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2011年9月9日金曜日

「 パウロ 」 から 「 イエス 」 へ 脱却へ

 題: 「 パウロ 」から「 イエス 」へ 脱却へ

 イエス・キリストは、「他律戒」から「自律戒」の人であった。

 キリスト教の姦通の女をめぐる話において、
      イエス・キリストは、
               従来の石打ちの刑を赦した。
 これは、
   聖書の神の律(=天地創造神の他律戒)を
      否定し、
         イエス・キリスト自らが、律を決め、行った。
 そして、姦通の女を赦した
     イエス・キリストは、他律戒を棄て、
                 自律戒を発したのである。
 『私(イエス・キリスト)も貴方を罪に定めない。
     行きなさい。
        これからは、もう罪を犯してはならない』
              (「ヨハネによる福音書』8・11)
 神を立てない仏教の、人間が作った自律戒と 同様な、
     『私(イエス・キリスト)も 貴方を罪に定めない』
                         と言う。
 有罪か無罪かの判断は
         神からの他律戒を基準にしているのではない。
 他律戒の天地創造神の律および戒の
              世界」から
                  脱却した。
 そして、   
    『もう罪を犯してはならない』との 言葉を添える。

 イエス・キリストも
         仏教と同じ 自律戒の人(神)となった。
 そして、
    この自律戒の基準は何か
              と考えると、
    「宇宙を宇宙たらしめている 
                 絶対的な者であり、
      万人の内部にもあって 
          聖なる霊として働くものである(=仏性)。

 それは、万人の外にいる天地創造神のような
      他律戒を発する様な存在
            ではない(キリスト教の神ではない)
     
 今の世界のキリスト教は、
           パウロ・キリスト教であり、
              現状は、
              完全に論理の破綻を起こしている。
           イエス・キリスト教へ
              全面的に変わらなければならない。
 (参考)脱却:
      (1)捨て去ること。脱ぎ捨てること。
                  「古い考えをーーする」
      (2)ぬけ出ること。

2011年9月8日木曜日

「 他律戒 」 から 「 自律戒 」 へ

 題:「 他律戒 」 から 「 自律戒 」 へ

 「他律戒」から「自律戒」になって 始めて完成される 話

 キリスト教は、「他律戒」の啓示の宗教である。
  「 他(=天の神)から、与えられる律(=規則)や戒 」を
                      教義としている。
 キリスト教の聖書の「申命記」には、
   「私が命じる総べての掟と戒めを守れ、
       そうすれば長く生きる事が出来るであろう」との
                    命令型の教義がある。
 また、「主を愛せよ、
     今日、私が命じるこれらの言葉を心に留め、
     子供達に繰り返し教え、
     家に座っている時も、
     寝ている時も起きている時も、
     これを語り聞かせなさい。
 更に、これをしるしとして自分の手に結び、
     覚えとして額に付け、
     貴方の家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」・・と
     ・・・「何々を行え」など・・命令型の教義がある。
 キリスト教の宗教コンセプトは、
     キリスト教信徒を『迷えるひつじ」とし、
     天の神と信徒の間に居るとした聖職者を、
     その中央集権的な序列・ヒエラルキーの上位者と位置付け
     また、聖職者・牧師を「牧童」と見立て、
     迷えるひつじ(=キリスト教信徒)を、
            追い導くというコンセプト・設定である。

 キリスト教の聖書には、
     「世話になった牧羊者の娘の、姉と妹を、同時に口説き
     いっぺんに二人を妻にする」という記述もあり、
     この1例の様な聖書作成時の昔に成立していた道徳観と
     共に存在する、
 「他律戒」= 「アレするな、コレするな」の世界である。

 キリスト教徒の方々の自主性は
     全く考慮されていない。
     それを無用とし、与えず、
     また、キリスト教信徒の自主的な知恵を取り上げ、
     また、信じないという教義設定であり、
     コンセプトである。
 全く、信徒・キリスト教徒の「理性を尊重し、信じる」という
     所がない。 
     天から聖職者を経由して与えるだけというかたちである。

 感じるところがつくづくあったのであろう、
     世界的な権威者に
     「天の神は生活のこまごましたことまで立ち入ってくる」
     という吐露した言葉もある。
 また、キリスト教は間違った他律戒によって判断し、
     ガリレオを有罪にし、ブルーノを焚刑で殺した。

 (注):キリスト教の「他律戒」の一例 :
     「台所に他の女性が入ったなら、その鍋の料理は捨てよ」
     という意味の律(律法)(=トーラー)がある。
 「参考比較」 : 
     仏教は、衆生の行状を知って後、
     キリスト教の様に『駄目だからやめよ』とか、
     「だから、こうせよ」という命じる形はとらない。
     自律戒の形をとる。
     「それは駄目な事だと解らせ」 「悟らせよう」とする。
     そうしてまた、「究極の仏の教えまで、教え導き、悟らせ
    よう」とする。
     衆生・信徒を信じ、
     その「理性を信じる」ことを前提・スタートに置いている。

