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2015年5月23日土曜日

(増補版)108C3/3:気になった事柄を集めた年表(1617年~1620年)

題:・:(増補版)108C3/3:気になった事柄を集めた年表(1617年~1620年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1617年、日光東照宮の造営
  日光の東照宮が造営され、家康を久能山より日光へ改
 葬した。
  将軍の日光社参が始まる。
1618年、河村瑞賢(かわむらずいけん、政商)が生まれた
 (1618年~1700年)
  貧農に生まれるが、13歳で江戸に出て、人夫をしなが
 ら資産を増やし、材木商を営み財を成した。
  幕府の公共事業にも関わって行き、廻米の航路開拓も
 やる(年貢米の海運)、そして、港湾改修・治山治水。
  後は、全国的に治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾な
 どの事業をする豪商となった。
  晩年は旗本に加えられた。
  同郷の松尾芭蕉とも交流があった。
  数学的な才もあり、それによる新たな測量法も考案し
 た。
1618年、社会資本整備・箱根の関所。
  この頃、箱根に関所がおかれた。関東防衛の役割。
  封鎖の砦の役もあった。
  良く知られた「入り鉄砲、出女」の監視体制がある。
  江戸の立地から、北方面より西方面への警備方針に重
 きを置いた。
1618年、釜山に和館(日本館)が出来た。
  海外居留地だった。
  元寇の時、朝鮮軍と明軍の日本侵攻は、対馬や壱岐の
 侵攻から始まり、
  島民の男性は虐殺され、女性や子供たちは、手に穴を
 開けられ、革紐や縄を通してつながれ、連れ去られたと、
 史記にあるが(朝鮮に古くからある連行方法)、
  卑劣な事に、連れ去られる船の上で、女性方は、ひど
 いことをされた(韓国はこのことに触れないで、日本だ
 けを責めているが)。
  この日本館は、この様な事が今後起きない様にと、こ
 こを起点に、友好な関係を築こうとした、しかし・・、
  この様な事はNHKはまったく放送しない。
  NHKという放送局は、日本が悪いように、悪いよう
 にと、放送する局です。(NHKの外国を利する行為)
  この様な偏見を持ったNHKに学校放送をする資格は
 ありません。
  因みに、日本の子供たちは、朝鮮王の高麗王への奴隷
 として引き渡された。
1618年、魔女裁判
  魔女裁判は、キリスト教のローマ教会と意見が相違す
 る人々を排除しようという、まったく自分勝手な考えか
 ら始まった。
  意見が相違する人を、「異端者」と呼び、その意見の
 相違する人々を裁くのだと、
  キリスト教会内に、異端審問所を作った。
  そして、キリスト教聖職者が、その異端審問所の異端
 審問官となって、自分に都合のよいように裁いた。
  これはもう、裁判形式ではあるが、見せかけです。
  その様に見せかけた意見の違う人たちへの迫害装置で
 あって、
  形式上のキリスト教会内の裁判形式における罪に落と
 す騙(だま)し施設だった。
  この様な、裁判という、さも正しそうな隠れ蓑で、悪
 事を働く行為をキリスト教はやり、後の世の悪の見本と
 なった。
  この様な、偽善の裁判形式の迫害行為は、近年の、つ
 い先ごろの時代もやっている
  (第二次世界大戦後の法律もない中でやった裁判)
  異端審問官は、意見の違う人たちを「悪魔と結託して
 いる」と呼んだ、そして、そうだ決め付けた。
  初め、キリスト教カトリックが始めた。
  後に、キリスト教プロテスタントが始めた。
  その両者が、お互いを異端だと罵(ののし)り、言い
 合った。
  お互いが「悪魔との結託者」と言い合った。
  まったく軽蔑すべき状況だった。
  この様なキリスト教の考え方で、事が収まる訳はなく
 卑劣なキリスト教の教義のもとに、争いはだんだん熾烈
 になって行った。
  お互いを、双方が、異端者呼ばわりをした。
  その双方に魔女裁判は激化した。
  改革だと称したキリスト教側、劣った教義の中で改革
 だと叫ぶ者と、何が改革だと対抗する強力な対抗組織が、
 特に、南ドイツ(ことにビュルッツブルグやハンブルグ)
 で、熱狂的な魔女狩りも行われ、犠牲になった方々が大
 勢出た。
  犠牲の女性と共に、この時は、改革派のルター派の男
 性が犠牲となって、この時には出た。
  この様な卑劣な宗教の下に戦争も起きた(30年戦争)。
  卑劣な宗教による戦争は、ヨーロッパ中を荒廃させた。
  特に、ドイツは、都市と言わず農村など、ことごとく、
 徹底的に破壊され、荒廃した。
  善良な方々をどん底に突き落とした卑劣な宗教だった。
  ヨーロッパ、特に、ドイツが疲弊し、都市や農村が荒
 廃した。
  魔女の実在を教え、刷り込み、信じさせるキリスト教
 会。
  取りつかれた民が、街中に躍り出る町が、あちこちに
 出現。
  焼かれる女性、その煙が、ヨーロッパの空を曇り空の
 様にした。
  古い観念にとらわれた教会、形骸化した制度、
  その古い教義・組織を、今もって改革できないキリス
 ト教。
  ルターも改革だと言ったって、その言葉の中に何度「
 魔女」という言葉を使ったことか・・、
  ルターは、城の中で魔女を見たと騒ぐ人だった、
  それほど、改革者と言うこの人に、魔女が付きまとっ
 ていた。
  改革だと言いながら、ルターは、魔女と共に悪魔につ
 いての体験をあちこちで語った。
  数多い体験をルターは語るのだった。
  ヴィッテンベルクの僧院に居るときには、悪魔の騒ぐ
 声にいつも悩まされていたと言った。
  ヴァルトブルグ城に居た時は、彼の居室の壁に居た悪
 魔に、彼はインク壺を投げつけたという・・、
  その黒インキのシミは、今でも残っているという。
  キリスト教を改革しようという彼には、魔女に対する
 恐怖と憎悪が満ちていた。
  彼の言葉にそれが現れていた、
  「私は、この様な魔女には何の同情も持たない。皆殺
 しにしたいと思う・・」。
  荒れるドイツは、可哀想なことに国が分裂した。
  卑劣な宗教による卑劣な現実があった。
1619年、流通、堺の船問屋が、菱垣(ひがき)廻船(江戸
 廻船)を開始した。
1619年、大阪城代を設置した。
  大阪を直轄都市とし、大阪城代を置いた。
1619年、徳川頼宣を紀伊に封じた(大名の管理・支配)
  家康の10男の頼信を紀伊に移した(紀伊徳川家の成立)
1619年、大名支配・福島正則
  広島城主の福島正則の領国を没収した。福島正則(安
 芸広島)の改易。
1619年、キリシタンを55人を火刑にした。
  これが日本の最大のキリスト教の処刑。
  ヨーロッパやアメリカのキリスト教国の魔女による殺
 戮の様な非常な多数への酷いことはしてない。
  それにしても、お達しを出して違法ですと通達し、
 長崎へ送って、追放船で追放しても、潜入したり、法律
 を破るキリスト教がそこに居た。
  また、キリスト教は、殉教は美しいのだと刷り込みを
 した。
  だから、子供まで連れて、出頭して来る者がいた。
  その殉教の時は震えてはいけないのだとまでキリスト
 教は卑劣にも信徒を洗脳した。
  刑場の冊(矢来)の一部は開けてあって、逃げられる
 ようにもなっていた。
  キリスト教は、今・現在でも、殉教を美しく言い、そ
 の多数を良しとする、そして、ひたすら多い人が殉教し
