ページビューの合計

2015年2月6日金曜日

(増補版)11A:気になった事柄を集めた年表(300年~500年)

 題:(増補版)11A:気になった事柄を集めた年表(300年~500年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
300年、4世紀~5世紀、巨大古墳に馬具を埋めたものが多
 く、馬・イノシシ・犬・シカ・サル・鶏・水鳥類などの
 動物埴輪や、鷹狩をする人の埴輪が残される。
300年(4世紀)、西アフリカに20万人の軍隊を、常時、配
 備していたガーナ王国が誕生した。
300年、新羅(しらぎ):古代朝鮮のこの頃、慶州地方を
 本拠とする斯蘆国が辰韓を統一してできた。
  高句麗・百済との抗争の中で勢力を伸ばし、660年に
 唐と連合して百済を、668年には高句麗を滅亡させ、676
 年に唐勢力を駆逐して朝鮮半島を統一した。
  これ以後を統一新羅時代と言うが、滅亡した高句麗の
 遺民らが建てた渤海と対立し、唐の冊封を受け、日本と
 も国交を持った。
  律令制に基づく唐制も取り入れ、中央集権的な国家体
 制を目指し、仏教中心の文化が花開いた。
  9世紀末には一地方政権となり、935年に高麗王朝に降
 伏し、滅亡した。
300年頃、リベリア~インドまでのポイティンガー図(絵
 図的な地図)が作られた。
313年、高句麗が、楽浪・帯方の二郡を滅亡させ、その地
 を併合した。
313年、コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出して、
 キリスト教を公認した。
323年、仁徳天皇が、社会資本整備事業になる『茨田堤』
 を築いた。
  これは、江戸時代以前の主な社会資本整備事業である。
324年、キリスト教がローマ帝国の国教となった。
325年、キリスト教の最高の会議の「ニカイア公会議」が
 開かれた。相変わらず揉(も)めにもめた。
  「イエスは人か?または、神か?」と。
  色々な話で揉めたが、「ニカイア信条」をまとめた。
  その信条の中に、「(イエスは)聖書に従い三日目に
 よみがえり・・」と書いた。
  イエスが刑死した時は、まだ、キリスト教の聖書はこ
 れだと決まっていないのにである。
  たとえ、聖書があったとしても、その聖書にイエスが
 従ったとは?そして、聖書に従って復活行為をしたとは?
  キリスト教の神が無視されている。
326年、コンスタンティヌス帝によって、サン・ピエトロ
 聖堂が建てられた。
330年、コンスタンチノーブルへ遷都。
  コンスタンティヌス帝が、ローマを見捨てて、コンス
 タンティノーブルに遷都する。
  度々の火事に見舞われた。
  ローマは、すっかり寂(さび)れていった。
4世紀半ば、この頃、大和朝廷が統一された。
351年、キリスト教のアウグスチヌスが生まれた。
  彼の時代は、ゲルマン人の侵入の時代だった。
  人々は狼狽した。
  そのような時代であったため、キリスト教会が、理想
 的な神の国の様に民には見えた。
  地上的な王国との中間に介在して、地上の国家に神の
 国をなし得る限り実現させていく導きとなることを祈っ
 た。
  アウグスチヌスは、崩壊していくローマ帝国を、信仰
 によって超越したいとした。
  しかし、彼の願いもむなしく、キリスト教の聖として
 の彼も、時代の流れに抗する事は出来なかった。
367年、百済が、初めて日本に使節を送った。
367年、倭国が、百済の求めに応じて朝鮮半島に出兵した。
  百済と通交し、任那を領有した。(日本府を成立させ
 たか?)
367年、百済王が、倭王に石上神宮七支刀を送った。石上
 神宮は物部氏の氏神である。
374年、好太王が生まれた(374年~412年)
375年、ゲルマン民族大移動。
  フン族の攻撃に押されて逃げ延びようとしたゲルマン
 人の一派である西ゴート族が南下、
  ドナウ川を越えし、ローマ帝国領を脅かしたことが移
 動の始まりとされている。
  多数の移動は、侵略的であったり、平和的に行われる
 こともあったが、原因として他民族の圧迫や気候変動、
 それらに伴う経済構造の変化がある。
  4世紀~5世紀にかけて、ヨーロッパと北アフリカで起
 きた。
  ゲルマン人の侵入によって、キリスト教も大きく影響
 を受けた。
  ゲルマン民族の土俗信仰が、たっぷり染み込んだ。
  キリスト教は、この事例だけでなく、他宗教の真似を
 したり、取り入れたりと、変質の激しい宗教である。
378年、アドリアノープルの戦いでローマ帝国軍は敗退し、
 ウァレンス帝が戦死する事態に追い込まれる。
  以後、ゲルマン系諸民族が、他の勢力と共に各地の領
 土を切り取って、国家を形成していく。
391年、高句麗の好太王が即位した(391年~412年)
391年、日本軍が朝鮮半島に出兵し、高句麗などと戦った。
  百済や新羅を従えた(好太王碑)。
  この石碑は、現在、中国の鴨緑江流域に置かれている。
392年、テオドシウス帝が、キリスト教をローマ帝国の国
 教とした。
  統治のために利用したいとした。
  崩壊寸前の国を救いたいと思った。
  また、キリスト教とユダヤ教の対立があった。
  しかし、、国教とした年から、わずか3年後の395年に
 は、ローマ帝国は、東西に分裂してしまった。
  そしてまた、このイタリアの地は、ゲルマン民族の大
 移動にさらされた。
  東ローマ帝国は、しっかり守り、無事だったが、
  西ローマ帝国は、その81年後の476年に滅亡してしま
 った。
  ゲルマン民族やケルト民族が、原住民として住んでい
 たガリア地方は、辺境の地で、無文字の社会だった。
  移動して来た民と民族は混在した。
  ゲルマン人は無文字社会であったが、ラテン語を公用
 語とした(キリスト教もラテン語を重要視している)。
  ゲルマン人は、あちこちに移動し、混血した。
  ローマ人とも混住した。
  ローマ人に軽蔑されながら、ローマ人を支配した。
  ローマのキリスト教司教たちは、長い髪のゲルマン人
 の群れの間に座り、ゲルマン語を耳にするのを我慢する
 のが嫌(いや)だった。
  軽蔑感をあらわにした資料が、現在に残っている。
  しかし、ローマ人も、ゲルマン人のもとで平和を求め
 た。
  ゲルマン人は善政を敷いた。
  そして、ローマ文化を吸収した。
  ローマの貨幣を用い、地中海貿易を行った。
395年、ローマ帝国が東西に分裂した。
  奴隷制農業から小作制への社会基盤の変化は、軍人皇
 帝時代の混乱をもたらした。
  後期帝政も大帝国を維持できず、395年に東西に分裂
 した。
395年、ビザンチン帝国(東ローマ帝国):ローマ帝国の
 分裂により成立した国。
  ビザンチウム(コンスタンチノーブル)を首都とした
 のでこの名がある。
  395年に始まり、1453年にオスマン・トルコにより滅
 んだ。
  イスラム勢力と常に緊張関係にあり、領土は次第に縮
 小した。
  後には、首都周辺のみとなったが、海軍力によって東
 地中海の商圏は維持した。
  ローマ帝国の伝統を保ち、皇帝教皇主義、ギリシャ正
 教、ビザンチン芸術など独自の形成に貢献した。
  帝政末期には、多数の学者・文人が西ヨーロッパに亡
 命し、ルネッサンス期の古典学の発達に寄与した。
397年、キリスト教聖書が現在の形の様に整(ととの)え
 られ、決定された。
  これまでの約400年間は、キリスト教は聖典の無い年
 月を過ごした。
  イエスは、アラム語を話した。そのイエスのアラム語
 が翻訳されている訳ではない。
  また、各語への翻訳による齟齬が発生している。
  旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻。
  仏教経典から見るとささやかな経典となっている。
400年、ポリネシア人がイースター島に400年~500年頃に
 渡って来た事がほぼ認められている。
400年代(5世紀)、中国を代表する仏教遺跡で、世界遺産
 に登録されている雲岡(うんこう)石窟は、北魏が、5世
 紀に造営した仏教寺院で、東西1キロにわたって多数の石
 窟がある。
5世紀、楼蘭は、タクラマカン砂漠の東端に位置し、東西
 交通の要衝として栄えたオアシス国家。
  5世紀に忽然と姿を消した。
  紀元前176年に歴史上にその名を現した。
5世紀、この頃の日本の事が、中国の歴史書「宋書倭国伝」
 に記されている。
5世紀、渡来人が漢字や技術などを伝えた。
404年、倭軍が、帯方の地域で高句麗の好太王の軍と戦っ
 た。
412年、好太王が没した(374年~412年)
413年、この年以後、しばしば中国に遣使する。倭の五王。
421年、倭王讃が、江南の宋朝に朝貢する。
427年、高句麗が、都城を平壌に移す。
430年、宋に朝貢した。
5世紀前半から半ば、この頃、仁徳天皇陵(486メートル)
 が築造され、古墳文化が栄えたが、
  エジプトのピラミッドの最大のクフ王のピラミッド(
 231メートル)より大きく、
  また、中国の秦の始皇帝の墳墓(350メートル)より
 も大きい。
  日本人のスケール感が大きいことを表す1例である。
  半導体産業で、日本の技術が、世界を席巻していた頃、
  韓国の学者が、「日本人は小型のもの、微小なもの、
 繊細なものを開発するのが得意だ」と言ったが、
  この言葉は、決して、日本人をほめる趣旨で発言され
たものではなかった。
  日本人の特性として「縮(ちぢ)み志向」であるとい
 う意味で言われたものだった。
  かなり、このマインドコントロールは、日本及び日本
 人に定着し、洗脳されている。
  日本人は、昔から優秀なのであり、
  韓国学者が、言う様な「縮み志向」の資質の国民でも
 ない。
  あの古代に、制振技術を組み込んだ五重塔は、今・現
 代でも、脚光を浴びている
  あの時代に、この様な高層建築を、それも、全国のあ
 ちこちに、普通の、ふだんの技術の様に、駆使して、使
 い切って、塔を建てている。
  この様な事例は、日本には、いろいろ、あまたある。
  五重塔の芯柱が、制振の挙動をするように、取り付け
 た、斬新な技術は、今・現代においても驚嘆に値する。
  何百年も、さかのぼった時代であった事を、さらに誇
 るべぎである。
  技術だけでなく、日本の文化も、奥深く、誇るべきで
 ある。
 因みに、この技術の考え方は、何と、1993年に建てられ
た、横浜みとみらい21の中核を担っている超高層ビルに、
今・現在、使われています。
 このビルは、70階建て、高さ296.33メートルで、建設
当時日本一高いビル、今、第2位のビルです。
  能楽、茶の湯、生け花、水墨山水画、回遊式庭園、枯
 山水、書院造りなどなど、例をあげるいとまもない。
  仏像群の奥深さも、現代美術のロダンをしのぐ、世界
 で、これらに比肩できる彫刻群は、ギリシャ古典世界以
 外には存在しない。
  勿論、中国にも、朝鮮にも、アメリカにも、イギリス
 にもない。これ等の国に、これだけの世界は作れていな
 い。
451年、アッチラの率いるフン族は、ライン川を渡り、ガ
 リアに侵入し、オルレアンを包囲した。
  西ローマの将軍アエチウスは、ゲルマン諸族の軍と共
 にこれを討ち、今の北フランスのシャロン付近のカタラ
 ウヌムの野で大決戦をした。
452年、フン族がイタリア侵入と共に、色々な民族がヨー
 ロッパへ侵入した。
  匈奴と呼ばれるフン族は、インドや中国へも侵入した。
475年、高句麗が、漢江流域の漢山城の王都をおく百済を
 陥れた。百済は、都を熊津に移した。
476年、西ローマ帝国が滅亡した。
478年、倭王武(わおうぶ、雄略天皇)が、宋の順帝(南
 朝)に遣いを送り、上表文を呈した。
  倭王武は、順帝から安東将軍の叙爵を受けた。
480年(5世紀後半)、キリスト教の「アタナシオス信条」
 ができた。
486年、フランク王国が建設された。
500年、この頃、達磨という、インドの仏教徒が、中国で
 禅宗を広めた。
  修行で9年間も座禅を組み、悟りを開いたという。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年~300年)

 題:(増補版)10A:気になった事柄を集めた年表(紀元0年~300年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元0年、世界人口が2億5000万人になった。
紀元7年、イエスが11歳と言われているこの時、イスラエル
 の民が、ローマによって滅ぼされる。流浪の民となる。
紀元28年、後漢の明帝が生まれた(28年~75年)。
  この頃、中国に仏教が伝わった。
  明帝は、インドから来た僧のために洛陽の西郊に白馬
 寺を建てた。
  これが中国仏教の始まりとされる。
30年頃、イエス、処刑される。
37年、高句麗の王が、使いを後漢朝に送る。前年に、高句
 麗が、東沃を伐つ。
45年、インドにクシャナ朝が興った。
50年頃~100年頃、この頃にキリスト教聖書の福音書(新
 約聖書と言われている)が書かれた。
1世紀頃、ヒッパロス(エジプト)がインド洋において、季
 節風を組織的に利用した。
54年、ネロがローマ皇帝となった。
57年、倭の奴国(なこく)の国王が後漢王朝に使いを送り、
 光武帝より金印を受けた(漢委奴国王印)。
64年、皇帝ネロがキリスト教徒を迫害した。
64年頃、ペテロがローマ軍に捕えられ、殺された。
  ペテロはイエスの第一の弟子、ネロの迫害による。
  このペトロの墓の上に、サン・ピエトロ寺院が建てら
 れた。
66年、ユダヤ人が反乱を起こした。ネロ帝は、正規軍を投
 入した。
67年、仏教が中国に伝わった(一説では紀元前2年)
67年頃までの間に、パウロは死んだのだろうとされている。
67年7月14日、ローマに大きな火事が起こり、6日間、燃
 え続けた。
  その日が放火ではないかという噂が市民の中に広がっ
 た。ネロ帝はキリスト教徒に放火の罪を着せた。
70年、ウェパシアヌス帝の時、その子のティトゥスの大軍
 団がエルサレムを攻撃した。
  神殿は焼け落ちた。
  城壁を徹底的に破壊し、人が住める痕跡すらもなくな
 るほど市街を壊した。
73年、ユダヤ人の最後の砦であるマサダが、全員玉砕とな
 って陥落した。
  ユダヤ国家は滅んだ。
  ユダヤ民族は離散の憂き目にあった。以後、1948年の
 ユダヤ国家建設されるまで1875年の月日が流れた。
79年8月24日、ヴェスヴィオ火山が爆発し、翌25日にポン
 ペイが埋没した。
100年、インドネシア:1~2世紀に青銅器文明が栄えた。
100年頃、キリスト教聖書の「ヨハネによる福音書」が書
 かれた。
100年代(2世紀)以後、キリスト教の殉教実録や殉教物語
 が生まれ、殉教文学として流布された。
100年代~200年代(2~3世紀)、日本列島を含めた東
 アジア一帯に民族大移動が起きた。
  それは、気候の寒冷化が関係していた。
  この頃、中国では、寒さから飢饉や疫病が流行し、紀
 元184年に「黄巾の乱」と言う農民の大反乱が起き、
  後漢が、220年に倒れ、三国時代に入った。
  朝鮮半島でも、韓民族の軍勢が、漢の出先機関を攻め
 ると言った戦乱が続く。
  邪馬台国の女王・卑弥呼が、中国の歴史書に登場する
 のは、ちょうど3世紀のこの時期。
  「魏志倭人伝」によると、日本では小国が乱立して
 「倭国の大乱」が起こり、邪馬台国が30余りの国を統合
 したことになっている。
  邪馬台国の位置について次の説がある。
  「全国的に飢饉が見舞った江戸時代の小氷河期に、近
 畿地方も大きな打撃を受けたが、九州だけは影響が少な
 かった。
  そこから類推して、3世紀の同じ様な小氷河期にも、
 30もの国をまとめて、経済活動が活発に行える大国が、
 寒さのきつい近畿地方の存在できたとは思えない。
  邪馬台国は、九州にあったと考えられる。
103年、セルジューク朝トルコ:103年~1157年。
  西アジアで、イスラム化したセルジューク・トルコ族
 は、トグリル・ベグの時、1055年、バクダッドを占領し、
 シーア派のブワイフ朝を倒し、スンニ派カリフの保護者
 としてスルタンの称号を与えられた。
  ここに、トルコ人が、イスラム世界の担い手として登
 場した。
  アルブ・アルスランの時、東ローマ帝国と戦い、皇帝
 を捕虜にし、次いで、エルサレムを支配したので、これ
 が十字軍の一因となった。
  この業績は、宰相ニザーム・アル・ムルクに帰せられ
 るが、彼は、また、各地にニザーミア学院を設立し、こ
 の学校(マドラッサ)が、イラン・イスラム学芸の隆盛
 をもたらした。
  イスラム哲学の大成功者ガッザーリ(ヨーロッパ名は
 アルガゼル)が迎えられて、バクダッドの学院で教え、
 また、オマル・ハイヤー村の逸材を育んだ。
105年、紙が中国で発明された。
107年、倭の王・師升の後漢との外交。
166年、ローマ皇帝(マルクス=アウレリウス)の使いが
 中国に至った。
184年、中国に黄巾の乱が起きた。農民の大反乱。
  この頃、中国では寒さから飢饉や疫病が流行した。
188年、後漢の桓帝・霊帝の間(147年~188年)、倭国が
 大いに乱れ、ついに卑弥呼を立てて王とする。
189年、この頃か?卑弥呼が邪馬台国の女王となったとの説。
190年、この頃の2世紀後半、「桓霊(かんれい)の間」と
 いう倭国に大乱が起こった。
3世紀頃、この頃の日本は、邪馬台国を中心とした30ほど
 の小国の連合体が生まれていた。
  支配者層:大人(たいしん)、被支配者層:下戸(げ
 こ)と呼ばれていた。
200年、シルクロード。
  中国の敦煌からタリム盆地地方を横切り、パミール高
 原を越えて、シリア・エジプトに達するこの道は、絹の
 道(シルクロード)と言われる。
  中国からは、主に、絹布(シルク)・青銅器・漆器な
 どを西方へ運び、
  ローマ方面からは、ガラス器などが中国へ運ばれた。
  3世紀から、5世紀には、イランの発達した工芸品が、
 この道を経由して中国に入り、
  さらに、8世紀には日本の正倉院まで至っている。
200年、マヤ文明:マヤ文明の栄えたユカタン半島とペテ
 ン低地は、熱帯性の気候でトウモロコシの焼畑農耕に依
 存していた。
  黒曜石を用いて石灰岩を切り出し、壮大なピラミッド
 などの建築物を構築し、古典期(3世紀~9世紀)には、
 ペテン地方を中心に多くの都市が興隆した。
  建築・碑石・翡翠細工・土器などに優れた芸術作品を
 残し、象形文字・暦法・天文学においても新大陸随一の
 発達を遂げた。
200年代初頭頃(3世紀初頭頃)、この頃、キリスト教の
 「使徒信条」の原形が、出来たと言われている。
  出来たこの時期が、まだ、キリスト教の神が「三位一
 体神」ではないので、「全能の父なる神」となっている。
  この全能の父なる神が、後に出来た三位一体神の位格
 の神という神の一部を形成する神になってしまう。
  キリスト教は多神教である。
  この「全能の父なる神」の一神教から変わる。
200年代(3世紀)の末、ローマ帝国の様々な地域に、あら
 ゆる階層にキリスト教は浸透して行く。
  宮廷から貧民窟まで、大都市から僻地へと広まり、帝
 国末期の殺伐な人心と荒廃した経済事情の中で拡大した。
  ヨーロッパの基本を決めているのは「キリスト教」と
 「古代ギリシャ精神」であると言い、
  そして、使用文字はアルファベットであると鼻高々と
 言うが、
  「キリスト教」も「アルファベット」も西アジアが生
 み出したものである。
  さらに、ヨーロッパ人は、古代ギリシャの子孫でも何
 でもない。
  ヨーロッパの基本要素に起源のあるものはほとんどな
 い。
  そうであるにもかかわらず、キリスト教の有色人種蔑
 視の教義に洗脳され、世界や異教徒を睥睨(へいげい)
 して来た。
208年、赤壁の戦いが起きた。
220年、中国の後漢が倒れ、三国時代(魏・蜀・呉)~280
 年。魏の都は洛陽。
226年、ササン朝ペルシャが興った。ササン朝ペルシャ(
 226年~651年)。ササン朝は、ローマ帝国・東ローマ
 帝国と争ったが、またその文化を東方に伝えた。
230年頃、静岡県沼津市にある前方後円墳の「高尾山古墳」
 は、「墳丘の完成を230年頃」とした。
  全長62mの古墳時代最初期と見られている墳墓である。
239年、邪馬台国の女王・卑弥呼が帯方郡(たいほうぐん)
 に難升米(なしめ)という遣いを送った。
  そして後、魏の都の洛陽に至る。
  魏志倭人伝には、卑弥呼は「鬼道(シャーマニズムの
 こと)に事え能く衆を惑わす」とある。
  帯方郡は今のソウル付近にあった。
  魏の明帝は、卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」
 の称号を与え、金印紫綬を授けた。
  また、銅鏡も授かった。
239年、この頃、古墳が造られ始めた。
  また、大和朝廷が日本を統一した。
243年、卑弥呼が中国の王に物を贈った。
245年、中国の斎王が倭国使に物を賜った。
247年、倭女王の卑弥呼が狗奴国王(くな)の卑弥弓呼と
 争った。
250年、邪馬台国の卑弥呼が死んだ? この頃より「古墳
 文化」が起こった。
250年~300年、キリスト教への迫害。
266年、倭女王の台与(とよ)(壱与?)が西晋(せいし
 ん)に遣いを送った。
266年、(別資料に)卑弥呼の宗女・壱与が、中国に使者
 を派遣した。
266年、(また、別資料に)倭国の女王、晋に朝貢する。
280年、晋が中国を統一した。
3世紀後半~4世紀初め、(読売新聞、2015・1・30)に、
  邪馬台国の有力候補地である奈良県桜井市の纏向(ま
 きむく)遺跡で、
  3世紀後半から4世紀初めの、占いに使われたとみられ
 るイノシシの骨「卜骨(ぼつこつ」が出土した。
  国家的な祭祀(さいし)になっていたと考えられてい
 る。
  骨は、イノシシの右肩甲骨(長さ16.7センチ、最大幅
 6.7センチ)で、深さ約1メートルから出土した。
  3世紀後半は、大和国の女王で祭祀をつかさどったと
 される卑弥呼の後継者・台与(とよ)時代。
300年代(4世紀)、キリスト教の「ニカイア信条」がで
 きた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年2月5日木曜日

(増補版)9A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200年~紀元0年)

 題:(増補版)9A:気になった事柄を集めた年表(紀元前200年~紀元0年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前200年代(紀元前3世紀)、この頃の縄文時代の終わ
 りから、歴史時代が始まる紀元700年頃までの1000年間
 に、人口が500万人も増えた。
  この人口爆発は、自然増だけでは説明がつかない。
  この頃の農耕民の人口増加率は、平均0.1パーセント
 程度。
  最高でも、0.2パーセントくらい。
  これ等から、1年あたりの渡来人の数は千数百人と考
 えれれる。
  四角い輪郭に、彫りの深い顔の、小柄な土着の縄文人
 に対して、
  渡来した大陸系の人たちは、細面で鼻が低く、背が高
 かった。
  日本人は、この二種類の人たちが混血してできている。
  現代人の頭骨を再調査して、統計処理してみると、
  全体からみると、近畿人の骨の方が、むしろ異質な形
 態で、渡来人の影響が濃厚である。
  平均的な日本人は、北陸人で、古いタイプの縄文人の
 形質を残している。
  アイヌの対極に、近畿人が位置している。
  何故、大陸の人たちは、日本を目指したのか?
