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2015年5月30日土曜日

(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年~1642年)

題:(増補版)115D1/3:気になった事柄を集めた年表(1641年~1642年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1642年、関孝和(せきたかかず)が生まれた(1642年頃~
 1708年)和算家(数学者)、
  経歴の不明部分の多い人、
  上野国(群馬県)の生まれ、徳川家宣が6代将軍になる
 と直参として江戸詰めとなる。
  素晴らしい所は、和算が中国の模倣から超えて、独自
 の西洋を越えるほどの発展をした点。
  世界で最も早い時期に、行列式・終結式の概念を明示
 した。
  また、世界より200年も早く、円周率の高い近似値を求
 めていた。
  また、驚異的な事は、ベルヌーイ数は関孝和の発見で
 あり、数学史を塗り替える業績である。
  その他にも、広い素晴らしい業績が多くある。
1642年、井原西鶴(いはらさいかく)が生まれた(1642年~
 1693年)大坂の浮世草子・人形浄瑠璃作者、
  代表作:「好色一代男」「好色一代女」「日本永代蔵」
 「世間胸算用」
1642年、倹約令を発した。
  絹を用いる事が禁止され、木綿を用いる様にした。
1642年、譜代大名の江戸在勤の制を定めた。
  譜代大名70人の江戸の在勤期間を定めた。
1642年、諸国が飢饉となった(寛永の大飢饉)。
  全国的な異常気象により大飢饉となった(大雨、洪水、
 旱魃、霜、虫害)。
  また、蝦夷駒ヶ岳が噴火し、降灰により、陸奥国津軽
 地方が凶作になった、
  また、初夏に畿内、中国、四国地方が日照りによって
 旱魃となった、
  そして、秋には大雨、北陸では長雨、冷風などがあり、
 全国的な異常気象となった。
  百姓の逃散や身売など頻発した。
  家光は、諸大名へ領地へ帰国し、領地の飢饉対策をす
 る様に指示した。
  また、諸国へ対し、倹約のほか、煙草作付けを禁止し
 て米作を奨励した、
  また、身売り禁止、酒造統制、雑穀を用いる製造を禁
 止した。
  また、救民のための「御救小屋」を設置した。
  また、諸国へ米の常食を禁止して、うどん・そば・饅
 頭の商売を禁止した。
  飢饉は、1642年~1643年に最も甚だしい状態に達した。
1642年、農業政策、
  幕府農政が、小農の保護・育成に転換した、
  小家族労働力による集約経営への農村の変貌始まる。
1642年、諸大名へ農民の救済を命じた。
1642年、旗本に知行地の農民の救済を命じた。
1642年、郷村諸法度を公布し、農民に各種の制限を加えた。
  倹約の意味があるが、飢饉対策でもあった。衣類への
 制限、酒・たばこの禁止など
1642年、参勤交代制に改正を加えた。
  譜代大名の交代期は6月に、
  特に、関東の譜代大名は、在府・在国半年に、8月ない
 し2月交代となった。
  他に、対馬の宗(そう)氏は、三年一勤(4か月在府)に、
  水戸藩や老中などの役付大名は、江戸定府(じょうふ)
 となった。
1642年、倉敷が江戸幕府の直轄地「天領」になった。
1642年、番士(ばんし、京都などの警護をする兵)の家督
 を定めた。
1642年、勘定奉行が、制度として成立した。
1642年、伊奈忠次に関東諸代官の支配を命じた。
  幕府は、伊奈忠治に対して関東代官の統轄と、河川の
 改修、築堤の専管を命じた。
  これによって関東郡代が事実上成立した。
1642年、イギリス
  ピューリタン革命(1642年~1649年、1640年~1660年
 とする説もあり)と、名誉革命(1688年~1689年)の二
 つの革命が、この時期に、イギリスにあった。
  シュチュアート朝君主の圧政に対して、議会勢力が抵
 抗し、国王を処刑し、共和制を確立した(ピューリタン
 革命)、
  クロムウェルの議会軍が、ピューリタンを中心勢力と
 したのでその名があるが、
  保守的な長老派と、急進的な水平派などを弾圧し、
  1649年には、アイルランドを征服して植民地とするな
 どした、
  新興の市民階級の利害関係が背後にあった。
  しかし、クロムウェルの厳格な政治は不評判であり、
  1660年に、王政復古となるが、
  フランス亡命から戻った新王が、再び、反動政治を行
 ったため(キリスト教カトリックの復活政策と議会無視
 をした)
  やり方は、さも、正義な様なことを言った、「信仰の
 自由」である、
  そして、この「信仰の自由の宣言」で、実は、カトリ
 ックを復活させようとした(王と教会の戦い)、
  トーリー、ホイッグ両党は協力して、ジェームス2世王
 を廃位にした。結果的に、王は国外へ逃れる。
  王の娘・メアリとその夫・オランダ統領オレンジ公ウ
 ィリアム(キリスト教プロテスタント)を王に迎える。
  (ウィリアムは、1万3000の兵と共に、イギリスに上
 陸した、そして、ロンドンを目指して進軍した、
  イギリス北部には、これに呼応して反乱が起こった、
  そして、貴族が兵と共にはせ参じたり、
  寝返る貴族も現れたり・・の、混乱が起きた。
  ウィリアムがロンドンに入った直後、王は、フランス
 へ逃れた。
  あまりにも支持される様な政治をしていないため、
  臣下や民心の心が離れていたため、
  大きな争いも起きなかった。
  これが無血に近い状態で終わった理由だった)。
  流血をあまり見なかったので、名誉革命と言われてい
 る。
  しかし、議会は、彼ら新王の即位の条件として、権利
 宣言(後に、権利章典)の受諾を求めた、
  新しい王はこれを認め、ここに議会主義の確立を見た。
1642年12月、ニュージーランド発見。
  ヨーロッパ人が、ヨーロッパ人として、初めてこの島
 を発見した。
  以後、この島の歴史には、「ヨーロッパ人の考え方・
 行為が、それのみが正義だ」としての話が展開する。
  今・現在でも、この考え方が、世界中を荒らしまわっ
 ているが・・。
  オランダ人のアベル・タスマンは、二隻の船でこの島
 へやって来た。
  この島には、既に、先住の方たち、『先住民』のマオ
 リの方たちが居た。
  マオリの方たちは、このオランダ人より、遠の昔の「
 800年以上も以前の昔」に、9世紀の頃から、この島に移
 り住んで生活し、幸福に暮らしていた。
  この後、このキリスト教徒のヨーロッパ人は、この主
 権を無視する、牛耳る歴史を刻む。
  このオランダ人は、この時、この先住の方たちと戦い、
 そして、殺戮し、去った。
  マオリの方々は、9世紀頃こそ採集生活をしていたが、
 国を持つ立派な社会だった。
  そして、プライドを持って戦う政府を持っていた。
  そしてまた、立派な国名を持っていた。
  その国名を「アオテアロア」と言った。
  翌年の1643年には、オランダ東インド会社の総督のヘ
 ンドリック・ブラウエルが来た。
  彼は、ラテン語の「新しい海の土地」という意味、英
 語のニュージーランドに当たる名を付けた。
  それから126年の時が流れた、
  1769年になると、イギリス人のジェームズ・クックが
 来た。
  彼は、「ニュージーランド」と呼んだ。(あなたにと
 ってだけが「ニュー」なのだ)。
  彼は、島全体と周辺の調査をし、捕鯨遠征をはじめさ
 せた(あなただって捕鯨やっているでしょう)。
  それからこの島へ、イギリスはじめヨーロッパ各地か
 らのヨーロッパ人の流入が始まった。
  1830年に、ロンドンに、植民地会社が組織されるに及
 び、ヨーロッパ人の流入はさらに増加した。
  これを、ヨーロッパ人は、移民と称した。
  相手の国の承認のない勝手な流入である。
  「侵入・侵略」と言える行為である。
  当然、マオリの先住の方々との間で争いが絶えない状
 態が続くことになった。当然のことだ。
  進んだ武器を持たないマリオの方々は、多くの方々が
 亡くなった。良く戦ったと思う。
  侵入者・侵略者とマリオの先に住んでいた方々との戦
 いである。
  当然、正義はマリオの方々の方にある。
  1840年に、イギリスは、争いを止めたい意味もあり、
 先住民のマオリの方々と条約を結んだ(ワイタンギ条約)。
  その条約の内容は、
  「すべてのマリオ人は、イギリス女王の臣民となり、
 ニュージーランドの主権を王権に譲る」
  「マリオ人の土地の保有権は保証するが、その土地の
 売却先はすべてイギリス政府にする、その他の売却は出
 来ない」
  「マリオ人はイギリス国民としての権利を認める」だ
 った。
  「ていの良い乗っ取り」だった。
  そして、イギリスの植民地とした。
  マリオの方々に、当然、与えられるべき「主権」と言
 う語が無く、そこに問題が発生した。
  この問題は、今・現在でもこの問題が存在している。
  マリオの方々は、「すべての土地は自分たちのもの」
 と考えている、当然だ。
  条約締結の後、3年後の1843年から、30年間も続くマリ
 オの方々の反乱が起こった。
  遅れた武器で良く戦ったと思う。
  弱い者いじめの反乱は武力によって鎮圧された。
  しかし、根本的問題の解決はしてない。
  その問題を放棄し、無視し、100年以上に渡ってそのま
 まにした。
  やっと、1975年に至り、審議が開始され、強奪した土
 地の一部を返還した、
  そして、マリオ語も公用語にした。
  それまでは英語だけだった。
  マリオの方々の主権を認めていなかった。
  もし、あなたの家へ、見ず知らずの人がどんどん入っ
 て来たら、あなたはどうしますか?
