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2016年6月11日土曜日

(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月~1881年3月)

題:(増補版)365E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年12月~1881年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1881年、出来事:
・明治天皇陛下が、東北・北海道を御訪問。
・松方正義が、大蔵卿(現在の大蔵大臣)に就任した。
 松方正義の緊縮財政政策で不況に陥る。
1881年、データ:
・租税総額に占める地方税の割合:36.2%
1881年、流行:
・唄 書生節:「書生、書生と軽蔑するな~大臣参議はみな
 書生~」
・「蛍の光(ほたるのひかり)」:日本の唱歌。
  原曲はスコットランド民謡、
  作詞は、稲垣千頴(いながき ちかい、国学者、教育
 者、歌人、教科書編集者)
・ステッキ・懐中時計が流行した。
・洋式自転車が、輸入されたのは、明治14年か15年の頃、
  反骨のジャーナリストにして一代の奇人である宮武外
 骨は、
  東京で、外国人がこれを乗り回しているのを見て、無
 性にほしくなり、明治17年に購入した。
  東京、横浜、大阪を駆け巡ったが、売り物は1台もなく、
 神戸の居留地で、ようやく中古を見つけ、
  談判の末、192円で買い取った。
  小学校教員の初任給が、5円の時代の192円で、
  大得意で郷里・高松に帰り、乗り回していたら、たち
 まち評判となった。
  日本一のバカ者と笑われた・・、
  『しかるに近年は大流行にて、山間にもベルの音を聞
 く、うたた灌漑にたえず』と、明治36年に記している。
1881年、マスコミ:
・新聞創刊:東洋自由新聞(1881年3月18日、創刊)
  西園寺公望が、フランスから帰国して社長となり、パ
 リで知り合った中江兆民を主筆として創刊した。
  自由民権派の日刊新聞(自由民権運動の中心的言論機
 関たらんとして発刊した)。
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数:62件
1881年、本・理論書:
・「東洋學藝雑誌(とうようがくげいざっし)」 創刊
   1881年10月に、東洋学芸社から創刊された自然科学
 を含む月刊誌。
  日本で最初の学術総合雑誌。
  杉浦重剛と千頭(ちかみ)清臣が井上哲次郎や磯野徳
 三郎らの協力のもとに、その範をイギリスの科学雑誌《
 Nature》にとり、啓蒙を旨として編集された。
・ 「社会平権論」(著:スペンサー/訳:松島剛)
  スペンサーは、明治前半期の日本に大きな影響を与え、
 『社会静学』が松島剛(まつしまこう)(1854―1940)訳
 『社会平権論』(1881~1883)の名訳によって紹介され、
 「民権の教科書」として愛読された。
・ 「時事小言(じじしょうげん)」(著:福澤諭吉)
  《時事小言》、および、その前後の一連の著作では、
 立憲制とイギリス流の議院内閣制・政党内閣制によって
 〈官民調和〉を実現するという原理が明確に示されてい
 た。
1881年、衣:
・地方の町村に靴を履く者が出る。
1881年、食:
・牛乳配達が始まる。
・東京に粉ミルク・バターの製造が始まり、その売捌店は
 市内13軒をかぞえた。
・第2回内国勧業博覧会に、11道府県より缶詰の出品あり、
 殆どが魚介を材料とした。
  また、2府3県から琺瑯(ほうろう)品が出品された。
  これは鍋等の飲食器であった。
・東京湾の金沢に、カキの移植がなされた。
・芝日影町で、日本人のラムネ製造が始まった。
1881年、住:
・東京下町に、1月と2月に重ねて大火があり、火災の後、
 内地釘が間にあわぬため、西洋釘を輸入して、にわかに
 洋釘使用が普及した。
1881年、その他:
・官吏と新聞記者の交際がふえ、好ましくない風潮だ(朝
 野新聞)
・東京職工学校が創立された。
 「東京工業大学」は、1929年設立され、東京都目黒区に
 本部を置く、日本の国立大学だが・・、
  その創立は、母体である東京職工学校が創設された1881
 年とされている。
・小学校で、体操と唱歌を正科とした。
  1881年5月の「小学校教則綱領」あたりから次第に小学
 校の教科として取り入れられたのが、「唱歌」と「体操」
・竹器の輸出が盛ん・・、
  竹材は、1878年から、見本的な輸出が行われていた。
  輸出先は、ドイツ・イギリス・アメリカ。
  注文待ちの形ではなく、どの様な需要があるかを考え
 て、積極的に売り込んだ。
  そして、輸出を本格化させて行った。
  1881年に、森村商事が、米国でモリムラ・ブラザーズ
 を立ち上げた。
  1880年代半ば~1890年代半ばにかけて、アメリカに輸
 出された竹材のうち、
  特に、盛んに取引されたのは、箒(ほうき)柄竹だっ
 た。
  当時のアメリカの需要は、年間4,000万本といわれた中
 で、日本からの輸出は1,000万本を占めた(アメリカ市
 場における、日本商品のシェア25パーセント)。
  いくら集荷しても供給が追い付かないという状況だっ
 た。
  しかし、残念なことに、この箒のアメリカ市場の最後
 は、日本の業者間の安値競争と、その多い需要に応える
 ため、粗悪品を輸出したため、信用を失い、まったく注
 文が来ないという状況となった。
・船会社が運賃協定をはかる。
  1880年頃の関西を起点とした航路に就航していた船は、
 110余隻、70余名の船主に達していた。
  この頃は、三菱と共同運輸の双方が、横浜を中心に激
 しい競争を繰り広げていた。
  日本の船会社は、満身創痍の状態で、この様な事では
 外国汽船会社に漁父の利を与えかねないと、政府首脳や
 両社の社長が話し合いを重ねた。
  1885年に漸く、両社が合併して、日本郵船会社を設立
 した。
  この日本郵船会社は、日本の海運業界のガリバー的存在
 で、三菱会社から汽船29隻、帆船1隻を、
  そして、共同運輸から汽船29隻、帆船10隻の合計69隻
 を保有していた。
  この日本郵船会社は、半官半民に近く、正副社長や理
 事は、保証期間中、政府が特命することになっていた。
  また、航路の開設についても、政府の命令に従ってい
 た。
  そして、この日本郵船会社が、圧倒的な大きさを誇る
 一方で、
  瀬戸内を中心とした船主は、互いに競争したり、協調
 したりを繰り返していた。
・二人乗自転車について、東京の新聞が、珍しげに記事を
 かかげた。
  現在の自転車の原形である『安全型自転車』が出来上
 がったのは1885年(明治18年)で、
  この時期に、日本への輸入も始まっている。
  国産化も早く進み、宮田製銃所(現:宮田工業)が、
 国産第1号を製作したのは、1890年(明治23年)。
・大阪鉄工所・小野田セメント・日本鉄道・大日本農会な
 ど設立された。
  後に、日立造船となる大阪鉄工所が、1881年に、イギ
 リス人のE・ハンターによって創立した。
  また、この年に、小野田セメントの前身の会社が、毛
 利藩士族・笠井順八によって、「セメント製造会社」と
 して山口県小野田に創立された。
  日本での最初の民間セメント会社で、1891年に、「小
 野田セメント製造会社」に改称した。
  また、日本初の私鉄である「日本鉄道」が、この年に、
 設立された。
  日本鉄道は、今・現在のJR東日本の路線の多くを建設・
 運営していた会社。
  また、公益社団法人の大日本農会が、この年の4月5日
 に設立され、我が国で最も古い団体となっている。
・パスツールが、狂犬病ワクチンを完成させた。
  1879年、パスツールが57歳の時、ニワトリコレラ菌の
 研究から、「弱毒性の病原体で免疫ができる」ことを発
 見した。
  1880年の58歳に至り、狂犬病の研究を始めた。
  そして、1881年2月、炭そ病のワクチンを開発した。
  そして、1885年7月6日、狂犬病にかまれたメイステル
 少年が来て、
  パスツールは、初めて人間に狂犬病のワクチンを注射
 した。
  メイステルは回復し、
  世界中から狂犬病の患者が押し寄せる状況となった。
  そして、1886年に、狂犬病治療、および、研究のため、
 パスツール研究所を設立した。
   1888年、パスツール研究所は完成した。
・ピカソが生まれた(1881年~1973年)
  スペインの画家のパブロ・ピカソが、スペインのマラ
 ガに生まれた(1881年10月25日)。
1881年1月4日、警察庁再設置(1月14日説あり)
  内務省の一部局となっていた東京警視本署が、警視庁
 として再び設置された。  
  設置(1874年)  内務省移管(1877年)
  東京に警視庁を設け憲兵を置く。
1881年1月15日、初代の警視総監として陸軍少将・樺山資紀
 が任命された。
  警察関係の整備が盛んに行なわれた。
1881年1月17日、明治法律学校(めいじほうりつがっこう、
 現在の明治大学)が、東京麹町有楽町に開校した。
  自由民権運動と強い関わりを持つ。
  私立の法律学校(校長:岸本辰雄)
1881年1月26日、東京大火(明治最大)
  神田より深川に延焼し、1万5200戸を焼失。
  神田区松枝町から出火した火は、折から北西の強風に
 あおられて瞬く間に東神田一帯を焼きつくし、
  日本橋馬喰町、横山町へと延焼し、神田川沿いの元柳
 町、吉川町から両国橋を越えて本所、深川に及んだ。
  この火災による被害は、神田、日本橋、本所、深川の
 4区52ヶ町におよび、全焼1万673戸、焼損面積12万7697
 坪(42万1400平方メートル)、
  被災者数3万6542人に達し、明治期最大の大火となった。
  この大火は、火元の町名をとって神田松枝町の大火と
 一般に呼ばれた。
1881年1月、記念祭・記念碑・記念盃などの語が流行する。
  それまでは「記念」を「かたみ」と読んでいたが、下
 記の様に「きねん」と呼びだしたという。
  『読売新聞』は1878年9月に大津の三井寺に「西南戦死
 人の記念碑(きねんひ)」が完成したという記事を、翌
 月には「学習院の紀念式(きねんしき)」が行われたと
 いう記事を掲載している。
  1879年に創刊された『朝日新聞』では、同年2月に大阪
 鎮台の有志が中之島に「紀念碑(きねんひ)」「明治記
 念標(きねんひょう)」の建設を計画中という記事が確
 認できる。
1881年2月2日、出版・雑誌統制
  新聞紙・雑誌などを内務省警保局へ納付方令達、検閲
 の強化。
  内務省警保局への新聞・雑誌等納入を命ず。
1881年2月11日、東京神田大火(7700戸焼失)
  東京・神田小柳町から出火。
  松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月11日に、
 神田区で大火が発生し、また、さかのぼって、その約1ヶ
 月前の、1880年(明治13年)12月30日にも、神田区で大
 火が発生している。
1881年2月21日、東京・四谷の大火
  東京・四谷箪笥町より出火して、1500戸焼失。
  午後8時ごろ、箪笥町22番地から出火、四谷から麹町に
 かけて延焼し、11時40分鎮火。
  10か町1496戸、6万7305平方m余(2万360坪余)を焼失。
1881年2月28日、ウラジオストク~長崎の航路が、日本郵船
 の前身・郵便汽船三菱会社により開設された。
  汽船1隻で3週に1回、両港を出港。
  朝鮮の釜山や元山に寄港。冬季は元山止り。
  長崎で横浜上海線、長崎天津線に連絡。
  1889年に、神戸まで延長し、
  また、1907年(明治40年)4月に、敦賀起点の直行便が
 大阪商船により開設し、長崎線が大きく後退した。
1881年2月、綿糖糸茶共進会の開催(山梨・静岡・愛知・三
 重県の連合)
1881年3月1日、第2回・内国勧業博覧会
  期間:3月1日~6月30日、会場:東京・上野公園
  コンドル設計の博物館新館(旧本館)が竣工し、美術
 館として使用された。
1881年3月11日、憲兵本部を東京に創設し、憲兵中佐・三間
 正弘を部長に任命した。
  フランスの国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範
 として、憲兵条例により設置された。
  憲兵制度は、竹橋事件の影響や、自由民権運動の牽制、
 警視庁の薩摩閥勢力の減殺などのために創設されたとも
 いわれる。
  憲兵は、軍組織内において警察活動を行い、特定の任
 務を果す特別部隊。
  通常、各国とも、軍隊内部の犯罪捜査、脱走兵の逮捕、
 軍刑務所の管理と警備、軍交通の整理、防諜、軍事施設
 の警備などの任務が与えられている。
  通常は、一般警察権の及ばない軍隊内や、軍隊に関係
 ある行政警察、司法警察の業務を併せ行う。
  (参考)行政警察:広義では、犯罪の捜査および被疑
 者の逮捕の作用である司法警察に対して、公共の安全と
 秩序を維持するために、一般統治権に基づいて、人の自
 然の自由を制限する作用を行政警察という (行政法学上
 の警察) 。
  司法警察:警察権の発動に基づく諸活動のうち、犯罪
 事件の捜査、被疑者の逮捕、身柄拘束のための対人的強
 制処分令状の執行などのほか、裁判所、検察官の命ずる
 法定事務も合せて総称する。行政警察に対するもの。
  統治権:(1)国土・国民を治める権利。
 (2)最高の権威、または、国家の主権と同義、または、
 類似の概念であるが、国家、政府、独立、民主主義など
 と関連して政治学や国際法において最も論争の多い言葉。
 (3)国民、および、国土を支配する権利。主権とか国権
 とよばれることもあり、また私法上の権利と区別された
 公法上の権利であるという意味で高権とよばれることも
 ある。国民に対する支配権を対人高権、領土に対する支
 配権を領土高権という。
1881年3月18日、東洋自由新聞(とうようじゆうしんぶん)
 が創刊された(2月18日説あり)
  自由民権派の日刊新聞。
1881年3月27日、越後・出雲崎の大火(約540戸焼失、死者
 26名)
1881年3月、参議・大隈重信が、早期国会開設・政党内閣制
 を内容とする意見書を出す。
  独断での即時国会開設の意見書の提出であったため、
 政府部内はもめた。そして、分裂した。
  1881年は、開拓使の「官有物払下げ事件」が明るみに
 出たことに対し、参議の大隈重信は、新聞も用いて、開
 拓使長官の黒田清隆を鋭く批判した。
  また、早期の国会開設を主張した。
  その内容は、イギリス流議院内閣制にもとづく憲法の
 制定と、国会の一刻も早い開設を主張する・・大隈の意
 見だった。
  この意見に対し、伊藤博文の考えは、ドイツ流の君主
 大権をのこしたビスマルク憲法を範とすべきとした。
  また、国会開設は時期尚早であり、立憲政体の整備は
 漸進的に進めるべきだとした。
  結果的に、伊藤が、大隈を政府から追放する事件「明
 治十四年の政変」に発展し、大隈は政府を去ることにな
 った。
  これは、大久保利通暗殺後の、政府部内の主導権争い
 でもあったが、
  世論がこの事件に対して激化し、
  また、自由民権運動が、さらに高揚の様相を呈したた
 め、政府は、近い将来の議会制度確立を約束し、運動の
 尖鋭化を抑えようとした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月9日木曜日

(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月~1880年12月)

題:(増補版)364E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年11月~1880年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年12月14日 伊藤博文が、立憲政体に関し建白した。
  概歴を記すと・・、
  1875年に、大久保利通・伊藤博文・木戸孝允・板垣退
 助らの大阪会議での合意に基づいて、
  続いて、1875年4月14日に、明治天皇陛下が出された立
 憲政体の詔書によって、
  1875年4月25日、左院にかわり設置された元老院が、
  1876年(明治9年)9月、この元老院に対し、「国憲起
 草の詔」が発せられた。これによって、憲法制定の第一
 歩が踏み出された。
  日本は、比較的、明治の早い時期に、憲法制定に関す
 る意思を示していた。
  また、この時期は、1874年(明治7年)1月17日の民撰
 議院設立建白の後で、自由民権運動の機運が盛り上がろ
 うとする時期だった。
  そして、元老院は、1876年のこの時に、国憲取調委員
 を置いて、各国の憲法を調べ、
  1876年10月に、「日本国憲按(にほんこくけんあん)」
 と題する「憲法第一次草案」を奏上した。
  さらに、1878年に第二次草案をつくった。
  しかし、この案は、岩倉具視らの強い反対を受け、我
 が国の国体に十分適合するものではないとして、成案と
 なるに至らなかった。
  さらに再修正され、1880年に「日本国憲按」(第三次
 確定案)として奏上された(成案とならず)。
  1881年(明治14年)10月12日には、国会開設の勅諭が
 発せられ、政府として、憲法制定の本格的準備を進めて
 行く。
  憲法制定という、法典の中心をなす近代憲法の制定の
 動きは、上記の様に、1874年の民撰議院設立建白書に触
 発されたが・・、
  しかし、政府は、急速な憲法制定を望まず、漸進主義
 をとっていた。
  1875年に設立された元老院が、この方針の下で憲法案
 の作成の立場にあったが・・、
  そして、ベルギー憲法、プロイセン憲法に範をとった
 「日本国憲按」が、1876年、そして、1878年にできたが、
  その立憲的傾向は、岩倉具視などのいれるところでは
 なかった。 
  他方、明治10年代(1877年代)に活発化した自由民権
 運動の中から、
  イギリスやフランスの憲法に影響をうけたさまざまな
 憲法私案(私擬憲法)が発表された。
  その憲法私案は、また、政府の採るところではなく、
 自由民権運動自体が、やがて抑圧されていった。
  この様な中で、伊藤博文が浮上してくる。
  1877年(明治10年)には、木戸が没し、
  また、同年の1877年には、西南戦争で西郷隆盛が敗死
 し、
  翌・1878年(明治11年)5月14日には、大久保も暗殺さ
 れた。
  伊藤博文は、この様な状況の中で、この頃の1878年5月
 15日に、二度目の内務卿を、大久保亡き後に継承し、維
 新の三傑なき後の明治政府の指導者の1人として、政治に
 否応なく、大いに関わって行った。
  1881年(明治14年)1月、伊藤博文は、日本の立憲体制
 をどう作るかを、井上馨や大隈重信と熱海で会談した。
  しかし、大隈が、急進的な構想を内密に提出して、独
 走するようになると、政界追放を決め、1881年10月に大
 隈下野の目的を果たした。
  そして、政府の重責を担(にな)って行く。
  伊藤は、1882年(明治15年)3月3日に、明治天皇陛下
 から憲法調査のための渡欧を命じられた。
  1882年3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直
 胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東
 巳代治らの随員を伴い、ヨーロッパへ向けて出発した。
  はじめ、ベルリン大学の公法学者ルドルフ・フォン・
 グナイストに教示を乞い、
  そして、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐
 条的講義を受けた。
  後に、ウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるロ
 ーレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行
 政について学んだ。
  これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝
 国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつなが
 った。
  その後、伊藤博文は、1885年12月22日に、内閣制度を
 創設し、初代の首相(組閣4回)となった。
  そして、枢密院の設置(1888年に創設)し、大日本帝
 国憲法の制定をして行った(1889年2月11日に公布、1890
 年11月29日に施行)。
  伊藤は、日本の近代国家の枠組みを作って行った。
  不平等条約の条約改正も実現して行った。
1880年12月15日 河野広中、松田正久、沼間守一などが、東
 京において、自由党の盟約を成立させた。
  自由党は、日本最初の全国的な自由主義の政党だった。
  国会開設運動が全国的に高揚した自由民権運動の中の
 この時・1880年に始まった。
  植木枝盛らから、全国に拡大した運動の組織を強化す
 るため、
  国会期成同盟を改組して、自由主義を標榜する政党を
 組織すべしとする意見が提出された。
  そして、国会論・財政論の対立に、開拓使官有物払下
 問題が加わって引き起こされた「明治14年の政変」によ
 り、国会開設の勅諭が発布される1881年10月12日に相前
 後して、この提案は議決され、
  次いで、自由党の盟約・規則の審議が行われ、組織され
 た。
  そして、重要な役割を果たした。
   1881年10月18日に、板垣退助・中島信行・後藤象二郎・
 末広重恭・馬場辰猪らが結成した。
  総理は板垣で、
  中央機関紙の『自由新聞』を発行した。
  しかし、1884年(明治17年)には、日本最初の近代政
 党は解散となる。
  急進派の行動を抑えることが出来なかったのが理由。
1880年12月23日、「集會條例」改正
  警視長官・地方長官に、「政治結社解散権」と、「管
 内における1年以内の演説禁止権を与える」ように改正さ
 れた。
1880年12月24日 大阪大火(南区に出火、約3000戸焼失)
  島之内出火:南区笠屋町約3000戸焼失
1880年12月28日、「教育令」改正
  改正教育令、公布(国家統制が強化される)
  河野敏鎌(こうのとがま)文部卿の手で、再度、国家管
 理強化の方向に改正された。
  太政官布告59号をもって改正し (通称、改正教育令) 、
 地方官の権限を強め、また、就学義務などを強化した。
   1886年になって、初代文部大臣・森有礼(もりありの
 り)の制定した「小学校令」の結果、廃止されるに至る。
1880年12月30日 東京・神田・日本橋で大火
  神田区で大火が発生し、神田、日本橋一帯の町家2188
 戸を焼失し、
  焼損面積2万5100坪(8万2830平方メートル)の大火と
 なった。
  さらに、松枝町の大火からわずか半月後の明治14年2月
 11日にも、神田区で大火が発生している。
  この大火によって、神田・日本橋両区の48か町、7751
 戸が全焼し、焼損面積は8万8328坪(29万1482平方メート
 ル)に達した。
  わずか40日ほどの間に3件の大火が発生し、この大火
 だけで79万5712平方メートルを焼失したというのだから
 凄まじい状況だった。何かがあったのか??
1880年4月23日、イギリスに、ウィリアム・グラッドストン
 の第二次内閣ができた。
  1880年の総選挙で、自由党が大勝したため、第二次グ
 ラッドストン内閣を組閣した。
  アイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の
 地代を地代法廷で決めるなど、小作農保護を強化した。
  また、選挙区割りについて、野党保守党に妥協するこ
 とで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状
 態を実現した。
  グラッドストンは、小英国主義者であり、帝国主義に
 は消極的だったが、
  オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命
 を鎮圧してエジプトを半植民地とした。
  一方、マフディーの反乱が発生したスーダンは、放棄
 を決定し、
  国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣し、
 スーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとし
 たが、
  ゴードンは、撤退しようとせずにいた。
  そして、戦死してしまったため、内閣支持率に大きな
 打撃を受けた。
  1885年に、強行策のアイルランド強圧法を制定しよう
 とした。
  このことにアイルランド国民党は反発した。
  そして、ソールズベリー侯爵が率いる保守党との連携
 に動いた結果、議会で敗北し、総辞職した。
1880年、ハインリッヒ・ヘルツ(ドイツの物理学者)がラ
 ジオを発明した。
  以上のような情報があるが・・? おかしい??
  無線での音声放送(ラジオ)を世界で初めて実現した
 のは元エジソンの会社の技師だったカナダ生まれの電気
 技術者レジナルド・フェッセンデンという情報もある。
  レジナルドは、1900年に、歪みはひどいものの、最初
 の通信テストに成功した・・とある。
   そして、彼は、引き続き、ヘテロダイン検波方式や、
 電動式の高周波発振器を開発して、ラジオの改良に取り
 組んだ・・とある。
  そして、1906年12月24日に、アメリカ・マサチューセ
 ッツ州の自己の無線局から、自らのクリスマスの挨拶を
 ラジオ放送し、
  フェッセンデンは、この日、レコードでヘンデル作曲
 の「ラルゴ」を、そして、自身のバイオリンと歌で
 “O Holy Night”を電波に乗せた・・とある。
  そして、偶然に傍受した無線技術者たちを驚かせたこ
 の放送は、「世界初のクリスマス特別番組」で、フェッ
 センデンは「史上初のラジオアナウンサー&プロデューサ
 ー」と言える・・とある。
  また、この他に、グリエルモ・マルコーニ(イタリア
 の無線研究家)は、激しい無線送信距離競走の中、
  イギリスの資本と国力を背景に実用化を試み、成功さ
 せた・・とある。
  1901年12月12日、イギリス(ワイト島)からカナダニ
 ューファンドランドへ、
  大西洋を3000km横断する無線通信の実験を、25kwの出
 力で成功させた・・とある。
  1909年には、無線通信の発展に貢献したとして、ブラ
 ウンとともにノーベル物理学賞を受賞した・・とある。
  wikipediaは、元エジソンの会社の技師だったレジナル
 ド・フェッセンデンを最初の成功者としている。
  しかし、YAMAHAのホームページには、イタリアのグリ
 エルモ・マルコーニが、
  1896年に、イギリスで無線通信に関する特許を取得し
 たことをもって、発明者だと記している。
1880年頃、19世紀後半、ドイツの富豪ハインリヒ・シュリ
 ーマンが、私財を費やして、幼いころから夢に見ていた
 トロイアや、ミケーネの遺跡を発見した。
  彼は、ドイツの考古学者・実業家とされている。
  幼少期に聞かされたギリシア神話に登場する伝説の都
 市トロイアが実在すると考え、実際にそれを発掘によっ
 て実在していたものと証明した・・とある。
  しかし、これは、彼の功名心から、後から作られた話
 で、
  当時は、すでに、トロイアの遺跡の発掘は行われてい
 た。
  「トロイアの実在説」は、荒唐無稽なものではなかっ
 た・・と。
  この人の嘘は数多い、発掘の調査費を出すために、貿
 易などの事業に奔走しつつ、ホメーロスの「イーリアス」
 の研究と語学にいそしんだと・・、
  自作の著書に何度も書き、また、講演でも繰り返した
 が、
  実際には、発掘調査に必要な費用が用意できたので事
 業をたたんだのではなく、
  事業をたたんでから、遺跡発掘を思いついた・・など。
19世紀末頃、アメリカ合衆国が、フィリピンを植民地にす
 る。
  フィリピンが、19世紀末の米西戦争の結果、アメリカ
 の植民地となった。
  19世紀末の「フィリピン独立の父とされるホセ・リサ
 ール」・・、
  リサールは、1896年12月30日に銃殺された。
  1898年、米西戦争勃発により、アメリカ合衆国は、エ
 ミリオ・アギナルドらの独立運動を利用するため支援し
 た。
  しかし、実際は、後に判明するように、アメリカが、
 スペインからフィリピンを奪って、自国の植民地にする
 ことが目的だった。
19世紀になって、産業革命、各国はこれに追随した。
  産業革命は、一国内現象ではなく、原料獲得と廉価な
 工場製品の輸出で成立する世界システムであり、
  先進国の工業化は、後進地域の伝統産業や社会を破壊
 した。
  先進国の、後進国への破壊と搾取となった。
  イギリスによる、インドの綿産業の壊滅行為は、最大
 の不幸だった。
19世紀末以後の中国では、革命思想が高まり、多くの組織
 が出来上がっていた。
  1911年に、武昌で起こった反乱(第一革命)に各地で
 呼応し、辛亥革命が始まった。
  1912年1月、帰国した孫文が、南京で臨時大総統となり、
 中華民国の成立を宣言したが、
  清朝北洋軍閥の袁世凱が、その地位を奪い、清朝皇帝
 を退位させた。
1880年代、ヨーロッパは、18世紀末ごろから、アフリカの
 内陸部に対する興味を深めた。
  19世紀半ばには、ディヴィッド・リビングストンや、
 ヘンリー・スタンリーらの探検家が現れた。
  キリスト教の布教を目的としていた。
  1880年代から、第一次世界大戦前の1912年までにかけ、
 ヨーロッパの帝国主義の列強によって激しく争われたア
 フリカ地域の争奪と植民地化行為、修羅の奪い合いの行
 為だった。。
  イギリス、スペイン、ポルトガル、イタリア、フラン
 ス、ドイツ、ベルギーが、この悪の分割行為国だった。
1880年、アメリカ・インディアンは、そのすべての部族が、
 アメリカ軍に統制された。
  この先住民の方々は、奴隷状態に陥らされ、WASPの
 都合の良い様に処せられた。
  そして、居留地に移動させられ、
  また、卑劣な事に、再移動を繰り返された。
  これは、完全に、本来の持ち主からの略奪行為であっ
 た。
  そして、卑劣な事に、この移住の地は、まったく肥沃
 ではなく、その様な地を選んで移動させた。
  また、鉱物資源もなく、最小の土地を与えた。
  当然、インディアンの方々は、食糧自給が出来る訳が
 なく、土地を略奪した白人・アメリカ人(WASP)は、
  食料をアメリカ・インディアンの方々へ与えたが、救
 助などと呼ぶべきものではなかった。
  救助すべき状況に陥らせて「救助」と称した。
  しかし、白人・アメリカ人は、あくまで「救助」と称
 した。
  可哀想なことに、インディアンの方々は、やむなく、
 その食料に頼るしかなく、
  また、白人・アメリカ人の役人のなすがままの状況に
 なって行った、陥って行った。
  戦いの戦士は、今は居ない状況だった。
  アメリカ・インディアンの方々の生活状況は、全く不
 安定の中に置かれた。
  白人アメリカ人たちが、自分たちが利得したいという
 事によって、アメリカ・インディアンの方々が自給でき
 ていた領土を奪い、その利を横取りし、救援と称して、
 インディアンの方々へ全く不安定な生活に陥らせて、食
 料を与えた。
  まったく、ひどい話ではないか・・、
  インディアンの方々に、居留地と言う名の牢獄から、
 拘束された生活から、悲鳴と苦悩が生まれた。
  インディアンの方々は、祈るしかなかった。
  「もうすぐ春が来れば偉大な精霊が訪れ、狩猟の獲物
 たちが走り回る大地を取り戻してくれるだろう。
  そして、死んだ同胞たちもふたたびこの世によみがえ
 るだろう」・・と。
  インディアンの殺戮史が展開するアメリカ合衆国だっ
 た。
  人間性のかけらもない土地だった。
  豊かな土地は白人のもの。
  広大な領土を奪い、わずかな不毛の土地を与えること
 をしでかしていた。
  世界記憶遺産(ユネスコ記憶遺産)に登録せよ・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年6月8日水曜日

(増補版)363E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年7月~1880年11月)

題:(増補版)363E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年7月~1880年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年8月5日、「海員掖済会(えきさいかい)」の設立。
  前島密ほか、明治政府の要人や海運界首脳の約50名が
 発起人となり「海員掖済会」が設立され、
  わが国海運の振興を図るためや、海員に対する福利厚
 生が目的とされた。
  掖済の「掖」は、「たすける、よい方へ導く」、「済」
 は、「たすける、救う」の意。
  1881年(明治14年)6月、東京府南品川の心海寺の一部
 を借り受け、「海員寄宿所」を開設。
  実質的な事業の開始となる。
  海員の寄宿と、乗船の斡旋事業を開始した。
  高等海員養成所を併設し、高等海員の養成も着手した。
  後に、横浜、大阪、神戸、長崎と、相次いで海員寄宿
 所を設け、主要な港に配置し終えた。
  1886年(明治20年)3月、有栖川宮威仁親王を本会総裁
 に迎え、会名を「日本海員掖済会」と改称した。
  1898年(明治31年)10月20日、民法施行法の規定によ
 り社団法人の認可を受け、法人登記第1号となった(10
 月27日説あり)
  掖済会は、民法施行前からの独立の財産を有する社団
 として、民法施行法の規定により第1号になった。
  後に、海員に対する宿泊、職業紹介や、海員の養成、
 表彰、援護、医療等、海員の福利厚生に関する事業を網
 羅的に行なった。
1880年8月7日、新潟の大火(約5500戸焼失)
  新潟大川前通りで大火。焼失6200戸。
1880年8月8日、柏崎で大火。焼失2700戸。
1880年8月18日、日清両代表が、琉球事件を商議(協議)
 する。
  日本は、「琉球は日本に属し、中国が主張する琉球と
 の朝貢関係は属国関係とは言えない」と説明した。
  また、「琉球が、元来日本に属している」ことを説明
 した。
  江戸時代に朝鮮通信使というものがあった。
  これは、正式名称を「朝鮮聘礼使」と言う。
  聘礼(へいれい)は、結納のような贈り物を意味する。
  「朝貢(ちょうこう)」も「外国の使者などが貢物を
 差し出すこと」の意味で、これを属国関係とは、到底、
 言えない。
  この件は、後に、不幸にして起きた日清戦争で、
  日本と清国は、その条約において、朝鮮は完全な独立
 自主の国であると確認され、
  そして、この朝鮮も含め、また、台湾(日本のものと
 なる)も含めて、すべてが完全決着した。
  そして、台湾の方々を、日本人と見なすことも確認さ
 れ、条約が調印された。
1880年8月24日、三條西季知(さんじょうにしすえとも、公
 卿)が没した(70歳)
  幕末に、尊王攘夷派として活躍し、8月18日の政変で、
 七卿落ちの一人として、三条実美らと長州へ西走した。
  明治天皇陛下の侍従となる。
1880年8月28日、バイオリンの初国産
  東京・深川の楽器職人・松永定次郎が、初の国産バイ
 オリンを制作した。
  お茶の水のニコライ堂の楽士・デミチリーが持つバイ
 オリンを研究した末の作。
  後に、提琴(ていきん)と呼ばれ、上流階級の子女が
 習い、広まった。
1880年8月31日、エジソンの白熱電燈に特許権
1880年8月、東京・京橋に専修学校(現=専修大学)が開校
 (9月16日説あり)
  簿記夜学講習校(京橋区南鍋町)の仮校舎で挙行され
 たこの日を、専修大学の創立記念日とした。
  「明治13年(1880年)9月に、京橋区木挽町にあった明
 治会堂において開学しました」との挨拶の言葉もある。
1880年9月12日、東京・神田に東京法学社(現=法政大学)
 が開校(4月説あり、また、1881年5月説あり)
  また、東京法学校(とうきょうほうがっこう)は、
 1881年(明治14年)5月、東京法学社を母体として、薩埵
 正邦らにより東京府に設立された私立法律学校。
  現在の法政大学の前身である」・・の、説明文もある。
1880年9月15日、最初の美術学校、京都府画学校創立(現在
 の京都市立芸術大学)
  以下の説明文がある・・、
  「美術学部は、1880年(明治13年)に創設の京都府の
 画学校が起源。
  6月に、太政大臣三条実美により「日本最初京都画学校」
 と命名され、
  7月に、京都御苑内の旧准后里御殿仮校舎で開校式が行
 われた」。
1880年9月1日、『信濃毎日新報(しなのまいにちしんぽう
 )』が創刊した。
  「信濃毎日新報は、1880年9月1日~1881年5月25日まで
 刊行されていた地方新聞で、信濃毎日新聞の前身の一つ
 である」との説明文がある。
1880年10月8日、小笠原諸島が、東京府に編入された。
  1880年(明治13年)10月8日、内務省から小笠原諸島を
 引継ぎ、
  同年・1880年10月28日に、出張所を設置した。
1880年10月22日、新聞・雑誌の処分
  政治的取締りのほか、風俗を壊乱(かいらん、秩序・
 風俗などを乱すこと)の新聞・雑誌も、発行禁止・停止
 の行政処分を行う事が決められた。
1880年10月25日、「君が代」が完成。
  「君が代」に曲がつけられる。
  司馬遼太郎の本「坂の上の雲(鎮海湾)」に・・、
  「三笠の乗組を構成しているなかで、軍楽隊というグ
 ループがある。(中略)
  航海中、軍楽隊としての日常的な任務が毎日二度あっ
 た。
  軍艦旗が午前八時にあげられ、日没時におろされる。
  そのつど軍楽隊は「君が代」を演奏するのである。
  あとは水兵と一緒に甲板をかけまわって訓練をうけた」
 ・・と。
  「君が代」は、英国人フェントンが、国歌の必要を説
 いた。
  そして、薩摩琵琶歌『蓬莱山』中から歌詞が採用され、
 作曲を試みたが、
  海軍から、相応しい楽曲でないとされた。
  そして、11月に至って、宮内省による曲が演奏された。
1880年11月3日、天長節御宴会において、海軍省から「君が
 代」作曲の委嘱をうけていた宮内省は、雅楽課の林広守
 の旋律を採用し、初演奏を行った。
  そして、この旋律は、ドイツ人音楽教師・エッケルト
 が和声を付し編曲して、海軍省軍楽稽古場で初めて試演
 されていた。
  1885年に制定され、「陸海軍喇叭(ラッパ)吹奏歌」
 の第一号に定められた。
  1888年には、吹奏楽譜が、海軍省から諸外国へ「大日
 本礼式」として送付した。
  1893年8月、文部省も、小学校の祝日大祭日唱歌の一つ
 として定めた。
  1890年代は、「君が代」を国歌と見なし、
  昭和の初期に至って、国歌となった。
  天長節前の10月30日に、宮内省雅楽課の林広守が編曲
 した「君が代」が採用されていた。
  君が代の歌詞が採用された『薩摩琵琶歌大全』には・・、
  めでたやな、君が恵みは久方の、光り長閑き春の日に、
 不老門を立出で、四方の景色を詠むれば、
 峰の小松に雛鶴(ひなづる)棲みて、谷の小川に亀遊ぶ、
  君が代は、千代に八千代にさざれ石の、巌となりて苔
 のむすまで、
 命長らへて、雨塊を破らず、風枝を鳴らさじと、いへば
 また、
  尭舜(ぎょうしゅん、徳をもって理想的な仁政を行な
 い、後世の帝王の模範とされた中国古代の伝説上の王)
 の御代も斯あらむ、
  かほと治まる御代なれば、千草萬木花咲き実のり、
 五穀は國にみちみちて上には金殿桜閣甍(いらか、家の
 上棟)をならべ、
  下には民の竈(かま、煮炊きをするところ)賑ひて賑
 ひて、仁義正しき御代の春、
  蓬莱山(ほうらいさん、中国、古代における想像上の
 神山、仙人が住み、不死の薬をつくっており、宮殿は金
 玉、白色の鳥獣がおり、玉の木が生えているという)と
 は是とかや、君が代の、千とせの松も常盤色、
  かはらぬ御代のためしには、天長地久(てんちょうち
 きゅう、天地が永久に不変であるように、物事がいつま
 でも変わらずに続くこと)と、
  国も豊に治まりて、弓は袋に、剣は箱に蔵め置く(戦
 争もまったくなく)、
  諌鼓苔深ふして(君主の善政により諌鼓を鳴らす必要
 がなくて苔が生えるほど、世の中がよく治まっているた
 とえ)、鳥もなかなか驚くやうぞ無かりける
1880年11月5日、「工場払下概則(こうじょうはらいさげ
 がいそく)」が制定される。
  官営工場払下概則:官営模範工場の払い下げ。
  この日に、布達された太政官(だじょうかん)布告(第
 48号)で、当時、政府が官営の鉱山、工場を民間に払い
 下げる契機となった法令。
  1870年代なかば以降、資本主義育成のための殖産興業
 政策が展開される過程で、
  財政節減と、民間産業奨励のため、政府は、それまで
 官営であった諸施設を、民間へ払い下げることを決定し
 た。
  しかし、営業資本の即時納入を前提とするなど、その
 条件が厳しかったため、払受け希望者がきわめて少なか
 った。
  その結果、同法令は、4年後に廃止され、
  以後、官営事業の民間払下げは、個別の事例ごとに承
 認される形をとった。
  また、西南戦争の戦費がかさんだため、その戦費をま
 かなうため、余儀なくされた予備紙幣の繰替発行(2700万
 円)と、第十五国立銀行からの借入れ(1500万円)は、流通
 紙幣量を一挙に増加させた。
  そして、その為、インフレーションが促進させた。
  そのため政府は、1880年秋から、政府紙幣の整理に本
 格的に取り組み、
  増税や、一部経費の府県への振替えなどによって、歳
 出余剰の捻出に努めるとともに、
  別に「工場払下概則」を定め(11月5日)、「工業勧誘ノ
 為メ政府ニ於テ設置シタル工場」を、漸次、民間に払い
 下げることになった。
  これにともなって、1881年4月、農商管理事務の統一の
 ため農商務省が設置され、内務省所管の直営事業所をす
 べて引き継いだ。
1880年11月10日 東京馬車鉄道(とうきょうばしゃてつどう)
 の設立が認可された。
  東京馬車鉄道は、日本初の馬車鉄道であるとともに、
 日本初の私鉄でもある。
  1880年2月13日に、発起人:種田誠一他3人が、松田道
 之東京府知事に敷設願を提出し、そして、設立された。
  予定する馬180頭と、馬車30両を、収容可能な車庫兼厩
 舎を設備する土地を用立てるのが容易ではなかった。
  出願した路線は三路線で、
  (1)新橋停車場(後の汐留駅)~新橋、京橋、日本橋、
 昌平橋、御成り通り~上野公園(後の上野恩賜公園)、
 下谷広徳寺前を抜け、浅草広小路(現:雷門通り)へ達
 する甲路線と、
  (2)甲路線と並行区間(新橋停車場~本町三丁目)か
 ら分岐し大伝馬町通り、浅草橋を経て、御蔵前通りを右
 折、浅草橋に至り蔵前、浅草広小路の乙路線と、
  (3)新橋停車場~新橋、乙路線と並行区間から右折し
 京橋~炭屋橋を越え、日本橋東仲通り出て、江戸橋~伊
 勢町河岸通り~馬喰町通りを右折、浅草橋に至り乙路線
 と並行・合流する丙路線・・の三つの路線が開業路線だ
 った。
  営業開始は、1882年(明治15年)6月25日に、新橋と日
 本橋の間を結んで営業が開始された。
1880年11月10日 国会期成同盟・第ニ回大会開かれる。
  國會期成同盟 第2回大会が、東京の元愛国社支社で開
 かれた。
  2府22県から各地の政治結社を代表する64人が参加し、
 国会開設請願を求める約13万人の署名が集まった。
  この大会で、議長に河野広中が選ばれ、
  そして、
  (1)運動で弾圧を受けた者や、その家族を扶助する
 ことを規定した「遭変者扶助法」が定められた。
  (2)合議書が制定されて、国会期成同盟の名称を「大
 日本国会期成有志公会」と改称する事、
  (3)本部を東京西紺屋町に置く事、
  (4)次回大会までに、各々の政治結社が、憲法私案
 (私擬憲法)を作成して持ち寄る事、
  (5)国会開設が実現するまで会を解散しない事・・な
 どが決まった。
1880年11月28日、幌内鉄道・手宮~札幌間が開通した。
  北海道鉄道の始まり。
  北海道最初の鉄道開通(小樽手宮駅より起工し、札幌
 間までが開通した)
1880年11月、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)が創設
 された。
  五代友厚らによって、大阪府に開設された商業教育機
 関で、
  この商業講習所の開設のきっかけとなったのは、福沢
 諭吉門下で、慶應義塾に学んだ加藤政之助による新聞論
 説であった。
  彼は、1879年8月、編集主幹を務める『大坂新報』紙上
 に社説を掲載し、
  全国の商業の中心として栄える大阪に、なぜ商法学校
 がないのか・・という問題提起を行った。
  同紙の経営者であり、大阪商法会議所(現・大阪商工
 会議所)の初代会頭でもあった五代友厚は、
  加藤の提起に応え、加藤および門田三郎兵衛(豪商)・
 桐原捨三(福沢門下のジャーナリスト)の3名を、仮創立
 事務委員とし、自らは創立員代表として、商業講習所の
 開設準備を進めていた。
..
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2016年6月5日日曜日

(増補版)362E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年4月~1880年7月)

題:(増補版)362E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1880年4月~1880年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1880年4月22日、日本薬学会が創立された(2月か?)。
  薬学雑誌の1919年度版に・・、
  薬学会の創立はいつか? 本学会ホームページには「明
 治13年(1880年)、日本薬学会は我が国では最も古い学
 会の一つとして誕生しました」と書いてある。
  本当だろうか。ちょっと疑ってみよう・・と書いてあ
 る。
  しかし、以下の事も書いてある・・、
  しかし、薬誌の創刊号(明治14年12月)は長輿専齋、
 長谷川泰の祝詞のほかは学術論文のみ、
  以後の号も、学術記事と会員への通達ばかりで、その
 1、2年前という会の創立に関する記事は一切書かれて
 いない。
  諦めかけたら薬誌1910年(明治43年)6月号の付録に、
  「日本薬学会沿革史」というものがあった。
  30年後とはいえ創立メンバーの多くが存命中の公式記
 録である。
  既に、明治43年の薬学会は、医事、衛生、化学、博物
 の諸科にわたって会員2750余名を有する大規模学会に成
 長していた。
  しかし、沿革史によれば、明治13年創立当時は,東大
 本科の同窓生30人(明治11年、12年の卒業生19人中17人、
 在校生15人中13人)より成る、些々たる小集団に過ぎな
 かったという。
  「明治13年1月、在京の製薬士、神田明神境内の開花楼
 にたけなわ会して新年会を催す。
  酒酣なるころ、某氏発議して曰く、我ただが徒、同窓
 多年その交、水魚啻ならざれども一たび業を卒へて、校
 舎を去るの日は一別東西、容易に相見ること能はず。
  年つい処悠久竟に呉越の疎情を生ずるに至らんことを
 恐る。
  宜しく今において情誼を永遠に保持するの策を講ぜざ
 るべからず。
  その方法の一端として、今より定期の親睦会を設くべ
 し」。
  満場一致これを賛成し、
  翌2月、第4土曜日を卜して各自会きょ費15銭を醵し、
  神田仲町福田屋に親睦会を開く。
  これを第1回とし、以来、毎月集まっていたのだが、
 親睦以外何も目的がなかった。
  初めの頃こそ、談笑囲碁の間に多少の交歓の楽しみも
 ありしなれ、
  会を重ぬるに従い興味衰え、
  晩秋には、会する者わずか3人になってしまった。
  そして、このまま明治13年は終わってしまうのである。
  創立というには、少し寂しい一年ではないか?
1880年4月24日、皇室紋章の乱用禁止
  因みに、国際的にも、皇室の紋章である「十六八重表
 菊」は、
  工業所有権の保護に関するパリ条約第6条の3に基づい
 て、1967年に、同条約の同盟国に通知されていて、
  これらの国では、商標登録をすることはできない。
1880年4月、朝鮮の漢城(ハンソン)(現=ソウル)に、日
 本公使館が設置された。
1880年5月10日、弘前で大火。焼失1500戸(5月17日説あり)
  陸奥弘前の大火(約1000戸焼失ともある)
1880年5月20日、地価を、さらに5年間据え置きと決定する。
  1873年(明治6年)の地租改正時にも、農民一般の不平
 は大きく、
  そのために、多くの騒擾(そうじょう、集団で騒ぎを
 起こし、社会の秩序を乱すこと)が起こり、
  やっと平静をとりもどしたのは、つい最近のこと、
  それを、今、急に、米納に戻そうとすれば、必ず農民
 蜂起が発生するであろう・・、
  この年(1880年)5月に、1885年まで、地価の再査定を
 せず、
  地租改正当初、定めた地価に基づいて、地租を徴収す
 る旨布告したにもかかわらず・・、
  今、米納の旧制に戻せば、
 「当ニ信義ヲ民ニ失フベシ」と考え、不採択とせざるを
 えなかった。
1880年5月21日、越後三条町、大火。
  約2500戸焼失、死傷者64人
1880年5月、結婚紹介所が、大阪に開業。
  日本初の結婚相談所が、大阪に開設され、
  「養子女婿嫁妻妾縁組中媒取扱所」と表示し、
  養子縁組や愛人の紹介もしている。
  大阪に、人々が集まって来た時世を現わしていた。
  人々は、「高砂屋」として結構利用したような様子。
  また、この頃、自分の略歴や相手への希望条件を新聞
 に記載して出し、結婚相手を探す広告も登場した。
1880年6月16日、明治天皇陛下が、中央道地方を御訪問(~
 7月23日)
1880年6月29日、東京代言人組合が創立した。
  会長は星亨(東京弁護士会の前身)
  1872年(明治5年)代言人(弁護士の前身)制度発足
  1876年(明治9年)代言人免許制度開始
  1880年(明治13年)代言人組合加入を義務付け
    東京代言人組合(東京弁護士会の前身)結成
  1893年(明治26年)弁護士法(旧々法)制度 弁護士の
   名称採用
    弁護士試験制度の新設
    弁護士会への強制加入制度
    東京弁護士会創立
  1933年(昭和8年)弁護士法(旧法)改正 弁護士の法
   律事務独占
    実務修習制度新設
    女性に資格貸与
  1946年(昭和21年)憲法公布
1880年6月1日、逢坂山(おうさかやま)トンネルが完成。
  日本人のみによる、最初のトンネル工事(外国人技師
 に頼らず完成させた)。
  長さ:664.8メートル。
  地質が悪く、当時の技術力では難工事だったという。
  トンネルは、そのほとんどが滋賀県内に位置する。
  古代より逢坂関が置かれたところ。
  西南戦争の影響でなかなか着工できなかったが、1878
 年8月21日に着工した。
  工期:1年9ヶ月。
1880年7月6日、不公正条約の改正
  井上外務卿が、条約改正案を各国公使に交付(アメリ
 カと中国=清国を除く)
  日本人を未開人扱いするような列強各国に対し・・、
  新しく参議兼外務卿となった井上馨は、最難関のイギ
 リス公使に、上野景範に代え、省内きっての親英派で強
 硬派でもある森有礼を起用した。
  そして、法権・税権の部分的回復を盛りこんだ改正案
 を作って、
  1879年(明治12年)9月19日、森駐英公使に基本方針を
 訓令した。
  同年・1879年11月には、在欧各国の公使に対し、海関
 税則改正と、開港場における外国人の不当な慣習(日本
 人を未開人扱いすることなど)の是正、日本の行政規則
 における軽微な罰則・制裁条項をもつ規則についての外
 国人への適用などを骨子とした条約改正方針を、各国に
 通知するよう訓令を発した。
  1880年(明治13年)3月の官制改革において、参議と卿
 は分離されたが、
  井上外務卿のみは、条約改正に携わる関係から、その
 例外とされ、
  なお、井上を補佐した最初の外務大輔(次官)は、前
 駐露公使・榎本武揚であり、
  外務少輔には、上野景範が任じられ、
  榎本が、海軍卿に転出すると上野が外務大輔に昇格し
 た。
  また、1880年5月以降は、横浜のアメリカ副領事であっ
 たヘンリー・デニソンが、外務省顧問に採用された。
  1880年6月に、井上案の骨子を基に修好条約改正案、お
 よび、通商航海条約改正案が準備され、
  同年・1880年7月6日に、条約改正会議を、日本で開催
 することをアメリカ・清国を除く、各国に通知した。
  この改正案の内容は、駐日オランダ公使からリークさ
 れ、7月16日付のジャパン・ヘラルド紙に掲載されてしま
 った。
  翌・1881年(明治14年)2月に、井上は、条約改正案を
 関係各国に回付した。
  列国の態度は、日本案は要求のみ多く、それに対する
 報酬は少ないとして、要求に対する対価や譲与を求める
 姿勢が強かった。
1880年7月14日、日本の独り立ちの大津線、京都-大津間が
 全通した。
  京都・大津間の鉄道開通式(7月15日説あり)
  外国人技師に依頼せず、邦人技師のみにて竣工せる最
 初の鉄道。
1880年7月17日、刑法・治罪法制定(公布)。
  斬首を廃止(⇒82・1・1施行)、新刑法公布(1907年)
  この刑法(旧刑法)で、刑事手続において少年として
 扱うことができる年齢が、12歳未満の者の行為は罰せず、
  20歳未満の者は、刑を軽減すると規定した。
1880年7月20日、明治天皇陛下が、神戸行幸の折、勅使を
 湊川神社へ差遣し、楠正成に正一位を追贈し給う。
1880年7月26日、明治天皇陛下、中央道巡幸より御帰還。
1880年7月31日、『団々珍聞』が、政府批判の挿絵(戯画)
 を載せ、発禁となる。
1880年7月10日、東京大学文学部第一回卒業式 (岡倉天心、
 井上哲次郎らが卒業)
  この日の、学位授与式において,文学部で初の卒業生
 8名が巣立った。
  因みに、1881年(明治14年)9月、文学部は、二学科
 体制から、哲学科(第一科)、政治学及理財学科(第二
 科)、和漢文学科(第三科)の三学科体制に組織替えさ
 れた。
1880年7月、紡績業の振興策
  この時に、官立・広島紡績所(ぼうせきじょ)を起工
 した。
  明治政府は、輸入全体の3分の1前後を占める綿製品の
 輸入を減らすのと、国内の綿作の回復のために、紡績業
 の育成を図り、
  1878年から、労働者数十人で、2000錘規模の工場を、
 各地に建設させるという政策をとった。
  模範工場として、官営・愛知紡績所と広島紡績所を設
 立した。
  一方、イギリスから輸入した2000錘紡績機10基を、民
 間有志に、年賦で、払い下げ(十基紡)、
  また、県や民間の紡績所に資金を貸し付け、
  さらに、内務省技師を、技術指導に派遣した。
  その結果、1880年代半ばまでに、20ヵ所近い小紡績が
 開業したが、大部分は経営不振だった。
  むしろ、臥雲辰致(がうんたつむね、紡績機の発明家、
 1842年~1900年)が、1876年に発明した「ガラ紡」が一時
 的に広まった。
  臥雲辰致は、1873年に、最初の紡織機を発明し、特許
 を申請し、特許をとった。
  そして、この紡織機の製作を事業化し、1877年の上野
 開催の第一回内国勧業博覧会に出展し、最高の賞である
 鳳紋賞牌を受賞した。
  そして、これが、各地に広まった。
  しかし、後に、洋式紡績機が普及し、高速に均質で細
 い糸を紡ぐ事が出来る様になったので、ガラ紡機は、
 1890年ころから、衰退した。
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  (今日の言葉)
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  題:沖縄は、どうなっているか?
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  中国の自治区と言っても、今、建前だけの自治区とな
 っている。
  名目上のトップは、ウイグル人だったり、チベット人
 だったりするが?
  その下の幹部は、そのすべてが、漢族で押さえられて
 いる傀儡(かいらい)政権だ・・と本にある・・、
  今、女真族は、影も形もない・・という・・
  そして、その族の、話される言葉もない・・、
  その独自の言葉も・・なくなってしまっている・・
  この族は、どこに行ってしまったかもわからない。
  この女真族・・女真族と言えば「満州族」・・、
  約80年強の以前には、日本が手助けをしてあげて、満
 州国が建国されたのに、
  今、満州族・女真族は、地球上から姿を消した、居な
 くなっている。
  そして、チベットは、今、「中国の各省が、皆(みん
 な)が金と人を出し合って、チベットを助けましょう」
 ・・というキャンペーン・一大運動をやり・・
  金で黙らせて・・、
  そして、中国全土から漢族が、大勢、大挙して・・チ
 ベットに入って来て、
  チベット人が、居住区から追われることも起きて、
  結果的に、漢族に、チベット人が「やられた形」にな
 っている・・という・・
  豊かになった中国、金のある中国、結局、沖縄だって
 「金で黙らせて」、こんなはずじゃなかったのに・・と
 なる。
  そうなった後では・・「手遅れ」・・
  中国は、チベットに簡単に行けるように、国家プロジ
 ェクトで・・鉄道や道路を完成させた。
  不満を言うチベット人は、力で押え込まれている。
  これに抗議して・・焼身自殺した仏教徒は・・160人以
 上、居るが・・報道されることは、ほとんどない。
  そして、今・現在、チベットの一部は、完全に中国と
 なっていて、「自治区」の「じの字」も出て来ない・・
  中国は、「青海省」とか、「四川省」とかの名前を付
 けて・・自国の様に・・
  ここは「チベット」でした・・と、過去形になってい
 る。
  「沖縄もこうなる・・うかうかすると・・こうなる」。
  チベットの件も、満州の件も、意外と早く、事は進ん
 で行った・・
  だから、あなたのお子さんが・・大人になる頃には・・、
  「沖縄が・・どうなっているか?」・・クエスチョン
 です。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive