ページビューの合計

2016年3月18日金曜日

(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月~1873年12月)

題:*(増補版)315E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年10月~1873年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年11月2日(明治6年9月13日)特命全権大使・岩倉
 具視の一行が、欧州より帰朝する(翌日参内復命)
  岩倉具視を全権大使とする使節団が、全12か国をまわ
 り帰国した(横浜に帰港)。
1873年11月2日(9月13日)ストーブの広告が出る。
  因みに、ストーブは・・、幕末以後は、石炭ストーブ
 が輸入されるようになり、
  この年・1873年(明治6年)に、東京神田の増田という
 人が、国産ストーブを発売した。
  明治30年(1897年)代に入るとガスストーブも国産
 され、
  1914年には、京都電灯が電気ストーブを製造発売した。
  石油ストーブも、明治時代から使われ、国内でも生産
 されたが、ぜいたく品だった。
1873年11月4日(9月15日)新橋~横浜間の鉄道に、初め
 て、貨車が運転開始された(従来は客車のみであった)
1873年11月4日(9月15日)、三条実美と岩倉具視が、大
 久保参議の起用を協議する。
  さかのぼること5ヶ月前、1873年6月20日(明治6年5
 月26日)に、特命全権副使・大久保利通は帰国していた
 が、大久保は、岩倉使節団の外交上の失敗の責任を痛感
 していた。
  また、中途で早めに帰国させられたが、既に、国内の
 改革はすんでしまっていて、何もすることがないと感じ
 ていた。
  大きな外国の壁に悩んいた大久保は、この時、朝鮮問
 題にも無関心の様子で、政務に復帰していなかった。
  使節団は、対米条約改正交渉に乗り出し、努力してい
 たが失敗し、また、度重なる誤算もあった。
  当初は、10ヶ月半の予定だったが、20ヶ月半を要する
 結果となった。
  しかし、長期間とはなったが成果は目に見えず、使節
 団の威信は大いに低下した。
  世間には、下記の様な歌が流行った・・、
  「条約は結び損ない、金は捨て、世間へ大使(対し)
 なんと岩倉」
  そして、木戸孝允(きどたかよし)が、大久保に遅れ
 て約3ヶ月後の1873年9月14日(明治6年7月23日)に、
 帰国した。
  木戸は、帰国早々、同じ長州閥の井上馨、槇村正直ら
 の不始末(尾去沢銅山事件、小野組転籍事件)の処理に
 奔走し、また奔走せざるを得なかった。
  木戸は、朝鮮問題に相当の関心を寄せ、征台征韓の正
 当性を原則的に認めた。
  しかしながら、木戸は、財政上の見地から征台征韓を、
 「時期尚早だ」として反対した。
  しかし、外遊中の複雑な事情もあって、消極的となり、
 三条実美に参議辞任を申し出た。
  三条実美は、岩倉の帰国まで待つようにと慰留した。
  そして、岩倉具視、伊藤博文らの使節団が、1873年11
 月2日(明治6年9月13日)に帰国する・・、
  三条と岩倉の直近の最重要課題は、体制を立て直す「
 体制固め」だった。
  その意味もあって、大久保と木戸を政府に参加させ、
 復帰させることだった。
  しかし、大久保は消極的だった。
  そして、木戸の方の関心は、不始末をした子分の救済
 (小野組転籍事件)にあった。
  そして、木戸の関心のもう一つが、不正を容赦しない
 裁判所・司法省をつくった江藤に対処することだった。
  西郷は、既に、1873年10月8日(8月17日)に、朝鮮
 への派遣使節に内定していたが、
  岩倉の帰国後は、三条および岩倉とも、大久保参議の
 起用問題を目下の処理事項とし、西郷の朝鮮派遣問題は
 取り上げられず、閣議も開かれなかった。
  決定のない状況に、西郷は強く抗議し、三条らを慌て
 させた。
  因みに、小野組転籍事件とは、1870年(明治3年)、
 小野屋が、本社機能を京都から江戸へ移そうとしたとこ
 ろ、長州藩出身で京都府権大参事の槇村正直によって為
 替業務に制限がかけられ、これによって小野屋の業務は
 支障をきたした・・、
1873年11月19日(9月30日)オランダに公使館が開設さ
 れた。
  因みに、ベルギーの事であるが・・、
  日本とベルギーとの国交は、1866年の修好通商航海条
 約の締結によって始まり、
  ベルギーは、1870年に、東京に公使館を設置した。
  また、日本は、この年の1873年に、ブリュッセルに
 公使館を開設した。
  第1次大戦後の1921年に、大使館に昇格した。
1873年11月28日(10月9日)東京の開成学校(東京大学
 の前身)の開校式場に、明治天皇陛下が臨御(りんぎょ)
 し給う。
  江戸時代の蕃書調所から、変遷を経て、1868年に、新
 政府に接収されて・・改称し、
  1873年に、専門学校として開成学校が官立学校として
 設置された。
  1877年に、東京大学の一部となる。
1873年11月(9月)横浜グランドホテルが開業した。 
  本格的なホテルとして、横浜の居留地二十番にオープ
 ンした。
  グランドホテルは、横浜だけでなく、日本を代表する
 ホテルとなって行く。
  食事や各施設の充実ぶりに、各国の要人なども賛辞の
 声をあげた。
  食事をかなり詳しく記録した外国人宿泊者が、「パリ
 のグランドホテルにいるようだ」と記した。
  しかし、西洋の石造りのホテルに慣れている外国人宿
 泊者は、木造で石造り風に施工したホテルには慣れなか
 った様だ。
  石だと思った壁が石の板で穴が開いていた・・と感想
 を述べている。
  現在、写真が残っているが、かなりしっかりした良い
 建物を、デザイン良く設計し建てていたと、明治の方々
 を褒めて差し上げたい。
1873年11月(9月)横浜でガス灯が点火した。 
  横浜の外人居留地では、既に、1871年に点灯していた。
  これは、日本の初めての点灯と言われている(1872年
 説あり)。
  1872年に、横浜の馬車道本通り~大江橋間が点灯し、
  1874年には、銀座煉瓦街の街路灯が、点灯夫によって
 点灯され、街を照らし人々を驚かせた。
1873年11月(9月)飛脚業の禁止(1873年5月説あり)。
  飛脚問屋による信書の逓送が禁止され、信書逓送は、
 政府事業となった。
  1872年4月に、陸運元会社が創立され、
  1872年8月に、各駅の伝馬所と助郷制は全廃され、
  宿駅の問屋は、陸運会社として、陸運元会社のもとに
 組織化された。
  そして、官営郵便事業の輸送業務は、陸運元会社へ一
 本化された。
  1873年3月に、陸運元会社は、金子入書状の取扱いも
 委任され、
  1873年6月には、再度組織改編を行なって、新たに同
 業者と同盟をむすび、全国各地に3480余の出張所や取次
 所を設け、公用私用の貨物輸送業務を行なう様になった。
  前島密の関心は、もっぱら郵便事業に向けられ、
  1873年5月には、飛脚問屋による信書の逓送が禁止さ
 れ、信書逓送は政府事業となった。
  逓送業務は、郵便取扱人をふくむ駅逓寮職員に限定さ
 れ、
  違反者には、郵便犯罪罰則により200円以内の罰金が
 課された。
  したがって、この1871年4月の郵便の開始から、1873
 年5月の民間業者による信書逓送の禁止までの2年余の期
 間は、飛脚便と郵便との競争・併存の時代であった。
1873年12月3日(10月14日)祝祭日を官庁の休日となす制
 度が定められ、太政官より布告された。
  祝祭日制定される(神武紀元祝日を2月11日に変更)
1873年12月3日(10月14日)岩倉具視が、西郷隆盛らと
 征韓論で意見が衝突(旧暦10月22日説あり)。
  清国と朝鮮との関係の様な「公平な国交」を、日本も
 朝鮮半島の李朝との間で開きたいとしていた。
  清国の従属国化しているため、日本を重要視しない(
 重要視できない)李朝政府は、日本との交渉をいたずら
 に長引かせ、侮辱もした。
  日本国内に征韓論も生まれた。
  その征韓論の中で、西郷の征韓論は、征韓論と言うよ
 り、不誠実な態度、侮辱的な態度に終始する朝鮮・李朝
 に対し、西郷が自ら交渉に赴くという「遣韓使節論」で
 あって、
  その赴くにおいて、不誠実な侮辱的な態度が相変わら
 ず続く様であったなら、征韓も持さないという征韓論で
 あった・・、
  故に、西郷は、「派兵反対論」であった。
  この年・1873年(明治6年)になってからは、朝鮮の
 排日の風は、ますます強まっていた。
  1873年5月~6月(明治6年4月~5月)には、釜山にお
 いて官憲の先導によるボイコット(組織的、集団的に日
 本人を排斥したり、取引拒絶などをする)も行なわれて
 いた。
  また、政権を握った大院君(だいいんくん、李氏朝鮮
 において王位を直系継承された王)は・・、
  「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にし
 て日本人に交わるものは死刑に処せん」という過激な布
 告を出した。
  1873年7月(明治6年6月)、日本に帰国した在朝鮮の
 外交官が、帰国報告し、この様な状況が閣議で、改めて
 対朝鮮外交問題として取り上げられた。
  その様なところへ、1873年11月2日(明治6年9月13日)
 に、岩倉具視が帰国した。
  帰国した岩倉使節団の岩倉具視・木戸孝允・大久保利
 通らは、時期尚早だとして、反対した。
  1873年12月(明治6年10月)に、収拾に窮した太政大
 臣・三条実美は病に倒れた。
  最終的には、太政大臣代理となった岩倉の意見が、明
 治天皇陛下に容れられ、遣韓中止が決定された。
  その結果、西郷や板垣らの征韓派は、一斉に下野した
 (征韓論政変、または、明治六年政変)。
  別史料には・・、
  大久保は、説得に大院君が耳を貸すとは思えず、西郷
 が、朝鮮に行った場合必ず殺される。
  (殺されずとも、大院君が使節を拒否した場合は、開
 戦の大義名分になってしまう)、
  そうなった場合、結果的に朝鮮と開戦してしまうので
 はないかという危機感、
  当時の日本には、朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係
 が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの
 国力が備わっていないという戦略的判断と、
  外遊組との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染
 めようとしている残留組に対する感情的反発、
  そしてまた、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外
 交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球
 帰属問題(台湾出兵)、ロシアとの樺太、千島列島の領
 有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等
 条約改正)などがあった。
  それらの理由から強い反対意見が出た。
  費用の問題なども絡め、征韓の不利を説き、延期を訴
 えた。
  1873年12月3日~4日(10月14日~15日)に開かれた
 閣議には、太政大臣・三条実美、右大臣・岩倉具視、
  以下参議の・・西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤
 象二郎、副島種臣、大久保利通、大隈重信、大木喬任が
 出席した。
  この際、大隈・大木が、反対派に回り、採決は同数に
 なった。
  しかし、この意見が通らないなら辞任する(西郷が辞
 任した場合、薩摩出身の官僚、軍人の多数が中央政府か
 ら抜けてしまう恐れがある)とした西郷の言に恐怖した
 議長の三条実美が、即時派遣を決定した。
  これに対し大久保、木戸、大隈、大木は、辞表を提出、
 岩倉も辞意を伝えた。
1873年12月(明治6年10月)征韓論は破れた。
  征韓論分裂、西郷、板倉、江藤ら辞職(氷川清話)
   1873年(明治6年)には早くも征韓論の対立で、政治
  勢力は大きく分裂した(氷川清話)
  征韓論に敗れ、西郷隆盛・板垣退助らが下野した。
  江藤新平も、1873年に参議になったが、征韓論を唱え
 ていられず辞職した。
  大久保が、西郷(かつての盟友)を追放。
  破壊の時代にときめいていた者(西郷)は、必ずしも
 新時代建設にも適任とはならない、新時代プランナーと
 しての精彩は欠いた。
  しかし、その令名は却って輝きが増した。
  価値観の混乱から、新政府に不満を持った者が、巷に
 溢れ、彼らは西郷を慕った。
  大久保は、西郷の存在に危機感を感じ、征韓論を政争
  の問題とし、かつての盟友を追放した。
  そして、西郷隆盛(45歳)は、征韓論を主唱し敗れ、
  辞職した。
  帰郷して私学校を開き、そこに不平士族が集まった。
  また、別史料に・・下記がある、
  ・1873年12月11日(10月22日)西郷隆盛、板垣退助、
    副島種臣、桐野利秋ら、岩倉具視邸にて征韓論の
    正面衝突。
  ・1873年12月12日(10月23日)岩倉具視参内して、三
    条実美、西郷隆盛らの「征韓論」を奏陳し意見書
    を上げる。
  ・1873年12月13日(10月24日)明治天皇陛下、征韓論
    を退ける(西郷隆盛、参議・近衛都督を辞職)
  ・1873年12月14日(10月25日)征韓論敗れ、副島種臣・
    板垣退助・江藤新平ら参議を辞職(後を追って辞
    職するもの100余名に及ぶ)
  ・1873年12月17日(10月28日)西郷隆盛、官を辞し鹿
    児島帰郷
1873年12月8日(10月19日)新聞紙発行規則が定められ
 る。
  新聞紙条目を公布(発行許可制、国体誹謗・政法批評
 禁止)など規定。
  讒謗律(ざんぼうりつ)を制定して、急進的な反政府
 の言論活動を取り締まった。
  征韓論をめぐって、西郷隆盛らが下野すると、世論鎮
 圧のため新聞紙発行条目を公布した。
  「人ヲ教唆シテ罪ヲ犯サシメタル者」(12条)、
  「政府ヲ変壊シ国家ヲ顛覆(てんぷく)スルノ論ヲ載セ
 騒乱ヲ煽起(せんき)セントスル者」(13条)、
  「成法ヲ誹毀(ひき)シ国民法ニ遵(したが)フノ義ヲ乱
 (みだ)リ及顕(およびあら)ハニ刑律ニ触レタルノ罪犯ヲ
 曲庇(きょくひ)スルノ論ヲ為(な)ス者」(14条)
  この令には、初めて厳しい刑罰規定が設けられた。
  征韓論で乱れた国内の状況に応じた令だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年3月17日木曜日

(増補版)314E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年8月~1873年10月)

題:*(増補版)314E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年8月~1873年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
19世紀後半、朝鮮・韓国の文字であるハングルで書かれた
 最古の小説「洪吉童伝」が、この頃に成立した。
  ハングル。
  ハングルは、朝鮮語を表記するための表音文字であり、
 1446年に、李氏朝鮮・第4代国王の世宗が、「訓民正音」
 の名で公布した。
  しかし、この文字は、長い間、朝鮮・韓国の社会から
 消えていた、埋もれていた。
  日本が、朝鮮・韓国の教育を熱心に改善して行ったが、
 その過程の中で、この埋もれていた文字が復活された。
  今・現在、この文字によって、どれほど朝鮮・韓国が
 文化的に、教育的に利便を得ているかは計り知れない。
  朝鮮・韓国で、ハングルが軽視されていた理由は、
  李氏朝鮮の国であった朝鮮・韓国は、清国に従属化さ
 れていて、その状況下にあって、清の文字の漢字が重視
 されるという状況のもとに、朝鮮・韓国の古来のハング
 ルは消え、そして、軽視されていた。
  公文書にも使われず、まったく見向きもされていなか
 った。
  日本との関係が深まって来て、やっと、1886年に、日
 本人が協力し、初のハングルの新聞や官報が発行された。
  朝鮮・韓国の方々は、教育機関がほとんど皆無と言っ
 いい状況の中で、大多数の朝鮮・韓国の方々は、読み
 書きができない状況だった。
  そして、日本との合邦時代になって、日本と同様の教
 育を進めたいという理念のもとに、朝鮮・韓国の学校教
 育にハングルによる朝鮮語が導入された、また、学校数
 も増やして行った。
  朝鮮・韓国の方々に、字の読める人口が、格段に改善
 された。
  1911年に、朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、ハ
 ングルを正式に必須科目とした。
  加耶大学の崔基鎬(チェケイホ)教授は、自著に書く、
  「李朝518年間、政治も経済も国家も、まったく存在し
 ないに等しかった。
  あったのは、ごく少数の支配階級と、大多数の奴隷(
 常民・サンミンと賤民・センミン)だけだった。
  朝鮮で最初のハングル小説「洪吉童伝・ホンキルトン
 ジオン」を著わした作家は、刑死させられたくらいだ。
  そして、その作家の家族は、奴婢・ヌヒの身分に転落
 させられた。
  朝鮮民族は、この様な体質だった。
  李朝は、讒言(ざんげん、事実を曲げたり、ありもし
 ない事柄を作り上げたりして、そのことを目上の人や、
 社会に言いふらし、悪く言うこと)と嘘(うそ)で固め
 られた残酷史の連続だった・・、
  他力本願ながら、そうした李朝の歴史に終止符を打っ
 た日韓併合は、この民族(朝鮮・韓国)にとって千載一
 隅の好機であった。
  これを否定する事は、歴史の歪曲である」と。
  千載一隅の意味は、《袁宏「三国名臣序賛」から》千
 年に一度しかめぐりあえないほどまれな機会。例:千載
 一隅の好機。
1873年8月24日(7月2日)靴製造販売広告が、初めて新聞
 紙上に現われた。
  (東京築地、伊勢勝の広告、郵便報知紙上に見える)
1873年9月2日、黒田清隆開拓次官が、樺太出兵を建議した。
  1869年12月24日(明治2年11月22日)に、黒田は、
 樺太でのロシアの圧力が増したため、
  1870年6月(明治3年5月)に、樺太専任の開拓次官と
 なった。
  1870年8月(明治3年7月)から樺太に赴き、現地のロ
 シア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京し
 た。
  1870年11月13日(10月20日)に建議して、樺太は3
 年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければ
 ならないと論じていた。
  1871年11月27日(明治4年10月15日)に、開拓使長
 官・東久世通禧が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂
 点に立った。
  1873年11月14日(明治6年)に、開拓使官吏の永山武
 四郎、永山盛弘ら4人は、連名で右大臣岩倉具視宛てに
 「屯田兵備設置」の建議を提出した。
  その要旨は・・、
  兵備は国家を守り、国民を保護するものだ。
  徴兵制度が定められ、各地に鎮台(軍隊)が設けられ
 たが、北海道だけはない。
  樺太の情勢は切迫している。
  開拓次官・黒田清隆に兵務も兼ねさせ、開拓使の中か
 ら兵を募り、隊を編成してほしい。
  樺太南部は、日露雑居の地で、ロシア人の犯罪が相次
 いでいた。
  樺太担当次官だった黒田は、出兵を計画したが、現地
 でロシアの圧倒的な軍事力を見て樺太放棄へ傾いた。
  政府は、1870年3月14日(明治3年2月13日)に、樺
 太開拓使を、樺太開拓のための官庁として設けたが、1年
 余りの僅かな年を経て、1871年8月、樺太開拓使を廃止
 し、北海道開拓使に併合していた。
  樺太は、江戸幕府がロシア政府と結んだ日露和親条約
 で日露混住の地とされ、
  王政復古の後は、箱館裁判所と箱館府の支配を経て、
 開拓使の管轄となった。
  裁判所時代から、現地の行政は岡本監輔(けんすけ)
 が執り、
  1868年(明治1年)と、1869年(明治2年)から移住
 した日本人入植者の約500人を指導していた。
  岡本は、樺太移住者に無税の条件と、当面の食糧供給
 などの厚遇を用意したが、定住は容易に進まなかった。
  この間、ロシア側の移住と開発の速度は、日本側を上
 回り、さらに日本人との紛争が頻発した。
  これには、現地の岡本が、日露和親条約の効力を否定
 し、樺太を日本固有の領土とみなして、ロシア側の開発
 を原則拒否する態度を取っていたことにも原因があった。
  岡本の考えは、日露和親条約は、条約締結権のない徳
 川家の家臣が結んだものだから、天皇親政の時代には改
 めて国境を決定しなければならないというものだった。
  この見解は、幕府時代の条約を引き継いだという認識
 に立つ日本政府と異なるものであった。
  岡本は、事態の緊急性を告げるべく上京した。
  政府は、報告に危機感を抱き、1870年3月14日(明治
 3年2月13日)に、樺太の所管を開拓使から分離して樺太
 開拓使を設置した。
  独立した予算を立て、久春古丹にあった公議所を樺太
 開拓使庁と改称した他は、実質的変化はなかった。
  次いで、1870年6月7日(明治3年5月9日)に、黒田清
 隆を開拓使の次官(樺太開拓使の次官ではない)に任命
 し、樺太専務とした。
  黒田は、樺太視察に赴き、1870年9月(明治3年8月)
 に、現地に到着した。
  黒田は、日露雑居の原則に沿う形で現地のロシア当局
 と折衝し、当面の紛争を解決してから東京に帰った。
  岡本はこの年・1870年12月(明治3年閏10月)に、辞
 職した。
  東京に戻った黒田は、樺太の状況がこのまま推移すれ
 ば3年しか持たないという建議を出し、北方開拓を本格化
 する必要を説いた。
  これが、「開拓使十年計画」という予算計画を生むこ
 とになった。
  十年計画の予算で、北海道の開発は加速したが、樺太
 の状況は基本的に変わらなかった。
  樺太には、これ以後、高官が派遣されることも任命さ
 れることもなく、
  樺太開拓使は、1871年9月21日(明治4年8月7日)に、
 廃止された。
  1873年(明治6年)には、黒田は、樺太放棄論を建議
 して、千島樺太交換条約締結への路線をつくった。
  1874年8月5日(明治7年6月23日)、陸軍中将となり、
 北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。
  1874年9月12日(明治7年8月2日)、参議兼開拓長官
 となった。
  黒田は、榎本ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用し
 た。
  1888年(明治21年)、内閣総理大臣となり、大隈外相
 とともに条約改正にあたった。
1873年9月9日(7月18日)従来混同する「布告」と「布達」
  の区別を初めて整然と定めた。
  1873年(明治6年)に、布告・布達の書式・手続を定
 めた規定が相次いで出されたことで、
  国民一般に対して出される太政官の「布告」と、
  各省の「布達」、
  更に、上級官省から下級機関に対して出される「達」
 の区別が定着した。
1873年9月9日(7月18日)仏教への弾圧(廃仏稀釈)
  太政官布告によって、火葬禁止令が出された。
  明治政府が、仏教での葬法としての火葬に反対した神
 道派の主張を受け入れた。
  2年後の1875年5月23日に、この火葬禁止令は解除さ
 れる。
  火葬を禁止したことで仏教徒の反発が強く、
  また、衛生面から、火葬が好ましいとの意見があり、
 都市部での土葬スペース不足という問題もあった。
1873年9月10日(7月19日)鎮台条例改正
  東京、佐倉、新潟、仙台、青森、名古屋、金沢、大阪、
 大津、姫路、広島、丸亀、熊本、小倉の14師管を置き、
  これを6軍管に隷す。
1873年9月11日(7月20日)鉱業制度確立の為、日本坑法(
 にほんこうほう)が布告された。
  1872年の鉱山心得によって、鉱物が定義され、
  鉱業の国家独占主義と、外国人の排斥の原則が確立さ
 れた。
  1873年の日本最初の体系的鉱業法である『日本坑法』
 は、鉱物はすべて政府の所有にして、ひとり政府のみが
 これを採掘する権利を有し、
  私人は、借区によって、15年間の期間で鉱物の採掘を
 なし得ると定め、
  鉱物の国家独占主義を継承した。
  しかし、当時すでに、欧米の各国は、鉱業の国家独占
 主義をとっておらず、これはむしろ鉱業の発展を阻害す
 るとされたため、
  1890年に、新たに主としてプロイセンの制度にならっ
 た鉱業条例が制定され、
  国家独占主義を廃し、鉱業を特許を要する自由主義の
 下に置き、借区に代えて永久の権利としての採掘権が設
 けられた。
1873年9月17日(7月26日)東京両国の花火大会が復興す
 る(1868年7月27日の明治1年6月8日説あり)
  両国川開き当夜、横浜在住の遊客の便宜のため、初め
 て汽車の臨時列車運転の旨、外字新聞に広告が出た。
  上下あわせて3本だった。
  江戸時代、享保年間(1730年代)に始められた両国の
 花火大会も、幕末の動乱期には、江戸っ子も花火どころ
 ではなく、両国の花火は、1863年(文久3年)以降中断
 されていた。
  幕末の動乱期を経て、新しい時代の到来を告げる祝砲
 の如く、両国花火は再開された。
  久しぶりの花火で、多くの見物人や、涼み船が出た。
  屋形船4隻、屋根船400隻、小舟その他150隻が、川面
 を埋めた。
  この年、東京日本橋の瑞穂屋卯三郎が、横浜の商会を
 介し、初めて西洋花火を輸入したという記録がある。
  両国水神祭夕涼之図(りょうこくすいじんさいゆうす
 ずみのず)がある。
  この当時の花火人気は、今以上であり、1873年(明治
 6年)には、前年・1872年10月(明治5年9月)開通した
 ばかりの鉄道が、横浜~新橋間に汽車を「別格」運転し
 (臨時列車のこと)、横浜の外国人も花火大会に運ぶと
 いう状況だった。
  明治初年の頃の花火大会を見たE・Sモースは、次の様
 に記す・・、
  「・・広い川は、提灯で照らされた舟で完全におおわ
 れ、川の向こう岸では、橋に近く光輝燦(さん)たる花火
 が打ち上げられていた。
  ・・近くに寄ってみると、10人ばかりの男が、大きな
 舟に乗って羅馬蝋燭(ローマろうそく)を発射したり、
 複雑な性質の花火を仕掛けたりしている。
  光に輝く男たちの身体には花火が雨と降り注ぎ、ふり
 かえると、花火の光輝に照らされた舟の群れが、水に浮
 かんで上下し、
  新月は徐々に沈み、星は稀に見る光を放って輝き、
  川は、すべての大きさと色彩との、何万という提灯の
 光を反射しながらも、なお暗く、
  舟の動揺によって幾条もの小川に別たれている」と。
  また、同年7月17日付の読売新開の記事は・・、
  「両岸の提灯は、何万という数が知れず、両国橋大橋
 は、勿論、西側は爪も立たないくらい。
  見物にて押倒されるものあり、転ぶものあり、家々に
 は人が充満し・・」と、その盛況振りを報じた。
1873年9月19日(7月28日)新しい地租改正条令が布告さ
 れた(地租改正条例公布)。
  新政府は、幕藩時代にバラバラだった貢租基準を改め
 た。
  そして、中央集権国家を築くために、まず統一された
 税制を確立して、税収の安定を図ろうとした。
  その為に、従来の農民からの年貢に依存する方法では、
 米の保管・輸送・換金、そして、気象など外的要因によ
 って米価の変動や、歳入の不安定が起きた。
  それ故、これを早急に解決しなければならず、1873年
 9月19日(明治6年7月28日)に、新しい地租改正条例を
 布告した。
  これは、従来の貢租(こうそ・年貢)が、収穫高を基準
 とした現物年貢納であったことに対して、
  新地祖は、土地の価格(地価)を課税基準とし、地券を
 発行し、豊凶に関わらず、一定とした。
  そして、土地所有者(地主・自作農)が金納することと
 した。
  そして、5年間の暫定値とし地価の3%、さらに、地方
 税に相当する郡村入費を1%、5年後に見直す・・とした。
  しかし、これは、農民にとって従来の年貢制に比べて、
 大幅増加となった。
  新政府による、新しい世の中を期待した農民にとって、
 期待を裏切るものとなり、
  真壁騒動、伊勢暴動らが、各地での一揆が引き起こさ
 れた。
  (真壁騒動、伊勢暴動など、死者を伴う一揆が、各地で
 起こり、
  政府は、暫定地価の3%を2.5%に減額した。
  これを「竹槍でどんと突き出す二分五厘」と人々は揶
 揄(やゆ)した。
1873年9月22日(8月1日)官吏に初めて暑中休暇を与えた。
1873年9月24日(8月3日)西郷隆盛を遣韓大使となすの廟
 議が決す(ただし、岩倉具視の帰朝を待てとの御沙汰)
1873年9月30日(8月9日)停車場の雑品販売を許した。
1873年9月(7月)証書の認めに、瓜印花押を禁じ、実印
 を使用する事に。
1873年10月8日(8月17日)朝議が、西郷隆盛を朝鮮派遣
 に内定する。
1873年10月23日(9月3日)木戸孝允が、朝鮮及び台湾征
 討に反対し、内治の急を説く。
1873年10月25日、勝海舟、任参議兼海軍職(氷川清話)
  この年、勝海舟が、明治政府の参議兼海軍卿になった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

2016年3月16日水曜日

(増補版)313E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年8月)

題:(増補版)313E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年4月30日(明治6年4月4日)日清修好条規(にっしん
 しゅうこうじょうき)が、この日に、批准書交換がされ
 て発効した。
  特命全権大使・副島種臣、天津において李鴻章と日清
 修好条規を締結調印する。
  日清修好条規は、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、
 天津で、日本と清の間で初めて結ばれた対等条約。
  李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、
  朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきと
 の考えから1870年7月27日(明治3年6月29日)に、
  柳原前光・花房義質を派遣して予備交渉を行い、
  次いで、正規の大使として伊達が送られ、副使となっ
 た柳原とともに詰めの交渉を行った。
  平等条約ではあったが、その内容は、両国がともに欧
 米から押し付けられていた不平等条約の内容を、相互に
 認め合うという極めて特異な内容であった。
  この条約の特異性から、当時、東洋に進出していた主
 要な欧米列強から横やりが入った。
  軍事同盟の密約の疑惑を持たれるなどした。
  また、領事裁判権の存在などに対する反対論があった
 りして、批准が遅れた。
  しかし、マリア・ルス号事件や、琉球御用船台湾漂着
 事件の影響などから、批准の必要性が高まった。
  そこで、これらの事件の決着を付ける必要性もあった
 ために、清を訪れた外務卿・副島種臣によって、1873年
 (明治6年)4月30日に批准書交換がされて発効した。
1873年5月25日(明治6年4月29日)明治天皇陛下が、習志野
 原に行幸(近衛兵の演習を観覧される)
  大和田原(現・陸上自衛隊習志野演習場近辺から成田
 街道を挟み、高根台周辺までの地域)で、
  陸軍トップの西郷隆盛の指揮の下で行われた近衛兵の
 大演習を御観閲された明治天皇陛下によって、
  同年・1873年5月13日に、勅令が発せられ、習志野原と
 命名された。
  この事を記念して、同地に、「明治天皇陛下駐蹕之処
 の碑」という紀念碑が建てられた。
  その後、周辺にある軍郷を総称した広い地域が、習志
 野と呼ばれるようになった。
1873年5月(明治6年4月)天皇陛下の御名を使用許可した。
  因みに、現在の御璽は、金印(18金)で、大きさは3寸
 (約9.09cm)四方の角印、重量は約3.55kgある。
  印文は、「天皇御璽」(2行縦書で右側が「天皇」、左
 側が「御璽」)と篆刻されている。
1873年5月26日(5月1日)日本が、万国博覧会に初めて参加
 した。
  ウィーン万国博覧会 (1873年5月1日~10月31日)に、
 日本政府が、初めて公式参加し、日本館が建設された。
  新しい日本を、全世界にアピールしなければならない
 という使命感からだった。
  1,300坪(4300平方メートル)ほどの敷地に、神社と
 日本庭園を造り、
  白木の鳥居、奥に神殿、神楽堂や反り橋を配置した。
  産業館にも、浮世絵や工芸品を展示し、
  名古屋城の金鯱、鎌倉大仏の模型、高さ4メートルほど
 の東京谷中天王寺五重塔模型や、
  直径2メートルの大太鼓、直径4メートルの浪に竜を描
 いた提灯などが人目を引いた。
  これらの選定は、ドイツ人のお雇い外国人ワグネルの
 アイデアによった。
  ワグネルは、日本が、まだ近代工業が未発達であるた
 め、西洋の模倣状態の機械製品よりも、日本的で精巧な
 美術工芸品を中心に出展したほうがよいと判断した。
  日本全国から優れた工芸品を買い上げ、東洋のエキゾ
 チシズムをアピールした。
  そして、人目を引く様に大きなものとした。
  目論見どおりに、神社や日本庭園は大いに評判となり、
 展示物も飛ぶように売れた。
  「うちわ」は、1週間に数千本を売りつくした。
  皇帝フランツ・ヨゼフ一世と皇后エリーザベトも来場
 し、建設中の反り橋の渡り初めをした。
  皇帝一行は、カンナの削りくずに興味を持ち、女官に
 丁寧に折りたたんで持って帰らせたと言われる。
  万博終了時には、イギリスのアレキサンドル・パーク
 商社が、日本庭園の建物のみならず、木や石のすべてを
 買いあげるほどだった。
  ウィーンでのジャポニスムは、その後、1890年代の分
 離派・クリムトの日本文様を意識した絵画などに受け継
 がれた。
  因みに、アレキサンドル・パーク商社と契約した起立
 工商会社は、ウィーン万博を契機に、日本政府が作らせ
 た会社で、
  日本の工芸品を売ることで外貨獲得に貢献した。
  1878年の第3回パリ万博では、日本の田舎屋を再現し、
 好評を得た。
  この万博で起立工商会社の通訳を務めた林忠正は、後
 に美術商としてパリのジャポニスムの立役者となった。
1873年5月30日(5月5日)深夜1時過ぎ、皇居(旧江戸城)
 に発生した火災により、「皇居、太政官とも残らず焼失」
 し、午前4時30分、ようやく鎮火した。
  皇城炎上(氷川清話)
  明治天皇・皇后両陛下は、赤坂離宮(旧紀伊藩邸)に
 避難なされ、皇居が再建されるまで、ここを仮皇居とさ
 れた。
  太政官の諸記録は、「大使事務書類、往復文書、応接
 書とも」ことごとく焼けてしまったとある。
  使節の手もとにある書類をまとめて持ち帰ってもらい
 たいと、三条太政大臣以下、西郷、後藤らの参議が連名
 で希望している。
  因みに、明治5年5月5日未明、皇居女官部屋から出火し、
 西丸の大半を 焼き、江戸以来の主要な建物をほとんど焼
 失したの記述もある。
1873年5月(4月)東京の京橋に西洋料理店、精養軒が開業。
  街には、「西洋散髪」 「西洋牛肉」の看板。
1873年6月4日(5月10日)最初の陸軍大将に、西郷隆盛が任
 命された(現制の陸軍階位ではない)
  官制改正で、元帥の階級が廃止されたため、西郷隆盛
 はその時点で陸軍大将となった。
  階級としての元帥制度の運用は極めて短期間で終了し
 た。
1873年6月9日(5月15日)図書縦覧所「集書院(しゅうしょ
 いん)」が開設された。
  京都の集書院は、1872年に創設された。
  集書院は、一般開放をした図書館としては、文部省が
 明治5年(1872)に開設した東京の 書籍館につぐもの。
  また、公立の公開図書閲覧施設としては最初。
  集書院は、日本で最初の公立図書館。1873(明治6)年、
  京都府が現在の中京郵便局の場所に設置。
  以上の様に、記述に食い違いが見られる。
1873年6月20日(5月26日)特命全権副使・大久保利通が、
 帰朝した。
  1873年4月24日(3月28日)マルセーユ経由で、この日、
 横浜に着いた。
1873年6月28日(6月4日)各府県へ御真影下賜。
  最初、奈良県に天皇陛下の写真が下賜され、以降「御
 真影」が各府県に相次いで下賜された。
1873年6月29日、清国派遣全権大使が清国皇帝に謁見した。
1873年6月(明治6年5月)井上馨が、大蔵大輔を辞職した。
  明治6年(1873年)、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚
 職事件を追及され、5月に辞職した。
  尾去沢銅山事件は・・、
  江戸末期、財政危機にあった南部藩は、御用商人・鍵
 屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、
  身分制度からくる当時の慣習から、その証文は、藩か
 ら商人たる鍵屋茂兵衛に貸し付けた文面に形式上はなっ
 ていた。
  1869年(明治元年)、採掘権は、南部藩から鍵屋茂兵
 衛に移されたが、
  諸藩の外債返済の処理を行っていた明治新政府で、大
 蔵大輔の職にあった長州藩出身の井上馨は、1871年(明
 治4年)に、この証文を元に返済を求め、
  その不能をもって、大蔵省は、尾去沢鉱山を差し押さ
 え、鍵屋茂兵衛は破産に至った。
  井上は、さらに、尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人で
 ある岡田平蔵にこれを買い取らせた上で、「井上馨所有」
 という高札を掲げさせ、私物化を図った。
  鍵屋茂兵衛は、司法省に一件を訴え出て、司法卿であ
 った佐賀藩出身の江藤新平が、これを追及し、井上の逮
 捕を求めるが、長州閥の抵抗でかなわず、
  井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。
  これが尾去沢銅山事件。
1873年6月(5月)妻の離婚請求が許可される。
1873年7月5日(6月11日)第一国立銀行が設立(創設)され
 た(日本初の銀行)
  紙幣頭&大蔵大丞だった渋沢栄一が立案した民間経営
 の商業銀行第1号店
  江戸時代から両替商をしていた三井組と小野組を中核
 にして設立され、
  資本金は、双方100円に、一般応募44円をあわせた244
 円、
  紙幣の発行も認められる。
  ただし、兌換紙幣で、金との交換が条件だった。
  8月1日に、営業を開始した。
1873年7月7日(6月13日)外国人訴訟規則を定め、改定律令
 領布される(磔の刑、晒首などの旧制を廃した)
1873年7月9日(6月15日)伊予灘釣島の燈台竣工する
1873年7月9日(6月15日)宮古島の人々が、ドイツ船を必死
 に救出し、ドイツ皇帝も感謝した。
  ハンブルグ出帆のドイツ商船・ロベルトソン号が、沖
 縄県宮古島沖で台風に遭難した。
  この日からさかのぼること1か月前の5月14日:
  ドイツのハンブルグ港を出港した紅茶などの交易を行
 なうスクーナー型の帆船 R.J.ロベルトソン号
 (長さ約40メートル、幅12メートル、総トン数216トン)
 は、中国の広東に、この日、入港した。
  この船の所有者は、船長で、かつ、貿易会社を経営す
 るドイツ人のエドュアルド・ヘルンツハイム。
   福州(ふっちゅん)港に向けて出港する時に、2人の
 中国人を乗船させた。
  6月8日:福建省の福州港に入港し、紅茶の積み込み作
 業などを行った。
  7月2日:福州港から、オーストラリア南部のアデレー
 ド港に向け出港した。
  出港後、船長は、天候が悪化しはじめたので東シナ海
 から太平洋に抜けるコースを予定より北側に変更した。
  運命の7月9日:先島の南を航行中に台風に巻き込まれ
 る。
  暴風の中で、必死の操船作業中、ロベルトソン号のマ
 スト2本が折れた。
  この時、乗組員2人が、マストの下敷きになり負傷し、
 その後、死亡。
  また、嵐にもまれる甲板で、他のドイツ人2人と中国
 人1人も負傷。
  この日、帆船が積んでいた3艘のボートのうち、2艘が
 流されてしまう。
  この時、すでに、船は、航行不能となり高波にもまれ
 ながら漂流をはじめた。
  7月11日:この日の夕方、3日間漂流していたロベルト
 ソン号は、宮古島の宮国地区で、当時は浦穴川といわれ
 ていた海岸から約1,100メートル沖にあるサンゴ礁に座
 礁した。
  遠見台で見張りをしていた宮古島の番人が、すぐに外
 国船が座礁したことに気づき、役人に伝えるとともに、
 村人に呼びかけ、救助に向かう準備を始めた。
  村にあった長さ4メートルの小型舟で、救助に向かお
 うとしたが、この時には、まだ波が高く、とても沖まで
 救助に行くことが出来なかった。
  そのうちに夜も更け、その日の救助は止む無くあきら
 めた。
  しかし、村人は、船の乗組員を励ますために、海岸で
 夜通し、かがり火を焚(た)き続けた。
  7月12日:朝早くから、村人は、役人と共に舟の操作が
 上手な漁師を選び、2艘の船でロベルトソン号に救助に
 向かうことにした。
  沖のロベルトソン号を見ると、乗組員が長い白布を振
 って必死に救助を求めているのが見えた。
  波はまだ高く、とても船を出せるような状態ではなか
 ったが、この様子を見ていた漁師たちは、勇敢にも危険
 な海に船を漕ぎだした。
  高波のために漁師たちの漕ぐ船は、何度も転覆しそう
 になった・・が、
  日ごろから荒れる海で漁をしている漁師たちの巧みな
 操船でなんとかロベルトソン号に着いた。
  ロベルトソン号には、負傷者3人と女性1人を含む8人い
 ることが分かった。
  早速、ロベルトソン号に1艘だけ残っていたボートを
 海に降ろし、
  彼らの大切な手荷物もできるだけボートに積み込んで
 3艘は海岸へと戻った。
  一方、救助活動にあわせ、村の在番所は急ごしらえの
 救助センターとなった。
  病人や負傷者のために医師も2名が呼ばれ、手当てを始
 めた。
  この後、村人たちは献身的な看護をし、食事も十分に
 元気づけをした。
  村人の献身的行動に、大過なく日にちが過ぎ、27日後、
 宮古在番所が、自らの責任で船を与え、帰国させる道を
 開いた。
  8月9日:平良港に停泊していた官船の試運転が、ヘル
 ンツハイム船長と乗組員によって行われた。
  8月11日:村人が多数動員され、官船に必要物資の積み
 込みが始まった。
  8月16日:ヘルンツハイム船長と乗組員のために、在番
 所で盛大な送迎会が行われた。
  8月17日:出港の日、宮古島よりヘルンツハイム船長と
 乗組員のために大量の贈り物が船に積まれた。
  その目録があるが、1.羅針盤(らしんばん)、2.薪
 と木炭、3.飲料水、4.食料・・など、
  こうして、ヘルンツハイム船長と乗組員は、感謝と帰
 国できる喜びにあふれ、宮古島の多くの人の見送りを受
 け出港した。
  船がサンゴ礁の間を無事に通過し、安全な外洋に出る
 ことができるようにと、池間島の船大工が所有する船な
 ど2隻のくり船が、水先案内を務め、伊良部島の沖合12km
 まで見送った。
  そして、その後、1876年1月、手記で、宮古島の話を
 知った皇帝・ヴィルヘルム 1世は、すぐさま謝意を伝え
 る使節として艦船・チクローブを日本に派遣することを
 決め、
  そして、博愛記念碑を宮古島に立てることにした。
  1876年3月16日、ドイツ皇帝の勅命による艦船・チクロ
 ーブ号が、宮古島に到着した。
  1876年3月22日、チクローブ号の使節団、日本政府、沖
 縄県、宮古島の代表が出席して、博愛記念碑の建碑式が
 行われた。
  皇帝ヴィルヘルム 1世が、宮古島でドイツ人が救助さ
 れたことを知ったのは、新聞記事だった。
  記事には、「宮古島の人々は、他の国では考えられな
 いくらい親切で、代償を求めることなく必要なものを分
 け与えてくれた」・・と、
  救助された後の待遇も、どれほど当時の世界常識では
 「到底考えられないほどの心温まる日本人のおもてなし」
 であったかが綴られていた。
  この記事が、ドイツ皇帝による博愛記念碑の贈呈へと
 つながった。
1873年7月18日(6月24日)皇后宮、英照皇太后宮が富岡製
 糸場を行啓された。
1873年7月18日(6月24日)明治2年以来の衆議院の制を廃し、
 左院に属す。
1873年7月22日(6月28日)地方の農民、徴兵令に「血税」
 の文字があるのを誤解して動揺する。
1873年7月27日、副島が、清国から帰国。
1873年7月29日、西郷が、使節暴殺論書簡を板垣に送る。
1873年8月17日、西郷を、朝鮮へ派遣するを閣議内定。
  朝鮮は鎖国の真っただ中、通商を求めたアメリカと交
 戦もした。
  通商を求めても拒絶されたり、日本との関係も色々と
 こじれていた。
  この年、留守政府は、事態を打開するため、使節の派
 遣をすることとし、第一弾として、西郷隆盛を正使とし
 て朝鮮に派遣することが決定した。
  そして、居留民保護を目的とした派兵を含んでいた(
 征韓論)。
  そこに、欧米から帰国していた岩倉具視、大久保利通
 らは「内政の充実が優先で、征韓論などもってのほか」
 と反対した。
  激しい政治的な攻防が行われた。
  反対派だった岩倉具視は、天皇の裁可を戴いて、
  「西郷の朝鮮派遣は行わない」と、先の決定を覆した。
  そして、西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣、
 後藤象二郎ら征韓派の参議は辞職し、政府を去った(明
 治六年の政変)
  ここに、大久保利通政権が樹立される。
  主な顔ぶれは・・、
  参議兼内務卿 大久保利通(薩摩)
  参議     木戸孝允(長州)         
  参議兼外務卿 寺島宗則(薩摩)
  参議兼大蔵卿 大隈重信(肥前)    
  司法卿    大木喬任(肥前)
  参議兼工部卿 伊藤博文(長州)   
  陸軍卿    山縣有朋(長州)
  参議兼海軍卿 勝安芳(幕府/勝海舟のこと) 
  開拓次官   黒田清隆(薩摩)
  大久保利通が就任した内務卿は、この政変を機に、大
 久保が、設立した内務省を所管する役職。
  内務省は、大蔵省・司法省・工部省から、勧業、戸籍、
 駅逓(えきてい)、土木、警察などの業務を移管し、
  後には地方行政、治安維持なども担当し、内政につい
 て、非常に強大な権力を握ることになる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年3月14日月曜日

(増補版)312E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年5月~1873年5月)

題:*(増補版)312E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年5月~1873年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年5月5日(明治6年4月9日)皇后陛下、向島の桜を観給
 う。
1873年5月6日(4月10日)官吏が、公務・外交を妨げる内容
 を新聞に掲載することを禁止する。
1873年5月7日(明治6年4月11日)岩倉使節団が、衰えたヨ
 ーロッパの街並みを見る。
  それは、宗教と領土欲と我欲による、うち続く戦争の
 結果だった。
  5月7日の夜に、岩倉具視の遣欧使節団が、ミュンヘン
 を発って、インスブルックを経て、
  5月9日の早朝フィレンツエに到着した。
  イタリアでは、フィレンツエを 皮切りに、ローマ、ナ
 ポリ、ベネチア(ベニス)を歴訪した。
  イタリアは、中世以降、権力の分裂状態が長く続き、
  フランス革命以降、数度の独立運動が繰り返されたが、
 イタリア半島が、一つの国家になったのは1861年であっ
 た。
  成立当初、ローマ教皇の支配下のローマやオーストリ
 ア帝国の支配下のベネチア は含まれていなかった。
  その後、1866年、普墺戦争に勝利し、ベネチアを獲得
 し、
  また、1871年、普仏戦争で、ローマを併合して、
  首都として遷都を行い、今日のイタリアの形となっ た。
  使節団は、統一直後のそのイタリアを見た。
  しかし、長い間の政治的分裂のもとで、人々は疲弊し、
 希望を失い、怠惰で文明発展に対する国民の意欲は失わ
 れていた。
  街のいたるところにある古跡をみると、昔のイタリア
 が、いかに盛んだったかが分かるが、
  対照的に、現状は、すっかり衰えていた。
  その様な姿を、日本からの使節団は見た。
  そして、使節団は、1873年11月2日(明治6年9月13日)
 横浜港に帰って来る。
1873年5月14日(4月18日)全国電線付近にて凧を飛ばすを
 禁ずると工部省発令(凧のため電線被害が多し)
1873年5月21日、在釜山・広津弘信七等出仕より朝鮮情勢に
 ついて通信あり(閣議で審議)。
  朝鮮の李朝成立後、484年が過ぎた1876年2月に、日本
 と朝鮮の間でやっと結ばれた「日朝修好条規」、この打
 ち合わせのために広津弘信は派遣されていた。
  明治三年九月(1870年10月)に、日本政府は、外務出
 仕・吉岡弘毅を使節とし、森山茂、広津弘信を随行員と
 して朝鮮に派遣することを決定した。
  それより前に、外務権大丞・柳原前光が、対韓政策の
 意見書を提出していた。
  柳原は、他国が朝鮮を虎視眈々と窺っていることにつ
 いて注意を促した。
  「アメリカ、イギリス、ロシア、フランスが、かの地
 を狙っていることは明白である。
  特に、ロシアは、ヨーロッパの動乱(プロシャとフラ
 ンスの交戦)に乗じて、必ずアジアに進出してくるだろ
 う。
  アメリカもまた、兵力をもって朝鮮に報復するとの説
 がある。
  日本もぐずぐずしている場合であろうか」・・と。
  同じ頃、柳原は、清国を訪れて、条約の予備交渉を行
 っていた。
  清国が、朝鮮の宗主国だったことから、日本も対等の
 条約を結んで、朝鮮に対して清国と同格の立場で国交を
 開きたいとした。
  吉岡らは、同年十一月三日(1870年12月24日)に、釜
 山の倭館「草梁館」に到着した。
  しかし、日本からの使節団は、一歩もそこから出られ
 なかった。
  また、朝鮮の情勢を偵察することもできなかった。
  使節は、外務卿・沢宣嘉から託された書状を渡して
 交渉しようとしたが、朝鮮側はこれを拒否した。
  あくまでも旧例どおり、宗氏を介しての交渉にしなさ
 いと固執した。
  困り果てた使節団の三人は、相談のうえ、だれか一人
 が対馬の厳原(いずはら)に帰り、宗氏を説得して、渡
 韓させようということになった。
  結局、広津がその任をひき受け、明治四年二月初め(
 1871年3月)に、釜山を発して、十五日(1871年4月4日)
 に、厳原に着くと、宗重正に面会して、渡韓のことを承
 諾させた。
  だが、宗氏は、経済的な理由から中央政府の命による
 渡韓を望んだ。
  やむなく、広津は、これを了承し、上京することにな
 った。
  この間、アメリカ軍艦の朝鮮進攻の情報が入った。
  そのため、広津は、沢外務卿の要請で、いったん釜山
 に戻った。
  そして、再度、帰国するなどして、時間をとられ、宗
 氏とともに上京したときには、七月も半ば(1871年8月)
 を過ぎていた。
  ところが、直前に廃藩置県の令が出され、
  宗氏は、藩知事を免ぜられ、
  沢公も外務卿を免ぜられたので、
  広津のこれまでの尽力が無駄になってしまった。
  だが、広津は諦めず、その後も、宗氏を外務大丞にし
 て渡韓させるように、岩倉外務卿に建言した。
  その結果、宗氏は、外務大丞に任ぜられたが、対馬藩
 の負債の問題が持ち上がった。
  そのために、宗氏の渡韓は、ついに実現せず、明治四
 年(1871年)は、なんら事態が進展することなく過ぎて
 いった。
  明治五年一月(1872年2月)、対馬出身の相良正樹を代
 表とする新たな使節団が釜山に入った。
  外務大丞・宗重正の書簡と来意の口述書を、朝鮮官吏・
 訓導の代理人に渡したのは、三月(1872年4月)で、
  訓導に面会できたのは、ようやく五月(1872年6月)に
 入ってからだった。
  広津らの渡韓以来、一年半を超える月日が経過してい
 た。
  だが、訓導は、この件については十分に討議したうえ
 で回答すると言うにとどめた。
  日本側が、「どれくらい時間がかかるのか」と聞くと、
 「幾年月になるかは言えない」という答えが返ってきた。
  訓導の口上はあいまいで、いたずらに回答を引き延ば
 しているとしか思えず、
  使節一行はむなしく日本に立ち戻ってきた。
  九月(1872年10月)には、花房義質外務大丞が、渡韓
 したが、国交問題については、まったく進展がみられな
 かった。
  花房の任務は、副島外務卿の処分案を実行することだ
 った。
  すなわち、倭館は、日本の出先機関としてそのまま残
 すが、
  1、在留の士官雑人らを帰国させること。(商人は随
   意とする)
  2、朝鮮に対する対馬藩の負債を清算すること。
  3、対馬に滞留する朝鮮の漂流民を送り返すこと。
  だが、朝鮮側は、倭館が対馬藩から新政府の管理下に
 おかれたことを問題視し、
  負債の清算も新政府の支出によることを理由に認めな
 かった。
  どこまでも旧来の形式にこだわり、新政府との外交関
 係の樹立も拒否した。
  その後、倭館では、日用品や肉、魚などの食料品も入
 手できなくなった。
  そして、対馬の商人以外の日本人が、倭館に出入りし
 ていることが発覚すると、
  館門に、過去三百年の慣例を破る行為がなされた。
  日本側の違法行為を非難する掲示文が掲げられた。
  (現在の、日本大使館前の慰安婦像設置の行為の様な
 こと。
  昔から日本は、この様な事をされて来た)。
  そこには、「その形を変じ、俗を易(か)ゆ、これ即
 ち日本の人と謂うべからず。
  わが境に來往するを許すべからず」とあるのは、
  西洋風に断髪し、洋服を着た日本人に対する嫌悪の情
 を表していた。
  また、
  「近ごろ彼人の所為を見るに、無法の国と謂うべし。
 而して亦、これをもって恥と為さず」とも書かれてあっ
 た。
  これは倭館に出入りする朝鮮人に対する訓令書だった
 が、在館の日本人は、明らかに日本人に対する侮辱であ
 ると受けとめた。
  明治元年末(1868年)~六年五月(1873年6月)に
 至るまで、朝鮮に対する日本の国交回復の長い働きかけ
 はついに報われなかった。
  そしてまた、倭館は、兵糧攻めにあい、いまや荷物を
 まとめて釜山から日本に引き揚げる他はなくなってしま
 った。
  日本が、これほど時間をかけたのは、内政、その他の
 諸事があり、朝鮮問題に本格的に取り組む余裕がなかっ
 たこともあったが、
  それによって、朝鮮が、日本をくみし易しとみて、侮
 (あなど)ることになったところもあった。
  対馬藩が、経済的に朝鮮に依存してきたことにも問題
 であった。
  日本は、意見が沸騰した。
  朝鮮出兵の声が、征韓論者の間で声高に言われるよう
 になった。
  在韓日本人を全員を引き揚げて、国交を断絶するか、
 武力をもってこれを討伐するか、二者択一しかないと、
 外務省の官吏は報告した。
  明治六年六月十二日(1873年7月6日)、閣議が招集さ
 れ、朝鮮問題が切迫した議案として討議されることにな
 った。
  出席者は、三条、西郷、板垣、大隈のほか、四月(
 1873年5月)に新参議になった後藤、大木、江藤の七名
 であった。
  三条実美が、これまでの経緯を説明した。
  朝鮮へ、なん度使節を送っても、まともに応接されな
 かった。
  使節は、二十回にわたって訓導に書簡の斡旋を頼んだ
 が、彼は拒み続けた。
  ようやく腰を上げて漢城(ソウル)に赴き、帰って来
 ると、「日本側の要求は、国内の衆議を尽くしてからで
 ないと返答できない」と言われた。
  「では、その決定にどれくらい時間がかかるのか」と
 聞くと、「六、七年ないし十年はかかる」と放言しては
 ばからなかった・・と。
  そして、倭館の門に、日本人に対する侮辱の言葉を連
 ねた掲示文を掲げられた、等など。
  三条は、朝鮮居留の日本人保護のため、軍艦数隻と陸
 海軍の小部隊を派遣することを閣議に提案した。
  板垣が、直ちに、これに賛成したが、西郷は反対した。
  まずは、公然と使節(全権使節)を派遣して、平和的
 に談判するべきである。
  使者に危害を加えたときに、はじめて、出兵して討伐
 すればよい・・と。
  その使者には自分がなると、西郷は申し出た。
  だが当時、副島外務卿が台湾(琉球民殺害事件)・朝
 鮮問題などの交渉で、清国に派遣されており、副島の帰
 朝を待って決定を下すことになった。
  (副島は、日清修好条規の批准書を交換して、七月二
 十六日(1873年9月17日)に帰国した)。
  木戸孝允が、七月二十三日(1873年9月14日)に帰国
 するまで、国内の征韓論はこのように沸騰していた。
  木戸は、早い時期から朝鮮問題の重要性に気づいてい
 た。
  木戸は、対馬藩の跡目をめぐる紛争を調停し解決した
 ことがあり、
  藩士らの信頼もあつく、対馬藩の顧問のような存在に
 なっていた。
  同藩の大島友之允とは、もっとも親しい関係にあり、
 幕末から朝鮮問題について、しばしば話し合っていた。
  大島の上申書によると、
  「朝鮮は、元来、偏固の風習や、古い規則を固く守っ
 ているので、非礼傲岸の態度を示す可能性がある。
  だから、皇国としては、討伐の兵を出す覚悟をかため
 ねばならない」と。
  対馬藩は、飯米の大部分を朝鮮に依存してきた。
  財政は窮乏しており、朝鮮からの米の輸入が滞れば死
 活問題になる。
  そのために立場が弱く、朝鮮に対しては、ほとんど臣
 従の礼をとってきた。
  したがって、朝鮮も明治新政府と交渉したがらず、対
 州に米を送らなければ困って泣きついてくるだろう。
  そうすれば、朝鮮の望む条件を呑むしかないと対馬藩
 は考えるようになり、そのうえで言うことをきかそうと
 する考えだと大島は考え、
  対馬藩士として悔しい思いもしてきた。
  また、対馬藩(宗氏)と長州藩(毛利氏)は、縁戚関
 係にあり、朝鮮との距離も近い。
  木戸が、維新当初から朝鮮問題を重大視してきたのは、
 こうした背景を無視しては語れなかった。
  当時の木戸の日記には・・、
  「朝鮮へ使いを出す。
  余の建言する所にして、実に戊辰一新の春也。
  当時、朝廷の規模、一定の上は、遠く西洋の各国とも
 好親の約あり。
  各国の公使等も親しく天顔を拝するに至る。
  然るときは、旧好の国と交を親しくするは言を待たず
 なり。
  況や朝鮮如きは近隣の国にして、且旧好の国なり。
  故に別に一介の使節を遣わし、一新の旨趣を告げ、互
 いに将来往来せんことを望む」と。
  後には、使節を朝鮮に遣わし、その無礼を問い、不服
 のときには征伐するしかないと、木戸も征韓を否定して
 はいない。
  朝鮮の頑迷さに対する失望もあったのだろうが、基本
 的には、上記を理想としており、そのためにこそ、木戸
 は、自ら使節になることを切に望み、
  明治二年末(1869年)には、支那朝鮮使節に任命され
 た。
  その頃、佐田と森山は、木戸邸を訪れて木戸と会談し
 ている。
  佐田の懐旧談に曰く、
  「木戸が作ったという朝鮮論の二枚半ばかりの文章を
 読んでみたが、主意は、征伐はせねばならぬけれども、
 我が兵備を充分整頓してから征伐すると云う論であった。
  (中略)要するに、諸君と同論ではあるけれども、ただ
 今、これを急に伐つというのではない。
  諸君の考えとは緩急の差がある」と。
  また、森山は言う、
  「征韓論の主唱者は、実に木戸孝允なりしなり。
  (中略)然るに一朝大村(益次郎)の斃るるや、木戸
 はにわかにその持論を放擲し、これを包むに船越(船越
 衛)を以て大村の後に擬せるあり。
  予は、実に木戸よりこれを聞て、木戸の真に持論を放
 擲せるを看守したりしが、予の見は果して違わざりき」
 (西南記伝)
  武力は準備しなければならないが、いま直ちにこれを
 用いるためではない、という木戸の意見に、両者は木戸
 の対韓政策は生ぬるい因循論に堕ちたと失望している。
  たしかに、朝鮮問題も含め、自分の右腕と恃んでいた
 大村の死は、木戸には、打撃だったに違いない。
  だが彼は、佐田、森山の征韓論になにか危険な匂いを
 嗅ぎ取り、彼らの論とは一線を画した。
  木戸の渡韓は実現しなかった。
  支那に異変があったために、明治三年六月(1870年7月)
 に使節の派遣が中止になってしまった。
  米欧視察から帰国後に、木戸の対韓政策がさらに大き
 く変化したのは、欧米諸国との国力の差を実感したこと
 に加えて、
  当時、他国に分割統治されていたポーランドの国情が
 少なからぬ影響を与えたからと言われている。
  被侵略国の悲惨さを眼に焼き付けながら、木戸は、憲
 法制定の意見書を書いた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年3月13日日曜日

(増補版)311E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年5月)

題:(増補版)311E1/3:気になった事柄を集めた年表(1873年4月~1873年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1873年4月26日(明治6年3月30日)日本で、砂糖の自由貿易
 が、初めて許された。
 (従来は、国内産出が少なかったため制限されていた)
  1873年に、小麦や紅茶、砂糖などが暴落して恐慌になっ
 た。
  (1873年のパニックは、「史上初めての国際恐慌」と
 されている)
  (1873年~1896年:大不況、イギリスが最も大きな激
 しい打撃を受けた。イギリス優位の立場を失った)
  (アメリカも、1873年~1879年の65か月間の長期の不
 況となった)
  商品価格下落の原因は、鉄道や冷蔵技術などによる物
 流革命や保存技術の進歩があった。
  19世紀、産業革命で、イギリスの経済が発展し、経済
 成長を促進させ、イギリスが世界の中心だったが、この
 1873年が、転換点となった。
  その行き過ぎが恐慌に原因となった。
  1873年の恐慌で、フランス・アメリカ・ドイツといっ
 た国々が力を持ち始め、イギリスだけでなく、世界の分
 極体制が始まった。
  イギリス農業が崩壊した原因のひとつに、アメリカか
 ら安い小麦が流入したことがあった。
  1870年頃から、当時の先端技術だった鉄鋼業が「鉄の
 時代」から「鋼の時代」に移って行った。
  イギリスは、この技術転換がうまく行かず、「世界の
 製鉄所」の地位を、アメリカやドイツに追い越されて行
 った。
  1873年以前は、自由貿易主義が中心だったが、この年
 を境にして、世界の流れは保護貿易主義に転じ、輸入品
 に対して関税障壁が設けられた。
1873年4月30日、清国派遣全権大使が条約批准書交換。
1873年5月2日、太政官制が、潤飾(じゅんしょく、飾り付
 けること)され、正院に権限が集中した。
  強大な大蔵省の権限を抑えて、正院の権限を拡大する
 ために改革が行われた。
  正院は、参議を議官とする内閣が設置されて、立法・
 行政をはじめとする国政の中枢機関となった。
  これに伴って、右院は臨時に開く機関にかえられた。
  ついで、この年の10月の征韓論をめぐる政変後から、
 参議と各省の卿(きょう)(長官)の兼任制が確立してゆ
 き、参議の権限が、しだいに強大となる。
1873年5月3日、井上馨大蔵大輔と渋沢栄一三等出仕が辞表
 を出す(5月4日説あり)
  渋沢栄一は、井上馨とともに辞表を提出した際、黙っ
 て身を退かないという彼の性格が出た。
  自分が、大蔵省をやめる理由を堂々と建白書に仕立て
 提出した。
  以前からの彼の性癖だった。
  この建白書は、彼の同僚で、漢学者の江幡五郎(那珂
 道高・なかみちたか)の校閲を経て、仕上がった。
  渋沢は、両国橋の料亭で、井上馨に見せた。
  井上は、「まったく同感」という意を示し、
  5月7日に、二人の連署で、三条実美へ奏上した。
  建白書は、漢文調の名文で書かれていた。
  現代文すると・・、
  まず、冒頭は、栄一は維新の成果を讃えた。
  「国家の盛衰はもとより、気運のいたすところではあ
 るが、その成果は言うまでもなく、政府の施策の善し悪
 しによって大きく左右される。
  維新以来十年足らずのうちに、さまざまな事業が始ま
 り、社会全体が、開化へと向かっている。
  内から見れば、ここ数百年来衰えていた綱紀[天皇親
 政]が回復した。
  外から見れば、世界で盛んとなっている政治形態が取
 り入れられた。
  封建制を破って郡県の制を立て、門閥をやめて賢材を
 採用し、
  法は万国公法[国際法]にもとづき、
  論議は各地の世論を尽くし、
  学制は、8区に分けて無知の民をなくすことに努め、
  兵制は、6鎮台を置いて暴乱を防いでいる。
  短時間で遠くまで行けるのは蒸気船や汽車のおかげで
 あり、
  遠方に急を知らせることができるのは電信のおかげで
 ある。
  交易に工夫をこらし、
  開拓に力を尽くし、
  正貨を製造し、
  街の様子も見違えるようになろうとしている。
  [1872年に焼けた銀座に煉瓦街が出現するのは1877年
 のこと]。
  そのほか製鉄、灯台、線路から建物、衣服、帽子、椅
 子、傘、履き物にいたるまで、
  日々、恐るべき勢いで開化が進んでいる。
  このまま続けば、数年のうちに文明が備わり、欧米諸
 国に匹敵するようになるのも夢ではない」・・と。
  しかし・・と建白書は記す。
  「臣ら[井上と渋沢]、ひとり憂うるところあり」と
 記す。
  そして言う・・開化にも、形だけのものと、内容がと
 もなうものとがあって、
  「形だけを取り入れるのは簡単だが、内容を取り入れ
 るのはむずかしい」。
  政治(政理)は、形をととのえるけれども、民力がと
 もなわなければ、開化といっても中身がないものになる
 と、栄一は指摘した。
  ところが、いま、わが国民はどのような状態にあるか
 ・・と。
  「士族は、ひたすら先祖伝来の家禄をあてにするばか
 りで、
  新時代に必要な文武の知識や業を身につけてない。
  農民は、いたずらに土地を守るだけで、新時代の農業
 に立ち向かっているわけではない。
  職人は、いくら手間賃をもらえるかを気にするばかり
 で、発展する機械を取り入れている様子もない。
  商人は、わずかな利益を求めて争うだけで、大きな貿
 易に乗り出す者もない。
  これでは、とても新時代に生きていけない。
  中には、すぐれた者もいるが、たいていは、政府のお
 こぼれ頂戴となっている。
  そして、利益を独り占めできないものかと狙っている
 者が大半」・・と。
  栄一は指摘した・・、
  開化は進んでいるようにみえるが、実は政治面で空回
 りしているだけで、
  国民は、幕藩時代の古い体質から脱していない・・と。
  そして、政府は、西洋諸国と肩を並べようとあせって
 いるが、民衆は付いて来ていない・・と。
  今は、政治の世界に人材が集まっていて、様々な企画
 が打ち出されているが?
  空回りしかねない状況となっている。
  故に、かえって社会に弊害をもたらす危険性がある・・
 と。そして、言う・・、
  「官に人が多ければ、かならず事を起こしたくなるも
 の、事を起こすとなると、成功を望むのが当然。
  今、政府は、民力の発展に意を用いず、
  政治体制の整備に熱中し、
  官僚は、また、事を起こし、功をなそうとあせるばか
 りに、
  往々にして、実用を捨て、空理に走る傾向があり。
  ・・役所の事務を進めるとなれば、何もかも、完璧に
 したくなるだ。
  したがって、こういう危険性があるとか、
  こういう利益があるとかを隅なく論じ、
  かと思うと、どこかに隙を見つけて、自分を目立たせ
 ようとする者がいたり、
  あるいは、新奇をてらって、上司に気に入られようと
 する者も出てくるありさま。
  こうして、中央から地方まで、功をむさぼる役人がま
 すます増えてくることになっている。
  役人が多くなれば、給料の負担も増える。
  事務がどんどん膨らみ、用度の費用も増し、
  歳入で歳出をまかなうことができなくなれば、その負
 担は言うまでもなく国民にかかる」・・と。
  渋沢は、政治家・官僚主導型の社会に対する批判。
  民力がともなわないのに政府が肥大化すると言う。
  国民の負担は増大する一方で、社会そのものはやせ細
 って来ると言う。
  何ごとも先立つものがなければ、一歩たりとも動かな
 いではないかと、建白書は、急進的改革を批判する。そ
 してまた、言う・・、
  「政治の要とは何かについて、いろいろ議論はある。
  しかし、激動する今日、その第一が財政運営にあるこ
 とは言うまでもない。
  財政運営を誤ると、経費不足となる。
  経費が足りなくなると、何ごとを起こし得なくなる。
  そうなると、今度は、税金を増やし、
  そのために勤労を課し、民にあれこれと命じて休む間
 も与えぬようになり、
  こうして、国もまた衰微を免れぬことになる」・・と。
  ここで、渋沢は、明治政府が、表沙汰にしたくない財
 政が破綻になりかけていることを言う。
  建白書は、具体的に数字を挙げて、この明治政府の「
 秘密」の財政状態を暴露する。
  「今、全国の歳入総額を、概算すれば、4000万円を得
 るにすぎない。
  ところが、あらかじめ本年の経費を推計すると、突発
 事態がなくても、すでに5000万円におよんでいる。
 だとすれば、この一年の収支を計算しても、すでに、
  1000万円の不足が生じている。
  そればかりか、維新以来、必要欠くべからざる国費を
 計算に入れれば、毎年の費用がさらに、1000万円に達す
 る勢いである。
  その上、官庁や旧藩が発行した旧紙幣に、国内外の負
 債を加えると、その額は、1億2000万円近い巨額に膨れ
 あがる。
  これを通算すると、現在の政府の負債合計は、1億4000
 万円となり、償却のめどはまったく立たない」・・と。
  新政府の財政が、ここまで危機的状況にあるのは、何
 故なのか?
  この建白書の批判は、江藤新平の法治主義の批判へ向
 けられる。
  司法卿の江藤は、4月19日に参議へと昇格していて、事
 実上の西郷政権が、江藤を高く評価していた。
  そして、司法省の予算要求が、ますます激しくなり、
  大隈重信までが、同じ肥前(佐賀)藩出身の江藤を支
 持する。
  司法省に負けじと、文部省や工部省も予算の増額を求
 めた。
  予算をめぐって、政府内でバトルが展開し、ぎくしゃ
 くし、
  大蔵事務総裁という新設の役職についた大隈は、租税
 頭の陸奥宗光を使って、ひそかに予算を計算させた。
  そして、大蔵大輔である井上馨の反対を押し切って、
 5月3日の正院閣議で、工部省290万円、文部省130万円、
 司法省63万円の予算を認めてしまった。
  大隈に権限を奪われた井上が、辞表をたたきつけたの
 は、事の成り行きから当然だった。
  そして、渋沢栄一と陸奥宗光の間にも亀裂が入った。
  陸奥は、栄一が最初に見積もった米価1石2円75銭を、
 3円以上として計算し、大隈に修正した歳入額を伝えた。
  建白書には、そうした不本意な所も記す。そして、言
 う・・、
  「古人は『民を見ること傷(いた)むがごとし』と言
 った。
  ところが、今、政府は、民を大事に思うどころか、
  法律で束縛し、
  民に税を課し、
  さらに、それを重くしようとしている。
  戸籍をつくり、神社を定め、地券を配布し、血税を強
 い、
  これに、訴訟の費用やら、違反の罰金が加わり、世の
 中のことごとくが、法律によって縛られようとしている。
  ・・政府は、いよいよ開明に向けて、さらなる一歩を
 踏み出そうとしているが、
  これに反して、民衆は、ますます、昔ながらの習慣に
 閉じこもろうとしている。
  出(いず)るを量って、入るを制するのは、欧米諸国
 がまつりごとをなすところではあるが、
  今、わが国力・民情とも、これを行なうのが無理なこ
 とは誰にも分かることだ。
  そこで、当面の策は、しばらく入るを量って、出るを
 制するという旧来のやり方を守り、
  努めて経費を節減し、
  あらかじめ、歳入を概算して、歳出をその枠内に収め、
 中央官庁から府県にいたるまで、
  施策の優先順位を定め、
  そのために必要な額を確定し、
  それを超えないようにすることが大事なのだ」・・と。
   栄一は・・、
  「政理」[政治の主張]と「民力」が背反しないよう
 にすることが、
  財政運営の基本にあらねばならない・・と言い、
  この基本を見失うならば・・、
  思いがけなく「内外の変」が生じ、
  政府が「土崩瓦解」する事態を招きかねない・と言う。
  栄一は、この警告を発して、政府に反省を求めて、筆
 を置いた。
  この渋沢栄一の建白書の全文が、イギリス人のジョン・
 ブラックが発行している邦字紙「日新真事誌」(後の「
 東京曙新聞」)に掲載されて、大騒動になった。
  とりわけ、会計上の問題を指摘された政府は、
  あわてて反論した。
  6月9日に、大隈重信の名前で、大蔵省から「歳入歳出
 見込会計表」を発表し、
  建白書の数字が誤っていることを指摘した。
  井上と渋沢は、政府の「秘事」を漏らしたとして、
  江藤新平は、二人を告発した。
  しかし。懲役を科するのには無理があり、結局、罰金
 3円で決着した。
  井上と渋沢の辞表は受理され、5月23日をもって「依願
 免出仕」の辞令が出た。
  そして、渋沢栄一は、実業家への道を進む。
  しかし、建白書で指摘した、政府崩壊が、思いもかけ
 ない形で始まろうとしていた。
  征韓論の政争から、士族の反乱であった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive