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2013年8月23日金曜日

聖骸布について・・誰でもわかる事が

 題:聖骸布について・・誰でもわかる事が
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は嘘が多いが、程度の悪い嘘は、『考古学的
発見の嘘』である。
 21世紀に入る少し前、『イエスの巻き物』が発見された
と騒がれた。
 これには、学者も騙された。
 新聞・雑誌も大々的に報じた。
 また、21世紀に入って、間もなく、イエスの弟・『ヤコ
ブの骨壷』が発見されたと騒がれた。
 『イエスの巻き物』は、現代科学の力で、捏造(ねつぞ
う)が証明された。
 「ヤコブの骨壷」も、専門家たちは、やはり偽物とみて
いる。
 キリスト教は、キリスト教も嘘が多いが、その嘘が伝染
したのか、キリスト教の周りも嘘が多い状態。
 キリスト教は、自分に嘘が多いし、その嘘を言い張って
いるから、他を批判できない。
 この様な事で権威が落ちている事を自覚していない。
 特に、「聖骸布」の嘘はまったく改めようとしない。
 イエスが刑での死後、十字架から下ろされたイエスに、
布が被(かぶ)せられた。
 また、布なら、軟らかで、しなって、イエスの顔は、横
幅が広くなり、太っている様に見えるわけだが、
 まったくその様ではなく、
 正面からの正常な写真の様に描かれている。
 その布に、イエスの顔や体が、さも、プリントされた様
に描かれているというものである。
 化学分析の結果、中世のころのもの(布)と判明してい
るが、キリスト教は認めようとはしない。
 また、近年、キリスト教会は、この布を修復したという
(人間が修復したらいけません)、また、複数あるという
ことが何か変な感じがする。
.
 (参考)ねつ‐ぞう【捏造】 [名](スル)《「でつぞう
(捏造)」の慣用読み》事実でないことを事実のようにこ
しらえること。でっちあげること。「記事を―する」
 (参考)wikipediaには、以下の記述がある(抜書き)。
  聖骸布(せいがいふ、Holy Shroud)は、キリスト教
でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死
んだ後、その遺体を包んだとされる布。イエス・キリスト
の風貌を写したという布には、聖ベロニカのベール、自印
聖像など、複数あったといわれるが、ここではただ一つ現
存するトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている「トリノ
の聖骸布」(Shroud of Turin)を解説する。
 通常は一般に向けて常時公開されてはいない。カトリッ
ク教会の大聖年にあたる2000年に一般公開され、その後
2002年に修復作業が施された。2010年には修復後初めて
一般公開された。
 イギリスのサリー州ギルフォードで開業していた医師の
デイヴィッド・ウィリス博士が写真を元にした検討をした。
それによると、聖骸布の像の人物の背中には多数の鞭打た
れた後があり、3本の皮ひもの先に2つの小さな金属球がつ
いた「フラグム」という鞭で打たれたと考えられる。放射
線状についた傷の跡から、二人の執行者によって鞭打たれ、
右にいた人間の方が若干背が高かったとされる。
 聖ヨセフ病院の外科医長ピエール・バルベは実験を行い、
聖骸布で示される位置に釘を打つと手首の骨の隙間を押し
