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2015年11月26日木曜日

(増補版)249D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1858年~1858年)

題:(増補版)249D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1858年~1858年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1858年9月24日、インドの方々の美しき愛国的反抗
  反抗行動していたインドの方々だったが、この日に、デ
 リーは陥落した。
  インドの方たちのイギリスへの大反抗は終わった。
  「セポイ兵の反乱」から始まって、「インド民衆の反抗」
 へ移って行ったが、反抗は力で抑え込まれてしまった。
  1857年5月10日に始まったインドの方たちの反乱。
  セポイの反乱兵士たちは、デリーのムガル皇帝の元に
 向かい・・、
  反乱軍の到着の知らせが入ると、デリー市民や、デリ
 ー駐屯のセポイ兵は、城門を開いて、彼らを向かい入れ、
 そして、反乱兵たちは、名ばかりにされていたムガル皇帝
 を擁立し、帝国の復活を宣言し、自分たちの国を建てるこ
 とが出来たのだった。
  戦いは苦しかった、苦行僧や、托鉢僧(たくはつそう)
 は、地方を遊説し、現実を説いて回った、そして、抵抗へ
 の、戦いへの参加を説き、そして、叫んだ。
  その様なこともあって、反乱は、北インドから、燎原(
 りょうげん)の火の如く広がって行き、中部インド一帯に
 まで広がって行った。
  反乱のセポイ兵の戦いの領域から、はるかに超えて、イ
 ンドの民衆の方々の、自由を欲する、自由を要求する広い
 地域における、イギリスへの反抗の戦いとなった。
  いままでのイギリスに与えられて来た非人道的な虐待の
 鬱積(うっせき)が爆発したのだった。
  イギリスは驚愕した、インドの方々の団結とその集まり
 の行動に驚愕した。。
  セポイの反乱は切っ掛けであった、正しくは、実際は、
 「インドの方たちの反抗」となった。
  一部組織のセポイの反乱の様相ではなくなった。
  「セポイ兵の反乱」から「インドの方々の反抗」のうね
 りとなった。
  セポイ兵の方たちが立ち上がり、そして、インドの方々
 が立ち上がり、このうねりに、イギリスは、切羽詰まった
 状況に追い込まれた。
  しかし、イギリスの反撃体制の立て直しも早かった。
  この時、丁度、イギリスの総力をインドへ向けられる
 状態になっていた。
  (それにしても、世界のあちこちで戦争するイギリス
 だった。武力で、弱小の国々を言うことをきかす、弱い者
 いじめのイギリスだった)。
  丁度、この時、イギリスは、ペルシャとの戦いが、前
 年に終わっていた(ペルシャの反乱の鎮圧)。
  そしてまた、中国の太平天国の乱の鎮圧もめどがついて
 来ていた。
  つまり、インドへ、総力を上げて武力行使できるイギリ
 スだった。
  イギリスは、インドへ強力な軍隊を結集した。
  さらに、イギリスは、その他の国の兵まで、このインド
 の方々へ差し向けた。
  勇猛で有名なネパールのグルカ兵や、パンジャーブ州の
 シク族の兵などだった。
  イギリスは、すべてを、総力を、デリーへ向けた。
  デリー奪回に主力・総力を注いだ。
  激しい攻防戦が繰り広げられた。
  4か月の激戦だった。
  インドの方たちは、よく戦った。
  そして、市街戦となっても、インドの方々は、5日間も、
 烈しく抵抗し、戦った。
  決死の戦いだった。
  戦力と兵器にまさるイギリス軍に対して、よく戦った。
  しかし、9月24日、イギリスの武力の下に、暴力のもとに
 下った。
  デリーは、陥落してしまった。
  ムガル皇帝は捕虜となった。
  ムガル帝国は滅亡した。
  この後、イギリス軍は、インド各地の攻略をして行った。
  それでも、各地で血みどろの決戦が繰り広げられた。
  さらに、ゲリラ戦でも、インドの方々は戦いを繰り広げ
 た。
  執拗に、イギリス軍に抵抗し、今までのイギリスの非人
 道的行為に抗議し、卑劣なイギリスの行為への対抗を表現
 していた。受け入れたくないのだと・・言っていた。
  これ等の戦いの中で、美しい話も生まれた。
  ジャーンシーの若き女王のラクシュミー・バーイ女王は、
 自ら馬にまたがり、戦場を駆け巡り、自軍を励まし、大国
 のイギリス軍を悩まし続けた、善戦した。
  しかし、グワーリヤルの戦いで、彼女は、銃弾を受けた、
 戦死した。
  女王の強い愛国心と、英雄的行為は、後の世まで物語と
 して残った。
  また、女王を偲んで歌がうたわれて、「インドのジャン
 ヌ・ダルク」として民衆の心の中に生き続けている。
  本物のジャンヌ・ダルクは、卑劣な、引っ掛けの尋問
 を、キリスト教裁判所の聖職者の卑劣尋問の裁判で、生き
 ているのに、命あるジャンヌ・ダルクを焚刑にして、公衆
 の面前で、卑劣なやり方で焼き殺した。生木を使用した。
  卑劣な事をした。
  インドのイギリスへの反抗も、2年間にわたる抵抗も・・、
 地下に潜った兵を残して、鎮圧された。
  地下に潜った兵の反抗は、1859年の中頃まで続いた。
  その後の仕返し、イギリスの悲惨な、そして、卑劣な仕
 返し、
  無残な、無慈悲な、反抗した兵への報復の殺しが、この
 後に行われる。
  これ等の事は、すべて、ユネスコへ登録されるべきだ。
1859年、セポイの反乱の後の、イギリスの行為、
  セポイの反乱の後に、イギリスは、インドのあちこちに
 記念碑を建てた。
  事実を曲げて、イギリスが正しく立派で、良いことをし
 たと、デッチ上げた記念碑だった。
  今、キリスト教が、日本のあちこちで、同じことをして
 いる。
  イギリスも、この様な行為を行なって、インドの方々の
 心を繰ろうとした。
  しかし、イギリス軍の想像を絶した残虐行為の記憶は、
 インドの方々の心の深くに残り、拭い去ることは出来ない。
  イギリス軍の残虐行為は、規模が大きく、また、演出も
 ずる賢く、巧みだった。
  反乱軍の捕虜は、ほとんど、裁判もなく殺した。
  殺し方は、1つの例は、インドの方々を、数人ずつ束ねて、
 大砲の前に立たせ、大砲を撃ち、、弾丸もろとも吹き飛ば
 した。
  また、マンゴーの木の下に荷車を置き、その上に何人か
 のインドの方々を立たせて、枝から吊るしたロープを首に
 巻き、牛に車を引かせた。車が去れば・・、
  体は吊られる状態になった。
  また、象を使って八つ裂きにしたりした。
  アラーハーバードの街路に沿って、木という木に、死体
 が吊るされた。
  吊るされない木がないほどだった。色々やった。
  それに、イギリスは、宗教的な嫌がらせまで行った。
  ヒンドゥー教のインドの方々にとって、牛は神聖な動物
 だった。
  イギリス人は、その神聖な牛を殺して、インドの方々の
 口の中に、その牛の血を、注(そそ)いだ。
  卑劣に焼き殺す話もあるが、余りにも悲惨なので略す。
  その他いろいろとイギリス人は、インドの方々を、卑劣
 な殺し方をした。
  これ等の事は、すべて、ユネスコへ登録されるべきだ。
1858年、「インド統治法」
  イギリスが、植民地のインドを統治するための大綱を定
 めた。
  これは、イギリスに対抗したインドの方々の民族運動の
 対抗を反映したものであった。
  ますます、イギリス政府の介入が強化されて行った。
  名目は、インド社会の統治を整序する(せいじょ、物事
 を秩序だててととのえる)だった。
  この「インド統治法」ができ、インド統治の大権は、
 イギリス国王が握ることとなった。
  イギリスの主権下に置いた、置かれた。
  インドの人々にあるべき権利を完全に奪った。
  「イギリス紳士」という言葉があるが、イギリスは、
 紳士の様に、紳士ぶって法律・条例を作り、「この法律に
 従うのだ」「この条令が正しいのだ」という言葉によって、
 インドの方々を支配し、蹂躙した。
  「法律があるから正しいのだ」という論理で、事を粛々
 と行い、インドの方々を、絞って行った。
  その行き着くところでは・・インドの方々の『命を奪っ
 た』。
  インドの大反乱(セポイの反乱)後のこの1858年に、
 完全支配体制下に置いた。
  これは、インド在来の、農業制度を、根底から破壊し
 尽した。
  その為、インドの方々の村落共同体は、ばらばらになり、
 荒れ地の社会の様になった。
  結びつきの、『大切な絆』は、跡形なく、無くなって
 しまった。
  農村は、無味乾燥なイギリス資本に都合よく、支配に
 都合よく・・変えられてしまった。
  キリスト教も、このようなやり方をする、表面的には
 良く見えるが、結局は、自分勝手な論理で、結局、相手を
 無視して、殺すことまでに至ることをする。
  自分の気に入らないものは、すぐ、『異端』のレッテル
 を貼って、追放するか、殺した、その歴史だった。
  「異教徒は殺せ」のキリスト教の教義を、そのままを
 実施をした。
  このインド農村社会は、目も当てられない悲惨な状態に
 陥った。
  ハーバート・コンプトンは言う・・、
  「予は誓って言う。
  大英帝国において、印度農民以上に悲惨なるものはない。
  彼らは、一切を絞り取られて、ただ骨のみを残している」
 ・・と。
  そして、また、彼は言う・・、
  「彼らは、腹いっぱいものを食った経験が無くして死ぬ」
 ・・と。
  この様なインドの方々を小銃で殺す。
  「日々、我らは、8人ないし10人を屠った(殺戮した)」
 と、ぬけぬけと言う。
  また、この様な、欧米のアジアの方々への蔑視、
  そして、その蔑視から来る行動を、
  大川周明(東大卒、拓殖大学教授)は、
  第二次世界大戦(大東亜戦争)の開戦直後の1941年12月
 に、NHKラジオで、連続講演した(全12回)。
  そして、その速記録は、この翌月に、「米英東亜侵略史」
 (第一書房)から出版された。
  この大川教授を、東京裁判で、アメリカなど連合国は殺
 そうとした。
  教授は、危うく東京裁判で殺されるかもしれない状況に
 置かれたが、教授は危うく逃れ、生き延びた。
1858年、「インド統治改善法」
  米欧は、帝国主義的行為で、世界を我が物にして行った。
  特に、イギリスは、17世紀以降、インドの方々から好き
 なように利益を奪い確保し、
  また、インド統治法なる法律を作って、自分に都合よく
 インドの統治をした。
  そして、1858年には、「インド統治改善法」なる法律を
 作って、またまた、自分に都合よく利益収奪・搾取をした。
  インド総督のへスティングが・・、
  イギリス本国でさえ、「過酷だ」と、弾劾するほど、
 非人道的な過激さだった。
  自国で、つるし上げられるほどの過激さとは、前代未聞
 の残酷さだった。
  残酷と言われた男だった。
  それを許したイギリスが、甘い汁を吸って、美味(おい)
 しいこととに甘んじた。
1858年、対日接近を控える様になった・・アメリカ。
  この頃、日米修好通商条約の後、アメリカが、対日接近
 を控えるようになるのは、英露強国に遠慮したのではなく、
  アメリカの最大の内乱・南北戦争があったから、その様
 な事を行なう余裕が無かった。
  日本は、中国の様な、餌食の場になっていたかもしれな
 い。
  日本の叡智は、これを見抜いていて、明治維新と共に
 『富国強兵』を、まず、第一とし、邁進した。
  日本の叡智は、世界の何でも知っていた、中国の事も、
 インドの事も、
  故に、逆に、ここをアメリカは突いた。
  日本と条約を結びたいというアメリカは、卑劣にも、
 条約の話を断ったらどうなるかを、清(中国)がどうな
 ったかの話をして、日本を脅(おど)した。
1858年5月28年、アイグン条約
  ロシアと中国・清が、この時に、中国北東部、アムール
 川中流のアイグンで条約を結んだ。
  これは、ロシアの南下政策の一環の行動の中で結ばれた
 条約だった。
  南下するという政策は、ロシアの大方針だった。
  このロシアの侵略体質が、大方針が、日露戦争へつなが
 って行くのだが・・、 
  アムール側左岸を、ロシアは獲得した。
  また、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は、
 ロシアと清の共同管理地とされた。
  また、ロシアのアムール川の航行権を、清は、認めさせ
 られた。
  完全なる不平等条約だった。
  アメリカ・イギリスの列強も、清国に対して、同様な事
 をしていた。
  ロシアは、条約に調印をしなければ、ロシア軍艦から大
 砲を撃って、武力で黒竜江左岸の満州人を追い払うと脅迫
 して認めさせた。
  この地は、再び、2004年のロシア・中国の画定完了まで、
 中ソ国境紛争の問題地域となった。
  この様に、ロシアの南下は激しかった。
  アイグン条約で、ロシアと清の共同管理地だとした地域
 は、1860年の北京条約で、ロシアを含むイギリスとフラン
 スも加わって、清は割譲させられ、土地が、国土が奪われ
 た。
  朝鮮や満州は、このロシアの勢いの中で、必ずや、ロシ
 アの支配下のものとなって行く運命の下にあった。
  アメリカとイギリスも、この時期、ロシアと同じく中国
 での権益を得たいと動いていた。
  その意味でアメリカは、日露戦争で、『ロシアの歩みが
 止まって欲しい』・・と思い、考えていた。
  日露戦争の時、日本の有利な状況で、アメリカは仲裁し
 た。
  戦争を終わらせた。
  しかし、この後、アメリカは、日本が驚くほどに、手
 のひらを返したようにして、日本を攻めてくるようにな
 った。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年11月25日水曜日

(増補版)248D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1859年8月~1860年12月)

題:(増補版)248D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1859年8月~1860年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1859年(安政6)9月6日、幕府、銅の海外密輸を厳禁す。
1859年9月6日、パリ外国宣教師会のジラール神父が、滞在
 中の那覇から江戸に入った。
  また、日本教区長に任命されていたジラール神父は、
 長崎を布教した。
1859年9月、安政の大獄で吉田松陰らが死んだ(29歳)
  吉田松陰は刑死だが、梅田雲浜獄死。
1859年9月27日、幕府が、会津、秋田、荘内、盛岡、弘前
 の5藩に命じ蝦夷地の開墾を命じた。
1859年10月4日、石見で地震(1月もあったが・・)。
1859年11月、勝海舟、米国へ軍艦差遣するにつき乗組を命
 ぜられる(氷川清話)
1859年11月1日、橋本左内、頼三樹三郎ら処刑。
1859年11月21日、吉田松陰処刑(10月27日説あり)
  江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される(満29歳)
  松蔭は、尋問で老中の暗殺計画の詳細を自供し、自身
 で「死罪」にするのが妥当だと主張。井伊の逆鱗に触れ
 た。
1859年12月、勝海舟、賜暇謁見。金二枚時服二を賜う(氷
 川清話)
1859年12月、勝海舟、長崎伝習中、格別の骨折があった為、
 金三枚時服二を賜う(氷川清話)
1859年12月、勝海舟、米国航海中、両番上席を命ぜられる
 (氷川清話)
1859年、福沢諭吉が、英学に転向する。
  横浜に行ったとき、今まで一生懸命勉強した和蘭では、
 横浜の商売人の看板を読むことが出来なかった。
  そこで、これからは、英語が必要になるに違いないと
 思う。
  そして、英語を勉強し出す。
  横浜に行ったとき蘭英会話集を2冊買っている。
  しかし、辞書がないので、蕃書調所に通いだす。
  この時、箕作阮甫(みつくりげんぽ)という人が調所
 の頭取で、早速、入門を許してくれた。
  当時、英蘭対訳発音付の辞書1部1冊ものが価5両(福
 翁自伝)
1859年、大蔵永常(おおくらながつね、農学者)著の『広
 益国産考(こうえきこくさんこう)』刊。
  1842年から1859年の17年の著作物。
  天明の大飢饉を目撃し、志を立てる。
  この著は、江戸後期の商品経済の発展に対応するため
 に農業経営の改良を説いた。
  また、農業技術を集大成した。
1859年、この頃、寺子屋の開設が隆盛。
1859年11月、種の起源(ダーウィン)が発表された。
  ダーウィンは大論争を巻き起こした。
  猿から人へのこの道筋を彼も示す事が出来なかった。
  猿から人間が生まれたという。
1859年、イタリア独立戦争が起こった。
  イタリアが、独立と統一をしたいと、3次にわたって
 オーストリアと戦った。
  第1次(1848年~1849年)から始まった。。
  第2次(1858年~
  1859年は、ハプスブルク家の排除の戦いと言える
  第3次(1866年6月~
  1866年10月、ウィーン条約
  1870年9月、イタリア軍がローマを占領。10月、イタ
 リア王国が、住民投票によりローマを併合。
  1871年7月、イタリア王国が、ローマに遷都。
1860年(安政7年)、推定世界人口:12億5000万人
1860年1月1日、日米修好通商条約によって、新潟が開港す
 る。
1860年1月4日、日米修好通商条約によって、日米和親条約
 で開港した下田が閉鎖された。
1860年1月13日、咸臨丸がアメリカに向けて品川を出港した。
  乗組員96名、木造蒸気船、長さ50メートル、幅7.3メー
 トル、砲:12門、250トン、100馬力、3本マスト、
  咸臨丸は、オランダから、10万ドル(2万5000両)で、
 物と交換で買い取った。
  幕使:新見正興、通弁官:中浜万次郎。
  江戸(東京)湾を出ると、小型艦である咸臨丸は、た
 ちまち暴風雨に遭い、酷い目にあった。
  提督の木村摂津守が、交際費として、私費10万ドルを
 持って行ったその小判が、箱から転がり出すほどの、揺
 れ方であった。
  毎日毎日の大嵐、なかなか茶碗に飯を盛って本式に食
 べるなんという事は容易なことではない・・とある。
  また、はしけ船が4隻あったが、激浪の為に、2隻も取
 られた。
  日本人が、初めて、オランダ人から航海術を伝習して、
 わずか5年で、
  「少しも他人の手を借りずに、出かけて行こうと決断
 したその勇気と言い、
  その技量と言い、これだけは、日本国の名誉として、
 世界に誇るべき事実だろうと思う」・・と、福沢諭吉が
 言っている。
  しかし、咸臨丸の場合、実際には、アメリカ海軍将兵
 11名が同乗していた。
  それは、日本近海測量に来ていたJ・M・ブルック大
 尉、他10名で、
  その乗船が、難破したため、咸臨丸に同乗させて送り
 返すという事で、艦の運航には、口出ししないという建
 前にはなっていた。
  だが、実際に、暴風雨の中に船を出してみると、日本
 人乗組員の技量では、危なっかしく見ていられず、
  アメリカ人将校が、手を貸さない訳には行かない。
  ブルックは、その「航海日記」に書いている。
  「私は、時々癇癪を起こす。日本人たちはまったくノ
 ロマだ。
  彼らは、荒天に対してまったく無経験で、しかも、部
 署を割り当てられない」。
  「我々の乗組員が、操舵や見張りなど、当直仕官のな
 すべきことを皆やっている」。
  「船の中で、秩序とか規律とかいうものは、まったく
 見られない
  ・・・飲酒はそう厳しく取り締まられていない」。
  また、ブルックの観察では、
  木村摂津守は、「地位や、習慣などを頑固に守る人」
 として映り、
  勝は、「大変小柄であるが、良く均整が取れ、たくま
 しく身軽である。
  鋭い見透すような目、筋の通った鼻、やや小さいあご。
 歯を合わせたまま話す。
  彼は、なかなか活動的である。
  手すりの上に飛び上ったり、索具にのぼったりする。
  感じの良い顔立ちで、決して、機嫌が悪いという事が
 ない。
  彼は、航海中ほとんど船酔いしていた」と見られてい
 た。
  福沢は、「勝麟太郎という人は、艦長木村の次にいて
 指揮官であるが、至極船に弱い人で、
  航海中は、病人同様、自分の部屋の外に出ることは出
 来なかった」と述べているが、
  木村摂津守の想い出話では、「福沢の伝にある様に、
 ただ船に酔ったというのではない、
  つまり、不平だったのです」とある。
  勝が、何に不平だったかと言えば、
  身分とか、待遇とか、役割が、その人の能力相応でな
 い事に対する不平である。
  上役の無能ぶりと、船内無統制に、カンシャクを起こ
 して、
  船酔いを口実に、部屋から出ようとしなかった。
  勝は、アメリカで把んで来たものは「能力主義」とい
 う人事管理の方式にあった。
  咸臨丸の船内の人事組織からして、近代的な能力主義
 でやってみたかったのだ(氷川清話)
  正月、正使新見豊前守、副使村垣淡路守、目付小栗豊
 後守、米艦「ポーハタン」で米国に向けて出発(氷川清
 話)
  300トンの小さな艦で40日の航海。
  勝は艦長、福沢は総督である木村摂津守の従者。
  咸臨丸に乗船中の勝は、終始不機嫌でかんしゃくを起
 こしてばかりだった様だ。
  体調も悪かったのだろうが、実力に比して不当に低い
 身分に対する不満もあったのだろう。
  勝は、7歳年下でも身分の上の木村に反抗する態度も
 とった様だ。
  木村の従者の福沢にとって、これが不愉快でないこと
 はなく、二人の不仲の原因はここにあったのだろう。
1860年1月、河竹黙阿弥『三人吉三廓初買』初演。
  横井小楠『国是三論』。
  この頃、かっぽれ、すちゃらか節流行。
1860年2月27日、咸臨丸が、サンフランシスコに入港した。
 (2月26日説あり)
  海舟は、熱病を患っていたが、サンフランシスコに着
 く頃には自然に全快していた。
  サンフランシスコへ着くと、日本人が独りで軍艦に乗
 ってここへ来たのはこれが初めだ・・といって、アメリ
 カの貴紳(きしん、身分と名声のある男子)らも、たい
 そう誉めて、船底の掃除や、ペンキの塗り替えなども、
 すっかり世話をしてくれた(氷川清話)
  ・・・着くやいなや、土地の主だった人々は、船まで
 来て、祝意を表わし、
  歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。
  次で、陸から祝砲を撃つということになって、あちら
 から撃てば、咸臨丸から応砲せねばならぬとなった、
  ・・が、勝の説に、なまじ、応砲などして遣り損なう
 よりも、こちらは撃たぬ方が良いと言う。
  そうすると、運用方の佐々倉桐太郎は、いや撃てない
 ことはない。
  乃公(だいこう、男性が、目下の人に対して、または
 尊大に、自分をさしていう語、我が輩)が撃て見せる。
  「馬鹿言え、貴様達に出来たら乃公の首を遣ると冷や
 かされて、佐々倉は、いよいよ承知しない。
  何でも応砲して見せるというので、それから、水夫共
 を指図して大砲の掃除、火薬の用意して、
  砂時計を以って時を図り、物の見事に応砲が出来た。
  さあ、佐々倉が威張り出した。
  首尾よく出来たから、勝の首は乃公の物だ。
  しかし、航海中、用も多いから、しばらくあの首を当
 人に預けておくと言って、大いに、船中を笑わした事が
 ある。
  さあ、どうも彼方の人の歓迎というものは、それはそ
 れは、実に至れりつくせり、
  この上の仕様がないと言う程の歓迎。
  サンフランシスコに上陸するや、馬車を以って、迎い
 に来て、
  取り敢えず、市中のホテルには、市中の役人か、何か
 は知りませんが、
  市中の主だった人が、雲霞(うんか、大勢の人が群が
 り集まるたとえ)の如く出掛けて来た。
  さまざまの接待饗応。
  それからサンフランシスコの近傍に、メールアイラン
 ドという所に海軍港がある。
  その海軍港付属の官舎を、咸臨丸一行の止宿所に貸し
 てくれ、
  船は、航海中なかなか損所が出来たからとて、ドック
 に入れて修復をしてくれる。
  逗留中は、勿論(もちろん)あっちでも何もかも、そ
 っくりやってくれる筈(はず)であるが、
  水夫をはじめ日本人が、洋食に慣(な)れない、
  やはり、日本の飯ででなければ食えないというので、
  自分で賄うという事にしたところが、
  アメリカの人は、兼(か)ねて、日本人の魚類を好む
 という事を良く知っているので、
  毎日毎日、魚を持って来てくれたり、
  或(ある)いは、日本人は、風呂に入ることが好きだ
 というので、毎日、風呂を立ててくれるというようなわ
 け。
  ところで、メールアイランドという所は、町でないも
 のですから、折節(おりふし、その場合場合)、今日は
 サンフランシスコに来いと言って誘う。
  そこから船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応す
 るという様な事が毎度ある。
  ところが、こっちは、一切、万事不慣れで、
  例えば、馬車を見ても、初めてだから実に驚いた。
  そこに車があって、馬が付いていれば、乗物だという
 事は分かりそうなものだが、
  一見したばかりでは、ちょいと考えが付かぬ。
  ところで、戸を開けて入ると馬が駆け出す。
  成程(なるほど)これは馬の引く車だと、初めて発明
 するようなわけ。
  いづれも、日本人は、大小を差して、履物は麻裏草履
 (あさうらぞうり)を履(は)いている。
  それで、ホテルに案内されて行ってみると、毛氈が敷
 き詰めてある、その毛氈は、どんなものかというと、ま
 ず、日本で言えば余程(よほど)の贅沢者が、一寸四方、
 いくらという金を出して、買って紙入れにするとか、煙
 草入れにするとか、云うようなそんな珍しい品物を、8畳
 も、10畳も、恐ろしい広い所に敷き詰めてあって、
  その上を靴で歩くとは、甚(はなは)だ途方もない事
 だと、実に驚いた。
  けれども、アメリカ人が、往来を歩いた靴のままで、
 ひょうひょうと上がるから、こっちも麻裏草履で、その
 上に上がった。
  上がるといきなり酒が出る。
  徳利の口を開けると、恐ろしい音がして、先(ま)ず
 変な事だと思ったのはシャンパンだ。
  そのコップの中に何か浮いているのも分からない。
  3、4月、暖気の時節に、氷があろうとは思いも寄らぬ
 話で、
  ずーっと銘々の前にコップが並んで、
  その酒を飲む時の有様(ありさま)を申せば、
  列座の日本人の中で、先ずコップに浮いている物を、
 口の中に入れて、肝を潰(つぶ)して噴き出す者もあれ
 ば、
  口から出さずにがりがり噛む者もあると云うような訳
 けで、しばらく氷が入っていると云う事が分かった。
  そこでまた、煙草を一服と思ったところで、煙草盆が
 ない、
  灰吹きがないから、その時、私はストーブの火でちょ
 いとつけた(福翁自伝)
1860年3月18日(万延1年)、「万延」に改元された。
1860年3月24日、桜田門外の変(18烈士)
  水戸藩、薩摩藩の浪士が、彦根藩の行列を襲撃し、大
 老の井伊直弼を暗殺した(45歳)。
  水戸人17名、薩摩人1名、
  勝は、この変で、幕府の行く末を感じ、また、見た。
  幕府の、体制のその内実を表していることを悟った。
  幕府の今までの経過と、これからの時を知り、実感し
 た。
1860年3月、その時、井伊の家中は・・、
  井伊の家中で、血気にはやる連中は、直ぐに、水戸の
 屋敷へ暴れ込むと言って大騒ぎをしたのを、
  岡本黄石、は色々になだめて、幕府へは、ただ、自分
 の主人が、登城の途中、暴漢のために傷つけられたこと
 を届け出て、
  事を穏便に済ませた。
  この時、黄石が、思慮のない男で、一時の感情から壮
 士どもの尻押しでもしたのなら、それこそ大変だった(
 氷川清話)
1860年3月、徳川慶喜が、隠居謹慎を許され、家茂の後見人
 となる。
  徳川慶喜が、条約締結問題につき、井伊を詰問した事
 から、隠居謹慎させられたが、
  井伊の横死後、幕府が、公武合体に転換したのに伴い、
 許されて、家茂の後見人となり、松平慶永(よしなが)
 とともに幕政改革に務めた。
  1861年10月東下、1862年2月婚礼。
1860年3月、公武合体を策し、和宮降嫁を奏請した。
  老中の安藤信正らが、公武合体を策し、皇女・和宮降
 嫁を奏請した。
1860年3月、外国人に酒を飲ませることを禁じた。
1860年閏3月19日、咸臨丸がサンフランシスコを出港した。
 (3月18日説あり)、5月5日に品川に入港する。
1860年閏3月、外国人を宿泊させることを禁じた。
1860年4月、外国人へ食用のほか牛馬を売ることを禁じた。
1860年5月5日、咸臨丸が、浦賀に到着した。
  5月6日に、品川に入港する。
  5月7日に、勝海舟、帰府(氷川清話)
  帰りにはハワイに立ち寄って、それから浦賀へ帰った。
  そして、桜田の変があったことを始めて知って、これ
 で幕府はとてもだめだと思った。
  これから品川へ船を廻して一同上陸した(氷川清話)
1860年、帰国後の勝海舟と福沢諭吉
  アメリカから帰国後、福沢は、世襲でない社会、デモ
 クラシーを感じ、
  この世襲が、政治のバイタリティーを無くしていると
 見抜いた。
  福沢は言った、「封建制度は親の仇でござる」と、近
 代社会の形を体感していた。
  勝は、老中から、「そのほうは、眼光を見えているか
 ら、何か眼を付けた事があろう」と言われ、
  「人間のする事は、古今東西同じで、アメリカとて別
 に変わったところはありません」と答えた。
  老中が、なおも、「左様ではあるまい、何か変わった
 ところがあろう」と聞く。
  再三再四、聞かれた勝は、「さよう、少し眼につきま
 したのは、アメリカでは、政府も民間も、人の上に立つ
 人は、皆、その地位相応に怜り(かしこい、利口な)で
 す。
  この点ばかりは、まったく我が国と反対の様に思いま
 する」と答えた。
  老中は、目を丸くして、「この無礼者控えおろう」と
 叱った。
  この胆力と、一言の多さが・・勝だった。
  尚、福沢諭吉は、この1860年の幕府使節の随行のほか、
 1861年、1867年の計3回の幕府使節随行で、洋行し、近代
 文明をつぶさに観察している。
  この辺からも、上野の山の攻略の大砲の音を聞きなが
 らも、かかわりのない事の態度で、次世代の俊英を育て
 るための講義を、粛々と続けたのだろう。
1860年4月、外国人へ食用のほか牛馬を売ることを禁じた。
1860年、緒方洪庵が、この年から天然痘に尽力した。
  その拠点が、「除痘館」。
  洪庵は、自らが開いた私塾「適塾」で、医学を教える
 かたわら、その南方約100メートルの地で種痘事業をした。
  孫が、その跡地に、産婦人科医院を開設した。
  因みに、日本では天然痘は、1980年に根絶された。
1860年6月、ポルトガルと仮条約。
1860年9月29日、水戸斉昭(徳川斉昭、なりあき)が没した。
1860年10月、種痘館を種痘所と改称した。
  大槻俊斎が頭取となる(氷川清話)
1860年10月、プロシアと仮条約。
1860年11月、福沢諭吉、外国方役員となる(氷川清話)
  福沢諭吉が、1860年~1867年の間、幕府の翻訳方に勤
 める。
1860年12月、勝海舟が、アメリカに行った功績で、金5枚
 時服2を賜い、且つ、軍艦派遣は、我国はじめての新事業、
 無事航海をまっとうした功労によって、終身(?)米を
 賜う(氷川清話)
1860年12月5日、麻布で、アメリカ公使官員が浪士に殺害さ
 れた。
1860年、井伊直弼の暗殺後、尊王攘夷および倒幕運動が盛
 んになって行った。
1860年、米価暴騰による農民一揆が頻発した(~1865年)。
1860年11月6日、エイブラハム・リンカーンが、アメリカの
 第16代大統領に選出された。
1860年、清国、涙の北京条約。
  イギリス・フランスは、思惑通り、徹底的に清国を痛
 めつけ、思い通りのうまい汁を吸う条約を締結させた。
  香港の九龍半島の一部を割譲させる・・ほか。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年11月24日火曜日

(増補版)247D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1858年12月~1859年8月)

題:(増補版)247D3/3:2/3:気になった事柄を集めた年表(1858年12月~1859年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1859年(安政6年)1月、勝海舟が、正月、汽船・朝陽丸で
 帰府、暴風雨に会い、体をマストに縛り指揮、綱が切れ
 波に捲かれようとする航海中の難、危険を瀕す(氷川清
 話)
1859年1月、勝海舟、軍艦操練所教師頭取を命ぜられる(氷
 川清話)
1859年1月、勝海舟、長崎伝習中止の命あり(氷川清話)
1859年1月5日、石見で地震。
1859年1月7日、秋山好古(あきやまよしふる)誕生(逸話)
  伊予松山城下(現・愛媛県松山市)に松山藩士の三男
 として生まれる。
  秋山家は足軽よりも一階級上の位で家禄10石ほどの下
 級だった。
  藩校・明教館へ入学し、家計を支えつつ学ぶ。
  大阪師範学校を経て、1877年に、陸軍士官学校へ入学。
  日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃滅した秋山
 真之は実弟にあたる。
   陸軍騎兵学校を参観に来たフランス軍人に「秋山好古
 の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破る
 というただ一点に尽きている」と賞されているとおり、
 日本騎兵の父と云われた。
1859年1月13日、幕府が、長崎、神奈川、箱館3港の開港に
 あたり、同地への出稼ぎ、移住、自由売買の許可を布告
 した。
1859年2月7日、勝海舟が、長崎での海軍伝習が終了するこ
 とにあわせ、長崎を出発、江戸へ帰る。
  日米通商航海条約の批准のため、使節を米国に派遣す
 る噂を聴いて、勝海舟は直ちに帰府を願い出た。
  何としても、近代国家の実情をこの目で見たい、それ
 にはこの機会に、使節について米国へ渡航したい、
  太平洋を自力で軍艦を操縦して渡ってみたい、という
 冒険心やら勇猛心やら好奇心が、いっぺんに噴出してき
 た。
  正月、紀州沖の暴風雨の中を、朝陽丸を指揮して彼は、
 江戸に帰った(氷川清話)
1859年2月9日、遠隔地長崎では、経費がかかり、西役所の
 海軍伝習所を閉鎖した。
  ポンペの医学伝習所は続行。
1859年2月22日、江戸の大火(青山より音羽へ延焼)
1859年2月26日、山内豊信(やまうちとよしげ、容堂)が、
 隠居を命ぜられる。
  1862年に、許されて、公武合体に尽力する。
1859年5月2日《03/30》開港後、最初のキリスト教の伝道者
 が、中国在留の米国監督教会宣教師・リギンスが来航し
 た。
  米国領事・ワルシの斡旋(あっせん)で、上陸が許可
 された。
  長崎奉行の依頼で、通訳官8人に英語を教授した。
   居住地は、崇福寺後山の広徳院とした。
   1860年2月に、病のため帰国。
1859年5月25日、吉田松陰が、萩獄より江戸に送られる。
1859年5月26日、イギリス総領事(のち公使)オールコックが、
 来日した。
  高輪東禅寺を居館とした。(6月9日説あり)
1859年5月27日、米国総領事・ハリスが、幕府に弁理公使昇
 格を通告した。
  麻布の善福寺を居館とする。(6月4日説あり)
  弁理公使は、外交使節の第3の階級で、公使に次ぎ、代
 理公使の上位のくらい。
1859年5月、米英公使と居留地造成の交渉で、わが国の腹案
 は遂次つぶされた。
  9月に、計画案をたて実施されることになった。
  大浦湾入の大半を梅香崎側に埋立てるもの(現・長崎
 県庁近く)。
  居留地の核体となる第1次の造成。
  1861年4月になって、第1次居留地の完成に伴い、仮泊
 地協定により4月をもって居留地への移動を決めた。
  大浦海岸通りの造成により、仮泊地で待機していた山
 手地区一帯の貿易商人や商社が移動を開始。
  ほとんどが英米系で、なかでも英国人は海岸に面する
 上等地を占領して活躍した。
1859年5月、長崎奉行所よりの達しで、「たとえ、外国人が
 買い揚げている遊女であっても、見物のために外国船へ
 行くことは罷りならぬ」と禁止した。
1859年5月、イギリスが、大浦郷の妙行寺内にて外交事務・
 英国領事館を開始した。
1859年6月2日、下田、横浜、長崎、函館の4港を開き、英・
 米・仏・蘭・露の5国と交易す(5月28日説あり)
  自由貿易を許可する旨布告。
1859年6月2日、幕府が、貿易許可の3開港場で、江戸図面、
 官服、法制書籍、武艦類、兵学書類、甲冑、刀剣などを
 外人に売ることを禁止した。
1859年6月20日、幕府が、外国より武器輸入を許した。
  幕府が、3開港場における武器購入を大名、旗本、藩
 士に許可した。
1859年6月22日、幕府が、外国との貿易を許す(当時生糸1
 斤の価1両1分、生糸輸出始まる)
1859年6月25日、幕末の通貨問題。
  日米和親条約の締結後に決められた日本の貨幣と海外
 貨幣の交換比率に関する問題で、
  日本と諸外国の金銀交換比率が異なったため、日本か
 ら大量の金が流出した。
  この日に出された幕府の触書で、当時、小判として最
 も多く流通していた天保小判は、一分銀5枚の増歩通用と
 されたが、
  実際の流通の場の市場では、さらに上がり一分銀6枚を
 要求される状況で、
  これが、9月になると8枚とか、9枚とかと上昇した。
  国際価格から見て、日本の金が安い状況であるため、
 この様な事態が生じたのだが、安い日本の金は、海外へ
 大量に流出した。
  これは、開国に伴う日米間での日本貨幣と西洋貨幣と
 の交換比率の交渉において、1856年に、ハリスの論理に
 押し切られた結果であった。
  この時、1ドル=3分との交換比率を飲まされた。
  米国総領事のハリスは、これでたいぶ私腹を肥やした。
  儲けのカラクリは、1ドル銀貨をまず一分銀3枚に交換
 し、両替商で4枚を小判(金)にし、国外で地金にして売
 却するという手順で大儲けした。
  1両が4ドルになった。
  つまり、1ドル銀貨の1枚と1/3枚が、4ドルになった。
1859年7月、新たに外国奉行を置く(氷川清話)
1859年7月、勝海舟、赤阪元氷川下に転居(氷川清話)
1859年7月1日、横浜港・函館港・長崎港開港。
  イギリス、ロシアに開港。
1859年7月4日《06/05》日米修好通商条約により、神奈川と
 長崎が開港した。
1859年7月9日、吉田松陰が、江戸伝馬町の獄に投じられた。
1859年7月16日、幕府が、外国人擁護を令す。
1859年7月、コレラが流行し、青魚、タコ、生野菜、果物、
 鶏肉など禁食リストを公表した。
1859年8月、蝦夷地を割き、奥羽諸藩に賜う(氷川清話)
  奥羽6藩に蝦夷地を分割す。
1859年8月、運用銀、吹直し(氷川清話)
1859年8月、洋銀、運用を許す(氷川清話)
1859年8月、勅書水戸家に下る(氷川清話)
1859年8月、松木弘安、箕作秋坪、原田敬作、高畑五郎、外
 国方訳員となる(氷川清話)
1859年8月、水戸斉昭、一橋慶喜、松平慶永、引責、蟄居を
 命ぜられる(氷川清話)
1859年8月、江戸城本丸火事(氷川清話)
  江戸城本丸全焼、翌年11月、殿舎再建成る。
1859年8月、横浜、凾館、長崎を開港す(氷川清話)
1859年8月、横浜の風聞:
  五国条約というものが発布になったので、横浜は正し
 く開けたばかりのところ、
  そこで、私は横浜に見物に行った。
  その時の横浜というものは、外国人が、そこに住って
 店を出している(福翁自伝)
1859年8月4日《7/6》シーボルトが、日本追放後30年ぶりに
 ドイツ人の妻と、5人の子女を連れて、再来日した(7月
 6日説あり)
  日本にいた時に、妻と子としていた母娘に再会した。
  再会後シーボルトは、「たき」と疎遠となり同居を拒
 んだ。
  「たき」は、シーボルト帰国の1年後に再婚した。
  その後、寡婦(その夫を失い未亡人)となった。
1859年8月10日、フランス総領事(のち公使)ド・ベルクール
 着任、三田済海寺を居館とする。
1859年8月13日、ポンペが、幕府の許しを得て、早朝から夕
 暮まで3日間にわたり、
  西坂刑場で死刑囚の死体解剖実習を行なった。
  日本初の死体解剖実習に、受講生46人、シーボルトの
 娘イネも参加した。
  許可が下りるまでは、パリから取り寄せたキュンスト
 レーキによって説明されていた。
  キュンストレーキとは、紙製の人体解剖模型で、フラ
 ンス人の解剖学者オズーによって作られたもの。
1859年8月15日、フランスに開港した。
1859年8月27日、徳川斉昭を国許永蟄居、徳川慶篤を差控、徳
 川慶喜を隠居謹慎に付する。
1859年、第二次アヘン戦争(アロー戦争、アロー号事件)
  1856年10月に、イギリス船籍のアロー号が、広東の下
 流域に停泊していた時、
  この船が、禁制品のアヘンを積んでいたので、中国の
 清国兵が、乗組員12名を清国軍艦に引致した(いんち、
 引っ張っていくこと)。
  イギリスは、清国と戦争する口実が欲しかった。
  この事件は、難癖をつける、言いがかりをつけるに絶
 好だった。
  イギリスは、フランスと連合し、
  1857年暮れに、英仏連合軍は、広東を攻め、陥落させ
 た。
  そして、その時、捕らえた清国の総督を、インドのカ
 ルカッタへ連れ去った。
  1年後、この総督を幽死させた。
  イギリスは、強圧的に、「清国全権が香港に来て和を
 講ぜよ」と敗北を認めよと言ったが、清国は応じなかっ
 た。
  そこで、英仏連合軍は、白河河口の太沽砲台を陥(お
 としい)れた。
  そして、河をさかのぼって天津に入った。
  清国は、やむなく、敗北を認め、英仏と和議を結んだ
 (天津条約)。
  しかし、事は、これで終わらなかった。
  清国の利益を、とことん得たいイギリスとフランスは、
 この条約の批准交換をする地に難癖をつけた。
  すぐれたる武器を持つ英仏は、再度、清国に対して武
 力をふるった。
  条約の批准地と言ったって「北京」にするか?「上海」
 にするか?の違いだけだった。
  結局、イギリスとフランスは、とことん清国を攻めて
 利益の収奪(より有利な講和条約を締結する)をしたい
 だけだった。
  イギリス艦隊は、1859年に、天津に侵攻しようとした
 が、太沽砲台の砲撃を受け、いったん退いた。
  そして、今度は、イギリスは、仏と連合し、英仏連合
 軍として宣戦布告をした。
  そして、英仏連合軍は、陸海から北京へと進撃した。
  清国皇帝は、熱河に蒙塵(もうじん、余裕なく都落ち
 する事)した。
  熱河は、中国河北省の都市。
  この時のイギリス兵の主力は、インド兵の1万だった。
  インドは、可哀想な事に、イギリスに国を奪われた上
 に、先兵として戦わせられたりもしていた。
  清国は、1860年10月に、英仏と北京条約を結び、九龍
 を奪われた。
  イギリスの新聞のデイリーテレグラフは、1859年に、
 次の社説を書いている・・
  「大英帝国は、支那の全海岸を襲撃し、首府を占領し、
 清帝をその宮廷より放逐し、将来起こり得る攻撃に対し
 て実質的保障を得ねばならぬ。
  我が国家的象徴に侮辱を加えんとする支那官吏を鞭(
 むち)にて打て。
  すべての支那将校を海賊や人殺しと同じく、英国軍艦
 の帆桁にかけよ。
  人殺しのごとき人相して、奇怪な服装をなせるこれら
 多数の悪党の姿は、笑うに堪えざるものである。
  支那に向かっては、イギリスが彼等より優秀であり、
 彼らの支配者たるべきものたることを知らせねばならぬ」。
  因みに、帆桁にかけるは絞首刑を意味している。
  キリスト教の有色人種蔑視の観念が現れている。
..
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