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2014年9月27日土曜日

目を覚(さ)まして下さい。

 題:目を覚(さ)まして下さい。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
...
 キリスト教の教え:『キリスト教における死について』
の文・・
((これは、死を讃美するという、害ある文です。
また、自死(じし)の勧(すす)め的な文でもあります。
注意してお読みください)):
 「キリスト教聖書は、死を勝利ととらえ、楽観的にとら
える。決定的勝利だと、キリスト教では、死を勝利として
位置づける。すなわち、死は、人間から力を奪い取り、す
べての力を無にしてしまう神の勝利なのだ。そして、すべ
ての事柄は死から始まる。それが聖書の示す死である。キ
リスト教においては、死からすべてが始まる。「死から生
へ」という力が働くという死生観に立つ。クリスチャンは
決して死なない。聖書が告げる死、それは、完全なる死で
あり、全存在的な死である。キリスト教信仰がとらえる死
は、神によって与えられた統合された一人の人格が、肉体
も霊魂も含めて完全に死に絶える事、一切の被造性が破壊
されて、神によってすべてが救い上げられる事なのである。
すべてが神の支配の中に置かれる。我々に命を与える神は、
死をも、暗闇をも支配し、決定的な勝利を告げるのである、
死を支配し、死に勝利される神が、同時に死だけではなく
我々の生をも支配されるのである」・・と。
 上記の文を理解できましたか? 分かりましたか? 
 ただ、ただ、キリスト教は、理由を説明せず、勝手な押
し付けで、上記のような事々を、押し付けるという宗教。
 そして、洗脳され、マインド・コントロールされる。
 マインド・コントロールされたら、分からなくなる、
判断できなくなる。恐ろしいことです。
 江戸時代、徳川幕府は、キリスト教のプロパガンダ(嘘
宣伝)で、大変、酷(ひど)い事をした様に、受け取られ
ていますが、
 本当は、温厚な日本人なのです。
 捕えるにしても、穏便(おんびん)に、穏便(おんびん)
に・・という幕府の思いがあったのです。
 この様な所が伝えられずに、ヨーロッパの様な、酷(む
ご)いやり方の様に、印象付けられ、そして、ヨーロッパ
の様な事々が、日本でも、行なわれたのだろうと思い込ま
され、そして、その先入観と、錯覚で・・、
 そして、キリスト教によるデッチ上げで、作り上げられ
ている。
 悲惨であれば、あるほど、キリスト教にとって都合が良
いのだ。
 幕府は、本人で無くても、家族や知人でも、「止めると
の意思表示さえあれば、許した」のだ。
 また、たとえ捕えられても、刑場の柵の一部は開けてあ
り、逃げたければ逃げられるという、『逃げる事は自由』
となっていた。日本人は、優(やさ)しい民族なのです。
 取り締まりが厳しかったのは、ほんの一時(いっとき)
で、ヨーロッパの様に、何百年も、じわじわと陰湿に、民
衆の方々をいじめ抜くという様な事は、日本はやっていま
せん、やって無い。やっても、上記の様な、穏便なやり方
なのです。
 そして、すぐに幕府は、キリスト教の信仰は、『黙認の
態度』になっています。キリスト教は、嘘ばかりプロパガ
ンダします。キリスト教に偏するNHKも注意を要します。
 江戸時代、その取り締まりをやっていた一時期(いちじ
き)、その様な取り締まりの状況の中で・・、
 キリスト教宣教師たちは、『殉教』を美しいものと洗脳
しました。卑劣な洗脳です。
 日本には、まったく無かった『殉教は美しいのだ』の考
え方を洗脳しました。卑劣なやり方です、宗教です、死を
信徒の方々に強要したのです。
 だから、キリスト教の信徒の方から、子供を連れて出頭
して来る人も居たくらいでした。
 そこに、死を美化するキリスト教の教義があった。
 上記の文が、その一つです、一端です。
 卑劣なキリスト教の教えです。
 「キリスト教は死を勝利ととらえ、楽観的にとらえる」
と言っていますが、これは実体とは、まったく違います。
 ニュース番組で、アメリカの要人(ようじん、要職にあ
る人)の葬儀の模様を見ましたが、報道していましたが、
 墓に棺(かん)を納める時、家族は、皆、泣いていた。
 日本と全く同じ、その要人の死を悼(いた)んで、悲し
みにくれて、泣いていました。
 楽観的などと・・よくも他人事のように言うものだと、
キリスト教の教義を・・軽蔑します。
 この様に、キリスト教国の人々が、悲しみ泣く状況は、
よく目にします。
 「キリスト教は、決定的勝利だと、死を勝利として位置
付ける」は、呆(あき)れるほどの・・嘘(うそ)です、
 よくもこんなウソを公言するものだと、改めてキリスト
教を軽蔑します。
 だから、上記の文は空理空論です。
 読むに価(あたい)しない。信仰するに価しません。
 こんな論理に洗脳されて、マインド・コントロールされ
て、不幸にならないこと、洗脳されない事、しない事。
 愛するお母さんが・・、御両親が・・亡くなられたら・
・、大いに涙を流して・・悲しんで下さい・・、悲しんで
差し上げて・・下さい。
 下手(へた)に・・我慢すると・・きっと、後(あと)
で・・心が・・壊(こわ)れます。
 後で、大きな負担が、心にやってきます。
 キリスト教は、ひどいことを・・悪の教えを・・広めて
います。
 『完全なる死だ』なんて、勝手に言いつのっているだけ
です・・。目を覚(さ)まして下さい。
..
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人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。

 題:人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在している。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地・砂漠は・・、
 動物の死体は、骨だけになって残る・・、
 そしてまた、
 僅(わず)かにあっただろう草木は・・枯れ、
 そして、風に吹かれ、
 砂漠の砂と共に・・何処かに・・吹かれ、
 砂漠の砂と共に・・何処かへ・・、
 消えていく・・、
 痕跡もない・・、跡かたもない。
 そこへ行くと・・、
 朽ちて倒れた草木が・・、また、草木に限らず動物も、
 朽ちても土に還(かえ)り・・、
 また、新しい芽吹きを得る。
 新しい命の誕生が、そこここに・・見られる。
 新しい命の芽吹き、新しい命の復活が・・、
 そこここに・・見られる。
 これが宗教観の違いに・・大きく関(かか)わる。
 豊かな・・そこここの・・新しい命の芽吹きに・・、
 新しい命の誕生に・・感謝する。
 豊かな自然の営みに、命の誕生の神秘と・・力に、
 そこここの神や仏のおわします姿に感謝し、礼拝する。
 その様な地に・・生まれ・・そして、育まれたのが仏教・・、
 そして・・、
 佛教の本を読むと、
 本当に・・実に数多くの人々が「釈尊の所へ、教えを乞
おうと、はせ参じ、仏法の教えに接し、そして・・、
 真理を会得して、そのまま釈尊に帰依した」という記述
が・・、
 実に多い・・。
 キリスト教のイエスにおいて、その様な話は、一つもな
い。
.
 そして、次の話。
.
 キリスト教聖職者の司祭の森一弘氏は・・、
 修道会に入って一生懸命努力して居ても、壁の存在を常
に感じていたと言う。
 無味乾燥な感じもし、悶々(もんもん)としていたと言
う。
 キリスト教徒で・・『頑張るな』と言っている鎌田實氏
なら、
 ここで「そんなに頑張るなよ」って言うだろうが・・、
(実は、鎌田實氏は、非常に頑張って『頑張るな』とあち
こちで言っている、テレビやラジオの出演や、雑誌などマ
スコミに頑張って多く関わっている、また、この鎌田氏の
出演活動などを支えているのは、鎌田氏のスタッフの方々
が、鎌田氏が不在でも、頑張って支えて居られるからなの
だ。何しろ、頑張って社会に貢献することが、大切なのだ)
 また、『頑張るな』のキャンペーンをするキリスト教も
「そんなに頑張るな」って、頑張る森氏へ言うだろうが・・、
 そして、森氏は、イエスではなく「マリアの夢」を見て
何かふっ切れたと言う。
 イエスでなくて良いのかどうか? 分からないが、
 また、三位一体の神でなくて、いいのかどうか? 分か
らないが・・、
 森氏は、ここで、神に委(ゆだ)ねて、生きようと思っ
たと言う。
 マザーテレサさんは、正直な人で、死ぬまで、とうとう
『(キリスト教の)神は不存在だった』と悩んだ。
 そして、とうとう、(キリスト教の)神は出て来なかっ
たという人生を送った方。
 キリスト教の神の不存在の悩みの中の人生だった。
 森氏が言うような、神に委(ゆだ)ねて生きると言った
って無責任な生き方だ。誠実な生き方ではない。最後まで
神が出ない場合もあるのだ。
 マザーテレサさんの様に、神は居ないと正直に悩みなが
らも、インドの可哀想な方々を救う仕事を、一生懸命、正
直に、そして、努力し、頑張って努めた方が、美しく見え
る。
 悩まなければならない神なのである。
 居るか? 居ないか? 分からない、そんな、あやふや
な事に委(ゆだ)ねて・・、
 自分は、何ら、アクションを、『しないという人生』『
生き方』。
 しかし、マザーテレサさんが居ないと悩んだ神が、夢の
中か、『幻聴』か、『幻視』かは知らないが、出て来たと
森氏は言い・・そして、決断したというが・・、
 そうだとしても・・、何らかの方向へ行動を起こしたと
しても・・、それを神の示唆だと思うのか?
 自分の意思が、自分の背中を押したと思わないのか?
 深層心理の自分の意思が・・ふわっと浮かび上がったと
思わないのか?
 深く思っていた、深い自分の決断が・・決定した瞬間だ
ったのだ。
 人間は、生活して行くにおいて、びっくりするほど、ま
た、自分で認識できないほど数多くの決断を、自分でして
いるのだ。
 そこに「神が介在していると思っている自分が居る」の
だ。
 その決断を、しっかりしたいと願い、思う、自分も居る
のだ。
 何もしないで「ぼけっと」した人間は、「ぼけっと」終
わってしまうだろうが、それはそれなりに、自分がする決
断の連続の中に存在しているのだ。大きな決断、小さな決
断、決断に見えない決断、などなど・・。
 キリスト教の、ただただ神を待て、神にゆだねろは、『
悪の教え』だ、人間を破滅に導き・・破壊する。
 この無気力さは・・心も破壊する、悪の教えなのだ。
 人間は、無限の自分の自己決定・決断の中で存在してい
る。そして、頑張り社会を支えるが正しいのです。
..
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人間が・・神になってしまうのです・・、

 題:人間が・・神になってしまうのです・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教聖職者が・・言う・・、
 「キリスト教聖書で言っている様に、キリスト教の神が、
人間を創ったという創造主と・・被造物という人間との・・、
神と人間との間に『上下関係』がある」・・と。
 また、聖職者が・・言う、
 「キリスト教の神は、人間に、『自然を従えよ』と言っ
た。ここに、人間と自然の間に『上下関係』がある」と。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が・・言う、
 「キリスト教は、神・人間・自然を・・、『上下関係』
として捉(とら)えています」・・と。
 そして、「『創られたもの』としての人間は、決して、
『創ったもの』になることは出来ないのです」・・と。
 ここで、はっきりしたいのが・・「自然」である。
 このキリスト教の神の言う『自然』は・・、「地球の自
然を言っているからである」。
 当然、地球外のものも自然なのだが・・、
 地球以外のものも・・自然だとして捉えると、キリスト
教によくある「矛盾」が生じるのである。
 つまり、『宇宙すべての自然を従える人間』となってし
まう。
 宇宙すべての自然を従える人間となると・・、
 「人間が・・神になってしまう」。
 キリスト教の神は、『人間は神になれない』と言ってい
る。
 ここに・・矛盾が「発生している」。
 キリスト教は、「キリスト教の神が、宇宙を創造した」
と言うが・・、しかし、しかし、なのである。
 そのキリスト教の教義は、地球の中で成り立つ思考の教
義となっている。
 その自然が・・、人間が従えるその自然が・・、
 宇宙のすべてを含んだ自然だと考えると・・、
 その自然たる宇宙を従えた人間は、キリスト教の神と
『同一の神』となってしまう。
 この様な矛盾は、キリスト教には一杯あるが・・、これ
は、『基本中の基本』の大問題である。
 キリスト教の神が言っている事は、この様な事になって
いるのである。
 現代の科学は言う、「太陽は、膨張しています」・・と。
 その時まで、人類は存続できないのだが・・、例え・・、
キリスト教が言うように、人類が・・存続できたとしても
・・、
 人間は・・地球もろとも太陽に飲み込まれ・・吸い込ま
れ・・、
 人間が、『宇宙全体の自然を、従えるような事など、到
底(とうてい)、出来ない』のである。
 明らかに、キリスト教の教義・考え方は、『間違ってい
る』のである。間違った考え方で、正しい判断なんて、で
きないのである。そうだと不幸が訪れてしまいます。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
 「人間は、徹底的に、人間でしかあり得ないのである」
・・と。
 「だから、そこに、キリスト教は、人間の平等を説いて
いる」・・と。
 この言い方は、拡大解釈、極まりない言い方である。
 キリスト教は、序列、極まりない宗教である。
 神の下に・・聖職者を置き、頂点にいる神の意志を、そ
の下の聖職者が聞き、その聖職者の下にいるキリスト教の
信徒へ、上意下達するのだというキリスト教の考え方・教
義、キリスト教のヒエラルキーの序列の世界・・、
 その聖職者だって・・身分、階級が・・細かく上下関係
がなされていて・・、中には足の引っ張り合いをしていて、
エルサレムでは聖職者が乱闘している。
 また、天使だって「大天使だ」、何々天使だと序列だら
け。
 キリスト教は、何処にも、平等や平等観なんて無い宗教。
 序列の宗教、階級の宗教なのだ。有色人種は、劣等だと
年がら年中、言っていた宗教。
 話を捻じ曲げ、作り出して嘘を言う聖職者たち。
 そんな姿の中で・・宗教が成り立っている。
 そしてまた、キリスト教の聖職者が、言う・・、
 「神に支配されているという意識を持つと、人間が、人
間を支配しようという考え・意識はなくなる」・・と。
 これは自分に都合のよい話へ、合理性なく、論理性なく、
引き込んでいる。
 これはまた、キリスト教聖職者の序列の一つを見たって
・・おかしいと思う。
 キリスト教の神を説くキリスト教の聖職者の世界が、何
故、あの様な序列・ヒエラルキーの世界になって居るのか?
 また、神の使いの天使の世界も・・序列だらけだが、こ
んな事は言えたもんではない。
 キリスト教の神は、隣国の富を奪いに攻め込ませて・・、
 「奴隷にせよ」「奴隷にせよ」と叫ぶ、
 キリスト教の神が率先して、人間を、人間以下にする「
奴隷にしろ」と言っているではないか? 差別しているで
はないか?
 キリスト教の神が、率先して、人間を人間以下にする卑
劣な事をしているではないか? 差別観を植え付けている
ではないか?
 キリスト教は言う、「神の人間支配は良いが、人間が人
間を支配すると、危険をまき起こし不幸になる」・・と。
 そして、キリスト教は、この事例として「ヒットラーや
ムッソリーニや日本の戦時体制」を言う。
 これは、第二次大戦の不幸な時代をわざわざ持ち出して、
キリスト教の神を美化しているに過ぎない。
 この様な不幸な人間関係の時もあったろうが・・、キリ
スト教の例にした事例が悪いだけ、不幸な人間関係は一杯
ある。ドイツのヒットラーは、キリスト教に被(かぶ)れ
て、ユダヤの方々に大変酷(むご)いことをした。
 キリスト教の論理展開は、何か素直ではない。
 ひねくれた論理展開だ。
 ただ、キリスト教の神を、美化したい論理へ持ち込みた
いだけだとしか見えない。
 お母さんが、愛情溢れた目で見て、子供を導く姿は、微
笑(ほほえ)ましい姿に見えます。
 導く、そして、導かれるという関係です。
 時には、厳しく言う時もあるでしょう。
 キリスト教の仕方はこれでない、そして、見方は、短絡
的で狭いです。
 キリスト教は、どうしても、論理が正しく正常に組み立
てられない宗教。どうしようもない宗教。
 そして、直しようもない宗教です、関(かか)わってて、
このどうしようもないところに陥(おちい)って、
 解決しない・・どうしようもない・・この事に、あなた
の大切なものが、失われていくことになります。
 あなた方を救い出したいので、この様な事を書かせて戴
きました。
 ..
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2014年9月26日金曜日

本当に聞けるなら・・キリスト教の神から聞いて、知ってて下さい。

 題:本当に聞けるなら・・キリスト教の神から聞いて、知ってて下さい。
 ...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
 .
  キリスト教の神の下に・・キリスト教聖職者が居る・・、
  キリスト教の聖職者は、お手盛りで、その地位を、立場
 を・・作っている。
  そして、キリスト教聖職者の下に置かれた「キリスト教
 の信徒」の方々・・、
  その信徒の方々へ、キリスト教聖職者が、キリスト教の
 神の意思を伝えるという組織・序列・ヒエラルキーが、キ
 リスト教の立場の・・関係図・・、
  そして、キリスト教の神は、何でも知っていて、何でも
 できる・・としている。
  だから逆に・・人間は、何にもできないし、そんな状態
 ではないのだと・・、キリスト教はしている。
  因(ちな)みに、キリスト教聖職者は人間で、半分、神
 だとかではなく、やはり人間で、何にも知らないし、何も
 できないという人間で、その範囲では、信徒と同じ類いと
 している・・
  その様な立場の・・キリスト教聖職者が言う・・何でも
 知っている神の様に・・、
  「人間は、キリスト教の神の様に無から有を生み出すこ
 とはできない」・・と・・、
  そして、キリスト教聖職者は、色々と神の代弁者だとし
 て、話す・・が・・、
  神の代弁者として・・話すが(神の下に居る者だとして)
 ・・、だが・・、
  結局は、人間として知り得たこと・・のみ・・を・・、
  人間として・・感覚で感じたことを・・その人間として
 得たことを材料にして話すという・・人間の類い・・とな
 っている。
  そして、この人間として感じたこと、このキリスト教聖
 職者は、自分の五感で感じられた事が『正しい」として、
 古代にキリスト教が出来た時には無かった、この今・現代
 のキリスト教聖職者の独自の、また、現代に生きている事
 によって知り得た知識も神のものとして、自分で作って出
 来た自分のキリスト教を宣(のたまう)。
  「人間は無から有は創り出せない」・・と・・、
  ならば・・、その「無」なのだが・・、
  まず、「無」の世界は・・存在しないと現代科学は示唆
 する・・のです。
  人間の・・キリスト教聖職者は、その様に感じて、神の
 代弁者だ・・神の意志だ・・として、そう言うが・・、
  1例として、物質を例にすると・・、
  今、最先端の現代科学は・・、人間に認識できる物質は、
 何と・・3割なのだと言う。
  人間の・・キリスト教の聖職者の方々は、その様な事を、
 キリスト教の神から聞いていましたか? 聞いていなかっ
 たでしょう・・、驚かれたでしょうと、言いたい・・です
  実に、7割という多くの物質が、このキリスト教聖職者も
 含めて・・認識できないのです。
  キリスト教聖職者は感覚で思ったことを言いますが、人
 間は、物質に取り囲まれて、その物質のすべてが認識でき
 て居ると思って居るのは・・錯覚なのです。
  「ない」と思っているものが・・「ある」のです。
  無だ、有だ・・というのは、言葉の遊びになっているの
 です・・、
  『認識できない世界』の・・物質だけでもこの始末、
  すべて分かった様な口を聞くキリスト教聖職者という図
 となっています。
  この様な、狭い領域だけでも、分かった様な事を言って、
 キリスト教徒の方々を繰(く)る操(あやつ)るキリスト
 教聖職者・・
  まったく無責任、極(きわ)まる結果になっていると思
 います。
  こんなキリスト教聖職者に繰られていて、幸せになれる
 はずはありません。
  物質だけの「有る」という話と、「ない」という話でも
 この様なことなのです。
  物質以外の話に至ると、神の代弁者のキリスト教聖職者
 の方々は何も知らないと言えてしまうことになります。
  本当に聞けるなら・・キリスト教の神から何でも聞いて、
 知っていて戴きたいと・・思います。
 ..
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