広げてとおり、簡単に貫通した。また神経の損傷により親
指が内側に曲がることを発見し、聖骸布の状態を確認する
と親指が隠されて陰影は写っていなかった。また、イエス
の磔の絵はほとんどの場合手のひらに釘が打たれて描かれ
ており、これらのことは聖骸布の陰影は誰かによって人為
的に描かれたのではなく、(イエス本人であるかは別とし
て)実際に磔刑にされた人物によるものであるという強い
医学的証拠である。
 「律法」によって死者は日没までに埋葬しなければなら
なかったため、ユダヤ人の受刑者は日没少し前までに死亡
しない場合、脚を折って死を早められた。聖骸布の人物の
脚が折られていないことは明瞭である。また、右脇に楕円
状の傷がある。ここから流れる血による陰影には、色の濃
い部分と薄い部分とがあり、血液と透明な液体とが混ざっ
ていたと考えられている(ウィリス博士)。
 これまでの調査では、その信憑性について支持的なもの
から懐疑的なものまで、結果は多岐に渉る。あるときは顔
料で描かれた絵であると推定されたり、後年の創作物であ
ると結論づけられたこともあった。
 1988年の調査では、オックスフォード大学、アリゾナ大
学、スイス連邦工科大学の3機関において、考古学などで
資料年代推定に用いられる放射性炭素年代測定(炭素14法
年代測定)が行われた。その結果、この布自体の織布期は
1260年から1390年の間の中世である、と推定された。
 1973年にスイス警察犯罪科学班のフライ博士によって行
われた聖骸布の花粉調査によって、レバノン杉をはじめ、
49種類の花粉粒が発見された。その中の13種類については
死海周辺にしか群生していない植物のものであった。しか
し、これはあくまでそう言う花粉粒が発見されたというだ
けであり、聖骸布が中東方面から来たとする絶対的な証拠
となるわけではない。
 また、ネガ状の全身像についても、どのような過程でそ
こに付着したのか、もし後年作成されたものであったとし
てもどのような材料や方法でそれを作成したのか、などま
だ不明な点が多い。
 カトリック教会は布の真偽に関係なく、信仰のための重
要な道具であるとの立場である。
.
 (?の追記)この文に記した様に、『布は被せられた』
のではなく、『巻かれた』のだとされている。
 この文に、『被せられた』と記した理由は、巻かれたの
であれば、1例として、耳などが、耳の正面から描かれてい
る様に写っているわけですが、
 聖骸布は、カメラで正面から移したようにプリントされ
ている。
 つまり、正面から見た耳となっている。
.
 (追伸の追伸)
 『神の御業(みわざ)』が、この様な聖骸布をなしたと、
主張するキリスト教が、
 何故、修復しなければならなかったのですか?
 神のなせる御業(わざ)は、完全ではないのですか? 
 神の御業が完全であるなら、修復は不要なはず、
 必要ないわけではないのすか? 
 それが、修復が必要だったということは、『神は完全な
事はなされなかった』ということなのですか?
 キリスト教が、修復したと発表したのは、「神の御業は
不完全なのだ」と発表したようなものではないですか。
 さらに、『神の御業がなしたものを、人間の手で修復し
た』とは? おかしいのではないですか?
 神が不完全だから人間が修復しましたと言っている様な
ものです。疑問です。
.
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/

2013年8月22日木曜日

生き延びている宗教の『態』

 題:生き延びている宗教の『態』
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの教えが意味を持つのは、『紀元前20年~紀元
70年の間においてだけ』・・という主張がある。
 この主張は、イエスの思想は『今・現代において意味を
なしていない』という主張であって、
 1例をあげれば、
 イエスは、当時のユダヤ教の「清浄規定」に反対した。
 その時代は、第二神殿の再建と増築によって霊性と聖性
をますます強調する動きが拡大した時代であり、
 その時代において、ユダヤ地方と下部ガリラヤ地方での
ユダヤ教の宗教生活を定義づけるものは、「ミクヴァオー
ト」(ユダヤ教の祭儀に用いられる浴槽)であった。
 さらに、「石の器」が習慣的に造られ、売られ、買われ
たのは、その時代のみであった。
 霊的清さを確かなものとする「ミクヴァオート」と、
 その中身が汚れに染まってしまわないように守る「石の
器」は、エルサレム神殿の祭司たちによって展開された、
極端なユダヤ教の「清浄規定」に基づいて要求されたもの
であった。
 その様な背景において、イエスは反対運動をした。
 イエスは言う。「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さ
と)って下さい。外から人の体に入るもので人を汚すこと
が出来るものは何もありません、人の中から出るて来るも
のが、人を汚すのです」・・と。
 これは、民をいじめていた、ただ、山のてっぺんに神殿
を建てて、君臨していた宗教権力。
 それでなくても、武力で征服したローマ政府の権力組織
の圧政を受け、苛(さいな)まれていた民をターゲットに、
ひと儲けしようという行為だった。
 民に、何ら、ためにならない宗教権力を誇示するだけの
「エルサレム神殿宗教権力」に放った「イエスの怒り」だ
った。
 「神殿税」という重圧を民にかけ、
 更に、無益な、当時の宗教教義から来ている「清浄規定」。
 イエスは、揶揄(やゆ)った。
 馬鹿馬鹿しい「清浄規定など止めてしまえ」の気持だっ
た。
 イエス特有の理屈っぽい言葉を放った。
 変な「清浄規定」なんか作って、民を惑(まど)わせ、
民を不安に陥(おとしい)れ、
 「ミクヴァオート(浴槽)」買わすとは・・。
 キラキラとした作られた権威、
 空虚な権威をちらつかせ、
 迷信を信じ込ませ、
 民から金を巻き上げて。
 「そんな浴槽で体を洗ったって、清浄なんかになるもの
か」・・。
 「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことが
出来るものは何もないのだ」・・。
 浴槽で清浄になんかする必要は無いのだ。
 あなたたちは知らないが、
 「人の中から出てくるものが、人を汚すのだ」。
 イエスは、当時の「神殿の宗教権力」にこの様な言葉で
対抗した。
 イエスの言葉は、民の苦しさを知る心から発した。
 『当時の、社会事情においての言葉』だった。
 今・現代にない、神殿の宗教教義に抗した。
 イエスの思想は、この言葉の例のように、BC20年~AD
70年のあいだ「のみ」に意味を持っている。
 この間の期間にだけ、意味を持っている言葉なのだ。
 経時(時の経過)の劣化が明らかなのだ。
 この言葉を、現代のキリスト教聖職者が、「尾ひれ・は
ヒレ」を付けて話したら、それは、イエスの言葉を借りて、
利用して、自分の宗教観、「この聖職者の独自の宗教の披
露行為となる」。
 自分の話に自分が酔っている。
 救う宗教の体をなしていない。人々を幸せにする態をな
していない。キリスト教ではない。
 この様に、キリスト教聖職者が、勝手に自分の好きなよ
うに、キリスト教を演じているから、キリスト教は、四分
五裂して、分派がいっぱいの状態になっている。
 キルケゴールは言う、「キリスト者とは信仰の飛躍をす
る者」だ・・と。
 キリスト教は、四分五裂し、形を変えて(キリスト教で
ないキリスト教が)生き延びている。
 教義が破綻した宗教が起こす現象の『これは一端』なの
だ。
..
(追伸)前記した、イエスが言った言葉だという、
 「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さと)って下さい。
外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何
もありません、人の中から出るて来るものが、人を汚すの
です」・・は、
 イエスの衛生観念や衛生に関する知識についても教えて
いて興味深い。
 実は、本当は、衛生のために浴槽に入って身体などを洗
い、清潔さを保つというエルサレム神殿の「清浄規定」は
正しいのである。
 イエスが間違っている。
 イエスは、やはり古代人なのだ。
 イエスは、「細菌の存在を知らない人」なのだ。
 イエスの言葉の「外から人の体に入るもので人を汚すこ
とが出来るものは何もなく・・」という言葉は、『大間違
い」。
 外から入るものこそ、清浄にし、衛生的にしていなくて
はならないのだ。
 イエスの考えている事とまったく逆なのだ。
 病気の原因の細菌を知らないイエスなのである。
 イエスの「外から入るもので、人を汚すものは、何もな
い」は無邪気な無知識だ。
 イエスは、人々に「間違った『宣教』をしている」。
 イエスは、人々に「私の言う事を聞いて悟りなさい」と
言っているが、真実を聞いたら、恥ずかしくて、イエスは
顔を真っ赤にするだろう。
 「知ったかぶりをシテ、人々に無知な事を言ったと恥じ
る」だろう。
 イエスは、「人の中から出て来るものが、人を汚すのだ」
と言っているが、
 キリスト教聖職者が、ここを美しく「人が発する『言葉』
を含めて話をする場合が考えられるが、これは「エルサレ
ム神殿の『ミクヴァオート(浴槽)』の売り付け行為の
「清浄規定」に関する場合なので、人の発する言葉を含め
た話に仕立てるのは脱線である。
 例え、「人の発する言葉を入れたとしても、確かに、人
が発する言葉は「人を汚す場合」もあれば、「宣教の言葉
の様に『ロゴス』となって人々を導きもする」。
 イエスの「人から出るものが汚す」は、細菌など目に見
えない「真に汚すもの」を知らない人間の言葉で、
 このイエスの言葉は、「目に見え得る『糞尿』について
言った言葉だ」。
 ここには、イエスの古代的知識しかない。
 『イエスの限界』はやむを得ないが、現代人には何ら
示唆など、当然、与えないという結果となっている。
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2013年8月20日火曜日

人類の負の遺産、キリスト教によること・・。無駄にすまい。

 題:人類の負の遺産、キリスト教によること・・。無駄にすまい。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
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 キリスト教には『(キリスト教の)神の義があれば、人
を誅しても良い』の教義や、『異教徒は殺せ』の教義があ
る。
 自分を中心に考える宗教です。
 悲しいかな!これが悲惨な戦争やキリスト教の極悪行為
の原因となっています。
 キリスト教はこの教義を改めなくてはならなりません。
 また、キリスト教は、ユダヤの方々を執拗に殺して来ま
した。
 キリスト教の聖職者たちは、ユダヤの方たちへの憎悪を
掻き立てました。
 そして、迫害を加えることに凝り固まって来ました。
 改めなくてはならなりません。
 キリスト教聖職者は、「ユダヤ民族は、キリスト殺し民
族だ」と、ユダヤの方々への憎悪を掻き立てました。
 この意識が不幸の発端でした。
 そしてまた、新たな罪を、聖職者は発生させていました。
 キリスト教聖職者は、ヨーロッパ中に「ユダヤ人撲滅」
を説いて回わりました。
 『ユダヤ人の追放』も説いてまわりました。
 その為、『異端審問所』が作られました。
 特に、スペインは過激でした。
 びっくりするくらいの大勢のユダヤの方々を、キリスト
教の異端審問所経由で、焚刑の刑場へ送り、生きながら焼
きました。
 ユダヤ人の方々は、隣国のポルトガルへ逃がれました。
 隣国のキリスト教国であるポルトガルも「ユダヤ人追放
令」を出しました。
 ユダヤ人は、アメリカの新大陸へも逃れました。
 すると、卑劣にも、スペインは、キリスト教徒と同行し
たキリスト教聖職者たちが、インディオの多くの方々を殺
しに殺し、全滅にしました。そしてその、人の居なくなっ
た地に、ユダヤ人追放のための異端審問所を作りました。
 作られた異端審問所は、血しぶきを揚げて回転を始めた。
 それでも、ぞくぞくと入り込むユダヤ人をさばききれず、
審問官は、イタリアの法王庁に援助を求めました。
 執拗に、ユダヤ人を追うキリスト教の異端審問の流血の
歴史は、メキシコや、フィリッピンと広範で、執拗で、陰
湿でした。
 キリスト教の性格そのままでした。
 人種偏見宗教=キリスト教。陰湿宗教=キリスト教であ
る。
 ユダヤ人憎悪、そして、蔑視の宗教=キリスト教。
 キリスト教のこの卑劣行為は、次の聖書の記述に一端が
あります。
 「イエス言いたまう。『もし(汝ら)アブラハムの子な
らば、アブラハムの業をなさん。しかるに汝らはいま、神
より聴くきたる真理を汝らに告ぐる者なるわれを殺さんと
はかる。・・汝らはおのが父、悪魔より出でておのが父の
慾を行なわんことを望む。彼ははじめより人殺しなり』」
(ヨハネによる福音書、8章)。
 卑劣極まりないことを、よく言うことよ。
 このイエス・キリストの怨念の言葉が、ユダヤ人を悲惨
な目にあわす元凶となっています。
 キリスト教聖職者は、「汝らはおのが父、悪魔より出で
て・・・」を説き続けて来ました。
 今も、説いていいます。卑劣な宗教めと感じる。
 この様な宗教では人類は救えません。あなた方も幸せに
はなれません。
.
(追伸)
 これからのキリスト教が、真に人類に貢献し、生き残る
事が出来る道は、今まで行なってきた悪さ加減を、隠すこ
と無く、あらいざらい白日の下に曝(さら)し、正直に表
明することです。
 「今、一部で、法王が、懺悔(ざんげ)し、悔い改め、
ミサを行なったりしていますが、少ない状況です」。
 そして、ネガティブな面での人類貢献(人類繁栄の足を
引っ張ってきた極悪行為・行動)を、これからはしない、
行わない・・という、これからの態度を、これは『表明す
ることになります』。
 この行為をしてこそ、『キリスト教の誠実さが表明され
る』のです。今の状態は『不誠実な状態』です。
 そして、これは、今までの様な、嘘で言い逃れし、嘘で
固めた、今までのやり方を『反省したことを表明したこと』
になります。
 そしてまた、これからの悪行為を『止める』ことにもつ
ながります。
 今、キリスト教が犯した膨大な人類の『負の遺産を生か
す時代』が始まったのです。
 また、キリスト教は、その『努力』をして下さい。ホッ
カムリは駄目です。
 その行為・行動によって、キリスト教は、今までに、人
類(特に弱者)に行って来た、極悪行為の『本当の真実の
贖罪になります』。
 今までの様な、自画自賛の贖罪では駄目です。
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