ページビューの合計

2017年2月25日土曜日

(増補版)500E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表

題:(増補版)500E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ・・国益・・覇権・・金・・欲得(よくとく、貪欲と利得。ほしがって手に入れようとすること)に溺れる国・・
.
紀元前1000年、人類が、貨幣、帝国、普遍的宗教という
 想像上のものを皆が共有できるようになった。
.
.
.
1918年11月11日、第一次世界大戦が終わる。
  この年の頃から、第一次世界大戦が終わった後のこと・・、
  ・・イギリスは疲れ切った・・、
  ・・イギリスは、「疲れ切った覇権国」となってしま
 った。
  世界大戦で・・巨額の借金を抱えた。
  イギリス財政は、恒常的な危機状態になった。
  また、イギリスは、多数の優秀な若者も失っていた。
.
  経済面でも、そして、人材面でも、イギリスは・・、
 『終わってしまった帝国』となった。
.
  そして、今・現在、21世紀・・、
  アメリカも、21世紀のアメリカも・・、『疲れ切った
 覇権国』となって来ている。
  過去の戦乱の「陰の中にあるアメリカ」となっている。
  アメリカは、1980年代後半に、世界一の債権国となっ
 た。
  しかし・・1990年代のクリントン政権末期には、国民
 の平均貯蓄率が0%となり、
  最近の十数年のアメリカは、毎年、世界経済の純貯蓄
 額の8割を借りるという、驚くべき金を借りる国になって
 いる・・借りねばならないという国に落ちぶれている。
  自国の財政赤字・経常赤字を・・借金で・・金を借り
 るということで・・補てんしている。
  (その金を貸しているのが日本・・この先、返してく
 れるかどうかわからない金を貸している)
  ブッシュ大統領(子供)の時の2007年~2008年に発覚
 した・・アメリカの嘘(ペテン)・・アメリカの「不良
 金融資産の大量販売」は・・自国の過少貯蓄・過剰消費
 構造を、ごまかすための金融トリックだった。
  このキリスト教の強い信仰を持った大統領(ブッシュ・
 子)も、やはり、キリスト教の嘘つき体質に染まってい
 た・・また、何でも武力で事を収めるキリスト教体質を
 現わしていた(イラク戦争など)。
  この金融トリックで、大損した日本の会社、そして、
 個人も多く、そして、悲惨だった。
  (この大きな損は・・逆に、アメリカの利益となって、
 アメリカへ大金が流れ込んだ・・こんなことまでするア
 メリカだった)
  こんなことまでして、世界を誤魔化してまでして、ア
 メリカは金を集めた。
  現在のアメリカ経済の実質規模は、世界経済の2割を切
 るまで低落している・・下がっている。
  ところが、「世界一の借金しているにもかかわらず」
 アメリカは、自国の軍事的な覇権を維新するために、軍
 事予算だけは、世界全体の軍事支出の「5割~6割」も使
 っている。
  また、アメリカの中央銀行(連邦準備制度)は、実質
 的な資産の裏付けのないペーパー・マネー(米ドル札)
 を、異常な状態で・・何兆ドルも増刷し、国際通貨市場
 に流入させている。
  紙に刷って、世界に支払えば・・事が済むという立場
 にアメリカが居るから(世界の基軸通貨の発行国)・・
 その様な裏付けのない・無責任な紙幣印刷をしている。
  アメリカの無責任なマクロ経済政策となっている。
  いつまでも続くわけのない状況にある。
  つじつまが合わなくても、嘘で塗り固めてやって行く
 という、まったくキリスト教と同じやり方の、誠実さの
 ない、また誠意のないキリスト教国・アメリカである。
.
1989年、日米構造協議が始まった。
  そして、時を同じにするように、何故か?『日本のプ
 ラス成長』も止まった。
.
2007年9月10日、アメリカの金融トリック
  この日付で、某金融アナリストは下記の報告をする。
  『急変する世界経済』・・つい一ヶ月前まで、日本経
 済の先行きについては楽観論一色であった。
  多くのエコノミストは、2008年末まで現在の好況、と
 いっても実質で2%程度の成長だが、が続くと主張してい
 た。
  すでに、2002年2月から始まった今回の景気拡大は、昨
 年・2006年10月に57ヶ月と戦後最長の長さを更新してい
 たから、『超長期の景気拡大になるもの』と予想されて
 いた。
  国際機関も概ねそのような見通しを発表していた。
  たとえば、2007年7月25日に発表されたIMFの最新予
 測では、日本の2007年、2008年の成長率は2.6%、2.0%と、
 4月の見通しを上方修正したほどである。
  その中で、筆者のみは、2007年には、景気循環は下降
 局面に入ると見ていたが、かかる主張は少数説であった。
   状況、2007年は、8月に入って急速に変わった。
  米国のサブプライムローン(低所得者向け住宅ローン)
 問題が予想外にも世界的な広がりを持つものであること
 が次第にはっきりしてきたからである。
  ・・と・・(以下略)・・
  アメリカのブッシュ大統領(子供)は、低所得者にも
 住宅が持てるようにすると・・表面的には美しい事を言
 った。
  しかし、このキリスト教を強く信仰しているこの大統
 領は、他の大統領が出来なかったことをするには、やは
 り、そこに「トリック・嘘」のような事が必要だった。
  結果的に、世界中が、非常に大きな迷惑をこうむった。
  キリスト教がやっているいる事と同じだった。
  アメリカの「不良金融資産の大量販売」という状態で
 発覚した。
  アメリカを震源地にした全世界的規模の金融恐慌が深
 まりを見せている・・と、長周新聞が伝えた。
  日本の必死の状況について主に伝えている・・
  大騒ぎの日本、そして、同じ様な世界、その逆に・・
 大儲けしているアメリカ・・その新聞を参考にして・・、
 以下にその状況を記述する・・と)
  実体経済や、各国の人々の生活に深刻な影響を与え、
 ツケをみな転嫁して延命をはかっている。
  小泉首相・竹中蔵相路線で「金融立国」を志向してき
 た日本国内でも、金融崩壊はあらわとなっており、銀行
 の貸し渋りで中小企業は相次ぐ黒字倒産、
  輸出に依存してきた製造業は、大量首切りを強行する
 など、かつてない状況があらわれている。
  『銀行は焦げ付きを次々と発表』
  近年、「市場最高益」をあげてきた大銀行は、焦げ付
 きを次々と発表した。
  株安の進行によってみずほフィナンシャルグループ、
 三井住友フィナンシャルグループ、三菱東京UFJなど
 三大銀行の時価総額の合計は9兆6900億円と5年ぶりに10
 兆円を割った。
  ピーク時の2006年4月には、その4倍あったのから見る
 と、『短期日に巨額の資産が吹き飛んだ』ことがわかる。
  メガバンクの9月中間決算は軒並み減益で、資本増強の
 動きに出ている。
  不良債権の処理費が、前期の3倍に跳ね上がり、純利益
 は前年比で58%も減少した。
  モルガン・スタンレーに90億ドルの資本支援を迫られ
 るなど、たかられた三菱UFJフィナンシャル・グルー
 プは1兆円の資本増強。
  3大銀行の調達額の合計は約1兆7000億円にのぼる。
  サブプライム債券を、約5兆5000億円つかまされた農林
 中央金庫も1兆円規模の増資を打ち出した。
  1兆円を超える資本は傘下の信連や農協から調達すると
 いっている。
  9月中間期の純利益は、前年同期比で92%減の104億円。
  有価証券の価格下落で1120億円の損失処理を実施した
 ことが要因となった。
  9月末の有価証券の含み損は、国内金融機関のなかでは
 最大の約1兆5000億円にも膨らんでいる。
  資産の多くを有価証券などで運用しており、約58兆円
 もの資産のうち市場運用資産が7割弱を占めている。
  9月末時点で、証券化商品を6兆8000億円も保有してい
 る。
  「日本を代表する機関投資家」と豪語してきたが、要
 するに、農民漁民のカネを原資にして金融市場の『カモ』
 になっている。
  11月26日に出そろった地方銀行・第2地方銀行の103行
 の9月中間決算では、3分の1にあたる33行が赤字に陥った。
  地域経済が疲弊して、貸し出しが伸び悩む一方で、近
 年は、投資信託販売などにシフトし、海外投資などで利
 益を追求してきたのが特徴で、リーマン・ブラザーズ社
 債の関連損失などを計上した銀行も少なくない。
  損害保険大手6社の9月中間決算では、有価証券評価損
 などの関連損失の合計は約1900億円にものぼった。
  東京海上ホールディングス、三井住友海上、損保ジャ
 パン、あいおい損保、ニッセイ同和の五社が、当期最終
 利益で大幅減益の見通しになっている。
  損保ジャパンは、520億円の最終赤字に陥る見通し。
  新車販売が冷え込んだ影響で、自動車保険が不振とな
 り、住宅バブルがはじけて火災保険も不振。
  本業が振るわない一方で、リーマン・ブラザーズの社
 債や海外への株式投資、証券化商品の焦げ付きが最大要
 因となった。
  三井住友海上は、900億円もの損失を計上し、東京海上
 が724億円にのぼった。
  リーマン関連など完全にデフォルトしたものを損失計
 上として数字に乗せているほか、株式の評価損などが含
 まれているが、AIG、サブプライム2社、つぶれかかっ
 ているシティ(バンク)など、破綻が確定していけばさ
 らに深刻な損失が表面化することになる。
  9月初旬には、「邦銀が存在感を示すビッグチャンス」
 「世界最強」などと言っていたが、一転してピンチに陥
 っている。
  金融庁が、11月28日に発表した2008年9月末の国内金融
 機関の証券化商品の損失は、3兆2730億円にもなった。
  6月末から27%増加している。
  農林中金など大手銀行の損失額は2兆7760億円となった。
  サブプライム関連は、そのうち9500億円で、あとは、
 その他の証券化商品による損失である。
  国内金融機関が保有している証券化商品の総額は22兆
 2710億円(9月末時点)とされ、わずか3カ月で1割強が水
 の泡となった。
  10月以後、膨らみ続けている損失はさらにひどいと見
 られている。
  また、投資信託協会は、11月14日、国内の投信の純資
 産総額が10月だけで11兆円減少したと発表した。
  9月も合わせると18兆円にもなる。
  個人から投資信託会社が資金を調達して、国内外の株
 や債券に投資して運用するもので、
  ここ数年は、「貯蓄から投資へ」とキャンペーンが張
 られ、銀行や証券会社、郵便局までがさまざまな商品を
 組み合わせて窓口販売、訪問販売に熱を上げてきた。
  その結果、『巨額の個人資産が吹き飛んだ』ことを意
 味している。
  知識のない素人、高齢者や退職者を『カモ』にして、
 リスクを負わせるハメとなった。
  個人の損失は、「自己責任」で、大手金融機関の損失
 は『公的資金をぶち込んで救済』するシカケになってい
 る。
  『年金資金で株式買上げ 市場運用分約93兆円』
  NYダウも、日経平均も、各国金融市場も暴落したり、
 若干持ち直したりしながら、しかし、基本的にはジリ貧
 で下落し続けている。
  この過程で、不可解な買い上げがやられている。
  ドブに捨てるように、公的年金資金がぶち込まれて、
 怒濤の株式買い上げをやっている。
  日経平均株価は、放って置いたら暴落が避けられない
 のが実情だ。
  年金資金の市場運用分は、92兆9273億円にものぼり、
 財投債分の26兆9894億円をはるかに上回っている。
  四半期別に見てみると、この市場に投げ込んでいる92
 兆円で、7月から9月末までだけで、4兆2383億円の損失を
 出していることも明らかになっている。
  10月、11月、12月は、前期以上に「買い上げ」をやっ
 ているので、損失は10兆円ほどに膨れあがってもおかし
 くないという指摘もある。
  株式運用だけでなく、企業社債(資金調達)などにも
 突っ込んでいるが、運用の詳細については明らかではな
 い。
  株式市場において、外資投機集団が売り逃げしていく
 のを補う形で、日本の年金資金が買い支えする構図。
  みなが知らぬ間に、老後資金が、企業資金の穴埋めに
 張り替えられている。
  今後は、郵貯・簡保の株式運用も取り沙汰されており、
 『国民の金融資産も好き勝手に使われている』。
  『米国でも国が銀行救済 『日本に米国債買わせ』
  金融危機にさいして、世界の富をかき集めて『バブル
 を謳歌してきた米国』では、政府が連日のように金融機
 関の「救済策」を打ち出している。
  『赤字財政でカネはない』のに、金儲けした連中の尻
 拭いのために、ドルと米国債を『大量に刷り散らかして』
 国が救済している。
  米政府と米連邦準備制度理事会(FRB)が、投融資
 や保証を通じて抱えているリスクは最大で8兆ドル(約
 760兆円)にのぼる見通しになっている。
  対応如何で『焦げ付く可能性』が十分あるものだ。
  米連邦預金保険公社(FDIC)を通じて、銀行債務
 と決済性預金を保証させるために、1兆9000億ドル。
  FRBは、企業が資金調達のために発行するコマーシ
 ャルペーパー(CP)の買い入れに1兆8000億ドルを拠出
 して、『資金繰り支援』。
  住宅ローンや消費者ローン対策に8000億ドル。
  金融機関への資本注入や、不良資産救済に総額で7000
 億ドル。
  MMF(マネー・マネジメント・ファンド、公社債や
 短期金融資産で運用される投資信託で「極めて安全性が
 高く元本割れしない」といわれていた)向けの資金提供
 に6000億ドル。
  その元本保証に500億ドル。
  住宅ローンの借り換え支援促進策に3000億ドルなど、
 『すさまじい額』である。
  その他、破綻寸前の各社を『政府が抱え込んだ』こと
 によって、シティグループの不良資産に政府保証として
 2500億ドル。
  550兆円ものサブプライム債券をばらまいた、ファニー
 メイ、フレディマックの住宅公社の尻拭いに2000億ドル。
  保険最大手だったAIGには1500億ドル。
  ベアー・スターンズの救済に290億ドル(約2兆8000億
 円)。
  FRBが公定歩合をいじって、金融機関の資金繰りを
 助け、直接貸し出す制度は『無制限に運用』されている。
  また、各国の中央銀行とドル資金を融通する金額も無
 制限で、滞在リスクは上乗せされるすう勢。
  EUも、景気対策として25兆円規模の経済対策を加盟
 国に提案。
  企業支援や税制優遇などを実施するとしている。
  信用収縮が起きる過程で「最後の貸し手としての機能
 を果たす」といって中央銀行が登場し、量的緩和とか利
 下げなどを打ち出して資金を拠出している。
  政府が救済といっても資金はなく、『膨大な国債を発
 行』したり、博打のツケは『国家国民に転嫁』しつつ延
 命をはかっているわけだ。
  しかし、アメリカ政府の『大盤振る舞い』にせよ、こ
 れは、目先をしのいだ結果、ドルが『大量に溢れかえっ
 て』大暴落することになるほかない。
  そして、減価した分、日本など、『米国債を買わされ
 てきた国々は泣く目』にあう。
  日本は、9月時点で約100兆円もの外貨準備を保有し、
 ほとんどが『ドル建て』である。
  日本政府が日銀から100兆円を借りて、『米国債100兆
 円買い込んで』いる格好。
  しかし、ドルの日本円に対する価値は、日を追う事に
 『下落』しており、外貨準備の『評価損』は20兆~25兆
 円に達しているとも見られている(日本の奉仕)。
  『輸出総額が大幅に減少 労働者の大量解雇も』
  金融だけにとどまらず、実体経済にも波及している。
  財務省が発表した10月の貿易統計速報では、アジア向
 けの輸出額が7年ぶりに前年割れとなるなど、総額で前年
 同月比7.7%の大幅減少となった。
  米国向け輸出は、14カ月連続、欧州向けは3カ月連続
 で前年割れとなった。
  とりわけ自動車の落ち込みが最大要因になっている。
  国内でも消費は落ち込み、11月の国内新車販売台数は
 前年比33%減となった。
  トヨタは、トヨタ九州の生産計画を、来年1~3月期は、
 前年比で『60%減』の方針を出し、『ライン停止』も発
 表した。
  派遣・期間工などの非正規雇用を次々と『切り捨て』
 ているのは自動車産業だけでなく、他の製造業にも共通
 している。
  厚生労働省は、10月から3月の半年間に、非正規労働者
 が3万人が失職すると発表。
  すでに、解雇されたり、契約解除が確定している分だ
 けで3万人であり、新たに発生してくる解雇者などの数字
 は含まれていない。
  「定額給付金」をばらまいてどうにかなる事態ではな
 く、金融から実体経済にいたるまでの『破綻が進行』す
 るなかで、労働者が路頭に放り出されて食っていけず、
 現役世代が、これまでに経験したことのない社会状況が
 広がっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月24日金曜日

(増補版)499E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)

題:(増補版)499E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月15日、内務省が、裸体美人画の発売頒布を禁止
 した。
  内務省告示第39号が出され、裸体画の発売を禁止とし
 た。
  この告示が発せられた背景に・・、
  この年・1889年1月の『国民之友』第37号に掲載された
 山田美妙の小説『胡蝶』の裸婦の挿絵で、裸体画論争が
 起こっていたことがあった。
  そして、人々の訪れる博覧会の性格から、裸体画論争
 も誘発されていた。
  日本では、この様な「裸体画論争」が度々起きていた。
  この内務省告示第39号は、裸体美人画類の出版物・印
 刷物が、風俗を壊乱するものとして、その発行を禁じた。
  (清水友美氏の論文を参考にした)
1889年11月15日、東京湾汽船(後の東海汽船)が設立され
 た。
  渋沢栄一の構想、指導のもとに、東京湾その他周辺の
 海運会社4社が合併して設立された・・と記されている
 が?・・別史料によると・・、
  フリー百科事典ウィキペディアにより、「平野富二」
 という人物が「東京湾内汽船」および「東京湾汽船」の
 設立に尽力した・・という記述があった・・、
  『平野富二伝』(古谷昌二/編著 朗文堂 2013 船
 橋市北図書館所蔵)によると、
  1881年6月、平野富二は、発起人6名の総代として東京
 湾内汽船安全会社の設立を申請し、
  1881年8月、許可を得た。
  1882年、発起人の1人稲木嘉助が死亡したため、上記
   東京湾内汽船安全会社は解散となり、
  1885年、平野は、新たに個人経営の平野汽船組を設立。
  1886年、株式組織の東京平野汽船組合が認可された。
  1889年、東京平野汽船組合を含めた東京湾内を運行す
   る汽船会社を統合して、有限責任東京湾汽船会社が
   設立された。
  1889年11月、このため東京平野汽船組合は、この時に、
   廃業届けを東京府に提出、
  1890年1月、解散した。
  有限責任東京湾汽船会社設立にあたり統合された汽船
 会社は情報源により若干異なるが、
  『郵便報知新聞』1889(明治22)年10月23日付記事、
  『東海汽船80年のあゆみ』、
  『にっぽん全国たのしい船旅 2014-2015』(イカロス
 出版 2014)などで確認できる。
  その後、有限責任東京湾汽船会社は・・、
  1890年4月、商法公布により社名を東京湾汽船株式会社
   に、
  1942年8月、東海汽船株式会社に社名を変更し、現在に
   続いている(レファレンス協同データベースを参考
 にした)
  渋沢栄一のみを書くデーターが氾濫していて、平野氏
 を書くデーターは少ない・・注意を要する。
1889年11月16日、内閣記録局篇「法規分類大全」が刊行さ
 れた(12月か?)
  慶応3年10月から明治23年12月に至る法令等を部門別に
 編集した法令集(国立公文書館ホームページより)
  「賞恤門 ; 文書門、内閣記録局編輯」「刑法門」「外
 交門」「兵制門」「財政門」「租税門」「政體門」「警
 察門」「官職門」「治罪門」「衛生門」「各廰會計」「
 外交門」「刑法門」「陸軍海軍二省 ; 官制収兵制門」
 「司法省 ; 文部省 ; 農商務省 ; 逓信省」「官職門」
 「郵便條例 ; 郵便税 ; 郵便物 ; 郵便集配 ; 郵便遞送」
 「治罪門 ; 警察門」「租税門」などがある。
1889年11月18日、北海道炭鉱鉄道会社が設立された。
  北海道炭礦汽船株式会社(ほっかいどうたんこうきせ
 ん)は、石炭の輸入販売やガラス製品の加工販売を行う
 日本の株式会社で、通称は北炭(ほくたん)・・と説明
 があるが・・、
  かつては、北海道で多くの炭鉱を経営し、財閥解体ま
 では三井財閥に属し・・、
  現在は、ロシアからの石炭輸入を中心とする専門商社
 で非上場(かつては上場企業)。
  従業員数:22人(2016年3月末現在)
  この日本に貢献した会社の・・現在に至る道程は・・
  1890年(明治23年)現在の夕張市に夕張炭鉱を、現在
   の歌志内市に空知炭鉱を開設。
    炭鉱の開発と並行して炭鉱から港までの鉄道を建
   設し、小樽港(小樽市)、室蘭港(室蘭市)を石炭
   の積み出し港として整備した。
    石炭を輸送する船を所有し、海運業も営んだ。
  1906年(明治39年)10月1日、鉄道国有法に伴い、北海
   道の幹線鉄道約200キロメートルを国に売却し、
    北海道炭礦汽船株式会社に社名変更。
  1907年(明治40年)11月1日、イギリスビッカース・ア
   ームストロング社と共同して株式会社日本製鋼所を
   設立。
  1909年(明治42年)7月23日、輪西製鐵場(現在の新日
   鐵住金室蘭製鐵所)が操業開始。
  1982年(昭和57年)10月9日、夕張新炭鉱閉山。
  1995年(平成7年)6月23日、会社更生手続き開始の決
   定を受ける。
  2005年(平成17年)1月31日、会社更生手続完了。
  今、従業員数は22名であるが・・、
  かつては、日本を支えてくれた偉大な会社だった・・
  ありがとうございます。
1889年11月20日、両毛鉄道の小山駅~前橋駅間が開通し、
 日本鉄道と接続した。
  日本鉄道の小山駅から延伸された両毛鉄道は、この時
 に、利根川東岸の現・前橋駅まで開業した・・そして・・
  1889年12月、利根川に橋梁が開通し、
   日本鉄道も、両毛鉄道前橋駅まで乗り入れた。
   東京方面からの直通列車も運転され、県都である前
   橋市の玄関口としての役割を果たしてきた。
1889年11月21日、歌舞伎座が開場した(11月10日説あり)
  歌舞伎の専用劇場で、福地源一郎(桜痴)が、東京市
 京橋区木挽町(現:東京都中央区銀座)に建設した。
  外観は洋風で、内部はすべて日本風の、3階建て檜造り、
 客席定員1824人、
  舞台間口 13間(約23.63m)、奥行 16間(約 28.96m)、
 回り舞台直径 9間(約 16.29m)と 7間(約 12.67m)の
 蛇の目回し、本花道 5尺(約 1.52m)の機構であった。
  演劇改良運動の熱心な唱導者福地源一郎が、自分たち
 の理想を実現すべく日本一の大劇場を目指して作った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本よ! 自分の足でしっかり立て・・
.
紀元前7万年前、人間の認知能力が、この頃、より向上した。
  (参考)認知:にんち、ある事柄をはっきり認める事。
  (参考)認知考古学:にんちこうこがく・・
     心の進化を研究する進化心理学を取り入れ、遺
     物・遺跡の分析から
      古代人の精神状態を解明しようとする、新し
     い研究分野。
.
1830年、インディアン強制移住法
  アメリカ第37代大統領アンドリュー・ジャクソンが、
 インディアン強制移住法によって、約10万人のインディ
 アンの方々を強制的に移住させた。
  先住の民・アメリカ・インディアンの方々が、先祖代々
 の地を、アメリカ白人たちに追われた・・、
  ミシシッピ川の西のオクラホマや、アリゾナなどへ
 強制的に移住させられた。
  白人アメリカ人、キリスト教プロテスタントに、『何
 の正義があるというのだ』・・追い出す権利があるとい
 うのだ・・
.
1863年、南北戦争のチャンセラーズヴィルの戦いで、北軍
 のフッカー将軍が、南軍のロバート・E・リー将軍に対し
 て惨めな敗北を喫した。
  このことは、アメリカで、一番知られていることであ
 る・・が・・、
  このフッカー将軍・・南北戦争に売春婦を連れて行っ
 たことでも有名(従軍慰安婦である)
  (参考)ジョセフ・フッカー(1814年11月13日~1879
     年10月31日)は、アメリカ合衆国の職業軍人で
     あり、南北戦争のときは北軍の少将を務めた。
      フッカーは、南北戦争の全体で従軍し多くの
     実績を挙げたが、1863年のチャンセラーズヴィ
     ルの戦いで大敗北を喫す。
.
1911年12月16日、トーマス・ブレーク・グラバーが死んだ。
  武器商人として幕末の日本で活躍し、暗躍した。
  イギリス人(スコットランド出身)の商人。
  その長崎のグラバーさんが、『牛が食べたい』と言え
 ば、幕府は、牛屠場を、その最適地を探して作って上げ、
 その要望に寄り添ってあげた。
  それに対しオーストラリアは、その反対だった。
  オーストラリアの国が出来る前から・・日本はクジラ
 獲りをしてきた。
  そのオーストラリアの国の歴史より古い日本のクジラ
 獲りを『止めろ』と言った。
  その理由が・・勝手な理由で・・キリスト教では、ク
 ジラは知恵があって、高い地位にいる動物だからだと言
 う。
  カンガルーを殴り殺しているオーストラリア。
  自分のやっている事は、何ら気付かず、正しいという。
  キリスト教は、祭りだと言っては七面鳥を食うが、そ
 れは問題外なのか?
  ケルト人は殺すし・・、ヨーロッパ大陸から居なくな
 ってしまったではないか・・
  自分たちがやっていることは良いのだと来る。
  自分たちがやってないのは違和感がある、『だから・・
 やめろ』・・と言う。
  こんな論理を正しいとしている方が「野蛮ではないの
 か?」。
  その「各々には、文化があり尊重しなければならない」。
  クジラを食べるのも食の文化。
  牛を食べる文化と同じなのです。
  散々、クジラの油が欲しいと、クジラを殺して来たの
 に、急に、手のひらを返したように日本を悪者にする。
  本音は、牛肉を買ってくれ・・なのだろー・・、
  もっと、正直に、まともに言って下さい・・キリスト
 教の性悪説のごとき『曲がった言い方』は止めて下さい。
.
1945年8月8日、深夜、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本に
 宣戦布告した。
  ソ連、対日宣戦布告し・・、70個師団(約70万人)も
 のソ連赤軍が、怒涛の如く満州など各地へと進撃して来
 た。
  満州の日本人などの殺戮の限りを尽くした。
  戦車で踏みにじられた・・機関銃の乱射で殺戮された・・
  アメリカのルーズベルトは、秘密裏に、ソ連へ武器を
 渡していた。
  ソ連軍は、この満州の他、朝鮮・咸鏡北道などへも侵
 攻を開始した。
  ルーズベルトは、強烈なキリスト教信徒で、強い者の
 支配が正しいというキリスト教的考え方にあった。
  やはり、強いキリスト教信徒だった進化論のダーウィ
 ンも『強者の適者生存』の論理を展開した。
  因みに、ダーウィンは、後半生は、キリスト教から離
 れている。
  これは、逆に言えば、弱者の生存に配慮しない考え方
 であり、その様な考え方の宗教であった。
  (強者は生き残る権利がある・・だから弱者のものを
 奪うのは正当なのだ・・の考え方・・聖書に書いてある・・
 が、しかし、こんなことは隠している・・)
  キリスト教聖職者の父に育てられたダーウィンも「強
 い者の適者生存の進化論を唱えた」。
  しかし、研究の進んだ今・現代、そのダーウィンの進
 化論は、多くの点で間違っていると指摘されている。
  ルーズベルトの思考も、強者の生存論であった・・
  「異教徒で・・有色人種で・・しかも、敗者・日本に
 何ら配慮はなされなかった」
  (無条件降伏と原爆による完全破壊・・そこからしか
 平和は生まれないに洗脳されていた・・)
  「力ある戦勝国だけの考え方から、新しい秩序が生ま
 れる」とした。
  ルーズベルトは、キリスト教の「シャローム」の教義・
 考え方にマインド・コントロールされていた。
  「平和は、『すべてが破壊された中』から生まれるの
 考え方」から行為を進めて行った・・、
  「今、この時点で、アメリカなどの占領軍は、その占
 領地において、すべてを所有している」とルーズベルト
 は言った。
  他の国・他の民族の生命・財産まで手玉に取って、自
 由できるとした。
  イギリス外相のイーデンは、ヤルタにおける会談の中
 で・・ルーズベルトについて言った・・、
  「ルーズベルトは、老練に、確実に、手に入れ、
  その能力を見せたが・・、
  しかし、残念ながら、この才能ゆえにか、長期ビジョ
 ンがない」・・、
  ルーズベルトは、ペテン的な「エサで吊る話」で会談
 を進め・・、
  日本の正当な権利・領土まで、ソ連への手土産にして
 しまった。
  (アメリカの損は、まったくない状態の中で仕組んだ)
  引っ掛け交渉をして、成果があったと考えるのは間違
 い、次世代へ、禍根を残すやり方だった。
  逆に、『大きな・新たが問題』を作ったルーズベルト
 だった。
  成果など、まったくなかった。
  東欧も、すべてが共産化した。
  東欧での、ソ連の進出について、ルーズベルトは、完
 全にソ連の進出を認めてしまった・・
  ルーズベルトのアメリカは、東欧の共産化を認めた・・
 そして、何ら手を打たなかった・・
  ポーランドへも・・ソ連の進出を受け入れたルーズベ
 ルトだった。
  この様に・・広汎な地域を売り渡した。
  そして、たっぷりとお土産を貰ったソ連・スターリン
 は、日本とソ連の中立条約が、現存しているにもかかわ
 らず、臆面もなく、その条約を勝手に破棄し、
  1945年8月8日、70個師団ものソ連赤軍を怒涛の如く満
 州などへ進撃させ、
  満州の日本人を殺戮の限りを尽くした。
  ルーズベルトは、この様なソ連による日本人への殺戮
 行為の御膳立てをした。
  もともと・・アメリカは・・ルーズベルトは、ただ、
 中国の利権を手に入れたいだけだった。
  日本の主権のある地・千島列島・北方四島などまでも
 売り渡し、
  終戦となっても、戦後になっても、このソ連は、戦争
 を止めず・・、
  日本軍は、敗戦になって撤退し、居ない地・北方領土
 などへも侵攻して奪い取った。
  降伏を宣言していて戦争も何もない時に、その様な地
 へ、軍隊を上陸させて、「占領した」と宣言したって、
 そんな宣言が成立するわけはない。
  ソ連は、日本が降伏宣言する事を焦っていた。
  日本が、降伏の宣言をすると日本の領土が取れなくな
 るからだった。
  しかし、そのソ連の参戦は、「滑り込みアウトだった」。
  しかし、ソ連は、卑劣にも戦争が終わったにもかかわ
 らず、奪い続け・・奪ったことにした。
  千島列島の国守島の戦いは、日本の軍が優秀で強く、
 日本勝利で終戦を迎えた。
  しかし、終戦を向かえたので、敗戦しているソ連に対
 し、日本は武装解除して、武器を置いた。
  終戦状態にした。
  ソ連も、その終戦を受け入れた。
  そして、日本の武装解除を行なった。
  日本が終戦状態であるという日ソの合意がこの行動を
 起こさせた。
  ソ連の正規の軍がである・・その行為をした・・
  しかし、にもかかわらず・・ソ連は、この同じ千島列
 島の南の日本の領土の北方領土で、
  戦争は終わっていないと偽りを言って・・嘘を言って
 ・・ソ連の奪い取り行為を続けた。
  このソ連の屁理屈の「戦争は終わってない」は成立す
 る訳がない。
  日本の領土・千島・北方四島の「無法占拠」が続いて
 いる。
  無法矛盾の理屈を振り回し、自分に都合の良い行動を
 している。
  筋が通る正論であるわけはない。
  この様な、ソ連の卑劣な行為は、ヨーロッパでも行な
 われていた。
  アメリカのルーズベルトの、禍根を残すソ連へのそそ
 のかしは、この様な現実を引き起こしていた。
  こんな卑劣な現実を引き起こしていた。
  朝鮮半島では・・
  ソ連は、朝鮮半島の半分を奪い、何のいわれのない、
 何ら筋の通らない「金日成という男」を送り込んだ。
  自分の近くに居た・・というだけの理由で・・
  『ルーズベルトの仕掛け』・・これで、一番広大な地
 を拡げて得る事が出来たのは・・ソ連だった。
  中国の利権が欲しかったアメリカは、ルーズベルトの
 策に溺れた形で終わった。
  その目的の中国は・・結果的に、中国もまた、共産圏
 政権となった。
  そして、朝鮮では、また、夥(おびただ)しい血が流
 される事になる(数年後に朝鮮戦争が起きる、その金日
 成が引き起こす)。
  本当に、愚かなルーズベルトは、後々まで禍根を残し
 たアメリカ大統領となった。
  そして、その中国・共産圏政権は、今・現在、アメリ
 カの脅威となった。
  また、日本の脅威となった。
  また、アジアの、オーストラリアの、インドの、など
 々々の脅威となった。
.
1946年6月1日、日本人将兵によってベトミン軍のクァンガ
 イ士官学校が設立された。
.
1946年12月7日、シベリア引揚第1船が舞鶴に入港した。
.
21世紀、この21世紀は、多極化の時代を向かえると、中西
 輝政教授(京都大)は言われる。
  「アメリカ一極」の時代は去ると・・。
  教授は、2010年代は、その流れが顕著になると言われ
 る。
  今・2016年、アメリカは、トランプ氏が、次期大統領
 に決まり、氏は「強いアメリカにする」と盛んに演説を
 している。
  そして、次期国防長官の候補者の名を公表した。
  イラクで、盛んにイラクの方々を殺し、アフガニスタ
 ンでも、「悪者は殺すんだ」と、盛んに「自分の考えで
 判断し、人々を殺戮した」というその様な人を指名した
  (このイラクの時も、キリスト教に強く洗脳されたブ
 ッシュ大統領が悪かった・・『現代の十字軍になる』と
 宣言した大統領の蛮行だった)。
  人々を殺すことが・・「強いと言えるのか?」、
  その様な「選択センス」で人選したのか?
  強いアメリカになるというのは、その様に「暴力的に
 強くなる」という意味か?
  そうであるなら、強くなるという意味を「はき違えて」
 いる。
  「アメリカ一極」が終焉したという、次の幕が開(あ)
 く、今・現在、空(むな)しいのあくにならないように・・
  アメリカは「アメリカ一極」が崩れ、焦(あせ)って
 いるのだろうか・・
  日本も、この多極化の時代、その一極として自分の足
 でしっかり立て・・その様な時代になっている。
.
21世紀、この21世紀という世紀は・・、「米」「中」「ロ」
 「印」「欧」の五局の国際政治の構造となり、日本は、
 中国に呑み込まれてしまう可能性が高いという。
  国を疎(おろそ)かにしている今、その到来を速めて
 いる。
  「アメリカは、いずれ東アジアから撤退していく」と、
 ハンティントンは明言している。
  関連する・・バンドワゴンの話・・、
  『バンドワゴンする国』は・・、
  『外交や国防で致命的な失敗をする確率が高い』と・・
 これを指摘する学者は多い。
  キッシンジャー、ミアシャイマー、モーゲンソー、ケ
 ネス、ウォルツ(カリフォルニア大学とコロンビア大学)、
 ポーゼン(MIT)などが明言している。
  過去、1700年以降の300年間のアメリカ、イギリス、ロ
 シア、フランスなどの歴史を見ても明らかだと・・、
  これらの覇権主義国は、同盟国を何度もだましたり、
 裏切ったりして来ている・・と・・
  バンドワゴンする国は・・、
  自主防衛せず、他の強国に依存(もしくは追従)して
 生きていこうとする外交の国・・、
  一般的に・・「時流に乗る」「多勢に与する」「勝ち
 馬に乗る」などと説明されている・・が・・、
.
2020年、中国が・・アメリカを越える。
  中国は、過去20年間、毎年、二ケタの伸び率で軍拡を
 続けてきた。
  そして、アメリカの国防予算は、今後6年間は停滞する
 と予測されている
  2010年の予測で、2020年ごろには、中国の軍事予算は、
 アメリカを抜いて世界一になるだろうと予測されている。
  また、北朝鮮は、日本を直撃できる弾道ミサイルを300
 基を保有している。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月22日水曜日

(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)

題:(増補版)498E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年11月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年11月3日、嘉仁親王、立太子式典が挙行された。
  嘉仁親王(よしひとしんのう、大正天皇陛下)が、立
 太子礼を行われた。
  東宮立太子(氷川清話)
  因みに、即位礼は、1915年(大正4年)11月10日、於:
 京都御所だった。
1889年11月4日、横浜共同電灯会社が設立された(7月説あ
 り)
  1889年7月に、横浜共同電灯会社(後に横浜電気と改称)
 が県の許可を得て設立され、初代社長に高島嘉右衛門が
 就任した。
  「関内及び外国人居留地」を営業区域として許可を得
 たが、英国人商会の競合があり居留地の売電が進まず、
 関外の営業権を持つ会社も吸収合併するが、苦戦が続く。
  1890年、横浜共同電灯会社が、発電所の建設や電線の
 架設など開業の準備を整え、
  1890年9月に、試験送電を始めた。
   試験送電は、事務所内の電灯を点灯してのデモンス
   トレーションが行われた。
   当初の出力は100キロワットの直流式、灯数は700灯
   ほどであり需要は少なかった。
  1890年10月から営業を開始した。
   初めて電灯を点火した。
  1896年に、居留地内の英国人経営の電灯会社経営権を
 買収した。
  競合が解消し、収益性が確保できるようになった。
  この時、英国人商社の電灯線は、地中埋設線による電
 力提供を行っていた(電柱の無い方式)。
  1903年12月30日、横浜共同電灯会社が、高島町に発電
 所を竣工させた。
  発電所は、エジソン直流三線式発電方式を採用した石
 炭火力発電所。
  1921年に、東京電力の前身である東京電灯と合併した。
  因みに、当初、競合する電気事業出願者があったが、
 再三に渡る官庁に対しての許可の督促や競合者との折衝
 を経て営業許可を受けるに至っていた。
1889年11月7日、代理公使・近藤直鋤が、朝鮮政府に対して
 咸鏡道防穀令施行は、通商章程違反と抗議し、損害賠償
 を請求した(1891年12月説あり)
1889年11月15日、門司、四日市の両港が開港した。
  北九州の工業力と結びついて、大陸貿易の基地となり、
 最盛期には、1ヶ月に200隻近い外航客船が入港した。
  国内航路を含めて年間600万人近い乗降客となった。
  明治の初期、外国貿易は、開港と朝鮮貿易のための特別
 貿易港に限られていた。
  石炭などの特定の産品を輸出するためには「特別輸出
 港」という制度が導入され、
  北九州の筑豊は石炭の主産地であり、取れた石炭は「
 川ひらた」「五平太」などと呼ばれる川舟を使用して、
 遠賀川及びその支流を利用して水運輸送され、若松港か
 ら積み出されていた。
  しかし、若松港は水深が浅く、大型船の入港には不向
 きであった。
  北部九州の港が、特別輸出校に指定されれば、石炭輸
 出が可能となり、地域経済の発展も期待できる。
  小倉港はじめとしたその他の北部九州の港も、外国貿
 易を行なうには問題があり、大型船が入港できる港湾の
 整備が求められていた。
  門司港は、水深が深くできた。
  また、本州と九州の結節点に位置し、石炭輸出だけで
 なく物流の面でも利便性が高かった。
  鉄道で、九州各地に輸送できるという地の利があった。
  四日市港は、今の四日市市中納屋(なかなや)町で回船
 問屋を営んでいた稲葉三右衛門 は、改修の必要性を感じ、
 三重県に働きかけましたがみとめられず、自分の財産を
 なげうって四日市港を改修する工事を始めた。
  この努力によって、1884年には、現在の四日市港の基
 礎ができていた。
  そして、この年に、外国貿易が出来る港としての開港
 場(かいこうじょう、特別輸出港)となった。
  そして、日本国籍の船舶として外国貿易が初めて行わ
 れた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:実は・・帝国主義の国だった・・アメリカ・・
.
1890年代、バッファロー(アメリカ・バイソン)が、アメ
 リカの大地から姿を消す状態になった。
  絶滅寸前となった。
  千頭を割った(約750頭というデーターがある)。
  白人のキリスト教徒が現れる前のアメリカバイソンの
 生息数は、何と約6000万頭も居たという。
  99.9987パーセントのアメリカバイソンは、殺してしま
 ったというアメリカ人だった。
  0.0012パーセントしか生き残っていなかった。
  日本に鯨のことでとやかく言う資格はない。
  更にひどい事に、この様にした行為の原因は、このバ
 イソンは、アメリカインディアンの方々、この先住民の
 方々の大切な食料だった。
  アメリカインディアンの方々の絶滅作戦の一環でこの
 バイソンを射殺しまくったのだった。
  非人道的な極悪行為である。
  そして、そのバイソンを食べる訳でもなく、そのまま
 放置した、腐るがままにしたというから、動物愛護の話
 もあったものでもない。
  1870年代中期の写真というのがあるが、バイソンの頭
 骨を積み上げた山の写真がある。
  その山の頂上でアメリカ人が立っているが、この関係
 者が集めただけでもこのような山のようにバイソンが殺
 されたことを示している。
  20メートルの高さがあろうかという巨大なバイソンの
 頭蓋骨の山である。
  本当に可哀想という心が起きる写真である。
  今現在、そのアメリカ・インディアンの方々が絶滅に
 瀕(ひん)している。
  非人道的な話この上ない卑劣な話である。
  衣食住のすべてを、バイソンに支えられていたアメリ
 カインディアンの方々だった。
  長い長い歴史の中で、このように暮らしを育んで来た
 アメリカ・インディアンの方々のすべてを奪い取って、
 自分だけ良ければ良いというキリスト教の教えに洗脳さ
 れて、この様な最悪行為をしたのだった。
  アメリカ政府がその行為を率先して奨励してやったと
 いうのだから卑劣である。
  博愛のかけらもないキリスト教徒のアメリカ人の仕業
 (しわざ)だった。
.
1890年12月29日、ウーンデッド・ニーの虐殺、
  アメリカのサウスダコタ州ウーンデッド・ニーで、ミ
 ネコンジュー他のスー族インディアンの種族に対して、
 アメリカ軍の第7騎兵隊が行った民族殺戮、及び、民族
 虐殺。
  この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニーの戦い」と
 呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には名誉勲章まで授与さ
 れている。
  しかし、インディアン側では、これを「ビッグ・フッ
 ト一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争
 の象徴にもなっている。
  そして、日本では盛んに国づくりが行われている頃、
 アメリカでは卑劣なインディアンの方々に対する非人道
 的行為が、盛んに行なわれていた。
  アメリカの先住民のアメリカ・インディアンの方々と、
 アメリカに新しくやって来た占領者のイギリスなどから
 の白人たちが、盛んに戦いそして虐殺行為が行われてい
 た。
  そして、この年に、忌わしい白人による大虐殺が、イ
 ンディアンの方々に対して行われた。
  そして、駆逐されたアメリカ・インディアンの方々は、
 可哀想に、この後、広大な領土を奪われて、狭い保留地
 に閉じ込められる。
  インディアンの方々が持っていた固有の文化もことご
 とく破壊された。
  アメリカのキリスト教の白人たちは、自分たちのもの
 が良いのだと、自分たちのものを押し付けた。
  この様な名分のもとに破壊を行なった。
  ことごとく理屈抜きの「キリスト教の神の義の下の行
 為で正しいのだ」とされた。
  卑劣な解釈においての卑劣な行為だった。
  尊い命をはじめ、すべてが、インディアンの方々は奪
 われた。
  アメリカ・インディアンの方々は、この強制に対して
 も戦った。
  自分たちの持つ文化を守る抵抗行動をして行った。
  基本的人権が奪うという遅れた行為の中にキリスト教
 に洗脳されたアメリカの白人たちは居た。
  『民族の自決権』なども完全に奪われた状態の中に置
 かれたアメリカ・インディアンの方々だった。
  アメリカはこの様な行為に対して謝罪していない。
  インディアンの方々が虐殺されて、南ダコタの雪の中
 に横たわっている記録写真がある。
  悲惨な事ではないか。
  子供たちも大勢(おおぜい)いる。
  100万人以上いたというアメリカ・インディアンの方々
 は、そのあらかたが殺されてしまった。
  4分の3の方々は確実に殺戮された状態だった。
  このウーンデッド・ニーの戦いの抵抗が最後の抵抗と
 なった。
  アメリカの最新兵器を持った軍団のやりたい放題の殺
 戮だった。
  名誉も何もない、卑劣な行為のみが残った。
  この後、白人たちが勝手に決めた居留地にインディア
 ンの方々は閉じ込められた。
  そして、更に卑劣な事は、この後、「ドーズ法」を作
 って、残り少なくなったインディアンの方々の土地をさ
 らに奪った。
  負の世界遺産として登録せよ!
  負の記念碑を建立せよ!
.
1942年9月、アメリカの航空母艦「ワスプ」が沈没した。
  「ワスプ」と言えばWASPである。
  これは、白人・アングロサクソン・プロテスタントで
 ある。
  アメリカは、自国を「民主主義の国だ」と自画自賛す
 る。
  そして、民主主義を根付かせると言って・・腕力で、
 戦争で・・「その言葉を掲げ」て、卑劣な事をする。
  どこが・・民主主義国だ・・と、糾弾したい。
  帝国主義国そのものではないか・・と、言いたい。
  アメリカの民主主義と言ったって、黒人の方々が入っ
 ていない民主主義・・、
  そんなアメリカなのだ・・、
  ズーット・・悪い事ばかりして来た・・国。
  良いことをした年代はあったのか・・?
  『すべての人間は平等に創られている』・・と、アメ
 リカの独立宣言書に書かれているが・・まったくの『嘘
 である』。
  アメリカは、ネイティブ・アメリカン(アメリカン・
 インディアン)の先住民の方々を殺しまくっているし・・、
  結局、WASPである。
  WASPの価値観で動いている国だ。
  かつての移民たちである。
  そのWASPが、今・現在、大多数の座から降りよう
 としている。
  これまで・・嫌というほど・・マイノリティの方々を
 虐(しいた)げて来たが・・自分たちがマイノリティへ
 の道を進んでいる。
  WASPたちは焦(あせ)っている。
  WASPは、「ホワイト・アングロサクソン・プロテ
 スタント」の英語( White Anglo-Saxon Protestant)の
 頭文字をとった略語。
  白人・アングロサクソン人種・キリスト教プロテスタ
 ントの宗教者たちである。
  殺戮と戦争の限りを尽くして、アメリカを奪った。
  マイノリティーの方々は殺されて、消えて行った。
  因みに、ワスプ(USS Wasp, CV-7) というアメリカ
 海軍の航空母艦は・・、
  航空母艦の名前にするぐらいのWASPなのだが・・、
  この名のアメリカ海軍におけるワスプの名を受け継い
 だ艦は8隻ある・・こんなに重きを置いている・・、
  この8隻目の艦は・・1942年9月、日本の潜水艦『伊-19』
 の魚雷攻撃を受け、大火災の後に沈没した。
.
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。
  投下時間は午前8時15分だった。
  広島市の人口の35万人の半分近くの16万6000人の方々
 が亡くなった。
  避難所へたどり着いた方々も、また、担ぎ込まれた方々
 の70%~80%が亡くなった。
  被爆した方(小学生の女性、Kさん)は、その時の思
 い出を語る・・、
  櫛で、私の頭の毛を梳(と)いてくれたお姉さんたち
 の手、
  そのすべての方の手や唇はくっついていました。
  20歳代の女性の方たちでした。
  原爆が落ちなかったら、エノラ・ゲイが落とさなかっ
 たら・・、
  このお姉さんたちの敵(かたき)を取りたいと思いま
 した。
  その後に、そのエノラゲイの副操縦士に会う機会があ
 りました・・、
  アメリカのテレビ局で・・会った時は、「飛行機に乗
 ってた奴だ」・・と、思いました。
  私の父は、被爆したその様な女学生を見た時は、「あ
 ー、すまない」と思ったと・・言いました。
  父は・・キリスト教国・アメリカが落とした・・、
  アメリカは、謝らなければいけない・・と、父は言い
 ました。
  ニューヨークの病院が、無料でその女性の方たちを治
 療すると申し出ました。
  しかし、お姉さんたちは、軍用機に乗りたくないと思
 いました。
  アメリカのテレビに出る事になり、1956年5月11日、ア
 メリカのテレビ局のホールに入った。
  Kさんは、その時、5年生(11歳)だった。
  副操縦士のロバート・ルイスが居た。
  私は・・そのおじさんをにらんだ。
  午前2時45分:テニアン島を出発したと言った。
  広島・長崎・小倉が目標だったと言った。
  そして、投下後、確認のため、投下した広島を機上か
 ら見た・・その時・・、
  その時、「神様、私たちは何ていうことをしたんだ」
 と思いました・・と・・言った。
  広島は・・消え・・て・・い・・た・・、
  涙があふれた。
  それを見てショックを受けた・・副操縦士は言った・・
  その状況を語っていた「鬼だと見ていた副操縦士」か
 ら涙が出ました。
  私は正しい人と思っていた・・が、しかし・・心は変
 わった。
  少し経って・・旧ABCC(原爆傷害調査委員会)の
 『屈辱的な調査』を受けた。
  それは、原爆投下後の状況(原爆の効果)を調べたア
 メリカの研究所だった。
  多感の女の子を裸にしてまでして、色々、調べた研究
 所だった。
  屈辱を受けたその場に、研究所の場所に、当分、来れ
 ないという・・場所に・・なっていた。
  それほど・・Kさんの心を・・傷つけていた。
  忌まわしい場所(研究所の講堂)となっていた。
  アメリカの研究所は・・そこまでした。
  極悪行為の後の・・アメリカの指示した・・調査だっ
 た。
  その屈辱は、その後、忘れられない事となった。
  広島に住みたくないとまで思った。
  被爆の重荷を背負いたくなかった。
  しかし、被爆者と分かり、婚約が破棄となった。
  婚約者の・・婚約相手の叔父さんが医者で、その被爆
 の悪さを知っていて、婚約相手に伝えられた。
  原爆投下をした者・・テレビ局で会ったルイスに会い
 たかった。
  ルイスに会った時、ルイスは精神病院に入っていた。
  彼は、アメリカのテレビに出たのを、アメリカは、彼
 を非難した、彼は非難を受けた。
  Kさんは、日本に帰って、彼の死亡記事を見た。
  爆弾投下から、彼は心に重みとなって心を病んでいた。
  Kさんは、結婚した。
  虎の門病院で妊娠して居るのが分かり、「大丈夫です」
 と言われた。
  しかし、流産した。
  養子を引き取ることにした。
  今、2人の娘がいます。
.
2017年1月30日、この日の新聞広告に・・、
  (読売新聞、2017年1月30日)の広告に・・、マックス・
 フォン・シュラー氏という元アメリカ海兵他の兵士だっ
 た人が以下の事を言っている・・、
  ・マニラの戦いでは、10万人ものフィリピン人が死亡
   したが・・、
  アメリカ人は、強暴な日本兵がレイプや殺人を犯した
 からだと言います。
  実際はアメリカ軍の砲爆撃によるものでした。
  ・アメリカのフェミニストは、慰安婦は性奴隷と断面
 します。
  アメリカの歴史学者が、この考え方と違う事を書けば、
 職を失います。
  彼が止めるまで大学に圧力を掛けます。
  ・アメリカ人は、プロパガンダが巧みです。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)について「日本人は、
 腐敗した指導者たちに騙されていた」とアメリカ人は言
 います。
  アメリカが、日本を戦争に追い込んだ事実を絶対にア
 メリカ人は認めません。
  ・真実を語ることは、それは『ヘイトスピーチ』では
 ありません。
  本「アメリカが隠しておきたい日本の歴史」
  出版社:ハート出版
  広告コピー:海兵隊出身の著者が、アメリカの嘘を告
 発する。
.
2017年2月12日、中国を出ていく人たち
  この日の読売新聞を参考に記すと・・、
  トランプ米大統領の移民政策が、世界の衝撃となって
 いる様に、今、中国でも「中国を出ていく移民」が話題
 となっているという。
  身近な人が、いきなり海外に移住するという現象が中
 国の人々を騒がせているという。
  1例・・、最近、中産階級層の北京の中年男性へ、スマ
 ートフォンに友人からメッセージが届いたが・・、
  それを読んで仰天したという。
  「今、アメリカだ」と・・移民して行った・・と。
  やはり、昨年にも、突然、アメリカから連絡があって、
 幼稚園のPTA仲間だった。
  資金を作って、移民をする人が身の回りで起こってい
 るという。
  週刊誌の人気時事漫画も、移民熱を取り上げている。
  北京の著名な移民コンサルティング業者の総裁は・・、
  「確かに、移民はどんどん増えています」と笑顔で言
 う。
  大金持ちの投資移民が増えただけでなく、若者も海外
 へ出て行くという。
  近年、欧州諸国などで、中国人移民へのハードルをグ
 ンと下がり、家1軒を買うほどの元手で、永住権を手に
 出来る国が増えたことも・・急増の要因だという。
  北京や上海の不動産を売れば、問題なく手が届く。
  移民の主な動機は、子女の教育、大気汚染など劣悪な
 環境からの脱出、移民先の手厚い社会保障への期待など
 ・・。
  元々、中国は、華僑・華人を世界に出してきた国。
  中国経済が非常に良かった2012年でさえ、約14万人が、
 人気のアメリカ・カナダ・オーストラリアの永住権を取
 得したという。
  今、中国は、資産家層が増えて、経済減速が長引いて
 いる、そこで、移民をするという人が増えているという
 状況。
  中国が気がかりとしているのは、知識人の移民が増え
 ていること。
  その人たちは、中国の国家の理性や、寛容さが、喪失
 していくことの暗さに、行動の原因があると。
  自由、民主、人権などの「西側的な価値観」を壊す習
 近平政権の思想矯正運動がある。
  1月、毛沢東をインターネットで批判し、揶揄(やゆ)
 した大学教授が、地方幹部らの毛沢東支持者に攻撃され
 た末に、相次いで解任された。
  数知れない知識人が迫害された文化大革命(1969年~
 1976年)を連想させる事件が起きた。
  中国共産党の利益の前には、知識人などは簡単につぶ
 されるという国だった。
  ある知識人は、スマホに「あなたは来ないのか」とい
 う海外からのメッセージを見て、自分の資産額を考える
 という中国となっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月21日火曜日

(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)

題:(増補版)497E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月30日、伊藤博文の免官が発令された。
  10月11日に、枢密院議長の伊藤博文が、大隈重信の条
 約改正案に反対して辞表を出した。
  そして、10月30日のこの日に、免官発令がなされた。
1889年10月、山形県鶴岡町で、困窮家庭の児童たちへ、給
 食が配られ始めた。
  和尚さんたちの慈しみの心から生まれた『日本初の給
 食』だった。
  明治22年のこの年、鶴岡市の家中新町の大督寺境内に
 ある私立忠愛小学校で、
  生活が苦しい家庭の子どもたちへ、昼食を与えたのが、
 日本の学校給食のはじまりとなった。
  小学校で、ある日から数日続けて数人分のお弁当が盗
 まれる事件が発生した。
  悲しいかな犯人は子どもだった。
  しかも、その子は、昼はおろか、朝晩もまともな食事
 をとることの出来ない家庭の、可哀想な子どもであるこ
 とがわかった。
  そのことを知って心を痛め、「なんとかしてあげたい」
 との思いで給食が始まった。
  和尚さんたちは、お経をとなえ、一軒一軒家を托鉢し
 てまわり、
  その時のお米や浄財を資金にして、お弁当を持って来
 ることの出きない子どもたちのために給食を作った。
  日本の学校給食の始まりは、この山形の私立忠愛小学
 校で、無料で食事を配ったのが始まりだった。
  初めは、おにぎりと漬物だけという簡素なものであっ
 た(これが、当時の日本では当たり前の昼食)。
  その後、各地で、一部の子供に対して、つまり欠食児
 童への、パンなどが、一部の学校で配られるようになっ
 て行った。
  1930年代に入ると、学校給食臨時施設法が制定され、
 一部ではあったが、学校給食が実施されるようになった。
  残念ながら、1940年代に入ると食糧事情悪化の為に中
 断され、・・また・・、
  戦後1945年以降は、外国からの食料援助によって、児
 童の欠食対策として、徐々に、給食が再開され、
  1952年あたりからは、食糧事情の改善により、全国的
 に完全給食を実施することが可能になった。
  同時に、給食の目的は「欠食児童対策」から「教育の
 一環」と位置づけられ、
  また、「学校給食法」が制定され、
  財政力の弱い地方自治体でも、交付税と補助金によっ
 て、全児童への完全給食が可能となった。
  因みに、この私立忠愛小学校の設立の主旨は・・、
 貧しい子どもたちへも教育を与えたいと、やさしい和尚
 さんたちが、鶴岡の寺院が宗派をこえて、 1889年(明治
 22年)に、大督寺の本堂の一部を利用し、「私立忠愛学校」
 を開設した。
  また、このお寺は、藤沢周平作品の「義民が駆ける」
 に登場する浄土宗のお寺である。
  境内には、学校給食発祥の地の記念碑がある。
1889年11月1日、史学会の第1回会合が行われた。
  公益財団法人 史学会、
  設立趣旨:
  この法人は、広く世界を対象とする史学研究の発展を
 めざし、最新の研究成果を公表することに努める。
  この活動を通して、過去と現在とを結ぶ歴史認識を社
 会に普及することにより、わが国の知的文化の向上に貢
 献することを目的とする。
  沿革:
  1889年、史学会 発足
  1929年、財団法人史学会 設立
  2012年、公益財団法人史学会 移行
  設立年月日:1889年11月1日
  会員数:個人会員:2280(人)
  性別:男性会員:1882(人)、女性会員:398(人)
  団体会員:120(団体)
  刊行物・誌名(和文):史学雑誌
  発行部数:4600(部/回)
  活動:国内及び国際の学術連合体への加入
  史学会の歩み:
  東京大学で生まれた史学会が歩んできた歴史は、日本
 におけるアカデミックな歴史学そのものの歩みである。
  御雇外国人のルートヴィヒ・リース(1861年~1928年)
 は、ベルリン大学で、ハンス・デルブリュックに師事し、
 ランケが確立した近代歴史学を学んだ。
  帝国大学の招聘を受けての来日は、1887年で、1902年
 まで世界史、史学研究法を講じた。
  明治維新後、欧米の先進文化を取り入れるため、政治、
 法律、軍事、経済などあらゆる分野の御雇(おやとい)外
 国人が日本に来たが、
  彼が、日本にもたらしたものは、レオポルト・フォン・
 ランケらによって樹立された近代歴史学・・、
  つまり、史料(歴史資料)を収集し、それを批判的に
 分析し、事実を再構成するという実証的な歴史研究の手
 法だった。
  東京大学大学院法学政治学研究科長の西川洋一教授は、
 当時のリースの授業について次のように説明する。
  「ドイツの大学では、歴史研究の方法を学生に学ばせ
 るため、
  演習(ユープンク)という授業形式を重視していたが、
 リースも日本でそれを採用した。
  1例として、1888年の演習で取り扱われた島原の乱の研
 究では、日本側の史料だけでなく、オランダ商館やキリ
 スト教会関係などヨーロッパ側の史料を集め、
  それらを比較検討しながら、蜂起の経過から鎮圧の過
 程に至るまでを再構成し、
  成果は、論文として発表された。
  学生たちは、単に、リースの講義を聴講するだけでな
 く、日本語の古文書を英訳するなどして、史料分析に積
 極的に関わった。
  リースが、島原の乱を扱った演習の成果は、当時、学
 生だった磯田良氏によって論文にまとめられ、『史学雑
 誌』第1編13号に掲載された。
  リース自身も、1890年に、『ドイツ東アジア協会紀要』
 に同テーマの論文を発表した。
  磯田氏は、帝国大学の講師になった後、ドイツ、オー
 ストリアに留学。
  帰国後、東京高師教授をつとめた。
  正岡子規は、随筆『墨汁一滴』で、自分が帝国大学を
 落第したのは、リースの授業を落としたからで、その後
 もしばしば試験に苦しめられる悪夢を見ると告白してい
 るが、そのような学生は、子規だけに留まらなかった。
  「講義録を読むと、リースは、ドイツの大学で行われ
 ていたものと遜色のない、高いレベルの授業を行ってい
 たことがわかる。
  リースを知る在日ドイツ人の書簡には、彼が、学生に
 対して厳しすぎるので大学と揉めている、といった記述
 を見つけることができる」。
  日本に早く根づいた近代歴史学。
  リースは、また、帝国大学に国史科が開設したことを
 機に、同僚の重野安繹教授らに、学会の設立と雑誌の刊
 行を勧め、
  その結果、1889年11月1日に、史学会発表会を兼ねた
 第1回学会が、文科大学第10番教室で行われた。
  また、同年・1889年12月15日には、『史学会雑誌』(
 後の『史学雑誌』)の第1号が発行された。
  研究者のネットワークとしての史学会、および、研究
 成果公表のためのフォーラムとしての『史学雑誌』を設
 けることによって、東京大学に、日本の近代歴史学が誕
 生した。
  因みに、『史学雑誌』は、日本で最も古い歴史学の学
 術雑誌で、
  論文は、すべて厳しい査読を経て掲載されるため水準
 が高く、日本史、東洋史、西洋史に限らず、総合的に歴
 史を扱っている。
  そして、主要な歴史学雑誌として、最古のものである
 ドイツの『Historische Zeitschrift』の創刊は1859年、
  イギリスにおける歴史学雑誌『English Historical
  Review』の創刊は1886年、
  アメリカ歴史学会の『American Historical Review』
 の創刊は1895年で、
  ヨーロッパで生まれた近代歴史学の基礎は、驚くほど
 早い時期に、日本に根づいたことがわかる。
  『史学雑誌』は、2014年現在で123編におよぶ。
  また、毎年1回開催されている史学会大会も、関東大震
 災や第二次世界大戦、東大紛争による中止をのぞき、現
 在まで続けられている。
1889年11月1日、伊藤博文、および、黒田清隆に、元勲優遇
 の詔書(しょうちょく)が出された(11月21日説あり)
  天皇陛下より、「大臣の礼によって元勲優遇の意を表
 す」という詔勅が下された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:貶(おとし)められる日本・・事実から乖離して・・
.
1911年2月21日、日米通商航海条約を調印した(小村条約)
  種々の段階がある日米通商航海条約のうち、明治44年
 (1911年)調印の新条約(小村条約の通称がある)。
  これによって、関税自主権が完全に回復したが・・、
 昭和14年(1939年)に、日本の中国の行動を不満として、
 アメリカは、破棄を通告し、1940年1月26日に失効した。
  日米の開戦の原因の一つとなる強烈な『準宣戦布告的』
 なアメリカの行動だった。
  1894年、1899年(陸奥条約)と続く日米通商航海条約
 で・・1911年に締結された日米の条約だった。
  不平等条約であった江戸末期の日米修好通商条約を、
 陸奥宗光(むつむねみつ)外相の時、日英通商航海条約同
 様に、法権を回復させ、
  次いで、日露戦争勝利後、日本の国際的地位向上を背
 景にして関税自主権を完全に回復させた条約。
  ☆不平等条約であった江戸時代の日米修好通商条約(
 1858年)を改め、明治政府がアメリカとの間で法権を回
 復した条約。
  1894年11月22日、陸奥宗光外相のとき、栗野慎一郎駐
 米公使と国務長官グレシャムW.Q.Greshamが調印し、
  翌年・1895年3月24日、公布した。
  1899年7月17日から実施された。
  1894年7月16日に調印された日英通商航海条約と同じ内
 容のものであった。
  (1)安政(あんせい)五か国条約の一つとして結んだ日
 米修好通商条約にかわり、
  1894年(明治27年)11月22日調印、5年後の1899年7月
 17日効力を発生した条約。
  通商航海の自由と内国民待遇を原則とし、領事裁判権
 を撤廃し、多少の束縛を除き関税自主権も回復した。
  (2)1911年(明治44年)2月21日、調印の日米新通商
 航海条約。
  旧条約には、日本人移民をアメリカ政府が国内法で制
 約できる留保条項があった。
  日本人移民は、アメリカのハワイ属領制実施の1900年
 から著しく増加、日本政府は、差別的法律が制定される
 のを防ぐため、1907年、1908年に日米紳士協約を結び、
 自主的に移民を制限した。
  しかし、移民問題は解決されなかったので、旧条約の
 終了と同時に有効となる新条約を結び、留保条項を削除
 し関税自主権を完全に回復した。
  日本政府は、同時に、紳士協約の維持宣言をアメリカ
 政府に伝えたが、アメリカは、1924年(大正13年)排日
 移民法により紳士協約を『一方的に廃棄した』。
  1939年(昭和14年)7月26日、アメリカは、日本の中国
 での行動に抗議して条約の廃棄を通告した。
  野村吉三郎(きちさぶろう)外相は、グルー駐日大使と
 暫定協定締結を試みたが成功せず、1940年1月26日失効
 した。
  (3)サンフランシスコ講和条約の発効に伴って1953年
 (昭和28年)4月、調印された日米友好通商航海条約。
  日米間の通商、および、投資交流の促進のための最恵
 国、および、内国民待遇の原則を基礎としている。
  日本が、第二次世界大戦後に旧連合国と締結した最初
 の通商条約。
.
1937年7月29日、通州事件(中国共産党の扇動)
  日本人の多数が虐殺された事件。
  この事件は、中国共産党の扇動であったと判明したと
 (産経新聞、2017年1月4日)が報じた。
  蜂起した地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動
 工作を受けていたことが、研究の結果、明らかとなった。
  「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の中国共産党
 が、敵対する親日政権の軍や警察組織に離反する事を働
 きかけた。
  そして、日本人を襲うという惨劇につながる蜂起とな
 ったことが裏付けられた。
  (参考)通州事件は、北京の東にある通州(現:北京
     市通州区)で、親日地方政権(殷汝耕・いんじ
     ょうこう政務長官)の保安隊が蜂起した事件。
     自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居
     留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あ
     まりが死亡した。
      多くの女性や子供が、極めて残虐な方法で殺
     害されたことで、日本の国内世論を激高させた。
  国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通牒が判明
 した。
  また、共産党の関与は、党史や地方史に関する報告と
 して、河北省唐山市の機構が運営する研究サイトや、歴
 史専門誌などで、近年、新事実が相次ぎ公表された。
  河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉
 少奇書記)の下で、工作員が、1935年の自治政府の成立
 直後から、保安隊や第一総隊長や第二総隊長と関係を持
 った。
  この関係で、共産党は、「抗日救国に一致団結する大
 義」を植え込んだりして、保安隊内への浸透をして行っ
 た。
  さらに、盧溝橋事件に始まる日中の戦い以前に、華北
 一帯で頻発した抗日活動も、「共産党が工作を行って」
 功を奏していた。
  1例として、1936年11月、河北省を列車で移動中の山海
 関守備隊長、吉田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安
 隊の兵士に拉致された事件について、共産党に洗脳され
 た張硯田の指示と判明した。
  1935年~1936年当時、毛沢東が率いる共産党は、陜西
 省(せんせいしょう)北部の根拠地で、国民党軍の包囲
 を受けつつ、党勢の立て直しを模索、国民党や親日勢力
 を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、
 国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。
  通州事件で、保安隊は、7月28日の深夜から行動に移り、
  第一総隊が、日本軍守備隊へ攻撃、
  第二総隊が、外部との連絡切断、
  教導総隊が、駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当
 した。
  蜂起を指揮した張慶余らは、通州事件の後、国民党軍
 の中将となり、戦後まで生存した。
  中国では「抗日将領」として評価されている。
.
1945年9月8日、アメリカが、南朝鮮を占領した(~1948年
 8月15日)
  そして、アメリカに直接統治された。
  近代産業の中心をなしていた重化学工業は、物的施設
 を残すのみで霧散し、
  日本経済との連関において編成されていたその他の鉱
 工業もマヒ状態に陥らざるをえなくなった。
  解放後の「南北への分断は、単なる地理的な分断では
 なく、韓国産業の構造的な切断とも言うべきもので、日
 本の支配下にあって築き上げた産業体系と、その基礎を
 解体する結果を招来した。
  この様な経済状況に於いて、北緯38度線以北から越南
 する者や、
  日本及び満州、その他各地から朝鮮人労務者などが一
 斉に帰還する事によって失業や食料、住宅問題が激化し
 た。
  しかし、この状況を、アメリカによる占領期の救護政
 策について何ら研究が見当たらない・・が・・
  アメリカが南朝鮮を統治する占領政策についての「民
 政に関する書記基本指令」がある。
  これは、1945年10月中旬、在朝鮮アメリカ司令官へ送
 付された。
  運営する人員についても、「軍事要員の節減を最大限
 に実施するため、朝鮮人をできるだけ行政上の地位に登
 用する」(第2節)ことを規定していたが、適当な者が
 見出せない場合、日本人、および、日本人に協力した朝
 鮮人を一時的に任用することを許可していた。
.
1946年1月9日、生田警察署襲撃事件(第2回)30-40人の朝
 鮮人が、検挙された賭博団の奪還を目的に署内に侵入、
 進駐軍の協力を得て鎮圧した。
.
1946年9月24日、南朝鮮でアメリカ占領政策反対ゼネラル・
 ストライキ
  アメリカが、南朝鮮における占領政策を進める上で、
 うまく出来たのか?
  そのアメリカの占領政策の腕前について記すと・・、
  結論を先に記すと・・日本人が優秀である事と、日本
 人が、朝鮮の方たちと仲良く・巧(うま)く行政を行な
 って来ていた・・その為、アメリカの占領政策に於いて、
 日本が敗戦となったからと言って、日本人を解任する事
 は出来なかった。
  日本人の優秀な能力と、朝鮮の方々との誠実な仕事ぶ
 りをそのまま使うしかなかった。
  その事を記す・・研究論文には・・、
  在朝鮮米軍司令官・ホッジ中将は、統治開始後まもな
 く、朝鮮総督府官僚を解任していく。
  1945年9月12日、総督室において安部総督に辞任を要求
 した。
  しかし、同席していた遠藤政務総監に対しては、政務
 総監としての官職を退いて、顧問として『残るように依
 頼した』のだった。
  そして、同日午後2時30分、政治・文化団体代表を参集
 した会合が、府民館で開催された。
  ホッジ中将は、その会合で、安部総督を解任し、アー
 ノルド少将を軍政長官に任命すると発表した。
  その3日後に、ホッジ中将は、新聞を通じて、12日に総
 督と警務局長を解任し、15日に、その他の各首脳部をす
 べて解任した、と発表した。
  そして、同月20日付をもって軍政庁の機構が決定し、
 朝鮮総督府の機構を、ほぼ踏襲した米軍政庁の各局長に
 米国人将校が任命されるのであった。
  しかし、1945年9月12日に、ホッジ中将が依頼したよう
 に、朝鮮総督府の日本人官僚であった遠藤政務総監以下
 各局長は、一旦は「解任されたが、そのまま行政顧問と
 して残ること」となったのである。
  このように、ホッジ中将が、日本人官僚を行政顧問と
 して残留させたことについて、ホッジ中将の政治顧問で
 ある国務省から派遣されたペニングホフは、同月15日付
 の報告書で次のように述べている。
  「日本人官僚の排除は、世間の見地から望ましいもの
 であるが、当分その実現はむずかしい。
  名目的には、彼らを職位から解除することができるが、
 実際には、仕事を続けさせなければならない」、
  その理由は・・、
  「政府機関、公共施設、報道機関を問わず、下級職員
 を除くと、資格をもつ朝鮮人職員が存在しないからであ
 る。
  終戦直後の南朝鮮における朝鮮総督府の日本人官吏の
 総数は、朝鮮関係残務整理事務所の調べによると、4万
 841人であり、嘱託以下の者も含めると5万4920 人であっ
 た。
  その内訳として、勅任官と奏任官は4,848 人であった。
  末期の朝鮮総督府で勤務していた日本人官吏の総数や、
 朝鮮人官吏の総数は、資料の関係上、明らかにすること
 は困難であるが、南朝鮮地域の「総督府高級官吏(勅任
 官と奏任官)のうち、末期の10年間、朝鮮人の占める割
 合は18~22パーセントを上下するレベルであった。
  絶対数で言えば、1942年の例であるが442人ほどであ
 った。
  仮に、20パーセントと設定した場合、終戦直後の南朝
 鮮地域における、日本人・朝鮮人の総督府高級官吏(勅
 任官と奏任官)の総数は、6,060人となり、その内、朝鮮
 人官吏は1,212人であったことになる。
  いずれにせよ、解放後の行政活動を実施しようにも、
 その経験が乏しい朝鮮人しか見出せないため、または、
 経験があったとしても日本に協力した朝鮮人であったが
 米軍政としては、一時的に、日本人を任用するほかなか
 ったのであった。
  ホッジ中将は、南朝鮮の民衆に対して、このような任
 用が一時的なものであると、1945年10月16日付の『毎日
 日報』で説明している。
  軍政庁では、「日本および親日官吏は、優秀な朝鮮人
 と可及的速やかに更迭となっている」ことや、
  「官吏地位、各階級に朝鮮人を配置するまで、その他
 朝鮮人官吏を養成中である」と述べていた。
  このように、統治開始直後の軍政庁にとって、行政を
 運営する人員の確保や、訓練が緊急の課題であった。
  朝鮮人職員の任命については、「日本の制度中、勅任・
 奏任の別は、現在は軍政庁に於いては其の区別の必要な
 きを以って一括高等官として統一す。
  又、勅任官は、日本天皇の任命なりしも、現在之等の
 官職は軍政長官の任命に属し、判任官は、中央及び地方
 の長官之を任命」して、軍政庁は、それらの朝鮮人職員
 を訓練していくのであった。
  (論文「米軍政期の南朝鮮救護政策に関する一考察」
 を参考にした)
.
1946年10月1日、大邱10月事件(テグじゅうがつじけん)で、
 南朝鮮人230万人が、アメリカ軍政に抗議して蜂起した。
  米価が、日本統治時代に比べて10倍以上に高騰してい
 た。
  そして、この年5月には、南朝鮮全土にコレラが流行し、
 慶尚北道だけで、4000人が死亡した。
  その後、水害による交通破綻や、『強制拠出』なども
 あった。
  この年、10月1日に、大邱府庁前で行なわれた抗議デモ
 に対して、警察が発砲したことから、不満が鬱積(うっ
 せき)していた人々の抗議活動が、収拾がつかない事態
 となった。
  10月2日に、アメリカ軍が戒厳令を布告した。
  これに触発されて、南朝鮮全土で、230万人が参加する
 『騒乱』となった。
  事態を収拾するために、アメリカ軍や、南朝鮮防衛隊
 や警察が投入され、強引な取り締まりの結果、136名の犠
 牲者(死者)が出た。
  事件後、南朝鮮のアメリカ軍への支持が失われた。
  共産主義団体への支持が強まった。
  「飢えた腹を握りしめた小市民たちの抵抗運動」と報
 道された。
.
1948年8月15日、大韓民国の独立・建国。
.
1948年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国の独立・建国。
.
1980年代、アメリカでエイズが広がり始めた。
  感染者が解雇されたり、学校から登校を拒否されたり
 する事例が頻発(ひんぱつ)した。
  エイズにおいても差別社会が現出した(人種差別国の
 アメリカにおける新たな差別が発生)。
.
1997年、パラノイア・アメリカ
  パラノイアとは・・、
  ある妄想を始終持ち続ける精神病。
  妄想の主題は、誇大的・被害的・恋愛的なものなどさ
 まざまである。
  偏執(へんしゅう)病。妄想症。
  不安や恐怖の影響を強く受けており、他人が常に自分
 を批判しているという妄想を抱くものを指す。
  自らを特殊な人間であると信じたり、隣人に攻撃を受
 けている、などといった異常な妄想に囚われるが、強い
 妄想を抱いている、という点以外では人格や職業能力面
 において常人と変わらない点が特徴。
  キリスト教の性悪説的な思考習慣からこの資質に取り
 込まれる。
  そして、パラノイア・アメリカについては・・、
  ドン・デリロとトーマス・ピンチョンは、1997年に、
 数ヶ月前後して長編小説を発表した。
  前者のUnderworld(地下社会)は、20世紀後半のアメ
 リカ史を背景とし、後者のMason&Dixon(メーソン&ディ
 クソン)は、18世紀半ばのアメリカ独立期の史実を描き、
 共に歴史を材料としている。
  しかも、両者は、産業資本主義社会の隠れた裏面に焦
 点をあて、その問題点を描いている。
  Underworldの場合、一見互いに無関係と思われる諸々
 の出来事が、パラノイア的に関連付けて描かれており、
 その関連性が特異な効果を作品に与えている。
  作品には、20世紀後半を特色付ける多くの要素・・冷
 戦、核実験、軍産複合体、人種差別とそれに起因する暴
 動、反体制運動、種々の凶悪犯罪、メディア、廃棄物と
 そのリサイクル、社会の底辺に生きる人々等・・が描か
 れているが、
  それらは、共通のイメージや場所、小道具、数字等に
 より相互が複雑に交錯し、関連付けられている。
  また、諸々の事柄を関連付けて解釈するパラノイア的
 人物さえ登場している。
  これらの関連項は、全てワールド・ワイド・ウェブ(
 インターネット上で提供される超越的なテキスト・シス
 テム)で最終的に収斂しており、ネット社会に突入した
 現在の状況を象徴している。
.
2015年12月13日、池上彰氏が、ひどいテレビの解説放送を
 していた。
  よく自虐的な、そして、日本を貶める放送をするNHK
 という放送局出身の池上彰氏であるが・・、
  池上氏も、NHKを退職したこの時も、民放で、NH
 Kと同様の日本を貶める放送をしていた。
  知人宅でのBSジャパンでは、午後15時53分、番組名:
 「池上彰の教科書に載ってない20世紀」
  池上氏は、終戦の3日後、日本政府が慰安所を作ったと
 言った。
  これは嘘である。
  アメリカが、東京都へ依頼した「慰安所設置の要望書」
 がある。
  そして、さらに池上氏は嘘を言った。
  その1年半後に、アメリカが「止めよ」と言ったという。
  これでは、『日本政府が作って、アメリカが止めよ』
 と言ったになってしまう。
  「アメリカが作ってくれ」と言って、後に、止めよと
 言ったが正解なのである。
  池上彰は、作れと言ったのは日本政府だと嘘を言った。
  これでは、まったく、アメリカが美しくなってしまう。
  日本政府の作った慰安所設置を、アメリカが止めよと
 言ったと、まったく、アメリカが美しいという話になっ
 てしまう。
  日本を完全に貶めている池上彰になったいる。
  テレビという強力な影響力を持つ放送媒体を使って、
 この様な卑劣な行為を、NHKと同様に行なっている。
  この番組の酷い所は、バックにキリスト教の讃美歌を
 流しているところだ。
  慰安所を止めよと、さも、キリスト教が言っている様
 に印象付ける様に放送している。
  関連している沢田美喜さんの話・・、
  沢田美喜さんは、1948年に、エリザベス・サンダース・
 ホームを設立された。
  これは、第二次世界大戦後に、日本占領のためにやっ
 て来たアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と、日
 本人女性の間に・・、
  強姦や慰安所などで生まれたものの、アメリカ兵や周
 囲からも見捨てられた混血孤児たちのための施設として、
 1948年、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢
 田美喜さんが設立した。
  沢田美喜さんが設立したいきさつは・・、
  あまりに酷い性的に乱れた結果が残る状況を、沢田さ
 んは、アメリカGHQに、抗議した・・、
  「そんな子がいる訳ない」と、アメリカGHQは拒否
 した。
  そこで、沢田さんは、アメリカ兵と日本女性との間の
 混血の子を連れて行って、見せて、説明し、立証した。
  しかし、アメリカGHQは、それでも・・拒否した。
  沢田さんは、「よし、それなら」と・・、
  混血の子たちを連れて、アメリカ本土に行って訴えた。
  そして、寄付を募った。
  アメリカ本土の方々は、理解を示してくれた。
  寄付も戴くことが、やっとでき、三菱よりの資金と共
 に設立したのだった。
  この様な事も、本当に公正に説明しない池上氏だった。
  また、キリスト教は、この沢田さんの善行を、キリス
 ト教が良くやる嘘・「神の啓示だ」と作り上げている。
  神の声が聞こえた・・と・・
  また、GHQの上記の卑劣な対応などは一言も触れな
 い・・逆に・・美しく仕立てている・・そして、日本を
 貶める・・卑劣な『いつものパターン』となっている。
  設立時のアメリカGHQの対応も隠す行為をして・・、
  そして、最初の寄付者であるエリザベス・サンダース
 さんの話のみを大きく取り上げている。
  少額の寄付だが・・最初の寄付者ということで、その
 名がとどめられた。
  しかし、これを過大に美しくプロパガンダした・・
  また、当時の厚生省の調査結果によると、84%の子供
 が白人系で、11%が黒人系であった。
  これも、いやらしく説明した(ここに詳しく記すこと
 が出来ない)
  当時、アメリカGHQは、この問題から逃げていて、
 話題にされることさえ嫌い、当然、救済策も取ろうとし
 なかった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2017年2月19日日曜日

(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)

題:(増補版)496E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年10月~1889年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年10月15日、条約改正に関する御前会議、賛否対立し
 て結論出ず。
1889年10月18日、外務大臣:大隈重信襲撃事件
  この日、大隈重信は、御前での閣議で条約改正の審議
 を受けるが、山縣有朋内務大臣が、条約改正案に反対し、
 閣議は散会した。
  大隈外相は、午後4時過ぎ、馬車で霞ケ関の官邸に戻
 ろうとしたところ・・、途中、馬車が、外務省の門前に
 さしかかる頃、フロックコートに身を包んだ30歳前後の
 男が近づく・・、
  玄洋社の来島恒喜が、爆弾を馬車へ投げつけた。
  大隈重信は、右脚に重傷を負いながらも・・、
  ・・憤然と、兇徒を見て「馬鹿者めが」と大喝一声。
 膝の上に燃える断片を払う。
  兇行におよんだ男は、爆弾の破裂を見届けると即座に
 短刀で咽喉をかき切り、その場に倒れる。
  来島は自殺。
  暗殺未遂となる・・条約改正は中止。
  その後、大隈は、佐藤勇やドイツ人医師のエルヴィン・
 フォン・ベルツの手により右足切断手術を受けた。
  犯人は、日本の右翼活動家、テロリスト。
  筑前共愛公衆会で、国家主義組織・玄洋社の一員、来
 島恒喜(31歳)
  黒田内閣は総辞職し、三條実美暫定内閣へ・・、
  大隈は、その後、来島について・・
  「爆裂弾を放りつけた者を憎い奴とは少しも思ってい
 ない。
  いやしくも、外務大臣である我が輩に、爆裂弾を食わ
 せて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であ
 ろうと感心する。
  若い者は、こせこせせず、天下を丸のみにするほどの
 元気がなければだめだ」と語っている。
  来島本人は、酒を受け付けず、大隈重信暗殺に出向く
 際、別れの盃は水であったという。
  来島が学んだ興志塾(通称:人参畑塾)の塾長・高場
 乱(たかばおさむ)は、来島自決の報を聞き・・、
  「ながらえて 明治の年の秋なから 心にあらぬ 月
 を見るかな」という嘆きの歌を詠んでいる。
  博多の侠客「勇敢仁平」の異名をとる大野仁平と乱闘
 となり、燭台で大野仁平の頭をたたき割っている。
  当初、大隈襲撃は、月成功太郎(首相・広田弘毅の岳
 父)と一緒の計画であったが、家族持ちの月成の事情を
 考え、欺いて単独襲撃となった。
1889年10月19日、首相・黒田清隆が、条約改正交渉の中止
 を決定した。
1889年10月21日、黒田首相が辞表を提出した。
  黒田の総理辞任後、2ヵ月間にわたって存在した内大臣
 の三條實美を首班とする三條暫定内閣(さんじょうざん
 ていないかく)となった。
  三條暫定内閣は、1889年10月25日~1889年12月24日。
  黒田内閣の役目は、憲法制定と議会開設によって再燃
 が予想された自由民権運動に対する取締り強化と、
  欧米列強との間に交わされたままとなっていた不平等
 条約の改正を実現することにあった。
  大日本帝国憲法、衆議院議員選挙法が公布された翌日
 (1889年2月12日)、黒田は、鹿鳴館で開催された午餐会
 の席上において、「超然主義演説」を行って、政党との
 徹底対決の姿勢を示した。
  しかし、その一方で、立憲改進党前総裁(実質は党首)
 で外務大臣の大隈重信を留任させて、条約改正の任にあ
 たらせた。
  また、文部大臣の森有礼の暗殺後、
  榎本武揚が、文部大臣に移動し・・、
  空席となった逓信大臣には、大同団結運動の主唱者で
 あった後藤象二郎を充てた。
  そのことによって、大同団結運動を骨抜きとなった。
  自由民権諸派の団結は阻止された。
  また、条約改正の分野でも、メキシコとの間に平等条
 約である日墨修好通商条約を締結することに成功した。
  そして、列強との条約改正交渉も順調に行くかに見え
 た。
  しかし、外務省が用意した改正草案に、妥協案として
 「外国人裁判官の任用」の条項が含まれていたことが明
 らかになると、大騒動となった。
  一旦解体したはずの大同団結運動が、今度は、板垣退
 助を擁して再燃した。
  政府内からも、山縣有朋や後藤象二郎、伊藤博文、井
 上馨らが、妥協案に反対する意志を示した。
  黒田は、大隈を擁護したが、条約改正交渉は、中断に
 追い込まれた。
  その様な状況の中、10月18日に、大隈が重傷を負うと
 いう事態となった。
  進退窮まった黒田は、一週間後の25日、全閣僚の辞表
 を提出するに至った。
1889年10月23日、電信の架設
  この日、横浜裁判所構内に電信機役所が設置され、
  東京~横浜間に電柱と電線を張る電信架設工事が着工
 された。  
  電話創業は1890年。
  因みに、日本で初めて電信の実験を試みられたのは、
 1854年(嘉永7年)2月24日だった。
  アメリカの提督ペリーが、二度目の来日の時、幕府へ
 贈った33種の土産物の内、蒸気機関車の模型と、電信機
 が、当時の人たちの興味をそそった。
  蒸気機関車の試運転は、同年1854年2月23日に行われ、
  引き続き、翌日の1854年2月24日に、横浜の弁天境内で、
 アメリカ人技師が、電信実験をやって見せた。
  約40メートルおきに、杉の柱を立て、その頭部にギヤ
 マンの壺を置き、これに針金を通し、一里離れた吉右衛
 門の屋敷まで電線を引いた。
  (別史料:この電信機のセットで、約1マイル(1.6km)
 の電線を用いて送信され、この時の電文は「YEDO、
 YOKOHAMA」(江戸、横浜)だったという)、
  そこで、双方から実験を行なった。
  前日の蒸気機関車の試運転で、驚きの状態だった幕府
 の役人達も、
  この日の電信の実験については、どうしても訳が分か
 らなかった。
  実験を行なう前に、一応の説明があったが、正しく伝
 えるべき通訳の役人が理解できなかった。
  電気について曖昧模糊たる中で実験は行われた。
  当時の機械は、エンボッシング・モールス電信機。
  1837年、サミュエル・モールスが電信機を発明してい
 て、それから、18年目だった。
  この時、発信・受信共に実験は成功した。
  そして、受信を、文字に書き代えて見せた。
  通訳が、「針金を引く距離は、もっと遠くても同様の
 実験ができるか?」と聞いた。
  答えは・・「十里が百里となっても完全に通信が出来
 る」・・だった。
  「ここでは、電線が引くのが大変だし、急場の間に合
 わぬので、こんなに近距離でやってみたが・・」・・と。
  当時の見聞記録にも、電信の事を「千里鏡」と呼び、
  或は・・「天連関理府」(テレガラフ)と漢字を当て、
 但書に、「電雷気にて事を告げる機械なり」・・と。
  実験後、この電信機械2台は、江戸城に収められた。
  当時、幕府は、風雲急を告げ、物情騒然たる折柄だっ
 たが、折角の文明の利器も殆んど顧みるものがなかった。
  それから15年目の1869年(明治2年)の夏、初めて横浜
 に電信線が架設された。
  そして、同年の1869年12月25日に、東京~横浜間に電
 信が開通した
  (別史料:1869年、イギリスの通信技師を招き、横浜
 燈台役所~横浜裁判所の間に、電信回線が敷設され、
  ブレゲ指字電信機(モールス信号ではなく針で文字を
 指す方式)による通信が行われた。
  また、1869年には、東京~横浜間で電信による電報の
 取り扱いが始まった。
  明治政府は、電信網の整備に力を入れた。
  東京~横浜間の電報の取り扱いが開始されてから、数
 年で電信網は全国に張り巡らされた。
  この電信網は、1877年(明治10年)の西南戦争におい
 ても大いに活用され、政府軍の勝利に貢献した。
  1871年には、デンマークの大北電信会社によりロシア
 のウラジオストクから長崎へ海底ケーブルが敷設され、
  シベリア経由でヨーロッパ、
  さらには、大西洋横断電信ケーブルを経て、アメリカ
 とも通信が可能となった。
  1871年11月に、欧州へと出発した岩倉使節団は、不平
 等条約の改正交渉の経過報告を、この出来たばかりの回
 線を使い行った。
  1873年には、東京と長崎間に回線がひかれ、東京から
 海外との通信が可能になった。
  1872年~1916年まで、ウィリアム・ヘンリー・ストー
 ンという勅任待遇のお雇い外国人が、対外通信に貢献し
 た。
  その後、電信網は全国に広がり、
  1880年頃には、大都市間に、
  1890年頃には、全国の県庁所在地が継った。
  因みに、1879年に、官報、事務報、私報を合わせ165万
 通の電報が打たれていて、日本の普及は早かった。
1889年10月24日、黒田清隆以下、大隈重信を除く各大臣が
 辞表を提出した。
1889年10月24日、防穀令事件
  朝鮮政府が、不作のため咸鏡道に大豆輸出を禁ずる防
 穀令を布いた。
  1889年、朝鮮咸鏡道で、凶作を理由に出された穀類輸
 出禁止令に対し、
  日本の貿易商が、大打撃を受けたとして、日本政府が
 賠償などを朝鮮に要求した。
  1880年の元山の開港以来、元山は、日本商人による大
 豆や米の輸出が盛んであった。
  しかし、咸鏡道観察使趙秉式(ちようへいしき)は、
 1889年10月、凶作による食糧難を理由に、穀物の道外へ
 の搬出を禁止した。
  防穀令は伝統的な救荒政策の一つで、条約上も認めら
 れていたが、日本側が強硬に抗議したため紛糾した。
  朝鮮政府は、同令を解除させたうえ趙を懲戒,更迭し
 て解決を図った。
  しかし、1891年12月になって、日本政府は、14万円の
 損害賠償を請求した。
  この事によって、両国間の外交問題に発展した。
  交渉は当初から難航した。
  日本は、1893年5月、国交断絶の圧力をかけた。
  朝鮮政府が、総額11万余円の支払いに応じることで決
 着をみたて、1893年、朝鮮政府は賠償金を支払った。
  朝鮮政府の主張は、1883年の日韓通商章程第37款に基
 づく輸出禁止令だった。
  輸出禁止令発布が正しいのか? 
  自由な交易の阻害行為が悪く、それによる損害賠償の
 請求が正しいのか? ・・の問題だった。
1889年10月24日、黒田清隆内閣が総辞職した。
1889年10月25日、黒田清隆の辞表を受理し、三条実美が首
 相を兼任した(内閣総理大臣を兼職)
  他の閣僚の辞表は却下して、三条暫定内閣が成立した。
  内大臣・三條實美 臨時内閣 発足・・、
1889年10月25日、宮武外骨の控訴を棄却し刑が確定、石川
 島監獄に収監された。
  宮武外骨(みやたけ がいこつ、1867年2月22日~1955
 年7月28日)ジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作
 家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
  役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願い
 します」などとたびたび言われるのが癪だと言って、
 「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかっ
 たという。
  晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めた。
  大日本帝国憲法発布をパロディ化して、不敬罪に問わ
 れ、禁錮3年の実刑判決となった。
  モットーは・・、
  「威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタ
 リもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たてい
 と)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あ
 り」・・と。
  外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』
 があった。
  現代の週刊誌に相当する内容で・・、最盛期の部数は
 8万部。
  この時代の雑誌としては、トップクラスの売れ行きだ
 った。
  類似誌も多数登場した。
  外骨は、「猿雑誌」と類似誌を評しつつ、『滑稽新聞』
 の影響力を自慢した。
  明治41年(1908年)10月、当局は、『滑稽新聞』に対
 して発行禁止命令を出した。
  外骨は、発行禁止に先んじて、173号を以て「自殺号」
 として廃刊した。
  しかし、翌月に、『大阪滑稽新聞』を創刊し、事実上
 の後継誌とした。
  この頃、安重根に伊藤博文が暗殺されるなどの事件が
 あり、安易な批評などが批判された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
   合理化や利便性を追及する風潮を嘆く。
.
1850年頃、ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、
 「浅薄な現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)
 合理化や利便性を追及する風潮」を嘆いた。
  2017年1月24日の日付の読売新聞で・・、
  立正大学の斉藤昇学長が深い話をされていた。
  今年は、「ソロー」生誕200年ということで・・、
  このソローと、今の世相の「利便性の向上と、効率を
 優先させる情報・技術改革」を対比され・・、
  本当の豊かさを考える記述だった。
  今、真に豊かなのか?
  少なからず、まず、大切な人の心が、どこかに置き去
 りにされている様な現代ではないか?・・と言われる。
  そして、不安感に苛(さいな)まれている現代ではな
 いか?・・と言われる。
  このソロー・・
  (アメリカ・ロマン派文壇の異才と言われ、ヘンリー・
 デビット・ソロー、1817年~1862年)は、
  「利便と効率の対極」を意識して、「質素の美徳」と
 「世の中の安寧」の重要性を説いた。
  当時、彼は、過度に物質至上主義に大きく傾斜してい
 くアメリカ先進資本主義の『行き先の不透明感』を危惧
 した。
  ソローは、それを危惧し、自身の魂の葛藤と悲痛の呻
 (うめ)きを発した。
  彼の作品の「ウォールデン、森の生活」や「市民的不
 服従」・・、
  前者は、森の中での自給自足の生活を綴る・・、
  後者は、非暴力主義を掲げた作品・・、
  ソローは、世界を大きく俯瞰(ふかん)し、「浅薄な
 現世利益に呑(の)まれたような(アメリカの)合理化
 や利便性を追及する風潮」を嘆いている。
  そして、世界の隅々までが安寧であることを、凛(り
 ん)として望んだ。
  「華やかに物に溢れた物質文明」の陰から、忍び寄る
 地球環境と人類社会の広汎(こうはん)な危機。
  それを憂うがゆえに、ソローは、その卓越した眼力で、
 鋭く時代を穿(うが)った。
  彼の作品群には、透き通る『慈愛』がある・・、
  そして、至極(しごく)『人間的な眼差し』がある。
  (斉藤学長の記述を参考に、記述した)
.
1942年3月21日、アメリカ議会、日系人強制収容命令承認
  この時の大統領は、フランクリン・ルーズベルトだっ
 た。
.
1942年4月~1945年9月、アメリカのラッシュ・ジョセフは、
 アメリカ陸軍航空部隊所属となり、天気予測班として国
 内勤務の間に、ルーズベルト大統領の妻エレノアと、シ
 カゴのホテルで密会しているところを、アメリカ軍防諜
 部隊に盗聴された。
  そして、それがもとで、盗聴をした防諜部隊隊員らと
 共に太平洋の最前線配属となった。
  もともと、盗聴せよと指示をしていたのはルーズベル
 トだった。
.
1942年6月、アメリカ、戦時情報局(OWI)発足
  アメリカ戦時情報局(OWI)ができた。
  日本の戦後をどの様にするかのアメリカの方針に、大
 きな影響を与えたオーウェン・ラティモアは・・、
  1943年~1944年1月の間、ここに勤務した(サンフラン
 シスコにあるこの部局=極東部主任の要職にあった)。
  ここは、海外向け戦時宣伝を目的にしていた。
  ラティモアは、日本の天皇制を崩したいと考えていた。
  また、「我々にとって、日本人ほど憎むべき敵はいな
 い」というラティモアの言葉があるように、この様な考
 えを持った人物だった。
  日本の自動車、航空機のエンジン製造を禁じなければ
 ならないと考えていた。
  また、軍工場、軍艦の造船所を取り壊すべきと考え、
 将来の日本は、第一級の工業国にしてはならないとした。
  そして、「日本を共和国に変える」と考え、天皇陛下
 とその後継者の皇族男子は、中国に監禁すべきだとして
 いた。
.
1943年12月1日以降、アメリカのルーズベルトが戦略の手の
 ひらを返した・・、アメリカは簡単に乗り換えた・・、
  この年のカイロ会談・テヘラン会談(1943年11月28日
 ~1943年12月1日)の後・・、
  ルーズベルト・アメリカ大統領が、中国・蒋介石を重
 要視しなくなった時は、それは、1943年のカイロ会談・
 テヘラン会談の後だった。
  テヘラン会談が、ルーズベルトが、チャーチルの練っ
 た通りに、あまりにも、その通りに行ったからだった。
  中国・蒋介石政府は、ある意味「用済み」となった。
  ここで、アメリカは、戦略の手のひらを返した。
  転換点だった。
  この時、マッカーサー(アメリカ南西太平洋方面司令
 官)は、海軍長官・フォレスタルへ言っている・・
  「中国軍を当てにした戦争は、もう意味がなくなった」、
  「我々は、満州に展開する日本軍をくぎ付けにするソ
 連軍の登場を待たなくてはならない」、
  「ソ連軍の侵攻後、ゆっくり日本本土に上陸すれは良
 い」・・と。
  アメリカは、完全に乗り換えた。
  日本参戦へのスターリンへの追加のエサ(大連と旅順
 の不凍港がソ連のものになる)で参戦が確実になった手
 ごたえを得たからだった。
  アメリカのルーズベルトは、あとは、中国が、日本に
 付くようにならないように注意するだけだと言った。
  「中国(蒋介石)は、日本との戦争を止める事がない
 ようにするのに必要なものだ」・・と、必要なら新たな
 戦争を作るというルーズベルトだった(ビルマ戦争)
.
1944年8月5日、オーストラリアのカウラ市内にあった捕虜
 収容所から、日本人が脱走を企てたとき、
  オーストラリア兵は、無差別に砲火を浴びせ、実に234
 人の日本兵捕虜を射殺した。
  そして、108人に重軽傷を負わせた。
  これに対し、この逆の話がある・・
  日本の長崎市に、戦時中、捕虜収容所があり、オース
 トラリア兵が収容されていた。
  アメリカが投下した原爆で、収容所が破壊されると、
 捕虜たちは脱出し、市民の中に交った。
  しかし、家族や友人を原爆で失い、連合国に原爆投下
 された極限状況下でさえも、日本人は、何ら彼らに危害
 を加えなかった。
  また、オーストラリアは、日本兵捕虜を飛行機から突
 き落として殺した。
  これも、リンドバーグが公表した。
  オーストラリアは、「日本軍は玉砕した」と嘘の報告
 をした。
  この行為は、1人、2人の行為ではなく、オーストラリ
 アは集団で行なった。
  リンドバーグは、この様な行為が、欧州戦線で行われ
 たであろうか?と、日本人が、「有色人種だから行われ
 ていた」との筆致で記述し、公表した。
  また、この頃のアメリカも、日本兵を「黄色い猿」と
 蔑視の表現して、キリスト教に洗脳された「人の肌の色
 で見分けし、有色人種を蔑(さげす)む」ことにマイン
 ドコントロールされた表現をした、そして、有色人種・
 日本兵の命を軽視した。
.
1945年3月9日、東京大空襲(~10日)無差別爆撃・・国際
 法違反・・一般市民の殺戮
.
1946年1月4日、GHQが、超国家主義団体の解体を指令し
 た。
.
1946年1月28日、GHQが、映画の検閲を指令した。
.
1946年2月3日、マッカーサー元帥が憲法3原則をGHQ民政
 局へ指示した。
.
1946年2月3日、通化事件が起き、中国在留日本人が多数殺
 害された。
.
1946年2月13日、GHQが、憲法改正松本試案を拒否し、G
 HQ案を日本側へ渡した(2月8日に正式に提出していた)
.
1946年2月23日、山下奉文元陸軍大将の絞首刑が執行された。
  違法なる執行。
.
1946年4月2日、マッカーサー元帥が、アメリカ将兵に、日
 本女性との醜行自粛を訓示した。
  あまりにもアメリカ兵の行動が乱れていた。
.
1946年5月、中華民国政府が南京に遷都した。
.
1950年、ダグラス・マッカーサーが、朝鮮戦争で、アメリ
 カ軍主力の国連軍司令官となった(~1951年)。
  1951年にトルーマン大統領によって解任させられた。
.
1951年5月3日、マッカーサー元帥が、アメリカ上院軍事外
 交委員会において、「日本の真珠湾攻撃は正当な『自衛
 権』の行使」と証言した。
.
1995年9月、沖縄のアメリカ軍兵士による少女暴行事件が起
 きた。
.
2004年、中国の平和的台頭はあり得ない・・と、アメリカ
 のミアシャイマーは言った。
  「目の前にある問題は単純にして深い。
  中国の平和的台頭は可能だろうか。
  私の答えは『ノー』だ。・・ジョン・ミアシャイマー
 は言った。
  何故、中国の平和的台頭はあり得ないのか?
.
2017年2月12日、この日の読売新聞に、安倍首相とトランプ
 大統領の首脳会談で・・、
  アメリカの核による日本防衛や沖縄県の尖閣諸島がア
 メリカの対日防衛義務を定めた日米安全保障条約5条の
 適用対象であることなどを共同声明に明記とした。
  日米首脳会談と共同声明のポイント。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive