和会を中心に自
 由党が結成された。
1890年1月23日、新島襄が没した。
  同志社英学校を興した人と知られる新島襄・・、
  アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が
 自由に教えられている国に行くこと」を夢見て決意した。
  そして、憧れのアメリカへと・・、
  備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って行った・・、
  ・・が・・行先のアメリカで、目にしたものは、考え
 抱いていたものとは違った。
  黒人の方々への人種差別の酷さがあった・・それを目
 撃した。
  この明治の時代・日本の西洋観は未熟だった・・未熟
 な憧れだった。
  ただただ、「西洋は何でもよい」という思い込みと、
  「日本はだめだ」という、この時代の
 『無批判な・・幼い・・無垢な世界観・時代観』であっ
 た。
  そしてまた、キリスト教の「すべてを知る事が出来る」
 という時代でもなかった。
  その様な・・すべての情報が与えられる時代というこ
 とではなかった。
  そこに、『思い込み』と『誤解』があった。
  新島襄の後を追ってアメリカに渡った内村鑑三は・・、
 はっきりと・・思い描いていたアメリカ像と、実際の違
 いを・・、その幻滅した現実を吐露した。
  はっきり表現した・・強い人種差別に辟易したと・・、
  スリや窃盗が頻繁に横行しているではないかと・・、
  社会は乱れているではないかと・・、
  「金銭(かね)は、アメリカではすべてのすべてであ
 り(金がモノ言う社会・アメリカ)、
  それはそこでは全能のドルとして礼拝されている」。
  (イエス・キリストが礼拝されているのではないでは
 ないか・・)
  「人種的偏見は、そこでは(アメリカでは)きわめて
 強く、黄色の皮膚とアーモンド形の眼は嘲笑の的(まと)、
 犬の吠える目標として通っているほどである」・・と言
 った。
  黄色い皮膚の日本人も人種差別の対象とされた。
  そして、新島襄も、目の前のアメリカを否定し、ピュ
 ーリタンを夢見た。
  新島襄のアメリカ像は、もろくも崩れていた。
  同志社英学校はつくったけれども・・??
1890年1月25日、婦人記者のネリー・ブライが、72日間をか
 けて単独世界一周を完遂した。
  1888年に、ジュール・ヴェルヌの「八十日間世界一周」
 をモデルとして、実際に、リポーターを世界一周させる
 という企画が決定し、
  ネリーが、そのリポーターに決定した。
  1889年11月14日に、彼女はニューヨークを出発し、
 24,899マイルの旅に出た。
  この時、ネリーの世界一周企画に刺激を受けた他の雑
 誌社が、やはり女性記者のエリザベス・ビスランドを、
  ネリーとほぼ同時に、世界一周旅行(ネリーの東回り
 に対し、ビスランドは西回り)に派遣し、
  ネリーとビスランドは、競争する立場となったものの、
 ビスランドは76日を要したため、ネリーを上回ることは
 できなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:キリスト教の神は・・居ない・・
.
1928年9月26日、マザーテレサさんは、18歳のこのとき、
  インドの話を聞いて、インドを中心に旅行をしたいと
 思った、
  また、旅行だけではなく現地密着の海外活動をしたい
 と思い立った。
  若い女性らしい思い立ちだった・・、
  今、キリスト教の広告塔にされているマザーテレサさ
 んは、あらゆる美化がなされているが・・
  初め・・この時・・
  マザーテレサさんのこの行動は、この様な広告塔の大
 きな話になるという訳では、まったく、当然、なかった。
  18歳のマザーテレサさんは・・、
  インドで・・、
  ヒンズー教徒の方々が・・行っている・・、
  『弱者救済の運動とその行動』の中に入って行って・・、
  ヒンズー教徒の方々と共に・・、
  弱者救済活動を行なった。
  その行為が、そのことが・・、素晴らしい業績となっ
 ていますが・・、
  (注):
  世間には・・
  キリスト教のプロパガンダ・嘘宣伝だけが・・
  あまりにも声高に・・叫ばれているため・・、
  真実が・・隠されています。
  初めて、上記の文を・・読まれた方は・・
 驚かれたと思いますが・・、
  「真実は・・上記なのです」。
  キリスト教は・・、
  マザーテレサさんが、アメリカの映画に取り上げられ・・、
  脚光を浴びた頃、その事を知り・・、マザーテレサさ
 んに着目し・・、キリスト教の・・「広告塔」にしまし
 た。
  そして、ヒンズー教の方たちを隠しました。
  ヒンズー教徒の方々は・・まったくと言ってよいほど、
 陰に隠れた状態に・・なってしまいました。
  それでも、インド政府は、マザーテレサさんを・・、
 国葬にして・・マザーテレサさんを讃えました。
  そして・・、
  マザーテレサさんには、「別の業績」がありました・・、
  それは・・、
  「キリスト教の神は居ない」・・と、表明されたこと
 でした。
  マザーテレサさんは・・、キリスト教の神の存在に悩
 んでいました。
  キリスト教の神は居ない・・と・・、
  本国の色々な司祭などに・・長い期間、悩みを打ち明
 け続け・・、
  そして、相談をし続けていました。
  その事実は・・隠されていました・・が、
  また、彼女のこの悩みである「キリスト教の神の不存
 在」は、「彼女の死に至るまで」・・続きました。
  彼女は、死ぬまで、キリスト教の神は居ないと悩んで
 いました。
  このキリスト教の神が居ないという事実を、公表する
 事が・・彼女の希望であったのでしょう、このキリスト
 教に『不利な事実』・「真実」が公表されました、キリ
 スト教の神は居ない・・と・・、
  このキリスト教の神は居ない・・神の死は・・
  今、アメリカに・・、
  「神の死の神学」という人々が居ます。
  この方たちは・・、
  キリスト教の『神の不存在を主張』し・・、
  成熟した現代社会・世界の人々は・・、それで十分や
 って行けるのだと言っています。
  『古代に発生したキリスト教』・・、
  その様な時代の、古代人とは・・現代人は違う・・と、
 主張する・・方たちです。
  そして、マザーテレサさんは思っていたと思います・・、
  「神が居ない」と言い続けて、公表に至ったことは・・、
  その行為が・・「人類に貢献しうること」・・と、
  そう考えられて居られたから・・公表がなされました。
  また、『キリスト教の神の実在性を主張するそのもの
 が・・人類にとってよくないこと・・よくないもの』・
 ・と、
  マザーテレサさんが、そう考えられているから・・、
 この様な、行動が取られたのだと言えます。
.
  (参考)神の死の神学:
  ニーチェの言葉である・・「神は死んだ」は・・、
  1960年代になり、公民権運動が盛んな時代のアメリカ
 の神学者たちも使うようになった。
  アメリカの神学者たちは・・、
  現代社会において神は・・、人間に・・、
  『リアルな存在ではない』・・・
 ・・という意味で、
  「神は死んでしまった」という意味で用いる。
  1957年に、
  アメリカの神学者ゲイブリル・ヴァハニアンは・・、
  『神は死んだ』と題した著書を著した。
  ヴァハニアンは・・その中で・・、
  無神論を・・『アメリカの大衆の生き方である』・・
 と、述べている。
  アメリカ人の神学者・トマス・アルタイザーは・・、
  エモリー大学で教えている間に、『神は死んだか?』を
 出版する。
  また、アメリカの神学者のウィリアム・ハミルトンが、
 異なった立場から・・、
  1961年に、著書『キリスト教の新しい本質』で・・、
 異なった視点の・・『神の死の神学』を展開した。
  そして、神が居ないと自覚する事で・・、
  人間の主体性が、そして、自律性が・・とりもどされ、
  前の時代の・・神に拘束された非人間性から・・脱却
 でき・・そして、人間らしさが取り戻せる・・と・・、
        (wikipedia・その他を参考にして記す)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年3月9日木曜日

(増補版)505E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)505E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1889年1月16日、オーストラリアで、最高気温を記録した。
  (摂氏53度、クイーンズランド州クロンカリー)
1889年1月30日、マイヤーリンク事件
  オーストリア皇太子ルドルフ謎の情死。
  ルドルフ・フランツ・カール・ヨーゼフ・フォン・ハ
 プスブルク=ロートリンゲン(1858年8月21日~1889年
  1月30日)は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世
 の子で皇太子。
  ハプスブルク=ロートリンゲン家の世継ぎとして周囲
 に期待されたが、父帝との反目や政治的対立などから孤
 立し、男爵令嬢マリー・フォン・ヴェッツェラと謎の死
 を遂げた。
1889年3月4日、清国で、徳宗親政治が始まる
  1889年、光緒帝が結婚に伴い正式に親政を開始した。
  光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)は、清の第11
 代皇帝で(在位1875年2月25日~1908年11月14日)
  廟号は徳宗(とくそう)
  満州語族の皇帝。
  在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。
  1885年の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失など
 があった。
  そして、光緒帝が16歳になった1887年に、西太后から
 政権を委譲され、
  彼女の指導で政治を行う訓政という形で政治は継続さ
 れた・・が・・、
  末年は西太后と対立した。
1889年4月20日、アドルフ・ヒトラーが生まれた。
  (~1945年4月30日)
1889年11月15日、ブラジル皇帝のペドロ2世が廃位した。
  そして、ブラジルは共和政となった。
  ペドロ2世(1825年12月2日~1891年12月5日)は、ブラ
 ジル帝国の第2代で・・、
  かつ、最後の皇帝だった(在位:1831年~1889年)
  初代ブラジル皇帝ペドロ1世と、オーストリア皇帝フラ
 ンツ1世の次女マリア・レオポルディナ皇后の長男で、
 ポルトガル女王マリア2世の弟。
  ペドロ2世は、学問や芸術を愛好するリベラルな君主で、
  憲法で国教と定められたカトリック教会を抑圧した。
  そして、素晴らしいことに・・新大陸で不可欠とされ
 た黒人奴隷制の廃止にも尽力した。
  しかし、この政策は、王政の支柱たるキリスト教会と、
 地主層の反発・離反を、当然のごとく招くことになった。
  自分の利にさとい(自分の利益にばかりに目が行く)
 キリスト教会や、金持ち地主層だった。
  奴隷制廃止が出来ないキリスト教会と地主層だった。
  ペドロ2世は賢帝であった・・リオデジャネイロの裏山
 が、コーヒー栽培で荒れ果て・・また・・、
  町に水がなくなったときに、コーヒー農園を奥地に再
 配耕し、裏山の再植林を命じた。
  再植林事業は成功し、現在、その地はチジューカ国立
 公園となり、世界最大の都市森林と呼ばれる最良の状態
 となっている。
  また、ブラジル最初の鉄道を引く敷設も命じた。
  また、ブラジルで、最初に、電話とタイプライターも
 使用出来るようにした。
  また、20万のブラジル兵を動員した三国同盟戦争(
 1865年~1870年)では、パラグアイの首都アスンシオン
 を陥落させた。
1889年、第一次エチオピア戦争が始まった(~1896年)
  エチオピア帝国と、その植民地化を図るイタリア王国
 との戦争。
1889年、ブーランジェ将軍事件が収束した(フランス)
  (1886年~1889年)
  第三共和政治下のフランスで起こった、反議会主義的・
 反共和主義的政治運動・・、
  この年・1889年、第三共和政に対する軍部や右派から
 のクーデター未遂事件が起きた。
  陸軍大臣だったブーランジェ将軍は・・、2年前の1887
 年に、当時はドイツ領だったロレーヌ地方で、フランス
 人が国境侵犯の疑いでドイツ側に拉致される事件(シェ
 ネブレ事件)が起きると・・、
  外交交渉による解決をはかる首相・外務省に対して、
 即時、軍事行動による報復を唱えた。
  これは、閣内不一致ということで、将軍は罷免された。
  フランス国内に、一斉に、将軍支持の世論が高まった。
  日頃、「対独復讐」を唱え、軍備拡張を主張している
 王党派(ブルボン王朝の復活を主張)や、
  ナポレオン派(ナポレオンのような強力な国家指導者
 の出現を求める一派)などが・・愛国者同盟を結成して
 共和政府打倒に動き出した。
  また、急進的な労働組合主義、アナーキスト(ブラン
 キの系統)らは・・、
  議会政治を否定する立場から、共和政を倒し、軍事独
 裁政権の樹立を支持した。
  当時は、共和政政府の混乱や腐敗もあって、大衆は、
 ブーランジェ将軍を「救国の英雄」と期待していたので、
  同年・1887年に行われた選挙で、多くのブーランジェ
 派(ブーランジェスト)が当選した。
  街頭では、共和政府を打倒し、強い行動がとれる政権
 の樹立を求め、そして叫ぶ、群衆のデモが盛んに行われ
 ていた。
  1889年には、クーデタの決行寸前まで行った・・が、
  政府は、コンスタン内相が、ブーランジェ将軍を国家
 転覆の陰謀の容疑で告発することで対抗した。
  ブーランジェは、突然、ベルギーに亡命した。
  そのため、運動は急速に衰退した。
  この事件を、より深く見れば・・、
  普仏戦争(1870年~1871年、フランスとプロセインの
 戦争、ドイツはプロセインに味方した)に、フランスは、
 敗北した。
  この事によって、フランスは賠償金を課せられた。
  また、一大鉱業地帯であるアルザス=ロレーヌ地方を
 喪失した。
  このために、フランスの国民感情は、ドイツに対する
 敵愾心(てきがいしん)が高まっていた。
  それと、1882年に起こった金融恐慌のため・・、
  それまで上昇傾向であった景気は低迷していた。
  工業生産は低落した・・アメリカ・ドイツに抜かれて、
 世界第4位に転落するという有様だった。
  また、フランス帝国主義による植民地支配は拡大し、
  その外債による対外投資が増大するという問題点があ
 った。
  これに加え、ドイツの時の宰相であるビスマルクが、
 フランスを孤立させる外交方針を展開していた。
  これらのことから、フランスでは、対独対抗意識を高
 揚し、
  また、強い政府を求めようという運動が主張されてい
 た。
  しかしながら、当時の多党連立政権は、明確な対策を
 打ち出すことができなかった。
  与党に対抗すべき社会主義政党も、離合集散を繰り返
 していて、広範な支持を得ることができるという状況で
 はなかった。
  一方、王党派は、ブルボン朝支持派と、オルレアン朝
 支持派の間で対立があった。
  こちらもまとまりを欠いていた。
  この様な1886年1月・・、シャルル・ド・フレシネ内閣
 の陸軍大臣として、ジョルジュ・ブーランジェが登用さ
 れた。
  ブーランジェは、時勢が共和派に有利となっていると
 判断した。
  彼らに迎合するかたちで、兵制の民主的改革をおこな
 った。
  また、王族の軍隊からの排除を行った。
  また、ドゥカズビル炭鉱における争議に対して、軍隊
 の出動を求められた際・・、坑夫に同情的な態度を装い・・、
  また、議会においては、共和制護持の演説を展開し、
 共和主義者・・特に、急進派からの支持を大きく受け、
  「共和的将軍」としての名が高まった。
  1886年12月には、内閣が、ルネ・ゴブレに交代したが、
 ブーランジェは・・陸相に留まった。
  1887年4月20日、ドイツ国境においてフランスの一警察
 官が、スパイ容疑で逮捕されるというシュネブレ事件が
 起きた。
  独仏国境における緊張が高まった。
  ブーランジェは、対独強硬論を主張した。
  ビスマルクをして『独仏の友好にとって最大の危険人
 物』と言わしめた。
  これによりブーランジェは、対独を含めた、排外的国
 民的感情を掌握した。
  「復讐将軍」「ビスマルクを尻込みさせた男」として
 人気を博した。
  右翼側からも広く受け入れられることとなった。
  1888年4月には二つの県で、8月には三つの県で、補欠
 選挙に立候補し、そのいずれにも当選を果たした。
  これは、選挙法の不備につけこんだ行為でもあったが、
 少なくとも、違法ではなかったため、政府はなすすべが
 なかった。
  ブーランジェは、「議会解散、立憲議会、憲法改正」
 の三つのスローガンを掲げた。
  1889年1月27日に、セーヌ県で行われた選挙に出馬し、
 共和各派統一戦線の候補者に8万票の大差で圧勝した。
  この際に、5万の群集が集まった・・そして、彼に、
 「クーデターの実行」を指嗾(しそう、悪事などを行な
 うように仕向けること、指図してそそのかすこと)する
 までになった。
  ブーランジェ派の指導者たちは・・、
  当選が決定した1月22日の夜・・ブーランジェをエリゼ
 宮殿まで行進させ、示威行動とともに・・独裁権を奪取
 する計画を練っていた。
  ・・が、肝心のブーランジェ本人が、実行をためらっ
 た。
  そのため・・計画は瓦解した・・
  大衆の支持は急速に失われた。
  フランス共和制は・・危機を脱した。
  その後、ブーランジェに逮捕状が発せられた。
  また、関係する組織が、起訴されることとなった。
  身の危険を感じたブーランジェは・・ベルギーに亡命
 した・・彼を支持した勢力は・・急激に衰えて行った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:このアメリカの『戦略方針』から始まった・・
    アメリカの知識人たちは・・これを否定した・・
.
20世紀初頭、この頃、アメリカの『戦略的方針』が決まっ
 た。
  新興の帝国主義国として目覚めたアメリカは・・、
 『アメリカに挑戦できる勢力を持つ覇権国の出現は、許
 さない』・・という・・グランド・ストラテジー(grand
  strategy、国策、雄大な戦略)を設定した。
  アメリカが、第一次世界大戦に参戦したのも、
  当時、イギリスよりも強い工業力と陸軍力を持つよう
 になったドイツが、ヨーロッパの覇権国になろうとして
 いたことを阻止するためだった。
.
