ページビューの合計

2016年1月23日土曜日

(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)280E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月5日(3月13日)神仏分離(神仏判然令)(~1868
 年12月1日)
  新政府が、太政官布告で「神仏判然令」を出す。
  政府の政策的意図による神仏分離令・排仏毀釈により
 神仏混淆がなくなる。
  神道振興で、諸社が格式をそなえ、神社と仏寺の習合
 が禁じられる。
  多くの仏寺が、神社として存続するが、廃滅を余儀な
 くされた寺もある。
  廃寺改称が30か寺にのぼる。順次移り変わる。
  ローマ法王が、日本の神道は良いが、仏教は駄目と言
 った。
  キリスト教の偏するNHKはその為、この明治の神仏
 分離令的な行為を現代でもしている。
  仏教を蔑視し、無視するNHKとなっている。
  明治の廃仏毀釈も酷かったが、今のNHKもひどい。
  神道の国教化の方針を採用し、神仏習合を排した。
  神道の神に仏具を供えること、また、「御神体」を仏
 像にする事を禁止し、
  神社に奉仕していた僧侶に還俗を命じた。
  これをきっかけに、全国各地で廃仏毀釈の運動が起き
 た。
  各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。
  神官や国学者が煽動した。
  西洋は、良いのだとか、西洋に追い付けの盲目の意思
 も働いた。
  尚、この様な破壊の例は、キリスト教宣教師が、民衆
 を扇動して行なった例がある。
  この時は、神社や仏閣のみさかいが無かった。
  豊臣秀吉から「何故、穏便にできないのか」とたしな
 められた位だった。
1868年4月7日(3月15日)川路聖謨(かわじとしあきら、幕
 臣)が没。
  川路聖謨が、この日、江戸城開城を悲観し、自邸でピ
 ストル自殺をした。
  河村修就と同様に幕府の外交官として、開国に向けて
 力を惜しまなかった人物の自害であった。
  徳川将軍家への忠誠を精神の背骨におき、海外事情に
 通じ開明性をもち続けた人だった。
  「天つ神に 背くもよかり 蕨摘み 飢えし昔の 人
 をおもへば」。
1868年4月7日(3月15日)有栖川宮熾仁親王が、筑前、津和
 野両藩の兵を率いて京都を出発した。
1868年4月、勝海舟、江戸城地引渡しを談ず
  勝海舟、池上に行き、先鋒総督府に江戸城地引渡しの
 ことを談ず(氷川清話)
1868年4月、陛下に御拝謁・・、
  大久保は、行幸の行在所の大阪本願寺別院で天皇陛下
 に拝謁した。
1868年4月12日(3月20日)徳川家処分に関し、三職会議(
 三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、
 広沢正臣ら)
1868年4月12日、秋山真之(あきやまさねゆき、海軍中将)
 が愛媛県に誕生(1868年~1918年)
  日露戦争(1904年)で東郷司令長官の参謀。
  戦略家として知られた。
  「天気晴朗なれども波高し」などの戦報の文章は有名。
  1897年にアメリカに留学し、翌年・1898年にアメリカ
 =スペイン戦争観戦のためアメリカ運送船『セグランサ』
 号に乗組んでいる。
1868年4月(3月)徳川家事務を田安邸に移す(氷川清話)
1868年4月(3月)各藩に貢使を命ず(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)明治天皇が、親征と大坂行幸の
 ため、京都を出発。閏4月8日京都に還幸。
  天皇大阪に行幸(氷川清話)
1868年4月13日(3月21日)英軍艦で将軍を亡命・・、
  1968年3月21日と27日の両日の「海舟日記」には、
  「英吉利人来訪、我が心理を話す、彼、善(よし)と
 称す」とか、「英公使パークス氏並海軍総督キップル氏
 を訪ふ、
  此程之趣意を内話す、英人大に感ず」と書き留めてあ
 る。
  これは、パークスが、海舟の立場に同情して、海舟に
 協力することを約束したのであり、
  横浜にある英軍艦アイロンヂック号の艦長キップルに
 紹介し、その艦の出発を一か月延期して、品川に留めて
 おこうと言ったのであった。
  その意味は、もし西郷との談判が不調に終わって、戦
 争となったら、慶喜を坊主にして法衣を着せて、浜御殿
 から小舟に乗せてアイロンヂック号に運んで、そのまま
 イギリスに亡命させようという計画であった(氷川清話)
  そして、また・・、氷川清話
  勝海舟、英公使パークス氏を訪い、英軍艦の艦長キッ
 プル氏を招き、厚意を謝し、密事を談じ此の艦を1ヶ月
 滞船させることを約束。これは海舟の深思遠慮の所であ
 る(氷川清話)
1868年4月、軍艦4隻朝廷に納む。その余4隻徳川に賜る
 (氷川清話)
1868年4月、勝海舟、狙撃される・・、
  勝海舟、半蔵門外で官兵に狙撃され落馬し死を免れる
 (氷川清話)
  慶応4年4月末に、官兵3、4人が小銃を以って俺を
 狙撃した。
  しかし、幸いに体には当たらないで、頭の上を通り過
 ぎたけれど、その響きに馬が驚いて、後ろ足で立ち上が
 ったものだから、俺はたまらず、あおむけざまに落馬し
 て、路上の石に後脳を強く打って、一時気絶した。
  けれども暫くすると、自然に生き返って、辺りを見回
 したら、誰も人はおらず、馬は平気で道端の草を食って
 いた。
  官兵は、銃丸が当たったものと心得て立ち去ったので
 あろう(氷川清話)
1868年4月16日(3月24日)パリにて、初めて邦字新聞が、
 発行された(石版刷「世の噂」)
1868年4月16日(3月24日)「九州鎮撫長崎総督府」が、九
 州の34藩の全てを管轄することになった。
1868年4月18日(3月26日)天皇陛下が、軍艦を観閲された。
  日本最初の観艦式が行われた。
  朝廷は、2月6日に、海陸軍務総督の名で7藩(鹿児島、
 山口、土佐、佐賀、久留米、福岡、広島)から各軍艦と
 汽船1~3隻を徴発して集め、この機に在大阪の軍艦を一
 同に会わせて、3月26日に、天保山沖で天皇の親閲を行な
 う事を決めた。
1868年4月24日(4月2日)勝海舟らに、江戸の取締りを命ず。
 (4月29日説あり)
1868年4月24日(4月2日)ストーンウォール号(甲鉄艦)が、
 横浜に入港した。
  (官軍の海軍先鋒の大原俊実が、これを抑留した)
  ストーンウオール号(甲鉄艦)は旧名で、東艦(あず
 まかん、1872年12月7日に改名)と言った。
  この艦の艦歴は、1867年に幕府がアメリカに買取を約
 束したが、1868年に戊辰戦争が勃発し、幕府が崩壊する
 と、新政府側で買い取りたいと言い出した。
  旧幕府は、これに反発。
  横浜に至ったアメリカは、戦いの決着がつくまで売ら
 ないとした。
1868年4月、大原侍従・・、
  勝海舟が、横浜に出張し、大原侍従の旅館へ参謁(さ
 んえつ、参上して目上の人や尊貴な人に会うこと)、公
 の厚意を謝し、
  且つ、主家の至誠、又、臣節(しんせつ、臣下として
 守るべき節操)の重きを述ぶ(氷川清話)
  大原侍従は大原俊実のことで・・、
  佐賀藩の海軍奉行の島義勇は、この年3月(1868年4月)
 に、官軍の海軍編成を命じられている。
  そして、この月末に、彼(島義勇)は、勝海舟に面会
 し、勝を新政府側に帰順させようとした。
  海舟日誌に、以下の記述がある・・、
  「海軍先鋒・大原俊実、佐賀藩士・島団右衛門義勇を
 して旧幕府陸軍総裁・勝義邦に説き、旧幕府の軍艦を納
 れて帰順せしむ、義邦、之を辞す」と。
  官軍、もしくは、佐賀藩主は、、徳川海軍をどうにか
 せよと命じたのだろう、そして、官軍の大原俊実と佐賀
 藩士・島団右衛門義勇が動いた。
1868年4月25日(4月3日)近藤勇・・、
  近藤勇が、下総流山にて、官軍に抗して虜となった。
1868年4月25日(4月3日)新聞の発刊・・、
  福地源一郎が、江潮新聞を発刊した。
1868年4月25日(4月3日)慶応義塾・・、
  福沢諭吉が、運営する英学塾を芝新銭座に移し、「慶
 應義塾」と改称した。(閏4月説あり)
  尚、1871年に、三田へ移転している。
  慶応大学のホームページには・・、
  「4月 鉄砲洲から新銭座に移り、時の年号(9月改元)
 に因んで慶應義塾と名づける。
   同月 長女里が生まれる。
  5月15日 上野彰義隊の戦の砲声を耳にしながらウェー
 ランド経済書の講義をする。
  8月ごろ、幕臣をやめて帰農。
  この年、明治新政府よりたびたび出仕を命ぜられたが、
 固辞する」・・とある。
  新銭座移転後は、もっぱら民間で活発な著作活動を行
 なった・・ともある。
  「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」など
 は、その代表作であり、
  その中で、近代文明を紹介するとともに、門閥制度に
 対する徹底的な憎悪を吐露し、官尊民卑を激しく攻撃し、
 儒教に関わる実学を主張した。
  「独立自尊」の4字に集約される国民の創出に努め、
 政府及び民衆に比類ない影響と勇気を与えた。
  一方、「演説」を創始し、明六社に参加し、さらに、
 家族道徳の革新には終生関心を持ち続けた。
  しかし、自由民権運動が起こると批判的となり、国民
 主義に移行した。
  日本の偉大な教育家であり、思想家。
  福沢諭吉は、その著「文明論の概略」で説いたものは、
 西洋文明を見習えとは言ったが、福沢諭吉の主張すると
 ころ、説くところを突き詰めれば、西欧起源の近代科学
 技術であった。
  その思想や宗教とは違う。
  西洋文明を無批判に取り入れる、まだ、何も知らなか
 った明治初期において、福沢は、冷静にものを見分けて
 いた。
  しかし、この明治初期に、福沢の様に、ものがよく見
 分けられないでキリスト教に入って行った日本人が多く
 居た。
1868年4月26日(4月4日)江戸開城の勅使が参向した。
  勅使(ちょくし、勅旨を伝える使者)が下向。
   西郷は、勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、
 旧暦4月4日には、大総督府と徳川宗家との間で最終合意
 に達し、
  東海道先鋒総督・橋本実梁、副総督・柳原前光、参謀・
 西郷らが、兵を率いて江戸城へ入城した。
  橋本らは、大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶
 頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等
 を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。
  そして、旧暦4月9日(1968年5月1日)には、静寛院宮
 が清水邸に、
  旧暦4月10日(5月2日)には天璋院が一橋邸に退去した。
  旧暦4月11日(5月3日)には、慶喜は、謹慎所の寛永寺
 から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大
 総督府が接収した。
  それより前、旧暦4月8日(4月30日)に東征大総督熾仁
 親王は駿府を発し、旧暦4月21日(5月13日)に、江戸城
 へ入城した。
  ここに、江戸城は、正式に大総督府の管下に入り、江
 戸城明け渡しが完了した。
  また京都では、旧暦4月9日(5月1日)に、明治天皇が、
 紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を
 平定したことを報告された。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年1月21日木曜日

(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)279E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月6日(3月14日)翌日の会談・・江戸開城談判
  再度、翌日に、西郷隆盛と勝海舟との会談が行われた。
  幕府全権の陸軍総裁の勝安房(海舟)と、新政府軍参
 謀の西郷隆盛の和平交渉が行なわれた。
  幕府側は、大久保一翁(利通)や山岡鉄太郎(鉄舟)
 、東征軍側は、村田新八、桐野利秋らが同席した。
  交渉は、江戸高輪の薩摩藩・江戸藩邸だった。
  前日に続いての、この会談で、江戸城を開城し、新政
 府軍に明け渡されることになった。
  新政府軍による江戸城総攻撃は、4月7日(旧暦3月15日)
 と、この会談の日の翌日と予定されていたが、勝の説得
 に西郷が応じた。
  江戸が戦火に巻き込まれずに済んだ。
  この後、5月3日(旧暦4月11日)に、江戸城が無血開城
 された。
  真の「名誉革命」だった(イギリスの名誉革命は偽り)。
  城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれた。
  徳川慶喜は、謹慎所の上野寛永寺から、水戸へ。
1868年4月6日(3月14日)品川談判2、
  勝海舟は、この日の事を書いた・・、
  「翌日、すなわち14日に、また、品川へ行って、西郷
 と談判したところが、
  西郷が言うには、「委細承知した。しかし乍ら、これ
 は拙者の一存にも計らい難いから、今より総督府へ出掛
 けて相談した上で、なにぶんのご返答をいたそう。
  ・・が、それまでのところ、ともかくも、明日の進撃
 だけは、中止させておきましょう」と言って、
  そばにいた桐野や村田に、進撃中止の命令を伝えたま
 ま、後は、この事について何も言わず、
  昔話などして、従容(しょうよう、ゆったりと落ち着
 いているさま)として、大事の前に横たわるを知らない
 ありさまには、俺もほとほと感心した。
  この時の、談判の詳しい事は、いつか話した通りだが、
 それから、西郷に別れて、帰りかけたのに、この頃、江
 戸の物騒なことといったら、なかなか話にもならないほ
 どで、
  どこからともなく、鉄砲玉が、始終、頭の上をかすめ
 て通るので、俺も、こんな中を、馬に乗って行くのは険
 呑(けんのん、危険な感じがするさま)だと思ったから、
 馬をば別当に引かせて、俺は、後からとぼとぼ歩いて行
 った。
  そして、ようやく城門まで帰ると、大久保一翁をはじ
 めとして、皆々が、俺のことを気遣って、そこまで迎え
 に出ておったが、
  俺の顔を見るとすぐに、「まずまず無事に帰ったのは
 めでたいが、談判の模様はどうであったか」と尋ねるか
 ら、
  その顛末(てんまつ)を話して聞かせたところが、
  皆も大そう喜んで、
  「今し方まで、城中から四方の模様を眺望していたの
 に、初めは、官軍が緒方から繰り込んでくるから、これ
 は、必定、明日、進撃するつもりだろうと気遣っていた
 が、
  先刻からは、また、反対にどんどん繰り出して行くよ
 うなので、どうしたのかと不審に思っていたのに、
  君のお話によれば、西郷が進撃中止の命令を発した訳
 と知れた」と言うので、
  俺は、この瞬間の西郷の働きが行き渡っているのに、
 実際、感服した。
  談判が済んでから、例え、歩いてとは言うものの、城
 まで帰るには、時間は幾らもかからないが、
  その短い間に、号令が、ちゃんと諸方へ行き渡って、
 一度、繰り込んだ兵隊を。また、後ろへ引き戻すという
 働きを見ては、西郷はなかなか凡の男でない、といよい
 よ感心した。
  ひっきょう、江戸百万の人民が命も助かり、家も焼か
 れないで、今日の様に繁昌しているのは、みんな、西郷
 が「諾(よし)」と言ってくれたおかげだ。
  俺は、始終、この事を思っている(氷川清話)
  勝海舟、再度、同所で西郷と会談、徳川恭順の旨を伝
 える。
  彼、よく情実を察し、明日の進撃を中止す(氷川清話)
  14・15の両日、薩摩屋敷で大総督府参謀・西郷隆盛と、旧
 幕府陸軍総裁・勝海舟の会談が行なわれた。(無血開城
 で交渉成立)。
1868年4月、海舟の後日談・・、
  海舟の「江戸城無血開城」の策が受け入れられなかっ
 た場合の・・次なる策の「江戸の町の焦土作戦」・・、
  そして、そのために用意した品々が・・、
  無血開城策が受け入れられたので、無用の長物となっ
 て・・品川の沖に捨てる事になり、
  その事を行なったが・・、余りに怪しい行為だったの
 で、大いに疑われた・・という、幸い、笑い話になった
 が、
  そこまで考えていた海舟を、結果として、この用意が
 無駄に終わって良かったのだが・・、
  人は、その愚を、海舟に感謝しつつ苦笑し、笑った。
  しかし、海舟に言わせれば・・、
  「予も亦甚だ愚拙(ぐせつ、愚かでつたない者、男性
 が自分をへりくだっていう語)を知る。
  然りといへども、若しかくの如くならざりせば、14、
 15両日の談、予が精神をして活発ならしめず、又、貫徹
 せざるものあり」。
  つまり、外交談判というものは、「気迫」である。
  いくら正理正論を述べても、人はその論に聞かず、そ
 の人に聞くものである。
  その気迫の充実、その気合いの鋭さによって、同じこ
 とを言っていても、通る時と通らない時とある。
  背景に力があり、自信がなければ、どんな立派なこと
 を言ってみても、それは「口舌の徒(こうぜつのと、言
 葉は達者であるが実行力の伴わない人を軽蔑していう言
 葉)」にすぎない。
  相手に見透かされてしまう。
  だから一見無駄なようであるが、それだけの用意、手
 配というものは無駄でないのである。
  西郷を押し切るだけの迫力があるかないのかが問題だ
 ったのである(氷川清話)
1868年4月6日(3月14日)五箇条の御誓文
  (民主主義は、日本自らのもの、既に持っていたもの、
 欧米から得たものではない)
  氷川清話:五箇条の御誓文が発す。
  明治天皇が、南殿に渡御し、公卿諸卿を率いて、天地
 神祇を祭り、五箇条の御誓文を下す。
  明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を
 標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。
  慶応4年1月、福井藩出身の参与・由利公正が、「議事
 之体大意」五箇条を起案し、
  次いで、土佐藩出身の制度取調参与・福岡孝弟が、修
 正し、そのまま放置されていた。
  それを、同年3月に入って、長州藩出身の参与・木戸孝
 允が加筆し、同じく、参与の東久世通禧を通じて、議定
 兼副総裁の岩倉具視に提出した。
  昭和21年の天皇陛下の人間宣言において、御誓文が引
 用されているが、
  天皇陛下が示されたお考えは、「これまでも皇室が決
 して独裁的なものでなかったこと示すために・・」と、
 明治天皇の五箇条の御誓文を加えられた。
  また、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召し
 である・・そうして、五箇条御誓文を発して、それが、
 基となって明治憲法が出来たので、民主主義というもの
 は決して輸入物ではないということを示す必要が大いに
 あったと思います」と。(1977年8月23日、記者会見)
  「五箇条の御誓文」の、まず、最初に・・
  一、広く会議を興し万機公論に決すべし・・とある、
  これこそ・・民主主義である。
  第二次世界大戦のとき、日本は、民主主義を欠いてい
 たから侵略戦争を起こすに至ったと、アメリカは繰り返
 し、繰り返し・・言ったが、・・
  言いがかりだ。
  アメリカは、五箇条の御誓文などの日本の歴史の史実
 などを知っているのだろうか?
