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2016年7月15日金曜日

(増補版)381E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年2月~1883年3月)

題:(増補版)381E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年2月~1883年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年2月17日、浴場での政談演説が始まった。
  政談演説は、政治思想を普及させる方法として行われ
 た演説で、
  明治10年代初め、自由民権運動が起こると、明六社ら
 の知識人グループが行っていた演説は、民権派によって
 政府批判、民権思想普及・宣伝のための手段として重視さ
 れた。
  そして、政談演説会は、頻繁に開かれた。
  また、政談演説は、新聞とならぶ最も重要なコミュニ
 ケーション手段であり、1881年~1882年には、全国で大
 流行した。
  それにともない、政府は、取締りを厳しくした。
  街頭での演説禁止、官吏の演説禁止、警察官の臨監、
 法に触れた弁士の一定期間演説禁止などの処置をとり、
 1880年には、これらをあわせて集会条例を制定して規制
 した。
1883年2月21日、郡区長の給料・旅費は、1883年度より国庫
 支給と定められた。
1883年2月27日、伊能忠敬へ正四位追贈された。
1883年2月 東京電燈会社が設立された。
1883年2月、朝鮮の首都漢城の外港にあたる仁川(インチョ
 ン)に日本租界が設定され、9月に開港した。
  (参考)租界:アメリカやイギリスが、中国の開港都
 市において、その居留地区の警察・行政権を掌握した組
 織および地域の事を言い、1845年に、イギリスが上海 (
 シャンハイ) に設けて以来のもの。
1883年3月1日、天気図が作成され、「低気圧」の語が誕生
 し、流行語となった。
  東京気象台が、毎日の天気図を作成し、配布を開始し
 た。
1883年3月1日、農商務省が、第1回水産博覧会を開催した。
  会場は、東京・上野公園
  会期:1883年3月1日~1883年6月8日
  開設の趣旨:
  本会開設ノ趣旨ハ各地其ノ業ノ盛衰ヲ較へ其術ノ巧拙
 ヲ闘ハシ其方法ノ得失ヲ交詢シ広ク其改良進歩ノ道ヲ求
 ル所以ニシテ其趣旨専ラ経済上ノ点ニアリトス出品者宜
 シク其ノ意ヲ領シ凡ソ出品物ハ漁具ノ利用漁業ノ巧拙水
 族ノ繁殖保護及製造方法ノ良否得失ヲ示ス等務メテ本会
 開設ノ意ニ適切ナラシムル様注意スルコト肝要ナリ
  ・・非常にまじめな明治人の気質が表れている文。
  必死に日本を良くしたいと努力していた。
1883年3月3日、朝鮮と海底電線設置条約に調印した。
  日本は、インフラの恩恵を朝鮮まで及ぼした。
  また、この頃、清国と朝鮮間の締結した条約で、清国
 は、国主的立場であった。
  そして、日本は、この日本・朝鮮の線と清国・朝鮮の
 線とを結んだ(連結した)。
  この頃、長崎・上海が連絡されてはいたが・・、
  この今回の日本・朝鮮(長崎・釜山)の線でも中国と
 連絡できることとなった。
1883年3月10日、「清国及朝鮮国在留日本人取締規則」制定
  (明治16年太政官布告第9号)
  中国及び朝鮮における、在留禁止の法令ができるいき
 さつは・・、
  この発端になったのが、1881年8月に、釜山居留地の日
 本人に暴力が加えられる事件があった。
  最初、朝鮮側から日本側への加害行為があった。
  それは、借金返済を取り立てるため、条約上の旅行制
 限があったが、朝鮮内地の亀浦に赴いた日本人商人4名が、
 土地の朝鮮人に暴行された。
  借金取り立てから逃れたいという理由を、騒ぎにして、
 法令に「かこつけて」乱暴撃退行為に出たという経緯(
 いきさつ)だった。
  それに対し、抗議しようと日本人居留民たちが、居留
 地を離脱し、朝鮮人町へ行き、いざこざが大きくなった。
  この件に対し、朝鮮政府は、釜山領事館へ条約違反で
 あることと、居留民の取締の責任を問うと主張した(借
 金踏み倒しに対して何ら言及していない)。
  釜山領事の近藤真鋤は、同事件の善後策として、領事
 館警察の増員と共に、「退韓律」の制定を本国・日本政
 府に提出した。
  そして、在留を禁止するのは効果的な統制手段である
 と前提し、
  主に「両国交際ヲ妨害セシ罪」「両国条約ニ違犯セシ
 罪」「両国貿易ヲ妨害セシ罪」に適用すべきことを進言
 した。
  (これも、原因の元にある借金踏み倒しに対して何ら
 言及していない)。
  更に、一週間後に、案を具体化して・・、
  「退韓ハ司法上ノ処分ニ非スシテ」、「予防ノタメノ
 行政処分」の制度、
  すなわち、領事裁判権に属する司法処分ではなく、領
 事警察権に属する行政命令の制度として制定するとした。
  しかし、日本政府からは、何等の反応もなかった。
  そのため、翌年・1882 年に、領事・近藤真鋤と総領事・
 前田献吉の連名で・・、
  「犯罪ヲ未然ニ予防スルハ行政上ノ要務」であるが故
 に、「未タ罪科ヲ犯シタルコトナシト雖モ過激ノ言論ヲ
 発シ或ハ過激ノ挙動アル者」、「一タヒ罪科ヲ犯シタル
 者ニテ再犯ノ懸念アルモノ」に対する在留禁止制度を設
 けることを催促した。
  (予防の名のもとに、無実の者を拘束してしまうとい
 う問題を無視した。
  何もしていないのに、急に、警察が来て拘束されると
 いう恐ろしさがある)
  そして、その理由として、その前例が、日本国内にお
 ける「過激言論」に対する行政処分としての印行禁止・
 演説禁止などの行政処分、そして、英国の「日清在留英
 国人取締法令」の関連規定を挙げた。
  この様な、現場からの度重なる要求により、ようやく
 中央政府内において、議論が行われた。
  そして、同年・1882年12月に、布告案が纏まり、外務
 卿・井上馨、司法卿・大木喬任の連名で、太政大臣・三
 条実美へ在留禁止制度制定の件が上申された。
  その理由は・・、
  「現今、朝鮮国漸ク外交ヲ重ンシ万国ノ公例ニ従ヒ広
 ク欧米諸国ト交通セントスル時」であるが故に、在留日
 本人が紛擾を起こす場合、「独リ在留地方ノ平安ヲ害ス
 ル耳ナラス御交際上不都合不尠」・・と。
  すなわち、居留地の安寧秩序と対朝鮮外交を主眼とし
 た領事館側の提案理由に加え、
  中央政府レベルでは、対欧米外交に及す悪影響を懸念
 した。
  また、清国については、朝鮮在留民のような過激粗暴
 の行動は未だないものの、安寧の保持と在留民善導のた
 めに必要と判断した。
  そして、在留禁止制度を適用することとした。
  同草案は、翌年の1883年2月21日に、元老院で審議・修
 正され、同年・1883年3月10日付で、「清国及朝鮮国在留
 日本人取締規則」(明治16 年太政官布告第9号) が制定さ
 れるに至った。
  丁寧に近隣諸国に対応する日本だったが・・、自虐的
 である。
1883年3月13日、高村光太郎(たかむらこうたろう、みつた
 ろう、詩人、彫刻家)が生まれた。
  『智恵子抄』の詩集が有名。
  『乙女の像』(彫刻)。
  父は、高村光雲。
1883年3月14日、カール・ハインリヒ・マルクスが没した。
  哲学者・思想家・経済学者・革命家
  1845年に、プロイセン国籍を離脱しており、以降は無
 国籍者であった。
  主に、イギリスで活動し、フリードリヒ・エンゲルス
 の協力を得つつ、包括的な世界観および革命思想として
 科学的社会主義(マルクス主義)を打ちたてた・・しか
 し・・、
  1991年12月のソビエト連邦共産党の解散と、
  1991年12月25日の、ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョ
 フの辞任に伴う、ソ連解体をどの様に思うだろうか・?
1883年3月15日、立憲政党が解党した。
  前年・1882年に結成の日本立憲政党が、集会条例の影
 響を避けるため解散した。
  福地源一郎らが中心となって結成した政府系政党で、
 欽定憲法主義を標榜(ひょうぼう)したが空中分解した。
  「三人党」とよばれ、組織的には弱体だった。
  (氷川清話)偽党撲滅
1883年3月20日、自由民権運動関係の高田事件(内乱陰謀容
 疑)起こる。
  新潟県頸城郡の自由党員20数人が、大臣暗殺・内乱の
 陰謀容疑で逮捕された。
  政府転覆計画の捜査そのものが一種の見込み捜査であ
 った。
  大半の容疑者について、証拠が見つからないまま、8月
 までに22名が不起訴、
  加藤・八木原らの自由党幹部12名は、起訴したものの
 公判が維持できず、免訴・責付釈放となり事実上の無罪
 となった。
  (氷川清話)明治16年には自由党員の叛乱・高田事件
.
 (今日の言葉・・その1)
.
1905年、日本はこの時まで、日本の危機の時代をくぐり抜
 けて来た。
  日本は、この年、日露戦争に戦勝した。
  この時まで・・、1853年のアメリカの来航をはじめ、
 列強各国が、日本の植民地化をうかがっていた時代・・
 それをくぐり抜けて来たのだった。
  1853年に、アメリカのペリーが来航し・・アメリカ・
 ヨーロッパの列強各国が日本へ殺到して来たが、
  日本の江戸幕府は、やむなく開国し、その各国と国交
 を開いたが、
  まだまだ、未熟な日本は、何らその防備はなく、
  その列強各国は、その機会をうかがっていた。
  日本だけが・・例外であったのではない。
  日本は、常に、外国勢力が、ある日、突然上陸して、
 自分たちの主義や独立を脅かすかもしれない危機に曝(
 さら)されていた。
  アジア各国がされたように、日本の植民地化への思惑
 は、列強各国は、当然のように持っていた。
  明治政府が、必死に、「富国強兵」策に邁進したのは、
 明治の賢明な諸士が、そのことの理(ことわり)を十分
 すぎるほど理解していたからだった。
  のほほんと平和の夢を貪(むさぼ)っていたのではな
 かった・・現代の様に・・、
.
 (今日の言葉・・その2)
.
1942年頃、アメリカが、日本の天皇制を『日本の計り知れ
 ない資産』と結論した。
  日本との戦争を遂行しているアメリカは、盛んに日本
 の分析を行った。
  そして、日本の天皇制が、日本民族にとって『計り知
 れない資産となっているとの分析の結論を得た』。
  日本の敗戦後、日本の占領政策をアメリカは主導した
 が・・、
  GHQは、日本の皇族の11の宮家を臣籍降下させた(
 宮家でなくした)。
  近年、アメリカの文書公開によって明らかになって来
 た資料によると、
  長期的に「天皇制を潰したい」という対日占領政策の
 目的があった事が、徐々に明らかになっている。
  2016年7月14日、天皇陛下が、「生前退位」の御意向を
 示されたが・・、
  当時の占領政策として・・日本からの将来の脅威を局
 限(ある部分の範囲に限ること)する・・という占領政
 策の基本コンセプトが策定されていた。
  「臣籍降下」は、後継者を徐々になくしてゆくという
 目的だった。
  日本の国を弱体化し、精神的に劣化させ、あるいは、
 長期的に皇室の生命力を枯渇させるという大目標があっ
 たことが明確になって来ている。
..
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2016年7月14日木曜日

(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年2月)

題:(増補版)380E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1883年、流行:
・書生・士族の子弟らの間に麦わら帽子流行し始める。
・金沢で茶の湯が流行し、また、道具市がたびたび立ち、
 流行し、骨董品が高騰した。
・歌 「ダイナマイト節」
 https://www.youtube.com/watch?v=AmegfQjtB8k
  自由民権運動は、藩閥政府の弾圧が厳しく、言論集会
 も新聞活動も思うようにできなかった。
  そこで窮余の策として、歌の形式をとって街頭に出て
 民衆に直の呼びかけをはじめた。
  そして、ザラ紙刷りの歌本を一銭で売った。
  それを運動の資金にあて、全くスポンサーなしの自発
 的な活動だった。
  「ダイナマイト節」のパンチをきかせたやりかたは、
 後の演歌に引き継がれていった。
  歌の「コクリミンプクゾウシンシテ ミンリョクキュ
 ウヨウセ」は、
  「国利民福増進して 民力休養せ」の意味。
・女史風俗で、ハイカラスタイルが流行り始めた。
  ハイカラ:西洋風の身なりや生活様式をする様、人物、
 事物などを表す日本語の単語。
  1898年(明治31年)頃から、当時、東京毎日新聞の主
 筆であった石川半山(石川安次郎)が、紙上で使い始め、
 後に流行語となって定着した。
・馬車鉄道が開通したため、人力車が減少し始めた。
1883年、その他:
・中西輝政・京都大学大学院教授は言う・・、
  「歴史を振り返った時・・、
  日本では『国家の危機』と『文明の危機」が、常に、
 並行して起っていることが分かる。
  そして、『日本文明』が最も活力を発揮できたのは、
 『国家の危機』と『文明の危機』、その二つながらを
『一つのもの』と捉え、乗り越えようと闘った、明治の
 『和魂洋才』の時代だったことを、今日われわれは切実
 に思い起こすべきである」・・と。
・市内巡査交番所に、天気予報を掲げることとなる
・地球磁気観測が始められた。
  中央気象台に、常設の地球磁気観測が始められた。
  日本における地磁気定常観測は、第1回国際極年観測
 (1882年~1883年)を契機に、1883年(明治16年)、東京
 市赤坂で始められた。
・英国人動物学者のブラキストンが、動物棲息の範囲を定
 める『津軽海峡ブラキストン線』を発表した。
・太政官日誌を廃し、官報となる。
・帝国教育会(ていこくきょういくかい)が設立された。
  日本の教育者、および、教育関係者を構成員とする教
 育団体の全国機関。
  教育史で大きな役割を果たした帝国教育会は・・、
 東京府教育会と東京教育協会の合併により1883年発足し、
 名称を大日本教育会とし・・、
   1896年に、既存の大日本教育会と国家教育社を統合し
 た。
  「我国教育社会ノ中央機関トナリ教育ノ改良及ヒ上進
 ヲ図ルコト」を目的とし、各種の調査部会をおいて調査
 活動を行う。
  後、日本教育会と改称し、1948年(昭和23年)まで存
 続した。
  (日本教職員組合(日教組)の成立後に解散した)。
・丸ノ内馬場先門外に補修道路(タタキ路)ができる。
・浅野セメント・大日本製薬・東京製氷等が設立された。
  ☆浅野セメント:太平洋セメント株式会社は、1998年
 に、秩父小野田と日本セメント(1947年に、浅野セメン
 トから改称)が合併して設立されたセメント業界最大手
 の企業。
  ☆大日本製薬:大阪の道修町は、西日本の薬種取引の
 中心市場として栄えてきた。
  明治維新後、洋薬の輸入に取り組み、純良薬品を供給
 することを目的に、道修町の薬業家21人が発起人となり、
 1897年(明30)大阪製薬が設立された。
  翌年・1898年には、日本初の製薬会社として1883年(明
 治16年)東京に創立された大日本製薬を吸収合併し、社名
 を由緒ある大日本製薬(株)と改めた。
  ☆東京製氷:日本最初の製氷会社。
  余談だが・・1870年(明治3年)の梅雨時、福沢諭吉が
 熱病にかかり、氷が必要となる。
  しかし、当時は氷を簡単に手に入れることは不可能だ
 った。
  塾生たちは困る・・、だが、たまたま福井藩主だった
 松平春嶽が、外国から製氷機を購入していた。
  春嶽は、氷製造器の使い方がわからなかったが、塾生
 たちは借り出し、大学東校の宇都宮三郎教授の元に持ち
 込んだ。
  機械自体は単純な構造だったので、すぐに氷を作るこ
 とができた。
  福沢の熱病に役立ったという・・これが日本で初めて
 の人工的に氷を作った話。
  また、因みに、仁徳天皇陛下は、氷室で蓄えられた氷
 を夏に食べられた天皇陛下で・・
  延喜式(えんぎしき)に、氷室が、山城・大和・河内・
 近江・丹波に21室あったと記されている。
・佐世保村は、この頃、わずか戸数800、人口3700ほどの農
 漁村だった。
・横浜の貸自転車業屋が、大火により自転車を全て焼失、
 廃業となった。
・ガソリン自動車が発明された。
  19世紀のはじめに、トレビシックが発明した蒸気機関
 車は、スティーブンソンによって改良され、
  ヨーロッパやアメリカでは、人員や貨物を輸送する実
 用的な手段となっていた。
  一方、1769年に、キュニョーが先鞭(せんべん)をつ
 けた蒸気自動車も、少しずつ技術開発が進んでいた。
  さらには、電気自動車の可能性を探る動きもあった。
  しかし、そのどれにも一長一短があった。
  1860年、フランスのエティエンヌ・ルノワールが、「
 ガスエンジン」の特許を取った。
  実用的な内燃機関の考え方だった。
  軽量でコンパクトなシステムだった。
  4ストロークエンジンなどの工夫で問題点を乗り越え、
 内燃機関の改善がなされた。
  そして、ダイムラーとウィルヘルム・マイバッハが、
 カンシュタットで研究を重ね、1883年に、熱管点火方式
 の改良型エンジンを完成させた。
・悪く書かれた者の代理だと称し、新聞社を「告訴する、
 金で解決か」と、ゆする者がふえ、連絡所も出来た・・
 と(郵便報知)新聞が報じた。
1883年1月1日、共同運輸株式会社が開業した。
  三菱会社の海運独占による高運賃に対抗して、1882年
 に、三井資本を中心に、政府出資も得て、設立された海
 運会社。
1883年1月1日、『栃木新聞』が、不敬罪で発禁処分となっ
 た。
  不敬罪:天皇陛下、および、皇族・神宮・皇陵に対し
 て不敬(ふけい、尊敬の念を持たず、礼儀に外れること)
 の行為をする罪。
1883年1月4日、叙勲の条例が制定された。
1883年1月11日、京橋の明治会堂で、西洋風舞踏会が開催さ
 れた。
  明治会堂(めいじかいどう)は、福澤諭吉と慶應義塾
 (現:慶應義塾大学)の政治結社グループにより建築さ
 れた政談演説公会堂。
  1880年6月に「明治会堂建築相談会」が発足し、
  1880年9月に着工し、1881年1月に完成した。
  所在地:東京府築地木挽町(銀座)
  1階1000席、2階300席(食堂)。
1883年1月22日、『絵入朝野新聞』が創刊した。
  編集の中心は山田孝之介であったが、経営不振のため
 同年・1883年4月3日より「朝野新聞」の経営に移った。
1883年1月23日、府県に兵事課が設置された。
1883年1月23日、工部美術学校が廃止された。
  日本最初の美術教育機関で、工部省の管轄。
  「工部大学校」の付属機関として設置され、1883年に
 廃校となった。
  設置されていた学科は「画学科」「彫刻科」の二科。
  アーネスト・フェノロサの提言などもあって、日本美
 術の再評価が行われ、国粋主義が台頭してきた。
  こうした背景の中、1882年(明治15年)6月に、彫刻科
 が廃止され、翌1883年1月には、画学科も廃止されて、工
 部美術学校は廃校に到った。
  6年後の1889年、国立の美術教育機関である東京美術学
 校が設立された。
1883年2月7日、東京で40年来の大雪
  東京で大雪、日本橋白木屋に来客皆無。
1883年2月12日、福島事件審問を開始
  東京法院を開き、国事犯最初の審問を開始した。
1883年2月15日、電力会社の設立許可
  矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利
 助、柏村信、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が、国
 から会社の設立許可を受けた。
  富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資
 本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められ
 た。
1883年2月16日、天気図初めて発行される(七色刷りの天気
 図で一日一回発行)
  日本で初めて天気図が作られる。
  御雇外国人のドイツ人の気象学者エリヴィン・クニッ
 ピングの指導のもとに、7色刷りの天気図となった。
  全国11か所の観測所から、電報データを集めクニッピ
 ングが英文でかき馬場信倫が訳して天気図にした。
  1883年3月1日に、毎日発行されるようになり、
  1883年8月23日に、新橋と横浜の停車場に掲示された。
1883年2月16日、赤羽工作分局(あかばねこうさくぶんきょ
 く)を廃止し、その設備は、海軍省兵器局に移管された。
  赤羽工作分局は、明治初期の官営の機械製作工場で、
 1870年(明治3)閏(うるう)10月に、新設された工部省の
 もとで、
  翌年・1871年10月に、東京・芝赤羽の旧久留米(くるめ)
 藩邸跡に開設された製鉄寮がその前身。
  1873年に、赤羽製作所となった。
  旧佐賀藩所有の工作機械や、材料を引き継ぎ、
  外国人技師を雇って、農具、機械、鉱山・鉄道用品の
 ほか、蒸気機関や紡績機などを試作した。
  1877年に、赤羽工作分局と改称し、
  品川、深川工作分局とともに、工部省所管のもとで、
 多額の出資がなされ、当時の機械工業部門の中枢にあっ
 た。
  1883年廃止され、その設備は、海軍省へ移管された。
..