1937年10月5日、ルーズベルトが「隔離演説」をした。
  この演説に対して・・ウォールストリート・ジャーナ
 ルは「アメリカは平和を欲する」と批判した。
  また、国務長官のハルでさえ・・、
  「隔離」や「伝染病」というものに例えたレトリック
 は無用な反対をもたらした・・と批判した。
  『挑発的なこのルーズベルトの演説』は、「ただ、ロ
 シアの勝利に終わるだけだ」・・と批判された。
  また、アメリカ国民の方々も非難して・・、
  「ルーズベルトは、アメリカ国民を、世界大戦の道に
 連れて行こうとしている」・・と声明を出した。
  また、「アメリカを参戦させないための請願」に2500
 万人の署名を集める運動も・・開始された。
  アメリカ大統領のルーズベルト政権には・・側近たち
 には・・、
  ソ連の息のかかった者たちが・・多く居た。
  このことも関係して、ルーズベルトの政策は、社会主
 義的になって行った。
  そして、議会の権限を無視して、行政府を大きくした。
  また、当然の様に・・大統領権限をドンドン大きくし
 て行った。
  アメリカは・・独裁者的になって行った。
  これは、アメリカ合衆国憲法の違反行為でもあった。
  『アメリカの国体を破壊している』・・と、前任の大
 統領だったフーバー元大統領は言った。
  ルーズベルトは、その権限拡大で、外国政府の干渉を
 受けないのはもちろんのこと、自国のアメリカ政府にも
 『干渉されないという状態』を作った。
.
1945年4月28日、イタリア、ムッソリーニ銃殺
.
1945年4月30日、ドイツ、ヒトラー自殺
  独総統ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンが自殺、
  遺言によりカール・デーニッツが大統領、ヨーゼフ・
 ゲッベルスが首相に就任。
.
1945年6月23日、沖縄守備軍の牛島満司令官が、摩文仁司令
 部で自決した。
  沖縄戦の組織的抵抗が終結。
  後に、この日が沖縄県の慰霊の日と定められた。
.
1945年7月15日、ポツダム会談(~8月2日)
.
1945年7月16日、アメリカが、原爆実験に成功した。
  アメリカ、ニューメキシコ州アラモゴードの実験場で
 史上初の原子爆弾の爆発実験に成功した(トリニティ実
 験)
.
1945年7月17日、ポツダム会談開始。
  アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相ウィンスト
 ン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリンらが参加。
.
1945年7月21日、アメリカ大統領トルーマンが、原子爆弾の
 使用を承認した。
.
1945年7月26日、ポツダム宣言発表。
  連合国が日本の降伏を要求した。
.
1945年8月2日、ポツダム会談終了。
.
1945年8月6日、アメリカが、広島市へ原子爆弾を投下した
  (午前8時15分)
.
1945年8月7日、日本海軍が初の国産ジェット機「橘花」の
 試験飛行を実施した。
.
1945年8月9日、未明に、ソ連軍が満州へ侵攻した。
  対日参戦開始。
.
1945年8月9日、午前、ポツダム宣言の受諾の可否について
 最高戦争指導会議が開かれた。
  日本は、ポツダム宣言を受諾に関し・・ソ連に仲介を
 依頼していた。
  ソ連は、日本を欺いて、ルーズベルトからそそのかさ
 れた対日参戦を決定しており、仲介をする訳はなかった。
  しかし、日本は、そのソ連の返事を待っていた。
  故に、ポツダム宣言を日本が黙殺していた訳ではなか
 った。
  結果的には、後に、日本は、国体護持の約束を得られ
 『有条件』でのポツダム宣言受諾へとなって行った。
  第二次世界大戦の起きた責任・・、
  ケナン、モーゲンソー、リップマン、キッシンジャー、
 ウォルツ、ポール・ケネディ等は、著作や論文で・・、
  『第一次世界大戦の後、アメリカがあの様な無責任な
 外交をしていなければ、第二次世界大戦は起きていなか
 っただろうと」と、そろって指摘している。
  アメリカの傲慢で独善的な外交を糾弾している。
  アメリカは戦争に勝つと相手の国をディモナイズ(悪
 魔化)する。
  ディモナイズされた国の、悪魔化された国の婦女子で
 あるから、非武装の婦女子であろうと、何百万人も無差
 別虐殺しているのに、『まったくの責任を感じないで、
 ケロッと』している。
  ディモナイズ(悪魔化)して、ディヒューマナイズ(
 非人間化)している。
  日本だけでなく・・ベトナムの方々もどれだけ卑劣に
 殺戮されたか? 虐殺されたか? その他の国々の方々
 までも・・??
  アメリカの戦いには、「神の召命による戦い」という
 観念がある。
  考える以前の状態で、『正しい戦いだ』と決めている。
  キリスト教によるマインド・コントロールの戦いであ
 る。
  神の召命の戦いは、「卑劣で悲惨な戦いの形」となる。
  戦いの正義は、思考以前から決していて、自分たちだ
 けの正義の元で行なう戦いで・・そこには、何をしても
 良いという思考へ導かれていた。
  市民への殺戮も「抵抗感なく行われた」。
  また、キリスト教の神による戦いなので『徹底的に相
 手を殺戮し、徹底的に叩き潰した』。
  キリスト教の洗脳は、罪作りな考え方・教義であった。
  アメリカは、今・現在でも、この思考の元にある。
  故に、相手に、後々まで、「恨みが残るような、卑劣
 な殺戮の戦い」が現出する。
  そこには、キリスト教が言う「シャロームの完全破壊」
 があった。
  常に、いつも、そこに・・アメリカは、「自分たちだ
 けが、正義の戦争をしている」と叫びたてる異常さがあ
 った。
  アメリカは、自分たちだけに「(キリスト教の)神の
 義がある」とした。
  だから、虫けらの様に・・「相手を誅しても良い・・、
 敵を誅しても良い」というキリスト教の考え方・教義に、
 マインド・コントロールされた。
  そして、正しいから勝ったと、相手をすべて否定した。
  傲慢な考え方・行為をして行く。
  「戦争に敗けたから不道徳だ」なんて言える訳はない。
  しかし、臆面もなくアメリカは、その論法を取った。
  そして、相手を不正義のどん底に突き落とした。
.