 たと嘘を言う。
  しかし、幕府には穏便に済ませたいが心底に流れてい
 た。
  本人以外の家族でも、親類・知人でも、キリスト教を
 止めたと言えば許された。
  ヨーロッパの様に追い掛け回して、捕まえて、焚刑に
 するようなことはしていない。
  ヨーロッパは、国をまたいでまでして卑劣にも追い掛
 け回して殺した。
1619年、本田正純が、この年、加増され下野国宇都宮城(
 宇都宮市)で15万5000石となった。
  しかし、同僚の譜代大名の嫉妬を受け、
  「宇都宮釣天井事件」で将軍暗殺を謀(はか)ったと
 され失脚した。
  出羽国横手(秋田県横手市)に流された。
  正純は、徳川家康の「懐刀(ふところがたな)」と言
 われた本田正信の子で、頭角を現したのは、関ケ原の戦
 い直前だった。
  家康の普段の相談相手の父・正信が徳川秀忠に付いて
 中山道を進軍中であったため、正純が家康の相談相手と
 なり、江戸城で諸将を味方に付けるべく手紙戦略を展開
 した。
  その時から家康は、正純を側近として重視するきっか
 けとなった。
  家康が秀忠に家督を譲り、駿府城に隠居し、そこから
 「駿府大御所政権」を行った時も、正純はブレーンの一
 人として諸政策を決めた。
  父・正信は秀忠の元に居た。
  父・正信は、正純に「権ある者は禄(ろく)少なく」
 と戒(いまし)めていたが、
  父の死とともに加増され、結局、失脚の憂(う)き目
 を見る事となった。
1620年5月16日、三浦按針(ウィリアム・アダムス)が没
 した(1564年~1620年)イギリス人、航海士・水先案
 内人、
  リーフデ号が豊後の臼杵に漂着し(1600年)、日本上
 陸、家康と会う。
  キリスト教カトリックの野心や、プロテスタントとカ
 トリックとの紛争・軋轢を臆せず説明した。
  家康は、この正直さなど、ここで気に入り誤解を解い
 た。
  キリスト教宣教師が処刑をする様にと執拗に言って来
 たが、
  江戸に招き入れ、通訳や助言を求めた。
  また、航海術や数学の知識を、家康や側近は受けた。
  また、要請を受けて、伊東に造船のドックを設け、80
 トンの帆船を、経験を活かして建造した。
  家康は、より大型船の建造を指示し、1607年に120ト
 ンの船を建造している。
  この船は、房総沖で遭難した前フィリピン総督ロドリ
 ゴ・デ・ビベロに貸し出され、帰国したという。
  日本は優しい国際国家だった、鎖国国家はプロパガン
 ダ(嘘宣伝)だ。
  家康は、三浦按針に帯刀を許し、相模に領地を与え、
 旗本にした。
  帰国の許可が出て、帰国の機会があったが、彼は帰国
 をしなかった。
  息子のジョセフは、相模国の所領を相続した。
1620年、江戸城修築
  東国大名に命じて、江戸城の本丸・北の丸の修築工事
 を行った。
1620年、桂離宮(かつらりきゅう)が創建された。
  敷地面積は、70000平方メートルで、
  庭園部分は、58000平方メートル。
  作庭者は、小堀遠州と言われている。
  世界的に」有名な建築家のブルーノ・タウトは、あま
 り綺麗さに、美しさに、二度も訪れ、そして、「泣きた
 いほど美しい」と言った。この言葉も有名。
  「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、
 すなわち偉大な芸術のもつ美である。すぐれた芸術品に
 接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)
1620年、徳川秀忠の娘の和子が、中宮となった。
1620年、米蔵を浅草に建てた(浅草御蔵・あさくさおくら)
  最大の規模の時、67棟あった。
  毎年30万~40万石の米穀を出納した。
1620年、この頃、シャム(タイ)・ルソンに日本人町が栄
 えた。
  最盛期の推定人口、マニラ3000人、アユタヤ(シャム)
 1500人などの7か所の全日本人町で5000人以上、
  その他・ベトナムのフェイフォ(現在のホイアン)・
 トゥーラン(ダナン)、カンボジアのプノンペンとピニ
 ャール、
  伊勢の豪商の角屋七郎兵衛の朱印船貿易で繁栄し、多
 くの日本人が移住して形成した。
1620年、イギリス人の清教徒(ピューリタン)がメイフラ
 ワー号でアメリカに渡った。
  16世紀、イギリスのエリザベス1世が、イングランド
 国教会を確立したが、
  17世紀にかけて、キリスト教会の改革を主張する清教
 徒が勢力を持つようになった。
  特に、国教会からの分離を求めた分離派と呼ばれた清
 教徒は、弾圧を受けた。
  そして、弾圧を避けるためにアメリカへ渡った。
  この後、アメリカへは、続々と、種々の移民が来るが、
 先に入国した移民が、後から来た移民の労働力を搾取し、
 富を増大させるというパターンを繰り返して行くアメリ
 カだった、
  その様な国の形態を今・現在でも続けている。
  1600年代初め、アメリカへ渡るイギリス清教徒たち。
  ピルグリム・ファザーズ(ピルグリムは巡礼者、さす
 らい人の意味)と呼ばれたイギリスのキリスト教徒であ
 る清教徒(ピューリタン)が、1620年に、アメリカに渡
 る。
  この様な初期の人たちは、気候の厳しい冬を越える事
 が厳しかった。
  餓死者が大勢出た。
  2013年5月2日のアメリカの新聞「ワシントンポスト」
 は伝える、
  「1600年代初め、イギリスからアメリカのバージニア
 へやって来た移民(キリスト教徒のピューリタン)たち
 が、酷い天候と食糧不足に苦しめられ、
  食べ物が無くなって、
  生き延びるために、若い女性を食べたことが判明した」
 という記事を載せた。
  これは史実である。
  アメリカは、2015年に、日本人が食人したという映画
 を作って放映した。卑劣である。これは空想で作り話で
 ある。
  これは史実でも何でもないことを、さもあった様にし
 て差別する。
  この様な、日本人への蔑視行為をする。
  人種差別行為をする。
  自分たちの差別行為を隠して・・。
..
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2015年5月22日金曜日

(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年~1620年)

題:(増補版)107特C3/3:気になった事柄を集めた年表(1602年~1620年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
  以下に、この頃の、日本におけるキリスト教の活動と、
 幕府などの対応を、主にまとめました。
  キリスト教会は、日本に迫害があったとひたすら過激
 に言いますが、日本人の穏やかさがこの面でも出ていま
 す。
  また、キリスト教に偏するNHKも、ひたすら殉教だ・
 殉教だと言い、また、放送しますが、幕府は法を犯した
 キリスト教宣教師を取り締まったというレベルです。
  NHKの事実誤認を惹起させる報道姿勢を糾弾します。
1602年7月3日、島津藩の島津家久は、貿易をしたいため家
 臣を、1601年に、フィリピンのマニラに派遣した。
  そして、その家臣は、貿易と宣教師派遣に関しての返
 書をもって帰国した。
  キリスト教宣教師の派遣が出来る事が貿易の条件だっ
 た。
  藩主・家久は、貿易がしたかったため、1601年8月22日
 付けで、宣教師を派遣して良いという返書を送った。
  そして、1602年7月3日に、第一次と称するキリスト教
 宣教師団の5名が日本に来た。
  藩主・家久にすれば、貿易だけがしたかっただけなの
 に、この様な条件が付いて来たと、1601年8月22日に許可
 したのだった。
  まだ、関ケ原の戦いが終わったばかりで、江戸幕府も
 開設されてないこの時、そして、徳川の政治もこれから
 という時だった。
  この宣教師らは、その様な時代の中を自由に宣教した。
  藩主も許可していたので、まったく自由に動き回るこ
 とができた。
  ここの所の記述において、キリスト教会の記述は、ひ
 たすら迫害されたと過剰に記すが、まったくの嘘の記述
 で、藩主が許可していて迫害など全くなく、自由に動き
 回っている状態だった。
  また、この頃の家康も、キリスト教の真の目的(キリ
 スト教宣教師は、領土獲得の尖兵の使命を受けていた。
 キリスト教本部への宣教師の報告書でも、その事が、記
 述されていて分かる)を知らず、江戸に宣教師を来るよ
 うにとか、京都に教会を建てて良いとかと言っている。
  キリスト教会がいう様な「迫害」などまったくない。
  そして、島津家も、家康へ状況を知らせている、
  そして、徳川家の考えを伺って、その通り行動してい
 る。迫害なんて全くない。
  それをキリスト教会は嘘記述をする。
  村人も、日本人の性格の良さが出ていて、純真で、目
 を患った神父を助けている。迫害なんて全くない。
  キリスト教会は、意地が悪く書く。
  日本は、迫害行為をしているヨーロッパとまったく違
 うのだ。
  キリスト教のバチカン政庁に残っている資料が、その
 日本の誠実さを物語っている。
  まだ、何も知らない薩摩藩主も、キリシタン側へ土地
 を提供し、教会や修道院を建ててやっている。
  また、多くの蝋燭や米の寄進を申し出ている。
  ここの所を、キリスト教会は、「貿易があるから迫害
 が無かった、貿易が無ければ迫害は確実だった」とかと、
 日本を悪い方向へと書く。
1607年7月に佐賀に教会と修道院を建設している。それも、
 あちこちに。
  そして、その10年後・・・
  キリスト教についての状況が分かって来ると・・
1616年7月、キリスト教宣教師が、京都から長崎へ移る。
  キリスト教の真の目的を知った幕府は、1612年に、キ
 リスト教を禁止するが・・、
  そして、キリスト教宣教師たちを乗せた追放船を出航
 させるが、
  キリスト教は、卑劣にも日本へ宣教師たちを潜行させ、
  そして、宣教師たちに活動させた。
  第二代将軍となった徳川秀忠は、その為、キリスト教
 の取締りを強めた。
  このため、京都で活動していたキリスト教宣教師が、
 京都に居られなくなり、長崎に移っただけのことを、キ
 リスト教会は、「迫害だ、迫害だ」と騒ぎ立てる。
  本当は、法を犯して宣教活動をしていたので、捕らえ
 られるところなのだが、捕らえられずに長崎に移れたの
 だ。
1616年12月、キリスト教宣教師の潜伏発覚したので、捜索
 が開始される。
  キリスト教宣教師が、幕府の法律を守らないで、日本
 に潜伏していることを知った幕府は、その捜索のため、
 幕府の役人の明石内記が長崎に行った。
1617年5月22日、日本に潜伏し、法律を破っていたキリスト
 教宣教師が、とうとう、処刑された(2名)。
  それでも2名。ヨーロッパはその何百倍、何千倍だ。
  キリスト教には、贖宥(しょくゆう)と言って教会が
 罪を許す事が出来る教義があるが、1616年2月には、日本
 人のキリスト教徒間に、この贖宥が原因したトラブルで
 争いが起きた。
  キリスト教の派閥の争いである。
  この様な経過の中で、大村藩主はキリスト教を捨てた。
 棄教してキリスト教を止めている。
  そして、その棄教の後の1617年4月に、一人のキリスト
 教宣教師が逮捕されている。
  そしてまた、その翌月の1617年5月に、また、一人の宣
 教師が逮捕された。
  この2名が、この日に処刑された。
  ヨーロッパでは、あちこちの町で、何千人と魔女にさ
 れた女性が焼き殺されていた頃の日本だった。
1617年5月23日、キリスト教宣教師が殉教だとひたすら言い、
 間違った宣教をした。
  捕まっていない2名のキリスト教宣教師は、昨日の処刑
 を美化した。
  日本の信徒に間違った美化した宣教を行った。
  日本の信徒も洗脳され激情した。
  これを、今・現在のキリスト教会も美化して報じてい
 る。
  殉教だと、だから宣教するのだと、洗脳的な言葉を言
 う。
  それで、日本の法律を破る行為をやる。当然の結果で
 捕まり処刑されることとなる(2名)。
1617年7月23日、捕まったキリスト教宣教師1名と日本人信
 徒6名が、牢屋に入れられながら、自由に宗教活動が出来
 たという。日本は優しい国だ。
  獄吏の黙認の下にできたのだという。
  だが、10月に厳しい監視をする者が来て出来なくなっ
 たという。日本は本当に優しい国だ。
  キリスト教宣教師を匿(かく)まったり不法の行為を
 した者、活動を助けた者が処刑された(2名)。
1618年2月7日、キリシタンの長崎代官(末次平蔵)が、
 1617年12月に、幕府の金を不正に使ったとして訴えたこ
 とが元で調べられ、逆に、宣教師を匿ったことがばれて、
 この日に、長崎に追放処分となった。
1618年2月、天草地方のキリスト教を捨てた者を、キリスト
 教宣教師が元に戻らせたという。
1618年8月13日~18日、キリスト教宣教師が、マニラから長
 崎に来た。
  この時、日本の保証人が、お金を出して、朝鮮布教を
 できる様にしていたのが、この時に臨んで、そのお金が
 出なくなったので、朝鮮への宣教師は行けなくなったと
 いう。
1619年3月14日、キリスト教信徒が通報して、キリシタン宣
 教師が捕らわれた。
  「裏切りだ」と、しきりにキリスト教会は言うが・・、
 法律に則った正しい行為だ。
  そして、翌日、捕らえられたキリスト教宣教師。
  そしてまた、その宣教師の下僕が白状して、別のキリ
 スト教宣教師が捕らえられた。
  キリスト教会は拷問があったのだろうと推測して悪く
 言う。
  ヨーロッパのキリスト教会裁判所の魔女の拷問は卑劣
 だったが、それを想像して、日本も同じだと思ったのだ
 ろう。
1619年3月27日、キリスト教宣教師が壱岐島に配流された。
  比較的自由に生活でき、行動できた。
1619年9月、長崎奉行が、一時的に、牢にいるキリスト教宣
 教師を、ポルトガル人やスペイン人が援助する事を許し
 た。
1619年12月1日、徳川秀忠が、キリスト教宣教師の宿主をし
 ていた村山当安を処刑した。
  親類縁者も処刑されたという。
1620年1月、キリスト教関係の施設の取り壊しが始まった。
1620年3月には、キリスト教宣教師がマニラに帰っている。
  日本は厳しい取り締まりはしていない。
1620年8月4日、オランダ船が幕府の法律行為を助けるため
 か、キリスト教宣教師2名を連行して、長崎に連れて来た。
  この船は、イギリスの海賊行為を受けていた。
  これは償金目当てだとキリスト教会は悪く言う。
  そしてまた、助けようとしたが失敗したという。
  この頃の長崎は、役人や庄屋までがキリシタン宣教師
 の味方をしたという。
  そのぐらい、穏やかな取り締まりの日本だった。
  キリスト教会は、ひたすら苛酷だとか、厳しい迫害だ
 とかと言うが、全く違う。
  「自由に司祭は仕事に行くことができました」と言っ
 ている。
..
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2015年5月21日木曜日

(増補版)106C3/3:気になった事柄を集めた年表(1615年~1618年)

題:(増補版)106C3/3:気になった事柄を集めた年表(1615年~1618年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1616年4月、徳川家康が、没した(1543年~1616年、73歳)
  徳川家康が没し、家康が殉死を嫌ったため、殉死者は
 出なかった。
  1月(旧暦)に鷹狩先で倒れ、4月(旧暦)午前10時頃
 駿府城で亡くなった。
  死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説があったが、胃癌
 説が主流となっている。
  それは、「徳川実記」の病状の記述が、その論拠とな
 っている。
  松平家の菩提寺の大樹寺に、位牌があるが、故人の身
 長と同じ大きさに作られているという。
  それによると、身長は159センチメートルとなる。
  当時としては、平均身長に相当する。
1616年4月、家康の遺言
  尾張という流通の盛んな土地で成長した信長や秀吉は、
 商人の原理と機略を持っていたが、
  家康は、そういう所が少しもなく、
  あくまでも、山村の庄屋さんの原理で、その生涯を終
 始した。
  「三河の頃の制度を変えるな」と遺言もした。
  家康の武将としての理想像は、武田信玄であり、政治
 家としての理想は源頼朝であった。
  豊臣政権の直轄領は、わずか二百数十万石に過ぎなか
 った。
  秀吉は、農村を収奪して、米穀をもって財政の基盤に
 するよりも、海外貿易による儲けの方に、より魅力を感
 ずる政治家であった。
  その点、徳川家は、「武士は商人のまねをするな。む
 しろ百姓のまねをせよ」という事が、徳川家の譜代大名
 のいくつかの家の家訓にあり、
  例えそういう家訓のない家でも、倫理として、それが
 厳然として存在していた。
  その為、商人のまねは、武士は一切禁じられていた。
  止むを得ざる場合は、職人としての内職は黙認された。
  傘張り、楊枝(ようじ)削り、扇子の骨作りといった
 下職としての内職である。
  大内氏は、対明・対韓貿易をやって、大いに国富を得
 た。
  単に百姓大名なら、室町期にあって、あれほどの文化
 圏を誇ることは出来なかったであろう。(参考:街道を
 ゆく1)
1616年6月、本田正信(ほんだまさのぶ)が没する(1538年
 ~1616年)、徳川家康の重臣で、老中。
  家康の信任厚く、初期幕政を牛耳じり、大老的になっ
 た。
  家康は、正信を参謀の如くに重用した。
  秀忠の時は、秀忠付の年寄(老中)になった。
  正信は、石田三成の嫡男・重家をどうするかの問題の
 時、死罪を免じる事を家康に進言した。
  家康が、その理由を尋ねると、
  「治部(三成)は、西国大名を糾合して、関ケ原とい
 う無用の戦を起こし、そのおかげで日ノ本60余州は、す
 べて徳川家に服すことになったのです」と答えた。
  家康は、正信の言う事に一理あると答えて、重家を赦
 免にしたという。
1616年7月、家康の6男・松平忠輝が処罰された。
  松平忠輝(越後高田)が、大坂夏の陣に参加すべく、
 越後から上京の途中、
  近江守山で、将軍の旗本3人が、忠輝の行列の前を、馬
 で横切ろうとしたので、忠輝は、家臣にこれを切り殺さ
 せた。
  将軍の弟に対して無礼だという訳であるが、
  これを聞いた家康は、忠輝が一大名として、将軍の旗
 本を殺したのは、公儀の尊厳性を犯すものだとして、忠
 輝を上州藤岡に居させた。
  さらに、将軍・秀忠は、家康の死後ほどない1616年7月
 に、忠輝の領地を没収し、伊勢朝万熊(あさま)に配流
 した。
1616年10月、令・煙草栽培を禁止
  煙草の栽培を禁止する令を出した。
1616年、令・人身売買を禁止した。
1616年、令・欧船の来航を制限した。
  欧船の来航を平戸・長崎に制限した。
  南蛮貿易(スペイン・ポルトガル)を縮小させた。
1616年、家康が太政大臣に任じられた。
1616年、500石から1万石を対象に、大坂夏の陣と同じ内容
 を持つ軍役規定を明文化した。
1616年、江戸城の外堀が完成
  この頃、駿河台に神田川の流路が開通し、外堀が完成
 した。
1616年、江戸市街の建設を監督
  本田正信は譜代の重臣ではない。
  しかし、家康の側近として絶大な信任を得た。
  また、正信には戦場の武功は無かったが、領国経営に
 は大いに手腕を発揮し、関東の総奉行として代官の領民
 統治を指揮し、江戸市街の建設を監督した。
1616年、出版
  林羅山が、「丙辰紀行」を著わした。
1616年、徳川幕府が、外国人の国内自由通行を禁じた。
1616年、後金が建国された。
  清朝:1616年~1912年。12世紀に金を建てた女真族の
 末裔はヌルハチに指導され後金を建国し、
  その後継者のホンタイジは、1636年に、国号を清と改
 めた。
  李自成の乱によって、明朝は滅亡し、降伏した明の将
 軍・呉三桂の軍に導かれた清軍は、北京を占領し、ここ
 を都とした。
  清朝は、明の政治制度を受け継ぎ、官僚には満州人と
 漢人を併用し、対外的にも支配領域を広げた。
  康煕、擁正、乾隆の3代の世は黄金期であった。
  しかし、強大な中央集権が続いたために、近代化が遅
 れ、帝国主義諸国により半植民地化され、辛亥革命によ
 って滅んだ。
1616年、ガリレオが、地動説を唱えて、キリスト教の迫害
 に会った。
  この年に、キリスト教の異端審問所で審査され、場合
 によっては、当時よくある焚刑で、焼かれる危険のある
 ガリレオだった。
  ローマ法王庁から、以後、地動説は唱えてはならない
 というお達しで決着した。
  「それでも地球は回っている」と言うガリレオの言葉
 は有名。
  キリスト教の権力の傲慢な押し付けの社会だった。
  焚刑を多くして、好き勝手な事をしている。
  だから故に、キリスト教へのごますり学者たちも大勢
 いた。それだけ、キリスト教が怖かった。
  この頃のヨーロッパ中世のキリスト教に影響された学
 者(ごますり学者)たちは、
  「投げられた石が空を飛ぶのは、石に意思があるから
 だ」とか、
  「煙が低い方に漂(ただよ)うのは大地に恋情(れん
 じょう)を抱くからだ」とキリスト教が好む事を言った。
  キリスト教聖職者たちもこの類で、五十歩百歩だった。
  科学の正常な発展の足を引っ張るキリスト教だった。
1618年、三十年戦争が勃発(~1648年)
  この頃、ヨーロッパでは、キリスト教が原因となる宗
 教戦争が頻発し、激化している。
  この期間は、『三十年戦争』が戦われている。
  キリスト教のカトリックと、プロテスタントの争いで、
 この戦争は、誠に悲惨な長い戦争であった。
  ヨーロッパ人の3分の1の人が死んだという。
  この熾烈(しれつ)で、非人道的な酷(むご)い戦い
 は、ドイツを中心に深い傷跡を残した。
  終わることを知らない戦争で、戦いは長く続いた。
  天然資源に恵まれていないヨーロッパの地の戦争で、
 また、痩せた地のヨーロッパで、宗教を原因とし問題と
 した戦争だった。
  領主と農民の奪い合いの修羅の戦いであった。
  キリスト教のカトリックとプロテスタントは、そのど
 ちらもが「自分は神の正義だ」というキリスト教の教義
 を掲げて戦った。戦いは止む訳がなかった。
  そこに、被害者の農村の方々が居た。
  これは、略奪を目的とした戦いであった。
  この戦いの兵士たちは、妻や子供や馭者(ぎょしゃ)
 や召使や売春婦(従軍慰安婦)などの一団を引き連れ、
  さらに酒保(しゅほ)商人をも巻き込んだイナゴの群
 れのような大軍団となって、各地を襲った。
  進軍するにつれて、軍隊はまるで集団移住といった姿
 を呈するほどであった。
  ローラーで踏みつぶすように、後には何一つ残らない
 ほど奪い取り、荒廃した地をあとに残した。
  そこには、祖国愛など無く、
  欲望だけの略奪の望みのみが兵士たちを動かしていた。
  倫理観はまったくゼロ。軽蔑の世界だった。
  キリスト教の聖書が教える姿、「イスラエルの地で、
 困ると隣国の富を奪い取りに行く姿」とまったく同じだ
 った。
  キリスト教は、この行為を「(キリスト教の)神の義」
 があれば、行っても良いと教える。
  正義だと教える。
  キリスト教の歴史には、この様な戦争の歴史が、連綿
 と史実に残されている。
..