  「我々(アメリカ)は、知っている」が、日本は、民
 主主義を知らないと言うのは・・蔑視だろう。
  アメリカにある蔑視意識・・キリスト教国にある有色
 人種に対する蔑視意識である。
  欧米の民主主義に匹敵するものは、既に、日本にもあ
 った。
  また、平等の考えについても、とうの昔からある日本
 なのだ。
  平等院に見学に来る外国人たちに、欧米列国より、と
 うの昔からあるという話にびっくりするが、佛教にある
 平等の理念が、既に、日本にあった。
  西欧の市民革命より600年以上も前に、日本には平等の
 教えがあり、根付いていた。
  平等院という建物さえある。
  この1例の様に、日本には、その様な教えの数々がある。
  逆に、欧米にある唾棄すべき奴隷という意識・観念は、
 日本には、まったくない。
  キリスト教の聖書には、キリスト教の神が率先して「
 奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫び、隣国の民を自国のた
 めにだけに利用しようと奴隷観念を教え、そして、説く。
  その様な教え・教義に感化された社会とは違う日本な
 のだ。
  アメリカの独立宣言の文を書いたジェファーソン(第
 3代大統領))は、奴隷を多く使った大きな牧場を経営す
 る牧場主で、人種差別の悪の行為をしている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年1月20日水曜日

(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)

題:(増補版)278E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年4月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年4月1日(3月9日)山岡鉄舟が、駿府城にて、西郷隆
 盛と会見した。
  (勝海舟の和平解決の書面を提示した)
  山岡、駿府で西郷に面会、総督府の御内意を齋し帰府
 す(氷川清話)
  勝安房は、慶喜の助命嘆願の下工作のため、山岡鉄太
 郎を駿府の大総督府に派遣した。
  薩人・益満(ますみつ)、休之助を連れ、勝の書状を
 携えた山岡は、するすると敵中を抜けて、3月9日、駿府
 へ到着した。
  西郷と会談し、
  (1)城の明け渡し、
  (2)城中の家臣を向島へ移す、
  (3)兵器・軍艦を渡す、
  (4)慶喜の妄動を助けた者に謝罪させる、
  (5)幕府で鎮撫できず、暴挙する者は、官軍が鎮定
    する、
 ・・と言った朝命7ヶ条が示された。
  「慶喜の備前藩のお預け」だけは君臣の情として忍び
 難いと、山岡が言うと
  西郷は「慶喜殿の事、吉之助一身が引き受け申した」
 と確約した。
1868年4月、両雄の会談のまえ・・、
  西郷は、東征軍の総参謀長となった。
  最上位の地位である。
  西郷の謀略は凄かった。
  江戸かく乱工作に功のあった相楽総三は、東征軍の先
 鋒として中山道を進んでいたが、偽官軍の汚名をかぶせ
 られた。
  そして、諏訪湖畔で処刑されてしまった。
  歴史のダーティな部分を知るために消されたのだった。
  処刑を命じたのは西郷だった。
  江戸に帰った慶喜は、抗戦を説く幕臣には耳を籍さず、
 ひたすら恭順の意を示そうとした。
  そうとは知らぬ西郷は、江戸開城に猛りつつ、駿府ま
 で攻め上っていた。
  その時、幕臣・山岡鉄舟が、陸軍総裁・勝海舟の手紙
 を持参し、自らも訴えた。
  「戦に逸る(はやる、あせる、勇みたつ)だけでは王
 師(おうし、王の軍勢、官軍)とは申せますまい。徳川
 もまた帝(みかど)の民でございます」。
  西郷は、臆する事のない山岡の度胸と誠意に動かされ、
 「慶喜公は、この西郷が身命に代えてお守り致す」と言
 った。
1868年4月2日(3月10日)官軍、来る
  東海道の官軍、神奈川から六郷辺りに到る。
  府下の殺気充満、
  中山道東下の土州兵、尾州邸に入る、
  駿府より上野法親王、御東帰(氷川清話)
1868年4月5日(3月13日)両雄の会談(江戸の薩摩屋敷)
  西郷隆盛と勝海舟の両雄が、江戸の薩摩屋敷で会見し
 た。
  旧暦3月9日の山岡と西郷の話し合いの結果が、勝安房
 に伝えられ、
  勝は、腹を決めて、旧暦3月13日に、芝高輪の薩摩邸で
 西郷と会見し、
  旧暦4月11日に、江戸城は、無血開城されることとなっ
 た。
  氷川清話・・では・・、
  西郷におよぶことが出来ないのは、その大胆識と大誠
 意にあるのだ。
  俺の一言を信じて、たった一人で、江戸城に乗り込む。
  俺だってここに処して、多少の権謀を用いないことも
 ないが、ただ、この西郷の至誠(しせい、きわめて誠実
 なこと)は、俺をしてあい欺くことが出来なかった(氷
 川清話)
1868年4月5日(3月13日)勝・西郷会談
  江戸城総攻撃の時が迫る中で西郷(39歳)は、芝・田
 町の薩摩屋敷に勝海舟(45歳)を迎えた。
  4年前に初めて会った時、西郷は、勝の偉才に惚れた。
  しかし、総参謀長として、西郷は最後の質問を放った。
  返事次第では、会談は決裂するだろう。
  勝も、江戸を自らの手で焼く手はずをすでに整えてい
 る。
  勝は言った「江戸を焼けば、この国も支那やインドの
 轍を踏むことになる」・・と。
  大きく首肯(しゅこう、うなずくこと)した西郷は、
 隣室の側近を呼ぶと告げた。
  「江戸城総攻撃は取り止め」。
  江戸の無血開城によって幕藩体制は終焉した。
  列強の植民地化の危険も去った。
  西郷は、我が事なれりと野に下ったが、新政府は、西
 郷を迎えて、筆頭の参議に据えた。
1868年4月5日(3月13日)官軍との談判で・・、
  勝海舟は、慶応4年に、西郷との会見に臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く。
  「当日、俺は、羽織袴で馬に騎って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩邸へ出掛けた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待って居ると、
 西郷は、庭の方から、古洋服に薩摩風の引っきり下駄(
 のこぎりで引いて切った下駄)をはひて、
  例の熊次郎という忠僕を従へ、
  平気な顔で出て来て、これは実に遅刻しまして失礼、
 と挨拶しながら座敷に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えたものとは思わ
 れなかった。
  さて、いよいよ談判になると、
  西郷は、俺のいふ事を一々信用してくれ、その間、一
 点の疑問も挟まなかった。
  「色々、むつかしい議論もありませうが、私が一身に
 かけて御引受けします」、
  西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財
 産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏も、その滅亡を免れたのだ」。
  この会談は、きわめてスムーズに進行したような印象
 を受けるが、
  真実そうでない。
  勝は、破談になった時の事を考えて、謀略を巡らせて
 いる。
  それは、第一に、西郷に対し、ナポレオンの教訓を教
 えている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシア軍は、
 自らモスクワに火を放ち、それによって、ナポレオンも
 敗退させたという事で、
  いざとなれば、江戸でも、それと同じ焦土作戦をやる
 と言って西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官、アーネスト・サトウを
 通じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしてい
 る。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日に、
 パークスは、東海道先鋒総督府・参謀の長州藩士・木梨
 精一郎と会談をしているが、
  パークスは、この時、
  「横浜が混乱して、貿易に支障を来すと、日本のため
 にも、不利益を生ずる事になる。
  従って、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備を当たっ
 ているから、左様ご承知おき戴きたい」・・と発言して
 いる。
  これは、官軍が、江戸に攻め入るようなら、英仏両軍
 を敵に回す事になるという脅しに他ならなかった。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷に、この
 情報はもたらされていた。
  鳥羽伏見の戦いでは、官軍の近代兵器や、整然とした
 軍律から見ても、幕府軍に、到底、勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上にある・・と、
  そして、慶喜公の安全を得たいと考えていた。
1868年4月5日(3月13日)勝海舟、高輪の薩摩藩邸で参謀・
 西郷吉之助に面会、静寛院宮進退の事を述べる(氷川清
 話)
  勝海舟は、江戸開城前の西郷隆盛との会談の際に、幕
 府に居る静寛院宮(和宮)や天璋院の存在について話を
 している。
1868年4月5日(3月13日)品川の談判、様子を伺う兵たち
  この時の談判が、まだ始まらない前から、桐野利秋な
 どという豪傑連中が、大勢で次の間へ来て、秘かに様子
 を伺っている。
  薩摩邸の近傍へは、官軍の兵隊がひしひしと詰めかけ
 ている。
  その有様は、実に殺気陰々として、ものすごいほどだ
 った。
  しかるに、西郷は、泰然として、辺りの光景も眼に入
 らないものの様に、談判をし終えてから、俺を門の外ま
 で見送った。
  俺が、門を出ると、近傍の街々に屯集していた兵隊は、
 どっと一時に押し寄せて来たが、
  俺が、西郷に送られて立って居るのを見て、一同、う
 やうやしく捧げ銃(つつ)の敬礼を行なった。
  俺は、自分の胸をさして兵隊に向かい、「いずれ今、
 明日中には何とか決着いたすべし。
  決定しだいにて、あるいは足下らの銃先にかかって死
 ぬることもあろうから、よくよくこの胸を見おぼえてお
 かレよ」と、言い捨てて、西郷にいとまごいをして帰っ
 た。
  この時、俺が、ことに感心したのは、西郷が、俺に対
 して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、
  談判の時にも、始終、坐を正して、手を膝の上に乗せ、
 少しも戦勝の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するという
 ような風が見えなかったことだ。
  その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊(かいか
 つ)で、見識ぶるなどという事はもとより、少しもなか
 った(氷川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年1月19日火曜日

(増補版)277E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年3月~1868年4月)

題*(増補版)277E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年3月~1868年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年、静寛院宮と天璋院:官軍が御配慮すべきことだった
  官軍は、鳥羽伏見の戦いに大勝した・・、
  意気盛んな官軍であった・・、
  これから江戸城攻撃に出発する・・
  この時にあたって、官軍が・・最も御配慮しなければ
 ならないこと・・は、静寛院宮と天璋院のことであった。
  静寛院宮(皇女・和宮、家茂夫人)は、公武合体論の
 盛衰の中に過ごされた。
  これを周旋し、勧めたのは岩倉具視(いわくらともみ)
 であった。
  岩倉としては、先帝・孝明天皇の霊に対しても責任を
 感じていた、
  何とかして宮を安泰に救わねばならないと思っていた。
  しかも、徳川方には、静寛院宮を擁して旗を上げると
 いう動きさえあるという情報もあった。
  また、天璋院は、13代の家定将軍の夫人であって、島
 津斉彬の妹御として関東に輿入れしていた。
  そして、その婚儀に際し、走り使いをしたのが西郷隆
 盛だった。
  それ故、西郷としては、天璋院の運命に関してが最大
 の関心事だった。
  無責任では到底いられない事だった。
  京都から勝と大久保宛に、次の様な達しが届いたのは
 1月22日(1868年2月15日)であった。
  「各通、勝安房守、大久保越中守、和宮御事、
  往年天下の為を以て御東下の処、其旨趣総て画餅と成
 り、既に先帝御遺憾の御沙汰も在らせられるの次第、
  古今に至り実以て容易ならざる形勢、万一不慮の事変
 も測り難く、今上に於ても言うべからざるの御苦慮在ら
 せられ、
  其方誠忠の義、兼て聞食され候間、暖急守衛、海陸便
 宜に従い、御帰京の処置深く頼みに思召され候旨、仰下
 され候事」。
  この達しが京都から届いたことによって、幕閣におけ
 る勝と大久保(忠寛)の立場に、微妙な変化が生じた。
  (西軍へのチャンネルを持っている・・と)(氷川清
 話)
  勝海舟、静寛院宮(和宮)御守衛、便宜御帰京の処置
 を頼む思召の旨、御所より内命を賜る(氷川清話)
1868年、慶喜は思った・・、
  勝・大久保が、京都側との有力なパイプとなりうると
 分かった時、迷っていた慶喜は、このパイプを通じて恭
 順の方針を貫くことが出来れば、何とか局面打開の道は
 あろうと思った。
  翌、慶応4年1月23日付で、勝は陸軍総裁、大久保は会
 計総裁に任ぜられた。
  陸軍総裁と言えば老中格であり、勝は若年寄格に引き
 上げられた(勝は、これをすぐ辞退した)。
  これで実質的には、勝・大久保の非常時内閣が誕生し、
 勝は、兵馬の大権を握って、徳川幕府の終戦処理の全責
 任を負う事になった(氷川清話)
1868年3月8日(2月15日)堺事件(土佐藩兵とフランス水兵
 の衝突事件、泉州事件ともいう)
  原因は、フランス人水兵が、町で狼藉をしたため、捕
 らえようとしたら、捕縛を逃れ、しかも、捕縛をしよう
 とした隊の隊旗を奪って逃走した。
  まったくフランス側が悪い事件だった。
  そして、事件処理が横暴であった。
  初め、堺の湾内に入って来たフランス軍艦が、湾内を
 無断で測量を始めた。
  この間に、上陸したフランス士官ら数十名が、市内で
 遊びまわり、どんちゃん騒ぎをしていた。
  その行為が、あまりにひどかったのだろう、夕刻にな
 って、そのあまりの酷さを、住民は、苦情として役所に
 届けた。
  役人は、艦に帰るようにとを論示(教え諭す)したが、
 言う事を聞かなかった。
  日本側は、やむを得ず、捕縛しようとした。
  フランス水兵は、土佐藩の隊旗を奪い、逃げた。
  土佐藩は、仕方なく発砲。
  銃撃戦となった。
  フランス水兵側に、射殺者も出て、また、酔っての足
 なのだろう海に落ち・・、
  酔いなのだろう自力で這い上がれず、水死者も出た。
  フランス側は、日本という国内法を無視して銃撃して
 いる、しかし、この後に、この行為については、まった
 く問題にされないで、
  日本側だけの射殺行為が問題にされた。
  また、これは交戦である、互いに撃っている。
  これに対し、フランスは、何もしないのに突如銃撃を
 受けたと主張した。
  死亡したフランス水兵は11名。
  列強のいつもの通りの強硬な日本政府に対する抗議・
 主張・圧力が始まった。
  結局、日本側の謝罪となった(韓国の慰安婦の問題の
 様に・・謝るべきところがないのに謝罪する日本が、こ
 の頃からあった)。
  駐日フランス公使ロッシュの5つの要求を、明治政府
 は受諾させられた。
  フランス水兵の死者数と同じ11名の土佐藩士の切腹が
 行なわれた。
  また、土佐藩主の山内豊範の謝罪もなされ、
  何と、明治天皇からの謝意も行われた。
  そして、賠償金の15万ドルも支払わされ・・、
  まったく、腹の立つ事件だった。
  尚、水兵の埋葬時にフランス公使のロッシュは、激烈
 な復讐を誓う弔文を読んだ・・「とことん復讐する」と。
  まったく、「目には目を」のキリスト教教義の教える
 ところを行なった。
1868年3月8日(2月15日)兵隊の脱走
  氷川清話:慶応4年2月15日に、赤阪屯所(とんしょ)
 の兵隊が、甲州に逃げたのを、八王子まで追って、
  新宿の宿屋まで率いて帰って、
  そこで説論を加えている間に、脱走の張本たる伍長の
 某は、とても志を達せられぬと覚悟したと見えて、
  突如、反対派の伍長某を刺して、すぐその場で自殺し
 てしまった。
  これがため、俺は(海舟〉殺されもしないですんだ。
1868年3月16日(2月23日)旧幕臣も彰義隊を組織し、上野
 に籠った。
  渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)らの旧幕臣が、
 彰義隊を結成して、上野に籠った。
  この成一郎は、この後、振武軍を作って飯能で官軍と
 戦い、また、北海道の箱館・五稜郭にも行き、新政府軍
 と戦った。
  明治4年に大蔵省に入省し製糸法の調査研究にヨーロッ
 パ留学し、明治7年になって、渋沢商店を開き、廻米問屋、
 生糸売込問屋を営み、東京株式取引所の理事長も務めた。
1868年3月16日(2月23日) 勝海舟が、陸軍総裁(後に軍事
 総裁)に任命され、
  幕府全権として、新政府軍との講和を目指した。
1868年3月16日(2月23日)新政府が、京都で機関紙『太政
 官日誌(だじょうかんにっし)』を創刊した。
  官報の先駆となった。
  この日、明治新政府が、太政官総裁局日誌司に編集さ
 せ、京都の御用書物師・村上勘兵衛に命じて発行させた。
1868年3月17日(2月24日)柳川春三(やながわしゅんさん)
 らによって、佐幕派の最初の機関新聞となった中外新聞
 が発刊された。
  5月の彰義隊(しょうぎたい)の戦いに際して、『別段中
 外新聞』を発行した、
  これは、新聞号外の元祖といえる。
  しかし、官軍が、佐幕派新聞に対し厳しい許可制を
 敷いたので、6月8日の第45号で廃刊となった。
1868年3月18日(2月25日)勝海舟、京都に使いに行くの内
 命あり、陸軍総裁罷免を乞う。
  同日、免ぜられ軍事取扱を命ぜられる(氷川清話)
  この日に、勝海舟は、陸軍取扱という職に異動された
 が、会計総裁となった一翁らと、朝廷の交渉に向かうこ
 とになった。
  そして、官軍が駿府城にまで迫ると、早期の停戦と、
 江戸城の無血開城を主張して、ここに歴史的な和平交渉
 が始まった。
1868年3月21日(2月28日)徳川慶喜親征の詔(氷川清話)
 (2月3日説あり)
  朕夙に天位を紹き今日一新の運に膺り文武一途公議を
 親裁す國威の立不立蒼生の安不安は 朕か天職を盡不盡
 に有れは日夜不安寝食甚心思を労す 朕不肖と雖も 列
 聖の餘業 先帝の遣意を継述し内は列藩百姓を撫安し外
 は國威を海外に耀さん事を欲す然るに徳川慶喜不軌を謀
 り天下解体遂及騒擾萬民塗炭の苦に陥んとす故 朕不得
 止断然親征の議を決せり且巳に布告せし通り外國交際も
 有之上は将来の處置最重大に付天下萬姓の為に於ては萬
 里の波濤を凌き身を以て難苦に當り誓て國威を海外に振
 張し 祖宗 先帝の神霊に對んと欲す汝列藩 朕か不逮
 を佐け同心協力各其分を盡し奮て國家の為に努力せよ。
1868年3月22日(2月29日)外国の報道
  この日の「ル・タン」には、香港のイギリス紙からの
 転載として、
  「日本では大君が、大名軍に完敗を喫し、江戸へ逃れ
 た由。
  内乱のため、貿易は麻痺。
  帝(みかど)は、外国公使たちに諸条約を尊重すると
 の覚書を送った」と報じた。
1868年3月23日(2月30日)パークス襲撃事件
  英国公使パークスが、京都で攘夷党の壮士数名に襲わ
 れるが、後藤象二郎らに救われた(陰暦30日)
  イギリス公使パークス一行は、明治天皇に謁見するた
 め宿舎の知恩院を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃
 された。
  すぐさま、護衛の中井弘蔵と後藤象二郎が反撃し、犯
 人の一人朱雀操を斬殺した。
  もう一人の犯人である三枝蓊も、他の警護兵に重傷を
 負わされ、逃走しようとした所を捕縛され、襲撃は失敗
 に終わった。
  三枝は、同年3月4日に斬首された。
1868年3月25日(3月2日)勝海舟が、薩摩藩・南部弥八郎、
 肥後七左衛門、益満休之助、冬より拘留、今般申旨あり、
 許可を得、右3名本日より勝邸に預かる(氷川清話)
1868年3月28日(3月5日)勝海舟が、山岡鉄舟(山岡鉄太郎)
 に会う。
  勝海舟、初めて山岡鉄太郎に会う。
  駿府滞在中の西郷参謀に一書を寄す。
  山岡が持参す。益満が同行する(氷川清話)
  この時、勝海舟は、次なる策も考えていた・・
  西郷との談判が不調に終わって、どうしても戦争とな
 った時の策として、勝海舟の用意したことは3つあった。
  1つは、慶喜の亡命策である。
  第2は、焦土戦術で、
  江戸を焼き払ってしまう策である。
  これは、ナポレオン戦争に学んでいる、侵攻されたロ
 シアの策である。
  ナポレオンは、モスコーを陥落させるために苦しめら
 れている。
  勝も、あらかじめ、都下の無頼の徒を、とび職や、火
 消組の親分、そして、博徒の親方、運送の親方、非人の
 頭など、主だったもの35,6名を組織して、合図があった
 ら直ちに動けるようにしてあった。
  将軍・慶喜の奥方にお咲という女性が居たが、この女
 性の父親が、浅草の新門辰五郎という江戸の町火消のボ
 スで、人物も立派で、江戸のそういう連中から尊敬され
 ていた。
  新門の親分が、大の慶喜ファンであるから、この親分
 の「つて」で他の親分にも渡りを付け、海舟は、4つの手
 籠に乗って、一々、それらの頭の家へあいさつ回りをし
 て手を打った。
  何しろ安房守様が直々に頼みに来たのであるから、彼
 らは感激した。
  それぞれが莫大な金ももらっていた。
  これが、江戸の治安を維持するにも役立ち、無警察状
 態になった市中を取りまとめる働きをした。
  そして、いざとなれば直ちにゲリラ活動に移って、一
 斉に火を放ち、薩長の錦切れと見れば襲撃するという段
 取りだった。
  第3には、江戸の市民の生命財産を出来るだけ安全に
 守り、その逃げ道を考えて、船で千葉・神奈川の沿岸地
 方へ退去させる策である。
  信田歌之助・成川禎三郎・伊志田某に命じて、秘かに
 房総の海岸にある大小の船という船はことごとく借り上
 げ、これを江戸の川々に導き、小舟から大舟へと被災者
 を運んで逃がす寸法である。
  これらの準備のため、会計総裁の大久保忠寛から莫大
 費用を出させた。
  また、この時に、用意した火付けの道具類なども、後
 で、品川の海へ捨てるのに苦労した上、そのことで大い
 に官軍の疑惑も受けた。
1868年4月1日(3月9日)江戸城の無血開城のいきさつ
  俺は、この罪のない江戸市民の百万の生霊をいかにし
 ようかという事に、一番苦心したのだが、
  もはやこうなっては仕方がない。
  ただ至誠(しせい、極めて誠実なこと、まごころ)を
 もって利害を官軍に説くばかりだ。
  官軍が、もしそれを聞いてくれねば、それは官軍が悪
 いので、俺の方には、少しも曲がったところがないのだ
 から、その場合には、華々しく最後の一戦をやるばかり
 だと、こう決心した。
  それで、山岡鉄太郎が静岡へ行って、西郷に会うとい
 うから、俺は、一通の手紙を預けて西郷へ送った。
  山岡と会ったのは、この時が初めてだった。
  それも、大久保一翁などが、山岡は、俺を殺す考えだ
 から用心せよと言って、ちょっとも会わせなかったのだ
 が、
  この時の面会は、その後、十数年間、莫逆(ばくぎゃ
 く、ばくげき、心に逆らうことなし、非常に親しい間柄)
 の交わりを結ぶもとになった。
  さて、山岡に預けた手紙で、先ず、俺の精神を西郷へ
 通じておいて、それから、彼が品川に来るのを待った、
  さらに手紙をやって、今日の場合、決して兄弟(けい
 てい)牆(かき)に鬩(せめ)ぐべき時でないことを論
 じたところが、向こうから会いたいといってきた。
  そこで、いよいよ官軍と談判を開くことになったが、
 最初に、西郷と会合したのは、ちょうど3月の13日(1868
 年4月5日)で、この日は、何も他の事は言わずに、ただ
 和宮(皇妹、将軍・家茂夫人)の事について、一言、言
 ったばかりだ。
  全体、和宮の事については、かねて京都から、俺の所
 へ勅使が下って、「宮もよんどころない事情で、関東へ
 御降嫁になったところへ、はからずも今度の事が起こっ
 たについては、陛下もすこぶる寝襟(しんきん)を悩ま
 して居られるから、お前が宜しく忠誠を励まして、宮の
 御身の上に万一の事のないようにせよ」とのことであっ
 た。
  それ故、俺も、最初にこのことを話したのだ。
  「和宮の事は、定めて貴君もご承知であろうが、拙者
 も一度お引き受け申した上は、決して別条のある様な事
 は致さぬ。
  皇女一人を人質に取り奉るというごとき卑劣な根性は
 微塵(みじん)も御座らぬ。
  この段は何とぞご安心下されい。
  その他のお話はいずれ明日罷り出て、ゆるゆるいたそ
 うから、それまでに貴方も篤と御勘考あれ」と言い捨て
 て、その日はすぐ帰宅した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年1月18日月曜日

(増補版)276E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年3月)

題:(増補版)276E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年2月、勝海舟、越前・肥後両侯に一書を呈し外交の要
 を述べ、反省を求む(氷川清話)
1868年2月、洋銀1で金3歩に換えることを布告す(氷川清話)
  日米和親条約の通貨取り決めで、自国貨幣と外国貨幣
 の自由な交換を認めさせられたのは、外国貨幣の自国内
 通用を公然と認めたことになって、
  我が国の通貨主権の喪失となり、不平等条約の一面で
 あった。
  メキシコが、銀産出が世界一で多く、国際的な決済通
 貨となっていた。
  米ドル銀貨もこのメキシコ銀の洋銀であった。
  この様な洋銀(0.866オンス、銀含有量90%内外)と、
 我が国の貨幣(一分銀など)との換算率が問題だった。
  日米和親条約締結の当初は、米ドルの1ドル=銭1貫200
 文としていた。
  その後、着任したハリスは、アメリカが不利だと主張
 し、アメリカ有利に変えさせられた。
  この様な変遷の中にある貨幣主権だった。
1868年2月18日(1月25日) パークスが、戊辰戦争に対する
 英国の局外中立を宣言した。
  これは、2月14日(1月21日)の新政府の要請を受けた
 形で行われた。
  これは、諸外国が、かつて条約を締結した政府として
 の徳川家と、新政府が交戦状態になっていると確認させ
 た事となった。
  他国もこれに追従した(米、仏、蘭、普、伊の5か国が
 局外中立を宣言した)。
1868年2月20日(1月27日)倒幕の官軍が、菊花章の旗幕を
 用いた。
1868年2月25日(2月3日)「徳川慶喜親征の詔」を発した。
  明治天皇は、二条城太政官に行幸し、倒幕の為の「徳
 川慶喜親征の詔」を発布した。
  朝廷が、幕府討伐、東征の大号令を発した。
  有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が、
 慶喜追討の旨を洛中洛外に公布した。
  諸藩に勤王を誓わせ、征東軍の陣容を整えた。
  自身は、親征大総督として、十余藩を率い、3月15日を
 江戸総攻撃の日と目し、東海道を江戸に進んだ。
  徳川慶喜親征の詔::
  朕夙に天位を紹き今日一新の運に膺り文武一途公議を
 親裁す國威の立不立蒼生の安不安は 朕か天職を盡不盡
 に有れは日夜不安寝食甚心思を労す 朕不肖と雖も 列
 聖の餘業 先帝の遣意を継述し内は列藩百姓を撫安し外
 は國威を海外に耀さん事を欲す然るに徳川慶喜不軌を謀
 り天下解体遂及騒擾萬民塗炭の苦に陥んとす故 朕不得
 止断然親征の議を決せり且巳に布告せし通り外國交際も
 有之上は将来の處置最重大に付天下萬姓の為に於ては萬
 里の波濤を凌き身を以て難苦に當り誓て國威を海外に振
 張し 祖宗 先帝の神霊に對んと欲す汝列藩 朕か不逮
 を佐け同心協力各其分を盡し奮て國家の為に努力せよ
  (氷川清話):関東追討使宣下る。慶喜、大阪城を退
 き江戸城に帰る。
1868年、各国公使を参朝させる(氷川清話)
  参朝(さんちょう):朝廷に出仕すること。参内(さ
 んだい)
1868年2月末~3月初旬、幕府軍の殺気・・充満
  2月初旬(1868年2月末~3月初旬)より、幕府の兵隊の
 殺気が充満。
  脱走をはかるもの四方に起こる。
  ために、勝海舟、東西に奔走、説諭鎮撫に忙殺される。
  ある夕方、銃丸雨射にあう。
  従卒2名倒れる(氷川清話)
  この事について・・、
  慶応4年、幕府の兵隊は、およそ8000人もあって、それ
 が機会さえあれば、どこかへ脱走して、事を挙げようと
 するので、
  俺も、その説諭にはなかなか骨が折れた。
  何でも2月であったが、3番町に兵隊が2大隊、およそ
 1000人ばかりあるのを、1大隊は、どうかこうか説諭して
 静まらせたけれど、
  もう1大隊の方は、まだ、その暇がないうちに、200人
 ばかりは、5日に脱走するし、
  残り300人ばかりは、7日の夜、にわかに塀を越えて大
 路へ出て、むやみに鉄砲を放って乱暴をするので、士官
 も手のつけようがなく困っていた。
  そこで、俺は、先に説諭した1大隊をも土手ぎわへ整列
 させて、「もうこうなったは致し方がないから、貴様た
 ちの中にも俺の説諭が分からない者があるなら、この際、
 勝手に逃げろ」と命令した。
  その間に、かの塀を越えた300人は、どんどん九段坂を
 下りて逃げるものだから、こちらの奴もじっとしていら
 れない、
  50人ばかり、闇に乗じて後ろの方から俺に向かって発
 砲した。
  すると、かの脱走兵の中にも踏みとどまって、俺の提
 灯を目がけて一緒に射撃するので、俺の前に立って居た
 従卒二人は、急に、胸を貫かれて倒れた。
  この二人は、いずれも勇気のある男だから、始終俺の
 側に置いた者だ。
  従卒は倒れる、提灯は消える、
  付近は真っ暗になったものだから、俺は幸いにちょっ
 とも負傷はしなかったが、
  兵隊は残らず逃げてしまった。
  今の土手際へ整列していた1000人も、勢い留まるわけ
 にはいかないから、これも千住の方へ逃げてしまった。
  この時、死んだ者は、兵卒がわずかに4人で、傷を負っ
 たものは6,7人に過ぎなかった(氷川清話)
1868年2月25日(2月3日)新政府が、官制を改め、三職八局
 の制とした。
  慶応3年旧12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号
 令が出されると、依然として強力な政治体制を維持して
 いた江戸幕府に代わる政治体制の確立が急務となった。
  そこで、幕府・征夷大将軍・摂政・関白に代わるもの
 として、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公
 卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、
 参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の三職が任
 命された。
  慶応4年(明治元年)1月には、この下に神祇・内国・
 外国・海陸軍・会計・刑法・制度の七科を置いて三職七
 科とし、当面の政務に当たることになった。
  翌2月には、科を局として総裁局を設置し、三職八局と
 した。
  総裁局には副総裁を置き、議定の岩倉具視と三条実美
 をこれに任命して、熾仁親王を補佐することとなった。
1868年2月、渡仏した徳川昭武らの苦労
  徳川昭武(あきたけ)らが、1867年2月に、使節団を率
 いて渡仏したが、
  この使節団には、フランスから金を借りるという役目
 もあった。
  しかし、慶応4年1月(1868年2月)、昭武の兄である将
 軍・徳川慶喜が、大政奉還を行なったことを知り、
  使節団の立場も微妙なものとなった。
  慶応4年3月(1868年4月)鳥羽・伏見の戦いの報が、フ
 ランスの新聞に掲載された。
  随行していた栗本安芸守らは帰国し、昭武らの7名は残
 った。
  ほどなく、明治新政府から帰国要請が届くが、
  慶応4年4月(1868年5月)に、慶喜から、このまま滞在
 し勉学する様にと、手紙が送られて来ていた。
  しかし、1868年8月に至り、新政府より帰国命令書が届
 いた。
  そして、ついに帰国する事となった。
  この様な経緯から、フランス政府は、欧州に5年間留学
 の予定であった徳川昭武や、他の留学生の指導などにト
 ラブルが発生した。
  これは、在日しているアーネスト・サトウらが、薩摩
 寄りのため、
  「日本は一種の連邦国家であり、幕府は全権を有して
 いない」などとの情報も、もたらしてもいたからだった。
  この様な事から、フランス政府も無視できず、結果的
 に小栗忠順が成約したフランスからの600万ドル借款が、
 取り消されてしまった。
  このあたりの事について、勝海舟は書いている・・、
  慶喜様の時になっては、とうとう、幕府も往生して、
 はるばるフランスまで、金を借りに行くことになった。
  使者は、あの向山黄村(むこうやまこうそん、徳川昭
 武の随行員)で、
  随行員は、田辺太一などの連中であった。
  ところがかえって、フランス自身があのような革命騒
 ぎになったものだから、
  他国へ金を貸すどころの話でない。
  そこで、向山らは、仕方がないから、オランダまで廻
 ってきたが、さてそれから日本に帰る旅費が無い。
  それは、最初、向山らは、フランスに着きさえすれば、
 金は確かに借りられるものと、あまり大丈夫に当て込ん
 だから、
  行く時に、帰国の旅費を持たなかったのだ。
  しかし、まあ、やっとのことで、オランダで旅費だけ
 を工面して、ようやく帰ったが、ずいぶん辛かったであ
 ろうよ(氷川清話)
1868年3月1日(2月8日)歌舞伎ブーム
  戊辰戦争の頃の治安の悪さ、不景気をよそに一時、花
 が咲いたように「田之助ブーム」で沸き立った。
  それは慶応3年の9月に、脱疽のために片足を失った美
 貌の名女形・三代目・沢村田之助が戻って来たからであ
 った。
  2月8日が初日だった。
1868年3月2日(2月9日)有栖川宮熾仁親王を、東征大総督
 に、嘉彰親王を海軍総督に定めた。
  鳥羽・伏見の戦いにおいて設置された征討大将軍の職
 が廃止された後、
  慶応4年(1868年)2月9日に、新政府は、東征大総督府
 を設置し、新政府の総裁に任命されていた有栖川宮熾仁
 親王を、総裁在任のまま、東征大総督に任命し、
  先行して設置されていた東海道、東山道、北陸道の鎮
 撫使を、改めて先鋒総督兼鎮撫使として、東征大総督府
 の指揮下に置いた。
1868年3月5日(2月12日)徳川慶喜が、江戸城を出て、上野
 の東叡山寛永寺に入り、謹慎の意を表した。
  慶喜、東叡山大慈院に入り謹慎す(氷川清話)
  [慶喜、上野寛永寺へ向かい謹慎へ]
  朝六つ、慶喜は上野寛永寺大慈院に向かった。
  あくまで恭順と進言したのは勝安房らであった。
  慶喜を護衛した精鋭隊長・高橋伊勢守(泥舟)も同じ
 考えであった。
  上野に入ったのは、そこが徳川家の菩提寺であり、住
 職を輪王寺宮こと一品宮公現法親王が勤めていた。
  慶喜は、本坊の輪王寺宮に謁し、京都への謝罪の周旋
 を依頼してから、その塔頭の一つ大慈院に入った。
  謹慎し、武力抵抗のない事を素手の慶喜は示そうとし
 た。
1868年3月5日(2月12日)、その日の事・・、
  1月16日(1868年2月9日)に、江戸に帰った近藤勇と土
 方歳三の両名は、佐倉藩江戸留守居役・依田七郎に江戸
 城に召し出されて面談した。
  そして、鳥羽伏見の戦いの状況について説明した。
  幕府軍の装備が遅れていることを進言した。
  銃と大砲が無ければ戦いになりませぬ、剣と槍では戦
 は不可能だと・・、
  そして、再び、2月12日(1868年3月5日)に、近藤勇は、
 江戸城に召し出され、慶喜の護衛を命ぜられた。
  「新選組に、上野寛永寺に謹慎中の慶喜公の警護を任
 せたい」と、・・
  しかし、この日、雑司ヶ谷茗荷屋(ぞうしがや、みょ
 うがや)に秘かに集まったものが居た。
  その数・17名・・後に、彰義隊となって行く。
  その会合召集の書状は「橋府随従之有志」の名で出さ
 れている。
  慶喜の大政奉還を「公明至誠の御英断」と讃え、それ
 なのに追討令が下ったことを「切歯に堪ゆべからず候」
 という。
  「君恥らるれば臣死するの時」、いよいよ官軍が東下
 するにあたり、鴻恩に報いるため百事相談したい。
  これは、慶喜の出身である一橋家に仕える者達の回状
 であった。
  起草者は本多敏三郎。
  後半は伴門五郎という。
1868年3月10日(2月17日)彰義隊の結成会合(2)
  彰義隊の前身の集まり(3月5日)は、17名で、これで
 は人数が少ないという事で、改めてこの日・1868年3月10
 日、四ッ谷鮫ヶ橋円応寺に集まった。
  さらに3月14日にもあつっまり、円応寺に集まった人数
 は67人と、人数は増えて行った。
1868年3月16日(2月23日)彰義隊の結成会合(3)
  彰義隊の前身の集まりは、会合を重ねるうちに人数も
 増えて行ったが、この日・3月16日には、浅草本願寺に場
 所を移した時は130名になっていた。
  そして、彰義隊と名を付けた。
  そして、「同盟哀訴申合書」を旧幕府に差し出した。
  幕府の政治に温かさを感じた人たちの多かったことを
 これは示していた。
  そして、この書は、慶喜の恭順に同意しつつも、君側
 の奸を除くという表現や、同盟決死といった不穏な表現
 もあって、旧幕府側はこの上申を拒否した。
  しかし、この集まりの噂を聴いて本願寺に馳せ参ずる
 ものは多かった。
  まったく名が示すように「義」を「彰(しょう、あら
 わす)」、義をあらわす無欲の人達の隊だった。
  日本人の誰もが持つ徳性をあらわす隊だった。
  その勢力は日毎に増して、平和開城派の勝安房らは、
 これを憂慮した。
  西郷が送り込んでいた輩などの行動などもあって、ち
 ょうど、江戸市中の治安も悪化していて、白昼から盗賊
 が横行していた。
  むしろ、彰義隊を使って、これを治めさせれば暴発も
 すまい・・と、市中警護を申付けた。
  つまり、幕府の正規軍となった。
  彰義隊の300余人は、喜んで、丸提灯に朱を塗っている
 類は「彰」の字を、あるいは「義」の一字を表して、日
 夜、市中を回った。
  江戸市民は、彰義隊を「徳」とし、ますます隊士は増
 加した。
  真実の市民革命・名誉革命の様相だった(イギリスの
 偽の名誉革命ではない)。
  人数がますます集まり、東本願寺では手狭となった。
  ついに、恭順中の慶喜公を守護せんと、上野東叡山に
 屯集した。
  上野に引き入れずばなるまいとしたのは輪王寺宮側近
 の執刀覚王院義観であった。
  しかし、この様な武力集団が上野に立てこもって困っ
 たのは謹慎中の慶喜と勝安房らであった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年1月17日日曜日

(増補版)275E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年2月)

題:(増補版)275E1/3:気になった事柄を集めた年表(1868年2月~1868年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1868年2月3日(慶応4年1月10日)徳川慶喜の官位剥奪
  徳川慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松
 平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27名
 の官位が剥奪され、京都藩邸など領地も没収という処断
 が下された。
1868年2月3日(1月10日)大君の名称を天皇に変える旨、条
 約国に示す(氷川清話)
1868年2月4日(1月11日)新政府が、諸藩に対して兵を上京
 させるように命じた。
1868年2月4日(1月11日)慶喜ら、品川到着、幕府内騒然
  慶応4年1月11日に、慶喜らが、伏見鳥羽の戦いに敗れ、
 軍艦で品川に帰った。
  幕閣では、連日、議論百出、てんやわんやの騒動であ
 った。
  会議をリードしていたのは小栗上野介・小野友五郎ら
 の経済閣僚だった。
  フランスの援助によって断乎一戦を交えようという主
 戦論派であった。
  勝・大久保の恭順論は意気地なし、腰抜けの議論と見
 られていた。
  慶喜自身は、中間にあった。
  勝・大久保が、京都から「其の方、誠忠の義、兼て聞
 食(きこしめす、聞くの敬語)され候」と呼びかけられ
 ていて、この事で、京都側との有力なパイプとなりうる
 と分かった時、迷っていた慶喜の決心はついた。
  このパイプを通じて恭順の方針を貫くことが出来れば、
 何とか局面打開の道はあろうという、先の光が見えて来
 た。
  慶応4年1月23日付で、勝は陸軍総裁、大久保は会計総
 裁に任ぜられ、小栗一派の主戦派は追放される事になっ
 た。
  (幕臣の日記):今夜、品川御着船。此程日々風烈。
 昨日、浦賀御一泊。
1868年2月4日(1月11日)神戸事件(明治最初の外交問題)
  神戸の三宮神社前で、備前藩(現・岡山県)兵が、隊
 列を横切ったアメリカ・イギリス・フランスの水兵らを
 切り捨てた(無礼討で負傷させた)。
  銃撃戦になり、また、居留地予定の地を検分中の欧米
 諸国公使らにも銃撃を加えた。
  神戸港に停泊する日本船舶が拿捕されたり、神戸を占
 拠されるなどした。
  明治政府の初の外交問題となった。
  決着は、備前藩の隊の責任者の滝善三郎が切腹し、ま
 た、備前藩の家老の謹慎処分などで一応の決着を見た。
  しかし、又も、日本側が悪いとなった。
  武家諸法度にも記されている「供割(ともわり)」と
 呼ばれる最高に無礼な行為となっている。
  日本の法や慣習(無礼行為)などを知らない外国側が
 悪い訳なのだが?
1868年2月5日(1月12日)前将軍・徳川慶喜が、品川から
 江戸に入った(江戸帰還)。
  (前将軍・徳川慶喜様)、浜御殿へ御上陸。
  直ちに韶切りにて西丸へ還御(かんぎょ、高貴な人が
 出かけた先から帰ること)。
  「素より天朝に対し奉り他心あるにあらず、宸襟(し
 んきん、天子の心)を悩まし奉りしは恐懼(きょうく、
 おそれかしこまること)に堪へざれば、浪華城(ろうか
 じょう、大阪城)は尾張、松平に託し、謹みて東退仕る
 なり」との奏聞(そうもん、天子に申し上げること)書
 を捧げた。
  正月十二日、江戸に帰った慶喜は、一意恭順して、朝
 敵の汚名を雪ごうと努力した。
  静寛院宮(和宮)は、慶喜の衷情を知り、徳川の滅亡
 を救うべく周旋された。
  実に御一身にかえての奏請であった。
  輪王寺宮も、水戸慶篤も、田安慶頼も奔走し、小田原
 藩主以下の諸侯も、慶喜の為に、数多く上書した。
  しかし、其の効を見る前に、戦機は刻々迫って行った。
1868年2月5日(1月12日)、この日の夜、小川町伝習隊の兵
 卒が2大隊、それも乱暴をしながら逃げたのだが・・、
 (氷川清話)
1868年2月6日(1月13日)徳川慶喜が、江戸城中にて和戦
 会議(和か?戦か?)を開いた。
1868年2月8日(1月15日)明治天皇が、元服された。
1868年2月8日(1月15日) 朝廷が、東久世通禧を派遣し、
 各国外交団に対し開国和親・条約遵守を宣言し、神戸事
 件の交渉を開始した。
1868年2月8日(1月15日)王政復古の通告(2月3日説あり)
  王政復古を、外国公使に通告した。
  新政府外国事務取調掛の東久世通禧が、兵庫で、各国
 の公使と会見し、王政復古の国書を手渡した。
  「明治元年一月十日付
   日本国天皇、各国帝王及び其の臣人に告す。
  さき将軍・徳川慶喜政権を帰するを請い、制してこれ
 を允し内外政事これを親裁す。
  乃ち日く。
  従前の条約、大君の名称を用いると雖も、今より以後、
 まさに天皇の称を以て換ふべし。
  しかして各国交際の職専ら有司等に命ず。
  各国公使この旨を諒知せよ」
1868年2月8日(1月15日) 徳川慶喜が、主戦派の中心人物
 である小栗忠順を解任し、恭順の意志を表明した。
1868年2月9日(1月16日)親王、及び、大臣の席次を定めた。
1868年2月、福沢諭吉は・・、
  福沢諭吉は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪
 城を抜け出して江戸に帰還し、江戸城が上へ下への大騒
 ぎになったときに、それを見て、苦笑し、江戸で戦火が
 開かれれば自分は真っ先に逃げると公言していた。
  上野の彰義隊が攻撃を受けているときに、平然と塾生
 に経済学の勉強をさせていたのも、これも当事者でない
 からできた。
  しかし、まさに幕臣の頂点に立っていた勝はそうは行
 かない。
  勝は、実行家にならざるを得ず、しかも、矛盾した事
 でもやらざるを得なかった。
  その矛盾とは・・、近代国家を目ざしながら徳川家の
 名誉だけは守るという事であった。
  結果として、勝は、江戸城無血開城をやり遂げた。
  氷川清話に、「勝海舟、軍艦奉行より海軍奉行並命ぜ
 られる(2月10日)」とある。
1868年2月9日(1月16日) 長崎奉行・西役所が、長崎会議
 所と改められ、長崎奉行の権限が引き継がれた。
  この後、3月9日(2月16日)に至り、「長崎会議所」を
 廃止し、「長崎裁判所」が正式に発足した。
  これは、明治政府が、旧長崎奉行支配地を管轄する行
 政機関として長崎裁判所を置いたのだった。
  そして、府庁が外浦町に設置された。
  また、所内に「九州鎮撫長崎総督府」が置かれた。
  1869年(明治2年)7月28日、「長崎府」が「長崎県」
 にあらためられた。
1868年2月10日(1月17日)外国総奉行・堀直虎が、江戸城
 において、徳川慶喜に恭順を直諌し、潔く自刃した。
1868年2月10日(1月17日)勝海舟が、軍艦奉行より海軍奉
 行並を命ぜられた。
1868年2月12日(1月19日)フランス公使ロッシュが、一旦、
 江戸に戻り、江戸城に徳川慶喜を訪れ、再挙・再起を促
 すが拒否された。
  不届き至極のフランス公使ロッシュだった。
1868年2月13日(1月20日) 青松葉事件。
  尾張藩内での佐幕派弾圧事件。
  この日、尾張藩内の佐幕派の領袖と目されていた尾張
 徳川家の家老・渡辺新左衛門在綱を始め、三重臣が、名
 古屋城二丸御殿向屋敷にて斬首された。
  1月25日(1868年2月18日)までに更に十一名の尾張藩
 士が処刑された。
  なぜ起きたかの真相は不明となっている・・が、
  幕末の主な大名家は、一橋家の血統に繋がる人物が藩
 主となり、
  それに対抗しているのが、系統的には水戸の血を引く
 一橋本家という捻れ現象だった。
  尾張藩も例外ではなく、一橋系が藩主を務めていた。
  ・・が、しかし、14代・慶勝は、支藩の高須家から入
 った人物で、水戸の血縁のため、勤王の考えに近い人物
 だった。
  家臣も2派に分れて、付家老の竹越を中心にした佐幕派
 と、成瀬を中心にした勤王派で、青松葉事件というクー
 デターで、慶勝・成瀬ラインが佐幕派の粛正に成功し、
 官軍に加わった。
1868年2月14日(1月21日)新政府が、外国事務総督・東久
 世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦
 の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わな
 いよう要請した。
1868年2月14日(1月21日)薩摩藩の沖直次郎と、芸州藩の
 石津蔵六を、長崎の会議所総代として、京都にのぼらせ
 た。
  二人は、長崎奉行が脱走して空席となった後の、長崎
 の治安状況や、外交処理の経過を、中央政府に詳しく報
 告するためだった。
  また、二人は、鎮撫使(ちんぶし、諸国の治安の巡察、
 監察などを任務とした)の下向を強く要請した。
  鎮撫使は、兵力をもって治安にあたる軍政機関であっ
 て、軍政と民政の総督を兼ねていた(治安維持権力の要
 請)。
1868年2月15日(1月22日)大阪に鎮台を設置した。
1868年2月16日(1月23日)徳川慶喜が、主戦論者を排除し、
 恭順論の主唱者・勝海舟を用いた。
  勝海舟、収拾のため起用される。
  勝安房守義邦、陸軍奉行、慶応4年1月23日~4年4月(
 氷川清話)
  権力を失った幕府は、小栗忠順を罷免し、勝安房守(
 あわのかみ)を収拾のために起用した。
  勝海舟、陸軍総裁若年寄を命ぜられ若年寄は直ちに辞
 す(氷川清話)
  [勝海舟へ戦争の勧め]
  勝海舟が、陸軍総裁となって3日目、フランス陸軍教官
 シャノワンが、士官数名と共に勝に会いに来た。
  そして、戦争を勧めた。
  「吾々が、これまで教え育てた優秀な士官兵隊数百名
 は、皆、熟練した兵力である。
  今や陸軍総裁となった男が、これを率いて戦えば必ず
 勝つ。
  吾々も大いに協力しよう。・・どうかご返事を承わり
 たい」。
  勝は、困ってしまって、「明日に御返事しましょう」
 と言って帰した。
  その夜、勝は、直ちに、フランス公使ロセスを訪ね、
 幕府の方針は、恭順に決した事を言い、
  シャノワンの厚意は有り難いが、その雇いを解約した
 い、と申し入れた。
  翌日、シャノワンの館を訪ねて、同様の事を説明して、
 幕府は、決して戦わぬ方針に決めた、と告げると、
  シャノワンは不思議は面持ちで、どうしてこんなに優
 勢な兵力があるのに戦わないのか。
  戦えば必ず勝ち、東北諸藩も協力して、形勢は我に有
 利になるのに、実に惜しい。
  君自身の立場もなくなるではないか、と懇々(こんこ
 ん)と説教した。
  勝は、その親切は有り難いが、今はやむを得ない。
  たとえ自分の身がどうなろうと、それは天のみぞ知る、
 御教訓は忘れない・・と、答えて別れた。
  公使ロセスは、慶喜の所にも行って、極力抗戦を勧め
 たのである。
  しかし、勧告が聞かれないと見るや、ロセスは急いで
 帰国し、フランス軍教官たちは、この後、榎本武楊らの
 脱走兵について、東北・北海道に転戦するのである(氷
 川清話)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive