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2017年1月27日金曜日

(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)

題:(増補版)486E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年5月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年5月10日、会計検査院法が公布された。
  歴史・・、
  1969年(明治2年)太政官(内閣の前身)のうちの会計
   官(財務省の前身)の一部局として設けられた監督
   司を前身とした。
    その後、検査寮、検査局と名称を変えた。
  1880年(明治13年)太政官に直属する財政監督機関と
   して誕生。
  1889年(明治22年)大日本帝国憲法が発布され、憲法
   に定められた機関となった。
    以後、約60年間、天皇陛下に直属する独立の官庁
   として財政監督を行って来た。
  1947年(昭和22年)日本国憲法が制定され、憲法第90
   条の規定を受けて、現行の会計検査院法が公布され、
   施行された。
    会計検査院は、同法によって内閣に対し独立の地
   位を有するものとされた。
    改正点は、国会との緊密性、検査対象の拡充、検
   査結果の行政への、即、反映。
    (会計検査院ホームページを参考にした)
1889年5月11日、東京乗合馬車会社が創立された(1888年5月
 説あり)
  東京馬車鉄道株式会社の資料は多いが、この東京乗合
 馬車会社の資料は、下記の1点が発見された。
  菊川町(現:墨田区菊川のあたり)にこの乗合馬車の会
 社はあった。
  墨田区で著名な小島惟孝氏の「墨田の町々」によると、
  1889年(明治22年)5月の中外商業新聞(現在の日本経
 済新聞)に、
  「本所区菊川町二丁目の東京乗合馬車会社は、昨年(
 1888年)五月十一日其筋より設立の許可を得・・馬車も
 江木社長が英国にて購入し来りたる分三十両丈到着した
 るを以て、
  既に此の程より仮営業を始めしが・・」とみえ、
  菊川から二之橋を渡り、左折して馬車道を両国橋にで
 て、九段まで通じていた。
  市電が開通する三十五・六年まで繁盛した。
  今でも二之橋から北へ二本目の通りを「馬車通り」と
 いう愛称で呼んでいる・・とある。
  因みに、「東京馬車鉄道株式会社」の記述は・・、
  欧米視察の後、鉄道馬車の必要性を痛感して帰国する
 人は多く、第三十三国立銀行の種田誠一氏も、その一人
 だった。
  視察後に、他3名の発起人を含めて1880年(明治13年)
 「東京馬車鉄道株式会社」を設立した。
  馬180頭と馬車30両を収納する車庫兼厩舎が必要なこと
 から本社地の選定に苦心した。
  当時も、過密都市「東京」で、容易なことではなかっ
 た。
  民有地は無理と判断し、秋葉原の火除地や、上野駅周
 辺(駅がまだ作られていなかった頃)の借用を願い出た。
  しかし、これは許可されず、結局、汐留の鉄道局構内
 を借用することで許可が下りた。
  当時の鉄道局だった。
  出願したルートは下記の3路線。
  1、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(御成り通り)
   ~上野公園~浅草広小路
  2、新橋停車場~新橋~日本橋~昌平橋~(大伝馬町通
   り)~浅草橋~浅草広小路
  3、新橋停車場~新橋~京橋~(日本橋東仲通り)~
   江戸橋~(馬喰町通り)~浅草広小路
  1882年(明治15年)6月25日、新橋~日本橋間で、最初
 の営業が開始された。
  停留所は、基本的に汐留本社、新橋、終着地のみで、
 途中の停留所は存在せず、利用者が降りたいところを車
 掌に告げれば下車できた。
  乗車の際も手を上げれば乗れた。
  そして、1882年の同年10月に、新橋~日本橋~上野~
 浅草~日本橋~新橋というP字形の環状線も竣工し、
  1882年12月3日に、盛大な開業式が行われた。
  1899年、品川馬車鉄道会社を吸収合併し、路線を品川
   まで延長した。
  1900年(明治33年)電車への動力変更の特許を得て、
   社名を東京電車鉄道株式会社に改称した。
  1903年(明治36年)電車に転換するまで、約20年間、
 営業された。
  ある下町っ子の東京馬車鉄道の回想・・、
  「大通りは其処をまた、小さな鉄道馬車が不景気な鈴
 を振立てゝ、みじめな瘠馬に鞭をくれ乍らとぼとぼと、
 汐留から只一筋に、漸く上野浅草へと往復して居りまし
 たが、
  今の電車と違って乗降も乗客の自由で、鳥渡(ちょっ
 と)言葉さへかければ何処の辻でも其処の角でも、勝手
 気侭に停めてくれました。
  馬は馬で所構はず糞便をたれ流す、車台は車台で矢鱈
 に脱線する、其都度跡の車台から駆者や車掌を招集して、
 はては乗客までも力を添へ乍ら掛声諸共元のレールヘ、
 をさめるのでありましたが、
  狡滑な人は其ひまに随分乗逃も出来たでせう。
  思へば実に幼稚な物で、其が東洋第一と誇る日本の主
 府、我東京市の面目を僅に保っていた唯一の交通機関で
 あったかと思ふと、全く情ないやうな心もいたします」
 (喜多川浅次著『下町物語』)
  この馬車鉄道が、最盛期には、300輌の車両と2000頭の
 馬を擁し、毎日、東京の中心地を馬糞まじりの砂ぼこり
 を蹴立てて往復しつつ、
  巨大な利潤をあげ、株主には、毎季3割5分の配当を行
 う我が国でも数少ない超優良企業であった。
  (東京都公文書館を、一部、参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本が第二次世界大戦を開戦するまで、いったい、何があったのか?
    開戦前の状況を見る(1940年~1941年)・・、
.
1940年1月12日、ソビエト連邦がフィンランドの各都市を空
 襲した。
1940年1月21日、浅間丸事件
  千葉・房総沖で、イギリス軍艦が浅間丸を臨検し、ド
 イツ人船客21人を拉致した。
  このため反英気分が再び強化した。
1940年2月16日、ノルウェー領海で、イギリスとドイツが軍
 事衝突(アルトマルク号事件)
1940年3月12日、ソビエト連邦・フィンランド講和条約が
 モスクワで調印された(冬戦争終結)
1940年3月20日、フランス・ダラディエ内閣辞職。レノー
 内閣が成立した。
1940年3月30日、汪兆銘(おうちょうめい)が、南京で親日
 政府樹立(南京政府)
  政府発足後、イタリア、タイ、フランス、満州国、バ
 チカンなどが国家承認した。
1940年4月9日、ドイツ軍が、デンマーク王国・ノルウェー
 王国に侵攻(北欧侵攻)、デンマークが降伏。
1940年5月10日、ドイツ軍が、オランダ王国・ベルギー王国・
 ルクセンブルク大公国・フランスに侵攻開始(ナチス・
 ドイツのフランス侵攻、オランダの戦い)
1940年5月10日、イギリスが、アイスランドに侵攻した。
1940年5月15日、オランダがドイツに降伏した。
1940年5月18日、日本が、重慶を空襲した。
1940年5月28日、ベルギーがドイツに降伏した。
1940年6月3日、ドイツ軍がパリを空襲した。
1940年6月4日、ドイツ軍がダンケルクを占領した。
  抱囲されていた英仏軍の大半が脱出に成功した(ダン
 ケルクの戦い、ダイナモ作戦)
1940年6月5日、ドイツ軍がフランス総攻撃を開始した。
1940年6月7日、ノルウェー国王のホーコン7世が、イギリス
 に亡命した。
1940年6月9日、ノルウェー国王が、イギリスより対独抗戦
 中止を命令した。
1940年6月10日、イタリアが、イギリス・フランスへ宣戦
 布告した。
1940年6月10日、アメリカのルーズベルト大統領が、イタリ
 アの対応について「背中から刺すようだ (Stab in the
 Back)」と非難した。
1940年6月10日、ノルウェーがドイツに降伏した。
1940年6月11日、フランス政府がトゥールに移転した。
1940年6月13日、フランス軍がパリから撤退した。
1940年6月14日、ドイツ軍がパリに無血入城した。
  フランス政府はボルドーに移転した。
1940年6月15日、イタリア軍が、フランス領に侵攻した。
1940年6月15日、ソ連軍がリトアニアに進駐を開始した。
1940年6月16日、フランスのレノー内閣が辞任し、ペタン元
 帥が首相に就任した。
1940年6月17日、フランスが、ドイツに敗北した。
  フランス・ペタン首相がドイツ軍に休戦提議した(正
 式調印6月22日)
1940年6月17日、ソ連軍が、ラトビア・エストニアに進駐を
 開始した。
1940年6月18日、フランスのド・ゴール将軍が、自由フラン
 スとして、ロンドン放送で、対独抗戦継続を呼びかけた。
1940年6月19日、日本が、中国への武器供給を中止するよ
 う求めた。
  『援蒋ルート』の閉鎖を要求した。
  日本は、フランス領インドシナ政府(フランス)に対
 し、アメリカが中国・蒋介石を援助して大量に無制限な
 武器と金を供給していた行為のルートとなっていた「援
 蒋ルート」を閉鎖するように要求した。
  しかし、このルートからの中国への供給が止まらない
 ため、日本は、このルートによる供給を止めるために、
 この地域に、1940年7月28日に進駐した(フランス政府は、
 1940年7月19日に、日本の要求を受け入れるとした。
  フランス領インドシナ総督ジョルジュ・カトルー将軍
 は、シャルル・アルセーヌ=アンリー駐日フランス大使
 の助言を受け、仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問
 団(西原機関)の受け入れを了承した。
  また、アルセーヌ・アンリー大使との協議においても
 8月末に交渉を妥結し、松岡・アンリー協定が締結された。
  日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フラン
 ス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらに、これ
 にフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏
 印との経済関係強化が合意された。
  しかし、アメリカは、仏印に上陸している自分の行為
 を棚に上げて、日本の上陸を侵略だとした。
  そして、これを、第二次世界大戦の開戦理由の一つに
 した。
  アメリカこそ、アメリカ正規軍や武器をこのルートに
 先に上陸させている。これこそ侵略行為だ。
  因みに、この2日前の6月17日に、フランスは、枢軸国・
 ドイツに敗北し、独仏休戦協定が締結されている。
  当然、休戦協定を受入れたフランスは、援蒋ルートを
 使う連合国・アメリカの行為を是認しない方針となって、
 日本の方針を了承した。
1940年6月19日、日本がフランスに対漢援助禁止を要求した。
1940年6月22日、独仏休戦協定が調印された。
1940年6月25日、アメリカの援蒋ルートの中国への武器援助
 ルートを閉鎖するため、南部仏印への進駐が決定された。
1940年6月27日、伊仏休戦協定が締結された。
1940年6月28日、ソ連がルーマニア領に進駐した。
1940年7月、アメリカが、「両洋艦隊法」を成立させた。
  この法律によって、予算措置がなされ、大西洋、太平
 洋の両洋で、ドイツや日本に対抗する海軍建設が決定さ
 れた。
  もう、この頃から、アメリカ大統領のルーズベルトは、
 日本を完全に仮想敵国として、戦う準備を始めていた。
  この計画は、モンタナ級戦艦5隻 (航空母艦建造に集
 中するため、のち建造中止)、アイオワ級戦艦2隻(航空
 母艦建造に集中するため、のち建造中止)、航空母艦18
 隻、アラスカ級大型巡洋艦 6隻,、巡洋艦 27隻,、駆逐艦
 115隻、潜水艦43隻など合計133万トン(7割増)の艦艇建
 造、15,000機の航空機製造などが決定された。
1940年7月2日、フランス政府がヴィシーに移動した。
1940年7月3日、イギリス艦隊が、アルジェリアのオラン港
 のフランス艦隊を撃滅した。
1940年7月5日、フランス政府(ヴィシー)がイギリスとの
 国交を断絶をした。
1940年7月10日、ドイツ軍によるイギリス本土空襲が開始さ
 れた(バトル・オブ・ブリテン)
1940年7月11日、 フランスのルブラン大統領が辞職した。
  ヴィシー政権でペタン元帥が国家主席に選出された(
 第三共和政終了)
1940年7月19日、ドイツ・ヒトラーがイギリスに和平を求め
 る国会演説を行った。
1940年7月21日、リトアニア、ラトビア、エストニアが独立
 した。「社会主義共和国」であると宣言した。
1940年7月23日、 サムナー・ウェルズ(アメリカ国務次官)
 がバルト諸国のソ連への編入を承認しない旨を宣言した
 (ウェルズ宣言)
1940年7月27日、南進政策を決定した。
  大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処
 理要綱」を決定した。
  日本は、世界情勢の変局に対処し、内外の情勢を改善
 し、速やかに支那事変の解決を促進するとともに、好機
 を捕捉し対南方問題を解決す。
  支那事変の処理いまだ終わらざる場合において、対南
 方施策を重点とする態勢轉換に関しては、内外諸般の情
 勢を考慮しこれを定む。
  右二項に對処する各般の準備は極力これを促進す」
  「仏印(広州湾を含む)に対しては、援蒋行為遮断の
 徹底を期するとともに速やかにわが軍の補給擔(担)任、
 軍隊通過および飛行場使用等を容認せしめかつ帝國の必
 要なる資源の獲得に勉む。情況により武力を行使するこ
 とあり」
1940年8月20日、八路軍(中国・華北のすべての共産党系の
 軍)が、日本を大々的に攻めて来た。
  大攻勢の状態(百団大戦、~ 12月5日)。
1940年8月末、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アン
 リー大使との間で日本とフランスの協力について協議が
 開始された。
  8月末に、交渉が妥結し、松岡・アンリー協定が締結さ
 れた。
  ・フランス領インドシナへの日本軍の進駐の承認。
  ・極東における日本とフランスの利益を相互に尊重。
  ・仏印においてフランス側が可能な限りの援助を行う。
  ・日本と仏印との経済関係強化。
  以上がが合意された。
1940年9月7日、クラヨーヴァ条約:ルーマニア、南ドブロ
 ジャをブルガリアに割譲した。
1940年9月22日、日・仏印軍事協定成立(9月23日説あり)。
  この日、現地の両軍司令部間(西原一策・アンリ・マ
 ルタン)での軍事協定(西原・マルタン協定)が締結さ
 れた。
  翌日の9月23日より正式進駐が開始された。
1940年9月23日、日本軍が北部仏印へ進駐を開始した。
  日本軍、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印
 進駐)
  一部で交戦となったが、ドクー総督の指令で、9月25日
 に停戦した。
1940年9月23日、イギリス軍が、西アフリカのフランス領へ
 侵攻した。
  フランス軍に撃退された。
1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結された。
  アメリカは第二次世界大戦に参戦していなかったが、
 この三国同盟はアメリカを硬化させた。
1940年10月3日、フランス政権(ヴィシー)が、ユダヤ人並
 びに外来者に対する法を可決した。
1940年10月12日、三国同盟に対する対抗措置を取るとアメ
 リカが表明した。
1940年10月12日、ドイツ軍が、ルーマニアに進軍を開始し
 た。
1940年10月16日、アメリカが、くず鉄の対日禁輸を決定し
 た。
  また、援蒋ルートとしては、イギリス領ビルマのビル
 マ公路などを利用することで、蒋介石への援助を続けた。
1940年10月27日、メキシコが、対日禁輸を解除した。
1940年10月28日、イタリア軍が、ギリシアに進軍を開始し
 た(ギリシャ・イタリア戦争)
1940年10月28日、ドイツのヒトラーと、イタリアのムッソ
 リーニが会見した。
1940年11月5日、アメリカ大統領選挙で、フランクリン・ル
 ーズベルトが3選された。
1940年11月11日、イギリス海軍が、空母艦載機によりイタ
 リアのターラント軍港を攻撃した(タラント空襲)
1940年11月13日、御前会議で日華基本条約および支那事変
 処理要項を決定した。
1940年11月14日、ドイツ軍が、イギリス中部の都市コヴェ
 ントリーを空襲した。
1940年11月20日、ハンガリーが、枢軸国に加入した。
1940年11月22日、トルコ全土で戒厳令が敷かれた。
1940年11月23日、ルーマニアが、枢軸国に加入した。
1940年11月23日、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発
 した。日本が仲介役となる。(11月5日説あり)
  11月25日からはタイ王国とフランス領インドシナ間の
 国境紛争が勃発した(タイ・フランス領インドシナ紛争)
  陸上での戦いでは、タイが優勢だったものの、海上で
 の戦いでフランス側が勝利した。
  タイとフランスは、第三国に仲介を求めていたが、ア
 メリカやドイツはこれに乗り気ではなく、結果として、
 日本が仲介役を行うことになった(1941年5月9日、東京
 条約締結、タイ王国とフランス領インドシナ間の合意)。
1940年11月24日、スロバキアが、日独伊三国条約に加入し
 た。
1940年11月27日、ルーマニアで、イオン・アントネスクに
 よるクーデターが起きた。
  ニコラエ・ヨルグを含む、亡命中の旧国王カロル2世の
 支持者60人以上が逮捕・処刑された。
1940年11月30日、日華基本条約調印(汪兆銘政権承認、日
 清通商航海条約破棄)
1940年12月18日、ドイツのヒトラーが独ソ戦(バルバロッ
 サ作戦)の準備を命令した。
1940年12月28日、アメリカは、この時すでに、武器貸与を
 考えていたが、この日、アメリカ大統領のルーズベルト
 は、炉辺談話(ルーズベルトが行ったアメリカ国民向け
 のラジオ演説)で、「民主主義の兵器廠」発言を行い、
 連合国への支援意図を強調した(12月29日説あり)。
1941年1月2日、日本海軍航空部隊が昆明を爆撃した(〜3日)
1941年1月6日 - アメリカ海軍が 戦艦ミズーリを起工した。
1941年1月7日、皖南事変(かんなんじへん)。
  中国・国民党軍が、移動中の新四軍(国民革命軍新編
 第四軍)を包囲し攻撃した(第二次反共攻勢)
1941年1月10日、独ソ不可侵条約更新
1941年1月17日、国民政府が新四軍に解散命令
1941年1月18日、欧州航路最終の貨物船「だあばん丸」が横
 浜に帰港した。
1941年1月20日、中国共産党が新四軍を再編
1941年1月21日、松岡外相がタイ・仏印紛争に関して調停を
 申入れ、両国受諾
1941年1月22日、中国共産党が皖南事変に抗議し、国民政府
 に国共調整臨時弁法12条を要求した。
1941年1月31日、日本の調停によりタイ・仏印紛争が妥結し、
 停戦協定を妥結した。
1941年2月1日、第1回東亜児童大会を開催した。
  「大東亜共栄圏諸国」の児童約2,800人を招待され、東
 亜共栄圏の児童による合唱、芝居などが催され、楽しん
 だ。
1941年2月3日、対独伊ソ交渉要領が決定した(日ソ国交調整)
1941年2月7日、タイ・仏印紛争調停会議が東京で開催され
 た。
1941年2月14日、野村駐米大使がルーズベルト大統領と会談
 した。
1941年2月15日、堀切駐伊大使がムッソリーニ首相と会談し
 た。
1941年2月28日、タイ・仏印紛争緊迫によりハノイの邦人引
 揚げが準備された。
1941年3月8日、野村駐米大使とハル国務長官が日米交渉を
 開始した。
1941年4月3日、ロンメル将軍のドイツ軍が、北アフリカ戦
 線でイギリス軍を撃破した。
1941年4月6日、ユーゴスラビアが、ソビエト連邦と不可侵
 条約に調印した。
  ドイツが、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻した(ユ
 ーゴスラビア侵攻、ギリシャ・イタリア戦争)
1941年4月13日、日ソ中立条約が成立した。
1941年4月17日、ユーゴスラビアがドイツに降伏した。
1941年4月23日、ギリシャがドイツに降伏した。
1941年5月8日 - 東京条約が締結され、タイ・フランス領イ
 ンドシナ紛争が終結した。
  1941年5月9日に締結された東京条約では、フランス領
 インドシナからカンボジアとラオスの一部地域を、タイ
 に割譲するという合意が成された。
  これは、領土・権益の保全を定めた、先の松岡・アン
 リー協定に反する内容であったが、フランスはこれを受
 け入れた。
1941年5月19日、越南独立同盟(ベトミン)が成立した。
1941年5月27日、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクが沈没した。
  エルンスト・リンデマン艦長は、甲板に残りビスマル
 クと運命を共にした。
1941年5月27日、アメリカ合衆国大統領ルーズベルトが、国
 家非常事態宣言を発令した。
1941年6月、オランダ領東インド政府との交渉が決裂した。
  主要な資源供給先であるアメリカ・イギリスの輸出規
 制により、日本は資源の供給先を求めることになった。
  対象としてあげられたのはオランダ領東インドであっ
 たが、連合国であるオランダ政府が日本への輸出規制に
 参加する可能性も懸念されていた。
  日本は、オランダ領東インド政府に、資源の提供を求
 めたが叶わなかった。
  軍首脳から資源獲得のために南部仏印への進駐が主張
 されるようになった。
  また、援蒋ルート遮断も行なわざるを得ない事項だっ
 た。
1941年6月14日、16,246名のリトアニア人がソビエト当局に
 よってシベリアへ強制追放された(~6月18日)
1941年6月22日、ナチス・ドイツが、ソビエト連邦に対して
 攻撃開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦が始まった。
1941年6月25日、南部仏印への進駐が決定された(南方政策
 促進ニ関スル件)
  6月30日、原案通り南部仏印進駐を行うことが決定。
1941年6月26日、フィンランドがソビエト連邦に対して宣戦
 布告した(継続戦争)
1941年6月27日、ハンガリーが、ソビエト連邦に対して宣戦
 布告した。
  ユーゴスラビアのチトーがパルチザンを組織し、ドイ
 ツ軍に対するゲリラ戦を開始した。
1940年6月28日、フランクリン・ルーズベルト大統領が国防
 力強化のため、科学者動員令を発令し、科学研究開発局
 を設置した。
1941年6月30日、対ソ戦を拒否。
  ドイツが、日本に対して対ソ参戦を申入れた。
  日本は拒否した。
1941年7月5日、駐日イギリス大使のロバート・クレイギー
 が、日本の南進について外務省に懸念を申し入れた。
  日本側は情報漏洩に驚いた。(アメリカによる諜報)
1941年7月7日、アイスランドにアメリカ軍が駐留した。
1941年7月12日、英ソ相互援助協定締結
1941年7月14日、加藤外松駐仏大使が、フランス政府の副首
 相のフランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐
 の許可を求めた。
  この日、加藤外松駐仏大使が、ヴィシー政府副首相の
 フランソワ・ダルランと会談し、南部仏印への進駐許可
 を求めた。
  フランス政府は、7月19日の閣議で、日本側の要求を受
 け入れることを決定した。
1941年7月18日、第3次近衛内閣成立(外相豊田貞次郎)
  戦後になって、マッカーサーが、フーバー前大統領と
 会談した時、マッカーサーは言った・・、
  「ルーズベルトは、1941年夏に、日本側が模索してい
 た近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努
 力をすべきだった」・・と、批判した。
  また、この様な事実を明かした米歴史家のジョージ・
 ナッシュ氏は・・、
  「この事実を記したこの著書が、今でも米国の英雄と
 されているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すき
 っかけになってほしい」・・と、話した。
1941年7月19日、フランス政府が、日本の要求(フランス領
 インドシナ・南部仏印への日本の進駐)を受け入れると
 閣議で決定した。
1941年7月23日、ルーズベルト米大統領、シェンノート指揮
 下のアメリカ正規軍の中国配置を認可し、軍事援助を明
 らかにする。
  (アメリカは義勇空軍だと言い訳を言った。しかし、
 義勇だ何だと言おうと、アメリカの正規の軍隊なのだ。
  例えば、真珠湾へ向かう日本の軍隊を、アジアの植民
 地解放の義勇軍だと言ったって、アメリカ・イギリスは
 認めたくないだろう)
1941年7月23日、日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い
 成立。
  そして、日本は、アメリカに「平和進駐である」こと
 を説明すると決めている。
1941年7月24日、日本が、フランス領インドシナに進駐する
 事をアメリカに説明した。
  野村大使とサムナー・ウェルズ国務次官の会談が行わ
 れた。
  野村大使は、南部仏印進駐がやむを得ない措置である
 とした。
  日本は、アメリカに25日も、また、27日にも、軍事占
 領ではないと説明した。
  また、豊田外相も、駐日アメリカ大使と会談し説明し
  そして、28日の進駐となった。
  結果、さらに日米間の関係は悪化する。
  アメリカは、問題をすべて、日本側に転嫁した。
1941年7月25日、アメリカが、在米対日資産を凍結(アメリ
 カは日本の進駐を、ドイツの作戦と呼応して行っている
 と誤認し、誤解した。
  元はと言えば、アメリカが戦争に介入して、中国へこ
 の地域を使って武器・弾薬を上陸させ、送っておいて・・、
 アメリカが先にこの地域を軍事的に占領し、利用してい
 ることを棚に置いている。
1941年7月26日、イギリスが在英日本資産を凍結した。
  極東アメリカ軍をフィリピンに創設した(司令官:ダ
 グラス・マッカーサー中将)
1941年7月27日、蘭印が在蘭印日本資産を凍結
1941年7月28日、日本軍が、フランス領インドシナ南部進駐
 した(南部仏印進駐)
  アメリカの援蒋ルートによる中国への武器供給が止ま
 らないため、日本は、そのルートからの供給を止めよう
 と仏印進駐をした。
1941年8月1日、アメリカが、石油の対日輸出全面禁止を発
 表(日本の息の根が止められた。すべてが破綻するのは
 火を見るより明らかだった)。
  日本に、やむをえずの早期開戦論が生まれる。
  当然、アメリカもその様になることは分かっていた。
  おおもとの石油が無くなれば破綻しかないので、どこ
 の国でもそうなるだろうという評論が多いアメリカの行
 為だった。
1941年8月18日、豊田外相が、日米首脳会談を要請した。
1941年8月25日、イギリス・ソビエト連邦がイラン進駐を開
 始した。
1941年9月3日、日米首脳会談の要請をアメリカが拒否した。
1941年9月28日、日本軍が、西貢(サイクン、香港特別行政
 区)に派遣された。
1941年10月16日、近衛首相、内閣を総辞職。
1941年10月18日、東條内閣を組閣。
1941年11月23日、南雲機動艦隊が単冠湾(ひとかっぷわん)
 に集結した。
1941年11月26日、ハル国務長官が、日本案を拒否し、中国
 撤兵要求を提議(ハル・ノート:最後通牒)
  南雲機動艦隊が単冠湾を出港。
1941年11月27日、大本営政府連絡会議が、「ハル・ノート
 は日本に対する最後通牒である」とした。
1941年12月6日、イギリスが、フィンランド・ハンガリー王
 国・ルーマニア王国に対して宣戦布告した。
1941年12月8日、真珠湾攻撃で第二次世界大戦(大東亜戦争)
 となる。
  日本、対米英宣戦布告。
  但し、真珠湾攻撃の現地ハワイの日付は12月7日。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
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2017年1月25日水曜日

(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)

題:(増補版)485E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1889年4月~1889年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1889年4月30日、大同団結運動の河野広中ら政社組織化を唱
 え、大井憲太郎らのゆるい連合組織形成派と対立した。
1889年5月1日、東京府で、市制・町村制が施行された。
  東京15区で市制を施行し、東京市が誕生。
1889年5月3日、幸田延(こうだのぶ)が、米国留学のため
 横浜港を出発した。
  日本初の音楽留学としてアメリカ、ドイツ、オースト
 リアに留学した。
  1870年、東京の幸田家に、幸田露伴の妹として生まれ
 る。
  ピアニスト、ヴァイオリニスト、音楽教育家、作曲家。
  1895年(25歳)帰国し、東京音楽学校教授として瀧廉
 太郎、山田耕筰、久野久らを育てた。
  1895年に作曲したヴァイオリンソナタ変ホ長調(3楽章、
 未完)と、1897年のヴァイオリンソナタニ短調(1楽章の
 み)は、日本人による初のクラシック音楽作品(現在、
 全音楽譜出版社から2曲とも出版されている)。
  1915年(45歳)大正天皇御即位を祝した混声4部合唱付
 交響曲「大礼奉祝曲」を作曲した。
  1937年(67歳)帝国芸術院を設立し、会員にもなる。
1889年5月9日、正岡子規(22歳)が、常盤会寄宿舎で血を
 吐く。
  因みに、子規は、この年の4月3日から、常磐会の友人
 と2人で、菊池謙二郎の実家のある水戸まで、徒歩旅行を
 行っている。
  1902年(明治35年)9月、死去。享年34。
  東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
       「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」
       「をとゝひのへちまの水も取らざりき」よ
 り、子規の忌日9月19日を「糸瓜忌」といい、
  雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。
  因みに、獺は、「うそ」または「おそ」と読み、カワ
 ウゾの別名。
1889年5月10日、大同団結運動は、政社派が大同倶楽部を、
 連合派が大同協和会を興し、事実上分裂した。
  この日、河野広中派が大同倶楽部を結成し、大井憲太
 郎派が大同協和会を結成した。
1889年5月10日、東海道線の下等列車に洋式トイレを設置
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ合衆国の独立宣言について・・、
.
1776年7月4日、アメリカ合衆国の独立
  大陸会議はアメリカ独立宣言を採択(7月2日に決議)
 し、この日に、公布された。
  以下に、アメリカ独立宣言の全訳を記すが・・、
  その前に、今・現代、アメリカのどこに、その理念が
 あるのだ?・・と言いたい、
  「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創
 造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、その中
 には生命、自由、および、幸福の追求が含まれているこ
 とを、我々は自明の真理であると信じる」とあるが?
  これは嘘だ!!
  アメリカの人種差別は、その『極に達している』。
  人種差別国に成り下がっているではないか?
  アフリカの方々を、一番多く奴隷にして、虐げた国で
 はないか?
  創造主なんて「奪いがたい権利など与えてなんかいな
 いではないか?」。
  嘘つき創造主となっている。
  侵しがたい生命なんて嘘八百ではないか?
  ネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)
 の方々を、動物の如くに「殺戮の限りをした」ではない
 か?
  自由だって、自分たちの都合よく考えて「暴力によっ
 て、蔑(さげす)むべき方法によって、奪いに、奪った」
 ではないか?
  生まれて来た子を奪い取って、自分のものとし、奴隷
 の身分に落とし、生母と別々に売ったではないか?
  「自由を奪う卑下されるべきアメリカ」となったでは
 ないか?
  幸福の追及なんて「自分たちだけの幸福」で、狭い、
 そして、狡(こす)い理念ではないか?
  今・現代だって、黒人の方々を虐げているではないか?
  奪い取りと殺戮の歴史しか、アメリカにはないではな
 いか?
  以下に、そのアメリカ独立宣言の全訳を記す・・、
  『人の営みにおいて、ある人民にとって、他の人民と
 結びつけてきた政治的な絆を解消し、自然の法や自然の
 神の法によってその資格を与えられている独立した、対
 等の地位を地上の各国のうちに得ることが必要となると
 き、人類の意見をしかるべく尊重するならば、その人民
 をして分離へと駆り立てた原因を宣言することが必要と
 されるだろう。
  我らは、以下の諸事実を自明なものと見なす。
  すべての人間は、平等につくられている。
  創造主によって、生存、自由、そして、幸福の追求を
 含むある侵すべからざる権利を与えられている。
  これらの権利を確実なものとするために、人は政府と
 いう機関をもつ。
  その正当な権力は、被統治者の同意に基づいている。
  いかなる形態であれ、政府が、これらの目的にとって
 破壊的となるときには、それを改め、または、廃止し、
 新たな政府を設立し、人民にとってその安全と幸福をも
 たらすのに最もふさわしいと思える仕方で、その政府の
 基礎を据え、その権力を組織することは、人民の権利で
 ある。
  確かに、分別に従えば、長く根を下ろしてきた政府を
 一時の原因によって、軽々に変えるべきでないというこ
 とになるだろう。
  事実、あらゆる経験の示すところによれば、人類は、
 害悪が忍びうるものである限り、慣れ親しんだ形を廃す
 ることによって非を正そうとするよりは、堪え忍ぼうと
 する傾向がある。
  しかし、常に変わらず同じ目標を追及しての権力乱用
 と権利侵害が度重なり、人民を絶対専制のもとに帰せし
 めようとする企図が明らかとなるとき、そのような政府
 をなげうち、自らの将来の安全を守る新たな備えをする
 ことは、人民にとっての権利であり、義務である。
  これら植民地が堪え忍んできた苦難は、そうした域に
 達しており、植民地をしてこれまでの統治形態の変更を
 目指すことを余儀なくさせる必要性もまたしかりである。
  今日のグレートブリテン国王の歴史は、繰り返された
 侮辱と権利侵害の歴史であり、その事例は、すべてこれ
 らの諸邦に絶対君主制を樹立することを直接の目的とし
 ている。
  それを証明すべく、偏見のない世界に向かって一連の
 事実を提示しよう。
  公共の利益のために、最も穏当かつ必要な法律に裁可
 を与えることを拒否した。
  緊急かつ切迫した要のある法律を通過させることを総
 督に禁じ、総督をして国王の裁可が得られるまでその権
 能において保留させることを課し、そのようにして保留
 させた上で(裁可すべき)法を全く閑却した。
  広範な地域の人民のための他の法を通過させることを
 拒み、その人民に、本国の立法府において代表される権
 利を放棄することを求めた。
  そのような権利は、人民にとってかけがえのないもの
 であり、これを恐れるは専制君主のみである。
  立法府を普通でない、公文書の保管所からも離れた不
 便な地に召集した。
  疲弊させることにより本国の施策に従わせんとするた
 めである。
  人民の権利の侵害に対し、断固とした雄々しい決意を
 もって反対した代議院をたびたび解散した。
  そのような解散ののち、長きにわたって新たな代議員
 が選出されるようにはからうことを拒否した。
  これにより、消滅することのない立法権限は、人民全
 体にその行使が返還されたのである。
  その間も、その邦は外からの侵略、内なる騒乱のあら
 ゆる危険にさらされていたのである。
  これら諸邦の人口を抑制せんと努めた。
  その目的のために、外国人帰化諸法を妨害し、この地
 への移民を促進する他の諸法の通過を拒み、新たな土地
 の割り当ての条件をつり上げた。
  司法権を確立させる諸法への裁可を拒否することによ
 り、司法の執行を妨害した。
  判事を、その地位、俸給額、俸給の支払いについて、
 己の意志にのみ依存せしめた。
  おびただしい数の新たな官職を創設し、この地へ官吏
 の大群を送って、我らが人民を悩ませ、我らが物資を蚕
 食した。
  平時において、我らのうちに、我らの立法府の同意な
 く常備軍を駐留させた。
  軍部を文民権力から独立させ、それに優越させようと
 努めた。
  我らを、我らが国制にとって異質で我らが法によって
 認められていない権限のもとにおくべく(本国議会と)
 共謀し、
  本来の権能を逸脱した立法府の下記の目的の諸法に裁
 可を与えた。
  我らのうちに大規模な軍を宿営させるその兵が、これ
 ら諸邦の住民に対して殺人を犯しても、みせかけばかり
 の裁判をすることによって処罰を免れさせる。
  世界各地と我らの通商を遮断する。
  我らの同意なく我らに税を課する。
  多くの場合において、陪審に基づく裁判の恩恵を奪う。
  でっちあげの罪状によって、我らを海の向こうへ移送
 して裁く。
  隣接する植民地(カナダ)において、英国法の自由な
 体制を廃し、そこに専横的な政府を設立し、その境界を
 広げることによって、その地を我らが植民地にも同様の
 専制支配を導入するための先例とし、格好の道具とする。
  我らの特許状を取り上げ、我らの貴重この上ない法を
 廃し、我らの政府の形態を根本的に変更する。
  我ら自身の立法権限を停止し、いかなる場合において
 も我らに代わって立法する権限が自分たち(本国議会)
 にあると宣言した。
  我らを国王の保護の外にあると宣言し、我らに戦争を
 しかけることによって我らの統治を放棄した。
  我らの領海を収奪し、沿岸を荒らし、町を焼き、人民
 の命を奪った。
  現在も外国人傭兵の大軍を送ってくるところで、それ
 により、最も野蛮な時代にさえその比をみない、およそ
 文明国の元首の名に値しない残虐と不実の状況を伴って
 始められた死と荒廃と専制を完成させようとしている。
  公海において捕らえられた我らが同胞たる市民に祖国
 に対して武器を取らせ、その友人兄弟を処刑するか、さ
 もなくばその手にかかって自らが命を落とすようにして
 いる。
  我らのうちに内乱をひき起こし、我らが辺境の住人に
 対し情け知らずのインディアンをけしかけようと努めた。
  インディアンの戦い方が、年齢、性別、社会的地位に
 関わりなく無差別に殺害するものであることはよく知ら
 れている。
  これらの抑圧のあらゆる段階において、我らは最も謙
 虚な言葉をもって改善を請願してきた。
  我らの度重なる請願は、度重なる侮辱によって応えら
 れたのみだった。
  このように専制君主の定義となりうるあらゆる行動に
 よって特徴づけられる資質をもった君主は、自由な人民
 の統治者たるに不適当である。
  我らは、英国の同胞に対しても注意を怠ってきたわけ
 ではない。
  折に触れては、英国の立法府が、不当な権限を我らに
 対して及ぼそうとしていることを警告してきた。
  我らが祖国を出、この地に落ち着いた事情を想起させ
 てきた。
  同胞たちの生来の正義心と度量に訴え、共通の血が流
 れる絆により、彼らがこれら、我らのつながりと交渉を
 必ずや絶ち切ることになる権利侵害を非とすることを懇
 請してきた。
  同胞らもまた、正義と血縁の声に耳を傾けなかった。
  したがって、我らは、我らの分離を宣言する必要性を
 認めざるをえず、祖国の同胞は他の人類と同様、戦時に
 あっては敵、平時にあっては友とみなさざるをえない。
  ゆえに、我らアメリカの連合諸邦(the united States
 of America)の代表は、連合会議に集い、世界の至上な
 る審判者に対し、我らが意図の正当性を訴えて、これら
 植民地のよき人民の名と権威において、厳粛に公に宣言
 する。
  これら連合植民地(United Colonies)は、自由にして
 独立な国家であり、また、そうであるべきものである。
  英国王に対する忠誠はいっさいこれなく、グレートブ
 リテンとの間の政治的なつながりは、完全に解消されて
 おり、また、そうあるべきものである。
  諸邦は、自由にして独立な国家として、戦争を行ない、
 講和を締結し、同盟を結び、通商を確立し、その他、独
 立国家が、当然の権利として行ないうるあらゆる行為を
 なす完全な権限をもつものである。
  この宣言を支えるため、神の摂理への堅い信頼ととも
 に、我らは、相互にその生命、財産、そして、神聖なる
 名誉を捧げあうことを約するものである』
..
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