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2011年10月8日土曜日

目には目を・・・について

題 : 「目には目を」・・・について

 御質問にお答えさせて戴きます。

 下記が、
 ハムラビ法典から、キリスト教の旧約聖書や新約聖書にも同
様記述がなされた記述の1例です。

 (キリスト教の聖書の記述例)
   もし女の目が傷ついたら、償いとして男の目を傷つけ、
   歯が折れたら歯を折る、手には手を、
   足には足を、やけどにはやけどを、
   傷には傷を、むちにはむちを、である。

 キリスト教徒は 
 この様な数々の
 あまりにも悲惨な教義に驚き、
  曲解に次ぐ曲解が行なわれている。、
 その結果、
 曲解の習慣化と
 曲解による日常的な思考という状況が
 現出している。
        〇〇〇〇さん 5月4日 23:49

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 

☆ 解決方法は無限にあるのです。
  聖書に書かれていることのみでは 
  ないのです。 
  相手の方々の持っている光り輝くいのちを 
  大切に思いやってください。 
  例え、
  キリスト教の神の義があったとし、
  そして、
  たとえ正義としても・・・ 
  「 やってしまえ 」 だけの教義では・・・ 
  また
  事を 善悪だけでしか
  捉えられないのでは・・・

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 
☆( ローマ教皇は 多神教へのあこがれを抱いていた )
 
   キリスト教は 一神教だ。 
   しかし、
   キリスト教で 一番偉い
   教皇ヨハネ・パウロ2世は、
   過去数世紀間の
   前任者すべてを合わせたよりも多数の
   聖人を作り出し、
   また、
   聖母マリアに
   特別の愛着を持っていた。
   彼が 多神教へのあこがれを抱いている事は、
   1981年に ローマで 暗殺者に狙撃されたが
   一命を 取り留めたが 彼が、
   そのことを
   ファティマの聖母マリアのおかげだとした時に、
   劇的に実証された。
   彼は
   「 聖母の手が 弾をそらせて下さった 」 と
   言ったのだ。
   なぜ聖母は、
   弾が 彼に 全く当たらないように
   しなかったのだろう という
   疑問を持たざるを得ない。
   6時間に及ぶ外科手術・・・
        参考文献 : 神は妄想である(早川書房)
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  
☆ オックスフォード大学
       リチャード・スウィンバーンの言葉 :
   もし
   キリスト教の神が
   存在し、
   そのことを
   私たちに納得させたい のであれば、
   「 世界を 超奇跡で 満たす 」 ことが
   できただろうに。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  
☆ ブッシュ元大統領(父子)の起こした戦争の罪の広がり・・
  キリスト教徒の希望により行われ、「イエス・キリストの夢
 を見た」とイラク戦争を決断したブッシュ元大統領(子)。
  また、ブッシュ元大統領(父)が、同じくキリスト教徒の
 希望によって行った湾岸戦争の元軍人が心的障害によりホーム
 レスになっているとのこと(H22.2.27 日本テレビ)。ニュ
 ーヨークのホームレスの5人に1人はこの湾岸戦争の元軍人。
 
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 
☆ キリスト教は
    『 ヒエラルキー・上からの序列 』 が
                   根本設定の宗教。
  教義の考えの1例は 
         『 羊の様な信徒 』 を、
  その羊を導く牧童の様な牧師や キリスト教聖職者が、
     キリスト教の神の次の序列に居て、
  その 『 聖職者に能力がある 』 と 宗教設定し、
    無能とされた信徒を導くのだとの、
         全く人を馬鹿にした「宗教コンセプト」。

  そこには 『 皆と共に 』 という 『 心 』 はない。

  この 「宗教コンセプト」 が
        歴史に於いて 数々の悪行為の原因となる。
 
  この 『 根本から修復しなければならない宗教 』。

2011年10月7日金曜日

神の義によれば、人を誅してもよい・・・

 題 : (キリスト教の)神の義によれば、人を誅してもよい・・・について

 こんにちは
 キリスト教は
 「(キリスト教の)神の義によれば、人を誅しても良い」との
教義があります。
 どこにこの教義はあるのでしょうか。
 勉強したいです。
 よろしくお願いいたします。

 ビオラさんへ 
 はじめまして、ご質問を戴きました事に関しまして下記に書か
せていただきます。

(キリスト教の聖書の1例)
  ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、
降伏を勧告しなさい。
 もし、その町がそれを受託し城門を開くならば、その全住民を
強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。
 しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。
 あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは
男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。
 ただし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたの
ぶんどりり品として奪い取ることができる。
 
 あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に
用いることができる。
 このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、
次に挙げる国々に属する町々に対してではない。
 あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々
の息のある者は、一人も生かしておいてはならない。
 ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、
あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
 ☆自分の利のために、他人を殺せと教えるキリスト教の神の教義。
  そして、
 この殺戮の悲惨な時点においても 「奪い取れ、奴隷にせよ」 と
 色々と指図するキリスト教の神の教義。
  この類の記述は 聖書の中に 種々多い状況。

  また、
  聖書において下記の示唆もある。
  ラテン語:talio:タリオ:被害者が受けたのと同じ害を
 加害者側に加える制裁。 local limit : local一定の空間を
 占める、limit限界点 : 現代のキリスト教徒の困惑となる一例。

 モーゼの時代には戦争をして相手を殺し、場合によっては奴隷に
 せねばイスラエル人(選民思想の民族)が殺される時代であった。
 この状況から生まれた教義が、「 当時の状況と当地の状況 」 と
 全く変わっている現代の「 他の地域や多くの時を経た今 」に
 おいてでも 同じ教義・同じ考え方で 存在している。
 TPOというものの見方がありますが、TPO的にも全くアウト。

 ☆与謝野晶子
     嗚呼、弟よ、君を泣く。   君、死に給うこと無かれ。 
     末に生まれし君なれば。  親の情けはまさりしも。
     親は刃を握らせて。     人を殺せと教えしや。
     人を殺して死ねよとて。   二十四までを育てしや。

     堺の街のあきびとの。    旧家を誇る主にて。
     親の名を継ぐ君なれば。  君、死に給うこと無かれ。
     旅順の城は滅ぶとも。    滅びずとても何事ぞ。
     君は知らじな、商人の。   家の掟に無かりけり。

      (後略)

☆『 相手のかたにも正義があるのに 』 との女性の小さな声が
 耳に印象的に残った。 
  そうですね。その通りと思います。私は答えた。
  神という衣を着せて「正義なのだから」と、「こちらは間違って
 いないのです」と。 争いは、どの様な場合もそのようになって
 居ります。
 宗教で、その形を是と教義すれば争いの多い状況になるのは必然
 です。 
  このキリスト教の教義は変えなければならないのです。

  これから未来を受け継ぐ若い方たちのために、人類の未来の
 ためにも。
  NHKは、義によって争う大河ドラマを日本中に放送し、洗脳
 した。 
  『 正義だ、やってしまえ 』 的ドラマを。 
  この大切なことが分かって戴いているのか? 
  影響力の強い放送媒体だけに心が痛む。
  実に、この様な事例が多い局です。

☆ 非が全くないという事でないのに、すべて相手が悪いと相手側へ
  すべて問題を転嫁し、
  なお且つ、
  良否判断の理性が全く入る事の出来ない宗教教義に規定する。
  キリスト教教義「(キリスト教の)神の義があるのだ、やって
 しまえ」をつくる。
  紛争の地が展開され、その歴史が連綿と続く。
  民は泣く。 
  キリスト者は、その罪を知っているか? 
  自分の勝手な・独り善がりな「正義」に真っ向から対立す
 るからと、
  そして、
  独り善がりな・勝手な宗教教義で「邪悪」だと「 決めつけ
 る 」。
  「 そんな宗教 」は否。

2011年10月6日木曜日

アインシュタインの言葉・・・など

 題 : アインシュタインの言葉・・・など

 ☆アインシュタインの言葉:
   神なんて
         想像しようとは思わない。
   大いなる自然の畏敬の念に 
         打たれるだけで十分だ。

 ☆アメリカの
     王立天文台長で、
         ロイヤル・ソサエティ会長でもある
  マーティン・リースの言葉:

   不信心な国教会教徒だが・・
       一族への「忠誠心から」
                教会に行くのだ
 
 ☆リチャード・ドーキンスの言葉 :
   アメリカは、
     想像以上に
        キリスト教徒でない人がいる。
   公表を、
        ためらっているだけ。

   無神論者の数は、
     多くの人が気づいているよりも、
           もっとはるかに多く、
   特に
      高い教育を受けたエリートの間に多い・・

   傑出した人々のうちの、
     どれほど大きな比率が、
       宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、
         世間は驚愕するだろう。

 ☆キリスト教聖職者 KD氏 の言葉 : 
    戦争を起こしたのはキリスト教徒であって、
               キリスト教ではありません。
        KD氏 :キリスト教聖職者であり、
              キリスト教系大学教授、日本人。
        キリスト教の教義を教え、キリスト教徒にし
        たのは、キリスト教ではないのですか?の問い
        に返事はありませんでした。

 ☆キリスト教の教皇レオ13世の言葉 :
   『死刑は、教会に反逆するものが居た時、
              それは効果的な手段と言える』
   「教会が悪人を処刑しても許される。
              また、そうする義務もある』

 ☆聖ベルナルドゥスの十字軍兵士への言葉 :
   「キリストのために殺しても、死んでも、罪ではなく最も
    名誉あることである。
    殺すのはキリストのためであり・・・

 ☆本日(H22・2・26)、近所の英会話教師のカナダ人と、いろ
  いろ話 をしたが、その中に、
  『 カナダでは 確実に キリスト教徒が減っている 』 と
  その方は話されていた。

 ☆キリスト教の妖精は、本来、ケルト神話などの神々だった。
    それが変化し、いたずら者で、体も小さくなった。
    ヨーロッパの布教の時、ケルトの神々を悪魔に、キリ
    スト教はした。

 ☆マリア受胎の時14歳、既に老人ヨセフと婚約していた。
              (天国と悪魔がよくわかる本)

2011年10月5日水曜日

京都の 景観について

題 : 京都の 景観について

 尾形賢 京都府議様

  拝 啓
  はじめて、メールを差し上げさせて戴きます。
  〇〇市在住の者です。
  小生、先日(4月27日~28日)、京都御所特別公開(
 天皇陛下の金婚に際する特別イベントです)のツアーに参加
 し、27日は京都御所~金閣寺~竜安寺を巡り、28日は奈
 良の長谷寺~室生寺を巡りました。
  久しぶりの旅でした。
  京都御所は、紫寝殿の奥の方が拝観できました。
  久しぶりの良い旅ができたと喜んでおります。
  そして、京都の夜は、高台寺さんからの日没のきれいな京
 都の町の景観を堪能することもできました。
  また、高台寺さんのきれいな夜間拝観もさせて戴き、外国
 人の方と挨拶を交わさせて戴いたり、立ち会われている竜谷
 大学の学生さんと意見交換ができたりした充実した夜でした。

  この日の宿泊先の 「 ホテルマイステイズ京都四条 」で
 若い方と京都の町の景観の話になった折りに、
  貴議員様(尾形 賢様)の「京都の景観についてのお働き」
 が話題になりました。
  ご活躍ありがとうございます。
  小生が京都を訪れたのは、中学と高校の修学旅行以来でした
 ので、半世紀ぶりの京都でした。
  京都の町の変容は、仕事の折りに」新幹線から気になりな
 がら見る程度でした。
  だんだんお寺さんが見づらくなるのは感じていましたが、半
 世紀ぶりとはいえ、町中に入って見たその様変わりには悲しく
 なりました。
  大切な京都の財産、日本の宝が失われて行く様でした。
  ドイツを訪れた時の驚きと正反対の驚きでした。
  ドイツは本当に景観を大切にしております。
  町の方々の生活もあるとは思いますが、何とかならないので
 しょうか。
  幸い新聞で、外国人の方々の京都の訪れも1パーセント増と
 日経新聞で読み喜んでおりますが、お寺さんがたが頑張ってい
 るだけでは駄目だと思います。
  税収のアップのためとはいえ(ホテルの方のご説明)南口の
 大型店舗の出店は、僅かに京都の面影を残す周辺小売店の消滅
 を意味しているのではないでしょうか?
  北口と同様に、ここも東京・銀座と同じ町の景観と化すこと
 になると思います。
  飛躍的な施策を為さねばならないと思います。
  よろしくお願い申し上げます。                                                敬 具

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ☆京都府議会事務局より 御返事を戴きました 
                   平成21年6月1日

  小生の上記・提案が 府議会の各会派(自由民主党議員団、
 民主党議員団、日本共産党議員団、公明党議員団及び京都創生
 フォーラム)へ送付して戴けたという内容でした。

  早速、京都府議会事務局と尾形議員へお礼のメールをしました。

2011年10月4日火曜日

ブッダの ことば

 題 : ブッダの ことば

   慈 し み

   一切の生きとし生けるものは、

   幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

   一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

   何びとも、他人を欺いてはならない。

   たといどこにあっても、

   他人を、軽んじてはならない。

   互いに、他人に苦痛を与えることを、

   望んではならない。

   この慈しみの心づかいを、

   しっかりとたもて。


 ブッダのことばについて

 財団法人東方研究会は、
 中村元初代理事長が、その後半生を傾注し、
 私財を投じて創立し、
 昭和45年11月、文部省(現在の文部科学省)より
 財団法人設立の認可を受けた研究所であります。

 本研究所は、
 「東洋思想に関する研究調査を行い、
 その研究成果の普及を図り、
 もって学術・文化の発展に寄与すること」を
 目的としております。
 本研究所の特色は、
 上記の目的を遂行する所にあるばかりではなく、
 日本の将来を担う若くかつ有能な研究者に
 研究継続の機会と場を与えて育成することを
 重要な使命としているところにもあります。

 研究員各自の出身の大学院で開始した研究を
 本研究所で継続し、
 幸いにして大学や研究所で定職を得て巣立っていった連携研
究員の数は82名にも達しております。
 中村先生が、
 その86年の人生を学問一筋に打ち込み、
 東西の思想の蘊奥をきわめつくして最後に到達されたもの、
 それは「慈しみ」のこころでありました。

 これこそが、先生をして若い研究員のために本研究所を設立
させたものでもありました。
 先生は、
 ご夫人と共に、東京の多磨墓地にある先生のお墓の横に石碑
を建て、それを「ブッダのことば」と題して後世に残されまし
た。
 この文言は、
 仏教聖典 『スッタニパータ』 から先生が意訳され、
 それをご夫人(中村洛子終身名誉理事長)が書かれたもので、
 しかも、1995年の先生の誕生日に発注され、
 1997年のご夫人の誕生日に完成したものであります。
 これは、財団法人東方研究会の研究員に示された指針であると
同時に、
 怨念と我執が渦巻き、テロの恐怖におののく21世紀の人類への
メッセージでもあります。
 なお
 同種の石碑は、
 先生の許可を得て、栃木県足利市山川町の山川長林寺と東京
江戸川区江戸川の二之江妙勝寺に建てられました。
                     2007年5月16日

                       財団法人東方研究会
                        理事長 前田專學

2011年10月3日月曜日

武力によらないで、広まった宗教 (その2)

 題 : 武力によらないで、広まった宗教(その2)

☆近代の開始とともに、
  宗教の権威は衰えまして、
  国が力を持っている。
  国家形成において、巧みであった民族が、
  世界史のリーダーになった訳です。

  国が、絶対的なものと思われましたけれども、
  今日になりますと、
  国々を超えた 一つの地球共同体というものを、
  皆が考えなきゃいけない所まで 来てると思うんです。
  何が起きても、
  地球の上で どこで何が起きても、
  すぐそれが地球の上の
  あらゆる国々、
  さらに
  その国々の 住民の生活に 
  すぐ影響が 及んで来る訳ですね。

  以前には、
  支配者が 非常に乱暴な 野蛮な行動をしても、
  また、
  文明の回復という事が 可能だったもんです。
  つまり、
  その力の 及ばない範囲が ありましたから、
  それから 優れた文明の伝統を 取り入れまして 
  生かせばよかった。

  ところが、
  だんだん 世界が一つに なって来て、
  何か起きますと、今度はいっぺん破壊してしまったら 
  もう取り返しがつかない。
  この危険はあるわけです。

  世界が一つになる場合に、
  異質的なものに対する 「 理解と寛容 」 という事。
  これが 絶対必要だ と思います。
        (1985年、昭和60年の発言、72歳)

 (霊鷲山りょうじゅせん・ラジギールで
  中村が礼拝する映像。
 「原始仏典の現代語訳をした中村は、
  2500年の時空を超えた。
  仏の声に耳を澄ますことでもあった」のナレーション。
       1986年、昭和61年73歳とのテロップ

☆仏教の教え というものは、
 この上に輝く 日月(じつげつ)の様な ものである。
 太陽や月が、
 あらゆる人を 照らすように、
 仏教の教える真理 というものは、
 あらゆる人に 明らかなものであり、
 あらゆる人を 照らすという 訳です。

 続けて、
 釈尊はこう言われました。
 もしも、
 自分が 人々を導くのであるとか、
 あるいは、
 この修行者の仲間が 私を頼っているとか思うならば、
 私が死ぬという事は大変なことであろう。

 しかし、
 私は 自分がみんなを導くなんて 思ったこともない。
 また、
 みんなが 自分を頼りにしているなどとも 思わなかった。
 (釈迦涅槃像クシナガラの映像)
 自分は、ただ、人々の依るべき真理、
 真の生き方というものを明らかにした、
 それだけなのだ。

 だから、
 なにも 自分が消えて亡くなったからといって 嘆き悲しむな。
 およそ この世の物で、
 いつまでも破れないで、存続し続けるものは なにもない。

 いつかは 破れ 消え失せる ものである。
 その道理を 私は、お前たちに今まで説いて来たではないか。
 ただ、
 私は そこにある 「 一貫した真理 」というもの、
 それを 解き明かして来た。

 だから
 「 それに頼れ 」、 この変転、常ない世の中では、
 まず 
 「 自分に頼るべき 」 である。

 自分に頼るとは 
 どういう事であるか、
 自分は この場合にどうすべきか という事を、
 その場合、その場合に考える事 でしょう。
 その場合、
 何を 判断決定の基準に するのか。
 それは
 『 人間としての道 』
 『 法(のり) 』
 インドの言葉で言うと 『 ダルマ 』 と呼ばれるものです。
 これを 『 法 』 と訳しますが、
 この 人間の理法 というもの、
 これに頼ること。

 『 自己に頼れ、法に頼れ 』 。

 これが、
 釈尊の 最後の教え でありました。

2011年10月2日日曜日

武力によらないで 広まった宗教 (その1)

 題 : 武力によらないで 広まった宗教(その1)

・・・『 仏教の本質 』  
         哲学者 : 中村 元(なかむら はじめ)
            (You Tube)の談話・対談を採録

 ・中村 元 : 東京大学 インド哲学科、
   1912年(大正元年)島根県生まれ、1998年86歳没、
   東洋思想の世界的権威、
   昭和52年文化勲章受章
   (仏教研究の業績と比較思想という学問分野を確立し、
   膨大な著作を世に送り出し、
    晩年、世界平和に対する発言。
    原始仏典を現代語に訳し、研究領域は西洋哲学、キリ
   スト教に及んだ・・とのナレーション)

 ・聞き手 : 臨床心理学者 河合隼雄

☆学ぶことの少ない人は、 牛の様に老いる。
        かれの肉は増えるが、 智恵は増えない。
                  (仏典:ダンマパダ)

☆「 相手に対する寛容の精神 」 というものが大事です。
  その点で仏教は、 
   「 無理に暴力・武力を用いて人に強いる 」  という
  事がありませんでした。
   昔は、 宗教が違うという事になると、「 必ず武力による
  闘争 」と 裏腹になっておりました。

   人類の歴史において、
  多くの宗教が現われたわけですけれど、
   「 武力に依らないで 説得だけによって 
            広まったのは仏教だけ 」 です。
   これは、西洋の宗教学者も 認めております。

   こういう考え方が、われわれの祖先の中でも 生きていたと
  思います。
   聖徳太子の憲法なんかにも はっきり出ております。
   現在でも、これは 「 大切な心がけ 」 じゃないで
  しょうか。

☆インド全体が ヨーロッパ全体と ほぼ同じなんです。
   文明の歴史においても、 広さにおいても、 人口においても
  (『インドこころの旅、ブッダ最後の旅路をゆく。
               昭和61年放送よりの言葉)

☆(ナーランダ大学跡の映像で、 
 「 誰にも分かりやすく仏教を語る  中村さん 」 との
 ナレーションが )
  これがインドですよ。
  まるで石ころのように転がっている、
  どれひとつとっても 日本の国宝より古いんですからね。

☆人間の体は、
  王様の飾りたてた車のように、
  やがては朽ちてしまう。
  けれども、
  人から人に 伝えられる 「 真(まこと)の法(のり) 」は
  いつまでも輝く。

  人から人に 
  真理が伝えられる 訳でございましょう。
  それは 永遠の価値を持っている という意味なんでしょう。

  本当の自己というのは どういうものか。
  誰でも 人間は、どこかの場所で、いつかの時点で生まれて
 来た 訳です。
  そして、 
  必ず、両親があった訳ですね。
  それから、育ててくれる人があった、 
  助けてくれる人があった。
  その助けてくれた人の数というのは
  無数でございます。

  人間だけじゃなくて、山川草木まわりのものが、
  何か関係を持っている。
  遠く考えますと、
  宇宙の彼方から、例えば 太陽が 光線を送ってくる。
  そうすると、
  その太陽の恩恵も 受けているわけです。

  宇宙にある如何なるものも、 
  孤立したものでは無いという思想。
  宇宙とつながりがある訳です。
  その繋がり方が、 
  めいめい みんな 違う訳です。

  だから 
  個々の自己は、
  非常に微々たるものと 
  考えるかもしれません けれど、
  実は、

  その内には 偉大なものを秘めている 訳です。
  ですから、
  その偉大なものを 受けていることを 自覚すれば、 
  そこで
  自分の生きる道は どうかという事が、
  おのずから明らかになって 実現されるという事に なるん
 じゃないかと思うんですが。
                   (その2へ つづく)