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2015年8月15日土曜日

(増補版)181D2/3:気になった事柄を集めた年表(1774年~1775年)

題:(増補版)181D2/3:気になった事柄を集めた年表(1774年~1775年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1774年、ラヴォアジェ(フランス)が燃焼を説明し、質量
  不変の定律を提唱した。
1775年、間宮林蔵(まみやりんぞう、探検家)が生まれた
 (1775年~1844年)樺太の探検家、
  常陸(ひたち)国筑波郡の農民の出身、
  1790年頃に、江戸に出て地理学を学ぶ、
  1796年に、数学の才が認められて、普請役雇として幕
 府に出仕した。
  1800年に、蝦夷地の測量(蝦夷地御用雇)を命じられ、
 幕吏・村上島之允に従い蝦夷地に渡った。
  蝦夷地の箱館で、蝦夷地測量中の伊能忠敬に会い、忠
 敬に測量術を学んだ。
  1803年に、西蝦夷地を測量する。
  1808年に、幕命によって、松田伝十郎と共に樺太(サ
 ハリン)を調査し、
  1809年の夏に、再び、樺太に渡り、北西岸の調査の後、
 ギリヤーク人に同行して黒竜江(アムール川)下流を探
 検し、満州仮府デレンを訪れ、周辺諸民族の清国への朝
 貢の実態を調べた。
  そして、樺太が島であることを確認し、
  樺太と大陸間の海峡の存在の問題を解決し、樺太地図
 を作成した。
  シーボルトは、この海峡を「間宮の瀬戸(間宮海峡)」
 と名付け、世界に紹介した、
  日本人の名がついた唯一の地名となっている。
  また、千島諸島にまで検地を進めた。
1775年3月、長久保赤水(ながくぼせきすい、地理学者、漢
 学者)が、「日本輿地路程全図(にほんよちろていぜん
 ず)」をつくる(1774年説あり)
  修正に努め、1779年に、「改正日本輿地路程全図」を
 大阪で出版し、普及に努めた。
  この間、水戸藩主の侍講となる。
  1785年には、世界地図「地球万国山海輿地全図説」や、
 中国地図「大清広輿図」も出版している。
  明治初年まで、版を重ね、普及している。
1775年、上杉鷹山(上杉治憲)が、国産所・備荒倉などを
 創設する。
  また、日頃から、家臣らや侍医らに、代用食となる動
 植物の調査・研究が必要と説き、
  自らも飢餓救済の手引書を執筆した。
  「いろは」順に、草木果実などの特徴と調理法につい
 て、
  また、食糧の保存法や、みその製造法、魚や肉の調理
 法について詳しく説明されている。
  また、「かてもの」(主食である穀物とともに炊き合
 わせ、食糧不足に陥った際に節約するための代用食とな
 る食物)を刊行している。藩内に配布した。
  米沢藩は、天明の大飢饉においても、1人の餓死者が出
 さずに済んだ。
  また、鷹山は、跳ね上がった米価の米を、新潟などか
 ら買い求め、領民に分け与えている。
1775年4月19日~1783年9月3日、アメリカ独立戦争
  アメリカで、1775年に、ちょっとしたことで武力衝突
 が起きた。
   アメリカの宗主国(そうしゅこく、従属国・アメリカ
 に対して、宗主権を持つ国家)イギリスと衝突が起きる。
  ボストン近郊で、アメリカ抵抗派の武器を押収しよう
 としたイギリス軍と、駆けつけたアメリカ植民地民兵と
 の衝突が起きた。
   この衝突が、アメリカの独立戦争の発端となった。
  日本をあらゆる面で押し付け、あらゆる物資の禁輸を
 したり、すべての面で圧力を加えたアメリカに対して、
 日本が戦端を開いたのと同じ行為が起きた。
  アメリカのマッカーサーが、「日本は、自国の自衛の
 為に、第二次世界大戦の戦端を開いたのだ」と言った事
 と同じことが起きた。
   アメリカ側は、制海権がイギリスに握られているので
 ヨーロッパからの武器輸入がままならなかった。
   アメリカは、各地の戦いに惨敗した。
   司令官のワシントンは、フランスやスペインの参戦を
 期待した。
  アメリカの味方となって参戦する事を期待した。
   ニュージャージーに進軍したイギリス軍が、略奪や、
 婦女に対して卑劣な強姦行為を行なうという愚行も起き
 たりした。不埒な国だ。
  この様な中で、北アメリカ地域のイギリスの植民地で
 発行されていた4つの新聞が、不思議なことなのだが、
 最初は3分の1しか「独立を支持をしていなかった」。
   新聞メディアは、完全に『独立に反対の姿勢』だった。
  独立が達成されるとみていなかった。
   しかし、だんだん独立支持へと変わっていった。
  日和見的な、不埒は新聞・ジャーナリズムだった。
1775年、マラータ戦争が起きた。
  イギリスが、インドにおいて煽った戦争。
  三度に渡って戦われた。
  インドのマハーラーシュトラ州の方々を相手に、イギ
 リスは弱い者いじめの戦争をやった。
  イギリスにとって、民族的なまとまりを持った、また、
 伝統を持った方々が気になった。
  表面的には、マラーター王国の宰相が野心を起こして
 イギリスに支援を求めたとなっている。
  第二次の戦いは、マラータの最有力の候が、イギリス
 と戦い、やっつけられた、イギリスは広大な土地を奪っ
 た。
  インドの諸侯たちは、イギリスと結ぶほか、生き残れ
 る道はなかった、他の道は閉ざされていた。
  イギリスに歯向かって敗けた宰相は流された。
..
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2015年8月14日金曜日

(増補版)180D2/3*気になった事柄を集めた年表(1772年~1774年)

題:(増補版)180D2/3*気になった事柄を集めた年表(1772年~1774年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1773年、11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が生ま
 れた(1773年~1841年)(将軍期間:1787年~1837年)
  三卿の一つである一橋治済(はるさだ)の長男として
 生まれた。
  1781年の8歳の時に、10代将軍の家治の養子に迎えら
 れた。
  田沼意次を廃して松平定信を老中とし、寛政の改革を
 行った。
1773年6月、伊勢・尾張地方が風水害になる。
1773年11月、安永騒動:飛騨最大の百姓一揆。
  社会は、凶作が続き、厳しい状態にあった。
  飢饉も起きたりしていた。
  また、一方、この騒動の根には、幕府の経済的困窮が
 あった、その状況からの脱却のための増税策があった。
  この飛騨のこの時も、この様な背景から、新しく検地
 を行なうこととなった。
  しかし、これに対する農民の反対が起きた。
  飛騨は、土地柄、「人余って食の足らざる国」と言わ
 れるほど、米の生産が低く、近隣の美濃や越中に食料を
 依存しているくらいだった。
  飛騨の12代目代官の大原彦四郎は約束を破る、
  「元禄に検地した田は調べず、新しく作った田だけ検
 地する」という約束があったのに関わらず、その約束を
 破り、古い田畑まですべてを厳しく検地して、過酷な年
 貢を課したのだった。
  1692年の時の検地も厳しかったが、この時の検地を上
 回る検地だった。
  それまでの3割~5割も年貢が増える状態だった。
  嘆願書を作って提出するが、取り上げられなかった。
  代官は、村の代表者を呼び、『検地を認め、不服は申
 し立てない事』という誓約と調印を強く求めた。
  ここに、「調印の絶対拒否」と、直訴して6名が死罪と
 なっているが、「その死を無駄にするな」との声があげ
 られ、農民の方々は立ち上がった。
  しかし、一揆は、農民側の完全な敗北に終わった。
  この騒動で、死刑13人、遠島17人、ほか1万人近くに
 刑が加えられた。
1773年、ボストン茶箱(茶会)事件
  この時は、アメリカも、虐(しいた)げられ、おいし
 い汁を吸われる立場にいた。吸う国はいつものイギリス。
  アメリカのボストンで、「茶箱事件」が起きた。
  そして、この動きは、アメリカの独立への道へと進ん
 でいくが・・しかし、そこに、
  翻弄(ほんろう)されるアメリカ・インディアンの方々
 が居られた。
  戦争ばかりしている、好戦国・イギリスは、「7年戦争」
 に勝利したものの重い戦費負担に苦しんでいた。
  その自分で撒(ま)いた戦争の戦費を、自分で賄(ま
 かな)おうとせず植民地のアメリカから得ようとした。
  そこで、アメリカを圧迫し、利益を得ようとした。
  イギリスは、不埒にも、色々な、種々の物品に税金を
 課した。
  また、イギリスは、茶の販売権を独占した。
  それら、自分に都合がよいことをイギリス本国だけで
 決定した。
  課税されるアメリカの意思なんかは全く無視した。
  アメリカは、『習慣的な自治権を得ていた訳だが、そ
 の自治権の侵害だ』と強く反発した。
  インドの方々は従順に、唯唯諾諾(いいだくだく、少
 しも逆らわず言いなりになること)と従ったが、アメリ
 カは反発した。
  「アメリカの代表が居ない所での課税決定は決定事項
 ではない」との論理であった。
  納税の拒否や、イギリス製品の不買運動をし、事態は
 険悪になった。
  その様な経緯の中で、1773年にボストン茶箱事件が起
 きた。
  ボストン港に停泊中のイギリスの東インド会社の船舶
 から茶箱が海に投げ捨てられた。
  イギリス本国は、罰としてボストン港封鎖を決定した。
  この「ボストン港閉鎖条例」の制定の他にも、イギリ
 スは、「懲罰諸法」を制定して、アメリカに報復した。
1774年、日本の総人口:25,990,000人
1774年3月、疫病流行、江戸で死者19万人。
  この年に、「時疫やまず、往来途絶える」との記録が
 あるが、病気の特定はできない。
  そして、この翌年も「春より時疫流行、数万人死亡」
 とある。
  そして、この年は、佐渡では天然痘が流行していた。
  そして、コレラは、まだ、日本に入っていない、1800
 年代の黒船が、この病気を持って来る。
  そしてまた、特に1774年(安永3年)に、「解体新書」
 が刊行されてからは、西洋の合理的な医学が、日本に深
 い根を伸ばしていった。
  しかし、当時のヨーロッパ医療でも、薬の主流は、世
 界中から集められた薬用植物や鉱物であり、
  それらを用いた治療法は、必ずしもすべてが、東洋の
 ものより優れていたとは言えない・・との記述も見た。
  因みに、江戸時代は、現在の抗生物質のような、優れ
 た医薬品があったわけではなく、
  現在と比べて、伝染病が、病気の大きな割合を占めて
 いた。
  特に、結核菌が怖いが、死亡原因の1位を占める『不治』
 と言われた怖い病気であった。
  江戸の人々、人口3000万人の8割が過労と貧困にあっ
 たと言える状況・・、
  この事から、当時の罹病者は、少なくとも100万人を
 下らなかったと推測されている。
1774年8月、「解体新書」が、日本語に翻訳され、出版さ
 れた。
  訳業は、1年10ヶ月かかり、
  オランダ学は、この時、始まったと言っていい。
  ドイツ語の原書が、オランダ語に翻訳され、日本語に
 翻訳されたのだが、わずか40年という速さで、日本の知
 識となった。
  顕微鏡も、天体望遠鏡も、ほぼ、発明と同時期に輸入
 されているという日本だった、先取の精神の旺盛な日本
 だった。昔から日本人の気質だった。
1774年、「ボストン茶箱事件」の翌年の1774年より、ア
 メリカの各植民地から、代表が集まり、会議が持たれた。
  会議では、イギリスから『自治権を守ること』と、
  イギリスへの『武力による抵抗も辞さない』というア
 メリカの態度が、この時、決定された。
1774年、イギリスの植民地・インドでのロヒラ戦争・など
  イギリスの奸策(悪巧み)によって、この年に、イン
 ドがロヒラ戦争を起こされた。
  イギリスのやり方:インド人同士を反目させて漁夫の
 利を得るという狡猾(こうかつ、ずるい)なやり方。
  イギリスは、宗教を利用して、インド教徒と回教徒を
 反目させたり・・また、
  地域の違いを利用して、藩王と藩王とを敵対させたり、
  人種の違いを利用して、ジャット人とラージプト人を
 戦わしたり、
  また、仕組んで、そのジャット人とラージプト人に手
 を結ばせてから、マラーター人を攻めさせたり、
 ブンデラ人とロヒラ人を争わしたり・・と、
  あらゆる策で、離間するように仕向け、戦わせて、イ
 ギリスだけが漁夫の利を得て、うまい汁を吸う事に成功
 していた。
  そして、次々と漁夫の利を得る作戦を行なっていった。
..
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2015年8月13日木曜日

(増補版)179D2/3:気になった事柄を集めた年表(1770年~1772年)

題:(増補版)179D2/3:気になった事柄を集めた年表(1770年~1772年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1770年、イギリス人のクックが、この年に、オーストラリ
 アに到達した。
  クックは書く・・、
  「彼ら(アボリジニーの先住民の方々)は、不平等に
 よって犯されることのない静寂の中に暮らしている。
  彼らと一体化した大地と大海は、生活に必要なあらゆ
 る事物を満たしている。
  彼らは、豪華な屋敷も家財もない・・が、しかし、
  彼らは素晴らしい大地で生活している」・・と、クッ
 クは表現した。
  この様に表現されていた「先にオーストラリアに来て、
 オーストラリアに生活していたアボリジニーの方々」の
 「アボリジニー・ランド」は、
  後から来た者たち(イギリス人)に奪われていく・・、
  そして、この後に、この後から来たイギリス人たちは、
 先に、既に住んでいた、生活していたアボリジニーの方々
 を、
  まるで動物の狩りをするかのごとく、殺して行く。
  そして、本当に卑劣な事だが、
  毒をもっても、殺して行く。
  この行為は、いくら軽蔑しても、したりないくらいの
 極悪行為だ。
  まったく非人道的な、卑劣な行為をするキリスト教徒
 のイギリス人たちだった。
  そして、先住民のアボリジニーの方々の土地を奪って
 行った
  占有し、イギリス人のオーストラリアとして行った
  (占領行為であり、侵略行為である。謝罪はまだして
 いない)。
  いま現代、一見、平等社会に見えるオーストラリア社
 会は、まったくアボリジニーの方々の、この件に関して
 ホッカムリをしている『不平等な社会』である。
  法的な権利を先住の方々に与え、本件を平等に解決す
 る必要が、現に今も、存在している。
  この件は、アメリカ合衆国についても言える。
  アメリカ・インディアンの方々も、全く一方的に土地
 を奪われ、生活の基盤を失った方々である。
  白人のアメリカ人から、一方的な契約によって、土地
 の所有権を奪われた。
  命を奪われながら、自分たちの領土を失って行った。
  そして、アメリカ・インディアンの方々は、宗教的・
 経済的基盤を失った。
  不合理な、強奪の様に収奪した土地の所有権は、返還
 すべきである。謝罪はまだしていない。
1770年、ベートーベン(ドイツの作曲家)が生まれた。
  ボンの宮廷楽長を祖父に持ち、
  ボンの宮廷楽団歌手の子として生まれた(1770年~
 1827年)
  10歳の頃から、ネーフェ(ドイツのオペラ作曲家)の
 教えを受け、
  師は、ベートーベンを第二のモーツァルトになるであ
 ろうと、彼の才能を認め、絶賛した。
1771年3月4日、医学:杉田玄白の腑分け
  江戸の小塚原の刑場で、50歳ほどの女性の刑死人の解
 剖が行われた。
  町奉行の役人の知らせで、杉田玄白は、小躍りして小
 塚原に行き、現実の人体の内景と、右にある本の解剖図
 を見比べていくうちに、
  本が、実際と寸分違わないことを知った。
  この時、杉田玄白と共に、前野良沢が解剖を見た。
1771年、風俗:おかげ参り盛行
  伊勢へのおかげ参りの盛行のこの時に、「お蔭参り」
 の言葉が生まれた。
  民衆の伊勢参りは、全時代を通じて流行していたが、
 特に、盛行の年は、1650年・1705年・1771年・1830年の
 各年が代表的。
  歌川広重が「伊勢参宮・宮川の渡し」の絵を描いてい
 るが、
  そして、その絵には、大勢の人たちが、楽しそうに、
 身なりも良く、にぎやかな中に描かれているが、
  豊かな、そして、品よく、穏やかな江戸時代が偲ばれ
 る。
 1772年、風俗:大和路を巡る
  本居宣長(もとおりのりなが、国学者、医師)が、大
 和路を巡る(「菅笠日記」)
  ことし明和の九年といふとし。
  いかなるよき年にかあるらむ。よき人のよく見て。
  よしといひおきける。吉野の花見にと思ひたつ。
  【萬葉一に よき人のよしとよく見てよしといひし吉
 野よく見よよき人よく見つ】
  そもそもこの山分衣のあらましは。
  廿年ばかりにも成りぬるを。
  春ごとにさはりのみして。いたづらに心のうちにふり
 にしを。
  さのみやはと。あながちに思ひおこして。出たつにな
 ん有ける。
  さるは何ばかり久しかるべき旅にもあらねば。
  そのいそぎとて。
  ことにするわざもなけれど。心はいそがはし。
  明日たゝんとての日は。まだつとめてより。
  麻きざみそゝくりなど。いとまもなし。
  その袋にかきつけける哥。
1772年、出版:解体新書、
  杉田玄白・前野良沢らが、「解体新書」を著した。
  解体新書の訳述は、1771年3月、小塚原で杉田玄白(
 1733年~1817年)らが、分け、つまり屍体解剖を見たこ
 とを契機とする。
  この時に、同行した人をみると、杉田玄白と中川順庵
 (1739年~1786年)は、ともに若洲小浜の酒井家の医者
 であるが、
  前野良沢(1723年~1803年)は、豊前中津の奥平家の
 医者である。
1772年1月、田沼意次の賄賂政治
  田沼意次が老中となった(1772年)
  天明年間(1781年~1789年)は、意次の全盛期で、「
 田沼の時代」と称された。
  フィクサー(陰で調停・処理して報酬を得る人)的な
 役割を演じた。
  役人の賄賂が横行した。
  専売制・会所制を設け、専売商人より冥加金を徴収し
 た。
  また、諸種の運上をうながした。
  銅・海産物を輸出し、金銀の輸入を行なった。
  天明の飢饉が起こるなど、意次への批判が高まり、
  子の意知が城中で刺されて死亡すると、急速に力を失
 った。
  代わって登場したのが松平定信。
1772年2月29日、江戸大火:明和の大火・目黒行人坂大火
 (めぐろぎょうにんざかのたいか)
  明暦の大火に次ぐ江戸三大火の一つ。
  目黒行人坂より出火、西南の強風にあおられ、麻布・
 芝・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼
 し、千住まで達する。
  翌日の30日の夕刻に、ようやく鎮火した。
  そしてまた、29日夕刻、本郷丸山町より出火、駒込・
 谷中・根岸を焼くという火災もあった。
  延焼地域は24キロメートルに達した。
  幅4キロメートルで江戸の約3分の1の面積におよんだ。
  延焼距離は、江戸時代から今日までの最長となってい
 る。
  死者数14700人、行方不明者4060人、
1772年、この年は、全国が風水害になった。
  史料1:安永元年8月20日(1772年) 暴風雨 四国・近
 畿・東海の諸国大風雨、洪水 讃岐災異年表に家屋崩壊
 19,000余戸、破船大小142隻、死者46人、牛馬47頭、紀伊
 にも被害があったと予想される。
  資料2:千葉県浦安市の水害の歴史に、安永元年(
 1772年)6月 津波・洪水・風雨
  資料3:大坂の歴史に、明和8(1772)年は、正月に大干
 魃、5月は大坂に疫病が流行、7月には京・大坂および近
 国に大風雨があり淀川の大洪水。
  資料4:田沼時代の災害・1772年に、同年夏から秋、
 九州、江戸、東海、近畿、瀬戸内海などの各地が大風雨
 にみまわれ大きな被害。現代でいう台風による被害。
  資料5:1772(明和9・安永1)年2月20日、京師で
 地震。(続史愚抄79)5月3日 京師で地震。(続史愚
 抄79)、7月肥前・肥後・筑後で大風雨。長崎で清の3
 船破損。(泰平年表)(十三朝記聞 6)(続史愚抄79)、
 8月初旬、関東から東海地方で大風雨。三河特に甚大。
 永代橋流出。(続史愚抄79)(徳川十五代史14)(談海
 続編 9)(泰平年表)(十三朝記聞 5)(続日本王代一
 覧 9)(浚明院殿御実記26)、8月下旬  瀬戸内から
 近畿にかけて大風雨。祇園悪王子社倒壊。(続日本王代
 一覧 9)(十三朝記聞 5)(続史愚抄79)、11月16
 日 風水害と江戸大火などの天災人災は「明和九年」だ
 という俗説が広まり、また幕府も改元を実施。この年、
 徳之島で翌年にかけて疫病流行。この年、霧島山噴火。
 被害多数。(日本災異誌)・・その他・略
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2015年8月12日水曜日

(増補版)178D2/3:気になった事柄を集めた年表(1768年~1770年)

題:(増補版)178D2/3:気になった事柄を集めた年表(1768年~1770年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1769年2月、農民の徒党・強訴・逃散を禁止する。
  荒廃する農村に対し、取締り強化の方向に行く。
  そして、2月には、遠国の百姓の徒党強訴は、いかなる
 要求でも受理は出来ないとした、そして、処罰するとし
 た。
  そして、この後、徒党強訴・逃散禁止として行く。
1769年10月、青木昆陽(あおきこんよう、儒学者、蘭学者)
 が没した(1698年~1769年)
  飢饉のときの救済作物となった、救荒食物のサツマイ
 モの研究と、普及に、功績を残した人が没した。
  「甘藷先生」と呼ばれ、「芋神さま」と呼ばれた。
  研究に成功し、全国に普及したサツマイモは多くの人々
 を救った。
  言葉:
  此芋を蒸して干し、米の如く切って飯となし食う。島
 人皆百余歳の寿を保つ(「蕃藷考(ばんしょこう)」)
1769年10月、賀茂真淵(かものまぶち、国学者、歌人)が
 没した(1697年~1769年)
  この人の著・「万葉考」は、最も精力を傾けた著作で、
  また、この人には、門人に女性も多くいる(男女差別
 は、まったくない世界だった)。
1769年、生活困窮者の救済:義倉(ぎそう)
  倉敷の豪商たちが、麦を拠出して、生活に困窮する人
 たちを救う制度「倉敷義倉(くらしきぎそう)」を作り、
 始めた。
  また、倉敷の商人の人達には、既に、自治の気風が生
 まれていた。
  義倉は、日本で古くから置かれた備荒貯蓄(びこうち
 ょちく)のための倉庫で、
  備荒貯蓄は、凶作・飢饉に供えて、米穀類や金銭を貯
 蔵した。
  古来から、義倉や社倉や常平倉(じょうへいそう)な
 どが設けられて来た日本だった、
  江戸時代は、囲米(かこいまい)・囲籾(かこいもみ)
 も備荒用の性格を持っていた。
  また、義捐(ぎえん)といって、慈善や被災者救済な
 どの主旨で、金銭や品物が差し出されていた。
  幕府や諸藩は、特別課徴や義捐によって備荒貯穀(び
 こうちょこく)を行なっていた。
1769年、フランスがインドから退出する。
  フランスのインド会社が、イギリスとの勢力争いに敗
 れ、また、財政困難から、この年に解散した。
  いよいよイギリスのインドにおける卑劣な横暴な行動
 が始まる。
  日本に向けた「リットン調査団」の様な行動が、この
 イギリスのインドにおける蛮行に対してもあるべきだっ
 たのだが・・、
  アメリカ人の書いた記録がある、それは、インドのイ
 ギリスのあまりの悪どい悪辣さに驚き、アメリカのやり
 口の悪さはイギリスほどでもないという事を言っている。
  どちらもどちらだ・・、
1769年4月13日、イギリス人のクックが、この日に、タヒチ
 に達した。
  南米大陸南端のホーン岬から、太平洋を西進したクッ
 クは、この日に、タヒチに着いた。
  この後、クックは、ニュージーランドに向かい、そし
 て、達し(1769年10月6日、ヨーロッパ人としては2番目)、
  クック海峡を通過し、オーストラリア東岸を発見する。
 (~1771年、第一航海)
1769年、ジェームス・ワット(スコットランドの数学者・
 エンジニア)による蒸気機関が発明された。
  これは、既に発明されていた蒸気機関の効率の悪さを
 改良したものだった(復水器で蒸気を冷やす事が改良の
 ポイントだった)。
  効率が良くなった。
  クックは、この他に、往復運動から回転運動への変換、
 調速機を利用して動作を安定化したりの改良を加えた。
  これによって、工業や交通機関への応用への道が開け
 た。
  そして、イギリスに、18世紀後半から19世紀前半にか
 け産業革命が起きた。
  そして、他の欧米諸国へ、19世紀から20世紀初頭にか
 けて波及して行った。
1769年、水力紡績機が発明され、実用化された。
  これもイングランドのアークライト、この人は、綿紡
 績の盛んなランカシャー州の貧しい農家に生まれた。
  初め理髪師となったが、紡績機械に興味を持ち、
  水車を利用した水力紡績機械を発明した。
  そして、この年の1769年に、特許取得のための申請を
 した。
  この後、全工程の一貫生産技術を確立し、これによっ
 て大量生産が可能になった。
  これは、産業革命に多大な影響を与えた。
  日本には、豊田佐吉の豊田式自動織機の大発明がある
 (1897年)。
  この特許権使用料を、トヨタ自動車創業の基礎として
 いる。
1769年8月15日、ナポレオン1世(フランス第一帝政の皇帝)
 が生まれた(1769年~1821年)
  本名は、ナポレオン・ボナパルト
  コルシカ島のイタリア系地主であるボナパルト家の
 出身で、
  パリ兵学校で学び、1785年に、砲兵士官(少尉)とな
 って地方都市に赴任したが、山岳派支持の小冊子を発表
 して逮捕される。
  1795年に、パンデミエールの反乱を鎮圧して再起した。
  総裁政府からイタリア遠征軍司令官に任命されて手腕
 を発揮した。
1770年4月、幕府が、諸国に徒党強訴・逃散禁止の高札を
 立て、訴人には賞金銀百枚を与える旨を布告した。
  農村は荒廃して行っていた。そして、世界的な異常気
 象が起きている時代でもあった。
1770年、諸国が飢饉
  天明の大飢饉という、前代未聞の大飢饉が、1782年か
 ら起き、1788年にかけて、人々を苦しめるが、
  すでに、東北地方では、1770年代から、悪天候や冷害
 により、農作物の収穫が激減しており、
  農村部を中心にひどい疲弊状況に陥(おちい)ってい
 た。
  インドのベンガル地方においての飢饉も、この1770年
 に起きていて、
  何と、この飢饉で、1000万人の方々が亡くなっている。
  また、1770年初頭に、ヨーロッパも大飢饉であったが、
  これを救ったのが、ジャガイモだった。
  この時期に、ヨーロッパで急速に普及して行った。
  この救いのジャガイモをもたらしたのがインカの方々
 だった。
  インカの方々は、スペインのキリスト教徒とキリスト
 教聖職者たちに絶滅させられたが、
  インカの方々は、野生のジャガイモは毒性が強く、食
 べられない状態であったのを、
  有毒の、この野生ジャガイモを、食糧とする工夫を重
 ねて来た。
  そして、更に、インカの方々は、野生ジャガイモに関
 する知識を蓄積して行き、ついに、栽培ジャガイモの育
 成に成功した。
  この農業技術・農耕技術は優秀で、殺戮者のスペイン
 人も驚嘆したという。
  そして、トウモロコシと共に、ジャガイモは、ヨーロ
 ッパへもたらされた。
  しかし、初めは、ヨーロッパは、キリスト教による根
 強い偏見があって、このジャガイモは食べなかった。
  忌み嫌った。
  「聖書に記載されていない植物だ」と、また、「悪魔
 の植物だ」(迷信宗教)・・と。
  しかし、大飢饉になってその有難味(ありがたみ)が
 分かるキリスト教徒たちだった。
  日本へは、18世紀になって入って来た。
..
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2015年8月11日火曜日

(増補版)177D2/3:気になった事柄を集めた年表(1767年~1768年)

題:(増補版)177D2/3:気になった事柄を集めた年表(1767年~1768年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1768年、日本の総人口:26,252,000人
1768年8月、佐渡に一揆が起きる(1767年説あり)
  新潟明和騒動、不景気に加え凶作に苦しむ新潟町民に、
 財政難の長岡藩が、1768年に、多額の御用金・1500両を
 掛けた。
  不景気に苦しみ、上納金完納の期日も迫り、返済に困
 った町民は、リーダー・涌井藤四郎を中心に協議した。
  藤四郎は、御用金の納入期限延期や、不正な徴税に一
 役買っていた町役人の公選制などを求める嘆願書を提案
 する。
  しかし、この動きが奉行所に漏れ、首謀者として涌井
 藤四郎が捕縛され、投獄された。
  これがきっかけとなって、怒った600余人の町民は、豪
 商らの家を打ち毀し、奉行所へ押しかけた。
  町役人は敗走した。
  涌井藤四郎は釈放され、2日間にわたる打ち壊し騒動
 ののち、
  藤四郎は、役人への安易な暴力を「無駄だ」と制して、
 自体は沈静化した。
  町民は、夜道の見回り、米の買占め防止、質屋の法外
 な高利の取締りといった策を講じた。
  そして、秩序を保ち、新潟町は、奉行に代わって涌井
 が町政を掌握し、約2か月間、町民自治を実現した。
  しかし、長岡藩の巧妙な策の前に、首謀者として次々
 に逮捕された。
  その後、1770年8月に、長岡藩は、騒動の一切の責任を
 まとめ役だった涌井藤四郎と岩船屋佐次兵衛の2人におわ
 せた。
  そして、この月の8月25日に、斬首の刑にした。
  この様にして、約1年半後にして、この処刑によって事
 件は落着させられた。
1768年8月25日、イギリス人のクックが、この日に、イギリ
 ス南部の町・プリマスを出航した。
  この後、リオデジャネイロを経由し、南米大陸南端の
 ホーン岬を通り、太平洋を横断して西へ進み、
  翌年の1769年10月6日に、ニュージーランドに達し、
 クック海峡を通過し、オーストラリア東岸を発見する。
 (~1771年、第一航海)
1768年、ロシア・トルコ戦争が起きた。(~1774年)
  16世紀の後半から19世紀にかけて、ロシアとオスマン・
 トルコ帝国との間で、黒海、および、その沿岸地方の支
 配を巡って、11回の戦争が繰り広げられた。
  この1768年~1774年の戦争は、6回目の戦争にあたる。
  この時の戦いは、ロシアは、帝国の膨張を目ざしてト
 ルコ支配下のクリミア地方に侵入して戦った。
  その結果、1774年に、クチュク・カイナルジ条約を結
 び、ロシアは、黒海北岸を領有し、ついでクリム・ハン
 国を、1783年に、併合した。
  クリム・ハン国は、1426年頃、クリム(黒海に突出し
 た半島)を中心に成立したモンゴル系のハン国。
  15世紀後半に、オスマン帝国の属国になっていて、今
 回の1783年に、ロシア帝国に滅ぼされた。
1768年、キリスト教のイエズス会が、パラグアイから追放
 処分を受けた。
  領土的野心を持っているイエズス会は、日本にも来た
 キリスト教宣教師・ザビエルも、イエズス会である。
  また、これに先立って、ポルトガルやスペインも、『
 イエズス会を追放処分』をしている。
  因みに、上智大学は、イエズス会である。
1768年5月、プロテスタント教会の大きな勢力となったいる
 メソジスト教会(メソジスト派)。
  その創設者で、オクスフォード大学教授でもあるジョ
 ン・ウェズリーは、
  その「信仰日誌」の、1768年5月25日の所に、こう書き
 付けた。
  「一般のイギリス人は、いや、ヨーロッパの学問ある
 人たちの大部分は、魔女や、超自然的現象に関する話を、
 単なる老婆のおとぎ話として黙殺してしまった。
  これは、遺憾なことである・・、
  魔女を黙殺する事は、聖書を黙殺するに等しい。・・
  私は、私の最後の息でもって、目に見えない世界につ
 いての一つの偉大な証明を・・、
  すなわち、既に、あらゆる時代によって確認されてい
 る魔女と超自然現象とについての説明を、不信心者に示
 したいと思う…」・・と。
  魔女裁判に関する限り、宗教改革は、宗教制度の改革
 であっても、『宗教精神の改革ではなかった』。
  改革者は、古い教会のドクマチズムにプロテストして
 直接、聖書に帰依した(ドクマに盲信した)。
  神と直結した「キリスト者の自由」はそこから生まれ
 たはずであるとした・・が、
  しかし、改革者にとっては、神の言葉の解釈は、ただ
 一つしかなかった。
  そのただ一つの解釈は、『自分自身の解釈』以外のも
 のではなかった。
  新教のイントレランス(不寛容)がそこから生まれる
 のは当然であった(魔女狩り、岩波新書)
  その不寛容によって、
  多くの魔女にされた方々が、
  長い期間、
  あらゆる所で、
  キリスト教の不寛容で殺され続けた。
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2015年8月10日月曜日

(増補版)176D2/3*気になった事柄を集めた年表(1765年~1767年)

題:(増補版)176D2/3*気になった事柄を集めた年表(1765年~1767年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1765年12月、高利取締令:座頭等の高利貸を禁止した。
  座頭の高利貸しが盛んとなり、そして、その取り立て
 が、横暴を極めたので、幕府は、高利取締令を出した。
  座頭(ざとう、ざがしら)は、中世の商工業・芸能な
 ど諸座の長のことだが、座頭金とは、座頭が、幕府から
 許されて、高利で貸し付けた金のこと。
1765年、長崎において、幕府が、オランダ船舶載の金銀銭
 を、初めて輸入した。
  また、この頃から、幕府は、鉄銭や真鍮銭の鋳造を始
 めた。
1765年、イギリスは、インドのベンガル地域の『徴税権(
 ちょうぜいけん、税金を取り立てる権利)』を、インド
 からもぎ取った。
  イギリスは、他国の民から税金を取るという事までや
 り出した。
1765年、謝罪をしてないイギリス
  また、イギリスは、武力でインドの地を盗って行った。
  卑劣な事に、インド人とインド人を戦わせたり、
  インドの藩王とその藩王の司令官を戦わせたり、
  また、籠絡(ろうらく、だます)して狡(ずる)く立
 ち回った。
  そして、ある階級の人間に過ぎないイギリスのクライ
 ブ中佐は、1765年に、たった1年半でフランスよりも大
 きい地域をイギリスのものとした。
  広大なインドの方々の地を、多くのインドの方々を殺
 しながら、イギリスの領土とした。
  軽蔑すべき侵略行為であった。帝国主義行為であった。
  イギリスは、これまで、この様な侵略行為を、インド
 の方々へ謝罪をして来なかった。
1767年、滝沢馬琴(たきざわばきん、曲亭馬琴、戯作者)
 が生まれた(1767年~1848年)
  江戸深川の生まれで、
  父は、旗本・松平信成家の用人。
  五男として生まれるが、10歳にして滝沢家を継ぐ、
  主君に仕えたが、14歳で主家を出奔(主君のレベルの
 問題)。
  長兄の下で、師について俳諧を学び、文学趣味を涵養
 した。
  23歳の時、官医の塾に入って医を志すが、むしろ、そ
 の時の、儒学の講説を聞く方を好んだ。
  1790年の24歳の時、戯作で身をたてる事を決意し、山
 東京伝の門に入り、京伝の代作をし、黄表紙(きびょう
 し、江戸中期以降に流行した草双紙・一種の絵本)を執
 筆した。
  しかし、読本の分野において名を成さしめた。
  「椿説弓張月」
  晩年、ほとんど失明する中、創作活動を続けた。
  「南総里見八犬伝」を完成させた(28年を要した)。
   筆一本で食べて行ける人だった。
1767年、雷電為右衛門(らいでんためえもん、力士)が生
 まれた(1767年~1825年)
  信濃国出身、
  1788年に、出雲(いずも)松江藩のお抱え力士となる。
  1790年冬、いきなり関脇つけ出しとして初土俵を踏み、
 優勝する。197㎝、170kg、
  あまりの巨体、怪力の為、張り手、鉄砲(上突っ張り)、
 かんぬきの三手を禁じられた。
  連続優勝7回、44連勝の記録がある。
  1811年の45歳の時に、引退、
  幕内成績:254勝10敗21分、
  勝率9割6分2厘という大相撲史上未曾有の最強力士。
  谷風梶之助、小野川喜三郎と共に寛政大相撲の黄金期
 を築いた。
1767年7月、田沼意次(たぬまおきつぐ)が側用人となる
 (1719年~1788年)
  御側御用人(1751年に着任)から板倉勝清の後任とし
 て側用人へと出世し、5000石の加増を受けた。
  父は、紀州の足軽だった。そして、徳川吉宗に従って
 江戸に入り、幕臣となった。
  意次は、15歳の時、西ノ丸つき小姓として仕えた。
1767年8月、明和事件(山県大弐が獄門、竹内式部が八丈
 島流刑)が起きた。
1767年12月、旅行者の病気の処置を定めた。
  幕府は、1733年5月にも、諸国に対し、旅中の病人・
 倒死者の扱いについて通達を発していた。
  旅行が盛行していた世の中にあって、行旅者の保安と
 在所への移送を保証しようとした。
  この3年後に若干の改正もし、農民の他出は農耕に支障
 のない事、穀留期でないこと、年貢を皆済すること、往
 来手形を所持することなどを条件とした。
  正式な手続きを得れば可能だが、それ以外は無断の他
 出だとされた。
  そして、幕府や藩は、倒死、他国者の病死などの処理
 には意を配った。
  死者の身分の確認の方法をはじめ、死骸の処置などに 
 ついて詳細に指示した。
1767年、上杉鷹山(うえすぎようざん)、米沢藩主となり
 殖産興業政策などにより、藩政改革に着手した。
  上杉神社にも祀られ、現在も尊敬され続けている、ま
 た、世界に誇るべき、また、尊敬すべき日本の偉人の一
 人。
  童門冬二著「小説・上杉鷹山」のご一読を。
  鷹山公の言葉:
  「国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我(われ)
 私(わたくし)すべき物には是なく候、(「伝国之辞」)
1767年、出版:長久保赤水(ながくぼせきすい、地理学者、
 漢学者)、水戸~長崎を3ヶ月かけて往復し、「長崎行役
 日記」を著す(1717年~1801年)
  赤水は、常陸の人で、水戸藩の侍講となった。
  「大日本史」地理史の編纂にも加わっている。
  安南(ベトナム)から帰国した近村の漂流民の身柄の
 引き取りのため、庄屋代理として藩吏と共に、長崎へ、
 1767年に赴き、
  その時の事を、「長崎行役日記」に、1805年に著した。
  また、その後、「安南漂流記」なども著した。
1767年、イギリスのインド虐めのマイソール戦争が起きた。
  18世紀後半は、イギリスが4度にも渡って、インドを虐
 (いじ)める戦争をした(小規模戦争は多数)。
  その虐めの対象になった国は、インドのマイソール藩
 王国だった。
  1767年~1769年の3年間に亘って、イギリスは、イン
 ドのマラータや、インダス川下流東岸のハイデラバード
 を扇動し、一緒になって、マイソールの一国を攻めた。
  その戦争の仕方も、講和をしたり、戦争したりを繰り
 返す、卑劣なやり方だった。
  イギリスの狙いは、イギリスの領土にしたい、植民地
 にしたいだった。
  そして、イギリスの狙い通り、多くのインドの方々を
 殺しながら、イギリスの領土とした。
  そして、イギリスの南インド支配が決定的となって行
 った。
  イギリスは、これと共に、フランス排除の戦争を始め、
 事態は複雑に進展した。卑劣な行為は続いた。
  我が国土にしたいの植民地化行為も糾弾に値するが、
 インドの方同士を争わせるという卑劣さも最悪な行為だ
 った。
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2015年8月9日日曜日

(増補版)175D2/3:気になった事柄を集めた年表(1763年~1765年)

題:(増補版)175D2/3:気になった事柄を集めた年表(1763年~1765年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1763年3月、幕府が諸国の銅山を点検する。
  幕府が、未産出や休山の諸国銅山および銅鉱脈の有無
 の調査を命じ、銅の増産を奨励した。
  「宝暦十三(一七六三〕年の三月二十二日に、幕府は
 令を出して、諸国に銅鉱の在る山で、今まで銅を採らな
 い処、またはかつて採った処でも今廃絶している処は、
 その地の代官または領主において点検を遂げて、今後は
 いよいよ銅の出るように沙汰すべしという令を出した」
 (辻善之助『田沼時代』)
1763年、毛利の改革:長州藩(宗家は萩藩)は、
  この年に「撫育方(ぶいくがた)」という新組織(人
 材育成の組織。下級武士の登用の場でもあった)を創設
 した。
  そして、財政困窮の改善に取り組んだ。
  この組織は、下級武士の新しい生き甲斐ともなって、
 貧困に意気消沈していた藩はがぜん活性化した。
  50石取りの軍学師範だった吉田松陰(1830年~1859年)
 もこの様な組織から登用された。
  脱藩(1851年)の罪で士籍を失った吉田松陰に、藩主・
 毛利敬親(たかちか)(1819年~1871年)は、陰から暖
 かい知遇(ちぐう、人格・能力などを認められて、厚く
 待遇されること)を与え続けた。
  門閥や縁故のない松下村塾生たちは、松蔭の推薦によ
 って藩の役を与えられ、あるいは、江戸遊学の機会を得
 た。
  登用された門下生の多くは、松蔭の死(1859年11月21
 日)後、志士として活躍したが、脱藩して浪人となった
 他藩人と違って、微禄であっても長州藩に籍を置いた。
  それは、自由な行動を許す長州藩の体質を信頼してい
 たからである。
  藩主・毛利敬親は、寛大であった(プレジデント)
1763年、本居宣長(もとおりのりなが、国学者、医師)(
 1730年~1801年)が、賀茂真淵(かものまぶち、国学者、
 歌人)(1697年~1769年)に出会った。
1764年、第10代将軍・徳川家治が、琉球使節を引見し、献
 品を受けた。
  琉球使節の記録に「貢物を献上する」という 意味を含
 む「来聘(らいへい、外国から使節が来朝して礼物・れ
 いもつを献じること)」)が記録されている。
1764年、江戸人参座を設立する(1763年説あり)
  田沼意次は、朝鮮人参の国産化に成功した田村藍水を
 幕臣として召し出し、朝鮮人参を独占的に扱う人参座を
 設立した。
  朝鮮人参は、和漢薬の特効薬的存在で、朝鮮貿易の中
 心にあった。
  田沼政権は、これの国産化が出来ないかを試みた。
  朝鮮と似た風土を探し、上野国を選定し、田村藍水に
 日光の朝鮮人参栽培地の管理にあたらせた。
  種まきからの栽培を行なった。
  この試みは成功し、薬効も朝鮮産と何ら異ならないこ
 とを確認した。
  そこでこれを幕府の専売として、人参座を作った。
  当初は、専門に担当する職員を置いたが、1819年には、
 日本産の朝鮮人参を、中国へも輸出もしている。
  長崎貿易において、当初は、朝鮮人参が金銀流出原因
 であったが、逆に、外貨を稼ぐ産業まで成長した。
  因みに、田村藍水(たむららんすい)は、江戸に生ま
 れ、本草学者で、町医者だった。
  薬用人参の研究者でもあった。
  これが後に、幕府から注目された。
  1737年に、幕府から、朝鮮人参の種子を下付され、栽
 培を試みている。
  1757年に、江戸湯島に物産会(我が国最初、薬品会・
 やくひんえ)を開いている。
  1764年に、幕府の医官として、幕府から300石を給せら
 れ、薬園で朝鮮人参を栽培し、製薬にあたった(1763年
 説あり)。
  また、採薬・物産調査に諸国を巡っている。
  門弟に平賀源内らがいる。
1764年~1765年、関東農民20万の大一揆が起きた。
  関東地方を中心にした、助郷反対の大百姓一揆だった
 (天狗騒動or伝馬騒動・てんまそうどう)
  幕府の伝馬助郷役への増助郷(ましすけごう)に反対
 して起きた広域の農民一揆。
  武蔵・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)・信濃四
 国に広がりを見せたが、関東郡代は要求を受け入れを約
 し、農民の要求が受け入れられて収まった。
  首謀者の関兵内(せきのへいない)は罰せられ、獄門
 となった。
1765年、十返舎一九(じっぺんしゃいっく、戯作者、浮世
 絵師)が生まれた(1765年~1831年)
  駿河府中の町同心(千人同心or六十人同心)の子とし
 て生まれる(武士の子と言われるが・・父母の名は未詳)。
  江戸で仕官して大阪に赴任したが、この地で職を辞し、
  浄瑠璃の合作で文筆活動を始めた。
  また、材木屋の婿となるが離縁となり江戸へ戻った。
  1793年に、江戸で山東京伝の知遇を得る、そして、京
 伝の黄表紙の挿絵を描く。
  1795年に、黄表紙など3種を刊行し、洒落本、読み本な
 どを書き、滑稽本を得意とした。
  好評を博し、山東京伝、曲亭馬琴とならぶ戯作者の地
 位を確立した。
  十辺舎一九は、曲亭馬琴と共に執筆料だけで生計を立
 てた最初の職業作家だった。
  「東海道中膝栗毛」「江之島土産」
  戯作とは:ぎさく、江戸後期の通俗小説類の総称。
  洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻(ごうかん)・読本(
 よみほん)・人情本など。伝統的で格式の高い和漢の文
 学に対していう。
1765年9月(明和2年)、5匁銀を鋳造する。
  田沼意次の命を受けた川井久敬が考案した。
  純銀度は46パーセントで、「文字銀五匁(ぶんじぎん
 ごもんめ)」と表記されており、
  これは、当時、通用していた銀貨(元文丁銀)と等品
 位であった。
  1767年からは五匁銀12枚をもって金1両通用と規定さ
 れた。
  金を使っていた江戸で、金貨代わり通用の銀貨とされ、
 地方では銀貨代わりの銀貨と見られた。
  一時、両替屋仲間で評判が良くなかったが、後に、認
 識も深まり、その流通状態は良くなった・・とあるが、
  銀貨60匁で金貨1両としたが、実勢は銀貨63匁で、実勢
 と合わない小判との交換規定で、現実にそぐわなかった。
  また、両替商は、金貨・銀貨の為替差益や、為替手数
 料などで収入を得ており、額面が固定されている五匁銀
 は敬遠された。
  その為、ほとんど流通しないまま、1768年に、引換回
 収が開始され、通用停止などの布告は出されないまま市
 場からは自然に姿を消した・・の記述もある。
  幕府は、1767年に、12枚を1両で通用させるよう触書を
 出したが、
  そしてまた、同時に、勘定奉行へは、市中の五匁銀を
 小判へ引き換えるよう申し渡している。
  これは、事実上、五匁銀の回収のために出されたとさ
 れている。
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