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2016年3月31日木曜日

(増補版)322E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)

題:(増補版)322E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年5月(明治7年4月)農民の側に立って闘う人
  田中正造が、岩手県令・島惟精(しまいせい)より無
 罪赦免を言渡される。
  5月9日、叔父に伴われ5年ぶりに小中村に帰郷(3月9日、
 母さき(55歳)没)、正造の帰郷を待っていた母は、2ヶ
 月前に亡くなっていた。
  隣村・赤見村造酒家・蛭子屋の番頭となる。
  獄中でスマイルズ著中村敬宇訳「西国立志編」熟読す。
  田中正造は、栃木県の名主の家に生まれ、足尾鉱毒事
 件に対し、身を挺して闘った偉人。
  足尾鉱毒問題について、政府と古河財閥に対抗し、被
 害農民の側に立って闘った。
  天皇陛下に直訴までして闘い抜いた。
  因みに、古河財閥系の現在の企業群は、みずほ銀行、
 富士通、富士電機、横浜ゴム、日本軽金属、損害保険ジ
 ャパン日本興亜、古川電気工業、古河機械金属、ADEKA、
 朝日生命保険、東亜ペイント(トウペ)、ファナック、
 古河電池、など、
1874年5月17日(4月2日)この日の閣議で・・、
  木戸は、「台湾一条への連印・・あい辞せり」と閣議
 決定書面への参議としての押印を断った。
  木戸は、1874年6月2日(4月18日)、「内外緩急の序ま
 すます乱れ」との理由で参議の辞表を提出して、下野し
 た。
  また、5日、伊藤は岩倉に手紙を送り、「木戸不承知・・
 私においても・・おのれを曲げ、心中はなはだ不安」と、
 政府の台湾方針への危惧の念を伝えた。
  日本は、1873年に、特命全権大使として副島外務卿が、
 清国に行き、随員の柳原前光を用いて本件を清国に正し
 たが、
  清政府は、漂流した日本人の54人を殺害した本事件に
 ついて・・、
  「台湾人は、化外の民で清政府の責任範囲でない事件
 だ」とした、
  これは、清政府が、実効支配してない管轄地域外での
 事件なのでと責任回避した。
1874年6月15日(5月2日)台湾出兵
  木戸孝允の台湾出兵への反対行動で、政府も一旦は出
 兵中止を決定したが・・、
  西郷従道は、独断での出兵を強行し、長崎に待機して
 いた征討軍約3,000名を出動させた。
  征討軍は、二個大隊であり、うち鎮台兵は一個大隊で
 残りは「植民兵」として、薩摩など九州各地の士族で占
 領地永住を前提に募集・編成されたものであった。
  1874年6月15日(5月2日)に、西郷の命を受けた谷干城・
 赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小
 さな軍艦3隻で長崎を出航した。
  政府は、やむなくこれを追認した。
  但し、国立公文書館にある資料には・・、
  1874年5月19日(4月4日)三条実美により台湾蕃地事務
 局が設置された。
  以後の任命は、当時、太政大臣であった三条実美から
 の奉勅(ほうちょく、勅命を奉じること)となった。
  1874年5月20日(4月5日)台湾蕃地事務都督に西郷従道
 が任命された。
  1874年5月21日(4月6日)谷干城と赤松則良に台湾蕃地
 事務局参軍と、西郷従道を輔翼(ほよく、助けること)
 し成功を奏する事を任命。
  1874年5月22日(4月7日)海軍省から、孟春艦、雲揚艦、
 歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から、熊本鎮台所轄
 歩兵一大隊、砲兵一小隊の出兵命令が命じられる・・と
 いう経緯となっている。
  台湾生蕃を伐つ(氷川清話)
  西郷従道(陸軍大輔)を、陸軍中将に昇格させ、台湾
 蛮地事務都督(遠征軍総司令官)に、
  陸軍少将・谷千城と海軍少将赤松則良を参軍に、
  陸軍中佐・佐久間左馬太・陸軍少佐・福島九成を参謀
 に任命。
  リゼンドル推薦のアメリカ軍人のカッセルやワッソン
 が参画した。
  イギリス汽船やアメリカ汽船も用船として参画した。
  リゼンドルを、外務省准2等出仕から台湾蕃地事務局准
 2等出仕(副長官)に配置した。
  柳原前光(やなぎわらさきみつ、華族、外務大丞)に
 与えられた「内勅」:
  一、出兵は「討蕃」のためであって清国と戦争する意
   図がないことを清側に理解させよ。
  二、「蕃地」と清国領台湾との境界が複雑であるため
   に派生する問題を処理せよ。
  三、琉球藩が日本に服属していることを清側に理解さ
   せよ。
  また、西郷都督に与えられた勅命は、
  「我国人を暴殺せし罪を問うこと」、「被害が再発し
 ないように防制の方法を立てる」などだった。
  これらは、米国人のリゼンドルが献策した通りだった。
  そして、また、「今後の日本政府との間に有益の事業
 を興起せしむるを以て目的となすべし」となっている。
  収拾への交渉・・、
  1874年9月(明治7年8月)全権弁理大臣として、大久保
 利通が、北京に赴いて清国政府と交渉した。
  大久保は、米国人リゼンドルとフランス人法学者ボア
 ソナードを顧問として、台湾問題を交渉し、主たる交渉
 相手は、総理衙門大臣の恭親王だった。
  会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論
 もあって、1874年12月9日(10月31日)「日清両国互換条
 款」が調印された。
  合意内容は、清が、日本軍の出兵を保民の義挙と認め、
 日本は、生蕃に対し法を設ける事を求め、
  1874年12月20日までに、征討軍を撤退させることに合
 意した。
  また、日清両国間互換条款互換憑単によると、清国は、
 遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払
 い、40万両を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い
 出費した。
  また、清国は、日本の行動を承認した。
  琉球民が日本国民という、琉球の日本帰属が国際的に
 確認された確認事例の一つ。
1874年5月20日(4月5日)司法省・佐賀裁判所が開設された。
  佐賀城内。
  裁判長司法権大判事・河野敏鎌(こうのとがま、子爵)。
  この日、参議文部卿兼内務卿・木戸孝允と太政大臣・
 三条実美に、江藤減刑の書簡が来た。
  河野敏鎌が、「将来にわたって不逞のやからが出没横
 行するおそれがある」として府県裁判所の新設を上申し、
  佐賀出張中の大久保利通からも、「いそぎ当県へ裁判
 所を置いて、官員を派遣されたし」と催促。
  この佐賀裁判所は、府県裁判所であって臨時裁判所で
 はない。
  司法省職制章程には、「府県裁判所は、『流刑』以下
 を処断して、『死罪および疑獄』は司法省の裁可を受け
 る」とあり、
  佐賀へ護送される江藤新平が、佐賀裁判所で死刑判決
 を受けても、司法卿・大木喬任の裁可を受け、
  さらに、内務卿・木戸孝允(文部卿兼務)へ取り計ら
 うべきであり、ただちに執行されることはない。
  また、1874年5月5日(3月20日)には、大久保利通が得
 た1874年3月27日(2月10日)に、三条実美からの委任状
 「死刑といえども、臨機に処分のこと」(第1項但書)は
 取り消されている。
1874年5月22日(4月7日)江藤新平を護送した軍艦「猶竜」
 が、佐賀に入った。
  そして、江藤らの9人を収監した。
1874年5月23日(4月8日)江藤は、この日に、急設された佐
 賀裁判所で、司法省時代の部下であった河野敏鎌の最初
 から死刑ありきの裁判によって裁かれた。
  旧暦4月7日に送還され、旧暦4月8日~9日に簡単な二度
 の審問だった。
  1874年5月28日(4月13日)に、河野により除族(じょ
 ぞく華族・士族の者がその身分を除かれて平民とされる
 こと、)の上、梟首の刑を申し渡され、その日の夕方に、
 嘉瀬(かせ)刑場において処刑された(1874年4月13日に
 処刑されたの説あり)。
  判決を受けたとき、「裁判長、私は」と言って反論し
 ようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとし
 た刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が
 動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた。
  その後、江藤の首は、嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟
 首された。
  辞世は・・、
  「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 
              迷う心はただ君がため」
  1889年(明治22年)に、大日本帝国憲法発布に伴う大
 赦令公布により賊名が解かれた。
  1916年5月12日(大正5年4月11日)贈正4位。
  墓碑銘は、書家としても知られた副島種臣が書いた。
  佐賀市に銅像もある。
  (1834年~1874年、享年40歳)
  民撰議院設立建白書の一人となっていたが、
  その直後、佐賀の不平士族に推されて、乱を起こすに
 至った(佐賀の乱)。
  氷川清話には・・
  「明治7年に佐賀の乱が起こり、政府は、台湾出兵によ
 って征韓論のバランスをとる。他方、土佐には板垣らの
 愛国公党が創立される」。
1874年5月23日(4月8日)設置されたばかり佐賀裁判所の
 裁判長・河野敏鎌(権大判事)と直班検事・岸良兼養(
 大判事)が、江藤梟首の「擬律伺」を大久保に上申した。
  佐賀裁判所審理開始。~9日。
  擬律:ぎりつ、裁判所が判決において法規を具体的な
 事件に適用すること。
  伺:うかがい、目上の人などに指示を仰ぐこと。
  河野敏鎌(元土佐藩士)は、明治5年5月から、司法卿・
 江藤新平の推挙でヨーロッパへ派遣されていた。
