ページビューの合計

2012年10月11日木曜日

子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その9)


 題: 子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
      (その9)
 リンカーンは、
 対抗する大統領候補から「論理の一貫性がない」と非難され
るように、奴隷解放について種々の発言をしていた。
 「奴隷解放の父」と言われてはいるが・・
 その面が全く見られない面が多々見られる。
 リンカーンは、優柔不断の面もあるのかとも思える。

 リンカーンの黒人奴隷の解放に関する発言:
 「私は、白人種と黒人種の社会的政治的平等を如何なる形で
も、もたらすことに賛成はしていないし、これまでもそうでは
なかった。
 私は、黒人を有権者にすることも陪審員にすることにも、賛
成していないし、
 彼等が役職者になる資格を与えることとか、白人と結婚する
とかいうことにも賛成しておらず、これまでもそうだった。
 さらには、
 白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
 2つの人種が社会的政治的平等という条件で共に暮らすことを
永久に禁じることになると考えている。
 彼等が、そのような生活をできない限り、
 彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
 他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当てられて
いることに賛成する・・・」。
 これは、
 リンカーンが、アメリカ市民から「奴隷制廃止論者」と非難
があったことに対し、それを打ち消すためにこの発言をしたと
いう。
.
 リンカーンは、
 少なくとも、確実に、すべての人種に対して人道主義的であ
るとは言えない。
 リンカーンのインディアンに対する態度は、異常・極悪であ
った。
 リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底排除の
姿勢を崩さず、彼らの大量虐殺の指揮を取り続けた。
 民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバホや、
ダコタ戦争を始めとする多くのインディアン戦争は、リンカー
ン政権下で行われた。
 そして、
 リンカーンは、弁護士時代から大統領時代にかけて、
 インディアンの土地取り上げに奔走している。
 ことに、西部方面へのインディアン領土への鉄道拡張に関し
て、インディアンの土地権利の抹消処理を、多数、手がけた。
 リンカーンが「無効(neutralized)」としたインディアン
部族の土地に対する書類は、現在も数多く残されている。
 リンカーンは、
 執念を掛けて、インディアン民族に対して、
 終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮している。
 当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制収容所
だった。
 また、
 リンカーンは、ミネソタのダコタ族との連邦条約を一方的に
破棄して、
 ミネソタ州にある彼らの保留地を強制没収し、
 彼らをノースダコタ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
 ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての皆殺し政策が行われ、
 女子供を問わず賞金首とし、徹底絶滅が図られた。
 リンカーンは、
 この虐殺方針に対しても、責任者として、全く異議を唱えな
かった。
 1863年、この夏、
 リンカーンは、ジェームズ・カールトン准将に、南西部のナ
バホ族インディアンの討伐を命じた。
 ナバホ族は、ダコタ族同様に、抵抗していた。
 カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると睨んでおり、
以下のように声明を行ったが、今回もダコタ暴動の際と同様、
司令者であるリンカーンはこれを是認した。
 1864年、リンカーンは、
 ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル)離れた東に
あるアパッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
を命じた(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)。
 この強制連行の途上で、数百人の死者が出たが、
 そのほとんどが子供や老人だった。
 「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は強制労働を課され、
 女性は、米軍兵士から強姦され、
 また、乳幼児のほとんどが生まれて間もなく過酷な環境下で
死んだ。
 結局、リンカーンの死後の1868年に、和平条約が調印される
までに、2000人以上のナバホ族が死んだ。
 など、多数のリンカーンの先住民・インディアンいじめの事
例が多々ある。
 上記の原因の一つに、リンカーンが、インディアンに殺害さ
れた父方の祖父エイブラハム・リンカーンにちなんで命名され
たというところからも推察できる。
.
 そしてまた、リンカーンは、
 白人と黒人が平等であるとは思っていなかった。
 リンカーンは、はっきり
 「奴隷制と奴隷制廃止論のどちらにも反対する」と発言もし
ている。
 また、
 「奴隷制度は不正と悪政にねざすことを信じるが、しかし、
 奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるよりはむしろ増大さ
せるものと信ずる」と、奴隷解放の反対理由を言っている。
 そして、リンカーンの発言:
 「これまで私は、黒人が投票権をもったり、陪審員になった
りすることに賛成したことは一度もない。
 彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにすること
も反対だ。
 皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはない」。
.
 更に、リンカーンの発言:
 「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接にも
間接にも干渉する意図はない。
 私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたい
という意思もない」。
 また、リンカーンには、
 俗な言い方をすれば「連邦を救いたいのだ、黒人の奴隷解放
は二の次なのだ。黒人奴隷解放が、どの様な結果になろうが連
邦が救えれば私はそのことをする」がある。
.
 黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に、
 リンカーンを白人至上主義者と呼んだ。この時、広く注目を
集めた。
 批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人を冷笑
するジョークを話し、社会的平等に反対すると主張し、解放奴
隷を別の国に送ることを提案したことに苦情を言っている。
 リンカーンの擁護派は、
 彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
 政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展させた「
道徳的先見家」だったと弁護している。
 (参考)じんどう‐しゅぎ【人道主義】 人間性を重んじ、
人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指す立場。ヒュー
マニズム・博愛主義と共通する面が多い。

2012年10月10日水曜日

子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その8)

題:子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
      (その8)
[ 関連事項 ]
 アメリカの最高裁判所が「黒人を隔離しても平等」という判
決を出した。また、人種の違いで黒人と白人を別々の学校で教
育することという法律もあった。
 これはおかしなこと。「隔離しても平等の原理は無い」ので
ある。
 「隔離したら不平等」なのである。人種差別なのである。
 何でこの様な基本的な当り前のことが通らないアメリカ社会
なのか?
 キリスト教の教義・考え方に洗脳されたアメリカにおいては
隔離して平等なのである。
 水飲み場や公園などの公共施設には、どこに行っても「白人
専用」とか「黒人専用」とかと書かれていた。
 バスの座席は、後部が黒人用だった。
 「黒人席」が満席になり、前の「白人席」に空席がいくらあ
っても、黒人の方たちは後方に立っていなければならなかった。
 公の圧力や法的にも虐げられた黒人の方たちでした。
 黒人の方たちは、この様な差別に反対する行動を起こした。
 1953年の事である。
 アメリカでは最近までこの様な差別が公的機関を先頭にして
行なわれている。
 この不合理さに気付いている良心的な白人は少なかった。
 人間の尊厳という最も大切な基本を傷付けている事に気付い
ている白人は少数だった。
 黒人の方たちも含めて、総べてのアメリカ人に、当然、享受
すべき自由、平等、正義があるべきなのに、その大切なものが
一部の方たちに対し、ないがしろにされていた。
 それに気付く白人は少数だった。
 愚かにも南部の白人権力は、特に、白人群衆を巻き込みなが
ら、この歴史の歯車を逆に押し戻そうと必死だった。
 黒人と白人の共学の問題などが起きていた。
 KKKというテロ集団が、特有の異様な白装束に身を固め、キ
リスト教の十字架に火をつけて夜空に燃やしたりした。
 翌日、騒ぎは大きくなり、町には暴徒の群れが充ち溢れた。
 黒人の方たちに投石や棍棒による暴力が加えられた。
 人種暴動の状態だった。
 南部は、特に、人種共学は遅々として進まなかった。
 若者たちが組織した人種差別撤廃闘争は、「入り込み」運動
を展開した。
 黒人の方たちが、集団をつくり、白人専用の海水浴場に入り
込んだり、映画館や公園、そして、黒人の方たちを差別してい
たキリスト教会へ「入り込み」運動を展開した。
 愚劣な白人の言葉「黒人は、われわれ白人とは違う。神が、
黒人を罰するために、かれらを白人とはちがう姿におつくりに
なったのだ」。
 白人暴徒が、黒人の方たちが作った黒人教会を焼き打
ちし、幼い黒人少女たちが亡くなるという悲惨な事件など
が続いた。
 頭をめった撃ちに銃弾を浴びて、また鉄鎖で全身をめった
打ちにされた黒人の方、頭蓋骨を割られ、特に、黒人の活
動家がターゲットになった。
 しかし、無罪になる白人。
 今、アメリカでは、黒人の貧困家庭は白人の4倍である。
 『総べての面で、社会的平等が達成されなければならない』。

2012年10月8日月曜日

子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その7)

題:子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
       (その7)
ーーー 真を求めて 皆様と共に幸せになりたい ーーー
[ 関連事項 ]
(11)・アメリカの1850年の逃亡奴隷取締法(逃亡奴隷は
生殺自由・・など)と、1854年のカンザス=ネブラスカ法に
反対する闘いの中から、より大きな奴隷制反対政党として共和党
が誕生してくる(現在の共和党の始まり)。
1857年の黒人奴隷と奴隷所有者のある裁判で、アメリカ最高裁
判所の下した判決は「黒人奴隷ならびにその子孫は、所有者の
財産であって合衆国の市民ではない。
 劣等人種であるかれらは、白人と同等の権利をもつことはで
きない。
 だから、黒人である原告には連邦裁判所に提訴する権利は与
えられていない(黒人奴隷が起こした裁判、黒人奴隷の原告は
裁判に負けた。敗訴となった)。
 裁判長はじめその過半数が南部人によって構成されていた。
 1858年、当時49歳のエイブラハム・リンカーンが共和党から
初めて上院議員に立候補した頃の事である。
 ここで、黒人の黒人解放戦士『フレデリック・ダグラス』が
記憶にとどめておくべき『偉人』である。
 彼は、リンカーン大統領の黒人に対する意思を変えた人であ
った。
 リンカーンは、初め、奴隷解放への強い意思は持っていなか
った。
 フレデリックの功績によって目覚めたのである。
 真に黒人解放に寄与したフレデリック・ダグラスの名は、リ
ンカーンと共に並びおかれて然るべき偉人なのである。
 長年、黒人の方達の歴史が、埋没され、歪められてきたアメ
リカ白人国家。
 黒人を白人と平等の地位に置くことを頑なに拒絶してきたア
メリカなのである。
 アメリカにはキリスト教から来る黒人蔑視の観念が根強く根底
に存在していた。
 黒人の方達の正しい歴史も、最近になって陽が当たる様にな
った。
 日本の子供たちの伝記「リンカーン」は書き変えるべきです。
.
(12) キリスト教の聖書に書かれ、そして、是認された奴隷制。
 また、「黒人を人と見ない」というキリスト教の考え方・教義。
 このキリスト教に影響され、ここ、アメリカにおいて、黒人を
奴隷として差別する種々の法制化という行為に至った。
 「黒人差別制度(もしくは黒人差別主義)」の州法や市条例が
でき、黒人の方たちを縛り付けた。
 アメリカ南部ではこれらの考え方が、特に、全体的風土として
定着し、非合法の黒人へのテロ集団の蛮行のみならず、合法と
いう形をとった圧迫によって黒人の方たちは虐げられ、第二級
市民の地位に落とされ、押し留められた。
 この様な状況の中で、独占的になったアメリカ資本主義(とく
に北部)が、たんに黒人を搾取するだけでなく、労働者階級全体
を搾取する動きで、法制的に、また、暴力的に、収奪体系を作り
出していく。
 黒人蔑視から肌の色の相違を越えて広がっていく。
 そして、地域的にも広がっていく。
 南部の黒人が虐げから離脱して、北部の諸都市へ移住しても
黒人差別が、そこにも存在した。
 黒人差別は、アメリカのどこでも広く行き渡っていた。
 この頃の皮肉を込めた言葉:「アトランタの博覧会には、テネシ
ー州の黒人リンチも南部の特産物として出品されるべきだ」。
 第一次世界大戦前後から以降、特に、黒人の方たちの南部から
の流出は増大し、100万人以上と推定されている。
 彼らを待っていたものは、南部と変わらない差別待遇だった。
 賃金は安く、住居もゲットーと呼ばれる隔離された貧民街に
押し込められた。
 黒人の方たちには、激しい抵抗心と同時に、不安と焦燥(しょ
うそう)の念がみなぎった。
 黒人の方たちは、第一次世界大戦で勇敢に戦った。
 その戦場においてさえ、自国(アメリカ)の差別の苦渋をいや
というほど受けた。
 他方、フランスをはじめ同盟軍である他国の将兵から、初めて
人間としての扱いを受け、ますます人種差別制度に対する反感を
強めて帰って来た。
 1919年に、この様な社会的背景から、シカゴで人種暴動が起き
た。
 黒人が泳ぐことが禁止された白人専用の場所で、黒人青年が
泳いだというのが事の発端だった。
 白人の群衆は黒人青年に対し石の雨を降らせた。
 黒人青年は可哀想に溺れ死んでしまった。
 これが暴動の発端だった。
 13日間の人種戦争と化し、白人15人、黒人23人が殺され、
178人の白人と342人の黒人が傷つき、数百軒の家が焼かれた。
 大半が黒人の家だった。
 この頃、白人たちは、アフリカを侵略し、白人の植民地主義
と人種的抑圧の愚行が続いていた(白人は、アフリカで、黒人の
国アフリカを強奪し、黒人の方たちを隷属状態にする愚かな行い
をしていた)。

子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その6)

題:子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
       (その6)
[ 関連事項 ]
(8)・綿花という新しい商品作物を得て、プランテーション
経営者=奴隷所有者(白人キリスト教徒)は、安い労働力を欲
し、黒人奴隷制度を強化しようと懸命だった。
 キリスト教の教義から黒人の奴隷としての使役に何ら罪悪感
は持っていなかった。
 この黒人奴隷制度を脅(おびや)かすものは、少数だが「自
由黒人の存在」だった。
 黒人奴隷は、自由黒人になりたいとした。
 自由黒人は「軍役に服して自由の身」になったり、「勤勉に
貯え、主人から自由を購入」したり、「逃亡によって自由」を
得たりしていた。
 この黒人奴隷制崩壊を孕(はら)んだ「自由黒人の存在」を、
白人たちは煙たく思っていた。
 ここに、「自由黒人をアフリカに送還してしまおう」という
考えが生まれ、キリスト教聖職者のロバート・フィンガーが提
唱した。
 この提唱により「アメリカ植民協会」が結成された。
 この事の本質は「白人社会の中で、黒人は、白人と一緒に生
活することは出来ない」という白人優越=黒人蔑視の人種的偏
見であった。
 そして、黒人を「隔離」し「追放」することだった。
 話は、「植民」とか、「解放」とかの言葉によって美しそう
に脚色されていたが、実態は「放逐」だった。
 これは、キリスト教がよくやるプロパガンダ(嘘宣伝行為)
だった。
 そして、アフリカ象牙海岸近くに4万平方キロメートルの地
が確保され、用意された。
 そして、計画は実行に移された。
 首都は、アメリカ大統領のジェームズ・モンローの名前から
「モンロヴィア」と名付けられた。
 これが、こんにちのリベリア共和国である。
 エイブラハム・リンカーン大統領も真剣に、非人道的なこの
「黒人隔離」を考えた。
 また、リンカーン大統領は「黒人の軍隊編入をためらった大
統領」だった。
 しかし、ここで正しく歴史を認識するために記す必要がある
ことは、黒人の黒人解放戦士フレデリック・ダグラスの働きに
より「黒人の軍隊編入が陽の目をみた」。
 戦争における黒人の方達の働きは素晴らしかった。
 この黒人のダグラスの功績も、白人社会の歴史は「忘却の彼
方へ埋没させようとしていた」。
 最近になって、長年、埋没され、歪(ゆが)められてきた黒
人の方たちの過去の歴史を発掘し、正しく再発見しようという
努力の結果なのである。
 黒人が、どれ程、偉大なことをなし遂げようと、抹殺される
社会にアメリカがあることを、この事は示している。
 「黒人の行為・功績を正しく記録する社会システムではない、
その歴史もない社会」なのである。
(9)・奴隷州と呼ぶべきアメリカ南部地域は、奴隷制を守ろ
うと残忍なまでの弾圧と必死の防備策を取った。
 南部は「武装した奴隷収容所」と呼ばれた。
 逃亡した奴隷を取り戻すため「逃亡奴隷取締法」を制定した。
 獰猛な犬どもと銃口の追跡を受けて、逃亡に失敗し捕えられ
た奴隷は二度と同じ罪を犯す事がないよう、また、他の奴隷へ
の見せしめのために、数十回も激しく鞭打たれたうえ焼印を押
されたり、耳を削(そ)がれたりされた。
 なんとか逃亡に成功した奴隷の首には、賞金がかけられ、生
かすも殺すも、これを捕えた者の裁量にまかされた。逃亡奴隷
取締法とは、このような残虐行為を法によって承認したものだ
った。
(10)・あるアメリカの黒人(奴隷)の述懐「・・・反対に、
もしも、我々(黒人)が、かれら(白人とくに奴隷所有者)を
奴隷にして残忍な奴隷制度の中に縛り付ける様な事をしたとし
たら、かれらは、いったい、どんな気がするだろうか?・・・
私は、君たちにたずねたい。君たちの母親や妻や幼い子どもの
生命を奪う暴君の奴隷となるくらいなら、君たちは、むしろ殺
される事を望むのではないか?・・・信じ給え、君たちを殺そ
うとするような、そんな人間を君たちが殺すのは、喉が渇いた
時に一杯の水を飲むのと同じくらい当然のことではないか」と。
 これは奴隷所有者に大きな衝撃を与えた。

子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その5)

題:子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
       (その5)
ーーー 真を求めて 皆様と共に幸せになりたい ーーー
[ 関連事項 ]
(5)・1970年に制定されたルイジアナ州の州法では、32分の
1以上の黒人の血が混じっている住民は黒人とみなされた。
 黒人詩人ラングストン・ヒューズの言葉:「アメリカ合衆国
では、黒人という言葉は、ともかく血管の中にいくらかでも黒
人の血が流れている者には誰にでも適用されるのだ」。
 黒人の血が一滴でも確認されれば、その人は「白人」ではな
くて、れっきとした「黒人」だという事である。
(6)・アメリカ合衆国では、白人との混血は「黒人の血の割
合がどんなに少なくても黒人として申告しなければならない」
となっていた。
 商務省国勢調査局が指示していた黒人に関する分類上の基準
となっていた。
 まったく非人道的な、差別の基準である。
 キリスト教の聖職者の言葉に「黒人は人間ではない」が残さ
れているが、1970年に制定されたルイジアナ州の州法では、32
分の1以上の黒人の血が混じっている住民は黒人とみなされ、
出生、結婚、死亡などの証明書に「黒人と明記されてしまう事」
になっている。
(7)・アメリカ・白人・キリスト教徒が行なった黒人奴隷を
用いるプランテーション経営は(バイブル・ベルトと呼ばれる
キリスト教が根強いアメリカ南部にプランテーション経営者が
多い)、経営者の下に白人の奴隷監督を置き、更にその下に黒
人奴隷の中から選ばれた黒人班長を置いた。
 そして、あらゆる手段を用いて少しでも多く奴隷を酷使する
ことを目指した。
 奴隷がその日にしなければならない1日の仕事の分量が前もっ
て指示された。
 それを完遂するまでその日の労働から解放されることはなか
った。
 何故、同じ人間が? アフリカから連れて来られ、キリスト
教聖書にも書かれ、キリスト教の神もする事と免罪符的意識の
下に人間が同じ人間を「人家畜」として当然の様な顔をして「
鞭と監視」で使い果たす。
 宗教から来る是認されるキリスト教において当然の行為の意
識ゆえに罪悪感は全くない。
 そのキリスト教の教義は、今なお存在する。聖書に記されて
いる。
 「夜明けから日没まで」力の限り働かなければ生かしてもら
えない人々がいた。

子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています(その4)

題:子供たちの「リンカーンの伝記」は間違っています
                      (その4)
ーーー 真を求めて 皆様と共に幸せになりたい ---
[ 関連事項 ]
(1)・アメリカ人は原住民のインディアンを、南米などで殺
戮の限りを尽くしたキリスト教徒スペイン人の様に奴隷化しよ
うとした。そして、殺戮した。
 しかし、インディアンは狩猟民族で農耕的ではなかった。
 また、頑強な諸種族の抵抗があった。
 また、奴隷化された者への逃亡の援助が絶えず繰り返された。
 それでも、インディアンの奴隷化は熱心に行われ、サウスカ
ロライナのインディアンの15%が奴隷だった。
 新しいキリスト教の国を作ろうとアメリカに移住してきた当
初、アメリカ人は、あまりにも過酷な状況で餓死者が続出して、
植民をあきらめた頃、生活の仕方を先住民インディアンに教え
てもらった。
 その恩のある先住民インディアンを奴隷にするとは? 人の
形をした家畜にするとは? 
 また卑劣にも、その後に、維持費が安いと黒人の方たちを奴
隷としてアメリカに導入した。
 一生涯が奴隷であり、子供が生まれれば自分の奴隷とした。
 キリスト教は「人間は生まれながらに原罪がある」という考
え方・教義であるが、生まれた奴隷の子供は奴隷だと考え、
自由にはしなかった。
 肌が黒い黒人奴隷は逃亡してもすぐ見分けられ捕まった。
 アメリカ白人は、何ら法律上の権利を黒人奴隷に、一切、与
 えなかった。
 白人は、黒人の方たちを「本来的に奴隷に適する」と言い切
った。
 キリスト教の聖書は教える、免罪符の「神の義がある」とし
て、キリスト教の神が隣国を攻め込ませ、殺戮の限りを尽くし、
隣国の富を奪い、キリスト教の神は「奴隷にせよ、奴隷にせよ」
と絶叫する。
 キリスト教の教義ゆえに、人間の歴史に連綿と忘れられずに
伝えられ、奴隷制が人々の心に常に想念させられ、洗脳されて
きた。
(2)・アメリカ合衆国に来た「最初の黒人奴隷」は、1619年
8月、1隻のオランダ船が20人のアフリカ黒人を陸揚げして売り
渡したときにはじまる。
 初期のイギリスからの植民者は、冬を超える事に苦労した。
 特に、1609~10年の冬はとりわけ厳しく「餓死の時期」と呼
ばれ、当時、500人に達していた植民者は60人に減って、生存
者の多くが植民を断念しようとしていた。
 この窮地を救ったのは「インディアン」だった。生活の仕方
を植民者は教わった。
 また、煙草の栽培も彼等から教えられた。
 当初、植民者たちが求めたものは、南米などで悲惨な行為を
したスペインの征服者と同様、金銀だった。
 しかし、金鉱は、この最初の植民地・ヴァージニアには発見
されなかった。
 後に、窮地を救った煙草栽培で、労働力を求めるほどの規模
になった。黒人輸入でその労働力を求めた。
(3)・アメリカは、イギリスから独立を勝ち取った後、合衆
国憲法をつくるための会議を秘密会議とした。
 それは、アメリカの支配者層の利益を守るためだった。
 より一層の革命の進展を恐れたのである。
 秘密の憲法制定会議の出席者の大部分が有産者階級で、合衆
国憲法はこの支配階級の利益の産物で、「大衆の犠牲」の上に
生まれていた。
 その犠牲の1つは、「奴隷」という言葉こそ用いられなかった
が、「その他のすべての人びと」という言葉で表現された70
万人の黒人奴隷だった。
 キリスト教徒のピューリタンが理想のキリスト教国家を建設
しようと行動した結果が、これであった。
 また、広大な土地を奪われた先住民インディアンに対しても
何らの配慮がなされていなかった。
 すべてキリスト教が教える「自分たち隣人だけの利益」を求
めた。
 合衆国憲法は、はっきり「黒人は人に非ず」と宣した形にな
っていた。非民主主義的な奴隷制を憲法が保障する形になって
いた。
 奴隷制度の都合のよいところを自分の利のみで採用し、奴隷
制度を進展させる憲法の形になっていた。
 「黒人は人に非ず」という言葉は、キリスト教の教義上から
来ていて、キリスト教聖職者もこの言葉を残している。 
(4)・アメリカのイギリスからの独立する意義の一つに、「
国家とキリスト教会を分離した近代的民主共和国を造り上げた
い」という意思があった。
 そして、アメリカの独立宣言の草案の中で、独立宣言起草委
員のトーマス・ジェファーソンは言う、「イギリス国王(ジョ
ージ3世)は、人間性そのものに反する残忍な行為を行なってい
る。
 いまだかつて彼に逆らったことなどない僻遠の地の人々(ア
フリカ黒人)の、生命と自由という最も神聖な権利を侵犯し、
彼らを捕えては西半球の奴隷制度の中に連れ込んでしまうか、
あるいは運搬の途上にて悲惨な死に至らしめた。
 異端な力によって行われて来た恥ずべきこの海賊的行為は、
キリスト教徒たる大英帝国の国王によってなされて来た行為で
ある。
 人間が売り買いされなければならない様な市場を、あくまで
も開放しておこうと決意して、この憂うべき取引の禁止、ない
しは、制限を企画したあらゆる法律の成立を妨げるために、彼
等は拒否権を行使してきたのである。・・・」。・・・アメリ
カも最初は美しいことを言っていた。
 しかし、この先、やることはやはり黒人の方達を虐げる行為
だった。イギリスと同じことを、それ以上の規模で行った。