  弥生時代の、紀元前3世紀~紀元後3世紀頃は、中国で
 は動乱の秦・漢・三国時代にあたる。
  秦の始皇帝の時代に、徐福という人物が、少年少女
 3000人を連れ、不老不死の薬を求めて東海の島を目指
 したという伝説が「史記」にあるが、
  日本にも、紀伊・熊野や丹後などに、徐福伝説が残っ
 ている。
  この時代の中国は、黄河流域や、河口に、人口が集中
 して、周辺の異民族から絶えず脅かされていた。
  戦乱や大飢饉が起こればボートピープルが大量に出た。
  彼等にとって、日本列島は、稲作に適した低湿地が手
 つかずに広がるフロンティアだった。
紀元前200年、(朝日新聞、平成7年7月26日)によれば、
  佛陀(ブッダ)の生誕地として知られるネパールのル
 ンビニの仏教遺跡から、
  約2200年前の仏教建築らしいレンガ遺構層が発見さ
 れた。
  また、その中から大きな平石が出土した。
  日本とネパールの合同発掘調査団は、「この石こそ
 佛陀誕生の地点を特定するためアショーカ王が置かせ
 た目印の石。仏教史上、画期的な発見だ」という。
  断定には、慎重な立場の研究者もいるが、仏陀の時代
 にせまる発掘として古代へのロマンが広がった。
  平石は、横70センチメートル、縦40センチメートル、
 厚さ10センチメートルの砂礫岩。
  文字などを刻んだ跡はない。
  マヤ堂の中心部を南北21メートル、東西26メートルに
 わたって垂直に掘り下げたところ、
  地下約2メートルの所から出土した。
  石を保護する様に、マウリア王朝独特の大型レンガの
 レンガ基壇が配置されていた。
  基壇には、15の箱形の穴があり、そこからは佛陀時代
 から流通していたとされる銀貨「パンチマーク・コイン」
 や青銅貨が数枚、さらに、マウリア王朝独特の「北方黒
 色研磨土器」が10数個見つかった。
  仏教に帰依したアショーカ王の行動を伝える経典「ア
 ショーカ王伝」には、ルンビニを訪れた王は、王師から、
 「この場所が佛陀が誕生された地点です」と聞き、その
 場所にひれ伏したとある。
  マヤ堂のすぐそばに立つアショーカ王柱には、王の
 訪問を記念して「ここの王柱と石さく(もしくは石板)
 を建てた」という古いブラフミ文字で刻まれている。
  佛陀の入滅は、紀元前383年、紀元前485年など諸説
 ある。
  アショーカ王は、インド最初の統一王国のマウリア王
 朝で熱心に仏教を広め、紀元前249年にルンビニを訪れ
 たとされる。
  王柱には、「王は即位20年を経た年に、自らここに来
 て崇拝した。ここで佛陀が生誕されたからだ。そこで、
 石さくを造り、石柱を建立した」などと刻まれている。
  王柱のすぐ東側にあるマヤ堂は、時代ごとに改築され、
 最終的には19世紀に改築された。
  因みに、仏教遺跡が書物や言い伝え通りに遺跡が出る
 事にキリスト教研究者が驚いている。キリスト教の遺跡
 発掘は空振りになる事例の連続だと言う。
紀元前195年、劉邦(りゅうほう)が没した(紀元前247年
 ~紀元前195年)
紀元前190年、マグネシアの戦いが起きた。
紀元前189年、武帝が生まれた(紀元前189年~紀元前
 159年)
紀元前176年、楼蘭(ろうらん)は、タクラマカン砂漠の
 東端に位置し、東西交通の要衝として栄えたオアシス国
 家。
  紀元前176年に歴史上にその名をあらわし、5世紀に忽
 然と姿を消した。
  「楼蘭の美女」と言うミイラが平成4年9月に日本に来
 たが、このミイラは1980年に発見された約4000年前の
 女性のミイラ。
紀元前159年、武帝が没した(紀元前189年~紀元前159年)
紀元前150年頃、正距円錐図法などを考案したプトレマイ
 オスの世界図が作られた。
紀元前146年、カルタゴ滅亡。ポエニ戦争で、カルタゴが、
 ローマに敗れ、滅亡した。
紀元前111年、ユグルタ戦争が起きた。
紀元前108年、前漢の武帝が朝鮮に楽浪郡など4郡を設置
 した。楽浪郡はピョンヤン(平壌)の付近にあった。
紀元前107年、倭国王・師升(すいしょう)が後漢書東夷伝
 に登場する。
紀元前2世紀頃~紀元前3世紀頃、水稲耕作、鉄などの金属
 器が中国や朝鮮から伝えられた。
  特に、5世紀から6世紀頃に伝来した漢字・仏教・儒教
 は、その後の日本人の精神に大きな影響を与えている。
紀元前2世紀、韓嬰(中国)が初めて雪の六弁(六方晶形)
 なることを指摘した。
紀元前2世紀、この頃より地図がより正確さを増してきた。
  アレクサンドリアの天文学者プトレマイオスが、正距
 円錐図法で経緯方向の距離を正しく表すことに成功した。
紀元前2世紀、オリエントに起源をもつと思われる羊皮紙が
 すでに用いられていた。
紀元前2世紀、ベトナム:この頃に漢帝国の領土に入れられ、
 その後、長年、中国の支配下にあった。
紀元前100年、倭国は、100余りの国に分かれていた。
紀元前100年頃、銅鐸に、シカ・イノシシ・水鳥類・カメ
 類・トンボなどを描かれている。
紀元前100年頃、旧約聖書が完成した。
  紀元前1100年頃から書き始めたものの完成、旧約聖書
 39巻が書き終えた。それまでは、口伝承であった。
紀元前100年頃、シーザーが生まれた(紀元前100年頃~
 紀元44年)
紀元前65年、紙が中国で発明された。
  中国の古い歴史の本に、西暦105年に、倫と言う人が
 ぼろ布をドロに溶かして作ったという記録がある。
  しかし、最近の研究では、それより170年も前(紀元前
 65年)から作られていたという事が分かった。
紀元前63年に、ローマの将軍・ポンペイウスによってエル
 サレムは占領された。ローマの傀儡(かいらい)政権の
 下の政治となる。
紀元前1世紀半ば、匈奴:東匈奴は、紀元前1世紀半ばに、
 さらに南北匈奴に分裂し衰微した。
紀元前58年、シーザーがガリアを征服した。
紀元前57年、後漢書東夷伝によると、北部九州の奴の国の
 王が、紀元前57年に使者を派遣し、金印を授けられたと
 ある。
  奴国王が、後漢(都は洛陽)の光武帝より授けられた
 金印には漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の文字
 が刻まれている。
  奴国は、福岡市付近にあった一小国と推定されている。
  須玖遺跡が、奴国の遺跡と考えられている。
  金印の上部の突起の形は蛇を表現している。
紀元前54年、匈奴:一大騎馬民族国家を打ち立て、秦や漢
 を脅かしたが、やがて東西に分裂し(紀元前54年)、西
 匈奴は、間もなく滅んだ。
紀元前53年、ガレーの戦いが起きた。
紀元前53年、パルティア戦争が起きた。
紀元前50年、古代ローマの征服事業がライン川に達する。
 軍を率いるカエサルは「ガリア戦記」を記した。
紀元前1世紀、日本の事が書かれている中国最古の史書「
 漢書地理志」(著者:班固・はんこ)には、紀元前1世
 紀のことが記されている。
紀元前1世紀、ローマ法:古代ローマ人の最大の文化遺産
 となっている。
  ローマ法には本来、ローマ市民の市民法と、外国人の
 ための万民法があったが、紀元前1世紀はじめに同盟市
 の自由人に、また3世紀には帝国内の全自由人に、市民
 権を拡大付与したので、市民法は万民法と一体化した。
  ヘレニズム世界の自然法思想。
紀元前1世紀、テオティワカン文化:
  テオティワカンは、メキシコ市の北東50キロにある紀
 元前1世紀~紀元7世紀の大遺跡。
  広さ18平方キロメートル。
  公共建築物と住居が整然と並び、最盛期(6世紀)の
 人口は10万人に達した。
  壁や石彫には宗教色が濃く、建築様式、高原品は、信
 仰の伝播と交易を通じて広範な地域に広まっている。
  経済的基礎はトウモロコシの集約的栽培と交易。
紀元前44年、ケザール(シーザー)が没した(紀元前100
 年頃~紀元前44年)
紀元前27年、ローマ帝国:共和政末期の粉乱の後、紀元前
 27年アウグスツスの帝政とともに成立した。
  すでに、地中海全域に広がった大領主を有効に支配す
 るための独裁体制であった。
  以後、五賢帝時代までの2世紀間、「ローマの平和」
 の下で帝国の細胞である多数の都市の市民は平和を享受
 した。
紀元前10年頃、紀元前以前に黒海北岸に建国されたスキタ
 イ人の文化は、金属文化を中心としていた。
紀元前4年、イエスが、この年に、生まれたとされている。
  紀元前7年の説もある。
  また、以前は、紀元0年とされていた。この様に、イエ
 ス誕生は確証は無い。
  イエス自体が、存在証明のできない状態となっている。
  12月25日の生誕日も、古代の他の宗教の祭日を借りた
 だけ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年2月4日水曜日

(増補版)8A:気になった事柄を集めた年表(紀元前500年~紀元前200年)

 題:(増補版)8A:気になった事柄を集めた年表(紀元前500年~紀元前200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前500年、この時期、縄文人の中で何とか食っていけ
 たのは、サケ・マスの豊富な東北地方の一部の縄文人だ
 った。
紀元前6世紀、この頃、小アジアのリディア王国の最初の王
 クロイソスが金貨と銀貨を鋳造した。
  それまでは、エレクトロン(金と銀の自然合金)貨幣
 で、このクロイソスの貨幣は、鋳造貨幣の最初と言われる。
紀元前6世紀、幾何学者・ピタゴラスは大地が球形と考えた。
  その根拠は、彼の宗教的信念。
  大地が、神の創造物である以上、幾何学的に完全な形
 =球体でなくてはならないと考えた。
   古代の人たちは、世界は平らな大地だと考えていた。
紀元前6世紀、ポリス:中産市民による重装歩兵制が確立し、
 ペルシャ戦争後、民主制が発展した。
  しかし、奴隷制社会であり、民会に出席する成年男子
 以外の女性や在留外人には権利が無かった。
  ポリス間の戦いによって衰えた。
紀元前6世紀、カースト制度:インドの階級制度。
  紀元前6世紀頃、時の支配者バラモンは王と結び、当時
 すでに階層化しつつあったバラモン(祭り、知識層)、
 クシャトリヤ(王族)、バイシャ(庶民)、シュードラ
 (隷民)の4バルナを軸とする身分体制の確立を図った。
  この体制の本質は、バルナによる職業の世襲と同一バ
 ルナ同士の婚姻にあった。
  その後、次々に部族や職業や祖先を同じくする様々な
 集団が、この体制下に入り、
  また、新たに浄・不浄の観念が身分関係に持ち込まれ
 るに及んで、複雑で閉鎖的なカースト体制へと変貌して
 いき、現在、カーストの数は3000を越える。
  カースト制度は、一定の時期、経済活動と社会の安定に
 貢献したが、閉鎖性が根強く、今日、インドの発展にと
 って大きな壁となっている。
紀元前485年、釈迦(ブッダ)の入滅は、紀元前383年や
 紀元前485年など諸説がある。
  「ブッダ」というのは、「目覚めた人」と言う意味で、
  仏教を起こしたゴータマ=シッダールダが、悟りを開
 いてから付けられた尊称である。
  紀元前463年(一説に紀元前560年)頃、現在のネパ
 ール地方のカピラ町に釈迦族の王子として生まれた。
  生後間もなく母を亡くし、叔母に育てられた。
  16歳で妃を迎え、一子をもうけた。
  しかし、恵まれた生活の中でも、次第に人生の苦悩を
 深く感じるようになって、29歳の時、妻子を残して秘か
 に出家した。
  6年間に及ぶ苦行の後、菩提樹のもとで、想して悟りを
 開き、仏陀となった。
  以後、80歳で没するまで、教化の旅を続けた。
  ブッダは、現実の世が苦しみである事、苦しみを離れ
 たところに安らぎがあること、安らぎの世界に達するに
 は、欲望を制御し、正しい実践を行わなければならない
 ことを説いた。
  更にまた、我欲を去り、すべての生き物への愛に生き
 るべきことを説いた。
紀元前480年頃、ヘロドトスが生まれた(紀元前480年頃~
 紀元前420年頃)
紀元前479年、孔子が没した(紀元前551年~紀元前479年)
紀元前479年~紀元前500年、ペルシャ戦争が起きた。
紀元前469年、ソクラテス(紀元前469年~紀元前399年)。
  古代ギリシャの最大の都市国家ポリスであるアテネで
 生まれた。
  父は彫刻師、母は助産婦であったと言われている。
紀元前431年~紀元前404年、ペロポネソス戦争が起きた。
  この戦争で、それまで繁栄を誇っていたアテネも衰亡
 へ向かった。
  アテネの人心は動揺し、政治は腐敗し、ポリスとして
 の秩序も危機にさらされることになった。
  ソクラテスが、哲学者として、祖国アテネを救おうと
 したのは、こうした時であった。
  ソクラテスによれば、善を行う能力(徳)を身に付け
 るためには、「何が良き生き方であるか」の根本知を正
 しく知らなければならないとした。
  ソクラテスは、アテネ市民に向かって、金銭や名誉を
 求めるよりも、知を愛し、市民として正しく生きるよう
 訴えた。
  しかし、当時すでに、退廃と堕落の程を深めていた市
 民は、ソクラテスの真意を理解できず、かえって市民を
 惑わすものとして、ソクラテスを告訴した。
  死刑の判決を受けたソクラテスは、国外逃亡を勧める
 弟子たちの計らいを拒否し、弟子たちの見守る中で毒盃
 をあおぎ、この世を去った。70歳であった。
紀元前429年頃、ピタゴラスが没した(紀元前572年頃~
 紀元前429年頃)
紀元前427年、プラトンが生まれた(紀元前427年~紀元前
 347年)
紀元前420年頃、ヘロドトスが没した(紀元前480年頃~
 紀元前420年頃)
紀元前403年~紀元前221年、春秋戦国時代:戦国時代に
 は韓、魏、趙、秦など7強国が並び立ち、これを戦国の
 7雄と呼ぶ。
  春秋戦国時代は、古代統一帝国形成の準備期間として
 重要であり、鉄製農具の使用、牛耕、水利灌漑などの生
 産技術の飛躍的な発展があり、
  農業、商業が栄え社会が激変した。
  この混乱の時代を秩序付けるよりどころとして、諸子
 百家が、様々な思想を提供した。
  秦は、法家思想を採用して、国力を強め、最初の古代
 統一帝国を建設した。
  諸子百家:春秋時代末期から戦国時代にかけて現れた
 思想家群。
  儒家、道家、法家、墨家、陰陽家、縦横家、農家、名
 家など。
  儒家は、家族愛を社会に広げる「仁」を説き、
  道家は、宇宙の根本原理「道」に基づく無為自然を説
 いた。
  法家は、法による君主政治を、
  墨家は、儒家の仁を否定して、兼愛(平等な愛)、非
 攻(戦争否定)などを主張した。
  漢代には、儒家思想が採用され、
  以後、儒教は、中国の国家思想となった。
  道家思想は、民衆に浸透し、後に、道教が成立した。
紀元前5世紀、ヒポクラテス(ギリシャ)が気象と疾病の
 関係を論じた。
紀元前5世紀、この頃、インドに興った仏教も、シルクロ
 ードを通り、紀元前1世紀に中国、6世紀には日本に伝え
 られた。
紀元前5世紀頃、騎馬民族:騎馬民族は、紀元前5世紀頃に
 文明帝国をほとんど撃滅し、以後、長年(いわゆる中世
 の間)ユーラシアの政治・軍事的指導権を掌握していた。
紀元前400~500年頃、旧約聖書の編集が始まる。
紀元前399年、ソクラテスが没した(紀元前469年頃~紀
 元前399年)
紀元前395年、コリント戦争が起きた。
紀元前384年~322年、アリストテレス。62歳。
紀元前350年頃、アリストテレスが地球の球体を説明した。
紀元前4世紀半ば、ポリス:この頃、ポリスがマケドニアに
 併合され、歴史的な役割は終わった。
紀元前347年、プラトンが没した(紀元前427年~紀元前
 347年)
紀元前343年、サムニウム戦争が起きた。
紀元前335年~紀元前35年頃、この300年間ぐらいを「ヘ
 レニズム時代」という。
  古典ギリシャ時代が終わり、ローマ時代が開始される
 までの頃である。
  この時代は、知的発見が相次ぎ、数学や天文学が特に
 発展した。
紀元前335年、アリストテレスの学校「リュケイオン」が
 創設された。
  この頃より、約100年間、偉大な知的発見の時代が続
 いた。
  16世紀の時代が来るまで、人類は、この知的レベルを
 超える事が出来なかった。
  キリスト教が形成されていった時代というのが、この
 知的レベルが低い時代に形成されている。
紀元前334年~紀元前324年、アレキサンダー大王(アレキ
 サンドロス3世)の東方遠征(ペルシャやインドなど)。
紀元前330年に、ペルシャが、マケドニア・ギリシャのア
 レクサンドロス大王に滅ぼされた。
紀元前330年、ヘレニズム:19世紀のドイツの歴史家ドロ
 イゼンの造語。
  アレキサンドロスのアケメネス・ペルシャ征服(紀元
 前330年)により出現した。
  オリエント文化と融合したギリシャ文化。
  公用語としてのコイネの普及、世界市民理念の成立、
 自然科学の発達を特色とする。
紀元前330年頃、ユーグリッドが生まれた(紀元前330年
 頃~紀元前275年頃)
紀元前323年、アレキサンダー大王の死。
紀元前317年、マウリヤ王朝:この頃、チャンドラグプタ
 によってマガタ王国の地に建てられたインド最初の古代
 統一帝国。
  アレクサンドロス軍の北西インド侵入が刺激となった
 と考えられている。
  第三代アショーカ王の時、ほぼ全インドに及ぶ最大領
 域を実現した。
  アショーカ王は、仏教を帝国統治の理念とし、各地に
 摩崖や石柱の詔勅碑を建て、王子マヒンダにスリランカ
 島布教を命じるなど辺境、外国にも仏教を伝え、これに
 よって仏教は世界宗教になった。
  仏教宣教師が、キリスト教の地のパレスチナへも行っ
 ている記録がある。
  王国は、王の死後急速に衰退した。
紀元前4世紀末、匈奴:紀元前4世紀末~1世紀中頃に活躍
 した。中国の秦漢時代に当たる頃に盛んになった北方遊
 牧騎馬民族。
紀元前300年、弥生時代、米作りが中心の生活。石包丁で
 稲の穂を摘み取る。~紀元300年まで。
紀元前4世紀、アリストテレス(ギリシャ)が、「気象学」
 を著わす。世界最初の気象専門書。
紀元前300年、ユーグリッド(ギリシャ)、光の直進、反
 射の法則。
紀元前4世紀、騎馬民族、紀元前4世紀に、中国の北方でも、
 騎馬民族が活動するようになる。
  モンゴルからハンガリーにまたがる、東西に長い草原
 地帯が、彼らの活動の根拠地で、
  彼等は、常に、南方の文明国家へ侵入した。
紀元前275年~紀元前196年頃、経緯線を用いた最初の地
 図。エジプトの学者エラトスネスの世界図が作られた。
紀元前275年頃、ユーグリッドが没した(紀元前330年頃
 ~紀元前275年頃)
紀元前273年~紀元前233年、インド、アショーカ王。
紀元前272年、ローマのイタリア半島統一。
紀元前264年~紀元前146年、ポエニ戦争が起きた。
紀元前259年、秦の始皇帝が生まれた(紀元前259年~紀
 元前210年)
紀元前250年頃が中国の始皇帝陵の兵馬俑坑(へいばよう
 こう)。
紀元前250年、この頃、アルキメデス(ギリシャ)がアル
 キメデスの原理を発見した。
紀元前249年、インドのアショーカ王は、インド最初の統
 一王国の舞うリア王朝で熱心に仏教を広め、紀元前249
 年に、ルンビニを訪れたとされる。
紀元前247年、劉邦(りゅうほう)が生まれた(紀元前247
 年~紀元前195年)
紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一した。
  秦漢帝国:中国最初の統一王朝秦(紀元前221年~紀
 元前206年)とその後に続く漢を合わせて秦漢帝国とい
 う。
  秦漢ともに皇帝による中央集権国家であり、官僚によ
 って治める郡県制をとった。
  秦の都は陽。前漢は長安。五巻は洛陽を都としたので、
 それぞれ西漢、東漢とも呼ばれる。
紀元前218年、第二ポエニ戦争。
紀元前215年、マケドニア戦争が起きた。
紀元前210年、秦の始皇帝が没した(紀元前259年~紀元前
 210年)
紀元前202年~喜元年、中国の前漢時代。
紀元前202年、ザマの戦い(ハンニバル敗れる)が起きた。
紀元前200年~300年頃(紀元前3世紀頃)、この頃に、ロ
 ウソクが誕生した。
紀元前200年、クムランで発見された「死海文書」に、こ
 の頃の写本が含まれている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年~紀元前500年)

 題:(増補版)7A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1200年~紀元前500年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前1200年、周(西周)が興る(中国)。
紀元前1200年、エーゲ文明:この頃、ミケーネ文明も新し
 く南下したギリシャ人に滅ぼされた。
  エーゲ文明とはこれら青銅文明の総称である。
紀元前1200年頃、トロイ戦争が起きる。
紀元前1200年、ギリシャにポリスが起こる。
紀元前1100年、この頃から、キリスト教の旧約聖書が口伝
 承で伝えられていたが、文書となり始めた。~紀元前100
 年頃まで。
紀元前1200年、この頃、モーゼが、ユダヤ人を脱出させた
 とキリスト教は言うが、
  歴史研究者は、モーゼの実在を否定している。
  まったくの架空の人物なのである。
  まったくのキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)であ
 る。作られた歴史話しである。
  ユダヤ人は、飢餓と背中合わせの地の砂漠の地・パレ
 スチナに住んでいたが、飢餓になると豊かな実りの地、
 ナイル川の恵みの地・エジプトに流入していた。
  このユダヤ人が居住していたあたりは、民族が流動的
 に移動する地域でもあった。
  そもそも、先祖が、メソポタミアのチグリス・ユーフ
 ラテスの川のほとりのウルという町から、流浪の旅に出
 たのであるから。
  エジプトへのユダヤ人の流入とともに、出る事も自由
 の地(出入り自由の地)であった。
  物流も自由、出入りする商人も自由の地であった。
紀元前11世紀頃、中国の殷王朝が西方の周に滅ぼされた。
紀元前1000年、この頃、インドにカースト制度が興る。
紀元前1000年頃、古代ユダヤ:ダビデ王の時にヘブライ王
 国が膨張し、最も発展した。
  ダビデ王、及び、その息子ともに、女性関係にだらし
 なく、王朝は乱れ、民は泣いた。
  ダビデが生ませた子供と、子供同士の戦いも起き、息
 子の代に、この王朝は滅んだ。
  ダビデは、キリスト教聖書の救世主の系図に居る王様。
  イエスも、この系図に居るという(だから、イエスは
 救世主だとキリスト教は主張している)、
  そして、血がつながっているとされている(だが、イ
 エスと血がつながっていないイエスの父・ヨセフが、こ
 の系図に居るとキリスト教は説いている。まったく変だ)。
紀元前1000年、メソポタミア文明:この頃以降に栄えたア
 ッシリア帝国が紀元前7世紀末に滅亡して、メソポタミア
 文明は一段落する。
紀元前960年、この頃、ヘブライ王ソロモン。
紀元前932年、古代ユダヤ:この頃、ソロモンの死後、国
 力が衰え、北方のイスラエルと南方のユダに分裂した。
紀元前10世紀、キリスト教旧約聖書:神の選民(選民)と
 した。イスラエル民族(ヘブライ人)の宗教書。予言・
 律法が記されている。
紀元前880年、この頃、フェニキア人がギリシャ文字を伝
 える。
紀元前800年、日本で、稲作が始まった。
  稲作の初期の遺跡と目される佐賀県菜畑遺跡について、
 土中の花粉を電子顕微鏡などで調べた結果、2800年前の
 稲の花粉が検出された。
  一緒に、アワや小豆、ひょうたん、メロン、ゴボウ、
 シソなど、そして、畑作の稲も出て来た。
  その後の時代の地層から、稲のほかにタガラシやミゾ
 ハコベなど、水田の雑草の種が見つかった。
  つまり、稲は最初、「おかぼ」として畑の作物と一緒
 に栽培されていた。
紀元前800年、東日本中心の縄文文化と反対に、この頃か
 ら、弥生時代の遺跡が、九州や瀬戸内、太平洋に多くな
 る。
  稲は最初、「陸稲(おかぼ)」として畑の作物と一緒
 に栽培されていたが、次第に、低湿地に水田が切り開か
 れて行ったというストーリーが読み取れる。
  縄文人が、寒さでバタバタ倒れていた頃、人口の空白
 地帯だった西日本に、畑作や稲作の先端技術を持った人
 たちが入植し、やがて、弥生文化が全国に伝播した。
  日本列島の森林破壊は、焼畑が導入された縄文の終わ
 り頃から始まった。
  縄文時代の終わりに人口は、総計7万人~8万人にも激
 減した。
  その後、持ち直したが、弥生時代になると、東日本29
 万人に対し、西日本30万人となる。
  縄文人にとって、どうしようもなかった低湿地を、弥
 生人は開墾した。
  この新しい渡来人は、新しい伝染病を持ち込んだ可能
 性が強い。
  「発掘された人骨の中で、結核の跡が残っている最古
 のケースは、古墳時代である。
  結核菌が、日本列島に侵入したのは、この頃らしい。
  これまで結核の経験のなかった集団に、結核菌が侵入
 すれば、抵抗力が無いので、ぱっと広まる。
  渡来人は、百万人の規模が、大陸からやって来たと考
 えられる。
紀元前9世紀、バビロニア:この頃に、アッシリアに滅ぼ
 された。
紀元前800年、この頃、ギリシャ人が地中海へ進出した。
紀元前9世紀頃、騎馬民族:騎馬戦術は、この頃に、ウクラ
 イナで始まった。
  最初の強い騎馬民族は、紀元前7世紀ごろ、ウクライナ
 で栄えたスキタイであった。
  騎馬戦術は、その後、東方へ伝わる。
紀元前776年、第一回オリンピア競技会が開かれた。
紀元前771年~紀元前221年、中国の春秋戦国期の時代。
  春秋戦国時代:中国では宗族(血縁集団)中心の封建
 制をとった周の支配が、次第に崩れ、異民族の侵入、諸
 侯が乱立状態に入った。
  春秋時代には、強力な覇者が、5人出たと言われ、春秋
 の5覇者と呼ばれている。
紀元前753年、ローマの建国(伝説)。
紀元前721年頃、北王国・イスラエルは、アッシリア王・
 シャルマナサルによって滅ぼされた。
  数万のイスラエル人が捕えられて、メソポタミアとメ
 ディアに連れ去られた。
紀元前720年、この頃、アッシリアがオリエントを統一した。
紀元前8世紀、アフリカに、紀元前8世紀以降、西部アフリ
 カのガーナ、マリ、ソンガイに大国があった。
紀元前700年頃、粘土板に描かれたバビロニアの世界図が作
 られた。
  これは、現存する最古の世界地図である。
  範囲は、バビロンを中心とするメソポタミア地方だけ
 のものだった。
  バビロンを中心とした世界は、大洋で取り巻かれ、そ
 の外側にも陸地がある。
  また、天は巨大なドーム状で柱によって支えられてい
 た。
紀元前8世紀、ベーダ:紀元前8世紀を中心として成立する
 ブラーフマナは祭式万能の時代を、それに続くウパニシ
 ャッドは新思想を開花させ、ともにその後のインド世界
 に大きな影響を及ぼした。
紀元前8世紀、ギリシャ古典文化:紀元前8世紀~紀元前4世
 紀のギリシャ文化。
   奴隷制社会に成立し、また、異邦人をバルバロイと
 して蔑視する独善性もあったが、人間存在を全面的に肯
 定する世界観。
  また、自然や人間についての囚われない観察と合理的
 思考に基づく文化は、人類史への重要な貢献となった。
  先行の諸文明に新たな体系化・理論化を加えた点に創
 造性が認められる。
紀元前8世紀、ポリス:古代ギリシャの都市国家。
  紀元前8世紀頃から、有産者の集住により成立した。
  軍事拠点・聖域であるアクロポリス、公共の広場アゴ
 ラ、周辺の農業生産地帯からなる。
  人口は、特に大きなアテネで20万人~30万人、一般に
 は数千人~数万人である。
  ポリスは、同一信仰、同族意識で結束し、自由・自治・
 自給自足を理想とする共同体であった。
紀元前7世紀、古代ペルシャ帝国:イランでは、紀元前7世
 紀からメディア王国が栄えた。
紀元前597年に、南王国ユダは、バビロニア王・ネブカド
 ネツァルは、エルサレムを包囲し、ユダ王は捕えられバ
 ビロンに連れ去られた。
  第1回バビロン捕囚である。
紀元前589年に、ユダ王・ゼデキアの時、ネブカドネツァ
 ルは、再び、エルサレムを攻撃し、陥落させ、王・ゼデ
 キアの両眼を潰(つぶ)してバビロンに連れ去った。
  第2回バビロン捕囚である。
  この時、ソロモンの財宝のすべてが奪われた。
紀元前582年に、第3回のバビロン捕囚があり、750人ぐら
 いの人がバビロンへ連れ去られた。
紀元前572年頃、ピタゴラスが生まれた(紀元前572年頃~
 紀元前492年頃)
紀元前560年頃~紀元前478年、釈迦(仏教)。
紀元前551年、孔子(儒教)が生まれた(紀元前551年頃~
 紀元前479年)
紀元前550年、古代ペルシャ帝国:紀元前550年にアケメネ
 スの孫がメディアを滅ぼした。
  次のダリウス1世の頃、最盛期に入り、領土は、東は
 インダス川、西はエーゲ海沿岸とエジプトに及び、メソ
 ポタミアとエジプトの文明を吸収し、壮大な独特の文明
 を形成した。
  首都は、ペルセポリスで、「すべての道はペルセポリ
 スに通じる」と言われたが、アレクサンドロス大王に滅
 ぼされた。
  ササン朝は、ローマ帝国・東ローマ帝国と争ったが、
 また、その文化を東方に伝えた。
紀元前540年頃、ギリシャ最初の世界地図アナクシマンド
 ロスの世界図が作られた。
紀元前538年に、バビロニアは、ペルシャに滅ぼされ、ペ
 ルシャ王・キュロスは、捕囚民の祖国への帰還を許可し
 た。
紀元前525年、ペルシャがオリエントを統一した。
紀元前515年、バビロンから帰還した民は、エルサレム神
 殿の第2神殿を建てた。
紀元前509年、ローマ共和政治が始まった。
紀元前500年~紀元前200年(紀元前6世紀~3世紀)、黒
 海付近の草原にいたスキタイ人が、野馬を飼い馴らし、
  これに乗って走りまわる方法を発明した。
  その騎乗の習慣が中央アジアの遊牧民に広がった。
  武器を持てば、非常に強力な戦力となった。
紀元前500年、2500年前の縄文時代晩期は、ちょうど太陽
 の活動が弱まった頃で、日本列島はぐっと冷え込んで雨
 が多くなっていた。
  この気候変動が、縄文文化を崩壊させたと考えられる。
  天文学の研究でも、縄文晩期に太陽の黒点が減って、
 地球は寒冷期に向かったと言われている。
  冷害で、主食のドングリなど木の実の不作が続いた。
  さらに、寒冷化で、海水が氷に閉じ込めれれて海が後
 退し、雪や雨が多くなると、川から流れ出た土砂が海岸
 を埋めて、ハマグリなどの貝も採れなくなってしまった
 のである。
  この時期、縄文人の中で何とか食って行けたのは、サ
 ケ・マスの豊富な東北地方の一部だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

2015年2月2日月曜日

(増補版)6A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1万年~紀元前1200年)

 題:(増補版)6A:気になった事柄を集めた年表(紀元前1万年~紀元前1200年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
紀元前8000年、マンモスの絶滅は未確定であるが、有力な
 仮説として氷河期末期の気候変動に伴う植生の変化を原
 因とする説がある。
  約1万年前に氷河期が終わり、高緯度地域の気温が10℃
 程度上昇した。
  この温暖化に伴って湿潤化し、1年の半分は大量の雪が
 降り積もる植物の生育に適さない大地へと変貌した。
  マンモスの食料となる草木は激減した。
紀元前7500年、この頃、縄文人は多くの貝塚を残す。
  縄文遺跡出土は、彼らが多種の貝類のほか、イノシシ・
 シカをはじめとする獣類や魚類・鳥類・爬虫類など数百
 種の動物を、食用その他に利用していたことを示す。
  縄文中期の土器には、ベビ類の呪力を意識したとみら
 れるデザインのものがある。
  縄文後期に、イノシシの飼育が行われとみる説が有力
 である。
紀元前6000年、およぞ8000年前から人類は、農耕の生活
 を始めた。
  世界の各地で、異なった作物を栽培するようになった
 と考えられている。
  その作物から、世界の農耕文化の原形は、根栽(こん
 さい)、サバナ、地中海、新大陸の4つの系統に大別さ
 れるとする説がある。
紀元前6000年、最古級の人為的埋葬の可能性の発見が、沖
 縄の遺跡であった。
  沖縄は、アルカリ土壌であるので骨が残っていた。
紀元前5500年、メソポタミア文明:チグリス川とユーフラ
 テス川の周辺に栄えた古代文明。
  この頃から、両河川流域に、徐々に、灌漑組織が発達
 し、集落が形成された。
紀元前5500年、縄文時代早期の丸木舟が発掘された。
  千葉県市川市の雷下(かみなりした)遺跡で。
紀元前5000年~紀元前4000年、黄河文明:中国大陸の黄
 河中流域で農耕(畑作)が始まったと推定されている。
紀元前5000年、人類の人口は、増加し、この頃は、1億人
 になっている。
紀元前4600年、エジプトに、ピラミッドが出来た。
紀元前4500年、縄文中期の、北海道と沖縄を除く日本列島
 の人口は、26万人で、その96パーセントが東日本に集中
 していた。
  人口密度は、東日本が、1.7人/平方キロメートルで、
 中でも関東は、3人/平方キロメートルと最密集地帯だっ
 た。
  一方、当時の西日本は、総人口が、1万人以下で、人口
 密度も、実に、関東地方の50分の1の0.06人/平方キロメ
 ートルという超過疎地帯だった。
  生活は、狩猟・採集生活である。
  縄文中期には、平均気温が、現在より2度近く高かった。
  イノシシ・シカ・川魚・貝類は、東日本、西日本とも
 獲れる。
  緯度の低い西日本の方が温かく、住み易そうに思える
 のに何故なのか?
  この人口の差は、東日本と西日本の森の違いであった。
  縄文時代の東日本は、ブナやナラなどの落葉樹林が広
 がっていた。
  落葉樹林は、秋から春に景色が開け、森に深く入り込
 め、狩りやキノコ狩りも出来る。
  だから、東日本の縄文遺跡は、大地一帯に展開していた。
  これに対し、西日本の縄文文化は、「川筋や海岸べり」
 の森が切れたあたりに発達した。
  西日本は、シイやカシ、クスノキなど照葉樹林のおお
 われていた。
  木は、高く生い茂り、冬も葉を落とさず、地面は、じ
 めじめして奥まで入れない。
  だから、縄文遺跡は、川筋や森の海岸沿いの点在した
 だけであった。
  ところが、3000年~4000年前の縄文後期から、縄文
 遺跡は、全国的に減り、関東地方でも遺跡がばったりと
 出土しなくなる。
紀元前4000年、黄河文明:この頃のヤンシャオ文化で彩陶
 が注目される。
紀元前4000年頃、エジプト・メソポタミアにオリエント文
 明が起こった。
紀元前4000年、この頃、オリエント青銅文化が起きる(ス
 メル文化の初め)。
紀元前3500年、メソポタミア文明:生産の発達に伴い、こ
 の頃以降に、多数の都市が誕生する。
紀元前3000年、この頃、黄河流域に新石器文明が起きた。
紀元前3000年、エジプト第一王朝の時代。
  エジプト文明:ナイル川流域に発達し、メソポタミア
 文明に次いで興った古代文明である。
  都市文明への進行過程では、メソポタミアよりやや遅
 れていたが、ナイル川の特殊地理事情のため、帝国の出
 現は、メソポタミアより早かった。
  この頃に、既に、古王国が成立。
  「神の子」と称する国王が神権政治を行い、その権力
 が大きいために、スケールの大きな構造物が多く建設さ
 れた。
  キリスト教のイエスより、3000年も早く、「神の子」
 と称する人間は、出現していた。
紀元前3000年、インドに青銅文化が起きた。
紀元前3000年、メソポタミア文明:シュメール人がこの頃
 から都市国家の時代へ入る。
  その後、戦争を経て、領土国家へ拡大し、バビロニア
 など種々の帝国が建設された。
紀元前2750年、この頃、アッド人がスメール人を征服した。
紀元前2600年、ピラミッド:エジプト国王の墳墓であり、
 巨大な石造建築である。
  初期のピラミッドは、比較的小さかったが、この頃か
 らのクフ、カフラー、メンカウラーの三王のピラミッド
 が、にわかに巨大になった。
  底辺の正方形の各辺は、正しく東西南北に向いている。
  最大のクフ王のピラミッドの高さは、152メートル。
  平均2トン半の石材が、230万個も使用された。
紀元前2500年、地図(バビロニア所領図)が出来た。
紀元前2500年、黄河文明:続いて、この頃の竜山(ろんさ
 ん)文化では、技術水準の高い黒陶が生産されていた。
  その延長上に都市文明が開花する。
紀元前2500年、紙に似たものがエジプトで使われた。
紀元前2500年、インダス文明:インダス川流域を中心に、
 紀元前2500年頃より、紀元前1800年頃まで展開した都
 市文明。
  モエンジョ=ダーロ、ハラッパーが、代表的な都市で
 ある他に、ロータルなど地方都市も発見されている。
  都市は、すべて計画都市であり、整備された上下水道、
 焼成煉瓦を豊富に用いた建築物などが特徴である。
  文字は、インダス文字が使用されていた。
  洪水・塩害など、文明を取り巻く環境の変化により滅
 亡した。
紀元前2500年、エーゲ文明:オリエントの影響を受けて、
 この頃から、東地中海のエーゲ海周辺に、ミノア文明が
 栄えた。
  河川流域の農耕によって誕生した文明とは異なり、オ
 リエントのとの交易によって勃興した文明である。
  特に、クレタ島に栄えた『クレタ文明』が注目される。
  クレタ島に迷宮の名で知られる宮殿がある。
  その壁画から、当時の島民の社会生活を知ることがで
 きる。
  オリエント:本来の意味は「太陽の昇るところ」「東
 方」。
  古代ローマ人が、メソポタミアとエジプト周辺を指し
 て名付けた。「文明の発祥地」である。
紀元前2000年、4000年~3000年前の縄文後期から遺跡は
 全国的に減り、関東地方でも遺跡がバッタリと出土しな
 くなる。
紀元前2000年、古バビロニア王国、クレタに青銅文化が起
 こる。
紀元前2000年、バビロニア:この頃に、シュメール人が建
 設したメソポタミアに、セム系のアムル人が侵入し、バ
 ビロニアという強大な国を作った。
  その首都が、バビロンで、メソポタミアの河川の中流
 域にある。
紀元前2000年、中国奥地(ゴビからタクラマカンの奥地)
 の楼蘭(ろうらん)に小さな王国があったが、現在は砂
 漠と化している。
  ここには、ロプノールという湖があったが、千数百年
 前に干上がっていたと思われる。
紀元前2000年、ベーダ:インド古代の聖典。
  紀元前2000年期の中頃を中心に、イラン高原から西北
 インドに侵入したインド・アーリア人は、その後、紀元
 前6世紀ごろまでにかけて、膨大な宗教文献群を作り上
 げた。
  リグ・ベーダ、サーマ・ベーダ、ヤジュル・ベーダ、
 及び、アタルバ・ベーダに4大別されるサンヒターを軸
 に、プラーフマナ、アーラニヤカ、そして、ウパニシャ
 ッドの各文献群を成立させる。
  紀元前8世紀を中心として成立するプラーフマナは、祭
 式万能の時代を、それに続くウパニシャッドは、新思想
 を開花させ、ともに、その後のインド世界に大きな影響
 を及ぼした。
紀元前2000年、アーリア人:インド・ヨーロッパ語族に属
 し、インド・イラン・ヨーロッパ人などの祖先である。
  元来、中央アジアの西方から南ロシアにまたがって居
 住したが、紀元前2000年頃から膨張し、アフガニスタン、
 インド(インダス川流域)、また、バルカン、小アジア
 (ヒッタイト王国)に定住した。
紀元前1800年、バビロニア:この頃、ハンムラビ王の時代
 に、バビロニア全域の統一に成功。
  有名なハンムラビ法典が作られたが、これは、集大成
 された最古の成文法として注目される。
  バビロニアは、約1000年間、メソポタミア文明の中心
 となった。
紀元前1700年、黄河文明:黄河流域の肥沃な黄土地帯に誕
 生した。
  東アジア最古の大文明である。
  都市文明が開花するのは、紀元前1700年以後の殷(い
 ん)文明においてであるが、この地域の農耕文化は早く
 から発達した。
紀元前1700年、殷(いん):紀元前1700年頃から黄河中
 流域で栄えた、中国最古の都市文明。
  殷王朝と言えば、領土の範囲が制限されるが、殷文明
 はより範囲が広い。
  亀甲や獣骨に刻まれた漢字(甲骨文字)、神秘的で迫
 力のある青銅器で有名である。
紀元前1600年、エーゲ文明:バルカン半島を軟化したギリ
 シャ人の一派ミケーネ人が、紀元前1600年ごろ、先行す
 る文明を継承し、やがて、クレタ文明に代わるミケーネ
 文明をギリシャと多くの島に築いた。
紀元前1600年、アーリア人:紀元前1600年頃のイラン高
 原、メソポタミア、エーゲ海、さらに、ヨーロッパなど
 に進出した。
  アーリア人が、多くの地域を制圧できたのは、馬を利
 用し、また、馬の牽引する二輪車(戦車)から矢を射た
 ためである。
紀元前1600年、西ヨーロッパが鉄器時代に入る。
紀元前1580年、エジプト新王国が興る。
紀元前1500年、古代ユダヤ:セム系ユダヤ人(ヘブライ人)
 は、シリアの近くで遊牧生活を送っていたが、紀元前1500
 年以後、ユダヤ人の一部分がエジプトへ移住した。
紀元前1500年~紀元前1000年、縄文時代後期~晩期に、
 環状盛り土遺構が注目されている。
  埼玉県加須市の長竹遺跡が発掘調査が進み、住居や墓
 が密集した集落跡だった。
  関東地方を中心に確認例が続いた。
  環状は、高さ1.8m、幅20mの盛り土が、直径150mの
 C型の一方が開いたドーナツ状に築かれている。
紀元前1370年~紀元前1350年、ツタンカーメンの墓が造
 られた。
紀元前1350年頃、エジプトのツタンカーメンの黄金のマス
 ク。
紀元前1300年頃、パピルスに描かれたエジプト金山図が作
 られた。
紀元前1280年頃、エジプトのルクソール大神殿のラムセス
 2世時代。
紀元前1250年頃、モーゼが居たとされている。
  歴史家は、その存在を否定しているが、そして、この
 頃、このモーゼによるエジプト脱出があったとされてい
 る。
紀元前1200年、周(西周)が興る(中国)。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009