 『 律法は、他律戒から自律戒になって始めて完成される 』。
     自分の理性によって判断をするべきである。

 (参考1) アインシュタインの言葉 :
     「私が信じる神は、存在するものの整然たる調和の中に
     自らを現している神であり、
     人間の運命や所業に関心を持つ神(キリスト教の神)
    ではない
    (信徒の一挙手一投足までとやかく言う神ではない)』

 (参考2):
    モーゼは、
    「民数記」第31章18節に、違う宗教を立宗したり、
    虐殺したリ。
    また、第31章18節には、「まだ男と寝ず、男を知らない娘は
    すべてあなたがたのために、生かしておきなさい」・・・と。

 (参考3):
    キリスト教の聖書は、 「女性は財産」との道徳観で
    書かれている。

2011年9月7日水曜日

イエス・キリストに「 三位一体神 」の考えは無かった

 題 : イエス・キリストに 「 三位一体神 」の
      考えは無かった

 イエス・キリストに、キリスト教の根本教義の一つである「三位
 一体神」の考えは、無かった。

☆ヨハネによる福音書の10・34~36に、下記の様に書かれている。
 10・34
 イエスは彼らに答えられた、
 「あなたがたの律法に、『わたしは言う、あなたがたは神々である』と
 書いてあるではないか。
  10・35
 神の言を託された人々が、神々といわれておるとすれば、
 (そして、聖典は無視できない)
 10・36
 それならば、父によって聖化されて世に遣わされてきたわたしが、
 「わたしは神の子である」と言ったからとて、
  どうして神を冒涜したと責められるのか。

・ これは、イエス・キリストが、神は一神ではなく神々(多神)の
 存在である。
 それは、貴方たちの聖典・律法に神々(多神)と書かれているでは
 ないか、だから、
 わたし(イエス・キリスト)は、神々・多神である神を冒涜していること
 にはならない。
 つまり、
 『父なる神』から遣わされて来て「わたし(イエス・キリスト)は『神の
 子』である」と言っても
 神々・多神の存在の中において、
 神々・多神の冒涜にはならない(貴方達も私も、聖典・律法は無視
 することはできない)・・・と主張しているのである。

 イエス・キリストには、「三位一体神」などという考えはなかった。
 あくまで一つ一つの神々、つまり多神と考えていた。
 神々・多神の中に、『父なる神』や自分自身も『神の子』としても考え
 ていた。
 貴方達の聖典にも書くかれていて、私も信じるその聖典に書れて
 いる神々・多神の存在を守らなければならない。
 その教義・論理を根拠として、「わたし(イエス・キリスト)は、神々・
 多神の冒涜をしていないと主張しているのである。
 貴方達の神を否定し、また排除して「神の子」と言っているのではな
 く、多神・神々の中の「神の子」と言っているのです、と言っている。

☆テルアビブ大学ゼエブ・ヘルツオグ考古学教授の言葉:
  「 (キリスト教の)『唯一の神』という一神教の概念についても、
  生まれたのは今から2000年余りさかのぼるに過ぎない 」
              (1999年10月3日、朝日新聞夕刊)
  キリスト教(ユダヤ教)が生まれた最初から
 「 一神教である 」としてきた世界の常識が
  間違いであったことが証明されている。

☆多様性や自由、人間の尊厳を重んじる世界へと突き進んで行け。
 そうすれば、人類が自由に人道的に生きていくという理想を揚げ、 
 夢に向かって羽ばたくことができる。  
        (キリスト教暗黒の裏面史 238~9頁 徳間文庫より)
 ・方向性は多神教にある事が確認され、
           それが正しい方向性だと分かってきた。    
 また、最近、次の確認をした。
 来日された前パリ・ソルボンヌ大学総長が上記考えと同じ発言を 
 されていた。
 多様性の中に人類の未来があり、各多様性さの中に神聖さがあ 
 り、オリジナリティがある・・・など。
 小生の日記、「近代の最先端科学は『 キリスト教の間違い 』を 
 証明したを、ご覧ください。

2011年9月6日火曜日

漂流するボートに居た4人は・・・

 題 : 漂流するボートに居た4人は・・・

 キリスト教は、
    「(キリスト教の)神の義があれば」という
        言い訳を与え、
            人間を
              「物と同様」に考えて良いと
                         教える。
 そして、
    「(キリスト教の)神の義があるなら、
                 人を殺して良い」 と言う。
 その
   キリスト教の教えで、
        他人を殺戮し、略奪する行為が、
           累々と
             人の命を奪うキリスト教の歴史が、
                        展開される。
 現代でも、
     この悲惨な行為は 行われている。
 聖書に
     「異教徒を殺せ」
          「魔女は生かしておいてはならない」等の
     「殺人指令」を
           厳然と
              存在させている。
 事 例 : 
    漂流するボートの中に
             置かれた
                 4人のキリスト教徒は、
        この
          キリスト教の教義が
                   思考形態の中にある。
    そして
       なんだかんだと
          意味付けし、
             ある一人の人間の命を
                奪う。
                   そして、
                     自分の糧とする。
    その中の
        ある者が
             日記に記す
       「 『 朝食 』 を食べている時、
              発見され、救われた」・・・と。

     (NHK,2010・4・24、am1:05,
               ハーバード白熱教室を
                        見て思う) 
ーー(若い方達へ)ーーー

 キリスト教は 贈り物とか、讃美歌とか、
        外見上は優しく見えますが、
             若い方達は 特に 
                     ご注意ください。
  虐殺や戦争の事例が
          実に多い 宗教です。
 それは
   『(キリスト教の)神の義によれば、
           人を誅しても良い』という
                  教義から来ております。
 他人を絶対に
       あやめてはいけません。
 
 間違った宗教に幸せな未来はありません。

 キリスト教の罪悪の一例である、
     ヨーロッパの30%もの方々が亡くなった
          戦争事例が
               どの様なものかを
                      お調べ下さい。
  そしてまた、
       この%の
           異常さをお感じ下さい。

  どの宗教も同じという話は
              無くなると思います。
  やはり、
     教え・教義からくる
              悲惨な結末なのです。

2011年9月5日月曜日

スー族酋長の言葉

 題: スー族酋長のことば 
    (アメリカ開拓民と遭遇した 先住民スー・オグララ族の言葉)

 広々と 開かれた、
 どこまでも 広大な 平原や、
 ゆるやかに 起伏を描いていく なだらかな丘や、
 曲がりくねって 流れていく 小川は、
 わしらの目から見れば、
 少しも 野蛮では なかった。
 
 ただ 白人だけが、
 自然を 野蛮だと 思っていた。
 ただ 白人にとってだけ、
 大地は 「荒れ果て」、
 動物たちは 「獰猛で」、
 そこに住む ちっぽけな人間どもは 「野蛮」だったのだ。
 
 わしらには、
 大地は 優しく、
 寛大だった。
 わしらにはそこに、
 「大いなる神秘」の 恩恵に 満たされながら、
 生きている。
 
 そういう大地が 「野蛮」になってしまったのは、
 東部から 毛深い人間どもが やって来て、
 気違いじみた 乱暴さで、
 わしらや わしらの愛する 家族に、
 不正を 重ねてからのことだ。
 そのとき 以来、
 彼らが近づくと、
 森の動物たちも、
 こそこそと 尻尾を巻いて、
 逃げだした。
 わしらの土地が、
 「野蛮な西部」などと 呼ばれるようになったのは、
 その頃からの ことなのだ。
       ・・ 「インディアンの言葉」 紀伊国屋書店

☆ キリスト教の理想的世界を実現しようと
 新大陸に渡ってきたピューリタン
 勤勉を美徳とする ピューリタン精神
 初期の移住者は
 当初
 アメリカ土着のインディアンと
 和平条約を結び
 生活の仕方を教えてもらい
 学ぶが
 その恩も なんのその
 その後
 西部開拓における
 インディアンの殺戮行為を
 行うこととなる。

☆追記
  ( メイフラワー誓約 :アメリカ最初の憲法 )
 最初にアメリカにやってきた人々
 キリスト教信仰の自由を求めてやって来た人々
 ピューリタンによってつくられた
 最初の憲法は
 アメリカ原住民を欠いた
 また
 アメリカ原住民の意志の
 全く入っていないもの
 条文主旨は
 キリスト教信仰のため
 植民地を 建設したい とする
 キリスト教の神が介在する 契約としている
 条文内容は
 アメリカ原住民に配慮した記述は
 全くない
 憲法作成者たちだけで
 都合のよい国を
 つくりたいと 誓っている
 そして
 その公平性と 平等性を 誓っている。
 アメリカ原住民が欠けた
 この契約は
 共同して
 結果
 土地を収奪し
 自分たちだけで
 都合のよい植民地を
 得たい・得よう との感じに
 なっている
 この契約に 参加している人たちは、
 多数決主義を とっているが
 乗船者数100名以上のうち
 本契約参加者数は 41名と多数を
 形成していない
 また
 契約した人たちの国は
 イングランド(英国)だけでなく、
 フランス
 アイルランド
 スコットランドと なっているため、
 特に 契約が必要と感じたのだと思われる
 (同船したけれど・・)