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2016年7月1日金曜日

(増補版)373E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年3月~1882年4月)

題:(増補版)373E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年3月~1882年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年3月14日、立憲改進党の趣意書の発表
  大隈重信らの東洋議政会が、嚶鳴社と合同して立憲改
 進党の趣意書を発表した。
  この年の4月16日に至り、大隈重信を盟主とする漸進主
 義の立憲改進党が、商工業者を母体に、都市中心の政党
 として発足した。
  立憲改進党には、犬養毅・小野梓・尾崎行雄・河野敏
 鎌・沼間守一・前島密らの百数十人が参加し、
  総理に大隈を、副総理に河野が選ばれた。
  根本理念は・・、
  (1) 皇室の尊栄と国民の幸福、
  (2) 金貨制の断行、
  (3) 学問の独立、
  (4) 責任内閣制、
  (5)選挙権の漸進的拡大、
  (6)通商の推進・・などで、イギリスの立憲政体を模
 した。
  そして、自由党とともに、自由民権期を代表する政党
 となり、
  イギリス流漸進主義(ぜんしん、順を追ってだんだん
 に進む)の議会政治と、
  立憲君主制のもとでの二院制議会の早期開設を主張し
 た。
  都市知識人、産業ブルジョアジー、地方名望家・地主
 層の支持を得た。
  『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』『朝野新聞』
 に、「改進党録事」の欄を設ける予定があった、そして、
 幅広い階層を地盤として、自由民権運動に積極的役割を
 果たす意欲があった。
  そして、自由党と並び自由民権運動を推進したが、
  しかし、運動が激化し、諸激化事件の発生とともに、
 弾圧が強化し、自由党の解党などのため・・、
  1884年11月ころより、党内に解党論が台頭した。
  そして、1884年12月には、総理の大隈をはじめ、小野、
 河野らが脱党するという事態が生じた。
  しかし、残った者たちで規約を改正し、事務委員制を
 とって再生を果たそうとした。
  最初に選出された委員は、藤田茂吉、尾崎行雄、箕浦
 勝人、島田三郎、肥塚龍、沼間守一、中野武営の7名と、
  東洋議政会、嚶鳴社の人々を中心に、党活動を維持し
 た。
  初期議会では、民党の立場を堅持し、軍事予算削減を
 求めて政府と対決した。
  1892年の総選挙の際は、政府の大弾圧を受けた。
  しかし、外交政策に関しては、明治10年代後半より国
 権色を強め、
  さらに、1888年、外相として入閣した大隈の条約改正
 交渉を支持するなど、政府に同調する姿勢をとった。
  そして、日清戦争を支持した。
  1896年2月16日になり、解党を決議し、
  1896年3月1日に、対外硬を高唱していた立憲革新党や、
 大手倶楽部(くらぶ)などと合同し、進歩党を結成した。
  (参考)対外硬(たいがいこう):国際社会における
 日本国家の現状を、対外的に危機的状況と考え、
  国家の自主・独立を重んじ、強い外交によって危機を
 打開しようとする思想。
1882年3月16日、立憲改進党の結党式(総理・大隈重信)
1882年3月18日、東京電灯会社の設立が出願された。
  矢嶋作郎、原六郎、大倉喜八郎、三野村利助、柏村信、
 蜂須賀茂韶の6氏が、発起人となり、
  資金20万円を以って、東京電灯会社の設立を、東京府
 知事を通じ、内務卿・山田顕義氏に出願した。
1882年3月18日、立憲帝政党(総裁・福地桜痴)の結成。
  長崎出身の福地源一郎、島原出身の丸山作楽らが、立
 憲帝政党を組織した。
  欽定憲法主義(天皇陛下の主権)を標榜(ひょうぼう)
 し、自由党・立憲改進党に対立したが、翌年・1883年9月
 24日に解党した。
  結党の理由は・・、
  1881年の自由党、1882年の立憲改進党の結成によって、
 政府に対立する政治運動がますます激しくなったことか
 ら、
  これに対抗するため(新聞によって自由党・立憲改進
 党を攻撃)福地源一郎 (東京日々新聞社長) 、丸山作楽
 (明治日報社長) 、水野寅次郎 (東洋新報社長) らを中心
 に、谷干城を交えて、結成した。
   地方の旧士族や、吏員、豪農・名望家層の保守的勢力
 に基盤を求め、自由民権運動に対抗した。
  1882年10月、京都で、全国同志の大懇親会を開催し、
 27府県から310人が集まった。
  福地らは、当初、政府に対して、直接、同党の活動に
 関与するよう期待したが、
  政府側は、政党内閣制を否定する超然主義に立って間
 接的支援にとどめた。
  党勢は振るわず、政府の後援も失って、1883年9月24日
 に解党した。
1882年3月20日、上野動物園開園と、上野博物館が開園
  農商務省博物局付属の動物園が、東京・上野に開園し
 た。
  日本初の近代動物園として、上野恩賜公園内にできた。
  また、この日に、農商務省博物局博物館新館(旧本館)
 が開館した。
  浅草文庫とともに一般公開され、また、法隆寺献納宝
 物も収蔵された。  
  「東京国立博物館」の付属施設として動物園が開園し
 た時には、明治天皇陛下が御出席されて、開園式が行わ
 れた。
  収容されていたのは、鹿、猪、熊、猿、鴨、鶴などで
 猛獣はいなかった。
1882年3月24日、結核菌の発見
  ドイツの細菌学者ローベルト・コッホにより、初めて
 結核菌が発見された。
  そして、ベルリン学会で同予防法が発表された。
1882年3月、官報の発行
  参議・山県有朋が、官報発行の建議書を、太政大臣・
 三条実美に提出した。
  これが、翌年・1883年7月2日の官報創刊のきっかけと
 なった。
1882年4月1日、馬車輸送業の開始
  西北社が、東京、高崎、前橋、坂本(碓氷)を結ぶ、
 郵便物・旅客・貨物の馬車輸送業を開始した。
1882年4月1日、三菱商船学校が、農商務省所轄となり、東
 京商船学校と改称した。
  日本は、四面環海の島国であり、
  航空機の発達以前の海外貿易においては、専ら、船舶
 によって行なわれており、
  外洋で、大型の商船を運行する高級船員(いわゆる商
 船士官)の養成は国家的事業であった。
  これを受けて、三菱財閥や、川崎財閥の手により、創
 立された三菱商船学校、川崎商船学校を官立に移管し、
 東京高等商船学校と神戸高等商船学校の2校が発足した。
  沿革:
  1875年(明治8年)私立「三菱商船学校」が設立される。
  1882年、官立(国立)に移管され、官立「東京商船学
 校」と改称。
  1886年、官立「商船学校」と改称(1890年まで)
  1890年、函館の官立商船学校(逓信省所管)を函館分
 校とする(現在の北海道函館水産高等学校の源流)。
  1896年、再度、官立「商船学校」と改称(1925年まで)
  1901年、函館分校を北海道庁へ移管。
  1925年、文部省所管とされ、官立「東京高等商船学校」
 と改称。
  1945年、東京・神戸・清水の高等商船学校3校が統合し、
 「高等商船学校」が発足。
  本校は、旧清水高等商船学校の校地に集約。
  旧・東京高等商船学校は「高等商船学校東京分校」と
 なる。
  1949年、学校教育法に拠り、新制・国立「商船大学」
 が発足。
  1957年、国立商船大学は、東京商船学校の旧校地に移
 転、国立「東京商船大学」と改称。
  2003年10月、東京水産大学と統合し「東京海洋大学海
 洋工学部」となる。
1882年4月4日、御雇い外国人のドイツ人カール・ラートゲ
 ンが、東京大学に着任した。
  ラートゲンは、「自由主義経済と、その上からの制御」
 とを、明治前期の日本において問う試みをした。
  彼の下から、阪谷芳郎をはじめとする俊英が輩出した。
  彼らは、日清・日露戦争を画期(かっき、過去と新し
 い時代とを分けること)する日本の経済的・社会的・国
 家的膨張を、直接、担った。
  そして、ラートゲンは、離日後も、彼らとの緊密な関
 係を保っていた。
  ラートゲンのその卓越した日本分析によって、マック
 ス・ヴェーパーの「日本社会論」に大きな影響を与えた。
  ラートゲンは、日本の政治学・統計学・財政学の基礎
 づけをなした傑出した人物である。
  それ故に、同時代の日本人たちに大きな影響を与えた。
  その功績により、1890年5月20日に勲四等(旭日小綬章)
 に叙せられている。
  また、1907年には、勲三等(瑞宝章)に勲位進級され
 た。
  ラートゲンは、8年間の日本滞在中、各方面の官僚・政
 治家、財界人、経済学者・財政学者・統計学者たちと知
 り合い、こうした人たちを育成・指導した。
  また、日本の俊英たちも、彼の日本財政・行政事項な
 どの研究を支え、また、その研究が日本に役立った。
  また、その日本の俊英の弟子たちも、ラートゲン亡き
 後のドイツに居る夫人を訪ね、慰め、3万マルクとテーブ
 ル掛けを贈るなど、心温まる行為をしていた。
1882年4月5日、井上馨の内地開放声明(条約改正会議)
  井上馨外務卿が、日本の法律・裁判所に服することを
 条件に、外国人内地全面開放を列国に提案した。
  この日、初めて、井上外務卿は、第7回会議において、
 内地開放を声明した。
  明治維新以来、日本は、「幕府の締結した条約は、不
 平等だ」と、早くから考えていた。
  日本は、「切り札」を持っていた。
  その最大の切り札が、日本が内地開放に応じて来なか
 ったことだった。
  そして、この日、井上馨は、初めて我が国の法律に従
 うことを条件に、全国を開放する旨を声明した。
  井上改正案は、「取らんと欲せば、必ず酬(しゅう、
 むくいる)うる所なかるべからず」という方針に立って
 いた。
  日本が関税を引き上げて税収増加を図ること、日本の
 行政規則を条件づきで外国人に及ぼすこと、12年後に対
 等条約の締結を提議する権利を有することなどの代わり
 に、
  外国人には、土地所有権、営業権、内地雑居権を与え
 ようというものであり、
  中には、宮城県の野蒜築港後に同港を開き、区域を設
 けて外国人の雑居を許すという案もあった。
  これについて、政府部内でも、佐々木高行、大木喬任、
 山田顕義の参議3名が、日本人は失うもの多く、得るとこ
 ろは少ないとして強く反対し、政府上層部の意見が分裂
 した。
  そのため、井上は、一時は辞任の意向を示すほどであ
 ったが、
  寺島前外務卿が慰留し、岩倉具視や山縣有朋らの3参議
 が取りなして、結局、ひき続き、井上の方針が採用され
 ることとなった。
  なお、小野梓は、1882年『外交を論ず』を著し、冒頭
 にトルコの例をひいて、列国共同会議を開くことは列国
 共同の圧力を受けることにほかならないとして、共同会
 議を開くべきではないと強く主張した。
  井上の改正案は、諸外国からも、法権・税権のいずれ
 に対しても批判が相次いだ。
  これに対し、井上は、日本は、法典の整備に鋭意取り
 組んでおり、日本国内の裁判所に外国人判事を任用する
 用意があると回答、
  1883年(明治16年)4月5日の第9回予議会では、日本の
 法律に服する外国人には、内地開放(内地雑居)を行う
 旨宣言した。
  内地開放とは、内地旅行や内地通商に関する制限を撤
 廃することであり、外国人の土地所有や企業活動の自由
 を認めることであったが、
  これは、法権の束縛された当時の日本にとって唯一最
 大の切り札であり、
  列国が、明治初年から繰り返し主張してきたことでも
 あった。
  この宣言は、イギリスはじめ列国からは、意外の念を
 示されながらも歓迎された。
1882年4月6日、板垣退助・遭難事件(岐阜事件)
  自由党党首の板垣退助が、岐阜県厚見郡富茂登村 (現:
 岐阜市)の神道中教院(現在の岐阜公園にあった建物)で
 遊説中に、愛知県士族の暴漢(相原尚褧)に襲撃され、
 負傷した。
  この日、午後6時半頃、板垣は、帰途につこうと中教院
 の玄関の階段を下りる。
  その時、「将来の賊」と叫びながら相原尚褧が、刃渡
 り9寸(約27cm)の短刀を振りかざし板垣に襲い掛かった。
  相原は、板垣の胸を狙い、左胸を刺す。
  板垣は、相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流
 小具足術(柔術)を会得していた)怯ませるが、再び、
 相原は襲い掛かる。
  板垣は、短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と
 人差し指の間を負傷する。
  二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相
 原を押さえ込む。
  その場にいた者たちは、第2の刺客に警戒しつつ、板垣
 を連れ、門前の傘屋に避難する。
  通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察
 をする。
  その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各1ヶ所、
 右手に2ヶ所、左手に2ヶ所、左頬に1ヶ所の、計7ヶ所に
 傷を負っていた。
  板垣は、輿に乗せられ旅館に戻り、警察は相原を連行
 した。
  襲われたとき、「板垣ハ死ストモ自由ハ死セズ」(諸君
 嘆ずる勿れ、板垣退助死すとも自由は滅ぜざるなり)と
 叫んだという。
  その後、板垣を診察した医者は後藤新平だった。
  板垣は、後藤の才を見抜き「彼を政治家にできないの
 が残念だ」と語った。
  だが、後に、後藤は、板垣の希望通り政治家となった。
  (氷川清話)明治15年には板垣退助の遭難。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年6月28日火曜日

(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)

題:(増補版)372E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年2月~1882年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1882年2月8日、北海道開拓使、廃止(三県一局時代)
  開拓使を廃止して、函館県・札幌県・根室県の3県を
 設置した。
  北海道には、この3県のほか、
  北海道事業管理局(農商務省の一部局)が設置されて
 いた。
  3県と事業管理局は、1886年1月26日の北海道庁の設置
 に伴って廃止された。
  1871年10月3日(明治4年8月19日)、当時の北海道開拓
 使は、北海道の開拓の目途として、翌年・1872年から10
 年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、
 いわゆる開拓使十年計画を決定していた。
  そして、開拓使十年計画の満期を迎えた1882年、当初
 の計画通り、北海道開拓使を廃止した。
  そして、その当時置かれていた北海道開拓使の札幌の
 本庁、および、函館・根室の2支庁のそれぞれの管轄区域
 に応じて、道外と同様に、県という行政区域を新たに3つ
 設定することになった。
  開拓事業については、これらの3県と農商務省管轄の北
 海道事業管理局とで、地方レベル・国レベルを各々分担
 する形で引き継がれることになった。
  北海道開拓使の廃止直前に、「開拓使官有物払下げ事
 件」が起きて混乱が生じたものの、
  1882年2月8日のこの日に、予定通り北海道開拓使に代
 わって札幌県・函館県・根室県の3県が成立した。
  これによって、北海道全体としては、初めて近代行政
 機関・近代行政区画を持つことになった。
1882年2月12日、東洋議政會(とうようぎせいかい)が結成
 された。
  矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅ら、東洋議政会を興す。
  東洋議政会は、慶應義塾(現・慶應義塾大学)の出身
 者によって結成された明治時代前期の政治結社で、「三
 田派(みたは)」とも呼ばれた。
  慶應義塾内では、早くから演説を導入していて、三田
 演説会などの政談演説会が、頻繁に開催されていた。
  主に、急進的な「政談演説討論会」(馬場辰猪・西村
 玄道・犬養毅・波多野承五郎・大石正巳・奥宮健之・竹
 内正志ら)と、
  穏健的傾向の「政談演説会」(小幡篤次郎・鎌田栄吉・
 藤田茂吉ら)の2派に分かれていた。
  そして、馬場辰猪は、田口卯吉・末広鉄腸と共に、よ
 り急進的な「国友会」を結成していた。
  そして、この日・1882年2月12日に、明治十四年の政変
 で下野した「嚶鳴社」・「鷗渡会」の同人と協議して、
 立憲改進党の結成に参加した。
  2院制・立憲君主制を標榜して、英国流の漸進的な改革
 を目指した。
1882年2月15日、劇場取締規則
  警視総監と東京府知事が、劇場を10座に制限するな
 どの劇場取締規則を定めた。
  1877年に、「寄席取締規則」が出されているが、どち
 らも寄席・劇場に対する客席数や営業時間などを規制し
 た。
  そして、劇場取締規則においては、下劣なものを避け
 る様にとの指導がなされた(高尚なものに)。
  鑑札制度・興行届出制・臨官席設置・定員・興行時間
 が定められた。
1882年2月25日、植物学会の創立(2月15日説あり))
  これまで、動物研究者と一緒だった東京大学生物学会
 (1878年、創立)に、東京植物学会が創立された(植物
 専攻研究の始め)
  機関誌「植物学雑誌」も、この年に創刊された。
  尚、東京大学生物学会は、植物学者が、この時に脱会
 した後、東京生物学会と名を改めた。そして、1885年に、
 東京動物学会と名を改めた。
1882年2月25日、九段遊就館ができた。
  靖国神社の祭神の霊を慰め、その徳を頌する(しょう
 する、ほめる)ため絵馬堂を兼ねて祭神の遺物を陳列す
 る所とし、1878年(明治11年)に、陸軍卿・山県有朋そ
 の他の主唱によって、西南戦争の際に献納された華族の
 恤兵金(じゅっぺい、兵士の慰問)の一部で建築に着手
 した。
  1882年、幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者ゆかりの
 品を展示する目的で開館した。
1882年2月25日、参議・伊藤博文らが、憲法、及び、制度研
 究のため西欧諸国へ差遣を命じられた。
  さかのぼること1881年6月~7月にかけて、法律と政治
 を司る法政官僚の井上毅が、
  ドイツ人の法律顧問・ロエスレルに意見を聞いて、憲
 法に関する綱領をまとめ、岩倉具視に示していた。
 (1)欽定(きんてい、君主による制定)憲法とすること。
 (2)プロイセン=ドイツ流の漸進主義とする。
  急激な改革はしないで、徐々に進む形にする。
 (3)陸海軍の統率、宣戦と講和、外国との条約などは天皇
 陛下の大権とする。
 (4)元老院と、国民の選挙で選ばれる民撰議院を設ける=
 二院制とする。
  この頃、大隈重信は、イギリス流の二大政党政治を主
 張していたが、
  伊藤博文や、岩倉具視は、君主制イギリス流は急進的
 過ぎ、また、革命思想が強いと考えていた。
1882年2月、福島事件(自由民権運動の民権激化事件)
  福島県令が、三方道路建設を計画し、無償で工事に従
 事することなどを決定して、農民の反対運動が起こった。
  この年の2月に、県令に着任した三島通庸は、着任すぐ
 に、会津地方から新潟県、山形県、栃木県へ通じる県道
 (会津三方道路)の工事をするために、
  会津地方六郡下の15歳から60歳までの男女を、2年にわ
 たり、月一日人夫として働くか、一日につき男15銭、女
 10銭の人夫賃を出すかと布告した。
  さらに、工事に従事しない者の財産は、競売に出すな
 どとした。
  この布告に、県会議長・河野広中らと福島県会は反発
 した。
  各地で、三島非難の演説会が開かれた。
  春から8月までに、36回余りの演説会が開かれ、うち
 19回が解散させられた。
  警察の弾圧が激化した。
  その様な中、福島県会が開会し、県側から、前年度2.5
 倍の地方税増税が提案された。
  これにも県会は抵抗し、否決に追い込んだ。
  しかし、三島県令は、内務卿・山田顕義から「原案執
 行」の特別許可を得て、県会の議決を事実上無効にした。
  さらに、三島は、自由党に対抗するため旧会津士族か
 らなる帝政党とつくった。
  そして、民権家を襲わせ、流血事件が続発した。
1882年2月、桑原紡績所が開業した。
  1870 年代末から1880年代にかけて、明治政府による紡
 績機械の輸入と、民間への払い下げを通して、
  綿糸紡績業が始動し始めた。
  当時導入された紡績機の紡錘数は2000であり、この紡
 錘機1基をもって一工場とする小規模な操業であった。
  (注)紡錘(ぼうすい):糸をつむぐとき、その糸を
    巻きつける心棒。
  桑原紡績所は、大阪府に所在し、政府の保護の立て替
 え払いを受け、2000の錘で操業した。
1882年3月1日、 「日本銀行創立ノ儀」
  松方大蔵卿「日本銀行創立ノ議」を建議する。
  松方正義大蔵卿、中央銀行設立・外国為替取引などを
 太政官に提出。
  明治維新以降、わが国は、富国強兵策によって、列強
 に伍することを目ざし、積極的な殖産興業政策を展開し
 ていた。
  しかし、財政的基盤のまだ固まっていない政府は、そ
 の資金の調達を不換紙幣の発行に依存せざるを得なかっ
 た。
  そうした中、明治10年、不平士族が立ち上がり、政府
 は、これに対処する事態となった。
  特に、1877年2月、西南戦争が勃発し、大量の不換政府
 紙幣、不換国立銀行紙幣が発行された。
  このことから、激しいインフレーションが発生してし
 まった。
  そこで、1881年、大蔵卿(現在の財務大臣)に就任し
 た松方正義は、不換紙幣の整理をはかるため、正貨兌換
 の銀行券を発行する中央銀行を創立した。
  それによって、通貨価値の安定を図るとともに、中央
 銀行を中核とした銀行制度を整備し、
  近代的信用制度を確立することが不可欠であると提議
 した。
  こうして、明治15年(1882年) 6月、日本銀行条例が
 制定され、
  同年・1882年10月10日、日本銀行が業務を開始するに
 至る。
1882年3月1日、 「時事新報(日刊新聞)」 が公刊した。
  日刊新聞の創刊ラッシュの時代だった。
  福沢諭吉が、「時事新報」を創刊し、官民調和を唱え
 た(主宰・福沢諭吉)
  慶應義塾大学、及び、その出身者が全面協力して運営
 され、
  創刊に当たって・・、
  「我日本国の独立を重んじて、畢生(ひっせい、一生
 を終わるまでの期間、終生)の目的、唯国権の一点に在
 る」・・と宣言した。
  創刊時より、国権論的主張を展開し、社説には、朝鮮
 に関する論説や、中国に関わる様々な形の東洋政略を論
 じたものが極めて多かった。
  この国権論は、慶応同窓に引き継がれ、条約改正問題
 や、朝鮮問題に際し影響を与えた。
  創刊よりの「国権皇張」「不偏不党」を掲げて発行部
 数は伸びた。
  ロイター通信社とも独占契約を、1896年に締結した。
  福沢諭吉の経営する「時事新報」の編集部は、三田の
 慶応義塾内にあった。
1882年3月1日「速達列車」
  「速達列車(そくたつれっしゃ)」とは、主要な駅だ
 けに停車し、目的地に早く到着する列車のことをいい、
 優等列車とも言った。
  新橋~横浜間の鉄道が、ダイヤ改正で1日で14往復にな
 った。
  このうち、4往復は、途中の品川と神奈川だけに停車す
 る速達列車で、所要時間は45分に短縮された。
  急行列車の始まり。  
  鉄道の創成期は、すべての列車が各駅停車だった。
  路線が長くなるに従い、長距離の利用乗客に対し、速
 達サービスの停車駅を限定する列車が出現した。
  そして、1882年3月、新橋~横浜間で、品川と神奈川に
 のみ停車する列車を「急行」と称した。
1882年3月1日、軽便鉄道の工部省鉱山局・釜石鉄道が、旅
 客運輸を開始した。
  工部省釜石鉄道の経緯:
  1880年2月17日、工部省釜石鉄道として、釜石桟橋~大
 橋間18kmの本線と、小佐野~小川山(わらびの)間4.9km
 の支線、さらに、工場への支線を含めた総延長26.3kmの
 鉱山専用鉄道として試運転を開始した。
  1880年9月7日に、製鉄所と鉄道の仮開業式が執り行わ
 れた。
  これは、新橋駅~横浜駅間鉄道と、京都駅~神戸駅間
 鉄道に続く、日本で3番目に開業した鉄道だった。
  軌間は838mm(2フィート9インチ)の特殊なものであっ
 たが、レールは16kg平底と丈夫なものを使用した。
  機関車は、英国シャープ・スチュアート社から輸入し
 たサドルタンク式の3両を使用した。
  1882年3月1日に、製鉄所の燃料用の炭焼竃の大半が、
 失火により焼失して、製鉄所が休止した。
  そして、それに伴い、遊休施設となった釜石鉄道は、
 一般へ開放され、旅客運輸を開始した。
  1882年12月、官営製鉄所の操業停止と、鉱山閉山によ
 り、鉄道が全廃された。
  燃料となる木炭が不足したことと、代替燃料となるコ
 ークス使用の目処が立たなかったことが原因だという。
  機関車2両と軌条は、大阪の阪堺鉄道(現、南海電気鉄
 道)へ売却された。
  近代化へ苦悩する明治政府だった。一朝一夕で、今が
 あるのではない。
1882年3月10日、日本最初の鉄道連絡船。
  琵琶湖の湖上連絡船・大津~長浜間航路が開業した。
  1882年(明治15年)、琵琶湖上で、長距離航路を運営
 する多数の会社が合同し、設立された。
  その後、いくつかの会社を吸収し、琵琶湖最大の船舶
 会社となった。
  同年・1882年に、金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)から長
 浜駅までの鉄道が開通したのを受けて、
  日本初の鉄道連絡船が、大津駅(現在の浜大津駅)ま
 での区間に就航した。
  この航路は、翌年・1883年(明治16年)に、長浜駅か
 らの鉄道が東海道本線に接続されてから、
  1889年(明治22年)に、湖東線(関ヶ原駅~米原駅~
 馬場駅(現在の膳所駅))が開業するまでの間、東海道
 の交通を担っていた。
1882年3月13日、立憲帝政党(りっけんていせいとう)が結
 成された。
  この日の1882年3月13日に、自由党、立憲改進党などに
 対抗し、
  東京日日新聞社長の福地源一郎、明治日報の丸山作楽、
 東洋新報の水野寅次郎によって結成された。
  4月4日には、大阪で、機関紙である大東日報を創刊し
 た(社長:羽田恭輔・主筆:原敬)
  立憲帝政党は、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙・
 シビリアンコントロール・司法の独立・言論の自由など
 を党議綱領に掲げた。
  自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、
  国学者、旧士族層や有力商人、高級官吏、神官・僧侶
 らなどの体制擁護を意図した。
1882年3月14日、伊藤博文が、西園寺公望らと欧州へ憲政視
 察(憲法調査・取調べ)で出航した(帰国は1883年8月3
 日)
  伊藤博文が、「憲法取調の大命」を受け、横浜を出帆。
  5月にベルリンに到着し、
  ドイツの憲法学者・ダナイスト、モッセラについて講
 義を受けた。
  しかし、伊藤は、「文字言語の不通」のうえ、きわめ
 て系統立ったモッセの憲法講義に、すっかり厭(あ)き、
  そして、疲れ、自信を失い、その困難をしきりと日本
 政府の参議・山形有朋や井上馨らに訴えていた。
  しかし、8月8日、オーストリアに入り、ロレンツ・フ
 ォン・スタイン邸を訪れてから、にわかに元気になった。
  岩倉具視にあてた手紙に「スタイン博士の講話は、私
 の感銘を興起せしめました」とある。
  「私は、グナイスト、スタインの両師について、国家
 組織の大体を了解することができ、
  皇室の基礎を固定し、大権を失墜させないための大眼
 目を十分に相立てました。・・
  いま、わが国の現情は、自由過激論者が英・米・仏流
 の思想を誤信し、
  ほとんど国家を傾けんばかりの勢いでございますが、
 これ挽回する論理と手段とを、私がつかみましたことは、
 報国の赤心を貫徹する時機において、その効果をあらわ
 す大切な要具になると存じます。
  私は心ひそかに死場所を得た心地です」
  (1882・8・11、岩倉宛伊藤博文書簡)(原文のまま)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年6月26日日曜日

(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)

題:(増補版)371E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年1月~1882年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年1月1日、全国人口が、3670万人118人
  東京:98万2143人、
  横浜:7万人と・・15年間で倍になった。
1882年1月1日、刑法・治罪法(ちざいほう)が施行された。
  1880年7月17日に、太政官布告37号で制定され、公布さ
 れていた日本で最初の近代的刑事訴訟法典。
  御雇外国人のG・ボアソナード (フランス人) が、フラ
 ンスの治罪法を基礎に、
  諸国の法を参照し、原案を起草した。
  それを、元老院において修正のうえ公布していた。
  1890年に、刑事訴訟法の施行によって廃止された。
  この法律の制定以前の明治初頭においては・・
  日本の刑事法制は、律令法制の復活に始まり、
  1870年の新律綱領、そして、
  1873年の改定律例とあいついで制定された。
  しかし、ヨーロッパ近代法(特に、フランス法)を範
 とした刑事手続の近代化の動きも、個々的に進められて
 いた。
  そして、治罪法制定までの間に、改定律例の自白によ
 る断罪を定めた規定の廃止や、
  証拠裁判主義や、
  1876年の自由心証主義の採用や、検事の公訴による国
 家訴追主義、
  そして、予審、保釈、裁判公開などの制が確立された。
  1878年の弾劾主義の確立、
  1879年の拷問の廃止などの法改革も進められていた。
1882年1月4日、陸軍および海軍に「軍人勅諭(ぐんうじん
 ちょくゆ)」が発布された。
  元となったのは武士道の考え方・・で、
  それまでの武士階級の規範だったものを・・国民一般
 の軍人の規範とした。
  忠節、礼儀、武勇、信義、質素が5つの柱となっている。
  西周(にしあまね、幕臣、官僚、啓蒙思想家)が、起
 草し、
  福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎によって加筆修正され
 た。
  天皇陛下より下賜された当時、西南戦争・竹橋事件・
 自由民権運動などの社会情勢によって、世の中の状況に
 不安があり、また、設立間もない軍部に動揺が広がって
 いたため、
  これに対して精神的支柱を確立する意図で起草された
 ものされている。
  1878年(明治11年)10月に、陸軍卿・山縣有朋‎が、全
 陸軍将兵に印刷し、配布した軍人訓誡が元になっている。
  特に、「忠節」の項において、「政論に惑わず政治に
 拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じている。
  また、戦いに於いては、「普段は命を無駄にせず、け
 れども時には義のため、国のために、命を捨てよ」と命
 じている。
1882年1月8日、京都に体育演武場が開場した。
1882年1月15日、フランス人画家・ビゴーが来日した。
  ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーは、明治時代の
 日本で17年間にわたり活動した。
  当時の世相を伝える多くくの絵を残した。
  ビゴーは、1876年(16歳)の時に、フランスの国立高
 等美術学校であるエコール・デ・ボザールを退学し、
  その後、日本美術愛好家として知られたフェリックス・
 ビュオや、アンリ・ゲラールから日本美術についての知
 識を得た。
  また、挿絵の仕事で出会ったエミール・ゾラや、エド
 モン・ド・ゴンクールなどからも、ジャポニスムの魅力
 を知るようになった。
  そして、1878年に、フェリックス・レガメが、旅行記
 『日本散策』を出版したりして、日本ブームだったこの
 年、
  パリ万国博覧会で、浮世絵と出会い、興味をより強く
 抱いた。
  1880年には、美術研究家ルイ・ゴンスによる大著『日
 本美術』の挿絵の一部を担当した。
  1881年より、人気の作品の挿絵を担当するなど活躍し、
 フランスで高い知名度を得ていた・・が、
  東洋の高い文化の国・日本への思いは強く、日本への
 渡航を決断した。
  そして、21歳の1882年のこの年、マルセイユ港を発ち、
 来日した。
  日本でのビゴーは、陸軍卿・大山巌の尽力で、御雇外
 国人・絵画講師としての高給の安定した生活を得た。
  そして、日本の隅々まで見て回り、スケッチした。
  また、幸い、その画集が好評を得て、御雇外国人の契
 約が切れた後も、経済的な支えとなり、日本に住み続け
 た。
  1885年~1887年頃に、中江兆民の仏学塾でフランス語
 を教え、塾で自由民権家とも接し、運動を知った。
  また、1885年に、日本の新聞「団団珍聞」への漫画寄
 稿や、
  1886年、「郵便報知新聞」の掲載された小説の挿絵の
 仕事を得たり、
  また、1886年に、フランス新聞社の「ル・モンド・イ
 リュストレ」や、イギリス新聞社の「ザ・グラフィック」
 などから、日本を題材とした報道画家の仕事を得た。
  しかし、ビゴーは、当時の日本の悲願である条約改正
 については理解を示さず、
  当時、居留する外国人と同じ意見である「条約改正は
 時期尚早である」の立場を取り、
  また、「日本の近代化にはまだ時間がかかる」との立
 場にいた。
  そして、日本にとって手痛い風刺画を、自分で発行し
 た風刺雑誌「トバエ」に描き、発表した。
  そのため、日本での身の置き所の心配が生じ、警察も
 注意を配すべき外人とした。
  例えば、必死に条約改正をしようと鹿鳴館で苦労する
 日本女性の休息室をのぞき見し・・、
  疲れて休んでいる女性の姿を・・皮肉たっぷりに描い
 たりした。
  また、身だしなみを整え、鹿鳴館で対応する日本の紳
 士・淑女を、
  鏡の前に立ったその姿と、鏡に映ったその姿をビゴー
 は描き、
  鏡の中に居るその日本の紳士・淑女は、みすぼらしい
 姿であると描いている。
  いたずらに、日本を見下し、バカにした風刺画といっ
 たところで、
  何らそこには、高貴な叡智溢れる風刺の姿はない。
  ただ、低劣な蔑(さげす)みの皮肉な風刺画がある。
  しかし、日本に居留する外国人たちには人気があった。
  酒を注がせ、脇に女性を侍らせ、料理を食べながら、
 西洋に追い付け追い越せと勉強している外交官を描いた
 りしている。
  まったく、正しく、正当に日本を見ていない「風刺屋・
 皮肉屋」がそこにいた。
  ビゴーの絵で、ロシアの監視下で、中国(清)と日本
 が、一生懸命、朝鮮という魚を釣り上げようとしている
 絵は有名であるが・・、(まだ、ちょんまげ姿の日本に
 している)
  教科書にも載っているこの絵なのだが・・、
  ビゴーは、自分の国・フランスやイギリスが、麻薬と
 いう卑劣な商品を用いて、それを売りつけるという行動・
 戦争によって、清国をとことん虐(いじ)め、奪った過
 去の残酷な歴史については、何も語っていない。
1882年1月21日、大日本山林会が設立された。
  現在も存続し、活動している本会のホームページには、
  「大日本山林会は・・、林業の改良・進歩を目的とし、
  明治15年1月21日創立されました。
  爾来130年有余を数え、わが国で最も長い歴史をもつ
 伝統ある林業団体です。
  この間、大正4年4月5日には、社団法人の認可(農商務
 省)を得、
  歴代総裁には皇族を奉戴いたしております。
  新公益法人制度の施行に伴い、平成22年10月1日付けで、
 公益社団法人に移行しました」・・とある。
1882年1月23日、大阪府、旧堺県の和泉・河内・大和の合併
 に当たり、
  同地方の鍼灸、水蛭、吸玉による治療の新規開業を禁
 止した。
1882年1月24日、神官の教導職兼補を廃止。
  自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノ
 トス。
  明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号
1882年1月25日、条約改正協議の「第1回各国連合予議会」
 が開催された。
  議長は、井上馨外務卿。
  日本や、中国には、イギリスやアメリカなど、外国に
 警察権を奪われた地があったり、また、行政権まで奪わ
 れた地があったり(中国の租界など)、
  自分たちのお好みのシステムに組み込んで、日本など
 の国家主権を好きに牛耳っていた。
  関税や裁判権なども牛耳られていた。
  また、欧州やアメリカなどの内のある国が、条約で得
 た「旨味のある権利」は、
  自動的に、他のアメリカやヨーロッパの他の国へも適
 用する事という・・まったくバカげた片務的な最恵国待
 遇が設けられていた。
  アメリカ・ヨーロッパが連合して弱小のアジアを牛耳
 る「まったく、不平等な条約」となっていた。
  強者のアメリカ・ヨーロッパ諸国の・・
  強者による、弱者への収奪以外の何物でもなかった。
  日本の地であっても、日本の法律が聞き入れらない悲
 しさ、
  そして、日本の裁判も・・無視された(治外法権)
  そして、日本に入って来る外国製品に関税を掛ける自
 由も奪われていた。
  イギリスが、卑劣な麻薬を中国へどんどん売った様な
 悪行為に対しても・・阻止する手はもがれていた。
  また、イギリスは「自由貿易の旗手」だなんて美しい
 事を言っているのに、
  日本の関税は低くさせて、イギリス品は日本に輸出し
 やすくしたのに、
  日本品のイギリスへの輸出品には、その5倍以上の関税
 を掛けた。
  どこが「自由貿易の旗手なのだ」と言いたい。
  アメリカなどは、そのイギリスの2倍という卑劣さだっ
 た。
  (アメリカは、日本の17倍以上の関税を掛けた)。
  日本の研究者は、その5倍や17倍の不平等さの半分でも
 改善されれば、日本の農民が税金で苦しむ事もなかった
 と言う(日本の間接税は全廃できた・・と)。
  財政難の日本は、この様な差別から国庫を潤す事も出
 来なかった。
  国内産業の発展にも「大きなブレーキ」がかかった。
  外国商人は、日本の法律の外の地位で、貿易で多大な
 利益を得て、さらに、日本の貿易を左右していた。
  その様な、程度の悪い、卑劣な条約内容だった。
  そして、この年・1882年、条約改正予議会が開催され
 た。
  (条約改正会議の開催は、1886年になった、そして、
 鹿鳴館は、1883年に落成する)。
  予備会議は、この年・1882年1月25日に、東京の外務省
 で第1回が開かれ、
  フランス・ドイツ・イギリスなど8か国が参加した(
 アメリカはこの時は参加しなかった)。
  この後になって、アメリカ合衆国とベルギーなども加
 わって、1882年7月27日まで計21回、開催された。
1882年1月、東京日日新聞と東京横浜毎日新聞の間で、主権
 所在論争が起こり、加熱した。
1882年1月、玉島紡績所が開業した(1881年説あり)
  岡山県繊維産業の勃興の端緒。
  1888年に、倉敷紡績が設立されたりしている。
  倉敷市児島地域の繊維産業は、明治時代に入り、由加
 山の参拝客が減少し、土産物として人気のあった真田紐、
 小倉帯地が売れなくなったことから、県外に販路を拡大
 するとともに、袴地や前掛地に転換していった。
1882年1月、井上馨が、条約改正に着手する。
  1882年~1887年頃に、井上馨は、条約改正に尽力した
 が、
  外国人判事任用問題で非難をあびて失脚した。
  日本に国力がまだ無く、
  外国は、日本の改正行動に対し、高をくくっていた(
 大したことはないと見くびっていた)。
  鹿鳴館など、欧化政策を必死にしていたが、まだ、し
 っくり身についていない日本の西欧化は・・蔑まされる
 面もあった。
  (ビゴーの風刺画は、風刺・ウィット(機知)と言う
 より蔑みである)
  そこには、日本の猿まねという見方があった。
  屈辱的な不平等条約を押し付けた欧米外国側に、その
 責任があるのに、その点へは、まったく思いは及んでい
 なかった。
  軍事力もまだない、そしてまだ、文明の未発達の日本
 だった。
  健気に、必死に歩んでいる日本、その日本の井上馨の
 涙ぐましい努力も、その様に受け取られていた。
  また、苦労をしている庶民サイドからも、鹿鳴館的な
 行為は、良くは感じられていなかった。
  当の在日外国人からも強く批判される鹿鳴館だった。
  また、舞踏曲の日本の演奏もまだまだ未熟であった。
  愛おしい明治の方々・明治人の一時期の出来事だった。
  結果は、功を奏さず。
1882年1月31日、日本初の生命保険金の受取人が出たことが
 報じられた。
  この生命保険会社ができたのは前年・1881年7月で、そ
 れから半年を過ぎ、加入者も1000名に達した頃の、
  1月20日に、心臓病で急死した警部長で、支払われた保
 険金は1000円。
  当人が払った保険料は30円だった。
  因みに、当時の1000円は、小学校教員の初任給の約200
 倍に相当した。
..
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