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2016年7月13日水曜日

(増補版)379E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年1月)

題:(増補版)379E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1883年1月~1883年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1883年、出来事:
・鹿鳴館外交
  井上馨外相、鹿鳴館時代:治外法権など列強各国に押
 し付けられた不公正条約の改正に努力するが失敗、列強
 の横暴の中で涙ぐましい努力をする日本。
  鹿鳴館時代は、館の落成の1883年から1887年まで・・、
  鹿鳴館の落成の祝宴が、1883年11月28日に行われた。
  この欧化政策に対し「退廃的」との非難の国民の声も
 あった。
  欧米列強に媚びへつらう日本の姿も見え、この様な批
 判となった。
  しかし、ここまでして条約改正に努力する日本。
  しかし、しかし、欧米諸国の外交官の日記などには、
 完全に西欧化していない部分を、ぎこちない部分を、そ
 こまで出来ない日本を「滑稽」などと嘲笑している。
  ダンスの踊れる日本女性が少なく、ダンスの訓練を受
 けた芸妓が対応した。
  こうした井上外交は、次第に風当たりの厳しいものと
 なった。
  日本は、何と、「外国人判事の任用など」屈辱的な条
 約改正案なども提示した。
  当然、国内から「大反対」の声があがった。
  鹿鳴館は、1940年に閉館となり、取り壊された。
  しかし、この頃、日本は、自律的発展への離陸条件を
 備えた国に、やっとやっと、なって来た(軽工業中心、
 ~明治30年)
・工業所有権
  工業所有権の保護に関するパリ条約がつくられた。
  これは、工業所有権についての最も基本的な国際的枠
 組みを定めたもの。
  平成3年の時点で、103ヶ国に増えている。
1883年、データ:
  自作農37.3%、自小作41.8%、小作20.9%、~1884年
1883年、衣:
・大阪紡績(現:東洋紡績)が開業した。
  この開業の後、日本の綿糸の生産量は急増し、1897年
 (明治30年)に至ると、輸出量が輸入量を上回るように
 なった。
  その先駆けとなったのがこの大坂紡績だった。
  また、この頃、綿布は、貿易の目玉商品となっていた。
 各国は競った、特に、イギリス製やインド製の綿布。
  そして、日本は輸入した綿布を、朝鮮に再輸出するケ
 ースが多くなった。
・金巾(かなきん、固くよった糸で目を細かく織った薄地
 の広幅綿布)輸入が激減する。
  貿易港であった長崎が衰退しつつあったことも影響し
 ている。
  また、綿布貿易の担い手の変化があり、日本商人から
 清国商人へ変化してもいた。
  日本商人は、綿布貿易から手を引きつつあり、大阪市
 場へ向けての穀物輸出に比重を置くようになった。
1883年、食:
・東京に偕楽園・陶々亭の支那料理店ができる。
・山形県ハッカの輸出に成功し、県下至る処ハッカの栽培
 流行す。
  北海道農業発達史に、1885年に、山形県からハッカ種
 根を移入し、上川郡で試作、これが、ハッカ栽培の起源
 との記述がある。
・栃木県で外国煙草の試作をなす。
  栃木県那珂川町馬頭地区が発祥の地とされていて、こ
 こに「たばこ神社(=別雷神社)」があり、この神社に
 「たばこの和歌」が残されている。
  そして、1898年(明治31年)に、葉煙草専売法が敷か
 れ、
  当時、日本で一番の生産高を誇った馬頭町には、専売
 所が開設され、町は発展した。
  「福寿草」という煙草の箱に記してある「たばこ和歌」
   香ばしき その名も高き 福寿草
        命を延ぶる 薬なりけり
1883年、住:
・東京電燈株式会社が創立された。
  日本初の電力会社。
  1883年(明治16年)2月15日、矢島作郎、藤岡市助、大
 倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶な
 ど数名からなる発起人が、国から会社の設立許可を受け
 た。
  富国強兵に、電力は、今後、欠かせないという判断の
 元に、資本金20万円で、前年・1882年に出した企業創立
 の請願書が認められた。
1883年、医学:
・ドイツのコッホが、コレラ菌を発見した。
1883年、論・新聞・本・文学・出版:
・馬場辰猪 「天賦人権論」 刊行(1月)
  明治初期の啓蒙主義者・民権論者によって、広く主張
 された自由主義的人権思想であったが、
  民権運動発展の過程を通して理論的に純化され、西欧
 的な自然権思想と変らないものとなった。
  加藤弘之が、 1882年、『人権新説』で天賦人権を虚妄
 と論じたことから「天賦人権論争」が生じた。
  しかし、植木枝盛は、『天賦人権弁』において、人権
 を自然権の概念によって把握しようとした。
・植木枝盛 「天賦人権弁」
・田口卯吉(たぐちうきち)「支那開化小史」
  田口卯吉は、日本の経済学者、歴史家、実業家、衆議
 院議員。
  実業家としては、士族授産金処理事業としての南洋交
 易を、東京府から提案されて引き受けている。
  ほぼ無抵抗で秩禄処分で既得権を失った士族を支援し
 た。
・矢野龍渓 「経國美談」 発行(1月)
  日本の民権と国権の伸長を図った政治小説。
・ 「動物進化論」(述:モース/記:石川千代松)
  モースは、腕足類(わんそくるい、海産で、二枚貝の
 ような貝殻を持つが、殻は体の背腹に位置する)の研究
 を進め、ダーウィンの進化論を支持するようになった。
・「東京大家十四家集」(編:平井元満)
・「絵入朝野新聞」 創刊(1883年1月22日に創刊)
・「明治協會雑誌」 創刊
・ 「人肉質入裁判」(原題・ベニスの商人/著:ラム/訳:井上
 勤)刊行(10月)
・ 「魯敏孫漂流記」(原題・ロビンソン=クルーソー(ロビ
 ンソン漂流記)/著:デフォー/訳:井上勤) 刊行
・ 「花心蝶思録」(「大尉の娘」抄訳/作:プーキシン/訳:高
 須治助)
・(フランス)モンパッサン「女の一生」
・(ドイツ)ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」
.
 (今日の言葉)
.
  アンドレ・モーロワは書く、
  「国というものは簡単に滅びることがある」・・と。
  アンドレ・モーロワは、フランスが、ナチス・ドイツ
 の侵略を受け、あっけなく滅びた様子を書いた。
  フランスは、自国の防衛にほとんど手を打っていなか
 った。
  その底には、見たくもないものは見ようとしない国民
 の「精神の崩れ」があった。
  その結果、フランスは、1940年に、ナチス・ドイツの
 侵略を受け、あっけなく軍門に下った。
  そして、4年4ヶ月の間、敗戦国としてヒトラーに支配
 された。
  モーロワは言う「大切な自由」「祖国のその自由を守
 る」
  「国民は、祖国の自由のためには、いつでも死ねるだ
 けの心構えがなければ、やがてその自由を失う」・・と。
  「自由を失えば、その自由を守る自己犠牲の精神を失
 えば、自由も民主主義も平和も守れない」・・と。
  そして、モーロワは、次に、「国民の団結」の大切さ
 を言い、そして、「外国の影響から世論を守ること」を
 言う。
.
 (今日の言葉・・おまけ)
1807年~1808年、フランスのナポレオンが、スペインのイ
 ベリア半島に侵攻した。
  スペインという宗主国が、ナポレオンの支配下に置か
 れ、混乱が続いたために、スペインの植民地は、各地で
 独立運動が起きた。
  1806年に、世界初の黒人共和国・ハイチが誕生した(
 独立は1804年)。
  1811年には、ベネズエラが独立した。
  しかし、先住民のインディオの方々は、蚊帳の外に置
 かれた。
  牛耳ったのは「クリオーリョ」というスペイン本国の
 移民の子孫。
  結局、移民が国を乗っ取ってしまった。
  日本もこの様な移民の形で「めでたし、めでたし」と
