ページビューの合計

2015年11月14日土曜日

(増補版)243D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年12月~1856年12月)

題:(増補版)243D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年12月~1856年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1856年(安政3年)2月13日、蕃書調所(ばんしょしらべし
 ょ)が設置された。
  1855年の洋学所設置の決定に基づいた。
  ペリー艦隊の威力に屈服した幕府は、外交事務も多忙
 になったが、専任の外交担当官や、翻訳官の養成の必要
 性を感じたための処置だった。
  また、これと並んで軍備の充実が課題となったため、
 洋学校の設立をした。
  1856年2月に、蕃書調所と改称して、江戸九段坂下の旗
 本屋敷を改修して校舎にし、開設した。
  教授に、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、杉田成卿(す
 ぎたせいけい)をおいた。
  生徒は、初め幕臣に限ったが、のち諸藩の士も入った。
  1856年7月に、開所した。
  1857年1月から、開講(開校)した。
  1862年に、洋書調所となり、
  1863年に、開成所と改称し、
  明治維新後は、大学南校→開成学校→東京開成学校→
 東京大学へとなった。
1856年3月、勝海舟、講武所の砲術師範役を命ぜられ、伝習
 (氷川清話)
1856年3月12日、駒場にて西洋流の訓練を行う。
  幕府が、駒場野での大規模な初めての洋式訓練をした、
 58名が参加した。
  老中・若年寄が状況視察した。
1856年3月、踏絵の儀、見合わせ(氷川清話)
1856年3月、老中・堀田備中守、外国事務及び貿易取調を命
 ぜられる(氷川清話)
1856年3月、諸城門の兵備を西洋銃に改める(氷川清話)
1856年4月20日、長崎の合戦場で砲術演習が行なわれた。
  この砲術演習は、4日間にわたり行われた。
1856年4月22日、伊豆国戸田浦にて造船の洋式軍艦に対し、
 「君沢形(きみさわがた、くんたくがた)」と称呼すべ
 しと幕府令あり。
  この原型は、難破したロシア船員帰国用に建造された
 「ヘダ号」で、この型の船を10隻、日本で使用するため
 に量産した。
  ロシア政府は、日本の対応に感謝の意を込めて、戸田
 号に52門の大砲を載せて返還して来た。
  そして、戸田号建造に当たった技術者たちは、その後
 も同型の西洋式帆船(スクーナー型帆船))を建造し続
 けた。そして、この名を幕府は付けた。
1856年4月25日、江戸築地に講武所が開設された。
  講武所では、古来の剣術などだけでなく、西洋式の砲
 術や戦術学の研究も行われた。

1856年4月、イギリス軍艦が長崎に寄港した。
  9月には、ロシアと、再び、イギリス軍艦が来港した。
  いずれも奉行役宅にて応接し、談判を行なうという外
 交任務を遂行した。その手腕を内外ともに認めさす結果
 を得た。
  勝(海舟)は、それらを細やかに見ていたことで、の
 ちに「幕府には、三河武士の美風を受けた正直なよい侍
 があったよ。
  岩瀬肥後、小栗上野(こうずけ)、河村対馬、戸川播
 磨などは良い人物だったが、惜しい事には、みな死んで
 しまった」と昔を懐かしんで語った。
1856年5月、蝦夷人に日本語の習熟、内地人との同化を奨励。
1856年6月、勝海舟、昨年より伝習に格別の功があったとい
 う事で、大番へ番替え命ぜられる(氷川清話)
  大番(おおばん、大御番)は、常備兵力として、旗本
 を編成した部隊。
  親衛隊的側面もあった。
  そして、幕府の直轄軍事力となってゆく。
  戦時には、旗本部隊の一番先手として備(そなえ)の
 騎馬隊として働いた。
  平時は、江戸城および要地の警護を担当した。
1856年、勝海舟、海軍伝習所に関係して、長崎に在住5ヵ年
 (33歳~37歳)の間、海舟は、壮年のエネルギーを海軍
 将校としての技術・経験の習得に注ぎ込んだ。
  そうして、日本海軍の草分け的存在となった。
  また同時に、外国人、しかも、要職にある高官と、頻
 繁に接触し、友人づきあいをするうちに、外交感覚を身
 に着けて行った。
  また、語学力も役立って、オランダ人同士の会話を盗
 み聴きして、その情報をいち早く、江戸の幕閣に急便で
 知らせたりして、自己の存在を印象付けたりもする。
  あるいは、軍艦で鹿児島に行って、薩摩の島津斉彬(
 なりあきら)侯と、ほとんど対等のつきあいをして、勝
 の名を薩摩に売り込んでもいる。
  彼は、江戸を遠く離れる事によって、かえって中央政
 界に徐々ではあるが注目されつつあった(氷川清話)
1856年7月、旗本の子弟を蕃書調所で学ばしむ(6月30日説
 あり)。
  幕府令して旗本の子弟中経書に通ずる者に限り蕃書調
 所に通学を許す。
1856年7月12日、水戸藩主・徳川斉昭の軍船、旭日丸竣工す。
  水戸藩主・水戸斉昭は、江戸石川島(後の石川島造船
 所)で、1856年のこの年、「旭日丸」という軍艦を建造
 して幕府に献じている。
  水戸家は、尊王派の本山の様な家だった。
  水戸斉昭は、強引な酷烈性格で、幕閣に対して厳しか
 った。(竜馬がゆく・2)
1856年7月21日、アメリカ合衆国の初代駐日総領事・タウン
 ゼント・ハリスが、伊豆国下田に来航。
  通訳官ヒュースケン。
  後に、ハリスが伊豆国下田の玉泉寺に駐剳(ちゅうさ
 つ、駐在のこと)した。
  8月24日になって、幕府が、ハリスの駐在を許可した(
 ハリス着任)。
  ハリスは、下田奉行に、「自分は合衆国大統領の代官
 である」と言った。
  そして、「大統領は、日本と通商条約を結びたい。
  その旨の国書を持ってきた。
  ぜひ、江戸の将軍(たいくん)に謁見して直接それを
 渡したい。
  将軍以外の者には渡さない」・・と、強硬な態度を示
 した。
  幕府は、大騒ぎとなった。
  幕府としては、外国人を江戸に入れる訳には行かなか
 った。
  まして、将軍にあわせるなどは論外であった。
  八方手を尽くしてハリスをなだめたが、この貿易商人
 あがりの外交官は頑として聞かず、
  「もし、日本人が我が政府の要求を入れない場合、大
 統領は非常手段をもってその趣旨を貫く用意(砲火の用
 意)がある」と言った。
  去年・1855年の9月に、イギリスが清国を攻めて広東を
 焼いていた。
  幕府は、これを知っていた。
  そのため、ハリスに、幕府は屈した。
  国内では、攘夷が盛んに叫ばれていたが、下田条約を
 結んだ。
  そして、江戸の出府も認めた。
  そして、将軍謁見も認めた。
  しかし、幕府は、攘夷の世論のために開国(通商条約
 締結)には踏み切れなかった。
  ハリスは強硬に迫った、幕府は屈し、1857年11月から、
 通商条約の逐条(ちくじょう)協議を開始した。
  (注)逐条:法律・規約などの箇条を一つ一つ順に取
 り上げること。
  そして、1858年1月12日に、すべての議定を終わった。
  しかし、京都は攘夷の嵐の中にあった。
  幕府も、ハリスに強行突破された立場であって、やむ
 を得ない経過の中で、京都との意見の相違という状況に
 置かれた。
  この違いが、幕末の風雲を生む元にあった。
  幕末の火種を作ったアメリカだった。
1856年7月22日、佐久間象山が、蟄居謹慎中海防意見書を幕
 府に呈して国防を促した。
1856年8月4日、老中・阿部正弘が、貿易開始の積極的方針を
 発表した(貿易開始の基本方針を宣言した)。
1856年8月21日、ハリスが、下田に総領事として着任した
 (24日説あり、24日に駐在許可)。
1856年8月24日、露使プチャーチン、長崎に来航す。
1856年8月23日、安政八戸沖地震(巨大地震)
1856年8月25日、秋、関東大風(氷川清話)
1856年8月26日、北海道駒ヶ嶽の大爆発、
1856年月9~10月、坂本竜馬、江戸到着。
1856年9月3日、福沢諭吉が中津へ帰郷した。
  諭吉は、大阪の緒方塾で勉強を始めていた。
  この年の9月3日に、兄急逝の報に中津へ帰郷した。
  そして、家を継がされた。
  諭吉は、封建体制の世に希望を見いだせなかった。
  そして、脱出の行動だけはしたいと思っていた。
  諭吉は母へ、「私は中津で朽ち果てようとは思ってい
 ません」と言う。
  母は、諭吉へ、思い切りよく、「どうぞ手放して下さ
 らぬ」かと言った。
  そしてまた、言った、「兄の死は仕方ない。あなたも
 また、よそに出て死ぬかもしれぬが、死生の事は一切言
 うことなし。どこへでも出て行きなさい」と。
  子供の可能性を尊重した母だった。
1856年9月18日、浦上三番崩れ、切支丹15人を捕らえる。
  幕府の取締りも緩かったので、このレベル。
  キリスト教は針小棒大に言うが・・、
  ヨーロッパの魔女狩りの様に、隣村でも魔女を焼く煙
 がもうもうと上り、ヨーロッパ中の空は曇ったと言われ
 る状況とはまったく違う。
1856年10月7日、下田御用所にて,ハリスと幕府との通貨交
 換率の交渉。
1856年10月17日,老中堀田正睦、外国事務取扱を命ぜられる。
  幕府、堀田正睦に外国事務を担任せしめ、これより外
 交的局面一変せんとす。
1856年10月、外国御用掛設置。
1856年10月20日、二宮尊徳が没した(病死)(1787年~
 1856年)(69歳)
1856年、村田蔵六(大村益次郎)、麹町新道一番町で私塾・鳩
 居堂を開く。
  蛮書調所教授方手伝、講武所教授方になる。
1856年11月4日、江戸で地震。
1856年11月、勝海舟、鼠山で門人の銃陣調練、老中、若干
 の見分けがあり、土岐頼旨が代わって全隊を指揮する。
  この春頃から、洋行の志願をする。又、築城学を兼修
 する(氷川清話)
1856年11月10日、下田にて日露条約交換式、露艦ヂヤナ号
 より大砲52門を送られた。
1856年11月、将軍、松平斉彬の娘を納る(氷川清話)
  天璋院(てんしょういん)篤姫(あつひめ)は、薩摩
 藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、
  1856年のこの年に、右大臣・近衛忠煕の養女となり、
  この年の11月に、第13代将軍・徳川家定の正室となっ
 た。
  年寄の幾島を伴って大奥に入った。
  なお、家定に嫁いで以降、生涯を通して故郷・鹿児島
 に戻ることは無かった。
1856年12月、オランダ人に、長崎市中で物品を購入するこ
 とを許した。
1856年12月4日、竜馬の父・八平(名は直足・なおたる)が
 没した。
  死の直前まで昏睡していた八平は、にわかに眼を開い
 て「竜馬」と言った。
  竜馬、竜馬と呼び、声が終わると息が絶えた。
  二男三女の父で、性格は穏やかだった。
  この報に接した竜馬は、感涙とどめえず、遙かに江戸
 の地より故郷を排し、竜馬かならずこの恩に報ゆべし、
 と天地神明に誓ったという。
  竜馬にとって、よほどの痛恨事であった。
  この日から、翌年にかけての竜馬の逸話がほとんどな
 い。千葉道場にこもりっきりで、必死の剣術修行をした。
  ほどなく、北辰一刀流の最高位である大目録皆伝を得
 た。そして、桶町千葉の塾頭になった。
  千葉の塾頭と言えば、江戸の剣客の花と言ってよかっ
 た。(竜馬がゆく・1)
  この時の竜馬の免状が、本物と鑑定された記事が(読
 売新聞、2015・11・8)に載った。
  以下その概略・・、
  竜馬の免許状が、実物〈本物〉と鑑定された。
  鑑定は、京都国立博物館。
  幕末の志士・坂本龍馬に伝授されたと伝わる北辰一刀
 流の長刀(なぎなた)の免状「長刀兵法目録」、
  全長約2.7メートルの巻物。
  ゆかりの指導者名が連ねられ、創始者の千葉周作や、
 竜馬と恋に落ちたとされる周作のめい・佐那の名もある。
  日付は「安政5年(1858年)」、
  最後に、「坂本龍馬殿」と結ばれている。
  北辰一刀流は、、3000人以上の門下生をかかえた。
  竜馬は、1853年~1854年、1856年~1858年に、周作の
 弟・定吉の道場で修業し、
  剣術と長刀術の免状を得たとされる。
  鑑定した博物館の宮川氏は、「竜馬がまぎれもなく剣
 豪だったことを伝える資料」としている。
1856年12月12日、幕府、松平容保の海防の功を賞す。
1856年12月18日、吉田松陰、梅田雲浜と会見。
1856年5月6日、フロイト(オーストリア、精神分析学者)
 が生まれた(1856年~1939年)
  白人系ユダヤ教徒アシュケナジムの家庭に生まれた。
  アシュケナジムは、ユダヤ系のディアスポラのうち、
 ドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、および、そ
 の子孫を指す。
  アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社
 会の二大勢力である。
  大雑把に、前者がヨーロッパ系ユダヤ人で、後者が中
 東系ユダヤ人を指す語としてイスラエルでは使われる。
  種々な説もある。
1856年、フェレル(アメリカ、気象学者)が大気還流論を
 発表した。
1856年7月、ネアンデルタール人が発見された。
  ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル谷にある
 フェルトホッファー洞穴で、男性化石人骨が発見された。
  石灰岩の採掘作業中、谷にあったフェルトホッファー
 洞窟から採掘作業員によって採取された。
  遺骨は、顔面の一部や、四肢の一部は欠けていたが、
 状態は良好だった。
  高さの低い脳頭骨や、発達した眼窩上隆起などが特徴
 だった。
   発掘地からネアンデルタール人と名づけられた。
1856年、アロー号事件が起こった(第二次アヘン戦争)
  イギリス船のアロー号の船員を、中国・清朝の兵が逮
 捕したことに端を発した(広東港に停泊中だった)。
  アロー号事件を口実にして、フランスと連合してイギ
 リスは清国たたきの戦争した(1860年まで)。
  イギリスは、アヘン貿易の合法化が戦争目的で、もく
 ろみだった。
  清国は、戦争に屈服して、1858年に、不平等な条約を
 結ばされた(天津条約)、
  しかし、あまりにも不平等なるが故に、収まらず、北
 京での条約批准の強行行為に清国が反撃して、戦いは続
 いた。
  イギリスは、北京を占領し、清代の素晴らしい離宮で
 ある円明園を破壊し、略奪し尽くして、清朝を屈服させ
 た。
  そして、北京条約を調印させた。
  イギリスの蛮行のやりたい放題だった。
  この事を知っていた日本の江戸幕府は、1858年の日米
 修好通商条約に調印した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月13日金曜日

(増補版)242D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年8月~1855年12月)

題:(増補版)242D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1855年8月~1855年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1855年(安政2年)9月1日、勝海舟、帆船、昇平丸に乗り
 10月20日に長崎に着く、
  蘭館を訪ね、入門の式を行う。
  伝習の余暇、和蘭領事及び教頭の密話を聞き、海外の
 事情を詳かに手記して要路に報ずるもの少ない(氷川清
 話)
1855年9月10日《7/29》、幕府が、西役所に、海軍伝習所
 を開設した。
  そして、10月24日に開校し、第1次海軍伝習を開始した。
  伝習生たちは、監督格の永井尚志に率いられ、出島の
 オランダ商館に赴き、入門式を挙行した。
   伝習生は、幕臣35人を中心に、佐賀、福岡、鹿児島など
 8藩から送り込まれた129人(127人?)、通訳14人だっ
 た。
   伝習生は、永持享次郎、矢田堀景蔵、勝麟太郎ら幕臣、
  そして、佐野常民ら佐賀藩士、
   また、榎本武揚、沢太郎左衛門、赤松則良、内田正雄、
 佐々倉桐太郎、塚本明毅、中島三郎助、佐野常民、中牟
 田倉之助、真木長義、田中久重、松村安種、本島藤太夫、
 金子才吉など
  他に長崎地役人、水夫として瀬戸内海の塩飽衆も参加
 した。
  授業は、日曜日を除く毎日、朝8時~12時、午後1時~
 4時、
  オランダ語の講義を通訳が訳すが、通訳が知らない語
 が出て来るとつかえた。
  初め、生徒には、筆記を許さず、暗記のみで、途方に
 暮れた。
  教授科目として、航海術、運用術、造船、砲術の実技、
 天測の実技、数学、蒸気機関、鉄砲調練などがあった。
  当初、伝習生は、オランダ語に苦労し、アラビア数字
 による計算に戸惑ったが、
  徐々に伝習の成果が上がった。
  オランダ国王より寄贈されたスンビン号(のち観光丸)
 が練習船になった。
  1857年の春になって、海軍伝習が軌道にり、江戸築地
 講武所に軍艦教授所を設けた。
  永井岩之丞は、矢田堀景蔵らと観光丸で江戸に帰った。
  長崎の方は、岡部駿河守が伝習を監督した。
  勝(海舟)ら数名は、残留した。
  1857年の9月21日《08/04》になって、幕府が、オラン
 ダに発注した新建造軍艦・ヤッパン号が、長崎に入港し
 た、後の、咸臨丸。
  カッテンディーケ海軍大尉を隊長とする第2次の教師
 団37人が乗船し、第1次の教官隊と交替した。
  中には、オランダ海軍2等軍医のポンペ・ファン・メ
 ーデルフォールトや、オランダ海軍機関将校のヘンドリ
 ック・ハルデスの姿もあった。
  新たに、伝習生として、松本良順らが入所した、そし
 て、第2次の海軍伝習が始まった。
  陸上や海上での教育のほかに、ポンペにより、西洋医
 学の講義もなされた。
  1859年の2月になって、江戸が、主舞台に変わり、
  遠隔地の長崎では、経費がかかるとのことで閉鎖した。
  教師は、オランダ海軍士官が勤め、各藩から選ばれた
 青年が、航海術、造船術、砲術、調練など、近代海軍の
 基礎知識を学んだ。
  生徒監に、勝鱗太郎、生徒の中に榎本釜次郎がいた。
  蒸気機関の修理や、取替えなどの必要が生じ、長崎奉
 行から幕府に、造船所建設の上申があった。
  1861年3月25日になって、稲佐郷・飽の浦に、長崎製鉄
 所が完成した。
1855年9月13日、陸前で地震。
1855年10月、日仏和親条約締結。
1855年10月5日《08/25》、幕府が、オランダ国王より寄贈
 の蒸汽船スンビン号を受領した(今までは借りていた)。
  蘭国政府に対する幕府の答礼品は、王室官吏や、同船
 船将以下、水火夫にいたるまで物を贈った。
  長刀2振、鎧2領、太刀3振、金屏風10双、絹高沙染
 100匹、白銀300枚、真綿200把、銅3万斤、米300俵、そ
 の他
1855年、和蘭より汽船を貢す(氷川清話)
1855年10月9日、堀田正睦が、老中に復帰した。
1855年10月22日、オランダ人の長崎・市街遊歩が許可され
 る。
1855年11月7日、遠州灘で地震。東海地震の最大余震。
1855年11月11日《10/02》安政の大地震
  夜四ツ過(午後10時頃)、関東地方南部で、M6.9の安政江
 戸地震が発生した。
  下町地区、隅田川東岸の深川などでは、甚大な被害を
 生じた。
  また、日比谷から西の丸下、大手町といった谷地を埋
 め立てた地域では、被害が大きくなった。
  小石川の水戸藩・藩邸が倒壊した。
  水戸藩主の徳川斉昭の腹心、水戸の両田・戸田忠太夫
 や藤田東湖が死亡した。
   死者約4300人、倒壊家屋約1万戸とされる。
  後に、被害情報を伝える瓦版が発行され、風刺画の鯰
 (ナマズ)絵なども刊行され、被災者の共感を呼んだ。
  江戸に現れた大ナマズに押しつぶされ、逃げ惑う人々、
 逆に、棒や包丁でナマズを懲らしめる人々・・、
  ナマズ絵には地震への恐怖や恨みを表現したものが多
 く、ナマズを地震の元凶と見なして絵の主役に仕立てた。
  これは、江戸っ子の独特のユーモア。
  復旧事業が、一時的な経済効果になった。
  当時、江戸は百万都市だったという、14000余戸の家屋
 が焼失した。、
1855年、この年は、土佐も壊滅したという。
  また、前年より大きな地震があったという(竜馬がゆ
 く・1)
1855年11月29日《10/20》、勝海舟が、海軍伝習所頭役とし
 て長崎へ行った。
  オランダ士官より、航海術の訓練を受けた。
  宿舎は、本蓮寺境内の大乗院。
  4年間にわたり滞在した。
1855年12月10日、千葉周作が没した(1794年~1855年)(
 61歳)
1855年12月15日、吉田松陰、1年数ヶ月ぶりに野山の獄を出
 された。
1855年12月22日、長州姥倉の運河竣工開通す。
1855年12月23日、日蘭和親条約が調印された。
  日蘭和親条約を、長崎で調印し、正式に国交が開始さ
 れた。
  日蘭和親条約により、オランダ人の市中遊歩が、自由
 になった。
  後に、ロシア人、アメリカ人、イギリス人も同様にな
 った。
1855年12月27日、西郷吉之助、橋本左内と初対面。
1855年、転炉式製鋼法が発明された。
  転炉は、回転の意味ではなく、銑鉄を鋼に転換する炉、
 つまり「転換炉(converter)」から由来している。
  発明者の一人のヘンリー・ベッセマー(イングランド)
 が使い始めた言葉。
1855年、東講(あずまこう)ができる。「東講商人鑑(あ
 ずまこうあきんどかがみ)」が刊行した。
  江戸の大城屋良助が発起人となり、東日本を中心とし
 た旅行組合として結成された東講。
  そして、この年に刊行した東講商人鑑には、加盟して
 いる定宿や問屋・商店などが記された。
  当時の商業事情を知る資料として最適。
1855年、江川太郎左衛門、韮山に反射炉を築く(氷川清話)
  この韮山反射炉は、2015年に世界遺産登録された。
  耐震補強用に鉄骨のフレームが組まれていて、
  鉄の精錬用に伊豆に造られた。
  山口県の荻反射炉と共に、貴重な遺構となっている。
  列強諸国に対抗できる軍事力強化を目的に、蘭学に秀
 でた知識のあった韮山代官の江川英龍(太郎左衛門)が、
  西洋砲術の導入、製鉄洋式砲の生産、台場の設置、洋
 式船による海軍の創設、洋式の訓練を施した農兵制度の
 導入など、一連の海防政策を幕府に建言した。
  それらの策の内、製鉄砲を鋳造するために必要な溶解
 炉が、幕府直営の、この韮山反射炉だった。
  優秀なる日本人、各地から知恵のある者が湧き出(い
 ずる)状態だった。
1855年、この年、長崎の人口2万7376人。
  キリスト教作家(星野博美氏)が、島原の乱で民が、
 37000人死んだと読売新聞に書いたが、長崎でさえ2万人
 の人口なのだ。
  何故、半島の先の方の島原で、それも死者だけで3万
 7000人と、倍の人数近くの死者が出るのか?
  この事からもキリスト教の良くやるプロパガンダ(嘘
 宣伝)だと分かる。
  キリスト教に偏するNHKも、1万5000人と、まったく
 オーバーな嘘人数を放送した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月12日木曜日

臨時ブログ:杭打ちの問題:その後の話(三井住友建設の初めての公式謝罪)

臨時ブログ:杭打ちの問題:その後の話(三井住友建設の初めての公式謝罪)
(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
[経過報告]:日本テレビ系(NNN)11月11日(水)22時55
 分配信・・を、YAHOO!Japanで見た、そして、そこ
 の記事を読んだ。
  放送のタイトルが「杭データ改ざん問題、三井住友建設
 が初謝罪」とあった。
  やっぱり、今まで、公(おおやけ)への謝罪は無視して
 いたのかと思った、そして、だんまりだったのかと思った。
  余りにも遅すぎる。
  誠意を全く感じない。
  下請けにばかり説明させ、謝らせてばかりいてと、怒り
 が湧く。
  一緒に誠実に、社会への責任を果たさなければならない
 立場にあるのに・・と感じる。
  記事には、「問題発覚後、初めて公の場で謝罪した」と
 記されている。
  何と不誠実な事か?・・と、ふたたび、怒りが湧く。
  そして、三井住友建設・永本芳生副社長が「杭工事業者
 (旭化成建材)・・(杭がとどいていないというような)
 そのような問題があれば、我々にちゃんと報告してもらえ
 れば、適切に対応できた」と発言した。
  これは、まったくおかしい。
  杭の支持基盤に来たら、掘削完了で次の工程に入る、確
 実に杭工事者はその時点で杭の支持地盤に到達したから掘
 削工事を止める、次工程に移るという動きに入る。
  そこで、確実に支持地盤到達のところで掘削したものが、
 支持地盤に到達しましたという状況を示すものに代わって
 いるかどうかの確認をしなければならない。
  これは、元請けも一番関心を示すところ、杭業者だけに
 任せておけないところ。
  確実に支持地盤を示す掘削物が出た、だから、支持地盤
 に到達した・・と確認してから、次工程に入らなければい
 けない(杭工事にも色々あるが・・)。
  計測器のグラフを見て、その明らかな違いでも確認する。
  何しろ、支持地盤の状況を示す掘削して来たものを確認
 しなければならない(例えば、砂利に変わったとか・・)。
  計測器のグラフだけを見て、確実な支持地盤の出土物を
 見ないなどという事はありえない。
  これは、杭工事の施工者の責任者も行うが、元請けの責
 任のある者も同時に確認しなければならない。
  元請けの監理者がイニシアチブを取って、掘削状況はど
 うだ?・・と、常に工事の進捗に関わっていなければいけ
 ない。
  そして、次工程のコンクリートを打つかの判断をして、
 次工程の事を行なう。
  場合によっては、「もう少し掘って、確実に支持層に食
 い込ませよ」ぐらいは言わなければいけない。
  ここが、監理者の判断で、大切な仕事(ここに、監理者
 の存在の意味があり、意義がある、施工業者に任せる事が
 出来ないところ、品質が決定するところ)。
  確認しないで、支持地盤に到達したことを確認しないで
 コンクリートを打たす事は・・大きな間違い、手抜きです。
  後からデーターを見せられたって、支持地盤に到達して
 ないでコンクリートを打ってしまったでは、もう遅いので
 す。
  コンクリートを打つ前に、確実に支持地盤に着いたかを
 確認しなければいけません。
  「報告してくれれば」と、三井住友建設の重役の方が言
 っているが、この言葉はおかしいし、あなたが監理者なの
 です。杭の施工業者は業者なのです。
  報告を受けるだけの監理は成立しません。
  監理者は、「確実なる支持層到達の確認」、そこが仕事
 ですと言いたい。
  一番大切なことをしないで、変だったら報告してくれれ
 ば良かったのに・・は、まったくおかしい。
  そんな話は成立しません。
  データーは補助ぐらいに思わなくてはいけません。
  目で見て、状況に対応し、より良い品質にしていく行動
 をして、より高い品質を作り込んで行くのが、あなたの仕
 事(新入社員へ話をするレベル)。
  支持層到達を知らせる掘削物(出土物)の確認が大切で、
 それが仕事です。
  「私たちは見抜けなかった」と三井住友建設・相良毅常
 務が言われたが、
  「見抜けなかった」ではなくて、「見抜くことをしなか
 った(確認の手抜き)」とか、
  「見抜こうとはしなかった」の意識のレベルの話が正し
 いのではないですか?
  「旭化成建材側が固い地盤に杭が届いたか確認すべきだ
 った」と三井住友建設の副社長や重役は主張したと言うが、
 貴方の仕事の監理の放棄です。
  こんな事なら、三井住友建設の「現場の監理事務所」は
 不要です。
  そこが仕事の事務所だったのです。
  何にもわからない新入社員に、こんな内容のことを言う
 ような事柄を、何故、言わせるような発言をするのでしょ
 うか?
  旭化成建材が十分な問題ない施工をし、そして、そのデ
 ーターをそろえて、三井住友建設に持って来て、ご苦労様
 と受け取って、それで終わりは・・間違いです。
  事が終わった後に、データーを見て、貴方は、何をしよ
 うとしているのでしょうか?
  「えっ!異常があったのか?異常があったら、異常があ
 ったと、報告してくれればいいのに・・」という発言は
 成立しますか?
  杭はもうコンクリートが打たれてしまっているのですよ。
  貴方は、そこから、何をしようとしているのでしょうか?
  旭化成建材が、「問題あります、まだ、支持地盤に到達
 してませんと、ちゃんと報告してもらえれば、適切に対応
 できた」と発言する三井住友建設の重役の方の発言も、ど
 うみても、おかしいです。
  この様なケースが発生するのでしょうか?
  支持地盤は最大の関心事、問題があるという支持地盤へ
 の未到達が確認できたのなら、旭化成は掘削の継続をする
 でしょう。悪意がないなら・・。
  こんな時に問題あるなんて言ってきますか?掘削継続す
 ればいいことを・・、
  論理的に成立しない発言をしているように思えます。
  また、掘削業者の不可抗力のミスもあるから、貴方の監
 理へ施工主はお金を支払って監理を依頼しているのです。
  施工業者は施工業者の業者の立場での確認、監理者は監
 理者としての立場の確認・・これがやらねばならないこと
 なのです。
  後から、施工業者から書類を貰って監理をしたは、あり
 ません、成立しません。
.
追伸:三井住友建設の主張で、
  「事前の地盤調査で得られたデータは、あくまでも暫
 定値で、杭打ちを行なった旭化成側が固い地盤に杭が届
 いたか確認すべきだった」と主張した点は、
  事前の地盤調査(ボーリングデータ)は、杭の1本、1
 本の地点で、事前の支持地盤深さの調査をする訳ではな
 く、
  敷地の代表的な地点で、測定し、調査する。
  誰でもが知っている様に、その様な調査であるので、
   暫定値という表現は不適切で、
   この敷地の支持地盤は、この辺に支持地盤がありま
 すと教えるだけのもの・・、そのあたりに支持層がある
 と知るだけの調査であって、
  だからこそ、支持地盤に到達したかを、1本、1本、
 確認することが重要なのです。
  貴方(三井住友建設)もご存知の様に・・、
  だからこそ、貴方の、三井住友建設の監理者が、1本、
 1本、監理者として監理しなければいけないのです。
  その様な事前調査なので・・「旭化成側が固い地盤に
 届いたか確認すべきだった」は、まったくの「すり替え」
 です。
  だから、貴方も(三井住友建設も)監理者として確認し
 なければならない監理の重要ポイントだったのです。
  こういう、重要な問題点の、すり替えの言い方を見て
 も、まったく不誠実だと感じる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月11日水曜日

臨時ブログ:杭打ちの問題:元請け責任、監理責任、(監理:物事を監督、管理すること)

臨時ブログ:杭打ちの問題:元請け責任、監理責任、(監理:物事を監督、管理すること)
 (真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
  杭打ちの問題・・といえば・・旭化成建材・・親会社
 系列が旭化成だと想像できるが・・マスコミでも報じて
 いたし・・、
  しかし、旭化成建材は、元請け会社から請け負ってい
 た子会社・・
  この旭化成建材へ発注していた元請け会社が出て来な
 い、マスコミの前に出て来ない、
  三井住友建設だと思うが、まったく、マスコミの前で
 説明したり、頭を下げている姿を私は見ていない。責任
 を感じているのかと言いたい・・、
  公(おおやけ)への説明や謝罪まで子会社に「丸投げ」
 しているのでしょうか。
  元請け会社の名前が間違ったかなと思えるぐらい、貴
 方は説明責任を果たしていないと感じられます。
  監理責任は、元請け会社の貴方だったでしょう?と言
 いたい。
  「工期を伸ばすようになっては・・」と言う旭化成建
 材の言い訳的な説明を聞くが、そんなに厳しい工期で施
 工せよと旭化成建材に発注条件として言っていたのでし
 ょうか?
  だとしたら、その様な工期を与えた貴方に責任がある
 のです。その辺を貴方は説明しなければいけません。貴
 方は説明をしているようには感じません。そんなに厳し
 い工期で発注はしていませんとかと・・、
  また、施工中の、工事をしている所に行って、支持基
 盤に到達したかどうかの確認は大切な事、していれば問
 題は起きません。その監理責任は貴方だけです・・これ
 をしっかりしていれば問題が起きる訳はありません。
  杭のデーターが出て来てから確認したのでは遅いこと
 ぐらいはわかっていますね。
  施工中に、常に、肝心の支持基盤に到達したかを確認
 していなければならないくらいは貴方は知っているはず
 の貴方なのです。
  このことまで下請けに丸投げてしてしまっていたので
 しょうか。
追伸:貴方は、元請け。元請け責任があります。監理責任があります。
  (監理:物事を監督、管理すること)。
  (監督:取り締まったり、指図をしたりすること)。
  (管理:ある規準などから外れないよう、全体を統制すること。用例:品質を管理する)。
  元請け責任を果たしていなかったと感じます。
  監理責任を果たしていなかったと感じます。
  監督をしていなかったと感じます。管理をしていなかったと感じます。
  外国株主:9.7%、
  参考:鹿島建設:25.1%、大成建設:30.5%、清水建設:20.6%、大林:33.2%
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2015年11月9日月曜日

臨時ブログ:キリスト教の現・法王は、今までの法王と違う行動をとった・・

臨時ブログ:キリスト教の現・法王は、今までの法王と違う行動をとった・・
  (真を求めて、皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
  (読売新聞、2015・11・3)に投稿されている・・、
  松本佐保氏・名古屋市立大学教授(「バチカン近現代史」
 の著作のあるキリスト教研究者)の、
  この投稿文の記述において、余りにも片寄った見方で
 書かれていることが多々あった。
  この新聞の見出しは、
  「ローマ法王フランシスコの訪米」、「教派、党派を
 超え普遍的価値」・・とあった。
  この投稿文を読んで、まず感じたことは、キリスト教
 聖書の裏打ちのない「遊離した話」であり、また、行為
 だと感じた。
  もし、「この新聞に書かれた法王の行為が正しい」の
 だとするのならば、その行為に反するキリスト教聖書の
 記述部は削除されるべきだと感じた。
  また、この松本氏の記述は、「同時期に訪米した中国
 の習近平国家首席より騒がれた」と記して、こんな事で
 現・法王を美化する記述から始められた。
  また、「前法王・ベネディクトより騒がれた」と、前・
 法王を引き下げることまでして、現・法王の方が騒がれ
 たと美化記述した。
  その理由として、「前法王は贅沢であった」と書いた。
  前法王の「公表が憚(はばか)れるようなこと」を記
 して、現法王を美化した。
  「現法王は贅沢ではない」、現法王は、「だから、そ
 れを排した」、だから、アメリカで人気が出たんだ、騒
 がれたのだと美化した。
  また、前法王は、社会の底辺にいる貧しい人たちに見
 向きもしなかったが、現法王は、そうしなかったとまで
 記した。
  前法王方たちの贅沢を排し、貧しい人たちに関心を示
 したという当然のことで美化した。
  そして、アメリカ社会が、弱肉強食で、強者が弱者を
 虐(しいた)げているが、前法王たちは、その様な差別
 的状況を指摘しなかったが、
  現法王は、前法王たちと違って、しっかりと批判した
 と美化した。
  要は、書き方にも問題があるのだ。
  基本的には、キリスト教は間違っているからこの様な
 状況が生まれているのだ。
  松本氏は書く・・、前法王たちは、この法王たちがキ
 リスト教カトリックで、
  このカトリックのキリスト教が・・、
  アメリカの建国の自由とか、平等とかの理念と相容れ
 ないからだ・・と記した。
  だから、アメリカ社会は、この、カトリックの考え方
 を受け入れることができずに、
  アメリカとカトリックが、相入れることがなかったの
 で、
  アメリカ議会で法王が演説することが、ずーっとでき
 なかったのだ・・と記した。
  そして、アメリカとカトリックは、お互いを理解でき
 ずに反目して来た・・と記した。
  アメリカは、キリスト教国であるのに、キリスト教カ
 トリックを差別さえした・・と記した。
  だから、カトリックが、アメリカ大統領になれなかっ
 た・・と記した。
  キリスト教カトリックの大統領は、ケネディだけであ
 る・・と、
  まったくのアメリカの差別行為で、その差別状態の結
 果だ・・と記した。
  この作家は、カトリックであろう・・、
  完全に、カトリックの法王のサイドに立ち、
  プロテスタントのキリスト教を別宗教に思えるくらい
 に攻撃して、記している。
  そしてまた、「また、67%がプロテスタントであるの
 に対して、そのアメリカのキリスト教徒の差別のため、
 カトリックは、その半分以下の少数のカトリックという
 差別の結果の社会となっている」・・と記した。
  このアメリカ社会の差別性を指摘した松本氏は・・、
 「奴隷制度を廃止したリンカーン」と、いつものキリス
 ト教のプロパガンダ(嘘宣伝)を、この松本氏も記した。
  これは嘘です、キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
 です、本ブログの別項に記させて戴いています。
  同様に、松本氏は、もう一つの定番のキリスト教のプ
 ロパガンダ(嘘宣伝)を書いた、それはキング牧師の事
 で、
  このキング牧師だって「ヒンドゥー教のガンジー師の
 考えに感銘を受け、そして、従った人」です。
  そして、現・法王が、「環境問題の改善を叫んだ」と
 美化した。
  しかし、この「改善を叫んだ」と言ったって、キリス
 ト教が、散々、キリスト教の教義で、「地を従えよ」と、
 地(地球)が荒れる行為を促してきた歴史がある。
  教義「地を従えよ」の考えで、地球が荒れるに荒れた
 のです。
  乱開発はこの教義に洗脳され、影響され、行なわれた。
  地球を大切に、思いをおよばせて、大切に使って行こ
 うという考えは、毛頭もないキリスト教の教義なのです。
  この教義は、完全に間違っています。
  松本氏は、人々が誤解する様に書いていますが、この
 書き方は問題です。
  これでは、事態が改善しません。
  うまく書いて人々を惑わす事は止めて戴きたい。
  教義「地を従えよ」と、地球資源の乱費を賞賛し、
  特に、アメリカの大量消費が世界の批判を受けました
 が、
  貴重な資源を、次々に使う事を賛美し、
  大量消費を讃美し、栄光なる発展だと誤解を与えた。
  大量消費の讃歌を謳ったキリスト教だった、それを発
 展と称した。
  そして、それに従ったアメリカの大量消費の文化だっ
 た。
  この様な、キリスト教の教義の「地を従える文化」の
 讃美であった。
  そして至って来た環境破壊の現実の中に、今がある。
  汚染した地球がある。破壊された地球がある。
  その地球の資源乱費の経緯・歴史を見て下さい。
  日本の里山の考え方、自然との「共生」の考え方が正
 しいのです。
  仏教の「一切衆生、悉有佛性」が正しいのです。
  地のあちこちは仏になりうる仏性が宿る・・と、地に
 敬意を払う事です、敬(うやま)う事です。
  自然に敬意を表し、その自然を大切に思い、自然と共
 に共生する。
  この考え方が正しいのです。
  それでも、キリスト教が、間違いである教義の「地を
 従えよ」の教義を守ろうとするのなら、それは間違って
 います、「悔い改め」て戴きたいと思います。
  そしてまた、松本氏は書きました、法皇を美化をして、
 「包括的態度になった」・・と、
  この松本氏の書かれた、この包括的態度は、今までの
 キリスト教を改めて、包括的に変えたという事ですが、
  要は、間違いであったキリスト教の部分を捨てて、変
 わったという・・、
  キリスト教の虚偽を捨てて、キリスト教の考え方の部
 分から離れたという・・、
  そうであるならば、キリスト教聖書の記述を変えなく
 てはいけません、
  新しい記述を示さなければいけません・・、
  そして、明確に、古い、旧来の考え方を捨てたところ
 を示さなければいけません・・、
  その様なこともせずに、ただ、人々を惑わす行為をし
 てはいけませんし、また、旧来の間違ったキリスト教を
 そのままにすることも止めなくてはなりません・・、
  旧来の様な伝道行為も止めなければなりません・・、
  中国への批判も「自分に都合の良い言い方」です。
  過去の間違ったキリスト教から完全に脱却して戴きた
 い。
  次世代の方々のために、是非、実行して戴きたい。
  そして・・、
  また、最近、仏教の共生の様に、生活し、生きた一つ
 の事例が、日本の縄文文化にあったという放送があった。
  そしてこの「日本の縄文」が、これからの世界を導く
 と、脚光を浴びて、注目されていると、放送していた。
  「仏教の共生の思想」が正しいことを証明する放送で
 あった。
  その放送内容の「あらすじ」を書けば・・、
  ・・・、
  紀元前1万4500年頃から、日本の縄文時代は始まった。
  縄文時代は、今から約1万6500年前(BC1万4500年)
 ~約3000年前(BC1000年)にかけて、日本列島に発展
 した。
  この日本の縄文時代が、世界の注目を浴びているとい
 う。
  日本人の優れている点が、ここにもあったという事を
 知らせてくれた。
  NHKスペシャルが2015・11・8がその放送だった。
  縄文文化を世界が注目するのは、何故か?
  1万年もの間、縄文文化は、変わりなく持続した、それ
 は、何故なのか?
  300人もの人々が、入れる巨大建築を建てられたのは、
 何故なのか?
  30メートルを越える超高な建造物が、すでに当時、建
 設機械もない時代に建設できたのは、何故か?
  ただただ、日本人の祖先の方々の優秀さに驚くばかり
 である。
  狩猟採集だけで、定住を実現できたのは、何故か?
  これは、世界のこのジャンルの識者・知識人の常識を
 覆(くつがえ)したという。
  狩猟採集の民は、農耕民へ移行する前の「遅れた民だ
 った」というのが世界の常識だった。
  だが、その常識を覆した日本の狩猟採集の民・縄文人。
  この日本の縄文人を知り、世界の学者たちの常識は変
 えられたと言う。
  狩猟採集民であるのに、学者の常識を変えた「縄文の
 民の豊かさ」が、「そこにはあった」と学者は言う。
  80種類を越える縄文の人々が採集する植物の豊かさ。
  酒も造っていた食べ物の豊かさと豊富さ。
  そこには、食べるものの豊穣と豊かさがあった。
  ある年代より、栗の花粉が急激に増えていた。
  それは縄文の民が、栗畑を持ち始めていたからだった。
  ただ採集をしていただけの民ではなかった。
  生活の豊穣を求め、豊かさを求め社会のシステムを変
 えていた。
  その栗畑を、縄文の民は、常識以上に増やしていた。
  栗の実を食料としてだけではなく、豊かさをもたらす
 種子とも見ていた。
  栗を食料から食糧へと変える知恵を持っていた。
  稲の農耕ではないが、栗でそのシステムをすでに実現
 していた知恵の縄文の民だった。
  「栽培して、必要な食糧を貯蔵する」というシステム
 である。
  縄文土器に付着している黒い部分を、所を、化学分析
 をしたら、魚の脂肪分が焦げたものと分かった。
  つまり、縄文土器で、魚の煮炊きが行なわれていた。
  近代科学が、それを確認した。
  縄文文化は、「朝鮮半島まで来ていた農耕文化」を受
 け入れることを拒絶した、・・と、言うより、取り入れ
 る必要性がないほど、縄文の民の生活は豊かだった。
  その農耕文化を受け入れる必要は無かった。
  自分たちで植林し、造った、栗林の中に居住し、その
 食糧の貯蔵で、その栽培と貯蔵のシステムで事足りてい
 た。
  そして、時代の変遷の中で、落葉樹林が展開していっ
 た、増えて行った。
  ブナ林などの木々と共に、豊かな木の実も手に入った。
  「四季の恵み」にも恵まれて、
  山菜も採集し、魚〈サバ〉なども取った。
  ウルシも利用した。
  クルミやクリも拾いい、ウナギも採った。
  貝も拾った。
  その生活は、1万年以上も続く、変わらなく続く、自然
 の輪廻、再生の中に、共生する幸せな生活が続いて行っ
 た。
  土器の模様には、実用から離れた余裕があった。
  自然に感謝し、そして、土器に模様を付けるニューギ
 ニアの現地人が居る・・が、縄文の方たちも・・、
  その様なことだったのだろう。
  水の精霊に感謝し、模様を刻む、食糧の恵みに感謝し
 鳥の卵を描くなどなどをするニューギニアの現地人。
  日本の縄文に、合掌をする縄文土偶がある。
  そして、縄文の知恵は、この様にして、「自然を持続
 的に利用する」ことだった。
  「こうでなければならない」とイギリスの学者は言う。
  日本人の祖先・縄文人が教えることを、イギリス人の
 学者がその通りだと、そうだと言う。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

(増補版)241D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1854年~1855年8月)

題:(増補版)241D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1854年~1855年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1854年(嘉永7年、安政1年)、まだまだ、諸外国には、日
 本に対しての不満があった。
  ・・というより、幕府の二枚腰と言ってもよいのか?
  幕府は、「和親条約」を結んでも、「通商条約」は結
 ばなかった。
  国家どうしが和親を結んだ「和親条約」・・だけ、
  仲良くやって行こうという和親・・だけ、
  一つの国と条約を結んだら、我も我もと、各国が、日
 本に雪崩(なだれ)を打ってやって来たが・・、
  幕府も粘り強く、「徳俵(とくだわら)」を残してい
 た。
  通商条約は結んでいなかった。
  これが、後に、不平等条約になって苦労をするのだが・・、
1854年5月、日本の手作りの船:「鳳凰丸」が竣工した(浦
 賀奉行与力:中島三郎助が担当)
  鳳凰丸は、洋式の帆船だった。
  浦賀で、ペリーの軍艦に、前の年は、腰を抜かしては
 いたが、その翌年のこの時には、この船を造ってしまっ
 た日本だった。
  既に記した、浦賀奉行・与力の中島三郎助を造船主任
 として、
  イギリス船をモデルとして(この説もある)、自前の
 技術で、国産で造った。
  浦賀で建造した、画期的な西洋型軍艦との評もあるが、
  計画と着工は、1853年6月3日の黒船来航以前だったと
 いう話もある。
  幕府が、海軍力充実の必要性から、すでに着工してい
 たという説。
  幕府の大船建造禁止令の解除と、「鳳凰丸」建造の公
 式発表が、ペリー来航後であったため、
  来航後に着工して造ったという話になったという説で
 ある。
  そして、また何と、薩摩藩は、この翌年の1855年に、
 「登平丸」「鳳瑞丸(ほうずいまる)」「大元丸」とい
 う三隻を造って、幕府に献上している。
  薩摩藩は、当時、日本唯一の近代的な工業施設を持っ
 ていた。
  この生産力で、実現させたのだった。
  このことを、日本中が知った。
1854年、その薩摩藩では、この年、、西郷隆盛という幕末
 から明治維新を創った「維新の人材」が登場して来る。
  この年、薩摩藩藩主・島津斉彬に、西郷隆盛(26歳)
 が抜擢された。
  この年、斉彬は、隆盛の優秀さを知った。
  西郷吉之助(隆盛の当時の通称)は、藩主の傍近くに
 控えるお庭番(秘書役)に抜擢された。
  そして、幕末の世の中に登場して行く。
  吉之助は、藩主の使者として、たびたび開明諸藩を訪
 れる機会を得た(恵まれた)。
  そして、一橋慶喜の将軍擁立運動に奔走し、各藩の志
 士と知り合った。
  しかし、安政の大獄(1858年)が始まり、また、斉彬
 の死があった。
  吉之助に、良い・恵まれた時は続かなかった。
  斉彬の後に藩主となった島津久光は西郷を遠ざけた。
  西郷も斉彬を敬慕するあまり、久光を軽んじた。
  その間に、大久保(利通)が、島津久光のお傍役に取
 り立てられた。
  1862年、大久保利通は、久光から一蔵(いちぞう)の
 名を賜わり通称を改めた。
1854年、吉田松陰が、国禁を犯して米船に乗船しようとし
 たことで自首した。
1854年、各地で打毀・強訴など農民騒擾(そうじょう、集
 団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと)起こる。
  理由:増税反対、
1854年9月27日、八世・市川団十郎が、大阪の旅館で夜の謎
 の自殺(32歳)。
  翌日の大阪公演が控えていて、この日も、船で道頓堀
 に入ったところを、多くの大阪の人たちが迎え、「八代
 目!八代目!」と歓声が上がって、歓迎ぶりは大変なも
 のだったという。だが・・、
1854年12月23日《11/04》安政東海地震
  駿河湾から遠州灘、紀伊半島南東沖一帯を震源とする
 M8.4という巨大地震が発生した。
  (東日本大震災のような震源域が広い大地震、津波も
 大きくなった)。
   沼津から天竜川河口に至る東海沿岸地の被害が著しく、
 町全体が全滅した場所も多数あった。
   地震発生の後の、数分から1時間前後に、大津波が発
 生した。
  東海沿岸地方を襲った。
  伊豆下田、遠州灘、伊勢志摩、熊野灘沿岸に押し寄せ
 た津波で、多くの被害が出た。
  伊豆下田では、推定6~7メートルの津波が押し寄せ、
 948戸中927戸(98%)が流失し、122人が溺死した。
   清水から御前崎付近までの地盤は、1~2メートル隆
 起した。
  清水港も使用不能となった。
  内陸部では、甲府で7割の家屋が倒壊し、
  また、松本、松代、江戸でも、倒壊家屋の記録がある
 など、広範囲に災害が発生した。
   地震の被害は、流失家屋8300余戸、死者600人余と、甚
 大なものとなった。
  この安政大地震の津波で、伊豆下田に碇泊していたロ
 シア使節プチャーチンの乗艦・ディアナ号が大破した。
   ディアナ号は、全長52.8米、幅13.6米、トン数2千ト
 ン、大砲52門、マスト3本のロシア製フリゲート船で、
  遠洋航海が不能になった。
  ディアナ号は、修理のため、君沢郡の戸田に回航した。
  しかし、途中、激しい波風に押し流されて、駿河湾の
 奥深く、富士郡宮島村沖に錨をおろした。
  装備や積荷のほとんどをおろしたディアナ号は、地元
 漁民の決死の協力で、再び、航行を試みた。
  しかし、失敗した。
  艦は、浸水が激しく、駿河湾で沈没した。
  寒い冬の海に投げ出された約500人の乗組員は、沿岸の
 漁民たちが、総出で救出した。
  この後、ロシア側は感銘を受けて、プチャーチンは、
 幕府の許可を得て、戸田港で、帰国の代船を建造するこ
 とにした。
  その技術で、洋船技術が日本へ伝わった。
  そして、建造された第1船は「ヘダ(戸田)号」と命
 名された。
  また、もう1隻の同型船とともに、条約締結の使命も
 果たしたプチャーチン一行は、無事、ロシアへの帰途に
 つけた。
1854年12月、幕府が、下田で、日露通商条約に調印し、下
 田、函館、長崎を開港した。
  幕末のオランダ通詞・蘭学者で、のち造船・製鉄・航
 海術・印刷術にも通じる本木昌造が通訳をつとめた。
  洋船技術が、この本木も知るところとなっただろう。
1854年、福沢諭吉が、長崎に赴いて蘭学を学ぶ、
  19歳の福沢諭吉が、蘭学研究のため、生まれ故郷の中
 津から長崎を訪れた。
  蘭学を学びに来たが、確たる目的も持たずに。
  田舎の中津が嫌で、外に出たいだけのあやふやな動機
 だった。
  砲術への関心が高まり、兄に砲術を極めるには、蘭語
 の原書が読めなければと、桶屋町の光永寺の食客となっ
 た。
  光永寺は、中津藩の家老の子、奥平壱岐が砲術研究の
 ため寄寓(きぐう、一時的によその家に身をよせて世話
 になること)していたためだった。
  後に、大井手町の奉行所付触頭で砲術家の山本物次郎
 (秋帆の一門)の食客となった。
  長崎遊学は、わずか1年ながらその影響は絶大だった。
1854年、ペリーの置き土産:蒸気機関車と炭水車など
  ペリーが、横浜へ再来航の時、お土産に汽車の模型を
 持って来た。
  蒸気機関車と炭水車と客車の3両セットだった。
  レールを敷いて、人を乗せて、試運転をさせた。
1855年(安政2年)1月15日、曳航中のディアナ号座礁。
  4日後に沈没。
1855年1月、江川太郎左衛門が没した(1801年~1855年)
1855年1月19日、勝海舟、蕃所翻訳勤務命ぜられ、翌日、大
 阪近海、勢州海岸見分命ぜられ23日出立、巡回(氷川清
 話)
  勝海舟が、この年、蕃書翻訳御用出役になり、海軍伝
 習性として長崎でオランダ人に学んだ。
1855年2月7日、日露和親条約締結。
1855年2月、幕府、講武場(のち講武所)設立。
1855年2月22日、幕府が、蝦夷地を直轄地とする(1月説あ
 り)
  日米和親条約によって、箱館が開港されると、
  幕府は、松前藩から福山周辺を除く(松前地方のみを
 残して)、蝦夷地の全領地を上知(没収)することを命
 じた。
  箱館奉行支配の直轄地とした。
1855年3月18日、飛騨地震。
1855年4月、勝海舟、帰府(氷川清話)
1855年5月、高島秋帆、講武所砲術師範役となる(氷川清話)
1855年5月、蘭人を招き、長崎で公開の術を伝習させる(氷
 川清話)
1855年5月、東西蝦夷地一円上知講武所建つ(氷川清話)
1855年5月、薩州、西洋形船大元丸を献ず(氷川清話)
1855年6月、洋式訓練を奨励。
1855年6月8日、オランダ軍艦・フェデー号が、幕府に寄贈
 する蒸汽船のスンビン号を率いて入港した。
  フェデー号には、グ・ファビウス中佐、
  スンビン号には、海軍伝習隊長ベルス・ライケン大尉
 以下22人の派遣教官が乗り込んでいた。
1855年6月8日、オランダ軍艦・フェデー号に乗組む一行中
 に、オランダ国王侍従長リンデン伯の姿もあった。
  リンデン伯は、滞在中の見聞録をまとめて帰国後の
 1860年に、「日本印象記」を出版した。
1855年7月、遂に長崎に海軍伝習所が開設されることになっ
 た。
  ズームピング号の士官であったベルスレーケン大尉ら
 21名を教師として、旗本及び諸藩から集めた約200名の
 伝習生に、オランダ式の海軍教育が開始された。
  観光丸が練習艦となる。
  永井岩之丞尚志を諸取締とし、勝麟太郎は伝習生監、
 そして、幕臣より70名、佐賀藩48名、福岡藩28名、薩摩
 藩16名、長州藩15名、津藩12名、熊本藩5名が選抜された。
  これらの名簿の中に、榎本武楊(後の海軍中将、海軍
 卿、子爵)を見いだす(氷川清話)
1855年7月、勝海舟、長崎表において和蘭寄贈汽船運用、
 そのほか伝習命ぜられる(氷川清話)
1855年7月4日、オランダ国王が、電信機と説明書を、将軍
 に献上するため長崎奉行へ届けた。
  後に、ことの重要性を認識した幕府は、海防・軍備に
 役立てるため、海軍伝習所に電信機の研究を命じた。
  後に、佐賀藩主・鍋島直正は、電信機の政治的、軍事
 的価値を見抜いて、
  長崎から資料を取り寄せて研究をさせた。
  1857年になって、日本で初めて、電信機の試作に成功
 した。
1855年7月、日本に初めて、コレラが発生した。
  「嘉永明治年間録」より・・、
  「暴瀉(ぼうしゃ)病7月下旬より、天下普(あまね
 く)流行、
  阿蘭陀(オランダ)にては、コレラと云うよし、
  両三度も暴瀉すれば、更に治し難し、
  故に、是をコロリ病と痛言する也」
  江戸での死者は、3~4万人に、これ以前には、コレ
 ラは見られなかった。
1855年8月、勝海舟、小十人組へ番入を命ぜられ長崎海軍
 伝習生徒監(氷川清話)
1855年8月、勝海舟、賜暇(出張の事)、金二枚時服二を賜
 う(氷川清話)
1855年8月、蕃書調所を置く、箕作阮甫(みつくりげんぽ)
 杉田成卿教授職となる(氷川清話)
1855年8月、和蘭字典、刊行さる(氷川清話)
1855年8月4日、幕府が、松平乗全、松平忠固の両老中を罷免
 した。
1855年8月14日、徳川斉昭が、政務参与を命ぜられた。
1855年8月25日、オランダ国王から、蒸気船スンビン号を寄
 贈された(後、観光丸)
1855年8月30日、幕府が、洋学所(のち蕃書調所、開成所)を設
 立した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive