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2013年3月24日日曜日

矢来の外に逃げられる様にしていた・・・

題: 矢来の外に逃げられる様にしていた・・・ 
(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 江戸時代初期の頃のルソン(フィリピン)。
 キリスト教聖職者のルイス・フローレスは、
 長い間、
 現地の人々に布教活動をしていたが、
 それほど成果が上がらないため、
 許可を得て、
 マニラの修道院に来て、
 「祈りと読書」の生活を送っていた。
 その様な時、
 日本で、宣教師が捕えられたというニュースに接した。
 その時、彼は、
 日本に行って同じ様な事をしたいと思った。
 「労苦を重ね、そして、死を味わいたい」と。
 管区長も許可を出し、
 「日本にある聖遺物(殉教した人の死体)を手に入れたい、
そして、手に入ることを喜んだ」。
 日本は、キリスト教の禁教令が出ていて入国してはいけない
時代だった。
 管区長もその事は知っていた。
 この頃の長崎奉行は、幕府の方針に厳格と言っていいほど、
忠実だった。
 幕府の方針は、『棄教をする者の命は奪わない』という方針
だった。
 奉行は言った「キリシタン(信仰)を棄教するなら、自らは
将軍様から権能と職権とを与えられている故、その名によって、
誓って生命は助けよう」と。
 これを、キリスト教は「甘い言葉で棄教を勧めている」とし
た。
 さらに、奉行が「棄教さえすれば釈放するだけでなく栄誉や
利益を与えよう」とも言ったが、この言葉も無視した。
 死に憧(あこが)れていた。
 殉教願望である。
 キリスト教の教え・教義、そして、その洗脳に縛られていた。
 幕府は「むやみにキリシタンを殺したくない」との姿勢であ
ったのにである。
 キリスト教の報告文には、死刑を宣告された場合、「喜悦を
表した」とある。
 しかし、これは、報告書の作成者がキリスト教の聖職者であ
ったので、本国への報告記述の美化があったと考えられる(識
者指摘)。
 また、キリスト教が、殉教をこの上なく美しく洗脳したため
とも考えられるが、日本からの報告公開するにふさわしい様に
美化したことは十分に考えられるとされている。
 いずれにしても、
 「嘘で美化したもの」か、「過剰な洗脳」かである。
 また、キリスト教は殉教される時、「身動きせぬまま死亡す
る様に」と言っていた。
 また、殉教者以外の者は、「殉教した時に、奇蹟が起きたと
言う様に」と言われていた。
 また、「殉教者の死体は聖遺物だ」と言われていた。
 あまりにも、キリスト教が、殉教を讃美し、刷り込みをする
ため、殉教場所に「子供を連れて来る殉教者」も居た。
 「殉教に与(あずか)ることができますように」と。
 幕府は、殉教者を縛り付けている縄目を、ゆるくして、
 火刑の場合、耐え難く思えば、縄を抜け、矢来(囲い)の外
に逃げられる様にもしていた。
 キリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)で、悲惨な印象が形成
されているが実態はこうであった。
 キリスト教は禁教であっても、最初、江戸幕府は、キリシタ
ン(信仰)は黙認していた。
 キリシタンの摘発をしようとはしていなかった。
 秀忠が家光に将軍位を譲って後に、キリスト教の信仰が禁じ
られる様になった。
 世の中は、宣教師の従者が、褒美欲しさに訴え出るという様
になった。
 また、江戸の町人は、キリシタンが近くに居ることを恐れた
りするようになった。
 また、旅籠屋では宗旨が尋ねられる様になった。
 一方、キリスト教は、殉教にあった場合、火の中でも決して
身体をくねらせたり、曲げたりせず、
 また、悲鳴を上げたりせず、
 苦痛の表情を浮かべるなとの教えていた。
 識者は、これもキリスト教の報告書の記述の関係もあるため
実態がこうであったかは分からないと言う。
 学術的に、キリスト教のこの類(たぐ)いの報告書は、歴史
的資料としての価値・品位は低く扱われている。