  そして、あなたに言います、あなたは私の女王の臣民
 になれと、権利をその女王へ譲れと。
  基本的に、たとえ無人島であっても、良く権利関係を
 確かめなくては、勝手に侵入・侵略してはいけないでし
 ょう。
  家宅侵入罪になります。国際法でもそうです。
  酷いことをしておいて、「悪くはなかった」と、こじ
 つける行為は糾弾されなくてはいけません。
  この様な行為を、キリスト教徒は世界のあちこちでや
 っている。
 ..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年5月29日金曜日

(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年~1641年)

題:(増補版)114D1/3:気になった事柄を集めた年表(1637年~1641年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1637年、江戸城の本丸修築が完成した。
1637年、社会資本整備・釜無川、
  幕府代官の平岡和由、釜無川に四ヶ村堰を築造する。
1637年、北上川に大洪水が起こり、伊達領内の被害が14万
 3000石にのぼった。
1637年、五人組制度を実行した。
1638年11月、初めて大老を置いた。
  徳川家光が、土井利勝・酒井忠勝を大老に格上げした。
  大老に就けるのは井伊・酒井・土井・堀田の4家に限定
 された。
  4家以外の大老は大老格と呼ばれた。
1638年、堀田正盛が、老中の職をとかれた。
1638年、阿部重次が老中となった。
1638年、太田資宗ら若年寄から奏者番(そうじゃばん)に
 移った。
  奏者番は武家の礼式を管理する役職。
1638年、オスマン帝国が、バクダッドを占領してイラクを
 併合した。
1639年4月、大久保彦左衛門忠教(ただたか)が没した。
 (1560年~1639年)旗本。
  家康・秀忠・家光の3代に仕えた。
  関ケ原の戦いでは家康本陣で槍奉行を務め活躍。
  余生は「三河物語」を執筆した。
  死の間際に、家光から、5000石の加増の話があった時、「
 余命いくばくもない自分には有り難いが不要」と固辞し
 た。
  将軍の家光に事あるごとに諫言したという逸話は、後
 世の講談や講釈の創作。「大久保彦左衛門と一心太助」
 も創作。
  多くの浪人たちを養い、その就職活動に奔走したとい
 う。
1639年7月、ポルトガル人の来航禁止。
  布教の裏に、スペインとポルトガルの領土的野心が、
 見え隠れしていることが分かって禁教体制となって行っ
 た。
  イギリス・オランダのプロテスタントの新教国の幕府
 への、旧教のカトリック教国の報告が、常に、流れてい
 た。これが影響している。
  特に、オランダが情報をもたらしていた。
  とは言っても、文化的情報は、かなり豊富に入って来
 ており、また、日本の知識人は、それに鋭敏に反応もし
 ていた。
  オランダと中国以外の貿易の禁止。
  この時の令は、ポルトガル船の来航を禁止し、ポルト
 ガルとの断交をしたに過ぎない。
  徳川幕府は国を閉ざしたのではない。
  日本は、鎖国で、内に閉じこもって居たという事では
 ない。
  勝海舟は、その著の氷川清話で、「出島の蘭館にはオ
 ランダ人が居り、中国人はそれ以上にたくさんいた」と、
 国際感覚を持とうと思えば、長崎に行けばと、その気に
 なれば知識は得られると言っている。
  第一、「鎖国」という言葉が、当時、存在しなかった。
  「寛永10年の令」「寛永16年の令」と言うものがあっ
 て、渡航を禁止したり、蛮族を打ち払うという令がある
 が、鎖国の意思はまったくない。
  例えば、明が滅亡した直後、明の家臣が、日本に助け
 を求めて来た。
  その時、将軍の家光は、鎖国で閉じこもるなんて態度
 では、まったく無かった。
  2万の大軍を大陸に上陸させて、彼等を救おうとした。
  明を再興させようと、本気で考えていた。
  実際は、明の家臣たちの反乱が失敗におよび、駄目だ
 との情報が入って、実施には至らなかったが・・、
  日本の姿勢は、鎖国の様な姿勢ではなかった。
  『いざとなったら出兵するぞ』という体制だった。
  この様な日本を示す事を、多くの明の知識人も知って
 いて、日本に救いを求めて亡命して来た。
  例えば、水戸光圀に庇護された朱舜水(しゅしゅんす
 い)などがよく知られている。
1639年、このポルトガル人が、日本への来航が禁止された
 のは、ポルトガル人が日本の法律に従わないためだった。
  日本の法律を尊重しないため、遵法でなかったために
 追放されたのだった。
1639年、ジャガタラ追放を行う。
  南蛮人の追放に伴って、日本人妻と子供も追放処分と
 なった。
  幕府は、1633年に日本人の海外渡航を禁止し、
  1636年に、ポルトガルと日本女性との間の混血児287人
 もマカオに、
  1639年に、オランダ人などとの混血児32人もジャガタ
 ラ(オランダ領のパタピア・・現在のジャカルタ)に追
 放処分にした。
1639年12月、渋川春海(しぶかわしゅんかい)が生まれた。
 (1639年~1715年)天文暦学者、囲碁棋士、
  幕府より21歳ですでに禄を受けていた。
  御城碁に出仕した。
  初手に天元に打つ碁をした。
  1690年の52歳の時、日本で最初の地球儀を作った。
1639年、宗門改めを行った。
1639年、旗本が窮乏である事の原因調査をした。
1640年1月、贅沢禁止令、おごりを禁止、
  大名・旗本に倹約令を出し、旗本などの「おごり」を
 禁止した。
1640年、宗門改役を設置した。
1640年、切支丹奉行を設置した。
1640年、綿花・煙草の作付けを禁止した。
  幕府は、この頃から繰り返して本田畑への綿花・煙草
 の作付けを禁止した。
1641年1月、江戸大火(桶町火事)、
  京橋桶町より出火、芝・木挽町・御成町・麻布が延焼
 した。
1641年4月、殉死、
  熊本藩主の細川忠利が没し、18人が殉死した。
1641年5月、人返し阻止
  徳川幕府は、この時の布令に・・、
  「他領に年久しくありつき、祭祀を持っているものま
 で召し返すことが、近年あるように聞き及ぶが、領内の
 ものであっても数年他領に住みつき、その上科(とが)
 もないものを呼びかえすことは、 今後あってはならぬ」
 とした。
  幕府は、人返しを止めさせた。
1641年5月21日、オランダ人も長崎の出島に移した。
  オランダ商館を、平戸商館から出島に移し、オランダ
 人も糸割符制下に組み込まれた。
1641年9月、家光の長男・家綱が生まれる
 (1641年~1680年)
  後の江戸幕府の第4代将軍である。
  家光は、生まれた時から家綱を自らの跡継ぎと決めて
 いたという。
  それは、自分が世継ぎ争いの経験があったからという。
 また、やっと生まれた待望の男児だったためともいう。
  9歳の時、1651年4月に、家光が48歳で逝去すると、8月
 に将軍の宣下を受けている。
1641年、利根川水系、物資輸送の大動脈になる。
  江戸川の開削がほぼ完成する。
  一連の利根川水系の川筋付替えにより、利根川・江戸
 川は物資輸送の大動脈になる。
1641年、オランダ人がマラッカを占領した。
  マラッカ海峡を占領したので、江戸幕府の1639年のポ
 ルトガル船来航禁止令がなくても、ポルトガル船は日本
 に来られなくなった。
1641年~1649年、イギリスは、ヨーロッパの片隅の弱小の
  国家だった。
  当時、ヨーロッパは、ハンザ同盟(都市同盟、12世紀
 頃より始まる、1358年に成立、15世紀の最盛期の都市数
 は200を超えた)に100を超える都市が参加するなど、
  また、イタリアの町々を結ぶ商圏が花開き、経済によ
 る豊かさを享受していた。
  この様なイギリスに陽が当たって来るのは、アメリカ
 大陸の発見(1492年、コロンブスが達した)と、インド
 への航路の発見(1497年、バスコ・ダ・ガマが喜望峰を
 回ってインドへ達した)だった。
  大西洋を舞台にし始めたイギリスへと大転換して行き、
 弱貧な国家だったイギリスへ、おいしい収奪した利益が
 流入し始めた。
  それまでのフランスを侵略して得るという利益から、
 濡れ手で粟の利益へと転換した。
  世界の海洋の上に、利益を得て、持ち来たる海洋国家
 となった。
  イギリス本国では、1641年~1649年に、ピューリタン
 革命が起き、キリスト教のイギリス国教会に反対して宗
 教革命をしたキリスト教徒のピューリタンが、議会派を
 形成して、チャールズ1世を処刑して共和国を樹立してい
 た。のち、ピューリタンはイギリスを追い出されてアメ
 リカへ至った。
..
