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2016年10月29日土曜日

(増補版)445E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年2月~1887年3月)

題:(増補版)445E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年2月~1887年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年2月8日:逓信省全般の徽章を「T」字形とすると発
 表した。
  2月19日、「T」は「〒」の誤植と訂正した(2月14日
 説あり)
  逓信省は、2月8日に、郵便マークに「テ」を定めるが、
 外国では料金未払いの意味だと判り、まもなく「〒」と
 改めた。
  この「〒」マークは、日本国独自のものであり、日本
 国外では使用できない。
  因みに、1871年6月7日(明治4年4月20日)に、日本の
 郵便事業が始まった。
  当初は、特に定められた徽章はなかった。
  ただ、「郵便」の文字だけでだった。
  1877年(明治10年)頃から、大きな赤丸(「日の丸」
 的な徽章)に太い横線を重ねた赤い「丸に一引き」が郵
 便マークとして用いられ始めた。
  1884年(明治17年)6月23日、太政官布達第15号により、
 正式に「郵便徽章」と定められた。
  1887年(明治20年)に、「〒」が、逓信省の徽章に定
 められた際、この郵便徽章は自然消滅に属するとされた。
  1885年(明治18年)郵便等の所管官庁として、逓信省
 が創設された。
1887年2月13日、東京綿商社(のちの鐘淵紡績)が開業した。
  この時に、東京府南葛飾郡隅田村の通称:鐘ヶ淵(現:
 東京都墨田区墨田。墨堤通り沿い)に、東京綿商社とし
 て創立され、紡績会社として創業した。
  紡績工場は、1889年に完成した。
  すでに、大阪紡績は、錘数1万0500錘で、動力源として
 蒸気機関を導入するなど大規模で、また、近代的なもの
 であり、当初から好業績を記録し、規模を拡大していた。
  これに刺激されて、1886年に、三重紡績(東洋紡績の前
 身)が設立され、
  1887年に、この東京綿商社(現:鐘紡)の大規模紡績会
 社が相次いで設立された。
  国内生産力は、大幅に増加した。
  しかし、この結果、綿製品は、供給過剰に陥り、
  1890年に、綿紡績業は、初の不況を経験することとな
 った。
  この1890年には、早くも輸入綿糸を上回った。
  また、この頃から、最新式のリング精紡機が、ミュー
 ル精紡機に代わって中心となり、生産性が高まり、また、
 女工比率も上昇した。
1887年2月15日、民友社創業され、『国民之友』が創刊され
 た。
  主宰:徳富蘇峰が、民友社を興し、雑誌「国民の友」
 が創刊された。
1887年2月、彫刻競技会が、東京彫工会と改名した。
  江戸時代には、仏師や宮彫大工、人形師はいたが、彫
 刻家は存在しなかった。
  作られるのは欄間(らんま)であり、木版の版木だっ
 た。
  草分け的な彫刻家として登場したのが、高村光雲だっ
 た。
  東京浅草に生まれた高村光雲(本名:中島光蔵)は、
 奉公に出て働くその時、偶然から大仏師の高村東雲を奉
 公先に決まった。
  めきめき腕を上げた光蔵は、年季が明けた時、師は、
 光蔵に「光雲」の号を贈った。
  才に恵まれた弟子への愛情だった。
  そして、近代彫刻科としての歩みを始めた。
  明治初年の廃仏毀釈は、仏像の需要を減らしたのみな
 らず、貴重な仏像仏具が二束三文で外国人に叩き売られ、
  その上、金銀荘厳だけ剥がされて薪のごとく燃やされ
 るという惨状を生んだ。
  仏師や宮彫大工の仕事も激減し、彫物職人たちは生計
 を輸出工芸品に頼らざるを得なかった。
  この様な時に、生活を求める中、この時代に一世を風
 靡したのが「牙彫(げぼり)」=象牙彫刻であった。
  光雲は、木彫一筋を通した。数えるほどの人だった。
  この様な牙彫家にも、「谷中派」の職人と、彫刻を志
 す「彫刻競技会」の二派があった。・・しかし・・、
  1887年(明治20年)光雲は、後者の彫刻協議会の派と、
 「東京彫工会」を結成した。
  以後、光雲は、この東京彫工会や、日本美術協会に、
 作品を発表した。
1887年3月14日、 明治天皇陛下が、海防の整備のために、
 海防に関する詔勅とともに御手許金30万円を下賜された。
1887年3月20日、伊藤博文、柳原前光、井上毅、伊東巳代治
 ら、皇室典範、皇族条例草案を検討する。
1887年3月23日、所得税法を公布した。
  日本の所得税法は、この時に導入された。
  導入の当初は、所得金額300円以上の高額所得者のみを
 納税義務者としていた。
  そのため、この税を、名誉税と呼んだ。
  税率は最大3%で、税収に占める割合は僅かだった。
  しかし、酒税と地租以外、有力な税収を持たない明治
 政府にとって、将来的には、公平な負担をもたらす有力
 な税収になるとして期待されていた。
  帝国議会制定前に制定されたので、大日本帝国憲法制
 定後は、大日本帝国憲法第63条が適用された。
  1899年、法人所得を第一種所得として課税するように
 なった。
1887年3月23日、海防整備費用の献金を、府県知事に訓示し、
 地方有志から集めた。
1887年3月23日、陸軍で初めて「伝書鳩」を飼育した。
  陸軍が、東京と静岡県久能山の間を使って伝書鳩の実
 験を行い成功した。
1887年3月、清国水兵事件が北京に移された。
  1886年8月に起きた「清国水兵事件」の事件調べが、清
 国の北京に移された。
  後に、東京での、井上外務大臣と徐清国公使との会談
 で和議が成立した。
  「関係者はそれぞれの国の法律で処理する。双方の死
 傷者に対し、互いに弔慰金、見舞い金を送る」
.
  (今日の言葉)
.
  最近の新聞記事から・・「切り抜き」・・
  ディグニティー:威厳。尊厳。また、品位。気品は・・どこにあるのか?
.
  題(その1):アメリカの「核の傘」は・・?
.
2016年10月21日、アメリカの『核の傘』理論
  (読売新聞、2016・10・21)に以下の記事があった。
  それは、アメリカの『核の傘』に疑念を持ったところ
 から発した事柄だった。
  それは、もっともな面もあった。
  アメリカ大統領候補のトランプ氏が言った・・、
  「もう、アメリカは、日本の安全保障の責任はとれな
 い、日本に原爆を持たせてもよいではないか」・・とい
 う主旨の発言しているが、この様な発言も影響している
 とも考えられる。
  ・・以下は、その新聞の内容・・、
  見出し:米韓「核の傘」強化合意
     2プラス2 次官級の「戦略協議」新設
  米韓両政府は19日、ワシントンで外務・防衛閣僚会合
 (2プラス2)を開き、
  在韓米軍へのミサイル防衛システム「最終段階高高度
 地域防衛(THAAD)」配備をできるだけ早期に行う
 方針で一致した。
  「核の傘」などの拡大抑止強化を議論するため、次官
 級による「戦略協議」の新設も決めた。
  会合には、米国のケリー国務長官とカーター国防長官、
 韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と韓民求(ハンミン
 グ)国防相が出席した。
  北朝鮮の核兵器開発が完成に近づいていることを受け、
  韓国は、米国に対し、有事に核兵器の使用も辞さない
 方針を示して、北朝鮮の核兵器使用を自制させる「核の
 傘」を含めた拡大抑止の強化を求めた。
  カーター氏は、会談で、「米国の韓国防衛への関与は
 揺(ゆ)るぎないものだ」と述べた上で、
  「米国の関与は、米軍のすべての兵器体系で保障され
 た拡大抑止の提供を含む」と強調した。
  米韓が、拡大抑止の強化で合意したのは、韓国内で高
 まっている「核武装論」の沈静化を図る意図もある。
  ケリー氏は、会談の後の記者会見で、北朝鮮の核ミサ
 イル開発について、
  「米国の次期大統領に誰がなろうとも、非常に集中し
 て取り組むべき課題となる」と述べ、
  米新政権の重要な外交課題になるとの認識を示した。
.
  題(その2):最近の韓国経済・・、
.
2016年9月23日、韓国の最大の海運会社が倒産
  (読売新聞、2016年9月23日)によると、
  韓国の海運会社が破綻(はたん)し、物流が大混乱し
 ているという。
  コンテナ量で世界7位の韓進海運が・・、
  8月31日、ソウル中央地裁に法定管理(日本の会社更生
 法に相当)を申請した。
  負債総額は、約4500億円。
  各地の港湾当局や荷役業者が、燃料費や荷役料の滞納
 を恐れ、荷降ろしや出入港を拒否した。
  韓国最大の海運会社で、貨物船が立ち往生し、世界的
 な物流の混乱は、少なくとも2ヶ月~3か月間、続く見通
 し。
.
  題(その3):世界中の制海権が欲しい・・、
.
2016年10月1日、(読売新聞、2016年10月1日)に・・、
  「中国『海洋強国』急速に」
  「国産空母、周辺国威圧」
  「アメリカに対抗」・・とあった。
  内容:
  中国軍が、丁寧省大連で建造する国産初の空母は、
  中国の習近平政権が、野心的な「海洋強国」建設を急
 ピッチで進めている事を改めて示した。(中略)、
  この空母の建造は、昨年初め頃に始まった。
  中国国防相は、昨年末に、建造を公式に認めた。
  排水量は、空母としては小型の5万トン級、
  原子力ではなく、通常動力を採用していると説明した。
  (中略)、
  習政権は、「2020年までに、空母戦闘群を3個編成にす
 る」との目標を掲げているとされる。
  中国が、10隻以上の空母を保有して、世界中の「制海
 権」を握るアメリカに対抗し、周辺国を軍事力で威圧す
 る狙いだ。
  公式発表はないが、3隻目の空母も、上海で建造中との
 情報がある。
  軍事関係筋は、「中国軍の初期目標は、南シナ海と東
 シナ海への空母の展開」と見る・・(後略)
.
  余談:「アメリゴ」という言葉の意味に「ウソをつく
     人」という意味がある・・
     また、アメリカの語源は、「嘘吐き」とある・・
.
  題(その4):中国が、人民元の札をどんどん刷り始めるか・・?
   すでにやっているのか・・?
   ならば、やりたいことは何でもできることになる・・?
.
2016年10月2日、(読売新聞、2016年10月2日)に・・、
  中国の人民元が、国際的な主要通貨に加わった。
  今・現在、その「主要5通貨」は・・、
   米ドル (42.5%)、
   ユーロ (30.2%)、
   英ポンド( 7.5%)、
   日本円  ( 3.4%)、
   人民元  ( 1.9%)、
  国際通貨基金(IMF)が特別引き出し権(SDR)
 の構成通貨に人民元を加えたことで、
  中国が目指す「人民元の国際化」に一歩前進した。
  一方、国内総生産(GDP)で、世界2位の経済大国と
 なった中国には、国際金融市場での存在感に見合った責
 任を果たすことも求められる。
  しかし、国際化へ問われる改革・・、中国は2020年を
 めどに人民元相場を自由化する方針を示しているが、
  市場では「今のペースでは難しい」との見方が大勢だ。
  むしろ、「改革が後退している」との声も上がる。
  中国では・・(以下、略)
..
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2016年10月28日金曜日

(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年2月)

題:(増補版)444E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1887年、発明:
・ベルリナー(ドイツ出身)が、大量生産可能な円盤型の
 録音再生用レコードを発明した。
・徳川慶喜と自転車:最後の将軍、徳川慶喜は、静岡にお
 ける自転車の開祖となった。
  この年、紺屋町の邸内で乗り回していた。
  この当時、鉄製だった車輪をゴム輪に改造させていた。
・ゴム印が発明された。
  ただし、高価のため、その普及は日清戦争後だった。
  (1886年説あり)
  日本に海外から、ゴム印が渡って来たのは1886年(明
 治19年)。
  日本は、すぐに彫刻ゴム印を作った。
  外国で使われている鋳造ゴム印より、美しく文字も自
 由に表現できた。
  字体も自由で、好きなように彫れた。
  外国人は、その日本の技術に驚ろいた。
  東京で、ゴム印の材料であるゴム板を最初に作った店
 が、佐々木商店であり、初代、佐々木浜太郎氏。
  佐々木氏は、当初、浅草の雷門で印材商を営んでいた。
  佐々木氏は、日本に伝わってきたゴム印に着目し、家
 にあったゴム製の潜水服の一部分を切り取り、これを板
 に貼り付け、ゴム印の材料とし、販売した。
  当時、とても貴重なものだった。
  星野印版工業という会社の初代社長であった星野福次
 郎氏が、1889年(明治22年)、アメリカ人からゴム印を
 作る方法を習得した。
  これが鋳造ゴム印だった。
  この翌年・1890年には、彫刻ゴム印を製造した。
  これが、日本で初の彫刻ゴム印と言われている。
  星野氏は、1894年(明治27年)、回転ゴム印をアメリ
 カから仕入れた。
  そして、同じ物を日本で作り、これが、日本最初の回
 転ゴム印だった。
・馬にひかせる蒸気ポンプができた。
  1884年(明治17年)6月、日本初の蒸気式消防ポンプ(蒸
 気ポンプ)が、警視庁消防本署(現・東京消防庁)に配置さ
 れた。
  そして、腕こぎポンプの龍吐水が廃止されるようにな
 ったが、
  輸入品のため非常に高価だった。
  1890年2月の浅草の大火で、蒸気ポンプの強力な消火能
 力を体験した消防署部内では、国産化推進の検討がなさ
 れ、
  市原喞筒(ポンプ)製作所に製作を依頼した。
  この日、警視庁消防署では、歴史上初めて、国産蒸気
 式消防ポンプの試作機性能試験を行い、
  有効証明書を発行した。
  価格も、輸入品の半額となる見通しがついて量産化が
 進められた。
  ちなみに、国産蒸気ポンプには手引きのものと、馬引
 きのものとの2種類があった。
  手引きの蒸気ポンプは、ポンプ車の梶に綱をつけて、
 消防隊員が引っ張り、火災現場へ向かった。
  一方、馬引蒸気ポンプは、馬を1~3頭立てにし、ラッ
 パ(後に大鈴)を鳴らしながら、現場に急行した。
  各地への配備は、翌年・1900年(明治33年)、神戸市と
 函館市、
  1908年(明治41年)には、横浜市、
  1910年(明治43年)には、名古屋市などで、消防設備近
 代化の第一歩を記した。
.
1887年、スポーツ・科学・文化・物価・流行・世相:
・先住民が、アイヌかコロポックルかの先住民論争が起こ
 る。
.
1887年1月1日、東京気象台が、中央気象台として発足する。
  管轄は内務省。
  1870年(明治3年)、日本は、国土の測量の必要から、
 測量助師のイギリス人ジョイネル(明治3年に京浜間鉄
 道布設のために来日、明治4年に工部省測量司に移る)を
 招いた。
  このジョイネルが、気象観測の必要性を建議した。
  1873年(明治6年)5月、工部省測量司は、気象台を設
 けることを決め、ロンドン気象台長に気象器械のあっせ
 んを依頼した。
  ジョイネルの上司・測量師長・マクビーンは、フラン
 スからイギリスに帰化したシャーボーの日本招へいに成
 功し、
  そのシャーボーに、気象器械の調達を依頼した。
  シャーボーは、15か月間にわたり、イギリスで、各種
 器械の購入にあたり、
  1874年(明治7年)7月、それらの器械を携えて来日し
 た。
  シャーボーは、「日本は地震が多いと聞いたが、測量
 の測点が移動しては困る、日本で測量をするには、まず、
 地震観測が必要だと考えた。
  そして、イタリア製の地震計を、気象器械とともに持
 参した。
  1875年(明治8年)5月、これらの気象観測器械と地震
 計の据付けが完了した。
  場所は、内務省地理寮構内(現在の東京都港区虎ノ門
 2-10ホテルオークラのあたり)だった。
  そして、同年1875年6月から観測が開始した。
  当初は、御雇外人ジョイネルが、一人で担当し、1日
 3回の気象観測を行い、
  地震があれば、土蔵の中の地震計まで飛んで行った。
  間もなく、ジョイネルの要請により、
  同年・1875年9月から、正戸豹之助(地上・山岳観測、
 通信等多方面で事業整備に尽力、のち中央気象台統計課
 長)、
  下野信之(のち大阪測候所長)、
  中條信倫(馬場と改姓、のち商船学校教授)、
  大塚信豊(地震・火山業務を経て、長崎測候所長)、
  武林貞次郎(のち長崎測候所長)らが、ジョイネルの
 伝習生となり、徐々に観測に加わった。
  その後、1877年(明治10年)6月には、ジョイネルの満
 期解雇のあとをうけて、正戸豹之助が観測主任になった。
  1883年(明治16年)3月1日に、東京気象台で、初めて
 天気図を作成し、毎日の印刷配布が、
  さらに、翌・1884年(明治17年)6月1日には、毎日3回
 の全国の天気予報の発表が開始された。
  東京気象台は、1887年(明治20年)1月に、中央気象台
 と改称し、
  1956年(昭和31年)7月に、気象庁となった。
  2001年(平成13年)1月の中央省庁等の再編に伴い、気
 象庁は国土交通省の外局として新たに業務を開始した。
 (気象庁、ホームページを参考にした)
1887年1月9日、ブッセとハウスクネヒトの両人が、帝国大
 学に着任した。
  ハウスクネヒトは、ドイツ人の教育家で、日本に、ヘ
 ルバルト派教育学を導入した功績者。
  1890年まで、東京の帝国大学文科大学で、当時、有能
 な教員を育成するために設けられた教育学科の特約生に
 対してヘルバルト学派(J.F.ヘルバルト)の教育学とドイ
 ツ語を講義した。
  谷本富(とめり)、湯原元一(もといち)らを教え、日本
 にドイツ教育学が入る端緒をつくった。
1887年1月17日、皇后陛下が、婦人の洋装を奨励する思召書
 を出し、華族婦人などに洋装が広まった。
1887年1月22日、東京で営業の電灯が点灯された。
  東京・麹町の鹿鳴館に、東京電灯株式会社が、白熱電
 灯を設置する。
  そして、移動式石油発電機を使って、白熱電灯を点灯
 した。
  これ以降、電灯設置営業が進んだ。
  因みに。初の電灯は、1878年に、虎ノ門の工部大学校
 で、初めて電灯「アーク灯」が点灯している。
1887年1月24日、地方制度編纂委員会が設置された(2月説
 あり)
  地方制度編纂の基本針である『地方制度編纂綱領』は、
 1887年に、閣議決定された。
  委員会は、山縣内務大臣を委員長とし、ほか4名の委員
 からなった。
  山縣は、国家の基礎を強固にするには、町村自治を整
 備すべきとした。
  また、地方の人材と財源を充実させてから自治制を実
 施すへきとし、実施が急務であると述べた。
1887年1月29日、大阪撚糸会社が設立された。
1887年1月30日、登記制度が開始した(2月1日説あり)
  1886年(明治19年)8月13日、登記法(旧登記法)は、
 公文式(明治19年2月26日勅令)によるわが国最初の法律
 (法律第1号)として公布された。
  そして、翌・1887年2月1日から施行された。
  旧登記法の制定の目的は、「第一ニ保護、第二ニ収入」
 で、第一に、国民の権利の保護、第二に、国の税収を目
 的とした。
  しかし、実際は、やはり税収第一だった。
1887年1月、長崎の馬町の西洋料理専門店「自由亭」が廃業
 した。
  後に、長崎地方裁判所が買収、し検事正官舎になった。
1887年2月3日、ルートヴィヒ・リースが、帝国大学史学科
 教師として着任し、ドイツ歴史主義を紹介した。
  約半年後の9月に、史学科が設置された。
  これまで、法学科と哲学科で、ヨーロッパ史と日本史
 に関する授業が行われていた。
  リースは、日本の「史学的地理学」の必要性を説き、
 その影響を受けた国史科の卒業生や在学生らが中心とな
 って、1899年(明治32年)に、日本歴史地理研究会(後
 に、日本歴史地理学会と改称)を設立した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:大きな理念を達成するために・・
.
1941年12月8日、日本は、大きな理念達成・成就へ向かって
 立ち上がった。
  世には、『白人絶対思想』『白人絶対思考』があった。
  キリスト教の「有色人種の蔑視の教義」によって、有
 色人種は虐(しいた)げられていた。
  日本だけに関してでも、「排日移民法(1924年)」に
 悩まされ、侮辱を受けていた。
  有色人種は、世界各地で、白人たちに蹂躙(じゅうり
 ん、暴力・強権などをもって他を侵害すること)され続
 けて来ていた。
  キリスト教に洗脳された白人たちは、世界中で有色人
 種を差別し、虐(しいた)げ、殺戮し続けて来た。
  世界中のあちこちで、何千万人規模で、白人によって、
 ジェノサイド(集団殺戮)され、虐殺され、そして、そ
 の行為をされ続けて来た。
  20世紀に至るまで、それは語るに尽きないキリスト教
 に洗脳され、マインド・コントロールされた白人たちに
 よって、有色人種の悲劇は続いていた。
  その『白人絶対の時代』は・・、
  有色人種の誰かが立ち上がって・・、
  その有色人種の誰かの「実力」で、打ち破らない限り・・
 終わらない事態となっていた。
  白人と有色人種の差別のない正義を目ざし・・、
  「人種は平等なのだという、当たり前であるが・・崇
 高なる理念の主張」を・・、
  有色人種の誰かが・・
  「実力」でもって主張し、
  打破しなければならなかった。
  その様な状況の「白人絶対の世界」だった。
  20世紀に至って、その崇高な行為が・・行われた。
  日本は、その以前から国際会議で、「人種は平等であ
 るべきだ」「人種平等を目指すべきだ」と主張して来た。
  (日本は、「人種的差別撤廃法案」を、1919年のパリ
 講和会議で、ぜひ成立させたいと提出していた)
  そして、国際会議で、日本の「各人種は、平等である
 べきだ」の主張は、多数の意見となった。
  しかし、決定される方向にあった日本のその「人種の
 平等の主張」は、会議の議長国・アメリカによって成立
 を止められた、阻止された。
  アメリカは、この時、「多数決では駄目だ」と言って、
 成立を阻止した。
  議長国・アメリカの「議長特権」で、成立を阻(はば)
 まれた。
  この人道的な、当たり前の主張を、成立をさせなかっ
 た。
  アメリカは、「全員一致という条件」を持ち出した。
  このアメリカの主張は、「私・アメリカが、反対だか
 ら全員一致とならない、だから、廃案です、ダメです」
 と言っている様だった。
  これも、大東亜戦争(第二次世界大戦)が起きる要因・
 遠因の一つとなった。
  日本は、遠い昔から、平等の意識を当たり前の様に持
 ち、また、常に、平等を尊んで来た。
  (平等院があるごとく、平等は、古くからの日本の理
 念なのだ)、
  そして、日本は、この理念の元に、已む無くこの不正
 義に対し、行動を起こして行く。
  この様にして、20世紀に、人類にとっての最大な事件
 は起きた。
  1941年12月8日の事だった。
  白人サイドから、白人側から、開眼して、事態が打開
 されるという可能性は、『まったく・・なかった』。
  キリスト教に頑(かたく)なにマインド・コントロー
 ルされ、洗脳された『宗教的理念となって』、『信仰的
 正義となって』、白人絶対・有色人種蔑視となって・・
 その日本の理念は・・阻(はば)まれていた。
  天から、時には駆けつける阿修羅のごとき憤怒でもっ
 て諭(さと)さねば、事態は打破できない所まで至って
 いた。
  改善された次なる事態が開かれない状況となっていた。
  また、人種差別の旧態が打破できない事態だった。
  「白人種が最優秀」という観念が、長い年月に連綿と
 続き、こびりついた「思い込み」は・・、
  我が身を顧みない行動によってのみ打破され、開かれ、
  その行動が無ければ・・諭され得ない状況となってい
 た。
  白人のかたくなな思い込みと、醜悪さの中にあった。
  「白い肌に生まれた人間でなければ・・成し得ない」
 という迷妄(めいもう、道理が分からず、事実でないこ
 とを事実だと思い込むこと)なる迷信に疎(うと・む、
 嫌って遠ざける、うとんずる)まれた社会だった。
  「優秀なる人種=白人」の思いの疑念に、まったく疑
 義(ぎぎ、意味・内容がはっきりしない点)すら持たな
 い迷妄なる状況だった。
  アメリカには・・、
  「白人女性が、有色人種と結婚するのは進化の法則に
 反する犯罪だ」・・という論文があり、また、考え方が
 あり、信じられているというアメリカ社会だった。
..
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2016年10月27日木曜日

(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)443E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、論・文学・本:つづき
・「国民の友」発行(2月)
  民友社(徳富蘇峰の設立)が発行した機関誌で、1899
 年(明治32年)8月の第 372号で廃刊した・・、
  「新日本之青年(1887年) 」で一躍評論家の雄となった
 蘇峰が、主筆となって始めた雑誌で、進歩的な社会評論
 誌。
  標榜(ひょうぼう)するところは、「人民全体ノ幸福ト
 利益」を主張すると言う・・平民主義。
  (この後、日清戦争の後に、蘇峰が、国家主義に転換
 して衰退した、「国民新聞」に併合されて廃刊)
  総合雑誌の先駆となった。
  中江兆民・田口卯吉・島田三郎・内村鑑三・坪内逍遥・
 北村透谷らが・・、
  また、二葉亭四迷、山田美妙(びみょう)、森鴎外、山
 路愛山らの文学者も寄稿し、
  政治・経済・社会・文学の各分野で、多彩な論調を展
 開、社会主義の紹介にも努めた。
  初め、月刊であったが、月2回、3回、週刊となり、時
 の藩閥政府の干渉政策に対抗し、自由と平等の実現を期
 する『急進的平民主義』の立場をとった。
・「支那地誌」 刊行
  著者:参謀本部管西局 編 
  1887年から参謀本部によって刊行された『支那地誌』
 『満洲地誌』『蒙古地誌』には、いずれも「物産」の項
 目が含まれていた。
  初歩的な成果を収めたと評価された。
・ 「婦女鑑」(編:西村茂樹)
  「婦女鑑」(明治20年)は、明治天皇陛下の皇后陛下
 の内意を受け、
  宮内省文学御用掛であった西村茂樹によって編纂され
 た。
  そして、天皇陛下の内意を受けて元田永孚が中心とな
 り編纂した『幼学綱要』(1882年)の補遺として作成さ
 れた。
  作成の目的は、華族女学校の教科書に充てるためだっ
 たが、
  実際に、皇后陛下が行啓して、生徒に下賜された。
  この様な、特筆すべき成立事情が有する。
  全6巻、120の例話で126人の掲載は、当時としては他
 書を量的に圧倒した。
.
1887年、歌・流行・世相:
・鹿鳴館仮装舞踏会
  (氷川清話):鹿鳴館時代
  (氷川清話):明治20年には鹿鳴館時代が開始。また、
 保安条例公布による正論家たちの皇城3里外への追放。
  西欧に、形の上でも追い着き、条約改正をしたかった。
  その様な経過の中で生まれた鹿鳴館の舞踏会も、1887
 年4月20日の仮装舞踏会「ファンシー・ボール(fancy
 ball)」に至った。
  この舞踏会は、実際は、鹿鳴館ではなく、総理官邸で
 行われたもので、しかも、外交とは直接関係のない催し
 だった。
  伊藤博文総理・梅子夫人の主催ということで開かれた
 この舞踏会は、
  実際には、時のイギリス公使夫妻が主催したもので、
 伊藤は、好意で官邸を会場に貸し出したにすぎなかった。
  しかし、当時の常識ある人たちは、行き過ぎた催しと
 指摘し、
  外務大丞をつとめたこともある勝海舟でさえ、これを
 契機に憂国の感を深め、建白書にしたためて政府に意見
 したぐらいだった。
  西洋に媚びる面もあるこの「欧化主義」の臭いのする
 催し、
  鹿鳴館の洋装・洋服も行き着いてしまった末の仮装の
 感があった。・・そして・・
・この年に、女性(婦人)に「吾妻(東)コート」「肩掛
 け(ショール)」が流行した。
  吾妻(東)コートと肩掛け(ショール)のセットのフ
 ァッションだった。
  吾妻(東・あずま)コートは、着物の上に羽織るコー
 トで、ショールカラー(へちま襟)や道行襟(スクウェ
 アーネック)の四分の三丈コートのことで、和装用コー
 トの走り。
  東京から流行し始めたので「東」コートと命名された。
・「国益」という文字が流行した。
  マッチの製造にも、牛肉店にも、この2字がつくぐら
 いだった。
・流行歌:「ノルマントン号沈没の唄」
  一番:岸打つ波の音高く、夜中の嵐に夢さめて
     青海原をながめつつ、わが兄弟は何処ぞと
     木々の影はゆらゆらと、
  二番:呼べど叫べど声はなく、たずねさがせど影はなし
     うわさに聞けば過る月、二十五人の兄弟は
  三番:旅路を急ぐ一筋に、外国船とは知りつつも
     航海術に名も高き、イギリス船ときくからに
  四番:ついうかうかと乗せられて、波路もとおき遠州の
     七十五里もはや過ぎて、今は紀伊なる熊野浦
・日本製の絹ハンカチが、外国で評判になる。
・食の流行:西洋料理
  1876年(明治9年)東京の上野に、日本人のための本格
 的な西洋料理店ができたが、
  明治期は、西洋料理は高級なものであり、フランス料
 理が中心であった。
  当時の厨房は、現在とは比較にならないくらい原始的
 な設備で調理を行っていた。
  そのため、その調理技術は極めて特殊で、熟練が求め
 られた。
  それもあって、職人は、非常に重宝され、腕の良いコ
 ックは、破格の高給の処遇を受けていた。
  この年・1887年(明治20年)の『時事新報』には、西
 洋料理のコックについて、
  「甲が十五円を与うれば、乙は二十円を与えんと言い
 出し、雇い主の間に競争を生じたり」という記事が載っ
 たほどだった。
  この獲得競争の結果、富士屋ホテルの記録によると、
 明治30年頃の給与台帳では、支配人の月給が二十五円で
 あったのに対し、料理長の月給は五十四円五十銭もあっ
 た(支配人の倍以上)。
・生活面の流行:自転車
  この年、アメリカのオバーマン・ホイール・カンパニ
 ーが、前輪にスプリング・フオーク(サスペンション装
 置)を取り付けたビクター号を開発した。
  この翌年・1888年、東京浅草の向山嘉代三郎が、帝国
 自転車製造所を開業した。
  1887年4月、大型の二輪車(自転車)が流行の記録も
 ある。
  また、次の記録もある・・、
  1887年1月13日、1月13日快晴 午後2時散歩の際、徳川
 将軍、及び、公子が、自転車を召されて市中御散歩を相
 見たり(松本亀次郎日記より) 
  1887年2月18日、静岡大務新聞、自転車脱税の取締り。
  1887年3月8日、静岡県令第30号、自今道路ニ於テ夜中
 自転車ノ使用ヲ禁止ス。
  1887年4月29日、めさまし、水曲社の水上自転車 
  1887年5月5日、毎日新聞、曲乗りの水上自転車 浅草公
 園の旧勧工場跡にて興行中なる水曲社の水上自転車は、
 大小二輪車に乗り水面を行く事あたかも平地を走るに異
 ならず、随分珍しきよしにて種々の曲乗りをなすと言う。 
  1887年5月14日、毎日新聞、三輪車は卒業、二輪車の客
 が多い。
・娯楽面の流行:娘義太夫
  大阪では、豊竹呂昇が人気で、
  東京では、1887年には、大阪から上京した竹本綾之助
 が空前の人気となり、
  芸能での人気を歌舞伎と二分するほどになった。
  また、別史料には・・、
  娘義太夫.、明治20年代から40年代にかけ、浄瑠璃の一
 派「義太夫」を若い女性が演じて、東京を中心に大流行
 が起こった・・とある。
  また、別史料には・・、
  絵は、洗耳筆「寄席(娘義太夫)」『東京風俗志下の
 巻』94頁で・・、
  2階席はないものの、電燈が附いている。
  また、書生さんらしき姿は見えないので、本郷や神田
 あたりの寄席ではないと思われる・・とある。
  屋根には、真打の芸名を記した軒行灯を掲げ、木戸口
 の横には一座の芸人名や演芸を連ねて記した大行灯を掲
 げる。
  木戸口を入ると、札場、下足預り場がある。
  芝居小屋に見られるような花道、桝席はない。
  女義太夫で賑わい、メッカの一つだった若竹亭・・と
 ある。
・娯楽の流行:花合わせ、トランプ
  大阪で流行の記述あり、
  また、東京日日新聞の、1887年11月16日に・・、
  拙者、西洋カルタ(トランプ)引取のため横浜商館に
 到り、談話の際、洋人の曰く、日本の花骨牌は盛に流行
 して販路広大なるに反して、
  我西洋カルタは、東京を除くの外、甚尠なし、
  欧米各国の如きは、孰の国を不問、「トランプ」の流
 行、殊に盛に、文明国としてトランプの流行せざる事な
 きはトランプをもつて文明の遊具といふに依ても明なり
 といふ
  尚、高位貴顕の方にもトランプのため、交はりを結ぶ
 等の益あり
  今日、東洋の開明国と称せらるゝ日本にして、此の流
 行なかる可からずと、
  本年本国より取寄たるトランプの着荷は、土蔵の床板
 も下る計りの噸数に及びたり、
  然るに、これを引取る商人なく、幸ひ貴家に於ては、
 日本花骨牌の販売広く、且つ、西洋骨牌も亦狭からずと
 〓けば何とか拡張を謀る方法なきやと、
  我答曰、トランプ流行せざるにあらず、未だ、使用法
 の委しからざると、価の高価なるがため、随て販路狭き
 のみ、
  若し、これを拡張せんとなれば、着荷を従来の半額に
 て、五万個を限り売捌く憤発ありたし、
  上方屋も亦、是に憤発を加へ、トランプ使用法を無代
 価で添るとせば、自然販路を拡張するの道に適せんと、
  洋人、大に賛成なし、愚意に随ひ来る
  十一月十五日より、三十日迄を限り、左の拡張安売仕
 候、元より西洋人の拡張心より安売仕候事に付、同業者
 と雖も左の直段より更に引なし
  又日限後は、通常直段に引直し候ことは無論、
  地方の御注文は、是亦拡張のため、今般限り郵券代用
 不苦安売代価の外に、一個に付逓送税八銭、御添の程願
 上候
.
  (今日の言葉)
.
  題:フィリピンのこと(その1~その3)・・、
    その1:独立を目指して・・、
.
1896年8月23日、フィリピン革命戦争
  「プカット・ラウインの雄叫び」で、フィリピン革命
 戦争が始まった。
.
1896年のフィリピン革命
  モロ戦争の歴史。
  1896年のフィリピン革命は、ミンダナオのムスリムに
 対して、民族的な情熱を沸き立たせる契機となった。
  スペイン支配下には、どうしても拭う事の出来なかっ
 た「キリスト教徒対ムスリム」の対立が、一時であった
 が解消した。
  キリスト教徒とムスリムの混成部隊が、スペインと戦
 うこともあった。
  スペイン支配のシンボルであったフォート・ピラーが、
 これによって陥落した。
  アルバレス将軍が、革命政府のサンボアンガ知事に任
 命された。
  しかし、1899年に、アメリカ軍が、フィリピンにやっ
 て来ると、キリスト教徒とムスリムは、再び、対立に変
 えられた。
  アメリカ軍は、ジョン・べーツ将軍をホロ島のスルタ
 ン・キムラ2世と会談させ、
  1899年8月、アメリカの主権を認めるべーツ協定が成立
 した。
  だが、ムスリムは、これを拒否した。
  ムスリムの民族独立戦争は、今度は、アメリカに対し
 て続いた。
  アメリカは、無慈悲に強力な武器で弾圧した。
  特に、初めの10年間は、特に卑劣だった。
  アメリカは、殺傷力の強いダムダム弾や、強力な最新
 兵器を使って殺戮した。
  また、ムスリムの反抗に、神経質に、即時、徹底的に
 武力で弾圧し、鎮圧した。
  また、最悪な事に、1906年には、徴税に反対したブド・
 ダホの女性の方々や、子供たちの600人を、アメリカ軍は
 虐殺した。
  アメリカ軍は800人で行った。
  しかし、情報管制され詳細が不明で、闇の中に、葬り
 去ろうとした。
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:評論家:伊藤貫氏が対談で話す・・
    その2:アメリカのした事・・フィリピンの場合・・
.
1898年、アメリカが、フィリピンを軍事占領した。
  下記は、伊藤貫氏(国際政治・米金融アナリスト、政
 治思想家、評論家)の対談での言葉である。
  下記のURLを御覧ください。
  https://www.youtube.com/watch?v=Kla8vz0fx-U&index=3&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  ・・略・・
  (中国がアメリカの言う通りのことをしたら、アメリ
 カは)皆、拍手したわけね、
  だけど、すごく滑稽なのは、その前の年にね、
  その(中国が)門戸開放宣言をやった前の年にね、
  アメリカは、米西戦争をやっているわけ、
  米西戦争をやって、スペインからキューバとフィリピン
 をもぎ取ったわけよ、
  米西戦争をやる時、アメリカは、フィリピン人に独立さ
 せると約束しておきながら・・、
  一旦、フィリピンを取ったら、独立させるという約束
 を、あっという間に裏切って・・、
  (フィリピン人の)独立派を、20万人か、30万人を殺し
 ている訳ですよ、
  1898年に、フィリピンを軍事占領して、
  独立を願うフィリピン人を、20万人~30万人殺してね、
  要するに、1899年もね、殺している最中な訳です、
  フィリピンを自分たちの植民地にしようと思って、フィ
 リピン人をいっぱい殺している最中に・・、
  日本人とか、ロシア人とか、ヨーロッパ人とかには、
 (理想的な)ジョン・ヘイの三原則とか、領土保全とか
 言っているわけですよ、
  これって、おかしいでしょう?
  フィリピンで、めちゃめちゃな事をやっておきながら、
  アメリカ人って、そういう人たちで・・、
  要するに、フィリピンでめちゃくちゃやってても、他
 の国に対して、ものすごく立派な事を、『我こそ理想主
 義者』という態度でお説教をするわけね ・・略・・、
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んだ・・、
 その3:しかし、マッカーサーだけは違ったと・・
   そして、それは、アメリカ人としては「珍しい」と
  フィリピンの方々は言った。
   そのくらい、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑んでいた。
.
1930年9月、アメリカ人は、フィリピンの方々を蔑(さげ
 す)んだ。
  それは、アメリカ人は、最初からフィリピン人を軽蔑
 し、「無知と怠惰の抜け殻」と蔑(さげす)み発言する
 のが常だった。
  だが、1930年9月に、ダグラス・マッカーサーが、フィ
 リピンを去る時、「アメリカ人、フィリピン人双方が、
 互いの欲望、希望、そして、熱望に対して、同情的理解
 を共有する事が必要だ」と語った。
  フィリピンの方々は、ダクラスは、フィリピンを理解
 する珍しいアメリカ高級軍人だと感じた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
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2016年10月25日火曜日

(増補版)442E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)442E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、報道:
・この頃から、新聞広告が活発になった。
  また、この頃までの新聞広告の料金は安かった。
  広告もごく少なく、1行8分銭で、社会的な意義が認識
 されていなかった。
・ナショナル・リーダーの海賊版を各社が出した。
  アメリカの出版社より抗議があり、役所は関係者を集
 め版権を話し「この出版社名を削除しろ」と命じた(郵
 便報知新聞)
  (注):ナショナルリーダーは、明治期に最も広く用
    いられたとされる5巻からなる舶来英語教科書。
     1883年~1884年、米国Barnes社から出版された。
     もとは、米国の小学校用教科書。
     日本では、数多くの翻刻版や、独案内(独習書)
    が出版された。
・政府の官報はわかりにくく、地方官も困るし、反対論も
 出やすい。
  そこで説明欄を作って、補足の文をつける(朝野新聞)
.
1887年、論・文学・本:
・チャンブレン「日本小文典」刊(4月)
  西洋人の本格的な日本語研究は、ロドリゲスから始ま
 り、チェンバレンで完成した形になるとされている。
・二葉亭四迷「浮雲」第一編刊(7月)
  主人公の文三とその従姉妹のお勢、友人の本田の3人の
 姿を中心に描かれている。
  しくじった訳でもないのに退職した文三。最初、文三
 に気があったお勢も次第に本田の方へ心が動く。要領の
 よい本田、何もできない文三・・、
  言文一致の文体(ダ体)で書かれた日本の近代小説の
 始まりを告げた作品で、四迷の代表作。長編小説。
・中江兆民「平民のめさまし」刊(8月)
・中江兆民 「三粋人経綸問答」
  3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪
 傑君、南海先生が酒席で議論する物語。
  一度酔えば即ち政治を論じ哲学を論じて止まるところ
 を知らぬ南海先生のもとに、ある日、洋学紳士、豪傑君
 という二人の客が訪れた。
  次第に酔を発した三人は、談論風発、大いに天下の趨
 勢を論じる。
  民権運動の現実に鍛え抜かれた強靱な思想の所産であ
 り、日本における民主主義の可能性を追求した。
・井上円了 「妖怪玄談」 刊行
  一滴の水も一片の雲もみな妖怪。
  天狗、幽霊、コックリさんから、宇宙旅行!?の話まで、
 東洋大学創立者にして元祖妖怪博士の気宇壮大な思想が
 展開される。
・末廣鐡腸 「花間鷺」
  末廣鐡腸(すえひろてっちょう、1849年~1896年)は、
 政治家・新聞記者・小説家。伊予の人。本名:重恭(し
 げやす)。政治活動のかたわら「二十三年未来記」「雪
 中梅」「花間鶯(かかんおう)」などの政治小説を発表
 した。
・徳富蘇峰 「新日本之青年」
  徳富蘇峰の「新日本之青年」(明治二十年)は、同
 時代の若者の間に多くの反響を呼んだ。
  「青年」という新しい存在様式の形成やその散布に大
 きな力となった。
  二葉亭四迷は、近代精神について、また、その広がり
 について、この文章から私たちは、自分が言えなかった
 ことを蘇峰が変わって述べてくれたことへの感謝以上の
 ものを読み取ることが出来た・・とある。
・山田美妙(やまだびみょう)「武蔵野」
 ああ今の東京、昔の武蔵野。
  今は錐も立てられぬほどの賑わしさ、昔は関も立てら
 れぬほどの広さ。
  今仲の町で遊客に睨みつけられる烏も昔は海辺四五町
 の漁師町でわずかに活計(くらし)を立てていた。
  今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、
 極の素寒貧(すかんぴん)であッた。
  実に今は住む百万の蒼生草(あおひとぐさ)、実に昔
 は生えていた億万の生草(なまくさ)。
  北は荒川から南は玉川まで、嘘もない一面の青舞台で、
 草の楽屋に虫の下方(したかた)、尾花の招引(まねぎ)
 につれられて寄り来る客は狐か、鹿か、または兎か、野
 馬ばかり。
  このようなところにも世の乱れとてぜひもなく、この
 ころ軍があッたと見え、そこここには腐れた、見るも情
 ない死骸が数多く散ッているが、戦国の常習(ならい)、
 それを葬ッてやる和尚もなく、ただところどころにばか
 り、退陣の時にでも積まれたかと見える死骸の塚が出来
 ていて、それにはわずかに草や土やまたは敝(やぶ)れ
 て血だらけになッている陣幕などが掛かッている。
  そのほかはすべて雨ざらしで鳥や獣に食われるのだろ
 う、手や足がちぎれていたり、また記標(しるし)に取
 られたか、首さえもないのが多い。
  本当にこれらの人々にもなつかしい親もあろう、可愛
 らしい妻子もあろう、親しい交わりの友もあろう、身を
 任せた主君もあろう、それであッてこのありさま、刃の
 串(くし)につんざかれ、矢玉の雨に砕かれて異域の鬼
 となッてしまッた口惜くちおしさはどれほどだろうか。
  死んでも誰にも祭られず……故郷では影膳(かげぜん)
 をすえて待ッている人もあろうに……
  「ふる郷に今宵ばかりの命とも知らでや人のわれをま
 つらむ」……
  露の底の松虫もろとも空しく怨みに咽(むせ)んでい
 る。
  それならそれが生きていた内は栄華をしていたか。
  なかなかそうばかりでもない世が戦国だものを。
  武士は例外だが。ただの百姓や商人(あきゅうど)な
 ど鋤鍬や帳面のほかはあまり手に取ッたこともないもの
 が「サア軍だ」と駆り集められては親兄弟には涙の水杯
 で暇乞(いとまご)い。
  「しかたがない。これ、忰(せがれ)。死人の首でも
 取ッてごまかして功名しろ」と腰に弓を張る親父が水鼻
 を垂らして軍略を皆伝すれば、
  「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げる
 がいいよ」と兜の緒を緊(し)めてくれる母親が涙を噛
 み交ぜて忠告する。
  ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まる
 ほどに眤(した)しい顔をば「さようならば」の一言で
 聞き捨て、見捨て、さて陣鉦(じんがね)や太鼓に急(
 せ)き立てられて修羅の街(ちまた)へ出かければ、山
 奥の青苔が褥(しとね)となッたり、河岸の小砂利が襖
 (ふすま)となッたり、その内に……敵が……そら、太
 鼓が……右左に大将の下知が……そこで命がなくなッて、
 跡は野原でこのありさまだ。
  死ぬ時にはさぞもがいたろう、さぞ死ぬまいと歯をく
 いしばッたろう。
  血は流れて草の色を変えている。
  魂もまた身体から居どころを変えている。
  切り裂かれた疵口(きずぐち)からは怨めしそうに臓
 腑(ぞうふ)が這(は)い出して、その上には敵の余類
 か、金(こがね)づくり、薄金(うすがね)の鎧をつけ
 た蝿(はえ)将軍が陣取ッている。
  はや乾いた眼の玉の池の中には蛆(うじ)大将が勢揃(
 せいぞろ)え。
  勢いよく吹くのは野分(のわき)の横風……変則の匂(
 にお)い嚢(ぶくろ)……血腥(ちなまぐさ)い。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ロビイスト
.
21世紀、アメリカのシカゴの事だが、21世紀に入って以来、
 シカゴは、秘密結社的な政治グループによって動かされ
 ていると言われているという。
  だから、大統領に関わる所でも、「オバマ大統領の知
 らない所で閣僚が決められているのではないか?」と言
 われた。
  そして、「オバマが、ワシントンでまずやるのは、ロ
 ビイスト(このような裏の仕事をする)を追放する事だ」
 と言われた。
  ビル・クリントン政権末期に、クリントン大統領の友
 人たちが汚職事件で有罪になる話もある。
  ロビイストは、ロビイストが関連する政治的な利権に
 巣食っている。
  キリスト教に偏するNHKも、膨大な予算、豊富な予
 算を持っているが、
  その予算から、一般の会社の何倍もの給料を支払って
 いる優遇さがあるが、
  また、不必要と言われるくらいの役員を抱えているが、
  この役員が、日本の国会へ押しかけ、「ロビイスト活
 動」をやっているという報道がある。
  当然、NHKに有利になる活動をしている。
  ちなみに、中国は、盛んに、当然にと言ってもいいほ
 どアメリカにロビイストを送っている。
  そして、ヒラリー・クリントンは、「中国寄り」と言
 われている。
  気になるのは、ヒラリー・クリントンは、「日本嫌い」
 と言われることだ。
  日本の作り上げられた話の『慰安婦問題』の時、日本
 を『セックス・スレイブ(性奴隷)』と蔑んだ。
  まったく事実ではない話を作り上げて、口にした。
  事実の話と言えば、アメリカ自体に、アフリカの方々
 を奴隷として虐(しいた)げて、
  このアフリカの女性の方々を、セックス・スレイブと
 して来た卑劣なアメリカだったことについては一言も言
 わない。
  謝罪もしない。
  第二次世界大戦の時には、フランスのパリ市長が、泣
 き付いたほど、フランスの女性の方々の人権を無視した
 行為をしたアメリカ、
  この件も一言も謝罪してない。
  また、沖縄に来れば来たで、沖縄の女性の方々を、
  そして、日本本土に来れば来たで、
  そして、朝鮮戦争のときは、朝鮮で、朝鮮の韓国の女
 性の方々から訴えられ、
  ベトナム戦争のときは、またまた、ベトナム女性方を、
  アメリカは、自分の足元を見よ!
.
  そして、続きの(今日の言葉)
.
  題:中国や韓国を相手にするときは・・一喜一憂しないこと・・、
.
1904年2月8日、日露戦争がこの日に起きたが、中国も、こ
 の戦争に加わっていた。
  日・露中戦争なのだ。
  共産圏の国家が、いかに完璧に「秘密を保つことが出
 来る」かは驚くばかり・・、
  それであるからして、共産圏の外交が、特務工作によ
 って、民主主義国における世論操作を、いかに巧みに展
 開できるかに感嘆すべき凄さ・・、
  中国の政治と外交は、帰結する所は、宣伝謀略工作で
 あると言える。
  今(2016年)も盛んに、シカゴの新聞社を手に入れた
 りして活動している。
  静かに分析すれば、共産主義諸国がする、表(おもて)
 の発言や「報道」と、裏の真意・実態が大きくかけ離れ
 ている事は、日常茶飯事・・、
  場合によっては、180度違う事もよくある・・、
  昨日は土砂降りでも、臆面もなく、次の日は「カラッ
 と晴れる」・・、
  また、当然、その逆もある(韓国もこれ)
  一喜一憂したり、振り回されたりしない事・・、
  中国は、特に、古来から「政治とは謀略の営み」と見
 てきた面があり・・、
  「それに長けている」のが優れているという見方であ
 る。
  中国の歴史の大きな転換点に、この特務工作、情報活
 動、謀略が、常に、決定的役割を果たしてきた。
  日本は、ある意味、誠実であった、あり過ぎた。
  これが、日本の特質であり、国際的に信頼を得る所で
 もあるが、しかし、見方を変えれば未熟であった。
  情報収拾や諜報と言われる範囲まで、そして、工作と
 言われるところまでも習熟して行くべき。
  (日本はスパイ天国とも言われている。スパイが、う
 ようよ、あちこちに居るという)
  憲法も誠実に守り過ぎた、関係するところは変えて行
 くべき・・、
  「平和は本当に、いいなあ」と、戦争を体験なされた
 方々が、嘆息なされておられるが、
  北朝鮮も、生き延びるため、また、生き残るため、「
 核とミサイル」を持った今、
  日本も、生き延びる方策を真剣に問う必要がある。
  日露戦争に参戦していた中国だったのだ。
  秘密条約によって、中国は参戦していた。
  教科書には書かれていない史実だ。
  しかし、この様な歴史の事実を条件を入れて、現実を
 処さなければならない・・のだ。
  (参考)日露戦争:日本の陸軍部隊は韓国領内を北上
 し、5月に、鴨緑江を渡った。
  最初の戦闘で、ロシア軍を敗退させ、
  また、南山の戦でも激戦の末に優位を占めた。
  6月に、満州軍総司令部が編成され、総司令官に大山巌、
 総参謀長に児玉源太郎を任命し、
  その下に、第1軍から第4軍が統轄されることになった。
  8月末~9月初めの遼陽の戦は、日露両軍が、総力を結
 集した戦闘となり、
  双方ともに、2万名以上の損害を出すという激戦となり、
 ここでも、ロシア軍は後退したが、日本軍の被った打撃
 も深刻なものがあった。
  日露戦争は、1904年(明治37年)2月8日~1905年(明
 治38年)9月5日)大日本帝国とロシア帝国(秘密裏に中
 国も参戦)との間で、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南
 部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。
  両国は、アメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、
 1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和し
 た。
  ロシアの南下政策の下で、日本の安全保障が脅かされ、
 日露の戦端が開かれたのだった。
  ロシアの狙いは、満州の租借権と、関東州の租借権が
 欲しかった。
  また、鉄道施設権などの利権も欲しかった。
  そして、満州にロシア軍を駐留させたかった。
  そして、その利権を朝鮮半島まで拡大したかった。
  この勢いで、まだ弱小とみられていた日本へ圧力をか
 けていた。
  アジア各国、世界も日本が勝つとは思っていなかった。
  この時まで、アメリカは日本寄りにいた。
  因みに、この時、世界の観戦武官が来ていた。
  その国々は、アメリカ、イギリス、ドイツ、オースト
 リア、イタリア、スペイン、スイス、スエーデン、ノル
 ウェー、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国
 の13カ国、70人以上の武官。
  この結果だろう、アメリカの日本を見る目が変わった
 のは・・、?、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年10月24日月曜日

(増補版)441E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)441E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、食:
・日本・札幌・大阪の三ビール会社設立
  1869年(明治2年)、ロシアが南下して来て、日本領土
 を脅かしていたころ、
  この年に、北海道に設置された開拓使は、殖産興業に
 燃える新政府の成長株として大いに期待され、
  外国人技師の招へいが行われ、
  そして、「開拓使麦酒醸造所」を含む、30種以上の官
 営工場が開設された。
  輸入品の「舶来ビール」や、横浜の外国人技師が作る
 「居留地ビール」が発信源となって、ビールは、次第に、
 認知度が高まっていた頃だった。
  ビールは、新しい時代を象徴する飲み物であった。
  国内消費や、輸出にも有望なマーケットが期待されて
 いた。
  北海道は適地だった。
  ホップが自生する地で、ビール大麦の栽培にも適し、
 だから、原料の自給自足が可能で、低温で発酵させるた
 めの氷が入手しやすかった。
  また、気候風土が、ビールづくりに適していた。
  政府の勧農・殖産興業政策に合致するビール醸造事業
 が導入された。
  開拓使麦酒醸造所によるビールづくりは、1876年(明
 治9年)に醸造所の建設から始まり、
  1877年(明治10)年)夏には、日本人として初めて本場
 ドイツで修業した醸造技師・中川清兵衛によって仕込ま
 れた第1号商品冷製「札幌ビール」が、
  サッポロビールのトレードマークである「五稜星」★
 が描かれた開拓使旗 (北辰旗) を立てた船艦によって東
 京へと運ばれた。
  そして、開拓使ビールの発売からほぼ10年後、
  多くの困難を乗り越えた先駆者たちの努力によって、
 国産ビールの総生産量は、ついに、舶来ビールの輸入量
 を上回った。
  また、サッポロビールの先駆者たちも、ビール醸造に
 適した大麦の栽培に苦心し、
  品種改良や、栽培方法などの研究を積み重ねて行った。
  なかでも、荒野を開墾し、畑を耕した屯田兵とともに
 取り組んだ原料づくりは、彼らの功績とともに、今日の
 サッポロビール社の「協働契約栽培」のルーツとして輝
 いている。
  その後、開拓使麦酒醸造所は、渋沢栄一らが経営に参
 画し、民間会社の「札幌麦酒会社」として新たなスター
 トを切った。
  1887年(明治20年)前後になると、ビール事業の将来
 性に期待する資本家などが、大小様々なビール会社を設
 立した。
  サッポロビールの前身である「日本麦酒醸造会社」も
 また、中小の資本家によって現在の東京・銀座に設立さ
 れた。
  しかし、大掛かりな設備を要するビール事業には、十
 分な資本が不可欠で、
  日本麦酒醸造も、翌年・1888年、三井物産会社の資本
 参加による増資によって、ようやく醸造所の建設と製造
 にこぎつけることができた。
  1890年(明治23年)に、第1号となる「恵比寿ビール」
 を発売した。
  国産とは言うものの、原料も、設備も、技術者も、本
 場ドイツからそのまま移転させて製品化したような「恵
 比寿ビール」は、まさに、本格的なドイツビールで販売
 直後から評判を呼んだ。
  1893年(明治26年)に、日本麦酒醸造は、「日本麦酒
 株式会社」に社名を変更した。
  翌年・1894年(明治27年)に勃発した日清戦争を契機
 に、ビールの消費量が急激に増大すると、
  日本麦酒は、積極経営に転じて、増資を行い、設備の
 更新と拡張で増産体制を確立した。
  この積極策が実を結び、当時、偽ビールが出回るほど
 になっていた「恵比寿ビール」の人気と相まって、日本
 麦酒は、日本一の製造量を誇るビール会社に成長した。
  急増した製品輸送の便を図るため、1901年(明治34年)
 に、貨物専用の「恵比寿停車場」が設置されると、
  付近の都市化と、人口の増加が急速に進み、やがて、
 旅客も扱う駅となり、
  1928年(昭和3年)には、付近の地名は「恵比寿」とな
 った。
  こうした成長の陰で、手腕をふるったのが、当時の経
 営トップだった馬越恭平だった。
  のちに「東洋のビール王」と呼ばれる馬越は、イベン
 トや広告、口コミによる宣伝など、プロモーションを含
 めた販売戦略の才能にも長けた。
  1899年(明治32年)には、「恵比寿ビールBeer Hall」
 を開業させた。
  この日本初のビヤホールは、新しい物好きの東京人に
 受けて、たちまち大繁盛店となった。
  この間にも、日本麦酒は、設備の新鋭化と先端技術の
 吸収、幹部技術者の育成などに注力して、「恵比寿ビー
 ル」の品質向上に努め、
  1900年(明治33年)には、パリ万博で金賞を、4年後の
 セントルイス万博ではグランプリを受賞するなど、様々
 な金字塔を立て、日本を代表するビール会社となった。
  (サッポロビール、ホームページを参考にした)
.
1887年、住:
・横浜水道が竣工した(9月)
  横浜市の水道は、わが国最初の近代水道として、
  1887年(明治20年)10月17日に、給水が開始された。
  戸数わずか87戸ほどの一寒村であった横浜の人口は、
 日増しに増加し、市街は急激に発展した。
  当時、住民は、水を求めて井戸を掘っていたが、横浜
 は、海を埋め立てて拡張してきたので、良質な水に恵ま
 れず、
  ほとんどの井戸水は、塩分を含み、飲み水には適しな
 かった。
  このため、神奈川県知事は、英国人技師H.S.パーマー
 を顧問として、相模川の上流に水源を求め、
  1885年(明治18年)近代水道の建設に着手し、
  1887年(明治20年)9月に完成した。
  (横浜市水道局、ホームページを参考にした)
・東京電燈会社が開業し、市中に点灯した。
  1883年(明治16年)富国強兵の国策には電力が欠かせ
 ないという大局的判断のもとに、
  矢島作郎らの発起人は、国からの会社設立許可を受け
 るべく請願書を提出し、この年、認可された。
  しかし、日本の電源開発と言っても、当初の内容は、
 開発というにはほど遠いものであった。
  1886年に至り、企業活動を開始し、
  1887年に、東京電灯会社は、最初の発電を行ったが、
 それは、30馬力のボイラーと、25kWの直流発電機で発電
 し、
  210Vの電圧で、1~2kmほどの範囲に送電するものであ
 った。
  1880年代末から1890年代末にかけて、電灯会社が、全
 国主要都市に設立されたが、
  それらは、電灯需要に応じた都市における小規模火力、
 市内送配電という共通の内容をもっていた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1991年のこと・・、
   自分のことは、「自分で責任をとれよ」と教えている人類の歴史
.
1991年9月16日、アメリカ上院が、フィリピンの米軍基地
 撤廃を決議した。
  そして、1992年末までに、撤退を完了した。
  この撤退は、戦略的な判断ではなく、アメリカとフィ
 リピンの政治的な事情・問題が反映した決断だった。
  フィリピンは、アメリカに英語化されたが、その問題
 も絡んでいた。
  (フィリピンは、英語を含む、異なる二つの言語を話
 さねばならないという国の事態になっていた・・言語の
 分裂化・・最初は、英語だけを強制されるという『非人
 道的状況』に置かされた・・アメリカ人にとっては都合
 が良かっただろう、そうさせれば・・)
  また、アメリカは、フィリピンを防衛するという『大
 義はどうでもよかった』、
  その大義から判断するという事から離れ、金銭的に判
 断するという態度になっていた。
  結局は、アメリカの在比して防衛するという大義意識
 が崩れ去っていた。
  フィリピンの意見・判断は別にして、そっちのけにし
 て、アメリカだけで、この判断はなされた。
  戦略的判断や、同盟の絆などという話は無かった。
  アメリカだけの都合によって、事態が変わった。
  フィリピン側から言わせれば、アメリカだけの都合に
 よって、フィリピンの防衛態勢が変えられた・・という
 事になった。
.
1991年、ソ連の連邦政府の権限縮小(共和国の権限拡大)
  政策に不満を持つ側近のクーデター失敗事件が起こり、
 ソ連共産党の解散、
  ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)への移行がなされ、
 1922年に誕生したソ連の歴史が終わった。
.
1991年12月、「一超多強」・・ソ連が崩壊し、冷戦が集結
 した・・「アメリカ、一強」の時代の到来。
  1991年12月、ソビエト連邦共産党が、解散した。
  それによって、各連邦の構成共和国の主権国家として
 の独立が消えた、また、
  1991年12月25日に、ソ連大統領のミハイル・ゴルバチ
 ョフが辞任し、ソ連は解体された。
  そして、アメリカが、受動的に一強となった、2-1で
 ある。
  一超大国:アメリカが、この時に出現した。
  しかし、その時は、そのことは、もう、「ひと昔まえ
 に起きたこと」と言った方が適切な今(2016年)となっ
 ている、
  その時から、25年という年月が流れている、経過して
 いる。
  そして、21世紀へ、この先は、長期的に、確実に、多
 極化へ向かって進んで行っている。
  その多極の国々は、そのグループは、確実に力を付け、
 アメリカとの差を縮め、地球のあちこちで、その次なる
 グループが形成され、力を付けて来ている。
  多極化は、確実に進んでいる。
  過去の中心にあった米欧の結束は崩れ、米欧の離反が
 進んでいる。
  ロシアは、プーチン政権の「新ツァーリズム」が進ん
 でいる。
  (参考)ツァーリズム:ツァーリによるモスクワ・ロ
     シア、および、ロシア帝国の絶対君主制体制の
     ことをさす。
  (参考)ツァーリ:ツァーリ、あるいは、ツァールは、
     ブルガリア・ロシアなどスラヴ語圏で使用され
     た君主の称号。
  中国は、経済発展にあり、「アジアの覇権」を目ざし、
 アメリカへの対抗を意識した長期戦略の実行をしている。
  アメリカは、この確実な流れの中で、「グローバルな
 協調の進展」を声高に叫んでいる。
  また、「国際社会の統合」と叫んでいる。
  そして、アメリカは、その統合された社会の頂点に、
 当然の様に、立ちたいという態度で来た。
  勿論、自分の(アメリカの)お好みの社会システムで
 統合され、その頂点に立つ、それが、正義なのだという
 統合である。
  これは、遠い過去から、キリスト教組織がやって来た
 事で、その形を変えてやっている事に過ぎない。
  キリスト教は、そのキリスト教の『最高会議』におい
 ても・・、
  その判断は、統合において、統合に反する異は、「異
 端だ」として・・抹殺を『是』として来た。
  統合の為には、その統合を阻害する『異』は消し去る
 という考え方・教義であった。
  中国の動静において、2016年の現在から見ると、
  南シナ海の中国のサンゴ礁を埋め立て、そして、軍事
 基地化し、
  そして、国際法違反の判決が出ても、その判決に従お
 うともしない。
  逆に、相手のフィリピンは、中国の人民元の金と投資
 が欲しいと、中国参りをし、そして、握手をしている。
  中国は、自国の金・人民元をばらまいて自国の主張を
 押し通そうとしている。
  日本の沖縄県尖閣島を含む東シナ海も、同じ状況とな
 っている。
  今でも、中国は、軍艦を使って日本の沖縄県の一角を
 奪おうと、日本の統治実態はないと言おうとの行動を行
 なっている。
  南シナ海のサンゴ礁の様に、中国の更なる行動が起こ
 される事態にある。
  この様な行動によって、中国の巨額な軍事費の投資の
 見返りを得ようとしている。
  中国は、アメリカに「太平洋を半分づつにしよう」と
 言ったが、それは、日本という国を飛び越えて、世界戦
 略へと進んでいる。
  当面、日本は、日米同盟路線は重要だが、台湾が中国
 の手に落ちるか?否か?
  台湾の方々の民族自決に委(ユダ〉ね、その決定を、
 世界が、尊重する事になるか?否か?
  中国は台湾をのみ込み、そして次に、国境となる沖縄
 県尖閣をのみ込み、沖縄をのみ込み、
  そして、遠い昔から「日出づる国」として、日本が中
 国に従属しなかった国、その日本を、従属させたかった
 様に、『日本を従属させ』、太平洋を半分づつにしたい
 としている。
  その後は、アメリカの西部開拓が、太平洋にぶち当た
 っても止まらなかった様に、「中国だって止まらない』
 と。
  アメリカだって止まらず、中国の行動を咎(とが)め
 られない様に、中国は、よりアメリカと近接するところ
 までその歩みは止まらない。
  アメリカだった止まらず、やって来たではないか・・
 と、中国は言いたげである。
  そして、中国の国内の利権のおいしい汁を吸ったでは
 ないか・・と、言いたげである。
  この様な行動をする輩の国が跋扈(ばっこ)する世界
 である。
  北朝鮮が、核兵器を持った理由がここにあった。
  自分の利のみを追求する大国、この様な輩が跋扈する
 大国の間にあって・・「核を持った」。
  逆に、この様な輩の跋扈する大国の中で「核を持たな
 い国、勇気あるその様な国になれなかった」とも言える。
  ある意味、「弱い国」と言える・・が・・、
  死にたくなかったのだ。
  「弱い民族は滅んで来た」が、人類の歴史なのだ。
  自分の事は、「自分で責任をとれよ」と教えている人
 類の歴史・・なのだ。
  (参考)跋扈:ばっこ、《「後漢書」崔駰伝から。「
    跋」は越える意、「扈」は竹やな》魚がかごを越
    えて跳ねること。転じて、ほしいままに振る舞う
    こと。また、のさばり、はびこること。
..
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