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2016年10月15日土曜日

(増補版)435E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年11月)

題:(増補版)435E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年10月、高等師範学校で、学年を4月1日から3月31日ま
  でとする『学年制』を開始した。
  日本の大学や高等学校など高等教育機関においては、
 明治時代から長くに亘って、9月学年始期制が採用されて
 いた。
  日本で、4月学年始期制が採用されるようになったのは
 相当後年で・・、
  例えば、東京帝国大学では、1921年(大正10年)に、
 4月学年始期制が採用された。
  1886年(明治19年)に、高等師範学校において、4月学
 年始期制が採用され、
  1892年(明治25年)に、小学校でも、4月学年始期制が
 採用された。
  これは、日本の国の会計年度が、4月から始まることな
 どの影響が強い。
  小学校においては、明治時代初めは、6ヶ月単位の等級
 制であったが、さまざまな理由から学年制に変更されて
 いった。
1886年11月1日、チャリネ曲馬団、吹上御苑馬場で天覧。
  その模様を伝える各紙・・、
 ☆明治19年10月30日 読売新聞・・
  曲馬天覧 聖上には来月一日吹上の御苑に於て伊国の
 曲馬師チャリネの技術を天覧在らせらるゝに付、皇族及
 び大臣各国公使其他文武官有爵者の内を召させらるゝ由。
 ☆明治19年10月31日 郵便報知新聞
  曲馬天覧 聖上は明一日午後四時御出門 皇后宮御同
 列にて吹上御苑へ 行幸ありて、伊国曲馬師チャリニの
 技術を天覧あらせらるゝに付、皇族、大臣、各国公使、
 其他文武官、有爵者の内を召され、御陪覧を仰付けらるゝ
 趣。
 ☆明治19年11月1日 時事新報[広告]
  チャリネ十六伊タリヤ王国世界第一チヤリネ大曲馬大
 獣苑広告
  当所ノ興業ハ今土曜日二回ノ興業ヲ以テ千秋楽仕候
  重大特殊之広告
  今般畏クモ大日本 天皇陛下ノ叡慮ヲ蒙リ、追々準備
 相調ヒ候ニ付、来ル十一月一日ヲ以テ吹上禁苑馬場内宮
 中歴々ノ御前ニ於テ、非常絶妙ノ巧芸ヲ 天覧ニ奉供候
  就テハ築地興業ノ義ハ来ル十一月三日天長節ヲ卜シ東
 京公衆諸君ノ御覧ニ入レ候間、一層賑々
 敷御遊覧伏テ奉希候
  十月三十日  神田秋葉原 書記マアヤー謹白
 ☆明治19年11月1日 時事新報
  チャリネ新衣を作る 本日はいよ〳〵吹上禁苑に於て
 チャリネ曲馬の天覧に付ては、過日来芸人等は其準備に
 忙はしく、所持の衣裳もふるびたるにや、新に之を製す
 るとて尾張町一丁目四番地の洋服店高橋忠太郎方へ注文、
 大急ぎにて出来上りたりとの事なれば、本日は定めて一
 層の美観を添ることならん。
1886年11月4日、児島惟謙らが、関西法律学校を開校した。
  後の関西大学。
  関西法律学校は、井上操、小倉久、鶴見守義、手塚太
 郎ら関西の司法官が、当時、公務員の私立学校への出講
 は司法大臣の許可が必要であったため、
  児島惟謙、吉田一士らが後援し、当時の司法大臣・山
 田顕義を動かし、校舎も資金もない状態で創立されたフ
 ランス法系の私立法律学校。
1886年11月5日、海軍省が、海軍陸戦隊概則を公布した。
  海軍陸戦隊は、日本海軍が編成した陸上戦闘部隊で、
 単に陸戦隊と呼ぶこともある。
  元々は常設の部隊ではなく、艦船の乗員などの海軍将
 兵を臨時に武装させて編成することを原則としたが、
  1930年代には、常設的な部隊も誕生した。
  これに対して、鎮守府などの陸上部隊の人員で、地上
 戦闘部隊を作ることもあり、特に、特別陸戦隊と呼んだ。
  海軍陸戦隊は、1877年(明治10年)の西南戦争などで
 機動力を生かし、鎮圧に功績を挙げた。
  日露戦争では、仁川上陸作戦などの上陸作戦で、陸軍
 を支援したほか、陸揚げした艦載砲と乗組員で臨時に編
 成された海軍陸戦重砲隊が、旅順攻囲戦に参加した。
1886年11月5日、東京・神田旅籠町に、伊勢屋丹治呉服店
 (現=伊勢丹)が開店した。
  1886年(明治19年)、初代小菅丹治(こすげたんじ)が、
 東京の神田旅籠町(かんだはたごちょう)(現千代田区外
 神田)に伊勢屋丹治呉服店として創業した。
  「帯と模様の伊勢丹」の名声を得て、東京の有力呉服
 店の一つになった。
  1923年(大正12年)の関東大震災で、神田の店舗は壊
 滅的被害を受けたが、
  1924年の翌年に、百貨店形式の2階建て店舗で営業を再
 開した。
  1930年(昭和5年)に、株式会社伊勢丹を設立、将来の
 発展性を見込んで、
  1933年に、神田から新宿に移転し、7階建て店舗を開店
 した。
  1935年に、隣接する百貨店のほてい屋を買収、
  1936年の翌年には、接続工事を完了して売場面積を2倍
 とした。
1886年11月8日、ノルマントン号事件海難審判で、神戸英国
 領事は、船長の措置に過失無しと判決した。
  日本国民の間に猛反発が起こった。
1886年11月11日、帝国大学の制服着用が実施に移った。
  この年に、風紀向上策の一環として取り入れられた。
  尚、制帽は、1885年の前年に、在学生が考案したもの
 を採用した。
1886年11月14日、政府が、兵庫県知事の名で、ノルマント
 ン号船長を殺人罪で告訴した。
  毅然とした明治政府は偉かった。
1886年11月15日、万国赤十字条約を公布(11月16日説あり)
  11月16日に赤十字条約へ加入の件を公布。
1886年11月17日、東京の博愛社病院(後の日本赤十字病院、
 麹町区飯田町)開院式あり(皇后宮行啓)
  有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける(佐
 野常民)。
1886年11月20日、山口中学校が、官立山口高等中学校に改
 組した。
   1886年(明治19年)公布の中学校令に基づいて設立さ
 れた山口高等中学校・・、
  山口中学校は、第一(東京)、第三(大阪、後に京都
 へ移転)に次ぐ全国3番目の高等中学校(後に高等学校)
 として山口市亀山地区に設立された。
  沿革・・、
  1815年(文化12年)上田鳳陽、私塾山口講堂開設。
  1845年(弘化2年)山口講習堂と改称。
  1863年(文久2年)藩校 山口明倫館と改称。
  1870年(明治3年)山口明倫館を県立山口中学校と改称。
   高等・尋常の両中等科設置。
1886年11月29日、東京銀行集会所開業式で白熱灯40個が点
 灯された(1885年説あり)。
  1879年、アメリカにおいて最初の伝統企業が設立され
     た(ブラッシュによるアーク灯電灯会社)
      エジソンが白熱電灯を実用化。
  1882年、エジソンが白熱灯供給による伝統企業をニュ
     ーヨークに設立した(1881年説あり)。
  1882年、日本国内で最初の電灯会社が発起され、東京
     府に会社設立の申請が出された。
      電燈照明の企業化をに瀕人が初めて試みた。
  1883年、東京府から会社設立の許可を得た。
  1886年、初めての電気事業者として東京電灯会社(現:
     東京電力の前身)が開業した。
  1887年、本格的な白熱灯点灯による開業。
      東京電灯が第二電灯局を建設、日本初の火力
     発電所が誕生(出力25kw)
  1888年、初めての自家用水力発電所が宮城紡績所に誕
     生した。
  1889年、アメリカから交流発電機を輸入し、大阪電灯  
     が交流式配電を開始した。
  1890年、品川電灯・深川電灯が開業した。
      東京電灯が浅草紫雲閣でエレベーターを運転
     した。初の動力用電力を供給した。
  1891年、帝国電灯が開業した。
      電気営業取締規則が制定される。
  1892年、東京電灯が電灯1万灯祝典を挙行した。
     (因みに、開設当初は130灯が5年で1万灯に)
      京都市の日本初の営業用水力発電所が完成
     (京都市営蹴上発電所完成、出力160kw、現存す
      る最古の水力発電所で、現在も4500kwで稼働
      している)
.
  (今日の言葉)
.
  題:1941年のこと・・
    我々の子孫は、その精神を受け継いで再起・三起するであろう・・
.
1941年12月1日、御前会議が開かれた。開戦についての討議
 である。
  クラスに一人めちゃめちゃに強い腕白(わんぱく)ボ
 ウズが居た。
  この腕白ボウズは、ある一人の小さい子をターゲット
 に、なんだかんだと虐(いじ)めていた。
  また、この腕白ボウズは、強いのに、子分を一杯引き
 連れていた。
  そして、一緒になって、なんだかんだと小さい子を虐
 めていた。
  ある時、このメチャ強い腕白ボウズは、引き連れた子
 分たちと一緒になって、この小さい子をめちゃめちゃに
 やっつけた。
  卑劣な卑怯な手を使ってまでして、この小さい子をや
 っつけた。
  小さい子は、完全に打ちのめされた。
  でも、よく、小さいながらも戦った。
  しかし、最後は、完全に打ちのめされて、降参した。
  しかし、この大きくメチャ強い腕白ボウズは、「何も
 文句は言うなよ」と、クタクタにやられた小さい子に口
 止めした。
  条件は、何も付けるなという意味だ。
  コテンコテンにやられた小さい子は、それで何も言え
 なくなった。
  大きく強い腕白ボウズは、子分を引き連れて裁判を開
 いた。
  そして、今までにない法律を作って、それは裁く法律
 がないからで・・、
  小さい子が、法律にふれることがないからで・・、
  だから、わざわざ法律を作ったという事だった。
  つまり、法律に触れないという無罪状態だったから、
 わざわざ法律を作って有罪に蹴落とそうとした。
  「無罪になってはまずい」のである。
  そして、当然に、『有罪判決を出した』。
  そりゃそうだろう、有罪になる法律を作ってまでして
 裁判をしているのだから・・卑怯この上ないことをしで
 かした。
  示し合わせてやっていた。
  そして、独立に際して、何も言えない小さい子は、こ
 の様に、道理を外れた・・不法な裁判の結果を受け入れ
 なければ、「さも、独立させないぞ」という文面を見せ
 られた。
  独立したいのなら・・この不法な「裁判結果を受け入
 れろ」とさも言うように・・書面には書かれていて、
  「サインしろ」と言われた。
  独立すべき時が来ていて、独立したい小さな子は、独
 立したいのでサインをした。
  それから、その小さな子は、一切、口答えせず、嫌な
 事でも、無理な事でも、頭を下げっぱなしでやって来た。
  健気(けなげ)な小さな子=日本だった。
  そして、今、この大きくメチャ強い腕白ボウズ=アメ
 リカには、「シリアからの難民は、シリアへ帰れ」と言
 う大統領になりそうな人が居る。
  そして、この腕白ボウズの国は、この小さな子の国の
 伝統・文化を断ち切りたいという。
  この腕白ボウズの考えが、微に入り細に入り、姑・小
 姑宜しく介入して来る。
  その様な歴史が回転している。
  他人の国に、内政干渉以上の介入をしてくる腕白ボウ
 ズの国の従属国となっている。
  国の連続性を、この様に強引に、断ち切られると、当
 然に、国民の心には大きな不安感が生じる。
  大きな腕白ボウズの国のアメリカは、この小さな国に、
 この様な事を強いている。
  国際協調でも何でも無いことを、国際協調だと押し付
 け、
  自分の考えと違う考えは、『国際的コンセンサスが出
 来てない意見だ』と否定する、
  まったく身勝手な国なのだ。
  その様な国に、不平も言わずに黙々と日本の官僚・高
 級官僚たちは付き従っている。
  日本のマスコミも、長い物には巻かれろとNHKはじ
 め放送大学、そして、新聞社も巻かれ放題となっている。
  キリスト教系列の大学教授も曲者(くせもの)だ。
  皆、一緒になって国を売っている。
  日本が、日本人が目指すべきは・・、
  「経済も大事であるが、もっと上位概念である国の在
 り方としての教育や政治、
  そして、国際社会への責務や人道的正義も大事なのだ」
 ・・という文明国としてのバランスある考え方や行動な
 ど・・。
  過去において、言論統制するアメリカは最悪だった。
  日本は、過激な言論統制を・・アメリカ主導のGHQ
 から受けていた。
  まったく卑劣だった。
  何が民主国家だというのか?
  さらに、マスコミを使ってマインド・コントロールを
 し続けた。
  イギリスの歴史家トインビーは・・、
  「『過去と切り離された国家』は、時間とともに必ず
 その生命力が枯渇していく」・・と言っている。
  そして、ある文明が、地上から姿を消す時、その大き
 な要因には、「過去との連続性」を失った時だ・・と言
 っている。
  やむを得ず開戦に向かわざるを得ない御前会議の時、
  1941年(昭和16年)12月1日・・
  (日本が御前会議を開いているこの時、既に、アメリ
 カ大統領のルーズベルトは、日本との開戦を命令してい
 た、しかし、卑劣な事に、アメリカの国民の方々へは、
 この事実を秘密にした)、
  この御前会議で、海軍軍令部総長の永野大将は発言し
 た。
  「この戦争をやって勝てるのか」と問われ、
  「勝てないでしょう」と答えた。
  そして、「しかし」と言ってから、
  「戦うも亡国かもしれぬ。しかし、戦わずしての亡国
 は、魂までも喪失する永久の亡国である。
  たとえ、いったん亡国となさるも最後の一兵まで戦い
 抜けば、
  我々の子孫は、その精神を受け継いで再起・三起する
 であろう」・・と。
.
  そして、次の話・・、
.
1941年12月7日、(アメリカ時間)日本が、アメリカ大統領
 ルーズベルトの仕掛けに乗せられて、アメリカ・ハワイ
 の真珠湾攻撃を始めた。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、アメリカの景気回
 復のために戦争を始めたという見方は・・、
  『今は、確実』となっているが・・、
  どの本を見てもその見方が記されているが・・、
  1941年12月7日(アメリカ時間)、日本海軍航空隊が、
 パールハーバーを攻撃し・・、
  待ってましたとばかりに、ルーズベルト大統領は、日
 本に対して宣戦布告をした・・、
  そして、そして、アメリカの景気回復への輪転機は、
 最高潮にまわり始めた。
  この時に、アメリカの軍需工場になったのは、デトロ
 イトの自動車工場だった。
  大恐慌で、車がまったく売れずに・・、
  倒産寸前だったアメリカの自動車企業は・・、
  政府からの発注を受けて、戦車や大砲・・そして・・
 戦場で使う車両を作りに作ったった。
  そのおかげで、自動車産業が急回復し、よみがえった。
  戦争景気は、アメリカのあらゆる産業を潤(うるお)
 した。
  こうした戦争景気で、アメリカ経済がよみがえったが、
  その後も、アメリカは、戦争のための新しい兵器を作
 り続けた、
  航空機産業や軍需産業、通信産業などが、次々に拡大
 して行った。
  20世紀に入ってから、戦争は、アメリカへ、『常に、
 国家の繁栄を』・・もたらした。
  これは、攻められる心配のないアメリカだけの話。
  だから、戦争は、常に、攻められる心配のないアメリ
 カだけに繁栄をもたらした。
  その他の国々は、めちゃめちゃに破壊された。
  そして、アメリカ以外の国々の、一般の人々、戦争に
 まったく関係のない人々が・・殺された。
  その代わりに、アメリカだけは、国民の方々が死ぬこ
 と無く・・潤った。
  アメリカにとって・・戦争は、まったく都合がよかっ
 た。
  好戦国=アメリカの生まれる由縁(ゆえん、事の起こ
 り、由来、わけ)だ。
.
  そして、次の話・・、
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  日本が、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカの太平洋
 艦隊基地に攻撃した。
  日本は、これを奇襲攻撃だと、アメリカが作り出した
 プロパガンダ(嘘宣伝)によって言われている。
  今現在、種々の新しい資料が、公になって来ているが、
 まったく、ぜんぜん奇襲攻撃でもない。
  また、アメリカは、「日本が侵略攻撃した」と言う。
  だから、正義は、アメリカにあると言う、
  プロパガンダ(嘘宣伝)をしている。
  ハワイを占領し、侵略したのはアメリカなのにである。
  アメリカは、もともとハワイの侵略国なのである。
  自分のしたことは棚の上にあげている。
  「ハワイ侵略国=アメリカ」なのだ。
  また、アメリカは、ドイツは攻撃できなかった。
  同じ白人国として、ドイツは攻撃しにくい心情の中に
 居た。
  このためにも、日本と先に戦端を開きたかった。
  明らかにキリスト教に洗脳され、マインドコントロー
 ルされている有色人種蔑視の観念の中に居た。
  日本に先に手を出させて、アメリカの西部劇によくあ
 る・・悪漢が、善意あるものに先に銃を抜かせて、善な
 る者を撃ち殺すというパターンである。
  これも、キリスト教の聖書にあるパターンで、マイン
 ド・コントロールされた心が生み出すものである。
  (キリスト教聖書には、「攻める町の周囲を7回巡れば、
 攻撃してよい」とかとかと、何しろこの類の戦争の仕方
 の話が多い)
  アメリカ大統領ルーズベルトは、日本から先に手を付
 けさせ、そして、戦争を始め、そしてのち、ヨーロッパ
 領域の戦争をしたかった。
  アメリカは、ドイツにある多くの資産を守るためにド
 イツと戦争したくなかったという史料もある。
  また、日本のハワイ攻撃は、軍事施設のみであったが、
 この後、まったく卑怯なことであるのだが、アメリカは、
 日本の一般の方たちの命を軽く見て、
  日本の東京・大阪・横浜・名古屋をはじめ多くの一般
 市民の方たちをターゲットにする無差別爆撃(国際法違
 反行為)をする。
  アメリカ大統領トルーマンも、この事を知っていたの
 であろう・・、トルーマンは、広島で人類初めての原爆
 を投下を許可するときに、「軍事施設にだぞ」と言った。
  しかし、この『大統領命令』は、完全に無視された。
  一般市民の方々が暮らす頭上を中心として(国際法違
 反行為)の原爆は投下された。
  長崎の原爆の投下も、一般市民のことは全く配慮され
 なかった。
  非人道的なアメリカだった・・アンフェアなアメリカ
 だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年10月13日木曜日

(増補版)434E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年10月)

題:(増補版)434E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年10月24日、星亨・中江兆民らが、全国有志大懇親会
 を開催した(大同団結運動提唱、~1889年)
  1890年の国会開設を間近に控えて、民権運動の再興を
 かけて、大同団結を呼びかける全国有志大懇親会で、
 204人が参加した。
  当初、星・中江らの、主に旧自由党・立憲改進党の党
 員に「小異を捨て、大同団結する」ことを求める呼びか
 けを起すことに始った。
  翌年の1887年、井上馨(かおる)外相の条約改正案の屈
 辱的内容が暴露されると、
  両派は、提携して、全国各地で条約改正中止建白運動
 を展開した。
  それはさらに、地租軽減、言論・集会の自由をあわせ
 た三大事件建白運動に発展し、
  建白書提出委員が、続々上京、往年の民権運動の全盛
 期を再現するに至った。
  こうした下で・・、
  1887年10月、後藤象二郎提唱の旧自由・改進両党有志
 の懇親会と、それに続いて丁亥倶楽部が設立され、団結
 が呼びかけられた。
  古老財産家と壮士とが結合して議会政治を実現するこ
 とを訴えた。
  しかし、諸派の結合は色々と問題も生じ、また、弾圧
 も受け、
  自由民権諸派の統一的反政府運動だったが・・、
  1889年、後藤の黒田内閣への入閣で分裂・挫折した。
1886年10月25日、信濃教育会が雑誌を創刊した。
  1886年7月に、信濃教育会が結成され、同年10月に、月
 刊誌「信濃教育」が創刊された。
1886年10月26日、薩摩、大隈に多数の隕石が落下した。
  薩摩隕石(国際名称:九州隕石)は、1886年(明治19
 年)10月26日午後3時ごろ、県北部の伊佐地方に落下し
 た一群の隕石で、
  そのうちの一つが、鹿児島県立博物館に所蔵されてい
 る。
  隕石の落下地点は、当時の状況が不明で詳しいことは
 分からなかったが・・、、
  昭和40年代後半になって、落下地点の調査が行われ、
 隕石の分布と新聞の記事から、南東から北西へ向かって
 落下したことが明らかとなった。
  薩摩隕石の多くは、国外に流出し、国内では国立科学
 博物館など4施設のみに収蔵されている。
  鹿児島県に落下した隕石でありながら、県内に1個もな
 かったが、
  2001年(平成13年)に買い戻された。
  鹿児島県立博物館の薩摩隕石がそれで、貴重な文化財
 となっている。
  (鹿児島県教育委員会のホームページを参考にした)
1886年10月、東京感化院が改称された。
  1885年に高瀬真卿によって設立された日本最初の組織
 的な少年感化院は、
  設立当時には、私立予備感化院と称した。
  翌年の1886年に、東京感化院と改称した。
  東洋的な儒教精神と、それに基づいた家族制による感
 化が行なわれた。
1886年11月3日、鹿鳴館大舞踏会 夜会パーティー
  この日は、明治天皇陛下の誕生日(天長節)であった。
  国内でも、天長節としての祝賀会行事をはじめ、数々
 の国内行事が行われていた。
  そして、井上馨外務大臣の招待の鹿鳴館大舞踏会が開
 かれた。。 
  明治天皇陛下は、改正大元帥御正装を着用された。
  因みに、日本で初めての舞踏会(ダンスパーティー)
 は、1883年11月28日に、鹿鳴館で行われていた。
  そして、この鹿鳴館大舞踏会について・・
  「東京日々新聞」(明治19年11月5日号)の記事には、
   「天長節井上伯爵の夜会・・、
  一昨日は、我が皇帝陛下の天長地久の吉辰を祝し奉ら
 んが為、
  朝の程は、皇族、諸大臣、各国公使、諸省の勅奏任官、
 華族の面々、何れも晴れの礼帽盛服を着し、馬を走らせ、
 車を軋らせ、皇宮に参朝して聖寿を祝し奉り、
  又、市内にありては、高歴々の門戸は申すに及ばす、
 賤が屋の軒端までに、国旗を翻して遥かに万歳を唱え、
 奉れるは実にめでたき事なりかし。
  されば、我が外務大臣伯爵・井上馨、同・伯爵夫人の
 ご両所にも、この吉辰を祝し奉らんとて
  皇族、大臣、各国公使を初め、朝野の貴顕紳士
  凡(およ)そ千六七百人の方々へ招状を発せられいと
 盛大なる夜会を、鹿鳴館に催されたり。 中略
  午後九時頃、参館したるに、先ず、館の楼上なる正面
 には、瓦斯燈にて、鹿鳴館とへる三字を顕し、
  館の周囲、及び、庭園には、瓦斯燈と球燈とを建て列
 らねかけ並べたれば、
  宛ずら(あたかも)白昼の如し。 中略
  当夜のご主人 井上伯爵は、大臣の盛服を着せられ、綬
 を帯び、章を掲げ、伯爵夫人と並べ立ちて、一々来賓を
 迎へらる
  御両所共に、いつもながら笑みを含み、温顔もて普く
 来賓を接せらるれば、参られし方々も、一入嬉しげに見
 受けられぬ。
