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2016年11月4日金曜日

(増補版)449E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年5月)

題:(増補版)449E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年5月9日、東京慈恵医院が開院した(4月説あり)。
  皇后陛下を総裁に迎え、「慈恵」の名を賜り、有志共
 立東京病院を、東京慈恵医院に改称した。
  1881年(明治14年)5月1日に、東京慈恵会医科大学は、
 高木兼寛によって創立された成医会講習所に始まる。
  高木は、1875年(明治8年)から5年間、海軍生徒とし
 て英国セント・トーマス病院医学校(現: ロンドン大学
 群キングス・カレッジ・ロンドン医学部)に学び、この
 様に権威のある医学校を日本につくりたいと思った。
  高木は、帰国後、廃止された慶應義塾医学所に関わっ
 ていた松山棟庵とともに、1881年(明治14年)1月、成医
 会なる研究団体を設立し、
  次いで、同・1881年5月に、この成医会講習所を設立し
 た。
  その後、高木は、戸塚文海とともに、1882年(明治15
 年)、有志共立東京病院なる慈善病院を発足させた。
  この病院の設立趣意には・・
  「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施す
 ことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救う
 こと」とした。
  同病院の資金は、有志の拠金によるものであり、有志
 共立という名はそのためであった。
  病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また、大日
 本帝国海軍軍医団の強い支援があった。
  有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに、医
 学教育の場としても重要な役割を果たし、
 成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担った。
  1887年(明治20年)、同病院は、皇后陛下を総裁に迎え、
 その名も東京慈恵医院と改め、
  経費は、皇室資金によることになった。
1887年5月11日、大阪織布会社が設立された。
  イギリス帰りの山辺丈夫を工務支配人とし、蒸気機関
 による1万500錘、労働者300人弱という当時最大の規模
 で開業し、
  電灯を設備しての昼夜二交替制のフル操業で好成績を
 あげた。
  1880年代後半の紡績ブームを呼び起こした。
  1890年、大阪織布を買収して、紡績兼営織布会社とな
 った。
  1897年、豊田佐吉が、木製の力織機を完成した。
  この後、これを鉄製に改良、日本の綿織物業の発展に
 大きく寄与した。
  (大坂紡績会社の説明文を参考にした)
1887年5月12日、『女学雑誌』が、仮装舞踏会における凌辱
 事件を痛論し、発禁となった。
  (4月20日、伊藤博文首相が、首相官邸で仮装舞踏会
 開催、西欧化迎合への非難が高まった)
1887年5月14日、取引所条例が公布された。
  これにより米商会所条例と株式取引所条例は、営業が
 満期になった時点で廃止となる。
  1878年(明治11年)5月4日、株式取引所条例が制定さ
 れ、東京・大阪・横浜の三地に取引所が設立された。
  1887年(明治20年)更に、取引所条例を公布し、
  1893年(明治26年)これを廃して、新たに取引所法を
 制定し、各地に48ヶ所の取引所が設立された。
  取引所は、その組織の上から会員組織、及び、株式会
 社組織の二つとし、
  その取引の目的物によって、有価証券取引所、及び、
 物産取引所の二つに分け、
  前者を、普通株式取引所と称し、
  後者の中で、米穀のみの取引所を米穀取引所、
  その他の物産の取引所を商品取引所と称した。
1887年5月18日、私設鉄道条例(しせつてつどうじょうれい)
 が公布された。
  政府は、1887年に、私設鉄道条例を制定して、認可の
 手続、会社設立の条件などを規定し、
  1892年に、国鉄と私鉄とに分かれて進められてきた鉄
 道建設を軍事上、行政上の観点から、全国的な規模で統
 一するため鉄道敷設法を制定した。
  以後、国鉄として建設すべき路線、私鉄の買収などを
 規定した
1887年5月20日、博愛社から日本赤十字に改称した。
  佐野常民が起こした日本博愛社が、日本赤十字社と改
 称した。
  シーボルトの長男、次男を、ポンペが支援し、万国赤
 十字社に加入した。
  9月29日、ドイツで開催された万国赤十字社大会に、森
 鴎外が日本の代表として出席した。
  ポンペと会談し、日本での赤十字社設立を喜ぶ。
1887年5月21日、最初の学位令(がくいれい)が公布された。
  学位令公布(明治20年5月21日勅令第13号)
  最初の学位は、大博士、博士の2種類だった。
  法は、5カ条からなっていた。
  (1)学位を、博士及び大博士の2等とする。
  (2)博士の学位は、法学博士、医学博士、工学博士、
    文学博士、理学博士の5種とする。
  (3)博士の学位は、次の2通りの場合に、文部大臣に
    おいて授与する。
     大学院に入り定規の試験を経た者にこれを授け
    る。
     これと同等以上の学力ある者に、帝国大学評議
    会の議を経てこれを授ける。
  (4)大博士の学位は、文部大臣において、博士の会議
    に付し、学問上特に功績ありと認めた者に、閣議
    を経てこれを授ける。
  (5)本令に関する細則は、文部大臣がこれを定める。
.
   (今日の言葉)
.
  題:降伏のチャンスを与えよ・・アメリカは本当にそうしたのか?
.
1945年5月3日、アメリカ大統領のトルーマンは、原爆使用
 に関する内務委員会を作った。
  ロシアが、コサック兵を使って、東へ東へとシベリア
 を手に入れて行き・・、
  そして、太平洋にぶつかると、南下政策を取り、
  満州を手に入れ、そして、中国を手に入れ、また、朝
 鮮半島を手に入れた。
  (因みに、この頃、一番広く、中国領土を奪っていた
 のはイギリスだった、
  そして、その次が、ドイツだった。日本ではない)
  ロシア。その様な果てしない「領土の獲得欲」の中に
 あった国と、朝鮮半島で、日本とぶつかった。
  朝鮮半島にソ連が入って来て、日本とぶつかった。
  この朝鮮半島のぶつかり合いで始まったのが、日露戦
 争だった。
  そして、その結果、日本は、この日露戦争に勝利し、
 ロシアの権益だった満州を移譲された。
  満州は、日本が侵略して得たのではない。移譲されたのである。
  そして、大東亜戦争(第二次世界大戦)の時、アメリ
 カ大統領のルーズベルトは、この「元ロシア領の満州」
 を餌にした。
  この満州の旧ロシア権益の復活を餌(エサ)に(それ
 に、旅順と大連という、ロシアが欲しくてたまらない不
 凍港の「おまけ」まで付けて)
  ソ連の対日戦への参戦を、ルーズベルトは、そそのか
 し、煽(あお)った。
  (アメリカよ! 満州は。君の領土ではないだろう!)