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2015年5月20日水曜日

(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年~1615年)

題:(増補版)105C3/3:気になった事柄を集めた年表(1614年~1615年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1515年5月、かぶき者を取り締まる
  「かぶき者」の風俗が、この年に、幕府の取締り令の
 対象になった。
  その風俗は、髪は大びたい、大なでつけ(総髪)、大
 すりさげ。
  口から下にひげを生やし、刀は長太刀・長脇差を差し、
 朱ざや、大つば、大角つばを帯していた。
  また、ある者は、冬は紺縮緬の大綿を入れて、丈は三
 里つまり膝の下ほどに短く、そこに鉛を入れて、裾がは
 ね返るようにしていた。
  そして、当時、流行の煙草を、長きせるで吸う。
1615年5月、大阪との講和が決裂し、ふたたび戦端が開かれ
 る状況となる。
1615年、大坂の役にあたり、徳川秀忠は軍役規定を定め、
 諸大名に動員令を下した。
1615年、大阪夏の陣
  冬の陣から4か月後に始まる夏の陣の結果は、既に、戦
 う前から分かっていた。
  城を出て戦う術(すべ)しか大阪方には無かった。
  真田幸村は、家康の本陣深く切り込み、家康の旗を崩
 して、家康を蒼くさせたが、遂に、幸村のほか、後藤基
 次、木村重成(しげなり)らの勇士は、多勢の徳川方に
 圧倒されて難波の露と消えた。
  徳川15万5000は、豊臣5万5000の兵を突き崩し、人口20
 万人と言われていた近世都市・大坂の城下町に突入して
 来る。
  淀殿は、千姫を徳川方に送り届けて、最後の助命を願
 ったが、既に、そんな願いは、功名を争い怒涛の如く押
 し寄せる大名連合軍の歓声に消された。
  わずかに、梨子地緋縅(なしじひおどし)の具足に身
 を包み、太平楽(たいへいらく)という黒駒を引き立て
 て、本丸南の桜門まで出たが、城中に寝返りの不穏な空
 気があるとのことで、すぐ引き返した。
  秀頼は、千畳敷御殿に戻ると、夕方、天守に登り、自
 刃を決意したが、側近が押しとどめた。
  淀殿と秀頼の二人は、二の丸の庭を山里に模して造っ
 てある山里輪の蔵に籠った。
  既に、城内は、相手に内応した放火で火の手が上がり、
 一面の火の海であった。
  キリスト教イエズス会の「日本年報」には、「逃げよ
 うとすると敵の刃に出会い、多くの人々が城壁から飛び
 降りて、地面の石にくだかれた」と記されている。
  慶長20年(1615年)5月7日、淀殿は蒸し暑い蔵で、ま
 んじりともせぬ一夜を明かした。
  太閤秀吉の権威をもって、秀頼を守り、何処までも徳
 川の風下に位置する事を嫌って、誇り高く生きた淀殿だ
 った。
1615年5月7日、関ケ原の恨み
  大阪城が最後を迎えている戦いの中にあったが、この
 日に、大阪城以外の場所である河内八尾(かわちやお、
 八尾市)で、一つの戦いがあった。
  大坂方の土佐勢が、東軍の藤堂勢と戦いを起こしてい
 た。
  「関ケ原の恨みぞ」と、死に物狂いで突進して行って
 散々に打ち破っていた。(参考:竜馬がゆく・1)
1615年5月8日、淀殿、秀頼・・自害
  翌8日、城内はすでに徳川方に押さえられ、城内検視の
 井伊直孝(いいなおたか)らの一隊が、隠れ家の蔵に鉄
 砲を撃ちかけて来た。
  千姫に託した助命の望みを砕く砲声と淀殿に聞こえた。
  速水甲斐守(はやみかいのかみ)が介錯に立つ。
  秀頼は、臆すること無く刃を腹に突き立てて、23歳の
 命を絶った。淀殿も秀頼に続いた(1567年~1615年)。
  火が放たれ、大野治長ら二人に最後まで従っていた男
 女30人も、それぞれに白刃を突き交わして、淀殿と秀頼
 に殉じた。
  「日本年報」は、
  「大阪城の巨大な天守は、火事が火薬庫に接すると空
 中に飛び上り、大きな爆音とともに破裂してしまった」
 と記した。
  燃え上がる大阪城の炎は、40キロ離れた京都からも望
 め、京都御所では公卿(くぎょう)らが清涼殿から色々
 な思いをはせて見ていた。
1615年5月9日、おねの嘆き
  翌9日、戦闘を逃れた人々が、京中に押し寄せた。
  京都東山の麓、高台寺(こうだいじ)に居たおねは、
 大阪の空に向かって静かに祈っていたという。
  大阪・夏の陣から京都に帰還した伊達政宗に宛てた「
 おねの手紙」は、
  「大阪の御事は、なにとも申し候はんずることの葉も
 御入候はぬ事にて候」とある。
  大阪の今日の出来事は何と言ってよいのか、申し上げ
 る言葉もございませぬ・・と、政宗に痛い心の内を告げ
 ている。
  夫・秀吉と築き上げて来た色々な事々も思っていただ
 ろう。
  おねは、この後、9年の年月の後、寛永1年(1624年)、
 高台寺に77歳の人生を閉じた。
1615年7月、禁中並公家諸法度・武家諸法度・寺院諸法度
  幕府は、豊臣氏が滅亡した後、「禁中並公家諸法度」
 を発布した(17条ある)。
  朝廷の権威増大を警戒し、抑制する目的があった。
  幕府は、天皇の政治上の行為の制限と、栄誉付与の権
 限も抑制し、幕府の承認を得て初めて有効と規定した。
  そしてまた、幕府は武家諸法度13条、および、順次、
 寺院諸法度も発布した。
1615年8月7日、一国一城令
  幕府は、一国一城令を制定した。
  立案者は、大御所の徳川家康だった。
  内容は、一国(大名の領国、後の藩)に大名が居住あ
 るいは政庁とする一つの城郭を残して、その他の城は、
 すべて廃城とする。
  ただ、大藩もあり、施行は弾力的だった。
  ただ、安土桃山時代に3000近くあった城郭が、約170
 まで激減した。
  そして、家臣団や領民の城下町への集住が進んだ。
  徳川氏の大名統制と支配が強化された。
  法令の目的から、西国の外様大名の地域に徹底された。
1615年9月、[ 貿易 ]、日本は鎖国ではない。
  日本は、金銀が豊富に産出した。
  その金銀で、日本は外国との取引を活発にした。
  大阪での戦いまでは、日本に大きな危機感が存在し、
 輸入品は主に武器などの軍需品であった。
  新興の武家が買い求めた。
  後に、豪商などの絹・毛織物・革製品が主要輸入品と
 なっていく。
  国内の戦争の危機が薄れて、輸入品も豊かな品々へと
 変わって行ったが、金銀産出量の減少も見えて来て、輸
 入品の品も見直されて行った。
1615年、豊臣氏のその後
  大阪城を逃れた人々、
  秀吉の血のつながりは絶えたのか?
  秀頼と千姫との間には子供は無かったが、側室に、国
 松という男の子と、もう一人の女の子が居た。
  7歳の女の子は、千姫の養女となった。
  しかし、8歳の男の子は捕らえられて刑に倒れた。
  その二人の母・松の丸殿は、国松の遺体を引き取り、
 誓願寺に葬った。
1515年、情報伝達手段として、三度飛脚による江戸~大阪
 の通信と、町飛脚が開始された。
1515年、魔女狩りで、ストラスブルグで5000人が焼かれた
 (1615年~1655年)、その他、ヨーロッパにはあちこち
 にある。
1615年、日本の鉄の優秀さ
  イギリスの東インド会社の日本商品に関する期末報告
 書に、日本製の鉄の優秀さが記されている。
  他の国の鉄は、まったく相手にされないと・・、
  日本製の優秀さを知った買い手は、日本製を求めたの
 で、外国製の鉄を買わないので、イギリスの東インド会
 社の成績が落ちたという。
  それほど、日本の鉄が最良のものだという事を示して
 いた。
  日本は、基幹の大切な銅や鉄の重要な原料生産国だっ
 た。
  日本は、その様な基幹の原料だけではない。
  この頃のキリスト教宣教師の記した報告に、日本の紙
 の種類の多さは驚くべき数だと言っている。
  このイエズス会の宣教師は、日本の紙の種類は、ヨー
 ロッパの10倍はあると言っている。
  鼻をかむティッシュの様な柔らかい紙まであると言っ
 て驚いている。
  当時、蛮なヨーロッパ人は、鼻をかむのに、服の袖で
 拭(ぬぐ)っていた。
  アメリカ人が、ティッシュを発明したと悦に入ってい
 るが、日本人は、すでに、300年以上も前に、ティッシュ
 を日常使っていたのだ。
  中国のマカオで、1637年に、別のイギリス人が、日本
 人がティッシュの様な紙を使っていることに驚いている、
 感心している。
  このイギリス人は、日本人が懐(ふところ)から小さ
 くたたんだ紙でスマートに鼻をかむ姿を見て、そして、
 その紙を「使い捨て」で処分した姿を見て、日本の文化
 の高さに感心して、おどろいている。
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(増補版)104C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1614年)

題:(増補版)104C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1614年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
1610年、新田開発
  将軍の秀忠は、江戸府下の千駄木を遊巡して、農民の
 都築勘助に新田開発事業を担当させた。
1610年、日本で初めて、有田で磁器の焼成に成功した。
1611年9月、南蛮人の通商を許可。
  家康は、日本訪問を終えたスペインの答礼大使の帰国
 船を利用してメキシコとの交易を望んだが、同じ目的を
 持つ奥州の伊達政宗も、この機会を利用して家臣の支倉
 常長をスペイン船に同乗させた。
  家康は、、メキシコが遠く距離的な問題もあり、スペ
 インよりオランダとの関係を深めた。
1611年10月、ルソン人が来る。
1611年、交通政策。
  木賃宿の木賃が人3文、馬6文に定まった。
1611年、社会資本整備、
  徳川幕府により二ヶ領用水が完成した。
  多摩川などを水源とし、神奈川県川崎市を流れる全長
 32キロメートルの神奈川県で最も古い人工の用水路で、
 14年の歳月をかけて完成した。
1611年、角倉了以が、賀茂川に分流し、三条から伏見に至
 る高瀬川を掘り、舟運を開いた。
  これによって、大阪の舟が京都まで通うようになり、
 京都の物価が下がって、京都の町人を喜ばせた。
1611年、家康が、在京の諸大名から三か条の誓書を提出さ
 せた。
1611年、家康が、再度の秀頼の出仕を求めた。
  後陽成天皇が退いて、後水尾(ごみずお)天皇が即位
 し、その即位式に出席のため入洛した家康は、秀頼の出
 仕を求めた。
  秀忠の将軍就任の時、秀忠との対面を、秀頼に拒否さ
 れた家康は、今度は、秀頼の出仕を実現させたいと思っ
 ていた。
  また、天皇が変わったこの時は、上洛すべき強い理由
 があった。
  実現に際し、加藤清正・浅野幸長ら秀吉の旧臣らが、
 秀頼に寄り添っていた。
  家康と秀頼の会見は、二条城で行われたが、会見は思
 ったよりなごやかであった。
  秀頼はしっかり成長していた。
  家康の知っていた子供の秀頼とは、だいぶ違っていた。
  10数年ぶりの対面、秀頼は19歳、すっかり成人し、利
 発そうな面立ちに、70歳の家康に驚きがあったようだ。
  秀頼は、背が高く、学問や風雅など文人の側面でも優
 れていたという。
  また、人柄良く成長していたという。
  この数年後に、家康は、196大名19万4000の兵で、この
 秀頼を大阪城に取り囲むことになる。
1612年10月、キリスト教の禁止(陽暦9月1日説あり)
  幕府が、天領におけるキリスト教を禁止した。
  オランダが、ポルトガルの不穏な動きを告げた(密謀、
 秘密のはかりごとがあると・・)。
  キリスト教に温厚だった幕府は、その行動や実態が分
 かって来ると禁教に踏み切った。
  また、幕藩体制の組織づくりを阻害した。
  家康へ情報を提供していたウィリアム・アダムスとヤ
 ン・ヨーステンは、いずれもプロテスタントのイギリス
 とオランダ人だった。
  そして、家康の外交顧問となっていた。
  カトリックの行って来た事を説明もした。
  家康の禁教は、1612年の「岡本大八事件」が切っ掛け
 だった。
  そして、直轄地の禁教を1612年に発令した。
  そして、その翌年の1613年には、全国的な法令とした。
  家康の居る駿府の組織は、しっかりと組まれていた。
  駿府政権と言ってもいい家康の陣容は、上記の外交顧
 問のアダムスなどの他、
  駿府奉行衆(本田正純・安藤直次・大久保長安など)
 や、学者(林羅山)、京都所司代(板倉勝重)や、豪商
 (角倉了以、茶屋四郎次郎、後藤庄三郎などなど)
  しっかりし、海外事情を聞くとともに、
  ヨーロッパや東南アジア諸国との交流は盛んに行って
 いた。
  国書の交換や、来航許可証など、かなりの事を行って
 いた。
  鎖国で何も知らない、分からないは、プロパガンダで
 嘘の情報である。
1612年、幕府が、かぶき者を取り締まった。
1612年、家康が、鶴を天皇に献じた。
  家康が、鷹狩で獲った鶴を天皇に献じた。
  以後、慣例となった。
1612年、社会資本整備、利根川
  利根川の八町河岸が設置された。
1612年、新田開発、
  幕府の代官頭の伊奈忠次が、武蔵国葛城郡茂田井新田
 の藤右衛門に五ヶ条の新田開発定書を出した。
1613年4月、大久保長安事件・馬場八左衛門の直訴事件が起
 きた。
  江戸幕府内にも、武断派と文治派の派閥が形成され、
 幕府内部における権力をめぐる争いがあった。
  1612年の岡本大八事件で、キリシタン大名の有馬晴信
 は、6000両もの賄賂を贈っていたが、この時は、文治派
 勢力が衰退した。
  そして、1614年に至り、大久保長安が死去したのに乗
 じ、文治派は勢力巻き返しの謀略を実行に移した。
  長安は鉱山奉行を務めていたが、幕府への金銀の納入
 を誤魔化していると虚偽の報告を家康に行った。
  家康は激怒し、長安の腹心を捕らえたり、長安と伊達
 政宗が親しい関係から、謀反をたくらんでいるとかのド
 ロドロした事件が展開した。
1613年6月、公家諸法度が制定された。
1613年9月15日、慶長遣欧使節団が石巻を出帆した。
  伊達政宗の家臣・支倉常長が欧州に行った。
  1609年に、前フィリピン総督の一行が台風に会って、
 千葉県沖に座礁し、地元民が救助した。
  家康は親切にもガレオン船を送って送還した。
  これをきっかけにスペインとの交流が出来、常長の主
 君である伊達政宗はヨーロッパへ使節を送る事にした(
 貿易目的)。
  この話には、伊達政宗がスペインと軍事同盟を結んで
 討幕を行おうとしたという話も存在している。
1613年2月1日、全国的なキリスト教排除の宣言がなされた。
1613年6月、イギリス艦隊が、この時、平戸に到着した。
  そして、司令官のジョン・セーリスは、駿府城にて徳
 川家康に拝謁し、国王ジェームス1世の国書を捧呈した。
  そして、更に、江戸城へも赴き、将軍徳川秀忠にも謁
 見した。
  そして、この年の9月1日に、家康は、イギリスの東イ
 ンド会社へ通商を許可した。
  そして、イギリス商館が平戸に開かれた。
1614年2月、キリシタン大名と言われている有馬晴信は、
 この年の2月に、長崎に入港したボルトガル船ノッサ・
 セニョーラ・ダ・グラッサ号を焼き討ちした。
  そして、キリシタンの岡本大八事件が起きた。
1614年7月、家康は、京都、方広寺大仏殿の開眼供養の延期
 を命じた。
  そして、方広寺鐘銘事件が起きる。
1614年9月、キリシタン追放船が、長崎から出航した(国外
 追放)。
  しかし、法令を順守せず、キリスト教は宣教師を潜伏
 させた。
1614年10月、大阪・冬の陣
  196の大名が、19万4000人の兵が、家康72歳の時に、
 秀吉が没して15年のこの時に、大阪城を囲んだ。
  秀吉に恩義を感じる加藤清正、浅野長政、池田照正、
 前田利長らが、この2,3年の内に没して、大名間に世代
 交替が進んでいた。
  この時に、大坂方にはせ参じた大名は一つもなかった。
  関ケ原で領地を没収された者など、大阪城に入ったの
 は浪人たちに過ぎなかった。
  主だった武将は、真田幸村、長宗我部盛親(ちょうそ
 がべもりちか)、後藤基次(又兵衛、またべえ)、明石
 守重(掃部助、かもんのすけ)らであった。
  淀殿は、甲冑に身を固め、軍議にも参加したという。
  徳川方の陣容が整わないうちに、秀頼にも出馬を願っ
 て、先制攻撃をとるべきだとの意見に、淀殿の側近は反
 対した。
  城をもって徳川方を迎える事となった。
  大阪城方は約10万だった。
  秀頼を思った秀吉の作った堅い城は、二重、三重の深
 い石垣、堀をめぐらした総構えの城郭は、持久戦によく
 耐えた。
  10月に始まった冬の陣は、強固な大阪城に阻まれて、
 徳川軍はお手上げで、長期の露営にも疲れ、寒さに戦意
 も薄らぎ始めた。
  ここで家康は、淀殿の精神をいらだたせる作戦に出た。
  一晩中、大砲を撃って、眠らせない戦法もその一つだ
 った。
  それに加えて、外国から買い入れた飛距離の長い大砲
 で、淀殿の御座所を狙った。
  「徳川実紀(じっき)』には、
  大筒(おおづつ)は、淀殿の居間の櫓(やぐら)を打
 ち崩し、その響きは百千の雷の落ちたようだった。
  淀殿の側にいた女房7,8人がたちまち撃ち殺され、女
 童の泣き叫ぶおびただしい声に包まれた・・と、記して
 いる。
  淀殿は、すっかり気弱になり、和睦に反対する秀頼や
 側近の言う事も耳に入らず、急に和平論者となった。
  講和は、城の外郭である総構えの三の丸の破却を条件
 に成立したが・・、
  徳川方は、総構えをたった2日で叩き潰し、三の丸の堀
 や土塁を壊し、条件にない二の丸までも破却して、あっ
 という間に本丸の内堀だけを残す裸城にしてしまった。
  約束が違うと淀殿がいきり立っても、もう手遅れであ
 った。
1614年11月7日~8日、キリシタン禁教令で、長崎に集結し
 たキリスト教宣教師と、主だった日本人信徒を乗せた船
 が出港した。
  日本の法律に従えば、日本は、ヨーロッパの様に酷(
 むご)いことはしなかった。
  しかし、日本の法律を無視して、日本に残り、潜行し
 たキリスト教宣教師が40人ぐらい居た。
  このキリスト教宣教師たちは、日本人をそそのかし、
 共に日本の法律を犯し、捕らえられ、罰せられる。
  責任は、キリスト教側にある。
1614年、大久保忠隣が改易された。
  大久保長安事件に連座し、これに便乗する形で浪人の
 馬場八左衛門が、忠隣が大坂の豊臣秀頼に内通している
 と誣告したため、家康の不興を買い、突如、改易を申し
 渡された。
  そして、近江国に配流されて井伊直孝に御預けの身と
 なった。
  大久保忠隣は武断派の総帥だった。
1614年、大久保忠佐が没した(1538年~1614年)
1614年、角倉了以が没した(1554年~1614年)
1614年、八橋検校が生まれた(1614年~1685年)
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2015年5月19日火曜日

(増補版)103C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1610年)

題:(増補版)103C3/3:気になった事柄を集めた年表(1607年~1610年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1608年1月、主たる大名に「松平」の姓を与えた。
1608年、永楽銭の通用を禁止し、貨幣の交換割合を定めた。
  交換割合は、永楽銭1貫文=銭(びたせん)4貫文=
 金1両を定めた。
1608年、姫路城が出来た。
1608年、新田開発・・、
  伊奈忠次が、武蔵国葛城郡下之村・宇喜新田などに対
 し、新田開発につき諸役を免除し、屋敷地・田畠免除地
 を与えた。
  伊奈忠次(いなただつぐ)は、家康の近習、初代の関
 東郡代。
1609年2月、家康が、西国大名の人質を倹せしむ、江戸に集
 めた。
1609年2月、有馬晴信が、幕府の許可を得て、台湾へ出兵し
 た。
  そして、明との貿易拠点を築こうとしたが、出来なか
 った。
  ところが、マカオで、晴信の朱印船の乗組員が争いを
 起こし、
  晴信の家臣と、乗組員の48人が殺されるという事件が
 起きた。
  晴信は、家康に仇討の許可を求め、事件のマードレー
 デーデウス号が、長崎に入港したため、
  晴信は、船長を捕らえようと多数の軍船で包囲した。
  ところが、船長は、船員を逃して船を爆沈させた。
  マードレーデーデウス号事件が起きた。
  このキリシタン大名の有馬晴信は、この事件が絡んだ
 岡本大八事件の贈賄の罪を問われ、
  甲斐国の初鹿野に追放処分となった。
  そして、死罪となり切腹した。
1609年8月、諸大名に対し、500石積以上の造船(軍船)を
  禁止した(これは、水軍力削減のため)。
  また、軍船だけでなく、外洋の航行可能な船による勝
 手な貿易を防ぐため。
  9月に、西国大名が持つ500石積以上の大船を没収した。
1609年11月16日、家康が、名古屋への遷府命令を正式に号
 令した。
  1609年、名古屋城の築城を命じ、1610年に着工。
1609年、松平正綱が、幕府の財政・会計の任にあたる。
1609年、交換割合を定めた。
  金1両=銀50匁=永楽銭1貫文=京銭4貫文とし、そ
 の後、ふたたび、永楽銭の通用禁止令を出したが、十分な
 効果が上がらなかった。
  幕府の銅銭対策が軌道に乗るのは、寛永通宝の登場後
 である。
1609年、社会資本整備・木曽川の改修
  木曽川の左岸に尾張の国を取り囲む形で約50キロメ
 ートルにもわたる大堤防を築いた。
  「御囲堤(おかこいづつみ)」という。
  これは、西国勢力の侵入を防ぐという軍事上の目的も
 持ち、また、尾張の国を洪水から守ろうとの役割もあっ
 た。
1609年、社会資本整備・銚子舟入り、運河の開削。
  利根川の水運を利用した江戸への物資の運搬。
  幕府が、奥羽諸大名の普請役で銚子舟入り普請を行う。
1609年、家康の11男の徳川頼房を水戸に封じた(水戸徳川
 家の成立)。
1609年、オランダに貿易を許した。
  平戸に商館が開設された。
1609年、姫路城は一時、豊臣秀吉も居城としており、豊臣
 の城だった。
  秀吉の後、秀吉の弟・秀長、さらに、秀吉の正室・お
 ねの兄・木下家定が続いた。
  池田輝政は、1601年から城郭の大拡張工事にかかり、
 西国の守りを務めるにふさわしい城を築いた。
  5層の大天守が完成したのは1609年だった。
  輝政は、52万石だったが、一族も所領が与えられ、全
 所領は92万石になる。
  輝政は、『西国将軍』と呼ばれた。
  日本は、キリスト教諸国の様にむやみに殺さない、知
 恵を使って、この様に、戦いが起きないようにしている。
1609年、魔女狩りで、ラブールでは、4か月に600人が焼か
 れた。
1610年、本田忠勝が没した(1548年~1610年)
  本田忠勝は、長篠の戦い終了後、どこか物憂げであり、
 家臣がその訳を尋ねると、
  忠勝は「武田家の惜しい武将達を亡くしたと思ってい
 る。これ以後戦で血が騒ぐ事はもうないであろう」と愚
 痴をこぼしたという。
1610年4月、武家政令3ヶ条を発する。
1610年、幕府にある改易・転封の特権
  幕府と諸大名との相違は量的な問題であって、その権
 力の質的な差はない、
  また、幕府権力に王権としての性格はない。
  この頃、幕府は公儀、将軍は公方様と呼ばれた。
1610年、足尾銅山が発見された。
1610年、社会資本整備・川中島堰
  川中島藩主・松平忠輝が、川中島堰を築造した。
1610年、この年、近畿地方に大風雨の被害。
1610年、幕府、常備軍の多くを諸大名に依存・・、
  普請役も軍役の一種だった。
  普請や土木工事も重要な戦争行為であった。
  江戸幕府の直轄領は、体制確立後は400万石余り、日本
 全体は、ほぼ3000万石なので、その13.3%だった。
  幕府は、財政的に早くから脆弱だった。
  しかし、常備軍の経費負担は少なかった。
  幕府と外様大名との間には、開幕当初と幕末には、た
 しかに危うい状態・関係があったと言えるが・・、
  しかし、幕府の支配体制が確立する頃からは、幕藩関
 係は安定し、融和の状態に入っていた。
  つまり、大名も旗本も、公儀の権力に服属し、それぞ
 れの分限に応じて支配体制の形成に参与し、それによっ
 て近世社会の秩序が保持された。
  こういう状況から、幕府は常備軍の多くを諸大名、特
 に、外様の大半に依存してゆくことができた。
1610年12月、土井利勝が、家康の命令で老中となった。
  家康と瓜二つの顔立ちだったという。
  飛ぶ鳥を落とす勢いで出世したという。
  秀忠の赤ん坊のころからの側近として近侍した。
  故に、秀忠将軍との意思の疎通は抜群だっただろう。
1610年、江戸期は、キリシタン禁制で鎖国だというプロパ
 ガンダがあるが、その見方は間違っている。
  キリスト教の嘘宣伝に洗脳されている。
  家康は、貿易重視で、キリシタンに関しての取締りは
 甘かった。
  キリシタンは、この期に日本に広まっている。
  キリスト教に偏するNHKや放送大学は、ひたすら
 『殉教』だとかの弾圧する日本を大袈裟に放送したりし
 て、史実を間違った印象に伝え、放送ている。
..
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2015年5月18日月曜日

(増補版)102C3/3:気になった事柄を集めた年表(1605年~1607年)

題:(増補版)102C3/3:気になった事柄を集めた年表(1605年~1607年)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
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1605年、家康の参謀
  林羅山が、1605年に、二条城で始めて家康にあった。
  家康は、羅山を信任して側近にした。
  羅山は、学問や文教政策のブレーンとして活躍した。
  羅山は、キリスト教に強く反対した。
  林羅山は、江戸前期の儒者で朱子学者。京都生まれ。
 藤原惺窩(ふじわらせいか)に学び、徳川家康以下四代
 の将軍に仕え、幕府の制度の樹立に尽した。
  上野に開いた私塾弘文館は、昌平坂学問所の起源をな
 した。著作は厖大。(1583年~1657年)
1605年、社会資本整備・築地井出
  加藤清正が、築地井出(熊本県菊池市)を開削し、小
 牟田新田を干拓する。
1605年、社会資本整備・芝原用水
  福井藩家老の本田富正が、芝原用水を開削した。
1605年、煙草が伝来した。
  幕府は、1609年に、その栽培を禁止する(タバコ流行)。
  この時代に流行していた喫煙について「煙草説」に、
  「海のかなたの遠い異国から、もたらされた新種の薬
 草であり、中国古来の医書にも記載がない」・・と。
  そして、当時噂されていた、たばこの効用について
  「病人が喫煙によって健康を回復し、たとえ健康な者
 でも、たばこを吸えば長寿が期待できる」と、
  そしてまた、
  「老若男女、誰でもたばこを楽しまない者はいない」
 と。
1605年以降、大阪城の軍資金の脅威
  徳川打倒の軍資金として使用されることが脅威だった。
  秀吉が貯めた金銀の財宝が、大阪城に大量に存在した。
  家康に味方した諸将に、秀頼の行く末を案じる事も、
 必ずしも、ぬぐえぬに存在していた。
  家康は、豊臣家の家運隆盛などを絡めて、その財宝の
 資金を使うように勧めた。
  淀殿は、秀頼の名をもって、伊勢遷宮を前にした宇治
 橋の架け替え、また、出雲大社・石清水八幡宮・醍醐寺
 など、次々に修造をして行った。
1605年、由井正雪が生まれた(1605年~1653年頃)
  江戸前期の軍学者で、
  江戸へ出て、塾を開き、楠流軍学を講義して門弟多数
 を得た。
  徳川家光の、1651年の死に際し,幕閣への批判と、旗
 本救済を掲げて、幕府転覆を企図した。
  しかし、事前に露見し、駿府で自殺した(1605-1651)
1605年、木内惣五郎が生まれた(1605年頃~1653年頃)
  近世の代表的な義民(正義のために人々のために身を
 ささげる人)。
  佐倉惣五郎(宗五郎)と通称される。
  下総国(千葉県)佐倉藩領公津村の名主。
  藩主の堀田氏の苛政に対して、領民の先頭に立って江
 戸藩邸への門訴(門前に集結して訴えを起こす事)した。
  老中へ駕籠訴などの訴願を行うも容れられず、
  そして、上野の寛永寺に参詣途中の将軍に直訴した。
  要求は認められたが、妻と共に磔,子供は死罪に処され
 た。藩は改易になった。
  全体または部分が創作という説もある。
  ただ、この話は民の意志の発現として民を勇気づけた、
 また、自由民権期には民の行動の元としての支えとなっ
 た。
  惣五郎の墓所がある成田市東勝寺は、宗吾霊堂として
 現在も多くの人々に信仰されている。
1606年9月、江戸城の本格的な工事が始められ、本丸・二の
 丸・三の丸のほか、外郭の石垣がほぼ出来上がり、
  秀忠は、9月に、新装なった本丸に入った。
1606年、慶長通宝を鋳造
  家康は、この年に、慶長通宝を鋳造した。
  1608年には、永楽銭の通用を禁止し、永楽銭1貫文=
 銭(びたせん)4貫文=金1両という貨幣の交換割合を
 定めた。
  家康は、幕府の所在地である関東から、永楽銭を整理
 して、慶長通宝を通用させようとした。
  永年にわたって通用していた永楽銭を整理する事は難
 しかった。
1606年、社会資本整備・保津川の開墾
  京都の豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)は、水
 利土木に優れた技術を持ち、1606年に、保津川の開墾を
 した。
1606年、角倉了以は、山城の大堰川に舟運を開いた。
1606年、江戸に住民が移る。
  江戸城拡張工事によって、この年に、宝田村・千代田
 村の住民は、日本橋・京橋方面に移った。
1606年、鯨漁の始まり
  和歌山県太地町の鯨漁が始まった。
  これは、この地の豪族・和田忠兵衛頼元(ちゅうべえ
 よりもと)が、この年に始めた。
  「古式捕鯨発祥の地」である。
  今も、イルカ追い込み漁が行われている昔からの伝統
 の鯨漁である。。
  オーストラリアの反捕鯨団体が反対するが、
  キリスト教では、鯨は知能があるからステージが高い
 動物だという。
  だから捕鯨はダメだという。
  オーストラリアに来たイギリス人・クックは、1707年
 だった(この鯨漁より100年も後である)。
  つまり、この時より100年以上さかのぼる昔からなのだ、
 太地町の鯨漁は・・。
  それを、自分勝手な宗教上の基準を押し付けて、陰湿
 な、正義に反する行為をする。
  この様な不正義は行為は、当然、するべきではない。
  この様に、古い時代から鯨は日本の食であり、文化な
 のである。
  キリスト教は、「聖職者が、豚肉を食べただろうと、
 魔女にされた可哀想な女性を拷問で責め、焼き殺すとい
 う歴史がある」が、このオーストラリア人は豚肉を食べ
 ている。
  あまりにも、自分勝手な押し付けをし過ぎる。
  オーストラリアは、今でも、カンガルーやコアラを無
 残に殺すことをしている。
  この現実をよく見て戴きたいと思います。
  https://www.youtube.com/watch?v=b7dmXwB8LBA&NR=1&feature=fvwp
1607年5月、朝鮮使節が、江戸に入った。
1607年、家康が駿府に移った(隠退)。
1607年、江戸城の天守閣、および、石垣が修築された。
  東国の外様大名を中心に命じ、ふたたび、江戸城の増
 築工事を続行した。
  この時、高さ10間、広さ20間四方の石垣の上に、五層
 の天守閣ができあがった。
  また、掘割り工事も行った。
1607年、伏見城
  伏見は、京都と大阪をつなぐ水陸の要地で、晩年の秀
 吉は、ここを隠居所としたが、
  家康も、5大老時代にここで政務をとった。
  覇権確立後、京都とともに直轄とし、
  伏見奉行についで、1607年には、伏見城代をもうけ、
 松平定勝をこれに任じた。
  家康の畿内経営は、京都と伏見を拠点として進められ
 た。
1607年、角倉了以が、富士川を開墾して、駿河の岩淵から
 甲府に至る舟行をひらき、
  また、天竜川を開墾して、信濃の諏訪に舟を通わせた。
1607年、徳川幕府が、鉄砲の統制を始めた。
  「仰渡され候御定の覚」には、以下の様に記されてい
 る(抜粋)
  ・鉄砲細工を余人へ相伝申すまじきこと、
  ・鉄砲薬の調合や、薬込、他言他言致すまじきこと、
  ・みだりに他国へ出してはならぬ
  ・諸国から鉄砲多く誂(あつら)えがあったら早速届
 出すべきこと、
  また、新筒を受け取り候はば届すべきこと、
  ・違背の者候はば、早速相届け申し上ぐべきこと・・
 など。
  鉄砲は、1607年から、幕府の許可の者のみの製造可能
 となった。
1607年、家康の9男の徳川義直が、尾張に封じられた(尾張
 徳川家の成立)。
1607年、林羅山が、「本草綱目」を入手し、
  徳川家康に献じた。
  以後、日本での自然観察の学に、大きな影響を及ぼす
 本になった。
1607年、アメリカのバージニア植民地は・・、
  北アメリカに設立された。
  イギリスの植民地であるが、1607年に、バージニア会
 社によって設立された。
  そして、1624年に、バージニア王室領植民地となった
 (1776年まで)。
  そして、1776年のアメリカ独立宣言により、アメリカ
 合衆国の最初の13州(いわゆる「13植民地」)の1つ、
 バージニア州となった。
  そして、アメリカの奴隷制度は、このバージニア植民
 地に、初めて入植したてのすぐ後に始まるという、軽蔑
 すべき奴隷の歴史がある。
  アメリカは、この様にアフリカの方々を虐(しいた)
 げた。そして、その行為で富を蓄積してきた。その様な国
 である。
  そして、その収奪で出来た街並みである。
  キリスト教の神が奴隷にすることを肯定し、「奴隷に
 せよ」と叫んでいる。聖書に記されている。
  その様な聖書で洗脳され、奴隷制度を忌むべき制度と
 感じていないキリスト教徒の行為であった。
..
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