  扨(さて)楼上の正面なる壁には、一坪余りあらんと
 思しき造り菊の扇子を掲げ、
  緑色の扇面に白菊の花にて、Welcome (恭待)
 の一字を造り出したるは、殊に目醒しく見えし。
  階上の横手には、藤棚を設け、山鳥の尾の長々しくも
 紫の花を垂れたり、
  その他、花瓶の挿花と云ひ、卓上の飾り花と云ひ、
  皆菊の花を主として、用ひられしは、聖上の寿を祝す
 る寓意なるべく、
  藤の花の長く垂れたるは、大君の御代とこしなへに久
 しきを寿きたる趣向にやあらん。中略、
  参着せらるる方々を見受くるには、伏見宮・白川宮両
 殿下、及び、御息所大臣には、三條(条)、伊藤、山縣
 (県)、松方、榎本の諸公閣下、
  公使には、英・米・独・仏・露 等、およそ条約国公使
 閣下、及び
  館員 英国水元師 副提督 ハミルトン君、及び、同国海
 軍士 御雇外国人 京浜外国領事紳商 その他
  我が各省次官、元老院議官、在京府県知事、諸奏任官、
 華族、及び、紳士紳商など、凡そ、千余名。
  或いは、令夫人を伴はれ、或いは、令嬢を携へられた
 り。
  婦人方の服装は、概ね、西洋服にて何にて美を競ひ麗
 を争はれたるは、
  暫く措き長き裳を垂れたるは、従来のすそ長がよりも
 見栄あり。
  仏蘭西紋緞子の衣は、唐織錦の打ち掛よりも粹(粋)
 なり。
  尤(最)も、打ち掛を着せられし夫人方は、一二を見
 受け参らせたるが、一と夜会 夜会に追々減少する姿なる
 は、彌(弥)々(いよいよ)、西洋フハッション(流行)
 の上等社会に染み込みたる一証にやあらん。
  去る流行なれば、縮緬紋付すそ長の奥方、令夫人は一
 人もなし。
  (但し、この前の夜会には屡々(しばしば)見受けた
 り) 
  さて、 九時過ぎより、踏舞の宴が開かれ、内外紳士、
 貴夫人方の音楽に連れて、舞ひ躍らる様は、いつもなが
 ら感心なり。
  但し、新西洋下りの紳士の年々増加すると、貴夫人方
 の踏舞に身を入れらるる方々の月に増加するとにより
  前回よりも、今回が、我日本紳士、夫人の中に舞い手
 の増加せるも結構の事なり。 中略
  舞踏も終へ、諸賓の散ぜられしは、昨日午前の一時頃
 なりき。
  総じて申さば、この日は祝日の上にも天気はよし、そ
 の上、御主人は、井上伯までありつれば、来集の人数も
 殊に、夥しく、観衆も亦(又)た極まりなき様にて、稀
 なる盛会好宴なりき。
  左(さ)れば、さしもに、広き鹿鳴館も、一作夜は殊
 更(ことさ)らに狭きを覚えたりき」
  ※:この鹿鳴館大舞踏会では、和服(着物)を着た女
   性は皆無だった。
1886年10月31日、臨時砲台建築部を設置した。
  ペリー来航の黒船ショックから始まった明治維新の事
 業は、首都防衛のための東京湾防御を喫緊の課題として、
  1880年(明治13年)から砲台の築造を始めていた。
  しかし、財政の圧迫から、1886年(明治19年)3月には、
 東京湾の膨大築造は一時中止となった。
  しかしながら、列強のアジア進出という国際状況、な
 かんずく、朝鮮半島と同海峡を巡る国際的緊張で募る危
 機感のもと、
  1886年(明治19年)9月に、海岸防御の速成を要すると
 いう意見書が提出され、
  東京湾、大阪湾、下関、佐世保、長崎の5か所の速成が
 必要であるとされた。
  そして、1887年(明治20年)4月から対馬で4つの砲台
 築造が開始された。
  また、1886年(明治19年)11月30日には、臨時砲台建
 築部の設置がなされ、築城業務主管、工兵方面はこれに
 従属された。
  そして、対馬要塞の第一期砲台として知られる、芋崎、
 大平(低)、温江、大石浦の4砲台、
  これらを1887年に起工し、翌年・1888年の竣工となる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:満州事変の起因となった「田中上奏文」は、ソ連の偽装工作だった。
.
2005年、この年の春、ロシアのモスクワのテレビやラジオ
  は、
   第二次世界大戦の開戦以前の、満州における、「ソ
 連の対日工作」について放送した。
  それは、ソ連がやったこととはいえ、自(みずか)ら
 を白状する様な放送だった。
  ロシアという国になって、このロシアは、80年前のソ
 連時代のことの『真実を白状した』。
  それは、ソ連のKGB(ソ連国家保安委員会)の前身
 のOGPU(国家政治保安部)が、嘘の、偽装の工作を
 したと白状するものだった。
  (参考)OGPU(国家政治保安部):ソビエト連邦
    のレーニン、および、スターリン政権下で、反政
    府的な運動・思想を取り締まった(弾圧)・・秘
    密警察(ソビエト連邦社会主義共和国内務人民委
    員部附属国家政治局)
  当時、「田中上奏文」というものがあった。
  この文書中に、「日本が、支那(中国)の征服から、
 世界を征服する」・・と・・、日本が、世界征服をする
 という意思があると書かれていた・・、
  当時、これが日本のやろうとしている事(目論見)だ
 と言われた。
  この事で・・日本は責められた。
  中国のメディアから、「日本が、満州から北支(中国
 北部)に侵略を始める」・・と大々的に宣伝された。
  「証拠は、これだ」と、「田中上奏文」が示された。
  世界は、これを信用した。
  満州における、排日運動が激化した。
  共産党が煽(あお)った。
  満州に居た日本人は、居たたまれない状態に置かれた。
  利権が奪われた。
  せっせと日本から持って来た財産や資金や・・そして、
 労力を投資して得た利権・権利だった。
  また、その権利だけでなく、生命までもが危険となり、
 財産も奪われた。
  この様な煽り(あおり)と、展開の中で、満州事変へ
 と至って行った。
  しかし、この様な動きへの切っ掛けとなった、そして、
 その中心にあった「田中上奏文」が、
  何と!! ソ連の偽造した文書だったと、「2005年に
 なって、80年もの経た後になって、ロシアが暴露した、
 白状した」。
  日本は、これ以後、どれだけ「卑劣な歴史」を体験さ
 せられたと言うのか・・この事によって・・、
  ソ連と中国による、嘘の、偽りの、「日本、追い落と
 しの工作」の行為だった。
  東京裁判において、アメリカやイギリスなどの連合国
 側は、この事を知っていた。
  連合国側は、この事を「嘘・偽りと知っていた」ので、
 東京裁判の証拠として採用しなかった。
  完全なる偽造文書と知っていた。
  この工作と、プロパガンダ(嘘宣伝)によって・・、
  1930年代の初頭には、この日本に不利なデッチアゲ・
 プロパガンダは、世界中に広がって、信じられていた。
  日本は、益々、世界の中につま弾(はじ)きにされ、
 孤立して行った。
  残念ながら、当時も、日本政府は、全力をあげて真実
 の説明に努めなかった。
  今・現代の、韓国の慰安婦問題と同じである。
  以上の様に、『些細な問題ではない』のだ。
  大きな問題であって、なんだかんだと関わって、物事
 が、悪い方向へ転がって行くものなのだ。
  この時も、当時も、「日支友好」の外交方針で・・、
 言うべき事を言わずの外交を展開した。
  日本の悪い面が出ていた。
  説明すべき事を言わずに良くなる訳はない。
  世界は、「日本は、こんな国なんだ」と、すっかり事
 実だと思い込んでしまった。
  日本への異常な嫌悪感を持っていたアメリカ大統領の
 ルーズベルトも・・、この文書を読んで居た。
  そして、「日本との戦争を作った」と言ったこのルー
 ズベルト=アメリカ大統領は、
  この「田中上奏文」を読んで、非常に強い嫌悪感と、
 強い反日感情を抱(いだ)いたという。
  まったく恐ろしいことだ・・、日米の戦争の岐路に、
 この文書=偽造された文書が存在した・・あった。
  本「ルーズベルト秘録」にも記載されている。
..