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2015年5月28日木曜日

(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年~1637年)

題:(増補版)113C3/3:気になった事柄を集めた年表(1635年~1637年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1635年、ザクセン(ドイツ、新教公国)の立法家とうたわ
 れたベネディクト・カルプツォフ
 (1595年~1666年、キリスト教ルター派)は、
 裁判官としての長い経歴の間に、2万通を越える『死刑
 宣告書』に署名した。
  この卑劣な男は、1635年に、1書「刑法の実際」を出
 版した。
  その中の魔女に関する部分は、正にプロテスタント版
 の「魔女への鉄槌(てっつい)」であった。
  「魔女への鉄槌」と言えばキリスト教のカトリックの
 殺人の書で、こちらが本家であるが・・、
  プロテスタント以上に卑劣だったキリスト教カトリッ
 クの殺人の書であったが・・、
  この書によっても、多くの女性方が殺された。
  プロテスタントも、愚かにも、これを真似(まね)た。
  このキリスト教プロテスタントのこの本も、相も変わ
 らずカトリックと同じ様に「魔女の空中飛行」「魔女集
 合」「魔女との性交」「魔女マーク」という記述である。
  裁判の方法については、17種類の拷問法を挙げている。
  「指締め」「梯子」「ローソクであぶる法」「爪の間
 に木のクサビを打ち込む法」などなど卑劣な拷問方法が
 並ぶ、卑劣な事を考え、行なう、キリスト教だった。
  プロテスタントも、これまた、カトリックと大同小異
 の残酷さだった。
  その一つを説明すると、「魔女マーク」とは何かとい
 うと、
  キリスト教裁判所で、キリスト教聖職者の裁判官が、
 魔女にされた女性を調べる方法の一つに「魔女にはマー
 クがある」と言った。
  そのマークに針を刺しても痛がらないのだと言った。
  そして、そのマークがある訳だと、女性の体のあちこ
 ちを針で刺した。
  この様な卑劣な拷問をキリスト教聖職者は、教会の中
 の裁判所と称する『実態は卑劣な拷問所』でやっていた。
1635年、イギリス艦隊が、中国・清のマカオに到着した。
  中国貿易でうまい事をしているポルトガルに代わって、
 うまい汁が吸いたいとの行動だった。
  後に、このイギリスは、この地・中国で、「アヘン戦
 争」という、イギリスの不正な行為から起きた戦争を起
 こす。
  因(ちなみ)に、アヘンは、麻薬の一種で、ケシの未
 熟な果実からとれた乳液を、乾燥させた茶褐色の物質で、
 モルヒネを多量に含む、
  一度、使うと中毒となり、廃人への道へと落ちて行く。
  絶対に使ってはならない。
1635年、その後のイギリスは・・、
  イギリスとポルトガルは、中国貿易の覇権を争って、
 小競り合いを繰り返した。
  イギリスは、ポルトガルが拠点としていたマカオを去
 り、広東へ向かった。
  この地・広東で、支那(中国)と戦争となり、イギリ
 スは支那の砲台を占領した。
  イギリス国旗を掲げ、勝利を示した。
  支那は、イギリスに広東を窓口として通商を許した。
  これが後に、大きな傷口を開けて行く。
1635年、ボーナス制度の始まり
  この頃から、参勤交代の折に、諸大名が大奥中の女性
 に祝儀を贈る習慣が始まった。
  これは、春日局がつくったボーナス制度。
  当時、大奥の女中たちの収入は「御切米」と呼ばれる
 給料だけで、身分の低い女中たちは、晴れ着の新調もま
 まならない生活だった。
  ある時、大老の坂井忠勝が、これを禁止するとした(
 倹約の意味)。
  困った春日局は、老中と掛け合い、祝儀の代わりにま
 とめて将軍に献金させ、「それを上様から『御合力金』
 として頂戴する」ことにした。
  これが、今でいうボーナスとして幕府から支給される
 ようになり、大奥女中たちを潤した。
1636年4月、酒井忠世が没した(1572年~1636年)
1636年6月、経済政策:銀座を置き、寛永通宝が鋳造された。
  金・銀・銭の三貨制が確立した(金1両=銀50匁、のち
 60匁=銭4貫文)。
1636年6月、廻船・積荷の規則を出した。
1636年6月、伊達政宗が没し(1567年~1636年)、15人が殉
 死し、さらに、その殉死者に対して5人が殉死した。
1636年8月、箱根の関令が制定された。
1636年、江戸城工事:江戸城の内部、外郭が完成した。
  諸大名に江戸城総構え、天守の改築を課した。
1636年、出島を築きポルトガル人を置いた。
1636年、後金が清と改めた。
1637年1月、家光は病気がちで、しばしば政務を休んだ。
  ことに、この年は正月から健康がすぐれず、政務はも
 とより儀礼の席にも出なかった。
  6月には、朝廷で、将軍病気平癒の祈祷が行われた。
  将軍の病気は、翌1638年3月頃まで続いた。
  幕府は、将軍抜きでこの重大事態に対処せざるを得な
 かった。
  この危機を克服したのは、堀田正盛・松平信綱・阿部
 忠秋ら閣老を中心とする幕臣たちであった。
  この頃、閣老を頂点とする行政組織はほぼ制度を整え
 た。
1637年2月、本阿弥光悦が没した(1558年~1637年)
1637年12月、島原・天草の乱、(~1638年4月)
  島原の乱は、過酷な年貢負担と、飢饉災害が重なった
 窮状の中で百姓一揆として起きた。
  また、大勢いた旧領の浪人が加わり、その浪人・土豪
 の指揮で農民一揆が大きくなっていった。
  また、天草も同様の経緯で起きた。
  この百姓領民に多くの旧領時代の浪人たちも加わる形
 だった。
  当然、戦死者たちはキリシタン殉教者ではない。
  キリシタンは、他の地方より多かった程度で、ほんの
 一部を形成している程度。
  強いて一揆をおこした人たちの宗教を言うのなら、そ
 のほとんどは仏教徒だった。
  宗教戦争では、まったくない。
  キリスト教の迫害に立ち上がったという話はまったく
 の嘘。
  また、この乱に天草四郎が語られるが、実在の人物で
 はない。
  キリスト教宣教師が語った人物像、言いふらした話に
 過ぎない。
  キリスト教は、しきりに天草四郎を実在の人物の様に
 プロパガンダするが、嘘宣伝である。
  (この人が天草四郎だという後付け話はあるが、無理
 筋の話となっている、16歳の少年が、旧領主の小西行長
 の旧領の侍たちに推挙されたという、まったく不明な人
 物の話なのだ)。
  戦死者数も、ひたすら島原・天草側の死者数をひたす
 ら誇大に言うのは、また、嘘で間違い。
  幕府側も、同じ人数の戦死者が居る。
  この戦いで幕府軍の重責を担った板倉重昌も戦死して
 いる。
  幕府軍の総大将は松平伊豆守信綱。
  キリスト教に偏するNHKはまったく罪作りな放送局
 だ。嘘ばかりを放送する。
  NHKは、ひたすらキリスト教徒が大勢死んだと放送
 する、そして、殉教だと放送する、あたかもキリスト教
 の代弁者の様に放送する。
  NHKは、完全にキリスト教側だけに向いた放送をし
 続けている。
  文献に「扇動とは大ウソにならない範囲で事実と異な
 ることを言うこと」とあるが、NHKは、扇動をしてい
 る。大ウソとなっている。扇動以上だ。
  この地方の領主だったキリシタン大名の有馬晴信も、
 キリスト教宣教師からもらえる武器・弾薬が欲しかった
 だけ、
  隣国の龍造寺隆信に滅ぼされそうになっているので、
 家を守るのに必死だった。
  そしてまた、晴信は、武器弾薬以外にも、食糧や金な
 どすべてを貰っていた。
  晴信は、関ケ原の戦いの時、キリシタン大名の小西行
 長を攻撃している。宗教心なんてまったくない。
  また、キリスト教に偏するNHKの放送が、あまりに
 もデタラメだという事が新聞に報道されていた。
  (読売新聞、2015・5・20)に・・、
  NHKは、荒木村重の妻をキリシタンと放送した。
  村重の妻が処刑されるときに「十字を切って」、さら
 に、「イエズス・マリア」と唱える演出をした。
  この村重の妻は、「はっきりした仏教徒」だと分かっ
 ている。
  この村重の妻は、「大坂(本願寺)の川奈部左衛門尉
 (さえもんのじょう)という者の娘」で、れっきとした
 本願寺の門徒だ。
  辞世も、
 「磨くべき、心の月の曇らぬは、光と共に、西へこそ行
 く」という西方浄土への仏教の往生を詠じている。
  どこがキリシタンなのだ?
  イエズス会の宣教師フロイスが、「異教徒として即座
 に幾つかの詩句を作って朗吟し」て処刑されたと書いて
 いる・・と報じている。
  NHKの、歴史も何もあったもんじゃないの放送は、
 まったく呆れる。
  どこまでキリスト教に偏するNHKなのか? 大ウソ
 をついてまでして・・、
..
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2015年5月27日水曜日

(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1635年)

題:(増補版)112C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1635年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1630年代、この年代は卑劣な年代だった。
  ヨーロッパは、絶え間のなく、戦争ばかりをしていた。
  卑劣な年代だった。
  そして、ヨーロッパは、卑劣な事に、ことのほか戦争
 において、鉄砲を多く使った。
  例えば、ドイツの人口が、そのため、半減してしまっ
 た。
  戦争で、人がより多く殺戮される、殺すことが出来る
 鉄砲で人々が殺されてしまった結果だった。
  生活に希望のないヨーロッパ社会は、地下が20分の1に
 なるという状態だった。
  悪事をする輩も横行した。
  成年男子の居なくなった社会だった。
  キリスト教の司祭も結婚し、子供を作った。
  キリスト教の教義は、そっちのけのっ状態だった。
  社会の存続、背に腹は代えられないと、カトリックの
 司祭も人口回復を奨励された。
  また、二人の妻を娶(めと)ることが督励された。
1633年2月、海外渡航者の帰国を制限した。
  奉書船以外の海外渡航を禁じ、また、海外に5年以上
 居留する日本人海外渡航者の帰国を制限した。
1633年2月、改革:地方直し(じかたなおし)が行われる。
  これは、旗本の窮乏対策である。
  旗本へ俸禄(ほうろく、給与)として地方を知行(ち
 ぎょう)として与えた。
  1000石以下の者に一律200石ずつ与えた(20%アップ)。
1633年12月、家光が、弟・忠長の領地没収し高崎に移した。
  翌1634年12月に、忠長は自害した。
1633年、天災:大坂の大和川、石川が氾濫し、2万石余の
 土地が荒れた。
  よく氾濫を起こす地点で、中甚兵衛の治水功労者の銅
 像もある。水害と戦う人多数。
1633年、諸国巡検使(じゅんけんし)の分国を定める。
  巡検使とは、将軍の代替りに五畿七道の幕領・大名領
 の民情政情を視察するために派遣された役人の事で、江
 戸時代に9回の派遣があった。
  大名の治績動静を視察したり、幼少の大名のもとへ赴
 任し、その後見監督に当たり(国目付)、あるいは城の
 受け渡しの時にその場に臨んで監督をするなど、すべて
 幕府の上使を務めた。
1633年、訴訟規則が成文化、
  この年に、軍役制が発布されるとともに公事裁許定と
 いって、主人と家僕、親と子、本寺と末寺、代官と百姓
 など身分に応じた訴訟取扱い方法などの規則が成文化さ
 れた。
1633年、石高制による軍役性、
  石高制と深く関わっているのが軍役制で、制度として
 は3代将軍家光の1633年に完成した。
  それによると、1000石取の旗本は、人数23人、槍2本、
 弓1張、鉄砲1挺を、
  1万石の大名は、騎馬の武士10騎、槍30本、弓10張、
 鉄砲20挺、旗3本を、
  10万石の大名は、騎馬170騎、槍150本、弓60張、鉄砲
 350挺、旗20本を、
  出動命令を受けた時の為に常備する義務があった。
  必ずしも、石高に正比例してはいないが、それぞれの
 俸禄の高に応じて軍備を課せられた。
  江戸時代には、中央政府としての幕府が、直接、持っ
 ている常備軍は比較的少なく、
  主として、諸大名の軍役に期待し、幕府は、その統帥
 権を持っていただけだった。
  軍役は、鎌倉時代の御家人役に淵原する。
  鎌倉将軍家から所領の給与、または、安堵された武士
 は、その御恩に対する奉公として、1年ずつ交替で、大番
 役(京都の警護役、後には鎌倉も加わる)を務めねばな
 らなかった。
  また、戦争には動員を受けた。「いざ鎌倉」である。
  近世は、何石にどれだけという、上からの一方的な割
 り当てで、全国的に徹底した権力であった。
  中世は、全国的でなく、関係ない非御家人も多数存在
 した。
1633年、人事:松平信綱ら6人衆=若年寄に任命された。
  若年寄(わかどしより)は老中に次ぐ重職で、この年
 の任命が始まり。
  旗本、および、老中支配以外の諸役人の統轄した。
1633年、ガリレオが、再度、キリスト教に捕まり、異端審
 問所で取り調べを受けた。
  ローマ法王庁は、ガリレオを終身刑の有罪とした。
  軟禁状態となった。
  家に閉じ込められ、外部との接触が出来なくさせられ、
 この9年後の、1642年に、ガリレオは没した。
1634年5月23日、秀吉の養女の豪姫が没した。
  享年61歳だった。
  秀吉は、自分の子を亡くした時、幼なじみの前田利家
 が4女を養女として秀吉の子とした。
  秀吉とおねの夫婦は寵愛した。
  秀吉は、「もし豪が男であったら関白にしたものを」
 と妻のおねに言っている。
  夫の宇喜多秀家が八丈島に流罪となった後は、米や薬
 などの必需品を八丈島の夫のもとへ送り続けた。
  明治になって、明治天皇陛下より、現在の浦安市に
 19900坪の宅地を賜わり、その苦労を慰めて戴いている。
1634年6月、山王祭(さんのうまつり)が、初めて江戸城
 に入る。
  徳川三代将軍・家光以来、江戸城内に入御した御神輿
 を、将軍が上覧拝礼する天下祭りで、盛大をきわめた。
1634年6月、家光が30万の大軍を率いて上洛し、武威を示し
 た。
  また、この時、上皇御料を一挙に3倍に増やしている。
1634年7月、江戸城の西ノ丸が炎上した。
  酒井忠世、家光の勘気を受けた。
1634年8月、譜代大名の妻子を江戸に移した(大名支配)
  また、琉球の江戸上りが始まった。
  幕府の将軍や琉球の国王が代替わりすると、幕府に挨
 拶に上がった。
  1634年に、京都・二条城に滞在していた将軍に会った
 のを始まりとして、その後は毎回、江戸まで行った。
  1850年に終わるまで合計18回を数えた。
1634年、仇討:
  岡山藩士の渡辺一馬が、荒木又右エ門らと共に伊賀国
 上野西端鍵屋の辻で、弟の仇敵の河合又五郎を討ち取っ
 た(伊賀越の仇討)。
1634年、領主と農民間の階級的矛盾
  幕府と藩という領主内部にあった矛盾が解消して、領
 主と農民との間の階級的矛盾が表に出てきた。
  領主財政の確立と拡充に対する農民の抵抗の激化がそ
 れ。
  ことに、1634年頃から、全国的にかなり大きな飢饉に
 見舞われたことがそれを助長した。
  島原・天草の乱もその飢饉に触発された百姓一揆であ
 った。
1634年、踏絵が盛ん。
1634年、前年の奉書船以外の渡航を禁じるなどの通達を、
 再度、行った。
1634年、社会資本整備・小貝川
  伊奈忠次が、小貝川に岡堰を築造した、また、牛久沼
 にも2000間堤(2000間=約3.6キロメートル)を築いた。
1634年、老中・若年寄の職掌を定めた。
1634年、訴訟審理規則が成文化した。
  3代将軍家光の1634年~1635年に至り、老中・若年寄・
 諸奉行の制、評定所の訴訟審理規則などが成文化され、
 ほぼその全容を整えた。
1635年6月、参勤交代が制度化された。
  参勤交代は、幕府が諸大名の経済力を弱めるため強制
 した策略だという見方が依然としてある。
  しかし、それは結果であって、幕府の目的が、そこに
 あったと言うのは曲解である。
  参勤交代は、軍役発動の一形態である。
  幕府の常備軍は少なかったので、常に、大名を半数ず
 つ江戸に滞在させて、首都防衛に当たらせたのである。
1635年6月、武家諸法度が大改訂され、内容が完備した。
  江戸幕府の支配体制が制度的に固まったと言える。
  官僚組織の整備は、その中核をなした。
  参勤交代の制度化はこの中にある。
1635年10月、老中・若年寄の役が始まる。
  老中・若年寄以下、所有司の職掌を定める。
  土井利隆ら若年寄となる。
1635年11月、評定所(ひょうじょうしょ)の条例を定める。
  法令の成立から、この時期に設置されたとされる(た
 だ、その場所については諸説あり)。
1635年11月、寺社奉行が創設された。
1635年、中国・オランダなどの外国船の入港を長崎のみに
 限定した。
  また、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の
 帰国を禁じた。
1635年、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛、連署の列(老中)
 に加わる。
1635年、諸士法度を改定する。
1635年、この頃の資料がバチカンで発見された。2014・11・
 12の新聞で報じている。
  日本の「宗門改め帳(しゅうもんあらためちょう)」
 である。
  この頃の江戸幕府を、キリスト教は、厳しい取り締ま
 りをしていると言うが嘘だとこの資料から分かる。
  キリスト教のプロパガンダと分かる。
  この宗門改め帖でも、実際は、本人でなくても、家族
 や知人でも、キリスト教を止めたと言えば「お咎(とが)
 めなし」だった。
  キリスト教は、ヨーロッパのキリスト教国の様な卑劣
 な非人道的な事が、取締りが、日本でも行われた如くに
 言うが、まったくの嘘で、デッチアゲである。
  日本は、キリスト教国・ヨーロッパの様な執拗(しつ
 ようないじめ・苦しめはしていない。
  その事が、この宗門改め帖裏付けられる。
  キリシタンではないという事を、印を押してただ庄屋
 に出せばいいことだった。
  庄屋は、まとめて藩に出せば、それで済む事だった。
  ヨーロッパの様に、キリスト教裁判所が何だかんだと
 拷問して苦しめて、罪を着せて、火あぶりにして、財産
 を没収するというキリスト教会の裁判所がやった事とは
 ほど遠い日本だった。
  キリシタンと分かっても「転びキリシタン」と書けば
 許された。
  お咎(とが)めはなしだった。
  その記述があるだけ。殺されていない。
  何しろ幕府は、穏便に穏便にと、事を進めた。
  キリスト教は、厳しい取り締まりに耐えたとか、殉教
 だとしたいから、昔から、この様に嘘を言う。
  今・現代でも、嘘をついてでも、「殉教だ」と言いた
 がるキリスト教となっている。
  江戸幕府は、貿易行為を認めていたオランダから、定
 期的に報告書を提出させ、海外情報を集めていた。
  鎖国政策で、まったく諸外国の事は知りませんでした
 とキリスト教が言うが、これも嘘。
  因みに標記の宗門改め帳は、1953年(昭和28年)に、
 キリスト教神父が、横浜から船でバチカンへ送ったもの。
  約1万点の文書、ほとんどが宗門改め帖だった。
..
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2015年5月26日火曜日

(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1633年)

題:(増補版)111C3/3:気になった事柄を集めた年表(1629年~1633年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1630年、貝原益軒(かいばらえきけん)が生まれた(1630
 年~1714年)福岡藩の人、本草学者、儒学者、博物学的
 な人、著作に「養生訓」がある。
  膨大な編著を残した。
  長崎で医学を修め、藩医にもなる。
1630年、林道春(林羅山の仏門に入った号)が忍岡に学寮
 を建てる。
  忍岡聖堂(しのぶがおかせいどう)を建てた。
  これは、家光から儒学振興のために江戸城北郊の上野
 忍岡の地に1353坪の土地と200両を拝領して私塾と書庫の
 孔子廟であった。
1630年、この年の1年間に、ベニスでペストにより4万7000
 人が死んだ(1説には15万人という)。
  死骸は街路にあふれ、生き残った者は強盗、略奪をほ
 しいままにした。
  キリスト教が、その教義で「地は汚れている、天のみ
 清浄」と民を洗脳したため、地は本当に汚れた。
  糞尿を道に捨てる様な人々だった。
  衛生状態は劣化し、ネズミは増え、ネズミはペストを
 媒介した。
  可哀想に、民は、劣悪なキリスト教の教義によってペ
 ストに罹り苦しんだ。そして、多くの民が亡くなった。
1631年、加々爪忠澄・堀直之の両名を江戸の町奉行に任命
 され、これより2名の旗本役となり、南北両奉行所に分か
 れる。
1631年、貿易:この年、糸割符法を改正し、新たに江戸・
 大坂を加え、5か所を糸割符制とした。
  中国産の生糸を輸入し、多くの日本の銀が流出してい
 た。
  この貿易を独占していたのがポルトガルだった。
  経済的にもこの貿易を統制した。1604年に、堺・京都・
 長崎の糸割符年寄を任命した。
  TPPと同じ様なもの、日本の商人がまとまってポルトガ
 ルと協議して糸価を決めた。幕府が監理した。
  昔からしっかりした日本だった。しかし、日本の銀は
 大量に流出した。
  18世紀に入ると日本国産の生糸が出回り、生糸輸入
 は衰退した。
1631年、フリードリヒ・フォン・シュペー(1591年~1635
 年)は、
  ドイツで魔女旋風が最も猛烈に荒れ狂った時期に、そ
 の中心地の一つだったヴェルツブルグで、懺悔僧(キリ
 スト教聖職者)として2年足らずの間に200余人の魔女に
 付き添って、刑場に送った聖職者だった。
  魔女裁判の実態をつぶさに観察した結果、ドイツの諸
 侯と(キリスト教聖職者の)裁判官に対する厳しい抗議
 書「裁判官への警告」をこの年に書いた。
  彼を信頼した囚人たちは、彼に援助と助言を求め、真
 相を訴えた・・が・・、
  彼も囚人のためにあらゆる努力とつくしたという・・
 が・・助かる者は居なかった。
  ある死刑囚は拷問に屈せず、「自白」しないのに、キ
 リスト教聖職者の裁判官は有罪を宣告するのだった。
  シュペーは刑場で、もう一度「自白」をすすめた。
  魔女は、あきらめて、ただ一言、「罪をおかしました」
 と答えた。この様なことを言わす聖職者だった。
  シュペーは、大急ぎで裁判官にその自白を伝えた。
  そして、シュペーは言った、「絞殺の上で火刑にされ
 んことを」・・と、願った。
  しかし、願いは聞き入れられなかった。
  魔女は、生きながら焼かれた。
  後に(1642年)、シュペーは司教になった(ヴュルツ
 ブルグ)。ごますりシュペーは出世した。
  フィリップ・フォン・シェーンボルンが、シュペーに
 「どうしてそんなに早く白髪になったのか」と尋ねた時、
 多くの魔女は、無実だった。そのことを知っていたから
 だとシュペーは答えた。
  そして、魔女狩りを扇動する者は誰かと問われて、彼
 は答えた、「静かに思弁を楽しみながら、汚い牢獄も、
 重い鎖も、拷問道具も、哀れな人間の悲嘆も知らない高
 位の(キリスト教)聖職者と神学者だ・・と。
  そして、魔女裁判をもうかる仕事と考えている(キリ
 スト教裁判所の)裁判官だ・・と答えた。
  最後に本当のことを言った。
1632年、徳川家光が諸大名を集めて去就をたしかめた。
1632年12月、体制:大目付を設置した。
  秋山正重、水野守信、柳生宗矩、井上政重の4人を、こ
 の年に、大目付(初期は総目付と言った)に任じたのが
 はじまり、
  当初は、大名・旗本、老中以下諸役人の政務・行状を監
 察し、言上することがおもな任務だった。
1632年、江戸城の拡張工事が着手された。
1632年、社会資本整備・辰巳用水、
  加賀藩が、辰巳用水を開削し、金沢城下の上水に利用
 した。長さ20キロメートル、兼六園に至る。
  防火用水、御城水、殿様用水、御水道上水。
1632年、流通:仙台藩の江戸廻米が始まった。
  『煙霞綺談』に、「今、江戸、三分一は奥州米なり」
 と記述されている。
  武江年表には、三分の二と書かれている。
1632年、諸子法度を公布する。
  諸子法度は、「旗本法度」ともいい、幕府に仕える旗
 本御家人の守るべき規律を制定したもの。
  9ヶ条あった(23ヶ条の説もあり)。
  内容は、忠孝、軍役、兵具、屋作、嫁娶(かしゅ、嫁取
 り)、振舞、音信、喧嘩、火事、反逆殺害盗賊人、知行
 所務、境論(所領などの境界論)、百姓公事、跡目、徒党、
 衣服など。
1632年3月14日、殉死:二代将軍の徳川秀忠が54歳で没し、
 年寄の森川重俊が殉死した。
1632年5月22日、熊本城主の加藤忠弘(肥後熊本、52万石、
 清正の子)が改易された。庄内に流された(大名改易)。
  江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、後に、
  上使・稲葉正勝より改易の沙汰を受け、出羽庄内藩主・
 酒井忠勝にお預けとなった。
  清正は、既に、1611年6月24日に49歳で没していて、三
 男・忠広は、11歳で家督を継いだ。
  (長男・次男は早世していた)。
  清正は、領内の治水事業や利水事業を意欲的に取り組
 み、農業生産量も増やしている名君だったが・・、
  また、築城に長けていたが・・、
  経緯(いきさつ)は、この年の帰国中の忠広に対して
 21ヶ条の詰問状が渡され、速やかに出府して弁明せよと
 の命令が出された。
  忠広は命令を受け、出府するが、
  幕府は、品川宿で忠広を止め、池上本門寺にて待機せ
 よとした。そして・・、
  幕府は、忠広の嫡子・加藤光正(1614年~1633年)の
 不届き、そして、江戸で生まれた子とその母を、無断で
 国許に返したこと、さらに、
  平素の行跡が良くなかったことを理由にして改易した。
  忠広は、庄内の酒井忠勝に預けられ、
  1万石を与えられた。
  嫡子の光正は、飛騨高山藩主・金森重頼にお預けとなり、
 堪忍料として、月俸百口を給され、天性寺に蟄居となった
 が、1年後に、19歳の若さで病没した。
  しかし、別説がある。
  忠広は、庄内で22年暮らし、1653年、52歳で没した。
  家光と将軍後継者争いをした徳川忠長と、加藤忠弘が
 親しかったからという理由もささやかれている。
  また、豊臣系有力大名の家だからもある。
1632年10月20日、駿府城主の徳川忠長を上野に配した。
  秀忠が亡くなると、家光は、この年、忠長を上野国高
 崎藩に預けた。
  忠長は、秀忠の次男(家光の弟)で、1624年に駿府城
 主になって、駿府藩が再び成立していた(駿河・遠江・
 甲斐など55万石)。
  ただ、忠長は、将軍職を兄・家光と争った経緯から家
 光とは不仲だった。
  忠長は、家臣や侍女や領民を惨殺したりする乱行が目
 立った。
  その事から、1632年のこの日、家光は、高崎藩への蟄
 居とした。
  忠長は、翌年の1633年12月6日に、高崎で自害した。28
 歳だった。この時、家光は29歳。
1632年、タージ・マハル・・インド
  ムガル第5代皇帝のシャー・ジャハーンは、
  寵妃・ムムターズ・マハルの墓廟として、タージ・マ
 ハルの建造に着手した。
  各地から美しい石材を集め、10年の間、常時2万人以
 上の工匠と労働者を駆使して、建造が進められ、
  さらに、付属の庭園や建築物を完成するのに10年を費
 やした。
  壮麗なタージ・マハルは、真正面に満月が昇った時の
 美しさは最高であり、この世のものとは思われない幻想的
 な姿を見せる。
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2015年5月25日月曜日

(増補版)110C3/3:気になった事柄を集めた年表(1624年~1629年)

題:(増補版)110C3/3:気になった事柄を集めた年表(1624年~1629年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1624年、流通:大阪の泉屋平右衛門が、菱垣廻船(ひがき
 かいせん)問屋を開業した。
  江戸~大坂間を日常消費物資を積んで定期的に航行し
 た(木綿・綿・油・酢・醤油・砂糖・鰹節・紙・薬種な
 ど)。
  堺の商人が250石船を賃借して木綿や油、酒などを積ん
 で江戸へ輸送したのが最初と言われている。
  江戸末期には樽廻船に圧倒され衰退した。
  樽廻船(たるかいせん)は主に酒を運んだので樽廻船
 と言われた(伊丹・池田・灘の酒)。明治の中頃まで続
 いた。
1624年、霊厳島が築かれた。
  この地が有名になるのは、河村瑞賢が日本橋川に並行
 して運河(新川)を掘削し、以後、ここが永代橋まで畿
 内からの廻船が入り込むようになり、江戸の港として栄
 えたことによる。
  下り物の問屋として瀬戸物問屋・酒問屋が多く集まっ
 た。
1624年、体制:幕府と藩との関係が安定化した。
  寛永期に入ると幕府と藩との関係が安定して来て、こ
 の頃から、藩は、財政をはじめ、領内支配の体制整備に
 全力を注ぐようになった。
1624年、出版:商品としての書籍刊行が始まった。
  寛永年中(1624年~1643年)から商品としての書籍の
 刊行が始まった。
1624年、秀吉の妻・おねが没した。
  1615年の豊臣氏が滅亡する辛い時を経て9年、秀吉の妻
 は、高台寺に77歳の人生の幕を閉じた。
1625年8月、交通政策:関所・・関所・駅伝の制を定めた。
1625年、江戸寛永寺が上野に創建された。
1625年、交通政策:日光杉並木、
  大沢ー日光間16.5キロメートルに日光杉並木が植
 えられた。
  総延長は35.4キロメートルで、ギネスブックに世界
 最長の並木道として登録されている。
  この杉並木は、明治以降幾度も伐採の危機があった。
  そのたびに官民双方の有識者の努力によって大規模な
 伐採は避けられて来た・・が・・。
  現在、約12500本の杉があるが、街道を通る自動車の排
 気ガスによって、毎年、100本以上の杉が倒木や枯死によ
 って減っている。このままでは100年後には消滅すると言
 われてる。
  日光杉並木保護財団および栃木県文化財課により樹勢
 回復事業が行われている。
  また、事業費捻出のための「日光杉並木オーナー制度」
 が開始されている。
  1952年、国の特別史跡に指定され、1954年には、国の
 特別天然記念物に指定された。
1625年、社会資本整備:鬼怒川、
  伊奈忠治(いなただはる、江戸幕府関東郡代)が、小
 張村(現・茨城県伊奈村)に陣屋を建てて、山田沼堰を
 設け、鬼怒川付替え工事と谷原新田の開発を始めた。
  忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つく
 ばみらい市)にある。
  また、川口市にブロンズ像が建立されている。忠治の
 業績は多い。
  江戸時代初期から、すでに、徳川家康の号令で、氾濫
 する川の治水工事は行われて来ていた。
1625年、農業改革:初めて薩摩に甘藷を移植した。
  別の説:
  サツマイモがフィリピンから中国に伝来したのが1594
 年、それを宮古島の役人がが、1597年に宮古島へ伝え(
 日本最初の伝来)、
  宮古島では主食になるほどに広まった。
  しかし、これは、1618年ではないかとも言われている。
  沖縄本島に、1604年に伝わり(沖縄の人が、やはり中
 国の明から伝えている。この別ルートが本土へのルート
 となる)、1698年に種子島に伝わり、
  領主の第19代当主の種子島久本は、救荒作物として家
 臣に命じて、栽培法の研修をさせている。
  薩摩山川の前田利右衛門が、1705年に、琉球を訪れ、
 甘藷を持ち帰り、薩摩藩で栽培されるようになった。
  この前田利右衛門は神社に祀られている。
  そして、薩摩を訪れた伊予国の人が、持ち出し禁止の
 サツマイモを、1711年に、持ち出し、故郷の伊予国の大
 三島で栽培を開始した。
  1732年の享保の大飢饉時には、深刻な飢饉に見舞われ
 たが、大三島では餓死者が出ず、サツマイモの有用性が
 天下に知らしめられた。
  八代将軍・徳川吉宗の当時、江戸市中でよく知られて
 いた青木昆陽が、町奉行の大岡忠相に推挙されて、幕府
 の書物を閲覧できる身分になった。
  そして、昆陽は、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」
 を著し、吉宗に献上した。
  1734年に、青木昆陽が薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、
 江戸小石川植物園などで試験栽培し、
  翌年、その結果を確認し、
  以後、東日本にも広く普及した。そして、多くの人々
 を救って来た。
1625年、屋敷割り:江戸市中の旗本屋敷の屋敷割を行った。
1626年、社会資本整備:北上川、
  北上川の付替え工事が完成した。
  伊達政宗は、1616年に、家臣の川村重吉に命じて、河
 川を合流させたり、1626年に、北上川などの川筋を一本
 にまとめて舟航路を開いたりした。
  北上川は、川幅が狭く急流だったため、氾濫川だった。
  この工事の完成で、水流も安定し、新田開発も急速に
 進み、北上流域だけで40万国以上の田が開かれた。
1626年、人身売買の禁止、
  社会も安定して来て、戦乱の時代にあった様な人や物
 が掠奪されて使われてしまうという例もなくなったが、
  幕府は、この年、人身売買の禁止の令を出し、経済的
 な理由で不本意に使われる身分に陥(おちい)る事のな
 いように令を出した。
1627年、禁中並公家諸法度の軽視
  発布後、ほどなくして家康が死去したためか、この法
 律が軽視された。
  紫衣事件が起きた。
  位の高い衣の色を幕府が決めたが軽視された。
1627年、江戸城で刃物ざたが起きた。
  小姓組番士が、江戸城の二の丸で同僚二人に切り付け、
 1名が死亡し、小姓組番士は切腹となった。
  また、もう1名は応戦を怠ったとして追放処分となった。
1628年7月、徳川光圀(とくがわみつくに)が生まれた(
 1628年~1700年)常陸水戸藩の第2代藩主。
  水戸黄門として知られる。徳川家康の孫。
  大日本史を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
  徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響
 力を持った。
  同時代から、名君伝説が確立していて、
 また、水戸黄門はフィクションだが、この黄門漫遊譚が
 当時から確立していた。
  大日本史編纂に必要な資料集めのため、家臣を諸国へ
 派遣していた。
  1690年に、幕府より隠居の許可が下り、隠棲したが、
 60余人が伺候(しこう、貴人のそばで奉仕すること)し
 た。
1628年、井上正就(いのうえまさなり、譜代大名)が、暗
 殺された。
  旗本の豊島信満が、正就の嫡子の結婚の仲人を務める
 事が決まっていたが、
  将軍・家光の乳母の春日局が、違う娘と縁組する様に
 持ちかけた。
  正就は、豊島が仲人をする縁組を破談にした。
  仲人としての面目が丸潰れとなった豊島は、江戸城の
 西ノ丸廊下で、「武士に二言は無い」と叫んで、正就に
 斬りかかり、
  番士が取り押さえ、羽交い絞めをしたりしてもみ合っ
 たが、正就・番士が共に絶命し、豊島も自分を刺して絶
 命した。
1628年5月、長崎のキリシタンが処罰された。
1628年6月、朱印船の船長の浜田弥兵衛が、台湾にてオラン
 ダ船とオランダ人を捕らえ、連行して長崎に帰った(将
 軍の下賜品を奪う行為をした。当時、オランダ人が台湾
 の長官をしていた。入国のトラブルから発展した。台湾
 事件)。
1628年、社会資本整備:入鹿池、
  尾張に入鹿池(愛知県犬山市)が築造された。農業な
 どの水がめ。
1628年、令:倹約、衣類に絹類を禁止して、布木綿とした。
  奢侈禁止令(しゃしきんしれい)。
1628年、旗本の従者の員数を定めた。
  贅沢の禁止の精神から、倹約の意味で出された。
1628年、権利の請願(けんりのせいがん)、イギリス
  課税には議会の同意が必要
1629年9月、武家諸法度が改定された。
  趣旨は実権掌握。
  (1635年6月も改定している、この時、参勤交代制度を
 確立させている)
1629年、社会資本整備:鬼怒川、
  鬼怒川の付替え工事が終わった。
1629年、社会資本整備・元荒川、
  元荒川を締め切り、荒川を瀬替えする。
  西に動かし、武蔵水路を通水し、川近くまで水田耕作
 が出来、水田耕作面積が広がった。
1629年、農業:この頃、伊予地方の事情を記す日本最古の
 農業書「清良記」ができた。
1629年、令:歌舞伎を禁止した。
  風俗上での禁止だった。
1629年、踏絵が始められた。
1629年、辻斬防止のため、江戸に辻番が置かれた。
1629年、魔女事件の惨状
  ヴェルツブルグ(ドイツ)の宗教法顧問が、1629年8月
 に、ヴェストファリアの知人に宛てた手紙:
  貴下が、前、もう終わったと言って居られました魔女
 事件が勃発いたしました。
  その惨状、言語に尽くされません。
  何と悲惨な恐ろしい事でございましょう。
  厳しい告発を受けていますので、いつ何時、逮捕され
 るかもわからぬ男女が、当市には、まだ400人ばかりも居
 るのでございます。
  男もあり女もあり、身分高きもあり、低きもあり。
  当初教区の領民で、その職務と才能の別なく処刑され
 ねばならぬ者が多数あることは確実でございます。
  学生も居ります。
  うちの13・4人は魔女だという噂でございます。
  拷問をかけられている者もいます。
  当市民の3分の1が、魔女事件に関係している事は確実
 でございます。
  8日前には、19歳の娘が焼かれました。
  この娘は、市中で一番美しい、まれに見るつつましく
 純潔な娘だったという評判でございます。
  こうして多くの人間が焼かれるのは、彼らが(キリス
 ト教の)神を拒み、悪魔の会合に出席したからであり、
 それ以外には何の罪も侵してはいないのであります。
  この悲しい事件につきましては、これで筆を置くこと
 に致しますが、
  最後に、悪魔と交わりを結んだ3、4歳の幼児が、300
 人もいます。
  私は、7歳の小児と、10歳、12歳、14歳、15歳の勇敢な
 学童が、死刑にされるのを目撃いたしました。
  貴下が、ご存知のもっと高貴な人々もありましょう。
  しかし、これが真実とはとてもお信じになれますまい
 し、・・以下略
..
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2015年5月24日日曜日

(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年~1624年)

題:(増補版)109C3/3:気になった事柄を集めた年表(1620年~1624年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1621年、社会資本整備・新川通・赤堀川
  幕府が、新川通(埼玉県)・赤堀川(茨城県)を開削
 し、利根川の水を常陸川(現在の利根川の関宿・堺町よ
 り下流部)へ流した。
1621年、オランダ商館を平戸に置いた。
1621年、竹斎(ちくさい、仮名草子)
  この頃、「竹斎」が成立した。名所記文学の祖。
  やぶ医者竹斎が、下僕と共に、滑稽を演じながら京の
 名所見物から東海道を江戸に下る物語。
  とんち話もある。
1622年、玉川庄右衛門(しょうえもん)が生まれた(1622
 年~1694年)
  弟を右衛門(せいえもん)と言い、1653年から1654年
 にかけ玉川上水の開削の指揮をとった。
  江戸市民のための給水の川。
1622年7月、支倉常長(はせくらつねなが)が没した。
  仙台藩士、伊達政宗に仕えた、
  メキシコ→マドリードと渡り、通商開設と宣教師派遣
 を求める政宗の書を渡し、命による通商交渉をしたが成
 功せずに帰国した。
  政宗の行為は、キリスト教宣教師から、通商を希望す
 るならキリスト教の布教を認めて、通商を希望を求める
 形にとの話をされていた。
1622年10月、宇都宮の譜代大名・本田正純が改易された。
1623年、徳川家光が、第3代将軍になった(1604年~1651年、
 将軍期間1623年~1651年)
  徳川家光が参内し将軍の宣下を受けた。
  禁裏御料1万石増献(計2万石)
  徳川幕府の基礎を確立したと言われている。
1623年、大名支配・松平忠直(越前福井)が、豊後に改易
 された。
  松平忠直は、家康の孫で、父は秀康。
  家康の次男・秀康は、将軍になった秀忠の兄である。
  忠直は、将軍となるべき父だった秀康の子だった。
  (家康の長男は、家康がまだ不遇の時、家康にまだ力
 がない時に、トラブルで殺してしまっている。家康は、
 大いに嘆いたという)。
  この頃、私的な関係と公的関係への転換は、将軍家と
 徳川氏一門との間にも厳然と表れていた。
  越前松平家は、二代将軍・秀忠の兄・秀康の家で、そ
 の意味で最高の格式があった。
  家康は、何故か、秀康でなく、弟の秀忠を跡継ぎにし
 た。
  しかし、さすがに秀康(1607年に死去)一代は「制外
 の家」、つまり、将軍権力の外にある家と称せられ、
  例えば、江戸出府も気ままで、一般の大名の様に江戸
 に邸ももらわず、江戸に来ると、江戸城玄関に駕篭を乗
 り付け、二の丸に泊まるという行動をとった。
  つまり、秀康は、あくまでも将軍家の兄弟であり、臣
 従するものではないという態度を貫いたのであった。
  しかし、次の忠直の代には、その態度は通らなかった。
  忠直は、自分が将軍家の兄の家であることに強い誇り
 を持っていた。しかし、
  幕府は、その様に取り扱わなかったのが、はなはだ不
 満であった。
  ことに家康の死後、家康の子としてはるか末の第9子・
 義直(尾張)・第10子・頼宜(紀伊)が、いずれも自分
 より高い官位を叙せられたため、彼の不満は爆発した。
  彼は、連日連夜酒色にふけり、家臣の言動がわずかで
 も気に障ると、たちどころに手討ちにするという暴君ぶ
 りを現わした。
  また、参勤を怠り、あるいは突然帰国するなど、幕府
 の権威をないがしろにする態度も、日増しに増長した。
  そこで、秀忠は、1623年、遂に、忠直に隠居を命じ、
 これを豊後荻原(大分県)に配流に処した。
1623年、制度:五人組制度が施行された。
  連帯責任の制度で、相互扶助の面もあった。
  治安維持・法度の順守(キリシタン)・年貢完納など
 を連帯責任の下に置いた。
1623年、イギリスも平戸商館を閉鎖した。
  イギリス人が、損失続きのために、自発的に平戸の商
 館から撤収した。
  日本は、どうも儲からないから止めた・・である。
  インドや中国で、悪どいことをして儲けていたイギリ
 スは、その様なインドや中国の様なうまい仕掛けが出来
 ない国と判断したのだった。
  または、インドや中国で儲けているため重要性が低い
 と判断した。
  メキシコの銀山開発もあった。
1623年、アンボイナ事件が起きる。
  この年に、モルッカ諸島のアンボイナ島にあるイギリ
 ス商館をオランダが襲った。そして、商館員を全員殺害
 した。
  イギリスの香辛料貿易はストップした。
  この島を、オランダは奪い取り独占した。
  イギリスは、東南アジアから撤退し、インドを重点的
 に搾取する体制に変更した(餓鬼の世界の展開)。
  17世紀の初めは、イギリスとオランダの両国は、カト
 リックのスペインやポルトガルの勢力に対して協力的態
 度であった(4国協調)。
  それから、スペイン・ポルトガルを駆逐する。2国の世
 界になった。・・が・・、
  オランダ東インド会社の実力が、イギリス東インド会
 社を上回って来ると・・(会社組織にしているのは卑劣
 な隠れ蓑、やっているのは国・国家の行動)
  この様な欲の世界の中で、奪い取りの世界の中で、
 1623年のアンボイナ事件を契機に、イギリスは、東南ア
 ジアや東アジアから撤退した(軽蔑すべき武力による奪
 い取りの展開)。
  香料貿易を独占したオランダは、アジアに商機のチャ
 ンスが流れ込んだと喜んだ。
  当然、イギリスには、反オランダの感情が高まり、残
 酷・卑劣な第一次英蘭戦争(1652年~1654年)へと発展
 して行く。一回では終わらない。
1624年3月、日本へ、スペインが通商復興を求めたが許され
 なかった。当然だ・・、
  散々、世界で悪いことをして来て(南米だけでも1000
 万人にもおよぶ殺戮をキリスト教宣教師と共にして来た)、
 その経緯(いきさつ)などをすべて知っている日本。
  領土的野心を持つスペインの手先のキリスト教は法を
 守らないし・・、この様な状況で許される訳はなかった。
1624年12月、朝鮮の使節が来朝した。
1624年、江戸城
  江戸城の西ノ丸殿舎(秀忠の隠居所)の改築が完成し、
 秀忠が入居した。
  この時、土井利勝・井上正就・永井尚政らは西ノ丸老
 職となった。
1624年、徳川家光が、本丸に移った。
  酒井忠勝が、本丸老職となった。
1624年、この年、林羅山が徳川家光の侍講となり、幕府政
 治に深く関与して行った。
  林羅山は、徳川家康・秀忠・家光・家綱の4代の将軍に
 仕えた。
  徳川幕府の外交官ともいえる林羅山は、中国政府と正
 式な外交を結ぶ必要はないと見ていた。
  また、信従するに値しないと見ていた。
  明宛ての書簡でも、明の年号を用いなかった。
  「中華の華は今や日本なり」の意識が沸き起こってい
 た。
1624年頃、林羅山のこと。つづき。
  徳川幕府の初期、中国は明の末期だった。
  幕府は、秀吉の時代に乱れた明との関係修復を努める
 が、日本という国体を考え、書簡において、中国・明の
 年号使用は控えた。
  これは、中国皇帝の普遍性を否定する内容形式を、あ
 えて突き付けた形となった。
  その為、関係修復はならなかった。
  外務大臣に当たる林羅山は、日本へ朝貢し始めた国々
 として朝鮮やタイを羅列し、中国の覇権に、事実上の挑
 戦状を突き付けるに等しい行動をとった。
  明との関係修復より、日本の自主性が優先された。
  なんだかんだとアメリカのTPPのグローバリズムに組み
 込まれて行く、現代の日本とは違った。
  朝鮮は、北辺が満州族に脅かされ、日本に接近せざる
 を得なかった。
  そして、日本は、朝鮮に明の年号を使うなと言った。
  そして、明が満州族に滅ぼされ、清朝となって行く。
  明の家臣が、二度にわたり、日本へ救援を求めて来た。
  将軍・家光は、2万の遠征軍を組織し、中国上陸の作戦
 計画を策定した。
  状況が変わったため、実行には至らなかったが・・、
  秀吉を含め、当時の日本の指導者には自負心があった。
  現在、間違って印象付けられている鎖国意識は、日本
 には、まったく、無かった。
  日本は、冷静に、モンゴルと中国をめぐるユーラシア
 の凄絶かつ壮大な闘争のドラマをしっかり見ていた。
  陸続きの朝鮮が、それに翻弄(ほんろう)される姿を
 見ていた。
  海を隔てた日本の地勢的有利さを感じていた。
  韓国が、今・現代でも、秀吉の朝鮮出兵だけを、ひた
 すら悪く言うが、
  朝鮮において、この様な事は、日常茶飯の出来事だっ
 た。
  秀吉の朝鮮出兵は、ちょっと一度の『幕間の寸劇』と
 いう程度だった。
  日本には、鎖国意識なんて、まったくなかった。
1624年、スペイン船の来航を禁止した。
  領土的野心を持つスペインが、キリスト教宣教師の
 活動を統制できなかったため、
  長崎からの『退去命令』を受けた。
  キリスト教が原因者。
..
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