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2015年9月26日土曜日

(増補版)214D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1823年)

題:(増補版)214D2/3:気になった事柄を集めた年表(1823年~1823年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1823年(文政6年)3月24日、三方領地替(さんぽうりょう
 ちがえ)が行われた。
  陸奥国白河藩主の松平定永を伊勢国桑名へ、
  桑名藩主の松平忠尭を武蔵国忍へ、
  そして、忍藩主の阿部正権を白河へ転封した。
  この三方領地替(さんぽうりょうちがえ)で、松平定
 永の海岸警備が免除された。
  これは、幕府による大名転封の一形態で、3大名間で
 行われるもの(3大名間で領地を互いに交換させる事)。
  これは、大名の統制策として発動されて来た。
  また、これは、白河藩隠居の松平定信が、港湾財源を
 持つ桑名への転封を狙って仕掛けたというが・・、
  また、別の説では、松平定信の子の松平定永が、江戸
 湾の海防警備の負担が出来ないと、下総国佐倉藩への転
 封を願ったところ、
  佐倉藩主の堀田正愛の抗議を受けて紛糾したため、
  佐倉藩が、白河藩の替わりに江戸湾警備を引き受ける
 代償として行われた懲罰的転封を受けたとの説もある。
  白河藩は希望の桑名へ転封され、かつ、江戸湾警備の
 役を免除されるという、まったく白河藩の希望とおりの
 三方領地替だった。
  不平等なものだった。
  隠居とはいえ松平定信の元老中首座の力は衰えていな
 かった。
1823年4月6日、大田南畝(蜀山人、狂歌師、戯作者)が没
 した(75歳)
1823年4月14日、幕府が、道中通日雇(どうちゅうかよいひ
 よう、旅行の時の人足)宿を営む者を、六組飛脚問屋仲間
 に加入させた。
1823年8月11日、シーボルト(ドイツ)が長崎に到着した。
  シーボルトは出島の外に出て病人を診察する事を許さ
 れた。
  また、翌年、鳴滝塾を開いて医学を講じた。
1823年9月、幕府が、5年間の倹約令を出した。
1823年10月、幕府が、暦問屋11人以外の暦の出版を禁止し
 た。また、略暦などの売ることを禁止した。
1823年11月、幕府が、蘭書・天文書・オランダ書の翻訳出
 版を禁止した。
1823年、青山延于(あおやまのぶゆき、儒学者)が、神武
 天皇から後小松天皇までの歴史書「皇朝史略(こうちょ
 うしりゃく)」を漢文体で簡略に著した。
  青山延于は、大日本史の編纂に従事していた。
  そして、初学者の通読に適する書をと思い、本書を著
 作した。
1823年、房総砲台を代官に委する(委任する)(氷川清話
 より)
  これは、白河藩が桑名へ転封されて、代官の森覚蔵が
 房総の台場支配を命じられたことを言っている。
1823年12月、モンロー宣言
  アメリカ合衆国の第5代大統領J・モンローが、この時、
 議会へ送った教書の中で述べた。
  この後、これが、アメリカ外交の基本方針となった。
  これは、アメリカのヨーロッパ諸国からの干渉の拒絶
 だった。
  (アメリカは、ヨーロッパ諸国による植民対象の国で
 はありません・・だった)。
  次に、だから、アメリカも、ヨーロッパ諸国の政治に
 は介入しません・・と、
  そして、ヨーロッパ諸国の圧迫や、その他の方法によ
 る西半球諸政府に対するいかなる干渉も、アメリカへの
 非友好的意向の表明と見なす・・と言った。
  西半球諸政府とは、北アメリカだけでなく、南北アメ
 リカ大陸の国々の事だった。
  アメリカの意識下に、南北アメリカ大陸を支配下に置
 きたいたいという意思があった。
  この宣言は、アメリカ合衆国の出発点と言え、
  またこれは、アメリカの帝国主義的下心の表明でもあ
 った。
  明らかにアメリカは、南北アメリカ大陸を自分の物の
 様に感じていた。
  それ故に、ヨーロッパ諸国からの干渉を拒否した。
  そして、アメリカも、ヨーロッパ諸国には干渉しない
 からとの理由を付けた。
  故に、スペインが、メキシコの独立運動に関わった時
 に、アメリカは、そのスペイン行動を阻止する行動を起
 こした。
  また同様に、イギリスが、ベネズエラの介入をした時
 も、関わりを付けて止めさせた。
  この後は、アメリカは、領土的野心の行き着くところ
 が無いかの如く、領土を得る行為を、帝国主義的行為を
 して行く、
  ハワイを併合し、フィリピンを領有し、
  ミッドウェー島を占領し、グァム島を占領し、
  ウェーク島も占領し、サモア島を占領し、
  そして、自分の武力行使の基地=軍事基地を作って行
 った。
1823年、このモンロー宣言は、イギリスから独立(1776年
 のアメリカの独立宣言)から47年後の事だった。
  これは、普遍主義に反対して、ヨーロッパによるアメ
 リカ大陸への干渉を認めなかった・・などと、説明され
 ているが・・、
  何しろ、アメリカは、19世紀の末に至って、明らかに
 帝国主義的な領土拡張主義に転換した。
  歴史的事実として、フィリピンはじめ、色々な国々を
 奪って行く事実が存在する。
  そして、中国をおいしい場として見えていた。
  それを得るには、「門戸開放」という「自由主義の論
 理」を用いるのが得だと考えるに至った。
1823年、アメリカは、モンロー宣言の頃は、まだ、弱い国
 だった・・が、変わって行った。
  アメリカは、皆(イギリスやフランスやオランダなど)
 が、アジア諸地域や中国で、うまい汁を吸っている姿を
 見ていた。
..
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2015年9月25日金曜日

(増補版)213D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1823年)

題:(増補版)213D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1823年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1822年(文政5年)12月、佐藤信淵(さとうのぶひろ、農政学
 者)の「経済要略(けいざいようりゃく)」ができた。
   上下の2巻で、信淵の大部の著書「経済要録」に先行
 した書で、彼の経済論の成立期の知識・思想大系の全貌
 を知る書。
  諸侯の取るべき政策、宇宙論、天文地理、農学・農政
 学、鉱山学、交易流通論など。
  「経済トハ、国土ヲ経営シ、物産ヲ開発シ、部内ヲ富
 豊ニシ、万民ヲ済救スルノ謂ナリ」
1822年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、1730年~
 1801年)の古事記注釈書「古事記伝(こじきでん)」の
 刊行が終了した。
  後の古代文学研究に多大な影響を与えた書。全44巻。
  1764年に、「古事記」研究研究に着手していた。
  そして、1998年の宣長が69歳の時に完成させた。
  そして、宣長の存命中は、卷17までが出されていた。
  巻17までが「古事記」上巻、卷34までが中巻、巻44ま
 でが下巻である。
  宣長の注釈は、今日でもなお批判に耐えうる価値を持
 っている。
  「甘んじて批判を受けよ」と言いいたい場合が多い今
 日に、素晴らしい業績である。
1822年、大蔵永常(おおくらながつね、農学者)の「農具
 便利論(のうぐべんりろん)」が刊行される。
  代々農業兼商業に営む家に生まれた。
  この著は、全国各地で使用される農具の中で、広く普
 及の価値があるというものを、細かい絵入りで説明して
 いる。
  耕耘(こううん、田畑を耕し、雑草を取り去ること)、
 種まき、除草、施肥、給水、収穫、調整などの各作業ご
 との用具を取り上げている。
  また、夏の干ばつのときの井戸から水を引く法とか、
 畜力犂(すき)、大掛かりな揚水機なども記され、オラ
 ンダ製の揚水機まで説明し、農民が新しい道具を受け入
 れることが大切と強調している。
1822年、松田伝十郎(まつだでんじゅうろう、幕臣)が、
 間宮林蔵とともに樺太を探検したときの記録「北夷談(
 ほくいだん)」を著した。
  松田伝十郎は、間宮林蔵よりも先に樺太が島である事
 を確認したと言われている。
  幕府は、1892年のラクスマンの来航以後、蝦夷地の直
 轄化を積極的に進め、
  箱館奉行を設置したり、近藤重蔵に択捉島を視察させ
 たり、蝦夷地の経営と防備に積極的に取り組んでいた。
  幕府は、1799年に、蝦夷地を直轄地とした。
  そして、松田伝十郎は、蝦夷地取締御用掛となり、択
 捉島・樺太ななどに任じた。
  これは、1822年に、松前藩に返還されるまで続いた。
  この著は、松田伝十郎の蝦夷地での赴任した記録で、
  1799年:厚岸に上陸して虻田に赴任、
  1803年:択捉島に赴任、
  1808年:宗谷に赴任し、樺太を探検する。
  1809年:樺太に赴任。樺太アイヌと交易をする。幕府
      が交易の借金を肩代わりして清算する。
  1812年:樺太に赴任し、交易の改革に努める。
  1817年:江差に赴任、
  1820年:箱館に赴任、
  1822年:宗谷・樺太を周り、マシケで越年。
  1822年:蝦夷地の松前藩への返還に伴い、役を解かれ
 た。
   特に、1808年の渡航で、松田伝十郎は、樺太の西海岸
 を探検し、間宮林蔵が東海岸を探検し、
  松田は、アムール川河口対岸のラッカに至り、樺太が
 島である事を確認した。
  松田は、アイヌの借金の清算に尽力して、アイヌの山
 丹(満州人)との交易を正常化してあげている。
  松田は、3回、4回と、何度も頻繁に樺太を調べている。
  詳しく、住民の様子や、地理や、動植物を記している。
  アイヌの生活習俗が図入りで詳しく説明され、満州の
 役職名を持っている者がいることも記している。
1822年、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、戯作者)の「
 続膝栗毛(ぞくひざくりげ)」12編が完結した。
  大衆から知識人に至るまで歓迎され、続編が刊行した。
  続編は、金毘羅詣、宮島参詣、木曽街道、木曽路より
 善光寺道、善光寺道中、上州草津温泉道中と続いた。
1822年、二宮尊徳(にのみやそんとく)が、小田原藩家老・
 服部家の再建(1818年より)、この財政立て直しに成功
 して、この功により1822年に、小田原藩に登用された。
  そして、藩主の分家・宇津家の下野(しもつけ、栃木
 県)桜町領の難村復興を命じられた。
  1837年にかけて、報徳仕法の模範と言われる桜町仕法
 を施して成功した。
  その他、陸奥(むつ)中村藩(福島県)などの再建等、
 多数の業績がある
1822年、日本に最初に、この年にコレラが流行したことは
 前記したが、
  当時、この病気の手掛かりはなく、予防措置を取るこ
 とが全くできなかった。
  36年後の1858年にもまた、コレラが再び流行する。
  これは、この前年のアメリカからの黒船による日本に
 持ち込んだものとされている。
  江戸に飛び火したコレラは、8月上旬から中旬にかけて
 蔓延し、葬列の棺が、昼夜絶えることなく、大通りや路
 地につらなり、
  どこの寺院も列をなしたという。
  江戸だけでも、死者は10万~26万人という。
  第三次のコレラ流行は、1862年で、江戸だけで患者数
 56万人、死者数7万3000人~数十万人という。
  そして、この1822年のコレラ流行は、特に、西国での
 流行が酷(ひど)かった。
  開国によってだと、日本に来た異人がもたらしたとの
 噂が広まった。
  これは、くすぶり始めていた「攘夷論」を後押した。
  しかし、海外交易が順調なので、大きな声とはならな
 かったが、
  一方で、商業拡大と、産業革命的動きの開始で、巨大
 化が始まっていた都市部では、上下水道の整備や、側溝
 の充実など、近代的な都市環境の改善があった。
  ヨーロッパなどを含む諸国との、海外貿易が利益を出
 すようになった。
  しかし、翌年は、海外との金銀兌換格差から交易は、
 大幅な赤字に転落した。
1822年、清国が、アヘン販売を厳重に禁じた。
  しかし、何度、禁じても、イギリスが運んで来る密輸
 アヘンの流入は止まらなかった。
  逆に、流入量は増えていた。
  清国は、毎年、禁止令を出すという状態だった。
  密輸入も盛んになされ、横行した。
  それを取り締まる官吏までもが、麻薬中毒者になると
 いう悲惨な状況だった。
1822年、パスツール(フランス、化学者、細菌学者)が生
 まれた(1822年~1895年)
  革なめし業者の子として生まれた。
  近代微生物学の祖と言われている。
  酒石酸の立体異性体の発見をした。
  生物の自然発生説を否定した。
  発酵・腐敗が微生物によって起こることを証明した。
  感染症を研究し、ワクチンによる狂犬病などの予防に
 成功した。
1823年(文政6年)1月31日、勝海舟が生まれた(1823年~
 1899年)
  江戸、本所亀沢町に生まれ、
  江戸時代後期の幕臣で、明治初期の政治家。
  名を義邦、通称を麟太郎。
  安房守(あわのかみ)といい、海舟は号である。
  蘭学・洋式兵学を学んだ。
  1855年に、蕃書翻訳御用出役になり、海軍伝習生とし
 て長崎でオランダ人に学び、
  1860年に、咸臨丸の艦長として、初めて太平洋を横断
 しサンフランシスコに渡った。
  1864年に、アメリカより帰国後に軍艦奉行になり、
  その間、幕府海軍の創設に功があった。
  江戸末期15代将軍・徳川慶喜を助け、国内紛争を回避
 するために尽力し、
  特に、倒幕の官軍が東下して来るにあたって、官軍の
 西郷隆盛と会見し、
  江戸無血開城を成立させた。
  1873年に、明治政府の参議軍郷になった。
  1875年に、元老院議官になったが、ほどなくやめ、晩
 年は著述に専念した。
  著作は「海舟全集」に収められており、
  特に、「吹塵禄(すいじんろく)」など維新前後の軍
 事外交を知るのに良い資料となっている。
  海舟の著作の「氷川清話」によると、「明治の改暦に
 よって2月11日を誕生と定めた」とある。
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2015年9月24日木曜日

臨時ブログ:放送大学の、誤解を与え、結果、嘘となっている講座

題:放送大学の、誤解を与え、結果、嘘となっている講座
 (真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑記)
.
  2015・9・23、午後1時45分~午後2時30分、講座名:
 「現代の国際政治、第2回、アメリカの世界戦略(1)ス
 ーパー・パワーへの道」、講師:高橋和夫氏の放送大学
 の講座はおかしい。
  アメリカ北部とイギリスを庇って、「奴隷制度に反対し
 た」と嘘を講義する。
  その様な、放送大学の講座だった。
  アメリカ北部とイギリスは、奴隷制度に反対したと嘘
 を言い、本当に公平な話はしない放送大学講座となってお
 り、誤解を与える講義となっている。
  イギリスは、15世紀から奴隷貿易をして、アフリカの
 方々を奴隷として、アメリカに連れて行く商売をしていた。
  19世紀に至るまでの、本当に本当に長い期間、この非
 人道的な奴隷貿易をしていたイギリスなのです。
  この様な歴史的事実があることに対して、嘘を言う放
 送大学であり、講師である。
  多くの人々を集めて話をするような講座ではない。
  高橋講師は、「イギリスは、奴隷制度に反対したから
 南北戦争の南部の応援をしなかった」などと、誤解を与
 える様な話をする、結果、嘘の講義をする。それだけを
 言う。
  また、「アメリカ北部の奴隷を使っていた段階の状況
 には一言も触れず」に、誤解を与える講義をする。
  講座に参加したの質問者の方が正直で、その話をする
 と、その質問で、リンカーンの奴隷解放に疑念の質問が
 出れば、
  高橋講師は、「この類の本は1万冊以上あり、反対意見
 はいっぱいある」と話をはぐらかす。
  そして、その反対意見を一言も説明せず、講義もしない
 のに、反対意見の存在を批判する話をするという始末。
  そしてさらに、高橋講師は、「大統領候補にも色々居
 て、リンカーンが奴隷解放しないという候補者がいた」
 と、話を、公正な説明としようとしない。
  そして、質問があってやっと反リンカーン側の説明に
 言及するという状態、それも、リンカーン側に偏した立
 場に、常に立ってする。
  まったく一方に偏する講座だ。
  今のアメリカの体制に媚を売る放送大学の講義となっ
 ている。
  まったく公平な、公正さのない放送大学講義だ、そして、
 講師だ。
  リンカーンは、「奴隷解放の大統領」と言われているが、
 これは作られた名声である。  
  「奴隷解放の父」などと言われているが、リンカーンが
 奴隷解放が第一の政策の様に言われるのは間違い。
  プロパガンダ(嘘宣伝)である。
  リンカーンが、奴隷解放に関してどんなことを言ってい
 たかの一例が下記である、
  リンカーンの黒人奴隷の解放に関する発言:
  「私は、白人種と黒人種の社会的政治的平等を如何なる
 形でも、もたらすことに賛成はしていないし、これまで
 もそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも陪審員にすることにも、
 賛成していないし、
  彼等(黒人)が役職者になる資格を与えることとか、白
 人と結婚するとかいうことにも賛成しておらず、これま
 でもそうだった。
  さらには、
  白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮ら
 すことを永久に禁じることになると考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当てら
 れていることに賛成する・・」と。
  何という卑劣な発言なのだ。
  何しろ、リンカーンは「奴隷解放に賛成していない」と
 言っている。
  そして、「過去からそう思っていた」とまで言っている。
  また、身体的に違うのだと、まったく最悪の蔑視発言
 までしているリンカーンなのだ。
  そして、黒人とは永久に一緒に住めないとまで最悪の
 蔑視発言を言っている。
  一緒に住むことを永久に禁じるとまでリンカーンは言
 っている。
  彼らはその様に生活できないのだと蔑視発言の限りを
 言っている。
  そして、下等なのだと軽蔑すべき発言までしている。
  そして、白人が上等であることに賛成だと言っている。
  そして、「黒人に政治に参加する事にも賛成しない」と
 言っているし、「司法への参加〈陪審員になる事〉にも
 賛成しない」と、黒人の方々の立法と行政と司法の三権に
 黒人の方々の人権を認めていないと人権無視発言を言っ
 ている。
  最悪の発言である。
  そして、奴隷という人権剥奪の状態に対しても、「奴隷
 解放に賛成していない」という人だった。
  何故、こんな人が、「奴隷解放の父」なのだろうか?
  作られた名声としか言えない。
  奴隷解放をしたのは、黒人の方々が、自ら行ったのだ
 った。
  公民権の回復も、黒人のキング牧師が活躍し、暗殺さ
 れてしまったが、黒人のこの方の功績である。
  リンカーンは、人道主義的な行動をとる人ではなかった。
  子供の時に、目の前で、リンカーンのおじいさんが殺
 されたので、一生、リンカーンはインディアンの方々に
 恨みを持っていた。
  大統領になる前の弁護士時代は、法律を駆使してイン
 ディアンの方々の土地を取り上げていた。
  インディアンの土地の権利の抹消処理を、多数、行っ
 ていた。
  リンカーンは、弁護士時代から大統領時代にかけて、
 インディアンの方々の土地取り上げに奔走している。
  ことに、西部方面へのインディアン領土への鉄道拡張に
 関して、インディアンの土地権利の抹消処理を、多数、
 手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)」としたインディ
 アン部族の土地に対する書類は、現在も数多く残されて
 いる。
  そしてまた、常に、徹底排除の姿勢を崩さず、彼らの
 大量虐殺の指揮も取り続けた。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホや、
  ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争は、
 リンカーン政権下で行われた。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 している。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全な強
 制収容所だった。
  また、
  リンカーンは、ミネソタのダコタ族との連邦条約を一方
 的に破棄して、
  ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、
  彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連行
 した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての皆殺し政策が行われ、
  女子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンは、この虐殺方針に対しても、責任者として、
 全く異議を唱えなかった。
  1863年、この夏、
  リンカーンは、ジェームズ・カールトン准将に、南西部
 のナバホ族インディアンの討伐を命じた。
  ナバホ族は、ダコタ族同様に、抵抗していた。
  カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると睨んで
 おり、以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動
 の際と同様、司令者であるリンカーンはこれを是認した。
  1864年、リンカーンは、
  ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル)離れた
 東にあるアパッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」
 への徒歩連行を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ)。
  この強制連行の途上で、数百人の死者が出たが、
  そのほとんどが子供や老人だった。
  「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は強制労働を課され、
  女性は、米軍兵士から強姦され、
  また、乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環
 境下で死んだ。
  結局、リンカーンの死後の1868年に、和平条約が調印
 されるまでに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
  など、多数のリンカーンの先住民・インディアンいじ
 めの事例が多々ある。
  そしてまた、リンカーンは、白人と黒人が平等である
 とは思っていなかった。
   リンカーンは、はっきり「奴隷制と奴隷制廃止論のど
 ちらにも反対する」と発言もしている。
  また、
  「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しか
 し、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるよりはむし
 ろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対理由を
 言っている。
  そして、リンカーンの発言:
  「これまで私は、黒人が投票権をもったり、陪審員にな
 ったりすることに賛成したことは一度もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにする
 ことも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはない」。
  更に、リンカーンの発言:
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接
 にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそうし
 たいという意思もない」。
  また、リンカーンには、
  俗な言い方をすれば「連邦を救いたいのだ、黒人の奴隷
 解放は二の次なのだ。
  黒人奴隷解放が、どの様な結果になろうが連邦が救えれ
 ば私はそのことをする」がある。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に、
  リンカーンを白人至上主義者と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
   批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主張
 し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに苦情
 を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはないと、その程度の政治家
 だった。
  日本の放送大学の講義もまったく嘘を話している。
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2015年9月23日水曜日

(増補版)212D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1822年)

題:(増補版)212D2/3:気になった事柄を集めた年表(1822年~1822年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1822年(文政5年)、日本の総人口、26,602,110人
1822年1月、宇田川榕庵(うだがわようあん、蘭学者)が、体
 系的植物学を、日本に最初に紹介した「菩多尼詞経(ぼた
 にかきょう)」を刊行した。
  津山藩の侍医。
  1826年に、幕府天文方の蕃書和解(ばんしょわげ)御
 用訳員となっている。
  日本の近代植物学の開祖と言われている。また、日本
 の化学の開拓者とも言われている。
  多数の訳書により西欧の化学・生物学・薬学を紹介し、
 通じた人だった。
1822年閏1月6日、戯作者の式亭三馬が没した(47歳)
1822年2月16日、幕府が、全国の人口を調査。日本の総人口
 は、26,602,110人だった。
1822年2月、八百善主人・栗山善四郎の「江戸流行料理通」
 初編が刊行された(翌年完結)。
  八百善(やおぜん)は、会席料理を確立し、江戸で最
 も成功した料亭である。
  四代目当主の栗山善四郎は、多才で、多趣味で、一流
 の文人墨客との交流を深める人だった。
  蜀山人に、「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者
 は小萬 料理八百善」と言わしめた。
  そして、「江戸流行料理通(りょうりつう)」は、当
 時の料理テキストと言うべきもので、
  1種の材料に対して100の料理法を記しているという。
  素材に関しても、和漢の文献を集めて、知的興味を満
 足させる様な記述をし、
  中国料理の紹介や、救荒対策の書もあり、また、最高
 級の料亭料理の贅沢を尽くした記事など、
  また、一流の、高名な文人、画家が、序文や口絵を書
 くという高尚な書だった。
1822年3月12日、上杉鷹山が没した(72歳)
  アメリカのケネディ大統領が、「上杉鷹山は私の最も
 尊敬する日本人だ」と言ったが、
  鷹山は、上杉藩の養子藩主であった。
  清貧で、どん底の上杉藩を救った。
  その基本理念は、「藩主は、人民と国家のために存在
 するので、人民と国家が、藩主のために存在するのでは
 ない」という主権在民の思想で、当時の人達を仰天させ
 るものだった。
  ルソーの社会契約論が発表しされたのは、鷹山が12歳
 の時で、この著作を読んでいたことにはならない。
  また、フランス革命が成功し、人権宣言が発表される
 のは、鷹山が39歳の時であった。
  世界の最先端の思想の持ち主だった。
  米沢の上杉神社に祀られ尊敬を集めている。
  世界の偉人と言うべき人である。
1822年4月、イギリス船を救助する
  イギリスの捕鯨船が、浦賀に漂流して来て、薪水、食
 料の救助を求めたので与えた。
  「文政雑記」に以下の様に記されている。
  漂流英船ニ薪水補給
一浦賀奉行小笠原弾正長保・内藤十次郎、弾正諾中
  文政五年壬午五月 日イキリス船長弐十五間
  帆柱三本 帆九ツ表ニ三つ 中ニ壱つ舳ニ二つ
 都合帆十枚 壱艘漂流ス、同月八日帰帆、其節固之
 人数松平越中守・松平大和守・大久保加賀守三家
 人数合て千七百八十人浦賀固共弐千三百人程
 其節イキリス江被下物
 左之通り
  五月朔日 水十八荷   松薪拾把
  同二日  水十四荷   松薪拾把
  同三日  水十荷     松薪拾把
  同四日  山土弐樽   大根拾把  
         蕗 十五把、梅二升、杏 一升  
         枇杷二升、  鶏 拾把 但アヒル二ツ
         松薪 拾把 
  同五日  山土拾四樽、水三百弐拾荷、
         生魚 大小弐十
         ライ麦 一俵但四斗五升入 
         白米二俵但四斗五升入
  右之通被下候也
  訳文:漂流のイギリス船に薪水補給
     浦賀奉行小笠原弾正長保、内藤十次郎
     文政5年(1822年)5月イギリス船
     (長さ25間、帆柱3本、帆9、表に三つ中に壱つ
     舳先に弐つ合計10枚)が壱艘漂流してきた。
  同月8日に帰帆したが、その時の警固人数は、松平越中
 守〔白河藩)、松平大和守〔川越藩)、大久保加賀守〔
 小田原藩)の三家1788人、それに浦賀奉行組合せて2300
 人程、
  その時イギリス船に与えられた物左の通り(略す)
1822年5月、亜欧堂田善(あおうどうでんぜん、銅版画家)
 が没した(75歳)
  「浅間山図屏風」六曲一隻、重要文化財
1822年8月、幕府が、水油高値により大坂油問屋以外への売
 買を禁止した。
  水油(みずあぶら)は、液状の脂の総称で、頭髪用の
 つばき油・オリーブ油・ごま油と、なたね油などの灯油。
1822年8月、塙保己一編の「続群書類従(ぞくぐんしょるい
 じゅう」が完成した。
1822年8月、西国で、10月にかけてコレラが流行(日本最初
 のコレラ流行)。
  1817年以降、6回の世界的大流行を起こしていた。この
 年・1822年に、日本にも及んだ。
  感染ルートは、朝鮮半島あるいは琉球からと考えられ
 ていて、九州から始まって、東海道に及んだものの、箱
 根を越えて江戸に達する事はなかった。
  2回目の世界的流行時には、日本は波及を免れたが、3
 回目には再び日本に達し、
  1858年は悲惨だった、3年間にわたり大流行した。
  この流行は、相次ぐ異国船の来航と関係し、異国船が
 もたらした(裏付けないともされている)。
  1862年には、残留していたコレラ菌により大流行が発
 生、56万人の患者が出た。
  この時に江戸に入って、7万3000人~数十万人が死亡し
 たという文献もあり、また、江戸に入らなかったという
 文献もある。
1822年11月27日、日本中を涙させた幼女の死、
  少女の名は露、
  因幡国(鳥取県)鳥取藩の支藩の若桜藩の藩主・池田
 定常(いけださだつね)の16女として生まれた。
  彼女は、疱瘡(ほうそう、天然痘)のために、この日
 に、短い生涯を終えた。
  彼女の没後、しばらくして利発だった彼女の書いた手
 紙や、幼いながら死を覚悟していたのか、その様な書も
 見つけられた。
  池田定常は、可愛いかったのだろう、亡き姫をしのん
 で、それらの書を模刻して(忠実に模した複製を木版印
 刷して)親戚や知人に配った。
  利発な彼女のその一つ、稚児桜を詠んだ句
  「つゆほどの はなのさかりや ちござくら」
  6歳の自分の死を予感していたのだろうか?
  今の世の様に、良い薬が、進んだ医学があったら・・、
  玉露童女(6歳)没。
..
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2015年9月22日火曜日

(増補版)211D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1821年)

題:(増補版)211D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1821年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1821年(文政4年)2月、風邪が大流行した(インフルエン
 ザと言われている)。
  幕府は、御目見以下3万5,000余人に薬を、窮民30万人に
  銭7万5,000余貫を与えた。
  江戸城中の廻状(連絡の文書)に、
  「長髪罷出、共廻格別減少不苦(髪が長くなり月代を剃
 らずに上司の前に出ても、供廻りの家来の数が少なくて
 もかまわない」とある。
  また、遠慮せず早引けしていいよと「一通り用事が済
 んだら帰宅しても良い」と大目付に指示を出している。
  配り、そして、与えた薬は、漢方薬で、ショウガを入
 れて煎じて飲みなさいとなっている。
  民の救済のための御救銭は町会所を通じて与えた。
  独身者の1万5000余人には200文を、
  また、家庭のある者の28万1000余人には250文を与えた。
  外国から長崎を経たインフルエンザが、西国から江戸
 へ流行して来たものと言われている。
1821年4月24日、出版取締令
  幕府が、暦書・天文書・オランダ翻訳書の出版は、す
 べて町年寄の奈良屋市右衛門へ届け出て、 江戸町奉行所
 の許可を得るようにと令した。
  この幕府の狙いは、蘭学知識を幕府が掌握したいとい
 う事と、役に立つものだけを広めたいという思いがあっ
 た。
1821年4月11日、新金銀引替方促進令
  幕府が、古金銀と新金銀の引き替えを督促する(類集
 撰要39・旧幕引継書)
1821年4月26日、銀売買銀製品製造統制令
  幕府は,銀座以外での銀の売買、およぴ、民間でみだ
 りに銀を使用することを禁止した(類集撰要39・旧幕
 引継書、御触書抜4)
1821年7月10日、日本初の実測地図「大日本沿海輿地全図
 (だいにほんえんかいよちぜんず)」と、「大日本沿海
 実側録(だいにほんえんかいじっそくろく)」が完成し、
 幕府へ献上された。
  大日本沿海輿地全図は、伊能忠敬と高橋景保が作成し
 た。(伊能忠敬は、1818年に没していた)。
  日本で最初の、科学的な実測に基づいた日本の全図で
 ある。
  これは、「伊能図」ともいい、
  1800年の蝦夷地の測量に始まり、九州・種子島・屋久
 島・伊豆七島まで17年の歳月をかけて全国を実測した結
 果だった。
  この年の1821年に、大図214枚、中図8枚、小図3枚を、
 作成した成果を、江戸幕府に提出した。
  大日本沿海実側録は、伊能忠敬の著作物であり、全13
 卷14冊ある。
  大日本沿海輿地全図に添えて、幕府に提出した各地の
 記録で、輿地実測録である。
  日本の誇るべき偉大な業績である。
  幕府は、忠敬の功績を褒章していた。
  また、門弟らの功績もある。
  伊能忠敬門の弟らが「大日本沿海輿地全図」を完成さ
 せ、また、幕府も多額の援助金を出していた。
  そして、督励して、さらに外郭地の測量も要請した。
  以後は、新造されたばかりの国産の大型帆船を用いて
 近隣島嶼の調査を開始させたりした。
  この頃から「伊能衆」と呼ばれるようになった。
  そして、さらに、幕府は、日本の威の及ぶ太平洋一帯
 を測量させた。
  「東洋のメルカトル」と呼ばれ、日本人の海外進出に
 も大いに貢献した。
   また、引き継いだ人たちの功績もあった。
  「大日本沿海輿地全図(大日本沿海輿地全図、および、
 輿地実測禄)」は、伊能忠敬より引き継いだ高橋景保ら
 により完全な形の完成品となった。
  それだけ、偉大な事業だった。
1821年8月、諸国が風水害と大干ばつ。
  ・御国風水害、高68,664石余損亡。(「徳島県史料年
   表」による)
  ・8月再水、水層20尺5寸(6.2m)。(「伊予風水害小
   史(大洲藩譜)」による)/8月8日、肱川で出水、
   大洲で水位25尺5寸(7.7m)。(「大洲警察署記録」
   による)
  ・8・4 大風雨,紀ノ川洪水
  ・那賀川(徳島県)、83日間も続いた大干ばつ。
  ・山陰・島根、1821(文政4)年、風水害、害穀30000石
  ・1821年4月8日、畿内大洪水あり(泰平年表)
  ・1821年(文政4年)に 道徳前新田(現道徳学区・愛知県
   愛西市)が開拓されたが、度重なる風水害により、幾
   度となく堤防が決壊。甚大な被害をもたらしていた。
1821年9月12日、公家方への配慮
  幕府が、徴禄の堂上方(どうじょうがた=清涼殿の昇殿
 を許される位の者)ヘ金25両を貸与した。
1821年12月、和人地および全蝦夷地を、松前氏に還付(か
 んぷ、元の持ち主に返す)して、一旦、松前奉行を廃し
 た。
  北辺の警護のため、松前藩の領地であった東蝦夷地を
 上知(あげち、幕府が知行地を没収すること)していた。
  そして、享和2年(1802年)2月に、箱館に、蝦夷奉行
 が設置されていた。
  また、1802年5月に、箱館奉行に改称され、その後に、
 松前奉行に統合されていた。
1821年、為永春水・滝亭鯉丈(りょうていりじょう)、歌川
 国直・渓斎英泉(けいさいえいせん)画の人情本 「明鳥後
 正夢」初~3編が刊行された(1824完結)。
  為永春水は、天保の改革で風俗を乱したとして罰せら
 れた。
1821年、風物:ラクダの見世物
  江戸両国でラクダの見世物が評判になった。
1821年、小田原藩主が、二宮尊徳を登用した。
1821年3月6日、ギリシャ独立戦争が起きた。
 アレクサンドル・イプシランチ(帝政ロシアの軍人)率
 いるフィリキ・エテリア(オスマン帝国統治下のギリシ
 ャ匂いて活動した秘密組織)の部隊は、ロシア・ルーマ
 ニア国境のプルト川を越え、オスマン帝国領、モルドヴ
 ァへ侵入し、ここにギリシャ独立戦争が開始された。
1821年5月5日、ナポレオン1世が没した(1769年~1821年)
  ナポレオンは、1815年に、エルバ島を脱出してパリへ
 戻って来て、復位して皇帝となる。が、しかし、100日天
 下だった。
  皇帝になったナポレオンは、連合国に講和を提案した
 が拒否され、戦争となって行く。
  しかし、この戦争は、初戦こそ勝利したが、ワーテル
 ローの戦い(1815年6月18日)で大敗する。
  ナポレオンは、ふたたび退位に追い込まれ、イギリス
 軍艦に逃れたが、イギリス政府は、裏切って、ナポレオ
 ンを大西洋の孤島のセントヘレナ島に幽閉した。
  劣悪な島の環境がナポレオンを悩ませた。
  行動制限もあり、また、許される行動には歩哨が立つ
 監視の下に置かれた。
  実質的には監禁状態であった。
  また、島の総督の無礼な対応に、ナポレオンの尊厳も
 まったくなかった。
  また、総督は、ナポレオンが体調を崩しているにもか
 かわらず、主治医を本国に帰らせた。
  ナポレオンは総督を呪った。その言葉が記録にあるほ
 ど、ナポレオンは総督を恨んだ。
  精神的な圧迫もあり、病状は悪化した。
  そして、この時に、ナポレオンは死去した。
  遺体は解剖され、ガンが発見されたが、
  ヒ素による暗殺の可能性も指摘された
 1821年9月4日、アレクサンドル一世の勅令
  ロシア皇帝アレキサンドル一世は、勅令によって、ア
 メリカ西海岸からロシア領の北の島々近海での、外国人
 の捕鯨や漁業を禁止した。
  禁止区域に、ウルップ島以北の千島諸島が含まれてい
 た。
  この頃、ロシアでは、ウルップ以北がロシア領である
 との認識が明確にあった。
  故に、「アレクサンドル1世の勅命」には、「ウルッ
 プ島までの島々と、港湾における商業・漁業、並びに、
 あらゆる産業は、ロシア国民のみが従事できる」として、
 それらロシア支配下にある島々への外国船の接近・停泊
 を禁じる」とある。
  この勅令は、択捉島以南にロシアの主権が及ばないこ
 とを明確に示している。
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2015年9月21日月曜日

(増補版)210D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1820年)

題:(増補版)210D2/3:気になった事柄を集めた年表(1820年~1820年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1820年(文政3年)4月、金箔ならびに下金流通取締令
  幕府が、法令を発して、金座に地金を管理させた。
  そして、江戸以外の金箔の打ち立てを禁止した。
  金箔・下金(したがね)類の取り扱いを、御金改役・後
 藤三右衛門の一手引き受けとし、金座以外での取引を禁
 止した。
1820年4月、幕府が、大坂商人の買米の制限を止めた。
1820年6月28日、幕府が,草文丁銀(そうぶんちょうぎん、
 または、新文字丁銀という)・小玉(豆板)銀を新鋳した
 (7月20日より通用開始)。
1820年6月、砂糖の販売を自由化した
  幕府が、江戸の砂糖問屋株(1808年発足)と、大坂の
 江戸積砂糖仲間を禁止し、自由取引とした。
  砂糖は、貿易窓口の長崎に陸揚げされ、中央市場の役
 割を持っていた大阪の問屋(当初は薬種問屋、後に砂糖
 問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷され
 ていた。
  幕府は、砂糖代金の金・銀・銅の流出を危惧し、砂糖
 の国産化の方針を打ち出し、サトウキビの作付けを全国
 に奨励した。
  西南日本の気候温暖な地域に、積極的に取り入れられ
 「和糖業」が広まって行った。
  すでに、1798年には、讃岐(香川県)に砂糖(和三盆)
 が大阪の中央市場に登場していた。
1820年7月、幕府が、大砲・昼夜合図の火術練習を佃島沖で
 行った。
1820年8月、山片幡桃(やまがたばんとう、町人学者、経済
 論者、思想家)が、「夢の代(ゆめのしろ)」を完成し
 た。
  播磨(兵庫県の西南部)の人。
  幡桃は、才を認められ大阪の両替商升屋(米仲買、大
 名貸、幡桃の叔父の店)に番頭として仕え、主家の興隆
 に尽くした、そして、家を継いだが、
  仙台藩や豊後岡藩などの日本の東西の藩の財政再建に
 も手腕を発揮した。
  全国数十藩の蔵元・掛屋・立入として成功を収めた。
  蔵元(くらもと)は、蔵屋敷で蔵物の出納を管理した
 町人のことで、
  また、掛屋(かけや)は、幕府や諸藩の公金出納を扱
 った商人の事をいい、
  また、立入(たちいり)は、大阪の諸大名蔵屋敷に出
 入りして御用をつとめた商人の事をいう。
  また、懐徳堂で儒学を学び、さらに、天文学・蘭学を
 学び、地動説を確信し、合理的思想を持ち、独創的な思
 想家となった。
  失明したが、「夢の代」12巻を著した。
  「夢の代」は、実学啓蒙書で、1802年が初稿であった。
  天文、地理、神代(じんだい)、歴史、制度、経済、
 経論、雑書、異端、無鬼(上・下)、雑論に編成され、
 自然・人文現象を述べた。
  蘭学の知識も深く、西洋科学を信頼し、地動説も提示
 し、西洋医学の成果も紹介し、今日、国際的に評価され
 ている。
1820年9月、幕府が、前薩摩藩主の島津重豪(しまづしげひ
 で)の治績を賞した。
1820年10月、幕府が、倹約令を翌年よリ3年間延長すること
 を令した。
  臨時支出の増大のため、
  また、この間、幕府と諸大名からの貸付金を許可しな
 いこととした。
1820年10月11日、諸芸集会摺物取締
  幕府が、書画・活花・詩歌などの芸名披露の集会など
 を取り締まるよう命令した。
1820年10月、書物奉行兼天文方の高橋景保が、翻訳・編集
 した満州語辞典「増訂満文輯韻(まんぶんしゅういん)」
 を幕府に献上し、褒賞を受けた。
  長崎に、1804年に、ロシアの使節・レザノフが持参し
 た国書は、満州語で書かれたものだった。
  高橋景保は、これを訳解した。
1820年12月、幕府が、大名・旗本が領地転換をみだりに願
 い出ることを禁止した。
1820年12月、浦賀奉行に海岸警備を命じた。
  幕府は、浦賀を中心にした対外貿易と海防を考えてい
 た。
  会津藩の相州の沿岸警備の任が免じられて(1810年か
 ら、この任についていた)、これを浦賀奉行の所管とし
 た。
1820年、滝亭鯉丈(りゅうていりじょう、滑稽本作者)の
 「花暦八笑人(はなごよみはっじょうじん)」初編が刊
 行された(1849年に完結した)。
  江戸町人の退廃的な遊戯生活を写実して描いた。
  滝亭鯉丈は、咄家(はなしか)でもあって、人気を得
 ていた。
  「花暦八笑人」は、江戸の閑人仲間(遊び仲間)8人が
 四季折々の行楽に、茶番の趣向をこらして人々の喝采を
 集めようとするが、そのたびに失敗をする滑稽を描いて
 いる。
  この作の笑いは、十辺舎一九や式亭三馬の滑稽本に比
 べ、はるかに低俗で、あくどく低級である。
1820年、大田南畝(おおたなんぽ、文人)の随筆「一話一
 言(いちわいちげん)」ができた(1822年説あり)。
  一話一言は、56巻あり、随筆だけでなく、諸書、記録
 類の称出を多く含み、著者の幅広い学識が出ている。
  1755年頃より1822年ころまで、筆者が見聞した風俗、
 流行、歴史、伝記、出来事・事件、見聞記・行動記録、
 感想、天災、幕府の文書などを、筆者の興味の赴くまま
 に多岐多彩に書き留めたもの。
  因みに、大田南畝は、別号を蜀山人(しょくさんじん)
 という。
1820年、宇田川玄真(うだがわげんしん、宇田川榛斎、蘭
 方医)が、「和蘭薬鏡(おらんだやくきょう)」を訳し、
 刊行する。
  「大黄で 効かない場合には体質にあわせて旃那葉や芦
 薈を使う」とある。
  大黄(だいおう)は、中国の高山に自生するタデ科の
 多年草で緩下剤・健胃剤の薬効がある。
  旃那葉(せんなば)は、緩下薬とあり、少量で苦味健
 胃薬になり、消化を促進させ、特に、熱結性便秘に用い
 られるとある。
  芦薈(ろかい)はアロエの音訳で、
  アロエは、ユリ科アロエ属の多肉植物で、乾燥したも
 のは下剤・健胃薬に用いるとある。
1820年、フランデス(ドイツ)が、初めて等圧線を引いた。
1820年、フランソワ・アラゴ(フランス)が、鉄心に巻き
 付けた導線に電流を流すと、磁石になるという電磁石の
 原理を発見した。
1820年、ミズーリ協定(アメリカ)
  アメリカ合衆国で、ミズーリを州にするとき、奴隷制
 を認めるか否かをめぐって議員が対立した。
  当然、奴隷制などというキリスト教の有色人種蔑視か
 ら来ている卑劣な制度は、破棄すべきであるが、アメリ
 カは議員がもめていた。
  そして、その収拾策としてミズーリ協定が結ばれた。
  相変わらず、北緯36度30分以南のルイジアナ購入地で
 は、奴隷制がそのまま残った奴隷州となった。
  因みに、1854年のカンザス・ネブラスカ法で、住民主
 権の原則の導入によって、北緯36度30分以北に位置する
 カンザスが奴隷州になる可能性がうまれたことで、この
 ミズーリー協定は無効となった。
  アメリカは、相変わらず軽蔑すべき有色人種蔑視の奴
 隷制の続く国だった。
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2015年9月20日日曜日

(増補版)209D2/3:気になった事柄を集めた年表(1818年~1819年)

題:(増補版)209D2/3:気になった事柄を集めた年表(1818年~1819年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1818年、幕府は、鎌倉で国産大砲を試射した。
  因みに、日本初の大砲は、天正年間(1573年~1591年)
 に、豊後の大友宋鱗が、南蛮船から火砲数門を買い入れ、
 実戦に使用したのが最初とされている。
  宋麟は、それを「国崩し」と名づけ、薩摩・島津氏と
 の戦闘などに使用した。
  その当時の石火矢(大砲)について「昇竜の雲のごと
 き黒煙を奔流し、その鳴るさまは驚雷のとどろくごとく、
 聞くものその耳を被わないものなし」とある。
  その威力については、轟音による威嚇と、破壊の威力
 はあったが、
  大量の火薬を消費するわりには、殺傷力がなく、
  無駄が多いと判断された様で、鉄砲の様に製造して武
 器として積極的に使用すという方向に行かなかった。
  この1818年の幕府の大砲試射があったが、
  国産大砲の製造を手がけたのは、幕府自体のほか、数
 藩あった。
  もっとも進んでいたのは佐賀藩だった。
  薩摩藩も比較的早く完成に結び付けたが、佐賀藩に比
 べると4年~5年、遅れていた。
  佐賀藩は、1850年に、佐賀城下の築地(現在:佐賀市の
 長瀬町)に大銃製造方を置いた。
  そして、日本初の洋式反射炉を作り、国内で始めて鉄
 の大砲の鋳造に成功した。
  この大砲製造は、ペリー来航の一年前の1852年だった。
  技術は、蘭学から導入した。
  佐賀10代藩主の鍋島閑叟の命によって、オランダの技
 術書を翻訳し、理論および仕組みを学び、習得した。
  その後の1853年に、新たに多布施反射炉も造り、幕府
 からの大砲注文をこなした。
  そして、幕府は、ペリーが翌年の再来を告げてアメリ
 カに帰っている間に、江戸品川のお台場に立派な大砲を
 据えつけた。佐賀藩の製造だった。
  一方、次の話もある。
  当時、日本で砲術で名を得ていた長崎会所の調役の高
 島秋帆は、1832年~1835年に、オランダから兵学書や砲
 術書を取り寄せ、
  また、モルチール砲(臼砲、きゅうほう)や、燧石(す
 いせき、火打石のこと)式ゲベール銃を輸入し、西洋砲
 術の研究を始めた。
  そして、荻野流の砲術を修めて、和流砲術にも通じて
 いた秋帆は、出島に出入りして、自らの立場を生かして、
 より進んだ西洋の砲術の知識を得た。
  そして、秋帆は、取り寄せた西洋砲を用いて実験を繰
 り返した。
  また、自らも青銅製の臼砲を鋳造するなど研究を進め
 た。
  そして、西洋砲術を 自己の流派として確立するまで行
 った。
  この秋帆に、伊豆韮山代官の江川英龍(坦庵)は、部
 下を入門させたりもして、近代砲術を学んだ。
  また、江川英龍は、伊豆韮山に反射炉を築き、日本に
 西洋砲術を普及させた。
  英龍は、1837年のモリソン号事件の時に、大きな関心
 と危機感を持った。
  しかし、当時の砲術技術と言っても古来からの和流砲
 術で、この実態に危機感を持ったことから、この行動を
 起こしたのだった。。
  佐久間象山も英龍の弟子になっている。
  また、浦賀奉行所の中島三郎助の話もある。
  中島三郎助も、高島秋帆の砲術を学び、幕府要人の視 
 察時には大砲試射を披露したという。
  そして、その腕前は幕府から高く評価されたという。
  1842年に、与力に取り立てられたという。
1818年、カール・マルクス(ドイツ、哲学者、経済学者、
 革命家)が生まれた(生没年:1818年~1883年)
1819年(文政2年)3月、渡辺崋山が26歳の時、日本橋百川
 楼(ももかわろう)で書画会を開いた。
  「鷹見泉石像」国宝(1837年作)
1819年3月、幕府が、飛騨国森部(もりぶ)蔵柱金山、和佐
 保・三ツ谷銅山の経営を試みた。
1819年閏4月、幕府が、江戸・京都・大坂・伏見以外の真鍮
 製造の禁止をやめ、各地での自由製造を許した。
1819年6月、幕府が、三橋会所頭取の杉本茂十郎を罷免し、
 三橋会所・伊勢町米会所を廃止した。
  茂十郎は町奉行所御用達も解任された。
  廃止の理由は、茂十郎の米投機の失敗、強圧的な資金
 徴収、会所の不明朗な会計、後ろ盾になっていた北町奉
 行の死去などが重なった。
  茂十郎がやっていた事は買米、買米には反対の声が仲
 間にあったが、無視して、茂十郎は買米を行なった。
  大阪の堂島米市場の始まって以来の高値が続いた。
  しかし、しだいに資金が続かなくなった。
  また、茂十郎は、幕府への多額の冥加金上納も行なっ
 た。幕府からの見返りもあったが・・、
  そしてまた、町奉行扱いの公金貸付まで手を出した。
  資金難となり、冥加金上納の延期を願い出たりして、
 大穴を開けた。
  そして、幕閣が交代し、町奉行も交代するという事態
 が起きた。
  杉本茂十郎が失脚すると、十組問屋の勢力は衰え、樽
 廻船側は、この機を逃さず菱垣廻船の領分に進出した。
1819年6月、幕府が、本船町の油会所を廃止した。
1819年7月、物価引き下げ令
  幕府が、米価下落のため全国に諸物価引き下げを命じ
 た。
  幕府は、大阪の問屋仲間を通じて、全国の市場支配を
 強化しようとしたが、
  また、幕府は、江戸・大阪市場の独占機能の回復を図
 ろうと対策を講じたりもした、買米もした。
  しかし、幕府の思う様にはならなかった。
  物価が次第に高騰して行った。
  庶民の生活は苦しめられ、幕府は令を出したのだった。
1819年7月、小判一分判を改鋳し、草文小判・草文一分判が
 鋳造された。(6月説あり)
1819年9月、米価の下落により、蔵米取りを救済するため、
 冬季給金が張紙値段(公定値段)100俵につき5両増で渡
 されることとなった。
1819年10月26日、浮世絵帥の勝川春英が没した(58歳)
1819年10月、幕府が、伊豆諸島の産物交易を江戸鉄砲洲の
 島会所扱いとした。
1819年、塙保己一が編纂した「群書類従」正編の刊行が完
 結した。
1819年、小林一茶の随筆・発句集「おらが春」ができた。
1819年、アメリカが、スペインからフロリダを購入した・
 ・購入したと言っても、
  本当は、アメリカ・インディアンの方々の土地。
  アメリカ・インディアンの方々は、不法な白人の占拠
 に、1842年に至るまでゲリラ戦で戦い続けた。
  ショウニー族のテクムセ族長の分身ともいうべきオセ
 オーラは、数千人のセミノール族をも動員して、抵抗を
 し続けた。
  このチェロキー族は、1821年に、新聞も刊行したりす
 る、読み書きができる知的な人々だった。
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