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2016年10月22日土曜日

(増補版)440E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)

題:(増補版)440E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年1月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年、産業:
・綿作の中止拡大する。
  養蚕を広めるためだった・・、
  そして、この頃、外国産の綿製品が、日本に流入した
 ぐらい「外国産の綿」が優れていた。
  特に、アメリカ産。
  江戸時代、西日本を中心として綿作が盛んとなった。
  特に、畿内はその中心地であった。
  幕末になると、「開国」によって外国産の綿製品が日
 本に流入して来た。
  この事によって、日本の綿作は危機にさらされた。
  その後、日本の綿作は衰退して行くが・・、
  その日本の綿作の衰退については二つの説がある。
  外国の綿製品の流入によりそのまま衰退したとする説
 と、
  外国産綿製品と日本産綿製品とは品質が違うので、ス
 トレートに衰退したわけではない・・とする説である。
  綿作は、明治期がその分岐点となった。
  その一方、「開国」によって、日本は、外国へ主とし
 て生糸を輸出する方向へなって行った。
  そして、養蚕・製糸業は、輸出産業として活況を呈し
 て行った。
  明治期は、まさに、衰退していく綿作と、成長する養
 蚕とが交差する時代であった。
・深谷市上敷免(じょうしきめん)に、日本で最初の煉瓦
 製造会社が創立された(1888年説あり)
  日本煉瓦製造株式会社(にほんれんがせいぞう)は、
 1888年(明治21年)に、現在の深谷市上敷免において、
 操業を開始し、
  2006年(平成18年)までの120年間にわたり存続したレ
 ンガ製造会社で、
  ここで焼成された煉瓦は、東京駅をはじめとする建築
 物に使用され、
  日本の近代化に大きな役割を果たした。
  明治政府は、銀座周辺を近代的建築による官庁街とす
 る「官庁集中計画」を立ち上げ、
  1886年(明治19年)に、臨時建築局を設置した。
  建物群は、西洋風のレンガ造りとするため、多量のレ
 ンガが必要となった。
・勧工場(かんこうば)多し
  勧工場は、日本独特の百貨商品陳列所で・・、
  一つの建物の中に、多くの店が入り、いろいろな商品
 を即売した所で、デパートの進出により衰えた。
  1877年、上野公園に開設した第1回内国勧業博覧会で、
 閉会後、出品者に売れ残りの品を返したが、
  出品者の希望によって、その一部を、残留陳列して販
 売することになり、
  翌年・1878年、商工業の見本館が開設された(これが
 勧工場のはじめ)
.
1887年、経済・金融・貿易:
・国産石鹸の支那向け輸出が始まる。
  この頃の石鹸は、高価な贅沢品であった舶来物か、
  廉価で、手に入りやすいが品質の劣る国産のどちらか
 だった。
  1905年の「清国広西省梧州視察復命書」があるが、
  それに、以下の記述がある(翻訳文)
  「石鹸ハ日本、獨逸、佛蘭西、製多ク、殊ニ日本ノ佛
 製模造品賣行最モ好シト。
  梧州地方の人は、一般的に湯で体を拭く習慣があり、
 タオルの使用が広く流行していた。
  そのためタオルの需要は多く、輸入額も急増した。
  ところが、日本製のタオルも梧州市街のいたるところ
 の店頭に見られたが、
  その輸入額は、総額の三分の一にも満たず、イギリス
 製と称するドイツ製のものが多額を占めていた。
  また、フランス製を模造した日本産の石鹸が好まれ、
 その他に輸入額が多い日本製品については次のものがあ
 った。
  日本品ニシテ當市場ニ輸入セラルヽモノ多シ、蓋シ綿
 毛織物類ヲ除キ外國品中最多額ヲ占ム、其重ナルモノハ
 綿布、綿縮、燐寸、海產物等ナリ。
  因みに、花王石鹸は、この3年後の1890年に創業された。
.
1887年、交通:
・新宿駅に改称
  日本鉄道品川線「内藤新宿」駅が「新宿」駅に改称さ
 れた。開業は1885年だった。
.
1887年、衣:
・皇后陛下の婦人服制に関する思召書が発布された。
  1887年1月に、皇后陛下が、洋服を奨励する思召書が出
 された。
  「勉めて我が國産を用ひんの一言なり。もし、能く國
 産を用ひ得ば、傍ら製造の改良をも誘ひ、美術の進歩を
 も導き、兼ねて商工にも、益を與ふることおおかるべく」
 ・・と、国産の洋服の着用を呼びかけられている。
・陸海軍将校が、儀式・宴会に夫人同伴の時は、洋装する
 ことも申合す。
  鹿鳴館と男子洋装の位置づけは、女子の場合ほど明確
 な意味は持たなかったが、
  夫人同伴のダンスと、飲食を伴う社交の場で、洋服が
 着用されたのは画期的な変化だった。
  鹿鳴館を中心とした欧風化により、さらに、洋装化が
 促進された。
  新聞報道がこの事を裏付け、また、世間の認識を、急
 速に改めさせた。
  朝野新聞の「洋服全盛の時代」や、郵便報知新聞の「
 洋服流行」の記事などがある。
・大阪市内学校の一部で、「洋服裁縫」の授業を始める。
  世間は「洋服流行」の中にあった。
  この様な中で、洋服の注文に応ずる洋服裁縫師が、多
 忙を極めていた。
  学生たちにも洋服が受け入れられ、
  1885年(明治18年)には、大学予備門の生徒が、一同
 申し合わせの上、モヘルの洋服を着用することを決め、
  慶應義塾生徒も過半数が一斉に洋服に改めた。
・三井呉服店が、フランス人裁縫師を招く
  1872年(明治5年)の正月、三井首脳陣は、大蔵大輔・
 井上馨の邸に招かれ、
  そこで「三井家は呉服業を分離して、銀行設立に専念
 せよ」と内命を受けた。
  銀行設立を一番の目標としていた三井首脳陣はこれを
 了承した。
  ・・とはいえ、伝統の家業をおろそかには出来ない。
  東京・京都・大坂の重役が集まり、協議した結果、
  越後屋呉服店を大元方の所管事業から切り離した上で、
 新たに「三越家」を興し、
  三井家が、三越家へ呉服業を譲渡する形をとり、分離
 独立させることにした。
  1874年(明治7年)、日本橋駿河町に三越家経営の越後
 屋が新たに開店した。
  1886年(明治19年)には、洋服部を新設し、
  1888年(明治21年)に、洋館建物「三越洋服店」をオ
 ープンさせた。
  この頃、1883年(明治16年)に「鹿鳴館」が完成し、
 華族と在日外国人の社交場として洋装の発信地になって
 いた。
  また、越後屋のライバル・白木屋も、先んじて明治19
 年に洋服店を開いていた。
  しかし、洋服は、一般庶民にまでにはなかなか浸透せ
 ず、三越洋服店は閉鎖となった。
  1893年(明治26年)の商法施行に際し、三越得右衛門
 を三井姓に戻し、越後屋を合名会社に改組。
  再び、三井家の事業とし、「三井呉服店」と改名した。
  ここに、三井高利から続いた「越後屋」の店名は失わ
 れた。
  高利が、1673年(延宝元年)に、江戸で越後屋を開い
 てから230年、もはや、呉服業は三井の主流事業ではなか
 った。
  1895年(明治28年)、三井銀行大阪支店長・高橋義雄
 が三井呉服店の理事に就任した。
  高橋は、アメリカの百貨店を研究しており、ガラス張
 りショーケースの陳列や、「意匠部」を新設するなど、
 三井呉服店の近代化を図った。
  高橋は、中上川彦次郎を通じて、三井銀行本店副支配
 人の日比翁助に三井呉服店入りを勧め、
  1898年(明治31年)日々は、三井呉服店副支配人とな
 り、近代化改革をさらに推し進めた。
  1904年(明治37年)12月、三井家の事業再編の中で、
 三井呉服店は、再び分離され、
  株式会社化した上で「三越呉服店」と名称を変更した。
  三越の専務となった日比は、設立された同月・12月、
 「デパートメントストア宣言」を、全国主要新聞に広告
 掲載し、日本初の百貨店としての道を歩み始めた。
  1906年(明治39年)、日比は、欧米を視察し、イギリ
 スのハロッズ百貨店を目標に決め、同年・1906年、洋服
 部を再開した。
  靴、洋傘など、三越ならではの輸入品を販売し、品ぞ
 ろえの幅を広げて行った。
  また、宣伝にも工夫を凝らし、有名は広告コピー「今
 日は帝劇、明日は三越」も生まれた。
  1914年(大正3年)、三越呉服店の本店(現:日本橋三
 越本店)は、鉄筋5階建ての新店舗となり、日本初のエス
 カレーターが設置され、全館暖房となり、時代をリード
 する百貨店となった。
  (三井広報委員会ホームべージを参考にした)
・柳原古着屋に女性用の洋服が、ぶら下がるようになる。
  柳原土手通りが古着市場となっていた。
  柳原土手は、神田川下流の浅草御門(現在の浅草橋付
 近)から、筋違御門(現在の万世橋と昌平橋の中間付近)
 までの南岸に築かれた土手で、
  柳の木が植えられていた。
  古地図には、浅草御門から「是ヨリ筋違迄ヲ柳原通リ
 ト云」と書かれている。
  明治時代に、この土手は壊され、今はないが、街路樹
 の一部に柳の木が植えられている。
  柳原土手は、夜鷹が現れる場所として小説に登場する。
  その様な、神田川の南岸に沿って築かれていた柳原の
 古着屋街。
  それは、最初は、総延長1.5km弱の土手に沿った通りに、
 土手を背にして屋台店が並んでいた。
  軒数は不明だが、明治初年に、同所での店営業の許可
 が検討されるが、その許可軒数は約550軒くらいだった。
  成立年代は不明だが・・、
  店の場所全体は、八つの区画に分かれていて、それぞ
 れの区画ごとに、幕府からの営業認可を受けていた。
  その認可は、18世紀前半に順次出されたが、それ以前
 から無認可の営業が存在しただろう。
  古着市場の成立年代もはっきりはしないが、ここの古着
 商売への史料の言及は、1730年代以降に出て来る。
  店の場所が、幕府から認可された18世紀前半頃に、柳
 原土手通りの古着市場も形成されたのだと考えられる。
  古着を扱う店数は、100~200軒程度だったのだろう。
・編物が、神戸にも流行する。
  明治19年代から20年にかけ編物の流行を思わせる記事
 がある 。
・商人が、鳥打帽子を使い始める。
  鳥打帽子(とりうちぼうし)は、狩猟などに用いた所
 から出た名で、前びさしのついた丸く平たい帽子(ハン
 チング帽)
  明治の取り入れられた頃は、和服姿にも似合うと親し
 まれた。
・中折帽子を、地方の役人たちが被るようになる。
  中折帽子(なかおれぼうし)は、もっぱらフェルト製
 で、ソフトハットとも呼ぶ。
  第二次世界大戦前頃まで一般的に使用され、当時の公
 務員や会社員に愛用されていた。
  イタリアのボルサリーノ製品が有名で、1900年頃には、
 75万個が製造され、半数以上が外国に輸出された。
・ネル製品の襟巻が多くなる。
  ネルは、フランネルの略で、
  フランネルは、紡毛糸で平織りまたは綾織りにし、布
 面をやや毛羽立たせた柔らかな毛織物。
  紡毛糸(ぼうもうし)は、羊などの比較的短い毛や再
 生毛などでつくった糸で、毛羽(けば)が多く、縮絨(しゅ
 くじゅう)しやすい。
  縮絨は、毛織物の仕上げの工程で、組織を緻密 (ちみ
 つ) にし、また毛端を絡ませてフェルト状にすること。
 石鹸 (せっけん) 溶液やアルカリ性溶液で湿らせ、圧力
 や摩擦を加えて収縮させる。
  フェルトは、羊毛などの獣毛に蒸気・熱・圧力を加え
 て縮絨(しゅくじゅう)させ、布状にしたもの。
・衣類の防虫に関する関心が多くなった。
  漢の武帝(紀元前2世紀)の時代に曝衣楼が造られ、7
 月7日に宮廷人たちが衣類を出してこの楼台で干したとい
 う。
  この日は衣服ばかりでなく書物の虫干しも行われた。
  後漢の「四民月令」は民間の年中行事を伝える最古の
 書と言われるが、その7月7日の条には「経書及び衣裳を
 暴すれば虫なし」とある。
  古代は、衣服や書物の虫退治は大問題だった。
  日本における防虫は、奈良・正倉院の曝涼(ばくりょ
 う)がある。
  (参考)曝涼:ばくりょう、夏、または秋の天気のよ
     い乾燥した日を選んで衣類・書籍などを日にさ
     らし風を通して、かびや虫のわくのを防ぐこと。
     虫干し。
  その曝涼帳として787年(延暦6年)がある(曝涼使解)。
  また、811年(弘仁2年)の「官物使解」には、収蔵し
 ている香薬や諸宝物を点検しながら風日に曝したことが
 克明に記されている。
  その中には毛皮や衣類・毛氈(もうせん、フェルト的
 なもの)が含まれていた。
  日本は、その他、仏具や衣類、書画などを風日に曝し
 ていた。
  夏ばかりでなく春や秋にも行われていた。
  言葉としても、虫干し、虫払い、土用干し、風入、御
 衣(おんぞ)干し、夏干しなどがある。
  寺社では「什宝虫払い」の行事が恒例として行われて、
 庶民の方々は、それを拝観していた。
・東京綿商社が設立された。
  鐘紡はこの年に設立された。
  1886年(明治19年)東京・日本橋に9軒の繰綿問屋があ
 ったが、その中の5軒が、シナ綿の定期売買を主業とする
 東京綿商社という資本金10万円の会社を創立した。
  1887年(明治20年)ところか需給の関係から、綿花の
 在庫に悩まされ、その打開策として90万円の増資を断行
 し、紡績経営に乗り出すことになった。
  5月6日設立登記。
  8月、「東京綿商社」を解散し「鐘ヶ淵紡績株式会社」
 と改称し、初代社長に三井得右衛門が就任した。
  1888年(明治21)三井の出資を得て、土地を東京府南
 葛飾郡隅田村隅田川畔「鐘ヶ淵」に求め、イギリスより
 最新式の機械を輸入して模範的工場の建設に着手した。
  1889年(明治22年)工場の設計は挙げて学者に託し、
 費用を惜しまず建材や設備に舶来品を用い、30,240錘の
 当時我が国最大の工場を造った。
  世間てはこの工場を見て「三井の道楽工場」といった
 という。
  そして、残念なことだが、2007年、カネボウは消滅し
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ノホホン」とした「あなたまかせの論理」は・・、
    空論なのを・・知らなければならない。
    結局、アメリカは、自分の口が大事・・、
.
1998年2月、韓国に金大中政権が発足した(~2003年)
  1997年12月18日の大統領選挙で、金大中が選ばれてい
 た。
  この政権は、対米外交に苦慮した。
  そして、韓国には、この頃から反米感情が高まって行
 った。
  韓国内にあるアメリカ企業の利益団体である「駐韓米
 国商工会議所」は・・、
  1997年3月15日、韓国政府に「1997年度の年次報告書案」
 を提示した。
  そこには、「外国人の営業環境を改善するために韓国
 政府が履行すべき事項」が、何と『23の分野』にわた
 って列挙されていた。
  この報告書案は、その次の年の1998年の3月末、本国の
 アメリカ政府が議会へ提出する「国家別貿易障壁報告書」
 の基礎資料となった。
  アメリカ政府の・・韓国へ対する「市場開放圧力」の
 一端があった。
  その主な要求事項は・・、
  (1)韓国は、輸入自動車に対する宣伝を積極的に行な
    う。
  (2)自動車の輸入に影響を与える措置に関しては、前
    もってアメリカ政府に通達する。
  (3)輸入自動車に対する関税を、アメリカ国内の水準
    にまで引き下げよ。
  (4)農協に農産物の輸入許可を取り扱えること、
  (5)私的所有権の保護に関し、検察は捜査の強度を高
    め、裁判所は「より厳格な判決を下すこと」、
  (6)法定退職金制度を廃止し、労組を不当労働行為の
    摘発対象に含めよ、など・・、
  アメリカ政府は、アメリカの自国民と企業の権益を擁
 護するために、内政干渉的な強圧をかけた。
  (第二次世界大戦後も、利益を得ようと、利益を得た
 いと、アメリカは、アジアで、こんなことをやっている)
  韓米間の力関係から考えると、これは、韓国政府に対
 する『横柄、かつ、不当な外交圧力』としか言えない。
  特に、(2)は・・、
  韓国政府が、アメリカ製自動車の輸入を規制する何ら
 かの措置を取ろうとすると、事前に、『アメリカ政府の
 裁可を得よ』との言い方であり、
  これ程までの『露骨な内政干渉』は、今・現在の時代、
 他に類例を見ないほど『従属国的に愚弄(ぐろう)』し
 ている。
  (今、アメリカは、日本の皇室関係についても、非常
 に内政干渉的な事を言っている・・自国の悪さの足元も
 見ないで・・)
  こうした『駐韓米国商工会議所』の要求に対して、韓
 国政府は、「私的所有権の保障に関しては、韓国の検察、
 および、裁判所が誠意をもって対処している」との回答
 を伝達した(3月6日付「東亜日報」)
  これに先立つ1998年3月9日、アメリカ通商代表部(U
 STR)は・・、
  「韓国政府が設けている輸入規制を除去するために圧
 力を強化する」との『宣戦布告』をした。
  ガイドナー財務副次官も、同日に・・、
  「韓国政府が、経済構造の調整査過程で企業に支援金
 を提供するなら、国際通貨基金(IMF)の借款は中断
 されるだろう」と・・威嚇を加えた。
  IMFの救済金に依存せざるを得ない金大中政権は、
  (IMFは210億ドルを支援したが、この時、日本も
 100億ドルを支援した・・韓国は、今、感謝しているのだ
 ろうか?)
  この時、韓国は、アメリカ政府からのこうした理不尽
 な『通商圧力』を受けていた・・、
  これに対して、韓国は、殆ど、無抵抗の状態に置かれ
 ていた。
  1997年11月に、表面化した韓国の経済危機に関して、
  2月26日付『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、その
 背景に、アメリカ政府の『巧妙な手口』が隠されていた
 ことを暴(あば)いた。
  1996年6月、クリントン政権の国家経済会議(NEC)
 が、韓国政府に対し、「金融市場の自由化に踏みきれば、
 経済協力開発機構(OECD)への加入を許可する」と
 の韓国が欲しがっているエサを・・韓国へ投げた。
  韓国は、「先進国への仲間入りを宣伝する格好の機会」
 だと判断し・・
  金泳三政権は、このアメリカの言葉に飛びついた。
  国内の金融機関が、十分な対応力を備えていないノー
 ガードの状態で、金融自由化が施行されたために、
  案の定・・韓国の金融市場は、アメリカの投機資本の
 餌食(えじき)にされた・・、
  韓国は、深刻な為替危機に陥(おちい)ってしまった。
  年金と基金などを含めると、アメリカの金融資本は、
 1995年の段階で『20兆ドルの規模』であり、これは、世
 界の年間交易額の4倍という巨額に相当した。
  彼ら・アメリカにとって、リスクの高い第3世界よりも
 韓国のような「新興市場」が、より魅力だった。
  また、IMFは、1996年の夏、「インドネシアに続き
 韓国政府が、金融資本の自由化を施行したことを歓迎す
 る」とのコメントを発表した。
  韓国のことわざには、「病にかからせ薬も与える」と
 いうことわざがあるが、
  まさに、これは、韓国の経済危機に一役買ったIMF
 に救いを求め・・その指示を受けながら・・市場の更な
 る開放へ突き進む・・開放を断行している・・金大中政権
 の現状は、希望と「ま反対」の極めて皮肉なものとなっ
 た。
  1998年4月1日に、金大中政権が、為替の自由化に踏み
 切り、韓国経済は、全面的な市場開放に向けて乗り出し
 た。
  外国資本は、すでに、韓国の証券市場を左右するだけ
 の絶対的な影響力を発揮していた。
  上場企業の株価のうち19%を占有するに至った外国資
 本は、株主総会でその存在を誇示した。
  そして、大量の外貨が・・韓国から流れ出る、外へ向
 かって流出し始める。
  浦項製鉄は、世界第一の粗鋼生産企業で、1兆1229億ウ
 ォンの純益をあげているが、外国資本の株式保有率は、
 既に、38.1%に達していた。
  半導体部門で世界第一の実績を誇る三星電子(3132億
 ウォンの年間純益)も、外国資本の持ち株が51%と半分
 以上・・、
  そして、韓国電力が、3月に、7億5千万ドルの株式を
 海外で売却し、
  5月には、韓国通信が、12億ドルの株式を外国資本に売
 却する。
  国家の基幹産業が売られて行った。
  アメリカの要求した金融自由化の旗の下に、韓国を支
 えてきた生命線とも言える基幹産業を、
  次から次へと外国資本の手に、安売りする金大中政権
 の経済政策を、『韓国の国民は、容認しなかった』。
  ムーディス社のような、アメリカの信用調査機関が、、
 『韓国経済は危機を脱した』として評価ランクを格上げ
 したり(まゆつば格上げ、お手盛り格上げ、嘘つき格上
 げ、実際、韓国は苦しみ続ける)、
  IMFが、韓国を『IMFの模範生』として称賛した。
  (IMFなんて、何ら国際性はない・・私企業と言っ
 てもいい)
  このIMFの意味は、金大中政権が、アメリカ金融資
 本にとって最大の利益を保証するシステムを受け入れた
 ことへのリップサービス(口先だけの御世辞、おべんち
 ゃら)に過ぎない。
  恐ろしい甘言であった。
  (本当に韓国の事を思っていたのか?)
  この様なことで、韓国では、この頃から反米感情が高
 まって行った。
  韓国に駐在するアメリカ兵が、ソウルの町であからさ
 まな嫌がらせを受けたり、
  在韓米軍基地に、大々的なデモがかけられたり、
  在韓米軍の関係者の住宅に火炎瓶が投げ込まれたり、
  ・・と言った事件が相次いだ。
  その頃の韓国在任のアメリカ人高級将校は・・、
  「我々は韓国という『敵地・戦争している地』に進駐
 している部隊だと思っている」と言った。
  そして、「日本へ来て、ようやく味方の戦戦に戻って
 来たようで・・『ほっ』とする」と言う。
  アメリカのクリントン政権時代(1983年~1992年)の
  アメリカの軍人の間では・・
  「世界で一番嫌な任地は、クェートでも、サウジアラ
 ビアでも、ボリビアでもない・・韓国だ」・・と、
  将来を約束されているエリート将校でも、韓国勤務を
 命じられたら、その人事に対して異議を申し立てる。
  将来を棒に振ってでも、異議申し立てをするほど「嫌
 な任地」だという。
  それほど、韓国の方々の反米感情は強く、そして、そ
 の影響が、米兵に対しても出ていた。
  今後、長期に渡って深刻化して行くと言われる「米韓
 危機」である。
  (表面的にはくっついても、心は離れている・・その
 様なものだ)
  この米韓関係に完全な亀裂が入った場合、日本の長期
 的な安全保障は不安定の中に入って行く(安心してはい
 られない)。
  今、現に、「日本の安全保障から下りることを明言す
 るアメリカ大統領候補も居る」。
  日本の安全保障は、結局、日本人が真剣に考え、努力
 をして行かなければ「手に入れられるものではない」。
  「ノホホン」とした「あなたまかせの論理」は、空論
 なのを知らなければならない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年10月20日木曜日

(増補版)439E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1887年1月)

題:(増補版)439E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1887年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年、バッファロー・ビルというアメリカ人は、人気の
 ショー「ワイルド・ウエスト」を興行していた。
  彼の人物像は、以下のように書かれていた・・
  「バッファロー・ビルは、アメリカ西部開拓時代のガ
 ンマン、興行主。
  本名は、ウィリアム・フレデリック・コディー。
  1859年、コロラド州で金鉱開発などにも携わった。
  西部の情報通であったことから軍と深い交流があり、
 斥候を務めるなどして、また、シェリダン将軍のインデ
 ィアン討伐にも協力した。
  1880年ころから拳銃捌(さば)き・駅馬車襲撃などを
 実演してショー化した『ワイルド・ウェスト・ショー』
 を立ち上げ、米国内やヨーロッパを巡業した。
  往年のガンマンや無法者、そして、スー族インディア
 ンのシッティング・ブル本人などが参加したため人気を
 集め、興行は大成功した」。
  そして、彼の興行の出し物の一つが、テレビ番組や劇
 場での公演で知られた「アニーよ銃をとれ」のアニー・
 オークレーという射撃の天才少女を出演させていた。
  彼女は、30歩離れた距離からトランプカードをめがけ
 てピストルを撃ち、これを撃ち抜いたという。
  また、アメリカ・インディアンも見世物にした。
  キリスト教の有色人種の蔑視感がその行為を安易にな
 させた。
1886年5月1日、合衆国カナダ職能労働組合連盟がシカゴを
 中心に約35万人の労働者を動員、8時間労働制を要求し
 ゼネストを行なった。
  これは、1890年5月1日、第1回国際メーデーが行なわれ、
 また、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、ラテン
 アメリカの労働者が8時間労働制を要求したさきがけと
 なった。
1886年10月28日、自由の女神像が完成
  アメリカ合衆国のニューヨーク湾のベドロー島(現=
 リバティ島)に建つ自由の女神像が完成し、除幕式が行
 なわれた。
  像は、アメリカ合衆国独立100周年を記念してフランス
 から贈られた。
  高さは48.05メートル(46m?)、重さは225トン
  右手にはたいまつを、左手には独立宣言書を持つ。
  フランスで1884年に完成し、
  1885年に、214個に分解されて海路ニューヨークに運ば
 れ組み立てられた。
  正式名称は「世界を照らす自由 」
.
ーーー1887年ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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1887年、出来事:
  この年に、最初の世界恐慌が発生した。
  この年の前後に、産業界は目を見張る活況を呈した。
  1873年から1896年にわたる世界的な構造不況(大不況)
 があった。
  この1873年に始まった大不況の原因は多様であるが、
 その原因は、広範な産業分野における生産力の向上で、
 特に、銀の増産と価格の下落があった。
  増産は、新鉱山の発見と電解精錬の成果であった。
  鉱山は、従来から探索が続き、鉱床に関しては、独仏
 資本の入り乱れたロレーヌ(アルザス地方)等を例に浚
 渫技術が向上した。
  そして、電解精錬技術の革新に画期的な面があった。
  雑多な鉱石からも銀が得られるようになった。
  金銀比価は開いていった。
  特に、価格差が、1891年から数年間、著しくなった。
  その様な中、各国は金本位制を採用して行った。
  銀価格が下落して行った。
  南米では事業が縮小した。
  1876年の下落は大きかった。
  アメリカからの食糧買い付けの為、ヨーロッパの金の
 流出が大きかった。
  フランス銀行の金準備は危険状態となった。
  国際的な会議をするが物別れに終わった。
  金に余裕あるアメリカはインフレーション法を制定し
 た。
  ヨーロッパ各国は、金を新たに獲得するためアフリカ
 分割に精を出した。
  金の流出を防ぐため、金利操作も激しく行われた。
  この様な中の1882年、パリ証券取引所での株価暴落が
 起き、フランスは恐慌に突入した。
  この恐慌は、長く、そして、深くフランスを苦しめた。
  フランスの国民純生産(NNP)は、1882年から1892
 年にかけて減少し続けた。
・東京に電燈が灯る。そして、横浜で水道が給水開始した。
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1887年、データ:
・日本の総人口:38,703,000人
・小学校の実質就学率:30.2%
  日本人の優秀さは、信長・秀吉の時代から、日本人は
 褒められていたが、
  1870年(明治3年)の日本における読み書きの普及率は、
 かなり高った。
  おそらく当時の一部のヨーロッパ諸国以上、少なくと
 も引けをとらない高いレベルだった。
  この1870年頃には、各年齢層の男子の40%~50%、女
 子の15%が、日本語の読み書き算数を一応こなすレベル
 にあり、自国の歴史、地理を多少わきまえていたとみな
 してよい(ドーアの調査)。
  また、日本の家庭内の教育も良いとの外国人の報告も
 ある。
  ただ、日本の地域的な差はあった。
・横浜居住の外国人は約3,900人(この年の4月の居留地)
  1858年に、徳川幕府は、欧米各国との間で通商条約を
 締結し、
  1859年に、横浜港は国際港として開港した。
  開港後の横浜は、急速な勢いで貿易港としての機能を
 高め、貿易額は1860年から明治に入るまで、国内貿易額
 の約7割~8割を占めていた。
  大消費地の江戸に近い事も良かった。
  生糸が横浜港の発展に大きく貢献した輸出品だった。
  輸入品は、鉄鋼類・繰綿・兵器類・米など多様だった。
  生糸は、幕末の開港以来、外国商人の支配下にあった。
  外国人は、日本商人をはるかに上回る資本を有し、ま
 た、需要地の情報を独占していた。
  また、不平等な条約もあった。
  外国商人は、様々な不公正な取引慣行を日本側へ押し
 付けた。
  日本側の商人が力を発揮してくるのは、1900年を過ぎ
 てからだった。
  その日本側の商社が、「横浜生糸」「三井物産」「原
 商店」だった。 
  外国商人は、すでに中国との貿易で利益を上げていた
 ジャーディン・マイセン商会などで、開港場の市街地を
 形成した。
  現在の山下町一帯は外国人居留地(山下居留地)とし
 て整備された(関内と呼ばれるようになる)。
  1866年の大火によって、日本人町の3分の1が焼失した
 が、その後の復興は、沼地などの埋め立てが進んで、関
 内の整備は一段と進んだ。
  居留する外国人は、ヨーロッパ人・アメリカ人が約4割
 に対して、中国人6割ぐらいであった。
  1890年を過ぎると5000人ぐらいへと増加して行く。
  1876年:約2300人、1898年:5369人(中国人約70%、
 イギリス人約16%、アメリカ人約5%、ドイツ人約3%。
  貿易商社の人が27.6%、ホテル・レストランなどのサ
 ービス業17.2%、家具や繊維品などの製造業14.5%。
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  (今日の言葉)
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  題:1928年のこと・・、
   世界を煽(あお)っていたアメリカ・・、
   世界を主導していたと言うが・・?
.
  アメリカが、日本を蔑視して作った「排日移民法(1924
 年)」から4年後の1928年ことである・・、
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1928年6月4日、張作霖爆殺事件は、日本軍の仕業に見せか
 けたソ連軍諜報機関の謀略工作だった、という証拠が、
 旧ソ連文書で明らかになった(「正論」平成18年4月号)
  日本の関東軍がやったというのはウソ・間違い。
  日本は、プロパガンダ(嘘宣伝)で罪を着せられてい
 る。
  本当の真犯人は、ゾルゲらを繰っていたソ連のGRU
 (赤軍情報部)の工作であった。
.
1928年6月4日、張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつ
 じけん)が起きた。
  この事件は、1928年(昭和3年)6月4日、中華民国・奉
 天(ほうてん、現:瀋陽市・しんようし)近郊で、日本
 の関東軍によって奉天軍閥の指導者である張作霖が暗殺
 された事件と説明されているが・・これは間違い。
  中華民国や中華人民共和国では、事件現場の地名を採
 って、「皇姑屯事件」とも言う。
  「終戦まで事件の犯人が公表されず」と説明されてい
 るが、日本が行った事ではない。
  また日本を貶(おとし)めようというメディアは、さ
 も、日本が犯人の様に、日本政府が隠して「満洲某重大
 事件」と呼ぶ・・みたいな説明をするが、日本の犯行で
 はないなら曖昧(あいまい)に言うしかない。
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1928年6月4日、この日に張作霖爆殺事件が起きたが、この
 事件は、日本が引き起こしたとされて来た・・が・・、
  ソ連軍諜報機関の謀略工作であったという証拠が、旧
 ソ連の文書で明らかとなった。
  戦後、60年を経た以降、マル秘とされていた資料が、
 公開されて来た。
  その結果・・真実が分かって来た。
  また、1937年の盧溝橋事件も、日本の行為ではなく、
 日本が罪を擦り付けられていたことが分かり、証明され
 た。
  日本は、この事件の後、事態の穏便な収束を目ざし、
 不拡大の方針のもとに努力をしていた。
  しかし、この日本の解決を進める行為を、何としても
 止めようと・・、
  そして、日中全面戦争へ引きずり込もうと、スターリ
 ンと中国共産党は工作した。
  そして、上海で、日本軍へ総攻撃を始めた。
  戦端は収束せず、拡大する一方だった。
  そして、全面戦争へ至って行った。
  新史料によって、この様なことが証明できるようにな
 った。
  アメリカが主導して始めた東京裁判は、間違った史料
 で裁いた事になった。
  つまり、東京裁判は成立してない裁判という事になる。
  現在の法なら「再審」となる。
  裁判のやり直しとなる裁判なのだ。
  東京裁判の判決は、だから「誤審」なのだ。
  コン・チアン他著「マオ(上)」第19章の参照を。
  先年(1991年12月)、ソ連が崩壊して後、諜報関係や
 コミンテルン関係の資料が多く公開されて来ている。
  今、真実が明らかにされて来ている。
  過去の間違った史実は、塗り替えられて来ている。
  アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)は暴(あば)かれ
 て来ている。
  アメリカの不誠実な行為は、『正義の下で正されなけ
 ればならない』。
  ハル・ノート(コーデル・ハル)なんて、国際的なお
 墨付きがあるように思わされ、言われているが・・、
  偏った(かたよった、不公平・不均衡)作り話だ。
  完全に公平な、そして、公正な第三国の作成でなけれ
 ばならなかったのだ。
  アメリカ主導の作り話が、展開していた。
  今、イギリスでは、プロパガンダされ、扇動(せんど
 う、気持ちをあおられ、ある行動を起こすようにしむけ
 させられること)され、
  騙(だま)されて、EU離脱に投票させられたという
 民衆が渦巻いている・・が・・、
  アメリカも、この様な事をしていた。
  EU離脱が決まると、離脱を煽(あお)った宣伝映画
 の監督らは、スーッといなくなってしまった。
  煽った人々が、居なくなってしまったという「怪」が、
 イギリスで起きている。
.
  そして、次の話・・
.
1943年2月、スターリングラードで、25万の兵力のドイツ軍
 が崩壊した。
  その年の1943年10月30日に、スターリングラードのド
 イツ軍崩壊から約8ヶ月後に、
  クレムリンの大広間で、夕食会が開かれた。
  アメリカの代表のコーデル・ハル(アメリカの国務長
 官)は晴れやかだった。
  ソ連の対日戦の参戦の話が進展するからである。
  ハルはこの様な人物だった。
  ハル・ノートは公正でもなく、公平でもあるはずがな
 かった。
  ハルは、この時、スターリンのすぐ右側の席が与えら
 れ、最高のもてなしを受けた。
  ハルは、この会食の会談の成功を予測し、そして、祝
 して心にある期待を演説した。
  何と、スターリンも、唐突にしゃべり出した・・、
  「ドイツとの戦争が決着すれば、ソ連は、日本を倒す
 ことをお手伝いしましょう」・・と。
  『日ソ中立条約の存在』など、どこかへ吹っ飛んでい
 た。
  スターリンは、すっかり、対日戦に参戦して、日本の
 領土を手にしたらの、ルーズベルト・アメリカ大統領の
 誘いに酔い、すっかりその気になっていた。
  また、ハル・ノートというお手盛り報告書を書いたハ
 ルは、このスターリンの演説に満足し、米ソ共同のハレ
 ンチ(恥を恥とも思わず平気でやること)な裏切り行為
 が進んで行く(千島・満州に進攻され、多くの日本人が
 死に、千島・北方四島は取られ、まだ、未帰還だ)
.
  そして、また、次の(今日の言葉)
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  題:キリスト教の焦(あせ)り
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1928年、キリスト教の聖書に記される「カナンの地」が、
 この年に、ウガリットと言うシリアの古代の都市遺跡を、
 『再度』発掘したら見つかったと、まったくデッチアゲ
 的な話がこの年に生まれた。
  イスラエルよりだいぶ北で、まったく、イスラエルと
 関係ない場所である。
  トルコに近い所と言うより、トルコ国境の脇と言いた
 いところで、「カナンの地」と関係ない所で発掘された
 神話が、ユダヤ教の神話と似ていると言ったのである。
  だからだ・・と言う、こじつけである。
  キリスト教は、長いユダヤの歴史のずーっと後から、
 最後に生まれた宗教で、周りのあちこちの事などを都合
 よく取り入れた宗教だった。
  だから、ウガリットがカナンだとは無理な論理だ。
  因みに、馬小屋に生まれたイエスの話も、当時、この
 辺りにあちこちにあった話を取り込んだものである。
  また、生まれたクリスマスの日も、まったく別の宗教
 の祭日が、あまりにも盛大に行われていたので、同じ日
 にしただけである。
  天使だってほかの宗教から拝借している・・、こんな
 他宗教から借りて来た話は一杯ある。
  キリスト教は、根拠のほとんどない宗教である。
  そして、この古代は・・、
  そして、特に、恵まれないこの地域は、砂漠の地は、
 わずかな恵まれた地を取り合った。
  「カナンの地」は、「甘い蜜の流れる地」だと、周り
 の諸民族は憧(あこが)れた。
  そして、「カナンの地は、乳の流れる地」とも讃(た
 た)えられた。
  (学者は、カナンを死海の北の辺りかと推測する、
 シリアの地とはまったく違うのだ・・さらにその北の方
 の地とはまったく関係がない)。
  周りの小さな諸民族の「カナンの地」へのあこがれは
 増した。
  天のなせる罪、それは、「恵みの雨を降らせない」こ
 とだった。
  そこに群がる少数の各部族は、そのため、生きる事に
 喘(あえ)いでいた。
  ここで生まれた宗教が、キリスト教だった(砂漠の宗
 教)。
  当然、この様な民が生きるための宗教となった。
  この地の、この時代に適応し、生まれた宗教だった。
  当然、この地、この時の宗教は、生きるか死ぬかの時
 には、「隣の民族の富を奪ってよい」と教えた。
  ここに生きる民は、そのような宗教を作った。
  当然、この事によって起きる戦いに、その相手の民族
 を「殺して奪え」とキリスト教の神は教えた。
  「(キリスト教の)神の義があれば、人を誅しても良
 い」と殺人を許容した。
  「○○人は全滅せよ」「△△人は男だけを殺せ」「生
 娘(きむすめ)は生かしておけ」「奴隷にせよ、奴隷に
 せよ」と、キリスト教の神は、好き勝手に、殺人許容を
 叫び、口走った。
  しかし、「この地」の、「この時」の、この宗教が伝
 播して行った。
  そして、この教義、この殺人許容のキリスト教の教義
 が、独り歩きをし始めた。
  愚かな事である。
  その時・その地より豊かな地、豊かな時にであるのに、
 欲ある者たちは、殺人許容のキリスト教教義を都合よく
 取り込んだ。
  豊かな地や豊かな時には、そぐわない「そのキリスト
 教の殺人許容教義」に洗脳され、
  マインド・コントロールされ、
  世界は、『奪い取りの地』となった。
  アメリカの新大陸では、何と、1000万人を越える先住
 民の方々・アメリカインディアンの方々が殺戮され、殺
 された。
  スペインのキリスト教徒と、キリスト教聖職者たちが、
 考えのおよばない様な多くの方々を殺した。
  キリスト教の大本が、現地のキリスト教聖職者の問い
 合わせに「(先住民の方々を)人間ではない」と言った。
  有色人種蔑視のキリスト教の教えから殺戮が始まった。
  先住民の方々は、キリスト教徒とキリスト教聖職者た
 ちの進んだ武器によって、50年近くもの長い長い期間に
 渡って殺され続けた。
  また、オーストラリアでは、イギリスによって、アボ
 リジニの方々が、さも、動物の狩りをするごとくに殺さ
 れた。
  「今日は○○人殺した」と記す日記も残されている。
  アメリカ・インディアンの方々も、アメリカ合衆国と
 カナダによって殺された。
  カナダでは、インディアンの方々の食べているバッフ
 ァローを殺して、インディアンの先住民の方々を餓死さ
 せた。
  アメリカもこの手を使った。
  バッファローを自分たちの食糧にする訳ではなく、先
