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2013年10月25日金曜日

技術的発展で、幸せを得ている人々は、『悪い』のか?

 題:技術的発展で、幸せを得ている人々は、『悪い』のか?
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書は、人々が幸せになるために、役立つ
のだろうか?
 人々の暮らしに、役立つのだろうか?
 イスラエルの地の人々・・、
 自分達を「神に選ばれた選民」と特別視して・・、
 その特権意識をもって、飢餓と背中合わせの地に居た。
 そして、「飢餓に見舞われた時」に・・、
 その「特権意識でもって」・・、
 「隣国の、善意の第三者の糧(かて)」を・・、
 「何ら悪意の無い方々」の「生きるための糧」を・・、
 自らが、我が民族が、生きるためには、我々は「選民な
のだから」と・・、
 そしてまた、その「選民には神の義があるから」と・・、
 善意の第三者の、隣国の富を、奪いに、攻め込んで行く。
 この様な事を教える『キリスト教の教義』。
 そして、その事を『消えてなくなる事のない聖書』に書
き、歴史を連綿と持って来ている。
 キリスト教聖書の(「創世記」11・1~9)に、
 有名な『バベルの塔』について記されているが、
 まったく建設的な内容ではない。記述では無い。
 読むと希望が、まず、無くなる。
 「民が、シンアルという平野の地を得て、幸せに住んで
いた。彼らは、より幸せになろうと、色々、工夫をし、幸
せになろうと努力した。『さあ、レンガを造って、よく焼
こう」。
 こうして彼らは、石の代わりに、レンガを得た。
 同様に、「しっくい」の代わりに、アスファルトを得た。
 この様に、彼等は、彼らの時代なりの技術の発展に努め、
その努力の甲斐(かい)があって科学的・技術的発展をし、
成果を得ていった。
 幸せさを向上させていった。
 そこで、彼らは、得た技術で、また、科学的成果で、次
なる発展へ挑戦した。
 『さあ、町と塔を建てて、その頂(いただき)を天に届
かせよう」・・と。
 これが、キリスト教の神の気に入らない事だったらしい、
 この後に、神からの『いじめ』が待っていた。
 もしかすると、神に憧(あこが)れた民は、是非、神に
お目に掛かりたいと思って、天に届かせようとしていたの
かもしれないが・・、
 自己、邪推するキリスト教の神は、自分の思ったことが
間違いないとして・・、
 その部分についての聖書のその記述は・・、
 「主(キリスト教の神)は下って、人の子たちの建てる
町と塔とを見て、言われた」。
 つまり、この民の行為は、『駄目だ』と言った。
 そこで、キリスト教の神は、民へ、罰まで与えようとま
でした。
 神は考えた。「民が、この様に、科学技術を発展させた
のは、民が同じ言葉で、意思の疎通がスムースであったか
らだ」・・と。
 そして、民たちのコミュニケーションが、うまく出来な
いようにしてしまった。
 神は言う、「民は一つで、皆、同じ言葉である。彼らは
すでに、この事を始めた。彼らがしようとする事は、もは
や何事もとどめ得ないであろう」・・と。
 神は、バベルの塔をぶっ壊した。
 そして、民への仕打ち・邪魔をし始める。
 民の何処が悪いというのか?
 そして、キリスト教の神がやった事は、民の言葉も乱し
た。
 そしてまた、民をでんでんバラバラに「け散らかして」
しまったという。
 人類の発展・・。人類は、火を使う事をおぼえ、
 そして、その火で滅菌し、衛生的な食を得た。
 この火の知識は、人類の発展に大いに寄与した。
 そして、焼いた肉などの食事は美味しかった。美味しく
なった食事をする事を覚えた。
 そしてまた、人類を襲う野獣などから身を守る事が出来
た、逃れる事が出来た。
 そして、明るい火の光は、洞窟内を明るく照らし、そし
て、温め、
 その光の周りで、明日の狩猟についての語り合いも、も
たれたであろう。
 団欒(だんらん)があったであろう。
 人類は、この火というものを知っただけで、どれだけの
豊かさがもたらされたかは、筆舌につくせない。
 人類は、この様な積み重ねで、豊かになり、幸せになっ
て来たのだ。
 キリスト教の神は、何故、この発展を、このプロセスを、
この発展のプロセスに反対し、足を引っ張るのだろうか?
