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2015年3月7日土曜日

(増補版)35B:気になった事柄を集めた年表(1189年~1193年)

 題:(増補版)35B:気になった事柄を集めた年表(1189年~1193年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1190年2月、安田義定を下総守に選任(転任、降格)す。
  六条殿造営公事(おおやけごと、朝廷の政務・儀式・
 行事など)の怠慢のため降格された。
  しかし、翌年、従五位上に昇格した。
1190年3月、伊沢家景を、陸奥留守職とす。
  奥州総奉行:この年、奥州の御家人統率や幕府への訴
 訟取次の目的で設置された。
  奥州総奉行の設置時に、1189年9月22日の説があるが
 疑問(この時は、頼朝が奥州の合戦中)?
  奥州における合戦の戦後処理のために置いた臨時の職
 で、守護相当の職制と考えられるが不明。
  御家人統制は葛西清重が、訴訟関係は伊沢家景が司ど
 った。
  伊沢家景の役目を「陸奥留守職」と言った。
  陸奥・出羽には、守護が置かれなかったため設置され
 たものだが、その職掌に関しては不詳。
  室町幕府はこれを廃して、奥州探題を設置している。
  これによって、頼朝は、「奥州羽州地下管領」という
 べき権益が与えられ、律令制度下の国衙機構を動かすと
 いう行政権をになう根拠を得た。
  伊沢家景は、「鎌倉殿」の意のままに、陸奥国衙を統
 制し、国務全般を取り仕切る権限を持ったと言える。
  日本は穏便に事を運ぶ国だ、平氏を倒したからと革命
 的に鎌倉幕府の設立へ至ったのではない。朝廷と調和し
 ながら時代が経て行った。
1190年3月、西行が没した(1118年~1190年)、僧であ
 り、また、歌人でもあった。
  伊勢神宮を参拝したときに詠んだとされる「何事の 
 おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼ
 るる」がある。
1190年10月、頼朝が、上洛のため鎌倉を進発す。
  畠山重忠が、先陣にと頼朝に命じられたとか、53番が
 小野寺太郎道綱だの記録があり、また、後陣の輩は未だ
 鎌倉を出ずなどの記録がある。
  長い大軍列で上洛して行ったと考えられる。
1190年11月7日、源頼朝が、精兵を引き連れて、午後に、
 入洛す。この日、雨降るが、午後の一時、晴れ、その後、
 風烈しとある。
1190年11月9日、後白河法皇に謁す、次いで参内。
  権大納言(ごんだいなごん)・右近衛大将(うこんえ
 のだいしょう)となる。
  頼朝は、朝廷から歓迎を受け、また、公卿および市民
 の頼朝への期待が高まった。
  ただ、頼朝が、征夷大将軍の宣下を望んだが、後白河
 法皇より拒否されたという。
  権大納言:定員外の大納言。右近衛大将:令外の官(
 りょうげのかん)。右近衛府の長官。
1190年12月、頼朝が、後白河法皇より任じられた両職を
 辞任した。
1190年12月14日、頼朝が、帰東のため京都を発し、29日
 に、鎌倉に帰着した。
  頼朝は、京都に居る間に職を辞任していた。
1190年頃、絵画:12世紀末~13世紀初めに神護寺が所蔵
 する三福の肖像画がある(神護寺三像・国宝)。
  平重盛像・源頼朝像・藤原光能像(藤原隆信筆)
1191年1月、公文所を政所と改める(政所に吸収されたか
 ?)(1185年説もある)。
1191年4月、佐々木定重ら延暦寺と対立。
  年貢の未納を口実にして乱入し、殺戮行為をした。
  延暦寺の衆徒は強訴した。佐々木定重は対馬へ流罪(
 死罪の説もあり)となった。
1191年5月、頼朝が、延暦寺の求めにより重定を梟首す。
1192年、栄西が帰国し、51歳の時、臨済宗を広めた。
1192年、建築:浄土寺浄土堂(兵庫)
1192年3月13日、後白河法皇が崩御した(1127年~1192年)
1192年7月12日、鎌倉幕府が開かれた。
  源頼朝は、後白河法皇の崩御によって征夷大将軍に任
 ぜられ、鎌倉に幕府を開いた。
  保元・平治の乱より幕府開設までの30余年は、戦乱の
 歴史であったが、ここに収まりに至った。
  第一代将軍・源頼朝(1192・7・12~1199・1・13)
1192年8月、政子が、源実朝を生む(1192年~1219年)
1193年5月、曽我祐成と時致兄弟が、富士裾野の巻狩(5
 月)で父の仇敵工藤祐経を討ち取った(曽我兄弟の仇討)
1193年8月、範頼が、頼朝から謀反を疑われ、鎌倉から伊
 豆に配流され、伊豆修善寺に幽され、殺された。
1193年、北方十字軍(バルト十字軍)。
  北ヨーロッパ、および、バルト海沿岸の異教徒に対し
 て行われたキリスト教徒の遠征軍。
  キリスト教の最高責任者のローマ教皇が、1193年に、
 呼びかけて始まった。
  それ以前からも行われていた。
  それで、1154年には、スウェーデンがキリスト教に
 なっている。
  また、バルト海沿岸に移住していたスラヴ人との武力
 衝突は、この十字軍以前から何世紀ものあいだ、常態的
 に戦われていた。
  北方十字軍による『武力による布教』は、不定期的に
 16世紀まで行われた。
  十字軍の暴力による布教は、春になると到来し、秋に
 なると本国へ帰っていくという季節的な行動だった。
  行動は、キリスト教の布教という宗教の布教活動とは
 程遠い、酷(むご)い殺戮と収奪の行動だった。
  愛の宗教というにはほど遠い行動だった。
  殺戮という、血と共に進軍する殺人の布教集団だった。
  布教行為ではなく、砦を築いたらうまく行ったの集団
 で、『滅ぼした』の言葉を喜ぶ集団、「征服に貪欲」の
 集団だった。
  常に十字軍はこの様な状況で、ローマ教皇は、『死の
 執行者』となっていて、話し合いもできないという、劣
 悪な行動だった。
  1240年に、ロシアのプスコフを征服の例の様な征服
 が、似合う野蛮な集団だった(赤ん坊を火の中に投げ込
 むという残虐行為など)、キリスト教は血の宗教となっ
 ていた。
..
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2015年3月6日金曜日

(増補版)34B:気になった事柄を集めた年表(1186年~1189年)

 題:(増補版)34B:気になった事柄を集めた年表(1186年~1189年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1186年3月6日、源義経の行方について静御前の尋問をした。
1186年3月27日、この頃まで、北条時政は、頼朝の代官と
 して京都に居た。
  頼朝の代官としての役目は、洛中警備。
  六波羅を拠点として、都落ちした義経の郎党の探索と
 捕縛を行った。
1186年3月、北条時政が、七か国地頭職を上奏す。
1186年3月、頼朝が、関東分国内の年貢運上を誓約、京都
 に申し送った。
  頼朝の考え方:義父・時政に入洛してもらい、洛中警
 護をし、また、近国も統括した。
  そして、朝廷への地頭設置の申し入れもした。
  国地頭には兵糧米の徴収がみとめらていたが、この時、
 西国は飢饉であった。
  百姓の方たちは苦しみ、紛争も多発していた。
  頼朝は、近国37国の国地頭の廃止に踏み込み、兵糧米
 の徴収を廃止した。
  ただし、平氏系の所領には、地頭を置くことを朝廷に
 申し入れていた。
  従来の国地頭に対し、この地頭を荘郷地頭と言った。
  後になって、地頭という名称に統一されていった。
1186年4月8日、釈迦が生まれたこの花祭りの日に、義経
 の側室・静御前(しずかごぜん)が、頼朝の命によって、
 鶴岡八幡宮で舞・うたの奉納をした。
  頼朝は、その舞を見た。
1186年4月30日、この日の日付で、天下の政道のことにつ
 いて公卿に書を送った。
  頼朝は、議奏公卿に期待していた。
  文面には、「天下の政道は群卿の議奏によって澄清(
 ちょうせい、すんできよらかなこと。濁りのないこと)
 せらるべき・・・」云々とあった。
1186年5月、源行家(河内源氏)が殺された。
  地元民が密告したことにより見つかり、北条時定の兵
 によって捕らえられ、長男・次男とともに斬首された。
1186年6月、謀反人跡といえども院宣あらば地頭を停止す
 べきことを言上す。
  平家没官領や謀反人の領地にも地頭がいた。
  そして、年貢の納付を義務付けていた。
  その様な領地について院宣があれば停止するとした。
  院宣は上皇からの命を院司が出す文書。
1186年9月、地頭の領家側所務を犯すことを禁ず。
  近国37国において、国衙(こくが、国司が政務を行っ
 た役所)の行政に介入することが禁止された。
1186年10月、地頭の非法を停止すべき院宣下され、頼朝、
 それにつき請文を捧ぐ。
  平氏の討伐と言って地頭が置かれたが、その地頭へ勲
 功を与えると称して、不法な事や乱暴が行われる事があ
 った。
1186年12月、天野遠景(あまのとおかげ、武将)が、鎮西
 九国奉行人となる。
  天野遠景の家は、平家の家人であったが、天野家の郷
 が、頼朝が幽閉されていた子供の頃の蛭ヶ小島に近かっ
 たため、源頼朝と狩りや相撲などで交流し、親交を深め
 ていた。遠景は、頼朝挙兵の当初から付き従った。
  平氏追討の大功の12人の内の一人として、頼朝から感
 状を受けている。
  九州における、鎌倉幕府の勢力確立を目的に創設され
 た九州惣追捕使に補任され、
  律令時代の鎮西統治機関の大宰府の機構に関与して、
 実権ある地位に就いた。
  ただ、鎮西での地元の協力は得られなかったようだ。
1187年2月、頼朝の奏請(そうせい、天子に奏上して裁可
 を求めること)により記録所を置いた。
  記録所とは、この年、頼朝の要請によって、訴訟処理
 を主な目的として朝廷に設置された役所。
1187年2月、源頼朝と義経の反目により、義経が、奥州の
 藤原氏に身を寄せた。
  「吾妻鏡」によると、1187年2月10日に、義経は、藤
 原秀衡を頼って奥州へ赴いたとある。また、正妻と子ら
 を伴って身を寄せたとある。
1187年8月、千葉常胤・下河辺行平が入京す。
  安房国に上陸した頼朝は、1180年8月に、房総に勢力
 を持つ千葉常胤に加勢を要請していた。
  この様にして味方となった千葉常胤らを、頼朝は、群
 盗を鎮圧してもらいたいとの院宣があったので、京都へ
 派遣している。
1187年10月、藤原秀衡、死す。子の泰衡(やすひら)が
 家督を相続した。
  秀衡は、国衡と泰衡の兄弟が仲よく協力して行くよう
 にと説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心なきよ
 うと、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。
  義経を主君として給仕し、三人の結束をもって、頼朝
 の攻撃に備えよと遺言したという。
  秀衡の正室という人は、藤原基成の娘で、この正室を
 娶らせる事によって国衡の立場を強化し、且つ、秀衡の
 後家としての強い立場も持つことになり、兄弟間の衝突
 を回避したいとされている。
  しかし、逆に言えば、父が、これほど心配するほど兄
 弟間の関係は険悪だったと言える。
1188年2月、義経が、奥州藤原氏の本拠地・平泉に潜伏し
 ていることが発覚した。
1188年2月、頼朝が、朝廷に宣旨を下すよう奏上し、そし
 て、義経と基成の追討の宣旨が下された。
  頼朝は、「亡母の供養の五重塔を造営し、殺生はしな
 い」との理由から、年内の軍事行動やしないと表明し、
 義経追討の宣旨を下すよう朝廷に奏上していた。
1188年3月、地頭の非法につき、院が、再び、頼朝に停止
 を要求する。
1188年10月、義経と基成の追討宣旨が、また、発せられた。
1189年1月、源頼朝が、正二位となった。
  頼朝の妹の婿である一条範保が、正二位に叙せられま
 したとの知らせを持って来たとのこと。
1189年1月、義経が京都に戻るとの意思があると書いた手
 紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている
 気配があった。
1189年3月、泰衡が、義経追捕の請文を鎌倉に送る。
  請文(うけぶみ):身分の上の者の仰せに対して承諾
 した事を書いた文書。
  奥州の藤原泰衡が、義経を追捕するようにと命ぜられ
 ていたと言える。
1189年4月、源義経が死す。(衣川の戦い)
  藤原泰衡が衣川で源義経を殺した(1159年~1189年)
  衣川の館は、岩手県西磐井郡平泉町にあった館。
  ここで義経は自刃した。
1189年6月、泰衡は、義経の首を鎌倉へ送り、
  頼朝への恭順の意を示していたが、
  頼朝にとって、泰衡の奥州藤原氏の存在が、
  この背後を脅かす存在の排除が、重要であった。
  また、義経を匿(かくま)う反逆行為があった。
  頼朝は、奥州出兵の準備を進めた。
1189年7月、泰衡追討の宣旨発行をまたず出兵した。
  頼朝は、大庭景義の「泰衡は、家人(家来・けらいの
 意)であり、誅罰に勅許は不要である」の進言を受けて、
 宣旨なしで出兵したとされている。
1189年8月、7月25日に宇都宮社で戦勝祈願し、
  7月29日に白河関を通過。頼朝が、梶原景季に「能因
 法師の故事を思い出さないか」と問うと、
  景季は、「秋風に 草木の露を露を払わせて 君が越
 ゆれば 関守も無し」と詠んだという。
  戦いながら、8月22日に平泉に入る。
  既に、平泉には火が放たれ放棄された後だった。
  8月26日に、頼朝へ泰衡の赦免を求める書状が届いたが
 ・・泰衡は奥地へ逃亡、北海道への渡航も企てたが、9月
 3日が地元の郎従に殺害された。奥州藤原氏が滅んだ。
  各地から参集した軍があって、頼朝軍の総数は、28万
 4000騎になったという。
1189年9月、源頼朝が自ら奥州に発向し、藤原泰衡(やす
 ひら、1155年~1189年)の一族を滅ぼした。奥州を平定
 した。
1189年10月、頼朝が鎌倉に帰った。
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2015年3月5日木曜日

(増補版)33B:気になった事柄を集めた年表(1185年~1186年)

 題:(増補版)33B:気になった事柄を集めた年表(1185年~1186年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1185年9月、源頼朝が、吉田経房を中納言に推挙す。
  吉田経房(つねふさ、公卿)が、頼朝の友人の一人と
 して突然浮上する。
  特別、反平氏の活動をしたという訳でもない。
  ただ一説に、経房が兄・信方とともに2代にわたって
 伊豆の守であり、伊豆国の在庁官人であった頼朝の義父・
 北条時政と昵懇(じっこん、親しく打ち解けて付き合う
 さま)であったのではという。
  平家物語には、頼朝が、経房を「うるわしい人(心あ
 たたまり、うつくしい)」と評したと記されている。
  頼朝の許しを得て、1190年頃に、平維盛(平清盛の嫡
 孫・正室系の孫)の未亡人を妻にしたという。
1185年9月、平時忠が、能登に配流された。
  平時忠は、平清盛の継室(けいしつ、後妻)である平
 時子の同母弟。
  「平家に非ずんば、人にあらず」は、この人の言葉。
  この人は、いらない発言をする癖のある人の様だ。
  愚管抄に、1161年頃に、「ゆゆしき過言」によって二
 条天皇から解官されたとある。
  また、能登配流は、二条天皇を呪詛したとして解官さ
 れた者と共に、陰謀に関わったとされた。
1185年10月17日、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん、
 武将・僧、頼朝に臣従し、御家人として治承の乱などに
 参加する)が義経を襲った。土佐坊ら60余騎で京の義経
 の館を襲った(堀川夜討)。
  義経たちも応戦し、襲撃側が敗北したという。
  義経は、昌俊を捕らえて聞き出すと、頼朝の命である
 ことを知った。これで、対立が決定的となる。
  そして、頼朝打倒の旗を揚げる事となる。
  因みに、頼朝が、義経を誅する御家人たちを召集する
 が、名乗り出る者がいない中に、昌俊が進んで引き受け
 たという。
1185年10月18日、義経に『源頼朝追討』の宣旨が下った。
  義経は、この日に、院宣を受けたけれども、頼朝が父・
 義朝の供養の法要を24日に営み、そして、家臣を集めた
 こともあって、義経のところに集まる勢力は少なかった。
  そして、さらに、後に、法皇が、今度は義経追討の院
 宣を出したことから、義経は一層の窮地に陥った。
  源頼朝は、29日に、兵を率いて上洛せんと、京へ向か
 うと、義経は、西国で体制を立て直そうと、九州へ行く
 事と図った。
  因みに、院宣(いんぜん)は、上皇からの命令を受け
 た院司が出す文書。
1185年11月1日、この日、頼朝が軍を率いて駿河国の黄瀬
 川に達した。
  源義経らは、11月3日に、九州の緒方氏を頼って、300
 騎を率いて京都を落ちた。
  途中、摂津源氏の多田氏らの襲撃を受けている。義経
 は撃退している(河尻の戦い)。
  一行は、摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)あたりから、
 船団を組んで九州へ向かおうとしたが、途中、暴風のた
 めに難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻された。
  義経らは、吉野の山や、京都周辺に潜伏したりするが、
 義経の郎党たちは次々発見され、殺害された。
1185年11月11日、『源義経・行家追討』の院宣が発せら
 れた。義経と行家を捕らえよとの院宣が、諸国に下され
 た(25日?)。
  これは、頼朝が、院や貴族が義経を逃していると疑っ
 ていて、「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」
 と恫喝したためとある。
1185年11月24日、北条時政が入京した。
  頼朝の命を受けた時政(頼朝の妻の父、義父)は、
 1000騎の兵を率いて入京し、頼朝の憤怒を院に告げて
 交渉に入った。
  そして、29日に、文治の勅許を認めさせていく。
1185年11月29日、文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)。
  北条時政の奏請に基づき、朝廷より源頼朝に対し与え
 られた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した勅
 許。
  源頼朝は、「源義経と組んで頼朝追討の宣旨」を出し
 た朝廷に対し、義経らの追求を名目として、守護・地頭
 の設置を要求し、「日本国総追捕使(そうついぶし)」
 (総守護)の承認を得た。
  これによって源氏の政権の基礎が固められた。
  守護地頭設置の勅許が出て、幕府が、朝廷より日本66
 国総守護職・総地頭を命ぜられる。
  源頼朝は、御家人を任命して守護・地頭を全国に置い
 た。
  源義経追捕を名として公許された守護・地頭の設置に
 よって公的制度と化し、武家政治の性格を規定するもの
 となった。
  守護:任務は貞永式目に記されている・「諸国守護の
 任務の事。右大将頼朝殿のとき定められたのは、大番催
 促・謀反・殺害人(のち夜盗・強盗・山賊の追討が加わ
 る)のことである。しかるに近年は、守護は代官を郡や
 郷に配し、荘園に課役を加え、国司でもないのに国務の
 遂行を妨げ、地頭でもないのに土地管理に手を伸ばして
 いる。甚だけしからん。早く頼朝の時代の大番催促・謀
 反・殺害人の取締り以外は守護の管轄外とすべきである
 と後の文書が残されている。また、
  地頭:中世荘園の管理にあたった荘官。この年、頼朝
 によって諸国の公領・荘園に設置され、、御家人の在地
 の領主層が任命された。その権限は土地によって異なる
 が、年貢徴集・警察・裁判・土地管理が含まれた。しば
 しば年貢の横領をしたことは、貞永式目に記されている。
 「諸国の地頭年貢のこと。地頭が年貢の横領をするのゆ
 えであるが、領主の訴えがあれば、清算をして幕府の裁
 定を受けよ。もし横領分の清算を渋る様ならば、地頭職
 は取り上げる」とある。
  だんだん、地頭による年貢抑留(よくりゅう、おさえ
 とどめること)がみられるようになり、領主との間に紛
 争が絶えなかった。
  この解決として現れたのが地頭請(じとううけ)であ
 った。
  これは、年の豊凶に関係なく、地頭が一定額の年貢を
 請負い、その代償として荘園の管理を一任されるものだ
 った。
1185年11月29日、京都守護:京都の治安維持、朝廷と幕
 府の交渉の目的で設置された。承久の変後に六波羅探題
 となる。
1185年12月6日、議奏公卿を指名上奏し、藤原兼実を内覧
 に推挙した。また、義経派公卿の解官を要求した。
  議奏(ぎそう)とは、太政官からの建議を天皇に奏上
 すること。また、内覧(ないらん)は、太政官から天皇
 の奏上する文書を、摂政・関白または宣旨を受けた大臣
 が前もって読んで処置すること。
1186年1月、高野山荘園の兵糧米・地頭を停止す。
  高野山の僧の申し入れによって、北条時政が、「兵糧
 米と地頭の設置を止めよ」と命令した。
1186年2月、諸国荘園の兵糧米未進分を免除す。
  これまで、苦しい荘園などで、免除の申し入れがあっ
 たが、後白河法皇の裁断によって、全国の荘園において
 一律に、兵糧米の未納分は免除して、農民を安心させよ
 うと決まったという。
  源平の争いもなくなったので、その兵糧米の運ぶ必要
 も無くなったので、免除を懇願され、この決定となった。
  そして、北条時政殿に伝える様にとも言われた。
  そしてまた、全国に「免除されました」と言って歩き
 なさいとも言われた。
1186年3月、頼朝の推挙により兼実が、摂政・氏長者とな
 る。
  九条兼実(くじょうかねざね、公卿、摂政・関白藤原
 忠道の六男、反平氏・反木曽義仲系でもあった)。
  頼朝の院の力が増す事への牽制策でもあった。
  兼実は、「夢の如し、幻の如し」と驚愕したという・
 ・と、同時に、関東の頼朝と密通しているのではないか
 という嫌疑をかけられることを恐れ、そして、怯えたと
 いう。
  後白河院も、頼朝の推挙があったからと、すぐ宣下し
 た訳ではなかった。
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2015年3月3日火曜日

(増補版)32B:気になった事柄を集めた年表(1183年~1185年)

 題:(増補版)32B:気になった事柄を集めた年表(1183年~1185年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1183年10月、後白河院は宣旨を下し、源頼朝を本位に復し、
 赦免し、京への軍勢の進発を求めた。
  また、この時の宣旨によって、源頼朝が東国における
 強大な公権力の行使の権限を朝廷から認められ、東国の
 政権としての鎌倉幕府の成立の重要な指標となった。
1183年10月、水島の戦い。
  源義仲が、水島で平軍に敗ける。
  この時、平氏軍の拠点は讃岐の屋島にあった。
  平氏を追討するため、1183年9月に、源義仲軍は都を
 出発して屋島方面へ進軍していった。
  四国へ渡海する前に、水島付近で平氏軍に敗れた。
1183年11月19日、法住寺合戦。
  源義仲が、後白河法皇の院御所・法住寺殿を襲撃し、
 後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉した。
1183年11月28日、源義仲が、法皇近臣40余人を解官した。
1183年12月、源頼朝が、義仲追討のため、範頼・義経に
 軍を率いて西上させた。
1184年1月15日、木曽義仲が征夷大将軍になった。
  鎌倉の頼朝軍が、墨俣を越えて美濃国に入ったという
 噂を聞き、義仲は恐れ慄いた。
  15日には、自らを、征夷大将軍に任命させた。
1184年1月20日、源(木曽)義仲が、6万余りの軍勢に対
 し、わずか2000足らずの軍勢で応戦するも、宇治での
 「勢田の橋の合戦」に敗れ、栗津に敗死した(1154年~
 1184年)。
  乳母子(めのとご)として義仲と共に育った今井兼平
 も死んだ。
1184年、1月29日、源範頼・義経の軍が、平氏追討へ向か
 う。
1184年2月、この月、源頼朝が、梶原景時・土肥実平をし
 て播磨・美作・備前・備中・備後の国務を掌握さす。
1184年2月、源頼朝が、院に朝務条々を奏上する。
  朝廷の政務の事について、頼朝が考えていることを箇
 条書きにして送り渡した。
1184年2月7日、一の谷の合戦。
  摂津国・福原および須磨で行われた。
  範頼軍が5万6000余騎、義経軍が1万騎で京都を出発し
 ている。
  2月6日に、福原で、清盛の法要を営んでいた平氏一門
 へ、後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平
 は交戦しないよう命じた。
  平氏一門は、これを信用してしまい、警戒を緩めたこ
 とが勝敗を決した・・との説がある。
  ただ、現代の研究者の意見はまちまちである。
1184年3月、源頼朝が、大内惟義を伊賀の「守護」とした。
1184年4月、源頼朝が、義仲の子・義高を殺した。
1184年6月、源頼朝が、一条忠頼を殺した。
1184年8月、源義経左衛門少尉が、後白河法皇より左衛門
 少尉、検非違使に任じられた。
  これは、鎌倉の許可なく、朝廷から任官を受けたこと
 になり、頼朝の怒りを買った。
1184年10月、源頼朝が、公文所(くもんじょ、政務一般、
 1191年政所と改称)、初代別当・大江広元(のち北条氏
 世襲)。問注所(訴訟・裁判を扱う、初代執事・三善康
 信)を設置し、いち早く行政機構の整備をはかった。
  この機構は、将軍独裁であるが、重要事項は合議制。
  武家による行政機構の整備。
1185年、後鳥羽天皇(在位、1185年~1198年)
1185年1月、源範頼の軍が、長門方面(山口県)で苦戦す
 る。
  水軍の戦力を持たず、また、兵糧が得られなかった。
  豊後国の豪族・緒方惟栄の味方などを得て、ようやく
 兵糧と兵船を調達した(虚構との見解もある)
1185年2月19日、屋島合戦。
  讃岐国屋島(現高松市)で行われた。やしまのたたかい。
1185年3月、源頼朝が、従二位になった。
1185年3月24日、壇ノ浦(山口県下関市)の海戦が起きた。
  安徳天皇が入水した(8歳)。
  戦いの状況から死を決意した二位尼が、幼い安徳天皇
 を抱き寄せ、宝剣を腰にさし、神璽を抱えた。
  安徳天皇が「どこへ行くのか」と仰ぎ見れば、二位尼
 は「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がござい
 ます」と答えて、安徳天皇とともに海に身を投じた。
  続いて、建礼門院ら平氏一門の女たちも後を追って海
 に身を投じた。
  武将たちも覚悟を定め入水した。
  平氏の剛のある者は戦い、義経を道連れにせんと欲し、
  義経の船を見つけ、これに乗り移った。
  義経は「八艘飛び」で逃げ去った。
  平家が滅んだ。
  また、この時、先陣になることを望んだ梶原景時と義
 経が衝突している。
  事の起こりは、景時が、義経の前に出て「今日の先陣
 は景時が賜りたい」と言ったことが始まり。
  景時と義経が喧嘩腰となるまで行き、
  義経が、刀に手を掛ける時もあったほどという。
  また、義経の配下の弁慶たちが、景時を討ち取ろうと
 したほどでもあったともいう。
  「猪や、鹿のことは知らぬが、いくさは、ただ正面か
 ら攻めて、それで勝ってこそ、心地よい」という言葉も
 飛び交ったという。
  景時は、後に、頼朝に換言したことが、義経を死に至
 らしめたとも言われている。
1185年5月、源義経が、平宗盛らを率いて鎌倉へ向かう。
  義経が、腰越状を捧ぐ。
  源義経が頼朝に愁訴した(腰越状、こしごえじょう)。
  源義経が、平宗盛父子を俘虜として腰越まで伴って来
 たのに、頼朝の怒りが解けず、鎌倉に入る出来なかった。
  義経が鎌倉の腰越に留まっていた時、心情を綴り無実
 を訴えた(腰越状)。宛先は大江広元。
1185年6月、源頼朝が、義経の所領を奪う。
  平宗盛・重衡らは斬られる。
1185年8月、源行家が、叛す。
  源行家(みなもとのゆきいえ)は以仁王の挙兵に伴い、
 諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き、平家打倒の決起
 を促した人。
  この月、8月に、頼朝が行家討伐を計ると、行家は壇ノ
 浦の戦いの後に頼朝と不和となっていた義経と結び、10
 月に反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣
 を受け、「四国地頭」に補任される。
  しかし、行家らに賛同する武士たちは少なく、頼朝が
 鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、11月3
 日に、行家・義経一行は都を落ちた。
  翌年(1186年)5月に、源行家は斬首された。
..
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2015年3月2日月曜日

(増補版)31B:気になった事柄を集めた年表(1180年~1183年)

 題:(増補版)31B:気になった事柄を集めた年表(1180年~1183年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1180年8月20日、源頼朝は、住み慣れた蛭ガ小島を離れて
 相模へ向かった。
  妻の政子を伊豆山の走湯権現に託した。
  因みに、走湯権現(はしりゆごんげん)は、院政期、
 上皇はじめ公家貴族の参詣で脚光をあびていた。
  応神天皇の時代に、日金山頂上に現れた円鏡を松葉仙
 人が奉祀(ほうし、神仏・祖霊などをまつること)した
 のが始まり。
1180年8月22日、源頼朝のところに三浦義澄(よしずみ)
 以下その同族武士が到着して、兵力は、ようやく、300
 ばかりとなった。
  だが、すでにこの時、平氏側は、相模・武蔵・伊豆の
 武士3000を集めて、頼朝を石橋山に包囲していた。
  包囲軍は、大庭景親・渋谷重国ら相模の名のある武士
 たちが多くが加わり、武蔵の熊谷直実(くまがいなおざ
 ね)もいた。
1180年8月23日、石橋山の戦い。
  包囲軍は、三浦武士団の救援を恐れていたが、23日、
 風雨をついて攻撃を開始した。
  兵力に桁違いの差異があったため、勝敗は、初めから
 明らかであった。
  頼朝方は、なすことなくして完敗し、軍勢は四散した。
  北条時政らは、箱根を抜けて甲斐に落ち、甲斐源氏の
 援助を求めようとしたが、それにも失敗し、三浦義澄は
 本領に逃れた。
  源頼朝は、退路を失って、山中の洞窟に潜むところを
 囚われそうになったが、敵将・梶原景時の思惑により、
 九死に一生を得て、28日に、真名鶴(まなづる)崎から
 安房に逃れた。
  三浦一族も、本城・衣笠城を畠山重忠・河越重頼・江
 戸重長ら、相模・武蔵の武士たちに包囲され、ついに、
 老齢の義明は城を守って戦死し、子・義澄以下が、から
 くも脱出して、これまた安房に逃れた。
  上総介広常(かずさのすけひろつね)が、三浦氏と結
 んでいたので、房総の地ばかりが、わずかに再挙(さい
 きょ、再び起こす事)を期待し得る落ち先となった。
1180年9月、木曽(源)義仲が、信濃に挙兵した。
1180年9月、源頼朝が、上総から下総に進む。
1180年10月、源頼朝が、武蔵に入る。
  畠山重忠・河越忠頼・江戸重長らが来属する。
1180年10月6日、源頼朝が、鎌倉に入った。政子も鎌倉に
 来る。
1180年10月16日、源頼朝が、平維盛の率いる平氏の軍を
 迎撃のため、鎌倉を進発した。
1180年10月18日、甲斐源氏の軍が、源頼朝軍に合流した。
1180年10月20日、富士川の合戦で、平氏が敗走した。
  石橋山の戦いで敗れた源頼朝は、安房国で再挙し、進
 軍しながら東国武士がこれに参集して、大軍に膨れ上が
 り、鎌倉に入った。
1180年10月21日、源義経が、参着した。
1180年10月27日、源頼朝が、常陸佐竹氏の征伐に向かう。
  かつては源氏の系列であったが、佐竹隆義の上洛中に
 源頼朝が挙兵したが、佐竹氏は平治の乱以後、平氏に従
 っていて、源氏であるのに、頼朝に呼応しなかった。
1180年11月5日、源頼朝が、常陸佐竹氏を壊滅した。
1180年11月17日、源頼朝が、鎌倉に帰還した。
1180年11月17日、源頼朝は、武士化した地方官人による
 行政の府である侍所(さむらいどころ)を関東鎌倉に設
 置した。
  はじめは、頼朝警護の宿直所、のち御家人統制・軍事・
 警察を扱う。初代別当・和田義盛。
1180年11月26日、福原遷都失敗。旧都(京都)に復した。
1180年12月、平氏が、近江の源氏を破った。
1180年12月29日、平清盛は絶望的な孤立の内に、清盛の
 命を受けた平重衡が、南都東大寺・興福寺を焼き打ちす
 るという暴挙に出ざるを得なかった。
1180年、尊厳王と呼ばれたフランスのフィリップ2世が、
 王位につく(~1223年)。
  日本は、古い歴史を持つ国民で、古代から日本人であ
 ったが、ヨーロッパにはこの古代がない。
  ヨーロッパ大陸に、4世紀から始まったゲルマン民族の
 侵入。
  この民族との混住が始まり、そして、結婚と混血が始
 まる。
  年を経て、その混血度合いの違いと、その混血した人々
 の新しい民族意識が出来上がって行って、ドイツ・フラ
 ンス・イタリアといったおおよその原型ができ始めた。
 この時が10世紀ぐらいの時。
  フランスが、何らかのフランスという自覚を持つのも
 12世紀を待たなければならない(フィリップ二世の尊厳
 王在位1180年~1223年)。
1181年、フランシスコが、アッシジで生まれた。裕福な織
 物商人の家だった。
1181年、この年、飢饉となった。
1181年1月、高倉上皇が崩御した
1181年1月、平宗盛が、五畿内・伊賀・伊勢・丹波の惣官
 (そうかん、軍事的な権限を持つ臨時の官)となる。
1181年2月、志田義広が源頼朝に叛す。
1181年2月、平清盛が没した(1118年~1181年)→都落
 ち・平氏没落(1183年)
1181年3月、源頼朝が、武田信義を疑い、起請文を捧げさ
 せた。
  この様な事を頼朝がした原因は、後白河法皇が、武田
 信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れ、信義は、
 駿河守護を解任されたうえ、鎌倉に召喚され、起請文を
 出した。
1181年3月、墨俣川の戦い。
  源行家軍と平氏軍が墨俣川で戦い、源行家軍が大敗し
 た。
  この戦いは、平氏は富士川の戦いで敗れたが、再度、
 頼朝軍を追討するため、軍を東国へ派遣した。
  これを、源行家軍が、墨俣川に陣を敷き待ちかまえて
 いた。
1181年6月、越後の平氏側の城氏が、源義仲と戦って敗れ
 た。
  この年の2月に、平家が、城氏に源義仲追討を命じてい
 た事に応じた行動であった。
1181年7月、平氏が、北陸道の源氏を討たんとして兵を送
 る。
1181年8月、源頼朝が、後白河法皇に密使を送り、政治意
 見を具申した。
  「玉葉」の中に、頼朝が、平氏との『和平を提案』し
 たと記されている。
1182年1月、京都の飢饉が深刻となった。また、疫病のた
 め、死者、巷に満つとある。
1182年2月、平氏が、北陸道に出兵した。
1182年8月、政子が、源頼家を生んだ(1182年~1204年)
1182年10月、源義仲が、北陸へ進出した。
1183年、北条泰時が生まれた(1183年~1242年)
1183年、この年の冬、源頼朝が、上総介広常を殺す。
  これの大切なところは、房総の平氏惣領家頭首であり、
 東国最大の勢力であった。
1183年3月、源義仲が、子の義高を源頼朝のもとに送った。
1183年5月、源義仲が、越中栃波山の合戦で平氏を破った。
1183年6月、延暦寺が、源義仲に呼応した。
1183年7月、木曽(源)義仲の挙兵・越中倶利伽羅峠で平
 氏を破り、京都へ入るも人望を失う→法皇、その征討を
 令し、源範頼(のりより)・源義経ら京へ入り義仲を破
 る(義仲失脚)
1183年7月22日、源義仲が、延暦寺に入った。
1183年7月24日、法皇が、延暦寺に潜幸した。
1183年7月25日、平氏が、都落ちした。
1183年7月28日、木曽義仲・行家が、京都に入った。
  木曽義仲が法皇の御所を襲った。
1183年8月、後白川院が、平宗盛以下の平氏一門、200人
 余りの官職・官爵を剥奪した。
1183年9月、後鳥羽天皇(在位、1183年~1198年)
1183年9月、源頼朝が、院の申し入れに返書を奉る。
1183年9月、源頼朝に、東国沙汰(支配)権を認める宣旨
 が発行された。
  朝廷は、宣旨において、頼朝に対し、東国における荘
 園・公領からの官物・年貢納入を保証させると同時に、
 頼朝による東国支配権を公認した。
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(増補版)30B:気になった事柄を集めた年表(1178年~1180年)

 題:(増補版)30B:気になった事柄を集めた年表(1178年~1180年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1179年、この頃、京都を中心に広く経済界の混乱が起きて
 きた。
  「近日、天下上下病悩ます、これを銭病(ぜにやまい)
 と号す」
  日宋貿易によって、宋銭がおびただしく輸入され、こ
 れが原因であった。
  この頃、各地の特産物の生産と、その交換が盛んとな
 り、宋銭輸入の必然性もあったが、
  急激な宋銭の輸入と、その流通が、経済界を混乱させ
 た。
  現物と貨幣の交換率が混乱し、紛争が至る所で引き起
 こされた。
1179年5月、平清盛の跡継ぎである平重盛の健康がすぐれ
 ず、5月末に出家した。
1179年6月、故摂政・近衛基実(このえもとざね、藤原忠
 道の4男)の室・平盛子が、夫の後を追って若死にした。
  これは、後白河が基房を押して、平氏=基通の関係に
 圧迫を加えてくる絶好の機会を作った。
1179年7月、7月末に、平重盛が没した(1137年~1179年)
1179年11月11日、摂津福原の山荘で時を過ごす清盛は、
  この日、武士数千騎を率いて、京都に入った。
  そして、厳島神社への参詣途上であった平宗盛を呼び
 戻した。
  京都の町従は騒然とした。
  清盛の目指すところは、軍事的独裁政権の樹立であっ
 た。
  後白河院は、政権の放棄を誓約して、屈服した。
  これは無条件降伏であった。
  清盛は、直ちに、関白・基房を罷免して、基通を関白
 とし、さらに氏長者とした。
  また、基房の子の師家の権中納言中将の位(くらい)
 を奪った。
1179年11月16日、平清盛が、さきに院から罷免されてい
 た明雲を天台座主に還補した。
1179年11月17日、平清盛は、この日、太政大臣・藤原師
 長(もろなが)、権大納言・源資賢(すみかた)以下、
 後白河法皇近臣39人を解官した。
  続いて、基房を大宰権師に左遷し、師長を尾張に流す
 など流罪・追放の処分を発表し、
  後鳥羽法皇を鳥羽殿に幽閉した。
  ここで、平氏は、名実ともに六波羅政権と呼ぶにふさ
 わしい軍事的独裁権力を樹立した。
  これまでは、平清盛が、いかに廟議を制しようとして
 いようと、最高権力者は後白河院であった。
  院を失脚させ、反平氏的な公卿を一掃した清盛は、反
 平氏グループの知行国・所領荘園を奪って、一族に分け
 与え、知行国支配の体制を整えた。
  この月、備前に移されることとなった前関白・基房の
 配流を阻止しようとして、興福寺の大衆が蜂起した。
  平清盛は、そうした反対に耳を貸さなかった。
1180年、後鳥羽上皇が生まれた(1180年~1239年)
1180年2月、高倉天皇退位、安徳天皇即位す(在位、1180
 年~1185年)
1180年2月19日、衆徒らは、院ならびに上皇を、平氏の手
 から奪い取り、上皇の厳島神社参詣を食い止めようとし
 た。
  平清盛は、宗盛・知盛(とももり)らに鳥羽殿や上皇
 の御所を警備させ、2月19日には、上皇を厳島に向かっ
 て出発した。
  平清盛は、厳島信仰を通じて、瀬戸内海の海上権を握
 る中国・四国・九州の土豪・武士との連携を強めようと
 したと考えられる。
  これは、寺院勢力に連合の契機を与え、平氏の運命を
 左右するほどの暴挙であった。
1180年2月、平清盛が、この月、摂津・大輪田泊(おおわ
 だとまり)の改修方針を決めて、海上交通、日宋貿易へ
 の保護に乗り出し、貴族たちの宋銭の使用反対を無視す
 る態度を明らかにした。
  そして、孫にあたる2歳の皇太子を即位させ(安徳天
 皇)、独裁体制への布石を進めた。
  また、平清盛は、高倉上皇の譲位の後、最初の社参先
 を賀茂か八幡という恒例を破って、厳島としたことも南
 都・北嶺に対する一種の挑発に他ならない。
  加茂・石清水(いわしみず)の衆徒大衆は、たちまち
 憤激して蜂起した。
  この事件は、日ごろ、犬猿の仲にある延暦寺・三井寺・
 興福寺などの僧兵が連合して平氏にあたる動きを取り始
 めた。
1180年4月、源頼政は、平清盛に従って公卿の地位に登り、
 その恩顧もあったが、南都・北嶺の反六波羅的気運の高
 まりに支えられて、法皇の王子・以仁王(もちひとおう)
 の令旨を受けて、園城寺や興福寺の僧兵らと挙兵した
 (4月)。
  源頼政が、後白河の第二皇子・以仁王にすすめて、紀
 伊の新宮に居た源義盛(よしもり)らも加わって密計は
 進められ、
  義盛が、八条院蔵人として、平氏追討の令旨を、諸国
 に伝えた。
  以仁王は、その母の関係から平氏にも、摂関家にも、
 縁故がなく、それ故、親王の地位にもつきえぬ不遇をか
 こっていた。
  計画は、王が猶子(ゆうし、養子の事)となっていた
 八条女院の200か所と称さされる広大な所領に伝えられた。
1180年4月、平家独裁の強化にともない、院・公家・寺院
 など反平氏運動が起こり、この機運に乗じ、源氏は、以
 仁王を奉じて挙兵した。
  以仁王は、後白河院の第二皇子であり、王の行動の背
 後には後白河院があった。
  王が、猶子になっていた八条女院(後鳥羽院の娘)は、
 膨大な荘園を持っており、この女院の蔵人をしていたの
 が、源義朝の弟の行家で、彼が王の令旨を全国の源氏に
 伝えた。
  王の挙兵には、こうした経済的背景があった。
  源頼政は、平治の乱で平清盛方につき、清盛の推挙で
 公卿に列した只一人の源氏であるが、
  以仁王の反平氏運動に加わり、畿内の寺院勢力を背景
 に挙兵した。
  この挙兵は、失敗に終わったが、以仁王の令旨を受け
 た反平氏の活動は活発となった。
1180年5月26日、源義時の長男・義盛の行動から、密謀が
 事前に探知され、
  平氏は、以仁王の逮捕の行動を起こした。
  王は、叡山の勢力を頼んで園城寺=三井寺に入り、頼
 政の挙兵を待った。
  頼政は、予期しなかった発覚のため、畿内・近国の反
 平氏的武士を糾合する事が出来ず、
  わずがな手兵を率いて王と合流した。
  そのため、戦いは、初めから不利となり、しかも、平
 清盛の工作により、叡山・園城寺の中に、平氏に内通す
 る者も出た。
  5月26日、興福寺に向かって落ち延びようとする途中、
 宇治川にて撃たれた源頼政(1104年~1180年)は戦死
 し、以仁王もまた流れ矢に当たって倒れた。
  失敗に終わったが、この事件は、諸方面に与えた影響
 の大きさは計り知れないものがあった。
1180年6月、平氏が福原に遷都した(6月)。
  地方の情勢は次第に険悪となり、国司を襲撃する地方
 武士の動きも見え始めた。
  叡山では、明雲の説得によって、からくも堂衆の蜂起
 を押さえる事が出来たが、興福寺は公然と反旗を翻した。
  平清盛にとって、その周囲は、ことごとく敵であった。
  清盛は、寺院勢力の圧力に抗しかね、ついに、福原に
 遷都した。
  清盛にとっては、西国から運上される年貢を、一手に
 収納する事が出来、そのためだった。
  また、南都・北嶺の圧迫を逃れ、
  安徳天皇、後白河院と高倉院の両院を奉じ、摂政以下
 の公卿と共に、福原に遷都した。
  しかし、高倉院の病気や、公卿の不平や、山門の要望
 や、源頼朝の挙兵などのため、11月には、旧都に復さね
 ばならなかった。
1180年6月、源頼朝が、ひそかに兵を募る。
1180年6月、源頼朝が、伊豆に挙兵した(9月?)
  頼政の密謀で、以仁王の令旨をたずさえて東下した源
 行家(義盛)によって、伊豆の頼朝にも伝えられた。
  頼朝の挙兵は、この令旨が契機となった。
  しかし、挙兵と言っても、関東に源氏の譜代恩顧の武
 士がいかに多いとはいえ、何らの地位権力もない頼朝に、
 そのどれ程が、応ずるかは疑わしかった。
  北条の北に接して山木兼隆(やまぎかねたか)が伊豆
 の目代(もくだい、国主の代理人、代官)として、また、
 平氏一門として威勢を振っていた。
  源頼朝は、北条時政に助けれれて挙兵し、石橋山の戦
 い(8月23日)で敗北し、後に、富士川の戦い(10月20
 日)に勝利し、東国経営へ。
1180年8月6日、源頼朝は、北条時政と密議して、山木兼隆
 を奇襲する日時を、17日払暁(ふつぎょう、明け方)と
 決定し、その日、工藤介茂光(くどうのすけもちみつ)・
 土肥実平(どひさねひら)以下の武士たちを一人ずつ引
 見して協力を懇請した。
1180年8月17日、源頼朝が、山木兼高を急襲する日、予定
 の時刻までに参加を確約した佐々木定綱・経隆(さねた
 か)・盛綱・高綱兄弟の到着が遅れたため、攻撃はやむ
 を得ず延期された。
  貞綱らは、ようやく午後になって参着した。
  この4人の到着は、頼朝を喜ばせ、また、士気を鼓舞し
 た。攻撃は夜に入って開始された。
  当日は、三島明神の祭礼で、山木の館の守備は手薄で
 あったから、かねて内定してあった館内に切り込むのは
 たやすかった。
  頼朝は、運命を掛けたこの攻撃に、直接には加わらず、
 北条にとどまって、その成功を祈っていた。
  夜の白む頃になって、頼朝の軍師達が兼高の首を取っ
 て引き上げてきた。
  これは、合戦と言うより奇襲・暗殺と言うものであっ
 た。
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2015年3月1日日曜日

(増補版)29B:気になった事柄を集めた年表(1159年~1178年)

 題:(増補版)29B:気になった事柄を集めた年表(1159年~1178年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
12世紀、イスラムによるインド仏教遺跡の破壊。
1160年、源義朝(頼朝の父)が没した(1123年~1160年)
1160年、平清盛が、正三位参議となり公卿の地位に昇った。
  武士が公卿となったのは、これが初めてである。
  そして、発言権を得た。
1160年、12世紀後半。源平の争乱。
  この頃より、武士の間に切腹の風習が定着する。
1160年3月11日、源頼朝(13歳)の配流国は伊豆と決めら
 れ、この日、京都を発った。
  東海道に沿って、父・義朝が配置していた家人たちも、
 今は心変わりして、この敗戦の孤児をほとんど省みよう
 とはしなかった。
  この間、頼朝が、配所まで送るのに温かい手を差し伸
 べたのは、長田資経(すけつね)・祐範(ゆうはん)・
 比企の尼などわずかな人々である。
  配所は、蛭ガ小島(ひるがおじま)と言われている。
  この地の有数の土豪・北条氏は、平氏の一流(一派の
 意)として権勢をふるっていた。
  他にも工藤・宇佐美・伊東・狩野など、平氏に組する
 武士団が、清盛に忠誠を誓っていた。
  関東は、源氏の本拠とはいえ、すべての武士団が、源
 氏に心を寄せていた訳ではない。
  関東のめぼしい雄族は、高望王(たかもちおう)に発
 する平氏の一流であって、源氏の恩顧を受けたこともあ
 ったが、いま全盛を誇る清盛に、正面切って楯突くもの
 ではなかった。
  頼朝は、34歳までの20年をこの地で送る。
  配所の生活は、ほとんど写経、読経といった宗教的勤
 行に明け暮れていたと伝えられている。
12世紀中頃、朝鮮半島の高麗で、この頃から、王や文人が
 政治をないがしろにされ、武人が政権獲得を伺うように
 なった。
  そして、12世紀後半から、100年間は、武人が政権を
 担当する時代が続く。
1162年、藤原定家(公家、歌人、小倉百人一首の撰者)が
 生まれた(1162年~1241年)
1162年頃、チンギス・カンが生まれた(1162年頃~1227
 年)、モンゴル帝国の初代皇帝。
  モンゴル遊牧民の諸部族を一代で統一した。
  中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを
 征服した。
  当時の世界人口の半数以上を統治する大皇帝。
  現在でも、モンゴル国において、国家創建の英雄とし
 て称えられている。
  モンゴル軍の兵士は、遠征においても、家族と馬とを
 伴って移動し、一人の乗り手に対して3頭~4頭の馬がい
 るため、常に消耗していない馬を移動の手段として利用
 できる態勢になっていた。
  そのため、大陸における機動力は世界最大級となり、
 爆発的な行動力を持っていた。
  また、モンゴル軍の強い要素は、左右に大軍団を対称
 に設けていた。
  この左右対称の軍政一致構造により、恒常的征服戦争
 の続行を可能にした。
1163年、北条義時(時政の次男、第2代執権)が生まれた
 (1163年~1224年)
1164年、六条天皇が生まれた(1164年~1176年)
1164年、平清盛が、この年、壮大な蓮華王院(三十三間堂
 の寺号)を後白河院に造進した。
  清盛の父・忠盛や祖父の正盛が、造寺・造塔をもっぱ
 ら白河院・鳥羽院にして、接近し、その地位を高めたの
 にならった。
1165年、六条天皇(在位、1165年~1168年)
1165年、平清盛が、権大納言になった。
  二条天皇が崩御し、清盛は、幼少の六条天皇の摂政と
 して政治を主導し、大納言に昇進して補佐した。
1167年、平清盛が、播磨、肥前、肥後などの地を、子孫ま
 での大功田として賜った。
1167年、平清盛が、左右大臣を経ずして、内大臣から従一
 位太政大臣となった。
  この年、子の重盛・宗盛や妻の兄の平時忠も公卿の地
 位に昇った。
  「平氏にあらずんば人にあらず」(平家物語)とある。
  平氏の全盛期。
  平重盛(内大臣)以下一族の公卿16人、殿上人30余人
 に達し、知行国30余国、荘園500余ヶ所。
1167年2月、平家納経(厳島神社)、藤原時代の栄華の再
 現。
1168年、高倉天皇(在位、1168年~1180年、80代)
1168年、平清盛が、皇室や摂関家藤原氏との結合を強めよ
 うと、妻の妹・滋子を後白河天皇の後宮に入れ、
  幸い寵を得て男子を出産すると、この皇子を六条天皇
 の東宮(皇太子の称)とした。
  そして、1168年に、わずか8歳のこの皇子を皇位につ
 けた、高倉天皇(後白河天皇の第7皇子)である。
1170年頃、平安時代末期、大陸では、宋の時代。新しい
 儒学が起こった。南宋の朱子がこれを大成した。
1172年、清盛の娘・平徳子が中宮となる。
  平清盛は、高倉天皇と娘の徳子(後の建礼門院、けん
 れいもんいん)を結婚させた。
  この二人に、後に安徳天皇が生まれる。
1173年、親鸞が生まれる(1173年~1263年)、52歳の時、
 浄土真宗を開く。
1173年、平清盛が、「大和田泊(神戸港)」を修築した。
  江戸時代以前の主な社会資本整備となっている。
1173年、ピサの斜塔は、現在、第7層では4メートルも傾
 いているが、この傾斜が始まったのは、1173年の建築
 開始から、わずか12年後であった。
  あと200年で倒れてしまうと言われている。
1175年頃、平清盛が、この頃、宋との貿易を計った。
  遣唐使廃止の後の大陸貿易は、宋の勃興と共に、私貿
 易の形で展開され、宋船は九州に来航した。
  この貿易の利に着目した清盛は、父・忠盛によって開
 始された貿易を承継し、大宰府に家人や一族を配して、
 貿易の独占を計った。
  やがて、音戸の瀬戸を開き、大輪田の泊を修築して、
 宋船の出入りを便利にし、別荘を福原に置くなど、貿易
 には熱心であった。
  日宋貿易による影響は経済の方面のみでなく、文化的
 にも入宋する僧の増加で、鎌倉新仏教への影響がみられ
 る。
1176年、法然が、43歳の時、この年に、浄土宗を開いた。
1176年、六条天皇が没した(1164年~1176年)
1176年、レニャーノの戦いが起きた。
  神聖ローマ帝国とロンバルディア同盟(1167年に結成
 された北イタリアのロンバルディア地方の26の都市によ
 る軍事同盟)との戦闘。
  神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世を破り、都市の自治
 を承認させた。
1177年、京都が大火になった(安元の大火)。
  皇居をはじめ京都の大半を焼き、この災禍のため、元
 号が安元から治承と改められた。
1177年、延暦寺の衆徒が、加賀の国司・藤原師高(もろた
 か)を訴えた。師高が流罪となった。
  この事件は、清盛と院との対立関係が絡んでいた。
  ここに、院と平氏と大社寺という三大勢力の分裂が深
 刻になっていく。
1177年、近衛大将(宮中の警護などを司る左近衛府と右近
 衛府の長官)の地位を平重盛と平宗盛の二人が独占した。
1177年頃、反平氏の気運。
  (1)平氏の貴族化による旧勢力(法皇、貴族、寺社)
     との対立。
  (2)武家政権としての不徹底→地方武士の離反。
1177年6月、鹿ケ谷の密議:後白河法皇の反清盛感情があ
 り、京都の鹿ケ谷(大文字山麓)で平氏打倒を密議した
 →山荘の密議の発覚→西光、藤原成親(なりちか)、藤
 原成経、平康頼、僧俊寛(しゅんかん)などが処刑や流
 罪になった。
  この日の払暁、清盛は突然、院の近臣である西光法師
 と藤原成親を逮捕した。西光は、その日のうちに、首を
 はねられ、成親は備前に流された。
1178年11月、高倉天皇の中宮(清盛の娘・平徳子)が皇
 子を産む。
  後白河院も自ら産殿にのぞみ、安産を祈祷し、清盛は
 これを喜んで院に綿・綿など膨大な祝いの品を送ったり
 した。
  こうして鹿ケ谷事件で爆発しかかった院と清盛の対立
 関係が、一時持ち直すかに見えた。しかし、一時的なも
 のであった。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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