 住民の方々の餓死の目的だけだった。
  殺したバッファローは、ただ、野に積み上げられた。
  バッファローの頭蓋骨が山の様になった。
  非人道的な行為をした。
  アメリカは、近代的な兵器を持った武力集団・騎兵隊
 によってインディアンの方々を殺戮し続けた。
  ハワイの先住民の方々も同じように殺戮した。
  フィリピンの方々も殺戮した。
  これらすべてを、ユネスコの世界記憶遺産に登録せよ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年10月18日火曜日

(増補版)438E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1886年12月)

題:(増補版)438E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1886年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年12月22日、小宮山桂介(天香)が、翻訳本の出版に
 際し版元の鳳文館館主との契約書に「一部拾銭」(印税
 の始まり)と記した。
  東京朝日新聞社の初代主筆を務めた小宮山桂介(こみや
 まけいすけ)(天香(てんこう))が、
  エルクマン・シャトリアンの『マダム・テレーズ』を
 『慨世史談・断蓬奇縁(だんほうきえん)』と改題して出
 版した際、
  鳳文館(ほうぶんかん)の前田円と出版契約を交わして
 決めたのが最初。
  翻訳出版の場合は、原作者と翻訳者への印税が合算さ
 れるため高率になる。[
1886年12月30日、水戸で大火(上市の大火)、焼失1800戸
  水戸は、江戸時代、徳川御三家の一つ水戸藩の城下町
 として栄え、
  台地に築かれた水戸城を中心に、武家屋敷が建ち並び、
 上市(うわいち)と呼ばれた。
  一方、それより東側の低地には、町人が住みついて職
 業ごとの城下町を形成し、
  街道沿いには、問屋街が出来て、市が立つなど、流通
 と軽工業で発展し、下(しも)市と呼ばれた。
  その下市が、1884年(明治17年)5月、1200余戸を焼失す
 るという大火に見舞われた。
  そして、その2年後の1886年のこの日、今度は、上市が
 大火に見舞われた。
  午後2時ごろ、信願寺町より出火し、泉町、五軒町、荒
 木町、藤坂町と、次々と灰にした炎は、
  瀧岡町、西町から仲町、鉄砲町と延焼、
  大坂町、備前町まで焼き進むなど、上市の8割を焼土と
 化した。
  焼失家屋1800余戸、
  上市には、官公署や学校、会社が集中していたので、
 甚大な損害となった。
  主な、焼失した施設は、電信分局、水戸警察署、陸軍
 駐在所、東茨城郡役所、大林区署、茨城県尋常師範学校
 (現・茨城大学教育学部)、上市戸長役場、上市東小学校、
 茨城日報社、第百四国立銀行(現・常陽銀行)、川崎銀行
 水戸支店など。
  火災後、当時の茨城県知事は、この大火を契機として
 とらえ、水戸市街地の街区を整備し、道路を拡大するな
 ど、近代的な都市づくりを行った。
  (出典:水戸市史編さん近現代専門部会編「水戸市史
  下巻 1」を抜粋、参考にした)
1886年12月、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、チャリ
 ネ曲馬団を舞踊化した「鳴響茶利音曲馬(なりひびくち
 ゃりねのきょくば)」を千歳座で初演した。
  別史料に:チャリネの人気を当込みに、十一月十六日
 より尾上菊五郎が東京千歳座で「鳴響茶利音曲馬」を上
 演した。
  別史料に:1886年(明治19年)11月16日、地域:東京、
 劇場:千歳座、外題:鳴響茶利音曲馬、音曲:義太夫と
 清元、芸種:歌舞伎・・とある。
  また、別史料に:1886年に、この公演に強い衝撃を受
 けた五代目尾上菊五郎は、『鳴響茶利音曲馬』という猛
 獣使いなどが登場する歌舞伎を上演している・・の記述
 あり。
1886年1月、イギリスが、ビルマを併合した。
  19世紀の初頭、ビルマ(現ミャンマー)は、清国を宗
 主国としていた。
  後に、イギリスの侵略を受けた。
  1824年に、ビルマ戦争が始まる。
  清国は、ビルマへの援軍を出し、ビルマ軍と共に、イ
 ギリスと戦うが・・敗れてしまう。
  この時は、領土の一部が奪われた。
  イギリスは、1852年に、領土がさらに欲しくなり、再
 び、侵略を開始した。
  ビルマは、再び、清国に援軍を要請するが、イギリス
 は、卑劣にもフランスを味方に引き入れ、天津の攻略な
 どを行って、清国をかく乱した。
  清国は、ビルマへの援軍どころではない状況になった。
  狡猾なイギリスのアジア侵略の行動だった。
  援軍が来たらず、ビルマは敗北し、国は無残な姿とな
 る。
  そして、1885年に、ビルマ国王のシーボウは降伏した。
  国王は、イギリスに幽閉されてしまった。
  そして、英清条約によって、清国とビルマの関係は切
 り離された。
  1886年、何と! ビルマは、イギリス領であったイン
 ドに併合される。
  ビルマという国はなくなされてしまった。
  イギリスは、武力にものを言わせて、やりたい放題だ
 った。
  歴史ある国・ビルマは、インドのある一つの州となっ
 てしまった。
  ビルマに暗黒の時代がおとずれた。
  公用語は、英語にされた(戦後、日本も、アメリカに
 英語にされそうになった・・が・・)
  そして、イギリスの差別行動が始まる。
  ビルマの民族衣装のロンジーは侮蔑される。
  ビルマの伝統的教育は停止される。
  そして、解体された(日本も、アメリカ占領軍にあら
 ゆる検閲を受ける・・)
  そして、ビルマは、ごく一部のビルマ人のみしか、教
 育を受けることができないという状況に強制的に置かれ
 た。
  あとのビルマ人は、白人の下働き、「よき下僕となる
 ことが良いのだ」とされた。
  今までにない、まったく差別される状況、差別の中に
 扱われるようになった。
  優越の中にイギリスは居た。
  イギリスの植民地支配は狡くて巧みだった。
  イギリス植民地のインドから、インド人労働者を大量
 にビルマに送り込んだ。
  そして、資本を投入した。
  資本的にも支配した。
  そして、ビルマ人の労働者も圧迫した。
  ビルマ人の方々は職にあぶれた。
  イギリスに仕向けられたインドの方々は、労働以外に
 も農業開発資金を貸し付ける金融業者として、
  あるいは、あらゆる商業経済に属するものへ、ビルマ
 の方々の経済を圧迫した。
  また、イギリスは、インド人とビルマ人を反目させた。
  その上にイギリス人が君臨するという形を作った。
  デバイド・アンド・ルールだった。
  (参考)デバイド・アンド・ルール:分断統治(ディ
    バイド・アンド・ルール)は、民族間を分断し、
    民族同士が力を結集しないように対立を作り出し、
    互いに争わせて、
    宗主国が統治しやすいように、
    宗主国への抵抗を和らげるための植民地支配政策
    だった。
  さらに、ビルマは、支那人の移住にも悩まされた。
  ビルマは、イギリス、インド、支那から二重三重に搾
 取されるようになった。
  この様な状況で、イギリスに支配されるビルマの方た
 ちは、どんどん無気力になって行った。
  1900年頃に至り、ビルマ独立運動を展開していたオッ
 タマ僧正がいた。
  当時のビルマの方々といえば、ビルマの港に、イギリ
 スの巨大なタンカーが停泊して、
  本来は、ビルマの方々のものであるべき石油が、どん
 どんイギリスに収奪されていくのを見ても、
  何らその行為を、収奪行為と感じなくなっていた。
  その様な無気力、無自覚となったビルマの方々に、転
 機が訪れた。
  それは、ボーア戦争(1899年~1902年)と日露戦争(
 1904年~1905年)だった。
  ボーア戦争は、南アフリカに移住したオランダ系農民
 が、原住民とともに、イギリスの統治に反抗して戦った
 戦争で、
  結果は、イギリスの勝利となったが、ビルマの方々へ
 大きな影響を与えた。
  また、日露戦争も、有色人種の日本人が、白人の大国・
 ロシアに勝利した戦争で、ビルマの方々へ勇気を与えた。
  ビルマの歴史家ティン・アウン博士は・・、
  「この頃に、ビルマの最初の映画館が出現したが、上
 映されたのはボーア戦争と日露戦争の記録映画であった。
  ビルマの観客は、スクリーンに写し出されたマフェキ
 ン(イギリス軍に包囲されたボーア人の町)のボーア人
 救出に安堵のため息をつき、
  また、日本軍の兵士が、鉄道で輸送されるロシアの軍
 隊を攻撃する場面に拍手を送った。
  その頃は、映画の検閲などもちろん無かったうえに、
 イギリスの役人たちは、ボーア人に対するイギリスの勝
 利を印象づける映画や、
  イギリスの同盟国(日英同盟)である日本が、ロシア
 に勝つ映画は、ビルマ人に見せても害はないと考えてい
 た」。
  独立運動を展開していたオッタマ僧正は、日露戦争の
 日本勝利に感激し、
  日本へ2回行き、その感激を「日本」という著書に表し
 た。
  そして、ビルマ国民の奮起を促した。
  「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中
 心にして、青年が団結して起ったからである。
  われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結、奮起す
 れば、必ず独立を勝ち取ることができる」
  「長年のイギリスの桎梏(しっこく、手かせ足かせ、
 自由を奪うもの)からのがれるには、日本を頼る以外に
 道はない」・・と語り、そして、記した。
  オッタマ僧正は、1939年(昭和14年)に亡くなったが、
 僧正のビルマ独立の悲願は、その約4年後に達成された。
  その契機となったのが、大東亜戦争(第二次世界大戦)
 だった。
  以下のURLを御覧ください。
 http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/08/post-2082.html
  尚:参考文献は・・、
 徳間書店「GHQ焚書図書開封2」西尾幹二(著)
 PHP「日本はどれほどいい国か」日下公人・高山正之(共著)
 PHP「ビルマ独立に命をかけた男たち」遠藤順子(著)
 転展社「世界から見た大東亜戦争」名越ニ荒之助(編)
 参考サイト:Wikipedia「ミャンマー」
.
  (今日の言葉)
.
  題:奥に居る策士は・・チャーチルか? 
    チャーチルとルーズベルトの二人は策謀する。
.
1943年11月28日、テヘラン会談(~12月1日)
  この時の写真に、ルーズヘルト・アメリカ大統領、チ
 ャーチル・イギリス首相、ソ連・スターリン議長が写っ
 ている。
  この時、この3人の連合国首脳によって、第二次世界大
 戦の戦争上の諸問題、そして、戦後処理について話し合
 われた・・が・・、
  この話し合いの前には、ルーズベルトとチャーチルの
 話し合いが行われていて、
  大筋は、実際は、この二人で話し合いで決まっていた。
  ある意味、この二人の会談・悪計で決まっていた。
  ソ連の対日参戦を確実にするために、ソ連のスターリ
 ンへ「さらなる手土産」が用意された。
  それは、ソ連のスターリンへ、「不凍港を持ったらど
 うだ?」と持ち掛け、
  ソ連が不凍港を持ちたいという弱点を突いて、その欲
 望に火を付けるという策だった。
  会談が進んで行って・・チャーチルは、話を、ソ連の
 広大な領土の話題へ持って行った・・その時に、この話
 は始まった。
  チャーチルは言った、「それほどの国なのだから、当
 然、不凍港を持つにあたいする」・・と・・、
  スターリンは、「それでは、極東に何らかのものを期
 待してよいのだろうか」・・と・・、
  スターリンは続けた・・、
  「ウラジオストク港は完全な不凍港でなく、また、対
 馬海峡を通じて、常に、日本に封じられる位置にある」
 ・・と、答えた。
  ルーズベルト・アメリカ大統領は、かねて、チャーチ
 ルと打ち合わせていた通り、ここで発言した・・、
  「大連を(ソ連が使える〉自由港にするというのはど
 うだろうか?」・・と・・、
  スターリンは言った・・「中国が嫌がるだろう」と、
  その言葉に、ルーズベルトは・・「国際的保証があれ
 ば、中国はむしろ乗り気だろう」と答えた。
  実は、ルーズベルトは、この日から3日前に、中国の国
 民政府・蒋介石と打ち合わせをしていて、
  中国が、アメリカの支援を欲しがっているのを知って、
 アメリカが、「中国の後ろ盾になる」ことを約束してい
 た。
  「旅順の米中共同管理」の希望を、蒋介石がアメリカ
 へ言い、
  蒋介石は、アメリカ軍の旅順駐留を望み、その様な形
 の「後ろ盾」が欲しいと言った。
  これに答えて、ルーズベルト・アメリカ大統領は、「
 共同管理する国際港」という言葉を使った。
  ソ連へのさらなる「対日参戦の餌(エサ)」は、この
 様にして、アメリカ大統領ルーズベルトによって作られ、
 撒かれた。
  そして、このテヘラン会談では、1944年6月のノルマン
 ディー上陸作戦の最終確認もなされた。
  (参考)策謀:さくぼう、はかりごとをめぐらすこと。
     たくらみ。策略。
  (参考)策士:さくし、好んで事をたくらむ人。
     因みに、今、イギリスで、策士・チャーチルの
    評価は落ちているとのこと。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年10月17日月曜日

(増補版)437E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1886年12月)

題:(増補版)437E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年12月~1886年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年12月1日、警備隊条例が公布され、対馬に警備隊が設
 置された。
  「警備隊条例」が公布されて、まず、対馬警備隊が設
 置され、
  そして、順次、小笠原、佐渡、隠岐、大島、沖縄に警
 備隊を設けて行った。
  警備隊区(けいびたいく)というものを設け、
  警備隊区は、大日本帝国陸軍の陸軍管区の一つで、主
 な離島防衛のため配置されたもので、対馬、小笠原、佐
 渡、隠岐、大島、五島、沖縄の警備隊管轄地(予定地)
 に設置した。
  対馬のみ、警備隊区司令部を有した。
1886年12月3日、日本の巡洋艦「畝傍(うねび)」が、フラ
 ンスで建造され、日本へ回航中、
  12月3日に、シンガポール港を出港して、まもなく消息
 を絶った(12月2日説あり)。
  この巡洋艦は、1883年度に、フランスへ発注された。
  この発注は、海軍卿・川村純義により出された軍艦船
 増強の建議により、中国との軋轢の中での防備での発注
 だった。
  1884年5月27日に、起工し、
  1886年10月18日に、就役した。
  そして、畝傍は、1886年(明治19年)10月19日に、フ
 ランス人艦長ルフェーブルの指揮下、北フランスのル・
 アーヴルから日本へ向けて出港した。
  しかし、寄港地シンガポールを出港後、南シナ海洋上
 で行方不明となった。
  消息を知る手がかりは全くなく、謎の消失となった。
  全乗客乗員計90名の消息は未だ不明。
  この原因として、艦の上部がトップ・ヘビーで、復元力
 が不足するという、フランス艦伝統の欠陥まで併せ持っ
 ていたとされている。
  さらに、三本マストに加え、過大な武装を搭載したた
 め、さらのトップ・ヘビーとなり、復元力不足がさらに
 増大していて、
  そのため、南シナ海で、設計の想定外である台風に遭
 遇し、転覆・沈没したのではないかとされている。
  また、急に舵を切ると、艦が大きく傾斜し、そこに横
 波を受けると復原力不足から一瞬に転覆するという危険
 性もあった。
  しかし、漂流物は何も見つからなかったため、清国に
 奪われたという説も出て来た。
  青山霊園に記念碑がある。
1886年12月3日、帝国陸軍が、対馬分遣隊を改編して、「対
 馬警備隊」を置いた。
  1903年(明治36年)4月14日、「対馬警備隊司令部条例」
 が制定され、司令部が、長崎県対馬国下県郡鶏知村に置
 かれた。
1886年12月3日、ピストル強盗が逮捕だれた。
  未明、東京市日本橋区馬喰町(現=東京都中央区日本
 橋馬喰町)の商家に、清水定吉が押し入り、短刀で脅し
 たが金を出さなかったので、ピストルを一発はなち、家
 人に負傷させ、金を奪って逃走した。
  目撃した車夫が、交番に知らせ、浜町(現=日本橋浜
 町)で不審尋問した巡査が逮捕した。
  1882年から、覆面をしてピストルを使用し、80件以上
 の犯行で5人を殺害していた。
  日本最初のピストル強盗。
  12月3日、4年間で5人を殺したピストル強盗清水定吉が
 逮捕された。後死刑。
1886年12月8日、ノルマントン号事件判決
  横浜英国領事裁判所が、ノルマントン号船長ドレイク
 に、禁固3ヶ月の判決を下した。
  これを受けて、日本国内世論は、猛烈な非難を浴びせ、
 条約改正の世論が高まった。
1886年12月11日、西村茂樹(にしむらしげき)が、日本道
 徳論を講じた。
  日本道徳論は、西村茂樹の著で、1887年に刊行してい
 る国家主義思想の書。
  国家の根本は、制度・法津よりも、国民の道徳観念に
 あるとし、
  西欧心酔の風潮に反対して、儒教道徳の興起をはかり、
 日本講道会(前身は東京修身学社。のちに日本弘道会と改
 称)を設立した。
  西村は、1886年12月11日、17日、26日の3日間にわたり、
 東京神田一ッ橋外の帝国大学講堂で、朝野の名士・公衆
 を集めて講演し、人心を戒めた(日本道徳論)。
  国民の品位・品質をつくるに必要な徳目として勤勉・節
 倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条をあげ、
  法や制度のみに基づくことのない国民像の指針を提示
 した。
  そして、これを、翌年・1887年4月に出版し、大臣以下
 諸知人に贈与した。
  文部大臣の森有礼(ありのり)はこれを読んで、大いに
 賛成した。
  しかし、総理大臣・伊藤博文(ひろぶみ)は、新政を誹
 謗(ひぼう)するものとして怒った。
  そして、文部大臣を詰責(きっせき)した。
  森は、秘書官をして新政に害あると思われる条々を摘
 出せしめ、西村(泊翁)に改刪(かいさん、文章の字句を
 削ったり、直したりすること)を求めた。
  泊翁は、むしろ絶版とするほうを選んだが、偽板をつ
 くって売る者がいたので、篇(へん)中の文字を改めて公
 刊した。
  これが、『日本道徳論』第2版。
  「皇室の尊栄を増し国民の幸福を長ぜんことは、道徳
 を棄(す)てゝは他に求むべき者なかるべし」という信念
 から説かれた。
1886年12月13日、帝国大学臨海実験所が設立された。
  神奈川県三浦郡三崎に、日本最初の臨海実験所が開設
 された。
  箕作佳吉(みつくりかきち、動物学者、理学博士、東
 京帝国大学理科大学・動物学教授)が、入船の幕府船番
 所跡の敷地に、木造の研究棟を立てたのが始まりで、
  基礎生物学の研究教育施設として、世界に先駆けて設
 立された。
  生物科学の研究教育において、数多くの業績を残し、
 現在も遺伝学、細胞生物学など様々な研究教育活動に活
 用されている。
  因みに、箕作氏は、「真珠王」こと御木本幸吉に対し
 て真珠の養殖が学理的に可能であると助言した。
  お蔭で、日本の外貨獲得に大いに貢献した。
  また、カキ養殖にも助言するなど、日本の水産事業に
 多大な貢献をした。
  華々しい栄典の栄誉の数々を受けている。
  1883年(明治16年)2月16日 - 正七位
  1886年(明治19年)7月8日 - 従六位
  1892年(明治25年)2月29日 - 正五位
  1894年(明治27年)12月26日 - 勲六等瑞宝章
  1896年(明治29年)7月10日 - 従五位
  1897年(明治30年)10月30日 - 正五位
  1899年(明治32年)6月24日 - 勲五等双光旭日章
  1900年(明治33年)12月20日 - 勲四等瑞宝章
  1901年(明治34年)3月20日 - 従四位
  1902年(明治35年)12月27日 - 勲三等瑞宝章
  1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等瑞宝章
  1906年(明治39年)5月11日 - 正四位
  1909年(明治42年)9月17日 - 従三位、旭日重光章
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカで・・ささやかれた話・・
.
1971年(昭和46年)3月26日、アンソニー・ヒルダーとルー
 ズベルトの娘婿のドール大佐とのやり取り
  ヒルダー:私は、丁度、1971年3月26日付のロサンゼル
 ス・ヘラルド・エキザミナーの「秘密報告」と題する記
 事を見ました。
  ジョン・チェンバレンは、そのコラムで、他の一人の
 CFRのメンバー、故トム・デューイ元ニューヨーク州
 知事、
  共和党から大統領候補として出たデューイは、パール・
 ハーバーの真相を知っていた・・と、書いています。
  この記事で、チェンバレンは、デューイ知事に個人的
 にインタビューしたと述べています。
  「1944年になってデューイは、『パールハーバーのし
 ばらく前、最高機密の日本の暗号が破られ、
  次の日に、太平洋の何処かで攻撃が始まることを、ホ
 ワイトハウスは、15時間以上前に知っていたことが分か
 った』と言っていた。
  正確な位置は指摘できなかったにしろ、太平洋のあら
 ゆる我々の基地は警報されるべきであったのです」
  (小生の評)戦争に関する太平洋の重要拠点と言えば、
 「パール・ハーバー」に決まっています。
  (参考)
  ロスアンゼルス・ヘラルド・エキザミナーは、ロスア
 ンゼルスの日刊紙で、月曜から金曜までは朝刊、土曜と
 日曜は夕刊が発刊された。
.
  そして、続きの (今日の言葉)
.
  題:戦争や革命の世界を揺るがす真実は、60年~70年を、
   経ないと真実は分からない・・、
.
  知識人は言う、「・・とくに戦争や革命と言った世界
 を揺るがすような大きな出来事は、最低でも60年~70年
 は経たないと、大きな『歴史の真実』を語る資料は出て
 来ない」・・と。
  また、「今日、アメリカやイギリスなど主要先進国で
 は、30年経ったら外交文書を公開することを原則として
 いる。
  だが、ここで出て来る文書の大半は『無難な』ものば
 かりである。
  それまでの歴史観を覆(くつがえ)すような重要な文
 書は、その後も隠され続ける」・・と。
  しかし、遅かれ早かれ、アメリカの嘘は、明るみに出
 される。
  しかし、何と、『100年間も秘密にすることにした文書』
 がある。
  アメリカやイギリスは、これはまずいと、100年間、秘
 密にしようと決めた「モンゴメリー報告書」がある。
  それは、連合国の秘密情報を扱った機関について記し
 たものであり、
  そして、それに関連した本が日本で出版されている。
  しかし、今、この本は「取り扱われていない」と表示
 されている。
  「この本は取り扱われていません」と表示され隠され
 ている。
  口封じになったその本は、「3603号室(1979年)(ハ
 ヤカワ文庫-NF)」である。
  著者がモンゴメリー・ハイド、赤羽竜夫訳、早川書房
 である。
  アマゾンは(商品切れ)の表示、楽天は(購入できな
 い商品)の表示となっている。
  因みに、3603号室は、連合国秘密情報機関の中枢だっ
 た部屋である。
  隠すべき「まずいことが書かれている」、だから、「
 隠す事にした」である。
  公表して良いものならどんどん公表されるだろうから
 ・・当たり前である。
  この本には・・、
  アメリカ・イギリスの連合国側が、日本を包囲網を構
 築して苦しめ、
  そして、『戦争に至らしめる』という方針のもとにや
 って来て、
  そして、その日本が、行動を起こしたという情報を、
 「細大漏らさず(一部始終、全部)知っていた」という
 事が記されている。
  公表されると「今までのストーリーが、すべて、『ば
 れるのでまずい』と、100年に秘密期間を延ばして、世界
 の人々から隠したのである。
  卑劣な事である。
.
  (追記):
  重要史料である「モンゴメリー・ハイド文書」など100
 年後の2041年まで秘密になっている。
  都合が悪いから秘密にする期間を延ばしたのだ。
  都合がよければ、逆に、どんどん公開するわけだ。
  また、モンゴメリー・ハイド著で、赤羽竜夫訳の本
 「3603号室(1979年)」は、どこの本屋さんも「お届け
 できない商品」の表示となっている。
  3603号室は「連合国秘密情報機関の中枢」とのこと。
..
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2016年10月16日日曜日

(増補版)436E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年11月~1886年12月)

題:(増補版)436E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1886年11月~1886年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1886年11月30日、陸軍少将:乃木希典(38歳)と、陸軍少将:
 川上操六が、ドイツ留学を命じられた(満一年の予定)
  乃木希典(のぎまれすけ)は、長州藩士・陸軍大将・伯爵。
  吉田松陰に心服し、伯父・玉木文之進の門に入る。
  ドイツに留学し軍制・戦術を研究した。
  台湾総督を経て、日露戦争には、第三軍司令官として
 旅順攻略を指揮した。
  戦後、軍事参議官・学習院院長となる。
  1912年(大正元年)、明治天皇陛下の御大葬の当日に、
 妻と共に殉死した、64歳。
  川上操六(かわかみそうろく)は、陸軍軍人で、近代
 的戦略を導入した。
  薩摩藩洋式兵分隊隊長として、鳥羽・伏見の戦い、戊
 辰 (ぼしん) 戦争に従軍。
  1871年(明治4年) 陸軍中尉となり、
  1877年、西南戦争に官軍側で従軍。
  1884年、大山巌陸軍卿に随行してヨーロッパ、アメリ
 カの兵制を視察し、
  1887年、ドイツに留学。
1886年11月、東京・日本橋小網町に、東京での初めてのコ
 ーヒー店「洗愁亭」が開店した。
  日本にコーヒーが伝来したのは、江戸時代の徳川綱吉
 の頃、長崎の出島で、オランダ人に振舞われたのが最初。
  大田南畝(おおたなんぽ、文人、狂歌師)の『瓊浦又
 綴(けいほゆうてつ、随筆)』には、コーヒーを飲んだ
 体験が書かれている。
  これが、日本でもっとも初期のころのコーヒー飲用記
 であるが、「焦げ臭くして味ふるに堪えず」とあり、日
 本人の味覚には合わず受け入れられなかったことが記さ
 れている。
  その後に、黒船来航と共に西洋文化が入って来て、長
 崎、函館、横浜などの開港地を中心として、西洋料理店
 が開店するようになったが、
  そのメニューの一部として、コーヒーが一般庶民の目
 に触れるようになった。
  1866年(慶応2年)に、輸入関税が決定され、正式にコ
 ーヒーが輸入された。
  1877年(明治10年)頃になる、とコーヒーを商品とし
 て取り扱う地盤が出来上がり、
  下岡蓮杖(しもおかれんじょう、写真家、画家)が、
 浅草寺境内に開設した「油絵茶屋」(1876年)をはじめ、
  神戸元町の「放香堂」(1874年(明治7年)開店-創業
 は天保年間・現在も神戸市中央区元町通りに現存)、
  東京日本橋の「洗愁亭」(1886年(明治19年)開店)
 などの店でコーヒーが扱われた。
1886年11月、旭玉山、石川光明、高村光雲らが、第1回彫
 刻協議会を開催した。
  旭玉山:あさひぎょくざん、彫刻家で、象牙(ぞうげ)
 彫刻を学び、
  1877年(明治10年)第1回内国勧業博覧会出品の「髑髏
 (どくろ)」で最高賞の竜紋賞を受賞した。
  1881年(明治14年)に、石川光明(こうめい)らと彫刻
 競技会(のちの東京彫工会)を結成した。
  東京美術学校(現東京芸大)教授、帝室技芸員。
  石川光明:いしかわこうめい、彫刻家で、家業は代々
 宮彫師。
  幼時、狩野素川に日本画を、根付師・菊川正光に牙角
 彫刻を学び、無類の巧技を示した。
  1881年、第2回内国勧業博覧会で妙技2等賞を受け、
  1890年、第3回同博覧会審査官、帝室技芸員となる。
  高村光雲:たかむらこううん、彫刻家で、高村光太郎
 の父。
  仏師・高村東雲に師事(門人)で、その姉の養子とな
 り、高村姓を継いだ。
  1889年~1926年、東京美術学校木彫科教授となり多く
 の後進を育成した。
  西洋彫刻の写実性を取り入れ、伝統的木彫の近代化、
 彫刻の近代化に尽した。
  帝室技芸員会員・帝国美術院会員。
1886年11月、愛知紡績所を篠田直方に払下げた。
  愛知紡績所は、明治政府が設立した日本で最初の綿糸
 紡績所で、
  遅れていた西洋式紡績業の奨励を図るために、民間の
 模範工場として建てられた。
  愛知と広島の二か所に建設された。
  明治時代前期に愛知県額田郡(現:岡崎市)男川村に存
 在した官営模範工場。
  全国で唯一の官営紡績工場として(広島は、開業前に
 民間払下げになった)紡績技術者の養成などで、指導的
 な役割を果たしていくことになった。
  工場の動力として水車が使われ、イギリスから輸入し
 たミュール精紡機など西洋紡績機械により綿糸を生産し
 た。
  開業直後は、72人の従業員がいたが、その後、
  1886年(明治15年)に民間に払い下げられ、
  1896年(明治29年)に、火災によって建物の大半を失
 い消滅した。
  篠田 直方(しのだ なおかた、1825年~1898年)は、
 三河国加茂郡宮口村(現愛知県豊田市)出身の政治家・
 実業家。
  西大平藩郡代の養子となり、代官・郡代・郡代兼用人・
 陣屋代官を歴任した。
  額田県大属租税課次席を最後に下野し、官営愛知紡績
 所の払い下げを受け、同所経営者に転じた。
1886年11月、東京棉社が設立された(鐘紡の前身)
  東京の繰綿問屋5店は、1886年に、東京綿商社の設立を
 決議し、
  翌年・1887年、認可され、隅田川の鐘淵に紡績所を建
 設した。
  1888年、鐘淵紡績会社となる(渋沢栄一は顧問)。
  苦境期に三井の支援を受け、多くの紡績会社を吸収し、
 重化学工業へも進出。
  繊維以外の事業を行なっていた鐘淵実業と、1944年に
 合併し、鐘淵工業(株)が発足した。
  第二次大戦後は、繊維事業中心に転換し、
  1946年に、鐘淵紡績(株)と社名復帰し、化粧品・食品
 等の事業にも次々進出、
  1971年、鐘紡(株)となる。
  (渋沢社史データーベースを参考にした)
1886年12月1日、日本鉄道によって那須(現:西那須野)~
 黒磯間の鉄道が開業した。
  この時点では、駅は未設置だった。
  東那須野駅が開業したのが1898年11月28日。
  そして、1906年11月1日に、日本鉄道が国有化され、官
 設鉄道となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今・現在の日本政府も・・満州事変の頃と同じようにする・・
   中国に対し、言うべきことを言わずに、「日中友好」が優先
   言う事を言わないで、何が、日中友好だ・・??
.
2002年5月8日、瀋陽総領事館北朝鮮人亡命者駆け込み事件
  中華人民共和国の瀋陽市(しんようし)に置かれてい
 る日本国総領事館に
  朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)からの亡命者(金
 高哲一家など5人)が救助を求め、駆け込んだ事件。
  小泉純一郎首相(自由民主党)の時である・・、
  中国の瀋陽にある日本の瀋陽総領事館に、北朝鮮から
 逃げて来た人(脱北者)が、助けを求めて逃げ込んだ。
  しかし、日本の領域とされる総領事館に、中国の武装
 した警察官(中国人民武装警察部隊)が無断で踏み込ん
 だ。
  完全なる日本の主権の「中国による侵害」である。
  『日本の領事館内に踏み込めない』などという事は、
 初級の知識であって、この中国の警察官たちは知ってい
 る訳だが・・、
  つまり、確信犯的に「法を犯した」のだった。
  まったく日本は、馬鹿にされている状況だった。
  この逆の事が、もし日本で起きたら戦争にまでなりか
 ねない重大な国家の主権侵害なのだ。
  しかし、何と、悲しい事であるか、日本の領事官が、
 その北朝鮮からの助けを求めてきた人を、中国側へ渡し
 たのである。
  日本という国家の主権を背に、業務をしている外交官
 として「まったくの失格行為」だった。
  当然、問題は起こり、日本は中国に謝罪を求めた。
  しかし、当然の様に、悪い中国であるはずだが、中国
 は謝罪をしなかった。
  (日本は慰安婦問題で謝罪ばかりしているが・・??)
  日本は、まったく馬鹿にされていた。
  日本の国会議員たちが調査に行った。
  そして、どの様に中国から言いくるめられたのか・・
 この国会議員らは、逆に、日本政府を攻撃した。
  『何たる国会議員なのか?』と言いたい。
  日本は、何も知らない所で、降って湧(わ)いたよう
 な話が、湧いただけの話なわけなのだが、日本に謝罪し
 ろと中国は言った。
  日本は何をしたというのか?
  日本の何が悪いと言うのか?
  それも、中国側が、屁理屈を言うだけではなく、日本
 の常識を持った日本の国会議員たちが、日本の国会で、
 同じ様に発言して、日本の政府を攻撃をしているのであ
 る。
  まったく、中国の代弁者のごとくである・・、
  まったくの体たらくの行動を、議員活動をしているの
 である。
  諸外国に対して恥ずかしい限りである。
  この政党は、本には「民主党」と出ている。
  この史実は、この後、消えることなく書き留められ、
  「民主党の国会議員へ、正義が問われる」ことになる。
  卑劣な国会議員である。
  この様な議員へ、国民の税金が消費される事に憤りを
 覚える。
  教科書にしっかり書き記すことが大切だ。
  以後、しっかり語り継いでいくべき事項である。
  日本国民は、民主党が思うほど「忘れっぽくない」の
 である。
  民主党は、安易な「利敵行為はしないこと!」。
  民主党は、誠実に政治に取り組め。
  (注)この事件の一切が撮影されたビデオが公表され
    た。
     驚くべきことに、日本の副領事・宮下謙は、こ
    の時、対応に出て、「亡命者の取り押さえ行為」
    に抗議をせず、当然すべき日本大使館員としての
    行為をしなかった、怠った「失格外交官」だった。
     また、さらに、「敷地内への立ち入り」への抗
    議もしないという最悪の外交官だった。
     さらに、脱げて落ちた武装警官の帽子を拾って
    あげるという、何と表現したらよいか迷うほどの
    日本の恥行為を行なった。
     いつもの様に、中国のその後の言い分は、「同
    意を必要としないで良い場合もある」という言い
    方だった・・が、その言い方から・・、
     「同意は存在している」に言い方を変えた。
     満州事変の頃の日本政府と同様、「中国との友
    好」が優先した「外務省のその後の対応」が続い
    た。
     何たることか・・??
     そして、その後の中国は、「事件が再発しない
    様に・・」との言い方で、
     日本の領事館などの周りを、中国人民解放軍で
    厳重警備し、また、壁や堀を構築するなどしてい
    る。
.
  そして、次の話
.
2002年5月14日、外務省の管轄の中国駐在の日本大使が、酷
 い指示を出していると、共同通信社が伝えた。
  北朝鮮「亡命者は追い出せ」 阿南駐中国大使が指示
  【北京14日共同】
  阿南惟茂・駐中国大使が、8日午前10時(日本時間同11
 時)から開かれた北京・日本大使館の定例全体会議で、
 職員全員に対し、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)か
 ら脱出した住民が、日本大使館に入って来た場合は「不
 審者とみなして追い出せ」と指示をしていたことが14日、
 明らかになった。
  複数の同大使館関係者が明らかにした。
  この指示の約4時間後に瀋陽の亡命者連行事件が発生し
 た。
  事件では、中国の武装警察官に北朝鮮住民5人を連行さ
 れてしまった日本総領事館の対応が問題となっているが、
  阿南大使の指示は、人道問題として日本だけでなく国
 際社会でも大きな波紋を広げるのは必至だ。
  また、事件前に、北京の大使館から瀋陽総領事館に「
 駆け込みに気を付けるよう」指示したことが明らかにな
 っているが、
  この際「追い出せ」との内容が含まれていたかどうか
 が今後、焦点になりそうだ。
  日本政府は、原則として政治亡命を受け入れない立場
 だが、
  阿南大使の発言が個人的な判断からなのか、外務省の
 指示に基づくのかが重要なポイントだ。
  阿南大使は、共同通信の取材に対し「(館内に)入っ
 てしまったら人道的観点からもきちっと対応しなさいと
 言った」と述べ、
  「追い出せ」と指示したかどうかは直接答えなかった。
  阿南大使は、会議の席上、北京で外国大使館などへの
 北朝鮮住民の駆け込み事件が頻発していることに関連し
 「大使館内に入ってくれば、不審者とみなして追い出せ。
  人道的な面で問題になれば、わたしが責任を取る。
  入ってきて、面倒なことになるくらいなら追い出した
 方がよい」と指示したという。
  日本大使館では、毎週水曜日に全体会議を開いている。
  阿南大使は、別に行われた幹部会議でも同様の指示を
 したという。
  北京の各国大使館では、北朝鮮住民駆け込みへの警備
 を強化する一方、
  大使館内に入った場合は、中国側に引き渡したり、追
 い出したりせず、
  第三国へ移送するなど人道的な措置をとっている。
  これが定着してきただけに、阿南大使の発言が問題化
 するのは必至だ。(了)
  (注)阿南大使は、中国に駐在している日本の大使で
    ある。
     あまりに酷いことをしているので確認のために
    (注)を書いた。
     記者の問いに、「追い出せとは指示してない」
    と、確実にその問いに答えられないという事は、
    「追い出せと、阿南大使が指示した」ということ
    である。
     酷い日本の阿南惟茂・駐中国大使である。
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