 キリスト教聖職者は、「神は、神のいる天を覗(のぞ)
かれる事が嫌だったのだ」と言う。
 そして更に、キリスト教聖職者は言う、「人間の分際で
神のいる位置に達しようとしたからだ」・・と。
 そして更に、キリスト教の聖職者は言う、「神の座に座
ろうとしたのだ。人間の分際で」と。
 そこは言い過ぎでしょう?
 今・現代の、超高層の建物。それらの技術や発展で、人
々は、幸せをエンジョイしているのです。
 また、その現代人の豊かな生活を、皆様がエンジョイし
ている生活を、キリスト教は、現代にそぐわないというの
ですか?
 キリスト教はその様に教義設定する宗教ですか?
 その様に、見受けられますが、その教義は間違いです。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
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URL: http://32983602.at.webry.info/

2013年10月24日木曜日

NHK、キリスト教に偏する。キリスト教の無益なキャンペーンに共同行動する。

 題:NHK、キリスト教に偏する。キリスト教の無益な
   キャンペーンに共同行動する。
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、「頑張らない」という運動を、キャンペ
ーンとして行っている。
 キリスト教の教義から、その様な運動が生まれたのだが、
 キリスト教は、『一見して』、優しく感じる「頑張らな
い運動」を、キャンペーン運動として取り組んではいるが、
 本当に、真実に、皆様のためになっているのか? 
 また、社会のためになっているのだろうか? 『否』で
ある。
 キリスト教の教義から発生したという、その根幹に、そ
の基があるとは言えない。無理に作り出したとしか言えな
い。
 運動の主旨は、キリスト教の宗教の『優しさ』をPRす
るところにあるのだが、回り回って、苛酷な結果につなが
って行ってしまうことが多い。
 キリスト教には、『愛の宗教だ』という、大きな根本の
PRポイントがある。
 キリスト教の教義や行為を調べてみると、また、学んで
みると、キリスト教は・・、
『愛の宗教どころではない』ということが分かる・・が、
 宗教イメージの『懸命なるイメージチェンジ』の中に、
この「キリスト教は愛の宗教」というPRポイントがある。
 キリスト教の、この『愛の宗教のPR』と連動して、す
でに記した「頑張るなのキャンペーン運動」が、共に、運
動として発生している。そして、『優しさ』を懸命にPR
する。しかし、この優しさ・・・?、
 優しさを、素直に喜んで良い場合と、
 無邪気には喜んではいられない場合がある。
 教育レベルなどにおいて、優しくするは、その優しくし
てくれた人に、最初は、そして、その優しくしてくれた行
為に、嬉しくは思うが・・、
 結局、将来、自分の不出来を嘆く場合に、多々、遭遇し、
 結局、あの時、優しくしてくれたということに思いが至
る。
 逆に、厳しくしてくれた教師に、その時は、逆恨みもす
るが、その後に感謝をすることが多い。
 優しい教師には、あの時は、一時、感謝の気持ちを持っ
たが、結局、あの優しさが『仇(あだ)』となって戻って
いるのだなと後悔する時が多い。
 キリスト教の、一見、優しく見える優しさには、この様
な、「結局、最後は、相手に悪結果・悪さを与え、残る『
優しさ』であるな」と思う。
 キリスト教に偏するNHKは、この「頑張らない」とい
うキャンペーン運動を、長期間に渡ってNHKの手前の機
構である放送媒体(ラジオなど)を使ってキャンペーン放
送をした。
 出演は、何時もキリスト教徒のM・K氏だった。
 この様に、キリスト教に偏するNHKは、出演者の選出
にも偏している。
 確かに、頑張るより、頑張らない方が楽でいい。
 頑張ることはつらいし・・。
 そして、また、NHKは、テレビ討論会も企画し、放送
した。長時間の討論番組であった。
 この時も、キリスト教系の大学の国際基督教大学の教授
が出演し、討論番組であるのに、「頑張らない」の論旨の
みを言い続けた。それは、まったく教示的であった。これ
のみを言い続けた。
 相手を見ない、自分だけの論旨だけを・・、
 何ら深みもない討論番組となった。討論ではない。
 長時間の討論番組の時間だけが、虚(うつ)ろに無駄に
過ぎて行った。
 この時に出演されていた、時の、文部科学大臣の伊吹文明
衆議院議員から、
 世の中で、頑張って、世の中に貢献し・・、
 皆様が幸せになる、そのための成果を上げた人が、正し
く評価されていく社会でなければならないという主旨の・・
 『頑張っている方が、社会から感謝され、報われていく
社会でなければならない』・・と、正論を言われ、
 キリスト教系大学の教授は、それに対して反論できなく
て、討論が止まる、言葉が詰まるというような、まったく
無益な討論番組であった。
.
