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2016年4月9日土曜日

(増補版)328E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年10月~1874年12月)

題:(増補版)328E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年10月~1874年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年10月18日(明治7年9月9日)二階建馬車禁止令(法令
 類纂・巻之63)。
  何故か?この日に、二階建馬車禁止令が出た。
  (乘合馬車の二階建づくりが危險だとされて使用を禁
 止されたらしい。
  由良守応(ゆらもりまさ)が、岩倉使節団として欧米
 から帰って、憧れの皇宮御馬車係のとき、馬車を転倒さ
 せたことがあり、それで辞職したが、それが関係してい
 るのか?)
  明治期に入るまで、日本には馬車が存在しなかった。
  移動は、徒歩か駕篭だった、また、牛車は大都市だけ
 の使用に限られていた。
  そして、開国の翌年1869年(明治2年)に、東京~横浜
 間を乗合馬車が走るようになると、日本中に馬車が広ま
 った。
  そして、1874年(明治7年)に、東京に馬車専用道路が
 誕生した。
  1874年1月5日、京橋~新橋間に、馬車と人力車のみが
 走行できる専用道路が完成した。
  そして、この年・1874年に誕生したのが、二階建ての
 乗合馬車を走らせる馬車会社の「千里軒」だった。
  創業者は、和歌山出身の由良守応。
  岩倉具視使節団として、ともに訪れた由良は、1871年
 に、イギリスで二輪馬車や四輪馬車、オムンバスという
 二階建ての乗合馬車を見て、馬車に魅せられた日々を送
 り、日本でも走らせたいという夢を持った。
  特に、荘厳と走る女王の馬車を見て、同じものを天皇
 陛下の御召馬車として購入するように使節団会計係の田
 中光顕に熱弁を振るって嘆願し、実現に至った。
  そして、1873年(明治6年)、帰国後、由良は、御召馬
 車の手綱をとる皇宮御馬車係となり、英国以来の夢が叶
 った。
  そして、オムンボスの夢のある由良は、東京でもこの
 馬車を走らせたいと考えたのだった。
  そして、1874年に、オムンボスを走らせ、その勇姿に、
 東京の人々は歓声を上げて喜んだ。
  乗合馬車の普及に努めた由良であったが、競合の馬車
 会社が増えたことから、1880年(明治13年)に、東京で
 の営業を終了した。
  そして、後に、1882年(明治15年)には、「東京馬車
 鉄道」が誕生した。
  そして、明治後期になると、鉄道の動力は馬から電気
 へと移行した。
  馬車が東京の人々の主たる移動手段だった期間は、明
 治初期~中期にかけてと、極めて短い期間だった。
  専用道路が、東京全土で整備されておらず、車道と歩
 道の区別がない場所での事故も多く、
  そして、清潔好きな日本人から見ると、道には馬糞が
 散らかり、不衛生だった。
  由良が新聞に出した創業時の広告文・・、
  乘合馬車開業
  弊社 今般 歐米各國にて行るゝ、「オムンボス」と
 稱する二階造の馬車運轉を始め
  客三十人を乘せ
  淺草雷神門前より、新橋汽車「ステーション」迄
  一時?達す
  毎朝六時より午後八時迄
  一日往返六回すべし
  路上の賓客便利の爲め
 途中の乘り下り望?任す
 冀????
  四方の君子
  伏て來駕したまわん事を
   壹人前 賃金 十錢
   途中半ヲ限  三錢   千里軒
1874年10月23日(9月14日)大久保利通全権が、恭親王と台
 湾問題の交渉を開始する。
1874年10月29日(9月20日)兵学寮内に水雷製造局が設置さ
 れた。
1874年10月29日(9月20日)横浜遊郭
  外国人相手の私娼が、この年に、横浜に現れた。
  江戸の頃の遊郭設置・五箇条の掟書
 一、傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外
  何方より雇ひ来候とも先口へ遣はし候事向後一切停止
  さるべく候。
 (設置場所以外では遊女屋はいっさい認めない)
 二、傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。
 (客は一昼夜以上店にいてはならない)
 三、傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地
  にても紺屋染を用ひ申すべく候事。
 (遊女は贅沢な着衣は用いない)
 四、傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の
  格式通り屹度相勤め申すべき事。
 (遊郭は質素なたたずまいとし、町役は他の町と同様に
  する)
 五、武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候
  者は奉行所へ訴出づべき事。
 (身元不審の者は奉行所へ通報する)
  前借金(貧農の娘の身売り等)で縛られた遊女たちが、
 本牧方面の私娼に流れたという。
  横浜遊郭は、外国人を東京に近い神奈川宿(遊女)か
 ら遠ざける為に、何もなかった横浜に港をつくり関内に
 封じ込めようとして遊郭(公娼)を開設した。
  因みに、外国人の多かった長崎には、1639年(寛永16
 年)西洋との唯一の窓口として栄えた長崎の丸山遊廓が
 誕生した。(1642年説あり)
 ・・貧乏のために・・家族のために身を売った女性方・
 慰安婦が居た。
  可哀想な日本女性の方たちが居た。
  その日本の娘たちを買うアメリカ人たちや、イギリス
 人たちが居た。
  まったくこれと同じ事が、先の戦争の時、貧しい朝鮮
 の女性の方たちを買う日本人たちや、中国人たちや、そ
 して、朝鮮人たちが居た。
  朝鮮の慰安婦の女性の方たちが、日本人たち・中国人
 たち・朝鮮人たちに貧乏な家族を助けたいと身を売った。
  その様な時代だった。
1874年9月24日、『朝野新聞(ちょうやしんぶん)』が、東
 京で創刊した(主幹成島柳北、論説欄を常設)(9月23日
 説あり)
  民権派の政論新聞で、1893年11月19日までの約19年間。
1874年10月31日(明治7年9月22日)日本帝國電信條例
  日本における最初の電気通信法規。
  第3条で、政府の専掌主義を定め、
  第13条で、通信の秘密が明記されている。
  まだ、憲法もなく、また、議会もない時の条令で、
 法的な枠組みが、明治の世に出来上がっていく。
  太政官布告第九十八號:日本帝國電信條例
  第三條 日本政府電信寮ハ日本帝國外ノ各地ヘ又ハ各
     地ヨリ傳送スル電報ヲ除キ日本帝國中ニ電報ヲ
     傳送シ及ヒ受取リ取集メ屆渡等一切關係ノ事務
     ヲ取扱フ專任ノ權ヲ有ス
 第十三條 電信寮ニ仕官スル者故意怠慢ヲ以テ音信ノ傳
     送又ハ屆渡スコトヲ忘却遲延スル者又ハ同樣ノ
     コトニ依テ音信ノ傳送屆渡シヲ妨碍遷延セシム
     ル者又ハ猥リニ音信ノ旨趣ヲ傳洩スル者又ハ他
     ノ人民又ハ電信寮ノ官員ト雖モ其場ニ立入ヘキ
     職務ニ非サル者ヲ電信寮ノ器械室ニ立入ラセ又
     ハ滯居セシムル者等以上ノ各犯ハ壹百圓ヨリ多
     カサル罰金ニ處ス
1874年11月、東京に、官立女子師範学校が設立・開校した。
  文部省学監のお雇い外国人・ダビッド・モルレーは、
 申報(しんぽう、新聞)のなかで、日本も欧米諸国に倣
 って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成す
 ることを、
  1873年(明治6年)11月に、建言し、
  文部少輔である田中不二麿も、これに同調して、翌年・
 1874年(明治7年)1月、三条実美太政大臣に対し
  「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を
 提出した。
  これが承認され、同年・1874年3月13日には、木戸孝允
 文部卿によりお茶ノ水橋たもとに、女子師範学校を設置
 する旨布達が発令、
  日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範
 学校の設立となった(11月に開校した)。
  後身校:お茶の水女子大学
1874年11月2日、読売新聞が創刊された(東京)。
  紙面の大きさは半紙の大きさで、表裏の2ページだった。
  書かれた記事は、「病気の夫のため針仕事などをして
 薬を買う妻(石川県)」や、
  「約40人が狂犬にかまれたが、薬で大勢が助かった(
 東京)」「横浜から汽車に乗った客は1週間で3万4881人
 に(神奈川県)」「4歳の男の子が馬車に行かれ死亡(
 東京)」「両親に美味しいものを食べさせる孝行息子(
 秋田県)」など。
  当初は、合名会社日就社といい、
  初代社長・子安峻で、部数は約200部の隔日刊だった。
  題号は「読みながら売る」瓦版に由来している。
  1917年(大正6年)12月1日に、商号を読売新聞社に改
 称し、
  1942年(昭和17年)8月5日、戦時下に行なわれた新聞
 統合によって、報知新聞社の「報知新聞」を合併し、
  「報知」の名前は讀賣に引き継がれ、「讀賣新聞」は
 「讀賣報知」に改題された。
  また、1945年(昭和20年)5月27日、読売報知、朝日新
 聞、毎日新聞、日本産業経済、東京新聞の5社共同によ
 る「共同新聞」が発行された。
  1946年(昭和21年)5月1日、題号が「讀賣新聞」に復
 帰した。
1874年11月15日(10月7日)この日の日付けで、谷参軍の大
 隈参議・山県陸軍卿宛て書簡:
  「当地近来にいたりマラリア大流行、
  各舎ことごとく病院同様、
  去月最初よりは死者数多これあり、
  兵卒従者にいたるまで力役に勝る者ほとんど一人もこ
 れなく、
  薪水の労みなこれを土人にあおぐ。
  まことに意外の天災何とも申しようこれなく、医者も
 ことごとく病み候ゆえ、
  諸事薬用も行き届かず、不養生より死者甚だ多く、
  実に愍然(びんぜん、あわれむべきさま)のいたり、
  目も当てられぬ有様、戦わずして全軍の気沮喪・・」
  と病魔による窮状を訴え、
  「此のごとき難儀に遇うこと未曾有未曾聞(モン)なり」
 と慨嘆。
  (参考)沮喪:そそう、気力がくじけて元気がなくな
 ること。
1874年11月17日(10月9日)万国郵便連合が発足した。
1874年11月28日(10月20日)青森県・尻屋崎燈台が竣工し、
 点火された。
1874年12月1日(10月23日)台湾問題の日清談判不調に終わ
 る(全権大使・大久保利通、最後通牒を起草する)
  1874年11月13日(10月5日)大久保全権と清国との第4
 回会談が行われた。
  会談の後に、大久保は、これ以上の交渉は無駄なので
 近く帰国すると言うが、清国側は帰国するなら引き止め
 ないと対応。
  11月22日(10月14日)大久保全権が、駐清のイギリス
 公使をウェードを訪問し、償金と引換えに撤兵可能と伝
 えた。ウェードは根回しを始めた。
  11月23日(10月15日)岩倉具視が、中国の大久保に手
 紙を出す。
  国内の情勢を伝えて、駐日イギリス公使パークスが調
 停にあたってもよいとの意向を伝えた。
  11月24日(10月16日)大久保が、明治政府の外交顧問・
 リゼンドル(アメリカ人)に償金の代りに琉球の日本へ
 の帰属を条件にしてはどうかと相談。
  リゼンドルは、難しいだろうと返事。
  但し、台湾で遭難した琉球人の償金を、清が日本に支
 払えば、実質的に清が琉球に対して日本の権利を認めた
 ことになると回答した。
  11月26日(10月18日)、第5回会談。
  11月28日(10月20日)、第6回会談。
  12月1日(10月23日)、第7回会談・・と経過して来た。
  12月3日(10月25日)、日本側は、井上毅立案交渉決裂
 宣言書を送り12月4日(10月26日)出発とした。
  夕方、駐清イギリス公使ウェードが、仲裁。
  日清双方を往復。
  12月5日(10月27日)、日清双方が調停案受諾した。
  12月9日(10月31日)、日清両国全権が、「互換条款」
 3ヶ条と「互換慿単」に調印した。
  償金50万両で台湾占領地を放棄する。
  50万両は日本貨77万円。
  遠征費用362万円に輸送費などで支出合計は771万円。
  修好条規を結んだばかりの日本の行為に対し、総署大
 臣・恭親王らは皇帝に軍備増強を上奏した。
  反対を押し切って修好条規締結を進めた直隷(河北省)
 総督・李鴻章も、対日戦備強化を通感、
  のち、北洋陸海軍となる。
  日清戦争の種が蒔かれた。
  また、この協定により、清国は、琉球を日本領と認め、
 国際的に日本の統治権を認めた事例の一つとなった。
  「互換条款」:
  前文、「台湾生蕃」が「日本国属民等」を加害したの
 で日本国が「詰責」した。
  一、このたび日本国が出兵したのは「保民義挙」のた
   めだったと主張しても、清国は「不是」と言わない。
  二、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に「撫恤銀」を
   支給する。
    日本軍が「蕃地」に設営した道路や建物は、清国
   が有償で譲り受ける。
    金額や支払方法等は「互換憑単」で定める。
  三、両国がやりとりした一切の公文は破棄し、以後は
   論じない。
    「生蕃」にたいしては清国が自ら法を設けて航海
   民の安全を保証し、再び「兇害」を起こさないこと
   を約束させる。
  「互換慿単」:
  清国は「撫恤銀」10万両を即時支払う。
  「蕃地」道路・建物への報償40万両を、日本側の撤兵
 完了と同時に支払う。
  撤兵期限は12月20日とする。
  (50万両は日本貨幣換算で約77万円。日本軍の台湾遠
 征費用は約362万円、軍隊輸送用船舶購入費などを合算す
 ると771万円余)  
  「互換条款」は、日本側に有利だった。
  (1)遭難者(琉球人)は「日本国属民等」であると明
    記された。
  (2)日本国の出兵目的は「保民義挙」のため、つまり
    自国民保護のためだと主張しても清国は反対しな
    いとされた。
  (3)清国が支給する「撫恤銀」は、遭難者と遺族に直
    接手渡されるのでなく、日本政府に支払われると
    された。
    清国政府が、琉球人は日本国籍であり、日本政府
   は琉球人にたいする統治の権利と保護の義務を有し、
   したがって琉球は日本領であると承認した。
  駐清のイギリス公使・ウェードは9月中旬以来、両国仲
 裁に動いていた。
  両国は、日清修好条規を結んでいたが、
  これには、清国に、日本と友好関係を結び、共に西洋
 の帝国主義に対抗して行こうという気持ちがあった。
  しかし、降ってわいた日本の漂流民殺害事件を切っ掛
 けに、台湾出兵に至った。
1874年12月9日(明治7年10月31日)大久保利通の談判に依
 り、日清間台湾問題和議成り立ち、清国側弁償と決す。
  日清両国間互換条款(償金50万両)および互換憑単を
 北京で調印。
  1875年1月10日(明治7年12月3日)撤兵を開始する。
1874年12月21日(11月13日)台湾派遣軍隊撤退の勅命が出
 る。
1874年3月、ベトナムは、第2次サイゴン条約で、フランス
 に紅河通商権を割譲したり、コーチシナ6省を割譲したり、
 主権を奪われた。。
  1873年に、フランスはハノイ城へ侵攻し、これに対し
 てベトナムは、清出身の劉永福の黒旗軍に援兵を要請し、
  激戦の末、フラン スは退却した。
  しかし、ベトナムはフランスの報復を恐れ、
  1874年、両国の間に「仏越講和 同盟条約」(第2次サ
 イゴン条約)を結んだ。
  この条約によって、紅河の運航権と主要都市への駐兵
 権、領事裁判権がフランスに奪われた。
  1882年に、フランスは、再びハノイ城を制圧し、紅河
 デルタの要地を占拠した。
  これに対してベトナムは清に出兵を要請し、清国政府
 はベトナムを支援し、劉永福の黒旗軍がハノイに進撃、
 フランス軍司令官アン. リ・リヴィエールを倒し、大き
 な勝利を勝ち取った。
  しかし、1883年7月16日に、対外強硬路線のトゥドゥッ
 ク帝(嗣徳帝)が死去したため、皇位争奪内紛により新
 即位のヒェップホア(協和帝)は、フランス軍に庇護を
 求めた。
  (参考)紅河デルタ:こうがでるた、ベトナム北部に
    位置しているトンキン・デルタまたはソンコイ・
    デルタのこと、
  1883年8月25日、フランスは、ベトナムと第1次フエ条
 約(アルマン条約)を結び、ベトナムを保護国にした。
  翌年6月6日に、ベトナムは、フランス公使パトノウト
 ルと、パトノウトル条約(第二次フエ条約)に調印した。
  これ以後、フランスは、外交関係においてベトナムを
 代表し、フランス代表の総督は、ベトナムの外交を統括
 し、保護権を行使することになり、
  ベトナ ムは、中国との藩属関係が終わり、実質的に
 フランスの植民地になった。(1
1874年8月1日、アメリカのシカゴで大火。
  1871年10月8日の大火に続いて、再び、大火に見舞われ
 た。
  この1874年の再度のシカゴ大火は、多数の保険会社を
 倒産させることになった。
1874年2月3日、ハワイの王家、在位僅か2年のルナリオ王
 が結核にかかり、死去した。
  王位は、再び議会に委ねられることとなった。
  アメリカ合衆国という国は、初め、イギリスから清教
 徒が渡って来て、領土を獲得し、拡大して行って、
  そして、最初の核の東部14州ができて、
  そして、西へ西へと飽くなき領土拡大行動をして行って、
  太平洋に至ったら・・おしまいとなるかと思いきや、
  太平洋上の島々まで・・アメリカ領として行って、
  そして、今、このハワイに、立派に存在している王家。
  王家はハワイを統治し、政治も立派にしているが、
  結果的には、現時点の今、アメリカの州となっている。
  そこに至るまでには色々な手が、アメリカによってな
 された。
  平穏だったハワイに・・色々な波風が起きた。
  白人が来て、ハワイの社会も荒れて行った。
  1874年2月13日に、再び、王国議会で国王選出選挙が行
 われ、
  王族に連なり、カメハメハの有力な助言者カメエイア
 モク、ケイアウェアヘウルの子孫にあたるデビット・カ
 ラカウア(1836年~1891年)が第7代国王として王位に
 就いた。
  この選挙でエンマ女王の支持者が暴動を起こし死者を
 出した。
  アメリカ・イギリス軍はこの騒ぎに関わった。
  厳しい言い方をすれば、この日・2月13日に、アメリカ
 は、ハワイの国王継承問題を口実に、海兵隊をホノルル
 に上陸させた。
  選挙をしたとしたって、アメリカから帰化した白人(
 アメリカ人だとも言える白人)の高額納税者に独占され
 ていた投票権で牛耳られ、その投票権をハワイ島民にも
 認めるべきだの声もかき消され・・、
  王になったからと言ったって、カラカウア王は、即位
 当初よりアメリカ帝国主義的行動と、
  その白人=在ハワイ米国人による政経両面に亙る圧力
 に悩まされた。
  やむなく、1874年11月、カラカウア王は、自らワシン
 トンに出向きグラント大統領と会談した。
  会談する内容は、アメリカの行動にあった。
  アメリカ人たちは、軍事力を使って君主制を廃止させ
 ようとし、2月16日には、すでに150名の武装した米海兵
 隊がハワイに上陸してホノルル市内を制圧した。
  そして、イオラニ宮殿を包囲させ、
  また、アメリカの軍艦ボストン号の主砲は、イオラニ
 宮殿に照準を合わせていた・・と。
  ハワイが、アメリカの州になるまで、書けばまだ、色
 々な事が起きていた。
  ハワイの王権を持つリリウオカラニは、反乱の首謀者
 の容疑で逮捕されて、イオラニ宮殿に幽閉されたり・・、
  1895年1月22日、反乱で捕らえられた約200人の命と引
 き換えに、リリウオカラニは女王廃位の署名を強制され、
 ハワイ王国は滅亡させられたり・・、
  1895年1月には、王党派は、ホノルルで王政の回復を企
 てるも、強烈な武力によって、数日の銃撃戦の後に鎮圧
 されてしまうとか・・アメリカが勝つに決まってる、
  選挙をしたって、不正選挙で・・そして、その疑惑で
 大規模な暴動が起きたり・・と、そして、アメリカ・イ
 ギリスは軍事力で制圧する。多数の死傷者を出す・・な
 どなど・・、
  条約の中に、ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の
 他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない項目が付け加え
 られ・・、などなどと
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年4月7日木曜日

(増補版)327E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月~1874年10月)

題:(増補版)327E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月~1874年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年(明治7年)6月、西郷隆盛が、鹿児島に私学校を設
 立した。
  隆盛が、征韓論に敗れて下野したのに従い、鹿児島出
 身の軍人・文官で、隆盛と同じく辞職し、帰京する者が
 数百名に及んだ。
  その青年たちに、一定の方向を与え、指導し、統御す
 るために設けられた。
  本校は、旧近衛兵の銃隊学校と、砲兵出身者による砲
 隊学校から成った。
  前者は篠原国幹が、後者村田新八がそれぞれ主宰した。
  銃隊学校の生徒数は500~600名、砲隊学校の生徒数は、
 約200名だった。
  学課は、軍事のほか、漢学も講じられた。
  城下のほか、鹿児島県下の各地に 136の分校をもち、
  経費は、旧藩から県庁に引継がれた積立金をあてて、
 県令の大山綱良の支持のもとに、士族を基盤として成立
 した。
  また、士官養成所と言うべき賞典(しょうてん)学校
 や、旧陸軍教導団生徒を収容した吉野開墾社もあった。
  西郷派の政治結社的な性格もあった。
  西南戦争では、西郷軍の中心となった。
  また、鹿児島県庁が、西郷軍の戦闘部隊の後方にあっ
 て、人員・兵器・食糧などの前送・補給にあたったり、
 後方連絡線の確保にあたったりする兵站(へいたん)状
 態となった。
1874年7月、東京、銀座に煉瓦街が・・、
  1872年(明治5年)2月に、和田倉門付近から出火し、
 銀座、築地一帯の約95ヘクタールを焼く大火が起こった。
  この大火の経験から、政府は、西洋流の不燃の建設を
 目指した。
  同年・1872年3月に、東京府より、焼失地域は道路を広
 くして煉瓦家屋で再建するので、新築を差し控えるよう
 にとの布告が出された。
  東京府は、1872年3月22日に、地券を発行して全焼失地
 域を買収し、区画整理を行った後、旧地主に旧値段で払
 い下げるという布告を出して、地券を発行したが、土地
 評価の問題のため、買収は順調には進行しなかった。
  事業は、大蔵省監督の下で東京府が進める予定であっ
 たが、府知事・由利公正が途中から岩倉使節団に加わる
 ことになったため、大蔵省建設局を中心に進めることに
 なった。
  建設は官営で行った。
  大蔵省建設局が直営施工で建築し、希望者に払い下げ
 るか・・、
  または、建築主が費用を負担し、建設局に設計施工を
 依頼するケースだった(自営=民間が自費で建てるも認
 められた)
  設計は、お雇い外国人のウォートルスが担当した。
  同年・1872年8月から着工し、1873年(明治6年)のう
 ちには拡幅された大通り沿いに、洋風2階建の街並みが出
 来上がった。
  東京府は、完成した第1次工事に関して建物の払い下げ
 を開始したが、市民には金額が大きく、申込みは少なか
 った。
  このため、納入に猶予を認めることとしたが、この結
 果、建設資金の回収が不可能となり、第1次工事から除外
 された地域では煉瓦街は建築されず、道路と堀割等の工
 事に限定されることとなった。
  しかし、それも住民の反対にあい、木挽町より東の工
 事は放棄された。
  最終的に、1877年(明治10年)までかかって煉瓦街の
 計画は完了した。
1874年8月7日(6月25日)谷干城が、台湾平定凱旋復命した。
1874年8月14日(7月3日)三宅島が噴火。
  神着村南方の山中で噴火。
  溶岩は、北方に流れ、海に5000平方メートルの新しい
 陸地をつくった。
  神着村の民家108軒のうち40軒(45戸)が、溶岩および
 灰砂で埋没した。死者は1名。
1874年8月16日(7月5日)台湾問題に関する閣議を開いた。
  閣議にあたってリゼンドルが発言し・・、
  (1)「蕃地」領有か、
  (2)清からの償金と引換えに台湾を返還かの、
  二つの選択肢を示した。
  日本の国内世論は、「蕃地」平定が済んだ以上は速や
 かに撤兵すべきとの意見と、この機会に清国本土に進出
 せよとの意見などがあった。
  政府意見も種々あり、
  大久保日記によると、大久保は終始「断然の御確定」
 (7月3日)と基本方針の確定を主張する。
  また、「議論分立につき、(三条が)別して御心配」
 (4日)、
  「蕃地事件御評議これあり、すこぶる紛論なり」(5日)
 と紛糾した。
1874年8月20日(7月9日)武市熊吉の岩倉具視暗殺未遂の罪
 で刑が執行された。
1874年8月23日(7月12日)外務省が管轄している琉球藩を
 内務省に移管。内国と同等にした。
1874年9月10日(7月30日)大久保が渡清への側面支援を伊
 藤博文に要請した。
  大久保渡清には大隈が反対したが、派遣決定に至る。
1874年9月2日(7月22日)巡査の棍棒を廃し帯剣とする
1874年9月4日(7月24日)台湾問題のため、特命全権公使・
 柳原前光が、天津において李鴻章と会見した。
1874年9月5日(7月25日)教員検定試験、
  教員免許状を定める。
  小学校教員検定試験・教員免許状制度、初めて制定。
1874年9月8日(7月28日)台湾蕃地事務局長官・大隈重信が、
 閣議に「海外出師の議」を提出した。
  「今日戦議一決し、
  現兵急進海陸並び迫る、
  彼(清国)兵備未だ実せず、周章狼狽なす所を知らず、
 ついに彼より和を請い罪を謝するに至らん」
  「今日不戦に決す、
  彼に在りては兵備ますます修め、
  他日大挙もって我に迫らば、勢い戦わざるを得ず・・」、
1874年9月8日(7月28日)政府が、台湾征討で三菱に輸送業
 務を委託。
1874年9月10日(7月30日)東京湯島の図書館を、浅草米倉
 に移し、浅草文庫を設立した(和漢書約2600冊)
  浅草文庫開設:湯島聖堂の書籍を移した図書館が浅草
 御蔵跡に開設され、浅草文庫と称し、一般にも公開した。
  和漢洋蔵書約14万冊。上野図書館の前身。移管(1877
 年)
1874年9月、兆民の私塾開設
  高知県士族・中江篤助(兆民)が、東京府知事に対し、
 東京の第3大区3小区中6番町45番地に仏文学の家塾を開き
 たいとの願書(「家塾開業願」)を提出した。
  この年3月、文部省は、「帰朝留学生心得箇条」を出し、
 「海外留学生帰朝ノ上ハ進退可為勝手事」との方針を示
 す(これまで官費留学生が帰国後勝手に民間に就職する
 のを禁止していたが、今後は官費留学生の面倒をみない
 と、方針を変更)。
  そのため兆民は、フランス学の塾を開いて生活の資を
 得ようとする。
  「家塾開業願」によると、学科は仏文学、教則として
 はフランス語の単語・会話・文法の諸教科書のほか、ジ
 ュリー「希臘羅馬史」「仏近世史」、ジュクードレー「
 当代史」、ヴォルテール「査理十二世史」「路易十四世
 史」、モンテスキュー「羅馬興亡論」、フェネロン「的
 列瑪屈」、ルソー「民約論」「開化論」「教育論」、及
 び道学書となっている。
  間もなく開業許可となり、10月、仏蘭西学舎開塾の広
 告を出す。
  尚、「中江篤助稿 明治七年一〇月上旬」と記された
 「民約論巻之二」の原稿が現存しているところから、お
 そらく「巻之一」は既に完成していたと推測できる(「
 社会契約論」の翻訳は、遅くとも帰国早々か、或は帰国
 の船中もしくはフランス時代から始まっていたと考えら
 れる)。
1874年9月11日(8月1日)参議・大久保利通が、議官・高崎
 正風らの一行に、台湾征討折衝のため、清国派遣を任命。
1874年9月11日(8月1日)参議兼内務卿・大久保利通が、岩
 倉の変心により台湾問題交渉で清国派遣全権弁理大臣に
 任命された。
  9月16日(8月6日)、横浜出港。
  長崎(9月20日着、9月26日発)、上海経由。
  顧問ボアソナアド。
  随員司法省7等出仕・名村泰蔵、同井上毅、特例弁務
 使・リゼンドルら21名。
  1874年10月19日(9月10日)北京着。
  ボアソナアドが、司法卿・大木喬任への上申:
  「各事件被仰付侯通り、日本政府におゐてハ余ニ面目
 ヲ表セラレ候ニ付テハ、信ヲ以テ之レニ報ジ度奉存候。
  ・・此度ノ事件ニ付而ハ、余忠勤ヲ表スベキ事、閣下
 ニ御請合申上候」9月13日(8月3日)。       
  9月15日(8月5日)大久保に対し、委任状に併せて、
   (1)柳原公使への内勅および田辺四等出仕持参の訓
    令書が「不動の要旨」とはいえ「便宜取捨談判す
    るの権」
  (2)「和戦を決するの権」
  (3)「在清の諸官員」を「指揮進退するの権」
  (4)必要があれは「武官」をも「指揮進退するの権」
  (5)特例弁務使リゼンドルを「進退使令するの権」
 が付与された。
1874年9月12日(8月2日)伊地知正治・黒田清隆・山県有朋、
 参議就任。
  大隈・大木・伊藤・勝・寺島・大久保入れて全9名とな
 る。
1874年9月13日(8月3日)全権公使・柳原前光が、清国の大
 臣と会見折衝して、台湾問題を議す。
1874年9月15日(8月5日)郵便貯金が開始された。
1874年9月15日(8月5日)一等巡査に限り帯剣を許可した。
1874年9月18日(8月8日)森有礼に依り、日本最初の洋式商
 科専門教育たる商法講習所を設立した。
1874年9月21日、菱田春草が生まれた(1874年~1911年)
1874年9月24日(8月14日)海軍仮提督府を鹿児島県におく
 ことを決定。
1874年9月25日(8月15日)立志社総代・林有造が、台湾征
 討の義勇兵編成願を高知県権令に提出した(10月28日不
 認可)
1874年9月26日(8月16日)全権総理大臣・大久保利通が、
 軍艦「龍驤」にて長崎発、清国に向う。
1874年9月26日(8月16日)わっぱ騒動
  酒田県、1万人が参加した石代上納・雑税廃止を求める
 農民騒動が広がりをみせた。
1874年10月4日(8月24日)浅草文庫が開館した(1875年11
 月に、浅草文庫、公私の閲覧を許可)
1874年10月9日(8月29日)官立、公立、私立学校の別を明
 確化した。
1874年10月(明治7年9月)小島忠里(18歳)らが入舎した。
  1880年6月(明治13年5月)の解散まで、民権派代言人
 育成と、民衆権利擁護の戦いを続けた。
  翌・1875年にかけて、東京(日本橋北鞘町5番地)、広
 島、堺(車之町、寺島槙蔵方)、博多(土屋町)などに
 も北洲舎を設立(後、新潟・名古屋・大津にも支舎設立)。
   明治8年~9年の頃、最も好況を呈す。
1874年10月(9月)朝鮮が、日本公館長・森山茂と釜山地方
 管轄東莱府使・朴斉寛間で交渉開始が合意された。
  台湾出兵の影響で軟化した。
  翌月・11月、森山は一旦帰国。
  翌年・1875年3月(明治8年2月)正式代表使節として副
 官・広津弘信を伴い釜山着。
..
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2016年4月6日水曜日

(増補版)326E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年7月~1874年8月)

題:(増補版)326E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年7月~1874年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年7月(明治7年6月)神奈川県令・中島信行、石阪昌孝
 を県の権少属に抜擢。
1874年7月(明治7年6月)島本仲道(北洲)、大阪船場(北
 浜2丁目)で全国的に早い民権派代言人結社「北洲社」を
 設立。
  多くの弁護士育成をはかり、先駆的な都市民権派とし
 て活躍。
1874年7月(明治7年6月)島本仲道:天保4(1833)年生れ。
 土佐藩士。
  若くして陽明学に傾注し、江戸に出て安井息軒に学ぴ
 久坂玄瑞らの尊攘運動に参加。古沢滋・河野敏鎌らと武
 市瑞山の土佐勤王党に血盟。
  文久3年(1863)武市瑞山と共に投獄され、維新後に放
 免される。
  十津川騒動の鎮撫に加わり、明治3(1870)年、大和五
 条県大参事、東京府権少参事(同4年)、司法大丞兼司法
 大検事・警保頭(同5年)を歴任、江藤新平の司法制度改
 革に協力する。
  明治5~6年、海軍省所属運送船大阪丸と三菱会社汽船
 山城丸とが瀬戸内海で衝突し、大阪丸は沈没、死傷者が
 多数にのぼる事故発生。
  江藤司法卿は、大阪裁判所長児島惟謙にこれを審按さ
 せる。
  児島は、岩崎弥太郎を召喚するが、岩崎は病と称して
 応ぜず(花街に遊蕩)、児嶋は江藤に電報で指令を仰ぐ。
  江藤は警保頭島本による同郷人岩崎の拘引を躊躇する
 が、島本はこれを拘引する。
  明冶6(1873)年11月、島本は司法三等出仕・大検事・
 警保頭を辞任し、翌7年4月、土佐の立志社設立に参加、
 その法律研究所長となる。
1874年7月14日(6月1日)台湾遠征軍1300、3方面から牡丹
 社の本拠を攻撃、これを降伏させる。~5日。
  戦死12・負傷17・病死561(全軍3,658人中)。
  政府、13隻の汽船買入れ、三菱会社に貸し下げ軍事輸送
 にあたらせる。
1874年7月18日(6月5日)牡丹社より撤兵、根拠地に帰還。
  台湾出兵による戦闘は、3週間程度(西郷到着後してか
 らは2週間)であるが、台湾滞在は半年に及ぶ。
  現地ではマラリアが流行し、戦闘可能状態ではない。
  「・・尚ほ出征の兵数は3658人にして、下士官以上781
 人、軍人2643人、軍属172人、従僕62人、戦死者12人、病
 死者561人、負傷者17人、・・」(徳富蘇峰「近世日本国
 民史」第90巻)。
  「東京日日新聞」の岸田吟香は、日本最初の従軍記者
 として現地からの報道に活躍し、評判となるが、病気に
 より、7月に帰国した。
  1874年8月7日(6月25日)25日の同紙上に体験談を載せ
 た。
  「予、頃日蕃地より帰りしに諸友人陸続として来たり
 訪う。
  皆云う、台清のことは如何ありしぞ、東京にては評判
 はなはだ悪しかりし故に、君がために大いに心配せしな
 り、よく無難にて帰りたまいしよなど云う者多し。
  ・・そのはなはだしきに至りてほ西郷都督も既に蕃人
 の手に死せり等、種々の浮説現下東京市中に紛々たりし
 ことと知られたり」と、現地との熱気の落差にぼやく。
1874年7月14日(6月1日)イギリス、東インド会社正式解散。
  インドの方々を、好き勝手に殺戮し尽くし、利益の収
 奪をほしいままにし尽くした悪名高いイギリスの東イン
 ド会社(会社名に隠れてのイギリスの国の収奪行為)も
 やっと終わるかに見えた・・、
1874年7月20日(6月7日)外国郵便の始まり(アメリカ合衆
 国と郵便交換条約締結される)
1874年7月20日(6月7日)西郷従道が、参軍・谷干城と陸軍
 少佐・樺山資紀を東京派遣し、終了を報告した。
  併せてアメリカ人の建言通り植民地化を建言。
  「これより専ら地方のことに心を寄せ、永遠の基礎を
 開かんとす・・すなわち優に将士を養い、漸く山野を墾
 (ひら)き以てその良報を得べし」と、
  「蕃地」での移民拓殖の事業に着手すべきことを建言。
1874年7月21日(6月8日)島根県雑賀町の大火(約2000戸焼
 失)
1874年7月22日(6月9日)中江兆民が、2年4ヶ月間のフラン
 ス留学より帰国。この日、横浜に到着。
  1874年8月(明治7年8月)仏学塾「開業願」を提出。
1874年7月27日(6月14日)朝鮮に滞在の森山茂、3回目の
 交渉。好転の兆し。
  1874年9月1日(7月21日)寺島外務卿宛に報告。
  日本の征韓論や台湾出兵は清国を通して知られていて、
 日本の出方が注目されている。
  森山は、5ヶ月以内に、外務卿・寺島宗則と外務大丞・
 宗重正(元対馬藩主)の書契を持参、朝鮮政府の礼曹判
 書に提出し、交渉の事前協議に入る旨通告し帰国した。
1874年7月28日(6月15日)植木枝盛(18)の投書を掲載(
 「高知新聞」)。活字になった枝盛の文章の初見。
  「高知新聞」は、明治6年7月30日に民立共立社から発
 刊された。
1874年7月31日(6月18日)イギリス公使パークスが、寺島
 外務卿に各国公使に公告なしの台湾出兵を難詰。
  大兵を他国領土に送るにあたって、各国公使に公告す
 る以前に、軍隊が「私に」出動したのは文明国にあるま
 じきことだ(イギリスのインドの行為は棚に置いた)、
  日本が万国公法を犯しているのは明らかだ、清への場
 合は例外としても、他国へ3千もの大軍を送れば必ず戦争
 になる、日本が清に向かってそのようなことをしたから
 には他国が日本に向かって同様なことをしても文句はい
 えないだろう、もし他国が北海道に3千の軍隊を上陸させ
 たら日本はどうするつもりか・・(日本は清にアヘンの
 麻薬を売って、因縁を付けて戦争するようなイギリスの
 様な事はしていない)。
  さらに、パークスは、清国総署大臣から外務卿あての
 照会に回答したのかと日本側の落ち度を突いてくる(清
 国が何度も何度も麻薬禁止令を出しても、インドから麻
 薬を運んだイギリスの大罪の行為は棚に上げている)。
1874年7月31日(6月18日)大隈蕃地事務局長官、蕃地事務
 局准2等出仕リゼンドル(アメリカ人)と連署で台湾出兵
 の法理的根拠をボアソナアドに諮問。
  旧暦6月24日、大久保利通、ボアソナアドを知る。
  旧暦6月25日、ボアソナアド、大隈へ意見書。
  出兵がもたらす戦争への危険性警告。
  大久保は、その後何度もボアソナアドに会い、その万
 国公法理論が重要・有効と認め、北京への随行を決める。
  ボワソナアドの回答。
  1、「蕃地」が無主地であることを論証するためにリ
   ゼンドルが挙げた歴史的・地理的根拠は正当であり、
   清国は領有の「権」を主張できない。
  2、しかし、清国が領有を断念したとの証拠もない(
   言質はある)。
  3、他国が「蕃地」を征服しようとすれば、清国には
   「自国安堵」のために他国の行為を.「妨制」する
   「利」がある。
  ポワソナアド(来日した近代法の学者、フランス人)
 は、「蕃地」無主地論が成立するとしても、清国が自国
 の安全保障を理由に武力干渉に訴えることは国際的に承
 認されると。  
  しかし、清国は「外地である」と日本に返事をして、
 われ関せずの態度を取った。
1874年7月31日(6月18日)陸軍参謀局条例を定めた。
1874年8月4日(6月22日)榎本武揚が、ロシア外務省アジア
 局長ストレモーホフ会談した。
1874年8月5日(6月23日)屯田兵制度設置
  北海道に屯田兵の制度を設けた。
1874年8月6日(6月24日)清国皇帝が、日本の出兵は修交条
 規違反、即時撤退を要求するよう、もし従わない場合は
 罪を明示して討伐するよう閩浙総督李鶴年らに勅命。
  しかし、皇帝が、沿海各地の総督・巡撫・将軍らに戦
 備と勝算を「諮問」したところ、台湾防備関係者以外は
 みな戦備不十分だから勝算なしとの悲観論を上奏。
  清軍の装備は貧弱で士気も低く、軍1万を台湾に派遣
 するがマラリアに苦しむ日本軍3千に対しても何も手出
 しせず。
1874年8月6日(6月24日)台湾から帰着の谷干城が、原住民
 平定近いと報告した。
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(増補版)325E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月~1874年7月)

題:(増補版)325E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年6月~1874年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年6月19日(明治7年5月6日)台湾出兵の「有功丸」が、
 台湾の琅橋湾に到着し、陣営を作った。
  翌日・1874年6月20日に、陸軍少佐・樺山資紀は、台湾
 出兵の「日進」艦と合流した。
  以下続々と艦船が到着した。
  1874年7月5日に、「高砂丸」で西郷従道が到着した(
 7月1日、出航)。
  政府は、台湾出兵に踏み切ったのだが、肝心の輸送船
 の備えがなかった。
  一時、アメリカやイギリスの船会社による兵員輸送を
 想定したが、日本船による輸送とした。
  政府は、保護していた日本国郵便蒸汽船会社に、運航
 委託をして、大型船を購入しようとするが、計画は進ま
 なかった。
  そこで、やむなく長崎に設置された台湾蕃地事務局の
 大隈重信長官は、まだ新興だった三菱を起用することに
 した。
  三菱の岩崎彌太郎は、これを受諾した。
  政府は、計10隻の外国船を購入し、運航を三菱に委託
 した。
  そして、兵員・武器・食糧等の輸送に全力を投入した。
  後に、政府は、更に、三菱に3隻の大型船を委託し、
 合計13隻の大型船が、運航されることになった。
  これにより、三菱は大きく力をつけ、沿岸航路の競争
 に復帰した。
  また、三菱は、この台湾出兵の全面協力で、政府の絶
 大な信頼を得ることとなった。
1874年6月24日(5月11日)台湾日本軍が、牡丹社の酋長を
 招致(しょうち、招く)し、漂民殺害犯引渡しを求める
 が、酋長はこれを拒否した。
  1874年6月25日(5月12日)以降、数度衝突す。
  1874年6月30日(5月17日)偵察中の遠征軍1人、殺害さ
 れる。
  1874年7月5日(5月22日)佐久間参謀長の部隊200が激
 戦となる。
1874年6月24日(5月11日)大阪~神戸間の鉄道が竣工し、
 仮開通した。
  この日、大阪~神戸間が仮開業。
  1日8往復で、所要時間は1時間10分。
  全通は、1877年。
1874年6月25日(5月12日)地価5年間の据置。
  地租改正条例第8章を追加した。
  (耕地の地租は、改正後の5年間は時価の高低にかかわ
 らず新定価額によって徴収する)を追加した。
1874年6月25日(5月12日)立志社が、一般大衆を加えた最
 初の集会を開催した。
1874年6月28日(5月15日)大久保が、帰京した。
  三条太政大臣・岩倉右大臣、島津左大臣(旧暦4月27日
 任命)に辞表を提出した。
  台湾出兵不手際(外国の干渉による中止騒ぎ)、大久
 保の強引さへの批判。
  島津は、2人の辞表を執奏(しっそう、取り次いで奏上
 すること)せず、握りつぶした。
1874年6月28日(5月15日)土佐の帯屋町の立志社で、初め
 ての演説討論会。
  帰郷中の植木枝盛(17歳)が参加した。
  これ以降の植木枝盛の行動・・、
  「自から国会論と称する一文章を作り、之を己れの同
 村各戸に回達して、懇ろ(ねんごろ、心がこもっている
 さま)に其意を示し、
  更に又同区の区長と其の区内の人々とに謀りて(たば
 かり、思いめぐらすこと)一小区の民会を興し、
  或る時は其の議長に選挙せらるることもありて、之が
 為めに尽力せしこと一ならず」(「自伝」)とある。
  そして、「日記」には・・、
  「五月十八月 民会に過る。」「二十二日 民会に過
 る。」「二十八日 民会に過る。会長を撰ぶ。」「六月
 五日 民会に過る。学校取締等の議を発す。」「十六日
 民会に過る。」「二十五日 民会へ過る。」「七月二日
 十二区衆会に過。」「五日 民会に行。林氏会長となる。」
 「六日 小民会創立に就て十二区集議所に過。」「十四日
 区会に行く。組合の事を議定す。」「十五日 民会に行
 く。堕胎圧死の事を議す。」「十六日 小民会に行く。」
 「二十一日小民会へ過。」「二十六日小民会へ行。」「八
 月十一日小民会へ行 。」「十三日夜十区民会に過る。」
 「十四日区会に過る。」「十五日民会に行。」「十六日
 小民会へ行。」「十九日民会へ行。」「二十二日民会へ
 行。」「二十六日小民会流会。」「九月一日民会小へ行。」
 「二日民会大へ行。」「十日集議所に過。」「十四日区会
 へ行。」「十五日区会へ行。」「二十一日小民会へ行。」
 「十月一日中民会へ行。」「三日集急所へ行。印を押す。」
 「十一月一日中民会流れ。」「五日区会流れ。」とある。
  枝盛は、大民会・小民会等自分の居住する12区会ばか
 りでなく10区会にまで出かけて、熱心に地域的自治組織
 を作るのに奔走した。
  民会:「集議所」と呼ばれる。
  「戸長・副戸長以下各町村用係・世話係・肝煎(きも
 いり)」によって構成された(「高知県史」)。
  枝盛は、民会を「代議政体を促」すものと位置づけ、
 「国会論」と題する文章を書いて各戸に配った。
  枝盛の稿本(こうほん、下書き)「国会ノ説」による
 と、国会開設は政体を変革するのではなく、それを確固
 たらしめるものであり、
  「皇統一系」のわが政体を「永久安泰」たらしめるに
 は、「上下同治ノ政治ヲナスニ如クハナシ」と主張した。
  天皇制の擁護の見地から国会の必要を説いた。    
  新知識を標榜する地方官が競って地方民会を開き、
  ことに、明治6年11月に、兵庫県令・神田孝平が制定し
 た民会議事章程略の影響を著しく受けた。
  明治初年の地方民会は、概して開明官僚の上からの開
 化政策に基き、地方行政の「安全弁」として奨励された
 諮問機関に過ぎなかった。
  明治7年の高知では、町村会は設けられていないので、
 大小民会が、他県の町村会の機能を代行した。
  この年、枝盛が読んだ書物は37部に達する。
  「閲読書日記」には・・、
  福沢諭吉「世界国尽」「学問のすゝめ」「西洋事情」、
 加藤弘之「真政大意」、津田真道「泰西国法論」、中村
 敬宇「西国立志編」など。
  9月7日には「明六雑誌」を購読した。
  民選議院尚早非尚早論争を集め、馬城台二郎(大井憲
 太郎)の急進民権主義の立場から書かれた論説をふくむ
 「民選議院集説」を借読した。
  翌年以降の東京再遊学期における枝盛の思想動向が大
 体この年にすでに形づくられていた。
1874年6月30日(5月17日)西郷従道が、台湾征討軍の残兵
 600を率いて、長崎を出港した。
  1874年7月2日(5月19日)柳原前光駐清公使が、赴任の
 ため横浜を発つ。
1874年7月2日(5月19日)政府が、ようやく台湾出兵を国内
 に布達した。。
  明治4年11月、琉球藩の人民が台湾の「蕃地」に漂着し
 たところ、54名が先住民に殺害された。
  明治6年3月、小田県の人民4名が漂着して、また、先住
 民から暴行略奪をうけた。
  そこで、加害先住民を懲罰し、かつ、今後のわが人民
 の航海上の安全を確保する措置を講じるために出兵した。
1874年7月5日(5月22日)日本軍が、琉球島民殺害の罪を問
 うために台湾に上陸した[1874年6月19日(明治7年5月6日)
 と食い違いの説あり]。
  台湾征討軍、台湾に上陸(二番十八社を降す)
  征台ノ役(台湾出兵)
  西郷都督、台湾南部上陸。
1874年7月、靜寛院宮、東京に御帰り(氷川清話)
  靜寛院宮(せいかんいんのみや)は、和宮親子内親王
 (かずのみやちかこないしんのう)のこと。
1874年7月6日(5月23日)左大臣・島津久光が、「反動的内
 容」の意見書を、三条実美(さんじょうさねとみ)に提
 出した。
  新政府が進める改革は、急進的改革だと・・、
  礼服・租税制度・兵制を旧に服すべき・・と。
  併せて、大隈免職要求、大久保も反対なら免職、と迫
 った。
  大久保は、島津の復古論に同意できず免職してほしい
 と申し出て、居直って出仕を拒否した。
  1874年7月19日(6月6日)久光が、三条・岩倉の説得に
 よって意見書を撤回した。
  大久保も2週間ぶりに出仕を始める。
1874年7月10日(5月27日)東京の銀座尾張町、甲子屋・池
 谷権兵衛店が、紅茶を売りだす広告を出した。
  「紅茶は、泰西(たいせい、西洋のこと)ではブラキ
 テイ(ブラックティ)と称すること、コーヒーに代用す
 ること、
  棒砂糖を入れ、牛乳を加えて飲むのであるが、牛乳を
 欲せざる人は糖霜だけでもよろしい・・」と。
  因みに、ブラックティは、ダージリン、アッサム、セ
 イロン、ルワンダ、ケニア、タンザニアなどで摘採した
 茶葉をそのまま楽しむもののこと。
  また、それらをブレンドした紅茶もブラックティーと
 言う。
  そして、ブラックティーは、茶葉本来の味や香りが楽
 しめるとのこと。
1874年7月(明治7年6月)鹿児島に私学校が創設された。
  篠原国幹(しのはらくにもと、薩摩藩士、陸軍軍人)
 の銃隊学校と、村田新八の砲隊学校附属など。
  236の分校があり、県政が全て指導した。
  明治六年の政変で下野した西郷隆盛は、1874年に、鹿
 児島県全域に私学校とその分校を創設した。
  その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率
 することと、
  県内の若者を教育することであったが、
  外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊
 学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、
  外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指し
 ていた。
  やがて、この私学校は、その与党も含め、鹿児島県令・
 大山綱良の協力のもとで、県政の大部分を握る大勢力へ
 と成長して行った。
  一方、近代化を進める中央政府は、1876年(明治9年)
 3月8日に廃刀令、
  同年・1876年8月5日に、金禄公債証書発行条例を発布
 した。
  この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を
 奪うものであった。
  これは、士族に精神的、かつ、経済的なダメージを負
 わせた。
  そして、これが契機となり、同年・1876年10月24日に、
 熊本県で「神風連の乱」、
  1876年10月27日に、福岡県で「秋月の乱」、
  1876年10月28日に、山口県で「萩の乱」が起こった。
  鰻温泉にいた西郷は、これらの乱の報告を聞き、11月
 に、桂久武に対し書簡を出した。
  この書簡には、士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の
 外に、
  「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれ
 ていた。
  ただ、書簡中では若殿原(わかとのばら、若い武士た
 ち)が逸(はや、はやる)らないように、この鰻温泉を
 動かないとも記しているので、
  この「立つと決する」は、内乱よりは、当時、西郷が
 最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味し
 ていた可能性がある。
  その一方で・・、
  1871年(明治4年)に、中央政府に復帰して下野するま
 での2年間、上京当初、抱いていた士族を中心とする「強
 兵」重視路線が、
  四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大
 隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた事に対
 する不満や反発が、西郷の心中に全く無かった訳でもな
 かったと考えられる。
  しかし、西郷の真意は不明。
  一方、私学校設立以来、政府は、彼らの威を恐れ、早
 期の対策は行ってこなかったが、
  私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に
 対する曲解も本格化してきた。
  この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を
 養成する機関だとする見解であった。
  そしてついに、1876年(明治9年)内務卿・大久保利通
 は、内閣顧問・木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提
 案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。
  この時、大久保は、外に私学校、内に長州派という非
 常に苦しい立場に立たされていた。
  この改革案は、鹿児島県令・大山綱良の反対と地方の
 乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。
  しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。
  その1つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察
 と離間工作のために、警視庁大警視・川路利良が、中原
 尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと
 派遣したことであった。
  これに対し、私学校徒達は、中原尚雄等の大量帰郷を
 不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。
  そして、これ等の疑惑などから・・乱が生まれて行く。
  元薩摩藩士で陸軍軍人の篠原国幹から見た状況を記す
 と・・、
  篠原国幹は、1873年に、征韓論が敗れ、西郷が下野す
 ると、天皇の引き留めの命にも従わなかった。
  そして、近衛長官の職をなげうって、鹿児島へ帰った。
  「陸軍士官、相去るもの此の如きに於ては、慮なき能
 はず。但だ篠原少将の在るあり、桐野等去るも、猶未だ
 憂ふるに足らず」と。
  存在自体が高く評価されていたので、この篠原の帰国
 は、政府、及び、軍関係者に大きな衝撃を与えた。
  そして、1874年に、篠原国幹は、桐野利秋・村田新八
 らとともに鹿児島に私学校を設立し、その監督となり、
 青年子弟を養成した。
  1875年(明治8年)に、大山綱良の依頼により、西郷が
 主にして、私学校党から区長・副区長を推薦したときは、
 池上四郎らとともにその人選に関与した。
  そして、1877年(明治10年)、弾薬庫襲撃事件と中原
 尚雄による西郷刺殺計画を聞いた篠原は、政府問罪の師
 もやむなしとし、2月6日に私学校本校で行われた大評議
 では出兵に賛成した。
  (問罪:罪を問いただすこと)。
  篠原の気持ちは、政府の罪を問いただす師とならん・・
  出兵に際しては、池上四郎が募兵、篠原が部隊編制、
 桐野利秋が各種軍備品の収集調達、村田新八が兵器の調
 達整理、永山弥一郎が新兵教練を担当した。
  2月13日の大隊編制では、桐野が総司令兼四番大隊指揮
 長、篠原が副司令格の一番大隊指揮長となった。
  1877年4月5日(明治10年2月22日)から始まった熊本
 攻城戦では、背面軍を村田新八・別府晋介らとともに指
 揮し、
  夜の本営軍議では損害を顧みず、一挙強襲によって熊
 本城を攻めるべきと主張したが、異議多く、策は入れら
 れなかった。
  政府軍部隊の南下が始まり、木葉・植木・田原の戦い
 が激化し、
  2月24日に高瀬方面に向かう第一旅団・第二旅団が南関
 に着くと、これに対抗するために、熊本城攻囲を池上四
 郎に任せ、海岸線の抑えに永山弥一郎を遣わし、
  桐野利秋は山鹿、
  村田新八・別府晋介は木留へ進出し、
  篠原は六箇小隊を率いて、田原に出張本営を設けた。
  この後、優勢な人員と進んだ武器を有する政府軍に徐
 々に押されたが、篠原の部隊はよく防ぎ、撃退した。
  菊池川の戦いでは、中央隊を請け負っていたが、弾丸
 が欠乏したという理由から勝手に戦線を離脱してしまう
 などという粗雑な面を見せた。
  西南戦争の切っ掛けは・・、
  1877年(明治10年)1月29日に、大久保利通、川路利良
 らが、陰謀を企てたとして激高した私学校生徒が、鹿児
 島の鎮台の弾薬庫襲撃を行い、これがきっかけとなり、
 西南戦争が起こった。
  この私学校は、西南戦争の終結後に廃止された。
..
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2016年4月4日月曜日

(増補版)324E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年6月)

題:*(増補版)324E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年(明治7年)5月2日、地方長官会議開催の詔書。
  議院憲法および規則を定めた。
  地方官会議(ちほうかんかいぎ)は、太政官が、1874
 年に開催を計画したが、台湾事件など内外多事のため開
 催にいたらず、1875年に初めて実現した。
  政府が、地方行政を円滑にすべく地方長官を集めて開
 設した会議。
1874年6月11日(明治7年4月27日)内閣顧問・島津久光が、
 左大臣に就任した。
  久光にとって、栄光の就任だったのだろうが・・、
  薩摩の殿様だった久光。
  新政府の生みの親の薩摩藩の殿様だった久光。
  しかし、久光にとって、その出来上がった新政府のや
 る事のすべてが・・納得できてはいなかった。
  それ故、新政府側から見ると、久光は「気になるご意
 見番」だった。
  1871年8月29日に、「廃藩置県」という一大改革が断行
 されたが・・、
  その夜、久光は、沢山の花火を、鹿児島の夜空に打ち
 上げた、打ち上げさせた・・、
  薩摩の元殿様。「廃藩置県」を祝うために上げさせた
 のではない・・、
  廃藩置県への鬱憤晴らしのためだった。
  久光の側に仕えていた元薩摩藩士・市来四郎は、後に
 書いている・・、
  「久光公は当務の急務を知らるるも、事皆西郷・大久
 保一輩の専断に出て、予議せる処なきを以て、往年以来
 の積憤重なりて、不満に堪へられず、発令の報鹿児島に
 達せし夜陰は、公子侍臣に命じ、邸中に花火を揚げしめ、
 憤気を漏されたり」
(鹿児島県史料「忠義公史料七巻」所収『市来四郎自叙伝
 十』より)
  久光は、廃藩置県が必要だと、急務だと分かっていた
 のだが、やはり、突然、はっきりと藩を廃されたという
 事に、
  そして、しかも、自分の藩の臣下の西郷と大久保の専
 断によって行われたということが、しっくりと気持ちに
 落ちては行かなかった。
  それが、この鬱憤の花火となった。
  また、鹿児島にいた久光の所に、1870年の(明治3年12
 月18日)に、
  久光と西郷を中央政界に呼び戻そうと、
  勅使として岩倉具視と、その随行者としての大久保利
 通の一行が来た。
  この頃の新政府は、多くの課題・難題が山積していた。
  当然、「廃藩置県」の一大改革の件もあった。
  当時、久光は、病気だったので、西郷を久光の代わり
 に中央政界へ派遣した(病気という事にしたのか・・?)。
  東京へ旅立つ前日、久光は、大久保と西郷へ・・、
  「わしは廃藩ということには不同意じゃ。そのところ
 をよく含んで、これから相勤めるように・・」と言った
 という・・、
  西郷と大久保の鹿児島出立は、1871年2月21日(明治4
 年1月3日)だった、
  その出立の前日、出立の挨拶に久光の所に参上した大
 久保の日記に・・
  「従二位公へ拝謁御暇乞且見込種々言上いたし候」
  (日本史籍協会編『大久保利通日記二』より)
  「従二位公(久光)へ拝謁して、暇乞いをし、かつ、
 今後の見込みについて、色々と言上しました・・」とあ
 る。
  ここは当然、廃藩置県が話の中心になっていて、久光
 公が、廃藩置県をしない様にという事に対し、
  これからの時代へ向かって、せねばならない所を、大
 久保は、元藩主の久光へ、言いにくい所を説明したのだ
 ったのだろう。
  しかし、久光は、後にも、西郷と大久保の専断だと言
 う様に、納得し切れていなかった。
  この時より12年さかのぼる1862年5月に、
  久光は、天朝の危機を感じて、勅命を奉じて幕政改革
 を実行させようと、京都へ単独で上った。
  ・・が、
  この時は、勅許を得て上京しようとしたが、婉曲(え
 んきょく、言い回しが穏やかでかどが立たないさま)に
 断られている。
  しかし、志士の激しい動向に怯えていた朝廷は、久光
 が駆けつけてくれて、浪士鎮撫の勅命を与えた。
  しかし、この様な行動をする久光と西郷の間に、この
 時、衝突があった。
  久光と西郷の間は、それ以来、しっくりと行っていな
 かった。
  その点、大久保は、久光の意向を忠実に守る臣下だっ
 た。
  その大久保が、廃藩置県の時は、久光の意向に反した。
  久光は、その点でも、しっくり来ないものを生じさせ
 た。
  1872年6月に、明治天皇陛下が鹿児島に巡幸された際も、
  陸軍大将であった西郷隆盛が随行したが、
  西郷は、一度も久光の所へ挨拶に行かなかった。
  この時、久光は、太政大臣の三条実美に、西郷を批判
 する書状を送っている。
  これに驚いた西郷は、急遽、鹿児島に戻って、久光の
 所へ行ったが、久光は、西郷に14カ条からなる問題点を
 突き付けた。
  この後、西郷は、鹿児島から外に出られなくなった。
  そして、1873年に、西郷が「明治六年の政変」に敗れ
 て鹿児島に戻った時、久光も独自な動きを始めた。
  そして、この時、1874年に、左大臣に任命された、
  そして、上京し、政府改革の建白を出したりして行く。
  しかし、大久保を中心にした政府は、その久光のすべ
 てを却下した。
  不満を持った久光は、翌年の1875年に、左大臣を辞職
 する。
  そして、その2年後、西郷は、1877年の西南の役へと
 つながって行く。
  また、西郷のその役による死の後、その翌年の1878年
 に、大久保は、東京の紀尾井坂で暗殺される・・、
  久光は、1887年(明治20年)に没し、国葬となるが・・、
 悔いる事が多い久光だったのではないのか?
  国へ尽(つ)くそうという熱意のある久光だったが、
 そして、多くの国の為の意思の下に行動を起こした久光、
  行動した久光だったが・・何か? 歯車が・・合わさ
 らなかった。
1874年6月12日(4月28日)樺太支庁が、東シララカ・ウショ
 ロ両出張所に、漁場廃止の旨を通達した。
1874年6月(明治7年5月)、森有礼「妻妾論」(「明六雑誌」)。
 一夫一婦制の内実、
1874年6月~8月(5~6月頃)貿易は・・赤字続き
  大久保利通が、「殖産興業に関する建議書」を作成し
 た。
  「大凡、国ノ強弱ハ人民ノ貧富ニ由リ、人民ノ貧富ハ
 物産ノ多寡ニ係ル。
  而テ物産ノ多寡ハ、人民ノ工業ヲ勉励スルト否ザルト
 ニ胚胎スト雖モ、其源頭ヲ尋ルニ、未ダ嘗テ、政府政官
 ノ誘導奨励ノ力ニ依ラザル無シ。
  維新のときからみれば、「外交内治」「文物制度」は
 ましにはなったが(文物:ぶんぶつ、文化の産物、学問・
 芸術・宗教・法律・制度など)、
  然レドモ勧業殖産ノ一事ニ至リテハ、未ダ全夕其効験
 アルヲ見ズシテ、民産国用、日ニ減縮スルニ似タリ。
  その訳は、民の知識が開けていないというより、むし
 ろ政府の「注意」がたらず、「提携誘導」の力が足りな
 いからだ(提携:ていけい、互いに助け合うこと。共同
 で物事を行なうこと)。
  イギリスも日本と同様、島国にすぎないが、貿易と工
 業によって盛大になった。
  イギリスが「君民一致」し、天然の利を生かし、財の
 用いかたを盛んにし、国家の基礎を確立したのは偉大で
 ある。
  我国もこの重大事に、イギリスを「規範」とすべきで
 ある。
  (明治政府のモデルは、明治10年代にプロシャに移っ
 てゆくが、この時期の大久保は、政治・経済ともにイギ
 リスを規範としている)  
  「民産国用日ニ減縮スル」:
  明治初年以来、対外貿易は大幅赤字を続け、
  明治3年の赤字は1,919万円超、
  明治4年は若干改善、5年914万円、
  明治6年647万円の赤字。
  輸出品は、生糸と茶(輸出の70%以上)ぐらいしかな
 い。
  この年(明治7年)、前年の19世紀最大の恐慌の影響が、
 金銀価格差として日本に押し寄せ、
  明治7年だけで、金貨流出は800万円、
  翌・明治8年には、1,000万円に及び、これは、鋳造高
 の2割を超える額であった。
  数年前まで、政府財政を一手に支えた両替為替商の小
 野組・島田組は、明治7年末に倒産した。
  内務省にとっては、輸出振興、輸入阻止、財政再建は
 最重要の課題だった。
1874年6月15日(5月2日)台湾征伐のため、谷干城らが長崎
 を発った。
  大久保の西下を知り、参軍谷干城・赤松則良らが、西
 郷命により軍艦4隻で出港した。
  翌3日、大久保利通が、長崎着。
  大隈重信・西郷従道と評議。台湾出兵の議を決す。
  出兵を是認した。
  「兵隊進退」の全権を帯びた大久保だが、これまで遠
 征計画を推進してきていた。
  大久保には、遠征軍の帰還を命令したり、西郷を命令
 達反で処罰する意思もなかった。
  大久保は、「既に福州(閩浙)総督へ公告書を送りた
 る上は、止めるべからざるの実況ゆえ」出兵を是認し、
 「生蕃処分済みの上、兇暴の所業を止め、我が意を遵奉
 するまでは、防制のため相応の人数残しおくべきこと」
 と、「討蕃」終了後も、現地占領を継続するとの積極方
 針までも「御委任の権内を以て裁定」。
  大久保は、積極的な出兵推進者だった。
  大久保の長崎行きは、西郷の暴走を抑止するためでは
 なく、逡巡する大隈に明確な方向を示すこと、そして、
 西郷を激励するためだった。
  大久保日記では、「大難の事ゆえ、心決いたし候」と
 し、
  予想される「難題を醸しだし候節は、大久保はじめ
 その責めに任ずべきこと」を大隈・西郷三者で申し合わ
 せたという。
  政府は、各国外交団の干渉に対応するため、長崎にい
 るリゼンドルの至急帰京を要請した。
  西郷はやむなくこれを了承した。
  長崎を離れるにあたってリゼンドルは、西郷のために
 「蕃地」での詳細な作戦計画書を作成した。
  現地で「熟蕃」懐柔に成功したら、「これを分ちて別
 伍(ご、仲間、組み)となさず、日本人の内に編入する
 を要す」、そうすれば、彼らは日本軍の「配下に帰す」
 と教示した。
1874年6月16日(5月3日)厦門領事陸軍少佐・福島九成(ふ
 くしまきゅうせい、陸軍軍人、青森県令)が、厦門着。
  李総督に出兵通知書伝達。
  11日、出兵通知受けた李鶴年総督、琉球も台湾も清国
 に属している、台湾への出兵は領土相互不可越を約束し
 た日清修好条規違反であり、撤兵要求の回答を西郷都督
 に送った。
1874年6月16日(5月3日)上海のフランス租界で、道路拡張
 案に中国人墓地の破壊が含まれていたため衝突し、死傷者
 が出た。
1874年6月17日(5月4日)大久保利通・大隈重信、西郷従道
 と長崎で会見し、西郷の強硬意見をいれて、征討の実施
 を決定した。
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2016年4月3日日曜日

(増補版)323E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年6月)

題:(増補版)323E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年5月25日(明治7年4月10日)立志社の結成
  板垣退助らが、高知で、政治結社の立志社を結成した
 (創立)、片岡健吉(土佐藩士、自由民権家)社長。
  当面の目的は、士族への授産と、学校設立による新時
 代教育だった。
  1874年6月28日(5月15日)初めての演説会をした。
  帰郷中の植木枝盛(17歳、うえきえもり、後に、自由
 民権運動の指導者となる)が参加した。
  立志社の同人達が、その「設立之趣意書」に記した様
 に、「国ノ本(もと)としての国民」が、政治的主体と
 して自己を確立する為、教育課題を提起した。
  また、政治と教育の不可分性を自覚した同人たちは、
 政治結社としての立志社の付設機関として、法律研究所
 を開設する(同月14日開校)。
  立志学舎は、漢学・洋学・数学・体育などの教育をし、
 当時、高知県では「立志社に洋学校あり」と言われ、
 また、「関西の慶応義塾」と言われた。
  1874年(明治7年)~1879年(閉鎖)の6年間の教員・
 生徒数は、年平均で教員約8名、生徒130名。
  各地の民権運動は、立志社と同様に、国民の権利の確
 立の要求を機軸とした。
  石陽社=石陽館(福島)、三師社=正道館(同)、
  求我社=行余学舎(岩手)、白郷社=自郷学舎(福井)、
  奨匡社=奨匡学舎(長野)・・など。
1874年5月25日(4月10日)イギリスの特派全権公使のパー
 クスと、外務卿の寺島が会談した。
  副島は、無主(むしゅ、主体となるものがない)の地
 への「打蕃撫民」と説明するが、
  公使パークスは、日清間の紛争がイギリスの経済活動
 に影響あって危惧するとした。
  また、清政府へは、柳原全権公使が伝えると説明する
 と、パークスは順番が逆だと反撃した。
  1874年5月28日(4月13日)パークスは、清が日本の台
 湾出兵を敵対行為と見做す場合、参加しているイギリス
 人とイギリス艦を召喚すると言った。
  パークスは、各国外交官に同調呼びかけた。
  ロシア、スペインが局外中立(きょくがいちゅうりつ、
 交戦国のどちらとも関係をもたず、戦争に影響を与える
 行動をしない立場)を表明した。
1874年5月25日(4月10日)御真影(天皇陛下、皇后陛下の
 写真の尊称)の売買並びに個人の所有が禁止にした。
1874年5月28日(4月13日)江藤新平が処刑された。
  江藤・島ら11人死刑判決者に、即日処刑がなされた。
  政府軍戦死190、江藤軍戦死167。
  前参議:江藤新平(41歳)
  佐賀裁判所判決。
  征討総督東伏見宮嘉彰親王・参議兼内務卿大久保利通
 が臨席した。
  征韓党江藤新平(41)、憂国党島義勇(52)梟首、他
 斬首11名。夕刻執行。
  大久保日記「江藤醜躰笑止なり」。
1874年5月28日(4月13日)イギリス公使パークスが、清国
 が、日本の出兵を侵略と見なすならば、イギリス人とイ
 ギリス船舶の参加させないと、寺島外務卿に言った。
1874年5月28日(4月13日)東京日日新聞記者の岸田吟香が、
 台湾征討に従軍した。
1874年5月31日(4月16日)上海の新聞「申報」が、日本の
 台湾出兵意図に疑惑を示し、当局の奮起を促した。
1874年5月(明治7年4月)、「あんぱん」が考案される。
  木村家が、東京・銀座(現=銀座4丁目)に店を移し、
  創業者の息子・木村安兵衛が酒種あんぱんを考案、発
 売し話題となった。  創業(1869年)
1874年6月1日(4月17日)横浜の英字新聞「ジャパン・ヘラ
 ルド」は、台湾派兵は戦争になる恐れが大きいが日本政
 府は公告していないと・・
  また、外国公使は中立であるべきだとし、
  アメリカは中立義務に違反していると主張した(日本
 への支援姿勢が批判された)。
1874年6月2日(4月18日)参議兼文部卿・木戸孝允が、台湾
 出兵に不満をもち、辞表を提出した。
1874年6月2日(4月18日)アメリカ公使のビンガムが態度を
 変えた。
  アメリカ公使ビンガムが、清政府からの了解のない限り
 アメリカ人とアメリカ艦の参加を取り止めると通告した。
  寺島外務卿は、三条太政大臣へ、リゼンドル、カッセ
 ル、ワッソン3名と共に、アメリカ艦の台湾行き差し止
 めを上申した。      
  ビンガムは、前年の1873年10月、デロングの後任とし
 て来日していて、
  デロングの方針を継いで、日本政府の台湾政策に好意
 的だった、そして、カツセルの雇用にも尽力していた。
  その後、ビンガムは、17日付け「ジャパン・ヘラルド」
 の記事に影響を受け、イギリス公使パークスに追随する
 強硬態度に変わった。
1874年6月2日(4月18日)駐清イギリス公使ウェードが、駐
 日公使パークスからの情報を総署へ通報した。
  6月4日(4月20日)清国総税務司ロバート・ハートも総
 署へ通報した。
  総署は、中華人民共和国マカオ特別行政区において、
 基礎自治体相当の行政を司る役所のこと。
1874年6月2日(4月18日)木戸孝允が、参議・文部卿を辞任
 した(台湾遠征に反対して)。
  2日には、閣議決定書への参議としての承認押印拒否。
  5日、伊藤博文も、岩倉への手紙で、政府の台湾方針に
 危惧を示し、5月、郷里山口に退去した。
  ドイツから帰国して、この年の3月から4ヶ月近く、木
 戸邸に食客として過ごしていた青木周蔵(外務一等書記
 官)が、岩倉具視から、木戸の慰留周旋を依頼された。
  「青木周蔵自伝」には・・、
  青木が、岩倉と会って、木戸邸に帰った夜中の12時過
 ぎ、木戸は静座(せいざ、心を落ち着けて静かに座るこ
 と)して待っていた。
  「予(青木)は、直に翁(木戸)に面し、其の質問に
 応じて右大臣(岩倉)の論旨を逐一申告し、更に留任を
 苦諫(くかん、言いにくいことをはっきり言って、目上
 の人を諌(いさ)めること)せしに、
  翁は一言だも発せず、沈思黙考するものの如くなりし
 が、卒然(そつぜん、突然)翁と予との間に在りし桐の
 火鉢を取て、之を坐上に擲ちたり。
  熱灰は、室内一面に飛散して、燈火も為に其の明を没
 し、炭火は散乱して畳を焦す・・」。
  青木が質問する。
  「此の火鉢は不肖に向て投ぜられしが、何等の不興な
 るぞ」。
  木戸は、涙を浮べて「何の理由をて足下に投ぜんや。
 唯感慨に堪へず、茲(ココ)に至りしなり」と答える。
  青木が、苦諫して木戸の感触を害したことを謝まる。
  木戸は、「何とて謝する事の必要あらん。足下の如き
 人物、我友人中果して幾人かある。是れ予の感慨に堪へ
 ざる所なり」と言い、青木を抱擁してまた泣く。
  ここに至るなかに、旧長州藩士・木戸の政府内におけ
 る孤立があった。
1874年6月3日(4月19日)政府は、アメリカからの雇船計画
 が変わったため、台湾遠征軍出動を見合わせとした。
  大隈・西郷に命じたが、西郷は、これに強硬に反対し
 た。
  この日、大臣・参議が緊急に集会するものの、大久保
 は佐賀に、大隈も長崎に出張中・・その為・・、
  出兵強行か、中止かの決定ができず・・、
  まず、清政府に、至急、問い合わせをし、その回答が
 到着するまで、遠征軍出動は見合わせとした。
  その旨を、長崎の大隈に電報で命令した。
  この様な推移では・・「この度の一挙、成功の目的万々
 これあるまじく」、
  しかも、「各国の公論、台湾は支那の版図たること判
 然たる上は」、遠征を一時中止せざるをえないであろう
 との三条の書簡を携行した使者を長崎へ急派した。
  大隈は、遠征一時見合わせの電報に接して、弱気に転
 じるが、西郷都督は出発延期命令に従わなかった。
  リゼンドル、カッセル、ワッソンのアメリカ人グルー
 プも強行策を主張した。
1874年6月3日(4月19日)政府が、台湾征討中止を決定した。
 そして・・、西郷従道に出発延期を命じた(西郷は反対
 姿勢を強く示す)
  台湾への征伐出兵の準備に入ったが・・、
  政府は派兵延期を決定し、1874年6月6日(4月22日)に、
 征伐本部として蕃地事務局が、西浜町の薩摩藩邸跡に設
 けられた。
  長崎は、その兵站基地となった。
  参議・大隈重信を台湾蕃地事務局長官に、また、
  陸軍中将・西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命し、全
 権が与えられた。
  1874年6月17日(5月4日)大久保利通、大隈重信、西郷
 従道が長崎で会見した。
  西郷の強硬意見を入れ、征伐実施に決定。
  1874年6月30日(5月17日)、西郷従道は、兵3千を率
 いて長崎を出発した。
  台湾への軍事出兵「征台の役」を断行す。
  ・・台湾南部に上陸し、原住民と小競り合いが起きた。
  1874年7月5日(5月22日)西郷の命令を受け、台湾原住
 民に対する本格的な制圧を開始。
  1874年7月16日(6月3日)事件発生地域を制圧、占領を
 継続。
  しかし、風土病に悩まされる。
  戦死者12名に対し、病死者561名に及んだ。
  イギリス公使ウェードの斡旋により和議。
  全権弁理大臣として大久保利通が北京に赴く。
  清国政府と交渉。
  結果、清国政府は、日本の行動を認めた。
  そして、遭難漁民への見舞金・50万両(テール)を支
 払うことに、そして、日本は征討軍撤兵となる。
1874年6月8日(4月24日)大久保、佐賀より帰京。
  台湾出兵に対するイギリス・アメリカの干渉は、「ま
 ことに大事の国難」と痛感。
  「兵隊進退」の委任をうけ、6月13日(4月29日)、東京
 を出発して長崎へ急ぐ。
1874年6月11日(4月27日)各府県に命じ、里程を測定させ
 た(1874年5月説あり)
  内務省達乙三十二号「測量司石製標柱建設」を令し、
 各地方ヘ測量標柱建設方を布告した。
  測点に不朽の石製標柱を建設するよう指図(別紙で、
 絵図面を掲載)
  明治維新以前の幕府の財源は、大部分が農民が米で納
 める租税だった。
  維新後の新政府は、土地制度と租税制度の改革に取り
 組み、まず、田畑売買の禁令を解いた、
  そして、租税徴収のため土地の所属を明確にした地籍
 調査を行なった、
  また、土地の面積を算出する土地丈量(地押丈量、地
 積測量)を始めた、
  江戸時代以前の「検地」と同様だが、土地丈量では、
 最小区画の筆(ひつ)ごとの土地の位置、形状、地番、
 面積を記載した「野取図」や、「一筆限図」を作った。
  そして、これを字単位でまとめた「字限図(あざきり
 ず)」、そして、更に、村単位の「村限図」を作成した。
  これらの事業のために、1869年(明治2年)に、民部省
 (発足当初は民部官)庶務司戸籍地図掛が設けられ、
  翌年・1870年には、民部省地理司が設置された。
  1871年(明治4年)に、民部省は、大蔵省と合併し、
  大蔵省租税寮地理課に民部省地理司の業務は引き継が
 れた。
  そして、1873年(明治6年)内務省が設置され、
  翌年・1874年には、内務省地理寮ができ、継承された。
  字限図は、村単位の村限図なども含め、「地租改正地
 引繪圖」の一部となり、後年の地籍調査の基礎となった。
  1872年(明治5年)には、課税対象を明確にし、地価を
 定め、
  官有地や私有地などの地主に対して、一筆の土地ごと
 に地券(壬申地券)を発行し、土地売買の自由も認めら
 た。
1874年6月11日(4月27日)西郷従道が、厦門領事陸軍少佐・
 福島九成に、清国閩浙総督・李鶴年宛の出兵通知書を託
 し、独断で兵200を有功丸で派遣。
  アメリカ人のカッセル、ワッソンも同行。
  5月3日、福島が厦門に到着、現地当局経由で台湾管轄
 の李総督に出兵通知書を伝達した。
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