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2015年6月6日土曜日

(増補版)124D1/3:気になった事柄を集めた年表(1664年~1666年)

題:(増補版)124D1/3:気になった事柄を集めた年表(1664年~1666年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1665年7月、諸寺社法を制定する。
  日蓮宗の不受不施派が弾圧を受けた。
  地下組織化の道をとった。
  内信といって外見上他宗他派を装う信徒も出た。
  明治政府によって禁制が解かれるまで続いた。
1665年、教育:山崎闇斎(やまざきあんさい、儒学者)が、
 会津藩主の保科正之の侍講となった。
1665年、旗本の困窮事情を調査し、番方の諸士に対して勤
 務手当を支給した。
1665年、制度:幕府に出していた人質を止めた(証人制廃
 止)。
  保科正之の提言によって、諸大名が幕府に出していた
 証人(人質)を停止した。
  幕藩体制も安定し、下剋上の世の中から転換していた。
1665年、日用座(ひようざ):江戸に日用座が置かれた。
  江戸市中の日傭(日雇、日用)人を管理するために設
 けた機関。
  世の中が譜代奉公から、口入屋(くちいれや)、桂庵
 (けいあん)、日用座(ひようざ)を通じて雇用される
 百姓や町人による給金を目的とした一季(いっき)、半
 季の出替(でがわり)奉公や月雇(つきやとい)、日雇
 へと移りかわって行った。
  最初、幕府は、軍役の確保のため譜代奉公につとめた
 のだった。
1665年、人事:水戸藩主の徳川光圀が、朱舜水を水戸に招
 聘した。
  朱舜水(しゅしゅんすい)は、明朝再興の運動に参加
 し、日本の支援を得るため、また、軍資金を得るため日
 本にも来た。
  また、南明政権の魯王を支援し、また、台湾の鄭成功
 も支援した。
  1659年7月の南京攻略戦にも参加した。
  しかし、復明が叶わないと、1659年に、日本へ亡命し
 た。
  筑後の儒者に援助されたりしていたが、この時に、
 水戸藩から招聘を受けた。
  水戸学への思想的影響を与え、大日本史の編纂にも参
 加した。
  山鹿素行らの学者とも交友した。
1665年、出版:浅井了意(あさいりょうい、仮名草子作者)
  浅井了意著の「京雀」刊行。
  これは地誌(自然・地形・気候・人口・交通・産業・
 歴史など様々な諸要素を記す)。
  著作が多い人、また、経歴の不明点が多い人(武士か
 ら僧侶になった)、仏書の注釈も多い、
1665年、出版:山鹿素行(やまがそこう、儒学者、兵学者)
  官学の朱子学の抽象性を批判して、古学を唱える山鹿
 素行の「聖教要録」がなった。
  江戸に出て儒学・兵学・神道・仏教・歌学などを修め、
 古学(論語・孟子などの経書の本文を直接に研究してそ
 の真意を解明しようとするもの)を提唱した。
1665年、流通:津軽藩が、初めて江戸に年貢米を廻送した。
1665年、ロンドンで気象観測開始。
1665年~1667年、第二次英蘭戦争。
  イギリスが、北米のオランダ植民地・ニューアムステ
 ルダムを占領したことが発端となって始まった。
  フランスが、1666年に、オランダと同盟を結んで宣戦
 布告した。
  この戦争が始まると、イギリスではペストが流行した
 り、ロンドン大火になったりして財政難に陥った。
  イギリスには、厭戦気分が漂った。
  イギリスは敗北していたが、フランスが南ネーデルラ
 ンド(現在のベルギー・ルクセンブルグ)に侵攻すると、
 オランダとの同盟関係が怪しくなった。
  オランダが、イギリスと協力するという方針転換が起
 きた。
  1667年7月にブレダの和約が結ばれ、戦争は終結した。
  フランスとも和睦した。
  オランダは、現在のニューヨーク州の北米植民地をイ
 ギリスへ割譲した。
  しかし、まだ、懲りない面々は・・?・・第三次の戦
 争へ・・
1666年、酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん、陶芸家)
 が没した(初代の柿右衛門、71歳)、
  肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、代々、この名は、世
 襲され、極めて高い技量も引き継がれて行った。
  乳白色の地肌に、赤色系の上絵を焼き付ける卓抜たる
 柿右衛門様式を確立し、世界へ衝撃的影響を与えた。 
  その作品は、ヨーロッパへも輸出され、マイセン窯で
 模倣品が作られるほどの影響を与え、
  また、磁器の発祥地である中国の景徳鎮窯へも影響を
 与えた(景徳鎮伊万里)、似た作品が作られヨーロッパ
 へ輸出されたほどだった。技術の日本だった。
1666年7月、徳川光圀が、由緒正しい寺院を支援し、保護す
 る趣旨から古刹や廃寺を修復したりした。また、新寺は
 壊した。
  神社についても同じく、修造を助けたりし、神主を京
 へ派遣して、神道を学ばせたりした。
1666年、経済政策:座・占売りを禁止する。
  業種など諸商品の座・占売りを禁止した。
1666年、経済政策:綿仲間が成立した。
  大阪三郷綿仲間が成立した。
1666年、1万石以下の従者数を削減する。
1666年、役料制を実施する(1665年~1666年)
  幕府が、役付きの者へ、その役職に対する手当てとし
 て支給した。
  蔵米で与えられた。
  初めは、武士の勤役は、領知、知行を給付されている
 ことに対する義務として行われるべきもので、特別な手
 当てを給されることはなかったが、
  困窮する者が少なくなかったため、役職に応じて一定
 の役料が支給されることになった。
1666年2月、治山治水:畿内と近国諸代官に水源と川筋の
 保護を命じた(諸国山川掟、しょこくさんせんおきて)。
1666年、令:草木乱伐・川筋新田・新規の焼畑禁止(諸国
 山川掟)
  幕府は、今・現代でも通じる法令を出した(諸国山川
 掟)である。
  賢明なる幕府の家臣は、森林の乱開発に心を痛めてい
 た。
  また、それが、土砂の流出の原因になっている事、災
 害の源になっている事を見抜いていた。
  山の上流の、木立が無き所には苗木を植えよと、
  もって土砂流出を防げと。
  また、土砂の流出によって災害に会いやすい所には、
 新田や田畑の耕作はするな・・と禁じた。
  幕府が、諸国山川掟を定め、草木乱伐・川筋新田・新
 規の焼畑を禁止した。
  この賢明なる法令を作ったのは、老中の久世広之、稲
 葉正則、阿部忠秋、酒井忠清の連名で発せられた。
1666年3月、酒井忠清が、大老となった。
  酒井忠清・阿部忠秋が老中を辞し、忠清は大老となる。
1666年、令:酒造制限令が出された(以後も出される)
  1642年に、寛永飢饉の対策の一環として、まず幕府領
 の農村に酒造制限令が出され、次いで全国の在方・町方
 に出されたのが始めとして、以後、幕末までに約60回
 発せられた。
1666年、出版:オランダ風説書(現存で邦文最古のもの)
 の初め。
  幕府が、海外情報収集のため、オランダ商館長に提出
 させた。
  幕府は、オランダ船が出島に来るたびに世界情勢の情
 報提供をさせた。アンテナをピンと張っていた。
  また、通詞が入港した船に出向いて聞き書きもした。
  オランダ人は、幕府が他の情報を持っていて、その情
 報と比較していることを知っていたので、かなり正確な
 情報を提供していた、また、そうせざるを得なかった。
  幕府の官吏がしっかりしているのに馬鹿にした書き方
 をしている情報があるから注意を要する。
  幕府の官吏は、同時に、オランダが、スペインやポル
 トガルと同様な領土的野心を持ったり、
  その様な野心を持つスペインやポルトガルと同盟した
 りしていないかなどの面もチェックしていた。
1666年、処罰:山鹿素行(やまがそこう)が罰せられた。
  幼少時に江戸に出て、林羅山に学んだ山鹿素行だった
 が、幕府は、この年に、山鹿素行を赤穂に配流した。
  山鹿素行の「聖教要録」が、幕府の朱子学批判にある
 ために、播州赤穂に幽閉した。
  後、許されて江戸に帰った。
..
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2015年6月5日金曜日

(増補版)123D1/3:気になった事柄を集めた年表(1662年~1664年)

題:(増補版)123D1/3:気になった事柄を集めた年表(1662年~1664年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1662年、呉三桂が、桂王を殺し、明は完全に滅亡した。
  この年に、ビルマまで逃げた桂王を捕らえ、これを昆
 明(雲南省)で殺した。
  これで明は滅亡し、清は呉三桂に『親王』の爵位を賜
 うことで報いた。
1662年、ボイル(イギリス)が、ボイルの法則を発見した
 (1661年説あり)。
  ロバート・ボイルの法則は、「温度が一定のとき、理
 想気体の体積は圧力に反比例する」。
1663年5月、令:殉死を禁じた。
  幕府が、武家諸法度を改定し、殉死を禁じた。
  また、武士諸法度改定で、公武婚姻、耶蘇教の禁止条
 項を加えた。
1663年、冊封使(さくほうし、中国で、冊封のために天子
 の任命書を持って近隣の国へ行く使者)
  清の冊封使が、琉球に来た。
  清が琉球王の進貢(しんこう、みつぎ物を献上するこ
 と)を認知し、冊封使を派遣し、「琉球国王之印」を授
 与した。
  冊封は、中国で、天子が臣下や諸侯に冊をもって爵位
 を授けたこと。
  冊は、昔、中国で天子が諸侯に領地や爵位を授ける時
 などの祭事に下したみことのり(詔)。
  詔(みことのり、しょう)は、天子の命令を直接伝え
 える文書。詔書(しょうしょ)。
1663年、榊原忠次(さかきばらただつぐ、播磨姫路藩主)
 が、井伊直孝に代わって大老となる。
  井伊直孝(いいなおたか)は、譜代大名で近江彦根藩
 の第2代藩主。
1663年、久世広之(くぜひろゆき、下総関宿藩主)が、老
 中となる。
  秀忠・家光の小姓をしていた、また、家綱の側衆にも
 なり(1653年)、若年寄になっていた(1662年)。
1663年、家綱が、日光社参した。
  日光社参は、日光山徳川家康廟東照宮に参詣すること。
  日光社参は19回実施されたが、内10回は将軍・家光だ
 った。
1663年、流通:雇船による江戸廻米の初見。
1663年、社会資本整備:水戸水道ができた。
  徳川光圀が、水戸の町の飲料用に石造の水道を造った。
  笠原の水源地から細谷まで全長10.75km。
  民の飲料水を心配する光圀だった。
1663年、社会資本整備:八ヶ郷用水
  岡山藩の八ヶ郷用水を開削する。
1663年、情報伝達:京都・大坂・江戸の三都の飛脚商が連
 合し、町飛脚を始めた(1664年説あり)
1664年、領地の比率:この頃の領地
  大名領72.5%、幕府直轄領15.8%、旗本領10.0%、そ
 の他1.7%、総計約3000万石、
  天領(幕府の領地の事)は、幕府直轄領と旗本領を合
 わせた領地。
  勝海舟編の「吹塵禄」の「天保十三年全国石高内訳」
 によると、天保13年(1842年)の天領は、総石高の14
 パーセントで、420万石だった。
1664年4月、諸大名に領地判物を与える(寛文の朱印改め)
  領知判物は、江戸幕府の将軍から全国の各藩主に宛て
 て出された『領地を安堵する文書』(寛文印知)。
1664年、制度:老中の連署制を定め(改め)、大事は連署
 し、小事は月番1名のみとした。
1664年、宗門改め:諸藩にも、宗門改めの役人を置くこと
 を命じ、これ以後、諸藩の各地でも、宗門改め帖が作成
 された。
1664年、情報伝達:定飛脚(江戸と京阪を結ぶ公用飛脚)
 業者が、町飛脚の営業を開始。
1664年、パリ天文台で気象観測を開始した。
1664年、オスマン帝国が、オーストリアを攻撃して敗れた。
  オスマン帝国は、1299年に、オスマンが建てたトルコ
 系イスラム国家。
  トルコの地はもちろん、北アフリカ、および、東ヨー
 ロッパ、カナンのキリスト教の地を含む、広大な国家だ
 った。
  1683年~1699年には、大トルコ戦争が起こっていた。
  そして、この年・1664年に、記憶に留めるべき敗北を
 喫していた。
  この戦いは、ハンガリー、ルーマニアをめぐる戦争で、
 オスマン帝国と神聖同盟(オーストリア・ロシア・ベネ
 チア・ポーランド)の戦いだった。
  この戦いの以後、オスマン帝国は衰退した。
  しかし、この時、新たな火種が生まれていた。
  それは、西のフランスにルイ14世と言う王が、領土拡
 大の野望を抱いていた。
  戦争の絶えない修羅の地のヨーロッパだった。
1664年、フランスも、イギリスがインドでうまいことをし
 ている事を、横目で見ていたが、
  自分も同じことをしたいと、この年に、遅ればせなが
 ら、ルイ14世の保護のもと、インド会社と呼ぶ団体を作
 った。
  そして、1674年にインドの東海岸のポンディシェリ(
 元フランス植民地)に根拠とする地を奪い、拠点とし、
  続いて、1688年に、カルカッタ付近にも根拠地を奪い、
 築き、商館を置いて、活動を始めた。
  そして、卑劣な事に、フランスまでもが、インド国内
 の反目する藩王どうしを争わせて、
  漁夫の利を得たりの、
  イギリスと同様な、汚い行為を真似したのだった。
 ..
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2015年6月4日木曜日

(増補版)122D1/3:気になった事柄を集めた年表(1660年~1662年)

題:(増補版)122D1/3:気になった事柄を集めた年表(1660年~1662年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1660年、社会資本整備・葛西用水
  幕府代官頭の伊奈忠次が、葛西用水を開削した。
  この年の秋、諸国に風水害が起きた。
1660年、名誉革命が起きた(イギリス)。
  あまりにも王の施政が悪い(悪政治の王様だったため)、
 王に加勢する者少なく、また、寝返る者もいて、血があ
 まり流れない政変となった。
  この血があまり流れない無血を名誉だと言った。
1660年、フックがフックの法則を発見した。
1661年、経済政策:銀札(ぎんさつ)発行
  越前藩が、銀札(藩札の始め)を発行した。
  銀札とは、銀貨との引き換えが出来る紙幣(兌換性が
 あると言える、今・現代の基軸通貨・米ドルは兌換性な
 し)。
  幕府の統制が緩やかなので、諸藩はじめ、旗本や組合、
 私人までもが発行した。
  主として西国に流通した。
  この藩札に先立って、伊勢、大和、河内、和泉、摂津
 などの地域で私札の発行があり、これが藩札を生む引き
 金になった。
1661年、関所女手形制が出される。
  この時代は、旅はそう簡単にできるという体制ではな
 かったが、信仰と楽しみであった伊勢参り、相州大山参
 り、四国八十八ヶ所遍路などは許され、庶民は出掛けた。
  それでも女性の割合は4~5パーセントだった。
1661年頃、風俗:島田・丸髷(まるまげ)
  島田まげや丸まげの起源は、元禄よりやや前の寛文ご
 ろで、これが普及したのが元禄であった。
1661年頃、流通:寛文年間に大阪と江戸を結ぶ樽廻船が始
 まった(大坂~江戸間の定期船)。
  菱垣廻船にならって開業した大阪の富田屋や摂津の毛
 馬屋などの船問屋は、大阪の船問屋たちに対抗できなく
 なったため、この頃(1661年~1673年)から駿河の200~
 400石積みの船を雇い入れて酒、醤油、酢、塗物、木綿、
 紙などを江戸へ運んだのが樽廻船の始まり。
1661年頃、芸術:浮世絵版画の開祖
  この頃、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、浮世絵師)が
 浮世絵版画を創始した。
  「見返り美人図」、歌舞伎や吉原の風俗などを肉筆画
 として制作した。
  狩野派や土佐派を学び、これを基礎にした。
  素朴な張りのある墨線の独特の画境を創った。
1661年頃、芸術:金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)
  この頃、江戸で金平浄瑠璃が流行した。
  怪力無双で多くの武功をたてた金平の武勇談が主題で、
 荒々しい人形の演出が江戸で人気を得た。
  江戸歌舞伎にも影響を与えた。
1661年、殉死の禁(追腹停止令)
  佐賀藩主・鍋島光茂が、殉死を禁じた。
  因みに、徳川型武士道は、「上方風の打ち上がりたる
 武道」と、葉隠武士道は非難した。
  この藩主・光茂の祖父の勝茂は、葉隠武士道の持ち主
 だった。
  家来の殉死に心を痛めていた光茂は、この年に、追腹
 停止令を出したのだった。
  光茂のこの令によって、殉死が出来なくなった光茂の
 家来・山本常朝(光茂の幼いころから側に仕え、情とし
 て殉死したくて仕方なかったのに、殉死できなくなって
 しまった)は、僧になって佐賀市北郊に隠棲した。
  そこを訪ねて来た若侍だった田代陣基に対し、常朝は
 話をした。それを陣基が記したのが「葉隠」。
1661年、文学:浅井了意「東海道名所記(とうかいどうめ
 いしょき)」刊行。
  万治年間(1658年~1661年)の成立。
  僧と青年が、狂歌や洒落を織り交ぜ、江戸から京都ま
 での道中記。
  駅間の里数、名所旧跡、産物などが詳細に記述されて
 いる。
1661年、鄭成功(ていせいこう、父は中国人、母は日本人)
 が、台湾を占拠していたオランダ人を駆逐し、追放した。
   7歳の時、父に招かれて明に渡る、裕福な家庭の人、
 父と共に明朝復興運動をし、大将軍(官軍の総指揮官)
 となり、隆武帝(明の王)から朱姓を賜わり、国姓爺(
 こくせんや)と呼ばれた。
1662年、松平信綱(まつだいらのぶつな、老中)が没する
 (1596年~1662年)、
  松平伊豆守信綱の呼称で知られる。
  また、「知恵伊豆」という俗称がある。
  家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた人。
  藩政では、川越城下の整備や野火止(のびどめ)用水
 の開削などを行った。
  また、明暦の大火後の江戸の都市開発や玉川上水の開
 削なども行い、幕閣の中心に居て優れた手腕を発揮した。
  茶人の小堀遠州と親交を持った。
1662年、酒井忠勝(さかいただかつ、大老)が没する(
 1587年~1662年)
1662年11月、金銀相場令を下した。
1662年、私塾:伊藤仁斎(いとうじんさい、京都の商家の
 生まれ)が、京都堀川に古義堂を開塾した。
  朱子学を学ぶも、批判的となり、本来の孔子の教えに
 戻る。
  自宅に古義堂を開き、公家・武家・町人など出自(で
 じ、人の生まれ)に関係なく広い人々が学びに集う。
  隆盛し、代表的私塾となる。明治まで続く。
1662年、若年寄を再置
  若年寄が再び置かれ、老中と若年寄の支配分掌を定め
 た。
  久世広之・土屋数直を任命する。
1662年、令:飯盛り女を禁じた。
  幕府が、宿駅に飯盛女のほか娼婦を置くことを禁じた。
  日本は本当に昔から女性を優しく扱った。その様な精
 神は昔からあった。女性の神が隠れて暗くなった世を嘆
 いた。遠い昔からその様な国だった。
  それに引き換え、キリスト教の生れた地は女性がまっ
 たく虐げられていた。
  また、ローマカトリック教会のバチカンは、身を売る
 女性が、大勢、廊下を歩いていた。大勢の私生児が生ま
 れる場所だった。また、その私生児の子供たちの争いも
 頻発した。その様な場所で、誰でもを平等に尊重する宗
 教が、教えが出来るはずが無い。1例が、インディオの方
 々の悲劇、この様な事例は、世界に満ち満ちている。
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(増補版)121D1/3:気になった事柄を集めた年表(1657年~1660年)

題:(増補版)121D1/3:気になった事柄を集めた年表(1657年~1660年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1658年、尾形光琳(おがたこうりん、画家、工芸家)が生
 まれた(1658年~1716年)
  フェノロサが、光琳を「世界最大の装飾画家」と呼ん
 だ。
  「燕子花図」(かきつばたず)六曲屏風、(国宝)
  「八橋図」六曲屏風二隻、メトロポリタン美術館
  「紅白梅図」二曲一双屏風、(国宝)
  「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(やつはしまきえらでんすずり
 ばこ、国宝)
1658年9月、江戸に定火消し役を設置した。
  4千石以上の旗本4人に火消屋敷(飯田橋、佐内坂、
 お茶の水、麹町)が与えられ、幕府直轄の組織を結成し
 た。
  寄合4名に火消し役が命じられ、与力6騎、同心30人ず
 つが預けられ、江戸定火消制度を創立した。
1658年、社会資本整備・物部川
  野中兼山が、物部川に山田堰を築造した。
  この秋に、諸国に風水害が起きた。
1658年、老中:稲葉正則(いなばまさのり)が老中となっ
 た。
  稲葉正則は、小田原藩第二代藩主で、祖母は春日局。
  黄檗宗の隠元と交流し、黄檗宗を外護した。
1658年、江戸大火と諸国風水害
  江戸大火と諸国風水害のため、酒造高を制限した(~
 1660年まで)
  また、酒造制限の理由のもう一つの理由は、幕府は、
 米の需要と米価調整の立場から、
  農民より貢租として徴収した米を換金して、幕府や領
 主の経済を支える財源としたので、
  米の需給と米価の動きにきわめて強い関心を持ってい
 た。
  そのため、米価調節の必要から酒造制限令を公布した。
  酒造で米の需要が増えれば、米は品薄となり、米価は
 上昇する。
1658年、間数絵図
  江戸町に間数絵図作成を命じた(万治間数絵図)
1658年、流通:年貢米の江戸・大阪への集中出荷体制が確
 立した。
  加賀藩が、「御召米」制度を実施した。
  藩士年貢米を藩政庁が一括購入集荷する(年貢米の江
 戸・大阪への集中出荷体制が確立)
1659年、大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が生まれた(
 1659年~1703年)、
  大石良雄(おおいしよしお)とも言う。
  播磨国赤穂藩の筆頭家老。忠臣蔵で有名。
1659年、井伊直孝(いいなおたか)が没する(1590年~
 1659年)近江彦根藩第2代藩主。大老。
1659年、江戸城
  江戸城の本丸御殿が、再建され、完成した(江戸城の
 復興)。
  ただし、天守閣は再建されず。
1659年、修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)が完成し
 た。
1659年、道中奉行を設置した(大目付の兼職)。
  初の道中奉行に、大目付の高木守久を任じた。
  五街道を管理し、宿場や飛脚など交通通信に関する行
 政にあたった。
  道中奉行を置き、五街道の整備を進めた。
1659年、幕臣の入番制を定めた。
1659年、明の儒者・朱舜水(しゅしゅんすい)が帰化(亡
 命)する。
  徳川光圀は、朱舜水を敬愛し、水戸学への思想的影響
 を与えた。
1659年、社会資本整備・両国に架橋(完成)した。
  明暦の大火(1657年)の後、幕府は市街地拡大のため
 に一帯を開発した。
  橋名は川をはさんで武蔵と下総の両国に架された事に
 ちなんでいる。
1660年、幕府と諸藩の窮乏の根本的な原因
  生産力の発達は、必ずしも領主財政の発展とは結び付
 かなかった。
  むしろ、それは、17世紀後期から顕著になった幕府と
 諸藩の窮乏の根本的原因となっていた。
  領主側の徴税力が相対的に低下して来ていた。
  また、商品数も豊富になり、それを買うための米価の
 上昇より、その他の物価の上昇の方が大きかった。
  武士の世界から、その商品を扱う経済の側にいる商人
 に世の動きが握られて行った。
1660年、農業:大規模な新田は商品作物栽培の場だった。
  領主側は、本田に商品作物の栽培を早くから禁じたが、
 治水土木技術の躍進によって、17世紀後半からは、従来、
 手が付けられなかった大河川の下流域などが、良質の新
 田として開発された。
  莫大な経費を投じた大規模は新田は、もっぱら商品作
 物栽培の場となった。
  こうして産業経済の発展の成果を、領主側は、十分、
 吸い上げる事が出来なくなって行った(米中心の石高制
 であったため)。
  この様な支配体制の盲点をついて発達した生産力の成
 果に潤ったのは誰だったか?
  一つは京・江戸・大坂、いわゆる三都の問屋・豪商に
 代表される町人層であった。
  近世初期の華やかな対外貿易の潮流に乗った貿易商人
 たちは、既に、経済界の主流から退いていた。
  新たな元禄期の経済成長の波に乗って出てきた商人の
 一つは、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門ら一攫千金
 の投機商人であったが、これはたちまち没落して消えた。
1660年、堀田正信:幕政批判者に対し、領地没収し、配流
 した。
  下総佐倉10万石の城主・堀田正信は、当時の幕臣らの
 施政が悪いと、今、世は上下ともに甚だしく困窮してい
 ると、
  そして、自分の領地を、困窮している旗本・御家人た
 ちに分配して欲しいという意見書を幕府に提出した。
  そして、無断で江戸から佐倉へ帰国した。
  幕府当局は、これを異常な行為・狂気の沙汰だとして
 領国を没収し、信州飯田へ配流した。
1660年、風俗:旗本奴と町奴・・
  17世紀後半に入ると、近世社会が確立して来ると、「
 かぶき者」も、次第に特定の集団に限られて来た。
  そこに出現した旗本奴と町奴。
  奴と言えば、武家の下級奉公人の事であるのだが、そ
 の家に代々住み付いて、子供の時から仕える譜代奉公人
 が禁止されたので、年期奉公人となり、
  その年季も短くなって、期間が1年とか半年という、い
 わゆる1期半期の出替わり奉公人に変わって行った。
  農村から都市へ流れ込んだ人たちは、親戚や知人など
 の身元保証人のない場合、人宿、あるいは口入と呼ばれ
 る者を頼って、奉公先を世話してもらった。
  彼らは、人宿の出居衆・寄子などと称された。
  この社会に「かぶき者」の風俗が継承された。
  人宿の主人が親分で、出居衆が子分となり、町奴の組
 が結成された。
  幡随院長兵衛は、口入の主人だったと推定されている。
  これに対し、旗本奴は、主要構成員は中下級の旗本や
 御家人、その次男・三男など、いわゆる部屋住の冷飯食
 や浪人などであった。
  これら無頼の武士や奉公人などが、集団を結成し、喧
 嘩・博打で市街を騒がせたが、その舞台は、もっぱら新
 吉原などの遊郭に限られるようになった。
  彼らには、初期の「かぶき者」の持っていた上からの
 秩序形成に対する横の団結による抵抗の精神は消え、都
 市生活における退廃性を濃厚にしていった。
..
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2015年6月3日水曜日

(増補版)120D1/3:気になった事柄を集めた年表(1655年~1657年)

題:(増補版)120D1/3:気になった事柄を集めた年表(1655年~1657年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1656年10月、浅草に鋳銭座(ちゅうせんざ)を設置された。
  鋳銭座は、銭貨の鋳造と発行を行った機関。
  銭座(ぜにざ)とも言う。
1656年、琴・生田流
  生田検校(1656年~1715年)が生まれた。生田流を起
 こし、ついで、寛政年間に、山田検校(1757年~1817年)
 が山田流を開いた。
1656年、社会資本整備・市之堀用水が完成した、
  宇都宮藩の山崎半蔵は、流水量の豊かな鬼怒川から市
 之堀用水を引いた。
  新田開発のための用水だった。10年を要した。
1656年、制度・町名主制
  江戸の町名主制が強化された。
  農村を統制する名主に対して、町名主と呼んだ。
  家康が、1590年に江戸に入った時、既に江戸にいた者
 から取り立てたり、家康が入国後に命じたり、新たな町
 が建設されるに際してなる者がいた。
  訴訟の和解なども行った。
1656年、体制転換:知行制から俸禄制へ転換
  鳥取藩が、知行制を改革した。
  諸藩で地方知行制の廃止し、俸禄制への転換をした。
  家臣に領地を与え、または、本領安堵をし土地支配権
 を認める知行制(家臣が、知行地の農民に対して直接に
 個別的に年貢の取り立てをする)に替えて、
  武士の給与を俸禄とし、大名が土地支配権を一括して
 担う傾向が強くなった。
  俸禄として米や貨幣を与えた。
1656年、盗賊取締り
  関東の盗賊取締りのため、5人組の規制を強化した。
1656年12月、吉原移転
  吉原に移転命令が出た。
1656年、酒井忠勝(さかいただかつ、若狭小浜藩主)が、
 大老の職を辞した(隠退)。
1656年、清が、商人の出海貿易を禁じた。
1657年3月2日~4日、明暦の大火(振袖火事)
  火元は1ヶ所ではなかった。
  本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生した。
  一つ目の火災が収束しようとしている所へ、次の火災
 が発生し、江戸市街の6割が焼失した。
  前年の11月から雨が無く、非常に乾燥していたという。
  北西からの風が強かったという。
  3月2日、14時頃、本郷より出火し、神田・京橋方面に
 燃え広がり、隅田川対岸にまで及んだ。
  3月3日、10時頃、小石川から出火、飯田橋から九段一
 体に延焼し、これによって江戸城が天守閣を含む大半が
 消失した。
  3月3日、16時頃、麹町より出火、南東方面へ延焼し、
 新橋の海岸に至って鎮火した。
  死者、3万~10万人、
  放火説がある。
  幕府は、米蔵から備蓄米を放出し、食糧の配給をした。
  また、木材などの騰貴を押さえるため、木材や米の価
 格統制をした。
  また、武士・町人を問わない復興資金の援助をした。
  老中の松平信綱は、合議制の先例を廃して、老中首座
 の権限を強行して、1人で諸大名の参勤交代を停止し、ま
 た、早期帰国などの施策を行って、災害復旧に力を注い
 だ。
  また、信綱は、米などの物価騰貴も見越して、旗本ら
 に救済金を渡した。
  大火後、町割りを改正した。
  本丸は、翌年、再建された。
1657年3月、林羅山(林道春)が没した(1583年~1657年)
1657年3月、新井白石(あらいはくせき、旗本・政治家・
 学者)が生まれた(1657年~1725年)
  開幕以来、長崎貿易で大量の日本の金銀が海外流出し
 ていたため、これを縮小する政策を取った(海舶互市新
 例、かいはくごししんれい、1715年)。
1657年、三間梁規制
  大火の後、梁間を3間(約5.4メートル)に制限した。
  瓦葺禁止(火事の際に、瓦が落下して怪我をするため
 との事、江戸の民家は板葺や草葺が多かった、しかし、
 防火性の向上の為、土蔵には瓦葺屋根が認められた、8
 代将軍の吉宗の時に、瓦葺禁止令が全面廃止となった)。
  本町通り・日本橋通りで、庇による街並みの統制を図
 った。
1657年、大火後の独占
  幕府は、江戸の商人組合が、何かと申し合わせをして
 独占的な行為に走るので、それを禁じたが、
  その対象となった組合20種の中に『物之本屋』も入っ
 ていたので、出版業者(販売も兼ねていただろう)も、
 江戸の主要業者の仲間入りをしていたものとみられる。
1657年、江戸大火後の再建に際して、各地に広小路・火除
 地を設けた。
1657年、木材が急騰した。
1657年4月、大日本史の編纂に着手
  水戸藩主の水戸光圀が大日本史の編纂を開始した。
  明暦の大火で江戸・小石川の藩邸が焼失したために、
 駒込の別邸へ移り、ここで編纂事業を開始した。
  1672年からは編纂事業を本格化した。
  史館を再建し、史館員を各地方へ派遣し、史料収集に
 努めた。
  明朝遺臣の朱舜水を招聘して助言を受けた。
  光圀が亡くなった1701年以降も、編纂事業は継続され
 た。
  しかし、江戸時代中には完成せず、明治39年(1906年)
 に完成した。249年を要した大事業だった。
1657年7月、幡随院長兵衛(ばんずいんちょうべえ、町人、
 旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領)
  旗本奴の水野成之(みずのなりゆき、水野十郎左衛門)
 が、町奴の幡随院長兵衛(日本の侠客の元祖といわれる)
 を殺した。
  十郎左衛門は、この件では御咎めなしであったが、後
 に(1664年)行跡怠慢で母の実家・蜂須賀家にお預けに
 なった。翌日、評定所へ召喚されたところ、月代を剃ら
 ず着流しの伊達姿で出頭し、あまりにも不敬不遜である
 として即日に切腹となった。享年35歳。
1657年9月、株仲間(かぶなかま)の独占禁止をする。
  株仲間は、幕府や諸藩の許可を得た独占的な商工業者
 の同業組合だが・・、
  幕府は、外国貿易品統制や、良品の製作販売、価格統
 制などの目的から保護政策をとった。
  幕府は、当初は楽座(らくざ)政策をとって、座や仲
 間の申し合わせを禁じた。
  しかし、実際には仲間が組織されていた。
  幕府は黙認していた。
  しかし、この年に、商工業の組合を禁止した。
1657年、大八車の導入
  普請に大八車が導入された。
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2015年6月2日火曜日

(増補版)119D1/3:気になった事柄を集めた年表(1652年~1655年)

題:(増補版)119D1/3:気になった事柄を集めた年表(1652年~1655年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1653年1月、社会資本整備・玉川上水
  玉川上水工事が、この時、許可され、4月に着工された。
  翌年に完成した(幕府による飲料水不足のこの解消計
 画は、1652年11月から始められていた)。
  江戸の六上水の一つ。
  庄右衛門・清右衛門(玉川兄弟)が工事を請け負った。
  資金は、公儀6000両が拠出された。
  1722年以降、新田開発のため多くの分水(用水路)が
 開削され、武蔵野の農地へ水を供給した。農業生産量が
 増大した。
1653年、歌舞伎が許可された。
  歌舞伎興行が許可され、野郎歌舞伎が始まる。
  衆道(しゅどう)の売色を兼ねていたため、弊害があ
 ると1552年に禁止されていたが、若衆の象徴である前髪
 を剃り落して野郎頭になる事と、扇情的な舞や踊りでな
 く「物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)」を演
 ずる事を条件として、1553年に、再開を許された。
  以後、「野郎歌舞伎」と称する。
1653年、経済政策・秤座
  幕府の許可で、全国の秤の製造・検定・頒布を独占し
 た座の秤座を設けた。
  東33国は守随氏が、西33国は神(じん)氏が管掌(か
 んしょう、自分の管轄の職務として責任をもって取り扱
 うこと)し、その秤を使用させた。
1653年、家綱の御側衆専任(側近、そっきん)を置く。
  酒井忠清を老中(上座)とする。
  将軍の就寝中の当番、警護、持ち込まれた政策などの
 取次いだ。
1653年、直訴・下総佐倉の農民・木内惣五郎(佐倉宗吾)、
 領主の苛政(年貢引下げ)を幕府に直訴して処刑された。
  この頃、村役人主導による「代表越訴」型、成立した。
   村役人とは、代官や郡奉行の指揮を受けて、村落の
 管理・運営にあたった者。
1654年6月、社会資本整備・玉川上水が完成した。
1654年8月、黄檗宗(おうばくしゅう)の明の僧・隠元(い
 んげん)が懇請されて、来日した。長崎に着いた。
  1658年に江戸に赴き、将軍家綱に謁見し、
  翌年、幕府の強い要請で永住を決意、
  将軍家綱から宇治に土地を与えられ、黄檗山万福寺を
 創建した。
  宗教だけでなく、文化・教養・建築など広い影響を与
 えた。高い徳のある人だった。
1654年、禁裏造営
  5万石以上の大名が禁裏造営の費用を出した。
1654年、経済政策・米手形売買を禁止した。
  幕府は、蔵元に触れを出して、米手形による売買を禁
 止した。
  確かに、重い米を持ち歩くより米手形の方が良かった
 のだろう、しかし、その米手形自体が、転々と売買され
 始めたりしていた。
  そして、その手形は完全に履行されるのだろうか?の
 問題である。
  契約不履行のリスクがあるという事である。
  ここを、幕府は、心配し、問題としたのだろう。
  兌換性はあるのだろうか?
  流動性の高い商品の米におけるこの動向を、幕府は、
 経済政策安定のために、この処置をしたのである。
  しかし、近年の研究の結果、
  堂島米会所の存在によって担保されていたという結果
 が出た。
  ここでの清算が、可能性がある機関だと言えたのだ。
  幕府と米商人の双方によって、自覚的に設計されて、
 取引統制の制度として存在していると結論された。
  堂島米会所では、先物取引もなされていた。
  因みに、今・現在の英国ポンドは兌換できるが、米ド
 ルは兌換できない(ただの紙になるリスクがある)。
  米ドルの基軸通貨にいる現在のポジションも、10年以
 内に転落するだろうと言う知識人が居る。
1654年、交通・関所通交規制ができた。
  江戸時代には、各地に関所や口留番所が設置され、人
 の移動は厳格に制限され、通行手形が必要だった。
  公用・商用の旅、参詣や湯治などの遊行、女性の場合
 には婚姻や奉公など様々な理由での旅があるが、一般に
 庶民の旅行は自由ではなかった。
  しかし、伊勢参りの旅については、例外的に無条件で
 許されていた。
  その他、日光東照宮参詣、善光寺参詣など、有名寺社
 の参詣旅も概ね許されていた。
  武家の女性は、移動について庶民よりも厳しく、女手
 形が必須であった。
  通行手形の発行は、武士の場合は藩庁に申請した。
  庶民の場合は、在住地の町役人・村役人、または、菩
 提寺に発行を申請した。
1654年、芸術・土佐光起(とさみつおき)が、宮中御用絵
 師となった。(1617年~1691年)「源氏物語絵巻」
  京都御所造営では、襖絵、杉戸江を制作した。
1654年、社会資本整備・赤堀川
  栗橋から関宿への赤堀川に通水し、利根川流路が江戸
 川から銚子方面に変更した。
  幕府は、水運のために、赤堀川の河床を掘り下げ、疎
 水し、利根川の瀬替えをする。
1655年2月、かぶき者を捕らえる。
  京都市中法度を公布し、かぶき者を取り締まった。
1655年、貿易・糸割符(長崎割符の制を定める)
  オランダ人の糸割符制を廃して、相対貿易とした。
1655年、交通・宿駅人馬・新銭売買条例が出された。
  「諸令類彙(るいい)」に、
  「寛永の新銭金子一 両に四貫文、勿論一分には一貫文
 売買となるべし。
  若し違背を致し、高下売買仕るに於 いては、
  双方よりその売買の一倍を過料として出すべし」とあ
 る。
  また、「大かけ(欠け)、われ(割れ)銭、かななし
 (文字等不明)、なまり銭、新悪銭、このほかこれを選
 ぶべからず。若し、右五銭を押しつけ、随う者は、その
 前に三日曝し、或いは籠舎と為すべし」と厳しいお達し
 となっている。
  経済政策安定に必死に取り組んだのだろう。
1655年、芸術・この頃、野々村仁清(ののむらにんせい、
 陶工)が色絵の技法を確立し、京焼を開いた。
  仁和寺の門前に御室窯(おむろがま)を開いた。
  初めて作品に自分の名の署名をし、作家意識のある芸
 術家だったと言える。
  「色絵雉香炉」(国宝)、「色絵藤花図茶壺」(国宝)
1655年、社会資本整備・野火止用水
  武蔵野の野火止用水が開削される。
1655年、出版・道中記
  この頃、東海道と木曽路の現存最古の「道中記」が出
 版された。
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(増補版)118D1/3:気になった事柄を集めた年表(1651年~1652年)

題:(増補版)118D1/3:気になった事柄を集めた年表(1651年~1652年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1651年、制度:六人衆(若年寄)を廃止した。
  「六人衆」として老中に次ぐ重職として、1633年に、
 家光が側近の6人(松平信綱、堀田正盛、三浦正次、阿部
 忠秋、太田資宗、阿部重次)を任命したが、
 この年・1651年に、廃止となり、職務は、老中に吸収さ
 れた。
  しかし、その後、1662年に、「若年寄」として復活し
 た。4人を定員とした。
  次への出世の経験職となった。
1651年、農民支配:給人(藩士、藩から知行所を与えられ
 ている人)の農民支配に藩政庁が介入し、
  年貢率の公定・農政機構の整備を実施、藩の政治・経
 済単位としての自立性を強めた。
  世の中は、様々は商品が生産される場になったが、
  幕府や藩の支出も増大傾向に向かった。
  しかし、収入の米の価格は、これ等の商品に比べて下
 落し、幕府や藩の収入の目減り現象が起きていた。
  貨幣の改鋳などで収入も図っていた。
  また、大商人への借金で急場をしのいでいた。
  貨幣経済が発達した、貨幣による取引の社会だった。
  武士は、武芸に秀でるより、領国管理の人とならなけ
 ればならなかった。それが求められた。
  知識を得る必要性が増大した。世は太平であった。
  その様な世の中において、生活に困る藩士もいて、百
 姓から与えられた知行高よりも多く集めようとする藩士
 も出て来た。百姓も貧しくなって行った。これへ藩は介
 入した。
1651年、加賀前田家で「改作仕法」を開始した。
  加賀藩が、1651年から1656年にかけて農政を中心に藩
 政を改革した。
  藩の財政は困窮していた。
  藩政に携わっていた前田利常は、財政立て直しのため
 農地改革を実施した(改作仕法)。
  田畑の土質の違いで出来具合が違うので、生産物の出
 来具合で租税率を決めた。
  また、米を貸す制度(作喰米の制度)を作った。
  農政の専門の奉行も置いた。
1651年、法令、「家売買の儀、名主と五人組の加判で売買
 すべし」・・、
  名主が相続・土地問題に加わって来る。
  河判(かはん)とは、公文書に判を加えたり、連判・
 合判したりすること。
1651年、幕閣首脳が、浪人問題を協議した。
  幕閣首脳者による、浪人の再仕官の斡旋も行われる様
 になった。
  町奉行の石谷貞清(いしがいさだきよ)は、終生で
 1000人もの浪人を、諸家に世話をしたという。
1651年、人事:家光の実弟・会津藩の保科正之が、家光の
 遺言で家綱の補佐となった。
  家光は、死に臨んで枕頭に正之を呼び、
  「肥後よ、宗家を頼みおく」と言い残した。
  感銘した正之は、「会津家訓十五箇条」を定めた。
  第一条は、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在で
 あり・・」とあり、
  以降の藩主と藩士は、共にこれを忠実に守った。
  幕末の藩主・松平容保も、この遺訓を忠実に守り、会
 津戦争(何と、200年以上も後の1867年)で薩長と戦う、
 正義の道へつながる流れの中にあった。
1651年、松平定政事件が起こる(幕政批判で処分)
  三河刈谷藩主の松平定政(家康は叔父にあたる)が、
 旗本の窮乏を救うために、
  上知(あげち、幕府が知行地を没収すること)を願い
 出て、出家した。
  改易された。
  領地・居宅・諸道具の一切を返上し、旗本救済に当て
 てほしいとする旨を、大目付に提出した。
  また、やんわりと幕政を批判する書を、井伊直孝(家
 光の信望厚かった人)へ提出した。
  まだ、将軍が変わったばかりでもあったので、幕府は
 世を惑わすとの方向で受け取った。
  所領没収、永蟄居となり、本家筋にお預けとなった。
  この事件は、次の事件の引き金にもなった。
  1660年に、定政の姪の婿にあたる堀田正信(下総佐倉
 藩・藩主)が定政と同じような事をした。
  幕政批判の上書を、幕閣へ提出した。
  正信も、定政と同じ様に、所領没収のうえ、永蟄居と
 なり、弟の所にお預けとなった。
  定政の事件が遠因となっていると言われている。
1651年、慶安の御触書公布、
  裏付け資料が現存してないので偽書説があったが、
  古写本から、甲府藩の「百姓身持之覚書」から諸国へ
 広まったものと考えられている。
  目的は、年貢の徴収を確実にしたいだった。
  故に、田畑の売買禁止や、米以外の作物の栽培禁止だ
 った。
  贅沢を戒め、農業や家業に精を出すように・・、
1651年、魔女の処刑で、その珍奇さを現わしている刑に
 「煮沸刑」がある。
  ナイッセ(ドイツ)の処刑史には、「蒸し焼き炉」を
 設計し、この年に42人、
  これに続く9年間に、2歳から4歳までの幼児を含む
 1000人以上の人間をこの炉で蒸し殺したと記録されてい
 る。
  その他、想像を絶する、多種多様な残虐刑が記録され
 ている。
  例えば、罪人の四肢を一本ずつ結びつけた4頭の馬を、
 四方に走らせて四つ裂き゚にするという刑まで作っている。
1651年、イギリス航海条例が結ばれた(クロムウェル航海
 法)。
  イギリスが、自国船による貿易独占をしたいと作った
 条例。
  イギリス植民地におけるオランダの交易を禁じた(外
 国船排除)。
  オランダ船の締め出しであった、
  これは英蘭戦争の原因となった。
  イギリスは、法律をつくればよいのだの姿勢で、世の
 中に通らない行為を法律として、不正を働く癖のある国
 である。
  インドがこの方法で、嫌というほど痛めつけられる。
  法律があるから正義だと言って、不正義な行いをする。
  英国とその植民地に運送されるヨーロッパ以外の地の
 産物はイギリス船で輸送すること・・だった(独占)。
1652年10月、浪人改め令が下る。
  幕府が、江戸市中の浪人を改めた。
1652年、社会資本整備・仁淀川
  高知藩の野中兼山が仁淀川に広岡堰を造った。
1652年、風俗・旗本奴・町奴流行
  この頃、旗本奴・町奴が流行し、幕府の取締りを受け
 た。
  旗本奴と町奴との間には抗争が絶えなかった。
  厚く綿を入れた広袖(ひろそで)で丹前風呂に通う客
 の風俗の町奴、
  そして、用いる刀を白柄にするなど、好んで替わった
 姿をした旗本奴だった。
1652年、令・若衆歌舞伎を禁止した。
  前髪を付けた美少年による舞踊を中心とした歌舞伎が、
 女歌舞伎の禁止のあとに台頭した。
  容色を売りにした。
  幕府は、女歌舞伎にかわって登場したこの若衆歌舞伎
 を禁止した。
1652年10月、事件・老中暗殺を計画
  戸次庄左衛門らが、老中暗殺を計画して捕らえられた
 (承応の変、じょうおうのへん)
  浪人の別木庄左衛門らが、徳川秀忠夫人の27回忌が増
 上寺で営まれる機会をとらえ、放火して金品を奪い、老
 中を討ち取ろうと計画した。
  この計画も、密告によって、別木庄左衛門らは捕らえ
 られ、処刑された。
1652年、この頃、最初のコーヒー店がロンドンに作られた。
1652年~1674年、イギリスは、世界の制海権が欲しいと、
 スペイン(イベリア)を駆逐した。
  そして、その後、オランダをターゲットにした。
  イギリスは、この期間、オランダに3度も戦争を仕掛け
 た。無法のイギリスだった。
  それまで、「海洋の幸福なる所有者」と言われていた
 オランダは、制海権を苦も無くイギリスに奪われてしま
 った。
  えげつなくイギリスは、次のターゲットをフランスに
 して、機会を狙った。
1652年~1654年、第一次英蘭戦争。
  イギリス(イングランド艦隊)は、東インドなどから
 アジアの富を満載して帰国するオランダ船団を、イギリ
 ス海峡(英仏海峡、北端にはドーバー海峡がある)で襲
 撃し、拿捕し始めた。
  富の横取りである。
  制海権の争奪となった。
  当時、オランダは、世界一の造船能力があったが、輸
 出に力を入れていたが、大艦隊は持っていなかった。
  それでも、小艦隊のオランダ艦隊は、いつもスペイン
 艦隊には勝利していた。
  武力が闊歩する低劣な輩たちの時代だった。
  オランダの沿海が、水深が浅いのも理由だった。
  オランダは、制海権を失った、イギリスに奪われた。
  オランダ艦船は、スコットランドの北を大回りして帰
 国しなければならなくなった。
  イギリス海軍は、オランダ諸港の封鎖を続けた。
  貿易国のオランダは大打撃を受けた。
  1652年~1654年にかけて戦われたこの戦争も、1654年
 のウェストミンスター条約で終わった。
  損害:
  イギリス・死者2500人、軍艦10隻沈没、7隻拿捕、
  オランダ・死者3000人、33隻沈没、18隻拿捕、・・が
 しかし・・、第二次の戦争へ・・
..
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2015年6月1日月曜日

(増補版)117D1/3:気になった事柄を集めた年表(1649年~1651年)

題:(増補版)117D1/3:気になった事柄を集めた年表(1649年~1651年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1649年、交通:一人旅の者の宿泊の制を定めた。
1649年、軍役規定を改定する。
  石高に応じた軍役基準を制定した。
  (しかし、案のみで発布されなかった)。
1649年、令:3階建が禁止
  江戸で3階建ての町屋が禁止となった。
  この後の、享保の改革では、「家作り、なるべき成(
 軒高)はひきく(低く)建て」ることを市中に要請した。
1649年、若年寄の職掌が廃止され、老中に移された。
1649年、清教徒革命(ピューリタン革命、イギリス)
  国王を処刑し、共和制を確立した。
  この年には、アイルランドを征服して植民地とするな
 ど、新興の市民階級の利害関係が背後にあった。
1650年、世界人口が5億人になった。
  この頃は、2億人増えるのに650年かかっていた。
  今・現在は、約3年で2億人増えている。
  今・現在(2015年6月1日)、世界の人口は約72億5800
 万人と予測されている。
  世界中で、1年間で6000万人が亡くなり、1億3000万人
 が生まれている(7000万人の増)
  365年前の1650年の世界の人口は、5億人だった。
1650年9月、農民の鉄砲所持を禁止した。
  猟師は許されていた。
1650年、交通:中原街道、大山街道筋が発展した。
1650年、お蔭参り
  最初の本格的、大規模な伊勢お蔭参りの流行。
  伊勢神宮に対する信仰が年ごとに高まっている。
  庶民は、平和を実感する社会だった。
  この年3月から5月に、箱根の関所を通過した伊勢へ向
 かう民は、1日2500人から2600人に及んだとある(寛明
 日記)
1650年、世情:百姓一揆の少ない時代だった。
  この頃の、17世紀の中期の20年ばかりは、百姓一
 揆が、最も少なかった。
1950年、農業:新興富農の台頭
  都市の問屋商人と同様に、農村においては、地主層が
 次第に富力を蓄積して行った。
  商品作物の栽培にみられるように、17世紀中葉以降、
 農村においても商品経済の発展は都市以上に甚だしかっ
 たとも言える。
  商品経済の新しい波に乗り得た者は上昇した。
1650年、家光が、家綱を世子(せいし、跡継ぎ)と定める。
  家綱が将軍の世子として西ノ丸に入った。
  家光には、自分の将軍・跡継ぎで揉めた事が心にあっ
 たのだろう。
1650年、久留島氏は、もともと伊予の来島(くるしま)水
 軍の大将で、豊臣政権下で1万数千石の大名になり、朝
 鮮戦役の時に、水軍の一将となって出陣し、朝鮮の水師
 提督・李舜臣と戦って、当主の兄弟とも戦死した。
  徳川幕府の早々の時の大方針の一つに、水軍を絶滅さ
 せることにあった。
  織田・豊臣家の水軍である熊野水軍の九鬼(くき)氏
 を、丹波の山奥に移封させたように、
  久留島氏も、この豊後森(大分県)というような海と
 まったく無縁の山奥に移された(街道をゆく8)
1650年、社会資本整備、美濃・伊勢の堤防
  風水害を受けた美濃・伊勢の堤防を修築した。
1650年、出版:朱子学的合理主義からの日本史である林羅
 山の「本朝通鑑(ほんちょうつがん)」の神武朝から宇
 多朝までが完成して、幕府へ提出したが、明暦の大火で
 焼失した。
   幕府が編集する歴史書。
  徳川家光の命によって始められた。
1651年4月、家光が没する(48歳)
  江戸幕府の体制を完成させた人。
  また、補佐役が優秀であったこと、または、補佐役の
 仕事を引き出し、引き立てる人だったとも言える。
  新旧重臣のバランスを取るのが上手かった人。
  民や組織を支える旗本などへも配慮した心があった。
  家光が没して、わずか11歳の家綱が後を継いだ(将
 軍の宣下を江戸で受けた)。
  また、家光が没して、老中の堀田正盛と阿部重次らが
 殉死した。、
1651年7月、由比正雪(軍学者)の乱(慶安の変)
  家光の政治で、多数の大名が改易され、また、減封さ
 れ、浪人が増えているという世情であった。
  この様な世情の中では再度の仕官は難しかった。
  その様な時において、当然、政治に対する風当たりは
 強まって行った。
  浪人の中には、盗賊や追剥行為へと身を落とす者も多
 かった。
  正雪は、その様な時代の中で、浪人の支持を得た、浪
 人たちも集まった。
  この様な中で、病没した将軍と、後を継いだ将軍が幼
 君であるというこの時、
  由比正雪・丸橋忠弥らの浪人らは、幕府転覆、浪人救
 済を旗印として行動を開始した。
  江戸・京都・大阪で決起する、そして、天皇を擁して
 討幕の勅命を得て、討幕するという計画だった。
  しかし、密告され、計画は露見し、叛乱の計画の廉(
 かど)で、忠弥は江戸で捕縛され、
  正雪は、江戸を発って駿府で、駿府奉行所の取り方に
 宿を囲まれた中で、自決、
  大阪で、正雪の自決を知った金井半兵衛が自害、
  そして後、忠弥は処刑となった。
  駿府で自決した正雪の遺品の中に、紀州藩主・徳川頼
 信の書状があった。
  これは偽物とされたが、頼信は、謀反の疑いをかけら
 れた。
  幕府は、背後関係を徹底的に捜索した。
  頼信は、10年間、紀州への帰国が出来なかった。
  10年の後に、頼信は、この変の疑いは晴れて、帰国が
 できたが、和歌山城の増築工事は中止しなければならな
 い情勢だった。
  徳川頼信は、後に、幕政批判の首謀者として失脚させ
 られている。
  武功派との派の争いが背後にあった。
  また、幕府は、各藩に浪人の採用を奨励した。
  そして、幕府の政治は、武断派から文治政治へと移行
 して行った。
  正雪の考えた方向へと幕政は向かった。
1651年12月、大名支配:末期養子を許した、
  大名と旗本の50歳未満の者に末期養子を許した。
  浪人発生の防止のためだった。
  また、浪人の江戸追放を中止した。
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2015年5月31日日曜日

(増補版)116D1/3:気になった事柄を集めた年表(1642年~1649年)

題:(増補版)116D1/3:気になった事柄を集めた年表(1642年~1649年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1643年3月、田畑永代売買禁止令(でんぱたえいたいばい
 ばいきんしれい、17ヶ条)
  前年の寛永の大飢饉で、幕府は、本格的な農政改革に
 乗り出した。
  この令は、百姓の没落を防ぐ目的があった。
  勘定奉行4名の連署で、土民仕置き覚えを公布し、田
 畑の永代売買を禁止した。
1643年、トリチェリとビビアニ(イタリア)が、「トリチ
 ェリの真空」を発見した。
  水銀気圧計も発明した。
1644年、松尾芭蕉(まつおばしょう、俳諧師)が生まれた
 (1644年~1694年)、
  伊賀国(三重県)で生まれた。
  名字・帯刀を許されていたが、身分は農民とも、また、
 一族は平氏の末流とも・・?
  北村季吟に師事し、俳諧の道へ、紀行文:「奥の細道」
  奥の細道は2,400キロメートルの歩程だった。
  焼香に駆け付けた門人は80名だったという。
1644年8月、土井利勝(どいとしかつ)が没した(1573年~
 1644年)
  秀忠の老忠として、絶大な権勢を誇った。
1644年、宗門人別帳が作成された。
1644年、代官の勤方条目を定める。
1644年、老臣会議、頻繁に開催される。
1644年、糸割符貿易
  糸割符の白糸を京都、堺、長崎の商人に頒布した。
1644年、明が滅んだ。
  明代は商業の発展が著しかったが、対外的には積極的
 ではなく、異民族の侵入に疲弊し、李自成の乱で滅んだ。
1645年、塩田開発
  赤穂藩が、塩田の開発を始めた。
1645年、社会資本整備・新田・灌漑施設の開発
  この頃以降、小規模な新田・灌漑施設の開発が増加。
1645年、太閤ものの筆禍事件
  徳川幕府は、家康を「東照大権現」「神君」として絶
 対化する過程で、秀吉に対する一種の史実歪曲・隠蔽(
 いんぺい)工作を行い、秀吉に関する出版物などを禁止
 したりしたが、いわゆる「太閤もの筆禍事件」がぞくぞ
 く生まれた。
1645年、諸国特産物などを記す俳論書「毛吹草(けふきぐ
 さ、松江重頼著)」が刊行された。
1645年、ネーズビーの戦いが起きた。
  イギリスのピューリタン革命中に、中部イングランド
 のネーズビーで、
  議会軍が、国王軍(チャールズ1世)に決定的な勝利を
 収めた戦い。
  国王軍が、壊滅的打撃を受け敗北。
  クロムウェルの鉄騎隊を中核とする新模範軍が大いに
 活躍した。
1646年2月、5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)が生
 まれた(1646年~1709年、将軍期間1680年~1709年)
1646年、経済活動・営業許可、大阪の剣先船(けんさきふ
 ね)が大和川での営業を許可された。
  この船は、この年に、上荷船・茶船からの請願によっ
 て許可された、大和川筋で活躍した船で、
  その沿岸が、棉作の中心地であったため、干鰯や油粕
 などの肥料物資の積荷が多かった。
1646年、農民の訴訟規則を定めた。
1646年、例幣使、日光へ例幣使(れいへいし)が始まる。
  日光東照宮の例祭に派遣される日光例幣使の制度が始
 まった。この年から、毎年行なわれた。
  朝廷から派遣された奉幣使(ほうへいし)が、京都よ
 り日光に至る道を例幣使街道と言った。
  江戸幕府最末期の1867年まで至った。
  また、1647年には、中絶していた伊勢神宮奉幣使も復
 活した。
1947年6月、ポルトガル船が長崎に来航し、貿易を求めた。
  ポルトガル国王ジョアン4世は、貿易再開のための使節
 を日本に派遣した。
  幕府は九州の大名をして備えしむ(拒否した)。
1648年10月、中江藤樹(なかえとうじゅ、陽明学者)が没
 した(1608年~1648年)
  近江国(滋賀県)に生まれた。
  父は農業を営む、9歳の時に、武士の祖父の養子となる。
  27歳の時、家督を相続して武士となっていたが、母の
 孝行と健康上の理由から辞職を申し出るが、藩は拒絶。
  脱藩し、京に潜伏の後、近江に戻った。私塾を開く。
 これが藤樹書院。
  朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受けた。
  藤樹は平等を説いた。「近江聖人」と称えられた。
1648年、令:市中の諸法度を定めた。
  江戸と大坂市中の諸法度などを定めた。
1648年、令:商売、物乞い、無礼の振売りが禁止
  江戸市中の橋上での商売、物乞い、無礼の振売りなど
 を禁止にした。
  振売り(ふりうり):商品を担いで、物の名を唱えな
 がら売り歩くこと、
1648年、オランダが、スペインから独立した。
  独立国家としてのオランダが誕生した。
  なんと80年戦争と言われる戦争の結果、勝ち得たのだ
 った。
  スペインのフェリペ2世が、新教徒の弾圧をしたり(ス
 ペインはキリスト教カトリックの旧教国)、重税政策で
 圧迫したことが、1568年の開戦の切っ掛けだった。
  それから80年後の成果だった。
1648年、パスカル(フランス)が、気圧が、高さによって
 減少する事を実証した。
1648年、ウェストファリア条約が結ばれ、30年戦争が終わ
 った。
  キリスト教カトリックとプロテスタントとの愚かな宗
 教戦争だった。
  ヨーロッパのほとんどの国が参戦し、ヨーロッパ人の
 3分の1が亡くなるという悲惨な戦争だった。
  キリスト教愚かさが出ている事例の1つ。
1648年、熱心なピューリタン(清教徒)であるイギリス人
 の政治家・オリヴァー=クロムウェルは、ピューリタン
 革命が起こると、議会軍に加わり王党軍を破った。
  1648年には、長老派を議会から追放され、翌年、チャ
 ールズ1世を処刑して共和制を宣言した。
1649年2月、慶安検地条目(27ヶ条)
  検地条例を公布する、
  検地条例は、同時に代官らに発せられたもので、検地
 が公正に行われるべきことを説いたもの。
  法令と言うよりは、検地マニュアルという性格の濃い
 もの。
1649年3月、大名に倹約を命じた。
1649年、慶安御触書(けいあんのおぶれがき)を公布する、
  32ヶ条からなる長文の論告である。
  幕府は、幕初から常時、幕末まで倹約令を言っていた。
  この触書の基調は、「百姓は分別もなく末の考えなき
 もの」(第11条)・・という、愚民観に立っている。
 そして、「みめかたちよき女房なりとも、夫のことをお
 ろそかに存じ、大茶をのみ、物参り遊山ずきする女房を
 離別すべし」(第14条)というような生活干渉にわたる
 条文もある。
  「朝は早く起きて草を刈り、昼は田畑の耕作にかかり、
 晩には縄をない、俵をあみ、それぞれの仕事を油断なく
 はげめ」(第5条)
  「屋敷のまわりに竹木を植え、下葉を取って燃料とし、
 薪を買わぬようにせよ」(第7条)
  「秋には念を入れてよい種を選んでおけ」(第8条)、
  可能な場所には麦田(二毛作)を勧め(第21条)てい
 る。
1649年、百姓から振舞い・礼物を受けてはならない、贔屓
 (ひいき)をしてはいけない。
 (この令が、慶安の触書に、本当にあった令なのか?・・
 の、疑問があると言われている)
..
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