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2019年4月12日金曜日

(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)

題:(増補版)640E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年3月~1896年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年3月1日、大隈重信が進歩党を結成した(~1898年6月
 20日)
  この日、立憲改進党、立憲革新党、大手倶楽部、帝国
 財政革新会、中国進歩党などが合同し・・
  立憲改進党などを中心にして、代議士99名で結成した。
  大隈重信が事実上の党首であったが、正式な役職には
 就かず、形式的には犬養毅、尾崎行雄、大東義徹、柴四
 朗(東海散士)、長谷場純孝の5名の総務委員が代表者と
 なった。
  進歩主義に立つことを宣言し、責任内閣の完成と、国
 権の拡張、財政整理を掲げた。
  自由党に対抗して、小政党を合併して組織された政党
 だった。
  1896年9月に、第2次松方正義内閣に大隈重信が入閣し
 進歩党も与党となって、第10議会では金本位制確立のた
 めの貨幣法案を成立させた。
  1898年に、第三次伊藤内閣の成立後、自由党と合同し
 て憲政党に改組された。
.
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争: アドワの戦い
  イタリア軍とエチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦ったが・・
  イタリアのエチオピア征討軍は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀のアフリカは「悲惨な世紀」だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された。
  アフリカの大部分は、ヨーロッパ列強の国々によって
 影も形も無い状態だった。
  アメリカの黒人の方々の棄民目的でリンカーンが造っ
 たアフリカの国=リベリアと、このエチオピアのみが独
 立国であった・・ほとんどの国々が植民地で、蹂躙され
 ていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略が行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのは「メネリク2世」だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃を命じた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退をすれば、追撃をし続けた。
  イタリア軍は8,000名を失った・・また、エチオピア軍
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結して、エチオピアの当然の独立を承
 認した・・
  『白人の横暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く。
.
1896年3月7日、沖縄県に県区制、郡区制が公布され、県下
 を首里区、那覇区と5郡で区分する。
  明治29年勅令第13号「沖縄県ノ郡編制ニ関スル件」に
 より・・、
  島尻郡、中頭郡、国頭郡、宮古郡、八重山郡の5郡を設
 置し、宮古と八重山に島庁(島司)を置いた。
  また、「那覇市」の前身「那覇区」と、首里市の前身
 「首里区」を設置した。
.
1896年3月7日、衆議院議員・立石岐ほか5人は、「鉄道敷設
 上本位軌道採用ニ関スル建議案」を提出した。
  また、市島謙吉ほか4人は、「広軌鉄道ニ関スル建議案」
 を議会に提出した。
  建議案は、特別委員に付託され、3月25日、本会議に
 修正案報告、同修正報告案賛成多数で可決された。
.
1896年3月10日、参謀総長の小松宮彰仁親王は、閣議決定を
 みた台湾縦貫鉄道、ならびに、基隆築港測量費の10万円
 のうち約7万3000円を鉄道建設調査費として支出すること
 を台湾総督に通牒(つうちょう、書面で通知すること)
 した。
  この調査費によって、この年の6月までに、新竹・打狗
 間の予測が終了した。
.
1896年3月11日、東海道線の大阪駅~西ノ宮駅間が複線とし
 て開通した。
  1869年、政府は、東京~京都の両京を結ぶ鉄道を幹線
 と定め、重視して施策を進めた。
.
1896年3月13日、奈良鉄道の玉水駅~木津駅間が開通した。
.
1896年3月15日、日本郵船が、欧州定期航路を開設した。
  土佐丸が就航する。
   また、1896年10月には、豪州航路を開設した。
   2年間の激しい競争の末、日本郵船のボンベイ航路は、
  国際的に認められた。
  「近海の海運」から「遠洋への海運」へと事業は拡大
 して行った。
   続いて挑戦したのが・・「欧州航路」だった。
   1896年、日本郵船は、ロンドン支店を設置し、土佐丸
  をヨーロッパに向け出航させた。
   しかし、またしても、欧米の海運会社組織が、既得権
 を主張した。
  復路(東航)のロンドンと、往路(西航)の上海寄港
 を阻止してきた。
  この最大の貨物集積地に寄港できないことは、ビジネ
 ス上の大きなマイナスだった。
  しかし、その相手を刺激すれば、ビジネスそのものが
 できなくなる状況だった。
  屈辱的な条件のもとで、運航を続けた。
  その様な運行状況ながらも、日本郵船は、船隊の拡充
 を進めて行った。
  信濃丸を含む13隻が揃った。
  総トン数で欧州海運会社に匹敵する体制ができあがっ
 て行った。
  この様な立派な体制になっては、対抗相手側も無視で
 きず、日本の海運を対等の競争相手と認めざるを得なか
 った。
  1902年、日本郵船は、欧州極東往航同盟への正式加入
  を果たした・・
  これを契機にして、海外への航路網を飛躍的に伸ばし
 て行った。
.
1896年3月16日、陸軍が、6個師団の増設を決定した。
  1871年に、明治政府は、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮
 台、東北鎮台の4鎮台を設置した。
  そして、1873年、2鎮台を増設して、東京鎮台、大阪鎮
 台、名古屋鎮台、広島鎮台、熊本鎮台(旧:鎮西鎮台)、
 仙台鎮台(旧:東北鎮台)の6鎮台を設置した。
  そして、1896年から、軍備拡張によって師団が増設さ
 れ・・、
  明治末には、国内の師団数は18となった。
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1896年3月16日、朝鮮の大院君一派の人々が逮捕された。
  漢城府観察使の金経夏や呂圭亨など数十名が逮捕され
 裁判へ
  1896年2月11日、李氏朝鮮の第26代王・高宗が、ロシア
 公使館へ騙(だま)され、脅されて、逃げ込んで、親露
 政権が作られだが、そして、その結果、ロシアは種々の
 利権を獲得していくが・・
  そして、この日、親日派だとして金允植が流刑にされ
 たり、親日派が殺されたりした。
  この様な状況に怒った民衆が暴動などを起こしたり(
 1896年2月18日)・・
  1896年2月22日、李範晋が、法部大臣兼警務使となり、
 大院君派の粛清を開始した。
  朝鮮国内は荒れていた・・そして、この日、高宗と対
 峙する大院君派が逮捕された。
.
1896年3月22日、「生物始源、一名:種源論」立花銑三郎訳、
 経済雑誌社、
  立花銑三郎が、ダーウィンの著作を「生物始源(一名
 種源論)」という題で日本初翻訳をした。
  1000ページを超える大著だった。
  この時、28歳の銑三郎は、学習院嘱託教授であった。
  ちなみに、銑三郎は、夏目漱石の大学予備門時代から
 の同級生だった。
  銑三郎は、1900年、35歳で早世するが、漱石は、1909
 年に発表した中篇「満韓ところどころ」のなかで、銑三
 郎を親しげに「銑さん銑さん」と呼んでいたことを回想
 している。
  銑三郎と夏目漱石は、行く時期はずれたが、共に、ド
 イツとイギリスへ留学している・・
  そして、その翌年の1900年に、遅れて来た夏目漱石と
 対面した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本人の一般国民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
    シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
    その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされている監禁の状態だった。
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紀元前5万年以上、原人:「ホモ・ルゾネンシス」がフィリ
 ピンで発見される。
  2018年4月11日の読売新聞に・・新「原人」化石、フィ
 リピンに。アジアで5番目・・と報道されていた・・
  以下、その記事の抜粋・・
  フィリピン・ルソン島で、新種の人類の化石が見つか
 ったと、フランスとフィリピンなどの研究チームが発表
 した。
  同島に5万年以上前に生存していた原人とみられる。
  (参考)原人:人類の進化は5段階(初期の猿人、猿人、
     原人、旧人、現生人類)に大別され、その3段階
     目にあたる。
      猿人とは違い、アフリカからユーラシア大陸
     に進出した。
      猿人より脳が増大し、顎や歯が縮小した。
  アジアで発見された第5の原人となり、同チームは「東
 南アジアの島々における人類の進化の複雑さなどを示す
 発見だ」としている。
  論文が11日、英科学誌ネイチャーに掲載される。
  化石が見つかったのは、同島北部のカラオ洞窟。
  歯や手足の骨の化石で、分析した結果、猿人の様な原
 始的な特徴と30万年~20万年前に誕生した現生人類(ホ
 モ・サピエンス〉などに似た特徴が混在し、同時代にア
 ジアにいた他の原人と異なっていた。
  同チームは新種と判断し、「ホモ・ルゾネンシス」と
 命名した。
  化石の年代測定から、5万年以上前に同島にいたとみら
 れる。
  アジアの原人は、中国の北京原人、インドネシアのジ
 ャワ原人とフローレス原人、中国の和県人(わけんじん)、
 台湾の澎湖人(ほうこじん)が過去に見つかっていた。
  ホモ・ルゾネンシスの臼歯は極端に小さく、海部陽介・
 国立科学博物館人類史研究グループ長は・・身長1メート
 ルあまりのフローレス原人のように「小型化していた可
 能性がうかがえる」と指摘。
  「アジアの島々では非常に独特は進化が起きており、
 他の島でも新種が見つかる可能性がある」と話す。
  ・・以上・・
 (関連事項):
  以上の話の中に、日本の先住民として、アイヌの根拠
 となる話はまったく出て来ない・・また、想像も、まっ
 たくできない。
  それは、アイヌは、それよりズーット後の世の1300年
 代にできたことが科学的に判明していて、分かっている
 からで・・
  アイヌは、まったく先住民ではない・・
  その様なことが分かっていながら、今、日本では、ま
 ったく異常な、非科学的な、また、まったく根拠のない
 「アイヌが日本の先住民族だ」という政治的決議がなさ
 れようとしている。
  今回の地方選で演説していた立憲民主党の女性議員と
 話し合ったが・・
  その論理に、まったく科学的な根拠がなく、ただ政治
 的な動きで「先住民としようとしていることが、はっき
 りわかった」。
  その議員が、「北海道でアイヌは先住民として生きて
 来た」と主張したので・・
  「北海道には、アイヌの人たちより何万年も前から縄
 文人の人たちが居たのですよ。縄文遺跡もいっぱいあり
 ますよ」と教えてあげた。
  「アイヌは日本人なんです」と主張したので・・
  「そうです。しかし、樺太のアイヌは日本人ではあり
 ません」と答えた・・
  「私は人類学をやって来た」と主張したので・・
  「そんな看板で話はしないでください」と言った。
  「国連が決めているから」と主張したので・・
  「国連が間違ったことを決める訳がない。国連が間違
 っているのなら、国連に科学的に正しいことを教えてや
 ってください」と伝えた・・
  「アイヌの言語が独特だ」と主張するから・・
  「言語が独特というなら、1例として中米のインディオ
 の方々には160もの言語があるのです。160もの先住民が
 居るという事ですか?」と・・返事が出来ない、答えら
 れない。
  「北海道にはアイヌの地名が一杯ある」と主張するの
 で・・
  「アイヌの地名なら九州にだってあるんですよ」と説
 明する。
  「学者・専門家に言って下さい」と主張するので・・
  「学者にも言っています。今は、間違っている政治家
 のあなたに間違いを説明しているのです」と言った。
  などなど・・最後は、応援演説をしたいのでと言って
 逃げた。
.
1836年、合衆国第二銀行の期限が来る・・アメリカの運命
 を決める中央銀行の期限が来る・・
  アメリカに中央銀行を作らせ、この通貨発行権を握ろ
 うと暗躍するイギリスのロスチャイルド家。
  そのアメリカの中央銀行を民間銀行として、その株式
 を牛耳ろうとするやり方自体も異常である。
  アメリカの通貨である「米ドル」を発行する銀行を民
 間銀行とするというのも異常であるが、この株式をロス
 チャイルドが牛耳ってしまおうというのも異常である。
  これによって、ロスチャイルド家には、自動的に金が
 転がり込んでくる。
  アメリカは抵抗するが、中央銀行は出来てしまう。
  その最初の合衆国第一銀行も期限が来て閉じられたが・・、
 また、色々な工作が行われて合衆国第二銀行が出来る。
  そして、その合衆国第二銀行も20年の期限が、この年・
 1836年に来た。
  アメリカ大統領のジャクソンは、その期限の来る少し
 前の1832年に、「更新はしない」と、合衆国第二銀行の
 存続の更新を否定した。
  アメリカ国内は、上や下への大激論、激しい攻防が繰
 り広げられた。
  ジャクソン大統領は、頑強に反対し、抵抗し、妥協も
 しなかった。
  そして、期限切れを迎えた。
  合衆国第二銀行は終了し、閉じられた。
  ジャクソン大統領は、暗殺のターゲットになった。
  そして、狙撃された。
  幸い不発だったため、命は助かった。
  中央銀行に反対したので狙われたと言われた。
  中央銀行が無いので、一般の銀行が銀行券を発行して
 流通させた。
  銀行券は何種類も出回った。
  金融を支配する通貨発行権を手に入れたいロスチャイ
 ルド家の目的は、達成されないままとなった。
.
1861年4月12日、南北戦争が始まった(~1865年5月9日)
  アメリカの南北戦争の勃発の理由について、イギリス
 のユダヤ系列の首相のディズレーリは言った・・、
  「何故、アメリカを二分する必要があったかというと、
 イギリスのコントロールが効かなくなったアメリカを発
 展させないためだ」・・と・・
  イギリスが、アメリカを二分しようと計画していたと
 いうこの発言を裏付ける話は明らかに色々ある。
  また、因みに、アメリカの南北戦争のアメリカ北軍の
 トップであるリンカーン大統領は、「奴隷解放の父」と
 讃美されているがまったくの嘘で「でっち上げ」。
  後から付け足されたもの。
  「奴隷解放」は・・北軍の「戦争の大義」としてでっ
 ち上げられたものだった。
  リンカーンは、はっきり「私は奴隷制度を廃止しよう
 と思っていない」と言っている。
.
1865年4月15日、リンカーン大統領が暗殺される。
  (参考)その直ぐ後の1865年5月9日、南北戦争は終わ
     る。
  南北戦争の時、リンカーン大統領は、戦費の調達に困
 った。
  ロスチャイルドなどの銀行家から資金を借りようとし
 た。
  しかし、ロスチャイルドは、非常に高い利率の利息を
 要求した。
  ロスチャイルドは、24%~36%とひっくりするほどの
 高い利子をリンカーンに要求した。
  リンカーンは、借り入れを断念した。
  ここで、リンカーンは、とんでもないことをした。
  リンカーンは、自分で金を刷ることにした。
  アメリカ政府の信用で、独自紙幣を発行した。
  「グリーンバックス」と言われるアメリカ財務省の法
 定通貨だった。
  紙幣の裏を緑色に印刷したので「グリーンバックス」
 と呼ばれた。
  アメリカの最初の法定通貨だった。
  輪転機を動かせば、いくらでも、どんどん金が刷れた。
  戦費を賄(まかな)うのは簡単だった。
  リンカーンは、「打出の小槌(うちでのこづち)」を
 手に入れた。
  イギリスのロスチャイルドらの銀行家は、南軍にも北
 軍にも金を貸して、大儲けしようとしていたが、その目
 論見は「完全に外れた」。
  イギリスの銀行家は、リンカーンを倒したいと思った。
  また、この様な行為を許していたら、アメリカの通貨
 発行権を握ってアメリカを支配するという戦略が崩壊し
 てしまう。
  そして、アメリカが、独自通貨をいくらでも発行する
 ということは、その先にアメリカの繁栄がある。
  イギリスに対抗する国家が出現してしまう。
  イギリスの脅威となってしまう。
  当時のイギリスの「タイムス」紙が社説で報じた・・
  「アメリカの法定通貨が、コストをかけずに供給され
 ている」
  「コストをかけずに通貨を供給できるということは、
 通貨発行銀行である民間の中央銀行に、利子を支払う必
 要が無い」
  「もし、アメリカに起源を持つあの有害な法定通貨政
 策が定着してしまえば、アメリカ政府は通貨をコストを
 かけずに供給することになる。そうなると、アメリカ政
 府は債務を完済し、債務のない政府になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要なすべての通貨を
 所有することになり、文明国の中で史上類のない繁栄を
 謳歌することになる。
  すべての国の人材も富もアメリカ合衆国へ移動してし
 まう」
  「アメリカ政府は打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は地上のすべての君主国
 を破壊するだろう」・・と。
.
1895年、韓国・朝鮮が、それまでの「慕華思想」から「慕
 和思想」に転換した。
  崔基鎬教授は、自著で書く・・
  「1895年、日清戦争の終結と同時に、韓国では、それ
 までの500年に渡る慕華思想(中国に対する敬慕)から
 一転して、慕和思想(日本に対する敬慕)に転換した。
  それが、1945年からは、慕華でもなく慕和でもなく、
 他人を尊重する心を見い出す事も至難になった・・と。
  (参考)崔基鎬:チェケイホ、1923年生まれ。
      明知大学助教授、中央大学、東国大学経営大
      学院教授を経て、加耶大学客員教授。
       民間レベルでの日韓関係改善に努め、サハ
      リン在住韓国人の本国往来問題、原爆被爆者
      の治療援助、在日韓国人の法的地位向上のた
      めに尽力。
.
1899年、アメリカの門戸開放宣言
  アメリカの国務長官ヘイによって提唱された外交政策。
  中国の領土保全と門戸開放、商業上の機会均等を主張
 したもので、遅れて登場したアメリカが列強の帝国主義
 競争への割り込みを意図したものだった。
  このアメリカには、一貫した方針が、ズーットあった。
  自国の領土の拡大である。
  アメリカ・インディアンの方々の地であるアメリカ大
 陸の奪取に引き続き・・太平洋の島々を奪い・・フィリ
 ピンを奪った。
  しかし、アメリカが、アジアに到達したときは遅すぎ
 た。
  イギリスが、もう堂々とそのほとんどを植民地とし、
 インドからシンガポールへ至り、また、香港へ至り、中
 国各地に利権を確立させていた。
  ロシアはシベリアに達して、北から中国へ至っていた。
  また、フランスもすでに南から中国へ至り・・もはや
 出遅れているとアメリカは思った。
  そこで発したのが、この中国の門戸開放宣言だった。
  これは、「俺にも美味しい分け前をよこせ」だった。
  日本とロシアがぶつかった日露戦争において、アメリ
 カは日本を応援した。
  これは、ロシアが退くことがアメリカにとって都合が
 良かった。
  だから、日露戦争が、日本の勝利で終わると、アメリ
 カは手のひらを返したように、今度は、日本と対抗する
 ような態度になった。
  ここが始まりとして、日本はアメリカと戦争をするよ
 うにされて行く。
  だから、アメリカは、日本と対抗することを前提とし
 て行動を続けて行った。
  日本はぎりぎりまで戦争回避に努めた。
  しかし、アメリカは、日本を追い込む手を緩めなかっ
 た。
  アメリカは、日本との開戦への路線をひた走った。
  アメリカは、中国の上海から中国浸透を企てた。
  キリスト教宣教師を利用する手をこうじた。
  中国での利益確保の先兵としてキリスト教を利用した。
  中国人留学生向けの予備校を作った。
  「精華学園」と言った。
  それと共に「日貨排斥(日本商品ボイコット)」を支
 援して、日本の貶(おとし)めと排斥行為を燃え上がら
 せた。
  キリスト教宣教師は、反日のスパイとして行動した。
  また、蒋介石の国民政府の手先となった。
  でたらめ情報のプロパガンダを盛んにした。
  これは、戦後の東京裁判までも影響するほどの嘘宣伝
 工作だった。
  アメリカは、満州の権益を欲しがった。
  この時、特に、日本が居る事を邪魔だと感じるアメリ
 カだった。
  アメリカは、日本排除へ武力行使を始めた。
  フィリピンやグアムを軍事拠点として、イギリスやオ
 ーストラリア、オランダと一緒になって南太平洋を取り
 囲むように、日本を包囲し、締め付け、また、攻撃態勢
 を作った。
  アメリカは、日本に対して威嚇的になった・・また、
 強圧的になった。
  日本が先に手を出したように見せかけの中で、実際は、
 陰で隠れてアメリカが先に武力行使をしていた。
  アメリカが、真珠湾攻撃前に日本を攻撃している事実
 は、今時点では確定されている真実である。
  「あれはボランティアだ」と言い訳するが、大統領の
 命令書があることが確認されている(アメリカ公文書館
 にその書類がある)
  この様に、アメリカは挑発行為を行った。
  中国から日本への大爆撃まで計画していた。
.
1910年8月29日、日韓併合
  「韓国併合に関する条約」が日本と大韓帝国との間で
 調印がなされた。
  この条約は、日本が求めてなされたのではない。
  イギリス・アメリカ・ロシアなどから、「韓国は独立
 してやって行けない。日本が統治した方が良い」と薦め
 られた。
  植民地ではない。
  日本が保護し統治しなければ「駄目な国と国際的に見
 られていた」。
  その様な経済レベルの国だった。
  また、社会資本もまったく整備されてない国だった。
  日本は、膨大な資金を投資して、朝鮮・韓国の「国造
 りをしていく」。
  その恩ある日本に対して、韓国は、今になって御礼を
 言うどころか、恩ある日本を貶める行為をしている。
  この様な態度が取られるのであるなら「併合という形
 ではなく、ただの保護国という形にしておけば良かった」
 と言える。
  必死に日本の資金を投入して、日本並みの国にして上
 げようという奉仕をしなければ良かったと思う。
  良い国になりたいなら「自分たちで努力しなさい」と
 いう立場で居た方が良かった。
  「ただ、軍事的には守ってやりますよ」で充分だった。
  その他の事は、何もしなけれは良かった。
  沢山の金を投入して「教育環境を整えたり」「農地を
 調整して食糧増産をしたり」「裁判制度などの社会基盤
 を充実させたり」「鉄道や道路の建設を一生懸命にやっ
 たり」「帝国大学や小学校などを、沢山、造ったり」、
 色々、手を尽くしてやったが、何の有り難みも感じない
 国・・そんなことをしてやる様な相手国ではなかった。
  この様に感謝もしない国には、今後、何もしてやる必
 要はない。
  挙げ句の果てに、日本の領土の「竹島」まで盗ってし
 まった。
  国際司法裁判所で話し合いましょうと言っても、「韓
 国は敗ける」と分かっているから、その話に応じようと
 もしない卑怯な態度をとっている。
  日本領の竹島の不法侵犯をしている。
.
1920年代、アメリカは、民主主義国家だは、作られた幻想。
  「アメリカは、民主主義の国だ」は、作られた幻想で、
 洗脳された思い込みだ。
  「金」と「情報」を使って操作されている・・この様
 な事は、1920年代に、リップマンやバーネイズは、「ア
 メリカの民主主義の幻想」に気付いていて、「錯覚の世
 界に生きていて、それに洗脳されている」と見抜いてい
 た。
  それから、世論操作をし始めた。
  今・現代、中国が、盛んに金を使って情報操作をして
 いる。
  アメリカを初めて明確に「民主政の国」であるとした
 のはアレクシス・ド・トクビルだった。
  また、「アメリカの支配勢力が、民主主義を用いて人々
 を支配し、利用するために使っている」とも言われてい
 る。
  また、「民主主義の革命的技法」を使えば「合意ので
 っちあげ」ができる、とリップマンは主張した。
  「宣伝工作技術を駆使すれば、人々が本来望んでいな
 かったことについても、同意を取り付けられる」という
 意味の事を言った。
  リップマンは言う・・第一の市民階級は、専門知識を
 持つ特別階級で、政治・経済、イデオロギーのシステム
 における諸問題の分析、実行、意思決定、管理を行う。
  これらの人々は人口のごく一部でしかない・・しかし・・
  この特別階級から漏れた人々・・すなわち人口の大部
 分を構成する多くの人たちは、「とまどえる群れ」(戸
 惑う人たち)と称した。
  この様な人たちが、「大多数の意見を構成する」。
  リップマンは、この人たちを「観客」になるが、行動
 には参加しないと説明した。
  選挙に於いて、観客は、一旦、誰かを支持し、そして、
 後はまた観客に戻って傍観する・・と・・
  だから・・とまどえる群れを飼いならす事だ・・と・・
  また、とまどえる群れに激高を起こさせてはならない・・
 横暴を許してはならない・・不都合なことを起こさせて
 はならない・・と・・
  アメリカの大統領選は、「金が続いたものが生き残る」
 と言われている・・
  そして、それが、「合意のデッチアゲ」の「民主主義
 が行われた」という満足の結果だと・・これが実態だ・・
  リップマンは、彼の代表作と言われている「世論」(
 1922年)で、「民主主義の基盤となる国民の世論が、マ
 ス・メディアの圧倒的な影響力の下にある」ということ
 を指摘している。
  マス・メディアによって世論は操作されている。
  その様な所から形成された民主主義社会・・
.
1931年、東部グリーンランド事件
  グリーンランド東部の無人地帯に、ノルウェーの捕鯨
 業者が上陸した。
  そして、ノルウェー政府が、その地を併合するという
 宣言をするという「東部グリンランド事件」が発生した。
  ノルウェー政府の主張は、グリーンランドにおけるデ
 ンマークの主権は、植民地(人が住んでいる地域)に限
 定されている・・と・・
  また、古い文書では、「グリーンランド」という言葉
 は西海岸の植民地(デンマークが実際に開拓している地
 域)のみを指している。
  故に、それ以外の地域は、「デンマーク領であるとこ
 ろのグリーンランドではない」・・
  ノルウェーが占有する正当性がある・・と主張した。
  しかし、これは、デンマークの提訴を受けた国際司法
 裁判所の裁定によって退けられた。
  デンマークは、以前からグリーンランド全域に適用す
 る法令を制定したりしている・・
  つまり、人が住んでいなくても統治してきたのだから
 ノルウェーの主張はいれられない。
  人口が希薄で人が定住していない地域については他国
 が優越的主張を立証出来ない限り主権的権利の行使はご
 くわずかであってもよい。
  また、地図において、慣習的に使われる地名は反証の
 ない限り通常の意味に解すべきなので・・「グリーンラ
 ンド」という慣習的な地理的名称は、ノルウェー側が有
 力な反証をあげられない限りにおいてグリーンランド全
 島を指していると考えるべきである・・となった。
.
1939年8月23日、独ソ不可侵条約
  ドイツとソ連が、お互いに不可侵を約束した。
  そして、アメリカのルーズベルト大統領・・
  この大統領ほどアメリカの行く道を誤らせた大統領は
 いなかった。
  このルーズベルト大統領の周りには、うようよと大勢
 の工作員が居た。
  今・現在の日本の政権の周りも、この様な状況が起き
 ていると言われている・・、
  ルーズベルト政権の周りには、ソ連と深く精神的に通
 底した「共産主義に傾倒する側近たち」で満ちていた。
  1939年2月、戦争が始まりそうなこの時、ソ連は、ドイ
 ツと「独ソ通商協定」を結んだ。
  また、続けて、この年の8月、「独ソ不可侵条約」も結
 んだ。
  アメリカは、これに大きな衝撃を受けた。
  また、この様なアメリカに限らず、日本を含めて世界
 が大きなショックを受けた。
  アメリカも、そして、世界中もが、「ドイツとソ連は
 敵対関係にある」と見ていた・・その様に思っていた。
  これを演じたのは、「ヒトラーとスターリン」だった。
  アメリカは、ソ連を、自分の陣営に引き込みたいと考
 えていた矢先だった。
  ソ連は、この様なドイツとの関係を作った後に、好き
 勝手な「武力行為を行い始めた」。
  この翌月の1939年9月、ポーランド侵攻の侵略行為を始
 めた。
  この侵略は、あっという間の武力侵攻だった。
  そして、ドイツと「独ソ間のポーランド分割協定」を
 結んで侵略を完成させた。
  また、ソ連は、その2か月後の1939年11月、フィンラン
 ドへも侵略を開始した(フィンランド戦争、冬戦争)。
  何とかソ連を取り込もうとしていたアメリカをはじめ
 西側諸国にとって、これは許せない行為だった。
  侵略国家・ソ連の性癖のむき出しの悪行為だった。
  東京裁判時にも、この蛮行は裁くべきだった。
  または、絶対に、ニュールンベルク裁判で裁かれるべ
 きだった。
  しかし、不公正な連合国の諸国は、この不正行為に目
 をつぶった。
  フィンランドは立派だった。
  敢然と不正をするソ連に立ち向かった。
  仕組まれた日本が、アメリカに立ち向かったのと同じ
 行動だった。
  フィンランドの方々は敗れたが、不正な行為に正義の
 戦いを挑み、フィンランドの「国の正義」を通した。
  これによって、フィンランドの方々には、大いなる誇
 りが生まれた。
  その誇りが、戦後のフィンランドの立派な立つ瀬を作
 り、国の立つ位置を作った。
  アメリカには、当然の「対ソ国交断絶論」が出た。
  しかし、卑劣にもアメリカは、あいまいな態度に終始
 した。
  ソ連の行動を非難したりする声明を出したりしたが、
 また、対ソ連の輸出を差し控える勧告を出したりしたが、
  ソ連の「さらなる暴力や脅迫」に晒された北欧諸国へ
 金融援助をしたりしたが・・
  アメリカの国民の方々の意見に従う行動をアメリカ政
 権はしたが・・
  しかし、結局は、ルーズベルト政権は、対ソの国交断
 絶論は否定した。
  これは、この様な卑劣な事をソ連がしても、アメリカ
 は目をつむると見透かされ・・ルーズベルト側近たちに
 動かされるルーズベルトはおかしかった。
  それでもソ連を引き込みたいというアメリカは見透か
 されていた。
  その後のソ連は、まだ、更なる暴力行為・武力行為の
 蛮行を続けた。
  1940年には、バルト三国を取ってしまった。
  そしてまた、この年・1940年、ルーマニア領を侵略し
 た。
  しかし、まだ、アメリカは、その様な横暴なソ連へ黙
 り続けた・・逆に、ソ連に対して、対ソ連の宥和(ゆう
 わ、大目に見る)政策を取った。
  その行動・・宥和政策を強化した。
  アメリカは、バルト三国のエストニア、ラトビア、リ
 トアニアから領事を引き上げて、「バルト三国はソ連領
 だ」という意味の態度を取った。
  そして、ウラジオストクに、総領事館を開設するとい
 うアメリカだった。
  また、対ソ連の物資輸送を増加した。
  そして、さらに、1941年1月には、「対ソ道義的禁輸」
 を撤廃さえした。
  そして、1941年3月には、「米ソ東亜通商協定」まで締
 結した。
  この様な事までしてアメリカはソ連を取り込んでいく
 のだが、結局は、冷戦状態となって、原子爆弾と大陸間
 弾道の核ミサイルの軍拡の競争をする相手となる。
.
1940年、アメリカが、デンマーク領のグリーンランドとア
 イスランドに進駐した。
  ドイツが、海上封鎖水域をアイスランド周囲まで拡張
 したからだった。
  また、ドイツの爆撃でイギリス本国が危うくなったか
 らだった。
  日本は、ベトナム(フランスの植民地)に上陸したが、
 この時、フランスの許可を得ていた。
  アメリカは、グリーンランドとアイスランド政府の許
 可を取っていない。
  しかし、アメリカのルーズベルト大統領は、日本のこ
 の行動を徹底的に利用して日本を悪者に仕立てた。
  日本は、フランスのビシー政権の許可を得ていた。
.
1941年4月13日、日ソ中立条約が調印された。
  正式名称:大日本帝国及「ソヴイエト」社会主義共和
 国連邦間中立条約が締結された。
  相互不可侵、および、一方が第三国の軍事行動の対象
 になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文
 など・・
  この時まで、ソ連を宥和(ゆうわ、相手を寛大に扱う)
 したいアメリカは、なりふり構わず、ソ連の喜ぶこと、
 節操のない行動をとっていた。
  ソ連は、好きなように、ドイツとポーランドを分割し、
 何かとドイツと巧くやっていた。
  その様なソ連を、引き込みたいと、アメリカは焦(あ
 せ)っていた。
  この様なソ連の立場と対極にあったのが日本だった。
  アメリカが日本を排斥するのは病的でさえあった。
  この様な状況の時、驚天動地の事が起きた。
  1941年4月13日、日本とソ連が中立条約を締結した。
  ドイツからソ連を引き剥がしたいアメリカ、そして、
 そのソ連が、日本と中立条約を結んだのだった。
  アメリカは、ソ連へ宥和政策を進めて来た行動が頓挫
 したと思った。
  しかし、1941年6月22日に至ると、ドイツが、ソ連へ突
 如侵入した。
  この日の3時15分、ドイツ軍は、作戦名「バルバロッサ」
 の下にソ連を奇襲攻撃した。
  ソ連にいじめられていた反ソ感情の強い周辺国は、ド
 イツへ加担した。
  当然、ソ連は、ドイツに対して開戦した。
  これで、ソ連は、アメリカ側へ入ったのだった。
  1941年11月には、アメリカは、ご褒美ではないが10億
 ドルの供与をソ連へ贈った。
  アメリカ国務省から軍事品のソ連への供与が発表され
 た。
  この共産圏の国=ソ連の立つ瀬をアメリカは作った。
  逆に、アメリカの対日経済封鎖の厳しさは増していた。
  そして、その後、共産圏・中国の毛沢東をも助けるア
 メリカとなる・・毛沢東を支援し、国際舞台の中心国の
 立場にするアメリカとなる。
  この端緒・・ソ連を助けたことに始まるアメリカの行
 動の判断は、歴史上の大汚点、大いに間違った判断とな
 った。
  この後、東ヨーロッパも共産圏・ソ連に抑えられた。
  ルーズベルトのやったことは大間違いだった。
  そして、今・・この共産圏・中国は、アメリカを食お
 うとしている。
  そして、アメリカは、共産圏・中国に追い越されそう
 になっている。
.
1945年8月23日、シベリア抑留
  完全なる終戦の後に、ソ連(現:ロシア)によって行
 なわれた国際法の違反・違法行為である。
  日本国民の拉致である。
  スターリンは、戦争の終結した1945年8月14日の第二次
 世界大戦の終戦宣言の後の1945年8月16日には、「日本人
 を捕虜として用いない」という命令を内務人民委員ラヴ
 レンチー・ベリヤに下していたが、
  何と、終戦後の後も後の1945年8月23日に、これを翻し、
 「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜
 (拉致)50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労
 働を行わせる命令を下した。
  しかし、下記の実態の1事例の様に、日本人の一般国
 民も、多数、拉致され、シベリアへ連れて行かれていた。
  シベリア抑留者は、拉致され、監禁された。
  その実態は、非人道的な足枷(あしかせ)をされてい
 る監禁の状態だった。
  稲葉俊郎・東大病院助教、医師のおじいさんは、足枷
 を付けて脱走し、日本へ帰って来た。
  (参考)第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ
     連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣
     戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連
     極東軍に命じて、満州・朝鮮半島北部に軍事侵
     略した(ソ連対日参戦)。
      日本は、すでに、1945年8月14日、中立国を通
     して降伏を声明し、アメリカやイギリスの連合
     国に受け入れられていたが、ソ連は、1945年8月
     16日には日本領南樺太へ、1945年8月18日には千
     島列島へも侵略して占領した。
      樺太では直後に、日本の防衛的戦闘で、日本
     は勝利していたが千島の占守島では1945年8月22
     日に、日本から停戦命令が下り、武器を置いた。
.
1950年代半ば、毛沢東による対日戦犯裁判
  中国では・・、
  ☆中華人民共和国によって対日戦犯裁判が行われた(
 近年、中国で新史料が公開された)。
  ☆1950年、シベリアに抑留されていた旧『満州国』や
 関東軍の関係者がソ連から中国に送還された。
  ☆終戦後、中国に残留し、国共内戦下で共産党軍と戦
 って捕虜となった日本人将兵、戦犯と見なされ、拘留さ
 れた。
  1526名。
  毛沢東思想に基づく思想改造を、長年、強烈に受けさ
 せられた。
  1956年に、大半が釈放された。
  (BC級戦犯なのに、約1000名が死刑にされた)
  ☆毛沢東は、「南京虐殺について、触れることはほ
 とんどない・・言及もしていない」。
  この事からも、南京事件は、後から中国(支那)によ
 る作り出された捏造ということがはっきり分かる。
.
2017年1月20日、ドナルド・トランプ、アメリカ大統領の就
 任式で・・
  「今、この瞬間からアメリカ第一主義(アメリカ・フ
 ァースト)が始まる」と演説された。
  そして、また、新大統領は、「世界の国々と友好的で
 善意に基づく関係を築きますが、すべての国には自国の
 利益を最優先する権利があります。
  私たちは、自分たちのやり方を他の誰かに押し付けた
 りはしませんが、「輝く模範として見習われる存在にな
 ります」と演説した。
  すべての国々が、自国の国民の幸せを第一に考えるの
 が当然で、自国の国益を最優先するのも当然で、その様
 な自立した国々同士が友好関係を結んでいくのが「最も
 当然な最善な事」と示された。
  そこには、今までの様なアメリカが勝手に最善として
 思い込んだ考えを押し付けるようなことはしないという
 宣言があった。
  戦争の遠因となっていた「アメリカの考え方・イデオ
 ロギー」の勝手な押し付けはしないの宣言があった。
  今まで、アメリカは『自由と民主主義』と言って表面
 的には良いように見えることを、実際はアメリカだけが
 良いという勝手な事を「他国へ押し付けた」。
  持っている武力を振り回し、自国の若者も死に至らせ、
 また、他国の人々・・戦争とまったく関係ない方々を殺
 して来た。
  この様な「勝手な独りよがりな介入はしない」という
 宣言だった。
  実際は、「アメリカのやり方」「アメリカ・スタンダ
 ード」なのに・・「グローバル・スタンダード」だと嘘
 を言って、アメリカの超富裕層に都合の良いシステムを
 押し付けて来た。
  当然の様に他国の内政に干渉し、屁理屈で「ああだ、
 こうだ」と言った。
  この様な事を、当然のように、『間違っている』と「
 否定した大統領」だった。
  しかし、今まで「利益を享受して来た組織」が、盛ん
 に抵抗している。
  その今までの組織に「おもねっている」・・日本のゴ
 マすり「マス・メディア」も、盛んに、「トランプ大統
 領に対抗する反対報道」をしている。
.
2019年、アイヌの方たちだけが特別ではない。
    アイヌ特別立法はお止めください。
  アメリカで『キンタクンテ』が話題になった頃、それ
 が日本でも話題になった頃、「ルーツ」「ルーツ」と
 自分のルーツに皆が関心が向かった頃・・、
  キンタクンテは、「そのルーツをアフリカに発見した」。
  その頃、自分の事を調べてみると、何と、せいぜい隣
 村くらいの狭い社会の中で「先祖の方たちは生きて来た」
 ことが分かりびっくりした。
  同じ村、若しくは、隣村との結婚が繰り返されていた。
  これでは、「武蔵野民族ではないか」と思った。
  知人に、京都で、明治に生まれた方が居られて、関東
 大震災の時に東京に出て来られたが・・、
  その頃、鹿児島の薩摩弁の方と青森の津軽弁の方が、
 話が通じ合わなくて、通訳をしてあげたと言っていた。
  京都で育ち、都で色々な方と接して、薩摩弁と津軽弁
 が通訳できたのだ。
  今・現代、通信機器も発達し、テレビ・ラジオの放送
 も氾濫し、標準語が定着し、その様な話は夢の様だけど・・、
  また、先の話は、交通手段が発達し、遠くまで簡単に
 行ける現代、男女の接触もSNSでも会えるという時代。
  男女の接触も広くなって、その様な話しはまったく想
 像が出来ないが、武蔵野民族の自分だって同化したが「
 武蔵野民族なのだ」。
  九州には「熊襲(くまそ)」という民族が居て、ある
 時、世間の話題になったが、今は完全に同化して、話題
 になることも無い。
  能には「吉備人」が出て来てる様に、日本には「アイ
 ヌの方々だけではない方々が色々生活して居た」。
  アイヌの方々だけが特別ではない。
  武蔵野民族は完全に同化したが・・ならば、「武蔵野
 民族の方々にも特別法を作りなさいと言いたい」・・そ
 して、「武蔵野民族を無視する理由はありませんと言い
 たい」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/

2019年4月7日日曜日

(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)

題:(増補版)639E2/3:2/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1896年2月~1896年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
  真実の歴史を知ることは、国際社会をより公正なもの
 にする。
  そして、その公正な社会の達成で、人々の、また、皆
 様の、そして、人間の幸福を創造していく力ともなる。
  世界に真実を公表していく事は、真にやるべき大切な
 こと・・
.
1896年2月10日、貴族院議員・近衛篤麿ほか2人、議員・二
 条基弘ほか43人の賛成を得て、「北海道鉄道敷設法案」
 を提出した・・北海道開拓の実を上げるため必死に鉄道
 敷設に取り組んで行く。
  特別委員会付託となり・・、
  1896年3月7日、貴族院可決・・
  1896年3月25日、衆議院可決、
  1896年3月26日、両院協議会を開き衆議院修正案可決、
   貴族院同意。
.
1896年2月10日、法律第1号により官設鉄道用品資金25万円
 が増加となって205万円となる。
.
1896年2月10日、ロシア兵の107名の水兵 20名の食料担当兵
 大砲一門を漢城に搬入し実力支配をする。
  ロシア兵は150名となった・・親露政策へ・・反ロシア
 派への弾圧・一掃・・民衆の親露政権への反発・・
  また、ロシアは、種々の実質的な利権を獲得する結果
 となる。
  また、付随して欧米列強も同等の利権を獲得すること
 になった。
  宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密か
 に国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。
  速かに露館に播遷し回避されたし」旨の親露派が作っ
 た手紙・作文の書状を高宗に届けた。  
  そして、翌日(2月11日)、高宗と世子(純宗)が宮女
 用のかごに乗り、ロシア公使館へに逃げ込んだ。
.
1896年2月11日、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」が
 パリで初演された。
  実は、1892年に、名女優サラ・ベルナールの主演でロ
 ンドン上演をする予定だったが、当局の検閲で上演禁止
 となった・・内容の背徳性から、しばらく上演されなか
 った。
  (イギリスでは1931年まで禁止されていた・・聖書に
 登場する人物や事件を舞台にかけることが禁じられてい
 た)
  1893年に、アンドレ・ジッドとピエール・ルイスの校
   閲を経て、フランス語版の戯曲がパリで出版され、
   評判になった。
  1894年に、アルフレッド・ダグラス卿の英訳に、ワイ
   ルド自身が徹底的な修正を加えて、当時、22歳の奇
   才オーブリー・ビアズリーの幻想味あふれ、退廃的
   挿絵付きの英語版がロンドン出版された英訳版は大
   きな反響を呼んだ。
  世紀末のデカダンスの欧米芸術に強烈な衝撃を与えた。
  古臭い乾からびた伝統的な男性中心主義の女性観など
 へ衝撃を与えて行く。
  洗礼者ヨハネが首を斬られたことが興味を引いた発端。
  1903年~1905年に、リヒャルト・シュトラウスが1幕の
 オペラを作曲する。
  このシュトラウスの「サロメ」には紛れもなく世紀末
 風なデカダンスの雰囲気が濃厚に存在する。
  「ああ!ヨカナーンや、私は、おまえの口にくちづけ
 したよ、ヨカナーン(洗礼者ヨハネ)、おまえの口にく
 ちづけしたよ」というサロメの無気味な歓喜の言葉が流
 れる最終場面・・妖艶・・
  何故、お前は私の顔を見なかったのだ・・
  死の秘密より大きい愛の秘密・・
  そんなことはどうでもよい・・私はお前の口に接吻し
 ましたよ・・
  https://www.youtube.com/watch?v=VT-5zz92mNQ
  現在、戯曲「サロメ」が上演されることは滅多になく、
 舞台といえばもっぱらオペラ「サロメ」。
  内容:
  ユダヤの王妃エロディアスには、最初の結婚によって
 もうけた娘サロメがいる。
  サロメは王に捕えられている預言者ヨカナーンを恋し
 ているが、ヨカナーンは彼女を拒む。
  サロメは王の求めに応じて踊り、褒美にヨカナーンの
 首を所望する。
  何でも望むものを与えると約束していた王は、やむな
 くサロメの願いを聞き届ける。
  サロメは首を持って踊り狂い、王の命令を受けた兵士
 たちに殺害される。
.
1896年2月11日、露館播遷(ろかんはせん)
  朝鮮国王が、ロシア公使館に移らされた。
  金允植(キム・ユンシク)は、穏健な開花的な人物だ
 ったが(科挙の試験にも合格する才能ある人物)・・、
  朝鮮のこの親露政権が成立すると、親日派だとして済
 州島に流刑された。
  1896年2月11日~1897年2月20日、、朝鮮王の高宗が、
 ロシア軍によってロシア公使館へ移らされ、親露政権が
 樹立させられた・・
  親日派の政権閣僚は殺害されたりした。
  そして、この結果、ロシアは、数々の種々利権を獲得
 し、他のヨーロッパの各国やアメリカの列強も同等の利
 権を獲得することになった。
  また、これは国としての自主性を放棄するのに等しい
 行為であった。
  この事に対する朝鮮有志による抵抗行動が起きる。
  朝鮮政府に好き勝手をしていたロシアの横暴。
  (参考)播遷:はせん、遠くさすらうこと。
  高宗は勅令を出さざるを得なくなる・・
  実体は、ロシア公使ウェーベルの傀儡政権の成立。
 1.閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵、禹範善、
  李斗璜、李軫鎬、李範来、権濚鎮の首を持ってロシア
  公館に持参せよ。
  (閔妃殺害事件についての再調査も実施され、漢城で
  発行されていた英文雑誌に調査結果が掲載された)
 2.新内閣の公示・・総理大臣に金炳始、内部大臣に朴定
  陽、軍部大臣兼警務使に李允用、法部大臣に趙秉稷、
  学部大臣に李完用、宮内大臣に李載純を命じる。
  (在朝ロシア公使は、スペール趙羲淵、兪吉濬、張博、
  李軫鎬等は日本に亡命・・前総理金弘集と前農工商大
  臣鄭秉夏は亡命せず・・警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、
  遺体は焼却された)
.
1896年2月13日、博多湾鉄道発起人が、設立願を政府に提出
 した。
  1896年6月、線路計画変更、
.
1896年2月18日、朝鮮・仁川に、4000余名の暴徒が蜂起した。
  観察使(地方の行政権・兵権・司法権を握る役職)を
 殺害し、郡司を逐訴するなど、政令はソウルの外には伝
 わらず、無政府状態に陥って・・官衙官宅を毀壊した。
.
1896年2月21日、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席の
 ため、明治天皇陛下の御名代として伏見宮貞愛親王(陸
 軍少将)が出席されることになり・・また、この日、山
 県有朋が、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式の出席と、
 朝鮮問題対応のため、特命全権大使に任命された。
.
1896年2月22日、日本海上保険が設立された(3月説あり)
  色々と変遷の後に、2014年9月1日に、 損害保険ジャパ
 ンと合併して、損害保険ジャパン日本興亜が発足してい
 る・・そして、発足と同時に「損保ジャパン日本興亜ホ
 ールディングス」に商号を変更した。
.
1896年2月25日、房総鉄道の千葉駅~蘇我駅間が開通した。
.
1896年2月29日、日本銀行旧館(本館)の建物が完成した。
  設計は、辰野金吾(工科大学:現東京大学工学部)教
 授。
  当初は永代橋のたもとにあったが、手狭のため中央区
 日本橋本石町に建設し、移転した。
  この日本橋という所は、江戸時代から両替商が軒を連
 ねていた場所で、金融機関が集まっていた。
  また、商業の中心地ともなっていた。
  構造:石積みレンガ造
  外装:花崗岩貼り
  工事費:112万円(当初予算は80万円であったが、この
 時期、物価上昇した)
  着工:1890年9月
  1891年に発生した濃尾地震の被害から建物の軽量化が
 図られた。
  1923年の関東大震災でも被害は無く、建物はびくとも
 しなかった・・ただ、近隣に発生した火災によりシンボ
 ルだった丸屋根が焼け、その後、復元したの屋根が現在
 に至っている。
  ちなみに、2階の廊下には代々の総裁の肖像画が展示さ
 れていたが、関東大震災ですべてが焼失し、現在の肖像
 画は、その後、再製されたもの。
  故人になられていた方は、写真から模写された。
  エレベーターや水洗便所など先進的な設備を取り入れ、
 また、防火シャッターやスチールサッシなど外国製品も
 採用した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そして、世界へ、
   ロスチャイルドの影響力を行使できる額だった。
.
1567年9月5日、「独眼竜政宗」で有名な伊達政宗(仙台藩
 初代藩主)の話。
  伊達政宗は、出羽の国と陸奥の国の戦国大名である。
  そして、伊達氏17代の当主であり、近世大名としては
 仙台藩の初代の藩主である。
  1567年9月5日、伊達政宗は生まれた。
    出羽国・米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗
   の嫡男として、正室の最上義守の娘・義姫から生ま
   れた。
    政宗は、幼少の時に患った疱瘡(天然痘)によっ
   て右目を失明した。
  1579年(12歳)仙道の戦国大名の三春城主・田村清顕
   の娘・愛姫(12歳)を正室に迎える。
  1581年(14歳)4月、初陣。隣接の相馬氏と合戦。
  1584年(17歳)10月、父・輝宗の隠居で家督を相続し、
   伊達家第17代当主となる。
  1585年(18歳)5月、蘆名領檜原を攻め、8月に、大内
   領小手森城を攻めた。
  1586年(19歳)4月、二本松城攻め、7月、二本松城の
   明け渡し。
  1587年(20歳)12月、関白・豊臣秀吉が、関東・奥羽
   の諸大名、特に、関東の北条氏と奥州の伊達氏に対
   し、惣無事令(私戦禁止令)を発令した。
    しかし、政宗は秀吉の命令を無視し、戦争を続行
   した。
  1588年(21歳)2月、北方の大崎氏の内紛に介入したが、
   黒川晴氏の離反と大崎方の頑強な抵抗に合い敗北。
    伯父の最上義光に大崎側に立って参戦されてしま
   い、伊達領の各地が攻め落とされた(大崎合戦)
    また、蘆名氏・相馬氏に侵攻され、苗代田城を攻
   め落とされる(郡山合戦)・・7月、和議が成立して
   窮地を脱した(愛姫の実家・田村氏領の確保に成功)
  1588年(21歳)9月、豊臣秀吉へ恭順の意を示す。
   秀吉は、翌年・1589年の前半に上洛する様に求める。
  1589年(22歳)5月~6月、摺上原の戦い・・
    この頃、政宗は、全国的にも屈指の大きな領国規
   模を築いた・・近隣諸氏・豪族も政宗の勢力下に入
   る。
  1589年(22歳)11月、後北条氏が真田領へ侵攻したこ
   とにより、豊臣氏により征伐が行われることになっ
   た。
    政宗は、父・輝宗の時代から後北条氏と同盟関係
   にあったため、秀吉と戦うべきか小田原に参陣すべ
   きか、直前まで迷っていた。
  1590年(23歳)1月、伊達政宗は、豊臣秀吉から「小田
   原城攻めをするから、参陣せよ」という命令を受け
   た。
    しかし、正宗は、これに応じなかった。
    それどころか、秀吉陣営に属していた会津・黒川
   城の芦名義弘を討った。
    父・輝宗を騙した畠山善継に味方した芦名を討っ
   たのは『敵討ち』であるという大義名分があったが、
   明らかに秀吉への反抗でもあった。
    さらに、正宗には、小田原参陣に遅れる事件もあ
   る。
    実母・保春院が、弟・小次郎を立てるため政宗を
   毒殺しようとした。
    政宗は、辛くも命拾いをした。
    小次郎を斬殺し、母を米沢へ追放した(後に、仙
   台へ戻す)。
    この様な事で参陣が遅れたのだった。
  1590年(23歳)5月、秀吉の小田原攻囲(小田原征伐)
   中であるこの時・1590年5月、豊臣配下の浅野長政か
   ら小田原参陣を催促された。
    政宗は、5月9日に会津を出立すると米沢・小国を
   経て同盟国・上杉景勝の所領である越後国・信濃国、
   甲斐国を経由して小田原に至った。
    秀吉の兵動員数を考慮した政宗は秀吉に服属した。
    参陣が遅れたことに、秀吉は激怒した。
    政宗が、小田原へ赴くと、秀吉は、会見も許さず、
   箱根・底倉へ政宗を幽閉した。
    この時、政宗は、前田利家へ「田舎者ゆえ礼儀を
   わきまえない。千利休に茶の湯を習いたい」と告げ
   た。
    秀吉は、それを聞いて引見することとした。
    死ぬか生きるかという時に良い度胸だという訳だ
   った。
  1590年(23歳)7月、政宗が、秀吉に服属してほどなく、
   北条氏政・北条氏直親子が秀吉に降伏した。
    秀吉は、宇都宮城で奥州仕置(宇都宮仕置、1590
   年7月~8月に行われた)を行った。
    ここに、秀吉の日本統一が達成されたが、政宗は、
   会津領などを失った。
    陸奥出羽のうち13郡、およそ72万石に減封された。
    秀吉は、会津領を没収したものの、伊達家の本領
   72万石(おおむね家督相続時の所領)は安堵とした。
    先の遅参の詰問に来た前田利家らに千利休の茶の
   指導を受けたいと申し出だことに秀吉らが感嘆した
   からと言われている。
  1591年(24歳)蒲生氏郷とともに、葛西大崎一揆を平
   定するが、政宗自身が一揆を煽動していたことが露
   見する。
    しかし、これは、氏郷が、「政宗が書いた」とさ
   れる一揆勢宛の書状を入手したことに端を発する。
    また、京都では、政宗から京都に人質として差出
   した夫人は偽者であるとか・・
   一揆勢が立て篭もる城には政宗の幟(のぼり)や旗
   が立てられているなどの噂が立ち、秀吉の耳にも届
   いていた。
    喚問された政宗は上洛し、一揆扇動の書状は偽物
   である旨を秀吉に弁明した・・
    その結果、許されるが・・、
    本拠地であった長井・信夫・伊達を含む6郡の代わ
   りに(6郡没収)、一揆で荒廃した葛西・大崎13郡を
   与えられ、米沢城72万石から玉造郡岩手沢城へ58万
   石に減転封された。
    この時、秀吉の前に出る政宗の様子・・
    家康や利家をはじめ諸武将が居ならぶ席上、秀吉
   が、末席に控えている政宗へ、杖で政宗を指し・・
   「政宗、政宗」と声をかけた・・「是へ、是へ」と
   秀吉のもとに招いた。
    政宗は、脇差を抜いて知人に預け、一間(1.8メー
   トル)ほどの所まで近づいて挨拶した。
    「脇差ノ抜ヤウ、マタ、御挨拶ノフリ、誠二悪ビ
   レタル気色モナク、田舎人ナレドモ、聞キ及ビタル
   程ノ者也」(政宗記)。
    田舎者だが、噂にたがわぬ堂々とした男だと秀吉
   は言った。
    片目ながら政宗の大胆さ、そして、繊細さを、55
   歳の秀吉は鋭く見抜いた・・24歳の政宗をいっぺん
   に気に入った。
    秀吉は、鎬(しのぎ)藤四郎作の名刀を与えた。
    そして、伊達政宗は、陸奥五十四郡、出羽十二郡、
   計六十六郡の半分を所有する大名として認められた。
  1593年(26歳)政宗は、秀吉の文禄の役に従軍した。
  1599年(32歳)秀吉の死後のこの時、政宗と、五大老
   の徳川家康は、天下人であった秀吉の遺言を破った。
    政宗の長女・五郎八姫と家康の六男・松平忠輝を
   婚約させた。
  1600年(33歳)7月25日、家康が会津の上杉景勝討伐の
   軍を発した・・すると政宗はこれに従った・・そし
   て、この日、登坂勝乃が守る白石城を、政宗は奪い
   返した。
  1600年(33歳)8月、100万石へ復帰・・
    家康は、政宗に対して、岩出山転封時に没収され、
   この時点では上杉領となっていた旧領6郡49万石の領
   土の自力回復を許す旨の書状(百万石のお墨付き)
   を贈った。
  1600年9月、関ヶ原の戦いが勃発。
    正宗は東軍に属した。
  1601年(34歳)政宗は、徳川家康の許可を得て、居城
   を仙台に移した。
    城下町建設を始め、仙台藩が誕生した。
    仙台城、及び、城下町の建設は大工事となった。
    徳川幕府から松平の名字を与えられ「松平陸奥守」
   と称した。
  1606年(39歳)家康の6男・忠輝と長女・五郎女(いろ
   は)を結婚がなり、伊達家はより安泰となった。
  1613年(46歳)政宗は、仙台藩とイスパニアとの通商
   を企図した。
    仙台領内において、イスパニア国王・フェリペ3世
   の使節セバスティアン・ビスカイノの協力によって
   ガレオン船・サン・フアン・バウティスタ号を建造
   した。
    この大船の建造に、材木を気仙、磐井、江刺緒郡
   から伐り出し・・公儀船大工・与十郎を棟梁とした。
    イスパニア航海士や技術者も参加した。
    政宗は、家康の承認を得ると、ルイス・ソテロを
   外交使節に任命し・・
    家臣・支倉常長ら一行180余人をヌエバ・エスパー
   ニャ(メキシコ)、イスパニア(エスパーニャ)、
   および、ローマへ派遣した(慶長遣欧使節)
    この実施で、正宗は、家康へ交易で大きな利益が
   徳川幕府にももたらされると説得していた。
  1613年(46歳)12月19日、支倉常長がノビスパニア(
   メキシコ)のアカプルコに到着した。
  1614年(47歳)大阪冬の陣・・大和口方面軍として布
   陣する。
  1615年(48歳)大坂夏の陣・・道明寺の戦い、後藤基
   次らと戦う・・基次は自刃した。
    また、他の戦いで乱戦となり、政宗は味方討ちを
   している・・抗議をされ、「伊達家の軍法には敵味
   方の区別はない」と言った・・幕府はこれを黙殺。
    論功行賞で、政宗の子(庶長子の伊達秀宗)が10
   万石を与えられた(宇和島藩)
  1615年(48歳)9月、支倉常長がローマ・バチカン市国
   で法王パウロ五世と会った。
  1620年(53歳)支倉常長が帰国した。
    この支倉常長の航海の目的には、イスパニア艦隊
   を引き連れて帰国するかもしれないという威圧が、
   無言で幕府を脅迫し、徳川幕府の挙動を抑える効果
   を狙って、伊達家安泰を図っていたとも言われてい
   るが・・?
  1626年(59歳)政宗が、仙台城下・若林に隠退した。
    春は城の桜を愛で、初夏に近郊のホトトギスの声
   を聞き、秋には月を愛で、鷹狩りを楽しんだ。
    また、政宗は、北上川水系の流域整備や開拓、領
   国開発、農業生産改良、文化の向上、技師の招聘、
   大崎八幡宮(今、国宝となっている)、瑞巌寺など
   の建設、石巻港建設、海路の整備などを行なった。
    また、下城する政宗に、徳川家光が、護身用に10
   挺の火縄銃を与えたという話もある。
  1634年(67歳)食事不振となり、嚥下に難を抱えると
   いう体調不良を訴え始めた。
  1636年5月22日(68歳)、母・義姫を弔う保春院の落慶
   式を終えた後、城下を散策した政宗は、経ヶ峰に杖
   を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言った。
    この2日後の5月24日、参勤交代に出発した政宗は、
   急に病状が悪化・・宿泊した郡山では嚥下困難に嘔
   吐が伴い、何も食べられなくなる。
    6月1日、江戸に入った頃、絶食状態となる。
    腹に腫れが生じていた・・しかし、病をおして参
   府した・・
    この様な政宗を、家光は、6月24日、伊達家上屋敷
   に赴いて政宗を見舞った。
    政宗は、行水して身を整えた・・そして、家光を
   迎えた。
    しかし、お目見え後に、奥へ戻る時には杖を頼り
   に何度も休みながら進まざるを得ないという状態だ
   った。
  1636年6月27日、卯の刻(午前6時)死去。
    享年(満68歳)・・仕えた主君は、豊臣秀吉→秀
   頼→徳川家康→秀忠→家光
.
1636年7月、徳川の御三家の『水戸藩』の家租となる頼房が、
 徳川姓を許された。
  水戸徳川家(水戸家)は、徳川家康の十一男の徳川頼
 房を家租としている。
  領国の石高は、実収が28万石程度だった。
  しかし、御三家の格式から、公称35万石としたため、
 水戸藩の財政を厳しくした。
  紀州藩の資料に、頼房が徳川姓を許されたのは1636年
 7月とあり、それまでの33年間は「名字定まらず」とされ
 ている。
  徳川家康は、水戸藩を成立させるにあたり、武田・北
 条・今川など、かつて敵対し、滅亡した戦国大名の家臣
 も採用した。
  水戸藩は、さながら「敗者復活藩」だった。
  御三家の「第三位の地位」が確立したのは、徳川家宣
 (第6代将軍、在任1709年~1712年)が将軍となって、甲
 府徳川家が解消した後だった。
  また、水戸家当主は、参勤交代の対象外であり、江戸
 定府とされ、基本的には国許に帰国することはまれだっ
 た。
     ・
     ・
1791年2月25日、アメリカの中央銀行である第一合衆国銀行
 が設立された。
  それまでは、13植民地がそれぞれに銀行を持ち、また、
 通貨および財政制度と政策を持っていた。
  財閥・ロスチャイルド家の策謀・・
  アメリカ合衆国で通貨発行権を得て『打ち出の小槌
 (こづち)』の様な状態の利益を得ようと暗躍したロス
 チャイルド家(イギリスにある)は・・、
  アメリカの初代財務長官・アレクサンダーに、「中央
 銀行の設立の提案」をさせた・・が、しかし・・、
  そのおかしな挙動と危険性を熟知していたベンジャミ
 ン・フランクリンや、トーマス・ジェファーソン(アメ
 リカ合衆国独立宣言を起草した人)は、そのハミルトン
 の案に反対した。
  大議論が続き、決定はされなかったが・・、
  反対したフランクリンが死んだ後・・1791年に、ジェ
 ファーソンの反対は押し切られた・・
  ハミルトンは、中央銀行の設立に成功したのだった。
  ワシントン大統領が署名して、第一合衆国銀行は設立
 された。
  しかし、この銀行は、アメリカ合衆国憲法に違反する
 という民間銀行の形で、このアメリカの中央銀行は設立
 されていた・・?
  アメリカ合衆国憲法には、はっきりと「貨幣鋳造権限
 は、アメリカ合衆国連邦議会が有する」と規定されてい
 る。
  (参考)対訳アメリカ合衆国法
      第1条8節1項(また、合衆国議会は以下の
     権限を有する)
      第1条8節5項(貨幣の鋳造、度量衡の基準
     の設定権)
      貨幣を鋳造し、国内および外国通貨の価値を
     規律し、また度量衡の基準を定める権限。
  (参考)註解アメリカ憲法
      第10条、州に対する制約
      第一項、各州は、同盟もしくは連合を締結し、
     捕獲免許状を付与し、貨幣を鋳造し、信用証券
     を発行してはならない。
      「信用証券とは、州の信用を基礎にする紙幣
     のことであって、これを発行することは許され
     ない」
      (州による紙幣の発行は禁止されている)
  この中央銀行の8割の株式は民間で、連邦政府は2割に
 過ぎない。
  この様にして、実質的な権利者となる株式を所有した
 のが、イギリスのロスチャイルド家だった。
  また、ニューヨークの民間銀行も所有した。
  そして、20年間のこの期限が1811年に訪れた。
  更新して継続するのか?・・の大論争がなされた。
  正論が通って・・「民間銀行が通貨発行権を持つのは
 おかしい」という主張が、一票差で「更新するという案
 を否決した」。
  この正当な決議に怒ったのが「旨い汁を吸い続けたい
 とする『イギリス・ロンドンの銀行家たち』だった」。
  イギリス政府に、当時は、イギリスの弱小従属国的だ
 ったアメリカへの「けしかけ」や「圧力」を与えた。
  そして、不埒にも、1812年に、「英米戦争」に至った。
  この問題以外には、何の問題も無いという英米関係だ
 ったのだったが・・?
  イギリスのロンドンの銀行家たちは、戦費調達に窮す
 るアメリカに、「戦費調達先の必要性」と、その為の「
 中央銀行の保持の必要性を思い知らせるという『仕掛け』」
 だった。
  この英米戦争で、「アメリカ政府の債務(借金)は3倍
 となった」。
  アメリカは、深刻なインフレに見舞われた。
  このインフレに対処するにも苦労するアメリカだった。
  アメリカ内に、中央銀行の必要性が出て来た。
  1816年、アメリカ合衆国連邦議会は、第二合衆国銀行
 の設立法案を可決した。
  またまた、第一合衆国銀行の時と同じように、民間8割、
 政府2割となった。
  そして、その株主もまったく同じで、ロンドンのロス
 チャイルドと、ニューヨークのウォールストリートの民
 間銀行だった。
  また、同じに、通貨発行権を一部の民間が手に入れた。
 そして、その更新期限が、1836年に来るのだった・・
  (参考)因みに・・1963年6月4日に、ケネディ大統領
     の大統領令11110 (Executive Order 11110) に
     よって政府紙幣が復活する・・
      しかし・・その約半年後の11月22日に、ケネ
     ディ大統領は暗殺されてしまった。
      1971年1月以降は、政府紙幣の新規発行は行わ
     れていない。
      但し、現在でも法律上、財務長官は、3億ドル
     を限度に「合衆国紙幣」(United States Note)
     を発行することができることとされている (合
     衆国法典第31編第5115条)。
.
1815年6月18日、ワーテルローの戦い(ナポレオンの最後の
 戦い)
  ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテ
 ルロー近郊で、フランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・
 ボナパルト)が率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)
 が・・
  イギリス・オランダをはじめとする連合軍、および、
 プロイセン軍との間とで戦闘を行った。
  この戦いは、ナポレオンの最後の戦いとなった。
  ナポレオンのフランス軍は敗れた。
  戦力比較
  フランス軍72000、連合軍68000+プロセイン軍50000
  死傷者数
  フランス軍40000、連合軍27000+プロセイン軍7000
  エルバ島から帰り、フランス皇帝に復帰したナポレオ
 ン。
  そのナポレオンを打倒しようと、第七次対仏大同盟が
 出来上がろうとしていた。
  ナポレオンとしては、これが出来上がって、態勢が整
 ってしまう前に叩いてしまおうというのがナポレオンの
 作戦だった・・
  そして、ナポレオンは出陣したのだった。
  戦いは・・1815年6月16日から始まっていた。
  この時、ユダヤ財閥を築くことになるロスチャイルド
 は、戦況の分かる付近に配下の者を送り込んでいた。
  そして、ナポレオンが敗れると、馬を駆ってその情報
 をロスチャイルドへ伝えさせた。
  この情報を聞いたロスチャイルドは、普通と逆のこと
 を行なった。
  取引所で、イギリス国債を大量に売却した。
  これを見ていた周りの仲介人も、「情報通のロスチャ
 イルドが、イギリス国債を売っている、イギリスが敗れ
 たに違いない」と、一斉に取引所は、「イギリス国債売
 り一色となった」。
  イギリス国債は、当然、大暴落した。
  ロスチャイルドは、その暴落して安くなったイギリス
 国債を、「秘かに、大量に買い戻した」。
  しばらくして、ウェリントン軍が勝利したという情報
 が伝わると、イギリス国債は、この逆の動きをして買わ
 れた。
  反転して「大暴騰」となった。
  その高値で、ロスチャイルドは売り抜けた。
  巨万の富が、ロスチャイルドに残った。
  この果てしない巨万の富は、ヨーロッパ全域へ、そし
 て、世界へ、ロスチャイルドの影響力を行使できる額だ
 った。
.
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争:(アドワの戦い)
  イタリア軍とエチオピア軍が、エチオピアのティグレ
 州アドワ近郊で戦った・・が・・
  イタリア(エチオピア征討軍)は、アドワで大敗した。
  イタリアの敗北が決定づけられた。
  19世紀は、アフリカにとって悲惨な世紀だった。
  ヨーロッパ列強各国によって、いい様に殺戮され、植
 民地化された・・アフリカの大部分がヨーロッパの国々
 によって影も形も無かった。
  アメリカの黒人の方々の『棄民目的』でリンカーンが
 造った国・リベリアと、このエチオピアのみが、アフリ
 カの独立国であった・・そのほとんどが、ヨーロッパ諸
 国の植民地などで・・蹂躙されていた。
  だが、植民地獲得の欲望が収まらないヨーロッパ各国。
  そして、このエチオピアへも侵略は行なわれた。
  エチオピア軍を率いたのはメネリク2世だった。
  イタリア軍は、補給に事欠く状況だったが、本国の命
 令でオレステ・バレティエ将軍は、1896年2月29日、進軍
 を命じた。
  この状況を察知していた優秀なエチオピア軍は、即座
 に全面攻撃が命じられた。
  イタリア軍14,527名、エチオピア軍12万人・・エチオ
 ピア軍は、各地でイタリア軍を包囲した。
  イタリア軍が撤退すれば・・追撃をし続けた。
  イタリア軍は8000名を失った・・また、エチオピア軍
 も1万名を失った。
  主力を欠いたイタリア軍は降伏をせざるを得ず、アジ
 スアベバ条約を締結した。
  エチオピアの当然の独立を承認させた・・『白人の横
 暴な行為』が挫けた事例として燦然と輝く歴史となった。
.
1898年4月25日、アメリカとスペインの戦争(米西戦争)
  この戦争もアメリカの策謀(さくぼう、たくらみ)で
 始まった。
  真珠湾攻撃も、アメリカの謀略(ぼうりゃく、人をあ
 ざむく「はかりごと」)によって始まったことは、今・
 現代では、誰でも知っていて、はっきりしていることだ
 が・・
  この米西戦争も、はっきりと、アメリカの引っ掛けの
 策謀だった。
  第二次世界大戦の大東亜戦争にも、アメリカに明確な
 「日本を潰したい」という「アメリカの動機」があった。
  そして、また、この米西戦争も、アメリカに同様に
 「スペインを潰したい」という「アメリカの動機」があ
 った。
  この年・1898年2月15日、夜9時40分、没落するスペイ
 ンの残された植民地「キューバ」のハバナ港に停泊して
 いたアメリカ戦艦「メイン号」が、謎の爆発を起こした。
  不思議なのは・・乗員の多くが爆発の起きた艦の前方
 に寝ていて、死亡してしまい・・艦長をはじめとする士
 官クラスは、不思議に、艦の後部に居て難を逃れていた。
  この時、メイン号は沈没し、260人の乗組員が犠牲と
 なった。
  また、この艦に、8名の日本人も乗船していて、6人が
 犠牲となっている。
  爆発原因は、今日に至るまで特定されず「謎となって
 いる」。
  スペインが沈没に関わったという理由も見い出されて
 いない。
  しかし、アメリカは、謎で爆発の理由が分からないの
 にもかかわらず、スペインのせい(所為)にした。
  アメリカは、爆発の原因が不明にもかかわらず、スペ
 インの仕業(しわざ)だとして、スペインに宣戦布告を
 した・・(アメリカは怖い国である)
  さらに、おかしい事に、この時、アメリカは、都合良
 く、事前に、アメリカの太平洋艦隊を「香港に集結させ
 ていた」。
  そして、このアメリカの宣戦布告で米西戦争が始まる
 と、「すぐに」、スペインの植民地であるフィリピンを
 この艦隊に急襲させた。
  そして、マニラ湾に居たスペインの東洋艦隊を全滅さ
 せてしまった・・「マニラ湾奇襲攻撃」である。
  たったの4時間の戦いだった。
  そして、フィリピンの首都・マニラも陥落させた。
  スペイン本国から、フィリピン防衛の救援に、急遽、
 駆け付けたスペイン艦隊も間に合わず・・、
  こんなアメリカの計画的な素早い行動に追い付ける訳
 は無く、このスペイン艦隊も、スエズ運河を通過したと
 ころで、マニラの陥落までの戦況が一気に進んでしまっ
 たことを知り、本国へ空しく引き上げる状況となった。
  これで、完全に、スペインの息の根は止まってしまっ
 た。
  スペインは、これで、歴史上の表舞台から消え去って
 行った。
  アメリカは、歴史上、この様な事ばかりをしている。
  米西戦争のマニラ湾の戦闘状況・・
  1898年5月1日、米西戦争のフィリピンでの最初の戦闘
 のマニラ湾海戦が行われ、6時間の戦闘で、スペイン艦隊
 は旗艦を含む3隻が沈没、4隻が炎上するなどの壊滅状態
 に陥った。
  アメリカ艦隊の被害はほぼ無傷。
  アメリカ施政者のウィリアム・マッキンリー大統領(
 在任期間1897年3月4日~1901年9月14日)は、アメリカ国
 民の方々を煽った・・「ハワイよりも遥か西に敵がいる」
 と。
  この時、アメリカは、既に、ハワイを手に入れようと
 手を打って・・そして、この様な言い方で、アメリカ国
 民の方々を煽った。
  そして、国内宣伝を行って・・煽った。
  スペイン領のフィリピンが狙いだった。
  中国進出のための橋頭保としてフィリピンが欲しいア
 メリカだった。
  そして、さらに、「フィリピンの更に西に敵が居る」
 と、アメリカ国民の方々を・・煽って行く。
  それは、台湾だった。
  日清戦争後の台湾は、日本が関係して居た。
  アメリカ施政者は、「ハワイよりも遥か西に敵がいる。
 アメリカが攻撃されるぞ!」とアメリカ国民の方々へ危
 機感を煽った。
  そして、米西戦争でフィリピンのスペイン艦隊を殲滅
 してし(1898年5月1日)続けて、ハワイを併合してし
 (1898年8月12日)・・
  そして、アメリカの目の前には、台湾(日本)があっ
 た・・そして・・日米戦争の第一幕が開いて行った。
  植民地獲得競争に出遅れていたアメリカは、この様な
 行動をしていた。
  マッキンリー大統領の使った手は・・、
  スペインに対して、「キューバでの蛮行を止めよ」と
 いう聞こえの良い正論などを言って煽った・・
  事前に・・アメリカ国民の方々は・・アメリカ世論は・・
 この様な形の発言の数々で、スペインに対する憤りで沸
 き立たされて行っていた。
  そして、1898年に、米西戦争は勃発した。
  アメリカは、90日間でキューバとフィリピンを手に入
 れた。
  「小戦争」とこの戦争を馬鹿にして発言をした高官も
 居た。
  プエルトリコ、グアム、フィリピンもアメリカに併合
 され、キューバは占領された。
  マッキンリーは、1901年に、暗殺された。
.
1898年8月12日、ハワイ併合宣言・・日本の正義の抗議
   アメリカはハワイ諸島を侵略し、武力的にハワイ王国
  を併合した。
   この時、日本の大隈重信総理は、『正義の書簡』で、
  「これほど激烈で『宣戦布告か最後通牒に等しいような
 外交文書』は見たことがない」と言われるほどの抗議を
 した。
.
1899年、アメリカとドイツが、サモアを分割して奪った。
  太平洋上に「サモア」という島がある。
  昔の地図には「米領サモア」とか、「独領サモア」と
 かと書いてある。
  (参考)サモア諸島:ニュージーランドとハワイ諸島
     以外ではポリネシアで最大の面積のサバイイ島
     などがある。
      アメリカ合衆国の非自治的・未編入領域と説
     明されている。
      紀元前1000年には、すでにポリネシア人の方々
     が居住されていた。
  18世紀以降、侵略され、支配される・・それへの抵抗
 という歴史の中にあった。
  19世紀後半、イギリスとアメリカが協定を結び、サモ
 ア領土の保全予約をした。
  そのサモアに、ドイツが乗り込んで来て、サモアの王
 様に「ドイツ主権を認めさせた」。
  ここから、イギリス・アメリカ・ドイツの争いとなっ
 た。
  そして、1889年、この3国が、ベルリンで会合をし、サ
 モアの独立を宣言した。
  サモアは、この様に独立はしたが、平穏なサモアとは
 ならなかった。
  乱れが、内乱が、激しくなって行った・・すると、こ
 の3国が、再び、介入して来た。
  対立はさらに激化した。
  そして、1899年、アメリカとドイツが、サモアを分割
 して奪ってしまった。
  イギリスは、棄権した。
  サモアという独立国を、当事者の「サモア抜き」で勝
 手に分割してしまった。
  正義も、何も、まったく無かった。
  アメリカは、ハワイも併合していた。
  日本は、この時、反発した。
  大隈重信外相が、何度も何度も、激しい繰り返しの「
 正義の主張」を繰り返した。
  今・現代、中国(支那)が、世界を無視し、正義を無
 視し、南シナ海、東シナ海などで領土欲むき出しの行動
 をしている・・一帯一路で、金が払えないとそれを領有
 した。
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1914年7月28、太平洋上にあるヤップ島
  第一次世界大戦前までは、ドイツ領だった。
  激烈を極めた第二次世界大戦・・特に、太平洋上の島々
 には凄まじい戦いがあるが・・
  このヤップ島には、アメリカ軍の上陸作戦は行われな
 かった。
  日本の守備軍は、終戦までこの島を維持した。
  戦争中、補給が途絶すると、日本軍は、島民と協力し
 て農業や漁業に努めた。
  このヤップ島・・1914年7月28日から始まる対ドイツの
 戦いの第一次世界大戦があるが・・
  この第一次世界大戦の前から、アメリカが、日本を敵
 視していた状況が、このヤップ島に関連して分かる。
  アメリカは、「日本と一緒にやって行こう」なんて気
 は、まったく無かった。
  太平洋の島々を手に入れて来ていたアメリカが、この
 ヤップ島にもあった。
  ヤップ島を巡る争いが生じた。
  この島は、イギリスが、「日本領にする」と決めてい
 た・・そして、日本とイギリスは約束した・・
  日本は、この約束に基づいて、第一次世界大戦へ参戦
 した。
  中国(支那)の山東省に入って青島(ちんたお)を落
 すなど、日本は、イギリスのために誠実に、忠実に、行
 動した。
  さらに、日本の海軍は、駆逐艦を地中海へ派遣し、イ
 ギリス商船などを守った。
  ドイツの潜水艦が放った魚雷の前に入って、イギリス
 商船を沈没から守ったりした。
  日本の駆逐艦は代わりに沈没してしまった。
  日本の将兵も戦死してしまうという凄(すさ)まじい
 戦闘・防戦をした。
  この時の日本の将兵の墓が、今でも、マルタ島にある。
  日本は、忠実に誠実に、イギリスとの約束を守り、そ
 して、実行した。
  しかし、このヤップ島の話は、戦争が終わると、その
 途端、アメリカが騒ぎ出した。
  アメリカは、このヤップ島を無線基地にしたいと狙っ
 ていた。
  また、アメリカ本国からフィリピンへ向けての航路上
 に日本領の島がある事をアメリカは気に食わなかった。
  アメリカには、フィリピンからシンガポールへとのさ
 らなる拡大も目論んでいた。
  既に、日本を敵視しているアメリカが、そこにあった。
  この問題は大もめにもめた・・その末に日本領とはせ
 ず、日本の委任統治領となった。
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1944年9月15日、ペリリューの戦い(~1945年11月25日)
  ペリリュー島(現:パラオ共和国)で行われた日本軍
 とアメリカ軍の戦いは熾烈を極めた。
  日本軍の守備隊長は中川州男陸軍大佐・・
  アメリカ軍は、第1海兵師団長ウィリアム・リュパータ
 ス海兵少将と第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少
 将だった。
  要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いる
 という、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術は、アメリカ
 軍を苦しめた。
  そして、この後の硫黄島の戦いへと引き継がれて行っ
 た。
  このペリリュー戦で、アメリカ軍の第1海兵師団は壊滅
 する戦いでもあった。
  「死のペリリュー戦」と言われるこの戦いは、一週間
 もあれば終わるであろうとアメリカ軍は高をくくったほ
 ど・・
  その程度だと予測するほど、アメリカ軍と日本軍との
 兵力差があった・・大きな船や多くの兵員・兵器を持つ
 アメリカ軍との間に大きな差があった。
  アメリカ軍は、日本軍の兵力の約4倍の人員を上陸さ
 せた。
  航空機は200倍、戦車は10倍、重火砲は100倍
 以上という軍事力の差だった。
  戦闘が終局に達していた1944年11月24日・・生き残っ
 た日本将兵はわずか60人足らずで、ついに日本軍総司
 令部陣地の「桜散る」の電報が打たれた。
  実に、日米の戦いは73日間にも亘って死闘が繰り返
 された。
  その結果 日本軍の戦死者 10,695名 捕虜 202名。
  アメリカ軍の戦死者 1,794名 戦傷者 8,010名。
  そして、精神に異常をきたし帰国後に精神疾患とされ
 た者が数千名いた(不眠症や離婚や色々な人生弊害者が
 出た)。
  そして、皮肉にも、この結果が・・アメリカの日本上
 陸戦を変えさせた。
  沖縄戦で新型兵器・火炎放射器を使わせた・・また、
 原子爆弾を使わせた。
  このペリリューの戦いは、日本は正々堂々と戦った。
  アメリカ軍の様な卑怯で卑劣な戦い方はしなかった。
  アメリカ軍は、フィリピンでは、フィリピンの方々を
 徴兵し、前戦へ立たせた・・卑怯な卑劣な戦い方をした
 アメリカ軍だった。
  日本は、このペリリュ―島ではペリリューの方々を、
 アメリカ軍との戦いが始まりそうになると、日本軍から
 離れさせた。
  戦争に巻き込まれないようにと配慮し、実行した。
  一般人民であるペリリュ―の方々は、陣地構築までは
 徴用していたが、日本軍は、戦闘前に強制的に戦場にな
 りそうなところから退避させた。
  ペリリュ―島の方々の死者・負傷者は共に0名である。
  その様な配慮がなされ、自分の村々へ帰島していたペ
 リリュ―の島民の方々は、戦いが終わった後に、日本兵
 の遺体には見向きもせず、アメリカ兵の自国兵の遺体だ
 けを整理していたアメリカ人を見て、憤慨した。
  そして、有り難いことに、ペリリューの島民の方々は、
 自発的に穴を掘って、こぞって、日本兵の遺体を葬り、
 墓を作って戴いた。
  そして、さらに、その後も、日本の人達がいつ来ても
 よいようにと、その後も、墓地の維持・清掃などに心掛
 けて戴いている。
  戦後統治がアメリカに移ってから・・卑劣にも 歴史
 の捏造がアメリカによって行われ・・この島での日本軍
 が、現地で虐殺をした様な記述を教科書に載せさせて、
 教えていた・・
  しかし、住民の方々や、長老の方々が、そういう事は、
 まったく無かったと指摘し、今はそうした記述は取り除
 かれた。
  この国の国旗は 青い空の黄色の太陽が模されている。
  日本の日章旗に似たものとなっている・・
  これは、独立を勝ち取った時、上記の様なアメリカに
 よる反日教育と、アメリカによって「動物園政策だ」と
 揶揄された米国よりも、誠実な日本を知る「親日家とな
 った住民の方たち」の意見で決まったという。
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1945年5月29日、横浜大空襲
  アメリカによって行われた横浜市を中心にして、無実
 の市民を狙った無差別爆撃。
  B-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による焼夷弾攻撃
 だった。
  この日は火曜日で、天候は朝から快晴で無風状態だっ
 た。
  午前9時過ぎ、横浜上空に姿をあらわしたB29爆撃機は、
 防戦する日本軍の高射砲や機銃の弾幕の上を飛行し、高
 高度からの空爆を行った。
  降りそそぐ大量の焼夷弾によって、当時、97万の人口
 をかかえる大都市・横浜の中心部は、山手地区と山下公
 園周辺を除いて、ほとんどが燃え尽きてしまった。
  この卑劣な市民を狙った攻撃で約8,000名~10,000名の
 死者が出た。
  この時、アメリカは、実験をしたかった・・その為の
 攻撃だった・・モルモットとなった一般市民だった。
  焼夷爆弾攻撃でどのように燃え、死者や被害が、どの
 様に出て行くかのデーターをアメリカは得たかった。
  だから、被害の出やすい、燃えやすい木造住宅の密集
 地を事前に綿密に調べ上げていて、卑劣にも、また、非
 人道的にもアメリカは、この非戦闘員が集まっている住
 民を標的にする攻撃を実施した。
  アメリカ軍は、攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜
 市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃し
 た・・被害は甚大だった。
  米軍機のB-29を7機撃墜した。
  親を失った戦争孤児の浮浪児が、多数、生まれた。
  横浜の野毛の街は、この浮浪児たちが集まった・・あ
 たかも巣のように、浮浪児たちが集まった。
  また、職を失って浮浪者となった人たちも、あちこち
 に溢れた。
  戦争後になると、この様な破壊しつくされた町に、占
 領軍兵たちが町に溢れた。
  横浜大空襲で父を失った常盤とよ子氏は、この様な街
 の姿を写真撮影し、後の世に残した。
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1945年8月、終戦の後、横浜に、沖縄を除く日本全土の連合
 国軍地上部隊を統括するアメリカ第8軍の司令部が置かれ
 た。
  都心部や港湾施設をはじめ、本牧・小港・根岸地域な
 どの広範囲が接収された。
  関内や関外地域には、占領軍兵士の兵舎が、広範囲に
 設置された。
  伊勢佐木町などの、戦前の繁華街にはアメリカ兵たち
 が闊歩した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  https://yumesyakai.blogspot.com/