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2016年10月12日水曜日

(増補版)433E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年10月)

題:(増補版)433E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年10月~1886年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年10月16日、整理公債条例を公布した(9月説あり)
  6分利以上の公債を5分利に借り換え、1億7500万円
  低利で、長期の公債へ借り換えが進められた。
  日本のイギリス・ポンド建て国債は・・、
  1870年4月に発行された9%国債、
  1873年1月に発行された7%国債、
  1897年に売却された5%国債、
  日本のリスク・プレミアムは低下した。
1886年10月16日、宝塚温泉が開発され、落成式を迎えた。
  この温泉は、1884年に、温泉が発見された(開業が、
 1887年説あり)
1886年10月18日、軍艦「畝傍(うねび)」、回航の途につ
 いた(10月19日説あり)
  海軍増強計画で、フランスに発注された軍艦で、
  ル・アーブル造船所にて完成したこの畝傍艦は、
 フランス人艦長によって日本に回航される途中の、
  1886年12月3日に、シンガポール港を出た後に、
 行方不明となった。
  飯牟礼俊位海軍大尉以下日本海軍将兵(日本側回航員)、
 および、駐日フランス人の家族が乗船していた。
  また、造船所雇用のフランス人乗員70数名も乗船して
 いた。
  全乗客・乗員は計90名で、消息は未だ不明。
  日本政府は、保険金で、イギリスに代艦を発注した(
 千代田艦)
  因みに、日本は、この畝傍の建造費の残額を、払う必
 要が無くなった。
  しかし、フランスは、残額を回収する為に、水雷砲艦
 「千島」を建造した。
  しかし、何と・・この「千島」も回航中に、イギリス
 船と衝突し、遭難してしまった(千島艦事件)
  この畝傍艦の消息不明の原因説に・・フランス艦伝統
 のトップ・ヘビーで復元力が「不足する」があった。
  また、日本の武装搭載の特別注文もあって、復元力不
 足増大があり、
  また、東シナ海での想定外の風雨(台風)に因る・・
 などと・・言われている。
1886年10月20日、第八回条約改正会議
  イギリス・ドイツの両国案の審議が開始された。
1886年10月23日、ロエスレルが、町村制に関する意見書を
 提出した。
  御雇い外国人のドイツ公法学者・ロエスレルは、1878
 年11月に来日していた(~1893年、離日)。
  井上毅(いのうえこわし)の法律顧問として諸種の法律
 草案の作成に重要な役割を果たした。
  明治憲法、民法、商法の制定に尽くした。
  1881年より、井上毅と討論を重ね、
  伊藤博文(いとうひろぶみ)の渡欧以前に、
  プロイセン憲法に範を求める憲法の制定を、政府に決
 断させるのに多大な影響を与えた功績ある人だった。
1886年10月24日、ノルマントン(Normanton)号事件
  また、イギリスの卑劣さが・・この事件にもある・・
  この日に、横浜港を出港し、神戸港に向かっていたイ
 ギリス商船(貨物船?)「ノルマントン号(240トン)」
 が、
  暴風のため、紀州沖・熊野灘の暗礁で座礁・沈没した。
  (三重県四日市より和歌山県樫野崎までの沖合で難破
 、座礁沈没の説もある)
  この際、イギリス人船長以下の乗組員(26名、計27人)
 だけが、全員ボートで脱出したが・・
  (人種偏見で、乗客を置き去りにして、イギリス人船
 長が逃げるのはおかしい?)、
  日本人乗客 25人(23人?)のみが救助されず、日本人
 全員が船内で溺死した。
  事件の4日後の10月28日、松本鼎和歌山県知事からの電
 報で、遭難事件のあらましを知った第1次伊藤内閣の外務
 大臣・井上馨は、
  日本人乗客だけが、全員死亡したことに不審をもった。
  そして、その場の実況調査を命令した。
  そして、日本人乗客が、石炭艙に乗っていて、全員が
 救助されずに置き去りにされ残っていたことが判明した。
  死体も発見されなかった。
  国内世論は、ドレーク船長以下船員の日本人乗客にと
 った非人道的行為と、
  その行為に根ざす人種差別に沸騰した。
  例えば、『東京日日新聞』(1872年創刊)では・・、
  「船長以下20人以上の水夫も助かったのだから、1人や
 2人の日本人乗客とても助からないはずがない」・・との
 憤懣を記した。
  事実検証においても、不平等条約の壁に阻まれ、満足
 な解決が得られなかった。
  治外法権下のイギリスの領事裁判制度で、神戸駐在イ
 ギリス領事・ツループで、この海難審判が進められ、
 船長を無罪とした。
  無罪理由が、また、理由となってない「こじつけ」で・・、
  「日本人に早くボートに乗れと言ったが、英語が分か
 らず、乗船せず、船内に籠って、出て来ようとしなかっ
 た」・・の証言だった(死人に口なし)。
  卑劣である・・
  イギリス人たちが、必死になってボートに乗り移って
 いる状況は、言葉が通じなくても、状況判断から、明ら
 かに、はっきりとできる、理解ができる。
  燃えさかる火事の家から「出ろ・逃げろ」と言われ、
 英語が通じなかったから逃げなくて、焼け死んだ・・な
 んて、おかしくて理由として言えないこと・・
  よくもこんなことを言ったものだ・・
  この様な「子供だましの証言」が通る訳がない。
  無罪の証言証拠になる訳はない。
  こんな低レベルで処されていた当時の日本だった・・
  自分たちだけが、荒れる天候の中で、ボートに乗り・・
 そして、荒れる天候で・・乗り過ぎると危険だと、危険
 を察知し、人種差別もあって、日本人の乗船拒否をした
 のだ。
  この裁判によって、弊害が明らかになり、不平等条約
 に対する日本国民の憤懣(ふんまん)が沸き起こった。
  また、日本政府も、急遽(きゅうきょ)、兵庫県知事
 の内海忠勝に、ドレーク船長を殺人罪で告訴するよう指
 令した。
  当時の新聞も・・。
  「東京日日新聞」は、「いかに日本人は無知だといえ、
 危にのぞんで、危うきを知らず、助けをえて、助けをか
 りることを知らないほどの白痴瘋癲(はくちふうてん)
 であるはずがない」・・と、紙面で抗議した。
  当然だ・・同じだ・・
  新聞の抗議は連日にわたり、
  悲しみの論説も・・続いた。
  高名な法学者たちも、ドレーク船長の告訴をとなえ、
 在野の政客は、各地に演説会を開いて、イギリスの横暴
 と非人道を責め、民衆に国権回復を訴(うった)えた。
  神戸での予審の後を受けて、横浜駐在イギリス領事館
 のハンネン判事は、12月8日に、ドレークを有罪とし、禁
 錮3ヶ月と判決した(軽い!)。
  しかし、死者に対する賠償金は支払われなかった(日
 本人の命の値段は0円か?・・いつもこうだった)
  (米軍基地関連で死んだ日本人の命も軽かった・・い
 つもいつも軽い命だった)
  当時の、明治の方々も・・条約改正を要求する国民の
 声は盛んになった。
  日本の方々・国民の対イギリス感情も極度に悪化した。
  そして、国論者の政府の欧化政策に対する批判も台頭
 した。
  この様な中で、条約改正交渉が、極秘裏に進められて
 いた・・、
  その秘密裏に進められていた改正案の内容を、法律顧
 問ボアソナードが知り・・、
  従来の不平等条約より国権を毀損している・・
  何と、以前より悪化している・・イギリス・ドイツ案
 という意見書を秘密出版で流布させた。
  因みに、この事件・・ドレーク船長以下の乗組員の全
 員が、漂流していたところを助けたのは・・優しい日本
 人だった、
  沿岸漁村の日本人の人びとが、救助し、手厚く保護し
 た。
  感謝の意思表示もなかったようだ・・恩も知らないの
 か?
  そして、領事裁判権は、本事件の8年後の1894年に撤廃
 された。めでたし、めでたし・・、
.
  (今日の言葉)
.
  題:歴史的に卑劣な事ばかりして来た・・アメリカ
.
1876年6月25日、アメリカのカーター将軍が、アメリカ・
 インディアンの方々との戦争で敗れた。
  それから・・アメリカの卑劣な行為、「先住民族のア
 メリカ・インディアンの方々」への、卑劣なかたちの武
 器使用がなされた。
  卑劣な武器使用をするアメリカは・・この国は昔から
 こんな形の卑劣な事ばかりして来た。
  ベトナム戦争でも、色々と、また、次々と、新しい武
 器を・・卑劣な事に・・いろいろと試した。
  ベトナムの方々を・・そのテスト使用で・・殺戮し続
 けた。
  本当に非人道的な事を・・次々とやった。
  日本の原爆投下もそうだった。
  ウラン型原爆とプルトニウム型原爆を、広島と長崎に
 投下した。
  テスト投下だった。
  自制心は・・まったく働かなかった。
  『日本人は、有色人種だ』というキリスト教の教義に
 洗脳された頭では、自制心の働く余地は無かった。
  以下に記述する「アメリカの先住民族の方々」への・・
  アメリカ・インディアンの方々へも・・「卑劣な武器
 使用」をしたアメリカだった。
  1876年6月25日に、カーター将軍が、リトルビッグホー
 ンの戦いで、
  アメリカ・インディアンの方々に敗けると、
  アメリカは、まさかの敗北に・・仰天し、いきり立っ
 た。
  アメリカ合衆国政府は、卑劣にも大勢の兵士を、近代
 兵器で装備させて・・繰り出した。
  機関銃や大砲という強力な武器を使った・・、
  卑劣な武器を使って・・キリスト教が教える同罪報復・・
 復讐の怨念で・・結局、それ以上の報復を・・インディ
 アンの方々を攻めて行って・・行った。
  卑怯な、卑劣な手を使い・・、
  勝つと分かっている戦争をした。
  勝てば良いのだと・・道義も何もない輩と化した・・、
  そして、インディアンの方々は蹂躙された、
  こてんこてんに殺戮された。
  イギリスもアヘン戦争の時、悪いのは・・とことん、
 イギリスであるのに・・、
  戦争をしたいイギリスは・・くだらない理由であるの
 に・・イギリスの外貨の流出を少なくしたいのだという、
  単純な問題なのに・・その経済的問題を解決しようと、
 それこそ・・やってはいけないアヘンを・・中国の方々
 へ『国の立場』で売った。
  アヘンの麻薬売買国=イギリスだった。
  中国が・・やめてくれ・・と、いくら言っても・・止
 めないイギリスだった。
  何度言っても止めないイギリスだった・・
  ほとほと、困った中国は・・ファイトバックした・・
 立ち上がった・・そこには正義があった・・
  当然、正義は中国だった・・反抗した・・当然の反抗
 をした。
  イギリスは、待ってましたとばかりに、勝つと分かっ
 た戦争・アヘン戦争を始めた。
  第二次世界大戦の・・アメリカのルーズベルトと一緒
 だった。
  日本をやっつけるチャンスだと・・
  イギリスも・・中国の方々を、「これでもか」と言う
 ほど、進んだ武器を持つイギリスは、中国の方々をやっ
 つけた。
  戦争の結果は当然だった、イギリスが進んだ強力な兵
 器・武器を持っていたからだった。
  イギリスには・・勝ったと言ったって、当然、『少し
 も』正義は無かった。
  正義があるというなら・・今でも良いから・・言いな
 さい!
  正義の戦争でも・・何でもない・・戦争を・・イギリ
 スはした。
  弱い者いじめをした。
  また、イギリスは・・奪ったオーストラリアでも・・、
  オーストラリアの土地を奪うために、遠い昔から住ん
 でいた方々=アボリジニーの方々を・・殺戮し尽くした。
  先住民のアボリジニーの方々が・・居なくなれば、俺
 のものだの・・思想だった。
  卑劣な思想だった。
  何ら抵抗する術(すべ)を持たないアボリジニーの方々
 を、動物の狩りをするがごとくに殺戮した。
  「今日は○○人、殺した」という記述が、オーストラ
 リアをおかしたイギリス人の日記に残っている。
  この様な行為を、イギリス人の侵入者の皆んなが、ア
 ボリジニーの方々を・・殺戮した・・殺した。
  アメリカも、負けることが確実で、負けると分かって
 いる日本へ・・、
  だから・・日本が負けると分かっているからアメリカ
 は、日本へ「降伏しろ」とポツダム宣言を出した。
  それなのに・・、敗ける事が確実な日本へ、「原爆を
 落とした」・・、
  それも・・戦闘員でも何でもない・・「一般の市民の
 方々」へ、非戦闘員の方々へ、女性や子供やお年寄りの
 方々へ・・、
  その様な方々が・・大勢、死ぬと分かっているのに、
 その非人道的な、卑劣な爆弾を、地獄の行為をした。
  当時、れっきと存在していた国際的な法律の違反行為
 だった。
  国際法違反の「非戦闘員殺戮」「一般市民殺戮」を・・
 アメリカはした。
  それも二発も、やってはいけないことを、二度もした。
  広島と長崎の原爆投下は、アメリカのやりたいことで
 あった。
  卑劣な実験としての卑劣な行為であった。
  アメリカは、「ウラン型原爆」と「プルトニウム型原
 爆」の効果を知りたかった。
  ただ、それだけの事で・・広島と長崎に原爆を落とし
 た。
  何十万の方々が・・亡くなった・・
  まったく卑劣と言っても言い足りない。
  アンフェアな・・卑劣な・・アメリカだった。
  ヨーロッパの知識ある人たちが、「アメリカは、ドイ
 ツに落とさなかった」、「ドイツには落す気は、なかっ
 ただろう」という「キリスト教の有色人種の蔑視思想の
 行為だ」と指摘した。
  その通りだった。
  アメリカは、その為に、投下の効果を良く知るために、
 広島・長崎に、それまで、爆撃をしていない都市に・・
 投下候補都市とした。
  そして、その為に、原爆投下の威力、その効果が、明
 確に分かるように・・その様にしていた。
  実験の効果を知る最適な地を、「最初から」作ってい
 たアメリカだった。
  東京裁判と同様に、このアメリカの行為も国際的に裁
 (さば)かれるべきだ。
  相変わらず、自国の事になるとホッカムリするアンフ
 ェアなアメリカなのだ。
..
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2016年10月10日月曜日

(増補版)432E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年9月~1886年10月)

題:(増補版)432E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年9月~1886年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年9月1日、東京築地秋葉原で、チャリネ曲馬団が興業
 を開始した(~10月30日)。
  ジョゼッペ・チャリネ(Giuseppe Chiarine)は1823年
 (文政6年)、ローマに生れた。
  代々サーカスの家柄で、ジョゼッペも幼くして馬を巧
 みに乗りこなすなど、多芸、多才の少年であった。
  十六歳の時、サーカス団に加わって東欧からロシアへ
 巡業に出たのを皮切りに、ロンドン、パリなどを廻り、
  1853年(嘉永6年)アメリカへ渡った。
  1856年(安政3年)自身のサーカス団を組織し、キュー
 バ、ドミニカ共和国、メキシコ、ブラジルなど西インド
 諸島から南アメリカ諸国を巡業し、成功を収めた。
  その後、アメリカのサンフランシスコに拠点を置き、
 アメリカ諸都市、西欧諸国を廻り、
  1873年(明治6年)から、オーストラリア、東南アジア、
 インドへ足を延ばした。
  この頃の正式な名前は“Chiarine's Royle Itarian
 Circus”で、そのテントには3,000人の観客を収容できた
 という。
  1880年(明治13年)、メルボルンを振り出しに二度目
 のオーストラリア巡業に出、東南アジア、インド、中国
 を廻り、
  1886年(明治19年)のはじめホンコン、フィリピン、
 マカオで興行したあと、7月に横浜に到着した。
  東京秋葉原のチャリネ公演は、5代目尾上菊五郎に刺激
 をあたえ、
  11月の千歳(ちとせ)座で、彼は、みずからチャリネ
 曲馬師、猛獣使いに扮し、《鳴響茶利音曲馬(なりひび
 くちやりねのきよくば)》と銘打って上演した。
1886年9月11日、文部省の美術取調委員として、フェノロサ
 と弟子の岡倉天心が渡欧を命じられた。
  東京美術学校設立のため、フェノロサとアメリカ経由
 でヨーロッパ視察旅行。
  岡倉天心は、1887年に帰国し、東京美術学校(現、東
 京芸術大学)幹事を命じられ、同校の創設に努め、
  開校後の1890年校長に就任した。
1886年9月20日、大阪紡績で、夜間作業用にアーク灯が設置
 された。
1886年9月、大暴風雨。
  (参考)甑島:こしきしま、鹿児島県西部の東シナ海
 にある列島で、三年連続の大台風の為に全島飢饉。
  県の移民計画により、国庫の補助を受けて種子島やそ
 の他の地区に大量に移住した。
  (参考)羽後町:1886年8月21日、秋田県羽後町、大暴
 風で建物、立木に被害大。
1886年9月、未曾有の疱瘡(天然痘)が流行した。
  この年、6月~8月にかけて渇水。
  そして、水騒擾が各地で起こった。
  そして、この年、天然痘、腸チフスが流行し、死者3
 万人を越えた。
  また、別史料で、この年の年間患者数7万3337人、死亡
 者1万8676人、死亡率25.5%・・がある。
  また、別史料(神戸市水上消防署歴史年表)に、この
 年の5月に、コレラ大流行とある。
  天然痘ウイルスを病原体とする感染症で、非常に強い
 感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。
  仮に治癒しても瘢痕(あばた)を残す。
  世界中で不治の病、悪魔の病気と恐れられてきた。
  その大きな感染力、高い致死率(40%前後)のため、時
 に国や民族が滅ぶ原因となった事すらあった。
  今・現在、撲滅に成功した感染症となっている。
  日本で初めて牛痘法が行われるのは1810年(文化7年)
 だったが・・、
  江戸時代に、アイヌの方々の人口が減少する一因とな
 ったが、幕末に、アイヌ民族の方々を対象に、大規模な
 種痘が行われ、流行にようやく歯止めがかけられた。
  天然痘では、卑劣な事件がある。
  アメリカ・インディアンの方々へ毛布を配って、それ
 に天然痘の菌が付いていて流行させたという事件である。
  オハイオのインディアンの方々の天然痘流行事件であ
 る。
  イギリス軍の士官が、天然痘の菌に汚染された毛布を
 贈り物として、アメリカ合衆国のオハイオの周辺のイン
 ディアンの方々へ配り、天然痘を感染させ、流行させた。
  インディアンの方々の絶滅を狙った、まったく卑劣で
 冷酷なイギリスの行為だった(1763年~1764年頃)
1886年10月1日、宇都宮~西那須野間開業
  日本鉄道の宇都宮~西那須野間が開業した。
1886年10月7日、やまと新聞(旧警察新聞)が創刊され、
 落語・講談速記が連載された。
  1884年に創刊された「警察新報」が改題された。
  山県有朋や田中光顕、桂太郎らの政界実力者のてこ入
 れもあったが、三遊亭円朝の落語・講談速記を連載する
 など娯楽趣味、そして、庶民向けの編集方針で評判を得
 た。
  福地桜痴や岡本綺堂らが健筆を振るい、発行部数33万
 を数え、
  1888年の年間総発行部数は 589万余で、『郵便報知新
 聞』に次いだ。
1886年10月16日、横山久太郎が、釜石で大島式高炉の操業
 に成功した。
  この釜石から日本の近代製鉄は始まった。
  日本では長い間、砂鉄を原料とした「たたら製鉄法」
 による鉄づくりが行われてきた。
  そして、外国船の来航など国防上の理由から、この砂
 鉄銑を用いた反射炉で大砲鋳造を行ってきたが、
  砲身にき裂が入りやすいなどの問題があり、良質な銑
 鉄が求められていた。
  大砲鋳造の技術者として、水戸藩に招かれた南部藩士・
 大島高任は、良質な銑鉄を製造するためには洋式高炉が
 不可欠であることを痛感し、
  南部領大橋(現在の釜石市大橋)で高炉の築造、操業
 に着手した。
  大橋を含む釜石一帯は、鉄鉱石の豊かな鉱脈を持ち、
 動力源の水車を回す橋野川、
  燃料の木炭を大量に供給できる森林、
  周辺の労働力などがそろった、製鉄業には大変優れた
 立地であった。
  1857年(安政4年)12月1日(新暦で1858年1月15日)、
 幾多の試練を乗り越えて、高任は、日本初の洋式高炉に
 よる出銑に成功した。
  その後、南部藩は、釜石(大橋、橋野、佐比内(遠野)、
 砂子渡、栗林地区)に合計10座の高炉を築造した、
  この打ち、橋野三番高炉は、36年間操業することとな
 った。
  明治維新後、1880年、官営製鉄所として操業を開始し
 たが、
  政府は、高任からの「小さな10トン高炉を、段階的に
 5基に増やす(合計50トン)」という進言を退けて、
  25トン高炉を2基、立ち上げる外国人技師の案を採用し
 た。
  この計画は、わずか2年で失敗に終わった。
  その後、製鉄所関連設備は、民間に払い下げられ、東
 京の「鉄屋」社長の田中長兵衛と、横山久太郎は、大島
 高任の「小さく生んで大きく育てる」思想を取り入れて、
 小さな高炉を築造。
  1886年10月16日、高炉吹入れ49回目で連続出銑に成功
 することとなった。
  (釜石製鉄所ホームページを参考にした)
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  (今日の言葉)
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  題:劣化している・・アメリカ・・
   日本に内政干渉的な圧力をかける・・悶え(もだえ)の中のアメリカ・・
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2016年10月、アメリカからの報告でささやかれたこと・・、
  アメリカは、人種差別を、いまだにする国。
  いつまでたっても、その行為が改まらない国。
  特に、黒人の方々を差別し、虐(いじ)める。
  黒人の方々に、あまり教育の機会を与えなかった。
  ここが、アメリカの選挙の仕組みに大きく絡(から)
 んでいたのだった・・
  黒人の方々が支持する候補の当選を阻(はば)もうと、
 卑劣にも、こんなところから手を打っていた・・、
  まず、選挙権の抑制(よくせい、抑え込み)がなされ
 ていた・・
  その抑制を受けているのは、巧妙な差別の構造によっ
 て、また、巧妙な差別方法によって、社会的に弱い立場
 に立たされている人たちへ向かってなされている。
  その一つが、差別行為者側に都合の良い法律が次々に
 作られる。
  弱者の方々が、不利になる様な法律が、色々と、アメ
 リカ国内で作られている。
  まったく卑劣なことである、社会である。
  どこが民主主義国家だと言えるのだ・・、
  民主主義を植え付けるのだと、それを大義だとして、
 民主主義を掲げて戦争までしたアメリカが・・、
  そのアメリカが、その民主主義の根幹の一つ・選挙を
 蔑(ないがし)ろにしている。
  その一つが投票行為に手を廻す・・民主主義で第一番
 に大切な投票行為において、
  少数の方々、また、社会的立場が弱い方々へ対して、
 攻撃している。
  投票に行くことに色々とハードルを設け、難しくする
 事が行われている。
  その様な目的の法律を色々作っている。
  選挙権があっても、投票所へ行っても、投票をさせて
 もらえないという『卑劣な仕組み』を色々と作っている。
  多くは、黒人差別がこの根にはある。
  はっきりと、黒人の方々に投票させない仕組みがアメ
 リカにある。
  アラバマ州ジョージ・ウォーレス知事(1962年に就任、
 人種隔離政策)はこれで有名な知事だ。
  ウォーレスのスローガンは、「今ここで人種隔離を!
 明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」という酷い人
 種差別主義の言葉を口にした。
  1963年に、このウォーレスは、自分の知事の権力を使
 って、黒人学生をアラバマ大学へ入学させないという事
 をした。
  そして、入学を阻止するために、州兵まで出動させて
 拒(こば)むという人種差別をした。
  アメリカは、今・現在もある黒人の方々に対する差別
 を止めよ!
  そして、アメリカは、昔も今も、黒人の方々に対して、
 教育を受けさせないようにしている。
  その結果、昔は特に、黒人の方々の識字率が低かった。
  そのハンディを、選挙に悪用した・・
  卑劣なことをした・・
  読み書きが出来ない人には、「投票させない」という
 ルール(法律)を作った。
  投票所に行くと、踏絵みたいに「自分の名前が書ける
 か?」と問い、チェックを行なった。
  書ける人でも、書こうとするとおかしな「紙とペン」
 が渡されて、書けないという仕組みになっていた。
  字が書けても、書けない様な仕組みになっていた。
  また、特定のグループの存在を、政府は許していた。
  そのグループは、「選挙が出来なくするような法律」
 を作った。
  その様なことをする州が、あちこちに存在した。
  作られた「その障害のある法」を変えようとして、変
 えようとすると、
  連邦の司法省の審査を受けなければいけないという「
 高いハードル」を設けたりして、作っていた。
  嫌がらせ的な・・子供っぽい低レベルのやり方もあっ
 た。
  選挙日の数日前に、選挙の投票所を、突然、変えてし
 まう・・とか・・と、
  (情報の得にくいマイノリティの少数の方々に不利だ
 った)
  また、「貴方はこの投票所に行って下さい」という連
 絡がなされているのに関わらず・・、
  突然、その投票所を変えてしまう・・とか、
  投票時刻を、突然、変えてしまうとか・・(予定した
 時間を、突然、短くしたり)・・と、
  投票に行ったみたら・・投票所が閉まっていたなどと
 いう事が起きるアメリカの低レベルな差別行為・・
  そして、投票日は、昔から火曜日なのだが、日曜日に
 変えるという事はしない、働いている人に投票しずらい
 様にしている。
  選挙区の地域割り(線引き)を変えて、白人を有利に
 する(共和党がよくやる)
  また、共和党の支持者が多い所に、選挙区割りの線引
 きをうまく変える。
  反対票の無効投票率が多くなるように変える・・など
 など、
  民主主義の根幹を汚すことをしているアメリカ。
  そして、他人の国に内政干渉する前に、自分の足元を
 良くしなさい。
  投票者が、顔写真を載せたIDを持って来ない場合は
 投票させない・・とか・・、
  それも政府機関が発行したものでなければならないと
 したり、
  パスポートとか、運転免許証とかと、外国に行くこと
 が無い様なレベルの人は持ってないとか、色々なハード
 ルを作った。
  また、被選挙権でも、地主でなければ『駄目』だとか、
  州ごとに好き放題のいい加減な法律を作った。
  アラバマ州だけでなく、色々な州で差別的法律が増え
 ている・・
  登録しなければならないというハードルも設けている、
  有権者登録とか、なるべく投票させないようにしてい
 る、
  他言語のサポートが悪いとか、恣意的(しいてき、自
 分勝手に、思うがままに)に、色々制限を作っている。
  民主主義の名に恥じるような自由な普通の選挙ではな
 い。
  アメリカの白人男性層が、縄張り根性で差別するとい
 う面も見られ、少数民族を差別している。
  2045年になると、白人が50パーセント以下になるアメ
 リカ。
  出生率の低い白人、ヒスパニックだけが2を越えている
 状況に戦々恐々としている。
  今、白人層に起きている傾向に、低学歴化があり、ま
 た、レッドネック(アメリカ合衆国の南部や、アパラチ
 ア山脈周辺などの農村部に住む、保守的な貧困白人層を
 指す)が話題になっている・・、
  そして・・、トランプ現象:アメリカが右傾化してい
 る、
  その背景には、「今までの、白人のプロテスタント国
 家」が、確実に終焉を迎えつつあるという現象・・
  そして、これに対する根強い不満が、この度、このト
 ランプ現象として、あからさまに出た。
  根底にある「アメリカ第一主義」の崩壊・・、
  そして、アウトプットされるのは、過剰で、過激な、
 自国の利益優先思想・・
  「メキシコとの国境に壁を築け」「費用はメキシコ持
 ちだ」
  「移民は受け入れない」「アメリカ利益が優先だ」
  「日本の防衛はお役御免だ」
  「保護主義」・・
  何か、先の戦争の時、「戦争を作った」と言ったルー
 ズベルト大統領の頃に似ているのでは・・、
  そして、今のアメリカでは、組織化されないで、弱い
 立場で、安い賃金で産業に吸収されていった人たちや・・、
  失業した人々や・・、
  安く労働させられる人たちや・・、
  プア・ホワイト化する人々が満ちて来ている。
  ユダヤとカソリックが主導して、今までのプロテスタ
 ントが圧迫されて来ている。
  この人たちに、アヘン中毒に陥っている人が増えてい
 る、
  アヘン系、オキシコンチンなどが、蔓延している・・
  (モルヒネと同じメカニズムで鎮痛効果がある)、
  中毒死が多くなっているという、
  だから、トランプは言われる、「トランプは一時的な
 痛み止めぐらいで支持しているのだ」・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive