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2014年10月16日木曜日

聖職者が・・ですよ・・??

 題:聖職者が・・ですよ・・??
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書のイエスの弟子たちは・・、
マッタクしょうがない人たちだと、表面的には思う。
 が・・しかし・・、
 その弟子たちについて、キリスト教は言う・・、
 「イエスの十字架の後の復活を見て、初めて弟子たちは、
分かる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされた時、初めてイエスの言う神の国
が分かる様になった」・・と。
 そして、キリスト教は、さらに、「つまり」という言葉
でつないで説明する・・、
 「つまり、神の国の中に自分を決定的に見い出す様に、
(イエスに)された」から・・と、
 この説明でお分かりになりましたか?
 キリスト教は、何時も、この様な、中途半端な言い方を
します。
 イエスが、神の国が分かるようにしたと言う・・、
 行為者が分かるが、実際、分からせねばならない神の国
は・・一言も説明しない。
 そして、「だから、イエスの弟子たちが分かる様になっ
たのです」の説明に・・なってない。
 「神の国の中に、自分を見い出す事が、出来ている弟子
たちに出来るようになった」・・とは?
 これも、結果だけを言っているだけで・・、肝心な、ど
うして出来るようになって、その結果、どの様だったなど、
肝心な説明は・・何もしていない。
 「出来るようになりました」・・で、終わっている。
 何時も、キリスト教は『この手の言い方』で、分かる気
になった様にしている。
 錯覚のマインド・コントロールをしている。
 それなのに・・、
 このイエスの復活が分からなかった人は、「神の国」に
入れないと・・、この言葉だけは、明確に、はっきりと説
明する。怖(こわ)い、罰がありますと言う。
 イエスの復活は、神の国への招待ですと言うが・・、分
からない人は、その御招待も駄目となっている・・と。
 そして、キリスト教は、「ウルトラ演技」の様な『言い
訳』を言う・・、
 「復活が、明確に証明できないからこそ・・『信じると
か?」とか、『信じないとか?』とかの・・信仰が、生ま
れるのだ」・・と。
 これは詭弁(きべん)だ。
 「復活があったと、はっきり説明できれば、信じる信じ
ないの話も生まれない」・・と、
 キリスト教は、この様な『観念の遊び』を信仰と称して、
貴重な時間を空費している。まったく時間の無駄だ。
 逆でしょう?・・イエスの復活が、はっきりと説明され
れば皆様が信仰するでしょう。
 当時の状況でさえ、既に、イエスの弟子たちが、復活話
をでっち上げると、公的機関に知られていて・・その対策
が講じられているではないですか・・この復活話は、この
様な、古代の当時でさえ、『眉唾話を見透かされた社会情
勢』だったでしょう。
 イエスが亡くなった頃の状況は、復活があったと騒いだ
のも、当時の公(おおやけ)の機関が、既に、見透かして
いた通りの、『イエスの仲間の人たちだけ』でしょう。
 何ら、エルサレムの街が、こうなったとか、ああなった
とかの話は皆無、何も無いのです。
 ほんのイエスの周囲だけの、一部の話に、終始している
だけではないですか?
 イギリスのキリスト教聖職者の方たちでさえ、報道機関
の調査に、聖職者の過半数の、多くの、多数の聖職者の方
々が・・、
「イエスの復活は信じない」「信じることができない」と
答えています。聖職者が・・ですよ・・?
..
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取りとめなく、書いてみたら・・

 題:取りとめなく、書いてみたら・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 本日は、取りとめもなく書いたらどうなるかを、以下に
書きました。
 キリスト教のイエスは、平均寿命が30歳以下という古代
の時代に生きた人である。
 また、この時代は、子供の半分が、15歳になる前に亡く
なってしまうという悲しい時代でもあった。
 この様な時代のイエスが、30歳を過ぎた晩年に、突然、
洗礼者ヨハネの所へ、洗礼を是非して貰いたいと現れた。
 洗礼者ヨハネと言えば、当時、有名な活動家だった。
 ユダヤ教エッセネ派に属し、リーダーとして大きくなっ
て行く人だった。
 より重要な地位に、付くべき人だった。
 しかし、公権力によってその芽は摘まれてしまった。
 彼が所属したユダヤ教のエッセネ派は、弱小集団だった。
 キリスト教とその考え方が似る。
 この様な事があって、キリスト教聖書も、洗礼者ヨハネ
を軽くは扱えず、無視する事も出来ず、しかるべきページ
を割(さ)いて、洗礼者ヨハネを描いている。
 だからと言って、洗礼者ヨハネに信仰のベクトルが向い
ては駄目だと、何かと洗礼者ヨハネが、イエスを立てる演
技をさせる、話をさせる事をしている。
 イエスを奉(たてまつ)る洗礼者ヨハネという図となっ
ている。
 因みに、話はそれるが、イエスを奉るという事で、マタ
イによる福音書の聖書記述者のマタイが、イエスの父親の
ヨセフを、ユダヤ民族の唯一の英雄のダビデまで引っ張り
出して、奉(まつ)り上げた、ダビデのいる救世主の系図
に、イエスと血の繋がっていないイエスの父親ヨセフを、
系図に入れたが?
 これは、マタイの時代は、まだ、「処女受胎のマリア」
の作り話が、まだ、起きていなかったからだ。
 マタイは、イエスが、ヨセフの血の繋(つな)がった息
子だと知っていたのだ。
 ヨセフの実子で、イエスは次男か、3男という本当の視
点で描いたのだ。
 処女受胎の嘘話が頭にあったならば、ややこしくなる父
親ヨセフが、系図に入る話は描かない。
 また、イエスの弟子たちの事ですが・・、イエスに叱ら
れ、イエスの言っている事が、イエスから「まだ、分から
ないのか」とも言われて居た弟子たち。
 この弟子たちが、「イエスの死後、まともになった」と
言われるが、
 この言い方は、一方的に弟子たちに問題があったとして
いるが、これは間違いだ。
 このどうしようもない弟子たちが、師匠が変わったら、
まともになったという事は、イエスに問題があったと言え
る。
 常に、一緒に居たイエスと弟子たち。
 その細かいすべてが分かる間柄になる訳だ、絶対に。
 それがまったく恥ずかしい経過を辿(たど)る。
 イエスの指導に、その問題があったとしか言えない。
 また、指導すべきイエスの言い方や、イエスの性格から
来るその対応に、問題があったのだと言える。
 イエスの性格上の問題があったとも言える。
 そして、奇蹟の話へ・・、古代人は奇蹟の話に驚いて、
言う事をきかすのに都合が良かったのだろう、
 キリスト教は、「奇蹟のオンパレード」「奇蹟の大安売
りの宗教」となっている。
 信仰深い信徒の方でさえ「このすべてが真実だとは信じ
られない」と言う様に、辟易(へきえき)状態となってい
る。
 「人を生き返らせた」「5000人が食べる物を空から降ら
した」「水の上を歩いた」「歩けない人を歩かせた」「盲
人を見えるようにした」「伝道しなくても人に信じさせた」
「風をぴたりと止めた」などなどだ。
 実は、「伝道しなくても人を信じさせた」以外は、聖書
に出て来た奇蹟なのだが・・、
 肝心の「伝道しなくても・・」の奇蹟だけは、出来なか
った奇蹟の様だ。
 この奇跡には、良くも嘘を言うものだと呆れること半分、
怒り半分の状態だ。
 「誠実ではない、この奴め」という思いだ。
 人々を口先三寸で、よくも、詐欺氏まがいに惑わすもの
だと本当に呆れる。
 キリスト教よ! もう、嘘を付くのは止めなさい。
 惑わして、可哀想な方々を作る事は止めなさい。
 キリスト教会の中で「お山の大将になって、好き勝手を
言うのは止めなさい」、正業に付きなさい。
 そして。次の話・・、マグダラのマリアが生まれ育った
マグダラの街と、イエスの生まれ育ったナザレの街は、近
かった。
 因みに、イエスを裏切ったユダの生まれ育ったケリオテ
の街は、イエスやマグダラのマリアの街から遠い南の地に
あった。
 イエスとマグダラのマリアの生まれ育った地は、肥沃な
地で、農作物の恵み豊かな地だった。
 それに引き変えユダのケリオテの街は、死海の際で砂漠
の地・不毛の地であった。
 この風土の違いは大きく精神構成・考え方に大きな違い
を生んだ。
 何かとイエスとマグダラのマリアが気が合ったのも、こ
の同じ気候・風土に生まれ育った事に関係していると考え
られる。
 そこに、過重な税金を弱い民に課税し、ノルマを果たせ
ば私腹を肥やす事の出来た庶民いじめの徴税人(取税人)
が横行した。
 この金持ち取税人の家に上がり込んで、飲み食いするイ
エスだった。
 キリスト教は、こんなイエスを、何だかんだと言って美
化をする。
 信徒獲得のためとはいえ、嘘を付いたり、右のものを左
だと言ったりする事は止めなさい。
..
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2014年10月15日水曜日

大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。

 題:大きい世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかった。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の、イエスの家庭は、子沢山な家庭だった。
 イエスの家族は、9人か、または、それ以上と考えられ
る。
 当時、半分の子供が、15歳までに死ぬ・・という、社会
だった。悲惨な社会だった。
 日本でも・・昔はそうだったが・・、その様な社会は、
悲しい事だが・・その対策として、多くの子供を持つもの
だ。
 古代の時代に生きたイエスの家庭も・・その様に・・子
沢山の家庭だった。
 イエスには、7人の兄弟姉妹、または、それ以上の兄弟
姉妹たちがいた。
 イエスが長男ではないという事は、既に、書かせて戴き
ましたが、
 故に、処女マリアは『嘘だ』と、既に、書かせて戴きま
したが・・、(単なる翻訳ミスで処女となっただけで、イ
エスの生誕は処女マリアからではない・・と)、
 イエスは『次男』か、『三男』だと見られている。
 また、子供の死亡率が高い事も、既に、述べたが、平均
寿命は、『30歳未満だった』と言われている。
 イエスの経歴は、あまり詳しく分かっていないが、
 34歳か、36歳の頃の歳に、刑になったと見られている。
 イエスが、実際に居た、存在したという『存在証明』は
出来ない状態となっている。
 イエスは『居なかったかもしれない人』となっている。
 この原因を作ったのは、『キリスト教会』だ。
 イエスに都合の悪い事を書いた書類(当時のキリスト教
会が都合が悪いと、当時のキリスト教会の判断で、焼いて
しまったのだ。焼却処分。馬鹿な事をしたものだ)。
 イエスの存在証明が出来なくなってしまったのだ。
 イエスの生きた時代は、平均寿命が30歳以下だったとい
う。その様な、平均寿命が短い当時なので、イエスは長生
きの部類に入る。
 そのイエスが、活動を始めたのも30歳を過ぎており、
 イエスは、晩年になって・・その活動を始めたと言える。
 活動期間も『1年』か、長くても『2年』と見られている。
 そして、それまで、イエスが活動していたという記録は、
一切ない、書かれていない。
 父・ヨセフの職業の大工を継いでいる事が分かっている
ので、多分、大工仕事だけをしていたのだと考えられる。
 多分、推測だが、父・ヨセフの死が切っ掛けなのだろう、
その大工仕事を止めて、突然、イエスは、洗礼者ヨハネの
所に現れた。
 この洗礼者ヨハネは、イエスの従兄弟であり、つまり、
親戚筋の人なのである。
 洗礼者ヨハネは、当時、有名な活動家だった。
 イエスの親戚筋でも、評判になっていたと考えられる。
 イエスは、この有名な従兄弟の洗礼者ヨハネに、是非、
洗礼して貰いたいと、洗礼者ヨハネの所に現れたのであっ
た。
 そして、イエスは、この従兄弟の所に入門した。
 しかし、謙遜深い洗礼者ヨハネは、イエスを立てた。
 人物的にも、出来た人だったと思われる。
 イエスは、この洗礼者ヨハネに付いて、修業を教えてもら
い、一緒に修行した。
 当時、イスラエルには、多くの預言者が居り・・、
 公的機関は、この預言者たちを処刑していた。
 このことが、洗礼者ヨハネにも訪れた。
 洗礼者ヨハネは、処刑された。
 この時に、イエスではなく、洗礼者ヨハネが処刑された
という事は、まだまだ、イエスの『表立った存在』は無か
ったと言える。
 また、洗礼者ヨハネの活動が、公権力の目ざわりとなり、
処刑の対象にしたと言える。
 イエスは、陰に隠れる存在だった。
 洗礼者ヨハネの居なくなったイエスは、自主的に活動を
始めた。
 その活動は、洗礼者ヨハネとまったく同じだった。
 それ故に、それまでのイエスは、「神の子」という状態
とは、まったく無縁だった。
 また、超能力や奇蹟をおこすという人とは、まったく、
違った、無縁だった。
 当然、イエスが、評判になったなどという話もない。文
献などにも、まったくと言ってない。
 イエスの生まれ育った地元・故郷の人も・・、
 「この人は、この様な事を何処で知ったのだろう」と、
驚いているくらいなのだ。
 「この人は大工では無いか」と(「マタイによる福音書」
6・1~3)参照。
 でも、イエスも、故郷では奇蹟などがやりにくいと、本
音を吐露(とろ)している。
 また、『活動を開始したイエス』と言ったって、大きい
世界観から活動を開始したという訳では、まったくなかっ
た。
 狭い、ある一時代に、また、ある一地方に、生きた人が、
活動を開始したという活動だった。
 当然、現在では過去のものとされるもの。
 また、イエスに、ある理念に基づいて『立宗をしよう』
などという理念なども、まったくといってなかった。
 当然、また、イエスには、キリスト教の「キの字」も無
かった。
 キリスト教の立宗など、私には『関係ない』という御仁
だった。
 イエスは、ユダヤ教で満足していた。
 ただ、ある『狭いユダヤ教の理念だけ』を主張するという
御仁だった。
 イエスは、ユダヤ教の枠内だけで、思考を展開するという
御仁だった。
 ユダヤ教のある一つの宗派の「エッセネ派」の主張をとな
える御仁なだけだった。
 イエスの多くが、洗礼者ヨハネの影響を受けた枠内にあ
った。
 洗礼者ヨハネは、禁欲的で、ラクダの毛皮を着て、腰に
皮の帯を締めて、荒れ野で修行し、イナゴとか、蜜を食べ、
戒律を守り、沐浴(もくよく)をし、農耕をし、手工芸を
し、財産の私有はせず、菜食の生活という状態だった。
 イエスは、洗礼者ヨハネに影響されたとは言え、エルサレ
ムの人から、「大酒、飲み」とか、「大飯(おおめし)食
(く)らい」と、そのイエスの贅沢の生活を、半分、羨む
意味を含みながら、揶揄(やゆ)されていた。
 結構、イエスは、贅沢をしていたと言える。
 研究者も、十字架像(あの偶像崇拝の十字架に付いてい
る像)のイエス像と違い、実際のイエスは、かなり太って
いたとしている。
 キリスト教の大きな基本・根本としている福音書は、大
きな間違いをしている。
 新しい出現として「イエス」を扱っているが、そのイエ
スが信奉していた「父なる神」をないがしろにしている。
 イエスが、この事を知ったら大いに怒るだろう。
 山から降りて来て、怒りに怒った「モーゼ」の様に、イ
エスも、現在のキリスト教を見て、怒りに怒るであろう。
 信仰が成立していない・・と。
 キリスト教は、その事が分かっていたって、イエスの死
後、何百年も経った後に、人間様たちが集まって、公会議
と称して、イエスも聖霊も、みな、神にしてしまった。
 しかし、神が増えたと言う訳ではなく、「マジック」を
掛けた様に『一神だ』と称した。それで安心している。
 キリスト教は神をいじくり過ぎている。
 節操が無いことを、人間様が、やり過ぎる。
 信じるに足る・・宗教ではない。
..
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2014年10月13日月曜日

結果・・未来がないことを説いている・・、

 題:結果・・未来がないことを説いている・・、
   (ひどい宗教である)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教のイエスは、ユダヤ人であり、ユダヤ民族の
中で生き、そして、生活をした。
 そして、イエスは、ユダヤ民族が持つ『終末思想』を、
また、持っていた、一般のユダヤ民族と何ら変わりなく、
当然のごとく、持っていた。
 イエスの生きた・・ユダヤ民族のその地の時代は・・、
 その終末思想が、はなはだしく強く、叫ばれていた時代
だった。
 社会は、戦争が多く・・、
 戦争に・・明け暮れていた・・、
 社会は、乱れ、倫理も、乱れ・・、
 社会だけでなく・・人心(じんしん)も、荒廃していた。
 宗教の中心の神殿には、神殿娼婦が居た。
 また、こともあろうに、一般社会の女性にまで・・その
神殿娼婦をする義務が・・課されていた。
 また、民は、可哀想な事に、重い税金にあえいでいた。
 当然、仲間であるべき一般人のユダヤ人の・・税金取立
人の「取税人」を、ユダヤの方々は恨んでいた。当然の心
である、
 また、この狭い地には・・多くの民族が、錯綜(さくそ
う)していた。
 その多くの民族が・・生きるための、生きる糧の奪い合
いの世の中、世情(せじょう)の中にいた。狭い「るつぼ
の中」でうごめいていた。
 その様な中でできたキリスト教は・・、その陰惨(いん
さん)な世情を、当然のごとくに・・写していた。
 キリスト教は、終末思想を持った宗教となった。
 これは、キリスト教聖職者も認めるところであり、否定
は・・できない。
 そして、キリスト教聖職者は説く・・言う・・、
 「人間の生命に・・終わりがある様に・・、歴史にも、
必ず終わりの瞬間がやって来る・・その様に、キリスト教
は考えている」・・と、
 その終末の時、キリスト教の神が、天国に入れるか?否
か?・・を、裁くと、説いている。
 しかし、キリスト教は、この様なキリスト教の教義を、
最近、訂正し始めている。
 前言取り消しの態度となって来ている。
 そういえば、キリスト教は、最近、『隣人愛』という言
葉を言わなくなった・・が・・、
 標記の件も・・、近代社会には受け入れられないと、キ
リスト教の教義の維持が難しくなったという。
 似たような話が・・話が、また、それるが、キリスト教
が、「婚前の男女の同居を認めていない」が、これを認め
るようにしよう、変えようと、これも、今までの教義を捨
てようという動きをしている。
 そして、同性の愛についても認めようと、同じく教義変
更しようとの話がある。
 キリスト教は悩み、大きく悩みうねっている、のたうっ
ている。
 キリスト教は、それらの「教義の維持」が難しいと悟っ
ている。
 あなたの、今、信じているキリスト教の教義も、何時、
変わるかもしれません?・・
 その様な、中にある信仰となっていることを、見つめ直
してください。
 何ら、キリスト教には「絶対なる信仰」の絶対なんてあ
りません・・、
 その様な確固たる教義のない宗教です。
 そして、その事が露呈している宗教の、昨今なのです。
 変わる宗教教義、信じるに価しない教義であり、その様
な宗教であるという実態が、如実に表れております。
 キリスト教聖職者でも、従来からのキリスト教の教義を
認めがたいという態度の聖職者も少なくありません。
 キリスト教の論理破綻・教理破綻の「波」が、「うねり」
が、あちこちで起きております。
 何しろ、古代の論理では・・無理なのです。
 キリスト教は、現代社会では、現代社会において、その
宗教維持は出来ないのです。その様なレベルなのです。
 古代人のレベルと、はるかに違う現代社会では、その宗
教教義は・・維持できないのです。
 キリスト教聖職者は、苦し紛れに、次の様に言う・・、
 「歴史の終末の有限は、無限なる歴史の中に取り込まれ
るのです」・・と・・、
 お分かりになりますか???
 何を言っているのでしょう・・もう、ここまで来ると笑
い話です。
 この様に言うしかないという言い方です・・、
 キリスト教聖職者は、言い逃れの職業と思えて来ます。
 キリスト教聖職者は、この様な言い逃れ論理を、考え出
さねばならない職業、苦し紛れにこの様に言っているので
す。絞り出しているのです。
 こんなレベルの話を、感受性の鋭い子供たちが、聞いて、
育って、正しい論理思考ができるように育つのでしょうか?
育ちますか???
 ますます、子供たちを惑(まど)わす事態に追い込む結
果になって行きます。
 こんなキリスト教聖職者が、社会に存在する意義はあるの
でしょうか?
 この様な破綻論理を吐く職業の聖職者は、完全に、その
存在意義は無くなっています。むしろ社会悪とさえなって
居ります。
 この様な破綻論理を吐かねばならないキリスト教聖職者
の方々は、反社会的存在であり、反社会的行為を行なって
居ります。
 キリスト教聖職者は、「終末は希望である」と言い出し
ている。
 しかし、何故? 死後の世界の、終末思想を、希望にする
どんなキリスト教論理が? どんなキリスト教の論理で希
望が生まれて来るのかは不明です。神と共に居られるから?
 現代に生きる希望は、古代と同じく捨てるのですか?
 イエスの時代も、この世のうちで希望を叶えよう、実現
させよう、出来るのだとして来た・・、
 しかし、その終末の論理は、とうとう乱れた社会で、現
実社会で、叶(かな)えられなくて、死後の世界で、神が
叶えると、変遷したという経緯のある終末思想、
 今・現代の聖職者が、希望が、どんな論理で生まれて来
るかは不明なのだが・・、
 キリスト教聖職者は、キリスト教の終末思想は、希望を
砕く悪の倫理と知って居て、あの世の天国でしか叶えられ
ない論理だと知っていて、それでは駄目だと知っていて、
希望を砕く悪の論理だと知っていて・・言う。
 「ハルマゲドン」という、キリスト教の訳の分からぬ言
葉を使って、輝く未来が開かれていると・・言葉だけは明
るく言う、
 言葉は明るく使ったが、論理はまったく無く・・、
 未来ある若者の希望を砕く・・、
 この様な、キリスト教の悪思想は、それこそ、今のこの
社会で・・終わりにしたい。
 キリスト教聖書は、特に、若者には読ませてはいけない。
 また、「フランダースの犬」という幼児向けの本も、キ
リスト教は、「第二のバイブル」として宣伝しているが・
・、
 この本の最後は・・、
 イエスの十字架の磔の絵の前で、主人公の子供と愛犬が、
冬の寒さの中で凍死するという場面で、天に昇るのだ・・
という事で、めでたしめでたしとしている。
 幼児にまで、死する事によって希望が叶えられるという
洗脳をする、マインド・コントロールするキリスト教なの
である。悪の宗教である。
 これから、この世で勉強し、世の中の方々のために、そ
の様な人になって行こうという未来ある子供たちに・・、
 この様な思想を・・美しいと美化して・・刷り込もうと
いうキリスト教。
 反社会的な教義、
 反建設的な教義、
 健全な建設的なベクトルと真反対の死の中にあるキリス
ト教・・、
 社会の、建設的な心を砕く・・宗教である。
 この宗教では・・キリスト教では・・、
 人類は救済されません。
 あなた方も、幸せには、絶対、なれません。
.
 (参考)いん‐さん【陰惨】 [名・形動]暗くむごたらし
   い感じ。また、そのさま。「―を極める」、
..
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2014年10月12日日曜日

いたいけな子供たちが・・、

 題:いたいけな子供たちが・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教徒の女子学生の様な、感受性の鋭い心に、配
慮の欠いたキリスト教の話が・・突き刺さる。
 1224年9月14日に、ラ・ヴェルナ山において、フランシ
スコの手足と脇腹に、イエスが受けた傷と同じ傷が現われ
た・・と、キリスト教は言う。何故か? 年月日がはっき
り言えるという。
 それまでの、フランシスコの祈りが通じたのだ・・と、
キリスト教は言う。
 この傷を、聖痕(せいこん、スティーグマーク)という
・・と、キリスト教は言う。
 一生懸命に祈っていたから、この傷が現われた・・と、
キリスト教は言う。
 イエスが受けたという同じ苦痛があった・・と、キリス
ト教は言う。誰が調べたかは知らないが、イエスと同じ苦
痛があったとキリスト教は言う。
 フランシスコは耐え、彼の傍(かたわ)らには、天使が
降りて来て、フランシスコを励(はげ)ました・・と、キ
リスト教は言う。
 そして、イエスが出現した・・と、キリスト教は言う。
 そのイエスが、どうのこうのしたとも、キリスト教は言
わない。
 また、そのイエスが、何か話したとも、キリスト教は言
わない。
 ただ、イエスが現われた、とだけキリスト教は言う。
 また、イエスが出現している間、ラ・ヴェルナ山は、燃
え上がる焔(ほのお)に包まれている様に見えた・・と、
キリスト教は言う。
 その焔は、大地を燃えつくす様に、周りの山々、谷とい
う谷に、焔の光が照らされた・・と、キリスト教は言う。
 フランシスコは、傷の痛みに耐え、その痛みのため包帯
を巻いた・・と、キリスト教は言う。
 傷だらけの体となっているフランシスコだった・・と、
キリスト教は言う。
 その後のフランシスコは、数知れない奇蹟を起こした・・
と、キリスト教は言う。
 この話に、さすがに、信心深いキリスト教徒も、「その
奇蹟のすべてが事実であるとは思えない」・・と、言った
が・・。
 キリスト教には、この様な、嘘話が実に多い。
 キリスト教は、「奇蹟が起こせないなら聖人ではない」
「聖人にしない」・・と、言っている。
 規則がある。
 最近も、ニュースに取り上げられ、報じられた、キリス
ト教の聖人の騒ぎがあった。
 「聖人と言われていた聖職者」が、「わたしは、死んだ
後、腐らない」と言っていたのだが、公(おおやけ)に言
っていたのだが・・、
 実際、死後、腐っていないかの検証をするという騒ぎが
ニュースとなったのだった。
 ニュースのアナウンサーは、コメントで、怪訝(けげん)
な顔で「体、全体に、ワセリンが塗ってありました」と伝
えた。水分蒸発を防ぐためだろう。
 また、このニュースの見るべきところは、特ダネ的なと
ころは、別なところにもあった。
 この聖職者の遺体を、保管場所からの取り出すところを
「隠し撮り」的な映像シーンを報じたのである。
 そのシーンは、その遺体を取り出すために、保管場所の
鉄扉を開けた時、白煙がもうもうとたち上がったのである。
 これは、明らかに、極低温の冷蔵庫から取り出しました
という映像だった。
 冷蔵というより、より極低温の『冷凍レベルに保管して
いました』という事を、このシーンは語っていた。
 この様な、極低温に保管しておけば、キリスト教聖職者
の聖人の遺体は腐る訳がない。
 冷凍マグロが腐らないのと同じ冷凍状態においてあった
のだ。
 これを、キリスト教は、腐らないと言っていたのである。
 この様な、キリスト教の嘘に、従順な感受性の鋭い女子
学生が繰(く)られている、洗脳されている。
 何故、キリスト教は、この様な嘘を、付き続けているの
だろうか?
 いたいけな子供や幼児たちを、騙(だま)し続けるのだ
ろうか?
..
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