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2016年6月22日水曜日

(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)

題:(増補版)370E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年、住:
・1882年11月1日、米国のブラッシ会社より、初めて発電機
 が移入され、銀座二丁目に2000燭光の弧光燈の電燈が灯
 された。
  東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)には、
 連日、大勢の人が見物に訪れた。
  翌年の1883年には、京都の祇園に、この電気の街灯が
 登場し、
  そしてまた、その翌年の1884年には、大阪の道頓堀に
 設置された(その場に据え付けたバッテリーから電力を
 供給する形だった)
  発電所からの電力供給が始まったのは、1886年で、
  室内電燈は、1887年1月に、鹿鳴館の室内に、日本で初
 めて、室内電燈が灯った。
  次いで、皇居に、1889年1月6日に、電燈が灯され、
  営業用に電燈が使われるようになったのは、1890年11
 月の浅草・凌雲閣だった(12階の塔、お雇い外国人のイ
 ギリス人の設計、関東大震災で倒壊)
  東京電燈(日本で最初に誕生した電力会社)は1886年
 に設立され、火力発電所を、日本橋・茅場町や、麹町な
 ど、5か所に建設した。
  その後、次々と電力会社が誕生し、
  1888年:神戸電燈、
  1889年:大阪電燈、京都電燈、名古屋電燈、
  1890年:品川電燈、横浜共同電燈、深川電燈、熊本電
      燈、
  1891年:帝国電燈・・などが火力発電所を建設した。
  1894年に、日清戦争が始まると、電力が不足し、東京
 電燈は集中発電所として、浅草発電所を完成させた。
  浅草発電所の発電機は、石川島造船所が制作したもの
 で、交流200kw。
  ドイツのアルゲマイネ社の発電機を併用した。
  この発電機が50サイクルで、
  同時期に大阪電燈が採用したGE社の発電機が60サイク
 ルで、この違いが、現在まで続く日本の周波数の違いの
 起源となった。
1882年、その他:
・1882年6月25日に、東京で、鉄道馬車(てつどうばしゃ)
 が開通した。
  都市交通機関の軌道上に馬車を走らせるという輸送手
 段の東京馬車会社が、
  新橋~日本橋間の開通・開業させたのが最初。
  1882年10月1日までに、日本橋~上野~浅草~本石町~
 日本橋の循環線を完成させた。
  1372ミリメートル幅の軌道上を、定員24~28名の客車
 1両を、2頭の馬が牽引(けんいん)した。
  乗合馬車に比べてたいへん快適とされ、この後、主要
 都市の市街交通機関となった。
  1891年に大阪に、そして、1898年には函館(はこだて)
 でも開通した。
  しかし、京都の市街電車をまねて、東京でも1903年(
 明治36年)、東京馬車鉄道が電車に変わった。
  そして、地方都市でも、次第に、鉄道馬車は電車や、
 ガソリンカーに代わり、市街電車の普及により廃止され
 て行った。
  1914年の第一次世界大戦前までには、ほぼ姿を消した。
  尚、これにさかのぼること1869年、北海道茅沼炭坑で、
 軌道上を牛が炭車を引く方式が採用されたが普及しなか
 った。
  因みに、鉄道馬車の普及の前に、普及していた乗合馬
 車は、1877年9月には、雷門~新橋間のものだけで、車両
 数が87もあり、また、1日の平均売上げが、100円にも達
 するという盛況を見せた。
  しかし、1882年6月に、鉄道馬車が開設されると、次第
 に、中央部から駆逐され、
  1910年には、東京市内の乗合馬車はまったく姿を消し
 た。
・民の中に、馬にひかせる二輪車が使われ出した。
  日本における馬車の歴史は・・、
  運搬の手段としての馬は、古くから用いられていて、
  古代律令(りつりょう)制においては、駅制が整備され、
 駅馬も制度化された。
  しかし、これは、車を引かせるものではなかった。
  馬に人が乗ったり、馬の背に荷物を乗せて運んだので、
 こうした車を使用しない馬の使用は、ずっと後まで続い
 た。
  畜力による車としては、牛車(ぎっしゃ)だった。
  しかし、牛車に乗れる人は貴人に限られ、一般庶民は
 徒歩がほとんどで、
  駕籠(かご)や、馬の背を利用できる人も限られた人た
 ちだった。
  荷物を運ぶのも、人や馬の背によって行われ、駅から
 駅を付け通しする中馬(ちゅうま)制度も、車を用いるも
 のではなかった。
  日本における馬車の出現は遅く、幕末になってからで、
 横浜居留地の外人が私用に使ったり、
  外国の公使館が、幕府のある江戸とを往復するために
 用いたのが最初といわれている。
  こうした、馬車の使用を見た横浜の川奈幸左衛門ら数
 名が、1869年(明治2年)2月、乗合馬車の営業を出願し、
 出願者が共同で、成駒屋(なりこまや)という店名で、
  1870年9月、営業を開始した。
  2頭立てで乗客は6人、東京までの所要時間:4時間、運
 賃は75銭だった。
・共同運輸会社・大日本山林会・大日本水産会が設立。
 ☆共同運輸会社(きょうどううんゆかいしゃ)は、
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗し、1882年、
 三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海運会
 社だった。
  維新政府の海運振興策によって、1875年以来、船舶の
 払下げや助成金の交付などで、特別の保護・助成を受け
 て来た三菱会社との間に、
  運賃ダンピングによる死闘が展開された。
  両者が共倒れの危機となって、こうした状態を是正を
 し、海運業の一層の発展を図るため、政府が、仲介し、
  (政府は、三菱の海運界の独占を是正したいと、共同
 運輸会社の設立に対して、半額出資していた)
  1885年9月、三菱と共同運輸は合併し、10月、半官半民
 の日本郵船として開業となった。
 ☆大日本山林会(だいにほんさんりんかい)は、
  この会が設立されたのを契機として、全国各地に組織
 された民間の林業を指導した。
  大日本山林会は、1879年に、山林に関する学術知識を
 交換論究するために設立された山林学共会を先駆として、
  そして、この年・1882年に、山林共進会の開催を機に
 設立され、
  国内外の森林・林業の発展を図ることを目的とする公
 益社団法人。
  初代会頭:伏見宮貞愛親王(1882年1月~1915年4月)
  事業:
  (1)森林・林業に関する指導・普及・普及
  (2)森林・林業に関する政府への提言
  (3)森林・林業に関する調査・研究
  (4)雑誌『山林』の発行
  (5)小林記念林業文献センターの運営
 ☆大日本水産会(だいにほんすいさんかい)は、
  水産業者の養成を目的として設立した民間の教育機関。
  水産業に関係する生産者、加工業者、流通業者、小売
 販売会社など、約400の会員で構成される業界団体(一般
 社団法人)。
  沿革:
  1882年2月、「大日本水産会」が創立され、
  小松宮彰仁親王を会頭に奉戴し、品川弥二郎を初代幹
 事長に選出した。
  事業:
  (1)水産業会の意見を国の施策に反映させる。
  (2)漁業における国際会議や地域管理機関などの活動
   をNGOの立場で支援する。
  (3)漁船から食卓までの品質衛正管理の向上を目指す。
・この年になされた郵便関係のこと:
  ・郵便葉書取扱手続を制定した。
  ・郵便集配人の被服制定が改正された。
  ・駅逓局に運輸課が置かれた。
  ・外国書留郵便物の事故には、万国郵便連合条約によ
   り弁償金支払。
  ・郵便物の留置は私書函貸与に限ること:受取人の願
   による取扱禁止。
  ・郵便条例公布。
   1873年太政官布告97号・1873年制定された郵便規則
   により郵便事業官営と全国均一料金制を採用。(後に、
   郵便条例(1882年)などに整理される)
  ・郵便条例公布:郵便為替を12章に、駅逓局貯金を13
   章におさむ。
  ・府県管内地方郵便を「約束郵便」と改称。
・慈恵病院が創業した。
  1882年8月 高木兼寛が、有志共立東京病院を開院。
  1887年4月 当時の皇后陛下(明治天皇陛下の皇后・昭
 憲皇太后)より、「慈恵」の名を賜り、東京慈恵医院と
 改称した。
  現:東京慈恵会医科大学附属病院
・この年のコレラ流行で、3万3784人が死亡する。
  幕末から明治にかけて「三日コロリ」「虎列刺(これ
 ら)」「虎狼痢(ころり)」「暴瀉病(ぼうしゃびょう)」
 とよばれ、非常に恐れられた。
  1877年には、西南戦争の戦線でコレラが発生し、帰還
 兵によって全国に感染が広がった。
  以後、1879年、1882年、1886年も多くの犠牲者が出た。
  この様な事態に、明治政府は、衛生、防疫体制の整備
 を急ぎ、
  1879年に「虎列刺病予防仮規則(太政官布告第23号)」、
  1880年には「伝染病予防規則(太政官布告第34号)」
 を公布した。
  伝染病予防法心得につき県達前書、明治14年11月11日
  目今、本邦流行伝染病中、最モ予防注意ヲ要スヘキハ
 虎列刺、腸窒扶私、赤痢、実布垤利亜、発疹窒扶私、痘
 瘡ノ六病トス。
  而テ各種ノ病症ニ従ヒ、予防ノ法モ亦其趣ヲ異ニスト
 雖モ、其要領ハ之ヲ約スルニ四項ニ出テス。
  其一ハ、病毒ノ萌動及ヒ蔓延ノ因ヲ除却スルニアリ(
 即チ清潔法)
  其二ハ、各人体中有スル所ノ感受性ナカラシムルニア
 リ(即チ摂生法)
  其三ハ、病毒伝播ノ媒介ヲ隔離スルニアリ(即チ隔離
 法)
  其四ハ、伝染病毒ヲ消滅スルニアリ(即チ消毒法)
  右ノ四項ニ依リ、予防ノ事ヲ施サヽルヘカラス。
  故ニ其大意ヲ示スコト左ノ如シ(後略)
・下岡蓮杖が、浅草に写真館を開業した。
  1862年、蓮杖は、40歳で、横浜の野毛、ついで、弁天
 通5丁目横町で写真館を開業した。
  これが、横浜における営業写真館の最初であるという。
  明治15年(1882年)、蓮杖は、浅草公園第五区に写真
 館を移した。
・田鎖綱紀(たくさりこうき)が、速記文字を創案、習う
 者多し。
  大学南校で鉱山学をまなぶかたわら、在学中、偶然に
 目にした欧米の速記記号に興味を抱いて研究を始め、
  グラハム式の英語速記法をもとに、日本語速記法を考
 案した。日本語速記術の創始者。
  欧米の速記術を研究して日本語速記法を考案、明治15
 年(1882年)に、「日本傍聴筆記法」を発表し、速記普
 及につとめた。
  弟子たちは、帝国議会発足と同時に貴族院、衆議院の
 速記者として活躍したが、
  自らは、仕官を好まず、もっぱら速記普及の全国行脚
 に努めた。
  終生、速記記号を日本文字にとの願いを失わなかった。
  明治27年、藍綬褒章。著作に「新式速記術」など。
・スダレを豪州に輸出した。
.
 (今日の言葉)
.
  題:アメリカが言う屁理屈・・
.
  その言葉は、人類の『負の遺産』。
  人類の『負の遺産』に、まさになろうとしている。
  後々の世まで、大きな弊害を、人類に与え続けて行く・・
  その、計り知れない大きなマイナス要因を人類社会へ
 与えている。
  その様な・・恐ろしさがある・・、
  アメリカのその屁理屈は・・キリスト教の教義「目に
 は目を」の「同罪報復」から来ている・・
  「同罪なら報復しても良い」という考え方・・その教
 義に・・
  考え方を、洗脳され、マインド・コントロールされ・・
  アメリカは・・これによって・・「広島・長崎に原爆
 を投下した」・・実行した・・
  「広島・長崎の原爆投下」は、『真珠湾の報復だった』
 ・・『報(むく)いだった・・』・・だから・・だから、
 アメリカは、正しいのだ・・投下は正しいのだと言う・・
  そして・・また言う・・「広島・長崎に原爆投下をし
 なかったら」・・もっと多くのアメリカの青年が死んで
 いたと、だから、広島と長崎に原爆投下したのだと、
  アメリカは悪行を糊塗して言った・・が・・しかし・・
  これは、研究者が間違いだと指摘している・・
  この様な論理や数字は成立しないと・・
  「広島・長崎の原爆投下による死者の数の方が多い」
 と言う・・しかし・・
  しかし、しかし・・このキリスト教的な・・同じ数な
 ら同罪報復だから良いとか・・多い死者数だから投下し
 て良いとか・・、低劣きわまりない・・キリスト教的発
 想・考え方の低劣さ・・??
  恐ろしい正当化の理論である・・、
  誰が何と糊塗しようと・・何しろ、このキリスト教の
 教義の考え方は、正しくない・・正義でも何でもない・・、
  ある話を・・する・・、
  もしもの・・仮定のはなし・・、
  Rや・・Cという国が・・、
  「Aという国は、自分を正当化して・・なんだかんだ
 と無実の人々を、何人も・・、
  歴史の今までに、何人も・・何人も・・殺して来た。
  だから、これから先も、この様に・・何人も、何人も、
 人々を・・無実の人々を殺して行くだろう・・だから・・
  だから、だから・・その様なことをしない様に・・こ
 のAなる国へ、原爆を投下しても正義なのだ・・」・と、
  これから、Aの国に殺される多くの人々を救う事にな
 るから・・と・・
  こういう論理が成立するのだ・・と・・
  こんな論理は・・屁理屈だ・・成立しない・・する訳
 ない・・
  アメリカの屁理屈は・・世界へ言えば言うほど・・
  世界に公言して憚(はばか)らないアメリカの行動・
 発言・・
  愚かなことを言い続ける・・そして、もしも・・もし
 も・・この事を正義と勘違いして・・実行してしまう・・
 恐ろしさ・・
  キリスト教の教義は、この様な論理・考え方を・・正
 義だというように勘違いさせて、
  これまでの歴史の様に、そして、今・現代も・・
  そして、つい先ごろの事もそうだが、悪行をやって来
 た・・、
  アメリカの「広島・長崎の原爆投下のキリスト教教義
 からの理論は・・大間違いなのだ」・・、
  「20万人~30万人殺されるだろうから、先に、20万人
 ~30万人殺した」・・、
 というキリスト教の教義の理論は大間違いなのだ・・、
  「一人、殺されようが・・」、「二人、殺されようが
 ・・」「スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者た
 ちが、南米などで一千万人以上の人々を殺した」様に、
 その人数は波及していく、
  その考え・教義が間違っているのだ・・
  キリスト教の教義の大罪なのだ・・、
  「一人であろうが」「二人であろうが」「一千万人で
 あろうが」・・何人・・殺そうが・・
  殺人は・・『絶対悪』なのだ。
  殺人を正当化する論理は、「まったく存在しないのだ」
 ・・「正当化理論は、まったく無いのだ」。
  こんな論理が分からないで・・キリスト教にマインド・
 コントロールされ、アメリカは、洗脳されて、さも正義
 の様に思って、今・現代も同じことを・論理を言ってい
 る、言い続けている。
  そして、「広島・長崎の原爆投下は正しかった」と、
  恐ろしい事は・・人類の歴史に・・原爆投下の正当化
 の『愚かな先例』が刻み込まれた・・若しくは、刻み込
 まれようとしていることだ。
  キリスト教の遅れた教義・考え方に毒されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年6月20日月曜日

(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)

題:(増補版)369E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1881年12月~1882年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年、出来事:
・デフレーションですべて産業に陰り。
  松方財政によるデフレーション政策は、繭の価格や米
 の価格などの農産物価格の下落を招き、農村の窮乏を招
 いた。
  このデフレーション政策に耐えうる体力を持たない窮
 乏した農民は、農地を売却し、都市に流入し、資本家の
 下の労働者となったり、自作農から小作農へと転落した
 りした。
  一方で、農地の売却が相次いだことで、広範な土地が
 地主や高利貸しへと集積されていった。
  一部の農民は、経済的困窮から、蜂起活動に走り、各
 地では自由党による激化事件に参加して反政府的な暴動
 を引き起こすようになった(当時、農村は自由党の支持
 基盤だった)。
  また、官営工場の払い下げにより政商が財閥へと成長
 して行った。
  しっかりした資本家層が生まれ、一層、労働者層との
 分離が進んだ。
  資本主義経済の醜い面が、より一層強く日本に形づく
 られて行った。
1882年、流行・世相:
・東京にコレラが大流行し、全国に伝染して行った。
・世相:東京で開店や売り出しに景品を付ける富籤(とみ
 くじ)に似た行為が流行 → 各警察署が取締
  また、この取締り強化で、興農競馬会社は、富くじ付
 き前売り入場券が、発売できなくなり収入は激減した。
・1882年11月1日、東京・銀座にアーク燈がともった。
  東京電灯会社による、日本最初の電気街灯建設の地=
 東京都中央区銀座2丁目に電気街灯がともった。
  アメリカ製の可搬型小型発電機を使って、直流110ボル
 トの電気がが供給され点灯された。
  それまで、1874年に、銀座~京橋間に85本のガス灯に
 よる街灯が点灯された。
  また、この年・1874年は、日本橋馬喰町に石油ランプ
 の街灯が灯されている。
1882年、データ・物価:
・新聞・雑誌の発行禁止・停止処分件数 132件。
・鉄道運賃
  (3等・新橋起点)品川まで6銭、大森まで10銭、
 横浜まで30銭、京都まで3円75銭、大阪まで3円97銭、
 神戸まで4円13銭、
1882年、本:
・ 「民約訳解(みんやくやくかい)」(著:ジャン・ジャック・
 ルソー/訳:中江兆民)
  兆民主宰の仏学塾出版局発行の雑誌《政理叢談》に、
 原著の第2編第6章までが訳載された。
  全訳は、1877年および1883年に、兆民以外の人によっ
 てなされた。
  兆民は日本語訳でなく、漢文訳だった。
  兆民は、漢文の簡潔で豊富な表現力に傾倒し、その素
 養を深めることこそ文に長ずる道とみて、
  その文人・兆民の漢文修業の労苦の結晶であった。
  兆民の「解」が付してあり、兆民は「東洋のルソー」
 と言われた。
  この『民約訳解』は、民権派人士に歓迎され自由民権
 運動に大きな影響を与え、理論的支柱となった。
  しかし、後に、批判が加えられるようになり、時代遅
 れの理論とされるようになった。
  しかし、兆民の普遍的価値に接近していこうとする態
 度などから「東洋のルソー」と言われる機縁となった。
  兆民の「ルソーの本著の精読」から・・、
  『民権至理也自由平等是れ大義也』という確信は、
  『民権自由は欧米の専有に非ず』とする認識へ結び付
 いて行った。
  『古来、日本にもあった』と言いたかったのだろう・・
・ 「良政府談(りょうせいふだん)」(原題・ユートピア/著:
 トマス=モア/訳:井上勤)
  因みに、この頃までのユートピア文学で表現されてき
 た「理想郷」に共通する特徴は・・、
  (1)周囲の大陸と隔絶した孤島。
  (2)科学と土木によって、その自然は、無害かつ幾何
   学的に改造され、幾何学的に建設された城塞都市が
   中心となっている。
  (3)生活は、理性により厳格に律せられ、質素で規則
   的で、一糸乱れぬ画一的な社会。
    ふしだらで豪奢な要素は徹底的にそぎ落とされて
   いる。
    住民の一日のスケジュールは、労働・食事・睡眠
   の時刻などが厳密に決められている。
    長時間労働はせず、余った時間を科学や芸術のた
   めに使う。
  (4)人間は機能・職能で分類される。
    個々人の立場は、男女も含め、完全に平等だが、
   同時に個性はない。
    なお、一般市民の下に奴隷や囚人を想定し、困難
   で危険な仕事をさせている場合がある。
  (5)物理的にも社会的にも衛生的な場所である。
    黴菌などは駆除され、社会のあらゆるところに監
   視の目がいきわたり犯罪の起こる余地はない。
  (6)変更すべきところがもはやない理想社会が完成し
   たので、歴史は止まってしまっている(ユートピア
   は、ユークロニア(時間のない国)でもある)。
・ 「露国虚無党事情」(訳:西川通徹)
  虚無党(きょむとう):1、帝政ロシア時代、チェル
 ヌイシェフスキーを指導者とする革命的民主主義者の党
 派の称。
  2、ロシア皇帝暗殺などの非常手段に訴えた1870~80
 年代の革命家たちを、非難してよんだ語。
  (参考)虚無(きょむ):
  1、何物もなく、むなしいこと。空虚。
  2、この世に存在するすべてのものに価値や意味を認
 めないこと。
・ 「人権新説(じんけんしんせつ)」(著:加藤弘之)
  優勝劣敗の社会進化論を肯定し、
  天賦人権(てんぷじんけん、天がすべての人に対して
 平等に、分かち与えた権利)の存在を否定。
・イタリアの作家コローディ『ピノキオ』を発表。
1882年、衣:
・銀座に丸善・森村・大倉組などの洋服店ができた。
  洋服は、1871年(明治4年)頃より普及が始まった。
  丁稚奉公人として入店し、10年の年季奉公を済ませ、
 その後に、洋服職人として2年か3年のお礼奉公をし、
 独立開業して巣立った。
・二重マワシを着るものあり、横浜で金巾の輸入が、最も
 盛ん。
  「二重回し(にじゅうまわし)」は、この頃に生まれ
 たケープコート(ポンチョ風コート)、主に、紳士向け
 の外套だった。
  また、金巾(かなきん・かねきん)は、綿布の一種で、
 固くよった糸で目を細かく織った薄地の広幅綿布。
  白足袋(しろたび)、割烹着(かっぽうぎ)、和服の
 裏地に使われた。
・浅草で学生カバン製造され、漸次普及する。
  折鞄とも言われ、材料はズック製で、後に皮革等でも
 作られ、寸法は45cm~78cm位。
  革の工人、革具師、馬具師、文庫職人等々に依る発想
 で、1869年(明治2年)頃から1877年(明治10年)頃にかけ
 て通称、胴乱が鞄になり、
  「鞄」漢字の常用は1881年(明治14年)頃。
  (参考)胴乱(どうらん):皮または布製の四角の袋
    で、印章や薬などを入れて腰に下げるもの。
     もと、鉄砲の弾丸を入れるのに用いた。
1882年、食:
・神戸港で米の輸入が始まった。
  日本の米の輸入量と、輸出量は・・、
  1868年(明治1年)輸入:436千円、輸出:不明、
  1869年        4432千円    不明、
  1870年        14598千円    不明、
  1871年        1260千円    不明、
  1872年          0千円    不明、
  1873年         30千円    553千円、
  1874年         24千円    316千円、
  1875年         22千円     16千円、
  1876年          1千円    810千円、
  1877年(明治10年)    0千円    2269千円、
  1878年          0千円    4644千円、
  1879年         248千円    417千円、
  1880年         435千円    211千円、
  1881年         135千円    262千円、
  1882年         20千円    1652千円、
  明治維新にもとづく内乱と凶作の為、1869年と1870年
 に国内不安を鎮めるために輸入した。
  1870年の米の輸入額は、すべての輸入の43パーセント
 が米の輸入額という大量の輸入量となった。
  明治政府は、この時、米の輸出禁止令を出した。
  その結果、1872年以降は、米の輸入は、ほとんど皆無
 に近くなった。
  逆に、1873年7月15日の米輸出禁止令が解除になると、
 輸出される量が、急激に伸びた。
・搾乳場
  大阪に七つの搾乳場あり、牛乳過剰で、バター製造を
 始めた。
  1874年(明治7年)に、愛媛県の下井小太郎氏は、乳用
 牛を飼育し、搾乳し、粉乳製法を研究している。
  1863年(文久2年)に、横浜で牛乳の生産を開始した。
  これにより庶民でも牛乳を手に入れる事ができるよう
 になった。
  1876年(明治9年)、北海道根室に東梅牧場(柳田藤吉
 による国内初の大規模な近代牧場)が築かれて以降、北
 海道において欧米の酪農技術を取り込んだ近代的な酪農
 経営が行われるようになった。
・松本市で馬肉を食べ始めた。
  因みに、キリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエル
 は、日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかった。
  また、1863年(文久3年)の遣欧使節団としてヨーロッ
 パへ派遣された一行は、肉食はもちろん、パンも牛乳も
 喉を通らなくなっていった・・とある。
・神谷伝兵衛コウザン蜂印ブドウ酒製造に成功する。
 伝兵衛は、浅草の神谷バーの経営者。
  この年に、ブドウ酒を発売した。
  そして、伝兵衛は、1882年~1886年頃、速成ブランデ
 ーを製造・販売した。
  この頃、大流行していたコレラに効くと大いに宣伝さ
 れた。
  この後、また当時、流行していた「電気」という語を
 冠して「電気ブランデイ」を売り出した。
  電気ブランは、浅草の神谷バーの名物として愛飲され
 た。
  甘く強い酒で、飲み過ぎると足を取られ、店ではカッ
 プ3杯以上は売らなかった。
  電氣ブランデー(デンキブラン)の説明に・・「ブラ
 ンデーベースのカクテルで、ジンや薬草などが使われて
 いて、アルコール度数は40度。 当時、洋風の洒落たもの
 には『電気』の名をつけた」とある。
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