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2013年10月22日火曜日

聖なる(キリスト教の)神は、その聖であるが故に、人を殺す

 題:聖なる(キリスト教の)神は、その聖であるが故に、人を殺す
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は言う。
 「聖なる神は、その『聖』という性格の故に、汚れた人
間=罪人(つみびと)を裁き、滅(ほろぼ)さざるを得な
い神である」・・と。
 まったく勝手なキリスト教の神だ。
 また、キリスト教聖職者の言い方だ。
 キリスト教は、勝手に「(キリスト教の)神の性格付け」
をして行く。
 そのキリスト教の神を、『人格的存在として』イメージ
して行く。
 「嫉妬深い神なのだ」と、神に言わせたりもしている。
 そして、ここのところでは「聖」を強調して話を展開し
て作っている(いつも、思いつき的にやっている)。
 ここでは、話のストーリーは、「聖なる神」である。
 こう設定したら、対する存在は「聖ではない」である。
 案の定、「汚れた人間=罪人(つみびと)」の登場であ
る。
 「聖なる神」の役者Aと、「汚れた人間」の役者Bが、
役を演ずる段階になると、ありきたりの「聖なる神が、汚
れた人間の罪人を誅するのである」。
 『誅』とは、正義が不正義を成敗することである。
 どちらが正義かは、本当は不明なのだが、キリスト教は、
何時も、「自分が正義」というキリスト教の教義になって
いる。
 馬鹿馬鹿しいほどだ。
 キリスト教なんて『愛の宗教』なんかではない。
 キリスト教の聖書のあちこちで、キリスト教の神が人殺
しをしている。成敗と称して。正義を掲げて。
 読む信徒は洗脳されていく。最初は変と思っても。
 キリスト教は、本当に、卑劣な思考展開をする宗教だと
思う。
 「汚れた人間=罪人を滅ぼすのだという」。
 この卑劣さに憤りが涌く。
 これで何人の方々が殺され、亡くなったというのか。
 「聖なる神なのだから、『殺さないでいいでしょう』と
言いたい。
 何時も、キリスト教は、このパターンで人を殺す。
 だから、南米などへ、キリスト教徒とキリスト教聖職者
たちが行った時も、キリスト教の、この思考パターンで殺
しまくった。絶滅民族が出た。
 『我々は聖なる者だ』。『お前たちは汚れた人間なのだ』
の思考パターンだ。現地人を「人ではない」と言った。
 オーストラリアの原住民のアボリジニの方々に対しても、
同じ事をした。
 キリスト教徒のイギリス人は、アボリジニの方々をまる
で狩猟の行為をするかの如くに、アボリジニの方々を狙い
撃ちにした。
 アボリジニの方々は、絶滅寸前まで行った。
 この様に、キリスト教の聖書記述者が、性悪に思考展開
した考えを、キリスト教という宗教の書=聖書であるが故、
反省される事なく、連綿と歴史を受け継がれ、
 そして、人類の負の遺産、魔女の大量焼き殺しもそうだ
し、人殺しの悪行を累々と積み重ねて来た。
 キリスト教の教義としてあるため、「変更不可」として、
存在し続け、処されて愚行されて来ている。
 これは、大間違いなのである。
 聖なる神の設定は良しとしても、何故、人間を汚れた者
と設定するのか?
 また、聖なる聖なる神だから故、人間を成敗する、滅ぼ
さなければならないと教義設定するのか?
 聖なる神だから故、佛教の仏の如く、温かく迎え、そし
て、教え、導き、悟さないのか、そうするべきではないのか?
 今、即刻、このキリスト教の教義を変えよ。
 また、キリスト教は、また、キリスト教聖職者は、当然
の如くに、この「殺人助長教義」で洗脳をするな。
 また、自分達も洗脳されていると気付きなさい。
 特に、感受性の鋭い小学生や幼稚園児などに、洗脳行為
をすることを止めよ。即刻、中止して下さい。
.
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2013年10月21日月曜日

NHK、キリスト教に偏する。日曜大河ドラマで日本を洗脳する『巧妙なる伝道行為』だ

 題:NHK、キリスト教に偏する。日曜大河ドラマで
        日本を洗脳する『巧妙なる伝道行為』だ
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 明治の曙光の頃、
 江戸期のキリスト教の禁教令も解け、
 キリスト教に初めて接した明治のインテリ層は、
 キリスト教の持つ異質性の中に、進んでいるという先入
観のある西欧の匂いを感じ、
 また、西欧の進んだ科学などへの敬慕も関係して、
 『キリスト教を新鮮な進んだもの』として受け取った。
 そして、
 その宗教の異質さに、『感化力がある』と感じた。
 それらは、「キリスト教的政治」「キリスト教的文学」
「キリスト教的社会」「キリスト教的家庭」などの言葉と
なって社会に流れ、もてはやされた。
 そして、無批判的に進んだものと見なされ、良いものな
のだと、もてはやされた。
 しかし、そこには、具体的に、神学的に、聖書学的に、
科学的に、しっかりした裏付けがなされた理論から結論に
至った訳がある訳ではなかった。
 今・現在は、逆に、新しい知見が得られ、神学や聖書学
などの研究も深くなされており、今現在、神学者で、キリ
スト教を肯定的に見る学者は本当に少ない状況となってい
る。
 明治期の当時は、その様な知見や知識がある訳ではなく、
西欧への憧れ的な現象からきていた。
 また、その無批判な受け入れ行動は、それまで持ってい
たものを、ただ、感情的に廃棄・排除・忌避した。
 当時の、明治期の方々の発言を見ると、「日本のものは
独創性がない」と日本のものを蔑(さげす)んだが・・、
 今・現代は、逆に、日本食を初め、世界は「日本ブーム」
である。
 そしてまた、当時の日本批判の言葉には「科学は新事実
の発見に留まっており、応用に至らない」と日本を批判し
た。
 がしかし、今、世界に、画期的技術を提案している国は
日本である。
 皆様もご存じの京都大学・山中伸弥教授のiPS細胞、そ
して、応用面にも希望ある再生技術など、次々に開発がさ
れている。
 そしてまた、世界がどうしても開発出来なかった「青色
レーザー」の中村修二博士も日本の大発明であり、これは
すでに応用され、使われている。
 江戸期においても、関孝和の数学は、世界の最先端を行
っていた。
 「世界で最も早い時期に行列式・終結式の概念を提案し
た事はよく知られている」という様に、江戸期にも、世界的
な学者はいた。
 この様な事を記せば数限りない。
 明治期に、キリスト教にかぶれた諸氏は、透徹した思考・
考察からキリスト教に至った訳では無かった。
 ゴッホなど西欧の印象派に多大な影響を与えた日本の美
術。その事を知ってか?知らずか?
 キリスト教にかぶれた明治期の氏は、「日本の美術は名
誉を求めているだけ」とか、「美を発揚するに努めず」と
かと言っている。
 キリスト教に偏するNHKが、今、日曜大河ドラマ「八重
の桜」で、この明治期の人・新島襄を描いているが、
まったく、今・現代の眼で脚色され、変えられ、美化され
ているため、当時のままの再現であったら大変おかしく感
じられる所も無く、美しく放送ドラマは進んでいる。
 これは嘘放送である。
 キリスト教が、よくやるプロパガンダ(嘘宣伝)と同様
である。
 NHKのこのドラマは、キリスト教がよくやる「巧妙なる
伝道行為」である。
 キリスト教に偏するNHKのイデオロギーに合う様に、
また、現在に違和感のあるところは、真実を無視して変え、
現代に違和感のない様に書き換え、巧妙なる伝道行為をし
ている。
 本日(2013・10・20)においても、会津に教会
を作る話のセリフと共に讃美歌を流し、『可哀想な人を救
うのだ』と誇大に放送され、大げさな演出となっていた。
.
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2013年10月20日日曜日

渋谷ハチ公前の辻説法

 題:渋谷ハチ公前の辻説法
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
(渋谷ハチ公前の路頭の辻説法を、何度も、ビデオを見て、
 聞き書きしました。記述において、私なりの表現もあり
 ます)。
 しばらくの間、大変大きなマイクで失礼いたします。
 多くの日本の方々が、今、仏教をはじめとする「宗教」
というものの価値を忘れておられます。
 それ故に、多くの方々がおそらく「宗教なんてどうでも
いい」「自分の人生に宗教なんて関係ない」という様な、
その様なお考えをお持ちなのではないでしょうか。
 しかし、その考えは間違いです。
 なぜなら、宗教というものは、仏教をはじめとする宗教
というものは、我々、人間の「原点」であるからです。
 例えば、1921年に、「アマラ」と「カマラ」という二人
の少女が発見されました。
 可哀想な事に、その二人の少女は、何と、オオカミに拾
われ育てられてしまったのです。
 その為に、彼女たちは、四足で歩き、遠吠えをし、犬の
様に口で食事をし、言葉も話せませんでした。
 この二人の少女は、一体何を、私達へ教えているのでし
ょうか。
 それは、私たち人間という生き物は、「教わり、学ばな
ければ、オオカミの如くにさえなってしまう事さえある」
という事を、この悲しき真実が、オオカミに育てられてし
まった少女たちの事実が教えてくれています。
 では、私たち人間に、『善と悪』を、教えて来たものと
は、一体、何であったのでしょうか。
 『心の正しさを教えるもの』とは、一体、何なのでしょ
うか。
 科学の本には、核兵器の作り方は書いてあっても、その
善悪までは、『心の正しさ』までは、書いてはありません。
 国語は、言葉を教えるものであり、
 数学や算数は、数字の学問です。
 我々・人間に、私たち人類に、『善悪を教え』、『正し
い心』とは、一体、いかなるものであるのか。
 これを、これまで教えてきたものこそ、日本の方々が今、
お忘れになっている『仏教』をはじめとする宗教というも
のであったのです。
 故にこそ、日本の人々が、『宗教の大切さ』をお忘れに
なろうがなるまいが、
 宗教の事が好きであろうが、嫌いであろうが、それを問
わず、
 今、オオカミではなく、『人間として生きている』のな
らば、
 皆さんは、既に、宗教から『何か』を学んでいるという
ことなのです。
 仏教をはじめとする宗教から、『恩恵を受けている』と
いうことに他なりません。
 この真実に、気がついて戴きたいと思います。
 仏教をはじめとする『宗教こそ』が、私たち人間の心を
豊かに育(はぐく)み、築き上げているものなのです。
 誰もが、子供の頃、30代の方、40代の方であるならば、
誰もが子供の頃、21世紀に憧れを持ったことでしょう。
 希望を抱いた事でしょう。
 アニメの「ドラえもん」を見て、誰もが、21世紀は、科
学が発達し、経済が繁栄し、便利で、素晴らしい時代が来
るのだろうと、夢と希望を描いたものです。
 しかし、どうでしょう。
 私達が、築きあげているこの21世紀は、本当に素晴らし
い時代となっているでしょうか。
 誰もが、心の底では、今のこの日本、世の中を見て、「
何かおかしい」という疑問を抱いているというのが、真実
ではないでしょうか。
 子供たちが、学校ではいじめにあい、教師たちはそのい
じめを隠蔽(いんぺい)し、自殺者が3万人を超える、そん
な時代が十数年続き、コンスタントに無差別の殺人が起き
ている。
 この心貧しき日本を見て、誰が果たして『正常な世の中
である』と言えるでしょうか。
 それは、私たち日本国民をはじめとする先進国の人々が、
経済を発展させ、科学を発展させることによって、様々な
力を得ることによって、まるで西遊記に登場する猿のごと
く、孫悟空のごとく、佛に挑んだ西遊記の猿のごとく、過
信し、慢心し、『大切なものを忘れている』という事実に
気付いて戴きたいかと思います。
 日本は、世界でも稀(まれ)にみる宗教国家でした。
 2700年という、世界最古の歴史を持つ日本。
 その中で、常に、権威を持ち続けて来られた天皇陛下と
いわれている御存在は、「神道(しんとう)」という日本
独自の宗教の最高神主(かんぬし)です。
 政治家ではございません。
 その神主が、最高神主であるところの天皇陛下が、仏教
に帰依(きえ)した時代もありました。
 そして、平安時代という、死刑が一度も行われない平和
な時代を迎えたことも、この国にはありました。
 世の中を、平和にし、治安を守り、秩序を築きあげてい
く時に、本当に大切なのは、警察官と、厳しい法律だけで
はありません。
 厳しい法律によって、たくさんの警察官によって、もし
世の中の平和を守ろうとすれば、国民は、人々は、その法
律の抜け穴ばかりを、探すことでしょう。
 しかし、道徳心によって、精神性によって、世の中を、
平和を造ろうとすれば、自然と、悪を犯すことを恥だと思
うことが人間の常であります。
 世の中を造っているもの、時代を造っているもの、社会
を造っているものは、あるいは、平和を守っていくものは、
もちろん最後は、法律と警察の方々でありますけれども、
 しかし、社会を造り時代を造っているのは、他ならない
私たち一人一人の『心』です。
 そして、その心を築き上げていくものが、仏教をはじめ
とする『宗教というもの』なのです。
 だからこそ、「宗教などどうでもいい」と、もし思われ
ているのであるのなら、それはすなわち、「心豊かな時代
なんて来なくていい」と、人の心を豊かにはぐくむ、この
宗教というものの価値が、「どうでもいい」というのであ
るならば、それはすなわち、「心豊かな時代なんて来なく
ていい」と、そう結果的に考えているのと同じであり、
 もっと具体的に言うならば、
 子供が学校でいじめにあって、自殺するような、こんな
世の中でも、一年間に3万人も自殺し、40万人以上の日
本国民が自殺するような日本でも、
 あるいは、若者が、お年寄りから貯金や年金を奪うこと
を恥としないことを、「何とも思わなくてもどうでもいい」
と、言っているのと、結果的に同じという事に気がついて
戴きたいのです。
 私たち人間という生き物は、泣きながら何も知らずに生
まれてきます。
 イギリスのシェイクスピアという悲劇作家は言いました。
 「人間は泣きながら生まれてきた」と、
 あの赤子があげる断末魔にも似た産声は、この地上に誕
生したことを祝福して泣いているのではなく、
 むしろこれから始まる人生が、恐ろしくて、驚愕して泣
いているのだということを、イギリスの作家、シェイクス
ピアは述べたと言います。
 これは、佛教的な真理から見ても真実です。
 なぜならば、私たちの人生には必ず、苦しみや悲しみが
訪れるからです。
 この苦しみや悲しみを、仏教では生老病死といいます。
 「あの世」からこの地上に生まれて来る苦しみ、
 「老」という、老いていく苦しみ、
 若い方に、老いる苦しみと言っても、まだ分からないか
もしれません。
 しかし、腰の曲がった白髪頭の歯の乏しくなった老人に、
誰もがなっていくのが世の常であり人間の常であります。
 また、病の苦しみ、誰もが人生の中で病や怪我に悩まさ
れ苦しまれることがあります。
 そして、この世を死して去ってゆく苦しみ、
 その他にも愛別離苦(あいべつりく)という、愛する人
と生き別れにしろ、死に別れにしろ別れる苦しみ、
 怨憎会苦(おんぞうえく)という個性の違う、自分とは
どうしても合わない人に出会い、嫌いな人に出会ってしま
う苦しみ、
 さらには、求不得苦(ぐふとくく)という、求めても求
めても得られない、富みにしろ、名誉にしろ、健康にしろ、
美貌にしろ、求めるものが手に入らない苦しみ、
 更には、五陰盛苦(ごおんじょうく)という、肉体五官
煩悩に振り回される苦しみ、
 これら四苦八苦は必ず、私たちの人生の折々に訪れます。
 人生とは一冊の問題集です。
 この私たちの人生の問題集であるところの四苦八苦を、
苦しみを乗り越えていくものは、もちろんお金も大切です。
 知識も大切です。
 しかし、苦しみを断ち切っていくものこそ、佛教で言わ
れているところの、悟りという名の心の成長にほかなりま
せん。
 一人びとりが、自らの心を悟らせ、成長させていくこと
によって、必ず人生に訪れる苦しみを、人間は乗り越え、
踏破し、心の底から「生きていることが素晴らしい」と、
そう言える心になっていくことが出来ます。
 人は、泣きながら生まれてきますが、泣くために生まれ
たのではありません。
 人は悟りを得て、苦しみを乗り越え、笑うために生まれ
てきたというのが佛教の基本的な考え方であります。
 心は自由です。
 どんな王様であっても、肉体を束縛することは出来ても、
力なき奴隷の肉体を束縛することはあっても、心を支配す
ることは出来ず、いかなる環境に置かれようとも、いかな
る状況にあろうとも、私たちが持っているところの、この
「心」は自由であり、極端な話、人間とは、たとえ強制収
容所にいようとも、遊園地にいるような明るい心を持つこ
とも出来れば、
 むしろ逆に、遊園地にいようとも、強制収容所にいるよ
うな暗い心になってしまうことがあるものであり、
 これを分けるものこそが、一人びとりが持っているとこ
ろの、悟りであるということに、どうかお気づき戴きたい
かと思います。
 私たち、一人ひとりの体力は、今すぐ2倍や3倍にはな
りません。
 10倍や50倍にはなりません。
 経済力も、今すぐには、10倍、100倍にはなりませ
ん。
 しかし、私たちが持っているところの「心」の中にある
勇気というものは、心の力というものは、悟りを得ること
によって、百倍にも千倍にも万倍にもなっていきます。
 人は、心において自由であり、心というものは確かに作
り変えていくことが出来ます。
 そして、心を作り変えて成長させていくことによって、
人生が変わり、また、一人ひとりの人生が変わることによ
って、国家や社会や時代が変わって行きます。
 人間関係の中で苦しまれている方も、多いかと思います。
 しかし、知って下さい。
 人間関係を良好にして行く時に、大切なものこそが、悟
りという名の心の成長であり、立ち向かう人の心は、私た
ちが出会っている妻や夫、友人、上司、同僚、部下・・・
そうした立ち向かっている人の心は鏡です。
 「立ち向かう人の心は鏡なり」と佛教では言われており
ますけれども、私たちの前にいる「誰か」は、私たちの心
を映す鏡であります。
 もちろん、その「誰か」が、正しく心を映してくれると
は、必ずしも限りません。
 心雲っていれば歪んで映ることもあるかもしれません。
 しかし、私たちの目の前にいる人たちは、木石ではなく、
木ではなく、石ではなく、心ある人間であるために、私た
ち一人一人が、喜びもすれば、傷つきもする、心ある人間
であるように、私たちの目の前にいる「誰か」もまた、心
ある人間であるように、自らが心を変え、悟らしめること
によって、目の前の人の反応が、変わってくるということ
が確かにあります。
 自らの心を高めることによって、目の前にいる夫や妻、
「誰か」が、笑顔が増え、優しき言葉が増えるということ
が確かにあります。
 大切なことは私たち一人一人が、自らの心を高めていく
ことであります。
 2500年前に生まれた、インドの地に佛教を興されたゴー
タマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏、仏陀と呼ばれる存在と、
 2000年前のイスラエルの地に現われたイエス・キリスト
という存在を比較した時に、決定的に異なる点があります。
 イエスという方はどちらかというと、人間を弱者と見て、
その一方、遥かなる彼方に超越した存在がいると言い、
 その存在のことをイエスという人は「父」と呼びました。
 あるいは「神」と呼ぶこともあったでしょう。
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 (注:キリスト教は、『人間には生まれながらに原罪が
ある』と教義設定し、その原罪の存在などを信じなければ
異端とし異教徒して、『異教徒は殺せ』の教義のあること
く、切り捨てられ排除される教義となっている)
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 しかし、仏陀は、釈尊は、そうは思いませんでした。
 カルマの中で流され、宿命に翻弄(ほんろう)され、運
命の波に流されていく、そして、不幸せな人生を生きてい
く人を多く見てはきたが、それでも、仏陀は、人間とは強
き存在であり、「自らの心の中に仏と同じ性質のものがあ
る』ということを説きました。
 「ゆえにこそ、自らの心の中にある『仏性』を顕現せよ」。
 「自らの心を高めよ、悟りを高めよ」。
 「そこに真実の、心からの、魂からの幸福がある」とい
うことを説いたのが、佛教なのであります。
 どうか、先祖供養をすることを以って、それを佛教だと
 思わないでください。・・・中略・・・
 本当の仏教的精神とは、上求菩提(じょうぐぼだい)、
下化衆生(げけしゅじょう)、上に向かっては、常に、悟
りを求め、世の人々には、常に、悟りを与えんとする。
 これが、本来の仏教精神であます。・・・後略・・・

 (参考)生老病死:しょう‐ろう‐びょう‐し、仏語。避け
ることのできないこの世での人間の4種の苦悩。生まれるこ
と、老いること、病気をすること、死ぬこと。四苦。
 (参考)愛別離苦:あいべつり‐く、 仏語。八苦の一。
愛する者と別れる苦しみ。
 (参考)怨憎会苦:おんぞう‐えく、仏語。八苦の一。
うらみ憎む相手に会う苦しみ。
 (参考)求不得苦:ぐふとく‐く、仏語。八苦の一。求め
ているものが得られないことから生じる苦しみ。
 (参考)五陰盛苦:ごおんじょう‐く、仏語。八苦の一。
五陰から生じる心身の苦悩。
 (参考)五官:ご‐かん、人間が外界の事物を感じる五つ
の感覚器官。目・耳・鼻・舌・皮膚。
 (参考)煩悩:ぼん‐のう【煩悩】 《(梵)kleśaの訳。苦
悩・心痛の意》仏語。身心を悩まし苦しめ、煩わせ、けが
す精神作用。貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)は根元的な煩悩と
して三毒という。染。結。垢(く)。
 (参考)悟り:さとり【悟り/覚り】 1 物事の真の意味
を知ること。理解。また、感づくこと。察知。「―が早い」
 2 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得
すること。
 (参考)上求菩提:じょうぐ‐ぼだい、仏語。菩薩(ぼさ
つ)が、上に向かって悟りを求めること。⇔下化衆生(げけ
しゅじょう)。
 (参考)下化衆生:げけ‐しゅじょう【下化衆生】 仏語。
菩薩(ぼさつ)が、上には菩提(ぼだい)を求めると同時に、
下に向かっては衆生を教化(きょうけ)・救済(ぐさい)する
こと。⇔上求菩提(じょうぐぼだい)。
参考

 http://www.youtube.com/watch?v=1gWbIHhGUx8
http://ameblo.jp/uttaetotatakai/entry-11645883945.html
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  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/