 ならない様に・・、特に、沖縄が・・。
  また、結局、EUの大揺れも『移民の問題』。
  グローバリゼーションなんて美しく言ってはいられな
 い。
  グローバリゼーションについて騙(だま)されてはい
 けない。
  イギリスのエマ・ロスチャイルドは言う・・、
  「グローバリゼーションのブームは、ほぼ30年周期で
 終わる」・・と。
  だから、1980年前後に始まった今のグローバリゼーシ
 ョンのブームは、間もなく終局する・・と。
  そして、奇(く)しくもEU離脱をしたイギリスの行
 動が・・2016年に起きた。
  そしてまた、ドラッガーは言う、
  「近代史というのは「『グローバル・エコノミー』と
 『ネイション・ステイト』、すなわち、国際化と国民国
 家の間を振り子のように動く」・・と。
  今、2016年は、転換期にある。
  グローバリゼーションの終わりが近づきつつある・・
 と言う。
  日本よ!「ポスト・グローバリゼーション」の時代に
 向けて対応をせよ!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2016年7月11日月曜日

(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月~1882年12月)

題:(増補版)378E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年12月~1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年12月2日、巡査が、棒を廃して洋劔を帯びる。
  明治最初期には、邏卒(らそつ、警察官)は3尺の手棒
 を携行しており、帯刀は禁止されていた。
  その後、1874年の太政官達によって1等巡査にも帯刀が
 解禁されており、この時点で警部以上は既に帯刀してい
 たものと考えられる。
  この時点では、区内を巡行するときに限られていたが、
 その後、適用範囲が、順次、拡大され、
  1882年12月2日の太政官達第63号をもって、全国一斉に
 帯刀が開始された。
  基本的にはサーベルが用いられていたが、
  幹部などは、刀身が日本刀の場合もあり、外装も高級
 であった。
1882年12月3日、幼学綱要(ようがくこうよう)
  天皇陛下が、「幼学綱要」を地方長官らに下付された。
  幼学綱要は、幼童のための欽定教訓書で、 1882年に、
 宮内省より出版された(7巻)。
  1879年、明治天皇陛下の勅命を奉じて、元田永孚(も
 とだながさね、熊本藩士、儒学者、男爵)が中心となっ
 て編纂して来た。
  1881年には、成稿を得たが、なお修訂を重ねていた。
  古典からの引用と、中国、および、日本の例話をあげ
 ながら、孝行、忠節をはじめ、和順(わじゅん、気質が
 穏やか)、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲
 (れいじょう、礼儀正しくへりくだった態度をとること)、
 倹素(けんそ、質素でむだな出費をしない)など 20徳目
 を掲げて、国民の守るべき道徳を説いている。
1882年12月7日、岩倉具視が、府県会が政府に批判的だとし」
 て中止するよう意見書を提出した。
  1871年の廃藩置県以後、各府県で府県会・民会・区戸
 長会などの名目で、地域代表による諮問機関が設置され
 るようになっていたが、
  1878年(明治11年)には、府県会規則を公布して、各
 府県に民選の地方議会である府県会を設置していた。
  府県会(ふけんかい)は、今日の地方議会の前身であ
 る府県の議会(府会・県会)のことで、
  府県会は、帝国議会よりも先に設置されていた(帝国
 議会の開設は、この12年後の1890年)
  そして、地方長官、あるいは内務卿が、国家の安寧を
 害し、法律規則を犯すと認めた場合には、会議の中止・
 解散・閉会を命じることが可能であった。
  この様な中で、自由民権運動が高まって行くとともに、
 各地で、県令と府県会の衝突が相次いだ。
  そこで、1882年に、右大臣・岩倉具視は、府県会中止
 の意見書を提出した。
  しかし、政府内部では、府県会の事実上の廃止を求め
 るこの岩倉の考えに同調する動きは少なかった。
  府県会に対し、政府の統制を強化することで対応して
 行った。
  因みに、府県会規則の選挙権は、年間地租5円以上納付
 の満20歳以上男子で、
  被選挙権は、同10円以上納付の25歳以上の男子だった。
1882年12月12日、請願規則を布告する。 
  請願権は、国民の自己の権利の確保を求める手段とし
 て大切であるが・・、
  請願制度は、明治維新後活発に行われた「建白書」を
 1882年に、「請願規則」として、当時の政府が発布し、
 はじめて請願という文言用られ、権利として確認された
 のは大日本帝国憲法においてであった。
  自由民権運動が高揚して、1877年に立志社ができ、
  1880年に、国会期成同盟が、国会開設を要求する建白
 書を提出したり(政府はこれを却下)・・、
  この様な情勢に対応するために、1880年に、太政官布
 告第53号を布告し、「建白」と定義して、管轄庁を経
 由して元老院に提出することを定めた。
  そして、翌年の1881年に、「建白書取扱順序」を定め
 た。
  そして、政府は、1882年に、請願規則を発布した。
1882年12月16日、郵便条例の制定
  郵便条例の制定(翌年・1883年1月1日、施行)により、
 第3種の規定が設けられ、雑誌(定期刊行物)は他より
 低料金となった。
  江戸時代から、公用の書状を送達する飛脚制度があっ
 たが、これは、幕府や一部大名の事務連絡用であり、一
 般の用に供されるものではなかった。
  明治政府は、欧米列強からの立ち遅れを克服すべく、
 近代国家、近代産業にとって欠かすことのできない交通・
 通信制度の整備に力を注いだ。
  1870年5月に、駅逓権正(ごんのかみ)兼任となった前
 島密は、公文書などの巨額の運送費を飛脚屋に支払って
 いた実情に目を向け、
  外国のように、官営の郵便制度を創設すべく検討を始
 めた。
  そこで、前島による創業の建議により、そして、鉄道
 建設資金借款要務のため、彼のイギリス派遣後は、時の
 駅逓権正・杉浦譲の準備作業のもと、1871年3月1日(新
 暦4月20日)、東京~西京(京都)~大阪の間に「新式郵
 便」の制度が発足した。
  これが日本おける国営事業としての郵便事業の始まり
 だった。
  1840年のイギリスの新式郵便創始から31年後だった。
  1875年に、外国郵便の取扱いが開始された。
  小包郵便は,国内に先立って外国との間で取扱われた。
  日本に設置されていたイギリスの郵便局の閉鎖の条件
 として、その取扱いの存続が求められて、1880年に、香
 港との間で外国小包の取扱いが開始された。
  (因みに、国内の小包郵便の開設は、その17年後の1892
 年だった)。
  当初は、制度や規則の改廃が、毎年繰り返されたが、
  1882年に、制度的にも固まってきたとして、初めて郵
 便条例が制定された。
  これによって、郵便事業は、法律的に体系化されると
 ころとなり、翌年の1883年より施行された。
1882年12月29日、村田経芳が、銃の発明で叙勲された。
  陸軍少将・村田経芳(むらたつねよし)は、日本陸軍
 が初めて採用した国産銃「村田銃」の発明の功により、
 勲三等に叙せられた。
1882年12月30日、軍備拡張を陸海軍両省に通達
  壬午軍乱を契機に、日本は、それまでの軍拡抑制の路
 線から転換した。
  清国(中国)の「定遠」「鎮遠」に対抗して軍備を拡
 張する方針を決定した。
  また、この年、それまでの治安維持軍事力は、対外侵
 攻のための軍事力として再編強化をして行くことになっ
 た。
  陸軍力の基幹である歩兵連隊は、1878年には15個であ
 ったが、1884年に3個、1885年に4個、1886年に5個、1887
 年には1個がつぎつぎ増設され、28個連隊になった。
1882年12月31日、陸奥宗光が、禁固5年の刑を終わり出獄を
 許された(特赦?)
  陸奥は、西郷隆盛を中心とする薩摩閥を強く批判して
 いた。
  さらに、陸奥は、彼らが起こした西南戦争を非難し、
 西郷を、歴史的に中国で謀反人として名高い安録山と名
 指しした。
  西郷の起こした西南戦争を非難しながら、皮肉なこと
 に、陸奥は、その西南戦争時に、旧土佐藩のグループに
 協力したので、結局、自分自身も政府に対して反乱を起
 こした謀反人の1人となり入獄することとなった。
1882年12月、東本願寺が、貫練教校を真宗大学寮と改称し
 た(後の大谷大学)
  1868年3月28日に、「神仏判然令」が布達された。
  これによって「廃仏毀釈」が起きた。
  しかし、この反仏教的な処置に対しての農民を中心と
 した強い抗議運動があり、
  明治政府は、これに苦慮し、解決策を見いだすことを
 模索していた。
  また、浄土宗に属する増上寺の福田行誡や、真言宗の
 釈雲照らは、諸宗同徳会盟などの活動を通して仏教擁護
 の運動を展開した。
  明治政府は、1872年に設置した「教部省」に、神社や
 寺院の建設や廃止の権限を置き、管理責任を与えた。
  ここに、教導職として、神主や僧侶も任用された。
  苦しい活動はあったが、運動は実を結び、宗教の自由
 を求める声は徐々に大きくなって行った。
  1875年11月に至り、明治政府は「信教の自由保障の口
 達」で仏教徒の要求を認め、信教の自由を保障した。
  1881年には、西本願寺が普通教校(本派普通校)を創設
 した。
  この学校は、当時の仏教界として画期的な一面を持っ
 ていた。
  また、僧侶のみを教育するのではなく、僧俗共学を実
 施した。
  更に、この西本願寺の普通教校には、学生を中心とし
 た自主的な修養団体があった。
  東本願寺では、1879年に、貫練場と称されていた教育
 機関が貫練教校と改称され、1896年には、真宗大学へと
 発展して行った。
  そして、真宗大谷大学と改称される。
1882年、アメリカが、中国人の移民を禁止した。
  この後、日本人が移民を始めるが、この中国人の後に、
 日本人が移民を始めたということが不運だった。
  日本人に対しても、インディアンの方々や中国人に対
 するのと同様に、『非白人』に関する劣った種の人間と
 の意識が移民先のアメリカに根強くあった。
  キリスト教に感化された意識だった。
  この意識が、アメリカの指導者階級にまで及んでいた。
  ジョン・ダワーの言葉:
  「彼らは敏感な白人の様には痛みを感じず、彼らによ
 って生命は安価だ」と言うのだった。
1882年9月4日、ニューヨークに初めて電燈が点火した。
  そして、この年、ニューヨークに、世界初の大規模な
 火力発電所が建設された。
  そして、白熱電球の発明により、照明は、石油やガス
 を使ったランプから、現在も利用されている電灯へと変
 わっていった。
  1879年には、エジソンが、白熱電球を45時間点灯させ
 続けることに成功していた。
  1882年9月に、エジソンは、ニューヨーク中央発電所の
 200馬力ジャンボ発電機で、電力の供給を開始した。
  この時の電灯数は、わずか400個であったが、
  中央発電所はだんだんと消費者を増やし、1ヵ月後には、
 1万個の電灯に送電を行なうようになった。
  この時、エジソンは、直流によって電力供給を考えて
 いた。
  1890年頃に、これが問題となった時、エジソンは、照
 明が安定することや、モーターの起動力が大きいという
 理由で直流を主張した。
  しかし、エジソンの部下であったニコラ・テスラや、
 フェランティたちは、電圧を変えて効率よく電力を送れ
 るなどの点から、交流を主張した。
  そして、テスラは、1887年に、誘導電動機を発明し、
 交流技術を完成させ、
  そして、1896年には、ナイアガラ水力発電所を成功に
 導いた。
  この成功で、交流の優位が決定的となって、エジソン
 の主張は退けられ敗北した。
  エジソンの進めた直流による送電システムは、交流電
 力システムの発展とともに消えていった。
18829月、イギリスのエジプト支配が完了。
  イギリスの横暴、エジプトを保護国とする。
  イギリスは、エジプトにアラビ・パシャの民族運動が
 起き、エジプト国内の政情が不安になると、それを口実
 にして、アレキサンドリアを砲撃した。
  そして、さらに、これを端緒にしてエジプトを侵略し、
 イギリスの目的通りに武力で行動した。
  イギリスの帝国主義国家の行動だった。
  エジプトをイギリスは保護国化した。
  そして、スーダンへと侵略して行く。
  イギリスは、1881年に、エジプトにウラービーの反乱
 が勃発すると、イギリスは軍事介入し、
  1882年に至り、アレクサンドリアに上陸して反乱軍に
 砲撃を加え、鎮圧した。
  これによってエジプトは、イギリス軍の単独軍事占領
 下に置かれ、事実上の保護国とされることとなった。
  1904年には、英仏協商が締結され、
  イギリスは、フランスのモロッコ支配を認める代わり
 に、フランスにイギリスのエジプト支配を認めさせ、帝
 国主義諸国による植民地分割が行われた。
  この様にして、エジプトは、1882年に、イギリス領に
 実質的に組み組まれたが、形式的にはオスマン帝国の宗
 主権が続いていた。
  しかし、第一次世界大戦が、1914年に勃発し、オスマ
 ン帝国が、ドイツ・オーストリア側に参戦したため、
  イギリスは、正式にエジプトを保護国とすることをオ
 スマン帝国に通告した。
  第一次世界大戦では、エジプトのカイロは、イギリス
 の対オスマン帝国とのアラブ各地での戦闘の拠点とされ
 た。
  第一次世界大戦開戦に伴い、1914年に、正式に保護国
 とした。
  大戦後の民族運動の高揚をうけ、イギリスは、1922年
 に、エジプト王国の独立を認めたが、スエズ運河地帯で
 の駐兵権などは継続させた。
1882年5月20日、独墺伊、三国同盟(~1915年)
  戦争ばかりしているヨーロッパ・キリスト教国。
  ドイツ、オ-ストリア・ハンガリ-二重帝国、イタリ
 アの間で三国同盟が成立した。
  これは、秘密軍事防御同盟で、英仏露三国協商と対立
 して、第1次世界大戦の一方の陣営を形成した。
  1870年~1871年の独仏戦争で、フランスに勝って成立
 したドイツ帝国では、宰相・ビスマルクの下、フランス
 を孤立化させて、対独復讐を断念させる目的で、欧州各
 国との同盟外交を推進した。
  その一環として、1882年、オーストリア、イタリアと
 三国同盟を締結した。
  その後、ベルリン会議 (アフリカ分割)などにおける
 いざこざ(俺の方が分け前が少ない・・という餓鬼の戦
 い)対立により・・ロシア、イギリスとの関係が悪化し、
 ビスマルク外交は破綻した。
  しかし、三国同盟は維持され続け、1907年に成立した
 イギリス、フランス、ロシアの三国協商と角を突き合わ
 せて対抗した。
  1914年に始まった第一次世界大戦では、ドイツ、オー
 ストリアが同盟国を形成して『協商3国』などによる連合
 国と戦った。
..
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2016年7月10日日曜日

(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月~1882年12月)

題:(増補版)377E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1882年10月~1882年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1882年10月21日、東京専門学校が創立した(後の、早稲田
 大学)
  大隈重信、および、小野梓らが、東京専門学校を創立
 (設立)し、開校式を挙行し開校した。
  因みに、大学令による私立大学は、慶應義塾大学と早
 稲田大学が、1920年2月2日に、私立大学で初めて(旧制)
 大学として認可された。
  そして、この年、次いで、公立2校と私立6校が大学と
 して設立された。
1882年10月27日、売薬印紙税規則が制定され、布告された。
  売薬業者が減少した
  施行は、1883年1月1日。
  因みに、1886年になると、売薬印紙交換規則が制定さ
 れ、未使用の売薬印紙が交換できるようになった。
  また、この年、 藤井論三が、ハワイに売薬を輸出し、
 富山売薬の海外進出が始まった。
  この売薬税は、一種の消費税で、下層ともされる階層
 の人たちが頼りにする薬に税を課すことは悪税とされ、
  1926年(大正15年)に廃止とされた。
1882年10月30日、日朝修好条規続約の批准書が交換された
 (10月31日説あり)
  件名: 朝鮮国修好条規続約訂定交換(ちょうせんこく
 しゅうこうじょうきぞくやくていていこうかん)
  調印: 1882年(明治15年)8月30日(陰暦7月17日)
  場所: 仁川府(済物浦)
  日本側全権: 花房義質
  朝鮮側全権: 李裕元、金宏集
  批准: 1882年(明治15年)10月30日
  布告: 1882年(明治15年)11月22日
  法令番号: 明治15年太政官布告第54号
  内容:
  日本國ト朝鮮國ト嗣後益々親好ヲ表シ貿易ヲ便ニスル
 爲メ茲ニ續約二款ヲ訂定スルコト左ノ如シ
  第一 元山釜山仁川各港ノ間行里程今後擴メテ四方各
 五十里ト爲シ(朝鮮里法)二年ノ後ヲ期シ(條約批准ノ
 日ヨリ周歳ヲ算シテ一年ト爲ス)更ニ各百里ト爲ス事
  今ヨリ二年ノ後ヲ期シ楊花鎭ヲ以テ開市場ト爲ス事(
 間行里程取極約書ノ部ヲ參照スヘシ)
  第二 日本國公使領事及ヒ其隨員眷從ノ朝鮮内地各處
 ニ遊歷スルヲ任聽スル事
  遊歷地方ヲ指定シ禮曹ヨリ證書ヲ給シ地方官證書ヲ驗
 メ護送ス
  右兩國全權大臣各々
  諭旨ニ據リ約ヲ立テ印ヲ盖シ更ニ批准ヲ請ヒ二ケ月ノ
 内(日本明治十五年十月 朝鮮開國四百九十一年九月)
 日本東京ニ於テ交換スヘシ
  大日本國 明治十五年八月三十日
   日本國辨理公使 花房義質(印)
  大朝鮮國 開國四百九十一年七月十七日
   朝鮮國全權大臣 李裕元(印)
   朝鮮國全權副官 金宏集(印)
1882年10月31日、海軍兵学校条令が制定された。
  海軍兵学校(かいぐんへいがっこう)は、1876年に設
 立され、
  大日本帝国海軍の将校たる士官の養成を目的とした教
 育機関だった。
  海軍兵学校と言えば江田島だった。
  この海軍兵学校は、海軍機関学校、海軍経理学校とと
 もに生徒三校と呼ばれた。
  その規模は、イギリスの王立海軍兵学校、アメリカの
 合衆国海軍兵学校とともに、世界でも最大の兵学校の一
 つであった。
  この海軍兵学校から、全78期、総計1万2433名の卒業生
 が輩出した。
  英語教育が重視され、また、徹底した教養教育もなさ
 れた。
  坂元正一東京大学名誉教授や、建築家・池田武邦(日
 本の高層建築のパイオニア)など、近年まで、各界でリ
 ーダーとして活躍している卒業生も多い。
  その創立は、勝海舟が関係した海軍操練所に辿れる。
  東京・築地の元芸州屋敷内に、1869年に、創立開設さ
 れた。
  1870年(明治3年)、海軍兵学寮と改称し、
  1876年(明治9年)、改称されて海軍兵学校が開校した。
  築地時代に、明治天皇陛下が、皇居から海軍兵学校ま
 で行幸され、その道が、現在のみゆき通り。
1882年11月1日、東京電灯會社が設立され・・、
  初の電気街灯が点灯された。
  東京・銀座大倉組前で、4000燭光のアーク灯が点灯し
 た。
  これが、日本で初めての電気街灯だった。
  これは、東京電灯会社設立事務所が、会社設立の宣伝
 を兼ね、銀座大倉組前でアーク灯を点灯したもので、
 大評判となった。
1882年11月1日、東京職工学校が開校した。
  この学校は、1881年4月、東京府浅草区(現在の東京都
 台東区)に設立された旧制の中等教育、もしくは、高等
 教育相当の官立学校で、
  明治初期の日本では、産業技術の近代化を推進する人
 材を育成するべく、
  欧米の科学技術を取り入れた工業技術教育の整備が進
 められた。
  まず初め、1873年に、工部省の工学寮工学校が、日本
 最初の国立工業学校として設立され、
  そして、1877年には、工部大学校に改組された。
  御雇外国人G・ワグネルの建議を受けて、1874年に、東
 京開成学校内に「製作学教場」が設置された。
  しかし、3年後の1877年に廃止された。
  先行の工部大学校も、1886年、東京大学に合併されて
 (東京)帝国大学工科大学に改組された後は、実務的な
 工業教育よりも学理研究へと傾斜していた。
  この様な状況の中、ワグネルや手島精一(文部省・教
 育博物館長補)は、中等技術教育の必要性を主張し、文
 部省内の理解者(九鬼隆一・浜尾新などの同調者)が現
 れたことから、
  1881年4月26日、文部省は、官立の東京職工学校を設立
 した。
  職工学校は「職工学校ノ師範若シクハ職工長タル者ニ
 必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」学校として位置づけ
 られ、教員となったのは東京大学理学部を卒業した日本
 人の教員で、
  先行の開成学校・工部大学校・東京大学の教官の大半
 が、御雇外国人で占められていたのとは大きく違った。
1882年11月4日、皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)が
 開設された(国学院大学の前身)。
  皇典講究所は、国典を研究し、国体の意義を明らかに
 して、日本的徳性を有する人材を育成することを目的と
 し、
  「凡ソ学問ノ道ハ本ヲ立ツルヨリ大ナルハ莫シ」(初代
 総裁有栖川宮幟仁(たかひと)親王の告諭)ということか
 ら、
  国体を講明し、徳性を涵養し、皇典を講究して祭祀・
 旧儀古式を明らかにし、かつ、これに必要な教育を施し
 て国家有用の人物を養成するにあった。
  山田顕義、岩下方平らにより この時、東京に設立され
 た財団法人で、
   1890年には、国史、国学を研究するための國學院を設
 立し、神職の養成も行なった。
  1946年には、GHQの占領政策により解体させられた。
1882年11月13日、幌内鉄道が、幌内まで全通した(11月10
 日説あり)
  明治政府の資源開発の為の鉄道で、
  建設工事は、1880年1月、小樽市内の若竹第3隧道から
 着工されていた。
  1880年10月24日には、手宮桟橋~熊碓第4隧道間で蒸気
 機関車「弁慶号」による試運転を行い、
  1880年11月28日には、手宮~札幌間の22マイル25チェ
 ーン(約35.9km)が開通していた。
  また、1882年2月8日を以って開拓使は廃止されたが、
 鉄道と炭鉱は、工部省の所管となり、
  1882年6月25日には、札幌~江別間が仮開業し、
  1882年11月13日には、手宮~幌内間が全通した。
1882年11月11日、板垣退助・後藤象二郎が、横浜を出発し
 渡欧した。
  しかし、何故、渡欧したのかの理由は、よく分からな
 い状況にある。
  板垣退助と後藤象二郎は、随員二人(今村和郎、栗原
 亮一)を連れ、この時、横浜を出港し、
  翌年・1883年6月に、帰国するまで、ヨーロッパの国会
 や政治などを視察するため渡欧したとされる。
  板垣の渡欧については、自由党内部でも、旅行反対論
 が沸き起こっていた。
  しかし、ふたりは渡欧を強行した。
  板垣と後藤のパリ滞在中の行動は、当時、パリに滞在
 していた西園寺公望がお目付け役として監視していて、
 伊東博文に手紙で報告している。
  そして、このことは、伊藤博文宛西園寺公望書簡(伊
 藤博文関係文書5)で読むことができる。
  その書簡によると、板垣は、西園寺に滞在資金の援助
 を求めている。
  板垣は、滞在費の工面に困窮していたのでホテル住ま
 いができず、安アパートで生活をし、外出もあまりしな
 かった。
  しかし、一方の後藤は、ホテル住まいで、羽振りがよ
 かった様だ。
  しかし、この渡欧中の後藤の行動は、よく分かってな
 い。
  この渡欧の資金は、何と政敵側から捻出されていると
 いう疑惑も持たれている。
  この「板垣退助の洋行問題」は、国内の政局問題とし
 て語られている。
  そして、この様な、政局のリスクを無視してまで押し
 切った渡欧・・、
  なのに、何をしたかったかがよく分かってない。
  特に、後藤の行動が謎・・?
  ただの物見遊山で渡欧したとは考えにくい。
  この頃の東アジア情勢に関わっているという説がある。
  この頃、後藤象二郎は、福沢諭吉を介して、朝鮮の開
 明派の金玉均と会っている。
  この頃の朝鮮は、中国(清朝)への旧態依然とした属
 国のようだった。
  金玉均は、日本に倣(なら)って開国をとげて、
  日本がヨーロッパのイギリスなら、朝鮮はフランスに
 ならなければならないと考えていた。
  この様な金玉均に、後藤は、当時、中国と交戦状態に
 あったフランスと利害が一致する朝鮮独立運動で、フラ
 ンスに活動資金となる借款を出させるよう、後藤は、仲
 介をしている。
  こうした背景と、この渡欧は無縁とは言えない。
  因みに、後藤は、1881年に、自由党の結成に際し、板
 垣に次ぐ副党首格で参加し、大同団結運動を推進する。
1882年11月13日、陸軍大学校条例を定めた。
  陸軍の将校のなかから優秀な者を選抜し、高等用兵、
 および、軍事研究に必要な学術を修得させ、
  また、高等用兵に関する研究を行う学校。
  アメリカ、イギリス、フランスをはじめとして、各国
 とも高級指揮官、幕僚教育、軍事研究のための陸軍大学
 校が設立されている。
1882年11月19日、右大臣・岩倉具視が、海軍拡張を建議し
 た(9月説あり)
  明治維新以来、日本は対外的危機の中に居た。
  その西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に、海防
 は重要な政治課題の一つであった。
  しかし、財政の制約、血税一揆と士族反乱を鎮圧する
 ため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警
 備軍)の建設が優先されていた。
  ただし、1877年の西南戦争後、陸軍の実力者・山縣有
 朋が、「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年・
 1877年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、たえ
 ず軍拡が追求されたわけではなかった。
  それが、軍拡路線へ転換が計られたのは、1882年に、
 朝鮮で勃発した壬午事変であった。
  事変直後の同年・1882年8月、山縣は、煙草税増税によ
 る軍拡を、
  1882年9月に、岩倉具視が、清を仮想敵国とする海軍増
 強とそのための増税を建議した。
1882年11月24日、松方大蔵卿が「軍備拡張ノ議」を上程し
 た。
  清国の軍事脅威から国防増強の必要性が迫られ、軍備
 拡張策がとられた。
  そして、軍拡についての詔勅が下された。
  この年の壬午軍乱を契機とする軍備と、その時の清国
 の圧力の脅威を目の当たりにしたことに、その対処を目
 的とした財源確保のための大増税政策が実施された。
  朝鮮の軍乱以後、東洋、特に、清国の軍備と、その圧
 迫に脅され、自衛上、海軍拡張の急を迫られ、
  この国防政策遂行には、巨額の経費を必要とし、
  かつ、多額の国債償還を始め、他の一般経費の増加が
 見込まれていたため、
  財源となる租税収入は、北海道物産税軽減の閣議決定
 もあり、税収減が見込まれ、
  この税収減を補填し、かつ経費増加に対応するとして
 も、社会経済の発展変化に対応出来ないきわめて非弾力
 的な現行税制では困難であった。
  そこで、新税を起こして、これに対応する必要があり、
 この政策・増税策が採られた。
  わが国所得税創設は、世界で初めて所得税を創設した
 イギリスと同様に、軍事費の財源調達に起因した。
1882年11月28日、福島事件、(11月20日説あり)
  県令の三島通庸の圧政に対し、福島県民が立ち上がり、
 警官隊と衝突した。
  福島県新道路建設に反対していた農民らの所有地が、
 公売処分されることになり、
  この運動を支援していた会津自由党の宇田成一らが抗
 議を行い、逮捕された。
  また、喜多方警察署に抗議した2人が逮捕されたのを
 きっかけに農民の怒りは爆発した。
  数千人の農民が、釈放を求め、喜多方警察署を包囲し、
 また、工事中止と弾圧抗議のため警察署へ押し掛けた。
  警察は、この事件を口実に、自由党員と農民あわせて
 約2000人を検挙した。
  自由民権運動を警察力で弾圧した最初の事件となった。
1882年11月、山川捨松と津田梅子が、アメリカより帰国し
 た。
  津田仙(旧幕臣・東京府士族)と初子夫妻の次女とし
 て生まれた津田梅子。
  1871年、仙は、明治政府の事業である北海道開拓使の
 嘱託となり、津田家は麻布へ移った。
  開拓使次官の黒田清隆は、女子教育にも関心を持って
 いた人物で、仙は黒田が企画した女子留学生に梅子を応
 募させ、同年・1871年、岩倉使節団に随行して渡米した。
  5人のうち最年少の満6歳であった。
  1871年11月に、横浜を出港し、サンフランシスコを経
 て、同年・1871年12月に、ワシントンへ到着した。
  この時の留学生の山川捨松と津田梅子が、この年・1882
 年に帰国した。
  津田梅子は18歳だった。
  梅子は、アメリカでは一般家庭に預けられ、英語とピ
 アノを学び、学校へ通った。
  梅子は、帰国の18年後の1900年の36歳の時、父の津田
 仙らの支援を得て、「女子英学塾」(後の、津田塾大学)
 を設立した。
  因みに、山川捨松は女性で、日本軍人の元帥陸軍大将
 の大山巌(おおやまいわお)の妻となり、大山捨松とな
 った。
  鹿鳴館時代は、明治政府の高官方たちと、諸外国の外
 交官の接待に、宴に加わり、涙ぐましい努力・活躍をさ
 れた。
  しかし、慣れない日本を、諸外国は揶揄し嘲弄した。
1882年11月、御雇外国人のドイツ人フェスカが来日した。
  フエスカは、ドイツの農学者で、
  1882年~1894年の間、農商務省嘱託、駒場農学校(東
 京大学農学部の前身)教師、地質調査所土性掛長を兼任
 した。
  1886年に、北海道を実地調査し、「日本農業及北海道
 殖民論」(1888年)を発表した。
  その後、日本各地を歩き「農業改良」(1888年)、「地
 産要覧図」(1889年)をとりまとめた。
  この様に、わが国最初の全国的土性調査を指導し、本
 格的記録を完成した。
  そして、日本農業に関して多くの提言・・、
  科学的農学に基づき在来・零細農法を批判し(大農方
 式の導入を主張)、日本の土性調査事業を創始し、「日
 本農業及北海道殖民論」「日本地産論」などで農業改良
 策を立案、近代農学の育成に貢献した。(1845年~1917年)
1882年12月1日、 福嶋事件 (11月28日説あり)
  福島県自由党幹部の河野広中らが、政府転覆の盟約を
 作成したという容疑で逮捕された。
  道路工事の反対運動での福島事件の首謀者として、河
 野広中ら逮捕のほか、自由党員などが一斉検挙された。
1882年12月1日、農商務省の官立学校の東京山林学校が開校
 した。
  世界的に例のない林学の高等教育機関だった。
  修業年限は3年で、前期・後期に分け、
  前期を2段階、 後期を4段階にして講した。
  教養課程にあたる前期で、主に、自然科学系の基礎科
 目を取得し、段階を上げるにしたがい、その他の学系科
 目が占める形式にしていた。
1882年12月2日、東京の馬車鉄道を更に延長して、京橋~
 上野間に布設し、開業された。
  馬車鉄道は、南は沖縄から、北は北海道までの全国に
 広まって行った。
  しかし、電気で動く電車が登場すると、糞尿や餌の問
 題がない事もあって、急速に取って代わられ、馬車鉄道
 は衰退した。
  東京馬車鉄道も、1903年(明治36年)には電化され、
 「東京電車鉄道」となった。
  因みに、電車ではなく、蒸気鉄道に生まれ変わったも
 のや、馬車鉄道のまま廃止になったものもある。
  日本で、最後まで営業していた民営の馬車鉄道は、1949
 年(昭和24年)に廃止された宮崎県の銀鏡軌道である。
  また、北海道の殖民軌道などでは、昭和30年代まで存
 続した。
  現在、北海道にある野幌森林公園内で、「北海道開拓
 の村」にて、馬車鉄道が夏季に限って、再現という形で
 運行されている。
  また、岩手県の「小岩井農場」内にある「まきば園」
 でも、同様に、観光向けで馬車鉄道が運行されている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive