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2015年12月24日木曜日

(増補版)265D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年7月~1865年12月)

題:(増補版)265D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年7月~1865年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年、坂本龍馬が、長崎で活動する亀山社中は・・、
  亀山社中は、貿易結社で、且つ・・、
  物資の輸送とともに、航海訓練を行うなど、
  私的な『海軍』の性格も持っていて、海援隊の前身と
 なった。
  坂本龍馬(28歳)は、八月十八日の政変以後、公武合
 体派の反動化で、神戸海軍操練所が閉鎖され、この時点
 で、幕府への望みを断った。
  勝海舟の紹介で、西郷隆盛を知り、
  薩摩藩へ接近した。
  同藩の援助のもとに、長崎に亀山社中を作り、海運貿
 易にを行ない・・、そして・・、
1865年10月5日、勝海舟、長崎へ下向(幕府対長州藩抗争の
 調停を兼ねて)
1865年10月12日、山内作左衛門(やまのうちさくざえもん、
 幕臣、実業家)の一行6名が命ぜられ長崎を出帆した。
  遣露留学生の目付け役としてロシアに渡った。
  作左衛門は、後に東京・日本橋で資生堂を開く。
1865年10月13日、幕府は、フランスの協力を得て、レオン
 ス・ヴェルニーの指導で、横須賀製鉄所を着工した。
  横浜製鉄所・横須賀造船所が起工した。
1865年11月4日、兵庫開港要求事件(11月7日説あり)
  英・米・仏・蘭の四国の軍艦が兵庫に入港し、各国公
 使が京都に上りて開港を請う(こう、願う、求める)
  (別史料):イギリスの公使のパークスの主導で、英・
 仏・蘭の三ヶ国艦隊が、兵庫沖に来航した。
  (米が抜けている史料もある、これに関して、アメリ
 カ合衆国は、艦隊を派遣しなかったが、公使が同行して
 いるという説明史料もある)。
  条約勅許と兵庫の早期開港を求めた。
  1858年に結ばれた安政条約に明記されながら・・、
  今だに、朝廷の許可が無いために開港がなされていな
 かった兵庫(神戸港)・・7年間も粘った日本・・だった
 が、この問題を巡って・・、
  イギリスの公使のパークスが主導する英・仏・蘭・の
 連合艦隊が、1865年11月4日(慶応元年9月16日)に、兵
 庫沖に迫った。
  攘夷派への配慮から・・わざと幕府が、外交を停滞さ
 せているとみたパークスらは・・薩長が攘夷策を放棄し
 た時点で、障害はのぞかれたはずであるとした。
  兵庫開港か、条約勅許を求めた威圧行動だった。
  譲歩案として、イギリスは、下関戦争の「賠償金の引
 き下げに応じる」という姿勢を見せた。
  幕府は、外交の主導権と、交渉の主導権を握ろうとし
 て、老中の阿部正外・松前崇広らは、この動きに対して
 幕府単独で、開港という方針を決めた。
  しかし、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は、この決
 定に驚き、
  朝廷との関係悪化が予想されたため、この決定に難色
 を示した。
  そして、慶喜は、独断で兵庫開港を決めた阿部・松前
 に対し、単独の無断開港決定に抗議すると共に、朝廷を
 介して老中らの罷免の令を出した。
  慶喜としては、幕府の屋台骨がぐらついてるこの時、
 朝廷の支持を失うことが一番恐れている事だった。
  慶喜は、朝廷の支持が無くなれば、雄藩による諸侯連
 合を唱える薩摩藩等の諸勢力に、政権は奪われるだろう
 と判断していた。
  しかし、この老中罷免の令が出るという異常事態に、
  また、朝廷による、幕政介入という事態に、
  慶喜に対する不満と疑念が、幕臣たちの間で深まって
 行った。
  この時、家茂が、将軍辞職の宣言をした(1865年11月
 18日)、
  そして、家茂が、江戸に帰国するという混乱が起きた。
  慶喜は、家茂を説得した(11月24日、正式撤回となっ
 た)
  また、慶喜は、条約勅許、兵庫開港をめぐって、在京
 の諸藩士を集め、
  その討議の上で、1865年11月22日(慶応元年10月5日)、
 朝廷の条約勅許を得た。
  (但し、兵庫の開港は不許可で延期)。
  この時、関税改正の合意も得るというイギリスの要求
 事項も受け入れられた。
  これで了承した四国艦隊は、兵庫沖から去った。
  翌年の1866年6月25日(慶応2年5月13日)に、改税約書
 (かいぜいやくしょ)が調印された。
  これによって、欧米の日本市場への進出が決定的なも
 のとなった。
  この条約は、明治政府を困らせ、煩(わずら)わせる
 事となる。
  明治時代における不平等条約の改正(条約改正の主目
 標)となった。
  この条約によって、輸入関税が大幅に引き下げられた。
  日本への輸入量が急増し、日本の産業は壊された。
  大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本
 の手工業的綿織物は大打撃を受けた(綿製品の輸入が激
 増)。
1865年、こうした時代の移り変わりの中で、薩摩藩は、徐
 々に、幕府に非協力的な態度を見せ始めた。
  そして、長州藩との提携を模索し始めた。
  薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士の坂本龍馬や、
  同じく、土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに
 従っていた中岡慎太郎らが、周旋し、薩摩と長州の両藩
 の接近が図られて行った。
  逆賊に指名されて、表向きの武器の購入が不可能とな
 っていた長州藩に変わって、薩摩藩が武器を購入する。
  両藩は、経済的な連携を行なっていき、絆がより強く
 なっていった・・そして、その後、
  1866年3月7日(慶応2年1月21日)に、京都薩摩藩邸内
 で、木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締
 結された。
  このあとの・・、
  1867年4月29日に、将軍慶喜が、英、仏、蘭の代表と
 大坂城で会見し、兵庫の開港実施を約した。
  1867年6月26日、勅許と決定。
  1867年7月7日、幕府が1868年1月1日より兵庫開港と布
 告した。
1865年11月9日、将軍・徳川家茂参内、兵庫開港と長州再征
 を奏請す、
  開港を許し給わず (再征討の勅許は下りた)
1865年11月13日、幕府の老中阿部正外、松前崇広等、大阪
 城中に会議を開き兵庫開港に決す
1865年11月14日、幕府の代表が兵庫に赴き、英艦にて各国
 公使と会見し、兵庫開港問題の延期を談判
1865年11月17日、朝廷が、幕府の閣老を免職する(松前伊
 豆守崇広、阿部豊後守正外の官位を剥奪)
  阿部・松前の二閣老譴責(けんせき)(氷川清話)
1865年11月18日、徳川家茂が、朝廷に将軍職の辞表を提出
 そして、江戸東帰を発表。(11月24日、正式撤回)
  将軍家茂退隠(たいいん)を奏請(そうせい)す、許
 されず、神戸軍艦操練所を廃す(氷川清話)
1865年、活躍する慶喜は・・四面楚歌だった。
  慶喜への幕臣たちの疑念も深まっていた。
  慶喜は、状況に屈せず、帰国の途につく家茂一向に追
 いついて、説得を行った、そして、将軍辞職を撤回させ
 た上で、大阪城に連れ帰った。
  そして、京都に乗り込み、大久保の政治工作に揺れる
 公家達を説得し、
  十月四日(西暦11月21日)から五日(11月22日)まで
 夜通しで行なわれた御前会議では、大久保派の公家達を
 「反対するなら命は無い」とも取れる恫喝まで行い、
  遂に、条約勅許を勝ち取る。
  勅許を得た慶喜は、大阪の四国艦隊代表達に、勅許を
 得たので、兵庫港開港延期の交渉をした。
  四国艦隊代表も同意。
  孝明天皇へ兵庫港開港の延期を報告した。
  絶望的な状況から・・四面楚歌の状況から・・、その
 状況を打破をして行き・・結局、慶喜を中心に、当時の
 京都政局は回っていた。
  そこに、薩摩藩の大久保利通が居た。
  そして、この間、長州藩は、大村益次郎の軍制改革の
 もとに、日々着実に、近代軍隊となって行っていた。
  この差が、この数年の後に、現実となる。
  大村益次郎:(1824年~1869年)
  長州出身の洋学者、陸軍創立者。
  緒方洪庵に師事、適塾で蘭学を修め医師となり、一時、
 幕府にも出仕するが、のち、長州藩で兵学を講じ、また、
 第二次長州戦争に備えて軍制改革も行なう、そして、参
 謀として優れた戦略を示した。
  戊辰戦争では、官軍の指揮をする。
  兵制の近代化に尽力した。
  襲撃され、命を絶たれるが、遺志は、山形有朋らに継
 承された。
1865年11月22日、開港条約改正の勅許下る
  朝廷が、条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず。
1865年11月24日、将軍家茂、上奏して辞意を撤回
1865年12月12日、福岡藩(筑前藩)で起こった佐幕派によ
 る勤皇派弾圧事件。
  福岡藩の家老・加藤司書など、勤王の士の数名に切腹
 が命じられ、その他の一味が流罪となった。
  家老の司書は、福岡藩を代表して薩摩の西郷吉之助(
 隆盛)らと、長州藩に寛大な斡旋をして、征長軍を解兵
 させるという偉業があった。
  司書という大藩の家老職ゆえに、この事が成せた。
  明治維新以後、生きていたら、維新政府の大きなポジ
 ションを占めていた様な人と言われている。
  また、司書の偉業としては、幕府から長崎警護を命じ
 られていた筑前藩士として、1853年に、長崎に来たロシ
 アのプチャーチンと、幕府の外国奉行の川路左衛門尉聖
 謨(かわじさえもんのじょうとしあきら)を助け、折衝
 し、藩兵500人を指揮して、艦隊を無事に国外へ立ち去ら
 せていた。
  司書の偉業の第一次長州征伐時の解兵のいきさつは・・、
  蛤御門の戦いで、長州は敗退するが、
  この時の処置として、幕府は、前尾張藩主・徳川慶勝
 (とくがわよしかつ)を総督として、36藩を動員し、長
 州征討をする。
  この時、広島に各藩の藩兵が参集した。
  加藤司書も、福岡藩を代表し、そして、薩摩を代表し
 て西郷吉之助も居た。
  この時、長州藩の毛利敬親・元徳(たかちか・もとの
 り)親子を切腹させて、長州藩を召し上げるという強行
 論まで出ていたが・・、
   福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)は、外国艦隊
 の脅威がある時に、国内で戦っている場合ではない、国
 防に専念すべきだという考えで、穏便に解決したいと、
 加藤司書に建白書を持たせ、徳川総督に提出した。
  司書と西郷が、参謀会議を止戦へとリードして、元治
 元年の暮(1864年12月9日と10日)に、長藩の三家老らに
 腹を切らせ、恭順を条件に解兵が実現した。
  長州征伐が取り止められた。
  この時に、司書が詠んだ唱が・・、
  皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は
  いかなる事をか勤むべき
  只(ただ)身にもてる赤心(まごころ)を
  君と親とに尽くすまで
  (今でも、博多の町では、この「祝いめでた」は愛唱
 されているという)
  尚、ここの部分には、次の記述もある・・
  「1864年11月23日、大阪において、西郷は、総督の徳
 川慶勝へ、長州藩降伏へのプロセスの腹案を述べた。
  慶勝は、その場で、西郷へ脇差一刀を与えて、信任の
 証とした。
  西郷は、征討軍の全権を委任された参謀格となった。
  長州藩と西郷の会談後、長州の家老切腹、参謀斬首を
 催促し、受け入れられ、行なわれ終息した」
1865年12月24日、幕府が第二次長州出兵を命じた。
  幕府が、大目付を広島に遣わし、毛利藩主を審問した。
  また一方、彦根以下31藩に、長州征伐出兵を命じ、
  徳川茂承を総督と為す
  幕府は、第二次長州征伐の勅許を得た。
  幕府は、日米修好条約の勅許問題と、兵庫港開港問題
 を切り抜けた。
  そして、幕府は、第二次長州征伐の本格的準備へと入
 った。
  しかし、予想以上に、諸藩の第二次長州征伐への取り
 組みが悪かった。
  諸藩の第二次長州征伐の取り組みが悪かった理由は・・、
  (1)建前として、禁門の変の時の長州藩は、首謀者
    である三家老の自刃をする事により果たされてい
    る。
    それ故、第二次長州征坺の大義は無い。
  (2)諸藩は、第一次征伐の時と違って、幕府への不
    信感が存在した。
  第一次長州征伐は筋が通り、成功した・・、
  そして、成功した幕府は、参勤交代制度の強化した。
  また、幕府は、慶応元年の天狗党に対して、処刑をし
 た。
  この事などから、次は自藩か?と思わせた。
  第二次征伐のあと、自藩になるかもしれないという事
 を思わせた。
  (3)どこの藩も、財政難であった。
  この様な、大儀と財政が・・問題だった。
  準備の進まない状況の中で、幕府は・・、
  慶応二年一月二十二日(1866年3月8日)に、「領土10
 万石の削減、藩主親子の蟄居」等の長州藩への最終処分
 案を朝廷を通して発表した。
  幕府の、長州藩を屈服させたいという意思が、ここに
 あった。
  一会桑も働いて、朝廷を介し、第二次長州討伐を正式
 に発令した。
  世は、薩長同盟が成立している世だった(1866年3月7
 日)。
1865年、長州征伐の時の・・幕府側の兵のこぼれ話
  「井伊の赤備」、敵兵だったのか・・?
  長州征伐の時、彦根は、旗本の旗頭だったから旧例に
 よって先鋒を命ぜられた。
  そして、その大将は、岡本黄石であった。
  彦根は、いまだ泰平300年の夢が覚めない時であったか
 ら、本当の戦争を知らない連中ばかりで、
  300年も昔の様に、やはり赤具足を着込んで、旗差物を
 押し立てて、笛や太鼓でヒュードンヒュードン」とはや
 し立てて進んで行った。
  (注・赤備え:すべての将兵の武具を赤色にした軍勢。
 徳川の臣で関ケ原の戦いで武功をたてた井伊直政の手勢
 など)
  ところが、長州の武士は、すでに開化している。
  尻をはおって身軽ないでたち、紙くず拾いか何ぞの様
 な風で、
  旗、太鼓、堂々たる幕軍とすれ違いに、そばの小道を
 通って、こっちへ進んで来た。
  しかし、風体が風体だから、幕軍の方では、それが敵
 兵であろうとは、少しも気づかなかった。
  長州兵は、そのすきに乗じて、こともなく幕軍の先鋒
 をやり過ごして、さて、不意に本陣の大将を目がけて鉄
 砲を放った。
  そこで、幕軍は、大騒ぎをしているうちに、大将が討
 ち死にをしたという噂が、先方へ聞こえて来た。
  ここのおいてか、さすがの黄石も狼狽して後へ返した
 ということだ。
  後で、黄石が、直接、俺に話してくれた(氷川清話)
  海舟の心:この事を知って、海舟は幕府の死に体を、
 一層、痛感し、見限る方向へ心を動かした。
  この第二次長州戦争で、彦根藩は参戦し、小瀬川の戦
 いで旧軍制と旧装備であったために、長州に敗北した。
  日本の次世代の、新しい体制の軍の萌芽が、その一方
 にあった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2015年12月23日水曜日

(増補版)264D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年5月~1865年7月)

題:(増補版)264D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1865年5月~1865年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(慶応元年)1865年5月1日、長防処置。世論の沸騰
 倍する(氷川清話)
  禁門の変で、朝敵となった長州藩は、武家官位を剥奪
 され、周防・長門を支配するという正当性を失った。
  しかし、世に、その論理に疑問が呈された。
 「長防処置の一件は、当時容易ならざる御大事と存知奉
 り候。全体幕府の長防再討の妄挙は無名の師を動かし、
 兵威をもって圧倒すべき ・・云々」
  逆に、長州藩は、書を作り、識字率の高い藩内に武士
 だけでなく一般庶民にまで配布した。
  それは、こんなひどい論理で長州は征伐を受けると、
 後世にわたって正しく伝えようという行動だった。
  以下、その説明文・・、
  長州藩は、幕府の討伐軍を迎えるに至り、士族だけで
 なく百姓に至る領内各戸に本を配布した。
  容量は20ページ、製本数は36万部。
  各戸配布に至った背景には、国内第二位の寺子屋数(
 約1,400)を有し識字率が高かったことが挙げられる。
  この合議書には「のちの世の中に志があやまって伝え
 られないように、すべての人がこの文書を懐に入れ戦場
 に立つ」という記述があるように討伐により長州藩が改
 易されようとも、領民に事実を伝え語り継がせようとい
 う思惑が伺える。
1865年、5月19日、幕府が、外国奉行・柴田剛中(しばたた
 けなか。しばたごうちゅう)らに、軍制調査の目的でフラ
 ンス派遣を命令した。
  柴田剛中は、神奈川開港問題の解決や、外国人殺傷問
 題(生麦事件)、そして、通貨問題などで欧米外交団と
 の交渉の窓口となって功績をあげて来た。
  また、1862年には、幕府遣欧使節組頭として、ヨーロ
 ッパに渡り、開港・開市の延期交渉にあたった。
  そして、この年に、製鉄所建設(資材買い付け)、及
 び、軍制調査・軍事教官招聘の正使としてフランス・イ
 ギリスに派遣された。
1865年5月、勅して外国条約を許す。但し、兵庫開港を止む
 (氷川清話)
1865年5月、将軍、京都より大阪城に入る(氷川清話)
1865年5月26日、山城の緒山陵修理竣工す(12月説あり)
  戸田忠恕(とだただゆき、宇都宮藩主)は、1862年に、
 山陵修理を幕府に建議し、
  藩老・間瀬和三郎(のちの戸田忠至)・県信緝らを督し、
 近畿地方の荒廃した山陵100余ヶ所を修理し、
  1865年12月に、山陵修補の完成を告げた。
1865年5月頃、蒸気機関車
  グラバーが、上海展覧会出展中の蒸気機関車「アイア
 ン・デューク号」を輸入した。
  2両の客車を引いて、大浦の海岸通り600メートルの区
 間を走らせた。
  燃料は、長崎港外高島の石炭を使用した。
  機関車の「アイアン・デューク(公爵)号」の由来は、
 1830年9月13日、イギリスのリバプール・マンチェスター
 間の鉄道が開通した時、ウェリントン公が乗車した。
  グラバーは、この公にちなみ「公爵」と名付けた。
  機関車に同乗した小島町の海運業、松島長太郎の談話
 は、
  「機関車というものに初めて乗ってみて、走り出した
 時には、ほんとうにびっくりした。
  短い時間だったが、夢見心地だった。
  試運転が何回か繰り返された。
  毎日、近郊近在から見物人が押しかけて、海岸通りは、
 黒山の人だかりだった。
  みんな“アレヨ、アレヨ”と驚いていた」。
  長崎の古老の吉田義徳の手記には・・、
  「拙者、幼少の時大浦海岸において陸蒸気を運転する
 と聞及び、直ちにその場所に走り行き見物。
  現今の税関前辺り上り松が枝橋辺りの中間を運転し或
 いは停留しおる時、
  間近く立寄り居る際何人(なにびと)か後方より我を
 抱き乗せたる者あり、其時朋友新年なるものも乗り居た
 り」
  ロンドンで発行された「鉄道タイムス」の記事:
  「ジャパン―炭水車付機関車の鉄道が長崎のバンドで
 運転中。日本人の関心を大きくそそり、遠近を問わず見
 物にやってくる」
  この後に、機関車は、大阪へ運ばれ、川口の外国人居
 留地付近の松島辺りで、レールを敷いて公開運転を行な
 った。
  また、さらに後に、横浜に送られ、3たび公衆に観覧
 させた。
  そして、アイアン・デューク号は上海に戻った。
1865年6月7日、幕府が、スイスと通商条約締結。
1865年6月23日、土佐藩の坂本龍馬が、薩長両藩の和解を
 周旋し、馬関において、桂小五郎と会見した。
  非常に仲の悪い薩長を結び付けた。
  蛤御門の変で、薩摩は、長州を滅多打ちにしていた。
  また、第一次長州征伐でも、薩摩は、幕府と一緒に長
 州を、やっつけて来ていた。
  「薩賊会奸」(薩摩藩は賊で会津藩は奸物)という字
 を草履の裏に書いて、踏みつけて歩いていたほど憎んで
 いた。
  つまり、竜馬は、中岡慎太郎らと共に、この様に憎み
 合う薩摩・長州を結びつけたのだった。
  この後、桂小五郎の長州と、西郷隆盛の薩摩が会見す
 る事となる。
1865年6月28日、中岡慎太郎が、西郷吉之助と会見のため、
 鹿児島に赴いた(薩長連合の周旋)
1865年7月3日、武市瑞山(半平太)処刑された。
  武市半平太という土佐藩士は、何しろ勤王を目ざした。
  土佐勤王党を結成した。そういう男だった。
  竜馬は、この時、彼の下に加わった。
  そして、藩論も、尊王攘夷に導いて行かれたが・・、
  前藩主の山内容堂は、公武合体の立場から、この勤王
 派を弾圧した。
  半平太は投獄されて、37歳で没した(切腹)。
  贈正四位。
1865年7月8日、将軍・徳川家茂が、江戸を発し、長州征伐
 に向った。後に、京都より大阪城に入った。
  長州征伐、将軍江戸城を進発(氷川清話)
1865年7月13日、土佐藩士・中岡慎太郎が、馬関にて桂小五
 郎、高杉晋作等と、薩長連合を周旋した。
  この様な苦労の結果、薩長連合は、1866年3月7日に、
 小松帯刀邸(京都市上京区)で締結される。
  薩摩藩と長州藩の『政治的、軍事的同盟』である。
1865年7月14日、将軍・家茂が参内し、長州の再征を奏上す
 る。
  奏上:そうじょう、天子に申し上げること。上奏。
1865年7月18日、第二代イギリス公使ハリー・パークスが、
 長崎に、1865年6月25日に到着し、
  7月18日のこの日に、横浜に到着し、着任した(37歳)。
  (1828年~1885年)これより18年間日本に滞在す。
  前年の四国艦隊下関砲撃事件に際しての、前任者の行
 動が、イギリス政府は、意に沿わないとした。
  そして、前任者・オールコックを解任した。
  パークスは、後任公使として任命され、この日、横浜
 に到着したのだった。
   幕府との交渉を開始するが、当時、将軍など幕閣の大
 半が、第一次長州征討で、江戸を留守にしていたため、
  パークスは、仏・蘭とともに、連合艦隊(米国は代理
 公使のみの派遣)を兵庫沖に派遣し、威圧的に、幕府・
 朝廷と交渉した。
1865年、神戸海軍操練所が閉鎖された。
  勝海舟が罷免(ひめん、職務を止めさせること、免職)
  八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻し
 た禁門の変の責を問われて、勝海舟は、軍艦奉行を罷免
 された。
  さらに、土佐脱藩浪士や、長州に同情的な意見を持つ
 生徒が多かった神戸海軍操練所は、
  幕府の機関でありながら、反幕府的な色合いが濃いと
 して、翌年の1865年に閉鎖された。
  この時、操練所にいた竜馬は、同志を連れて薩摩藩を
 頼り、
  薩摩藩の資金と船を借りて、亀山社中を創立した。
  勝海舟の指導通りの行動だった。
  氷川清話:勝海舟、この年は閉門、門を出ず。
  もっぱら和・漢・洋の読書に精を出す(氷川清話)
1865年、海舟の方針が、幕府に忌避されたが・・竜馬が・・
  海軍塾が潰されると、竜馬は、同志を連れて薩摩藩を
 頼り、薩摩藩の資金と船を借りて亀山社中を創立した。
  海舟の指導通りの行動であった。
  竜馬は、独創の人ではない、応用の人だった。
  竜馬が実現した亀山社中、海援隊の設立、薩長同盟、
 大政奉還のいずれをとっても、竜馬一人のオリジナルと
 は言えない。
  竜馬にあった人たちは、開明的意見もあり、重訳(じ
 ゅうやく、一度、他に翻訳されて伝わる、直接の翻訳で
 はない)でもあり、優れてもいたが・・、
  組織の反対や自己保身や旧組織への帰属意識を捨てき
 れない、実行できないエリートであった。
  無私の精神の竜馬という一脱藩浪人が、彼らになりか
 わり、巧みに公のものとして実現に移した。
1865年7月、坂本龍馬が、伊良林の亀山に「社中」(軍事的・
 政治的かつ商業的組織)を作った。
  亀山社中のはじまり、
  薩摩藩に、藩所有の汽船を任された坂本龍馬が、同志
 と商社を設立し、通商航海業をはじめた。
  亀山社中…
  1864年5月に発足した幕府の直轄施設の神戸海軍操練所
 の生徒の一部と、坂本龍馬を筆頭とする一団が母体。
  神戸海軍操練所の解散をきっかけに亀山の地で結成。
  1867年7月上旬に、土佐藩は、「亀山社中」を「海援隊」
 (脱藩を許されて隊長を坂本龍馬に)と称し、藩の付属
 とした。
  坂本龍馬の海援隊長としての活躍がはじまった。
  外国を視野に入れた先見的な活動が行われる。
  また、竜馬は、蝦夷地の開発事業を行なう計画を持っ
 ていたとも言われている。
  (この遺志は、竜馬の親族が継いで、北海道の空知に
 入植しているという)。
  だが、龍馬が暗殺されると求心力を失った。
  1868年6月17日、藩命により解散される。
  土佐藩士の後藤象二郎は、海援隊を土佐商会として、
 岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社
 (後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させて
 行く。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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2015年12月21日月曜日

(増補版)263D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年12月~1865年5月)

題:(増補版)*263D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年12月~1865年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1865年(元治1年)、この頃の幕府・・そして、一会桑・・
  江戸幕府の260年を越えたこの頃、幕府の権威も大きく
 かすれて来た。
  その事を示す一つの事例が、参勤交代制度だった・・、
  参勤交代制度の強化は思うようには進まなかった。
  また、幕府は、『幕府権威』の復権を、目指して、
  年が明けた慶応元年・・1865年の正月に、
  長州藩・藩主父子に処分を言い渡す為、江戸に呼びつ
 けた。
  また、この長州藩は、ここ数年の長州藩の行動が示す
 様に、別の意味でも、幕府にとって目の上のタンコブだ
 った。
  また、朝廷と、一橋慶喜・会津藩・桑名藩の『一会桑
 (政権)』が、幕府の意思に反する様にも見え、
  その工作のためにも・・、
  老中の本荘宗茂と、阿部正外の両名に、幕府歩兵隊4
 個大隊を率いさせて、1865年3月初旬に上洛させた。
  そして、幕府の権威を復活させようと努めたりした。
  一会桑(政権)は、当時、禁裏の御守衛総督だった一
 橋慶喜と、京都守護職だった会津藩と、京都所司代だっ
 た桑名藩による京都における連合勢力なのだが・・、
  一見すると、幕府の京都における出先機関の様に見え
 るが、また、そうだったのだが・・、
  この一会桑は、孝明天皇から絶大な信頼を受けていた。
  その事によって、幕命で動くというより、独自の判断
 で動くようになっていた(幕府の意思から離れた行動の
 様に見えた)。
  幕府の下の組織というより、朝廷と幕府の仲介という
 形になっていたとも言える。
  その仲介・仲立ちという行動は、幕府の意思で動くと
 いうより、
  江戸の意向より、どちらかというと、朝廷の意向を優
 先している様に、幕府には映っていた。
  これは、この頃の幕府から見れば、一会桑の存在は、
 ある意味、半ば、政敵となりつつあった。
1865年1月3日(旧暦:12月6日)勝海舟、三男梅太郎誕生
 (生母、長崎の梶未亡人)(氷川清話)
1865年1月8日、西郷吉之助が、五卿動座の談判のため、単
 身長州に乗込む。
1865年1月10日、高杉晋作が、筑前より長府に帰った。
1865年1月11日、長州藩主・毛利敬親が、老臣・毛利隠岐を
 征長総督府に遣し、伏罪の誓書を呈す。
1865年1月12日、長州藩士・高杉晋作等が、恭順派の藩政に
 反抗して、馬関新地の役所を夜襲した。
  高杉晋作の下関での挙兵(功山寺挙兵)、そして、その
 後、長州藩の藩論が倒幕に統一されて行く。
  苦闘の中の長州藩だった。
  第一次長州征伐の危機を乗り切った長州藩だったが・・、
  しかし、まだ、藩内には不安材料は残っていた。
  藩論が統一されていない事だった。
  同じ藩なのに、相手の派に対して粛正が行われたりす
 る長州藩だった。
  藩論を統一し、主流派になろうとする戦いが、この高
 杉の行動だった。
  蛤御門の変の敗戦で、俗論派が主導権を握り、諸隊に
 は、解散命令が出ていた。
  しかし、藩から解散命令の圧力が加わっても、一向に
 諸隊は解散する気配は見せず・・、
  この様な状況で、各諸隊は、逆に、解散の実力行使を
 恐れて長府に集結した。
  この様な状況で、俗論派の保守派政権は、諸隊の扱い
 に苦慮していた。
  この諸隊が、ここまで出来て来た経緯は、外国艦隊と
 戦った馬関攘夷戦争の際、
  長州藩の士族による正規軍が惨敗し、その醜態を晒し
 たのを見た高杉晋作が、補助戦力として建白し、
  そして、生まれたのが志願兵による奇兵隊だった。
  そして、その奇兵隊を初めとしてできた来た諸隊だっ
 た。
  この諸隊は、志願兵により構成されていた。
  そのため、士族だけではなく、農民や商人、また、他
 藩の浪人等も参加していた。
  そして、保守派政権が、諸隊を解散させようとしてい
 る所へ、
  九州に亡命していた高杉晋作が帰還した。
  高杉は、奇兵隊の隊士達に決起に参加するよう呼び掛
 け、そして、説得した。
  しかし、当時の奇兵隊総督や、軍監だった山形有朋の
 参加が得られず・・高杉の挙兵は成らなかった。
  しかし、高杉は、奇兵隊の協力は得られなかったが、
 決起を諦めず、遊撃隊と力士隊の協力を取り付け、
  1865年1月12日に、長府功山寺で、保守派政権への反乱
 の決起をした。
  高杉のこの決起は、山形有朋の慎重論を乗り越えたと
 され、また、この行動が、英雄的だと語り継がれること
 となった。
  当初、危ういとみられた高杉のこの決起・・、
  遊撃隊・力士隊を合わせて、わずか80名で始まった高
 杉のこの反乱・・無謀の様でもあった、
  その後、あれよあれよという間に要所を占拠した。
  そして、各地の豪農の援助も受けて行った。
  次第に勢力を増しても行く・・、
  この高杉の順調な行動を見ていた諸隊は、高杉のとこ
 ろへ集まるようになった。
  年末に至って・・、高杉は、保守派政権に対して、一
 大反乱軍の首領となっていた。
  ここまで大きくなると、保守派政権も、遂に、討伐軍
 の派遣を決意した。
  総奉行・毛利宣次郎、以下、栗屋帯刀・児玉若狭等が
 率いる藩の正規軍:約1000名を、1965年1月25日に、萩
 から出撃させた。
  山形有朋は、この藩の正規軍と戦った、そして、初戦
 を勝利した。
  各地での戦いを重ねるうちに、藩の正規軍は敗走する。
  志願兵の諸隊が、士族の正規軍に勝ったのだった。
  この様な戦いの進捗の中で、長州藩の保守派政権は、
 諸隊の軍事的侵攻を受けなくても・・崩壊を始めた。
  こうして、保守派政権は瓦解し、桂小五郎・広沢真臣・
 山田宇右衛門等による過激派政権が確立された。
  長州藩の方針は、表面的には幕府に恭順を装いつつ、
  幕府との戦いに備える「武備恭順」路線を取った。
  そして、四国艦隊との戦いにおいて、欧米の軍事の強
 さを実感した長州藩は、攘夷という観念から、対抗する
 幕府の姿が見え、幕府との戦いが見えて来る。
  そして、その幕府との戦いに備えた長州藩の軍制を、
 西洋流に転換して行く。
  この路線を行なうのが・・大村益次郎だった。
1865年1月14日、天狗党の乱(筑波山事件)の終結。
1865年2月2日、長州藩正義派の緒隊兵、萩の鎮撫軍と交戦
 してこれを撃破す。
1865年2月10日、三条実美以下の五卿、勤王家の援護により
 長州より筑前大宰府に動座。
1865年2月10日、幕府が、長州藩主・毛利敬親(たかちか)父
 子の服罪により、長州征伐の中止を布告する。
1865年2月11日、征長総督・徳川慶勝が、大阪城に入る。
1865年2月11日、西郷吉之助が、薩摩に帰藩し、これより各
 藩勤王党連合し国是を一定せんと図る。
1865年2月23日、山口藩士・毛利敬親の藩政改革。
1865年2月23日、西郷吉之助(隆盛)、39歳にて妻を娶る
  (坂本龍馬、大久保利通、小松帯刀等の勧めに依り岩
 山八郎太の長女・糸子を迎う)
1865年2月24日、幕府が、フランスとの横須賀製鉄所建設の
 契約を結ぶ。
1865年2月25日、毛利広封が、兵を率いて緒隊追討のため城
 を出て明倫館に入る。
1865年3月1日、武田耕雲斎の一党処刑(氷川清話)
1865年3月4日、老中の本荘宗茂と阿部正外が、兵を率いて
 京都入り(3月2日に、阿部正外が上洛、3月4日に、本荘
 宗茂が上洛した)。
  権威を回復したい幕府と、攘夷のこともあって勅を出
 し、より世に関わる朝廷と・・、
  幕府が京へ送り込んだ一会桑の面々は、どちらかとい
 うと、幕府よりも朝廷の意向を優先しがちという状況に
 なっていた。
  そこで幕府は、その様な状況の政治工作の為に、
 二老中を京都に送り込んだ。
  京都に入った本荘と阿部の二老中は、一方で、幕府の
 歩兵隊4個大隊によって、無言の恫喝と、三十万両にも
 及ぶ工作資金の「飴と鞭の工作」によって、京の政治・
 政界を牛耳ろうとした。
  この様な幕府の行動に、二老中の行動に、対抗したの
 が、薩摩藩の大久保利通だった。
  この頃の薩摩藩は・・、
  それまでの公武合体路線から転向しつつあった。
  反幕路線へと移行しつつあった。
  (だが、この頃は、まだ、薩摩藩は倒幕には至ってい
 ない)
  この頃、薩摩藩の京都での政治工作の表舞台に居たの
 が大久保だった。
  大久保は、金と武力による恫喝で、京を牛耳ろうとす
 る幕府の行動を見て・・、
  公家に対する工作を、大久保は、行ない始める(大久
 保は、3月4日に上洛していた)。
  そして、1865年3月19日に至り、朝廷は、ニ老中を呼
 びつけ、今回の行動を叱責し、逆に、将軍が上洛する様
 にと言明した。
  本来、朝廷と意思の疎通が出来ていた一橋慶喜が主導
 すべき事態であったが、
  二老中の目的は、「一会桑を、江戸に連れて帰る(一
 橋慶喜と会津藩主と桑名藩主を京都より追い出す)」と
 いう目的もあったため、
  一会桑の協力も得る訳に行かず、この様な事態になっ
 たのだった。
  そして、大久保が、京都の政治の中で大きな地位を占
 めて来る、
  そして、二老中は、江戸に帰ることになる(3月19日に
 老中は、関白の叱責を受け、3月20日に、江戸に帰らされ
 た、将軍上洛の為もあって)。
  しかし、幕府は、この一件で、一会桑の役目の大事さ
 を理解した、
  これ以後、より慶喜の京都での働きを重視する。
  ここに、慶喜と大久保の両氏が、京都で火花を散らす。
1865年3月、高杉晋作(27歳)と伊藤俊輔(博文)が、洋行
 という名目で、2度目の長崎へ行った。
  グラバーと英国領事のラウダに海外渡航を相談、
  グラバーらは、高杉の海外渡航に反対する。
  幕府の第2次長州征伐に備え戦力を蓄えるため、下関
 を開港し、イギリスと貿易を行なうよう強調(グラバー
 は、あくまで商社マン)。
  高杉は、説得を聞き入れ下関に帰った。
  この後、グラバーは、日本がシッチャカメッチャカの
 戦争状態になると思って、大量の武器を仕入れたが、
  理知的な日本は、その様な事態は起こさずに、グラバ
 ーは、買った武器が売れず、破産となる。
  →1866年(慶応2年)、3度目の来崎。目的は薩長同盟
 に加わるため。銅座町の薩摩屋敷へ。
1865年4月4日、幕府へ参勤交代を緩めよと勅諚(ちょくじ
 ょう、朝廷が自ら定めたこと)
1865年4月5日、幕府が、英・米・仏・蘭の4国公使に、下関
 開港が不可能なことを申し入れた。
1865年4月17日、薩摩藩の遣英使節団が密出国した。
1865年4月20日、野村望東尼、三条実美に会見。
1865年(慶応元年)5月1日、慶応と改元
  元治1年から慶応1年になる。
  禁門の変や社会不安などの災異のために慶応に改元。
1865年5月、土佐勤王党が、弾圧される。
1865年5月7日、幕府が、長州再征の部署を定めた。
1865年5月10日、将軍家茂が、長州征討のため江戸を出発
 した。
  一会桑の重要性を理解した幕府、そして、連携が成立
 した幕府。
  幕府は、一会桑からの上洛の勧めを受けたのと、長州
 藩主父子の出頭を命じたのに、いつまで経っても応じな
 い態度を示す長州藩に、再征討の必要性を感じた。
  そして、その再征討の陣頭指揮をする為に、1865年6月
 9日に、将軍・徳川家茂、自らが、幕府歩兵隊を主力とし
 た幕府軍を率いて、征長軍本営となる大阪を目指して、進
 軍を開始した。
   こうして1865年7月8日に、江戸を出発した家茂一向は、
 1865年7月14日に上洛し、参内した、そして、
  7月17日に、征長軍本営と定めた大阪城に到着し、
  8月14日に、再度、長州藩に対し重臣の出頭を命じた。
  しかし、長州側は、病気のため猶予を願うと回答した。
  長州藩は、この出頭命令を無視した。
  10月7日に、病気で無理ならば家来を上坂せよとの命令
 も出されたが、
  10月27日に、長州は、再び、病気を理由として拒否した。
  ここに至り、ついに、
  1865年11月9日に、慶喜を介し、朝廷に対して、長州藩
 への再討伐の勅許を得る為の行動が開始された(この日
 に、再征勅許を巡る朝議が開かれた)(奏請:朝廷に奏
 上して裁可を求めること)。
  これに対して、薩摩藩の大久保は、「長州藩への対処
 は、雄藩による諸侯会議で話し合うべきだ」と言った。
  幕府へ勅許が下りるのを阻止するためだった。
  また、大久保に入説された公家が反対したりした。
  しかし、朝議を牽引した慶喜は・・勅許を得た。
  長州問題への主導権を巡る「慶喜と大久保」の朝廷の
 場での意見対立が争われた。
  「慶喜と大久保」の政治工作に公家方も意見が分かれ
 た。
  政治戦は、公家達も巻き込まれて行なわれ、
  両者の政治工作に、公家方も態度が安定しなかった。
  1865年11月9日に、幕府に対し、長州藩に再討伐の勅許
 が降りた事によって、長州問題を巡る政治工作は、慶喜
 の勝利で終わった。
1865年5月13日、幕府が、長州再征布告。
..
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2015年12月20日日曜日

(増補版)262D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年10月~1864年12月)

題:(増補版)262D3/3:3/3:気になった事柄を集めた年表(1864年10月~1864年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1864年10月 京都・大坂に、物価騰貴・長州征討・外国貿
 易非難の張紙がなされた。
  戦乱で世は乱れて・・、
  大坂やその周辺の物価は・・騰貴し、
  人夫徴発などの負担を、民衆は・・強制され・・、
  諸物価高騰は・・狂乱状態で、
  また、経済的要因だけではなく・・内戦状態にある世
 が、さらに、その状況に拍車をかけた。
  諸藩は、戦争状態のため、兵糧米を備蓄した。これが
 大きな原因だった。
  また、関門海峡封鎖により西廻りの米が入らなくなっ
 たこと、そして・・投機のために、米価は天井知らずに
 高騰した。
  数か月で、米価は2倍になった。
  逆に、日雇や手間賃の実質賃金は、数年前の半額にな
 った。
  特に、下層の庶民への打撃は・・大きかった。
  世直しの大一揆や、打ちこわしは・・起きた。
1864年10月19日、勝海舟が関係する神戸塾中の姓名出所が
 探索された。
  これは、激徒の巣窟に似ているというので、嫌疑を蒙
 ったもの(氷川清話)
1864年11月、勝海舟、小野浜に碑石を建て海軍鴻基の記念
 とする。
  明年、そのこと廃せられ碑石を深く土中に埋める(氷
 川清話)
  (参考)鴻基:こうき、大きな事業の基礎。
  ここまで、行動を追及されるこのグループ・・、
1864年11月15日、☆幕府、筑波の叛(天狗党の乱)の罪を
 問い水戸家家老・鳥居忠順、大久保忠貞など49名を斬る。
1864年11月21日、☆大阪城に於いて、征長軍議評定 。
1864年11月24日、勝海舟、帰府を命ぜられ陸路(氷川清話)
1864年11月30日、高杉晋作、脱藩し福岡に移る。
1864年11月30日、勝海舟、江戸に着く、老中・阿部豊後守
 に謁し形勢を述べ、直ちに家に屏居す(氷川清話)
  勝海舟、役儀を命ぜられ寄合となる。俗吏の猜疑を受
 ける。天下益々多事(氷川清話)
1864年12月8日、勝海舟、軍艦奉行免職。
  勝海舟が罷免(ひめん、職務を止めさせること、免職)
 され、約2年の蟄居生活を送った。
  八月十八日の政変で失脚した長州藩が、京都へ進攻し
 た禁門の変の責を問われて、勝海舟は、軍艦奉行を罷免
 された。
  さらに、土佐脱藩浪士や、長州に同情的な意見を持つ
 生徒が多かった神戸海軍操練所は、幕府の機関でありな
 がら反幕府的な色合いが濃いとして、翌年の1865年に閉
 鎖された。
1864年12月9日、☆長州征討軍の各自が攻め口に着陣した。
  1週間後の12月16日を攻撃開始とすると決定した。
1864年12月9日、着陣と同じこの日に、長州征伐の終戦へ向
 けて、終戦条件として求められていた条件(三家老切腹)
 の内、
  長州藩の国司親相と益田親施の二家老が、徳山藩にお
 いて切腹した。
1864年12月10日、その翌日のこの日に、長州征伐の終戦へ
 向けての長州藩のもう一人の家老・福原元僴が、岩国藩
 において切腹した。
  また、この日に、終戦条件で求められていた四参謀も
 野山獄で斬首された。
1864年12月13日、三条実美らの五卿、長州藩の諸隊士700余
 人に護衛され山口より長府に移った。
1864年12月16日(旧暦:1864年11月18日)、第一次長州
 征伐
  征長軍参謀・西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦
 わずして恭順した。
  1864年11月21日に、大坂城にて征長軍は軍議を開き、
  1864年12月9日までに、各自は攻め口に着陣し、
  1週間後の1864年12月16日に、攻撃を開始すると決定し
 た。
  幕府は、朝敵となった長州の藩邸を没収、藩主父子に
 謹慎を命じた。
  しかし、どのような条件で長州藩へ謝罪をさせるかに
 ついては決めず、幕府や征長軍内においては厳罰的な案
 を含めていくつかの案が出された。
  三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放が降伏条件で開
 戦の開始を猶予する案が出た。
  そして、この日・12月16日に、「藩主父子からの謝罪
 文書の提出、五卿と附属の脱藩浪士の始末、山口城破却」
 の命令が出された。
1864年12月、長州藩の謝罪恭順・・長州藩内はゆれる
  第1次長州征伐直後、長州藩の俗論派は、幕府へ「謝罪
 恭順」論をとなえたが、
  それを排して「武備恭順」の路線を確定させた。
  この時、藩主の敬親(たかちか)が、腰砕けの佐幕に
 傾いていたら、長州藩は解体され、維新を先駆ける原動
 力にはなり得なかったと思われる(プレジデント平成10
 年7月号)
  第1次長州征伐を発令した幕府の大軍を迎えるという危
 機に直面すると、それまで後退していた俗論派が進出し、
  そして、過激分子を粛清して、幕府に謝罪するなどで
 危機を脱した。
  藩主。敬親は寛大だった。
  長州藩は、高杉晋作ら松下門の過激派が暴走しても、
 彼らの行動は黙認され、庇護を与えるまでに寛大であっ
 た。
  しかし、俗論派とは、たびたび入れ替わった。
  武備恭順を確定させた長州藩、武備恭順は、見せかけ
 だけの恭順、
  それは、再起を図るための武備をしているということ、
  長州藩の俗論派は「謝罪恭順」、
  幕府に全面的に恭順したという形の俗論派から見ると、
 武備恭順派は危険分子と写っている。
  故に、長州藩内で、この二派が争った。
  外国艦船の来航を契機に、平和な文化が花咲いていた
 日本は、すっかり戦乱の世となった。
1864年12月18日、小栗忠順(おぐりただまさ、幕臣)が、軍
 艦奉行を命ぜられた。
1864年、デンマーク戦争が起きた。
  ドイツの内乱につけこんで、イギリスとオランダの援
 助の約束を得た上で、北ドイツに侵入した。
  結局は、土地・領土の奪い合いの餓鬼の戦争。
  下記のアメリカ合衆国の場合も同じだが・・、
  ヨーロッパやアメリカのキリスト教国は、こんな戦争
 に明け暮れていた。
  そして、1866年には、懲りない面々は、またまた、領
 土・領有をめぐって、普墺戦争を起こすに至る。
  遅れた国々だった。
1864年11月29日、アメリカ合衆国の先住民の方々=アメリ
 カ・インディアンの方々がアメリカ軍によって虐殺され
 た。
  アメリカのコロラドで・・、
  アメリカ軍が、何と、無抵抗の先住民のインディアン
 の方々を無差別に虐殺して行った
  (シャイアン族とアラパホー族のインディアンの方々)。
  アメリカ合衆国の正規の軍隊が、無抵抗の人たちを、
 殺して行くという行為である・・が、
  また、アメリカの民間人も・・卑劣な方法で、先住民
 のインディアンの方々を追い出し、殺して行った。
  ならず者をのガンマンを雇って、インディアンの方々
 を追い出し、
  また、殺して・・土地を奪って行った。
  アメリカ政府は、居留地・保留地という方法で、
  インディアンの方々を集め、隔離し、インディアンの
 方々の土地を奪った。
  それで、アメリカ白人の入植地を増やしていった。
  入植地は順調に増えた。
  インディアンの方々は、物同然の邪魔者扱いで取り扱
 われ、人道的な視点はまったくなかった。
  キリスト教の有色人種蔑視の洗脳とマインド・コント
 ロールが行なわせた、
  この宗教は、完全にアメリカ人の判断力を鈍らせてい
 た。
  当然、インディアンの方々は、自衛のために・・抵抗
 し、戦いをすることになって行く。
  しかし、南米などでの、1000万人にも及ぶ殺戮と同じ
 く、
  スペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちのそ
 の蛮行と同じく、
  使用される武器、持っている武器の・・厳然たる差に
 よって、
  このアメリカの地でも・・、先住民のインディアンの
 方々は、その非力さによって・・殺されて行った。
  インディアンの方々が・・悪いのではない・・、
  コロラドでは、戦いの前に、「インディアンの頭の皮
 を買い取る」ということを宣伝する集会を、アメリカ人
 は開くという・・卑劣なひどいことをした。
  どちらが野蛮人か・・と、言いたい。
  「耳まで付いている頭の皮」なら高額だ・・という話
 までするという・・低劣さだった。
  インディアンの方々の土地の奪い取りを煽り立てるア
 メリカ人たちの・・集会だった。
  インディアンの方々の死体の処理は、ここには書けな
 いような野蛮な方法で処理された。
  新聞は、マスコミという立場を利用して・・卑劣にも
 インディアンの方々への憎しみを書きたてた。
  卑劣な報道機関だった。
  「やつら(インディアンの方々)は、この地上から消
 し去るべきだ、
  自堕落で、宿無し同然で、
  残忍で恩知らず・・そんな人種である」・・と、軽蔑
 すべき人種攻撃で、極端な差別報道だった。
  今・現代、インディアンの方々は、絶滅という危機に
 あるが、
  キリスト教に洗脳された人種差別観念によって虐げは
 続いて来た。
  2人の白人兵が殺されると、25人のインディアンの方々
 が殺される・・ということで報復がなされた。
  キリスト教の「目には目を」の報復の教義である、行
 為である。
  それにしても、進んだ武器を持っているからと言って、
 インディアンの方々を簡単に殺すアメリカ人の擦り込ま
 れた、洗脳された考え方が、なさせた行為だった。
  条約を破るのはいつも白人だった。
  そのため、あちこちで小競り合いがあった。
  そのいざこざを理由に、優れた武器で、アメリカ人は
 暴力をふるった。
  白人入植者が殺された時は、狩りをする様に、あたか
 も動物の狩りをする様に、インディアンの方々が居ると
 銃で撃って、インディアンの方々は殺された。
  そうしても良いと州政府は許可を与えた。
  インディアンの方たちは「赤い悪魔」と言われた。
  和平を宣言しているインディアンの部族の方々でさえ
 も、無差別に殺された。
  日本の東京や大阪や各地の都市が、無差別爆撃で、国
 際法違反の行為で、市民の方々が殺された様に・・殺さ
 れた。
  有色人種という事から、安易に殺すという行為が導き
 出されていた。
  インディアンの各種族の酋長の方々は、和平を、種族
 の中で話していた。
  アメリカが、メキシコの地を奪った時のやり方もそう
 だった。
  相手の困ることをやり続け、相手が反撃すると、仕方
 なくファイトバックすると・・、
  この時だとばかりに・・その事でもって、相手が先に
 手を出したのだという因縁(いんねん)の付け方をして、
  お前が先に銃を抜いたのだろ・・という論理で・・、
  キリスト教の教えである、相手が先に抜けば、相手を
 殺して良いというキリスト教の教義で・・、
  また、キリスト教には、戦う前に警告すれば相手と戦
 争しても良いという教義など、戦争論理が色々あるが・・
  何しろ、キリスト教はこの様な戦争になる教義や、「
 異教徒は殺せ」「魔女は生かしておいてはならない」の
 殺人指令の教義があるが・・、
  この宗教観が、この様な行為に大きく影響している。
  アメリカ軍大佐のジョン・M・チヴィントンの言葉:
  「インディアンに同情する奴は糞だ!・・
  私はインディアンを殺さなければならない。
  そして、神の天国のもとでは、どのような方法であっ
 ても、インディアンを殺すことは正しく名誉あることで
 あると信じる」。
  このアメリカ軍大佐は、インディアンの方々をシラミ
 にたとえるのが好きな人間だった。
  子供も無差別に殺した大佐だった。
  また、言った、「ちいさいものもおおきいのも、すべ
 て殺して、頭の皮を剥ぐべきです。卵はシラミになりま
 すから」と言った。
  この大佐が、この日に、何もしてない無実のインディ
 アンの方々を・・虐殺した。
  ほとんどが女性の方たちだった。
  男の人たちは、バッファロー狩りに出掛けていて留守
 だった。
  男は、ほとんどいなくて、居ても老人だった。
  攻められたインディアンの方々は、米国国旗を掲げ、
 米国保護下の場所だと主張し、示した・・が、
  また、白旗も上げて攻撃を止める様にも示した・・が、
  大きな声で攻めない様に、敵対的なインディアンでは
 ないと示した・・が、
  悲しいかな・・攻撃が止むことは無かった。
  大佐は、「殺せ!・・どいつもこいつも頭の皮を剥げ
 ・・、大きいものも小さいものもだ。
  シラミの幼虫は、シラミになるからな!」・・と、兵
 士たちに叫んだ。
  無差別虐殺命令を発していた。
  何と! アメリカ合衆国は、この軍隊へ、「野蛮人殺
 戮者の軍だ」・・と、栄光が与えられた。
  この様なアメリカだった。
  アメリカ合衆国の新聞は、「インディアンの頭の皮は、
 今や、エジプトのヒキガエルと同じくらい厚く重なって
 いる」と、馬鹿にした表現で報じた。
  「インディアンの絶滅がアメリカの悲願だ」と言った。
  大佐や兵士の「無抵抗者への殺戮者」は讃えられた。
  英雄となった。
  当然、インディアンの方々は憤った。
  無抵抗のインディアンの方々を殺したアメリカ軍の行
 為は、何ら、解決を与えるものではなかった。
  戦いを起こすアメリカ軍だった。
  この様な卑劣な行為によって、連鎖する戦いが生まれ、
 何ら関係のないアメリカの白人の方々が殺される原因を
 作った。
  その様な栄光を与えられるべきではない、無差別殺戮
 をしたアメリカ軍だった。
  コロラドのサンド・クリークにおいて、アメリカ軍が
 行った大虐殺行為だった。
  こんな事は、今・現代でもアメリカ軍はやっている。
1864年、ロング・ウォーク・オブ・ナバホ
  アメリカ大統領のエイブラハム・リンカーンによる、
 卑劣な民族浄化と称して行われた行為。
  アメリカ・インディアンの方々に対する悪行為(極寒
 の時にわざと、500キロメートルにもおよぶ、歩いての
 強制収容所への移動命令)。
  特に、インディアンの方々の、弱者の・・赤ん坊、幼
 児、病人、ご老人などの多くの方々が命を落とした。
  すでに、説明させて戴きました。
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 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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