1945年8月9日、アメリカが、長崎市へ原子爆弾を投下した。
  午前11時02分、
.
1945年8月10日、午前0時03分、ポツダム宣言の受諾の可否
 について御前会議が開催された。
.
1945年8月10日、未明、御前会議で「国体の護持」を条件に
 日本のポツダム宣言の受諾が決定され、連合国側へ打電
 した。
.
1945年8月11日、ソ連軍が日ソ国境を越えて南樺太へ侵攻。
  樺太の戦い。
.
1945年8月12日、満州国鶏寧県麻生区(現中華人民共和国黒
 龍江省鶏西市麻山区)において、日本の哈達河開拓団が
 避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃され、集
 団自決に追い込まれた・・麻山事件が発生。
.
1945年8月14日、日本、ポツダム宣言を受諾(御前会議)
.
1945年8月14日、午後9時、ラジオで「15日正午より重大発
 表あり」という旨の放送。
.
1945年8月14日、午後11時、ポツダム宣言受諾を連合国側に
 通知。
.
1945年8月14日、午後11時20分、天皇陛下が玉音放送を録音。
.
1945年8月14日、葛根廟事件。
.
1945年8月14日、マッカーサー米太平洋陸軍司令官が連合国
 軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied
 Powers、SCAP)に就任。
  日本のポツダム宣言受諾の通告を受け、連合国軍の最
 高司令官が任命され就任した(終戦の成立の一つの事実)
  ソ連の終戦していないという論理は、『屁理屈』とな
 っている。
  完全に、ソ連は、日本領土収奪の強盗行為を日本に対
 して行っていた。
  北方領土などに対して行っていた。
.
1945年8月14日、大本営が攻勢作戦の停止を発令(危険行為
 などに対する自衛反撃は継続)
.
1945年8月15日、陸軍一部がクーデター未遂(宮城事件)
.
1945年8月15日、日本標準時正午に、昭和天皇陛下の肉声で
 読み上げられた終戦詔書が、ラジオで放送される(玉音
 放送)
  日本国民にとって敗戦の日となる(終戦の日)
.
1945年8月16日、スターリンが、ソ連軍の北海道占領を米・
 トルーマン大統領に要求。
  トルーマンは18日に拒否回答。
.
1945年8月17日、インドネシアのスカルノとハッタが、イン
 ドネシア共和国のオランダからの独立を宣言した。
  (インドネシア独立宣言)
.
1945年8月18日、ソ連軍が千島列島で攻撃開始(強盗行為)
.
1945年8月19日、昭和天皇陛下が、東久邇宮首相に燈火管制
 解除等を指示された。
.
1945年8月23日、日本陸海軍の復員開始。
.
1945年8月23日、ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリン
 が日本軍捕虜のソ連国内への移送を指令(不法なシベリ
 ア抑留)
.
1945年8月26日、終戦連絡事務局設置。
.
1945年8月27日、敦化事件。
  占領軍の暴行に抗議して婦女子集団自決。
.
1945年8月28日、連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行
 場に到着。
  26日の計画であったが暴風雨のため2日遅れ。
.
1945年8月30日、マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に
 到着。
  アメリカ太平洋軍総指令部 (GHQ/USAPA) を横浜税関に
 設置。
.
1945年8月30日、ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を
 停止。
.
1945年8月31日、アメリカ軍主力が横浜・館山に上陸。
.
1945年9月2日、降伏文書調印
  連合国が東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅
 津美治郎らが降伏文書調印(対日戦勝記念日)
.
1945年9月2日、GHQが、陸海軍解体・軍需工業停止など
 を命令。
.
1945年9月2日、アメリカのダグラス・マッカーサー元帥が
 北緯38度線を境とした米ソによる南北朝鮮の分割統治を
 発表(連合軍軍政期 (朝鮮史)
.
1945年9月3日、ソ連軍が日本の北方領土を不法占領。
.
1945年9月3日、英人記者バーチェットが広島の惨状を取材
 し「No More Hiroshima(二度と原爆は落すな・・広島の
 悲劇はもうたくさんだ)」と打電。
.
1945年9月8日、ソ連が朝鮮北部を、アメリカが南部を占領
 し分割統治が開始される。
.
1945年9月8日、GHQ、マッカーサー元帥が東京に進駐。
.
1945年9月11日、東條英機ら戦犯容疑者39人に逮捕令(東條
 は自殺未遂)
.
1945年9月15日、GHQ、総司令部を東京・日比谷の第一生
 命館に移転。
.
1945年9月17日、瑞穂村開拓団集団自決。
.
1945年9月25日、外国人記者2名が昭和天皇陛下に拝謁し、
 インタビューを行う。
.
1945年9月27日、昭和天皇陛下が、マッカーサー元帥を訪問
.
1945年9月28日、フランスが、サイゴンを占領した。
.
1945年9月29日、新聞各紙が昭和天皇陛下のマッカーサー元
 帥訪問時の写真、および、天皇陛下のインタビュー記事
 を掲載したため、情報局が新聞紙法により頒布禁止とす
 るが、GHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」を
 発令し、頒布禁止を無効化。
.
1945年10月2日、連合国軍最高司令官総司令部を設置。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年3月7日火曜日

(増補版)504E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)

題:(増補版)504E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年12月~1889年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年1月10日、象牙海岸(コートジボワール)がフランス
 の保護国となる。
  英語圏のIvory Coast・・Ivory(象牙) Coast(海岸)
 の意味であるが、
  1985年に、フランコフォニー国際機関が、フランス語
 の国名"Côte d'Ivoire"を意訳しないよう求める決議を行
 い、
  翌・1986年から政府が意訳による外名の使用取りやめ
 とフランス語国名の採用を各国に要請している。
  日本では、コートジボワール政府から外名変更を要請
 された1986年以降、外務省大臣官房総務課が内規として
 定める『国名表』で「象牙海岸」に加え「コートジボワ
 ール」も選択表記と言う形で公文書への使用が可とされ
 た。
  これを受けて外務省編集の(財)世界の動き社『世界
 の国一覧表』が「象牙海岸」から「コートジボワール」
 に表記を変更し、日本郵便の宛先表記やNHKを始めとす
 るマスメディア各社、民間の書籍でも「コートジボワー
 ル」が使用されるようになっている。
  歴史的には、15世紀に、ポルトガル、イギリス、オラ
 ンダなどヨーロッパの貿易船が、奴隷と象牙の売買に来
 航した。
  黄金海岸、胡椒海岸(穀物海岸)、奴隷海岸などとと
 もに、この地には象牙の海岸(Côte d'Ivoire)という名
 が付けられた。
  17世紀半ばに、フランスが西アフリカ経営に乗り出し
 た。
1889年2月17日、セザール・フランク交響曲の初演(パリ音
 楽院)
  交響曲ニ短調(作品48)は、フランスの作曲家セザー
 ル・フランクが作曲した交響曲で、
  フランスにおけるこのジャンルを代表曲と言われ、
  19世紀後半における最も重要な交響曲のひとつとして
 高く評価される。
  https://www.youtube.com/watch?v=HKVIMy1y7Iw
1889年5月6日、第4回パリ万国博覧会が開催された(~1889
 年10月31日)
  1889年3月31日、パリのシャン・ド・マルスの広場に立
   つ鉄塔「エッフェル塔」の落成式が行なわれた。
    第4回パリ万国博覧会にあわせて建設され、フラ
   ンス人技師エッフェルが設計した。
    基部を含める高さは、312.3メートルで、世界一高
   い建造物だった。
    展望台は3つで、高さは57.6m、115.7m、276.1
   mにある。
    第2展望台までは、階段でも昇ることが可能で、
  1889年 5月15日、エッフェル塔が一般に公開された。
   (開場5月6日説あり)
  1889年 5月26日、エッフェル塔のエレベーターが運行
   開始した。
1889年6月3日、カナダ太平洋鉄道が、太平洋~大西洋間で
 全通した。
  およそ14,000マイル(約22,500キロメートル)におよ
 ぶ路線網が、カナダ中、そして、アメリカ合衆国内に開
 通している。
  岩盤を通してトンネルを建設するために爆発物を扱う
 など、危険な建設作業も多かった。
  しかし、建設作業で亡くなった人の遺族には、一切の
 補償がないばかりか、死亡通知すら送らないこともあっ
 た。
  中国人と契約を結んだ業者(その業者を許可したカナ
 ダ政府)は、自身の責任としての責任を果たさなかった。
  中国への帰還を約束していたにもかかわらず、建設作
 業を無事に終えて、生き延びた人々の中に、中国に帰る
 のに必要な金さえ持っていない者も多いという、劣悪な
 作業環境だった(奴隷と同じような状態)。
  多くの者たちは、人里をかけ離れた土地で、お金も使
 う所のない所で、この劣悪な賃金の中に置かれた。
  そして、しばしば、貧困のうちに、年月を過ごさなけ
 ればならなかった。
  中国の方たちは、とてもよく働き、鉄道の西側区間を
 建設するのに重要な役割を果たした。
  わずか12歳の少年すら、給仕として働いていた。
  2006年、カナダ政府は、中国系カナダ人の方たちに対
 して、カナダ太平洋鉄道の建設中、および、建設後の中
 国人に対する人種差別などの扱いについて、多々あった
 不都合・卑劣な行為を『公式に謝罪した』。
  また、1885年3月~5月には、インディアンの方々が、
 ノースウェストの抵抗行動を起こした(北西部サスカチ
 ュワン河流域を舞台にした叛乱)
  (カナダでは卑劣にも反乱という言葉を使っている・・)
  土地所有権上の問題で・・、
  また、インディアンの方々にとって大切な食料のバッ
 ファロー絶滅行為に対しての抗議行動だった。
  バッファローを必要もないのに、不要に殺戮して、イ
 ンディアンの方々を餓死に至らしめようという卑劣な行
 為で、
  インディアンの方々の生存を脅かす大問題を、常識で
 してはいけないと・・分かる様な卑劣な行為を・・カナ
 ダは起こしていた。
  インディアンの方々の窮状を訴える請願(願い出る行
 為)も、カナダ政府は無視した。
  逆に・・カナダ政府は・・F・Dミドルトン将軍の7000
 人の軍隊を派遣し・・武力によって鎮圧(5月15日に降伏)
 した。
  『欲の塊』の白人政府は・・この後に、東部カナダを
 イギリス系とフランス系両勢力の、政治闘争の場と化せ
 しめた。
1889年7月14日、第二インターナショナルが、パリで結成さ
 れた(~1914年)
  各国の社会主義政党・労働組織などが参加し、ドイツ
 社会民主党が中心であった。
  第1次世界大戦の際、愛国主義が階級闘争理論を圧倒し
 たため分解した。
1889年10月6日、パリで、ムーラン・ルージュが開業した。
  フランスのパリ市内、モンマルトルにあるキャバレー。
  フランス語で「赤い風車」という意味で、実際に屋根
 の上に赤い風車がある。
  歌やダンス、フレンチカンカン、大道芸を組み合わせ
 たショーで有名。
  また、画家のロートレックがここに通いつめ、踊り子
 たちをモデルに数々のポスターを描いた。
  第一次世界大戦や第二次世界大戦下でも営業を続け、
  第二次世界大戦中、パリがドイツ軍の占領された時に
 も営業し、多くのドイツ軍将兵でにぎわった。
  ここで活躍した著名なミュージシャンは、エルビス・
 プレスリー、フランク・シナトラなど・・多数いる。
  現在もパリを代表する観光スポット。
  1日に2回のショーがあり、19時(ディナー付)と、
  21時(19時の回のディナーが終わったころに入場し、19
 時からいる人と一緒にショーを楽しむ。ドリンク付)、
  23時(ドリンク付)が開演時間。
  約840名を収容できる。
1889年11月20日、グスタフ・マーラー交響曲第1番(初稿が
 )初演された(ハンガリー国立歌劇場)
  交響曲第1番ニ長調は、グスタフ・マーラー(オースト
 リアに生まれる)が作曲した最初の交響曲。
  1889年11月20日に、マーラー自身の指揮、ブダペスト・
 フィルハーモニー交響楽団によって初演。
  しかし、成功しなかった。
  「ブダペスト稿」とも呼ばれるこの稿は、現在は失わ
 れている。
  当初、マーラーはこの曲を交響曲でなく、「交響詩」
 と呼んでいた。
  全体は2部構成、5楽章からなり、第1楽章と第2楽章を
 第1部として「若人、美徳、結実、苦悩のことなどの日
 から」、第3楽章以下を第2部として「人間喜劇」という
 標題が付けられていた。
  https://www.youtube.com/watch?v=4R0g5gez1oE
.
  (今日の言葉)
.
  題:一極支配をしたいと、歴史上、何度もなされたが・・一度も、一極支配は実現しなかった・・
    世界制覇をしたいという、強者の・・人間の欲は・・歴史上・・実現したためしはなかった・・
.
紀元前5億4000万年~紀元前4億5000万年、全ゲノム重複
  この頃に、全ゲノム重複が起きた。
  「2R仮説」「大野仮説」と呼ばれるゲノミクス、およ
 び、分子進化上の説であり・・、
  脊椎動物では、進化の初期段階で、全ゲノムの重複が
 1回以上起こり、その結果、その後の脊椎動物ゲノムは、
 始原ゲノムの多倍数体となっていると考える説(全ゲノ
 ム重複)
  人類は、進化の過程で、この様な全ゲノム重複を起こ
 した。
  何らかの原因で、魚類以上の脊椎動物で、染色体が倍
 加したという説・・、
  すべてが・・一斉に、卵精子が倍数化した。
  半世紀前に・・日本人によって説明された説で、日本
 人には、比較的自然に受け入れた・・が・・、
  外国で認められたのは、2000年頃という最近になって
 から・・、
  多くの魚類のゲノム解析が進んで、多くの遺伝子が重
 複していることが発見された。
  日本で、自然に受け入れられた理由は、キンギョ(マブ
 ナ=ギンブナ)には,2倍体、3倍体、4倍体が存在する。
  魚類に、そのような倍数体が普通に存在することは、
 日本では、よく知られていた。
  染色体が、倍になり、倍数化が起こると、一セットの
 遺伝子は使用されない。
  その使用されない遺伝子に、突然変異が蓄積して行き、
 やがて、新しい遺伝子として機能し始め、多様な遺伝子
 を獲得したという考え方・・、
  この説は、1990年代になって、改めて、研究者の興味
 を引き、
  最近になって・・重複の時期、および、回数について、
 示唆を与える研究結果が見られはじめている。
  木村資生氏などの、世界が認める日本の遺伝学者の多
 くは,大野の仮説を支持した。  
  国立遺伝学研究所のホームページにも・・、
  素晴らしい報告が記されていた・・以下に記すと・・、
  さまざまな生物の全ゲノム解読は、全遺伝子の解明を
 通じて、広く生命科学に寄与するとともに、
  生物進化の研究に多くの知見をもたらしてきました。
  多くの動物は、父方と母方からの同一のゲノムをもつ
 「二倍体」ですが、アフリカツメガエルは、異種交配と
 全ゲノム重複により一つの生物の中に異なる2種類のゲ
 ノムをもった「異質四倍体」とされていました。
  そのため、非常に有用なモデル生物であるにもかかわ
 らず、全ゲノム解読が非常に困難と諦められ、主要モデ
 ル生物の中で唯一行われていませんでした。
  しかし、日本とアメリカを中心とする国際コンソーシ
 アムは、アフリカツメガエルの全ゲノム解読に挑み、見
 事その全貌を明らかにしました。
  得られた情報は、今後、生物学から医学に至るさまざ
 まな研究分野に大きく貢献すると期待できます。
  加えて、アフリカツメガエルのゲノムの中にある2種類
 のゲノム(サブゲノム)が、別々の染色体のセットに分
 かれて存在するという重要な発見をしました。
  それにより、このカエルは、約1800万年前に、2つの種
 が異種交配と全ゲノム重複を起こして誕生した異質四倍
 体であること、その後、2つのサブゲノムが一つの生物の
 中で異なる進化を辿ったことが明確に示されました。
  今日の地球上には、実に多様な種類の脊椎動物が生息
 し繁栄していますが、その最大の要因と考えられるのが
 約5億年前の古生代カンブリア紀に起きたとされる「2回
 の全ゲノム重複」です。
  その謎を解くための重要な鍵、いわゆるロゼッタスト
 ーンとしてアフリカツメガエルのサブゲノムの進化の仕
 組みが役立つことになります。
  これは、生命科学における画期的な成果です。
  国立遺伝学研究所 先端ゲノミクス推進センター・生命
 情報研究センター比較ゲノム解析研究室の藤山秋佐夫・
 豊田敦グループは、本国際プロジェクトにおいて、
  当初から共同研究を推進し、BAC、fosmidライブラリの
 構築と両端および全長配列決定、ゲノムブラウザ構築、
 および、提供による国内における情報共有、FISH用BAC、
 fosmidクローンの調製、RNA-seq解析など多岐にわたる
 過程で本プロジェクトに貢献しました。
  また、本プロジェクトは、主に科研費新学術研究「ゲ
 ノム支援」(国立遺伝学研究所、東京大学、国立成育医
 療研究センター)、科研費・基盤(A、B、C)による支援
 のもとで進められました。
  ・・以上・・
 「キリスト教の神の創造説は完全にこの説でも破綻した」
.
16世紀、ハプスブルグ王朝は、この頃、スペイン、オース
 トリア、オランダ、フランス(一部)、イタリア(一部)
 を支配していた。
  この頃のヨーロッパの4分の1を支配下に置いていた。
  これに対し、オランダが反乱を起こし、反抗した。
  この反乱を、イギリス、フランス、トルコ、ドイツが
 助けた。
  ハプスブルグ王朝のヨーロッパの『一極覇権の確立』
 はうまく行かなかった。
  この例の様に・・世界史上で、一極支配が確立したこ
 とはない。
.
1643年、フランスの「太陽王」と言われたルイ十四世が、
 絶対君主の座についた(在位1643年~1715年)
  この時のフランスの国力は、イギリスの4倍あった。
  ルイ十四世は、ヨーロッパの覇権獲得を目指したが、
 イギリス、ドイツ諸侯国、スエーデン、オランダなどが
 連合して、このフランスに対抗した。
  フランスによる『一極支配は、確立しなかった』。
.
1871年、プロシア(後のドイツ)のビスマルクが、宰相の
 地位に就いた(任期:1871年~1890年)
  鉄血宰相と言われたビスマルクは、ドイツを世界一の
 陸軍国にした。
  また、ドイツ工業力も、世界第二位に躍進させた。
  ビスマルクは、腰の低い、タフで、巧妙な外交政策を
 行ない「リアリスト外交の天才」と言われた。
  ビスマルクは、ドイツの国力を飛躍的に向上させなが
 ら、周囲の諸大国が、「対ドイツ包囲網」を作る事を阻
 止した。
  抜群なバランス感覚で、タフと、謙虚さで、また、周
 辺諸国のブライドや嫉妬、そして、猜疑心に気配りを行
 なう「外交の達人」だった。
  ビスマルクは、「勢力圏を一方的に拡張しようとする
 外交政策は、短期的に成功しているように見えても、
  長期的には真の国益にならない」・・ということを、
 熟知していた。
  今・現在のアメリカの強権の一極支配的行動も・・結
 局・・敵を作る行動となっていて・・長期的に、アメリ
 カの為にもなっていない・・
  アメリカは、これを知るべきである・・
  そして、その道を・・今・現在・・中国も・・その道
 を進んでいる・・
.
1888年、ウィルヘルム二世が、この年、前王が亡くなると、
 ドイツ国王の座についた。
  前の国王・ウィルヘルム一世は、ビスマルクを重用し
 たが、若いこの王は、ビスマルクの良さを理解できなく
 て、ビスマルクの地位を剥奪(はくだつ)した。
  ウィルヘルム二世は、周囲の媚びへつらいに乗って、
 「歴史に残る英傑王になる」ことを目指した。
  ウィルヘルム二世の外交は、「大国ドイツの覇権外交」
 となった。
  この結果、ドイツの周辺国のロシア、フランス、イギ
 リスは敵国の様に挑発外交を進めた。
  そして、この行動が、第一次世界大戦へつながって行
 く。
  若い王の浅薄な夢・一極支配は・・結局・・戦争とな
 った
.
1991年、ソ連が崩壊し消滅した。
  「アメリカだけの一極」の世界となった。
  それは、相手の消滅による一極の出現であった。
  ソ連の消滅を・・世界はびっくりした。
  アメリカ政府は、「世界を一極化して、アメリカだけ
 が世界覇権を握る」という『一極覇権戦略』を実行して
 行こうとした。
  日本は、アメリカによる一極支配の時代だと「対米依
 存を続けていれば安泰だ」となった。
  安易なバンドワゴンを追従した。
  国際政治学者たちは、見抜いていた。
  「アメリカの一極支配など、短期間で終わる」と・・、
  「21世紀の国際構造は、必ず、多極化して行く」と・・、
  そして、実際、その通りに、アメリカの国際政治指導
 力は、次第に弱体化して行った。
  しかし、アメリカ首脳部は、『一極化したい』と、ブ
 ッシュ大統領(父)が、「NATOを東に拡張しない」
 と、
  ロシア政府に「何度も約束していたにもかかわらず」、
 その約束を破って・・NATOを東方に拡張し、
  「ロシア包囲網」を形成して行った。
  (ブッシュという大統領の親子は、キリスト教の体質
 が染みついていた大統領で・・この様な裏切り行為をよ
 くしていた)
  当然、米ロ関係は悪化した。
  また、クリントン政権(ルービン財務長官とサマーズ
 財務長官)は、アメリカとイスラエルの金融業者に、ロ
 シアで一攫千金の荒稼ぎをさせた。
  さらに、クリントン政権のペリー国防長官らは、「中
 国の大軍拡と人権弾圧政策を容認する」政策をとった。
  (今、その反動を受けている)
  そして、日本の『自主防衛政策を阻止する』という政
 策をとった。
  クリントン政権は、1996年に、「北朝鮮が濃縮ウラニ
 ウム生産のための活動を始めた」という重大情報を得て
 いたが・・、
  『同盟国の日本には秘密にした』・・日本に隠した。
.
2017年3月、中国のマンション建設(過激な供給過剰状態)
  中国国内には、34億人分のマンションが建設済みだと
 いう。
  当然、中国の人口(14億人)を上回っているこのマン
 ションの建設の実態に於いて、空き室ばかりのマンショ
 ンが、街中にスラリと並んでいる。
  中国は、この様な「架空の需要」を作り出している。
  この様な事は、共産圏国家ゆえに、国策として、国と
 して「箱モノづくり」をしている。
  これらのマンションは、何もしなければ朽ちて行く・・
  そして、無価値なものとなり・・借金だけが残る・・、
  この様な状況で、経済の回転がうまくいくのか?・・
  うまく行くはずがない・・、
  早晩、破綻する時が来るのは必定・・、
  すでに・・「ウォール・ストリート・ジャーナル」は、
 2014年4月16日の記事で・・
  この中国の異常を伝えていた・・、
  「中国の住宅供給過剰・・小規模都市で深刻化」との
 表題で・・すでに、中国の住宅受給の危うさ、異常さを
 伝えていた。
  不動産の異常さについては、かつて、日本でもあった。
  1990年9月の日本の地価は、ピークに達した。
  数字上では、東京都の地価が、米国全土の地価と同等
 になった・・帳簿上の話である・・、
  また、中国の国内総生産(GDP)は、このマンショ
 ン建設の例の様に「架空の需要」によって生産が行われ
 ている。
  それ故、中国のGDPも作られた数字となっている。
  その様な・・架空の話で・・中国経済が回転している・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive