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2013年5月31日金曜日

わたげのゆめ

「わたげのゆめ」 (アリフ みらちよ)
     埼玉県富士見市つるせ小6年 
           (読売新聞2013・5・30)
     わたしはタンポポ
     わたしのゆめは
     はやくわたげになること
     タンポポはかれるとわたげになる
     わたげは風にのってとんでいく
     風がやむとわたげはおちて
     またうまれかわる
.
  可愛い詩です。心が温まります。
  可愛いみらちよさんが目に浮かびます。
  これから大人になっても、可愛い詩人でいるのかな。
  または、何かなりたい希望があるのかな。
  心温まる詩をありがとう。

2013年5月30日木曜日

空恐ろしくなる、話・・・。

 題:空恐ろしくなる、話・・・。
....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスは、大工のヨセフの息子だという話は有名です。
 そして、イエスも大工をしていたのだろうとされています。
 お父さんの仕事の後を継いだ長男。親孝行な息子です。
 イエスが、福音書に出て来るのは、書かれている最初は、
洗礼者ヨハネの所に行って、洗礼を受けた時の話からです。
 洗礼者ヨハネは、イエスの従兄弟と言われています。
 イエスは尊敬していたのかもしれません。
 「是非、貴方に洗礼をして戴きたいのです」と言っている。
 後に、洗礼者ヨハネの集団にいた人たちが、洗礼者ヨハネの
刑死の後、イエスに従っています。と言うより、洗礼者ヨハネ
の死後、イエスは、その後も続けて継いで、一緒にやっていた
その運動をしています。
 イエスが、宗教に完全にはまった瞬間だったのでしょう。
 この時、イエスは35歳ぐらいでした。
 イエスは、37歳ぐらいで刑死し、イエスの活動の期間は、1
~2年とされています。
 洗礼者ヨハネの所に行った年齢は35歳ぐらいだったと考えら
れます。だから、イエスは、大工を35歳くらいまでしていて、
それから、洗礼者ヨハネの死も経緯し、活動に入っていったの
だろう。
 当時のイエスの大工の仕事は、「家具や農具の製作や修理」
だったと考えられています。
 この仕事は、遊行しながらもできるので、大工をしながら遊
行していたのだろうと言われています。(参考)ゆう‐こう【遊
行】 [名](スル) 1 遊び歩くこと。「外国に―して一時歓娯
を極むるに似たれども」〈織田訳・花柳春話〉 2 さまようこと。
 イエスは、宗教家を目指していたのではないことが分かって
います。そして、「托鉢をしていたのではない』。「托鉢をし
ていた」とは伝えられていません。
 時々、大工仕事をして食べていたのだろう。
 イエスは、当然、「教団を作ろうとも考えていなかった」。
 弟子達は、イエスが死んだ後、教団の様な似たものを作った
が・・・。
 イエスが、弟子と称する一連の人たちと行動を共にしたのは、
最後の1~2年は弟子らしく振る舞ったが、近所の仲間という感
じで、幼い頃からの友だちも居て、大工で近隣を歩いて居る時
に知り合った人も居て、元々は遊び仲間というか、行動を共に
していた人たちで、弟子という訳ではない集まりから弟子と呼
ばれる、また、弟子とされる人たちが生まれて行ったと考えら
れます。
 また、イエスは、最後は、弟子たちに「ラビ(ユダヤ教の聖
職者の呼び名)」と呼ばれている。当時、ユダヤ教の聖職者に
なるのが一番安定した職業であった。
 母・マリアも子供のために、裕福でない家計からラビの学校
へ行かせたのかもしれない。
 イエスの父・ヨセフは、マリアの妊娠について、ずいぶんと
悩んだようだが、そのヨセフは早世した。そのため、マリアの
苦労は人一倍その肩に掛かっただろう。
 イエスの親族は、母・マリア、兄弟は「ヤコブ」「ヨセ」「
ユダ」「シモン」だった。そして、イエスには姉妹も居た。
 弟子達には、漁夫も居た。
 イエスの出生地は、海岸から離れた地・ガラリアで、比較的
肥沃な地で農業が発達していた。
 また、交通の要衝で、異邦人も比較的多く居た環境から、イ
エスの異邦人に対する開かれた考え方は、
 (キリスト教は「異教徒は殺せ」であるが・・)
 ここから、この環境から生まれたのだと考えられる。
 海岸線に居住する弟子が比較的居た、そして、子供の頃から
の遊び仲間と、大工として、近隣のあちこちに行って知り合っ
た仲間たちであった。弟子たちの頭のレベルは、どうも低いと
しか言えない状態であり、
 パウロは、この弟子たちを含め、イエスの一切の「言葉」や
「行動」を無視しているが、
 この様な事は、弟子たちにパウロは、イエスの死後、会って
知っているから、その時の弟子達の人品・人望と、イエスのこ
とを弟子達から聞いて知っていたからかもしれない(また、パ
ウロはイエスたちと対抗する宗教・ユダヤ教の要職していたか
ら情報は多く持っていたのだろう)。
 パウロは、はっきりと、イエスのその様な言葉や行動は、無
視すると文で残している。
 パウロが、この様に、無視するイエスは、頭の回転は比較的
良かったようだ。ただ、怒りっぽい性格で、「怒った」と聖書
のアチコチに書かれている。
 また、弟子達を「叱った」ということも、聖書のアチコチに
書かれている。
 この様な怒りっぽさは、他の宗教の基本に居る人・創設者た
ちには無い。イエスは、人間的に、人間性に、満点は与えられ
ない。満点とは言えない。
 イエスと弟子たちは、よく意見が違い、そして、弟子達は叱
られている。
 聖書に記されている事だが、弟子たちはどうしようもないく
らいの低レベルだなと感じさせるものの1つに、
 イエスが、少しよい地位に就くかもしれないとのうわさ・話
題になった時、弟子たちははしゃぐ、そして、弟子たちの中で、
誰が一番最高の地位に就けるかなどで、言い争っているという
下らない話がある。
 この様な話題に興じている弟子たちを、イエスは叱るのだが、
叱るのも仕方ない面があるとも思える。
 弟子たちとエルサレム神殿の店や神殿前の両替商を壊したり
して、暴れ回ったりしているが、イエスが、すぐ頭に来る性格
はこの様な聖書の記述からも、あちこちで、すぐ分かり、裏付
けられる。
 また、イエスの性格で言える事は、「皮肉っぽくものごとを
考える性質(タチ)で、素直でない」ことである。
 後世のキリスト教の聖職者たちが、頭をひねって、何とか美
しくカバーしないとと努力しているが、素直に考えても、
 そして、どこから見てもおかしいところが多い聖書の記述内
容であり、また、状況である。
 聖職者が必死に正当化に苦労している所である。
 キリスト教は、その様に、四苦八苦して正当化された砂上の
楼閣のような論理・話を教義とした宗教と言える。
 例えば、下記の様な1例がある。
 一番最後に仕事にやって来て、「終礼のベルが鳴る間際に来
て、たいして働かなかった人と、朝から真面目に一生懸命働い
て来た人も、同じ給料を払うのだ。それが正しい」という話が
ある。
 そして、最後に、雇った人は「わたしの金だ。どう払おうが
わたしの勝手だ」と尻をまくって話が終わる・・という、
 おかしいのではないかと、正した人もぎゃふんの話だが、イ
エスも、待ってましたとばかり「その通りだ。平等だ」という。
 この話についても、キリスト教聖職者の方達は、必死に、イ
エスを正当化にしようと努める。
 この様な輩、遅刻よりもっと悪い、「仕事が終わりますのベ
ル」が鳴る間際に会社に来て、今・現代、この様な輩ばかりが
会社に居たら「会社はつぶれます」。
 会社は趣味でやっているのでない。
 社会にこの様な輩が充満したら、社会に居たら、社会は破滅
します。社会の機能が働かない。
 どこから見ても正しくない話をキリスト教は正しいという。
 キリスト教徒の方たが、ならばと言うのなら、貴方も明日
から、その様にしてみたら分かります。聖職者は「日曜以外は
日曜日ですから、聖職者の方たちには分からないでしょうが」、
絶対に、キリスト教の教義だとは言え、貴方はできないでしょ
う。キリスト教とはこの様な宗教なのです。屁理屈で成立して
いる宗教なのです。社会に通用しません。社会に害悪を流して
います。
 キリスト教の教義どおりにしたら、あなたも、社会も、会社
も成り立たないのです。
 この様な話に浸っている毎日を過ごしていると、キリスト教
徒は、洗脳されて来ると、社会からはみ出す結果となります。
 正常に思考できるようになる努力をしてください。

2013年5月28日火曜日

キリスト教の、福音書について・・・。

 題:キリスト教の、福音書について・・・。
.....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書は、何ら深い示唆を与える本ではない。
 まず、非科学的記述に満ちている書物だ。非科学的害毒を流
していると言える。また、非道徳的な記載が驚くほど多い。
 例えば、兄弟で殺し合ったり、息子が父親を裏切ったり、親
切な牧場主をだまして、女房・子供を置き去りにして、逃げ回
ったり、非道徳的な本の極みにある。
 故に、かばった言い方をしても、せいぜい「道徳本」程度の
ものとしか言えない。
 また、聖書記述者のレベルも低かったし、程度も悪かったの
だろう、また、日本語への翻訳も程度が低い状態。
 元々、宗教的意味の無いものだったからだろうが、翻訳者も
苦労したのだと思えるが、記述内容で頭をひねるところが多す
ぎる。聖書と呼ぶが(民族が厳しい砂漠の地で生き抜く『マニ
ュアル』と言うべきもの)。
 キリスト教系の学校へ行っている子供が「辛(つら)い」と
言う。週に、2時間も学習時間があると「嘆(なげ)く」。
 キリスト教の聖書は、福音書を比較したりすると、その悪さ
かげんが分かる。
 前に書かれた福音書を参考にして、後の福音書は、書かれた
というが、前に書かれた福音書の「批判書だ」ということが分
かる。
 「共観福音書」とキリスト教が言うが、プロパガンダ(嘘宣
伝)だ。
 ドロドロしたキリスト教内の『路線争い』を隠している言い
方だ。路線とは「考え方が違う」という意味だ。
 キリスト教の原初の時代、発足時にも、この宗教に、長い歴
史に渡って存在する、今・現代もあり過ぎるほどある路線争い
が、「原初の時代」からあった。「共観」などしていない。
 書く必要性は「前の福音書が駄目だから書いたのだ」と主張
している。
 百歩譲って、書くのは良いとしてあげても、自分の考えと違
って居ると、理由を問わずに、前の書いてある部分を簡単に削
除したり、違う考えを書き込んだり、好き勝手をやっている。
 『改悪』もいっぱいある。「共観福音書」などとんでもない
言い方だ。共観などしていない。
 「マルコ」・「マタイ」・「ルカ」・「ヨハネ」の4つの福
音書があるが、前の3つを「共観」と称しているが、
 「共著」ではない。
 共著と錯覚した感じを持ってはならない。
 これ等の記述者は、各自勝手に書いている。だから、矛盾点
も多い。
 まとまらない性格のキリスト教が形成された原因の1つだ。
 キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)が得意だが、聖書の呼
び方まで、この様に嘘宣伝している。
 ある教会は、聖書は一人で読むと危険だから『一人では読ま
ないこと』と指導している。聖書とはこの様な書物。聖でも
何でもない。じっくり読んで「味わい」「養われる」というも
のでは無い。
 聖職者が勝手に美しく解釈し、聖職者の独自の宗教観が、自
分の宗教が教会で話されるが、こうしないと、こう話さないと、
成立しない聖書の記述であり、宗教なのである。
 聖書の中に立派な宗教観などない。短い道徳的記述はあって
も、宗教観はない。そのほとんどが、害あって益なしという書
物。
.
(追伸)
 キリスト教聖職者やキリスト教徒が、イエス・キリストの言
葉に「汝の敵を愛せよ」という言葉がありますという。必ず、
この言葉を言う。そう、その通りと思います。良い言葉です。
 しかし、その次の言葉が出て来ないのが現状。
 聖書は全く悲惨な事ばかり書いてある。本当にここまで書く
のですか?と聞きたくなる感じです。
 誰だって、すこしくらい、汝の敵を愛してやってくれ、
 『汝の敵を愛せよ』と言いたくなります。
.
 (参考)共感福音書(Wikipediaには以下の様に書いてある)
 :共観福音書(きょうかんふくいんしょ)は、キリスト教の新
約聖書の四つの福音書のうち、ヨハネ伝を除くマタイ伝、マル
コ伝、ルカ伝のことを指す。この3つには共通する記述が多く、
同じような表現もみられる。聖書学の研究の結果、本文を相互
に比較し、一覧にした共観表(シノプシス synopsis)が作られ
たことから共観福音書と呼ぶようになった。

2013年5月27日月曜日

母・マリアは、イエスを捕えに・・・。

 題:母・マリアは、イエスを捕えに・・・。
.....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 有名な話なので御存じだと思いますが・・、
 お母さんと兄弟姉妹は、一番大切な人たちです。
 ましてや、お父さんが無くなっていれば、特に。
 その様な時、
 お母さんや兄弟姉妹たちが貴方を訪ねて来たとしたら、
 貴方は飛んで行って「会っていなかった空白の時間を埋める
様に話を始めるでしょう」。
 そして、お母さんや兄弟姉妹の健康を気遣い、尋(たず)ね
たりします。
 しかし、次の様な文があります。
 母と兄弟姉妹たちが、訪ねて来て、訪問先の外に立ち、
 そして、人をやって、その訪問を知らせた。そしてその時。
 その人の周りにいた人たちも、「御覧なさい。母上と兄弟姉
妹がたが外で貴方を捜(さが)しておられますよ」と教えた。
 すると、その時、その人は言った。
 「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか?」と答えたという。
 そして、周りに居た人たちを見まわして言ったという、
 「(その人たちは、わたしの母ではない。わたしの兄弟姉妹
でもない)。見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がい
る。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母な
のだ」と。
 つまり、信仰を行なう人が父母・兄弟姉妹なのだと言いたか
ったのでしょう。
 この人の父母・兄弟姉妹が同じ信仰なのにです。
 違う信仰を行なっていたということではないのにです。
 一緒の信仰をしているのに、この様な言い方をした。
 この母と兄弟姉妹たちが、わざわざ訪ねて来たのは、何か大
切なことがあったのでしょう。
 周りの人たちも、そのことを知らせてくれているのに、
 この様な「無視する言葉」「不忠義な言葉」を言う。
 それも、一番大切なお母さん、そして兄弟姉妹に対して。
 この人の人間性に疑問を感じませんか?
 軽蔑する心も起きませんか?
 周りの人に教え導くためだとしても、適切ではありません。
 非常識です。
 温かい人間性を感じる言葉ではありません。
 優しい心の欠片(かけら)もありません。
 このお母さんはマリアです。
 兄弟姉妹と一緒にイエスを訪ねて来た時の話です。
 この話は、キリスト教聖書の(「マルコによる福音書」3・
31)にあります。
 信仰しているあなた達が大切と言いたかったとしても、
まったく適切な言葉ではなく、また、適切行動が取れていない
です。しょうわる(性悪)さがあります。
 人をさびしい、悲しい気持ちにさせる話です。
 この様な話に、毎日、接していると・・、
「自分の人間性もしょうわるに感化されるので、注意が必要で
す」。
 聖書記述者の人間性もこの様に駄目だったので、この様な聖
書になったのでしょう。
 この様な記述は伝承される価値はありません。
 しかし、恐ろしいことにキリスト教はこの様におかしな話で
感化しよう、宣教しようとしています。
 色々な理屈・屁理屈を言って、理由付けをします。
 これは正しいのだと。
 信徒の方達は、最初は変だと思っていても、接しているうち
に、洗脳され、おかしいと感じていたことが、正しい判断がで
きなくなってきます。
 最後は「そうかなー」と思い、自分の母や兄弟姉妹たちにも
同じ様な行動や言葉を言うような人になっていきます。
 キリスト教聖書は「無謬だ」「間違いない」と言い続けられ
ていると・・・、
 だんだん、判断力も低下してきます。
 恐ろしい感化が気付かづに進行して行きます。
 何も正しく判断できない羊がそこに居るという状態になりま
す。
 聖職者はその効果がより上がる様に、壇上に上り、着飾り、
振る舞って言うでしょう。
 イエスの母・マリアは、イエスの従兄弟の洗礼者ヨハネ(イ
エスの母マリアにとっても親族の洗礼者ヨハネ)が、捕縛され
処刑されている。
 それで、イエスの所へ、イエスを気遣って、兄弟姉妹を連れ
て一緒に来たのでしょう。
 ある福音書には「イエスの母・マリアは、イエスが気が狂っ
たと思っていた」と書かれている。
 そしてまた、「母・マリアは、兄弟姉妹と、イエスを捕えに
来たと書かれている。

2013年5月26日日曜日

内村鑑三の言いたい事・・など。

題:内村鑑三の言いたい事・・など。
.....(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 内村鑑三の言いたい事:
 「キリスト教は権謀や術数を使い過ぎる。
 何故、それらの権謀や術数が必要なのだ。
 神の真理を証明するのにそれが必要なのか?
 (それを用いなければ神の真理は証明できないものなのか)。
 そんなことをするから、キリスト教の道、神の道が乱れに乱
れているではないか。
 信者を増やそうとして、やってはならないことをしている」。
.
 内村鑑三の言葉:
 「余輩は無教会信者なり」。
 (参考)よ‐はい【余輩/予輩】 [代]一人称の人代名詞。
 わたし。また、われわれ。「此度―の故郷中津に学校を開く
 に付」〈福沢・学問のすゝめ〉
.
 内村鑑三の考え方:
 「人を信者にするのがわれのなしうるところにあらず、
 人に福音を証明するのがすべきところなり。
 われの職責は信者を作るにあらず、
 福音を証明するにあり。
 人が信者となるとならざるは われの関するところにあらざ
 るなり」。