  しかし、ハリマン(アメリカの駐ソ連大使)が、「ソ
 連の共産化と、その他の地域が共産化される」という事
 に気付いたところから・・問題は発生した。
  アメリカは悩んだ。
  ルーズベルトは、キリスト教に強く洗脳され、キリス
 ト教のシャローム(キリスト教以外の異教徒の居ない、
 まったくのまっさら地に平和が来る・・という完全破壊
 の地から平和が来るという非人道的考え方・教義)から、
  日本へ無条件降伏をさせるとルーズベルトはしていた。
  (有色人種の日本人というキリスト教の有色人種蔑視
 もルーズベルトにはあった)。
  しかし、この無条件による日本の降伏で、「戦争終結
 が遅くなる」ことが予測された。
  (ルーズベルトの「国の形も維持されない」という無
 条件降伏は、チャーチルも可能か?といぶかったほどの
 異常な要求だった)
  その戦争状態が長期化すると、果たして、ソ連の参戦
 は正しかったのか?・・となる。
  ソ連の東アジアでの対日参戦を切っ掛けとした戦争が、
 長くなることになれば、
  それは、共産化される地域が広く、大きくなることを
 意味していて・・アメリカはそれを恐れた。
  (ルーズベルトの、「ソ連参戦のそそのかし」は逆目・
 反対の目に出ていた・・浅はかなルーズベルトだった)
  アメリカが、日本への降伏を、「無条件」から「条件
 あり」に変わったのは・・この様な所があったからだっ
 た。
  日本が大切にしている国家の状態・『くにがら』を保
 つ要求を容れた(いれた、認め受け入れる)方向へと変
 化した。
  アメリカ首脳にあったジレンマが解消される方向へと
 動いた。
  天皇制擁護論へとなった。
  日本とアメリカとの戦争が長引いたのは、この点があ
 った。
  もっと早く、アメリカは、この条件を容れるべきだっ
 た。
  最初、「日本に無条件降伏を要求する」と、ルーズベ
 ルトが、チャーチルへ口にした時、
  「その様なことがあり得るのか?」と、チャーチルが
 言った様に、
  あまりにも法外(ほうがい、普通に考えられる程度を
 はるかに超えていること)な要求に、チャーチルも驚い
 たという・・その「無条件降伏」ではなくなった。
  日本としても、日本のしっかりした「くにがら」が見
 えない形での戦争終結は・・納得できるわけはなかった。
  この様な方向へ早く動いて、戦争を終結していれば、
 戦争の最末期で亡くなった、特に、多くなった人々の死
 は免れたのだった。
  アメリカは、早く、この卑劣な条件なし・無条件降伏
 を変えるべきだった、返上すべきだった。
  しかし、この様なアメリカの方向性が出ても、アメリ
 カは、原子爆弾を投下した。
  卑劣な限りだった。
  ルーズベルトとイギリスのチャーチル首相は・・、
 1943年8月と1944年8月の2回、カナダのケベックで会談を
 している。
  第二次ケベック会談の前日の1944年9月19日にも、ルー
 ズベルトとチャーチルは、アメリカのニューヨーク州の
 ルーズベルトの家で密談している。
  ルーズベルトが推進した原爆製造計画は、この頃、3年
 におよぶ研究で、実用化に目途がついていた。
  そして、この二人は、覚書に合意した。
  それは・・、
  「十分な考慮の後、日本に使用し、降伏するまで投下
 すると警告する。
  原子力研究は、日本降伏後も継続する。
  そして、原子爆弾に関する情報は極秘であり、ソ連に
 は伝えない」
  ・・だった。
  この様な経過の中で、ルーズベルトの突然の死で、大
 統領を、トルーマンが引き継いだ。
  日本への原爆を投下するのか? 
  投下すると決断してよいのか?
  ・・が存在していた。
  トルーマンは、1945年5月3日に、原爆使用に関する内
 務委員会を作った。
  1945年7月ごろ、委員会議長の陸軍長官・スティムソン
 は、日記に次のように書いた・・、
  「原爆開発が、戦後に、どのような意味を持つのか。
  さらに、人類最初の原爆投下によって生じる責任問題
 についても、我々は、理解しておかなくてはならない。
  (中略)
  果たして、日本に、原爆は投下されるべきなのか、
  もしそうならばどのような条件で」・・と。
  1945年6月に・・最初の、委員会の勧告が、出されてい
 たが・・、
  その内容は・・、
  「日本に警告を与えず、
   その破壊力を示す事が出来る効果的な目標を選んで
  投下すべきだ」・・と勧告していた・・が・・、
  1945年7月2日に・・、
  内務委員会議長のスティムソンは・・、
  その勧告を無視するかのように・・、
  トルーマンに、次のような提案を行なった・・、
  「日本上陸作戦は、激しい抵抗を伴う事は明らかです。
   問題はこうした力による方法でしか日本を無条件降
  伏に導く手段はないのか・・という事です。
   私は(原爆投下の破壊力について)事前に警告し、
  降伏のチャンスを与えるべきだと・・考えます」・・
  と。
   そして、「日本は(アメリカの)新聞が報じる様に
  狂信者ばかりの国ではありません。
   それどころか、非常に知的な人々が居る事をこの一
  世紀の歴史が示しています。(中略)
   もし、われわれが、現在の天皇家の存在を立憲君主
  制として認めるなら、日本が降伏に応じる可能性は、
  非常に高いと思うのです」・・と。
  ・・しかし・・(続く・・)、
.
  そして、次の(今日の言葉)
.
  題:国家の厚み
.
  「国家の基本を踏み外せば、子孫がどんな不利益をこ
 うむるか?」・・、
.
  この、長期的な大局的な視点が大切である。
  アメリカは、この視点が欠けている・・欠けていた。
  目先の自国の利益ばかりを追い、不正義も色々とした。
  その様な国だった。
  泣き苦しんだ「民、そして、国」があまた居た。
  アメリカは、利益を優先していた。
  日本は、1872年(明治5年)の新橋~横浜間の鉄道敷設
 資金として、外国から借りた資金をはじめ、国家建設の
 ために種々必要だったあらゆる資金のすべてを、
  「まだまだ弱小だった、小国の日本」が・・、
  それに「弱肉強食の列強諸国の中にあって・・その厳
 しい時代」に・・その借りた資金のすべてを、
  せっせせっせと努力し・・、
  勤勉に努めて・・、
  借りた資金のすべてを・・完済した。
  この歴史も、国際社会の記憶となって・・、
  また、日本の勲章となって・・輝いている。
  「信義(しんぎ、真心をもって約束を守り、相手に対
 するつとめを果たすこと)」・・
  これこそ財産だ・・と、
  日本は、遠い昔から・・その様に考え・・育んで来た・・、
  その日本のこの常識が・・、
  大きな国際的な信頼を得るという・・
  この「真の財産」を・・、
  日本は・・いっぱい持っている。
  それは、その根底には、歴史の長い国の、国家の生き
 方をわきまえた、考える視点があり、
  その基底の考え方から来ている・・その「国家の厚み」
 がその様にさせたのだった。
.
  そして、また、次の(今日の言葉)
.
  題:日本の国家信条は・・『誠』を尽くす。
.
  日本の国家信条(しんじょう、固く信じている事柄)
 の一つは、「国際社会において『誠』を尽くす」だ。
  これに対し、アメリカの歴史を見て来ると、「利の追
 求」。
  それも、正々堂々と利を得るのではなく、まったく、
 ずる賢く、利を得ることのいかに多いかに驚く。
  イソップ物語の「狐の如く」である。
  日本が誇るべきは、日本は、「信義」を重んじた。
  日本は、一旦結んだ国際関係の約束、条約などは守り
 抜いた。
  決して、、イソップ物語のキツネの如くのマネはしな
 かった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月1日火曜日

(増補版)448E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年5月)

題:(増補版)448E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年4月1日、「内務省地理局長崎測候所」が、長崎県へ
 移管され、「長崎県立長崎測候所」と改称した。
  この年の1月1日に、東京気象台が中央気象台と改称さ
 れていたが・・、
  1877年(明治10年)1月、内務卿・大久保利通の建議に
 よって、当時、電信線の開通している長崎・兵庫・仙台・
 青森・新潟の5カ所に、内務省直轄の気象測量場を設立す
 ることが決定し、
  1878年(明治11年)7月1日、国費をもって、彼杵郡下
 長崎村十善寺郷361番地[1](海抜57.6m)に、長崎測候所
 が設置された。
  長崎測候所は、日本初の地方測候所として開設された。
  また、「測候所」という名称が用いられたのも、長崎
 測候所が初めてだった。
  そして、毎日、3回の気象観測を行い、内務省地理局測
 量課へ報告がなされた。
  そして、この時、1887年(明治20年)4月1日、長崎測
 候所が、国から長崎県へ移管された。
1887年4月 東京紡績会社が設立された。
  東京紡績は、この時・1887年(明治20年)4月に設立さ
 れ、
  東京深川(当時は東京市深川区東大工町小名木川沿岸)
 に本社工場があったが、
  1908年(明治41年)に、創立20周年を記念して、新たに
 東京荒川の南千住地方(じかた)橋場(現・荒川区南千住8
 丁目)に、橋場工場(敷地16万m2)を建設した。
  橋場工場は、1928年(昭和3年)4月に、東京工場と改
 称し、
  第2次世界大戦時には、東京航空機製作所として軍需に
 転換した・・しかし・・
  戦後に復元したが・・、
  1962年(昭和37年)11月に、閉鎖されるまで、綿紡工場
 として存続した。
  閉鎖後は、経営の多角化を目指して設立されたニチボ
 ー不動産(株)(現・(株)ユニチカエステート)によって、
 跡地に自動車教習所、ゴルフセンターの新規事業が展開
 され、
  その後は、東京都の都市計画により、1971年(昭和46
 年)~1976年(昭和51年)の間に順次、都に売却し、
  現在は、マンション群と汐入公園になっている。
  日本の紡績業は、日米の繊維摩擦で悲惨な状況となっ
 ている。
  日本は、アメリカに強硬に繊維産業が潰された。
  繊維の輸出規制と、沖縄返還を絡めた交渉は、「糸(繊
 維)と縄(沖縄返還)の取引」とも言われた。
  佐藤栄作首相は、1969年の首脳会談で、沖縄返還の約
 束を取り付けるとともに、ニクソン大統領に輸出を規制
 すると伝えた。
  だが、両国の溝は大きく、いったん交渉は決裂した。
  1971年の沖縄返還協定調印後、日本が規制と引き換え
 に繊維業界に補償することを決め、
  1972年1月、合意に至った。
  当然、日本に返還すべき沖縄が材料に使われ、日本の
 毛・化合繊製品の対米輸出規制をめぐる厳しい交渉は、
 1969年~1971年に行なわれたのがピークだった。
  それ以前の綿製品の対米輸出規制をめぐる交渉が、長
 引いても数ヵ月以内に事務レベルで決着していたのに比
 べ、
  この時の毛・化合繊製品をめぐる交渉は、政治問題化し
 て2年半も紛糾し、
  第2次大戦後の日米関係における最悪の危機的状態をも
 たらしたと言いわれた。
  特に、この問題は、1968年のアメリカ共和党の大統領
 候補ニクソンの選挙公約に端を発し、
  1969年春、ニクソン新政権下に出された日本に対する
 厳しい自主規制要求に始まった。
  上記の東京紡績会社も、1962年(昭和37年)11月に、閉
 鎖している。
  そして、日本の紡績業界は、紆余曲折にのたうち回る
 ことになる。
1887年4月、浅野総一郎が、浅野回漕部を設立した。後の東
 洋汽船。
  東洋汽船のルーツは、浅野総一郎が、1886年(明治19
 年)に設立した浅野廻漕店(浅野廻漕部)で、
  浅野廻漕店は、浅野が、渋沢栄一や渋沢喜作らととも
 にロシアから汽船「ベロナ」を購入し、
  「日の出丸」と命名し、石炭を輸送することを生業と
 していた。
  やがて、持ち船を増やし、日本郵船に対抗する意味合
 いをもって、他の小規模船会社とともに、海運同盟会を
 結成した。
  日清戦争直前の、1893年(明治26年)頃には、帆船な
 ども含めると、8万総トンもの船腹を有する規模にまで発
 展し、
  日清戦争では、何隻かの持ち船を日本軍御用船として
 提供した。
  折りしも、日清戦争終結後の1896年(明治29年)に、
 航海奨励法と造船奨励法が施行され、
  日本船が、海外航路に就航する際や、新造船建造の際
 に、一定の補助金を出すという、この二つの法律の施行
 を契機として、
  日本の船会社は、相前後して海外へと打って出る事と
 なった。
  この様に荒波を乗り越えて来たこの会社も、戦後の財
 閥解体に会い、
  安田財閥系に属し、筆頭株主が安田銀行だったこの東
 洋汽船もその波に飲まれた。
  そして、1960年日本油槽船へ吸収合併されて姿を消し
 た。
1887年4月14日、塵芥取締規則が制定され、ゴミ回収事業が
 始まった。
  東京市史稿、市街篇によると・・、
  1887年4月14日に、厠芥溜下水取締規則が創定されて
 いる(官報第1134号明治20年4月14日、官報第1126号明治
 20年7月30日、東京府警視庁公報明治22年、第4版警視庁
 令類纂明治27年3月刊)
  そして、別史料の記述に・・、
  1887年に、警視庁の警察令で「塵芥取締規則」が制定
 され、
  東京市内では、各戸にごみ容器が備えられ、指定搬出
 業者がごみを収集(有料)するようになった・・とある。
1887年5月5日、京都織物会社が設立された。
  京都織物会社(1887年設立)は、ヨーロッパの最新技
 術による日本最大の近代織物工場だった。
  浜岡光哲や田中源太郎など、京都の財界人だけでなく、
 渋沢栄一や益田孝、大倉喜八郎など、当時の日本を代表
 する実業家が発起人に名を連ね、
  経営にも参画していた。
  いわば、中央の財界と京都府とが一体となって創設し
 たモデル工場だった。
  超一流の経営陣、ヨーロッパ帰りの技術スタッフ、最
 先端の設備をもって創業した京都織物会社は、
  明治から大正期にかけて、名実ともに織物・染色業の
 トップメーカーになって行った。
  従業員も、全国各地から選りすぐられ、
  技術者は、蔵前高等工業(現・東京工業大)、
  事務担当は、京都第一商業など商業学校出の成績優秀
 者で占められていた。
  とても尋常小学校出の坂部三次が、簡単に入社できる
 会社ではなかった。
  何軒もの商家を渡り歩いた三次の身元引受人となり、
 温かい眼をそそいだのは郷里の先輩・田中源太郎だった。
  田中は、幕末の亀岡藩にあって、最も年若な家老だっ
 た。
  維新後は、実業界に進んで成功をおさめていた。
  山陰本線の母体となる京都鉄道を設立するなど、三次
 が京都市に出てきたころは、京都経済界のリーダー的存
 在だった。
  坂部本家も田中家もともに、亀岡藩家老の家柄だった。
  そうした縁もあって、三次の兄は、田中の援助を受け
 て、府立京都商業学校に通っていた。
  三次が入社したころの経営陣を見ると、取締役会長の
 渋沢栄一を頂点にして取締役は4人という構成だが、
  そのなかに田中が名を連ねている。
  坂部三次は、郷里の名士・田中源太郎に眼をかけられ、
 「事務見習」として、新しくスタートをきった(後略)
  (日本クロス工業社史を参考にした)
1887年5月6日、叙位条例を公布した(5月4日説あり)
  1887年(明治20年)5月4日には、「叙位条例」(明治
 20年勅令第10号)が制定されて位階制度の再編が行われ
 た。
  これによって、位階は、正一位から従八位までの16階
 とされた。
  そして、叙位対象者に関しては「凡ソ位ハ華族勅奏任
 官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ功績アル者ニ叙ス」
 とされた(叙位条例1条)。
  従四位以上は、勅授(宮内大臣から伝達)、
  正五位以下は奏授(宮内大臣が天皇陛下に奏して叙位)
 とされた。
  また、位は従四位以上は華族に準じた礼遇を享けた。
1887年5月9日、板垣退助、大隈重信、勝海舟、後藤象二郎
 を伯爵に、他13人を子爵に叙した。
  板垣のみ、一旦辞意を表明した後、授爵した。
  (氷川清話)勝海舟、特旨をもって華族に列せられる、
 勲功により伯爵を授けられる。
.
  (今日の言葉)
.
  題:真実に、人間的に・・悩むアメリカがあった・・
.
1945年5月、この時、悩むアメリカがあった・・
  相手を見るとき、「相手を・・差あるもの」と見る。
  アメリカは、その差あるものを切り捨て排除した。
  アメリカの論理で・・、
  アメリカは、その論理を正しいと、当然、自分の思考
 によって、自分の判断基準によって、その結論に至った。
  その結果ゆえに正しいとし、その正しさを実現する事
 を正義とし、その正義実現のために排除行動を起こし、
 その一連の行為を・・「正義を成した」とした。
  そして、野蛮なこの行為のすべてを、崇高なる行為だ
 と自画自賛した。
  そして、駆逐した相手をプロパガンダ(嘘宣伝)まで
 して、地に落とした。
  その一連の自分の行動が、まったく、公正さに欠け、
 独りよがりになっている事の反省はなかった。
  そして、その行動には、武力も辞さないという一時代
 前の蛮行が行われた思考論理をもって、その行動さえも
 正しいと、正義だとした。
  そのような思考の下に起こされた戦争の結果は、悲惨
 そのものだった。
  「極限の悲惨さ」と言わざるを得ない残酷なやり方を
 アメリカはした。
  アメリカは、アメリカなりにそれに満足し、納得する
 浅はかさの状況にあった。
  自らの行動の行き過ぎに、少しの反省もなかった。
  まったく悲しい事である。
  そこに亡くなった命の大きさに気が付かないアメリカ
 だった。
  自国の子供たちへも正義だったと洗脳した・・今でも、
 洗脳し続けている。
  そこには、後ろめたさが有るから、その様な行動をせ
 ざるを得ないという事は、明々白々、誰の目にも明らか
 であった。
  愚かな事である。
  そんな言い訳を、子供たちにしなければならない行動
 だったのだ、戦争だったのだ・・という事である。
  まだ、思考形態の未熟な子供たちに「原爆投下が正し
 いという屁理屈」を、反駁のしようのない、いたいけな
 子供たちに「刷り込んだ」、そして、「刷り込んでいる」。
  この様な結果に至った初めには、「相手を差あるもの」
 と見て、
  その差を「自らの、自分の」思考で評価し、良否判断
 をするという、自分勝手な思考、そして、行動パターン
 があった。
  そして、キリスト教の「異端排除の正義だという考え
 方・教義・思想」「異教徒は殺せのキリスト教の教義」
 に洗脳され、マインド・コントロールされた思考パター
 ンと、行動パターンであった。
  「正しくないのでは?」と反省する心、「見直しする
 心」は、毛頭、無かった。
  その思考の中に、日本人が当然のように持つ「共生」
 の考え方はなかった。
  差があるものと見ず・・差別せず・・世界の国々を、
 富める国も貧しい国も各々(おのおの)その国の特性を
 生かし、それぞれの役割があるのだ・・という見方は出
 来なかった。
  日本の国際的な援助行政は、まったくこの「共生の考
 え方」で行われている。
  富める国も貧しい国も各々その国の特性を生かし、そ
 れぞれの役割を果たす事によって「共生」するのである。
  そして、そこには、差あると見て、その差を「自分の
 都合の良いものを良し」とし、都合の悪いものを「異端」
 として抹殺し、排除するは、当然、悪としている。
  キリスト教の差別教義「異教徒は殺せ」は、当然、悪
 なのである。
  ・・しかし・・
  隠されたアメリカがあった・・
  新たに明らかになった事々の中に、史料の中に、一部
 ではあるが・・反省し、悩む、アメリカがあった。
  まったく、愚かなるアメリカである・・、
  ハリマン(アメリカの駐ソ連大使)は書き、そして、
 伝えた・・、
  「ソ連の日本への参戦は、果たしてそれほど必要な事
 なのだろうか?
  そもそも、我々の対日戦争の目的は何なのか?
  日本の完全破壊か?
  それとも、日本を残すべきなのか?」・・と、自問自
 答していた(「チャーチル、スターリンへの特使」)
  わずかに残されていたアメリカの『常識』だった。
  しかし、愚かなるアメリカは、ハリマンのこの問い掛
 けに、
  アメリカ指導部は、終戦となるまで答えが見いだせな
 いまま、悩みの中で、原爆は投下され、ソ連は参戦した。
  愚かな戦争を作ったアメリカの史実の中に、この様な
 内容の史実があった。
  1945年5月、グルーが、「新たな戦う相手・ソ連が現れ
 た」と、慄(おのの)いていたのは、このハリマンの心
 の吐露を知り、反映した事々だった。
..
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2016年10月31日月曜日

(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年4月)

題:(増補版)447E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年4月~1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年4月26日、第26回 條約改正會議で、改正案が成立し
 た。
  第二十六回条約改正会議で、裁判管轄に関するイギリ
 ス・ドイツ案を修正して議定(ぎじょう、合議してこと
 を決めること、また、その評議)した。
  その内容は、領事裁判権を撤廃する・関税自主権の一
 部を回復する(輸入税率を5%から10%に引き上げる)
  代わりに、次のことを実行する。
  (1)批准後2年以内に、日本内地を外国人に開放する。
  ハリスとの条約では、横浜・神戸などの居留地以外で
 は、外国人は、居住・通商・不動産所有は禁止されてい
 た。
  領事裁判権も、居留地のみに適用としていた。
  井上案によると、外国人に内地雑居の地を認める。
  つまり、どこでも居住・通商が出来ることになる。
  (2)そのために、外国人にも通用する西洋主義によ
   る法典を編纂する。
  そのためには、日本の国家主権が制限される。
  (3)内地雑居の地で起きた外国人が関係する事件では、
    すべての裁判所で、外国人判事・検事を半数、任
    用する・・というものだった。
1887年4月26日、九代目市川団十郎、井上馨邸にて「勧進帳」
 を演じ、栄誉に浴した。
  東京.麻布鳥居坂の井上馨邸で、明治天皇陛下が歌舞
 伎を観覧された。
  初めての天皇陛下の演劇観覧だった。
  また、井上の他にも、伊藤博文や松方正義などの元老
 などの国内外の関係者が観劇し、演目は「勧進帳」のほ
 かもあった。
  これによっても、歌舞伎の高尚化が進み、歌舞伎役者
 の社会的地位も良くなり、
  近代歌舞伎が、国劇の地位を確保する大きな転換点と
 なった。
  政府側も、欧米に文明国・日本を印象付けるため、内
 外上流社会の社交場として、外国大使らを招く国際的な
 観光行事として取り組んだ。そして、
  天覧劇への外国要人の招待は、不平等条約改正を図る
 「鹿鳴館外交」の一環とされた。
1887年4月28日、農業の振興に大切な化学肥料・・、
  東京人造肥料会社が設立された(2月説あり)
 後の大日本人造肥料、そして、日産化学工業株式会社へ。
  同社のホームページより、以下その沿革・・、
  1887年(明治20年)高峰譲吉、渋沢栄一、益田孝ら明
 治の先覚者により、わが国初の化学肥料製造会社である
 東京人造肥料会社として創業した。
  その後、関東酸曹株式会社、日本化学肥料株式会社等
 を合併し、
  そして、大日本人造肥料株式会社に商号変更、
  1937年(昭和12年)に、日本産業株式会社傘下の日本
 化学工業株式会社に資産等を包括譲渡したのちに、現在
 の社名である日産化学工業株式会社に改称した。
  最初の工場は、現在の江東区大島1丁目に建造され、い
 まも跡地の公園には当時を偲ぶ記念碑がある。
  1887年(明治20年)2月、東京人造肥料会社(のちの東
 京人造肥料株式会社)設立
  1889年(明治22年)7月、日本舎密製造会社(のちの日
 本化学肥料株式会社)設立
  1891年(明治24年)3月、日本舎密製造会社小野田工場
 (現在の当社小野田工場)完成
  1895年(明治28年)12月、合資会社王子製造所(のち
 の関東酸曹株式会社)設立
  1897年(明治30年)11月、関東酸曹株式会社王子工場
 (のちの当社王子工場)完成
  1907年(明治40年)12月、東京人造肥料株式会社小松
 川工場(のちの東京日産化学株式会社)完成
  1910年(明治43年)7月、東京人造肥料株式会社が大日
 本人造肥料株式会社と改称
1887年4月30日、法律顧問ロエスレル「日本帝国憲法草案」
 を提出する。
  政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレルが、法
 制局長官の井上毅に、独文での憲法試案を提出した。
  ロエスレルは、1878年、当時の駐独公使・青木周蔵の
 周旋によって、外務省の公報顧問として招聘された。
  ロエスレルは、1834年、ドイツ・バイエルン地方のラ
 ウルに、弁護士の子として生まれた。
  カール・フリードリヒ・ヘアマン・ロエスレルは、エ
 ルランゲン大学やチューリッヒ大学で、法学や国家学を
 学んだ後、
  ロストック大学の教師となると、
  1861年に、27歳の若さで同大学の国家学教授となった。
  1878年に、訪日するまでその地位にあって、イギリス
 の経済学者アダム・スミスを批判した書や、社会行政法
 に関する書を著し、学界の指導者として知られていた。
  ドイツ公使だった青木周蔵のあっせんにより、外務省
 の法律顧問として訪日したロエスレルは、
  1881年3月ころから、民法の起草をするかたわら、
  岩倉具視の知恵袋といわれ、
  のちに、大日本帝国憲法(明治憲法)の起草者のひとり
 となる井上毅に、ドイツ(プロイセン)流の君主主義的憲
 法の採用をアドバイスした。
  一方、大隈重信は、イギリスにならった開明的憲法を
 つくるように政府に提案したが、
  同年・1881年7月、岩倉によって憲法制定の根本方針は、
 ドイツ的立憲主義とすることが上奏され、
  他の事件とのからみもあって大隈は罷免された(明治
 十四年の政変)。
  その後、ロエスレルは、内閣顧問に抜擢(ばってき)
 されて、伊藤博文の信任を得た。
  1886年秋ごろから、伊藤の私邸で、伊藤、井上、伊東
 巳代治、金子堅太郎を中心に大日本帝国憲法の草案作成
 が極秘のうちに着手された。
  ロエスレルも、私邸近くに宿泊して助言を求められた。
  1887年夏に、「日本帝国憲法草案」ができあがったが、
 その草案の多くは、ロエスエルが、4月に提出した私案の
 大半が採用されたと言われている。
  そして、「日本帝国憲法草案」は、そのまま受け入れ
 られ、
  1889年に発布され、1890年に公布された。
  その後、ロエスレルは、商法を起草したが、民法とと
 もに施行延期となっている。
  1893年に帰国し、翌年・1894年に、妻子の住むオース
 トリアに移り、亡くなった。享年60歳。
1887年4月、「対馬要塞」が建設を開始した。
  温江砲台・芋崎砲台・大平低砲台を起工した。
  そして、この年の9月に、大石浦砲台も着工した。
  翌年の1888年には、この4つの砲台が竣工している。
  対馬の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞。
  対馬中部の浅茅湾を防備するため、1887年4月から工事
 が開始された。
  この工事は、東京湾に次いで日本で二番目のもので、
 1888年10月までに、4砲台が竣工し、日清戦争を迎えた。
1887年4月、長崎海運局の前身となる長崎司検所が開所した。
1887年4月、三菱社社長岩崎彌之助が、大蔵大臣伯爵・松方
 正義に長崎造船局の払下げを申請した。
  1887年6月、代金45万9000円で許可を受け、長崎造船局
 は三菱社の所有となる。
  現在、三菱重工業長崎造船所となっているが、日本を
 支えて来た、そして、これからも支えて行くこの社の流
 れ(沿革)は・・、
  1857年(安政4年)江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設
    着手。
  1860年(万延元年)「長崎製鉄所」と改称。
  1861年(文久元年)完成。
  1868年(明治元年)官営「長崎製鉄所」となる。
  1871年(明治4年)工部省所管「長崎造船局」と改称。
  1879年(明治12年)立神第一ドック完成
  1884年(明治17年)三菱経営となる。
    「長崎造船所」と改称。(三菱重工業は、この年を
    創業年としている。)
  1887年(明治20年)設備の払い下げを受ける。
  長崎県長崎市にある本工場(長崎造船所)、香焼工場、
 幸町工場と、諫早市の諫早工場からなる。
  大型客船や大型タンカー、LPG船等の船舶のほか、発電
 プラント、環境保全設備、海水淡水化プラント等、多岐
 にわたる製品を製造している。
  本工場(長崎造船所)は、1857年(安政4年)に、日本
 初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として誕生し、江戸幕
 府から明治政府に管理が移った後、
  1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後民営の造船所
 として多数の艦船を建造した。
  戦艦「武蔵」を建造したことでも有名。
  戦後、三菱重工は3社に分割されるなど親会社は紆余曲
 折したが、本工場は賠償撤去指定工場を免れ存続する。
   一時期は受注も途絶え小型の漁船を細々と建造する
 有様であったが、
  1950年(昭和25年)の朝鮮戦争前後よりその高い造船
 技術を評価され 、
  以後オイルショック頃まで大型タンカー受注が続いた。
  現在は、民間船舶の他、海上自衛隊の自衛艦も多数建
 造している。
  1950年代には、後甲板の傾斜に特徴的な設計を持つ護
 衛艦を多く建造し、護衛艦における「オランダ坂」の名
 前の由来となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:マッチポンプ・・アメリカ・・
.
1980年9月22日、イラン・イラク戦争(湾岸戦争)が起きた
 (~1988年8月20日)
  アメリカのブッシュ(父)大統領の時に起きた。
  因みに、ブッシュ(子)大統領の時には、イラク戦争
 (2003年3月20日~2010年8月31日にオバマ大統領によっ
 て「戦闘終結宣言」が出された)が起きた。
  このブッシュ(父)大統領の時の「イラン・イラク戦
 争(湾岸戦争)」で、アメリカはイラクを応援した。
  そして、イスラエルは、イランを応援した。
  (アメリカは、なんだかんだとイスラエルを支援する
 という、両国は緊密関係にあるのだが・・?
  この緊密関係にある両国が、まったく敵対する違う国
 を、それぞれ応援するという・・不思議・・??)
  そんなことしたら・・そうしたら・・戦争はいくらで
 も続いてしまう。
  そこで、「これでは戦争は、いつまでも続くではない
 か??」・・と、伊藤貫氏が質問すると・・??、
  「そうだ、それでいいのだ」、
  「それが、我々の目的だ」、
  「それが、我々に都合がよいのだ」という返事が返っ
 て来たという・・??
  YouTube「西部邁ゼミナール、文明の衝突と不介入主義
 外交」の、14分00秒あたりから23分00秒あたりの発言。
  日中戦争(本当は、日・中米戦争)の当時、
  日本と中国の戦いだと思われたこの戦争も、陰でアメ
 リカが、れっきとした戦力(=アメリカ正規軍)で、日
 本と戦っていた。
  (日本とアメリカの戦争は、『真珠湾で始まった』な
 んていう話は真っ赤な作り話・・なのだ。
  この『日・中米戦争』で、既に、日本とアメリカは、
 戦争状態にあった。
  ただ、アメリカが、卑怯な事に、卑劣な事に、秘密に
 して、隠していただけ・・今は、明らかになっている事)
  そこで、日・中(米)戦争と書いたが・・、
  この日・中(米)戦争も、先ほどの伊藤貫氏の発言の
 如くの状況から、日・中(米)戦争が泥沼化して行った。
  アメリカが、汲めども尽きぬ無尽蔵の「金と武器」を
 中国へ注ぎ込み支援していた、隠れて流していた。
  これでは、戦争が終わる訳がない。
  この中国へ支援するルートを、「中国の蒋介石を支援
 するルート」という意味で「援蒋ルート(えんしょうる
 ーと)」と言った・・が・・、
  日本は、この存在を知って、これがあっては戦争は何
 時までも終わらない・・と、
  東南アジアにあったこの地域のこのルートを遮断しよ
 うと上陸した。
  アメリカは、この日本の行為を「侵略だ」と声を大き
 くして国際社会にプロパガンダ(嘘宣伝)し、
  (アメリカ軍だって上陸していて、こんな戦争の物資・
 武器を上陸させているのに・・だ)、日本を悪者に落と
 し、それ(日本)と戦うのが正義だとした。
  マッチポンプという言葉があるが、それは、「自分で
 火をつけておいて、火事だ火事だと騒いで、火事を消す
 行為」のことを言うが、
  アメリカは、まさしく戦争をこの様にして、そして、
 また、戦争を作って、行っていた。
  (注):伊藤貫氏の上記のYouTubeのURLは・・、
https://www.youtube.com/watch?v=529u9sljqXA&index=4&list=PLn2kLGRySM2jWCzJaowldZXCZrT7Nlda3
  表題:文明の衝突と不介入主義外交・西部邁ゼミナール
  (参考)マッチポンプ:《(和)match+pomp(オランダ)》
    自分で問題やもめごとを起こしておいてから収拾
   を持ちかけ、何らかの報酬を受け取ろうとすること。
   また、その人。
    マッチで火を付けてポンプで消火するという二役
   を一人でこなす意。
    自分の利を得るためだけで、こんな卑劣な行為を
   する輩の行為。
    何ら世界や相手への思いやりなど微塵もない。
    理屈は何でもつくから「やりたい放題」だった。
  そして、この年に・・、
1980年代、ソ連は、経済の行き詰まり、官僚制による体制
 の硬直化が明らかになった。
  1985年にソ連共産党書記長になったゴルバチョフは、
 体制の危機を乗り越えるための「ペレストロイカ(改革)」
 に乗り出した。
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2016年10月30日日曜日

(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)

題:(増補版)446E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年3月~1887年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年3月 天満紡績・平野紡績会社が設立された。
  天満紡績(てんまぼうせき)は、大阪近郊に存在した
 紡績会社で、
  1887年3月のこの時に、第三十四国立銀行頭取の岡橋治
 助ら大阪の商工業者が中心となって設立され、
  資本金は60万円で、
  本社工場を、大阪府西成郡川崎村(現在の大阪市北区)
 に置いた。
  翌・1888年に、約7000錘の工場が完成して、操業を開
 始し、
  続いて、約27000錘規模の第2工場の建設も開始した。
  第2工場は、1889年に完成し、資本金も120万円にまで
 増やした。
  これによって創業から2年余りで、当時の日本国内屈指
 の紡績会社となった。
  ところが、その矢先の1889年9月、天満紡績争議が発生
 し、
  その5年後の1894年1月にも大規模な争議が発生した。
  そのためか、増資と減資を繰り返すなど、経営は不安
 定となり、役員を総交替させるなどの措置を取ったもの
 の、状況は回復できず、
  1900年3月、同じ西成郡を拠点とする大阪合同紡績と合
 併した。
  以上の様に日本の産業革命期の紡績業は突出した成長
 をした。
  そして、それを大企業が先導した。
  日本農家の副業的な綿生産は、欧米からの低価格・高
 品質な綿糸に駆逐されるて行く。
  明治10年(1877年)には、わが国の輸入総額の3割~4
 割が、輸入された綿製品の輸入額となる。
  この様な巨額の綿糸輸入額に危機感をいだいた明治政
 府が、近代的な機械紡績を奨励した所以である。
  因みに、日本最初の洋式紡績工場は、1867年に竣工し
 た薩摩藩営の鹿児島紡績所である。
  この様に、近代紡績への日本の試みは早いのである。
  この様な経緯の中、渋沢栄一の慧眼(けいがん、物事
 をはっきりと見抜く力)により、海外製品に対抗しつつ、
 近代紡績業を事業として成功させるために、10000錘規模
 以上の工場を建設する必要を感じていた。
  この構想は、大坂紡績として実現した。
  (下記部分は、法政大学イノベーション・マネジメン
 ト研究センターの論文を参考にした)
  平野紡績の沿革は・・
  1887年3月25日、平野紡績、14代末吉勘四郎・津田六蔵・
    中瀬九兵衛らは、平野紡績の設立手続きを行なう。
  1887年6月7日、平野紡績創立、資本金250,000円、社長
    に14代末吉勘四郎。
  1887年8月2日、菊池恭三が平野紡績に入社。
  1887年10月12日、平野紡績が、技師菊池恭三に紡機購
    入と技術研究のため渡英を命じた。
  1888年4月、平野紡績の本社工場起工、英人トーマス・
    ウォルター・ドランスフイルドを据付けと連転指
    導のため招聘。
  1888年6月、平野紡績社長に金沢仁兵衛就任。
  1889年5月1日、平野紡績操業を開始、11,520錘。
  1889年6月26日、尼崎紡績・平野紡績は技菊池恭三の傭
    聘を発起人会できめる。
  1889年9月6日、尼崎・平野の両紡績会社で菊池恭三傭
    聘契約書を交換。
  1890年5月30日、尼崎・摂津・平野の3紡績会社間で菊
    池恭三の傭聘契約書を交換。
  1893年、第2工場増設。
  1895年(明治28年)10月1日、平野紡績取締役金沢仁作
    が大阪紡績の山辺丈夫と上海に赴く(11月0日帰国)。
  (ニチボー株式会社、75年史を参考にした)
1887年4月18日、文部省が、仙台に旧制高等学校の第二高等
 中学校を、そして、金沢に第四高等中学校を設立を決定
 した。
  この第二高等中学校は、中学校令に基づき、全国で5校
 のナンバースクールの高等中学校の一つとして設立され
 た。
  1886年設立の東京の旧制一高、京都の旧制三高に次ぐ
 ものであるが、
  高等中学校としては山口高等中学校に次ぐ全国第4番目
 の設立となる。
1887年4月20日、鹿鳴館で大仮装舞踏会(4月25日説あり)
  伊藤博文首相主催の仮装舞踏会が開催された。
  日本の識者・庶民の常識が、欧化主義批判をした。
  これに、世論がさらに沸騰した。 
1887年4月21日、富山市の大火(約900戸焼失)
1887年4月22日、条約改正列国会議が終了した。
  条約改正会議で、欧化政策に基づいた法典と外国人も
 参加した司法制度の整備を行うことで、治外法権撤廃を
 決定した。
  そして、この第26回条約改正列国会議は終了するが、
 外国人を登用するなどの条件に、政府部内を中心に反発
 の声が挙がった。
  さかのぼる事、この条約改正会議は、1886年(明治19
 年)7月、関税率改正については、ほぼ日本の原案に近い
 案が合意をみた。
  内地開放を税率改正の条件とする主張に対しては、井
 上は、それを認めると法権回復交渉のカードを失うこと
 となるため拒否した。
  また、「泰西主義(西洋、もしくは西洋かぶれ)」に
 基づく法律制度整備のため、井上は「法律取調所」を外
 務省内に設置した。
  日本が、制定する法律を各国に「通知」する件を巡っ
 ては、やや交渉が難航した。
  各国は「通知」の意味を、その内容が「泰西主義」に
 合致するかどうかを監査する権利を持つものと理解した
 が、
  それを認めると、日本は、法律制定に外国の介入を認
 めることとなってしまうので、井上は、列国が「泰西主
 義」に合致しないと見なされた場合であっても条約無効
 の判断は外交上の協議を経ることを要件とする条件を付
 け加えることを提案し、各国もこれに合意した。
  かくして、条約改正会議は、新しい通商条約案と英独
 共同案に修正を施した修好条約案がほぼ合意をみること
 となり、
  1887年(明治20年)4月22日の第26回会議で終了した。
1887年4月25日、紋鼈(もんべつ)製糖所を伊達邦成らに貸
 下げた。
  そして、1890年3月に、払い下げた。
  この製糖所は、日本最初の官営の製糖工場だった。
  現在、日本甜菜製糖、北海道糖業、ホクレンの3社8工
 場で、日本一の生産量を誇っている。
  日本の甜菜業は、1870年(明治3年)東京に官営で始ま
 り、
  同年・1870年、北海道紋鼈(現:伊達市)に製糖所が
 設立された。
  3階建大工場で、機械はフランス式で技術が悪く、1896
 年解散、
  機械は、台湾製糖に譲られた。
  1921年、日甜、北海道糖業で生産再開、戦後合理化し、
 北海道寡占となった。
  北海道糖業道南製糖所入口に台湾返還の日本最古機械
 (三重蒸発効用缶、結晶缶)が残っている。
  (参考)甜菜:てんさい、サトウダイコンの別名。
      甜菜糖は、この大根の根から作った砂糖。
1887年4月25日、木曽川橋梁が完成した。
  1885年(明治18年):着工。
  1887年(明治20年):完成。単線で長さ1,800ft
  1891年(明治24年):濃尾地震により大きな損害を受
   けるが、翌年・1892年に復旧する。
  上り線:618.9メートル、下り線:619.4メートル、
  構造:ワーレントラス橋
  立派な架橋技術が日本に出来上がった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:新たな戦争すべき相手が出現したという・・『アメリカの恐ろしい妄念』
   妄念:誤った、よからぬ考え・・邪念・・妄執・・、
.
1945年5月19日、アメリカの新たな戦う相手が現れる・・と、
 感じたと・・
  第二次世界大戦型たがわれているこの時、早くも、ま
 た、愚かにも、アメリカに、「新たな戦うべき相手」が
 現れた。
  この時は、ドイツが敗れ、まだ、盛んに日本との戦い
 がなされている・・
  その戦いの最中のこの時、早くも、アメリカで、共産
 主義の脅威が囁(ささや)かれ始めた。
  何と愚かなアメリカであろうか?
  日本が脅威だと感じたアメリカが、日本との戦争を作
 り(アメリカ大統領のルーズベルトは、「日本との戦争
 を作った」と白状している)、
  そして、この時、その日本との戦いが終わりが近づい
 ているこの時に、
  今度は、共産主義のソ連に脅威を感じた・・と、「新
 たな倒すべき相手」と言い出した。
  アメリカ国務長官代行のジョセフ・グルーは、眠れぬ
 日々を過ごしたと記録している。
  そして、1945年5月19日の朝早く、5時、グルーは起き、
 次なる文を書いた。
  「このドイツと日本との戦争は、『二度と戦争を起こ
 さないための戦争』とはなり得ず、
  ただ、全体主義独裁を枢軸国(ドイツ・イタリア・日
 本)から単にソ連に移し替えただけの事ではないのか。
  (中略)
  ひとたびソ連が、日本に参戦すれば(これも、ルーズ
 ベルトがソ連のスターリンをそそのかして煽(あお)って対日参戦さ
 せたのに)モンゴル、満州、さらに、朝鮮半島が、ソ連
 の手に落ちるだろう。
  そして、いずれは、中国や日本も同じ(ソ連の手に落
 ちる)運命をたどる」・・と。
  グルーは、このメモを、翌日(1945年5月20日)、アメ
 リカの駐ソ連大使とソ連専門家、そして、ヤルタ会談の
 通訳だった者にに伝えた。
  対ソ連外交の最前線に立つ二人は、グルーの意味する
 ところを理解し、大きくうなずいた。
  際限なく繰り返される、超強大な武力を持つアメリカ
 のミス・失敗・・アメリカはそれに気づいた。
  こんなことは戦争する前から分かっていたこと・・、
  ソ連のシベリアの東への拡大は続き、太平洋にぶち当
 たって、南下政策になって、不凍港が欲しいのなんのと
 言っていたではないか?
  そして、日本とぶち当たっていたではないか・・何を
 今さら言うのだ・・?
  共産主義・ソ連が急に出来たわけでもないし・・、
  そして、この年・・
1945年9月28日、占領軍の軍医総監と公衆衛生福祉局長の
 サムス大佐が、東京都衛生局防疫課長に対し、具体的な
 都内の売春街等の話を出しながら、占領軍用の女性を世
 話をしてくれと要求した。
1945年10月2日、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が、
 東京に総司令部を設置した。
  このGHQの占領政策の基本コンセプトが、「日本を
 改造し、弱体化させる」・・ということも、すでに、歴
 史的に実証済となっている。
..
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