  その後、司法大丞(四等官)に昇進し、明治7年1月15
 日付で司法権大判事となった。
  大検事(四等官)岸良兼養も、河野と共にヨーロッパ
 へ派遣されていた。
  共に、江藤のかつての部下だった。
  8日の大久保日記:「河野大検事(ママ)ヨり擬律伺コレ
 アリ評決」とあり、
  結審前に、判決案(擬律)が固まっていたことを示す。
  13日の判決文
  「其ノ方儀、朝憲ヲ憚(ハバカラ)ズ、名ヲ征韓ニ托シ、
 党与ヲ募り、兵器ヲ集メ、官軍ニ抗敵シ、逆意ヲ逞ウス
 ル科ニテ、除族ノ上、梟首申シ付ル」。
  佐賀裁判所は、府県裁判所のため、その権限は、司法
 職務定制第58条により・・、
  「流刑以下ノ刑ヲ裁断スル事ヲ得ベシ、死罪及ビ疑獄
 ハ本省ニ伺イ出テ、其ノ処分ヲ受ケ」と定められていて、
 単独で死刑判決はできなかったが、それをあえて強行し
 た。
  判決:梟首・2、斬首・11、懲役10年・6、懲役7年・17、
 懲役5年・18、懲役3年・62、懲役2年・47、懲役100日・1、
 禁錮100日・2、禁錮70日・3、禁錮40日・2、免罪・11,237。  
  福沢諭吉の江藤裁判に対する批判。
  「佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之れを疑わ
 ず、加うるに、此の犯罪の巨魁を補えて更に公然裁判も
 なく、其の場所に於て、刑に処したるは、之れを刑と云
 うべからす。
  其の実は、戦場にて討ち取りたるものの如し。
  鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典と云うべし」(
 「丁丑公論」)。
1874年5月24日(4月9日)ボアソナアドが、司法省法学校で
 講義を始めた。
  既にブスケの講義を聴講していた者を中心に15名。
  後に「フランス法派」の中核を形成。
  明治9年入学の第2期生には、原敬、松室致、末弘巌石。
  明治17年の第4期生(最後)には、若槻礼次郎ら。
  また、ボワソナアドは、法学校の講義の他に司法省の
 官吏を対象とするフランス実定法の解説も開始。
  これは、日本民法編纂への準備として行われたもの。  
  ボワソナアドの「開講の辞」:
  「私は(政府に対して)なかんずく、日本政府の立法
 改革事業は、その司法官および行政官の一新と不可分で
 あることを指摘しました。
  ・・したがって、新たな諸法律を準備しているあいだ
 にも、貴重な時間を一刻も無駄に失うことのないように、
 (新たに作られる)法律の条文を理解する学力を備えた
 若い司法官の育成所を作らなければならない、と進言し
 ました」と述べる。
  彼は、自らの講義を「自然法の講義」と名づけた。
  ボアソナアド:フランスの法学者、教育者。
 日本の太政官法制局御用掛、元老院御用掛、外務省事務
 顧問、国際法顧問、法律取調委員会委員等を歴任。
  勲一等旭日大綬章受章。
  明治初期に来日したお雇い外国人の一人で・・、
  幕末に締結された不平等条約による治外法権に代表さ
 れる不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大
 きな貢献を果たし、「日本近代法の父」と呼ばれている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
 

2016年3月29日火曜日

(増補版)321E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)

題:(増補版)321E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年5月~1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年5月14日(明治7年3月29日)佐賀の乱の主謀者・江
 藤新平が、捕らえられる。
  江藤新平が、部下8人と共に土佐・阿波国境の安芸郡甲
 の浦で逮捕される。
  1874年5月18日(4月3日)護送の軍艦「猶竜」に乗せ
 られる。
1874年5月15日(3月30日)この日の閣議で、木戸は、「台
 湾一条・・着手の密にして蹉跌(さてつ、つまづく)な
 きことをるる陳諭す」と慎重論を述べる(「木戸日記」)。
1874年5月17日(4月2日)明六雑誌の発行(3月説あり)
  森有礼・西周・福沢諭吉らが、明六社機関誌『明六雑
 誌』を創刊する。
  前年(明治6年)7月、アメリカより帰国した森有礼が、
 「万国史略」の著者・西村茂樹を訪ね、
  「我国ノ教育ヲ進メンガ為ニ、有志ノ徒、会同シテ、
 其手段ヲ商議スル」と結社結成を持ちかけた。
  賛同した西村が、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘
 之、津田真道、神田孝平、箕作麟祥、杉亨二ら8名を誘い、
  明治6年秋、「明六社」を結成。
  「明六雑誌」第1号に西周は、「洋学ヲ以テ国語ヲ書
 スルノ論」を掲載した。
  洋字使用論でローマ字論争が起こる。
  加藤弘之:佐久間象山に学び、幕臣となって幕府の洋
 学教育機関、開成所の教授職竝(なみ)となる。
  維新後、新政府に参加し、天皇陛下の侍講として洋書
 講義をおこなう。明治4年以降、文部大丞。
  幕末の『鄰草(となりぐさ)』(文久元年(1861年)、
 『立憲政体略』(慶応2(1866年)、『真政大意』(明治
 3年)によって、日本に初めて立憲政体、憲法、議事院の
 原理を紹介した。
  「億兆ノ為メニ一君ヲ置キ奉ラセ玉フ訳デ、決シテ一
 君ノ為メニ億兆ガアルト云フ訳デハナイデゴサル。」(
 「真政大意」)
  津田真道は陸軍省、加藤弘之、西村茂樹は文部省、
  森有礼:外務省、神田孝平:兵庫県令、箕作麟祥:司
 法省、中村正直は大蔵省に在職する官吏(中村、箕作、
 西村は翻訳官や編書官)。
  薩摩の森有礼以外は、出身の違いはあるものの、幕末
 の最終局面では、幕府の蕃書調所から開成所にいたる洋
 学教育の中心に身をおき、『尊王攘夷や復古の風潮に染
 まったことのない思想家』。
  雑誌の名は、明治6年に作られた「明六社」の名をとる。
  和紙で20ページ弱。
  各号3千部は売れたと言われ、再版号も多い。
  社員のうち、「議院設立が尚早」との意見を持つのは
 ドイツ系統の思想を持つ加藤弘之で、森有礼・西周は、
 それに加担した。
  西村茂樹・津田真道等は、議院設立の即行論者。
  津田真道(幕末にオランダ、フランス等に学ぶ)は、
 雑誌に3ヶ月連載した「政論」において、代議員選出の範
 囲と手続きについての自説を述べた。
  「士族ハ従来文字アルモノ稍(ヤヤ)多ク、
  平民ハ豪富ニアラザレバ、書ヲ読ム者希ナリ。
  故ニ、今代議士司選ノ人ヲ定メテ悉皆華士族トシ、並
 ニ平民ノ多ク租税ヲ納ムルモノトシ、
  其平民、都会ニ於テハ譬(タト)へバ二百円乃至千円以
 上ノ地券ヲ有スルモノニ限リ、
  村落ニ於テハ五十円乃至百円以上ノ地券ヲ有スルモノ
 ニ限ルベシ。・
 ・・右ノ如ク定メタル選者ヲ初選者卜名ヅク。
  初選者百人ニシテ相当ノ鑑識ヲ具スル一人ヲ選挙シ、
 之ヲ本選者卜名ヅケテ、此本選者ノ更ニ選挙スル所ノ人
 ヲ代議士トシテ議院ニ会集シテ、国民ニ代リテ国事ヲ審
 議スル人トス」
  そして、日本の人口3,000万の中から60名乃至120名を
 代議士として選出すべきと述べる。
  その他、森有礼、西周、加藤弘之、阪谷素(シロシ)、神
 田孝平等が殆ど毎号、議会政治について論じた。
  第1号巻頭の西周、「洋字を以て国語を書するの論」:
 明六社結成を「時宜ヲ制シテ漸次開明ノ域」に入るため
 に「学術文章ノ社ヲ結パント欲」したと位置づけ、
  そのためには、国語国字改良が必要とし、今まで中国
 の漢字をつかってきたならば、今、ヨーロッパをモデル
 にして進もうとするとき、「洋学」を採用して何の不思
 議があろうかという。
  ローマ字採用論。utukusiki hanaと書いて文章として
 は「ウツクシキ花」と読ませ、口語としては「ウツクシ
 イ花」とkをサイレントにすればいいと述べる。
  福澤諭吉 「学問ノススメ」
  福沢諭吉は、前年明治6年の小冊子「文字の教」で、今
 後は漢字をなるべく使わない文章を書くべきと述べる。
  文章の改革思想が、西や福沢によって次第に識者の注
 意を引くようになる。
  第2号は、福沢諭吉が「学問のすゝめ」4篇(明治7年1
 月刊)の主張する「私立」の精神への反論。
  福沢は、「日本には唯政府ありで、未だ国民あらずと
 云ふも可なり。
  我国の文明を進めて其独立を維持するは、独り政府の
 能する所に非ず、又、今の洋学者流も依頼するに足らず。
  既に改革家の名ありて、又其身は中人以上の地位に在
 り、・・私立の地位を占め、……政府の頂門に一釘〔針)
 を加へ、旧弊を除で民権を恢復せんこと方今至急の要務
 なる可し」と云う。
  津田、森、加藤、西は、「私立」に、こだわるだけで
 開化は進展できるかと疑問を呈出。
  「学問のすゝめ」4篇は「此社」(明六社)のために執
 筆されたものなので、理念は理解できる。
  だが、「在官」の人間を排除して、どこに開化の推進
 者を見出せるか、「在官私立ニ拘ラズ」開化の問題をた
 てるべきではないか、と質問する。
  この頃には、慶応義塾出身者も大量に政府内部に進出
 しており、また大久保政権は、イギリスを規範とする殖
 産興業を進めている。
  その大久保政府は、反対派を排除することで、福沢の
 指摘どおり、強大化しすぎており、「未だ国民あらずと
 云ふも可な」る状態である。
  明六社同人の大部分は、この政府に様々な形で参加し
 つつ、各方面でジレンマに直面している。
  津田真道や中村正直は、政府改革、自由・自主の主張
 に力点をおいている。
  第6号で、津田は、「出板自由ナランコトヲ望ム論」で、
 「文明」と「野蛮」の別は、「唯其民ノ言行自由ヲ得ル
 ト得ザルトニ於テ」はっきりする、政府が治安を保とう
 として言論を抑圧するのは、かえって政府「顚覆(てん
 ぷく)ノ原(ミナモト)」だという。
  「民撰議院設立建白」への評価も分かれている。
  もっとも徹底した賛成論は福沢諭吉。
  民撰議院が早いというなら、廃藩置県も早すぎたのか、
 明治4年が廃藩置県の「好時節」だったように、
  明治8年は「即、民会創立ノ好時節也」((明治8年)
 「五月一日明六社談話筆記」)。
  津田、西村は、議院に賛成だが、
  加藤弘之、森有礼らは時期尚早論。
  西周「百一新論」(上下)出版。
  日本の道徳思想の基幹となっていた儒教思想と対比さ
 せ、近代ヨーロッパの哲学思想を紹介。
  西洋思想の本質はフィロソフィア即ち「哲学」とでも
 訳すべきものである、と彼は言う。
  以前から、ヨーロッパのフィロソフィアなるものがそ
 の文明の中核であると紹介していたが、それを性理学ま
 たは理学と訳していた。
  しかし、哲学と訳すのがよいとこの書で述べている。
  理学は物理化学をも意味しており、この混同はしばら
 く続き、次第に哲学という言葉に落ち着いてゆく。
  西は、主にコントの実証思想の影響を受け、西洋の学
 問の根本を学ぶには、西のこの書を読むことが是非必要
 だと知識階級人に看倣(みな)される。
  しかし、西の論は、福沢に較べると難解で、読者は知
 識階級の中の一部に限られた。
  津田真道と西周は、共に、幕末の洋学の秀才で、蕃書
 調所(幕府の洋学研究所)の教授手伝であった。
  西周:石見国津和野の代々の藩医西時義の子として、
 文政12年(1829年)に生れる。
  20歳の時、藩命により儒学を学ぶため大阪、岡山等に
 遊学。
  25歳の時、藩の学塾塾頭となる。
  翌年、江戸詰となってから洋学に志し、オランダ語を
 学ぶ。
  その後、英語を学び、29歳の時、蕃書調所教授手伝並、
 次に教授手伝となる。
  そこで津田真道と同僚となる。
  34歳の時、西は、津田・榎本武揚(兵学)・赤松則良
 (造艦)らとオランダ遊学を命ぜられる。
  これら幕府留学生は、3年間学んで、慶応元年末に帰国。
  西と津田は、蕃書調所の後身である洋学の大学(開成
 所)教授に任命される。
   西は、幕府のためにオランダ政治学を訳述し、また万
 国公法を訳す。
  この頃の門弟は500人という。
  慶応2年頃、彼は、慶喜にフランス語を教え、幕府の外
 交文書を訳して重く用いられる。
  鳥羽伏見の戦後、慶喜が江戸に逃れると、西も江戸に
 戻る。
  慶応4年、西・津田は、幕府命により立憲政体の調査研
 究を命ぜられる。
  明治3年3月、山県有朋は、徳川家に従って駿河に退き
 沼津の兵学校教授をしている西を兵部省顧問とし、ヨー
 ロッパ式の軍制制定にあたらせた。
  西と山県は、極めて親密で、西は、長く陸軍に関係を
 持つことになる。
  西は、兵部省に勤める傍ら、侍読(明治天皇陛下の教
 師)をも兼ねる。
  また、兵部省に出仕する傍ら、浅草鳥越の自宅で育英
 合という私塾を開き、漢学、英語、数学等の諸学課を統
 一した学問として教えることを始める。
  彼は、明治3年~6年、近代ヨーロッパの文明全体の本
 質を包括的に教育しようとして、18世紀のフランスのア
 ンシクロペジストと同じやり方で「百学連環」という特
 別講義を行い、それを「百一新論」として纏めて出版。
  日本において、最初のこの体系的な近代文化の講義(
 歴史学、地理学、文章学、数学等の基本学課の外、特殊
 学として、神学、哲学、法学、経済学、統計学、物理学、
 化学等に及ぶ)は、次々と刊行されることになった。
  この頃、西周は、神田小川町に住み森林太郎(13)を
 預かっている。
  林太郎は、旧津和野藩典医で、西家の親戚に当る森静
 男という蘭医の息子。
  森静男は西の勧めで、維新後、東京に一家を移し、向
 島曳舟通で病院を開いていた。
  長男林太郎を、東京医学校に入学させる積りで、ドイ
 ツ語学習のために、本郷の壱岐殿坂にある受験学校の進
 文学舎に入れたが、曳舟から渡舟で隅田川を渡り、距離
 があるので、小川町の西家に預けた。
  この春、15歳と願書に書き、東京医学校を受験し合格、
 下谷和泉橋の旧藤堂邸にある医学校に通った。
1874年5月(明治7年3月)華族会議、結成。
  総代:中山忠能(ただやす)。
  岩倉使節団で「貴族」の存在を認識した木戸と三条の
 腹心尾崎三良の工作で「通款社」(明治6年12月設立、
  若手華族の学術研究団体)と「麝香間祗候(じゃこう
 のましこう)会議」(保守的華族長老団体)が合同。
  6月、華族会館に発展。「協同勉励学術を研精」する機
 関と位置づける。
  華族の中には、その地位を返上しようとする人物もい
 た。
  明治7年2月、旧福本藩(播磨)知事・池田徳潤(ノリマス)
 は、「報恩の寸功も之なく、多罪之仕合と存じ奉り侯得
 共、此上歳々時日を過ぎ侯ては猶更恐入候」と、
  位記の返上と家令・家扶の廃止を願い出た。
  明治9年2月、元広島藩主・浅野長勲(ナガコト)は、「身
 を民籍に帰し祖先墳墓の地に拠り、力を開墾に用ひ、聊
 か物産を富殖し、万一も国家に稗益あらんことを冀望(
 キボウ)」すると出願した。
  しかし、政府はこれらの出願を却下。
  華族は、次第に宮内省の強力な管理におかれ、「戸位
 素餐」の振る舞いも市民的自由も制約された。
..
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2016年3月28日月曜日

(増補版)320E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年4月~1874年5月)

題:(増補版)320E1/3:気になった事柄を集めた年表(1874年4月~1874年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1874年4月9日(2月23日)江藤新平が、征韓党へ解散命令を
 出す。
  船で鹿児島に向かう。しかし、実際には佐賀側の抗戦
 は続いて行く。
  寒津川・田手川の戦い
  旧暦2月23日に、政府軍は、第十大隊を前軍とし、第三
 砲隊が続行し、そして、第四大隊を後軍として中原を出
 発した。
  前夜合流した前山隊が、中原の守備に当たった。
  佐賀軍は、寒津村(現:みやき町)に本陣を置き、寒
 津川沿いで迎撃する、
  佐賀軍は、中島鼎蔵の指揮の下、左右から挟撃し、『
 佐賀征討戦記』に「官兵殆ど敗れんとす」と記されるほ
 どまで追い込んだが、
  官軍指揮官の陸軍少将・野津鎮雄が、弾雨の中、抜刀
 して先頭に立ち、兵を励まし戦い、
  また、中原から北山に転戦していた厚東武直少佐の第
 四大隊が反転して背後を突き、佐賀軍は、総崩れとなり
 敗走した。
  しかし、本隊となった第十大隊第二中隊は、中隊長・
 阿部正通大尉が戦死し、代わって指揮を取った児玉源太
 郎大尉も重傷を負うなど被害は大きく、
  中原に到着した第十一大隊は、一個中隊を割いて増援
 として差し出した。
  その頃、朝日山の陥落を聞いて、神埼まで出ていた江
 藤は、寒津でも破れたことを聴くと、馬を田手(現:吉
 野ヶ里町田手)まで走らせ、陣頭指揮を執った。
  江藤は、田手川に防御陣を敷き、一部の精鋭をもって
 背後を突こうとしたが、田手川下流を渡河した青山朗大
 尉率いる第十大隊第四中隊に、逆に背後から攻撃を受け
 敗退した。
  さらに、官軍が追撃したため、佐賀軍は、神埼(現:
 神埼市)を焼き払い、境原(現:神埼市千代田町境原)
 まで退却した。
  この敗退で、勝機を失ったと見た江藤は、征韓党を解
 散し、鹿児島県へ逃れて、下野中の西郷隆盛に、助力を
 求めようと戦場を離脱した。
  なお、この江藤の態度に対し、憂国党の見方は、無断
 で佐賀の戦場を離れており、
  この敵前逃亡ともいえる態度に、副島義高らの憂国党
 の面々は激怒した。
  三瀬方面
  三瀬峠では、佐賀軍一の用兵家とされる朝倉尚武(元
 陸軍少佐)が、三個小隊をもって布陣していた。
  博多には、広島鎮台などからの援軍が向かっていたも
 のの、当初は、小笠原義従の一中隊しか残っておらず、
  守備する山田顕義少将は、間道沿いからの攻撃を考慮
 して斥候を出し、飯場村に佐賀軍を発見したため、
  1874年4月8日(2月22日)に一個分隊を進めたが、佐賀
 軍は、既に退却していた。
  翌日の1874年4月9日(2月23日)に、中隊全軍で三瀬峠
 に出撃した。
  1874年4月10日(2月24日)は、福岡士族による貫族隊
 六個小隊が、飯場村に出撃したが、反撃を受け、小隊長・
 幾島徳(安川敬一郎男爵の兄)が戦死するなどし、金武
 まで後退した。
  しかし、1874年4月12日(2月26日)には、小笠原隊が
 背振口で佐賀軍を破り、
  翌・1874年4月13日(2月27日)には、三瀬も取って、
 佐賀軍を四散させた。
  しかし、地形が険阻な上、思わぬ苦戦を強いられた政
 府軍は、博多に着いた井田譲少将、田中春風中佐、高島
 信茂少佐、古川氏潔少佐らが率いる広島鎮台第十五大隊
 の三個中隊を、1874年4月14日(2月28日)、三瀬に進め
 た。
  この広島鎮台部隊は、戦闘を行うことは無かったが、
 朝倉は、正規軍四個中隊と、現地召集の士族兵の六個小
 隊を三瀬方面にひきつけることに成功した。
  また、1874年4月16日(3月1日)に、福岡に着いた谷重
 喜大佐の率いる大坂鎮台第十八大隊と、第七砲隊一個小
 隊も、三瀬方面に向かおうとしたが、既に、佐賀軍はい
 ないと判断した井田少将は、谷大佐に援軍は不要であり
 本道から進むよう指示をしている。
  境原の戦い
  1874年4月9日(2月23日)以降、官軍も休息をとってお
 り、戦闘は散発的であったが、
  1874年4月13日(2月27日)には、総攻撃を開始し、第
 十大隊、および、第三砲隊が、本隊として姉村に、
  第四大隊を右翼として、城原から川久保に、
  第十一大隊と第十九大隊一個小隊を左翼として蓮池に、
 それぞれ進軍した。
  佐賀軍が、神埼以南の諸橋梁を破壊していたため、架
 橋しながら戦う第十大隊は苦戦したが、
  砲隊の榴散弾が佐賀軍の保塁に命中したのをきっかけ
 に猛進し、
  また、第十一大隊が、後方から攻撃したため、挟撃の
 形となり、佐賀軍を敗走させて、境原を奪取した。
  また、この日の夜には、佐賀軍は、1000人規模の夜襲
 を敢行したが、蓮池を占領しに向かった第十一大隊が戻
 り、側面を突いたことで、佐賀軍は壊走した。
  結果的に、戦闘は、一昼夜行われ、佐賀征討記では、
 この日の戦闘を、今役中の第一の激戦と記している。
1874年4月13日(2月27日)江藤らが、この日に、鹿児島に
 入った。
  そして、1874年4月16日(3月1日)に、鹿児島鰻温泉に
 湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが・・
 断られた。
  西郷に決起の意志はなかったため、土佐へ向かった。
  1874年5月10日(3月25日)、高知の林有造・片岡健吉
 のもとを訪ね、武装蜂起を説いた。
  しかし、いずれも容れられなかった。
  そこで、江藤は、岩倉具視への直接の意見陳述を企図
 (きと、くわだて)し、上京をしようとして、その途上、
 既に、手配書が廻っており、
  1874年5月14日(3月29日)高知県東洋町甲浦で捕縛さ
 れた。
  捕吏長の山本守時は、江藤に脱走を勧めたが、江藤は、
 裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかった。
1874年4月14日(2月28日)憂国党が降伏した。
  政府軍、佐賀城入城。
  政府軍が、佐賀県庁を奪回。
  政府軍が、反乱軍から佐賀県庁を奪回し、乱を鎮圧し
 た(1874年4月16日(3月1日)の説がある)
  戦死者は、佐賀・政府側双方とも170~180。
  負傷者は、双方とも200弱。
  佐賀軍捕虜、6,327人。
  29ヶ村1,500戸余が戦火にかかる。
  この日・1874年4月14日(2月28日)政府軍が、佐賀城
 下に迫ると、この頃、東京から戻っていた木原隆忠(島
 義勇の従弟)と副島義高を使者にして、降伏と謝罪を申
 し出た。
  しかし、官軍は、内容が無礼だとして受理せず、木原
 を拘留した。
  島義勇は、佐賀で討ち死にするつもりであったが、実
 弟の副島義高らが、無理矢理、脱出させた。
  憂国党党首・島義勇は、1874年4月16日(3月1日)に、
 島津久光に決起を訴える嘆願書を渡すべく鹿児島へ向か
 った
  しかし、1874年4月22日(3月7日)に捕縛された。
1874年4月16日(3月1日)江藤新平が、宇奈木温泉で、遊猟
 中の西郷隆盛に面会した(4ヶ月ぶりの再会)。
  再挙への協力求めるが、西郷は応じず。
  西郷は、島津久光に会うよう勧めるが、江藤は従わず。
  1874年4月18日(3月3日)、江藤は、宮崎に向かい、日
 向飫肥の小倉処平が用意してくれた船で宇和島に渡った。
  陸路から四万十川を下り、下田港から海路で高知へ潜
 行し、土佐の同志の協力を得て、東京に行き三条・岩倉
 に真意を訴えたいと考えた。
  因みに、鹿児島での江藤新平と西郷隆盛は、2日間にわ
 たって2人だけで話し合った。
  宿の女将は、一度、西郷の大声を聞いたという。
  「私の言うようになさらんと、アテがちがいますぞ!」
  江藤は、太政官へ出頭して、正院において弁明したい
 と西郷に助力を頼んだ。
  しかし、西郷隆盛は、島津久光に会うように勧めた。
  島津は、1874年4月6日(2月20日)の帰国後、西郷を呼
 び出し、「江藤新平の挙を非とするならば、陸軍大将た
 るものが兵をひきいて、これを討伐すべきではないか」
 と迫っていた。
  西郷は、「私は静養中の身であるから、もし必要なら
 陸海軍が乗り出して、討伐にあたるでしょう」と島津久
 光に答え、受け流した。
  島津は、西郷らが、江藤に呼応する事を心配していた。
  その経緯から、西郷の口添えあれば、島津は悪いよう
 はしないと、西郷は読んだのだが・・、
  しかし、江藤は、西郷の勧告に従わず土佐に向った。
1874年4月19日(3月4日)太政官が、「佐賀戦争平定」を布
 告し、江藤の人相書き配布した。
1874年4月22日(3月7日)、憂国党幹部らが、鹿児島で逮捕
 され、佐賀へ護送された。
1874年4月23日(3月8日)東京府を11大区103小区に分けた。
1874年4月27日(3月12日)運動会の初め
  初めて競陣遊戯会(陸上競技運動会、競徒遊戯会)が、
 東京・築地の海軍兵学寮で行われた。
  日本で初めての運動会。 (5月6日説あり)
1874年4月29日(3月14日)釜山の草梁和館に在勤の外務省
 権少録・奥義制より、東京の外務省権大録・森山茂と同
 出仕・広津弘信に宛てて、大院君引退の報告書が届く。
  高宗が親政し、全面的な人事刷新観測を知らせる。
  1874年7月(明治7年6月)、三条太政大臣は、三度、森
 山茂を派遣。
  明治政府は、朝鮮国の内紛を知って、開国を強く迫る
 ことに決した。
1874年5月5日(3月20日)太政大臣・三条実美が、大久保利
 通の全権委任状の「死刑といえども、臨機に処分のこと」
 を取り消し、処刑は内務卿の取り計らいとする旨、大久
 保に電報した。
  この時、内務卿は木戸孝允。
  また、1874年4月9日(2月23日)の佐賀征討令により、
 総督東伏見嘉彰親王、参軍山県有朋・伊東祐麿が任命さ
 れており、既に、大久保は非常時大権を持っていなかっ
 た。
1874年5月9日(3月24日)江藤新平が、土佐の林有造に面会
 した。
  林は、自首を勧め、そして、高知県令・岩崎長武に、
 江藤新平と会った事を伝えた(江藤の行動が分かられた)。
  江藤は、徒歩で阿波に向った。  
1874年5月9日(3月24日)安部川に、初めて木橋の安水橋が
 竣工し、盛大な開通式が挙行された。
1874年5月9日(3月24日)明治期の最初の人口調査(太政官
 令に依って、日本全国の人口調査を布令した)
1874年5月11日(3月26日)板垣退助が、土佐へ帰郷した。
  そして、1874年4月に、立志社が創立された。
  当初は、立志学舎と呼ばれ、
  商局、法律研究所などを併設して社員の子弟教育、士
 族授産、相互扶助などを重視していた。
  しかし、1875年2月に、自由民権結社の全国連合組織で
 ある愛国社の結成に指導的役割を果し、
  以後、自由民権運動の盟主的存在となって行った。
1874年5月13日月(3月28日)、秩禄公債証書発行。
  秩禄公債(ちつろくこうさい)とは、明治6年(1873年)
 12月27日に出された太政官布告第425号に基づき、
  家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して、起業資
 金を与える目的で起こされた公債のことで・・、
  明治政府は、明治4年(1871年)に、廃藩置県を断行し
 て、長年続いた封建制度を解体したものの、依然として
 旧武士階層(華族・士族・卒)に、家禄・賞典禄などの
 秩禄を払う義務があった。
  何と、当時の政府予算の4割が、秩禄支給に充てられて
 いた。
  その事から一刻も早い秩禄処分が求められていたが、
  その場合、生活の糧を失った旧武士階層が、士族反乱
 などを起こす可能性があった。
  そこで、士族授産を行って、旧武士が自立した生計を
 立てられるようにして、少しずつ秩禄への依存から脱却
 させる政策をとった。
  そこで、同年暮れに、旧武士階層に対して、現在官職
 にある者以外は、自由に農工商業に従事できるものとし
 て自主的な就業を促した。
  だが、薄禄の者は、起業意欲があっても、そのための
 資金がない例もあったために、
  その対策として、秩禄の返上と引換に、秩禄数年分を
 起業資金として渡すこととした。
  明治6年(1873年)、この年に発行された7分利付外国
 公債による収入を元手に、秩禄公債を発行した。
  当初は、家禄・賞典禄を合わせて100石未満の者を対象
 として、秩禄を打ち切る代わりに、永世禄は禄高6年分、
 終身禄は禄高4年分、
  そして、年限禄は、その年限に応じて1年~4年分の禄
 高に換算されて、半分を現金、残りを秩禄公債で支給し
 た。
  なお、禄高の金額換算は、明治6年の所属府県における
 貢納石代相場に基づいて決定された。
  翌年のこの日・1874年5月13日(明治7年3月28日)に、
 秩禄公債の詳細を定めた家禄引換公債証書発行条例が制
 定され、
  これによって、秩禄公債は、額面500円・300円・100円・
 50円・25円の5種類が発行(ただし、500円公債は、実際
 には発行されなかった)されて、
  年利8分、利払いは年1回、2年の据え置き後、7ヵ年で
 償還されるということとなった。
..
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