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2015年5月16日土曜日

(増補版)101C3/3:気になった事柄を集めた年表(1603年~1605年)

題:(増補版)101C3/3:気になった事柄を集めた年表(1603年~1605年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1603年、江戸の建設
  江戸は、家康の覇権確立によって、徳川氏の城下町か
 ら幕府の所在する政権の中心地に発展した。
  これと同時に、諸大名の証人(人質)差出が多くなり、
 大名屋敷が儲けられるようになった。
  こうなると、大規模な城郭と、江戸町の建設が必要と
 なり、
  家康は、将軍宣下の直後から、諸大名を動員して、そ
 の工事に取り掛かった。
  まず、1603年には、諸大名を動員して、神田山(駿河
 台・お茶の水丘陵)を掘り崩し、
  その土で外島(豊島)の洲崎を埋め立て、市街地を拡
 張した。
  今の日本橋浜町から南の新橋辺りに至る下町は、こう
 して作られた。
  日本橋が掛けられたのもこの時で、商工業の中心にな
 って行く。
  こうして、市街地を拡張しておいて、翌1604年には、
 江戸城普請の計画を発表し、
  西国の外様大名を中心に、石船調達の課役を命じて、
 石材を伊豆から運ばせた。
1603年、豊臣家の処遇
  関ケ原から2年半の時が経て、家康が征夷大将軍になり、
 江戸に幕府が開かれた。
  ここに明らかなる主従の逆転が生じて、その状況が画
 定的になった。
  秀頼は、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(い
 ずみ)となり、合わせて65万7000石の一大名となった。
  家康は、豊臣家に配慮して、また、秀吉の遺言でもあ
 った孫娘の千姫を秀頼の正室として大阪城に嫁入りさせ
 た。
  ここに淀殿の、思い入れが生じた。
  「家康は、きっと、秀頼が成人すれば、将軍職を返上
 して、天下の支配権を秀頼に渡すだろう」・・と。
  その思いは、秀忠の長女の千姫が豊臣秀頼に嫁したの
 だからという思いから生まれていた。
1603年、この頃、出雲阿国が、歌舞伎を創始した。
1603年、オランダが、東インド会社を設立した。
1603年、イギリスのエリザベス1世が没した。
1604年、江戸城の普請計画が発表された。
1604年、社会資本整備・諸街道を改修した。
  東海道・中山道・奥羽道・北陸道・東山道の諸街道を
 修理した。
  この五街道を中心に、各所の諸街道を改修し、一里塚
 を置いて交通制度を整えた。
  交通政策としては、馬の駄賃制度を決めた(1里16
 文に定まる)。
1604年、社会資本整備・備前堀。
 利根川から取水する備前堀が開削される。
1604年、利根川から取水する天狗岩堰、越中堀、上野堀が、
  総社藩主・秋元長朝によって行われた。
  総社藩(そうじゃはん)は、上野(現在の群馬県前橋
 市元総社町)に存在した藩。
1604年、長崎に、訳官が置かれた。
1604年、貿易・糸割符の法
  糸割符の法を定めて、輸入生糸について糸割符制を実
 施した。
1604年、貿易・朱印状
  江戸幕府の内外の貿易船について、朱印状が無ければ
 行えないようにした。
1604年、朝鮮使節が入京した。
1604年、徳川秀忠の長男の家光が生まれた。
1604年、フランスの東インド会社が設立された。
  本来は、香料貿易なのであるが、収奪の植民地経営と
 なって行く。
1604年、ガリレオ(イタリア)が、落体の法則を発見した。
1604年、魔女狩りの強化令が、この年に、出された。
  キリスト教会の要望によりジェームズ1世は法律を作っ
 た。
  この頃、清教徒の支配下でピークに達した。
  キリスト教の支配権は強く、あらゆる階級を締め付け
 た。
1605年2月、家康が、大軍を率いて入京した。
  家康は、将軍となった2年後のこの時に、譜代・外様の
 諸大名、及び、旗本からなる十万余の軍勢をひき連れて
 入京し、京都市民を前代未聞と驚かせた。
  これは、実は、将軍職を秀忠に譲るためのデモンスト
 レーションであった。
  家康は、将軍職の辞退を、4月7日に、正式に申し出て
 いる。
  そして、16日には、秀忠が征夷大将軍に補せられてい
 る。
  家康は、60年に及ぶ忍耐と苦闘の結果、勝ち得た将軍
 職を、わずか2年で、秀忠に譲った。
  これは、戦国以来の下剋上の思想に、最後のとどめを
 刺したいとの家康の考えだった。
  そして、徳川氏の永久政権を天下に宣言するためであ
 った。
  特に、豊臣方では、徳川政権は、秀頼が成長するまで
 の一時的なもの・・という考え方が根強く、
  家康が将軍になった時は、秀頼が関白になるという噂
 があったくらいだった。
  こうしたムードの中では、徳川の永久政権の宣言は、
 1日も早い方が良いと、豊臣方に、あり得ない希望と、無
 理な要求の政権回復の期待を完全に断念させたいと考え
 だった。
  家康に将軍宣下がされた時の動揺した豊臣方が、秀忠
 の重ねての将軍宣下にもまた、一大衝撃を受けた。
  家康は、秀吉の高台院(正室のおね)を通じて、秀頼
 の上京を促し、秀忠の将軍宣下を祝賀するように催促し
 た。
  これは、豊臣・徳川の二氏の位置の転倒を、豊臣方が
 認めるかどうかの、確認のためのものだった。
  秀頼の生母・淀殿は、これを認めず断わった。
  家康の率いる十万余の軍勢は、その為のデモンストレ
 ーションであった。
  家康は、6男の忠輝を将軍の名代として大阪に遣わし、
 挨拶をさせ、礼は尽くしている。
1605年4月16日、徳川家康が、将軍職を秀忠にゆずる。
  2代将軍・徳川秀忠が将軍になった(1579年~1631年、
 将軍在任期間1605年~1623年)
  天下は徳川家が治めるというよりしっかりした認知で
 もあった。
  豊臣家に、その支配権が巡って来ることは無くなった
 という状況がしっかり生まれた。
  家康には、勿論、この時に、豊臣家を潰すという考え
 はなかった。
  一大名として格付けし、千姫が嫁した特別の大名とい
 う思いだった。
  それは、秀吉の妻・おね(出家して高台院)の気持ち
 と合致していた・・が、豊臣方は違った。
  秀忠が将軍となった後の家康は、駿府に退いた。
  政治の表舞台から引退し、ご意見番となった。
  秀忠の仕事を見守り、徳川幕府の成熟を見守った。
  秀忠は、家康が遠慮した大名の改易などの仕上げをし、
 よく家康の後の仕事を行っていた。
  「徳川実紀」に、
  「公(秀忠)、篤恭謙遜の御聴備らせ給い、御孝心た
 ぐいなくおわしましければ、御代ゆずらせ給いし後も、
 万の事ども、みな大御所(家康)の御教をうけとわせ給
 い、いささかも御心にまかせ給う事はなかりしとぞ」と
 ある。
1605年5月10日、家康が、秀頼に京都に来るようにと言う。
  秀忠が将軍職を継ぎ、そして、京都にいた時、家康は、
 秀頼が京都に来て秀忠に賀詞を述べる様にと言った。
  それは現状の認知と、その行動を求めたのだった。
  「資料総覧」の5月10日の項に、
  「家康、豊臣秀吉の後室・高台院(こうだいいん、お
 ねの事)をして、豊臣秀頼の状況を促さしむ」とある。
  おねは、家康の思い・願いを受け、秀頼の為でもあり、
 また、豊臣家の為でもあるこの事態を、上洛を促す使者
 に自らたった。
  結果は、家康やおねの思いの様にはならなかった。
  この時、淀殿は怒ったという。
  家康の気持ちは、この時が、転換点だったのだろう。
1605年11月5日、火薬陰謀事件。
  イギリスで、キリスト教のカトリック教徒が弾圧され
 ているという理由で、この日に、議場に出席する国王を
 殺そうとした。
  イングランド国教会だけが優遇される政策で、キリス
 ト教カトリックは弾圧されていると言った。
  イギリスの上院議場の地下に、大量の爆薬を仕掛け、
 国王・ジェームス1世を殺し、未遂に発覚したが政府を転
 覆しようとしていた。
..
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2015年5月15日金曜日

(増補版)100C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年~1603年)

題:(増補版)100C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年~1603年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1600年代(17世紀)、ヨーロッパでは、この頃、黒人の方々
 やインディオの方々が・・、
  猿や狒々(ヒヒ)と一緒にされ、そして、並んで陳列
 された。
  そしてまた、裸の野蛮人として、舞台の上を歩きまわ
 されたりしていた。
1600年1月1日、イギリスが、東インド会社の活動を開始し
 た。
  イギリスが、競争相手国を駆逐し、東インド会社を設
 立した。
  設立は、1日前の1599年12月31日だった。
  資本金は、わずか68万ポンドだった。
  設立された会社は、形の上は小会社だった。
  しかし、エリザベス女王は、強大な権力を与えた。
  エリザベス女王は、この会社へ、「喜望峰よりマゼラ
 ン海峡に至る(アフリカ南端からチリ南端に至る)国々
 島々と、向こう15年間、自由に、かつ、独占的に通商貿
 易を営むことを得る」という特許状を与え、
  また、法律作成や条約締結の決定権という強大な権力
 を与えた。
  これは、イギリス国そのものだった。
  これによって、この後、インド及び東方諸国との植民
 地経営利益と貿易利益とを上げて行く、というより、植
 民地からの搾取・奪い取りだった。
  イギリス王室は、また、徴兵権を与え、士官任命権を
 与え、土候との交戦権まで与え、これ等の権利を使って
 インドのムガル皇帝から徴税権をもぎ取り、裁判権・関
 税免除の特権など好き勝手に権利を奪い取り、綿布貿易
 などで自由に利益を上げ、土地の支配までもやるという、
 やりたい放題状態だった。
  インド征服のプラッシーの戦いを1757年に行うなど、
 赤子の手をひねるようにインドを奪って行った。
  強欲に、その要求する所は、限りなく広がった。
  この小会社は、開設の翌日から始まる1600年から直ち
 に活動を開始し、
  イギリスは、この事によって、莫大な利益を得た。
  故に、インドを「王冠に輝く燦(さん)たる宝玉」と、
 利益供給国を讃えて言った。
  イギリスは、この後、インドを完全に征服しきった。
  この会社は、30年間の間、2割5分という考えられない
 超高配当を出し続けた。
  インドの方々を虐げて搾取した金をイギリスへ流し続
 けた。
  投資の原資は、何と、800倍以上になるという驚くべき
 率であった。
  この会社が、あまりにも莫大な稼ぎ方をして、巨万の
 富が堂々とイギリスへ流れ込んだので、本国・イギリス
 のロンドン市民でさえ、驚きと貪欲と嫉妬に満ちた憎悪
 に、興奮した。
  この荒稼ぎの陰で泣き、命を落とした植民地の方々が、
 インドの方々が、あまた居た。
  何故、イギリス人が紅茶を好むのか?
  それまでは、普通の人のレベルでは見る事も出来なか
 った紅茶。
  やっと得た人は、舐めるように使用したという紅茶が、
 イギリス中の巷にあふれた。
  搾取と、血と涙があった。
  本来は、植民地の方々のものなのに、インドの方々の
 ものなのに。
  そして、この小会社の株は暴騰し、上げに上げた。
  そして、株価が上がれば上がるほど、おかしなことに、
 株主数は減少して行った。
  莫大過ぎるほどの利益が、さらに一部の者の占有する
 株へと、会社へと・・なって行った。一部の者の独占で
 ある。強欲な人々が独占に・・うごめいた。
  庶民の不満が沸騰した。 
  会社の特権を取り消せ・・と、世論が沸いた。
  その攻撃に対し、莫大な賄賂の金が流れ、嵐が吹いた。
  攻撃を消し、避けるために、その効果がありそうなす
 べての者へ現ナマが投じられて行った、不埒な人間ども
 だった。
  大臣、キリスト教聖職者、王家へ金貨の袋が渡された。
  特権期間が1615年で切れるのだが・・それも、その延
 長も・・莫大な金貨の袋の賄賂(わいろ)で延長された。
  イギリス王室は金貨の袋に敗け、許可した。
1601年1月、伝馬制度。
  家康が、大久保長安らの代官頭のグループに命じて、
 東海道諸宿の東海道53次の駅の伝馬制度
 を定めた。
1601年3月、家康が、関東地方を検地した。
1601年、板倉勝重が京都所司代に任命された。
1601年、安南・呂宋が、書を家康に呈した。
1601年5月、「金銀は政務第一の重事」をいう考えから、金
 銀制度を確立して、伏見に銀座を置き、金貨及び銀貨(
 慶長金銀、大判・小判)の鋳造を始めた。
1601年、江戸が大火となり、江戸全町が焼失した。
1601年、秀吉に、1581年に滅ぼされた鳥取城主だった豊国
 が、この年に、家康から但馬国七美郡に6700石を貰った。
1602年、井伊直政が没した。
1602年5月、二条城が築かれた。
1602年、家康が、外様大名の88名を改易した。
  西軍に組した外様大名88名は、改易によって取り潰し、
 その領地416万1084石を没収した。
  これと同時に、毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣ほか2名
 の大名の領地216万3110石を削り取って、
  輝元は安芸広島から長門萩に、景勝は陸奥会津から出
 羽米沢に、義宣は常陸水戸から出羽秋田に移した。
  没収総高は、93名の、632万4194石という膨大な石高と
 なった。
  家康は、これ等の没収地を、東軍に属して功労のあっ
 た外様大名に配分して、転封する一方、直轄領に組み入
 れたり、徳川一門・譜代大名の取立てにあてた。
  関東領国には、すでに万石以上の領地を持つ40名の上
 級家臣が居たが、
  家康は、覇権確立を同時に、彼らを一斉に独立の大名
 とした。
  これとともに、万石以下の譜代家臣の中から、加封に
 よって20名の者を大名に取り立てた。
  彼らも、三河譜代が中心を占めている。
  他に、新しく帰属したり、新規に取り立てた大名が8名
 あり、合わせて28名となった(譜代大名第二群)
  こうして、戦争直後から1602年までに、実に、68名の
 徳川一門=親藩・譜代大名が作り出され、徳川氏の権力
 は飛躍的に強化された。
  豊臣権力(戦後、秀頼は摂河泉65万石の地方大名とな
 った)との隣接地帯に、徳川一門をはじめ、武功派の有
 力譜代大名を配した。
  徳川一門をはじめ、武功派の有力譜代が、外様大名に
 対する第一線に立たされ、征服地の新領地の経営に専念
 するようにした事は、彼らが、次第に、徳川政治の中枢
 から離れていくことを意味した。
  戦争の終結は、武功派の栄光ある舞台に幕を下ろし、
 彼らを無用の長物と化して行った。
1602年、検地。
  この年の常陸検地は、「慶長の苛法」と言われて、か
 なり厳しいものであった。
  1歩1尺の空地も残らず石盛をつけ、ことごとく検地
 を実施した。
  そのため、川に身を投じたりする者も出た。
  多賀郡大窪村の検地は、697石の村高が一躍1038石に増
 加した。
  1604年には、武蔵・相模・遠江・三河・越後などに徳
 川検地を実施したが、これは「辰の御検地」(辰年にあ
 たる)と言われた。
1602年、新田開発
  伊奈忠次、遠江国豊田郡・阿久呂太五郎ら新田百姓へ
 諸役免除の手形を与えた。
  さらに、武蔵国横見郡山下村の松山・上田氏旧臣、山
 崎隼人ら7人の開発人へ9石から32石を与えた。
1603年2月12日、徳川家康に征夷大将軍の宣下があった。
  家康が征夷大将軍となり、江戸城を開き、江戸幕府が
 始まった。
  家康は、全国二百数十家もあった大名から一銭の徴税
 も行わなかった。
  これは、幕府の経営を税金に頼らないで維持できると
 考えたことと、
  徴税が不平不満の元になる事を恐れたためであった。
1603年2月12日、諸大名に江戸市街の拡張工事を命じた。
  関東総奉行・青山忠成と、内藤清成の連署で、関東公
 私領の農民に対し「定書」を公布した。
1603年2月12日、小笠原一庵を長崎奉行に任命した。
1603年12月、京都に十人組の制を敷いた。
1603年、家康が、関東の公私領の農村に対し発布した。
 この法令は、公私領の農民が、代官・旗本の不法によっ
 て、村を立ち退くときは、例え、その主人から届け出が
 あっても、みだりに連れ戻してはならないとの内容であ
 った。
1603年、関ケ原の戦いから3年後に、
  宇喜多家は、家康によって改易されたが・・、
  秀家は、伊吹山中に逃げ込んだ。
  そこで、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、
 哀れに思った五右衛門は秀家を自宅に匿った(40日間)。
  その後、変装して、薩摩国の島津義弘などを頼って落
 ち延び、今の垂水市辺りに匿われた。
  しかし、これも家康の知るところとなり、
  宇喜多秀家は、島津家の家臣に身の安全を守られなが
 ら、家康の居る駿府へ向かった、関ケ原の戦いから3年の
 後だった。
  島津家は、義を貫いて秀家の助命を嘆願し、秀家の妻・
 豪姫の実家である前田家も強くこれを求めた。
  すでに、社会が落ち着いて秀家を刑死させる理由は無
 くなっていた。
  秀家は、死罪は免れた。
  秀家は、久能山に幽閉後、1606年、江戸から480キロの
 伊豆最南端、八丈島に流された。
  豪姫の願いは叶わなかった。
  豪姫は、実家の金沢へ行く、異母弟の藩主・利常(と
 しつね)は温かく迎えてくれた。
  化粧田1500石と、金沢城下の西町に屋敷を、豪姫らは
 貰った。
  連れて行った二人の姫は、前田家の養女となって縁付
 いた。
  豪姫は、八丈島へ金銀・小袖・薬などを送った。
  豪姫の、夫を思う心情に、藩主・利常は、前田家から
 も生活必需品を八丈島へ送れるように幕府に嘆願を重ね、
 そして、認められた。
  二人は、便りが結んでいた。
  長い年月が流れ、豪姫は、1634年、61歳で没した。
  秀家は豪姫の死後、21年の後、八丈島で、流人として
 84歳で没した。
  江戸から来た代官は、秀家を陣屋に呼んで御馳走をし
 た。
  美味しそうに食べた秀家を見て、この代官は白米一俵
 を贈ったという。
  前田家は、ある時、八丈島に使者を送って、秀家の救
 済を幕府に願い出る件を、秀家へ打診をしたという。
  秀家は、この期に及んでという心境だったのか、この
 打診を断わったという。
  豪姫が亡くなった後も、豪姫の遺志を大事にした前田
 家は、藩主が変わっても、1年おきに白米70俵、金子35両、
 それに衣類、雑具、薬品などを、絶えることなく、秀家
 の御赦免の日までと送り続けたという。
  明治の御一新で大赦となり、明治天皇は、明治6年、東
 京板橋に、宅地19900坪を与え、前田家も金1000両を送っ
 て、一族の労をねぎらった。
  それは、豪姫が、八丈島の夫や一族たちに思いを馳せ、
 金沢で死んでから、実に239年も経ていた。
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2015年5月14日木曜日

(増補版)99C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年)

題:(増補版)99C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1600年、関ケ原の戦いの後について・・、
  石田三成・小西行長は刑死となった。
  関ケ原の戦いで敗れ、捕らえられた石田三成、小西行
 長は京都で刑死した。
1600年、そして、薩摩武士の勇猛な姿が関ケ原の戦いの場
 にあったが、
  関ケ原の戦いでの島津氏は、出陣した人数は1000人ほ
 どだった。
  しかし、生還したのは、その70人前後であった。
  この激烈な戦い、93%の兵士が戦死してしまうという
 その勇猛さ。
  この勇猛さで、島津藩士たちは、敵中を突破して行っ
 た。
  家康が、身の危険を感じ、立ち上がり、馬に跨(また
 が)り、刀を抜いたぐらいだった。
  この薩摩兵の勇猛さは、薩摩藩の「郷中教育」に起因
 しているという。
  その郷中教育は、年齢によって「小稚児(こちご)」、
 「長稚児(おせちご)」、「二才(にせ)」というグル
 ープに分け、それぞれを町内単位で組織を形成し、
  グループごとに「頭(かしら)」というリーダーを置
 いて、リーダーの統率のもと、一日の大半を一緒に過ご
 し、それが幼少の時から血肉に染み込む教育となってい
 るという。
  このため薩摩兵の結束力は極めて強く、リーダーの指
 示であれば、死をも厭(いと)わない、戦闘集団が形成
 されて行ったのだという。
  これは、日本人の気質の中に流れている血でもあるが、
  因みに、関ケ原の戦いをしたのは島津義弘で、兵はわ
 ずかだったという。
  薩摩の留守を守っている兄の島津義久は、この弟の義
 弘に援軍を出さなかったという。
  また、この弟の島津義弘は関ケ原で陣をかまえたが、
 積極的に戦わなかったというが・・、
  西軍の中心に居る石田三成が、関ケ原の前の小競り合
 いの時、島津兵を見殺しにしようとしたためだという。
1600年、家康の戦後処理は・・、
  外様大名の大規模な改易を行った。
  家康は、直ちに戦後処理を行い、外様大名の大規模な
 改易・減封・転封を始めた。
1600年、毛利氏へは、厳しい処置が行われた。
  毛利家は、過酷すぎる処置を受けた。
  毛利輝元は、一時は中国の11ヶ国の大領主だった。
  その毛利が改易された。
  毛利輝元の関ヶ原の合戦における形式上の存在を、徳
 川家康から追及され、10ヶ国の版図から防長(山口県)
 2ヶ国に縮小されてしまった。
  石田三成にかつがれ、西軍の形式上の旗頭として大阪
 城に在城したが、兵は動かしていなかった。
  ただ、分家の毛利秀元の隊のみが、関ケ原に出陣した
 が、戦闘には参加しなかった。
  だがしかし、この様な毛利氏でも、戦いの後、家康は、
 毛利家に対して、過酷すぎる処置をとった。
  それまでの毛利氏の版図は、今日の分県で言えば、広
 島県、山口県、島根県、それに岡山県と鳥取県の一部を
 含む、170万石と広大なものであったが・・、
  居城も、それまでの広島城から徹せしめて、日本海岸
 の山口県の一つの荻に押し込められた。
  しかし、この時、諸地方に散在していた主立つ家臣は、
 そのほとんどが輝元について来た。人望のある氏であっ
 たのだろう。
  そのため、藩初から、極端な財政困難に遭遇した。
  輝元にすれば、「自分は微禄になったから、以前の様
 な膨大な家臣団を養う事が出来ない。
  だから身を引いてほしい」・・と、自発的に主家と縁
 を切ることを切望したのだろうが、多くの家臣たちは、
 無禄でも・・と言ってついて来た。
  輝元は微禄に苦渋し、遂に幕府に対し、とてもこの少
 禄(36万9000石)ではやってゆけない、大名であること
 を返上すると、異例の上訴を考えたほどだったという。
  しかし、当初は倹約のみであったが、主従ともに貧に
 耐え、そして、1719年には人材養成制度を創り、改革を
 始め、産業を興し、干拓事業も進めた。
  この毛利家の主従の結束の固さは、この時の「泣きな
 がらでも、主について来た」という辺りから始まるのだ
 ろう。
  幕府の考えは、便利の良い所に府城を置くと、また、
 瀬戸内海を制し、山陽道を制し、京へ手を伸ばすかもし
 れないという事を恐れ、遠い日本海の漁村へやってしま
 ったと考えられる。以後、山口はすたれた(参考:街道
 は行く1)
1600年、小早川秀秋は・・、
  小早川秀秋は狂死したという、関ケ原の合戦で西軍を
 裏切った小早川秀秋は、
  良心の呵責からか乱心し、26歳の生涯を閉じたという。
  秀吉の子・秀勝が死んだ後、秀吉の正室・おねが、実
 兄の木下家定から辰之助、すなわち後の小早川秀秋を貰
 い受けた。
  おねは、秀秋を溺愛したという。
  15歳で、丹波亀山城の城主にもなった。
1600年(慶長5年)徳川家康は、但馬金銀山奉行を配置して、
 佐渡金山や石見(いわみ)銀山と並んで、直轄地(天領)
 とした。
  これらの鉱山は、徳川幕府の財政を支えた。
1600年、関ケ原の戦いの直後のこの時、倉敷が天領になっ
 た。
  これは西国大名への監視が目的だった。
  例えば、前年の1599年に宇喜多家の騒動があった。
  これを、当時、筆頭大老だった徳川家康が裁断し、宇
 喜多家に恩を売った。
  これが、関ケ原の戦いで宇喜多家が東軍に味方した因
 がある。東軍勝因の一つがここにもあった。
  倉敷のある備中国(岡山県)の大部分を天領化して、
 備中国総奉行の下に置いた(1617年まで続く)。
  倉敷は、主要港湾を持つので天領として残った。
1600年、社会資本整備、領芳溜池(現在の大和高田市)が
 造られた。
1600年(17世紀初頭)、板倉勝重が「板倉氏新式目」を制
 定し、親の仇討を認めた。
16世紀後半、日本人が合戦に用いていた鉄砲数が、この当
 時、ヨーロッパのどの国が持っていた鉄砲の数よりも多
 かった。
1600年代(17世紀)、日本の技術水準は、この時の当時で
 も、世界が注目していた。
  今・現代でも、日本は、iPS細胞や青色発光ダイオード
 など、世界の人々を救う基本的で、重要な技術を発明す
 る日本人であるが、
  当時も、その様な技術が抜きん出ていた日本だった。
  基幹の資源である銅において・・、
  日本の銅は、優れていた。
  ヨーロッパの銅よりも・・良質であった。
  また、価格も、その技術的に優れていることから安価
 であった。
  遠いヨーロッパに運んでも、また、非効率な帆船によ
 る運搬の時代であっても、
  その運送コストが吸収できるほど安価な基幹の資源で
 あった。
  しかし、その使われ方は、戦争ばかりしているヨーロ
 ッパにおいて、日本の銅は武器に使われた(日本は装飾
 品など)。
  そのためにもまた、武器であるため、良品質が求めら
 れた。
  日本の銅は、銅製の鋳造大砲に使われた。
  また、日本の鉄も、同様に、良質で安価だった。
  当時、大砲の性能が、国の行く末を決定したと言って
 よい時代だった。
  腕力が支配するヨーロッパの野蛮性が求めたのだった。
  国の運命である制海権を制したのは、大砲の性能だっ
 た。その性能向上に求められた。
  スペインの無敵艦隊は、イギリス艦隊の大砲の性能に
 敗けたのだった。
  南米で卑劣な事を仕切った非人間的スペインの終末だ
 った。
  当然、イギリスは、優秀な大砲の輸出禁止をしていた。
  それでも、スペインは、卑劣な方法でイギリスの大砲
 を求めた。
  スペインは必死に購入しようとし、闇取引(やみとり
 ひき)でも何でもしでかした(そこには、自分では作れ
 ないスペインがいた)。
  しかし、時代の流れは、イギリスとなり(スペイン無
 敵艦隊の駆逐、1588年)、これからイギリスの時代とな
 る。
  そして、可哀想な事に、イギリスによるインドの方々
 や、中国の方々が殺され、搾取される時代へと移って行
 く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年5月13日水曜日

(増補版)98C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年9月)

題:(増補版)98C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年9月~1600年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
慶長5年(1600年)9月3日、戦機が熟して行く。
  天下を分ける戦いになると予想している家康。
  世の流れを完全に掴んでいた家康。
  この家康が、満を持して9月1日に江戸城を出陣した。
  関ケ原の戦いまで、あと15日。
  江戸城に、26日間、居て、諸大名へ、そして、諸将へ
 書状を出し、今まで、豊臣の世に居た武将たちの気持ち、
 そして、動向を掴んでいた。
  そして、家康の考えを伝えていた。
  家康の世に代わるその必然な動きがあるだろうか、そ
 して、なるだろうか・・と、その動きも見つめて来てい
 た。
  そして、この時、その動静を掴み、ここだという9月1
 日に、江戸城を出陣した。
  岐阜城を陥落させた諸大名・諸将たちが、家康の出陣
 を、今か今かと待っていた。
  ここも家康の読みだった。
  上州の小山会議(1600年8月23日、慶長5年7月24日)で
 打倒三成で結束した面々たちだった。
  福島正則・田中吉政・加藤嘉明・細川忠興・藤堂高虎・
 池田輝政・堀尾忠氏・山内一豊・一柳直盛・浅野幸長・
 京極高知・黒田長政・井伊直政・本田忠勝といった東軍
 34000が、岐阜城をまたたく間に攻略し、
  続けて翌日には、黒田・藤堂・田中の軍勢が大垣城の
 赤坂に陣取っていた。
   一方、西軍も、着々と関ヶ原へと結集して来ていた。
  大谷吉継が、この日・9月3日、関ヶ原西南にあたる山
 中村に到着した。
  宇喜多秀家も、8,000の軍勢を率いて大垣城に入った。
  ついで7日には、毛利秀元、吉川広家、長宗我部盛親、
 長束正家らの率いる約30,000の大軍も、続々と伊勢から
 美濃に入り、南宮山の東麓に陣を敷いた。
慶長5年(1600年)9月8日、三成も、この日・8日に、大垣
 城に入った。
  病気を理由に形勢を見守っていた小早川秀秋も、14日、
 松尾山に着陣した。
慶長5年(1600年)9月11日、家康が、清州城に入った。
慶長5年(1600年)9月14日、岡山本陣、
  岡山本陣は、家康が最初に本陣所としたところである。
   この日(14日)の正午頃、家康は、70000余の東軍の軍
 勢が結集し、大垣城に対面している赤坂陣の高地である
 ここ岡山に本陣を構えた。
  そして、早速、家康は、軍議を開き、
  三成らの拠る大垣城には押さえの兵を置くだけで、東
 軍の主力は佐和山城を攻略し、
  その勢いで大坂城を攻める作戦を確認する。
  この情報は、同じく軍議を開いていた西軍に流れる。
  三成は急きょ軍議を中断し、
  東軍を関ヶ原で食い止めるべく、夜のうちに大軍を関
 ヶ原に移動させることを決意した。
  この時の家康の考えは、豊臣恩顧の武将が多く、機の
 熟した今、即戦即決で行く・・と考えていた。
   こうした動きの裏で謀略が進行していた。
  西軍・吉川広家は、東軍・黒田長政に密使を送り、君
 主・毛利輝元の無罪と、毛利家の領国安堵を条件に戦闘
 の不参加を約束する。
  さらに、松尾山に着陣した小早川秀秋には、東西両軍
 からの勧誘の手が伸びていた。
  東軍側は、黒田長政を通じて工作を進めており、14日
 の時点で、秀秋は内応を約束し、長政のもとに人質まで
 出していた。
  一方、西軍側も、同じ14日付けで安国寺恵瓊、大谷吉
 継、石田三成、長束正家、小西行長の5名連署による誓書
 を届け、懐柔を図っていた。
慶長5年(1600年)9月14日、杭瀬川の戦い
  この頃の大垣城では、岡山に立ち並んだ馬標や白旗を
 見て家康の着陣を知り、士卒の間に動揺が起こっていた。
  三成の臣・島左近勝猛は、ここで一戦して西軍の威勢
 を示して士気を回復すべしとして、蒲生郷舎と共に兵500
 を率いて打って出た。
  杭瀬川を渡った島左近らの一隊は、東軍・中村一栄の
 陣前で稲を刈って挑発した。
  これに対して一栄の部将の一色頼母が一隊を率いて柵
 から出戦し、島隊に襲いかかった。
  島隊は、わざと敗走し、川を渡り中村勢を東岸に誘い
 込んだ、そして、伏兵と共に挟み撃ちにして頼母以下30
 余人を討取った。杭瀬川の戦いである。
   この戦いを岡山から見ていた家康は、はじめは称揚し
 ていたが、次第に不機嫌となって、「大事の前にこの様
 な小戦で兵を損じるとは何事か」と怒り、本多忠勝を派
 して兵を収めさせた。
  家康は、「明夜明けに当所を発して佐和山城を破り、
 大坂城に進む」という情報をわざと三成方に知らせる様
 に間者を放った。
  岡山本陣では家康が、大垣城の動静を見守っていた。
  ついに午後7時頃、降りしきる雨の中を、石田三成隊
 を先頭に西軍勢40000が、兵7500を大垣城に残し、西に向
 かって進発した。
  闇に包まれた雨の中を松明を消し、馬の口を縛り、息
 をひそめて泥道を進んで行った。
  先頭の石田三成が、関ケ原の笹尾山に布陣したのが、
 日にちが変わった15日の午前1時頃と言われている。
  最後尾を進んでいた宇喜多秀家が布陣を終えたのが、
 午前5時頃とされる。
  実は、これは家康の策にかかった行動だった。
  杭瀬川の戦いの後、西軍では、早速、軍議を行ってい
 た。
  そして、意見は二つに割れていた。
  戦慣れした宇喜多秀家は夜襲を主張した。
  「徳川軍はかねてよりの行軍にて、疲れきっている、
 この機を逃さず、夜襲を仕掛けるのがよい」と。
  島津義弘も同調した。
  これに、石田三成と小西行長は反発した。
  「夜襲は危険である。家康がそれほど簡単に夜襲を受
 けるほど、無策とも思えぬ」と。
  もう一つの意見が、大垣城での籠城案だった。そして、
 秀頼公と毛利中納言(輝元)殿の出馬を待とうという案
 だった。
  軍議は紛糾の様相を呈し、長引いた。
  そして、夕刻頃、西軍の軍議の席にもたらされた報が
 あった。それが・・、
  「東軍は、佐和山から大坂に向かう動きあり」と。
  三成は、戦略の変更を余儀なくされた。
  そこで、積極策が取られる事となった。
  西軍は、ただちに大垣城を出撃し、関ケ原で東軍の動
 きを止めるとなった。
1600年10月21日(慶長5年9月15日)、関ケ原の戦い
  徳川家康の総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将と
 して石田三成を中心とする西軍の戦いがはじまった。
  豊臣家の家臣同士の戦いと言ってもいい戦いだった。
  秀頼の出陣を要請した西軍であったが、秀頼は出陣せ
 ず、立場上は静観の立場であった。
  戦闘時間は約6時間、死者は両軍合わせて8000だった。
  この日、関ヶ原は早朝から深い霧が立ち込めていた。
  家康から先鋒を命じられていた福島正則は、機会をう
 かがっていた。
  濃霧の中、両軍は2時間ほど対峙し続けた。
  霧が晴れて来た頃、その福島隊の前を井伊直政と松平
 忠吉の小隊が出て行った。
  福島正則の家臣の先頭部隊長の可児吉長が呼び止めて
 るが、かまわず井伊は陣形を見るとか言って松平ともど
 も福島隊の前方へ張り出した。
  そして、勝手に、直政の小隊は、西軍の主力である宇
 喜多隊に向けて突然発砲を開始した。
  宇喜多隊も直ちに応射。
  そこへ、井伊隊の抜け駆けに激怒した福島隊の鉄砲隊
 800名が宇喜多隊に突撃した。
  ここに関ヶ原の戦いの火蓋が切られた。
  この関ケ原の戦いで、最大の激戦と言われているのは
 東軍の福島隊と西軍の宇喜多隊の争いだという。
  双方ともが二、三度も退却した一進一退の激闘と『関
 ヶ原軍記大成』に書かれている。
  石田隊に黒田隊、細川隊が攻めかかり、
  石田隊は、木柵、空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎ
 ながら、鉄砲や大筒などを用いて必死に東軍部隊を抑え
 たという。
  そして、やや遅れて大谷隊に、藤堂隊、京極隊が襲い
 掛かり、吉継は巧みな用兵で、三倍近い藤堂隊、京極隊
 を何度も押し返したという。
  また、小西隊には、古田隊、織田隊がそれぞれ攻めか
 かり互角だったという。
  家康本隊3万は、戦闘には参加していなかったという。
  前線に床几を移した位であったという。
  実際に戦を見て書かれた『慶長記』には、
  「笹尾山陣地跡敵味方押し合い、鉄砲放ち矢さけびの
 声、天を轟かし、地を動かし、黒煙り立ち、日中も暗夜
 となり、敵も味方も入り合い、しころ(錣)を傾け、干
 戈を抜き持ち、おつつまくりつ攻め戦う」とある。
  三成は、開戦から2時間を過ぎたころ、まだ参戦してい
 ない武将に戦いに加わるように促す狼煙を打ち上げた。
  また、戦いに加わらない島津隊に応援要請の使いを出
 したという。
  西軍は、総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万
 3,000ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に
 は運んでいた。
  兵力数で上回る東軍は、西軍一部隊に対し、複数の軍
 勢が連携して、同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、また
 間断無く攻め立てていたという。
  戦局は時間と共に、東軍優位に傾き始め、特に、石田
 隊は猛攻を受け、柵の中に退却していた。
  ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利
 秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親
 隊6,600ら、計4万7,000が、まだ、動かずにいた。
  徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦でき
 ずにいたと書く資料もある。
  結局、毛利軍ら3万3,000もの大軍は参戦しなかった。
  そして、この直後に起きる小早川秀秋の裏切りもあっ
 て、これが西軍の敗因となった。
  小早川秀秋は、松尾山の山奥に布陣し、初めは両軍の
 戦況が落ち着くまで動かない考えであった。
  正午過ぎ、家康は、内応を約していた小早川秀秋隊が、
 動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射
 撃を加えるように命じた。
  迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し
 て松尾山を降りた。
  ここに、小早川隊1万5,000の大軍は、東軍に寝返った。
  なお、小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は、「
 盾裏の反逆は武士としてあるまじき事」として秀秋の命
 令を拒否し離反した。
  小早川隊は、山を駆け降りると、大谷隊の右翼を攻撃
 した。
  ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、
 赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に
 呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。
  予測し得なかった四隊の裏切りも加わり戦局は一変し
 た。
  吉継は自刃して果てた。
  大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤
 堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げ
 ている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を
 始めた。
  ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。
  小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、旗本中心の
 家康本隊もようやく動き出し、東軍は、西軍に総攻撃を
 かけた。
  やがて3倍以上の東軍勢の前に、西軍は壊滅して行く。
  宇喜多秀家は、小早川秀秋と刺し違えようとするが、
 家臣に説得され苦渋の思いで敗走した。
  宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊は、早々と壊
 滅し、小西行長も敗走。
  石田隊も、粘りに粘り続けたが重臣が討死していて、
 とうとう壊滅した。
  三成は伊吹山方面へ逃走した。
  こうしたなか、戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲
 された。
  ここにおいて、島津勢の敵中突破退却戦、いわゆる「
 島津の退き口」が開始された。
  島津義弘隊1,500が一斉に鉄砲を放ち、正面に展開して
 いた福島隊の中央に突撃を開始する。
  西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの
 反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は
 強行突破に成功した。
  更に、寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・
 井伊・本多の3隊に迎撃されるがこれも突破した。
  この時点で、島津隊と家康本陣までの間に遮るものは
 無くなってしまった。
  島津隊の勢いを見た家康は、迎え撃つべく床几から立
 ち、馬に跨って刀を抜くほどだったという。
  しかし島津隊は、直前で転進、家康本陣をかすめるよ
 うに通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を開始し
 た。
  松平・井伊・本多の徳川諸隊は、島津隊を執拗に追撃
 するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みた。
  決死の覚悟を決め、死兵と化した島津隊将兵の抵抗は
 凄まじく、
  追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。
  この際、島津方では島津豊久、阿多盛淳が捨て奸とな
 り玉砕。
  次に追撃した松平忠吉は、申の中刻に狙撃されて後退、
 負傷。
  本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬。
  徳川諸隊は、島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官
 が相次いで撃たれたことと、すでに本戦の勝敗が決して
 いたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどか
 ら深追いを止めた。
  一方の島津隊は、多数の犠牲者を出しながら、兵も80
 前後に激減しながら辛くも撤退に成功した。
  西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢
 は、何も戦わせずして撤退を開始した。
  浅野幸長・池田輝政らが追撃した。
  毛利は、長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受けて無
 事に戦線を離脱できた。そして、伊勢街道から大坂方面
 へ撤退した。
  殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は、
 少なからざる損害を受けるが辛うじて退却に成功。
  安国寺勢は、毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、
  長宗我部勢と長束勢は、それぞれの領国である土佐と
 水口を目指して逃亡した。
  西軍諸隊の中でまともな形で撤退できたのは彼らだけ
 だった。
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2015年5月12日火曜日

(増補版)97C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年6月~1600年9月)

題:(増補版)97C3/3:気になった事柄を集めた年表(1600年6月~1600年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
慶長5年(1600年)7月2日、秀吉が、秀頼が生まれるまでは、
 政権移譲の対象者・次期の者としていたのは秀次(秀吉
 の姉の子)だった。
  その秀次一族が、悲惨な最期を遂げた。
  これは、豊臣家臣団にとって大きなショックだった。
  豊臣家への信頼が一気に崩れて行った。
  各大名は連座を恐れた。
  また、その様な中に、豊臣家と密着する三成らの文治
 派がいた。
  それに対し、朝鮮の役で活躍し、苦労した武断派、
  恩賞もなく、苦労しかなかった武断派と、この面でも
 溝を深めて行った。
  (賞罰をめぐる対立が深刻なものへ)。
  家康は、この豊臣諸将の中の武断派の諸将へ接近した。
  そしてまた、その中で家康は、太閤蔵入地を通じて文
 治派による専制・集権体制の解体を計った。
  蔵入地とは、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与
 える知行地に 対して、代官を派遣して、直接支配を行っ
 て年貢・諸役などの徴収にあたった地を指す(領地への
 内政干渉)。
  それを、家康を糾弾した前田家は、徳川家に屈したし
 ・・、
  これで、豊臣政権内の五大老制度が完全に崩壊し、空
 文と帰した。
  その様な世の中において、会津征伐が起きた。
  直江兼続(上杉家の家老)は、はっきりと返書に書い
 た・・、
  「景勝は、秀頼様を裏切るようなことは致しません。
 誓紙も何通も書きましたし、
  言われている事は、雑言ゆえ、上洛を致しません・・
 と、家康の命令を拒絶している。
  事は、これでおさまらず・・、
  家康は、非常に立腹したという・・
  会津征伐で・・世にまた火が付いた。
  家康は、秀頼の命だとした。
  軍資金を、もらったと・・、
  家康は、この日の旧暦7月2日に、江戸城に入った。
慶長5年(1600年)7月2日、一方、三成は・・、
  家康が江戸へ下るとの報を受け、家康の留守中を狙っ
 て挙兵し、
  西国の大名を糾合して家康を討ち果たす決意を固め、
  そして、動き出した。
  また、上杉景勝にも・・、
  常陸・南陸奥一帯に54万石という大きな領地を持つ強
 力な大名・・鉄砲隊も持つ大大名である佐竹義宣との間
 に秘密同盟を結んでいた。
  白河口から攻め込んで来るだろう家康を、挟撃しよう
 という計画であった。
  その計画は着々と進められていた。
  そして、家康より先に景勝が挙兵して行き、それに応
 じて佐竹家も挙兵して行く。
慶長5年7月2日、三成が、家康討伐を大谷吉継へ打ち明けた。
  吉継は、初め、徳川家康の側だった。
  徳川邸の家康を警固したり、前田年長の時は越前まで
 出兵したりと。
  上杉討伐軍にも参加していた・・
  その時、吉継は、宿陣していた垂井から、三成の居る
 佐和山へ呼び返された。
  そして、三成に打ち明けられたことが、家康征討の意
 図だった。
  吉継は、無謀だと三成に告げた。
  しかし、吉継の再三の説得にも関わらず、三成の意思
 は堅かった。
  説得の目的が達せず、吉継は佐和山を辞し、垂井へ戻
 った。
慶長5年(1600年)7月7日、家康は、東下していた武将を江
 戸城へ招集した。そして、会津出陣の期日を7月21日と定
 めて軍令を下した。
慶長5年7月8日、家康の家臣・榊原康政を先鋒として出陣し
 た。
  また、徳川秀忠も、全軍37500にて、同日、出陣した。
慶長5年7月11日、大谷吉継が、三成に同心した。
  垂井へ戻った大谷吉継は、上杉討伐の東征への出発を
 一日延ばして考えた末に、三成の西軍の一員として行動
 しようと、三成の考えに同心し、佐和山へ入った。
慶長5年7月12日、西軍の最初の軍議が佐和山で開かれた。
  最初は、三成と吉継のみだった挙兵勢力が、安国寺恵
 瓊らの勧誘によって、大阪城の三奉行らも加わり拡大し
 て行った。
  三成は、家康討伐の意思を話し、同調を得た者を佐和
 山へ招き入れ、石田・安国寺・増田・大谷で軍議を開い
 た。
  その内容は・・、
  (1)毛利輝元に西軍の総大将になってもらう。
  (2)三成の兄の正澄を愛知川に派遣し、東征する諸大
 名の引き止めをする。
  (3)織田秀信に、豊臣秀頼の後援を要請する。
  (4)大坂にいる東征している諸大名の妻子の帰国を禁
 じて人質とする。
  そして、この日に、三成と吉継は、前田玄以、増田長
 盛、長束正家の三奉行に連絡を取り、毛利輝元に対して
 出馬を請う連署状を出した。
慶長5年7月16日、書状を受け取った輝元はすぐさま上坂し、
 毛利輝元は、大坂城西の丸に入った。
  西軍の総大将として豊臣家安泰への切り札とも言える
 大大名の毛利家の大坂入りで、西軍の指揮は大いに高ま
 った。
慶長5年7月17日、翌日の17日には、家康の留守居衆を退去
 させ、この日の日付で、前田玄以・増田長盛・長束正家
 の三奉行の名によって「内府ちがひの条々」を公表し、
 諸大名へ交付した。
  これは、家康に対する十三か条に渡る家康の罪状を列
 挙した弾劾状だった。
  西軍の挙兵の宣言で、決起への参加要請だった。
  三成と吉継の思いが、家康に対する豊臣公儀(こうぎ、
 おおやけのこと)の追討となった。
  そして、家康に着いた大名の人質は、加藤清正の妻や、
 黒田如水・長政父子の妻、水谷勝俊の子らは脱出してし
 まった。
  そして、細川忠興の妻・ガラシャは自決してしまった。
  また、輝元の従兄弟で重臣である吉川広家は、家康に
 対抗することに強硬に反対し、
  家康の重臣の榊原康政に釈明の状を出したりしていた。
  しかし、家康弾劾文に同調した諸大名が、続々と大阪
 に参集して来た。
  毛利秀元、小早川秀秋、宇喜多秀家、島津義弘と豊久、
 立花宗成、小西行長らの諸将を集めた総兵力は、95000に
 達していた。
慶長5年7月18日、毛利輝元が、伏見城に開城要求した。
  家康が勝手に私物化して使っていた伏見城の開城を要
 求した。
慶長5年7月19日、伏見城への攻撃が開始された。
  伏見城を守るのは、家康の家臣・鳥居元忠。
  元忠は、開城拒否をした。
  西軍は、その拒否姿勢により、即座に、伏見城攻撃を
 開始した。
  城を守る元忠の兵はわずか1800。
  攻める西軍は、宇喜多、毛利、小早川、島津等4万。
  容易に落城すると思われた伏見城。
  強硬な抵抗にあって、攻城戦は時を要した。
慶長5年7月21日、家康の率いる後軍31800が江戸城を出陣し
 た(上杉討伐へ向かって)。
慶長5年7月22日、西軍が、丹後の田辺城の攻撃を開始した。
慶長5年7月24日、伏見城の鳥居元忠の急使が、小山の家康
 の元に、「三成挙兵」の報を伝えた。
慶長5年7月25日、報が伝えられた翌日、東軍の家康は、陣
 を張っているここ小山で、諸将を集め、軍議を開いた。
  家康は、三成挙兵の事実をありのままに諸将に伝え、
 そして、言った・・、
  「諸将の妻子は、みな大坂にいるため、気がかりで思
 い悩むことは道理だ。
  すぐに、この陣を引き払い、大坂に上り、宇喜多や石
 田に味方しても、決して恨み申さぬ。邪魔立ても致さぬ。
  我らの領内では、宿所や人馬のこと、少しもぬかりな
 く命じてあるから、心置きなく上ってもよい」と。
  そこに集まった諸将は、みな愕然とし、言葉を発するこ
 とはできなかった。
  そこに、福島正則が進み出てこう言った。
  「それがしは、この様な事態に直面した時、妻子の情
 に引かれ、武士の道を踏み外す事があってはならぬと考
 え致す。
  家康殿のため、身命を捨てて、お味方申す」と。
  黒田長政、浅野幸長、細川忠興、池田輝政らはもちろん、
 集まっていた諸将は、次々と、家康に味方することを申
 し出た。
  さらに、遠江掛川城主の山内一豊が、「東海道を攻め
 上るにあたって、城と兵糧が必要になりましょう。
  それがしの城を、家康殿に進上つかまつる」と。
  それが引き金になり、沼津城・中村一栄(なかむらかず
 ひで)、興国寺城・中村一忠(なかむらかずただ)、駿府城・
 中村一忠、横須賀城・有馬豊氏(ありまとようじ)、浜松
 城・堀尾忠氏(ほりおただうじ)、吉田城・池田輝政(いけ
 だてるまさ)、岡崎城・田中吉政(たなかよしまさ)、西尾
 城・田中吉政、刈谷城・水野勝成(みずのかつなり)、清
 州城・福島正則(ふくしままさのり)の諸城が、家康に差
 し出される事となった。
慶長5年7月26日、軍議が終わった諸将が、西上を始める。
  福島、池田を先鋒として東軍諸将が西上した。
慶長5年7月29日、手こずる伏見城に、石田三成も自ら出馬
 した。
慶長5年8月1日、伏見城陥落
  三成が参着した伏見城に総攻撃が加えられた。
  多勢に無勢。持ちこたえていた元忠も力尽き、この日
 に至り、元忠はじめ本丸に居た350人の城兵は、ことごと
 く討死した。
  また、三の丸を守っていた松平家忠と800余の兵も討死
 し、ついに伏見城は落城した。
慶長5年8月5日、家康が、江戸城に帰着した。
  江戸城へと帰還した家康は、26日間もの間、そのまま
 江戸城に留まった。
  そして、各所へ、手紙を出した。
  政治工作を推し進めた。
  家康の戦い方だった。
慶長5年8月14日、東軍の先鋒隊が、この日に、清州城に到
 着した。そして、家康の出馬を待っていた。
  そして、家康から、
  「先鋒諸将、すみやかに美濃に進撃し、家康に対する
 忠誠を見た上で、江戸を出陣する」・・との報を受けて
 奮起した。
慶長5年8月22日、東軍が、岐阜城を陥落させた。
慶長5年9月1日、岐阜城陥落の報を聞いた家康は、それ以上
 の進撃・攻撃を止めるよう指示し、この日の9月1日、江
 戸城を出陣した。
..
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2015年5月11日月曜日

(増補版)96C3/3:気になった事柄を集めた年表(1597年2月~1600年6月)

題:(増補版)96C3/3:気になった事柄を集めた年表(1597年2月~1600年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1597年2月頃、慶長の役、第二次朝鮮出兵
  秀吉が、作戦目標を書いて、諸将に発した。
  その2月21日付朱印状によると、
  「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他
 にも進攻せよ」というものだった。
  明を支配し、東アジアに君臨したいという秀吉の夢。
  朝鮮に渡った石田三成が見たものは、食糧不足と、ゲ
 リラの襲撃に苦戦する姿、
  そして、病苦により多数の死者が出ている姿だった。
  太閤の夢を、この悲惨さを見て、止めさせることを思
 った三成だった。
  早く戦争を終結すべきとの考えに至った三成は、太閤
 を偽り、明の主張を入れた和平条約の締結に向け動き出
 した。
  太閤の趣旨に反した和平の動きをする三成らの工作が、
 太閤を偽ったものである事を憤っていた加藤清正は、
  遂に、その事を太閤に、その内容を知らせた。
  そして、明からやって来た講和使節を迎えて、秀吉の
 怒りは爆発した。
  明の皇帝の書簡は、「特に、爾(なんじ)を封じて、
 日本の国王と為す」とあった。
  秀吉は、言語道断の極みなりと言った。
  小西行長が呼び出された。
  小西行長は朝鮮にあって、配下の者を北京に派遣して
 この交渉に当たらせてきていた。
  太閤の怒りは、この行長に向けられた。
  この様な経緯から第二次の侵攻が始まっていた。
  第二次は、第一次の時より侵略者的な姿となっていた。
  論功行賞の証拠品だと言って鼻や耳を秀吉の下へ送っ
 たという。
  それが京都に遺る耳塚だという。
  李氏朝鮮側も、兵へ日本軍への攻撃命令しても、命令
 拒否がたび重なり、その三道水軍統制使の李舜臣が、罷
 免されるという状況だった。
  後任に元均が任命された。
  この元均も、最初は攻撃する事を渋っていた。
  日本軍は、その元均らを戦死させ大打撃を与えた。
  李舜臣が返り咲いた。
  この様な戦いが、1598年8月18日の秀吉の死去により、
 五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、朝鮮の日本軍
 にも知らされず、秘かに撤収が開始された。
  この戦争について「明史」は、
  「豊人秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明
 では)10万の将兵を喪失し、100万の兵糧を浪費するも、
 中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊
 臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した」と総評する
 様な戦いだった。。
1597年7月、ルソン国(今のフィリピン)入貢。
1598年、耕地総面積、この頃の、全国の耕作地の総面積は、
 163万町歩、総石高1850万石。
  この頃から、大規模な新田開発や、灌漑施設の開発が
 活発になった。
1598年3月15日、秀吉、醍醐の花見
  太閤秀吉が、京都の醍醐三宝院において、花見の宴を
 催した。
  秀吉は、信長や家康に比べて非常に桜が好きだった。
  秀吉は、この醍醐の花見の4年前にも、吉野山で盛大な
 花見を催している。
  秀吉と秀頼を中心に、列をなして一帯にしつらえた茶
 室を巡り歩いた。
1598年5月5日、秀吉、発病
  秀吉はすでに咳気を患っていた。また、神経痛の気味
 でもあった。
  病気は、5月下旬あたりから次第に重くなっていった。
1598年7月1日、北政所が、秀吉の病気平癒の神学を催した。
  この翌日の2日に、秀吉は気絶し人事不省となったとい
 う。8日には、秀頼の奏請による神学も奏された。
  そして、寝たきりの状態となり、7月13日、その後の体
 制を考え、五奉行を定めている。
  大阪と伏見に集められた諸大名の下に、7月15日に、
 11ヶ条が示された。
  この遺言の形式の書状に対し、5大老・5奉行は起請文
 を記し、それぞれ血判を印した。
  その書に、
  「秀頼事、成りたち候やうに、此の書付の衆として、
 たのみ申し候、なに事も、此のほかにはおもひのこす事
 なく候、かしく」とある。
1598年8月11日、五奉行から重ねて誓書が家康らに出された、
1598年8月18日、秀吉が、伏見城にて、この日に息を引き取
 った(63歳)。
  「露とをち 露と消えにし わが身かな 浪速のこと
 は 夢のまた夢」
  家康が、大老として秀頼の後見をすることになった。
  おねは、髪を下ろし仏門に入った(51歳)。
1598年8月、秀吉が没し、徳川家康と前田利家が、朝鮮の兵
 を引き揚げさせた。
  名護屋城は解体され、
  城の建物は、唐津城や平戸城へ運ばれた。
  大名の陣屋も取り壊され、
 山野に忽然として生まれた大都会は、7年を待たずにして
 以前の大地に帰り、豪壮な石垣だけが残った。
1598年9月、豊臣秀吉が没した後の家康は・・、
  徳川家康は、秀吉の頼みをよく守っている。
  秀吉の死後、直ちに、反秀吉の行動を起こしたのでは
 ない。
  家康は、秀吉の死後も、引き続き、大阪、あるいは伏
 見にいる事が多く、
  江戸の政治を、やることができない状態だった。
  家康は、秀吉の言葉の『秀頼を頼む』を守っていた。
  政治は、江戸城に居る秀忠に任せていた。
  また、秀忠は、「凡庸な二代目」と言うのは間違いで
 ある。
  秀忠は、『我はただ先業を恪守(かくしゅ、遵守、真
 面目に守り従う事)せしという迄にて何の功徳なし」と、
 家康のやったことを謹んで守っただけだと・・、
  これは、謙遜して言っている、
  秀忠は、家康がやれなかった幕藩体制を軌道に乗せる
 事を忠実にやっている。
  福島正則らの外様有力大名の改易は、家康は出来なか
 ったが、しがらみのない秀忠は、23名の外様大名、及び、
 16名の徳川一門・譜代大名の改易処分を行い、
  将軍権威を絶対のものとしている。
  戦国時代を、秀忠は、完全に清算したのだった。
1599年4月27日(閏3月3日)、前田利家(まえだとしいえ、
 加賀藩大名)が没した(1538年?~1599年)、
  豊臣政権の五大老の一人。秀吉の死後、8ヶ月後に・・、
  前田利家は、秀吉と同じような苦労人、
  本能寺の変後に秀吉に臣従し、
  豊臣家の宿老として、秀吉と共に天下泰平を目指した。
  秀吉は、その信頼から、秀頼の後見人の一人として任
 じた。その要石の一人が没したのだった。
  顕在化して来た豊臣政権内の武断派と文治派の仲裁役
 が没したのだった。
  秀吉の死後、朝鮮での戦いで生まれた武断派と文治派
 (管理派)の溝は、加藤清正、小西行長らの帰国によっ
 て、豊臣政権内の対立へ移って行った。
  こうした中で、1599年正月には、秀吉の遺言によって
 淀殿は秀頼と共に家康ら5大老を従え、新装の大阪城に入
 っていた。
  豊臣政権の主城の大阪城。
  秀吉は、自分は伏見城に引っこみ、秀頼に大阪城をや
 ろうと思い立つと病床から城の補強を命じ、三の丸を作
 らせ、自然の淀川と大和川に加え、人工の川を作り、ま
 た大きな空堀(からぼり)を切って、城郭が2キロ四方
 という、現在の大阪城の5倍の大きさの城郭に改造させて
 いた。
  この様な守りの堅固な城にして、太閤は死んで行った
 のだった。
  淀殿が来るまでは、正室のおねが主(あるじ)だった。
  淀殿の入城と入れ替えにおねは、京都の三本木に引き
 籠った。
  ここに秀頼・淀殿・石田三成を中心とする豊臣が始ま
 っていた。
  そして、1599年4月(閏3月3日)、前田利家が死に・・、
  利家は、秀吉より秀頼を頼まれていたが・・、
  そして、秀吉の武将の分裂・・、家康に何かが芽生え
 た・・
1599年4月、前田利家の葬儀の時、武断派の加藤清正・福島
 正則・黒田長政らは、遺恨のある石田三成を襲撃せんと
 したが・・、
  何かを事前に察知した三成は、何故か家康の居る伏見
 邸へと走った。
  家康は、武断派からの三成引き渡し要求を拒み、慰撫
 して引き取らせた。
  その後、三成は奉行職を解かれ、佐和山へ閑居となっ
 た。
  この様な事になるとは、家康へ走った三成も思ってい
 なかっただろう。
慶長4年(1599年)閏3月13日、家康が、伏見城の西ノ丸に
 入った。
  利家が死去し、三成が閑居し、
  利家の後を継いで大老となった前田年長を含め、毛利
 輝元・宇喜多秀家・上杉景勝らの4大老を、色々な理由に
 て、領国へ帰国させた。
  中央に残ったのは家康だけとなった(6月~8月、多く
 の武将が帰国し、家康の独断状態となる)
慶長4年(1599年)7月上旬、家康が、単独でタイの王へ返
 書した。
慶長4年(1599年)9月9日、家康が、重陽の節句で、豊臣秀
 頼に祝詞を申し述べるというもののために出向いた。
  この時、家康の登城途中に家康を討つという計画がも
 たらされた(家康の暗殺計画発覚)。
  首謀者が前田利長で、浅野長政、大野治長らの名が出
 た。
  家康は、伏見より自軍の兵2万の兵を大阪へ呼び寄せた。
  その家康の軍が大阪城に入った。
1599年11月15日(慶長4年9月28日)、家康が、大阪城へ入
 城した。
慶長4年(1599年)10月2日、家康暗殺計画の処分
  浅野長政・大野治長・土方雄久が、蟄居または他家預
 けとなった。
  そして、この処分で減ったままの奉行体制(3奉行)と
 し、また、秀頼・淀君の側近も排除された(豊臣体制の
 切り崩し)。
慶長4年(1599年)10月3日、加賀征伐が発令された。
  前田利長の容疑は晴れず、風聞も高まって、前田征伐
 となった。
  前田利長は、家康に抵抗せずに屈した。
  この加賀征伐の声明を知った利長は、直ちに家老を家
 康の元へ送り、陳弁に努めた。
  そして、利長の母を江戸へ人質として出す事を決めた。
  前田家は家康の下に降った。
  この頃、家康は、秀頼の直轄地を勝手に加増に使った
 り、また、勝手に転封したりと、
  諸大名の多数派工作を行った。
慶長4年(1599年)11月20日、出羽仙北の戸沢政盛が、家康
 に、上杉景勝の動静を報じた。
  2月になって、家康は使者を派遣して上洛を勧告したが、
 景勝は応じなかった。
慶長5年(1600年)2月1日、家康が、単独で田丸忠昌の知行
 宛行(あておこない、所領などを給与すること)をした。
  家康の単独の大名の転封の最初の例。
慶長5年2月、上杉景勝が、城普請や城の修築をさせたり、
 急がせたりしている。
慶長5年3月、出羽山形城主の最上義光が大阪に上り、家康
 に、上杉の不穏な動きを進言している。
慶長5年3月11日、上杉景勝の重臣・藤田信吉が徳川方へ走
 り、景勝の叛意を訴え、内部告発した。
慶長5年3月16日、オランダ船・リーフデ号が豊後に漂着し、
 航海長のウィリアム・アダムスと乗組員のヤン・ヨース
 テンが家康に対面した。
慶長5年(1600年)3月22日、徳川秀忠が、上杉景勝に、「
 会津領内の普請は、領国の仕置のためであるから、もっ
 とものことである。家康も気にしていない」旨の書状を
 送った。
慶長5年4月1日、家康が、使者を会津に遣わし、景勝に上洛
 のうえ、非違八ヶ条につき陳謝するよう促した。
  これは、上杉が城下に浪人を雇い入れたり、
 軍備を増強したりしている事を謀反だと糾弾して、
  使者を派遣して、誓詞の提出と上洛しての釈明を要求
 したこと。
慶長5年4月14日、これに対する上杉家の反駁:直江状
  上杉家の家老の直江兼次は・・、
  この家康の書状に対し返書を送った。
  これは、各条ごとに反駁したもので、
  上洛を拒絶していた。
  会津攻めが決定的となった。
  家康にしっかりと物を言う武士が居た。
  前田もしり込みした家康にものを言う、これが、日本
 の正義。
  直江状の内容(概要・意訳):
  今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
 一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不
 審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於
 てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱
 輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に
 候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。
(当家への御不審の様ですけど噂です。聴き捨てて下さい)。
 一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々
 年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申
 され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国
 は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国
 の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具
 に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。
 (景勝が上洛しないので御不審なのでしょうが、去年、
 会津に来たばかりで、冬も来ますから、その様な事情か
 らです。ここの冬が厳しいのはお尋ね下さい)
 一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべ
 き由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入ら
 ざる事。
 (当家は秀頼様を裏切るようなことは致しません。誓紙
 も出しましたし、何度も提出させて戴きました)。
 一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あ
 るべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。
 (太閤様からは景勝は律儀な仁と言われていました)。
 一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し
 御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御
 等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく
 候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。
 (当家の景勝は別心ありません。噂を言う人の方を調べ
 て下さい)。
 一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅
 からざる事。
 (前田家にも御威光を示されたようですけど・・、御威
 光は浅くないのですから・・)。
 一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、
 自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の
 取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見
 に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処
 に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏
 者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこ
 れなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入
 るべく候事。
 (前田氏と大谷氏が家康様の所へ行ったそうですが、ま
 た、榊原氏がちゃんと当家の事を言ってくれれば良かっ
 たのですが、何故、そんなに当家の事を悪く言うのか理
 解できません。御理解下さい)。
 一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に
 候事。
 (景勝が上洛しないから、色々、言われるのでしょうけ
 ど、雑説です)。
 一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ
 以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具
 支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、
 不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程
 の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候
 事。
 (武具を集めていることについてですが、都と違ってこ
 ちらは物騒なんで鉄砲を揃えています。悪いことをしよ
 うとしているのではありません)。以下略
慶長5年4月下旬、家康が、この頃に、会津征伐軍の先鋒を
 細川忠興・福島正則・加藤嘉明に命じた。
慶長5年5月3日、家康が、諸大名に会津征伐への出陣命令を
 出した。
慶長5年5月7日、前田玄以・長束正家・増田長盛(五奉行の
 うち)・堀尾吉晴・生駒親正・中村一氏(三老中)が連
 署で、家康に会津征伐の中止を申し入れた。
慶長5年6月2日、家康が、公儀の為と言って関東の諸将に
 会津出征の軍備を発令した。
慶長5年6月6日、諸将を大坂城へ集めて会津征伐の部署を決
 定した。
慶長5年6月15日、家康に、秀頼より黄金1万枚、米2万石
 が下賜された。
  これによって豊臣家のための戦いという形になった。
  「景勝が上洛せずに秀頼様への出仕を怠っているのは
 謀反の証拠である。だから秀頼様の命令の元に大老とし
 て景勝を征伐する」という形になった。
慶長5年(1600年)6月18日、家康が、会津征伐へ向けて、
 伏見城を出陣した。
..
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