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2016年11月12日土曜日

(増補版)453E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年7月~1887年8月)

題:(増補版)453E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年7月~1887年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年7月12日、洋画家・山本芳翠(やまもとほうすい)が、
 フランスから帰国した。
  伊藤博文などの肖像画が著名で、日本洋画の父と呼ば
 れている。
  1850年(嘉永3年)7月、明智町(現在の岐阜県恵那市)
 で生まれた。
  幼少期、絵が好きで、絵を見れば手当たり次第模写し
 たと、後年芳翠は回想している。
  寺子屋である安住寺で、象先和尚に学んだ。
  1865年、15歳の時に、ふと北斎漫画を手に入れ、感銘
 し、絵の道を志した。
  1872年(22歳)横浜に出る、困窮する、ふと町で飾ら
 れていた絵に生きているようだと感銘し、その門に入る、
 洋画に転向する。
  1878年(明治11年)28歳、パリ万国博覧会を機にフラ
 ンスに留学、絵画技法を学んだ。
  1887年(明治20年)(37歳)に帰国し、版画家・合田
 清とともに画塾「生功館」を主宰。
  1894年(明治27年)(44歳)に黒田清輝がフランスか
 ら帰国すると、黒田が結成した白馬会に参加した。
  代表作に「裸婦」(1880年ごろ)、「浦島図」(1895年
 ごろ)がある。
  アカデミックな画風で、フランスで本格的に修得した
 画法を黒田に先だって日本に伝え、多くの洋画家を育て
 た功績は大。
  1906年(明治39年)、56歳で没した。
1887年7月15日、板垣退助、参内して遂に受爵す。
  (7月8日に、天皇陛下の特使が来たときに、天皇陛下
 の御心に感激して、受爵を決意していた)
1887年7月16日、黒磯駅~郡山駅間が開業した。
  日本鉄道の黒磯ー郡山間が開業し、上野駅~郡山駅間が
 7時間45分で結ばれた。
  東北本線の線区上の起点は東京駅であるが、1885年の
 開業以来、東北本線在来線列車の始発駅は上野になって
 いた。
1887年7月18日、第27回 条約改正會議
  外務大臣の井上馨外相が、この条約改正会議で、裁判
 管轄条約案修正のため本会議を、12月まで延期すること
 を発表した。
1887年7月23日、東京火災保険会社が設立された。
  後の安田火災海上保険(現、損害保険ジャパン)
  1887年(明治20年)に、柳川清助らが、有限責任東京
 火災保険会社を設立し、
  1888年の翌年、日本初の火災保険会社として営業を開
 始した。
  その後、大火続発で業績が悪化、
  1893年に、安田善次郎が再建を図り、株式会社となっ
 た。
  他方、同年・1893年、安田善次郎らにより帝国海上保
 険株式会社が設立、海上保険中心に経営基盤を築いてい
 った。
  1944年(昭和19年)東京火災保険、帝国火災海上保険、
 第一汽罐(きかん)保険の3社が合併、安田火災海上保険が
 発足した。
  1950年代の第二次世界大戦後は貿易の進展に伴い、海
 上保険の拡大策を打ち出し、
  1960年代には、モータリゼーションの到来のもと、リ
 スクを伴う反面、大きな成長も期待できる自動車保険の
 積極拡大策を展開した。
  火災保険でも、長期総合保険を戦略的商品として新市
 場を開拓した。
  1971年(昭和46年)に、販売網強化を目ざし、プロ代
 理店養成のための代理店研修生制度も発足した。
  1976年には、新宿の本社ビル内に安田火災東郷青児(と
 うごうせいじ)美術館(現損保ジャパン東郷青児美術館)
 を開館。
  1980年代に入ると、顧客の貯蓄型商品志向のもと、積
 立保険が最大の種目に成長、同社の総合金融機関化が急
 速に進展していった。
  2002年(平成14年)日産火災海上保険と合併し、損害
 保険ジャパンとなる。
  合併前の資本金584億円(2002年)、正味保険料9636億
 円(2002年)。[
1887年7月25日、文官試験試補及見習規則(ぶんかんしけん
 ほおよびみならいきそく)が公布された。
  アメリカも猟官制度(公職の任免を党派的忠誠や情実
 によって決める政治慣行のこと)を改革し、
  公開競争試験を規定した公務員法(ペンドルトン法)が
 1883年に成立した。 
  日本でも、この年・1887年に、「文官試験試補及見習
 規則」が公布され、
  1888年の翌年に、奏任官には高等試験(高等文官試験。
 いわゆる高文)、判任官には普通試験が実施されるように
 なった。
1887年7月26日、谷干城が、農商務相を辞職した。
  裁判管轄条約反対で辞職した。
  7月3日、農商務相・谷干城が、裁判管轄条約案に反対
 し、条約改正は国会開設後に延期せよとの意見書を伊藤
 首相に提出し、7月26日に辞職した。
1887年7月29日、不平等条約の改正交渉を無期延期を政府が
 決定し、井上馨外相が、各国公使へ通告した。
  不平等条約の改正に失敗。
1887年7月30日、官吏服務規律(かんりふくむきりつ)を改
 正した。
  この法律は、一般官吏の義務を規律した勅令で・・、
  1871年、太政官職制設置に伴い、官吏の休暇や勤務時
 間について太政官達が出され、
  1879年には、服務心得が布告された。
  1882年に、次いで、自由民権運動への対応に苦しむ地
 方官統制のため、地方巡察使派遣規定に特色をもつ行政
 官吏服務紀律が制定された。
  1885年には、さらに、内閣制度創設に伴い、
  1887年、これを全文改正され、官吏服務紀律となった。
  軍人、警察官、裁判官などはその対象外にあった。
1887年7月、洋画家・原田直次郎が、ドイツから帰国した。
  東京外国語学校で、山岡成章や高橋由一に洋画の指導
 も受けている。
  ドイツ・ミュンヘンでは、森鴎外と親交し、鴎外の『
 うたかたの記』の主人公・巨勢は、原田がモデルとされ
 ている。
  帰国の翌年1888年、本郷の自宅にに画塾鍾美館(しょう
 びかん)を設けて、後進を指導し、
  1889年、明治美術会創立に参加した。
  翌年1890年の第3回内国勧業博覧会には、大作「騎竜観
 音」を出品した。
  鴎外の『於母影』などの挿絵や、『めさまし草』の表
 紙絵も描いている。
  代表作「靴屋のおやじ」「騎竜観音」など。
1887年8月7日、木曽の三川の治水が行われた。
  木曽三川分流工事(きそさんせんぶんりゅうこうじ)
 は、1887年(明治20年)~1912年(明治45年)の25年間
 にわたって行われた木曽三川完全分流工事。
  オランダ人技師ヨハニス・デ・レーケが作成した計画
 に基づいて施工された。
  木曽川、長良川、揖斐川が、この工事によって、完全
 に3つの川が分離された。
  三川の流域は、古くから洪水による水害が多く、三川
 も大洪水によって分流・合流を繰り返していた。
  地元の陳情により、明治政府は、10人の御雇い外国人
 を招聘し、この技師のうちヨハニス・デ・レーケが、1877
 年に派遣された。
  翌年・1878年(明治11年)に、三川と周辺の地形を調
 査し、
  1885年(明治18年)に、分流計画書を作成、
  1887年(明治20年)に、着工された。
  木曽三川の完全分流工事の主な目的は、以下の3つだっ
 た。
  (1)洪水対策
  (2)輪中堤防内の排水改良
  (3)堀田の改善
1887年8月8日、気象台測候所条例が公布され、東京には中
 央気象台が設置された。
  この頃、気象事業の効果が認められる至っていたが、
  そして、そのための施設が、全国各地に、測候所など
 が設けられていたが、
  私設であったり、県営であったり、管理運営がまちま
 ちだった。
  このため、1887年に、国営の気象台・測候所、府県立
 の測候所、民営の測候所の設置し、
  および、それぞれの業務に関する規律を、体系的に定
 めた気象台測候所条例を公布した。
  東京気象台は、このとき中央気象台と改称された。
  初代台長は、測地学者で、気象官僚の荒井郁之助(いく
 のすけ)で、当時の定員は25人であった。
  気象観測、測器検査、天気予報、暴風警報のほか、地
 震、地磁気、空中電気(大気電気)の験測を行った。
1887年8月10日、逃亡犯罪人引渡条例が公布された(明治
 二十年勅令第四十二号)
  逃亡犯罪人引渡条例(勅令第42号)は、逃亡犯罪人引
 渡法(昭和28年法律第68号)により廃止された。
1887年8月11日、福陵新報(ふくりょうしんぽう)が創刊さ
 れた。のちの九州日報。
  『福陵新報』は、玄洋社の頭山満を中心に福岡で刊行
 された新聞。
  福沢諭吉の門弟で、『時事新報』で健筆を振るってい
 た川村惇が主筆として迎えられた。
  1898年(明治31年)、『九州日報』に改められた。
1887年8月14日、伊藤博文が、黒田清隆に大隈重信を外相に
 つけるよう大隈と交渉させる。
  大隈は、議会開設後、8年以内の政党内閣制樹立を条件
 に出し、伊藤はこれを拒否し、説得失敗した。
  第1次伊藤内閣(だい1じいとうないかく)が、1885年
 12月22日~1888年4月30日まで続いたが、
  この年、および、この後、自由民権派による三大事件
 建白書(1887年10月)や、大同団結運動(1887年~1889
 年)、保守中正派(天皇親政派)と見られた谷干城農商
 務大臣の辞任を招くなど、政府批判が一気に高まった(
 「明治20年の危機」)
  そこで、伊藤は、やむなく井上を辞任させて、政敵と
 言える大隈重信と黒田清隆をそれぞれ外務大臣・農商務
 大臣として入閣させ、保安条例を制定して自由民権派へ
 の対策に乗り出したが、
  憲法・皇室典範の制定事業に専念するために、
  1888年(明治21年)に、総理大臣を辞して新設の枢密
 院議長に転じた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ダーウィンの進化論
.
1859年11月24日、ダーウィン(50歳)が「種の起源」を出
 版した(11月22日説あり)
  ダーウィンは、エディンバラ大学で良い結果を残せず、
  1827年(18歳)に、父は、ダーウィンをキリスト教の
 牧師とするために、ケンブリッジ大学クライスト・カレッ
 ジに入れた。
  ダーウィンは、、キリスト教聖職者なら多くの研究の時
 間があるからと、父の提案もあって、この考えを受け入れ
 た。
  しかし、この学校でも必修ではない博物学や昆虫採集に
 熱中した。
  そして、音楽や狩猟を趣味とした。
  この大学は、1831年(22歳)、「中の上」の成績で卒業
 した。
  そして、この年・1831年の末、イギリス海軍の測量船ビ
 ーグル号に乗ることとなる。
  ビーグル号では、幾度か、艦長と意見対立をした。
  後に、ダーウィンは言う、「艦の中では、艦長に対し
 て 通常の範囲で意見表明するのも反乱と見なされかねな
 かった」・・と。
  1832年12月(23歳)には、ダーウィンは、寄航した島か
 ら若い男女を連れ帰るという怪しい行動をしている。
  ダーウィンは、この島の島民は、穴を掘ったような所に
 住み、まるで獣(けだもの)の様だと書いている。
  (この頃のイギリスの探検隊などは、この事例のように、
 まったく簡単に、現地の方々を拉致している。
  まったく有色人種蔑視で、「人間ではない」とキリスト
 教のバチカンは言ったが、この様な行為・対応が普通に行
 われていた)
  当時、囚人流刑地だったガラパゴス島には、1835年9月
 (26歳)に着いた。
  鳥類などを収集した。
  1836年10月2日(27歳)に、ファルマス港に帰着した。
  5年の航海だった。
  1837年6月(28歳)に、航海記を書き終えた。
  翌年・1838年(29歳)、姉が結婚すると、ダーウィンも
 結婚を意識し始め、
  この頃のダーウィンの結婚観がノートに記されている・・、
  「永遠の伴侶、年をとってからの友人……いずれにせ
 よ犬よりまし」・・、
  「本のためのお金が減る、おそろしいほどの時間の無
 駄」・・、
  その翌年・1839年1月(30歳)、結婚する、
  そして、この年に、ビーグル号の艦長の著作と合わせ
 て、航海記録を出版した。
  この頃、ダーウィンは、「種が固定されていない」と
 いう証拠に気付いた。
  (キリスト教の神の創り賜いし種は固定されていない、
  キリスト教の神の創ったものは、その後に変わるとい
 う考え方だった)
  当時、この考えに至る種々の論があり、ダーウィンは、
 この論理に気付いた。
  この考えの細部を洗練する調査をした、10年以上、こ
 の考えはあたためられた。
  ダーウィンの生計は、父や叔父の残した財産を運用し
 て成立していた。
  1849年~1859年(40歳代)、ダーウィンは、この40歳
 代の時に、キリスト教を棄てている。
  1854年(45歳)、再び、種の理論の研究を始めた。
  生物は存続のために争い、これを繰り返すという考え
 を持った(自然選択説)。
  この考えは、当然、その争いに勝つ強いものが残るとい
 う一元的考え方だった。
  また、突然変異について見落としていた。
  また、生存に役立ちそうにないクジャクやゴクラクチ
 ョウの長い尾羽は、鳥に審美眼があるので発達するので
 はないかと考えた。
  新たな種が形成されることを「種分化」と呼んだが、
 この問題は追求する事を避けた。
  (彼の死後、自然選択だけで種分化は起きるのか?と
 いう議論が起こった)
  1858年7月(49歳)、共同論文の形で、学会で代読発表
 された。
  1858年8月(49歳)、学会誌として印刷された。
  翌年・1859年(50歳)、学会長は、演説で、革命的な発
 見は何もなかったと言い、ダーウィンの発見を見落とし
 た。
  また、ダブリン大学の教授は、「新しい考えは、すべて
 誤りだった」とさえ言った。
  1859年11月22日(50歳)、ダーウィンの本が、ジョン・
 マレー社から発売された。
  ダーウィンは、この書の中で、「進化」を意味する「
 変更を伴う由来」という言葉を使った。
  そして、キリスト教に強く影響されたダーウィンは、
 やはり、「キリスト教の教義・考え方」の影響を受け進
 化論を説いた。
  キリスト教は、平和を求めるとしても「シャローム」
 という考え方・教義で、
  「異端の完全撲滅」「異教徒の完全撲滅」の後に平和
 が来る、それを理想としている。
  ダーウィンは、進化論を説くとしても、強者が、強い
 者だけが生き残るのだ、生き延びるのだという「強者生
 存」の考え方を示した。
  キリスト教の考え方・教義に捉(とら)われていた。
  結局、弱者が駆逐される「弱肉強食の進化論」だった。
  強者のみが『適者』『適する者』だとしか見れなかっ
 た。
  ある一面だけの強者に捉われた、狭いキリスト教の考え
 方だった。
  そして、キリスト教は、その強者が(キリスト教の)
 神に選ばれし者との考え方だった。
  故に、その弱者を、「(キリスト教の)神の義によっ
 て、誅するも良し」とした。
  ダーウィンの進化論は、この考え方の中にあった。
  「適合しない者は殺してもよい」「異教徒は殺せ」の
 キリスト教の教義に影響されていた。
  自然に多くある、当たり前にある『共生』の進化論は
 見い出せていなかった・・
  未熟な進化論、未進化の進化論と言える。
  自然に多くある『不善を善にする』『助け合い』の中
 の進化論が、見えなかった。
  例えば1例:落ち葉が落ち、そこにいる微生物によって、
 微生物も生き、それによって腐植土が出来、木も生育し、
 繁茂し、
  繁茂する木々によって、鳥や昆虫などなど、あらゆる
 生物が、生きとし生ける生物が、あらゆる場所において・・
 恵みを受け、輪廻・再生・共生する世界が・・自然が・・
 普通に見られるが・・
  小学校でも、その一部の、「蟻とアリマキ」を習うが・・、
  世界は、「共生だけの世界」が真実だと言ってもよい
 世界なのに・・
  キリスト教の間違った正義の教義に捉われていた。
  不適合者の不適応・抹殺があった。
  弱者だったら、弱者が悪いのだ・・だった。
  殺された側を悪者にして・・平然としている、その様
 な未熟な考え方だった、その様な宗教下あった。
  勝てば何でも正義だった。強ければ正義だった。
  キリスト教は、さらに・・、
  「(キリスト教の)神の創(つく)りたまいし神の創
 造物である人間や動物が、進化したり、変わったりする
 はずがない」と・・言った。
  「(キリスト教の)神が、その神の創ったものが、進
 化したり、変わったりするという『不完全なもの』を創
 るわけがない」と言った。
  進化はここで止まった・・。
  キリスト教の考え方・教義の狭い範囲では・・、
  『共生の社会』を創り上げられ得ない・・
  『助け合いの社会』は出来ない。
  結局、人間を信じてない性悪説のキリスト教は、『人
 類へ害悪を与えている』。
  歴史に、「悪の結果」しかない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月9日水曜日

(増補版)452E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年7月)

題:(増補版)452E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年6月30日、海軍大臣・西郷従道が、欧州視察から帰朝
 した。
  この頃、この西郷従道(1886年7月~1887年6月)の他、
  1882年~1883年の憲法調査の伊藤博文、
  1884年2月~1885年1月の軍事視察団(大山巌、桂太郎、
 三浦梧楼、野津道貫など)
  1886年2月~1887年2月の鳥尾小彌太
  1886年3月~1887年6月の谷干城
  1886年6月~1887年4月の黒田清隆
  1887年9月~1888年10月の樺山資紀
  1888年12月~1889年10月の山形有朋・・など洋行が相
 次いだ。
  西郷従道(さいごうつぐみち)は、外国の勲章を多く
 受賞していた。
  1880年(明治13年)6月15日、フランス共和国、レジオ
 ンドヌール勲章グランドフィシェ 
  1882年(明治15年)2月2日、ロシア帝国、1等聖アンナ
 勲章
  1887年(明治20年)7月5日、ロシア帝国、白鷲勲章
  1887年(明治20年)7月11日、ドイツ帝国、赤鷲第一等
 勲章
  1887年(明治20年)8月30日、イタリア王国、イタリア
 王冠勲章、グラン・クローチェ
  1887年(明治20年)8月30日、ベルギー、レオポルド勲
 章、グランドコルドン
  1887年(明治20年)10月30日、ポルトガル王国、キリ
 スト勲章大十字章
1887年6月、伊藤博文首相、伊東巳代治、金子堅太郎などと
 ともに神奈川県夏島で憲法起草開始した。
1887年6月、小荷物の配送を開始した。
  新橋と横浜の両駅で、小荷物の配送が始まり、内国通
 運に配達事務を委託した。
1887年6月、二葉亭四迷の「浮雲」が、1889年にかけて、発
 表された(長編小説)
  言文一致の文体(ダ体)で書かれた日本の近代小説の
 始まりを告げた作品で、四迷の代表作。
1887年7月1日、日本薬局法が施行された。
  日本の薬事法の歩みは・・、
  1716年、徳川吉宗による享保の改革(1716年~1745年)
   において医療に使われる薬品の品質に対する関心が
   高まり、
    江戸・駿府・京都・堺・大坂の5ヶ所に薬品検査所
   として「和薬改会所」を設置し、検査に合格した薬
   品以外の販売を禁じて品質の確保を図った。
    このことが、日本の政府による薬品取り扱い規制
   の始まり。
    そして、文明開化の影響を受けた西洋医学重視の
   政策によって、
  1870年(明治3年)に、「売薬取締規制」が制定され、
   越中富山の薬売りや漢方薬に代表される従来の薬品
   産業を中心に、大幅な規制が実施された。
  1873年(明治6年)に、続けて、「薬剤取締之法」を施
   行し、現在でいうところの薬局・薬剤師や薬価制度、
   そして、医薬分業の基礎がそれぞれ成立した。
  1877年(明治10年)に、明治政府は、「毒薬劇薬取締
   規則」を施行、そして
  1880年(明治13年)には、これを「薬品取締規則」へ
   改正し施行した。
    この規則では、毒薬劇薬の概念が導入された。
  1880年(明治13年)10月、衛生局長長与専斎の建議に
   も基づいて日本薬局方が制定され
  1886年(明治19年)6月、内務省令をもって初めて日本
   薬局方が発布され、この年の施行に
    日本薬局方編集総裁、および、委員は、
   総裁=元老院幹事・細川潤次郎、
   委員=陸軍軍医総監・松本順、同軍医監・林紀、海
   軍軍医総監・戸塚文海、一等侍医・池田謙斎、内務
   省衛生局長・長与専斎、東京大学医学部教授・三宅
   秀、海軍中医監・高木兼寛、陸軍二等薬剤正兼二等
   軍医正・永松東海、柴田承桂、東京司薬場教師オラ
   ンダ人・エーキマン、横浜司薬場教師オランダ人・
   ゲールツ、東京大学医学部教師ドイツ人・ベルツ、
   および、ランガルト、オランダ人・ブッケマン
  1887年のこの時、「日本薬局方」が施行された。
1887年7月2日、東京~各鎮守府間、各鎮守府~各鎮台間の
 道路を国道に編入する件が公布された。
  明治20年7月2日勅令第28号
  朕鎭守府ニ達スル道路ヲ國道ニ編入ノ件ヲ裁可シ茲ニ
 之ヲ公布セシム
  内閣總理大臣 伯爵伊藤博文、内務大臣 伯爵山縣有朋
   陸軍大臣 伯爵大山巖、海軍大臣 伯爵大山巖
  東京ヨリ鎭守府ニ達スル道路及鎭守府ト鎭臺ト拘聯ス
 ル道路ハ自今國道ニ編入ス
1887年7月3日、谷干城(たにたてき)が、政府批判意見書
 を提出した。
  農商務大臣の谷干城は、裁判管轄条約案に反対し、「
 条約改正は、国会開設後に延期せよ」との意見書を総理
 大臣の伊藤博文に提出し、1887年7月25日に辞職した。
  その内容は、内閣、外交、行政など多岐にわたってい
 る。
  その一例をあげれば・・、
  言論に関しては、「政府官吏は、自ら進んで新聞や、
 演説にて討論すべきであり、
  それによって人心が活発になり、腐敗の世態が回復す
 るであろう」と述べている。
  また、倫理に関しては、「官禄に衣食するものは上 
 陛下の聖意を思い、下は人民の休戚(きゅうせき、喜び
 と悲しみ。幸と不幸)をおもい、戦々兢々(せんせんき
 ょうきょう、おそれて、びくびくするさま)ただその責
 任の尽くせないことを恐れるべし」・・と述べている。
  後・1890年7月10日に、貴族院議員となり、地租増徴に
 反対するなど独自の政治運動を展開した。
  国粋主義、農本主義的立場から、薩長藩閥とも、また、
 板垣退助ら自由民権派とも異なる、保守的な中正主義で、
 土佐派の重鎮として重きをなした。
  地租増徴案は、地租が、2.5%から3.3%に引き上げら
 れた。
  これは、1897年に、松方内閣が六六艦隊計画などに必
 要とされる予算確保のためだった。
  因みに、土佐藩上士の谷は、同じ藩の郷士と呼ばれる
 下士出身者である坂本龍馬を厚く尊敬した。
  また、1867年(慶応3年)に、龍馬が暗殺されたときに
 は、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった中岡
 慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、
  生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったという。
  流山で捕らえた新撰組局長であった近藤勇の尋問につ
 いて、薩摩藩と殊更対立したが・・、
  斬首・獄門という惨刑に処したのも谷であるが、彼に
 とっては龍馬の敵討ちであった。
  因みに、江戸時代でも、武士の名誉を重んじて、切腹
 が一般的であり、また、獄門(つまり、さらし首)も行
 わなかった。
  1911年(明治44年)2月9日、勲一等旭日桐花大綬章
  1911年4月15日、正二位
  1911年5月13日、死去、享年74歳。
1887年7月7日、横浜正金銀行条例が公布された(7月6日説
 あり)
  この条例が制定されて、同行は、半官半民の特殊銀行
 となり、
  政府の監督保護と、日本銀行による低利融資を受けて、
 外国為替(かわせ)銀行として、国際金融の中心に位置す
 ることとなった。
1887年7月8日、「國道表」に、国道47号「東京より佐世保
 鎮守府に達する路線」が追加された。
  この路線は、国道4号(現1号・2号ほか)を経由し、武
 雄で分岐して佐世保に至るもので、武雄と佐世保とを結
 ぶ国道35号の起源となる。
  これは、1920年(大正9年)旧47号が、そのまま国道33
 号「東京市より佐世保鎮守府所在地に達する路線」とな
 った(施行の旧道路法に基づく路線認定による)
  そして、1952年(昭和27年)12月4日、新道路法に基づ
 く路線指定で、旧33号が一級国道35号(佐賀県杵島郡武
 雄町 - 長崎県佐世保市)に指定され、
  1965年(昭和40年)4月1日、道路法改正によって一級、
 二級の別がなくなり一般国道35号となった。
1887年7月8日、特使が、板垣退助の旅館に臨み、辞爵上表
 を返戻(板垣退助が、天皇陛下の恩に感激して、受爵を
 決意した)
1887年7月11日、横浜駅~国府津駅間が開業した。
  東海道線の初代横浜駅~国府津駅の間の鉄道路線が開
 通した。
  そして、この2年後の1889年に、国府津駅から御殿場駅・
 沼津駅を経て、静岡駅までが開通したが、
  国府津駅から御殿場駅までの区間の勾配がきついため、
 列車を後押しする機関車を連結することとなり、
  国府津駅は、機関車の基地として重要な役割を有する
 こととなった。
  しかし、後に、御殿場回りのルートは、勾配がきつい
 ため、速度向上のネックとなり、
  また、トンネル掘削技術が向上したことによって、熱
 海を経由する新しい路線を建設しようとの機運が高まっ
 た。
  そして、1920年に、熱海線として国府津駅~小田原駅
 までが開業した。
  そして、1934年12月になると、丹那トンネルが完成し
 熱海~沼津間が開通した。
  これを機に、新線と熱海線が東海道本線に編入され、
 東海道本線は、御殿場駅経由から熱海駅経由に変更され
 た。
.
  (今日の言葉)
.
  題:卑劣なイギリスの「目には目を」の捕虜虐待
.
1945年、日本人捕虜虐待をイギリスが行なった。
  この虐待は巧妙になされた。
  明らかに仕返しの日本人捕虜の全員死亡の虐待だった。
  しかし、この行為は、何ら裁かれずに済まされた。
  「東京裁判」ではないが、「ロンドン裁判」をすべき
 だった。
  日本人捕虜が、食事にもろくに与えられず、イギリス
 軍の捕虜として収容所に入っていた。
  その場所は、潮が満ちて来ると、潮が来て、横になっ
 て寝る事の出来ない最悪な劣悪な場所だった。
  もうこれだけで、捕虜虐待の明らかな状態だった。
  イギリス軍は、この様な劣悪の場所に、わざわざ日本
 人捕虜を収容した。
  これだけでも非人道的な捕虜の取り扱いである。
  湿って、乾燥しない不衛生な場所で、日本人捕虜は、
 大勢が不衛生な故に病気になり死んだ。
  可哀想な状況の中で殺されて行った。
  この様に、真綿で首を占める様に、じわじわとイギリ
 ス軍は、日本人兵捕虜を死に至らしめる扱いをした。
  明らかに、これだけで、完全な捕虜虐待であった。
  日本兵の場合は、多くの兵が、戦争が終わって、「捕
 虜虐待をしたとして死刑にされた」。
  この様にされなければいけないイギリス兵やアメリカ
 兵が居る。
  この時のイギリス兵は、何もなかったかのように平然
 としていた。
  事情が分かっているのに・・、
  完全に死に至る劣悪な環境に置いておきたかったから、
 改善する気もなかった。
  このイギリス軍の卑劣な行為には、復讐の意味があっ
 た。
  この日本兵たちは、「クワイ河で、イギリス兵を使っ
 て鉄道建設をして、イギリス兵が亡くなったことの復讐
 したのだった。
  イギリス兵は、ほんの数パーセントだったのだが、イ
 ギリスだけが、この様な卑劣なクワイ河の仕返しをした。
  キリスト教の「目には目を」である。
  この日本兵は、そのクワイ河の場に所属した兵たちだ
 った。
  この時は、同じ様に日本の工兵や鉄道隊が死んでいる
 のだ。
  イギリス兵捕虜などを虐待した訳ではなかったのにだ。
  本当に、イギリスは、陰湿で執念深い性質だ。
  そして、このイギリスの更に卑劣なことは、この日本
 兵たちを、ひもじい、最低限の状態にした。
  食事の必要量を与えなかった。
  それは、ある目的のためにイギリスはした。
  その、さらに酷(ひど)い目的は・・
  それは、潮が引くと、この捕虜たちが居る湿った地に
 「カニ」が上がって来た。
  しかし、このカニは、食べてはいけなかった。
  イギリスは、それを知っていて、わざわざ日本兵捕虜
 をここに収容したのだった。
  このカニには、赤痢菌が居て、食べると、酷い下痢と
 なり、その下痢に苦しみながら、悶え死ぬのだった。
  その事は、日本兵も知っていた。
  イギリス兵たちも知っていて、それを高みの見物をす
 るイギリスの陰湿な卑劣さだった。
  だから、日本兵捕虜に、ろくに食事も与えなかった。
  イギリス兵は、どうなるかという事も知っていて、日
 本兵をその様な状態に置いた。
  イギリス兵たちは、沖の日本兵たちを見ていた。
  ただただ、毎日、見ていた。
  日本兵を双眼鏡で見ていた。
  日本兵がどうなるかが知っていた、そして、その様に
 なるのをじーっと見ていた。
  食事を不十分な状態にして「ずーっと」苦しませ、
  そして、カニを食べて、日本兵たちが悶え死ぬ姿を見
 ていた。
  復讐は叶った・・日本兵捕虜は、全員、死んだ。
  しかし、『イギリスの名誉は失った』。
  その場の、死に至る場所・アウシュビッツの様な卑劣
 な非人道的な場所に入れられた日本兵たちは、イギリス
 の名誉を消して、全員、死んで行った。
  その様になる道しか残されて無い状況だった。
  その様になる量の食べ物しか与えられなかったから、
 当然、そうなったのだった。
  当然、そうなるようにイギリスは捕虜虐待をしていた。
  また、その様に湿った劣悪な場所は、焼いたり、煮た
 りできない最悪な場所だった。
  焼いて食べれば、イギリスの目的は達せられないので、
 その様な事が出来ないことを承知で、日本兵捕虜を、こ
 こに収容したのだった。
  キリスト教による『魔女虐待』もまったく同じような
 やり方だった。
  魔女にされた女性を、町の広場に連れ出し、周りから
 町の人々が、衆目が見る中で、焼き殺した。
  それも、一気に燃えるような木ではなく、火あぶりに
 した。
  生木でじわじわと焼く、陰湿な殺人行為が、キリスト
 教によって行われた。
  イギリスも同じことをした。
  また、インドでは、並木道の木という木に、インドの
 方々を何日も吊るして、インドの方たちが見ている中で
 殺したが・・こんな事ばかりしている・・、
  (参考):「戦場にかける橋」
  1957年に、アメリカによってつくられた映画「戦場に
 かける橋」は、事実と違う。
  まったく、嘘話が美しく作り上げられている。
  日本は、映画によって悪くプロパガンダ(嘘宣伝)さ
 れている。
  日本は、日本人だけでなく、多くの現地の方々、また、
 イギリス兵を含めた捕虜の方々を、差別することなく、
 慰霊している。
  そして、この映画の嘘は・・、
  (1)橋の構造・材質が全く違う・・、映画は、木の丸
 太である木造橋であるが、
  実際は、コンクリート橋脚の立派なトラス鉄橋である。
  (2)設計者を違えて、日本の素晴らしさを隠し、その
 日本の良さを奪っている・・、
  映画は、イギリス兵捕虜だとしている・・日本が出来
 るという能力は無いように描いている、日本が出来ない
 ので、イギリスに頼むようにしている、まったく卑劣で
 ある・・日本が出来ない様に描いているが、
  実際は、日本軍の鉄道隊で、立派に日本が設計をして
 技術力は十分ある事を示している。
  それも、鉄とコンクリートの立派な構造である。
  だから、イギリス兵捕虜などは、まったく設計に関与
 していない。
  今・現在でも、イギリスとフランスの海底トンネルを
 作ってやったのは日本である・・日本の技術である。
  イギリスが出来ないから、日本に頼んで来たのである。
  建設したひとたちは、映画は、イギリス兵捕虜だけで
 作ったように描がいている・・これは、ひどい嘘だ。。
  こんなことはあり得ない・・常識で分かる・・よくこ
 んな作り方をする程度の悪い映画だと思う・・まったく
 ひどい嘘だ。
  実際は、日本人15000人、ビルマ人90000人、マレー人
 75000人、以上で、全体の74.5%の携わった人たちで、
  この人たちが建設の主体だったのだ、主力だったのだ。
  残りが、お手伝いの白人捕虜である・・、
  イギリス人30000人、アメリカ人700人、オランダ人
 18000人、オーストラリア人13000人である。
  (データー:現地のビルマ・マレーの方々が68.3%、
 白人が25.5%、日本人が6.2%)
  因みに、この映画を作ったアメリカ人は、0.3%弱と
 ほとんど居ない。
  今、ここに、観光客が来るので、この橋の名前を映画
 に近い名に変えたが、映画で名付けた「クワイ河橋」で
 はなく、「メクロン河永久橋」が本当の名前。
  これ等のデーターは、当時、日本陸軍の通訳として、
 この地に勤めていた方のデーターであるから正確である。
  映画は、まったく誇張されているという。
  話が作られているという。
  ノンフィクション的に思われるが、完全な造りものの
 フィクションだという。
  適当な尾ひれがついていて整合性もないという。
  当時から、クワイ河などという名はなく、まったく関
 係ない名がつけられている所からして、この映画のいい
 加減さが分かろうという。
  また、関係なく作られた名前ということで、その映画
 の中味も想像が出来よう・・という。
  しかし、上記のイギリスの日本兵捕虜の虐待の話は、
 真実である。
  イギリスの捕虜収容所に居て、捕虜だった日本兵捕虜
 の作者が書いている事で、真実だからだ。
  そして、映画は、脱走して北へ向かって、海に出たと
 なっているが、まったく現地の地形を無視している。
  これでは、川の水が下流から上流に流れる話になって
 しまうという。
  この様に、事実ではない点が多く、映画は、戦争の事
 実を調べて、そして、作られたというものでない。
  『まったくのフィクション』である。
  面白く描いて映画にしただけのものである。
  名前が「永久橋」と付けられている事からも分かるよ
 うに立派な頑丈な橋で、
  映画の木の橋で、木っ端みじんは「映画の作り過ぎ」。
  そして、死者は、日本兵も、日本の工兵も鉄道隊も死
 に、何しろ%の多い現地の方々の死が一番多いのである。
  そして、日本軍鉄道隊は、立派な大きな慰霊碑を、
 1944年(昭和19年)2月に建てて、働いた方々の死への慰
 霊をしている。
  また、、広大な戦没者墓地も作って、死者を丁寧に弔
 い埋葬している。
  逆に、こんなところまで、イギリスは、したのでしょ
 うか?
  そして、この慰霊碑の裏面には、霊を慰める文字も刻
 まれ、永久に顕彰(橋建設の労苦を世界に示している)。
  映画の影響で白人観光客が多い状況だという。
  しかし、日本が悪者に作り上げられている映画のフィ
 クションは正されず、真実が正しく伝わっていない。
  今、この鉄道橋は、1日に2~3往復の本便が走っている。
  その間に、観光客用のトロッコ列車が往復していると
 いう。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年11月7日月曜日

(増補版)451E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年6月)

題:(増補版)451E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年6月~1887年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年6月9日、板垣退助が、爵位を辞した・・?
  板垣退助は、授爵の勅を二度断っていたが、
  1887年(明治20年)5月、三顧之礼(三度の拝辞は不敬
 にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、
 伯爵位を授爵した。
  その結果、衆議院議員となることはなく(華族当主に
 は衆院選の被選挙権がない)、
  また、貴族院でも、伯爵議員の互選にも勅選議員の任
 命も辞退したため、帝国議会に議席を持つことはなかっ
 た。
  1919年(大正8年)7月16日、死去、享年83(満82歳没)
  法名は、邦光院殿賢徳道圓大居士
  なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・鉾太郎
 は家督相続をせず、
  孫の守正が、爵位を返上した。
1887年6月9日、花井お梅事件(6月11日説あり)
  日本橋浜町酔月楼の女将お梅(24歳)が、実父との不
 和(営業にからむ意見対立)にからんで、実父側に立っ
 て、お梅の追い出しにかかった番頭の峰吉を、隅田川河
 畔で刺殺し、父親に告げて自首するという事件があり、
  当時の『東京絵入新聞』が、虚実とり交ぜた読み物の
 『花井於梅酔月奇聞』として連載し評判となった。
  花井お梅は無期徒刑となり、特赦で1903年(明治36年)
 出獄し、芝居で体験を演じた。
  5世富士松加賀太夫(新内節富士松派の演奏家)が脚色
 し、1888年3月に、作曲し、また・・、
  河竹黙阿弥が、歌舞伎の「月梅薫朧夜(つきとうめかお
 るおぼろよ)」とし、
  後に、川口松太郎が、新派の「明治一代女」などの題
 材にして、恋と意地に生きる明治の女を哀切に描き、
  1935年11月明治座で、作者の脚色、花柳章太郎主演に
 より初演し、好評を博し、以後、新派の当り狂言となっ
 た。
1887年6月15日、陸軍幼年学校が設置された。
  陸軍幼年学校は、将来、陸軍の将校を志願する少年に
 対し、初歩的な軍事学や軍事訓練を加味しながら、
  主に、普通学科を教授し、軍人精神の涵養 (かんよう)
 をはかる学校で、
  日本の旧陸軍では、1869年(明治2年)、大阪兵学寮に
 横浜語学所を合して幼年学舎を設け、先進国の軍事知識
 吸収のための教育を始めたのがその始りだった(1870年
 説あり)。
  1872年(明治5年)幼年学舎を陸軍幼年学校と改称し、
 兵学寮から独立した(1875年説あり)、
  修業期間は3年間で、卒業生は陸軍士官学校へ進学した。
  1877年、陸軍士官学校に合併されたが、
  1887年に、再び独立し、また、この年に、幼年学校官
 制が制定され、
  1896年には、中央(東京)と地方の幼年学校が、仙台・
 名古屋・大阪・広島・熊本に設けられた(1897年説あり)
1887年6月15日、博文館(はくぶんかん)が開業した。
  大橋佐平が博文館を創業し、「日本大家論集」を刊行
 した。
  社名は、伊藤博文に由来している。
  大橋佐平の息子・大橋新太郎は、尾崎紅葉の小説『金
 色夜叉』の登場人物、富山唯継のモデルと言われている。
  博文館は、東京の出版社で、明治時代に富国強兵の時
 代の中で、数々の雑誌を創刊し、また、取次会社(東京
 堂)・広告会社(内外通信社)・印刷所(博文館印刷所)・
 洋紙会社などの関連企業を創業した。
  日本最大の出版社。
  大正昭和モダニズムをリードする役割を果たし、
 また、江戸川乱歩、横溝正史ら数多くの作家を輩出した。
  第二次世界大戦後は、社長・大橋進一の公職追放に伴
 い、日記以外の出版を停止させられた。
  辞書部門や雑誌部門は、1948年に、博友社と文友館と
 好文館の三社として分裂した。
1887年6月16日、陸軍各兵科現役士官補充条例が公布した。
  ヨーロッパ列強の東アジアにおける軍事的圧迫を契機
 にしている。
  特に、フランスによる清仏戦争(1884年6月~1885年6
 月)や、イギリスによる朝鮮の巨文島の占領(1887年1月
 まで占領)などの侵略の気配が濃厚だった。
  日本は、この条例公布のほか、1885年7月2日に、広島
 鎮台管轄下の歩兵を対馬に分遣している。
  また、1885年10月6日には、鎮台条例を改正し、沿海諸
 島の防御として、小笠原諸島、佐渡、隠岐、大島、沖縄、
 五島、対馬を既定した。
  また、1886年11月には、臨時砲台建築部のもとに、1887
 年に対馬の海岸防御砲台築設が着工している(1887年に
 竣工)など軍備強化が進められていた。
  当時、陸軍大学校雇教師のドイツ陸軍少佐のメッケル
 が、種々、意見書を提出していて、
  (1)ドイツの師団は、平時には、歩兵と騎兵をもって
    編成し、戦時には全兵科をもって編成するが、日
    本の師団は平時も全兵科をもって編成し、出師準
    備に際しても、配置計画進行上の師団の戦時兵力
    行使における独立的動作の完結性を強調し、
  (2)日本の2個師団を結合・統轄する監軍部の平時の
    業務は繁多でなく、戦時の戦力聚束は実施できな
    いので軍団・監軍部として編束する必要性はなく
 ・・云々と、日本の方向性に重要な提言をしていた。
1887年6月18日、京橋で外人を含めた相撲興行が行われた。
  (郵便報知新聞、6月15日、6月18日、6月19日)には、
  六月十八日より三十日まで、東京築地南小田原町四丁
 目四番地にて、ウエブスター・剣山の内外合併相撲。
  [広告]和洋大角觝廣告 此大角觝興行タルヤ、従来
 欧米各国ニ行ルヽ「スパラ」「ラスラ」ノ類トハ大ニ異
 ナリ、全ク日本大力士剣山、一ノ矢、大鳴門、西ノ海以
 下数名ト西洋諸国ノ大力士エム、ウエブスター」ビイデ
 イヨング以下数名取組、真見無垢其度力技術ノ優勝劣敗
 ヲ試ントスル者ナレバ、実ニ宇内未曾有ノ珍事ト云フベ
 シ。
  依テ今回江湖諸彦ノ愛顧ニ供セン為メ、東京築地南小
 田原町四丁目四番地ニ於テ、晴天七日間興行相催候間、
 陸続御来観アランコトヲ伏テ奉仰願候。
  (読売新聞、1887・9・6)には、九月八日より晴天七
 日、東京日本橋区中洲にて、ウエブスター・岩城の内外
 合併相撲(第三回目の興行)。
  「浅草田原町一丁目斎藤元吉が願人にて、来る八日よ
 り十四日まで中洲町に於て和洋合併相撲を興行するよし。
  此の外国人力士はマレース、ウエブスター外一名、日
 本力士は岩城松外三十五名なりとぞ」
1887年6月23日、ノットと田中舘愛橘、全国の地磁気測定を
 開始した(~10月まで)
  東京帝国大学のお雇い外国人教師ノットの提案で、こ
 の時から10月にかけて、日本全国地磁気測量が実施され
 た。
  地質調査所では、第一回国際極年観測期間中にナウマ
 ンの指示で、全国の地磁気測量を行い、
  その観測結果をもとに、ナウマンが、フォッサマグナ
 と地磁気分布とが密接に関係すると主張した。
  ノットと田中舘は、ナウマンらの観測結果に疑問を抱
 き、全国の地磁気再測量を行った。
  ノットと長岡半太郎とが、東北日本と北海道の50ヶ所
 でキュー型携帯用磁力計とキュー型伏角計を用いて、
  田中舘愛橘が、南西日本と朝鮮半島の31ヶ所で、田中
 舘式電磁方位計とキュー型伏角計を用いて観測を行った。
  ノットと田中舘によれば、フォッサマグナ付近に、地
 磁気の異常な変化は認められなかったという。
  また、明治24年(1891)10月28日午前6時37分、中部地方
 に強い地震が起こった(濃尾大地震)
  この地震の直後、田中舘愛橘は現地に入り、震源地付
 近の地磁気測量を行った。
  この付近には、1887年(明治20年)の全国地磁気測量の
 際の測定点があったので、同地点で再測量をし、データ
 を比較することが目的だった。
  この現地調査により、地震の前後で、地磁気に変化が
 あったらしいということになった。
  そこで、更に、詳しい調査を行うため、12月から翌年・
 1888年1月にかけて、田中舘愛橘、長岡半太郎らが中部地
 方の磁気再測量を行った。
  これらの調査から、田中舘らは、地震活動にともなっ
 て磁場が変化した可能性が高いと報告した。
1887年6月23日、東京ホテルが開業を諮った。
  外務大臣井上馨、新ホテル建設を渋沢栄一、益田孝、
 大倉喜八郎らに諮(はか)る。
  1887年12月、印鑑届けなどの3通の「御届書」を東京府
 知事に提出、有限責任東京ホテル設立 (資本金26万円)
  後の、帝国ホテル。
  帝国ホテルは、1890年(明治23年)11月3日に落成、
  同・1890年11月7日に開業した。
  隣接する鹿鳴館と密接な関連を持ったホテルとして井
 上馨が、渋沢栄一と大倉喜八郎の2人を説いて、
  1888年(明治21年)有限責任帝国ホテル会社(設立当
 初は有限責任東京ホテル会社)を設立させた。
  初代の帝国ホテルは、渡辺譲 設計、木骨煉瓦造、3階
 建、客室数約60。
  1890年(明治23年)竣工。
  1919年(大正8年)失火から全焼した。
  ・・そして・・
  ライト館は、フランク・ロイド・ライト 設計。
  鉄筋コンクリート、および、煉瓦コンクリート造、地
 上3階(中央棟5階)、地下1階、客室数270。
  1923年(大正12年)竣工。
  1968年(昭和43年)新本館建設のため解体された。
  1917年(大正6年)にライトは来日し、1919年(大正8
 年)9月、着工した。
  ライトは、使用する石材から調度品に使う木材の選定
 に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだ。
  色々な苦難の中、ライトは、施工の総指揮を続けてい
 たが、
  1922年(大正11年)4月、隣接する初代帝国ホテルが、
 失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務と
 なり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は
 避けられなくなった。
  さらに、当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がる
 に至って、林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂注い
 だこのホテルの完成を見ることなく離日した(同年7月)。
  一部完成済みの部分を利用してホテルは営業を再開し
 た。
  ホテルの建設は、ライトの日本における一番弟子だっ
 た遠藤新の指揮のもと、その後も続けられた。
  1年後の1923年(大正12年)7月、着工以来4年の歳月を
 経てライトの本館は完成した。
  9月1日に落成記念披露宴が開かれることになったが、
 関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙
 しの時だった。
  周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりす
 る中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変
 わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ
 人々の目を引いた。
  ライトは、二週間後このことを遠藤からの手紙で知り
 狂喜したという。
  1945年(昭和20年)3月10日~3月11日の東京大空襲で
 は、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多く
 の焼夷弾が落ち、焼失は総床面積の四割強に及ぶ大きな
 被害を受けた。
  終戦ともに、帝国ホテルはGHQに接収され、そこで大規
 模な修復工事が行われ、復旧した。
  震災にも空襲にも耐えたこのホテルの存続を訴える大
 規模な反対運動が起ったが、
  本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがすると
 いった老朽化の問題もさることながら、都心の一等地を
 占有する巨大な建造物の客室数がたったの270では話にな
 らなかった。
  本当にもったいないことだが、この「人類の至宝(し
 ほう、この上なく大切な宝)」は解体された。
  そして、ライト館の玄関部分は、博物館明治村(愛知
 県犬山市)に十数年の歳月をかけて移築再建され、今日
 でも在りし日の面影を偲ぶことができる。
  その一部分でも、いかにライト設計の帝国ホテルが素
 晴らしかったかが分かり想像できる。
  だから、故に、すべてを残して戴きたかった。
  日本は、ライトが精魂を傾けて戴いた宝を失った。
  二度と得られぬ人類の宝を失ってしまった。
  日本に残す気概が欲しかった。
  (色々な事情はあるでしょうが、経済性だけで計れな
 い「大きな価値」があると、そして、それが大切だと思
 って戴きたかった)
.
  (今日の言葉)
.
  題:歴史の落穂ひろい
   書き落した事柄を、以下に拾い書きします。
.
紀元前318万年前、ルシーの死因
  「ルーシー」の愛称で知られる約318万年前の猿人の死
 因は、
  「木から落ちたためだった」とする研究成果を、アメ
 リカのテキサス大学などのチームが発表した。
  地上の生活が増え、木登りの能力が落ちた可能性があ
 るという。
  論文が、29日、イギリス科学誌ネイチャーに掲載され
 た。
  ルーシーは、1974年に、エチオピアで骨が見つかった
 猿人の女性。
  地上と樹上の両方で暮らした初期人類で、それ以前の
 猿人より二足歩行に適応していたと考えられている。
  チームは、骨をコンピューター断層撮影法(CT)で分
 析。
  腕や足首などの折れ方から、12メートル以上の高さか
 ら落ちて骨折した可能性があることが分かった。
  骨折が治った後がなく、チームは木から落ちた直後に
 命を落としたと推定した(読売新聞、2016・8・31)
.
紀元前6000年、ワインの醸造
  ブドウは、数百万年前には存在していて、現生人類よ
 りははるかに古い。
  西アジアには、多くのブドウの野生種が自生しており、
 約8000年前の新石器時代に、ワインを醸造したことを示
 す最古の証拠がある。
  最初は、自家消費のために作られたと考えられている。
  西アジアの中心である古代メソポタミアでは、約5000
 年前には、神への捧げものとして神殿で飲まれるように
 なった。
  都市の発展とともに、支配者階級の祝宴で消費され始
 めた。以下略、(読売新聞、2015年11月17日)
.
 7世紀、随書倭国伝
  隋書は唐の魏徴撰。
  魏徴(ぎちょう)は、唐の政治家(580年~643年)
  唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628年)、学
 者を率い、数年かけて戦乱の間にバラバラになってしま
 った四部書(経、史、子、集)を校訂したとされている
 (旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)
  隋書も、この間に編纂された。
  その書の中に・・日本についての記述・・、
  (日本)人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜
 賊も少なく、
  百済・新羅は、日本(倭)を尊敬して仰ぎ、使いを通
 わせていた。
.
1274年の文永の役の後、総司令官・忻都が、元の世祖フビ
 ライに報告した記録『元韃攻日本敗北歌』
  倭人は、狠ましく死を懼れない。
  たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。
  勝たなければみな死ぬまで戦う。
.
1281年、元寇(弘安の役)があった。
  元寇(この弘安の役と1274年の文永の役)の後、日本
 に「神国・日本」の国家観が沸き上がった。
  鎌倉仏教の始祖たちが「日本精神の立て直し」という
 役割を果たし始めていたが、ここに、日本は、蒙古襲来
 期のあれだけの危機を乗り越えることが出来た。
  また、襲来時に、「神風」が吹くという事から、「神
 国・日本」という確固たる自画像が、広く、かつ深く定
 着した。
  日本観、国家観というものが、中世のこの時期に生ま
 れた。
  元寇は、皇室を中心としたまとまりがなければ、日本
 は対外危機に対処できない、という考え方を日本の中に
 深く刻印した。
  そして、後醍醐天皇の「建武の中興」を生み出して行
 く。
.
1500年、ポルトガルが、ブラジルを植民地にした。
  サトウキビ栽培が大成功し、17世紀前半には、ブラジ
 ルは、世界最大の砂糖の産地となった。
.
16世紀、日本では、16世紀の戦国時代から庶民に対しての
 「おふれ」が立て看板で掲示されていた。
  当時、来日した宣教師達が、一様に驚いているのが、
 日本人の教養と、識字率の高さである。
  日本を絶賛した世界の知識人達。
.
1537年、犬山城が、信長の叔父・織田信康によって築かれ
 た。
.
1563年、ルイス・フロイスが来日した。
  ポルトガル人、宣教師、1563年(永禄6年)来日。
  日本製の鉄砲の性能と品質を世界最高と評した。
.
1543年(天文12年)に、ポルトガル人宣教師が、2挺の鉄
 砲を日本人に与えたところ、
  40年後には、その鉄砲を遥かに凌ぐ高性能の物を量産
 する事に成功し、
  1583年(天正11年)に、ポルトガル人が戻って来ると
  既に、ヨーロッパの鉄砲の総数を越える数を所持して
 いた。
.
1617年、犬山城を、家康の重臣・成瀬正成(まさなり)が
 拝領した。
  以来、代々、成瀬家が城主を務め、城下町を築いてい
 った。
.
1776年7月4日、アメリカの13植民地は、大陸会議で「独立
 宣言」を採択した。
  ジョン・ロックの社会契約説の圧政に対する抵抗権を
 根拠として、新国家樹立を宣言した。
  これは、第二次世界大戦に至る石油の禁輸など、アメ
 リカの日本に対する不当な圧力とまったく同じで、
  日本が抵抗権を行使する正当な理由と同一だった。
.
1842年、イギリスが、中国の方々を虐げたアヘン戦争が終
 わった。
.
1859年、イギリス公使オールコックが来日した。
  『大君の都』
  大君:たいくん:徳川将軍のこと
  イギリス公使オールコック (安政6年 1859年 来日)
 には・・、
  一般に日本人は清潔な国民で、人目を恐れずに度々か
 らだを洗い、
  身につけているものはわずかで、風通しのよい家に住
 み、
  その家は広くて風通しの良い街路に面し、そしてまた
 その街路には、不快なものはなく、荷物を置くことを許
 されない、
  というふうにいうことをはばからない。
  すべて清潔ということにかけては、日本人は他の東洋
 民族より大いにまさっており、とくに中国人にはまさっ
 ている。
  中国人の街路といえば、見る目と嗅ぐ鼻をもっている
 人ならだれでも、
  悪寒を感じないわけにはゆかない。
.
1878年、榎本武揚が、シベリアを馬車で横断した。
  この時、彼は、車中で克明な「シベリア日記」を付け
 た。
.
1878年6月~9月、『日本奥地紀行』が、イザベラ・バード
 によって執筆された。
  その中の記述に・・、日本について・・、
  「貧民階級の衣類や母屋がどんなに汚くても、
  料理の仕方と、その料理を供するやり方は極端に清潔
 なのだ・・とある。
..
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2016年11月6日日曜日

(増補版)450E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年6月)

題:(増補版)450E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1887年5月~1887年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1887年5月23日、憲法草案の提出
  井上毅(いのうえこわし)法制局長官が、憲法草案を
 伊藤博文へ提出した。
  憲法についての着手は、1886年(明治19年)5月に、伊
 藤の呼びかけで始まり、
  翌・1887年(明治20年)5月のこの時に、憲法草案に甲
 案・乙案を伊藤へ提出された。
  ロエスレル(お雇い外国人、ドイツ法学者・経済学者)
 も、伊藤に出した草案を参考にして、憲法作成は始動し
 た。
  同年・1887年6月~1887年8月にかけて、夏島(現在の
 神奈川県横須賀市)にあった伊藤の別荘で作業を行い、
 伊東・金子も交えて4人で討論しながら、草案完成に向
 けて全力を尽くした。
  1887年10月に、高輪(現在の東京都港区)の伊藤の屋
 敷に移り、重ねて議論した。
  そして1888年(明治21年)4月27日に、草案が完成した。
  3日後の1888年4月30日に、伊藤は、首相を辞任し、代
 わりに憲法審議機関として枢密院を創設し、自身は、議
 長として引き続き憲法作成に取り掛かった。
  井上ら3名も、枢密院書記官として伊藤の側に仕えて
 憲法審議に参加した。
  (井上のみ、書記官長に就任、法制局長官も兼ねる)、
  顧問官に任命された政治家達と議論を尽くした末に、
  1889年(明治22年)2月11日に、大日本帝国憲法は公布
 された。
  因みに、1887年(明治20年)12月に、山縣有朋の提案
 で、伊藤が保安条例による強権発動におよび、憲法制定
 のため努力したとしても、政府と国会の衝突が不可避で
 あり、憲法が空文化するとして、井上毅は辞表を提出し
 た。
  これは、憲法草案作成中の第1次伊藤内閣を危機にさら
 すこととなったため、伊藤は、井上毅の慰留に努めた。
1887年5月23日、榎本武揚、佐野常民ら16名が、勲功により
 子爵を、高崎正風、井上良馨ら18名が男爵を授けられた。
1887年5月24日、黄綬褒章が制定された。
  黄綬褒章は、業務に精励し、他の人の模範となる者に
 授与される褒章で、日本の褒章の一つ。
  1887年(明治20年)に、初めて、臨時制定のかたちで、
 沿岸防衛事業に私財を献納する人に授与するとされた。
  (明治20年勅令第16号)、「私財ヲ献納シ防海ノ事業
 ヲ賛成スルモノニ授与スル」
  受章第1号は、中井新右衛門。
  これは、数年間続いたが途絶えた。
  そして、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)に、
 廃止された。
  その後、1955年に、褒章条例が改正された際、緑綬(
 りょくじゅ)褒章から「実業に精励して模範たるべき人」
 を切り離し、復活新設した黄綬褒章に当てることとなっ
 た。
1887年5月26日、三菱社が、日本初の鋼鉄製汽船の「夕顔丸」
 を竣工した。
  三菱炭坑社高島炭坑向け貨客船206トン、330馬力、
  1962年(昭和3年7)4月1日、船齢75年で廃船され、解
 体された。
1887年5月30日、文部省が、熊本に第5高等中学校(第五高
 等学校 (旧制))を設立を決定した。
  略称は「五高」(ごこう)。
  後進校は熊本大学。
  1887年5月、第五高等中学校設立され、本科・予科を設
 置した。
  1887年8月、長崎に医学部が設置された。
1887年5月、中江兆民 「三酔人経綸問答(さんすいじんけ
 いりんもんどう)」が刊行された。
  3人の思想の異なる登場人物、洋学紳士(紳士君)、豪
 傑君、南海先生が酒席で議論する物語。
  ヨーロッパ列強を批判して、完全民主制による武装放
 棄や非戦論などの理想論を展開する者に対し、
  反論する者が、中国進出を主張する。
  そして、その両者の論争を、現実主義的立場に立った
 者が調停するという構成。
1887年6月1日、首相の伊藤博文はじめ、井上毅、伊東巳代
 治、金子堅太郎が、憲法草案作成に、金沢海岸・東屋で
 取り組み始めた。
  井上毅は遅れて参加した。
1887年6月1日、司法省の法律顧問ボアソナードが、条約改
 正について意見書を提出した。
  ボアソナードは、条約改正検討案の裁判管轄条約案に
 反対する意見書を提出した。
  井上案は、主権を侵害しているとした。
1887年6月2日、監軍部条例(勅令第18号)が制定された。
  監軍部条例を改正して、監軍部を東京に置いた。
  監軍部条例が制定されて、教育総監部の前身である第
 二次「監軍部」が設置された。
  その任務は、「陸軍軍隊練成ノ斉一ヲ規画」する陸軍
 の教育を担当した。
  長官は、天皇に直隷する監軍(大将または中将)で、
 以下、参謀長(少将または大佐)、将校学校監(少将)、
 騎兵監(少将または騎兵大佐)、砲兵監(少将または砲
 兵大佐)、工兵監(少将または工兵大佐)、輜重兵監(
 少将または輜重兵大佐)が置かれた。
  監軍は、勅命により検閲使として軍隊を検閲する役割
 も担った。
  騎兵監などの各兵監は、それぞれの本科に関する調査、
 研究、審議、立案を担った。
1887年6月2日、軍事参議官条例が公布された。
  (明治20年勅令第20号)
  第一条:軍事参議官ハ之ヲ帷握ノ中ニ置キ軍事ニ関ス
     ル利害得失ヲ審議セシム
  第二条:軍事参議官ハ左ノ如シ
     陸軍大臣、海軍大臣、参謀本部長、監軍
  第三条:凡ソ事陸軍ニ関スルモノハ陸軍大臣参謀本部
     長監軍之ヲ審議シ海軍ニ関スルモノハ海軍大臣
     参謀本部長之ヲ審議ス
  第四条:凡ソ事陸海両軍ニ関スルモノハ各参議官ニ於
     テ之ヲ審議ス
1887年6月7日、長崎造船所が、郵便汽船三菱に52万7000円
 で払い下げられた。
  長崎造船所は、1857年、オランダ人技師の指導で、江
 戸幕府が建設した長崎鎔鉄所に始まった。
  1875年に、郵便汽船三菱会社(九十九商会が改称)が、
 横浜に三菱製鉄所を建設、船舶の建造・修理を始めた。
  明治政府官営から1884年三菱へ貸与され、官営長崎造
 船局を借用の形で、事業を継承して長崎造船所とし、
  1887年に、正式に払い下げられた。
  1907年、三菱合資会社に造船部がつくられ、造船業務
 を統轄したが
  1917年、独立して三菱造船(株)となった。
  そして、1917年の三菱造船独立後、その主力造船所と
 なり、
  日本の近代造船業の揺籃(ようらん)期から、長く日
 本造船業の造船技術、および、建造能力の首座を占め続
 けた長崎市にある、日本の代表的な造船所として輝かし
 い足跡を残した。
  日本造船業の代名詞的存在であって、現在も、三菱重
 工業の主力造船所として、世界有数の進水実績を誇って
 いる。
  造船技術の粋を集めた巨大戦艦(武蔵)を建造(1942年
 に完成)したのも、ここ(三菱重工業長崎造船所)であった。
  1857年(安政4年)、江戸幕府が長崎鎔鉄所を建設したこ
 とに始まるが、これは修理工場で、欧米の西洋型艦船の
 入港に対処するためだった。
.
   (今日の言葉)
.*
  題:都合よく・・情報は処理された、一触即発の時に・・、
.*
1941年12月7日、真珠湾の攻撃の直前のこと・・
  ハワイのアメリカの索敵機(さくてきき、敵軍の位置・
 状況・兵力などをさくる飛行機)は、日本が真珠湾攻撃
 する頃には、81機もあって、敵の襲撃を警戒していた。
  当然、日本とアメリカの戦端が、今日、開かれるか?
 明日、開かれるか?・・と、ピリピリしていた時は、最
 大の警戒態勢を敷かれていた・・
  ・・一触即発の時は最大の警戒体制が敷かれている「
 はずだった」・・が・・?
  何故か? 日本が、真珠湾攻撃をする時に限って・・
 ・・? 
  何故か? 2機しかが・・任務にあたっていなかった。
  さらに・・おかしなことに・・??
  それも、そのすべてが・・日本が来襲するであろう日
 本側を警戒していたのではなく・・
  日本が攻撃してくるであろう・・日本とは反対の側を
 警戒していた。
  こんなおかしなことが・・重なって起きていた。
  ハワイに、大きな守りの穴をあけていた。
  日本がハワイを攻撃するときに限って・・この様な状
 況がハワイの軍港では起きていた。
  これなら、日本の連合艦隊の大部隊が・・発見される
 わけがない。
  この様なヘンなことが真珠湾では起きていた。
  さらに・・
  「防潜網(ぼうせんもう)」というものがある。
  これは、鋼鉄製の網である。
  これは、潜水艦の侵入を防ぐために港の入り口や海峡
 の水中に敷設されたもので、
  アメリカは、当然、ハワイの大切な軍艦を守るために
 ハワイの軍港の入り口には、防潜網を張り巡らせていた。
  そして、普通に行われる、警報装置や機雷と連動して
 その潜水艦を攻撃する機能も持っていた。
  日本は、連合艦隊に先行して潜水艦を真珠湾に向かわ
 せていた。
  そして、真珠湾に近づいたとき、その潜水艦より、ま
 た、小さな潜水艦をも発進させて、真珠湾内に入って行
 こうとした。
  しかし、日本の潜水艦隊は、この防御網に阻まれた。
  当然、日本の潜水艦が、防御網に引っかかれば、アメ
 リカも知る所になる。
  日本がハワイを攻撃したとき、日本の連合艦隊が到着
 する前に、アメリカの駆逐艦が、日本の潜水艦と交戦し
 たという事件があった。
  これを、アメリカは、ひたすら、日本の潜水艦ではな
 かった、「クジラだ」「クジラだ」とした話がある。
  本当に、無理な不思議な話を、数多くアメリカはデッ
 チ上げている。
  この「クジラ騒ぎ」と、ハワイ真珠湾の最大警戒の神
 経の突先(とっさき)の潜水艦防御網に、潜水艦が引っ
 掛かったということ。
  当然、アメリカの駆逐艦がこの防御網の所に駆け付け
 ている。
  日本の潜水艦は、何隻も未帰還になっている。
  アメリカに駆逐されている訳であるが・・このすべて
 の交戦について、口にチャックが挟まれたようになされ
 た。
  アメリカの大切な航空母艦に限って、そのすべてが、
 真珠湾外に出ていたという偶然。
  日本の攻撃時に、日本の最大の攻撃目標だったアメリ
 カ航空母艦は、そのすべてが、偶然、真珠湾の外に出て
 いて、他のハワイ島の場所にいたという・・偶然の不思
 議・・、
  すでに、アメリカは、秘密裏に、中国と正式に日本と
 交戦状態にあったことも含め・・、
  日本のハワイ攻撃の時には、日本とアメリカは、中国
 を含め、真珠湾の日本の潜水艦とアメリカ軍艦との間で
 も交戦状態にあった。
  アメリカは、宣戦布告なき日本の攻撃と言うが(東京
 裁判では、宣戦布告書については、「単なる、事務上の
 遅れ」と判決している)
  この様なレッキとした交戦状態を、アメリカが、嘘を
 ついたり、秘密にしたりで・・、
  日本の「宣戦布告なき攻撃」が立ち上がって・・そし
 て、はじめて言える訳であって・・言われ得るという筋
 に入って来ているだけなのだ・・、
  まったく、アン・フェアなアメリカと言いたい。
  また、日本の交信のすべてを、暗号を解読していたア
 メリカは、日本の状況を完全に把握していた。
  秘密が最大級にされるべき、アメリカの日本大使館の
 通信も完全にアメリカは知っている、解読されていると
 いう状況の中、
  日本の連合艦隊も交信し発信するわけであるが、この
 動きも完全にアメリカに把握され、知られ、その動きは
 完全にアメリカの知る所となっていた。
  日本だって、ハワイにアメリカの主力艦隊が居ると知
 っていた訳だから、この時に、ハワイへ向かった訳だっ
 た。
  明日にも戦争状態になるだろうという敵の最大の主力
 艦隊の動向は最大の関心事で、ボケーっと見逃すわけが
 ない。
  四六時中、24時間、その動向は掴んでいた。
  日本の連合艦隊が、ハワイに近づきつつある中の交信
 も知る所となっていて、逐一、ハワイに近づいていると
 ころを、その交信の傍受により把握していた。
  そして、アメリカがやりたいことは、このズーット以
 前から、「日本を叩きたい」・・だった・・、
  特に、アメリカ大統領のルーズベルトは、その一点を
 重要課題としていた。
  しかし、アメリカのルーズベルトは、「戦争をしませ
 ん」と選挙公約して当選している大統領だった。
  その当時のアメリカ国民の方々には、第一次世界大戦
 の悲惨さから「戦争はしない」という世論が渦巻いてい
 た。
  その様なアメリカ国民の方々の気持ちに答えたものだ
 った。
  ルーズベルトは、何度も、何度も、「私は、戦争はし
 ない」とアメリカ国民の方々へ訴えた。
  この矛盾を抱えたアメリカ大統領・ルーズベルトだっ
 た。
  手のひらを返したように、大統領になったら「戦争を
 する」にできない大統領だった。
  そして、ルーズベルトの取られた方策が、『日本から
 先に手を出させる』だった。
  中国で、アメリカが先に手を出している事は秘密にさ
 れ(後日に、明白な史料が公開された。
  その史料は、アメリカ公文書館にある)。
  日本の「真珠湾の奇襲攻撃」は作り上げられた。
  アメリカの手中にあった日本は、そのすべてが、完全
 に明らかにされる中で行動していた日本のすべてが知ら
 れる中で、
  逆に、何も知らなかったアメリカが演出され、真珠湾
 は攻撃されたと、日本に攻撃された・・という、「虚空
 の嘘劇」が作られた。
  虚空:こくう、何ものもなく、空(くう)なること、
  アメリカ国民の方々の「正義感は掻き立てられ」、世
 論は、一気に戦争実施論に変えられて行った。
  ルーズベルトの言葉に、「私は戦争を作った」がある。
  すべての、何隻もの、日本の先行した潜水艦が、アメリ
 カによって「クジラ」にされたところから、アメリカの
 嘘が始まった。
  「子供だまし」の様な嘘話から始まった。
  撃沈された日本の潜水艦の、浮上した油や空気の泡も
 見ませんでしたとされ、また、撃沈された潜水艦も見ま
 せんでした・・にされた。
  都合よく・・情報は処理された、一触即発の時に・・、
..
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