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2016年5月6日金曜日

(増補版)347E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年9月)

題:(増補版)347E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年9月~1877年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年9月2日、静寛院宮が逝去された(31歳)。
  和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、
 弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)~明治10年(1877年)
 9月2日)
  静寛院宮相州塔の沢で逝去(氷川清話)
  文久元年(1861年)11月15日に、和宮一行は江戸城内
 の清水屋敷に入られ、
  そして、12月11日に、江戸城本丸大奥に入られた。
  文久2年(1862年)2月11日、和宮親子内親王(16歳)
 と将軍・徳川家茂(16歳)の婚礼が行われた。
  慶応2年(1866年)7月20日、家茂は大坂城で薨去(こ
 うきょ)した。
  あまりにも早い逝去だった。
  結婚期間は、4年5ヶ月の非常に短い期間だった。
  夫婦の仲は非常に良かった。
  天皇陛下のご意向で帰京する様にと発令された。
  だが、すぐには江戸を去らず・・、
  江戸幕府の最終末には徳川家への寛大な処分や存続な
 どに意を配られ、関係された。
  明治2年(1869年)1月18日、和宮一行は東海道を京都
 へと向かわれ、明治天皇陛下へご対面され、
  5月19日には、天皇陛下から京都在住の沙汰があった。
  御住まいを栄御殿と名が改められた。
  明治天皇陛下が、東京行幸され、東京遷都の後・・、
  東京に住まわれる天皇陛下の勧奨もあり、再び東京へ
 戻ることを決め、明治7年(1874年)7月に、東京に戻ら
 れた。
  そして、皇族や天璋院・徳川家達をはじめとした徳川
 一門などと幅広い御交流を持たれた。
  そして、病気がちとなられ、
  明治10年(1877年)8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療
 養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かわれた。
  箱根の地元民とも気さくにご交流をなされたりしてい
 たが、
  明治10年9月2日、病気のため療養先の塔ノ沢で薨去さ
 れ、若い一生を閉じられた。
  静寛院宮の「家茂の側に葬って欲しい」との御遺言を
 尊重する形で、葬儀は仏式で行われ、
  墓所を、家茂と同じ、東京都港区の増上寺に・・。
1877年9月7日、寺田屋・お登勢(49歳) が没した。
  幕末期の寺田屋の女将。
  寺田屋は薩摩藩の定宿。
  寺田屋騒動の時は、被害を受けたが、事件後、薩摩藩
 から見舞金を受け、即座に畳や襖を取り換え、営業でき
 るよう整えた。
  お登勢は世話好きで、坂本龍馬をはじめとする幕府か
 ら睨まれた尊王攘夷派の志士たちを保護した。
  龍馬から託されたお龍を養女とし、また、お龍の母に
 まで仕送りして、龍馬との約束を大切にした。
  龍馬や薩摩藩との関係などから、お登勢も幕府より危
 険人物と見なされ、牢に入れられかけたこともあった。
  龍馬は、何かとこのお登勢に頼み事や、泣き言を聞い
 てもらう手紙を色々と出している。
  龍馬は、姉の乙女への手紙も有名だが、このお登勢に
 も色々と手紙を出していた、筆まめな龍馬だった。
  明治10年(1877年)9月7日に没し、墓所は、寺田屋に
 近い伏見松林院(浄土宗鎮西派末寺)。
1877年9月8日 西南戦争で官軍が、鹿児島・城山を包囲。
  官軍の参軍・山縣有朋中将が、鹿児島に到着した9月8
 日、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一
 として攻撃を第二とする」という策をたてた。
1877年9月10日 朝鮮京城に公使館を設けた(韓国公使に花
 房義質を任命)
1877年9月16日 モースが、大森貝塚を発掘調査した。
  助手ら3人とともに土器、骨器、獣骨を発見し、
  また、9月29日にも訪れ、
  10月9日から本格的な発掘を行った。
1877年9月19日 官軍の鹿児島・城山の包囲陣が成る。
  西郷の助命・・救命の動き・・、
  西南戦争が最終局面に入った9月19日、西郷軍では、
 一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が、西郷
 の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意
 を説くためと称して、軍使となって・・西郷の縁戚でも
 ある参軍・川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえら
 れた。
  9月22日、西郷隆盛は、「城山決死の檄」を出し、決死
 の意を告知した。
  「今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣は
 し候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を
 以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)
 に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、
 今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可
 有之候也」
  『後世に恥辱を残さないように・・』・・「士魂」を
 大切にせよ・・
1877年9月20日 官軍、鹿児島城山攻撃開始
1877年9月23日 西郷隆盛、城山にて訣別の宴
  この日、軍使・山野田一輔が持ち帰った参軍・川村純
 義からの降伏の勧めを無視し、参軍・山縣からの西郷宛
 の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。
1877年9月24日、西郷隆盛が自刃、西南戦争が終結。
  この日の午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に
 官軍の総攻撃が始まった。
  このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・池上・別府
 晋介・辺見十郎太ら将士40余名は、西郷が籠もっていた
 洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。
  進撃に際して、国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自
 刃した。
  途中、桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が
 続き、島津応吉久能邸の門前で、西郷も股と腹に被弾し
 た。
  西郷は、負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて
 「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将
 士が跪(ひざまず)いて見守る中、跪座(きざ)し襟を
 正し、遙かに東方を拝礼した。
  遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめん
 なったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介
 錯した。
  その後、別府晋介は、その場で切腹した。
  西郷の切腹を見守っていた桐野・村田新八・池上・辺
 見・山野田・岩本平八郎らは、再び、岩崎口に突撃し、
 敵弾に斃れ、自刃し、或いは、私学校近くの一塁に籠も
 って戦死した。
  午前9時頃、銃声は止んだ
  西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765
 人に及んだ。
  桐野利秋(39歳)、別府晋介、村田新八 戦死、
  西郷隆盛(50歳)ら城山で自刃(西南戦争終結)
  西郷隆盛が、不平士族の推されて西南の役を起こした
 が、
  敗北して城山にて自刃、西郷は政治的人間であったが、
 西南の役で部下のために死を決した・・、
  それを滅びの美学と称する者あり・・しかし・・、
  この様な状況の中で、西郷隆盛は「士魂」を示したか
 った。
  西郷隆盛反す、西南の役(氷川清話)
  戦費は、国家予算の半ばに達す(氷川清話)
  西郷隆盛は、「士魂」を示すために戦ったという話が
 ある・・、
  西郷隆盛は、負けると分かっていた戦いを・・、
  その戦いの「勝つ」「敗ける」より大切なものがある
 として・・、
  それを示したかった・・見せたかった・・、
  そこに、絶大な価値がある・・とした。
  その示した行為・行動・考えは、日本に永久に残る・・
 残したい・・とした。
  西部邁ゼミナールで、下村博文・自由民主党衆議院議
 員が、西郷隆盛の国家観の言葉を話されていた。
https://www.youtube.com/watch?v=CA-tRKqnriQ&list=PLZ0F09jaasHNwh67iJd1l6gzSXutHh0_Q&index=3
  「国家の根源は、財政でも、軍事力でもなく・・、
  そこの国民の持つ颯爽とした士魂(武士の魂)にある」
 ・・と。
  「国民の士魂にあり」・・と。
  そして、西部邁氏がいう・・、
  ロシアと戦う4~5年前に、中江兆民は言う、
  「ロシア討つべし、滅びを覚悟で戦え、大陸に覇を唱
 えよ」・・と。
  そして、さらに、西部邁氏は言う・・、
  「負けると分かっている西南の役を、西郷隆盛は担が
 れて、士魂は何であるかを示すため、戦った」と。
  そして、「士魂は、自分が死んでも残るだろう」・・
 ・・と。
  そして、話は・・国を守る話に至る・・
  「自衛隊は我が国の平和と独立を守り国の安全のため
 ・・」という自衛隊法第三条に話は至る・・、
  自衛隊法
  (昭和二十九年六月九日法律第百六十五号)
  (自衛隊の任務)
  第三条:自衛隊は、我が国の平和と独立を守り、
   国の安全を保つため、
   直接侵略及び間接侵略に対し
  我が国を防衛することを主たる任務とし、
   必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。
  そして、西部氏は・・、
  「士魂」の持つ意味を考えて行くと、「自立と自尊、
 独立と自尊」が大事・大切なのだと言う。
  そして、日本に・・この点についての、「冷静な議論
 の土壌をつくらねば、日本がそのものが危うい」という
 論点を話す。
  そして、「デマゴーグ」ばかりで、本質論に至らない、
 その様な討論に終始してしまう日本を嘆く・・、
  そして、日本は・・、
  1940年代に至って、この士魂の行為をしている。
  (注)デマ:政治的な目的で、意図的に流す扇動的か
    つ虚偽の情報。
   デマゴーグ:このデマを用いる政治家。扇動政治家。
   デマゴギー:民衆扇動、⇒デマ。
1877年9月30日 前鹿児島県令・大山綱良、漸に処せられる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

(増補版)346E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年7月~1877年9月)

題:(増補版)346E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年7月~1877年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年7月14日、西南戦争の小林・高原方面において・・、
  6月19日、河野主一郎は、破竹隊を率いて別働第2旅団
 が守る飯野を
  6月21日まで、猛撃して奪取をはかったが、
  官軍は、善戦し、陥(おとしい)れることは出来なか
 った。
  逆に、横川から転進してきた第2旅団が、7月14日、小
 林から高原を攻撃し、高原を占領した。
1877年7月17日、高原奪還を目指す薩軍は・・、
  7月17日、堀与八郎を、全軍指揮長とし・・、
 雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9個中隊を正面・左右翼・
 霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、
  深夜に植松を発ち、
  正面・左右翼軍は、暁霧に乗じて、高原の官軍を奇襲
 し、
  あと一歩のところで奪還するところであったが、
  官軍の増援と、弾薬の不足により兵を引き揚げた。
1877年7月19日、力を振り絞る薩軍は・・、
  7月17日、辺見は、奇兵隊を率いてきた別府九郎と、本
 営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、
  荒磯野の官軍を攻撃するため、兵を本道・左右翼に分
 け、夜明けに高野を出発した。
  辺見らの諸隊は、官軍に対し善戦するが・・、
  河野が、本営に帰還するよう命じられたことによる右
 翼の指揮官の不在と、官軍の援軍の参戦、弾薬の不足に
 より、
  雷撃隊は、高野へ、
  奇兵隊は、庄内へと・・それぞれ退却した。
  7月19日には、都城の危急の知らせにより、高野の雷撃
 隊は庄内へ移動し、守りを固めた。
  また、辺見は、7月23日の岩川攻撃作戦のために、雷撃
 六番隊、干城七番を率いて・・岩川へ向かった。
1877年7月21日、都城への全面攻撃を始める前の、7月21日、
 山縣参軍・川村参軍・大山少将・三浦少将らは、軍議し
 て、各進撃部署を定めた。
1877年7月24日 官軍が、都城を陥る(西南戦争)
  この日、薩軍・村田指揮部隊が・・都城で大敗した。
  都城方面の戦いにおいて・・、別働第3旅団は、7月24
 日、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の薩軍を攻撃し、
 財部を占領した。
  薩軍が、都城に退却したため、別働第3旅団は、さらに
 これを追撃し・・、都城に侵入した。
  7月24日、要所である庄内方面・財部方面が、官軍に占
 領された結果、
  都城の各方面で・・薩軍は総崩れとなった。
  この日、官軍は、都城を完全に占領した。
  これ以降、薩軍は、官軍へ投降する将兵が相次ぐもの
 の・・、
  活路を宮崎へ見出していこうとした。
  しかし、この守備に適した都城という拠点を・・官軍
 に奪取された時点で・・、
  戦局の逆転は・・ほぼ絶望的となってしまった。
1877年7月26日、『東洋奇事新報』(弘義社)、納本を怠り
 発禁となる。
1877年7月27日、別働第3旅団が、飫肥を攻めて陥落させた。
 この時、多くの飫肥隊員、薩兵が投降した。
1877年7月30日 西郷隆盛が、官軍に圧せられ、日向の高鍋
 に退いた(同日、杉之本に戦闘あり)
1877年7月31日、この日、第3旅団・第4旅団・別働第3旅団
 は、大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って、宮崎市
 街へ攻め込んで行った。
  薩軍は、増水のため・・官軍による渡河はないと油断
 していたので、抵抗できず・・、
  薩軍が、宮崎から撤退したため、官軍は、宮崎市を占
 領した。
1877年8月1日、この日、海路より新撰旅団が宮崎に到着し
 た。
  この後、一ッ瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と
 共に高鍋に向かった。
  翌・8月2日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。
1877年8月3日、警察各署が、巡査へ暑気払い薬代として10
 銭ずつ下付した(ボーナスの初め)
1877年8月6日、西南戦争の別働第2旅団は、8月4日、鬼神野
 本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備してい
 た宮崎新募隊の背後を攻撃した。
  薩軍は渡川、鬼神野から退いて、
  8月6日、山蔭の守備を固めた。
  西郷隆盛は、この日、各隊長宛に教書を出し奮起を促
 した。
1877年8月7日、この日、奇兵隊三・六・十四番隊は、別働
 第2旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退した。
  官軍は、そのまま薩軍を追撃し、富高新町に突入した。
  薩軍はこれを抑えきれず。
1877年8月8日 高知県士族の林有造が、兵器購入の計画発覚
 して、東京で捕えられた。
1877年8月14日、 官軍は、8月12日、延岡攻撃のための攻撃
 機動を開始した。
  別働第2旅団が、8月14日に延岡に突入し、薩軍は、延
 岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第3・
 4旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。
  この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は、
 自ら陣頭に立ち、官軍と雌雄を決しようとした。
  この時の薩軍(約3,000~3,500名)は、和田峠を中心
 に左翼から配置していた。
  対する官軍(約50,000名)は、山縣参軍の指揮のもと、
 延岡から北嚮に攻撃主力を部署し、
  西部の可愛岳(えのたけ)山麓には第1旅団と第3旅団
 を配置し、
  また、熊田の北部には、熊本鎮台・別働第1旅団2個中
 隊を配備し、薩軍を包囲して、殲滅しようとした。
1877年8月15日、この日の早朝、西郷は、桐野・村田新八・
 池上・別府晋介ら諸将を従え、和田越頂上で督戦をした。
  一方、山縣参軍も樫山にて戦況を観望した。
  この様に、両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。
  当初、別働第2旅団は、堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に苦し
 んだ。
  これを好機と見た桐野が、決死精鋭の1隊を率いて馳せ
 下り攻撃したために、別働第2旅団は危機に陥った。
  しかし、第4旅団の左翼が進出して、別働第2旅団を
 救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。
  その後、両旅団と薩軍とは一進一退の激戦を続けた。
  やがて、官軍は、別隊を進め、薩軍の中腹を攻撃しよ
 うと熊本隊に迫った。
  熊本隊は、官軍を迎え撃ったが・・苦戦した。
  辺見と野村忍介が、援兵を送り熊本隊を支援したが、
 官軍は守備を突破した。
  激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る薩軍は、やがて長
 尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却
 した。
  この機に官軍は、総攻撃を仕掛けて薩軍の本拠を一挙
 に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進
 めた。
1877年8月16日、この日の前日の8月15日、和田越の決戦に
 敗れた西郷軍は、長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎
 宅に本営を置いた。
  8月16日に、西郷は、解軍の令を出した。
  「我軍の窮迫、此に至る。
  今日の策は、唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。
  此際、諸隊にして、降らんとするものは降り、死せん
 とするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。
  唯其の欲する所に任ぜよ」。
  これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ1,000名程が残
 った。
  一度は、決戦と決したが、再起を期すものもあり、選
 択に迫られた首脳は、8月17日午後4時、官軍の長井包囲
 網を脱するため、遂に、可愛岳突破を決意した。
  突破の隊編成として、
  前軍に・・河野主一郎・辺見、
  中軍に・・桐野・村田新八、
  後軍に・・中島・貴島をおき、
  池上・別府晋介は、約60名を率いて西郷を護衛した(
 「鎮西戦闘鄙言」では、村田・池上が、中軍の指揮をと
 り、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。
  この時の突囲軍は、精鋭300~500(『新編西南戦史』
 は約600名)であった。
  17日夜10時に、児玉熊四郎方を発して可愛岳に登り始
 め、
  翌18日早朝、可愛岳の頂上に到着した。
  ここから北側地区にいた官軍を見たところ、警備が手
 薄であったため、西郷軍は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃
 を開始した。
  不意を衝かれた官軍の第1・第2旅団は総崩れとなり、
 退却を余儀なくされた。
  このため西郷軍は、その地にあった官軍の食糧、弾薬
 3万発、砲一門を奪うことに成功した。
1877年8月17日、延岡にて薩摩軍が解散した。
  薩摩軍の将・佐々友房が、官軍に降る。
1877年8月18日 官軍が、日向を平定した。
  可愛岳を突破した西郷軍は、8月18日、鹿川分遺隊を粉
 砕し、三田井方面への進撃を決定した。
  その後、西郷軍は、8月19日には、祝子川の包囲第2線
 を破り、
  翌・8月20日に、鹿川村、中川村を落として、三田井へ
 と突き進んだ。
  8月21日、西郷軍は、三田井へ到着するが、
  ここで、桐野は、官軍による包囲が極めて厳重であり、
 地形が非常に険しいことから、薩軍の全軍が突破するこ
 とは困難であると考え、
  熊本城の奪取を提案するも、
  西郷はこれを却下し、
  8月22日深夜、西郷軍は、鹿児島へ向けて南進を開始し
 た。
  これに対し、西郷軍による可愛岳突破に衝撃を受けて
 いた官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、
  西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、
 かつ機動力に長ける西郷軍の前に・・失敗に終わった。
  これは、西郷軍の行動が、始めから一定の目的に従っ
 ていたわけではなく、
  その時々の官軍の弱点を突くものであり、鹿児島へ向
 けて出発したものの、最終的に鹿児島突入を決定したの
 は、米良に到着した後のことであったということも一因
 だった。
  8月24日、西郷軍は、七山・松ヶ平を抜け、神門に出た
 が、
  ここで、別働第2旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何と
 かこれを免れ、
  8月26日には、村所、
  8月28日には、須木を通過し、小林に入った。
  同日・8月28日、薩軍は、小林平地からの加治木進出を
 図るが、西郷軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上
 陸した第2旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。
  迂回を余儀なくされた西郷軍は、9月1日、官軍の守備
 隊を撃破して・・鹿児島に潜入した。
1877年8月18日、立志社の獄(高知ノ獄)発覚
  西南戦争の際に、西郷軍に呼応しようとして、立志社
 の社内が動揺をきたし,40余名が逮捕された(立志社の獄)。
  1877.8〜1877.11に片岡健吉が、西南戦争に際し、西郷
 軍に呼応した疑いで逮捕された(高知の獄)、
  立志社の獄(りっししゃのごく)は、1877年の西南戦
 争に乗じて、立志社の林有造や大江卓が、元老院議官・
 陸奥宗光らと共謀して、高知県にて挙兵を企てたとされ
 る事件で・・、
  1877年8月に、事件が発覚し、
  林をはじめとする首謀者や、片岡健吉ら高知在住の幹
 部が逮捕された。
  翌年・1878年8月に、大審院において有罪判決が下った。
  この事件については、立志社の指導者である板垣退助・
 後藤象二郎らは無関係で、
  片岡も、林ら過激な首謀者の巻き添えとなったとする
 見解が、『自由党史』以来の通説であるが、
  これに対して同書は、板垣監修の書であり、仮に板垣
 自身が関与したとしても、その事実を記載をするとは考
 えにくいとする史料批判や、
  林や大江の回想録が、板垣と協議した事実を記してい
 ること、
  後藤象二郎と陸奥宗光が、戦争中に板垣あるいは木戸
 孝允を司令官とした旧土佐藩士を中心とした西郷隆盛討
 伐の義勇軍を持ちかけて、一旦は、明治政府の方針とさ
 れたこと(4月15日に中止)から、
  これを、挙兵の大義名分作りのための計画とみなして
 板垣や後藤も挙兵計画に関与していたとする反論もある。
  いずれにしても、自由民権派による「第2の西南戦争」
 になる事を危惧した明治政府側は、
  板垣・後藤に対する責任追及を避けて、「一部過激派」
 の暴走と規定することで事態の収拾を図ったと言える。
  また、別史料には・・
  内務卿・大久保利通の行動も果断を極め、西郷を断固
 討つの決意を示し、
  即座に政府軍を派遣させる一方、板垣と立志社の動き
 を密偵・河野敏鎌によって探らせ、
  陸奥らの関与を察知した。
  2月15日、西郷軍は鹿児島を出発し、1週間後には熊本
 城を包囲したが、
  3月20日には、政府軍が田原坂で西郷軍を破り、形勢は
 逆転する。
  6月、林有造らは、2人の密使を鹿児島に送り込んで、
 桐野利秋と会見させたが、
  これが露見して、8月には叛乱の首謀者として林、片岡
 が捕まり、
  9月末には、西郷が自刃した。
  政府の立志社への弾圧はきびしく、
  翌年・1878年4月には、竹内綱、大江卓ら23人が、相次
 いで逮捕され、
  立志社の挙兵計画「高知の獄」は失敗に期し、
  林と大江は、10年という長期刑が下った。
  西南戦争から1年有余の1878年(明治11年)明治5月14
 日、大久保は、紀尾井坂で、石川県士族の島田一郎らに
 暗殺された。
  内務省の大久保の手文庫が開かれたが、
  中から河野敏鎌の秘密報告書が出てきた。
  その中に、陸奥が、元老院の暗号電報を利用して、大
 江や林と政府転覆の連絡をとっていたことが判明して、
  陸奥は、6月10日に捕まり、5年の刑に処せられた。
  「高知の獄」では、なぜ・・板垣や後藤象二郎は、逮
 捕を免れたのだろうか?
  これが最大の謎??
  板垣が、林に対して1万人の兵力と銃を準備すればとい
 う条件付き決起に賛成したことは事実。
  林、大江らを、政府側はきびしく追及したが、
  板垣との関与については固く否定し、
  陸奥も一切口を閉ざした。
1877年8月21日 第一回内国勧業博覧会、
  場所は、東京の上野公園で開催(日本最初の勧業博) 
  日本初の西洋式の噴水が作られる。
  第1回内国勧業博覧会の会場中央の美術館前の人工池
  そして、日本初の噴水が、9月8日に落成した。
  出品者:1万6000人、
  入場者:45万人。
  期間:8月21日~11月30日
1877年8月31日 西郷隆盛の軍が、大隈に奮闘す。
1877年8月、長崎と横浜にコレラが発生した。
1877年9月1日 西郷隆盛が、退いて鹿児島に入り、本営を城
 山に置いた。
  鹿児島の郷土の民が、これに応じ士気振う。
  9月1日、鹿児島入りすると、辺見は、私学校を守って
 いた200名の官軍を排除して、私学校を占領し、突囲軍の
 主力は、城山を中心に布陣した。
  このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、
 住民も協力していたことから、
  西郷軍は、鹿児島市街をほぼ制圧し、
  官軍は、米倉の本営を守るだけとなった。
  しかし、9月3日に、官軍は形勢を逆転した。
  城山周辺の薩軍前方部隊を痛撃し、駆逐した。
  反撃に出た西郷軍は、9月4日、貴島率いる決死隊が、
 米倉を急襲したが、
  急遽、米倉へ駆けつけた三好少将率いる第2旅団に阻ま
 れ、貴島以下決死隊が一掃された。
  こうして官軍は、9月6日、城山包囲態勢を完成させた。
  この時、薩軍は350余名(卒を含めると370余名)とな
 っていた。
  編制を小隊(各隊20~30名)に改めた。
  そして、諸隊を部署した。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年5月5日木曜日

(増補版)345E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年5月~1877年7月)

題:(増補版)345E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年5月~1877年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年5月26日、西南戦争、鹿児島方面の戦いにおいて、5
 月24日、別働第1旅団と別働第3旅団は、大挙攻勢に出て、
 涙橋付近で交戦する一方、
  軍艦に分乗した兵が、背後を衝き、薩軍へ大打撃を与
 え、敗走させた。
  逆襲した薩軍と、壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、
 暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に、弾薬乏しく
 なった薩軍は耐えきれず、吉野へ退却した。
  この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は、鹿児島方面
 で行なわれた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷
 者を出した。
  翌・5月25日、第4旅団は、下田街道を南下し、坂元・
 催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃
 し、吉野へと追撃して行った。
  5月26日には、同旅団が、鳥越道と桂山の二方から前進
 し、攻撃したところ、薩軍は、抵抗することなく川上方
 面へ退却した。
  そして、この日、木戸孝允(きどこういん、たかよし)
 が病没した(45歳)。
  長州生まれ、通称を桂小五郎といった・・、
  この人は、今、必死に戦いをしている西郷隆盛と、そ
 して、大久保利通らと、薩長連合の密約を結び、
  そして、協力して倒幕勢力の結集を計った人だった。
  この縁ある二人の戦争が、激戦が、今、行なわれてい
 る・・この様な時に没したのだった。
  木戸は、「五箇条の御誓文」の起草にも参加し・・、
  1873年に、岩倉使節団の一員としても参加し、帰国後、
 西郷隆盛の主張する征韓論に、岩倉・大久保らとともに
 反対した・・、
  そして、西郷を退けた、
  そして、下野をさせた・・人だった。
  しかし、この直後に成立した大久保の独裁政権に対し
 て、木戸は・・批判的立場を示した。
  そして、ついに、1874年、参議を辞任した・・
  が、しかし・・、
  翌年の1875年に、大阪会議において、大久保らの政府
 主流派に妥協する・・そして、再度、参議に復帰する。
  そして、1877年に、病気により・・没した。
  この木戸が没したこの頃の、西南の役での、西郷の地
 元の鹿児島での戦いがある。
  涙橋の戦いとして、その秘話が伝わっている。
  涙橋・・鹿児島市電の「涙橋電停」下車し、1分の所の
 川沿いに石塔が立つ。
  「涙橋決戦の碑」とある。
  涙橋は、旧谷山街道の新川に架かる小さな橋。
  旧薩摩藩時代に、吉野実方(さねかた)にあった処刑
 場を、この橋の先の堺迫門(さかいせと)、今の二軒茶
 屋の付近の谷間に移した。
  刑場へ向かう罪人と家族は、この橋で泣き、そして、
 涙でこの世の別れをした・・涙橋の由来である。
  このいわれの涙橋、西郷軍が、この故郷の地にたどり
 着いたときには、この故郷の地のほとんどは政府軍によ
 って占領されていたという・・
  ここの地で、西郷軍の枕崎出身の今給黎(いまきいれ)
 久清以下213名の兵士が、
  谷山方面へ向かうため、武之橋方面からと、脇田方面
 から迫る政府軍と戦い、
  旧式の兵器や弾薬の不足にもかかわらず奮戦し、
  戦いは6時間にもおよぶ激戦の末に・・多くの戦死者を
 出した。
  そして、平田新左衛門ら90名の戦死者を出し、大敗し、
 柴原方面へ退却して行った。
  碑の建立は、勇敢に戦い、そして、散った兵士らの供
 養の意味もあった。
1877年5月27日 矢筈嶽(やはずだけ)の激闘(西南戦争)
1877年5月28日、この日の明け方、官軍が、舞床の鵬翼隊
 三番中隊を襲った。
  また、この頃、桐野は、宮崎から鹿児島方面、および、
 豊後等の軍を統監していたが、
  ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、5月28日
 に、軍務所と改称した。
  別働第2旅団の侵攻で、危険が目前に迫った人吉では、
 村田新八らが相談して安全をはかるために、
  5月29日、池上に随行させて、狙撃隊等2,000名の護衛
 で、西郷隆盛を、宮崎の軍務所へ移動させた。
  5月31日に、西郷が軍務所に着くと、ここが新たな薩軍
 の本営となった。
  そして、軍票(西郷札)などが作られ、財政の建て直
 しがはかられた。
1877年5月29日、官軍は、この日に、再び、鵬翼隊三番中隊
 右半隊を攻撃した。
  薩軍は、塁を捨てて後退したが、
  鵬翼隊三番中隊左小隊が、よく奮戦し、この活躍によ
 り塁を取り返した。
  そして、銃器・弾薬を得た。
  この夜、三方堺の鵬翼隊二番中隊も襲われ、弾薬不足
 のため背進した。
1877年5月31日、薩摩軍が敗れて、ことごとく肥後人吉に退
 いた(西南戦争)
  5月30日の夜明け頃、官軍が、程角左翼の塁を攻撃し、
 薩軍は敗北した。
  官軍は、勢いに乗じて干城隊八番中隊・振武隊十六番
 小隊を攻めた。
  薩軍各隊は、大いに苦戦した。
  そして、次々と兵を原田村に引き揚げた。
  激しい攻防が続いた、
  勝敗は決まらず・・夜になった。
  翌日・5月31日、薩軍各隊は、原田村に兵を配置した。 
  しかし、翌日・6月1日は激戦だった・・、
1877年(明治10年)5月、秋山好古(あきやまよしふる)が、
 陸軍士官学校に入学した。
  新しい日本が生まれる・・生みの戦いが行われている
 この時・・、
  次の時代の・・日本の人材が・・日本に生まれようと
 していた。
  「坂の上の雲」のナレーションは・・、以下の様な事
 を言っている・・、
  この頃の日本・・・、
  まことに小さな国が、開花期を迎えようとしていた。
  小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなか
 ったであろう。
  産業といえば農業しかなく、
  人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族し
 かなかった。
  明治維新によって、日本人は初めて近代的な「国家」
 というものを持った。
  誰もが「国民」になった。
  不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史
 上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。
  この痛々しいばかりの昂揚が分らなければ、この段階
 の歴史は分からない。
  社会のどういう階層のどういう家の子でも、ある一定
 の資格を取るために、必要な記憶力と根気さえあれば、
 博士にも官吏にも軍人にも教師にもなりえた。
  この時代の明るさは、こういう楽天主義から来ている。
  今から思えば実に滑稽なことに、米と絹の他に主要産
 業のないこの国家の連中が、ヨーロッパ先進国と同じ海
 軍を持とうとした。
  陸軍も同様である。
  財政の成り立つはずがない。
  が、ともかくも近代国家をつくりあげげようというの
 は、もともと維新成立の大目的であったし、
  維新後の新国民達の少年のような希望であった。
  この物語は、その小さな国がヨーロッパにおける、最
 も古い大国の1つロシアと対決し、どのようの振る舞った
 かという物語である。
  主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということ
 になるかもしれない。
  ともかくも、我々は3人の人物のあとを追わねばならな
 い。
  四国は伊予松山に、三人の男がいた。
  この古い城下町に生まれた秋山真之(あきやまさねゆ
 き)は、日露戦争が起こるにあたって、勝利は不可能に
 近いといわれた
  バルチック艦隊を滅ぼすにいたる作戦を立て、それを
 実施した。
  その兄の秋山好古(あきやまよしふる)は、日本の騎
 兵を育成し、史上最強の騎兵といわれるコサック師団を
 破るという奇蹟を遂げた。
  若い日本、彼らは、明治という時代人の体質で、前を
 のみ見つめながら歩く。
  https://www.youtube.com/watch?v=j6Jwc4S3idI
  https://www.youtube.com/watch?v=sGPnbt-oeMo
1877年5月、永野万蔵(ながのまんぞう、カナダ移住が記録
 されている最初の日本人)が、横浜から英国船で、カナ
 ダのブリティッシュ・コロンビア州のニュー・ウエスト
 ミンスターに密入国した。
  永野万蔵は、長崎県の南高口之津村の生まれで、日本
 人として初めてカナダに移民した人だが・・、
  後に、フレザー川の河口で鮭漁をはじめ、州都ビクト
 リアでレストランやホテル経営し、
  また、その後に、日本向けの輸出塩ざけ製造会社を設
 立し大成功した。
  一躍、大富豪となって、「塩ざけキング」の異名をと
 った。
  1922年(大正11年)に至り、ビクトリア市のメインス
 トリートにあるJ・M・NAGANO&CO.のビルが火災となり、
  全財産を失い、2人の子供をカナダに残し、妻・多誉子
 とともに日本へ帰国した。
  そして、1924年(大正13年)5月21日に没した。
1877年6月1日、日本が、万国郵便連合(UPI)に加盟した。
  萬國郵便連合條約に加盟、調印し、日本の郵便制度が
 公式に国際化した。
1877年6月1日、西南戦争・・この日の早朝、諸道の官軍が、
 人吉に向かって進撃した。
  諸方面の薩軍は、すべてが敗れた。
  人吉や大畑に退却した。
1877年6月3日、官軍の二方面からの大関山への総攻撃が始
 まった。
  薩軍は、大口方面へ後退した。
1877年6月7日、久木野が陥落し、薩軍は、小河内方面に退
 却した。
1877年6月9日、立志社が、「國會開設建白」 請願した。
  立志社は、1874年(明治7年)、土佐において生まれた
 民間の結社であるが・・、
  1877年(明治10年)2月に、西南戦争が勃発すると、社
 内にはこれに同調して挙兵を企てる一派が生まれた。
  しかし、一方、植木枝盛・吉田正春・竹内綱ら武力蜂
 起に反対する一派は、天皇陛下への上申書として「立志
 社建白」を作成した。
  その内容は、内閣専制や兵制・税制・外交の失敗など
 を挙げて政府を批判し、
  そして、地租の軽減や徴兵制度の廃止などを求めると
 ともに、民撰議院の設立、および、立憲政体の確立を提
 案・要求するものであった。
  立志社社長の片岡健吉が、総代として、この建白書を
 京都行在所に提出したが、
  「不遜ノ件」を理由として数日後に却下された。
1877年6月12日、人吉方面撤退後の、6月12日、村田新八は、
 都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた薩軍諸
 隊を集め、都城へ進撃する官軍に対する防備を固めた。
1877年6月13日、山野が陥落した。
  官軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第2旅団は、飯
 野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の薩軍本隊に
 攻撃を加えた。
  結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。
1877年6月17日 参軍・山県有朋は、八代に諸将を集めて、
 都城進撃の軍議をした。
  熊本鎮台兵は、三国峠を占拠した。
1877年6月18日、官軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率い
 る辺見は砲弾の雨の中、必死に官軍をくい止めていた。
  だが、北東の人吉からの別働第2旅団の攻撃、北西の山
 野からの別働第3旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が
 別働第2旅団の手に落ちた。
  結果、両者の間の高熊山に籠もっていた熊本隊は完全
 に包囲された。
1877年6月19日 万国郵便条約が実施された。
1877年6月19日、大森貝塚の発見
  アメリカ人の動物学者・エドワード・S・モースが、横
 浜から新橋へ向かう途中、大森駅を過ぎてからすぐ。
  崖に貝殻が積み重なっている(露出)のを列車の窓か
 ら発見する(6月20日説あり)
  モースは、生物学を教えることになった東京大学の教
 え子たちと9月16日に至り、発掘調査を開始した。
  日本初の近代的な考古学的調査だった。
  あわただしく5日間で論文を執筆した。
  後に、科学雑誌「ネイチャー」の12/19号に、大森貝塚
 発見の記事を投稿した。
  モースによる発掘は、日本の考古学・人類学の幕開け
 となった。発掘報告書(1879年)
1877年6月20日、官軍は、この日、高熊山の熊本隊と雷撃隊
 が占領する大口に攻撃を加えた。
  この時の戦闘では塹壕に拠る抜刀白兵戦が繰り広げら
 れた。
  しかし、圧倒的な官軍の物量の前に、薩軍の急激な士
 気の低下があった。
1877年6月25日、この日、雷撃隊は、大口の南に布陣し、曽
 木、菱刈にて官軍と戦ったが、戦いは効を奏せず・・
  相良率いる行進隊と中島率いる振武隊と合流し、南へ
 と後退していった。
  ここに大口方面における約2か月もの戦いに幕は下りた。
1877年6月29日、大口南部の薩軍を退けた川路少将率いる別
 働第3旅団は、6月23日、宮之城に入り川内川の対岸およ
 び下流の薩軍を攻撃した。
  一斉突撃を受けた薩軍は、激戦の末、遂に鹿児島街道
 に向かって退却した。
  別働第3旅団の部隊は、翌・6月24日には、催馬楽に至
 り、次々に薩軍の堡塁を落として、夕方には、ことごと
 く鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。
  こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。
  退却した薩軍は、都城に集結していると予測した川村
 参軍は、6月29日、別働第1旅団を海上から垂水・高須へ、
 第4旅団を吉田・蒲生へ、別働第3旅団を岡原・比志島経
 由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。
  また、海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第4旅
 団の1個大隊を残した。
1877年6月30日、勝海舟、長男の小鹿、米国アナポリス海軍
 大学校卒業(氷川清話)
1877年6月30日、初の交通規則の制定、
  泥酔者の馬車運転を禁止 
1877年6月、電話機が輸入された。
  電話機2台が輸入し、使用した事例・・、
  輸入した電話機が、赤坂御所と青山御所の間に架設し
 た電話線で結ばれ、 明治天皇陛下、皇后陛下・皇太后の
 御三方で初通話をして戴いた。
  1889年(明治22年)に、東京~熱海間で商用実験が行
 われ、翌・1890年から加入者を募集し、東京~横浜間で
 電話交換業務が開始された。
1877年7月9日 外国渡船に国旗を掲げしむ。
  既に、1860年に、アメリカに行った咸臨丸に日章旗(
 日の丸)を掲げて航行し、日米修好通常条約の批准書交
 換のため、アメリカ合衆国へ派遣されているが、
  船舶法(せんぱくほう、明治32年3月8日法律第46号)
  「日本船舶ハ法令ノ定ムル所ニ従ヒ日本ノ国旗ヲ掲ケ
 且其名称、船籍港、番号、総トン数、喫水ノ尺度其他ノ
 事項ヲ標示スルコトヲ要ス」
  「日本船舶ハ法令ニ別段ノ定アル場合ヲ除ク外船舶国
 籍証書又ハ仮船舶国籍証書ヲ請受ケタル後ニ非サレハ日
 本ノ国旗ヲ掲ケ又ハ之ヲ航行セシムルコトヲ得ス」
  また、船舶法施行規則の、第五章 国旗及船舶ノ表示
  「第四十三条 船舶ハ左ノ場合ニ於テ国旗ヲ後部ニ掲
 クヘシ」
  また、因みに、
  戦後のアメリカ軍などのGHQの・・、占領軍最高司令=
 ダグラス・マッカーサー元帥が、
  新憲法の内容から「平和を求める国家」に最もふさわ
 しい国旗は、「日の丸」であると、一方的に定義した。
  そして、その平和を求める象徴として国旗「日の丸」
 を、新憲法の施行日に、三権の長である「国会」「首相
 官邸」「最高裁判所」に、
  今後、毎日、掲揚せよと吉田茂首相に命令した。
..
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2016年5月4日水曜日

(増補版)344E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年3月~1877年5月)

題:(増補版)344E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年3月~1877年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年3月21日、西南戦争において、田原坂の攻防戦で敗
 れた薩軍が、この日に、早くも有明海・吉次峠・植木・
 隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。
  こうすることによって、官軍の熊本への道を遮断でき、
 攻撃を遅らせられた。
  3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)
 は、この戦争の分水嶺になった激戦だった。
  激戦のこの戦場の地は・・現在でも・・、
  戦争から100年以上たった今でも、現地では、当時の銃
 弾が、田畑や斜面からしばしば発見される。
  薩軍では、副司令格であった一番大隊指揮長・篠原国
 幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。
  官軍も、3月20日の戦死者だけで495名にのぼった。
  田原坂の激戦は、官軍の小隊長30名のうち11名が命を
 落としたことからも、その激戦の凄さが知れる。
  こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は、田原
 坂の戦いで薩軍を圧倒し、
  着実に、熊本鎮台救援の第一歩を踏み出していった。
1877年3月21日、岩村通俊(いわむらみちとし、土佐高知藩
 士、佐賀の乱に際し大久保利通に随員し、乱を鎮圧した)
 を鹿児島県令に任命した。
  この後の西南戦争後、県令として処置に手腕を振るっ
 た。
1877年3月23日、官軍が、植木・木留を攻撃し、一進一退の
 陣地戦に突入した。
1877年3月24日、『団々珍聞(まるまるちんぶん、政治風刺
 雑誌)』が創刊した。
  戯画、戯文で藩閥政府を攻撃し、自由民権思想の鼓吹
 (こすい、元気づけ、励ますこと)に努めた。
  しばしば発売禁止や発行停止の弾圧を受けた。
  以後30年間「マルチン」の愛称で親しまれ、人気を得
 た。
1877年3月25日、植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移
 した。
  また、官軍の衝背軍が上陸した。
  3月24日、長崎を出発した別働第2旅団(山田少将)・
 別働第3旅団(川路少将)は、25日午後、八代に上陸した。
  この時、一旦各旅団の名称が改められたが、後29日に、
 再び改称された。
1877年3月26日、熊本城長囲において、長囲軍が減少した
 薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて、水責めを行うべ
 く、3月26日、石塘堰止を実行し、坪井川・井芹川の水
 を城の周囲に引き込んだ。
  これによって熊本城の東北、および、西部の田畑は、
 一大湖水に変じた。
  この策によって、薩軍は、城の東北及び西部に配する
 兵を数百名節約できたのだが、
  その一方、鎮台に対し城の西部を守る兵の削減を可能
 とさせ、結果的には鎮台側を益することになってしまっ
 た。
  また、小川方面の戦いでは・・、
  3月26日、黒田参軍は、別働第1旅団を左翼、別働第2旅
 団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと
 三方から小川方面の薩軍を攻撃し、激戦の末、薩軍を撃
 退し、小川を占領した。
1877年3月30日、官軍主力が、三ノ岳の熊本隊を攻撃した。
  また、松橋付近の戦いでは・・、
  3月30日、黒田参軍は、別働第3旅団に娑婆神嶺、別働
 第1旅団・別働第2旅団に松橋を攻撃させた。
1877年3月31日、明治天皇陛下が、大阪の陸軍病院に、西南
 の役の傷病兵を親問された。
1877年3月、西南の役が起きると、臨時海事事務局が神戸か
 ら長崎に移った。
  兵員、軍需品輸送のため、長崎輸送局が置かれた(後
 に、陸軍運輸局と海軍運輸局に分かれる)
  軍団病院や、海軍仮病院が、市内に置かれ、騒然とな
 った。
1877年3月、少年の投稿専門誌『頴才新誌(えんさいしんし)』
 が創刊した。
  最初、修身や立身出世を扱った教科書風の紋切型が多
 かったが、次第に、文学色を濃くしていった。
  尾崎紅葉や田山花袋らの明治の文学者の多くが本誌の
 愛読者であり、また、投稿者で、文学愛好の青少年に投
 稿を習慣づけて、明治文学の基盤づくりに寄与した。
1877年4月1日、半高山、吉次峠を占領した。
  また、宇土・堅志田・緑川の戦いでは・・、
  この日、別働第1旅団が、薩軍の夜襲隊を追撃して、
 宇土を占領した。
1877年4月2日、官軍が、木留をも占領し、薩軍は、辺田野
 に後退した。
  辺田野・木留の集落は炎上した。
1877年4月5日、官軍の本営にて軍議が開かれた。
1877年4月6日、熊本協同隊・宮崎八郎(みやざきはちろう、
 自由民権運動家)が戦死。
  西南の役が起きると協同隊を組織し、西郷に味方した。
  1875年(明治8年)2月の愛国者結成大会に参加した後、
 熊本で「民約論」を教科書として植木学校を創設し、県
 民会開設運動を展開した。
1877年4月8日、熊本城の包囲網が破れ、奥少佐の率いる第1
 大隊は、他の籠城している部隊の支援を受けつつ、この
 日の黎明、突撃を開始した。
  攻囲していた西郷軍は不意を突かれ、一時的に混乱し
 た。
  これなら突破できると思った奥少佐の頬に、火箸を当
 てられたような感覚が走った。
  左手で頬を抑えると被弾していて、そこから出血して
 いた。
  手で出血を迎えつつ、奥少佐は第1大隊の指揮を執り、
 西郷軍を突破していった。
  その勢いのまま、その日のうちに第1大隊は背面軍の
 陣地にたどり着き、宇土に達した。
  また、4月8日、辺田野方面は激戦となり、官軍は、萩
 迫の柿木台場を占領した。
  鎮台兵の出撃について・・、
  籠城が40日にもなり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台
 は、余力があるうちに、征討軍との連絡を開こうとして、
 南方の川尻方面に出撃することにした。
  隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、
 及び、予備隊の3つに分け、4月8日に出撃した。
  侵襲隊が、安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は
 前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て、宇土の衝
 背軍と連絡した。
  一方、侵襲隊は、薩軍の混乱に乗じて九品寺にある米
 720俵・小銃100挺などを奪って引き揚げた。
1877年4月12日、東京大學が創立された。
  東京開成学校と東京医学校を合併し、東京大学が設立。
  東京大学開校(東京開成学校と医学校が併合、東京帝
 国大学の前身)
  漱石ゆかりの地「東京帝国大学」  
  帝国大学発足(1886年)
1877年4月12日、官軍の黒田参軍は、衝背軍を部署した。
  そして、各方面への一斉進撃を企図し、
  4月12日、別働第3、第1旅団は一斉に攻撃を開始した。
  御船が、官軍に占領された。
1877年4月13日、黒田清隆率いる政府軍が、熊本城に入る。
 (4月14日説あり)
  衝背軍の熊本入城は、4月13日、別働第2旅団の山川浩
 中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て、機
 逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて
 熊本城を目指して突入し、遂に城下に達した。
  城中皆蘇生した思いで喜んだ。
1877年4月14日、小石川植物園を東京大学に附す。
1877年4月15日、薩軍は、4月12日に、最後の反撃をしたが、
  4月15日、植木・木留・熊本方面より撤退し、城南方
 面へ退いた。
  これを追って官軍は大進撃を開始した。
1877年4月16日、青年よ大志を抱け
  クラーク博士が、北海道月寒村島松(現=北広島市)
 の島松駅逓所で、札幌農学校1期生との別れの際に、「
 子供等よ、此老人の如く大望にあれ」(Boys, be
 ambitious like this old man.)と発したとされる。
  5月に離日。  来日は(1876年)
1877年4月17日、薩軍諸隊が、熊本城・植木から逐次撤退し
 てきた4月17日のこの日に、桐野らは、本営木山を中心に、
 右翼は、大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は、御船に亘
 る20km余りの新たな防衛線を築いた。
  そして、ここで南下する官軍を迎え撃ち、官軍を全滅
 させる作戦をとることにした。
1877年4月20日、別働第5旅団の主力が、4月20日、保田窪
 地区の薩軍を攻めた。
  午後3時には、猛烈な火力を集中して、薩軍の先陣を突
 破し、後陣に迫ったが、中島が指揮する薩軍の逆襲で左
 翼部隊が総崩れとなった。
  腹背に攻撃を受けた官軍は、漸く包囲を脱して後退し
 た。
  この結果、別働第5旅団と熊本鎮台の連絡は、夜になっ
 ても絶たれたままになった。
1877年4月21日、この日、薩軍は、矢部浜町の軍議で、村田
 新八・池上が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議
 に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩
 摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその
 根拠地とすることなどを決めた。
1877年4月22日 参軍・山県有朋が、各旅団長を木山に招き、
 謀議を凝らす。
  また、この日に、西郷隆盛が、人吉に退く。
1877年4月23日、山県有朋が、西郷隆盛に書面を送り、その
 立場に同情し、投降自決を勧告した。
1877年4月27日、参軍・川村純義らが、海路鹿児島に至り、
 兵を各地に配置した(西南戦争)。
  また、4月27日に、人吉盆地に入った薩軍は、本営を
 人吉に置いた。
  4月26日~30日、薩軍は、球磨盆地の人吉で、浜町(矢
 部)で決めた新戦略の元、再編した部隊で行動を始めた。
  球磨盆地の出口に部隊を配置して守りをかため、豊後・
 大口・鹿児島へ隊を送り政府軍を牽制し、
  その間に兵と物資を蓄え、機を見て打って出るという
 ものだった。
  人吉および球磨盆地一帯は、薩軍に協力する人吉隊を
 出していた事。
  また、幕末・相良藩時代の人吉大火(寅助火事)の際に
 は薩摩藩から多大な援助を受け、それを恩義に感じてい
 た領民が多かった事。
  さらに維新戦争では、薩摩藩配下で共に戦った仲でも
 あったので、薩軍(鹿児島士族)に好意的であった。
  しかし、薩軍が、球磨盆地へ来た頃は、すでに政府軍
 優勢は伝わっており、薩軍に協力はしても募兵に応じる
 者は少なかった。
  薩軍をさらに悩ませたのが兵の規律低下だった。
  歴戦の勇士は戦死し、生き残った薩兵は心身ともに疲
 れ切っており、軍を脱走する者が出始めていた。
  また、食糧の欠乏もあった。
1877年4月28日、この日に江代に着いた薩軍の桐野は、ここ
 に出張本営を置き、軍議を開いた。
  江代軍議で決められた事は、人吉に病院や弾薬製作所
 を設けること、各方面に諸隊を配置することなどで、逐
 次実行に移された。
  この時、桐野が、人吉を中心に南北に両翼を張る形で
 薩軍を配置した。
  4月27日、人吉まで退却した西郷らに続き、桐野は、江
 代まで退却し、再びここで軍議して諸方面の部署を定め、
 新たに編制した中隊を各地に派遣した。
  以後しばらく桐野は、人吉本営で指揮していたが、戦
 況が不利と見て、軍を立て直すべく宮崎に赴いた。
1877年4月、大阪に、小学校の夜学が開設された。
  京都は教育の進んだところで、明治維新前より私塾・
 寺子屋も多かった。
  京都市は、1869年(明治2年)に、柳池小学校(日本初)
 を筆頭に全国に先駆けて64校の小学校を創設した。
  明治4年に文部省が創設されたが、それ以前の小学校創
 設だった。
  明治4年に京都の教育状況を視察した福沢諭吉は、
  「民間の学校を建て人民に教育せんとするは、余輩の
 積年の志なりしに、
  今、京都に来たりて、その実際を見たる日、恰(あたか)
 も故郷に省りて知己に会うが如し。
  およそ世間の人この学校を見て感ぜられるは、報知の
 心無きと言うべきなり・・・」と言っている。
  その京都の南浜小学校(第2尋常小学校  字丹後)は、
 1876年(明治9年)4月、校内に夜学生を収容し教授・・と
 の記録がある。
  働く子供のための措置だったという。
1877年5月1日、博愛社(赤十字社の前身が創立された。
  元老院議官:佐野常民や大給恒らが、博愛社(日本赤十
 字社)を興した。
1877年5月1日~9日、4月の末の薩軍は、政府軍の動きが緩
 やかな事もあって、わずかな休息も取ることが出来た。
  しかし、5月に入ると、薩軍の休息もそう長くは続かな
 かった。
  城東会戦以後緩やかだった政府軍は、5月に入って一気
 に動き始め熊本・鹿児島(宮崎)・大分に展開した。
  人吉攻撃の中核・別道第2旅団(司令官:山田顕義少将)
 は、球磨盆地へ入る7街道から攻め込む作戦をとった。
  前衛隊が薩軍の守りが厚い球磨川道・佐敷道から攻め、
 薩軍・破竹・常山・鵬翼・正義の4隊と接触。
  球磨盆地へ入る街道はいずれも難所の連続で、大部隊
 が一気に通るには困難な地形である。
  薩軍は、各街道沿いの要所に部隊を置き政府軍を待ち
 かまえた。
  政府軍は各地で敗退。
  鵬翼隊は大口の雷撃隊と連携し、佐敷へ攻め込んだ。
  しかし、薩軍の攻勢もここまでだった。
  一度に大部隊は送れない状況下であっても、政府軍は、
 兵と物資を絶え間なく動員出来る力があるが、薩軍は消
 耗を補う事が出来なかった。
  また精鋭・有能な指揮官を田原坂以来の戦いで失い、か
 つてほどの勢いがなかった。
  政府軍第2旅団が八代・水俣へ増援に入る頃から、政
 府軍優勢が色濃くなって行った。
1877年5月8日、この日、辺見・河野主一郎・平野・淵辺は
 それぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4個隊を率い
 て神瀬箙瀬方面に向かった。
  官軍との戦闘は、翌日の5月9日に始まったが、
  5月15日には、破竹隊の赤塚源太郎以下1個中隊が官軍
 に下る(降伏)という事件が起きた。
  これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら
 6月頃まで続いた。
1877年5月9日、久木野・山野を手に入れた辺見は、5月9日、
 自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩
 境を越えて追撃した。
  5月11日、雷撃隊は、水俣の間近まで兵を進め、大関山
 から久木野に布陣した。
  人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺率いる
 鵬翼隊6個中隊(約600名)も佐敷を攻撃した。
  また、池辺率いる熊本隊(約1500名)も矢筈岳・鬼岳
 に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せた。
  5月12日、鵬翼隊は、佐敷で敗れたが、雷撃隊は圧倒的
 に優る官軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわ
 れるほどの奮戦をした。
  これを見た官軍は増援を決定し、第3旅団を佐敷へ、第
 2旅団を水俣へ派遣した
1877年5月14日、人好しの攻防戦において・・、
  4月30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田
 吉次は頭治などそれぞれ要地を守備したが、
  5月3日から7日までの宮藤の戦い、
  5月10日から14日までの平瀬の戦いで、
  官軍は、中村中佐の活躍によりこれらを敗走させるこ
 とに成功した。
1877年5月16日、大野方面は、この日、官軍が、一ノ瀬の鵬
 翼隊五番中隊を攻撃した。
  薩軍は苦戦したが、大野からきた干城隊三番中隊の参
 戦により官軍を退けることができた。
1877年5月18日 西南戦争による九州の人心鎮定のため、東
 京より巡査700名を派遣した。
1877年5月20日、別働第3旅団が久木野に進入した。
1877年5月23日 軍用に使用する軽気球が、東京築地の海軍
 省練兵所で揚げられる
1877年5月23日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の
 薩軍を次々と破り、大野に進入した。
..
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2016年5月3日火曜日

(増補版)343E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年2月~1877年3月)

題:(増補版)343E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年2月~1877年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年2月15日、西南戦争始まる(西郷隆盛が挙兵) 
  この日は、60年ぶりと言われる大雪だった。
  この大雪の中、薩軍の一番大隊が、鹿児島から熊本方
 面へ向け先発した。
  以後、順次、大隊が出発した。
  2月17日に、西郷隆盛らは、兵1万5,000人を率いて、政
 府尋問と称し熊本へ向かい、東上した。
  これを見送りに行った桂久武は、装備を心配したとい
 う。
  そのため、西郷への友情と責務から、急遽、従軍した
 という。
  熊本鎮台を目指して鹿児島を発った隊には、九州各地
 の不平士族も合流し、総勢は4万余となった。
  一方、政府軍は、有栖川宮を征討総督に任命し、
  陸軍は、山縣有朋中将、海軍は、川村純義中将に指揮
 を執らせた。
  政府の兵員、弾薬、食糧の円滑な輸送のため、助成を
 受けている三菱に対して、社船の徴用が命じられた。
  三菱は、定期航路の運航を休止し、社船38隻を軍事輸
 送に注ぎ込んだ。
  そして、この後・・、
  西郷軍は、熊本鎮台を攻めあぐみ、
  田原坂で壮絶な戦いを展開し、
  ついに、敗走する事になって行く、
  そして、宮崎県の各地を転戦する。
  明治天皇陛下は、京都に赴かれ、戦況の報告を受けら
 れたりし、
  天皇陛下が、東京に戻られるのは、7月末に至る。
  その頃になってやっと、政府軍の勝利が見えて来た。
  陛下は、神戸から、三菱社船の広島丸で東京に戻られ
 た。
  西郷隆盛は、鹿児島の城山で、9月24日、自刀する事に
 なる。
1877年2月15日 偕行社(陸軍将校組織)が創立された。
1877年2月18日 西南戦争で、西郷軍に備えて熊本城外の民
 家が焼かれた。
  そして、何故か?この次の日、熊本城からも火が発す
 る。
1877年2月19日、西郷軍の出兵の報を受けた政府は、この日、
 鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を
 決定した。
  そしてまた、この日、西南戦争に関する流言・噂話の
 新聞掲載を禁止した。
  この勃発した西南戦争の戦費を、政府は、紙幣の増発
 でまかなった。
  そのため、膨大な紙幣が流通するようになった。
  紙幣の価値下落が起きた。
  明治政府の発行紙幣に対する信用が、大きく揺らいだ。
1877年2月19日、不審火発生
  熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、
  烈風の中、櫓に延焼し、天守までも焼失した。
  この火災の原因は今もって不明(ただし、官軍による
 自焼説が有力)である。
1877年2月19日、文部省布達により、長崎英語学校が廃止と
 なった。
  また、同時廃止は、「東京女学校」、「愛知、広島、
 新潟の各師範学校」、「愛知、広島、新潟、宮城の各
 英語学校」。
  幕末から維新にかけての外国語熱が峠を越した。
  英語熱は衰微して行った。
  そして、この後も、多くの外国語学校が減少傾向を示
 した。
  長崎県令・北島は、県が英語学校の土地、建物と書籍、
 器具頭を文部省より譲受けることで存続を図ろうとした。
  1878年(明治11年)3月3日、文部省より長崎県に移管
 され、長崎英語学校は県の所轄として存続した。
  3月22日、長崎県立長崎中学校と改称し、中学校として
 再出発した。
1877年2月20日、この日、薩軍諸隊が、熊本県川尻に到着し
 始めた。
  まもなく、熊本鎮台から派遣された偵察隊が、薩軍の
 隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。
  熊本鎮台からの攻撃を予想していなかった薩軍は、
 相次いで大隊が川尻に到着した21日夜、川尻で軍議を開
 いた。
  軍議では、「熊本に抑えを置き、主力東上の策」と、
 「全軍による熊本城強襲策」が対立したが、
  強襲策が採用された。
1877年2月21日、この日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍
 の大隊は順次熊本に到着し、熊本城を包囲し強襲した。
  この時の戦力比は、薩軍約14,000人に対して、鎮台軍
 が約4,000人であった。
1877年2月22日 「東京日日新聞」の社長・福地源一郎が、
 軍団御用係の名目で、西南戦争従軍のため出発した。
  福地源一郎・犬養毅が、西南戦争の報道で話題となる。
1877年2月22日、熊本城攻防戦
  西郷軍が、熊本城を包囲し強襲。
  この日、乃木希典少佐が、連隊旗を奪われた。
  夕刻、薩軍の伊東隊の岩切正九郎が、官軍の歩兵第14
 連隊(乃木希典少佐)の軍旗を分捕った。
  一方、総攻撃された熊本城は堅城だった。
  この日の状況から、簡単には攻め落とせないとみなさ
 れた。
  深夜に開かれた再軍議で、熊本城を強襲する一方、一
 部は「小倉を電撃すべし」と決した。
  翌・2月23日に、池上が、村田・深見らの小隊を率いて
 小倉へ向けて出発した。
  しかし、途中で激戦の銃声を聞いて池上は、田原へ転
 進した。
  小倉へは、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。
  熊本城を攻める薩軍は、大砲が少なく、また、装備の
 劣った小銃だった。
  一方、堅城の熊本城に籠もる政府軍は、優勢な大砲と
 小銃で、また、豊富な弾薬を有していた。
  この様な鎮台を攻めることは、無謀この上もない作戦
 だった。
  この戦いの結果、薩軍は、剽悍(ひょうかん、すばや
 く強い)な士の多くを、この攻城戦で消耗してしまった。
  2月24日以降は、膠着状態の対峙状態となった。
  この様な中で、これ以後、官軍が続々と到着するだろ
 うことが予想された。
  そして、予想通り官軍が到着すると共に、戦線は拡大
 した。
  2月20日~27日には、熊本方面へ、
  3月1日~31日には、田原・吉次方面へ、
  3月10日~4月15日には、鳥巣方面へ、
  3月4日~4月15日には、植木・木留方面で激しい戦闘が
 行われた。
  この様な戦闘の中に、薩軍に加担した九州諸県の各隊
 が多くあった。
  熊本隊:1500名、協同隊:500名、滝口隊:200名、
  飫肥隊:800名、佐土原隊:400名、人吉隊:150名、
  都城隊:250名、報国隊:120名、高鍋隊:1,120名、
  中津隊:150名、延岡隊:1,000名・・などだった。
1877年2月23日 東京・名古屋・大阪三鎮台に令して、第二
 後備軍を召集した。
1877年2月25日、参軍・山県有朋、陸軍少将・三浦梧桜らが、
 博多に本営を設置した。
1877年2月25日、西郷隆盛、桐野利秋、篠原国幹らの官位を
 剥奪した。
  そして、その謀反を正式に布告した。
1877年2月26日、稲荷山確保を巡る戦いが行われた。
  ここを巡る争奪戦が、西南戦争の最初の天王山と言わ
 れている。
  あまりにもの激戦で、弾薬不足も出る部隊もあった。
  敵前渡河の強行策も行われたりした。
  官軍も、あまりにもの疲労で追撃できずという状況が
 起きた。
  この戦いでも、薩軍の有力諸将が戦死した。
  この様な激戦の中、伍長・谷村計介は、高瀬の官軍へ
 の使者として、命を賭して、熊本城を脱出した。
1877年2月27日、薩摩軍が大挙して肥後の高瀬において、官
 軍と戦う(熊本城兵は利非ず)
  連絡を取り合って、官軍を挟撃しようとするが、突然、
 の遭遇戦が展開するという事もあった。
1877年2月28日、伍長・谷村計介は、薩軍に捕われるも脱出
 し、漸く高瀬の官軍に辿り着く(薩軍と疑われ、船隈に
 連行)
  この日、熊本県阿蘇谷で農民3000人が暴動を起こす。
1877年3月1日~3月31日、現在の熊本県熊本市北区植木町大
 字豊岡で『田原坂・吉次峠の激戦』が繰り広げられた。
  春先で冷え込みが酷く、雨も降るという厳しい状況の
 中で戦いは始まった。
1877年3月2日、谷村計介が、船隈の営にて野津鎮雄少将に
 危急を報告し、密使の大役を果たした。
1877年3月3日、官軍が、薩軍と田原坂で激戦。
1877年3月4日、この日、吉次峠で、西郷軍の篠原国幹が戦
 死する・・が、政府軍を撃退した。
1877年3月6日、四国と本州を通じる海底電信、讃岐~備前
 間が開通した。
1877年3月11日、官軍は、田原坂防衛線突破のため、この日、
 軍を主力と別働隊に分けた。
  主力は、田原坂・吉次峠の突破のために、
  別働隊は、山鹿の桐野部隊の動きを封じ込むためにお
 かれた。
  しかし、主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい
 銃撃と抜刀白兵戦に手も足も出ず、
  田原坂の正面突破を諦めて、西側から攻めて横平山(
 那智山)を奪うことにした。
  薩軍の抜刀攻撃に対抗するため、官軍は士族出身の兵
 卒を当てたが、討ち破られた。
1877年3月11日、孫右衛門が、横浜元町で輸入自転車の貸自
 転車業をはじめた。
  孫右衛門は、1台が銀16枚する自転車を16台購入した。
  1時間25銭という高い賃料にもかかわらず、在庫の自
 転車が不足するほど繁盛した。
  輸入自転車に加えて、地元の鍛冶や車大工につくらせ
 た国産の自転車も使用した。
  1883年(明治16年)に大火によって自転車を全て焼失、
 廃業となった。
1877年3月13日~14日、抜刀隊を交えた激しい斬り合い。
1877年3月15日、官軍は、この日、薩軍の守備を破り、つい
 に横平山(那智山)を占領した。
  この日に初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入るこ
 とに成功した。
  3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000
 名にのぼる。
1877年3月15日、諏訪公園にて、東京、横浜に次いで九州
 初の第3回内国勧業博覧会を開催。
  出店地域は長崎県、佐賀県。
  出品点数は、1360点。
  会期100日の予定が、西南戦争のため06/22で中止した。
  第1会場・公園入口の建物(のち長崎商品陳列所)。
  第2会場・公園丸馬場テント張り
1877年3月17日、西郷軍に加担した鹿児島県令・大山綱良の
 官位を奪った。
1877年3月18日、佐川官兵衛(さがわかんべえ、会津藩士、
 豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長) 戦死(47歳)
  この日、官軍主力隊本営で、幕僚会議が開かれた。
  この会議での結論は・・、
  これまでの戦いの中で、官軍は多大な兵力を注ぎなが
 らも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてき
 たが・・、
  この原因として挙げられるのは・・、
  薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生か
 して田原坂の防衛線を築いている・・と見て・・、
  この現状を打破するため・・いち早く堅い田原坂の防
 衛線を突破する必要がある・・だった。
  20日の早朝を総攻撃の決行と決めた。
1877年3月20日、田原坂の大激戦
  政府軍が、激戦の末、田原坂を占領するに至る。
  この日の早朝、官軍は、開戦以来、最大の兵力を投入
 した。
  攻撃主力隊は、豪雨と霧に紛れながら、二股から谷を
 越え、田原坂付近に接近した。
  そして、雨の中、二股の横平山の砲兵陣地から、田原
 坂一帯に未だかつてない大砲撃を開始した。
  砲撃が止むと同時に、薩軍の出張本営七本のみに攻撃
 目標を絞り、一斉に突撃した。
  薩軍は、官軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため
 応戦が遅れた。
  七本では、状況が把握できないまま攻撃を受けざるを
 得なかった。
  薩軍は、防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のた
 め徐々に応戦できなくなった。
  そして、ついに、植木方面へ敗走した。
  官軍の攻撃を成功に導いたのは、別働の吉次峠部隊の
 活躍が大きかった。
  吉次峠部隊は、薩軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。
  これによって官軍主力は、「田原坂突破」一本に的を
 絞ることが出来た。
  しかし、吉次峠部隊の被害は甚大であった。
  駒井大尉をはじめ、この攻撃で多くの命が失われた。
  官軍・薩軍の田原坂での攻防は・・17日間続いた。
  植木方面の敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破
 られた。
  その後、官軍は、田原坂を下って植木方面までの侵攻
 を試みたが、途中で薩軍の攻撃にあって中止となった。
  田原坂の戦いで・・薩軍は敗勢へ傾いていく。
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2016年5月1日日曜日

(増補版)342E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年2月)

題:(増補版)342E1/3:気になった事柄を集めた年表(1877年1月~1877年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1877年、その他:
・大阪でセルロイド製のサンゴ玉ができる。
  根付という、印籠 (いんろう) ・巾着 (きんちゃく) ・
 タバコ入れなどを腰に下げるとき、帯にはさむひもの先
 端につけて、すべりどめとした、小形の細工物を、日本
 人は好んだ。
  材料は、木・象牙・角・金属などで、人物・動物・器
 物などを彫刻した。
  1700年頃の元禄年間から使われだした。
  象牙が高価であった。
  しかし、象牙は高価なものである上に、象三頭に二人
 と言われるほど、多くの犠牲者を出した。
  そのために象牙の代替品が必要となりセルロイドが発
 明された。
  このセルロイドが、珊瑚や鼈甲などの代用品としても
 使わた。
  日本に最初に輸入されたセルロイドが赤色であったこ
 ともあり、模造珊瑚玉に加工された。
  因みに、セルロイドは、ニトロセルロースとショウノ
 ウ(カンファー)から生成された、史上初のプラスチッ
 ク素材だった。
  1860~70年代に開発され、成形加工が容易で玩具・日
 用品などに多用されたが、可燃性であるため、最近は使
 われていない。
・浅草文庫を、上野の東京府図書館に移管した。
  1872年:書籍館(じょはくかん)が開館、
  →1874年:浅草文庫と改称
  →1875年:東京書籍館となる
  →1878年:東京府書籍館と改称
  →1880年:東京図書館と改称
  →1897年:帝国図書館となる
  →国立国会図書館
1877年1月1日、タバコ課税の実施
  茶・煙草などの物品税収入が200万円以上になったら、
 税金を地価の100分の1に下げるとした。
1877年1月4日、地租軽減之詔書
  減租の詔(氷川清話)
  地租の2.5%への軽減が認可された。
  「朕惟フニ維新日浅ク中外多事国用実ニ貲ラレス而シ
 テ兆民猶ホ疾苦ノ中ニ在リテ未タ富庶ノ沢ヲ被ラサルヲ
 愍レミ曩ニ旧税法ヲ改正シテ地価百分ノ三トナシ偏重無
 カラシメントス今又親ク稼穡ノ艱難ヲ察シ深ク休養ノ道
 ヲ念フ更ニ税額ヲ減シテ地価百分ノ二分五厘ト為サン有
 司宜ク痛ク歳出費用ヲ節減シ以テ朕カ意ヲ賛クヘシ」
1877年1月11日、神祇を統括する教部省と東京警視庁を廃止
 した。
  警視庁発足時から、各地で士族反乱が発生し、地方の
 警察力では対処できなかった。
  政府は、全国の警察を一元化するため、1877年(明治
 10年)1月11日に警視庁を廃止し、
  内務省直轄の東京警視本署へと改編した(庁舎はその
 まま使用された)
  川路利良(かわじとしよし)大警視は、内務省に対し
 兵器の貯蔵を上申し、
  東京警視本署は、陸軍省から7000挺の小銃を借用して、
 陸軍士官の派遣を受け、軍事訓練を行った。
  1877年(明治10年)、最大の士族反乱となった西南戦
 争に、警視隊(9500名)を編成して従軍し、陸軍を支援
 している。
1877年1月26日 歴史館設立(総裁は伊知地正治)
1877年1月、工部省鉄道寮にかわって鉄道局設置(改称)
1877年1月29日、鹿児嶋縣・私學校の生徒数100人が、銃器製
 造所、陸軍火薬庫を襲撃した(1月30日説あり)
  鹿児島の私学校生、草牟田の火薬庫を襲う(西南戦争
 の火種となる) 
  この私学校は、西郷隆盛が設立した私学校だった。
1877年2月3日 西郷隆盛が、私学党を率いて遂に官軍対抗の
 意を決した。
  そして、結局、西郷隆盛も、2月15日に、兵を率いて鹿
 児島を出発することになる、そして、2月22日に、熊本城
 を包囲し、政府軍と激しく戦ったが、3月20日に田原(た
 ばる)坂で敗退し、9月24日に、鹿児島に帰った西郷軍は、
 政府軍の総攻撃を受け、西郷隆盛は自刃する。
1877年2月5日、 東海道線の京都~大阪~神戸の鉄道が正式
 開業した。
  京都・大阪・神戸間の鉄道開通式(京都駅落成、明治
 天皇陛下を迎えて開業式を行なった) 
  2月6日、営業運転を開始した。
  神戸~大阪間が、1日11往復で、所要時間は1時間8分、
  大阪~京都間が、10往復で1時間43分。  
  仮開業(1874年)
1877年2月10日、有史閣(のちの有斐閣)創業、
  古書店から法律専門書出版社に発展
1877年2月10日、紙鳶あげ・羽根つき・独楽遊び、交通妨害
 になると禁止された。
1877年2月10日 西郷隆盛の私学党の乱に対して、近衛、及
 び、東京・大阪両鎮台に出動命令が下った。
  西南戦争が起きる原因として・・、
  明治六年の政変で下野した西郷は・・、
  1874年(明治7年)、鹿児島県全域に、私学校とその分
 校を創設した。
  その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率
 することと、県内の若者を教育することであった。
  外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊
 学させる等、
  積極的に西欧文化を取り入れたりした。
  西郷の目的は、外征を行うための強固な軍隊を創造す
 ることだった。
  やがて、この私学校は、その与党も含め、鹿児島県令・
 大山綱良の協力のもとで、県政の大部分を握る大勢力へ
 と成長した。
  明治政府の廃刀令や金禄公債証書発行条令など旧武士
 の特権を奪う行為を不満として「神風連の乱」「秋月の
 乱」「萩の乱」が起きた。
  この時も、西郷は、若殿輩(わかとのばら)が逸(は
 や)らないように、この鰻温泉を動かないという気持ち
 にあった(若い者たちが激昂しないようにとの態度)。
  西郷は、乱など起こす気は毛頭ないという気持ち・態
 度だった。
  しかし、政府内の長州派にとって、鹿児島の動きは気
 になる動きだった。
  この様な時に、鹿児島側、及び、政府側のそれぞれの
 内部に・・蠢(うごめ)く動きがある・・この様な時に、
  1877年1月に、警視庁大警視川路利良が、中原尚雄以下
 24名の警察官を「帰郷」という名目で、鹿児島に派遣す
 るという行為をした。
  まったく、いかがわしい、また、不穏な動きを・・し
 た。
  目的を明らかにして動いたのとは違い、慮(おもんば
 か)る不穏さと、疑念などが、事を大きくして行った。
  大量帰郷ということ・・はかりごとを含んだ様な・・
 丸出しの動きを・・あからさまに、政府側はした。
  この様な不穏な時、1月29日に至り、政府は、秘密裏行
 動を・・重ねて・・またした。
  政府は、鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器
 弾薬を大阪へ移すために、隠密裏に、赤龍丸を鹿児島へ
 派遣した・・
  そして、その搬出を行った。
  これは、当時、陸軍が主力装備としていたスナイドル
 銃の弾薬製造設備を、大阪への搬出しようという行為だ
 った。
  スナイドル銃は、陸軍の主力装備で、
  その弾薬は、薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身
 である鹿児島属廠で製造されていた。
  しかも、ほぼ独占的に製造し、供給していた。
  外国技術を導入した鹿児島藩の技術は進んでいた。
  スナイドル弾薬の製造が、唯一、国産化に成功してい
 た。
  また逆に、この様な進んだ技術を、一地方の鹿児島が
 持っていることが、中央政府として気になっていた。
  それ故に、この技術の秘密裏の持ち出しは、非常に繊
 細な重大な問題だった。
  この様な事から、私学校徒は、武器という重要なジャ
 ンルの、鹿児島の独自技術の、中央政府の無断持ち出し・
 泥棒的行為に怒った。
  同時に、武器弾薬も持ち出されるため、1月29日の夜、
 行動を起こしたのだった。
  草牟田火薬庫を襲った、そして、武器類を奪取した。
  この段階では、私学校徒たちも、まだ大きな乱へ発展
 の予感も意図もなかった。
  また、西郷や、薩摩士族たちは、戊辰戦争において、
 このスナイドル銃の優秀さを、良く実体験で知っていた。
  1月30日になって、私学校幹部らは会合し、警視庁帰藩
 組を、ひそかに調査・内定した。
  その結果、この帰郷が、「西郷の暗殺をも目的として
 いる」ということを掴んだ。
  ここが、事が起こる分岐点だった。
  この様な一連の事が西郷の耳にも達した。
  私学校徒の行動に、西郷は「ちょしもたー(しまった)」
 と言ったという。
  西郷には不本意な事の成り行きだった。
  西郷は、暗殺計画の話で沸騰する私学校徒らに対処す
 るため鹿児島に戻った。
  また、この西郷を迎えに、また守るために各地から、
 私学徒らが馳せ参じ、集まった。
  相当の人数に達した。
  2月3日、私学校徒らの私学校党は、帰郷した警察官ら
 60余名を一斉に捕縛した。
  そして、取り調べが・・行われた。
  その自白書には、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよ
 う指示したということが記された。
  2月4日夜、小根占村(こねじめむら)から帰った西郷
 は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。
  翌日の2月5日、私学校幹部、及び、分校長ら200余名が
 集合して大評議がおこなわれた。
  今後の方針が話し合われた。
  「武装蜂起すべし」という意見、
  「上京して、政府を詰問すべし」という意見、
  「暗殺を企てる政府が上京途中に危難を加える虞があ
 る」という意見、
  「京都に行幸されて居られる天皇陛下に上奏する」と
 いう意見・・などなど・・種々の意見が出て、紛糾した。
  この様な紛糾の熱気の中・・、
  西郷を除く座長格だった篠原が・・、
  一同の意見を黙らせた、そして、「旗鼓堂々(きこど
 うどう)総出兵の外に採るべき途なし」と・・言った。
  これで、意見の大勢は・・決した。
  全軍出兵論が・・多数の賛成意見となった。
  少数となった出兵反対論は・・抑え込まれた。
  2月6日になると、私学校本校で、従軍者名簿の登録が
 始められた。
  同時に、この日に、西郷を中心に作戦会議が開かれた。
  「神戸・大阪・横浜・東京の急襲の策」
  「三道分進策」
  「陸路東上策」
  「熊本城・一部の抑えをおく策」
  「汽船しかなく、軍艦を持たないこと」などが話し合
 われたりした。
  2月8日、部隊の編成が・・開始された。
  2月9日、西郷の縁戚・川村純義海軍中将が軍艦に乗っ
 て西郷に面会に来たが、会うことができず。
  また、この日、県庁に自首してきた野村綱(文部官僚)
 が、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」
 という内容を自供し、
  また、西郷暗殺計画には、大久保利通も関与していた
 と考えられるに至った。
  2月12日、各担当が、軍需品の収集調達、募兵など一応
 の準備を整えた。
  2月13日、大隊編成がなされた、
  そして、発表された。
  薩軍総指揮官:西郷隆盛
  参謀格兼本営附護衛隊長:淵辺高照、
  副官:仁礼景通、
  一番大隊、大隊長:篠原国幹
   一番小隊~九番小隊 半隊長・・略
  二番大隊、大隊長:村田新八
   一番小隊~九番小隊 半隊長・・略
  以下、三番大隊、四番大隊、五番大隊、六番大隊、七
 番大隊、連合大隊、一番砲隊、二番砲隊、大小荷駄隊
  計約2000名、連合大隊合計約1600名、
  淵辺は、狙撃隊を率いて西郷を護衛する。
  2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷によ
 って、一番~五番大隊の閲兵式が行われた。
  因みに、
  政府が持ち出したスナイドル弾薬製造設備は・・、
  2月13日に、大阪砲兵工廠に設置されたが、鹿児島から
 搬出した際に、部品の不備や破損が生じ、
  結局、稼働できず、
  稼働させるには修理と部品の追加購入が必要となった。
  その後、それでも、政府は、兵の装備をスナイドル銃
 に統一して派兵している。
  そして、兵の動員規模が拡がるにつれて、
  早くも3月には、スナイドル弾薬500万発の装備を使い
 果たした。
  弾薬が欠乏した。
  この様な、激戦が続いた。
  そして、さらに、1800万発の調達が必要と見積もられ
 た。
  その為、政府軍は、旧装備のツンナール銃の装備で派
 遣される状態だった。
  戦いはそれだけ熾烈だった。
  政府は、清国から弾薬を借り受けたりもして、弾薬調
 達に東奔西走した。
  この様な、西南戦争の引き金が引かれようとしていた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive