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2017年5月19日金曜日

(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)527E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年、その他:
・度量衡法が公布された。
  日本は、1875年の度量衡取締条例による近代国家とし
 ての度量衡統一の後、1891年に、度量衡法が制定された。
  制定当時、原則としては尺貫法であったが、既に、日
 本は、1886年(明治19年)に、メートル条約に加盟して
 いたため、尺と貫はメートル原器・キログラム原器から
 換算する方法を採り、メートル法も公認されるという二
 元的な単位体系を取っていた。
  また、この1891年の度量衡法の公布、
  および、1893年の施行、
  1903年の中央度量衡器検定所設立の勅令公布、
  1907年~1931年の田中館愛橘の国際度量衡委員会委員
 就任、
  1909年、および、1921年の度量衡法改正・・などが重
 要。
  因みに、1921年の法改正は、メートル法への統一の方
 向を示すものであって、この公布の日である4月11日は、
 後に、「度量衡記念日」または「メートル記念日」と呼
 ばれるようになった。
・雇人口入営業取締規則が警察令として公布された。
  口入屋(くちいれや、人材斡旋屋、人材派遣屋)など
 の営利を目的とした職業紹介に対する規制は、福井県で
 は、1895年(明治28年)の県令28号「雇人口入営業取締
 規則」で、県内の営業者は営業許可が必要とされた。
  また、営利業者や募集人が、県外から職工を集団的に
 募集する事態に対応して、県外の営業者に対しても、1897
 年(明治30年)の県令72号で、県の営業許可が必要とな
 った。
  この様に、各府県ごとに行われていた規制は、第一次
 世界大戦がもたらした労働力需要のなかで、法的な整備
 をともなって全国的に行われるようになる。
  1919年(大正8年)3月には、救済事業調査会が「失業
 保護ニ関スル施設要綱」を答申し、おりしも、同年・1919
 年に、ワシントンで開かれた第一回「国際労働機関(I
 LO)」総会で、公益職業紹介所施設の増設と営利紹介
 所の全廃を内容とする失業に関する条約・勧告が決定さ
 れたことによって、国際的な労働基準にあわせた政策の
 調整が必要となっていた。
  こうして1921年(大正10年)7月、「職業紹介法」が施
 行された。
  同法では、事業は国の事務であるが、経費は市町村負
 担とされ、職業紹介の無料主義の原則が明らかにされた。
  一方、営利職業紹介は全面的には禁止されず、その営
 業と新規開業を規制した「営利職業紹介事業取締規則」
 が、1927年(昭和2年)から施行された。
  また、各府県の労働者募集取締規則を統一する内務省
 令「労働者募集取締令」が、1925年(大正14年)に施行
 された。
・井上円了が、妖怪研究会を結成した。
  井上 円了(いのうえ えんりょう、1858年3月18日~
 1919年6月6日)は、仏教哲学者、教育者。
  多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、哲学
 館(現:東洋大学)を設立した。
  また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪学
 講義』などを著し、一方で「お化け博士」、「妖怪博士」
 などと呼ばれた。
・(氷川清話)保安条例による壮士54名の東京退去。
  1891年1月13日に、保安条例を再び執行し、壮士など
 54名に東京退去をさせた。
  2月11日には、さらに8人が退去をさせられた。
  大同団結運動(1887年10月)で高揚した自由民権運動
 対策のための法律で、秘密の集会・結社を禁じた。
  また、内乱の陰謀・教唆(きょうさ、犯罪を行なおう
 と思う様に他人に仕向けること)、治安の妨害をする恐
 れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規
 定に従って、皇居から3里(約11.8km)以外に退去させら
 れ、3年以内の間、その範囲への出入りや居住を禁止され
 た。
・(氷川清話)勝海舟、孫女千代子誕生(のち、近藤勉武
 を養子に迎う)
・(氷川清話)酒井雄三郎の第二インター(ブリュッセル)
 出席。
  酒井雄三郎(さかいゆうざぶろう)は、1860年、熊本
 県に生まれ、1900年12月9日、パリに没した。
  明治の社会思想家。
  1879年、上京して中江兆民の仏学塾に入り、後に、そ
 の講師、塾長代理などをつとめた。
  1890年、万国博覧会がパリで開催された際、農商務省
 嘱託の事務官としてパリに渡り、万国博覧会の仕事にた
 ずさわる一方、社会問題を研究、ヨーロッパの社会事情、
 社会運動に関する報告を雑誌『国民之友』に寄稿した。
  また、1891年に、ブリュッセルで行われた第2インター
 ナショナル (→社会主義インターナショナル ) 第2回大
 会に日本人として初めて出席した。
  その報告を『国民新聞』に寄稿した。
  1892年、帰国して上野岩太郎、小島龍太郎、佐藤勇作
 らと「社会問題研究会」を創設した。
・(氷川清話)三条内大臣逝去。
・(氷川清話)松平慶永逝去。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1891年11月27日、福沢諭吉が勝海舟を批判する。
  福沢諭吉は、1891年(明治24年)に、「痩我慢の説」
 を書き、その中で、辛辣に勝海舟の批判をした。
  「痩我慢の説」は、1891年11月27日に脱稿され、1901
 年1月1日の「時事新報」紙上に掲載された。
  「勝海舟は、幕臣でありながら一度も戦うことなく、
 江戸城を明け渡し、しかも、敵であった新政府に入って、
 伯爵になるなど、立身出世までしている」・・と・・、
  武士の精神に反し、その進退は、「極めて不透明で不
 愉快だ」というのである。
  同様に、榎本武揚も批判し、福沢は、この両者に原稿
 を送って、公表しても良いかを質した。
  それに対し、榎本は、批判されたのが辛かったのか、
 無言のまま過ごした。
  しかし、勝は、一度は黙殺しようとしたが、返書を送
 った。
  そこには、簡潔に・・、
  「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、
   我に与(あず)からず我に関せずと存候」・・と言
 った。
  訳:自分の出処進退をどうするかは自分が決める。
    その結果について人は批評したりするだろうが、
    それは他人がやること。
    私のあずかり知るところではない。
  これは、自力で歴史を動かした大実行家の胸のすくよ
 うなタンカ(啖呵)である。
  勝の凄さがある。
  福沢の言い分を一言の下に退けた。
  この違いは、勝は、政治的人間であるのに対し、福沢
 は思想家であったから・・、
  福沢は、日本の生んだ最大の啓蒙思想家ではあるが、
 しょせん、口舌の徒。
  福沢には、政治的人間・勝海舟の悲しみと孤独の深さ
 は分らない。
  この二人の関わりは、咸臨丸で米国へ赴いている(300
 トンで40日かかった、1860年)。
  勝は艦長、福沢は、総督である木村摂津守の従者。
  咸臨丸に乗船中の勝は、終始不機嫌で、癇癪を起こし
 てばかりだった。
  体調も悪かったが、実力に比して不当に低い身分に対
 する不満もあった。
  勝は、7歳年下でも身分の上の木村に反抗的な態度をと
 ることが多かった。
  木村の従者の福沢にとって、これが不愉快でないこと
 はなく、二人の不仲の原因はここにあると言える。
  この不仲は、年月が経つほど悪化した。
  米国から帰国後、福沢は、世襲でないデモクラシーを
 感じ、この世襲が政治のバイタリティーを失っていると
 見抜き、「封建制度は親の仇(かたき)でござる」と言
 って、近代国家をしっかり把握している。
  これに対し、勝は、老中から、「その方は、眼光を具
 えているから何か眼を付けた事があろう」と言われ、
  「人間のする事は、古今東西同じで、アメリカとて別
 に変ったところはありません」と答えた。
  老中がなおも、「さようではあるまい、何か変わった
 ところがあろう」と聞く。
  再三再四、聞かれた勝は、「さよう少し眼につきまし
 たのは、アメリカでは、政府も民間も人の上に立つ人は
 みなその地位相応に怜悧(れいり、頭がよく、りこうな
 こと)です。
  この点ばかりは、まったく我が国と反対の様に思いま
 する」と答えた。
  老中は、目を丸くして「この無礼者、控えおろう」と
 叱った。
  この胆力と、一言の多さが勝の特徴である。
  福沢は、鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜が大阪城を
 抜け出して江戸に帰還し、江戸城が上へ下への大騒ぎに
 なった時に、それを見て冷笑し、江戸で戦火が開かれれ
 ば、自分は真っ先に逃げ出すと公言していた。
  上野の彰義隊が攻撃を受けている時に、平然と塾生に
 経済学の勉強をさせていたのも、これも当事者で無いか
 ら出来たことと言える。
  しかし、まさに幕臣の頂点に立っていた勝はそうはい
 かない。
  勝は、大実行家にならざるを得ず、しかも、矛盾した
 事でもやらざるを得なかった。
  その矛盾とは、近代国家を目指しながらも、徳川家の
 名誉だけは守るという事である。
  結果として、勝は、江戸城無血開城(1868年4月)を
 やり遂げた。
  勝は、本来、慶喜が浴びるべき旧幕臣の恨みを、一身
 で受けるつもりで、たった一人で、徳川幕府の幕引きを
 引き受けた。
  組織のたたみ方は・・非の打ちどころない。
  勝は、幕府に、取り立てて、恩義を感じていない。
  忠誠心も無かったであろう。
  忠誠心は新しい日本、近代国家に対してであった。
  勝は確信犯だ。
  勝は、晩年、巌本善治に「忠義という士というものが
 あって、国を潰すのだ」・・と・・、
  「己のような、大不忠、大不義の者が無ければならぬ」
 と言っている。
  無能者や既得権の保持者は、とかく隠れ蓑として、忠
 義の士を気取りたがるもの。
  自分はそうでないから大不忠者と言っている。
  勝が、幕府を見限ったのは、桜田門外の変(1860年3月)。
  この白昼の出来事は、幕府の骨まで腐っているという
 証拠に他ならない。
  勝は、当時、アメリカ滞在中であったが、幕府の寿命
 を実感した。
  ・・そして・・また・・
  勝が、幕府の死に体を、一層、痛感し、見限るように
 なったのは、それから4年後の第一次長州征伐(1864年8
 月)の時、
  幕府は、「井伊の赤備(あかぞなえ)」に代表される
 ような関ヶ原の戦いの当時の武器を持って参戦し、近代
 軍とは、かけ離れた状態だった。
  そんな幕府は、倒すしかないと感じていた。
  だから、神戸の海軍操練兵所で、坂本龍馬に・・、
  「攘夷などは不可能」。
  「国防こそが大事」。
  「その為には、国を統一しなければならない」・・と
 教え諭した。
  また、西郷が、「どうして幕府は本気で長州を滅ぼさ
 ないのか」と迫った時も、
  「もう幕府は、空洞化しているのだから、長州一藩を
 うんぬんするのでなく、諸藩連合で新しい日本を考えて
 行かねばならない」・・と、説いている。
  まさに、倒幕の勧めで・・、
  その結果、薩長同盟(1866年1月)も成立している。
  現在に例えると、一官僚が、官僚全部を解体したに等
 しい。
  勝の凄さであり、実行における孤独さもあった。
  「俺の孤独は、人にはわからん」・・と、勝は言って
 いる。
  福沢とは、実行家である勝とここが違った。
  勝は、また言う・・、
  「維新の頃には、妻子までもが、俺に不平だった」
  「広い天下、俺に賛成する者は一人も居なかった」
  「けれども、山岡鉄舟や大久保には、後から少し分か
 ったようだ」・・と・・
  「俺は、常に、世の中には、道というものがあると思
 って、楽しんで居た」
  また、
  「一事を断行している中途で、俺が死んだら、誰が俺
 に代わる者があるかという事も、随分心配ではあったけ
 れど、
  それに構わず、俺は、ただ行うべきことは行おうと大
 決心して、自分で自分を殺すような事さえ無ければ、そ
 れでよいと確信した」・・と・・、
  実際、勝は、生命を狙われる事が、何回もあった。
  倒幕のリーダーが西郷であったことも大きい。
  西郷は、勝から、「尊王攘夷という考えを捨てなさい」
 という教えを受けてから、勝には頭が上がらなくなって
 いた。
  元治1年、1864年9月11日に、西郷は、勝と初めて対面
 している。
  この会見の後、西郷は、大久保一蔵(利通)に宛てた
 手紙に・・、
  「勝氏へ初めて面会仕り候ところ、実に驚き入り候人
 物にて、最初は打ち叩くつもりにて差越し候ところ、と
 んと頭を下げ申し候。
  どれだけ知恵のあるやら知れぬ塩梅に見受け候。
  まづ英雄肌の人にて、佐久間より事の出来候儀は、一
 層も越し候らはん。
  学問と見識とにおいては、佐久間抜群のことに御座候
 へども、現時に望み候ては、この勝先生を、ひどく惚れ
 候」・・と・・、
  勝が、最後の幕臣として主張した事は・・、
  「徳川家を守る」、
  「徳川家臣団に、俸禄を保証してやる」、
  「江戸は徳川の官僚が守る」・・という3点だった。
  そして、慶応4年の1868年3月13日に、西郷との会見に
 臨む。
  勝は、「氷川清話」に書く・・、
  「当日、俺は、羽織袴で馬に乗って、従者を一人連れ
 たばかりで、薩摩屋敷へ出かけた。
  まづ、一室へ案内せられて、しばらく待っていると、
 西郷は庭の方から、古洋服に薩摩風の引っ切り下駄をは
 ひて、例の熊次郎という忠僕を従へ、平気な顔で出て来
 て、これは実に遅刻しまして失礼、と挨拶しながら座敷
 に通った。
  その様子は、少しも一大事を前に控えた者とは思われ
 なかった。
  さて、いよいよ談判になると、西郷は、俺にいふ事を
 一々信用してくれ、その間、一点の疑問も挟まなかった。
  「色々むつかしい議論もありませうが、私が一身にか
 けて御引受けします」・・西郷のこの一言で、江戸百万
 の生霊も、その生命と財産とを保つ事ができ、
  また、徳川氏もその滅亡を免れた。
  この会議は、極めてスムーズに進行した印象を受ける
 が、真実、そうでない。
  勝は、破談になった時のことを考えて、策略を巡らせ
 ていた。
  それは、第一に、西郷に対しナポレオンの教訓を教え
 ている。
  ナポレオンが、ロシアに攻め入った時に、ロシアは自
 らモスクワに火を放ち、それによってナポレオンも敗退
 させたという事で、
  いざとなれば、江戸でもそれと同じ焦土作戦をやると
 言って・・西郷を脅した。
  その手は、実際、打ってあった。
  一方、イギリス公使館通訳官アーネスト・サトウを通
 じて、イギリス公使のハリー・パークスも動かしている。
  勝が、西郷と最初の会談を行ったまったく同じ日(1868
 年3月13日)に、パークスは、東海道先鋒総督府参謀の長
 周藩士・木梨誠一郎と会議をしているが、
  パークスは、この時、「横浜が混乱して、貿易に支障
 をきたすと、日本の為にも不利益を生ずることになる」
 と言っている。
  (参考:長周は、長門国および周防国をまとめて呼ぶ
 場合の総称)。
  また、パークスは・・、
  「したがって、とりあえず、英仏両国の軍隊で警備に
 当っているから、さよう御承知おき戴きたい」・・と、
 発言している。
  これは、官軍が江戸に攻め入るようなら、『英仏両軍
 を敵に回す事になる』という脅しに他ならない。
  勝との2回目の会談を始める前に、当然、西郷にこの情
 報はもたらされていた。
  鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~1868年1月30日)
 では、官軍の近代兵器や、また、整然とした軍律から見
 ても、幕府軍に到底勝ち目は無かった。
  勝は、西郷との駆け引きで、江戸の治安は自分が守り、
 彰義隊も自分の手の上で踊らせ、できる事なら慶喜を水
 戸から江戸に呼び戻したいと考えていた。
  しかし、勝の思惑は外れてしまう。
  倒幕側に世代交代が起こった。
  西郷が退いて、大久保と大村益次郎、江藤新平が登場
 して来た。
  彼らは、西郷と違って、勝から教わった事もなければ、
 啓蒙されたこともない。
  彰義隊討伐は、わずか10時間で鎮圧されてしまった。
  勝は、2・3日は持つと思っていた。
  勝は、海軍の事は強かったが、陸軍の事は疎かった。
  陸軍の近代化をやってのけた大村益次郎の実力を知ら
 なかった。
  そして、実際には、江藤新平の率いる佐賀藩所有のア
 ームストロング砲が威力を発揮した。
  もし、彰義隊が2・3日持ち、耐えていれば、関東一円
 の譜代諸藩も挙兵し、東北列藩もこれに呼応しただろう。
  こうなったら形勢は、どうなっていたか分からない。
  勝も大久保も、共に、政治的人間で短気であったが、
 大事な時に頭に血の上らない人間であった、
  西郷は政治的人間であったが、西南の役(1877年)で
 部下のために情死したようなもので、滅びの美学に酔っ
 た。
  故に、冷静に日本を作ったのは、勝と大久保と言える。
  誕生したばかりの日本を、大久保は一人、渾身の力を
 込めて作ったと言っていい。
  勝の人脈はすごい。
  子分という縦の関係は無いが、横のネットワークは広
 い。
  これが、幕末から維新にかけて武力以上にものを言っ
 た。
  アメリカの国務次官補を務めたジョセフ・ナイは、「
 アメリカが強いのは、単なる軍事力、経済力だけじゃな
 い。ソフトパワーによるものだ」と言っているが、
  彼が言うソフトパワーとは、言葉と知恵の事で・・、
  勝は、このソフトパワーを持っていた。
  これからの時代、ますます、このソフトパワーが大切。
.
  (今日の言葉)
.
  題:過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
.
紀元前6万5500年、メキシコのユカタン半島へ小惑星が衝突
 した。
  これによって恐竜が絶滅した。
  また、2013年2月、ロシア中部に、直径20メートル(推
 定)の小惑星が落下し、1000人を越えるけが人が出た。
  宇宙航空研究開発機構(JAXA)の吉川真准教授による
 と地球に接近する可能性がある小惑星は、これまで約1万
 6000個が確認されている。
  直径数百メートル以上の小惑星が、地球に達する恐れ
 はないと見られている。
  地球に接近する小惑星や彗星(すいせい)を国際協力
 で早めに観測し、衝突を回避しようとする動きが盛んに
 なってきた。
    (読売新聞、2017年5月4日を参考にした)
.
2017年、アメリカを支配するエスタブリッシュメント層が、
 グローバリズムの果実を独占し・・、
  一方、一般のアメリカ国民は、どんどん貧しくなり、
 戦地に駆り出された若者が命を落して来た。
  日本のメディアも、アメリカ・メディアに同調して、
 トランプ大統領を茶化すばかり。
  これまで、メディアは、グローバリズムは正義であり、
 理性であると報道して来た・・そして、一方・・、
  ナショナリズムは、感情であり、愚かであり、排除す
 べきものという主張を・・、延々と、繰り返して来た。
  一般的なアメリカ国民の生活は・・貧しくなるばかり、
 アメリカは、アメリカとは関係のない国の紛争に、アメ
 リカ軍と投入し、介入し・・、
  若者の命と、税金が・・浪費されて来た。
  これから、旧来のエスタブリッシュメント層からの反
 抗が、想像を絶するものとなるだろう。
  トランプ大統領は、就任演説で、すべての国に対し、
 精神面、安全面、経済面で、「自立せよ」と訴えた。
  「中国の冒険主義を挫(くじ)くため、アメリカ海軍
 の軍艦を350隻(現在は276隻)に増強する」。
  「中国の人民元安を止めさせる」。
  「中国からの輸入品には、関税を最大45パーセントま
 で引き上げる」。
  極限まで広がった経済格差を縮小し、アメリカ人の雇
 用と所得を回復させる。
  『反グローバリズム』を公然と掲げた。
  アメリカを陰から支配してきたエスタブリッシュメン
 ト(支配階級)層に、反旗を翻(ひるがえ)す。
  エスタブリッシュメント層とは、具体的に言えば、ウ
 ォールストリート(世界金融の中心の一つ)に巣食う「
 国際金融資本」や、外交・軍事に隠然(いんぜん)たる
 影響力を持つネオコン(ネオコンサバティズム、新保守
 主義)と呼ばれる勢力。
  軍産複合体とも呼ばれる。
  ネオコンが、アメリカ国防総省を握っていた。
  彼らが、アフガニスタン、イラクと、次々に戦争を起
 こし、世界の紛争に介入し、アメリカ軍の若い兵士たち
 を、多数、犠牲にして来た。
  グローバリズムの果実を得たのは・・ほんの一握りの
 富裕層だけ。
  グローバリズムの名の下に、工場は海外移転し、雇用
 は捨て去られ・・、
  わずかに残った工場には、またまた、グローバリズム
 の名の下に「流入した移民」によって、雇用は奪われ、
  労働賃金は・・安く押え込まれる。
  グローバリズムを利用できる「アメリカを支配するエ
 スタブリッシュメント層・経営層」は、どんどん豊かに
 なり、濡れ手で粟の状態で・・、
  一般庶民は、この逆で、どんどん貧しくなり、貧富の
 格差は、またまた一層、拡大するばかり。
  この国際金融投機は公正でもなく、また、健全である
 訳でもなく、ギャンブルに依存する経済のこの様相が、
 豊かな未来を築こうとする社会の姿ではない・・目指す
 べき姿ではない。
  実直に、「ものづくり」をする経済への転換をしなけ
 ればならない。
  かつて、豊かにものづくりに励(はげ)んだ地帯が、
 今、「ラストベルト」と呼ばれている。
  ラスト(rust)は金属の錆〈さび)のこと、「錆び
 付いた工業地帯」を、グローバリズムの名の下の行動で、
 作ってしまった地帯が、化石の様に、苦悩を現わし、残
 っている。
  キリスト教に偏するNHKの元職員・宮崎緑は、NH
 Kの番組で、グローバリズムを連呼していた。
  世界中に、アメリカのほんの一部のエスタブリッシュ
 メント層が、自分たちに都合よく作ったシステム・・、
  何ら、グローバルでも何でもなく・・ただただ・・エ
 スタブリッシュメント層に都合の良いだけのシステム・・、
  グローバリズム、世界をアメリカ企業に、有利で、都
 合のいいグローバル市場にして行く。
  アメリカの1%の、ほんとの一握りの超富裕層、これに
 ゴマをするキリスト教に偏するNHK。
  一部の大金持ちが、超大金持ちになっただけ。
  アメリカのプア・ホワイトの賃金は、拡大どころか、
 低落してきた。
  1973年から1998年にかけて、26%も減少した。
  25年間で、何と! 4分の3に減ってしまった。
  これが・・グローバリズムなのだ。
  一部の金持ちが、より金持ちになっただけ・・
  かつて、アメリカを支えた中流層・中間層は居なくな
 り、貧しくなり、教育に金をかけられなくなり、国は荒
 れた。
  今、若者は、アメリカの若者は、軍に志願して入隊し、
 奨学金を貰って、退役後に大学に入るという道を選んで
 いる。
  アメリカでは、1973年に、徴兵制が廃止され、志願兵
 を採用する制度になっている。
  毎年、15万人の若者を集めるために、大学の奨学金を
 「エサ」に使って、貧困層や、移民の子弟をかき集めて
 いる。
  そして、国際金融資本の意を受けたネオコンによって
 作られたイラク戦争などの無意味な戦争に駆り出される。
  また、アメリカの政治を繰るウォール・ストリートが
 ある。
  ここの金が、アメリカの政治を繰る、そして、それが、
 世界へ波及する。
  また、ここの金に群(むら)がるメディアが居る。
  このアメリカ・メディアに、頭の上がらない日本のメ
 ディアが、アメリカメディアに靡(なび)く、ゴマヲス
 ル。
  ウォールストリートは、軍産複合体とも連なっている。
  今、この陰謀の大山脈に挑む者が表れた。
  古いしがらみ、金、癒着などのカサブタが・・、
  ガサガサのかさぶたが、何層にもこびりついた「旨い
 汁を吸うかさぶた連中」が、一層一層、剥がされていく。
  若者の血を吸って来た者どもが、剥がされていく。
  過去に亡くなった若者の方々へ懺悔し、悔い改めよ!
  また、その無意味な戦争で亡くなられたイラクなどの
 方々、戦争と何ら関係のない亡くなられた方々へも懺悔
 し、悔い改めよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2017年5月17日水曜日

(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)

題:(増補版)526E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年(明治24年)、出来事:
・第3代内閣総理大臣:山県有朋・1889年(明治22年)12月
 24日~1891年(明治24年)5月6日
・第4代内閣総理大臣:松方正義(第1次松方正義内閣)1891
 年(明治24年)5月6日~1892年(明治25年)8月8日
・(氷川清話)松方内閣。
・(氷川清話)第二議会解散。
・予算案を巡って政府と民党との対立は激化し、政府は窮
 地に立った。
・釧路港が、特別輸出港に指定された(1890年説あり)
  港湾に出入りする貨物の量と質は、後背地域の生産と
 消費によって規定される。
  そのため、港湾は後背地との関係で論ぜられることが
 多い。
  釧路は、石炭、水産、製紙を三大基幹産業として成長
 してきた都市。
  釧路港で水揚げされた魚は、飼肥料や食用として国内
 外へ移輸出された。
  製紙工場は、アメリカやカナダからチップや木材を輸
 入し、新聞紙や段ボールとして東京や大阪方面に移出し
 た。
  しかし、貨物取扱量の内、輸出量が極端に低かった。
  1886年(明治19年)、安田善次郎は、硫黄山の硫黄採掘
 権を獲得した。
  そして、その硫黄輸送のために、1892年(明治25年)に、
 硫黄山と標茶を結ぶ鉄道(釧路鉄道)を開通させた。
  それまで、硫黄は、標茶から釧路川河口(現在の港町付
 近)まで釧路川を汽船によって運ばれ、一旦、倉庫に保管
 されていた。
  当時の釧路は、港湾荷役設備がまったくないため、硫
 黄は沖合いに停泊している汽船(日本郵船)へ艀(はしけ)
 によって運ばれ、函館へ、さらに、アメリカやオースト
 ラリアへと運ばれた。
  そして、この年・1890年(明治23年)、釧路港が特別輸
 出港に指定された。
.
1891年、データ:
・1891年1月1日の日本の総人口が4025万人となり、4000万
 人を突破した。
・1891年9月の東京の電話加入者数500。
.
1891年、国際関係:
・露仏同盟が結ばれた(1891年1月4日)
  軍事同盟で、ドイツ・オーストリア・イタリアによっ
 て構成される三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた
 場合、他方の国が軍事的支援を行う。
  1890年、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクの辞任にとも
 ない、従来のドイツ外交に変化がもたらされた。
  これまでのドイツ外交は、フランスの孤立化を重視す
 る観点から、対ロシア外交を重視したが(ビスマルク体
 制)、
  この年より親政を行う皇帝・ヴィルヘルム2世は、この
 ことに固執しなかった。
  そして、1887年より継続していた独露再保障条約が更
 新されないことになった。
.
1891年、交通:
・日本鉄道の上野~青森間が全線開通した(東北本線鉄道
 全通)
 毎日、1往復の旅客列車。
 下り:26時間25分、上り:26時間40分。
・日本鉄道、甲乙二種の定期乗合割引切符の発売を始めた。
 甲は、1ヶ月2割(通学は4割)、乙は、2ヶ月2割5分(同
 じく5割)の割引。
・ロシアがシベリア鉄道の工事を始めた。
  世界一長い鉄道で、モスクワ(正確にはチェリャビン
 スク)から日本海岸のウラジオストクまでの7416キロメ
 ートル。
  ロシア号は、約7日間をかけて走破する。
  建設計画は、1850年から始まっていた。
  そして、1891年から建設開始し、露仏同盟を結んでい
 たフランス資本からの資金援助を受けながら工事を進め
 た。
  1524mmの広軌を採用したが、これは、欧州と同じの
 1435mmの標準機を採用すると、ナポレオンの様な侵略
 者に使われると脅威になると考えた。
  全線開通は、日露戦争の最中の1904年9月だった。
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1891年、衣:
・東京大森の川田父子が、経木真田(きょうぎさなだ)を
 発明した。
  経木真田は、経木を細く切って真田ひものように編ん
 だもの。
  夏帽子などの材料に用いる。
・信玄袋(しんげんぶくろ)が現れた。
  信玄袋は、布製の平底の手提げ袋で、口をひもで締め
 るようにしたもの。
・女持手さげ鞄が現れた。
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1891年、住:
・長崎市水道が竣工した(給水開始:1891年5月16日)
 日本で3番目の近代水道として始まった。
・熊本電燈会社(火力・直流)、北海道電燈、それぞれが
 開業した。
  1888年8月31日に、長崎電灯会社が設立免許を受け、競
 争する様に熊本電灯会社が、1889年12月17日に設立許可
 を受けた。
  1890年が恐慌で、この影響を受けた。
  また、1891年1月20日の漏電による帝国議事堂焼失事件
 により「電灯危険説」が出た。
  これにより、電灯会社は危機に陥った。
  「電灯危険説」は波及し、宮中の電灯は御休止となっ
 た。
  京都電灯会社についても、新聞が、「開業以来の努力
 も大方水泡に帰し、休灯、廃灯するもの続出し」と報じ
 ている。
  そして、次のようにも報じた・・、
  「国会議事堂焼失の原因、横浜共同電灯会社二号活字
 を以て左の通り広告せり、
  電灯より出火せしに非す、電灯は火事の為めに焼かれ
 たり」。
  九州でも、「一旦申込をなした人々の間に於いても電
 灯の危険なるを疑ひ、事業の前途に不安を抱いて約定金
 を棒に振って脱退する者が出来・・此の為に会社の設立
 も一時危まれ」・・云々。
・ガスの白熱マントルが使用されはじめた。
  ガス灯の火口は、「マントル」という丸い発光材で包
 まれ、この発明によって、青白く進化した炎の色が好ま
 れた。
  これによって、室内のあかりとしても、より一層、使
 われるようになった。
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1891年、報道・事件:
・イランで、反イギリス運動であるタバコ=ボイコット運
 動が起きた。
  1891年、カージャール朝のイランで起こった民衆の反
 イギリス運動で、
  イランは、19世紀以降、北方からのロシア、そして、
 インド方面からのイギリスの侵出にさらされていた。
  トルコ系征服王朝であるカージャール朝は、外債に依
 存して民衆生活を抑圧する政策を続けていた。
  1890年、カージャール朝の国王ナーセロッディーン=
 シャーは、イギリス人投機家タルボットに、期限50年の
 イランのタバコに関するすべての権利を与えた。
  その独占供与の見返りで、純益の4分の1をシャーが
 受け取ることになっていた。
  このことが、イスタンブルで発効されていたペルシア
 語新聞で暴露され、イラン国内に激しい反対運動が起こ
 った。
  当時、イスタンブルにいたアフガーニーが指導し、
  国内のシーア派の法学者であるウラマー、タバコ商人
 が、先頭に立って、タバコをボイコットする運動に発展
 した。
  この運動は、カージャール朝に大きな打撃を与えた。
  1892年、国王は、事態を沈静化するためイギリスへの
 利権供与を取り消したが、
  多額の違約金を払ったため、その負担は、財政を強く
 圧迫した。
  因みに、イラン人は、イスラーム教徒であるので、酒
 を飲むことはできなかった。
  しかし、タバコは許されていたので、大衆の最も好む
 嗜好品として普及していた。
  それだけにタバコ=ボイコットは、民衆にとっても厳
 しい戦いだった。  
  イランでは、「トゥートゥーン」という紙巻きや、キ
 セル用の葉タバコと、「タンバークー」という水キセル
 用の刻みタバコの二種類があったが、
  イラン人は、特に「タンバークー」の方を好んだ。
・(氷川清話)巡査・津田三蔵のロシア皇太子傷害事件。
  1891年5月11日、来日したロシア皇太子ニコライ・アレ
 クサンドロビッチへ、巡査が、突然、抜刀し、皇太子は
 斬られ、負傷した(大津事件)。
  来日が、「日本侵略の準備」という噂を信じたためで
 あった。
・(氷川清話)児島大審院長の司法権の独立問題。
  この大津事件の際、児島氏は大審院長として、司法権
 の政治部門からの独立を守り抜いた。
  被告人である津田は、大逆罪により大津地方裁判所に
 起訴された。
  そして、総理大臣・松方正義ら政府首脳が、大逆罪の
 適用を強く主張していたこともあり、
  大審院は事件を自ら処理することとした。
  これに対し、児島は、津田の行為は、大逆罪の構成要
 件に該当しない(罪刑法定主義)との信念のもと、審理
 を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人ひとりを説得
 した。
  結局、大審院は、津田の行為に謀殺未遂罪を適用し、
 無期徒刑を宣告した。
  司法権の独立の維持に貢献した児島は、「護法の神様」
 と日本の世論から高く評価され、
  また、当時の欧米列強からも、日本の近代化の進展ぶ
 りを示すものという好評価を受けた。
・内村鑑三不敬事件
  第一高等中学校で、内村鑑三の不敬事件が起きた。
  内村は、1890年から、嘱託教員となっていた。
  そして、1890年10月30日に、教育勅語が発布された。
  1891年1月9日に、講堂で挙行された教育勅語奉読式に
 おいて、内村の行動は、軽くおじぎをして降壇する状態
 だった。
  このおじぎの程度が問題となった。
  この「おじぎ」のことが、同僚や生徒などによって非
 難された。
  そして、やがて社会問題化した。
  日本組合基督教会の金森通倫は、皇室崇拝、先祖崇拝
 は『許される』と主張した。
  しかし、日本基督教会の指導者・植村正久は、これを
 『認めなかった』。
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1891年、論・文学・本:
・幸田露伴『五重塔』
  腕は抜群だが、愚鈍なため「のっそり」とあだ名され、
 そして、世渡りの才覚のつたない大工・十兵衛が、
  江戸・谷中の感応寺の五重塔建立の仕事を請ける。
  そして、恩義ある親方の川越の源太と争い、辛苦の末、
 また、さまざまな妨害にも屈せず、ついに、みごとに完
 成するまでの屈曲を描いた。
  主人公の十兵衛は、妥協を知らない偏屈な名人気質で、
 義理人情の世界をこえる非情な主我を、独特の名文で描
 き、明治文学の新生面を開拓した。
・大槻文彦編『言海』完成(6月)
  言海(げんかい)は、国語学者の大槻文彦が、明治期
 に編纂した国語辞典。
  日本初の近代的な普通語の辞典だった。
  第4冊(4月22日)
  6月23日、出版祝賀会を東京・芝紅葉館で開催し、総理
 大臣・伊藤博文、勝海舟らが出席した。
  1875年(明治8年)、当時、文部省報告課に勤務してい
 た大槻文彦が、報告課長の西村茂樹に、国語辞典の編纂
 を命ぜられ、編纂を開始した。
  国の辞書があるということは、その国を近代国家とし
 て認めさせる手段の一つだったため、
  当時のイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどで
 は、国語辞典作りが盛んに行われていた。
  明治政府は、「日本が近代国家の仲間入りをするため
 には、日本語という国語を統一する必要があるから、我
 が国にも国語辞典が必要だ」とした。
・『早稲田文学』創刊(10月)
  前年、新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文
 学科の機関誌として創刊された文芸雑誌。
  第一次早稲田文学は、坪内逍遥が主宰し、創刊した。
  日本初の文芸誌だった。
  第一次早稲田文学は、全156冊、1891年10月~1898年
 10月。
  最初は、講義録風なものであった、そして、逍遥と森
 鴎外との間に没理想論争が展開されたりした。
  そして、次第に、逍遙、島村抱月、綱島梁川らの論文
 がふえ行く。
  文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不倒(ふとう)
 (1858年~1943年)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ち
 ゅうがい)、五十嵐力(ちから)らが、誌面で活躍しはじめ、
 文芸誌としての色彩を強めた。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆した。
  明治文学の嚮導者(きょうどう、先に立って導くこと)
 として果たした役割は大きい。
.
1891年、流行・世相・歌:
・木挽町郵便局が、郵便配達に自転車を使用した。
・川上音二郎の「オッペケぺ-節」が大流行する。
  川上音二郎は、民権思想の新聞記者として「自由童子」
 と名乗った、入獄10数回を数える。
  政治的意見が表明しにくく、言いたいことをオッペケ
 ペーの歌詞の中でズバズバ言った。
  そのため、不満を感じていた民衆に受け、爆発的な人
 気となった。
  権利(けんり)幸福(こうふく)きらいな人に。
  自由湯をば飲(の)ましたい。オツペケペ。オツペケ
 ペツポー。ペツポーポー。
  堅(かた)い上下角(かど)とれて「マンテル」「ヅ
 ボン」に人力車、意気な束髪(そくはつ)ポン子ツト。
  貴女(きぢよ)に伸士(しんし)のいでたちで。外部
 (うはべ)の飾(かざり)はよいけれど、政治の思想(
 しそう)が欠乏だ。
  天地の真理(しんり)が解(わか)らない。心に自由
 の種(たね)を蒔(ま)け。オツペケペ。オツペケペツ
 ポペッポーポー
  米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民(さい
 みん)困窮(こんきう)省(みかへ)らす、目深(まぶ
 か)に被(あ)ふた高帽子(たかほうし)。金の指輪(
 ゆびわ)に金時計。権門(けんもん)貴顕(きけん)に
 膝(ひざ)を曲け。藝者(げいしや)たいこに金を蒔(
 ま)き。内には米を倉(くら)に積(つ)み。同胞(ど
 うほう)兄弟見殺(みごろし)か。
  幾等(いくら)慈悲(じひ)なき慾心(よくしん)も。
  餘り非道(ひどう)な薄情(はくじやう)な、但し冥
 土(めいと)の御土産か。地獄(ぢごく)でゑんまに面
 會し。わいろ遣ふて極楽へ。行けるかへゆけないよ。オ
 ツペケペ。オツペケペツポーペツポーポー
  亭主の職業は知らないが。おつむは当世のそくはつで。
 ことばは開化のかんごで。みそかのことわりカメだいて。
 不似合だ。およしなさい。なんにも知らずに知た顔。む
 やみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビ
 ールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食
 を。やたらに喰ふのもまけおしみ。ないしよでこうかで
 へどついて。ましめな顔してコーヒ飲む。おかしいね。
 ヱラペケペツポ。ペツポーポー。・・(後略)・・
・明治美術会で「裸体画と風紀問題」について議論に。
  その二枚の絵は、いずれも幼い男の子の草刈りと、牛
 にまたがった姿(東京日日新聞)
  黒田清隆の生涯は、裸体画問題と格闘し続けたと言え
 る。
  裸体画を盛んに制作した黒田清輝や、彼が属していた
 白馬会が、論争において裸体画を強く支持した。
  日本における裸体画の嚆矢(かぶらや)は、黒田清輝
 による『朝妝(ちょうしょう)』(明治26年・焼失のた
 め現存せず)だった。
  この作品は、黒田が、ヨーロッパから帰国した後の明
 治27年(1894年)、明治美術会第六回展に出品された。
  この時は、何も問題にはならなかったが・・、
  翌・明治28年(1895年)、京都の岡崎公園で開催され
 た第四回内国勧業博覧会に出品された際、その出展可否
 をめぐって論争が巻き起こった。
  黒田にとって裸体画は、自らが滞欧中に学んだ西洋美
 術の普遍的な美を体現したものだった。
  実際、紀元前5世紀頃、ギリシア人によって描かれて以
 来、裸体画は、肉体と精神を統一した人間の全体性を表
 したものとして、西洋美術の規範に組み込まれて来た。
  (イギリスの美術史家、ケネス・クラークは、その美
 の理想像としての裸体を「nude(ヌード)」として、裸
 の肉体そのものを指す「naked(ネーキッド)」と概念的
 に区別した)。
  それゆえ、「美術」を日本社会に輸入し、定着させる
 ことを目指した黒田にとって、裸体画は、「美術」を社
 会に公認させるための重要な手段だった。
  ところが、近代日本において、裸体画は、風俗を紊乱
 (ぶんらん、乱すこと)する春画の一種とみなされがち
 だった。
  西洋列強に追いつくことに必死だった明治政府にとっ
 て、そもそも裸体は、先進国にふさわしからぬ野蛮な習
 俗であり、
  事実、明治4年(1871年)、東京府知事により「裸体禁
 止令」が発令されると、公の場で裸体になることが処罰
 の対象となった。
  これを徹底させるためにも、裸体画を公共空間で堂々
 と展示されては都合が悪かった。
  結局、同博覧会審査総長の九鬼隆一の判断により『朝
 妝』の展示は継続された。
  続く1897年(明治30年)、黒田は、日本人をモデルに
 した初の裸体画とされる『智・感・情』を、白馬会第二
 回展に出品するが、新聞紙上で論争が起こったものの、
 官憲による取り締まりは、とくに見られなかった。
  だが、明治34年の白馬会第六回展において、警察は本
 格的な取り締まりを実行した。
  黒田が、フランス滞在中、フランス人のモデルを使っ
 て描いた黒田による『裸体婦人像』をはじめ、
  黒田が、フランスから持ち帰ったラファエル・コラン
 の『オデオン座天井画下絵』、湯浅一郎の『画室』など
 が、著しく風紀を紊乱するとして、警察は特別室での鑑
 賞という制限を求めた。
  これに対し、黒田と白馬会は、あくまでも一般観衆へ
 の公開にこだわった。
  その妥協案が、当該作品を額縁ごと布で覆って展示す
 る方法だった。
  これが後に「腰巻き事件」と言われた事件で、
  この作品は、膝を横に折り曲げ、床に腰を下ろした白
 人女性が描かれているが、警察によって「わいせつ」と
 され、女性の胸から下半身までを、額縁ごと布で覆い隠
 された。
  裸体画は、エロティシズムが含まれている点は否めな
 いが、美術作品を鑑賞するという視線を『自立的に確立
 することができる』のではないか・・という・・
  近代日本における裸体画論争の根底には、そのような
 美術の専門的な鑑賞者を育成する意図もあった。
.
1891年、科学:
・ベルンの国際地理会議で、「統一された国際図」の作成
 が提案された。
  今まで、各国政府が独自のルールを設けて、ばらばら
 に地図作りを行なっていたために、いくつもの国にまた
 がる問題を検討しようとするとき、ひどく不便な状態に
 あった。
  1891年、ベルンで開催された第5回国際地理学会議に
 おいて、ドイツの地理学者、アルブレヒト・ペンク(1858
 年~1945年)は、統一された国際図の作成を提案した。
  1913年のパリ国際地理学会議で決められた規格は、『
 国際100万分の1世界図』とよばれ、
  縮尺は1/100万、図法は変更多円錐図法、図幅は経度
 が6度で、緯度が4度として国境線で図葉を区切らない、
 長さの単位はメートル法、地形は等高線による段彩など
 の内容だった。
・三重県の真珠を、広島に移植試験を行なう。
  1893年7月11日に、御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養
 殖に成功したが・・、
  1891年10月、三重県英虞湾(あごわん)の阿古屋貝(
 アコヤがい)を、広島県厳島の海岸に移植した。
・インドネシアのジャワ島のトリニール付近で、ジャワ原
 人(化石人類)の頭蓋骨と大腿骨が発見された。
  オーストラリア先住民などに進化したとする研究者も
 いるが、
  現生人類の直接の祖先は、アフリカのホモ・エレクト
 ス(ホモ・エルガステル)であって、アジアにいた北京
 原人やジャワ原人は、直接の祖先ではないとする意見が
 支配的。
  脳頭骨は小さく、脳容量も900cc程度と推定され、対照
 的に眼窩上隆起は大きく、額は現代人のように丸く膨ら
 まないで低く倒れたように傾斜するなど、原始的な特徴
 が多い。
.
1891年、災害・防災・公害:
・濃尾地方に大地震がおこり、7273人が亡くなった(1891
 年10月28日6時38分50秒)
  マグニチュードは M = 8.4、
  家屋全壊:142,177、半壊:80,324
  震央近くでは、揺れにより山の木が全て崩れ落ち、は
 げ山になったなどと伝えられる。
  また、岐阜市と周辺では、火災が発生し、被害を大き
 くした。
  名古屋城の城壁や、宿場町の江戸時代からの建物の被
 害は言うまでもなく、
  長良川鉄橋の落下をはじめ、耐震構造になっていなか
 った橋梁や煉瓦の建築物などが破壊された。
  この地震によって耐震構造への関心が強まり、研究が
 進展する契機となった。
・足尾銅山鉱毒事件
 (氷川清話)田中正造の足尾公害問題
  足尾銅山の廃液が原因となって起きた公害問題で、
  田中正造が、議会で鉱毒問題を取り上げ、追及した。
  栃木県足尾銅山は、1877年、古河市兵衛(ふるかわいち
 べえ)の経営に移ってから、急速に近代化された。
  1884年に、住友の愛媛県別子(べっし)銅山を抜いて全
 国一の銅山となった。
  反面、古河の生産第一主義的な経営は、煙害と製錬用
 薪炭材の乱伐による足尾山林の荒廃を招いた。
  また、その山が荒れたことによる大洪水を頻発させた。
  大量の廃石や鉱滓(こうさい)、有毒重金属を含む酸性
 廃水を垂れ流した。
  そのため、1885年ごろから、鮎(あゆ)の大量死や鮭(さ
 け)の漁獲量の激減など、
  渡良瀬(わたらせ)川の漁業被害が顕在化するとともに、
 流域の広大な農地と、農作物に鉱毒被害が発生した。
  特に、1890年の洪水による鉱毒被害の激化は、農民を
 鉱毒反対運動へと駆り立てた。
  1891年、第2議会において、田中正造(しょうぞう)は、
 政府の鉱山監督行政の怠慢を批判した。
  汚染された渡良瀬川流域の被害農民らの、再三の請願
 や、田中正造の天皇陛下への直訴で、政治・社会問題と
 なったが、政府は弾圧した。
・帝国議事堂火災
  開期中の1891年1月20日未明、衆議院政府委員室から
 出火。
  貴族院にも延焼し、議事堂が全焼した。
  出火原因について、衆議院書記官長が、「衆議院政府
 委員室の電灯管の熱度暴騰し、為めに発火し他の電管に
 移って竟に防火の手段なきに及べり」と、漏電による旨
 を議会に報告し、また、官報号外をもって公示した。
  この頃は、電灯が文明開化の波に乗って、華々しくデ
 ビューした時期だった。
  直流方式の東京電燈会社と、交流方式の大阪電燈会社
 が優劣論争を戦わせながら、市場獲得に躍起になってい
 た矢先でもあった。
  電灯に対する一般人の理解も、ガラス球の中に火を閉じ
 こめた程度のものだった。
  そのため、議事堂が漏電から全焼したと聞くと、たち
 まち点灯休止の申し入れが殺到した。
  この機に、灯油の販売量減少を恐れていた石油販売会社
 は、電灯の罪業を宣伝した。
  当時の新聞に・・、
  「流行物たる電気灯は、実に恐るべき功能を世人に識
 らしめたり、昨年は大阪に於ては人命を奪い、東京にて
 は、当市の飾物たる鹿鳴館を焼かんとし、遂には、今回
 は我神聖なる帝国議事堂を烏有に帰せしめしのみならず、
 緊急欠くべからざる議事をも妨げたり、嗚呼悲しむべし」
 と痛烈な広告を出した。
  せっかく軌道に乗りかけた需要が、一時にドッと減った
 東京電燈会社は、漏電にあらずと主張し、公示の訂正方
 を求めて、衆議院書記官長を告訴した。
  が・・しかし、敗訴するに至り、矢島作郎社長以下の
 全役員が引責辞職する結果となった。
  窮地に追い込まれた電灯会社は、東京、大阪が共同防
 衛体制を整えねばならず、日本電燈協会(現:日本電気
 協会の前身)を明治25年(1892年)5月に設立させた。
  ところが、この協会設立準備中に、再び、帝国議事堂衆
 議院談話室から出火する事件が起こった。
  電灯会社は、大変びっくりしたが、電灯会社には幸い
 な「だんろの火の不始末」が出火原因と分かり、胸をな
 でおろした。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive